清浄華院の所蔵品のなかでも、「泣不動縁起」は、絵画とし …・花前遺...

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陰陽道関係考古資料の基礎的考察

門 

田 

誠 

はじめに

 

佛教大学宗教文化ミュージアムでは、浄土宗大本山・清浄華院の全面的な協力を受けて寺宝の調査を行ってい

たが、京都古文化保存協会の主催のもとで、平成二〇年度から二二年度までの三年間、同協会が毎年、春秋に開

催している未公開文化財公開事業として、寺宝の特別展を開催することになった。

 

清浄華院の所蔵品のなかでも、「泣不動縁起」は、絵画としての情報の豊富さで、図像学的な検討に資すると

ころが多い。この絵巻の内容でも、とくに展開の鍵となるのが、安倍晴明の祈禱の場面である。これによって三

井寺の智興内供の身代わりに病になった証空が、信仰していた不動明王図に後生を祈ると、画像の不動明王は落

涙し、証空の病は癒えた、という筋立てになっている。この絵巻で陰陽道に関連して特筆される場面として、安

倍晴明が地面に座した前には、祭壇が設けられ、その周囲には背丈の低い異形のものたちが、描かれており、こ

れは晴明が駆使した式神とされている。ここに示されたのは、この絵巻が制作された当時の陰陽師と彼らが行う

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祓に対する認識であって、これがそのまま晴明の生きた平安時代の終わり頃の事実を示しているわけではない。

 

陰陽道は道教に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教から展開した要素をもつ祭祀、

さらに土地の吉凶に関する卜筮や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神祇信仰とも相互に影響

を受けあいながら独自の発展を遂げていった。八世紀末からは密教の呪法やこれとともに伝わった宿曜道や占術

の影響を受けるとされる。その後、平安時代末期からは宮廷や貴族と深い関わりをもった陰陽師も現れ、これ以

降、中世にかけては律令制下の陰陽寮で行われた内容とは異なる陰陽道が陰陽師によって、貴族等を対象に盛行

することになる(

((

。このような陰陽師の存在や彼らが行った陰陽道の祭祀行為に関しては史書や古記録に多くの記

載があるのに対し、これらの祭祀行為が実際に行われたにもかかわらず、考古資料としての遺物や遺構からの検

討は、これまで寡聞にして例を知らない。そこで陰陽道に関係すると考えられる考古資料について、初歩的な挙

例と類型化を行い、文献記載などとの対照検討を通じて、陰陽道祭祀との関係の有無も含めて考察を行う。

一 

従前の見解─物質資料の観点から

 

陰陽道に関する遺構や遺物を取り扱った専論や専著は管見の限りでは知られず、関係する研究としては呪術的

行為一般に関する言及がある程度であった(

((

 

直接、陰陽道に関する研究ではないが、平安時代に陰陽師が祓を行った対象である竈神に関しては、平川南氏

が「竈神」墨書土器(庄作遺跡・千葉県芝山町(などに着目し、中国の冥道信仰の影響を想定した。また、平川氏

は「

」「

」などの墨書された記号に対しても、これらが九字やドーマンといった陰陽道の呪符記号およびそ

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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れを簡略化したもの論じている(

((

。この種の呪符記号については大竹憲治氏も墨書土器に記された例を検討し、民

俗事例との関連から陰陽道の呪符と推定している(

((

 

ただし、この種の呪符が墨書された土器が祭祀的な遺構から出土する場合は、集落遺跡出土例に比しても、む

しろ少なく、そのような事例の典型についての検討は、横井竹ノ山遺跡(鹿児島市(出土例についての永山修一氏

による考察がある(

((

 

考古資料と古記録の両面から竈神について検討したものとしては荒井秀規氏の論考がある。竈神に関して、竪

穴住居址に構築されたカマドに関する祭祀を取り扱った論考は数多あるが、全体的かつ体系的な把握を試みた論

としては寺沢知子氏や内田律雄氏の論考があり、とくに後者は民俗的祭祀としての側面も論じている(

((

。ただし、

陰陽道の祭祀との比較検討は行われていない。

二 

陰陽道に関連すると考えられる考古資料

 

研究史でふれた資料以外にも、近年では、墨書土器や木簡に記された文字や記号を中心として陰陽道に関連

するとされる遺物や祓と関係するとみられる遺物の出土状況などの知見が増加している。これらのなかには陰陽

道と関係するかどうか十分な検討を経ていないものや詳細未報告の事例もある。そのため本論ではまず主な資料

ごとに事例をあげた後、次節でこれらについての吟味を行いたい。

8

A 

遺  

(((墨書土器

①「

」「

」(庄作遺跡・千葉県芝山町その他(

((

 

墨書土器のなかには漢字を主とする文字以外に記号が記される場合があり、その一つとして研究史のなかで瞥

見したように、「

」「

」の記号が陰陽道と関連するとして、これまで取り上げられてきた(

((

。「

」の記号を墨

書した土器が出土している遺跡として、これまでは生石(遺跡(山形市・図(─((・有吉遺跡(千葉市(・花前遺

跡群(千葉市・図(─((・庄作遺跡(千葉県成田市・図(─((六之域R(遺跡(神奈川県平塚市(・中原上宿遺跡

(神奈川県平塚市(

などをはじめとした多くの事例が知られている。そのなかで、生石(遺跡は「

」を含む墨書が、

墨書土器全体の約六五パーセントをしめていることが注目されている。

 

次項でふれるように「

」の墨書は陰陽道の呪符とされる九字を簡略化し、記号化したものと考えられており、

」の墨書は同じく陰陽道の呪符「五芒星」とされている。

②「竈神」(庄作遺跡・千葉県芝山町、多功南原遺跡・栃木県上三川町、水橋荒町遺跡・富山市、幡羅遺跡・埼

玉県深谷市、飯積原山遺跡・千葉県酒々町(

 「竈神」墨書土器は庄作遺跡(九世紀・図(─((・多功南原遺跡(九世紀(・水橋荒町遺跡(八世紀・図(─((

などで出土している。これらは奈良から平安時代に属し、カマドから出土した例はないが、竪穴住居址から出土

しており、器種としては土師器坏を主体としている。

 

