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2008 年度 卒業論文 ディストピアがあたえた影響と現在におけるユートピアの価値と必要性 /スーパースタジオとレム・コールハースの作品を通して 主査 渡邊真理 教授 法政大学工学部建築学科4年 渡邊真理研究室 05D7109 洞口文人

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2008 年度 卒業論文

ディストピアがあたえた影響と現在におけるユートピアの価値と必要性/スーパースタジオとレム・コールハースの作品を通して

主査 渡邊真理 教授

法政大学工学部建築学科4年渡邊真理研究室 05D7109 洞口文人

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ディストピアがあたえた影響と現在におけるユートピアの価値と必要性―スーパースタジオとレム・コールハースの作品を通して―

法政大学工学部建築学科渡辺真理研究室 05D7109 洞口文人

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まえがき

 建築というものの可能性とこれから建築家が考えていかなけ

ればいけないことはないか。そして、建築家は社会をより良く

していこうというマニュフェストをもちながらも、知らず知ら

ず、社会に呑み込まれ今の社会に加担していくのである。そん

な時代の建築家たちの職能とはなにかという疑問が生まれてく

る。現実に建築をつくること自体に自己矛盾が生じてきてしま

う、つくってしまうこと自体が今の社会に上につくられ、現状

に加担してしまうのである。人間(もしくは建築家も)は住み

にくい場所—ディストピアをつくる。これらは受け入れなけ

ればいけない事実である。この事実、受け入れた中でこれから

建築家はなにを構想していくのか。これらが、私が論文の主と

して置くものである。

  

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目次

まえがき

目次

第一章 研究目的とその方法

第二章 ディストピア

    一節 ディストピアとは?

    二節 ラディカルなディストピアを描く建築家たち

第三章 ユートピア

第四章 作品研究

    一節 コンティニュアス・モニュメント/スーパースタジオ

       一項 本文

       二項 スーパースタジオ

    二節 エクソダス、あるいは自発的な建築の囚人/レム・コールハース

       一項 本文

       二項 エクソダスとは?

       三項 「囚われの球をもつ都市」と「エクソダス」

       四項 レム・コールハースとスーパースタジオ

第五章 結語

あとがき

参考文献、引用図版

謝辞

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第一章 研究目的とその方法

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研究目的

資本主義経済は多数の主観によって多中心な都市を築いてい

る。それはたえず、不均衡で過剰で、それに対して国家は必死

にバランスをとろうとしている。しかし、もともと国家が介入

するデザインやプランニングによって資本主義経済を制御する

ことは不可能であると柄谷行人は述べている。確かにそのため

に国家バランスをとれずにいくつものほころびが出てきてい

る。多数の主観の多中心の社会。それは各々が自由にやってい

る。つまり、これを放置することで、人間的な環境が崩壊する

ことは明白な事実である 1968 年の 5 月革命によってユートピ

アの不可能性は決定づけられた。今回、研究目的は現状と都市、

社会が資本経済の概念だけによって進んでいく状態に対しての

疑問から始まった。

 これらを踏まえた結果、今日におけるユートピアは多中心な

都市 ( セミラチス ) にかつての社会主義国家をみならい、ある

秩序と倫理をもった中心性をもたせること。それが今日の資本

主義に対してユートピアをつくることができるのではないか。

 今の世界を見ていくと社会主義国家が崩壊して以降、資本主

義経済が世界を取り巻き、欲望という見えざる手によって流れ

ていってしまっている。

  ここでは、社会主義国家を見習うとは言っているが、社会

主義自体を肯定しているわけではない。ここで言いたいのは、

資本経済のもつ欲望と言う暴走の中で「失われていくもの」が

少なからずある。それらは不必要として失われ、投げ捨てられ

ている一方、それは人間の生きていく上で必要であるものでも

ある。これらは資本主義経済が内包的にもつパラドックスであ

る。(後に大澤真幸の「資本主義のパラドックス」から、この

説明を詳しくしていく。)

 だからこそ、今の社会から不必要として失われ、投げ捨てら

れる一方、必要であるもの、つまり資本経済がもつパラドック

スを解消しなければならない。もしくはそのパラドックスを

人々に対して気づかせる必要がある。そこで、今の社会を反省

的態度、自省的態度、また資本主義社会に対する批判的精神に

描き出す「ディストピア」に注目する。そこでは絶望的な姿が

描かれている。(建築家はたびたび、その絶望的な姿をあくま

でもポップに楽しそうに描いている。)絶望的な姿を描くこと

で自省的な態度がみえることで読み手に反省が生まれること、

そこに「ディストピア」の価値がある。しかし、ディストピア

というマイナスなイメージを描くだけについて、いささか疑問

を感じる。今の社会の内包する絶望的な姿を描くことだけでは

資本主義経済のアンチテーゼとしか機能しない。つまり、資本

主義経済がもつパラドックスは永遠に解消されないのである。

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そこで、資本主義経済という動的な流れの中で不必要として失

われ、投げ捨てられるもの、これらをユートピアとして扱い本

論文は話を進める。つまり、ユートピアとは資本経済という動

的な中で極めて静的なものとであり、そのため資本経済のなか

で共存しきれないものである。ユートピアを描くことで、資本

主義のもつパラドックスが回収され、また、そのパラドックス

が明るみになるのであろう。より完全なユートピアが生まれる

ことはより資本主義がもつパラドックスが明るみになることに

なる。

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研究方法

 本論文ではスーパースタジオが描いた「コンティニュアス・

モニュメント」を研究し、「コンティニュアス・モニュメント」

から「ディストピア」を見いだし、スーパースタジオが社会に

対して、どういった意義、申し立てをしたかをみる。

 一方でコールハースの「エクソダス」の研究で社会に対する

批判的な態度もありながら、ユートピア性をもつ「ディストピ

ア」であること本論文では訴えていく。スーパースタジオが資

本主義経済のもつ絶望的な姿を描くのに対して、コールハース

は資本主義経済のもつパラドックスを解消し、それを明るみに

している。

 

 これら2つの作品研究をした結果、ディストピアを描くこと

で社会批評をおこなうことができること、また、今の現実社会

を大きい展望で論じることができることが結果としてひとつ出

てくるであろう。しかし、今の社会が資本主義経済のみの価値

観で進んできている状態は危惧すべきものであるように、ディ

ストピアという一方向の概念だけで物事を思考していくという

ことも危惧すべきものである。そこで、コールハースの「エク

ソダス」を研究することで、ディストピアとユートピアという

両義的概念がどう描かれているかを見ていくとともに、西洋的

な二元論、二項対立というものが、ユートピア性をもつ「ディ

ストピア」を描くことで西洋的な二元論から逸脱できるものと

して重要性を訴えっていく。

      

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第二章 ディストピア

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第二章 ディストピア一節 ディストピアとは?

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一節 ディストピアとは?

文献上の定義は C.A. ドクシアディスの「エントピア―ディス

トピアとユートピアの間に」のおける「ディストピア=住みに

くい場所」という単純明快なものがある程度あり、ユートピア

の対抗概念としての定義としてはいささか簡潔すぎるものと言

える。そこで若干の肉付けを以下のようにしておきたい。

1、 現状の都市や社会が持つ望ましさ、利便性が加速的に

進んでいった社会を描くこと。

2、 望ましい未来を描くことではなく、望ましくない未来

を描くこと。

3、 住みにくい場所

 