関連する資料として、カマド遺構にともなう支脚とみられる土製品に人面のような線刻画が表現された遺物が

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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幡羅遺跡と飯積原山遺跡で出土している。幡羅遺跡出土例は七世紀後半から一〇世紀前半頃、飯積原山遺跡は九

世紀前半頃とみられているが、詳細な時期推定は報告書の刊行をまちたい。

図( 「 」「 」記号墨書土器の例( 生石(遺跡 ( 花前遺跡群 ( 庄作遺跡

(スケールアウト)

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(((木 

①物忌簡・物忌札(平安京・京都市、長岡京・京都府長岡京市、新田(((遺跡・青森市、観音寺遺跡・徳島市ほか(

 

ここでは通有の長さで、「物忌」の語を含む墨書が記されている木簡を便宜的に物忌簡と呼び、明らかに地面

に立てることが可能な物忌札と区別したい。それらの両種を含めて、管見の限りでは下記の例が知られた(

((

図( 「竈神」墨書土器の例( 庄作遺跡 ( 水橋荒町遺跡

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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a

「忌札見知可」(新田(((遺跡・青森市・平安時代後期・集落址・図(─((

((((

b 「固物忌今日物忌急々如律□」(他に同種の木簡一点、志羅山遺跡・岩手県平泉町・一二世紀・集落址・図(─((

((((

c 「咄

今日固物忌急々如律令九々八十壱【九々八十壱】⊘」(宮永ほじ川遺跡・石川県松任市(

(((

d

「依里物忌固物忌天岡急々如律令・依里物忌固物忌天岡急々如律令」(他に同種の木簡一点、漆町遺跡C地区・

石川県小松市・平安時代後期・集落址・図(─((

((((

e

「今月□□恐物忌人者/楊丸子菩提薩陲‖」(浄水寺跡・小松市・九世紀後半〜一一世紀前半・寺院址・図(─((

((((

f

「律令九々九八十一【九々九八十一】‖物忌」「今日物忌」(袴狭遺跡・兵庫県豊岡市・八〜九世紀・祭祀遺

跡((((

g

「今日難物忌」(袴狭遺跡内田地区・兵庫県豊岡市・奈良〜平安時代・郡衙跡?(

(((

h

「固物忌」(木部遺跡・滋賀県中主町・一一世紀後半・井戸・図(─((

((((

i

「天岡(符籙(急々如律令物忌・□□〔物忌ヵ〕」(他に同種の木簡四点、妙楽寺遺跡・滋賀県彦根市・鎌倉〜室

町時代中頃・集落址(

(((

j

「固物忌急々如律令九九八十一【八九七十二】⊘固物忌」(大宮遺跡・滋賀県守山市・一一世紀頃・旧河道・

図(─((

((((

k

「物忌・固物忌」(平城京東三坊大路東側溝・奈良市・八〜九世紀(

(((

l

「固物忌」(平安京左京六条一坊八町・京都市・平安時代後期〜鎌倉時代・井戸・図(─((

((((

m

「廿三日物忌」(平安京右京八条二坊二町・京都市・九世紀前〜後半(

(((

n

「物忌咄天北急々律□〔令ヵ〕」(鳥羽離宮跡一〇二次・京都市・一一〜一二世紀・導水路・図(─((

((((

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((

( ( ((

(0((

図( 「物忌」木簡の例((, ((以外はスケールアウト)( 新田(()遺跡 ( 志羅山遺跡 ( 漆町遺跡C地区 ( 浄水寺跡 ( 木部遺跡

( 大宮遺跡 ( 平安京左京六条一坊八町 (鳥羽離宮跡 ( 上津島遺跡 (0椿市廃寺((長岡京跡左京三条三坊一町

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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o

「物忌」(長岡京・京都府長岡京市(

(((

p 「今日物忌  

此処不有預人而他人輒不得出入」(長岡京跡左京三条三坊一町・京都府長岡京市・図(─(((

((((

q 「〈 

〉物忌昔蘇民将来之子孫□〔宅ヵ〕門也/急々如律令」(上津島遺跡・大阪府豊中市・一一〜一三世紀・

集落址・図(─((

((((

r

「今日堅物忌」(観音寺遺跡・徳島市(

(((

s

「今日物□〔忌ヵ〕・□□□」(椿市廃寺・福岡県行橋市・八世紀後半〜九世紀・寺院址・図(─(0(

((((

t

「今日物忌不可出入」(飯塚遺跡・大分県国東町(

(((

 

以上の例から、特徴的な資料をみておきたい。まず、物忌札としては長岡京跡左京三条三坊一町の地点で検出

された三条条間北小路の北側溝からの出土資料が知られる。これは長さ一・一メートル、最大幅四・三センチ、厚

さ七ミリの大きさで、上端部は山状、下端部は剣先状に削られ、木簡には「今日物忌 

此処不有預人而他人輒不

得出入」と墨で記されていた。これは地面に突き立てて用いたと考えられている(

(((

 

平安京左京六条一坊八町(京都市下京区(の一九八三年の発掘調査で井戸(SE((から土師器、瓦器、白磁、白

色土器などとともに物忌簡が出土した(

(((

 

都城遺跡以外の地方の遺跡では新田(1(遺跡では沖積地部分から古代から近代にかけての溝跡などが見つかり、

このうち古代の溝跡については一〇世紀後半〜一一世紀代の土器とともに二〇〇〇点を超える多量の木製品が出

土し、椀や曲物

などの容器、下駄や菰・槌・編物などの生活用具、鋤などの農耕具のほかに祭祀具として使わ

れた斎串、馬形・刀形などの形代や桧扇、木簡などがあった。木簡のなかには「忌札見知可」と記入された資料

があり、文の内容から物忌簡とみられている(

(((

14

 