 ディストピアといものを位置付ける時に包摂している側面と

して、反省的態度、自省的態度、資本主義社会に対する批判的

精神というものも含んでいると考えられる。

 一方、ユートピアは変更すべき点がもはや無い「理想社会」

として一般に描かれており、スタティックなものと言えるだろ

う。資本主義的経済社会は決して静的なものではなく、動的で

あり続けることが前提でありユートピアが社会主義的、共産主

義的であるとされる大きな要因として考えられるだろう。ただ

し、資本主義がディストピア的だというと決してそんなことは

ない。資本主義もその成長志向の中にあるユートピア的性格を

もっており、結局のところユートピアは資本主義的性格、要素、

社会主義的性格、要素、共産主義的性格、要素それぞれ共存さ

せているとも考えられる。

 では、ユートピアの概念としてディストピアの概念を組み合

わせて、さらに話を続けてみたい。ユートピアは静的とは言え、

一種の目標物、理想像、ベンチマークであり、そこへの過程は

動的なものである。したがって、動的要素、動的側面をもたら

すものとしてのユートピアは決して、資本主義の概念と矛盾す

るものではない。

 一方、ディストピアがユートピアを過度に拡張した形、望ま

しくない未来として定義されるならば、それはユートピアに対

して極めて自省的な概念と言える。しかし、自省的だからといっ

て単にユートピアが時としてリニアーな暴走的運動性をもち得

るのに対して、反省的な対抗性を示すことによって、更により

明確であったり、具体的なユートピアをつくることにつながる

かもしれないからである。もちろん、ユートピアはあまり現実

化したものはユートピアたり得ないかもしれない。しかし、現

実の社会に照らして考える時、ユートピアとディストピアは補

い合って存在すべき概念と考えられるだろう。

 ディストピアもユートピアもフィクションと密接に結びつく

C.A. ドクシアディス 『エントピアーディストピアとユートピアの間に』 彰国社 1975 年 p,8

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ものである。つまり、もののつくり手が何らかのイメージを膨

らましていくものにある意味不可欠なものとも言えるだろう。

 建築界でいえば、ディストピアはとてもラディカルなものと

して 1960 年代から 1970 年代にかけていくつか描かれた。し

かし、それ以降はディストピアを描かれることはなくなってき

ているのが現状である。建築家が描いた作品が日本で紹介され

ることはあまりなかったが、磯崎新が 1975 年に『建築の解体』

でいくつか紹介している。

 

 その中で磯崎新はディストピアを描いた建築家たちを「ラ

ディカル・アーキテクト」として取り上げ、ディストピアを社

会批評としての作品と述べている。

 ディストピアとは文学、映画、アニメの世界がフィクション

であるのはもちろん、建築家が構想した作品もフィクションで

あり、作者が自分なりに場面設定を行ない設計するのではなく

描かれた世界である。ゆえに、それは UNBUILT な建築作品で

ある。これらは未来を描くことと等価に扱ってもいいと思うが、

未来を描くことには望ましい未来を描くことと望ましくない未

来を描くことがある。ディストピアとは望ましい未来を描くこ

とではなく、望ましくない未来を描くことと等価である。大分、

完結に述べてしまったが、ディストピアを描くこととはただ望

ましくない未来を描いて終わりなのではなく、ことさら然りと

した理由が必要であると思われる。(特に建築家が描く場合)

つまり、何をもってディストピアを描いているかだ。そこで、

必要なものは今の時代がこのまま進んでいったら、どういった

ことになるのであろうといった長いスパンでものを見る力であ

る。そして、ディストピアを描くこととは終わりのない旅であ

る。

 ドクシアディスはディストピアを住みにくい場所と簡潔に述

べている。しかも、現実にディストピアが存在しているし、現

実の都市がディストピア化しているとも述べている。

 現実の世界がディストピアに向かっていくなかで、将来の姿

(ディストピア)を描くことに価値を見出したのが、1960 年代

のラディカリズムで磯崎新の『建築の解体』で、ハンス・ホラ

イン、アーキグラム、スーパースタジオ、アーキズームやセド

リック・プライスなどがラディカリズムとして活躍した建築家

が紹介され、彼らの作品の中には現状の社会に対するいくつも

の批評が紹介されている。

 しかし、端的に批判するものではなく、ディストピアの現状

に対する批判方法はとてもシニカルなものであると思われる。

なぜなら、今の現状が進んでいった結果として都市(ディスト

ピア)—ドクシアディスがいう住みにくい場所—を描くこと

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柄谷行人 『定本柄谷行人集第2巻 隠喩としての建築』 岩波書店 2004 年 p,231~232

前掲書 p,232

でマイナスの部分を描くことで、それを見た人たちに反省して

もらうという方法論であるからである。

 故に彼らは UNBUILT なものしか計画しなかったのであろう。

彼らの都市に対する理念 BUILT なもので表現できなかった理由

は他にもある。

 現状に対する批判を行なうのであれば、ディストピアを描く

かもしくはユートピアを描くかである。ディストピアであれば、

とてもシニカルな批判方法であるのは先に述べた通りである。

ユートピアを描くということはその逆であり、批判はするその

批判方法が極めて端的であり現状の社会に対するアンチテーゼ

として理想郷である。しかし、ユートピアという理想郷は社会

主義国家の崩壊とともにただの理想を描くだけのユートピアも

崩壊していったのだ。つまり、マルクス主義の崩壊=ユートピ

アの崩壊という図式が社会で一般的になったといってもいいの

であろう。1968 年の 5 月革命によってユートピアの不可能性

を決定づけた。

 今の社会について柄谷行人は次のように述べている。

 また、貨幣経済について次のようにも述べている。

 こういった社会の動きの中で、ラディカルな建築家たちは

ディストピアを描くことだけでしか、社会を批判することしか

 私は現実の建築の問題にほとんど触れなかった。都市

のプランニングを批判した二人の人物の仕事を除いて。

それはクリストファー・アレグザンダーの「都市はツリー

ではない」とジェーン・ジェイコブズの「都市の経済学」

である。なぜ私が都市のプランニングの問題に注目した

かはいうまでもない。そこには、隠喩としての建築家の

問題が凝縮されているからである。私が言おうとしたの

は、国家が介入するデザインやプランニングによって資

本主義経済を制御することは不可能だということであっ

た。

 自己言及的な形式体系は動的である。なぜなら、そこ

にはたえまない自己差異化が存在するからだ。それは体

系を体系たらしめる決定的なメタレベルあるいは中心を

もちえない(ニーチェが「多数の主観(主体)」を想定

したように、多中心的であるともいえる)。また、そこ

では、直観主義者がいうように、排中律が成立しないか

ら、「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」が成立

するだろう。要するに、それはたえず不均衡であり、過

剰であるだろう。

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できなかったのである。なおかつ、社会と切り離された紙面上

での計画案であるからこそ、成り立つことができるのであろう。

前書きで述べたとように、現実に建築をつくること自体に自己

矛盾が生じてきてしまうのである。つくってしまうこと自体が

今の社会に上につくられ、現状に加担して本当にディストピア

つくってしまうのである。こういったジレンマに直面した建築

家がディストピアという形でしか描けなかったということもあ

るのであろう。

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第二章 ディストピア二節 ラディカルなディストピアを描く建築家たち

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      二節 ラディカルなディストピアを描く建築家たち

 以下で、いくつかの建築家たちが描いたディストピアを紹介する。

 それぞれの建築家たちは現状の建築、都市、社会に対して意義、申し立てもって紙上の計画案を世に出し

ていった。

1964  アーキグラム 「プラグイン・シティ」

  アーキグラム 「ウォーキング・シティ・イン・ニューヨーク」

1969  スーパースタジオ 「コンティニュアス・モニュメント」

  

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1969 アーキグラム 「インスタント・シティ」

1971  アーキグラム 「ウォーキング・シティ」

    アーキズーム 「ノー・ストップ・シティ」

1972 レム・コールハース 「エクソダスあるいは自発的な建築の囚人」

  

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1972 磯崎新 「コンピューター・エイディット・シティ」

      

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 この状況が生まれた理由として、その当時の社会背景から見