観音寺遺跡(徳島市(では二〇〇八年度の発掘調査で、平安時代中頃とのものとみられる物忌簡が出土し、都で

盛んだった物忌の慣習が地方でも行われていた様子がわかる資料とされている。

 

これらを含めて、「物忌」の語を含む木簡には、長岡京出土例のように実際に立てて用いた物忌札のほかには、

同一の語句が複数墨書されている例もあり、これに関しては習書木簡の可能性が考えられる。

(((漆紙文書

①「赤龍」「黒龍」「白龍」記載漆紙文書(壇の越遺跡・宮城県加美町・図(─((

((((

 

壇の越遺跡は大崎平野の西端に位置し、八世紀前半〜一〇世紀中頃の加美郡衙と考えられる東山官衙遺跡の南

前面に展開する広大な遺跡で、加美郡衙の造営・維持に伴って展開した遺跡と考えられている。

 

壇の越遺跡では、これまで継続的に発掘調査が行われているが、そのなかでも平成一三・一四年度の両年に調

査された((区で出土した漆紙文書に記された語句が陰陽道と関係するとみられている。この漆紙文書は((区の西

側部分で検出された竪穴住居址(SI2013(から出土した。この住居址は出土した土器などから九世紀後半頃

とみられている。漆紙文書は不整形な断片の状態で出土しており、接合した後、赤外線テレビカメラによる撮影で、

両面に墨書があることがわかった。墨書文字の多く確認された側では「神」「神祠」「罪」「導」「赤龍」「白龍」「黒龍」

などの語句が確認されている。このうち「赤龍」「白龍」「黒龍」は陰陽道の五龍祭に関係すると考えられている。

(((「祓」関係遺物(塩津港遺跡・滋賀県西浅井町(

(((

 

琵琶湖に臨む交通の結節点である塩津港遺跡の発掘では一一〜一二世紀頃の宗教施設と考えられる建物跡や多

量の土師器や硯などが検出された。一辺約五〇メートル四方を堀で囲んだ範囲で、二箇所の建物の遺構が検出さ

れ、ともに神社と推定されている。堀は幅四・五メートルで深さは六〇センチメートル、検出長一一メートルで、

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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断面形状が箱型である。南側の堀からは起請文札木簡が出土し、北側の堀から陰陽道の祓に用いたと考えられる

遺物が出土した。起請文札木簡は五五本出土しているが、総じて大型で、なかは二メートルを超える資料もあり、

国内でも最大級の例とみられている。記載されている内容の起請文について、個々の木簡の内容は現在 

解読中

であるが、典型的な内容としては諸神の名を記した後に誓約の行為内容を示しており、保延三年(一一三七(など

の年紀がみられた。

 

神社遺構の北側の堀からは四体の神像が出土し、同じく堀の端からは松明、幣串、注連縄、呪符の記された墨

書土器が出土した。これらは『春日権現験記絵』などにみえる陰陽師による祓の場面に描かれた器物(図(─((

などとの比較から陰陽道の祓の道具と推定されている。

B 

遺  

(((土器埋納遺構

①横井竹ノ山遺跡(鹿児島市・図(─((

((((

 

横井竹ノ山遺跡は直近の水田面との比高差が約一二〇メートルとされる丘陵上にあり、旧石器時代から縄文時

代への過渡期にあたる遺跡として知られる。この遺跡では、その他に古代の遺構・遺物も発見されている。その

なかでも、陰陽道との関係で注目されているのは口縁部を合わせた土師器埦である(図(─(左(。上埦、下埦と

もに内外綿に赤色顔料が施されており、上部の埦の外面には「肥道里」の墨書が記され、見込み部には「八万」

の語が線刻されていた。下部の埦は体部外面に「子」字その反対側には「

」の記号が墨書されていた(図(─((。

これらの土師器に対しては九世紀第三四半期頃の時期が推定されている。下埦の内部からは環状に白色の物質が

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付着していた。これに関して、科学分析が行われた結果、人骨の成分ではないことが報告されている。

図( 陰陽道関係遺物と参考資料( (壇の越遺跡出土漆紙文書( 『『春日権現験記絵』にみえる祓の場面( 横井竹ノ山遺跡の土器埋納坑(左)と墨書土器(右)

白龍

赤龍

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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三 

陰陽道関連遺物・遺構の意味

 

墨書土器に記された文字や記号のなかには陰陽道と関係すると考えられている類型や事例があり、それらに関

する研究の現況に関してはすでにふれた。ここでは遺物だけでなく遺構も含めて、それらの種類と属性によって

大別して、陰陽道との関係の存否を含め、具体的な信仰習俗のいかなる側面を示すのかについて整理しておきたい。

(一(墨書土器

①「九字」および他宗教との混淆

 

庄作遺跡で出土した墨書土器に記された「

」の記号が墨書されていることは、すでにふれたように「

」の

墨書は、陰陽道の呪符とされる九字を簡略化し、記号化したものと考えられている。「

」墨書の出土例のなかで、

注目されるのは小原子遺跡群のなかの集落遺跡の一つである庄作遺跡の出土資料である。この遺物は九世紀頃の

鉄鉢形土器の体部に「

」「佛酒」の記号と文字が墨書されている。「

」の記号を陰陽道に関わる呪符とする見

方が当を得ているとするならば、これが「佛」字を含む墨書とともに記されていることは、二つの思想または信

仰が重層ないし混淆していたことになり、これは東国の集落における宗教やそれに伴う祭祀の実態を示すことに

なる。「

」の記号が実際に九字と同じような意味をもつかについては、未だ一定の例証が必要であるとしても、

古代における信仰の実態を解明するための端緒として重要である。

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②「竈神」墨書土器の意味

 

竈神祭祀の記載は古記録等では原則として平安京に限定して確認できるのに対し、「竈神」の語が記された墨

書土器は現状では、むしろ都ではなく、基本的には地方の集落遺跡から出土していることが注目される。「竈神」

墨書土器については、すでにふれたように従来も言及がある。ただし、これまでは竪穴住居址のカマドに対する

祭祀行為と平安時代の貴族の日記などに、しばしばみえる竈神を同類の祭祀として論じられることが多かった。

しかしながら、両者は盛行する時期や地域、および実修する階層や行為の内容などのすべての点において異なる

のであって、これらを同一視すべきではないと考える(

(((

。とくに陰陽道に関係するのは、貴族の祀る竈神であって、

これに祟られないように、あるいは祟られた際に陰陽師が祓を行うという記載が古記録にはしばしばみえる。こ

れに対して、古墳時代から平安時代にかけての竪穴住居址ではカマドの内部などに土器などの器物や獣骨を置く

などの行為が主体で、内容としてはカマド祭祀というのが適当であろう。このようなカマド祭祀に用いられるの

と同器種である土師器坏を用いて「竈神」の語が墨書されているため、これらの墨書土器の祭祀の対照は竪穴住

居内のカマドであるとみて大過なかろう。

 

いっぽう、平安時代を中心とした貴族の日記等に「竈神」「御竈神」の語がしばしばみえるが、これらは都に

おける宮廷および貴族の祭祀であって、地方の竪穴住居址にともなうカマドに対する祭祀行為とは内容的に異な

る。論拠となる個々の記事については別稿に負うが、典型的な事例をみても、『御堂関白記』長和二年(一〇一三(

六月八日の記載として、時折、雨が強く降るこの日に、藤原道長が小南すなわち自らの住宅であり、土御門第の

敷地内にあった小南第に行って土御門第への帰途に竈神の御屋をみれば、水に浸かっており、かねて自分の病が

竈神の祟りであるとの占いが出ていたのは、このためであったとして、解除の儀式を行い、修理をさせ、中には

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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御衣を奉じた、というのである(

(((

。これによって「竈神御屋」が竈神を祀った社のような建物であることが知られ、

また、これに障りがあった際には陰陽道の解除などの儀式とともに修理を行い、御衣を奉じている点からみても、

独立した一定の規模の建物であったことが知られる。

 『小右記』長元四年七月五日条には、陰陽師であった中原恒守の言として、今旦、お召しがあって女院すなわ

ち上東門院藤原彰子のところに行った際、にわかに腰に異常がおこったが、占いによって、竈神・土公の祟りで

あることがわかり、竈神の前で、祓を二度行った後、快癒したとみえる(

(((

 

また、『御堂関白記』長和二年(一〇一三(四月条には自らの病の原因が竈神の祟りにあると知った藤原道長が

陰陽師の安倍吉平に解除すなわち祓を行わせたとある(

(((

 

貴族の日記にみえる竈神祭祀の時期的に下る例としては『建内記』の嘉吉二年(一四四二(四月三十日条、文安

元年(一四四四(四月三十日条に「竈神祭」がみえ、夫婦で直会を行っている事例があげられる(

(((

 

このように貴族の日記などにみえる竈神は病などとして発現する祟りをなす神であって、貴族たちの邸内に造

作した独立建物のなかに竈を設置し、御衣その他の供物を備えたり、祟りのあった際はこの前で祓を行う対象で

あった。また、竈神は夫婦であっても個別に祭祀されるという極めて属人的な神であった。そして、竈神を祀っ

た建物の内部には神体として、実際の釜を祀っていた。宮中の平野・庭火の祭祀に釜と錡が祀られたとされるこ

とを参照すると、このような貴族の奉じた竈神の釜は、実際に使用されたのではなく、祭神として貴族の邸内に

祭祀されたらしい。

 

このように都では一〇世紀頃には貴族を中心として宮廷神の系譜を引く属人的な竈神祭祀が行われ、地方では

九世紀後半頃までを盛行期とした一般民衆によるカマドに対する家屋単位の祭祀が存在したのであって、これら

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二つの内容の異なる竈神の祭祀は、当然ながら平安時代の社会が単線的な変容をとげたのではないことを示して

いる。遺跡から出土する「竈神」墨書土器は、当然ながら、一般民衆に関わる遺物であるから、陰陽道の竈神と

の直接の関係については未検証とするほかはないが、むしろ、同時代に都と地方とで異なる竈神祭祀が行われて

いたことが文化史・思想史の面からも重要であろう。

③陰陽道の祭祀行為と墨書土器

 「

」の記号については、これまでは主として民俗例をもとに陰陽道との関係がいわれてきた。そのなかで実

際になんらかの祭祀に関係する可能性のある出土事例として横井竹ノ山遺跡(鹿児島市(で出土した合わせ口土師

器埦をあげた。この遺跡では二つの土器の口を合わせて地中に埋納されていたが、これと関連する行為は藤原道

長の呪詛のために「土器を二うちあわせて、黄なる神捻にて十文字にからげ」たものを地下に埋めていたが、安

倍晴明がそれを未然に発見したという内容の説話が『宇治拾遺物語』にみえる。ここにみえる呪物と横井竹ノ山

遺跡出土の合わせ口土師器とを対照検討した永山修一氏は、結論として、墨書土器としては一般的で、吉祥語と

もされる「八万」の語があることから、陰陽道の呪詛に用いられたことに対しては否定的にみている。ただし、「

の記号のあることから、陰陽道となんらかの関連があると推定している。また、横井竹ノ山遺跡は古代の郡堺お

よび交通路に近接した立地と考えられることから、道や境界の祭祀が行われた可能性も示唆されている(

(((

 

このような見方も「

」の墨書が陰陽道と関係する五芒星を示すかどうかという点の実証に関わるところが多

い。ただし、上埦・下埦ともに内外面に赤色顔料が塗布されていたことからみると、何らかの祭祀または儀礼に

用いられたことは想定してよかろう。下埦内部に認められた白色物質が科学分析によって人骨に由来しないとさ

れており、そうであるならば火葬墓ではない。また、図でみる限り白色物質は周囲の厚い部分では四センチメー

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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トル前後もあることから、紙などの薄い形状の物体ではなかったとみられ、その点からも『宇治拾遺物語』の説