ることができるだろう。1960 年代後半から 1970 年代初頭に

かけて、世界的に多くの学生運動や社会批判が生まれている。

1968 年のパリ5月革命をきっかけに世界各地に広がった。こ

ういった社会状況、社会の過渡期に建築家たちはラディカルな

ディストピアを描き、当時の建築、都市、社会に対して意義、

申し立てを行なった。日本でいうと 1968 〜 69 年にかけて全

共闘が安田講堂を占拠した。これらは日本各地に広がり、各大

学で 1970 年代初頭にかけて活発に学生運動が行なわれた。こ

ういった社会状況で建築学生も触発され、卒業設計で誇大妄想

とも思える計画をして、何か社会に対して訴えるメッセージ性

の強いものを目指していた。1972 年レム・コールハースは AA

スクールの修士設計において「EXODUS あるいは自発的な建

築の囚人」でスーパースタジオによる「コンティニュアス・モ

ニュメント」の焼き直しにも思える形でラディカルなディスト

ピアを描いた。ただ、スーパースタジオよりもっとクールで内

省的な形で表現した。

 「コンティニュアス・モニュメント」は 1969 年にスーパー

スタジオによって計画されたもので、現状の建築に対して概念

建築による異議申し立てを端的な形で表現した。そこでは現状

に対して計画者が怒り、端的に批判しているのが見て取れる。

そして、表現方法も正統的に描くことで―まるで優等生が先生

に反抗するかのように―現状に対して批判している。

 同じような試みをイギリスのロンドンでアーキグラムが行

なっている。しかし、その表現方法はスーパースタジオと大き

く異なる。アーキグラムは真の批判性をポップな表現方法を利

用することでカモフラージュしている。しかし、その真意の

メッセージはポップに表現したからといって損なわれることは

ない。こうして、数多くの計画案をポップな表現を利用して完

全にメディア化することに成功し、雑誌という媒体を通して世

に出していった。スーパースタジオもアーキグラムほどポップ

な表現方法ではないが、「ドムス」誌で数多くの計画案を出し

ていった。

 このようなラディカルなディストピアについて菊池誠は「ト

ランス・アーキテクチャー」で述べる。

 

入学式会場を封鎖する全共闘系の学生たち

レム・コールハース「EXODUS あるいは自発的

な建築囚人」 1972 年

スーパースタジオ「コンティニュアス・モニュメ

ント」 1969 年

菊池誠 『トランス・アーキテクチャー』 

 INAX 出版 1996 年 p,174 60 年代ラディカリズムをテクノロジー主導の楽観主義と

みなすことには留保を付けた。それでも、都市を「プラグ・

イン」によって計画すること、あるいは「シングル・デザイン」

をひたすら延長すること、「すべては建築である」と宣言す

ることはラディカルであっても明確に論理的な手続きであ

る。東京の都市上空にかかる空中都市をデザインすること

も同じカテゴリーに属することだと言っていいだろう。が、

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 このことから、磯崎新がメタボリズムの運動の中で一人、テ