話に紙を撚って十文字にしたとみえる呪物とは異なると考えられる。

(二(木簡・漆紙文書の語句と陰陽道

①物忌簡・物忌札

 

陰陽道に関連する資料として資料的にも多いのが物忌の語を含む文を記した木簡である。これらは当然、物忌

札との関係が想定されるが、陰陽道に関するものとしては六壬式盤によって占われたとされている。これらはな

んらかの怪異に対する占いによるが、それにも三種類があると説かれている。すなわち、門・中庭など第宅の境

界に立てる本論でいうところの狭義の物忌札の他に、御簾などの室内の境界に付ける物忌札と冠や袖など身体に

ける物忌札とがあり、これらは物忌の空間的な単位として、閉門、外垣、屋舎、最小単位としての身体で、それ

ぞれを区切るという役割をもっているとされる。このうち、狭義の物忌札については、物忌の期日を明確に告知

するために陰陽師が節月ごとに書き進めるものであるのに対し、その他の物忌札に関しては、陰陽師はこれを書

き記さず、また、籠居行為についても陰陽師は積極的には関与しないとされている(

(((

 

実際の出土遺物としては、すでにふれたように地面に立てて用いたと考えられる物忌札が長岡京で出土してい

る。その他の木簡にみえる「物忌」の語のなかで、実際の籠居行為としての物忌と関係するのが「固物忌」の語

である。これまでの研究において、物忌には段階的な行動があるとされ、具体的には、古記録や物語などにみえ

る物忌の分析によって、平安時代の物忌には以下のような類型があることが指摘されている(

(((

。すなわち、①門外

で対応する場合②門外で要件を承る場合③邸内に招き入れる場合があり、これは物忌の程度によるとされる。物

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忌の程度とは、軽重として表現され、端的な例としては「雖物忌軽人々来」(『御堂関白記』寛弘二年七月六日条(

や「今日堅固物忌、不通外事」(『小右記』寛仁二年四月四日条(としてみえるような物忌の軽重の程度があった。

とくに軽い物忌では、「前美濃守朝臣来、隔几張相談、今明雖物忌開門」(『小右記』正暦元年九月一八日条(の記

載のように来訪者を受け入れたが、直接には応接せず、几張を隔てて対応する場合があった。

 

このような物忌の軽重を示す木簡として「固物忌」の語があり、これを記した木簡は平安京で出土している。

それ以外にも志羅山遺跡(岩手県平泉町(、漆町遺跡C地区(石川県小松市(木部遺跡(滋賀県中主町(、大宮遺跡(滋

賀県守山市(で出土しており、同じく「今日全物忌」(観音寺遺跡・徳島市(も物忌の程度を示す木簡であること

から、地方においても物忌の程度が把握されていたことがわかる。具体的内容を記している例としては、「今日

物忌不可出入」(飯塚遺跡・大分県国東町(が出入りの不可である物忌を端的に示している。

 

いっぽう「依里物忌固物忌天岡急々如律令依里物忌固物忌天岡急々如律令」(漆町遺跡C地区・石川県小松市(

などのように語句が繰り返し書写されている例があることから、これらは習書木簡であることがわかる。

 「物忌」の語を含む木簡には、少なくとも以上のような特徴が看取されるが、東北から四国、九州にいたるまで、

程度の軽重も含めて物忌の内容が広く伝わっていたと考えられる。

③五龍祭関連語句

 

壇の越遺跡出土漆紙文書にみえる「赤龍」「白龍」「黒龍」などの語は、報告書では陰陽五行説に基づく五色(青・

赤・黄・白・黒(に基づくと考えられており、これらの語句から陰陽寮に所属する陰陽師が行った五龍祭と関連

するとみられている。五龍祭とは青龍・赤龍・黄龍・白龍・黒龍を祀る雨乞いの祭祀で、『新唐書』礼楽志吉礼

に「春祭五龍、籩豆皆八、簋一、簋一、俎一」とみえ、また、『旧唐書』職官志尚書都省礼部に「司中、司命、風師、

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

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雨師、衆星、山林、川沢、五龍祠等,及州縣社稷、釈奠為小祀」とあるように元来は中国に由来する祭祀である。

日本の史料では『日本紀略』にみえる延喜二年(九〇二(六月十七日条に「陰陽寮を召して、明日より乾方におい

て五龍祭を勤むべきの由、仰せられ了んぬ」とあるのが初見とされ、その後、頻繁に行われるようになった。こ

の記事のほかには『禁秘抄』に「陰陽師五龍祭に奉仕す。或いは神泉において、これを祀る」とあることからも、

五龍祭は陰陽師によって行われたことがわかる。その実態はたとえば『御道関白記』に「十四日、丙申。終日陰

る。時々微雨下る。夜に入りて、大雨有り。右頭中将、仰せて云はく、晴明朝臣、五龍祭を奉仕するに、感有り、

被物を賜ふ、と云(々(。早く賜ふべきなり。雷声小さきなり」とみえ、陰陽師としてあまねく知られる安倍晴明

が五龍祭に奉仕した後に被り物を賜っていることからも知られる。

 

このような五龍祭に関わる語句が墨書された漆紙が出土した壇の越遺跡は、年代的には八世紀後半から九世紀

前半を中心とし、門・築地塀・櫓状施設・大溝からなる大規模な区画施設で、近接する東山官衙遺跡と関連した

地方官衙遺跡と考えられている。報告書では漆紙文書にみえる五龍祭に関係する語句の存在によって、当該資料

の所属時期である九世紀後半には陸奥国に陰陽道関係の典籍が将来された可能性を想定している(

(((

(三(陰陽道の行為を示す一括遺物─「祓」関係遺物の意味

 