クノロジー主導の技術者ではなく、一人、批評としての都市を

描いているのがわかる。つまり、磯崎新はメタボリストとでは

なく、日本人でただ一人ラディカルなディストピアを描くラ

ディカリストなのであろう。

 こういった建築家の影響受けて、レム・コールハースは AA

スクールで建築を学ぶ。実際、コールハースは AA スクールで

アーキグラムのメンバーであるピーター・クックから建築を学

んでいる。コールハースの修士設計である「EXODUS あるい

は自発的な建築の囚人」ではスーパースタジオの「コンティニュ

アス・モニュメント」に明らかに影響受けているのが分かる。

実際、コールハース自身も「EXODUS」はスーパースタジオと

ベルリンの壁から影響受けを述べている。

 こうして、スーパースタジオと同じ表現方法を用いたが、スー

パースタジオが抽象的な表面を既存の都市景観にショック・モ

ンタージュしようとしたのとは異なり、コールハースはメトロ

ポリス的だとみなされ選ばれたアイコンがプロジェクトに埋め

込まれている。ロンドンの中心部を東西に走る二枚の「ベルリ

ンの壁」の間にメトロポリスの格下げされた理想形を挿入する

ことで、錯乱したメトロポリス、ロンドンの住人たちに脱ロン

ドンを誘い、こうして彼らを「ゾーン」の自発的な囚われ人に

しようとする計画案である。このようにこの計画案はスーパー

スタジオの洗練された反デザインと呼ぶべき彼らのスタイル、

シングル・デザインから「コンティニュアス・モニュメント」

と比べてよりクールでシニカルに批判性を内包している。

 しかし、コールハースの「EXODUS あるいは自発的な建築の

囚人」は今までの建築家が描いたディストピアとは少し異なっ

ている。これらを後に論じていくとする。以上が、ディストピ

アのおおまかな流れである。そして、第四章でスーパースタジ

磯崎新「孵化過程」 1962 年

1961 年頃のベルリンの壁

現在のベルリンの壁

「未来は廃墟である」と述べること、遺跡と未来都市のイメー

ジを二重に透かしてみるドローイングを描いて、それに「孵

化過程」というタイトルを添えることは論理的にそれほど

透明ではない。磯崎新によるこのドローイングは都市のあ

りうべき、あるいは控えめに言って、あるかもしれないイ

メージを現前化しようとするよりも、プロジェクトするこ

とのうちに潜む不可避的なパラドックスに注意を向けるた

めにだけに描かれたかに思われる。未来に向かって何かを

投企することは、またその消滅をも予測することだ。そし

てその生産と消滅の間にある無限の可能な選択肢を現在の

時点でいったん断つことでもある。このことをプロジェク

トの主題に据えることはプロジェクトという行為自体に言

及するメタ・プロジェクトを生み出すことになる。

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オの「コンティニュアス・モニュメント」とコールハースの

「EXODUS あるいは自発的な建築の囚人」の作品研究で、彼ら

の描いたディストピアと彼らの述べた文章を紹介する。

 今まで述べたディストピアに私は価値を見出す一方、ディス

トピアだけをもって思考することには疑問を感じている。それ

は 2008 年に私が見るからであるが、1968 年の 5 月革命によっ

て明らかになったユートピアの不可能性の中で、端的な批判方

法を失ってしまい、シニカルに批判することしかできなくなっ

てしまったことがわかる。また、今の建築がそのシニカルさか

ら脱することができずに、ユートピアを考えなくなってしまう

状態が正解ではない。今の資本社会に流されていく中で消えて

いくユートピア性を考えていく必要性を感じている。ラディカ

リストたちがディストピアを批評的に描いてきたが、間違いな

く世界は加速的にディストピアへと向かっている。いま、建築

界の中心いると言っても過言でもないレム・コールハースにつ

いて柄谷行人は次のように述べている。

 

柄谷行人が述べるように、「資本制経済を制御するいかなる

企てにも希望をもつことはできない。その結果、彼は資本主義

的経済を加速的に発展させてそれが内部から崩壊するに至るよ

うにする、という考えをもったように思われる。」という文面

柄谷行人 『定本柄谷行人集第2巻 隠喩としての建築』 p,237~238

レ ム・ コ ー ル ハ ー ス(Rem Koolhaas、1944 年11 月 17 日 - )は、オランダのロッテルダム生まれの建築家、都市計画家。ジャーナリストおよび脚本家としての活動の後、ロンドンにある英国建築協会付属建築専門大学(通称 AA スクール)で学び建築家となった。彼は自分の建築設計事務所 OMA(Office for Metropolitan Architecture)とその研究機関である AMO の所長である。またハーバード大学大学院デザイン学部における “ 建築実践と都市デザイン ” の教授でもある。

 コールハースはメトロポリスを重視した建築家として知

られている。メトロポリスとは、都市のプランニングなど呑

み込んでしまうような巨大な錯綜した都市を意味する。コー

ルハースがメトロポリスに見たのは、それ自身をたえずディ

コンストラクションする、制御しがたい資本主義経済の性

格だったといってもよい。ヨーロッパの伝統的な都市に由

来する美学的基準からみれば、これらのメトロポリスは混

沌としておぞましい。しかし、コールハースは、それらを

そのような古いヨーロッパ的美学を根本的にディコンスト

ラクションするものとして称賛したのである。彼は、どん

なにおぞましいものであれ、資本主義経済が生み出すもの

を受け入れることを提案したわけである。

 このようにコールハースは資本主義経済のグローバリ

ゼーションを肯定する。しかし、それは必ずしも、彼が現

実に資本主義を肯定しているからではない。むしろ、彼は

資本主義には反対なのである。とはいえ、資本制経済を制

御するいかなる企てにも希望をもつことはできない。その

結果、彼は資本主義的経済を加速的に発展させてそれが内

部から崩壊するに至るようにする、という考えをもったよ

うに思われる。

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から明らかにディストピアへ向かっていることはわかる。その

ことについて、確かに納得できるが、果たして希望というユー

トピアはコールハースのなかにないのか。

 本論文ではラディカルな建築家たちの後に、コールハースが

「エクソダス」においてディストピアだけでなく、ユートピア

についても考えているのではないかという推測のもと、進めて

いく。

      

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第三章 ユートピア

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 第二部でディストピアについて論じてきたが、ディストピア