塩津港遺跡で検出された平安時代末期頃の神社とみられる遺構の堀の内部から出土した松明、幣串、注連縄、

呪符墨書土器から構成される一括遺物について、詳細は報告書の刊行をまたねばならないが、調査機関の刊行物

で現状の意味づけがなされている。それによると、これらの遺物の属性および用途については、『春日権現験記絵』

24

にみえる祓の場面が参考になるとされている(

(((

。本論では、このような見方に基づいて、この絵巻の場面と祓関係

遺物とを対照検討してみたい。

 『春日権現験記絵』第八巻第二段には、頭に紙冠をつけた人物が、疫鬼を祓う祭祀を行っていたらしい場面が

描かれている(図(─((。この場面の背景には、ある年に天下に疫病が流行し、興福寺の空晴僧都の養父で大舎

人入道という人物の郎党が、多数の武士が入道の家に打ち入ろうとすると、先陣の武士が馬からおりて門前を拝

し、ここには唯識論が安置してあるから、狼藉あるべからずといい、やがて皆が退出したという夢をみた、とい

う設定がある。この武士は疫病の擬人化で、唯識論があったために、その難を逃れたことを説いた内容と考えら

れている(

(((

 

この場面では大舎人入道邸の塀の外にある庶民の家で、疫病にかかった男が土間に嘔吐しており、その嘔吐物

を犬が舐めている。そして、病人のいる建物の入口の屋根には鬼のような姿をしたものが取りつき、内部をうか

がっている様子が表されている。これは疫病を広める疫神と考えられている。そして、病人のいる家から今まさ

に出てきたところの様子で、従者をつれた僧形で頭に紙冠をつけた人物が描かれている。病人の家の門口には石

を立て、その前には女性の髪の毛を付けた幣帛を立て、供物を盛ったとみられる皿を置いて、それらを縄で囲み、

その外側では火が焚かれている。立てられた石を塞の神とみて、これを含む器物を山伏や巫女の行った病除けの

呪いに用いたものであるとする見方が示されている(

(((

 

僧形の人物に関しては、剃髪した頭部に鉢巻状で後頭部に紡錘形のものが垂直に立っている形のものをつけて

いるのが特徴で、斉藤研一氏はこれこそが紙冠であると論じている。この紙冠とは法師陰陽師が頭につけたもの

であって、これをつけることによって一時的に僧侶から陰陽師への変化がなされると説かれている(

(((

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

25

 

平安中期には官人陰陽師とは別に法師陰陽師と呼ばれた一群の民間の宗教者ないし祈祷者が存在し、彼らはお

もに貴族に依頼されて呪詛などを行ったとされている(

(((

。物語などにも「法師陰陽師の、紙冠をして祓したる」(清

少納言『枕草子』見苦しきもの(「川原に出でたるに、かたはらなる車に、法師の紙冠にて、博士だちをみるを

憎みて…」(紫式部『紫式部集』(などとみえている。

 

このような法師陰陽師らしき人物が描かれている場面は『春日権現験記絵』の研究のなかでも、従来、ほとん

どかえりみられることはなかったが、ここでふれた斉藤研一氏の論によって、この人物が疫病に対して、祓を行っ

た直後の法師陰陽師の姿で、しかもその祓の効果はなく、疫神がそのまま居続けている様子が描かれ、それは疫

病を退散させた『唯識論』を所蔵する大舎人入道の邸との違いを示しているという場面構成上の対照が指摘され

ている。

 

そして、この場面には疫病を患う人と疫神、これに対して祓いを行った法師陰陽師とその行為の痕跡が具体的

に描かれている点で、出土遺物などの実物資料と比較するために有益な情報となっている。実際に塩津港遺跡の

出土遺物が松明、幣串、注連縄、呪符墨書土器から構成されることから、すでにふれたように『春日権現験記絵』

巻八第二段の場面にみえる祓の道具との共通性が指摘されている。そして、祓の執行者についても、この場面を

参考にするならば、平安時代末頃の神社とみられる塩津港遺跡では法師陰陽師に代表される民間の陰陽師を含め

て検討する必要があろう。

26

まとめ─考古学からみた陰陽道

 

本論では、陰陽道に関連する可能性がある考古学資料について、類型別に主な遺物・遺構を挙例し、それぞれ

の事実提示を行った後に、陰陽道との関係の有無と現状について想定される具体的な祭祀・信仰遺物としての実

態を筆者なりに提示した。本論は一定の方向に収束する結論を提示するというよりは、各個資料の検討を目的と

した。そのため、改めて内容を整理することはさけ、考古学資料による陰陽道研究の展望とそれに関わる課題を

提示したい。

 

まず、墨書土器に関しては、本論でも示したように、従来、五芒星および九字とされてきた記号について、同

時代の資料や文献記載によって証されているわけではなく、後代の民俗資料によって類推されている状況である。

加えて、従前、陰陽道の研究は平安京に住する貴族に対して、陰陽師が行う祓などの行為を中心として行われて

きた、これに対して、考古資料である陰陽道の記号とされる墨書土器は地方の集落遺跡などからも多数出土して

いる。現状では陰陽師の行為に、五芒星や九字が用いられたことは明らかではないことからも、これらの記号を

記した墨書土器が都で行われていたのと同様の陰陽道祭祀であったことは確定しているわけではなく、このよう

な基本的な論点についても未だ検証が必要であると考える。

 

このような都と地方の祭祀の質的な違いについては、竈神について具体的に論じたように、都の貴族の竈神祭

祀と地方の集落遺跡で出土する「竈神」墨書土器とは、祭祀行為の内容やその実修に限定しても、違いのあるこ

とを想定せざるをえず、この点からも記号や語句という現象面での類似のみで、陰陽道に関係する等質的な祭祀

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

27

を想定することは難しい。

 