がシニカルな批判性を持つのに対して、ユートピアはわかり易

い批判性をもつ。結果から述べると、私はユートピアの重要性

を訴える。また、トーマス・モアのユートピアや他にもいくつ

かのユートピアを描かれた作品が多くある。しかし、多くの作

品で描かれているユートピアは定義しがたいほど、異なってい

る。

 そうした前提をもとに、本論文を語る上で自分の中でユート

ピアというものを仮に定義しておきたい。

 また、ユートピアについては第二章でディストピアとともに

おおまかに論じているが、ここでさらに肉付けする。

ユートピアの定義

 変更すべきところがもはやない理想社会が完成したので、歴

史は止まってしまっている(ユートピアは、ユークロニア(時

間のない国)でもある)。

 このような定義をすることで、ユートピアとその反対語であ

るディストピア(反ユートピア)の関係をうまく語ることがで

きると思われる。

 第二部で述べたディストピアの定義

 現状の都市や社会が持つ望ましさ、利便性が加速的に進んで

いった社会を描くこと。

 この定義で加速的に進んでいった社会を描くということはつ

まり、何かものが更新されていく世界を描くことである。ユー

トピアは逆に、理想社会であるが故に歴史が止まってしまって

いる世界。結末としての世界である。つまり、保存された世界

といってもよいだろう。

 こういった定義をして、いくつかの作品を見ていく。村上春

樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を例に

挙げる。

 作品は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」

の章に分かれており、世界を異にする一人称視点(「僕」と 「私」)

からの叙述が、章ごとに交互に入れ替わりながら、パラレルに

進行する。

村上春樹 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 新潮社 1985 年

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世界の終り

 「世界の終り」は、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街、「世

界の終り」に入ることとなった「僕」が「街」の持つ謎と「街」

が生まれた理由を捜し求める物語。外界から隔絶され、「心」

を持たないが故に安らかな日々を送る「街」の人々の中で、「影」

を引き剥がされるとともに記憶のほとんどを失った「僕」は葛

藤する。「僕」は図書館の夢読みとして働きつつ、影の依頼で

街の地図を作り、図書館の女の子や発電所の管理人などと話を

し、街の謎に迫っていく。管理人からもらった手風琴によって

忘却していた「唄」を取り戻した僕は、街が自らの心の生み出

したものであることを悟る。地図からみつけた脱出路を通って

ともに「本来の世界」へ戻ろうと誘う影に対し、自ら生み出し

た街の人々に対する責任を引き受け、女の子とふたりで森に住

むことを決意した「僕」は、別れを告げ、「世界の終り」にひ

とり残る。

ハードボイルド・ワンダーランド

 「ハードボイルド・ワンダーランド」は、近未来と思われる

世界で暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自

らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。半官

半民の「計算士」の組織「システム」とそれに敵対する「記号士」

組織「ファクトリー」は、暗号の作成と解読の技術を交互に塀

立て競争の様に争っている。「計算士」である「私」は、暗号

処理の中でも最高度の「シャフリング」を使いこなせる存在で

あるが、その「シャフリング」システムを用いた仕事の依頼を

ある老博士から受けたことによって、状況は一変する。

 この二つの世界で物語が構成され、本論文ではこの二つの世

界を次のように置き換えることにする。

「世界の終り」・・・・・ユートピア

「ハードボイルド・ワンダーランド」・・・・・ディストピア

 大澤真幸は「資本主義のパラドックス」の中で村上春樹の「世

界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」とディズニーラ

ンドを比較しながら、「世界の終り」の内閉性について述べて

いる。

 「世界の終り」に入るときに主人公は「影」を切り落

とさなくてはならない、という設定は、ディズニーラン

ドへの入場の仕方に似ている、といってもよいかもしれ

ない。影は、主人公は過去の体積物ともいうべき「自我」

の象徴である。ところで、ディズニーランドの内側への

一角獣の頭骨。 1917 年のロシア戦線中、ウクライナのヴルタフィル台地において一角獣の頭骨が発見された。 しかし、その後紛失した。 この頭骨はそれとは別に博士にプレゼントされた一角獣の頭骨のレプリカ。 博士が、「私」の意識の核を映像化した際、そこに登場したものを真似て作ったもの。と博士は言うが、真偽は不明。

大澤真幸 『資本主義のパラドックス 楕円幻想』ちくま学芸文庫 2008 年 p,293

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 大澤真幸の述べる通り「世界の終り」には「外的な現実を削