いっぽうでは、これまで物忌札とされてきた「物忌」の語の記された木簡については、平安京や長岡京以外に

地方の官衙遺跡や集落遺跡での出土例が増加してきている。これらの木簡のなかには長岡京出土例に代表される

物忌札としての実際の使用の他に習書木簡も多いことがわかってきた。このような事例の増加によって、地方に

おける物忌木簡の出土によって、物忌の認識が地方に波及していたことが物質的に示されたことは重要である。

ただし、実際の物忌には忍ぶ草という植物を用いた場合もあることから(

(((

、物質的に遺物としては残存しない場合

も想定する必要がある。また、地方における陰陽道の実態という観点からは、遺跡で出土した五龍祭に関係する

漆紙文書の存在も、地方において陰陽道関係祀祭が認識されていたことを示す例となっている。

 

これらの事例からは、物忌や五龍祭といった陰陽道関係の行為や祭儀が、少なくとも認識の次元においては、

地方に波及していたことが物質資料として示された。

 

今後は墨書土器・木簡・漆紙文書などにみられる呪的記号や行事・祭祀などが実修について、より具体的に実

態を示すことが課題として残っている。たとえば「物忌」の習書木簡の存在については、たんなる語句として知

識の次元で認識されていたのか、地方の官衙や集落においても実際に物忌の行為が実修されていたのかについて、

より具体的な知見を得ることがもとめられる。このことは古代における都と地方の習俗の比較検討だけにとどま

らず、地域による質的な差異が顕現することなく、信仰や儀礼にもとづく習俗が行われていたことと関係し、こ

れが示されれば、包括的な習俗としての成立を示すものとなり、それは該期における文化史・社会史研究に資す

ることとなる。そのためには今後は考古資料の特性を活かして、陰陽道と関連する遺構や遺物から、それらを用

いた祭祀や信仰について実証的な検討を進めていく必要があろう。

28

〈補 

注〉

((( 

野田幸三郎「陰陽道の成立」をはじめとした下記文献所収の論考参照。村山修一ほか編『陰陽道叢書』(古代(名著出版、

一九九一年(

((( 

水野正好「招福・除災─その考古学」『国立歴史民俗博物館研究報告』七(本篇(、一九八五年

((( 

平川南「墨書土器とその字形─古代村落における文字の実相─」『墨書土器の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年

((( 

大竹憲治「陰陽道に関する箆描き土器・墨描き土器考」『いわき地方史研究』四五、二〇〇八年

   

大竹憲治「九字切り呪法土器を論じ派生する神仏の墨書(墨描き(土器・刻書(箆描き(土器との関係に迫る」『福島考古』

五〇、二〇〇八年

((( 

永山修一「鹿児島県横井竹ノ山遺跡出土の墨書土器について」鹿児島県立埋蔵文化財センター編『横井竹ノ山遺跡』

鹿児島県立埋蔵文化財センター、二〇〇四年

((( 

荒井秀規「竈神と墨書土器」国士舘大学考古学会編『古代の信仰と社会』六一書房、二〇〇六年

   

寺沢知子「カマドへの祭祀的行為とカマド神の成立」森浩一編『考古学と生活文化』同志社大学考古学シリーズⅤ、

同志社大学考古学研究室、一九九二年

   

内田律雄「竈神と竈の祭祀」『季刊考古学』八七、二〇〇四年

((( 

小原子遺跡調査会・芝山町教育委員会編『小原子遺跡群』一九九〇年、芝山町教育委員会

((( 

平川南『墨書土器の研究』(前掲(二九六〜三〇五頁

((( 

木簡の釈字・釈読は基本的には引用文献によっているが、提示された図・写真の判読によって、筆者が改めた箇所が

ある。

   

木簡の字句の表記に関しては、木簡学会の発行する研究誌『木簡研究』および奈良文化財研究所の木簡データベース

を参照した。なお、【 

】は逆向きの文字を示す

((0( 

木村淳一「青森・新田(一(遺跡」『木簡研究』二六、二〇〇四年

   

青森県埋蔵文化財調査センター編『新田(1(遺跡』第(、第(分冊、青森県教育委員会、二〇〇九年

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

29

(((( 

平泉町教育委員会編『平泉遺跡群発掘調査報告書』平泉町教育委員会、一九九四年

   

菅原計二「岩手・志羅山遺跡『木簡研究』一七、一九九五年

(((( 

木田清「石川・宮川ほじ川遺跡」 『木簡研究』一五、一九九三年

(((( 

石川県埋蔵文化財センター編『漆町遺跡』石川県埋蔵文化財センター、一九八二年

   

小村茂 「石川・漆町遺跡」『木簡研究』一三、一九八二年

(((( 

垣内光次郎「石川・浄水寺跡」『木簡研究』一三、一九九一年

   

石川県教育委員会・

石川県埋蔵文化財センター編『浄水寺跡』石川県教育委員会・

石川県埋蔵文化財センター、

二〇〇八年

(((( 

小寺誠「兵庫・袴狭遺跡」『木簡研究』一一、一九八九年

(((( 

出石町教育委員会編『袴狭遺跡内田築発掘調査概報』出石町教育委員会、一九九五年

   

小寺誠「兵庫・袴狭遺跡」『木簡研究』一九、一九九七年

(((( 

徳綱克己「滋賀・木武遺跡」『木簡研究』一二、一九九〇年

(((( 

葛野泰樹「滋賀・妙楽寺遺跡」『木簡研究』一〇、一九八八年

(((( 

滋賀県教育委員会文化財保護課・滋賀県文化財保護協会編『守山川中小河川改修事業に伴う大宮遺跡発掘調査報告書』

滋賀県教育委員会・滋賀県文化財保護協会、一九九一年

   

仲川靖「滋賀・大宮遺跡」『木簡研究』一六、一九九四年

((0( 

鬼頭清明「奈良・平城京跡左京一条三坊十五・十六坪」『木簡研究』一六、一九九四年

(((( 

京都市埋蔵文化財研究所編『昭和五七年度京都市埋蔵文化財調査概要』

   

小森俊寛「京都・平安京左京六条一坊八町」『木簡研究』八、一九八六年

(((( 

辻裕司「京都・平安京右京八条二坊二町」『木簡研究』八、一九八六年

(((( 

京都市埋蔵文化財研究所編『鳥羽離宮跡Ⅰ 

金剛心院跡の調査』京都市埋蔵文化財研究所、二〇〇二年

   

鷺森浩幸「京都・鳥羽離宮跡」『木簡研究』三〇、二〇〇八年

30

((((清水みき「京都・長岡京跡(1(」『木簡研究』五、一九八三年

(((( 

向日市埋蔵文化財センター・向日市教育委員会編『松崎俊郎・清水みき他『木簡研究』二二、二〇〇〇年

(((( 

上津島遺跡調査団・豊中市教育委員会編『上津島遺跡第五次発掘調査報告』上津島遺跡調査団・豊中市教育委員会、

一九九七年

   

中岡勝「大阪・上津島遺跡」『木簡研究』二四、二〇〇二年

(((( 

大橋育順「徳島・観音寺遺跡」『木簡研究』三一、二〇〇九年

   

大橋

育順「観音寺遺跡と木簡」『月刊考古学ジャーナル』五八七、二〇〇九年

(((( 

行橋市教育委員会編『椿市廃寺Ⅱ』行橋市教育委員会、一九九六年

   

小川秀樹「福岡・椿市廃寺」『木簡研究』二九、二〇〇七年

(((( 

永松みゆき・舘野和己「大分・飯塚遺跡」『木簡研究』二二、二〇〇〇年

((0( 

山口均・清水みき他「京都・長岡京跡」『木簡研究』二二、二〇〇〇年

(((( 

京都市埋蔵文化財研究所編『京都市埋蔵文化財調査概要 

昭和五七年度』京都市埋蔵文化財研究所、一九八四年

   

小森俊寛「平安京左京六条一坊八町」『木簡研究』八、一九八六

(((( 

青森県埋蔵文化財調査センター編『新田(1(遺跡』第(、第(分冊、青森県教育委員会、二〇〇九年

(((( 

宮城県教育委員会編『壇の越遺跡ほか』宮城県教育委員会、二〇〇五年

(((( 

滋賀県文化財保護協会編『塩津湊遺跡発掘調査現地説明会資料』平成二〇年度(二〇〇八(一一月一五日

   

横田洋三「滋賀・塩津港遺跡」『木簡研究』三一、二〇〇九年

   

横田洋三『「塩津港遺跡」これまでの調査成果』財団法人滋賀県文化財保護協会、二〇一〇年

(((( 

鹿児島県立埋蔵文化財センター編『横井竹ノ山遺跡』鹿児島県立埋蔵文化財センター、二〇〇四年

(((( 

竪穴住居址のカマド祭祀と平安京における上皇や貴族の竈神祭祀については、下記の論考で、遺構の実例と古記録の

記載を引いて論及したため、本論では詳述しない。あわせて参照されたい。

   

門田誠一「竈神にみる都と鄙─考古資料と古記録の検討─」池見澄隆編『中世─冥と顕の精神史─』法蔵館、

陰陽道関係考古資料の基礎的考察

31

二〇一一年刊行予定

(((( 『御堂関白記』長和二年六月

   

八日戊辰、時々深雨、行小南、還来間見礼は、竈神御屋入水来、有所悩占竈神祟、仍令解除

修補、内奉御衣。 

(((( 『小右記』長元四年七月五日条

   

恒盛云、今旦依召参女院、俄悩御々腰、占申御竈神土公祟由、於竈前奉仕御祓二ケ度、承宜御坐由。

(((( 『御堂関白記』長和二年四月条

((0( 『建内記』嘉吉二年(一四四二(四月三十日条

   

今夜竈神祭也。神供仰付河内入道常慶調進之、(中略(令供竈前二膳□婦各再拝了。次直会予食之、夫婦食之云々。(後略(

   『建内記』文安元年(一四四四(四月三十日条

   

今夜竈神祭也。又号宇賀神供事仰付常慶河内入道(中略(次直会受用之、夫婦令食之、不他人令食也。(後略(

(((( 

永山修一「鹿児島県横井竹ノ山遺跡出土の墨書土器について」鹿児島県立埋蔵文化財センター編『横井竹ノ山遺跡』(前

掲(

(((( 

小坂眞二「方忌・方違と陰陽道の勘申部門」村山修一ほか編『陰陽道叢書』(古代、名著出版、一九九一年

(((( 

物忌の類型については下記論考参照。

   

藤本勝義「源氏物語の物忌─紫式部と陰陽道信仰─」『青山學院女子短期大學紀要』四〇、一九八六年三和礼子「物忌

考」『陰陽道叢書』(古代(前掲(

   

深澤

瞳「平安貴族の物忌日」『大妻女子大學大學院文學研究科論集』

一四、二〇〇四年

(((( 

宮城県教育委員会編『壇の越遺跡ほか』(前掲(

(((( 

横田洋三『「塩津港遺跡」これまでの調査成果』財団法人滋賀県文化財保護協会(前掲(

(((( 

角川書店編集部『春日権現験記絵』日本絵巻物全集第((巻、角川書店、一九六三年、六六頁

(((( 

渋澤敬三編『新版絵巻物による日本常民生活絵引』第四巻、平凡社、一九八四年(初版は一九六七年(二一二〜二一三頁

(((( 

斉藤研一「紙冠をつけた法師陰陽師─『春日権現験記絵』巻八第二段を読む─」『月刊百科』三七四、一九九三年

32

(((( 

岩佐貫三「法師陰陽師のおこなう祓について─その雑乱性と本質の移行─」『東洋学研究』八、一九七四年

((0( 

中島和歌子「忍ぶ草の物忌札をめぐって:『中外抄』『富家語』を中心に」『語学文学』三四、一九九六年

付 

 

本稿は科学研究費補助金(基盤研究C(課題番号二一五二〇七七七「出土文字資料の出典論的方法による古代

信仰展開様相の研究」(平成二一〜二五年度(による平成二二年度の研究成果の一部である。

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