ぎ落としてしまう儀式のようなもの」がある。そこにユートピ

ア性があるように思われる。先にも述べたようにユートピアと

は結末としての世界である。つまり、保存された世界である。

とするならば、結末としての世界、保存された世界において、

外的な現実というものはあってはならないものである。なぜな

ら、外の世界(ここで言うと資本主義経済)の現実が入る込む

ことは、「保存された世界—ユートピア」が完全ではなくなり、

世界が更新されていってしまう。そうなってしまうと、ユート

ピアの定義は完全に満たされることはない。

 ユートピアがユートピアであるためには外的な現実と断絶さ

れていなくてはならないのである。

 また、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に

ユートピアを思わせる部分がいくつも登場する。「世界の終り」

には一角獣が住み着いている。また、一角獣は現実世界では滅

びたとされるものであるが、「世界の終り」ではまだなお、一

角獣は滅びず生き続けている。やはり、「世界の終り」は現実

世界が更新されていく中で価値が見いだされず、消えていった

もの、消えていっているもの、もしくは消えていくだろう、も

のが外的な現実と断絶することで保存された世界、ユートピア

なのである。

 「世界の終り」では、どう完璧な「保存された世界—ユート

ピア」が出来上がっているのか?また、そこでは一角獣の他に

何が保存されているのか?

 「世界の終り」では、影を切り取りとるという「自我」とい

う外的な現実を削ぎ落とす他に、この世界は高い壁に囲まれる

ことで無菌化されている。このことにも、大澤真幸はディズニー

ランドの無菌化を例に出して、述べている。

 そして、「世界の終り」では一角獣のほかにも墓、森(自然)

というものが存在している。そこにあるものは共通して現実世

界ではヘテロトピーと呼ばれるものである。

 ヘテロトピアとは、M. フーコーの定義で

ユートピアというのは理想郷で実際には無い場所で、手に取る

ことも目で見ることもできない。

 しかし、日常生活の中でユートピアにどこかで接続し得るよ

うな感覚をもつ場所である。つまり、日常生活に連続していな

がら日常を忘れさせてしまう、全く別の世界に運び去ってしま

過程も、一種の切り離しと見なすことができるのであっ

た。つまり、この過程は、入場する各身体から外的な現

実を削ぎ落としてしまう儀式のようなものだったのであ

る。

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うような想像の場というような意味である。

  フーコーは、そんな想像の場所でありながら現実に存在す

る場所、「日常の中にあるユートピア」をヘテロトピアと呼んだ。

 具体的には、植民地やアミューズメントパーク、ジャングル、

墓地、監獄、精神病院などがあがる。

五十嵐太郎は建築文化 No,592 の中でヘテロトピーについて次

のように述べている。

 

 これらの文献から、ユートピーは現実に場所をもたないもの

としても、ユートピーと同様にヘテロトピーも今の資本経済の

なかで、なかなか価値を見いだしにくいものである。このよう

に、今の社会で価値がないものとして見なされたものを保存す

る方法のひとつとしてヘテロトピアが存在すると思われる。つ

まり、伝統や自然、その他多くのものが今の資本経済のなかで、

いかに価値体系を維持できないかを暗に意味しているといって

もよい。

 では、なぜ今の資本経済のなかで価値体系を維持できないも

のが存在しているのであろうか?

 資本経済が目先だけの金によって、動いているからといった

問題ではない。そこにはきちんとした理由がある。

 大澤真幸の「資本主義のパラドックス」では環境倫理につい

て触れ、資本経済のもとで自然との共生について述べるにあ

たって先ず、大澤真幸は人間/自然の区別という章で、次のよ

うに述べている。

 フーコーは「他の空間」(1967 年)で現実に場所をもた

ないユートピーに対して、監獄、精神病院、墓地という他

者の場、そして世界の断片であると同時に世界全体の庭園

や、異なる空間を併置するような動物園などをエテロトピー

として挙げている。これらのビルディングタイプを都市と

の関わりから建築史的に研究したもののひとつ、18世紀

の衛生観の変化から墓地が都市の周辺に追いやられたなど

を指摘する、R. エトリンの「死の建築」(1984 年)などはそ

の各論として読めるだろう。ところで都市社会学の H. ルー

フェーヴルは、「空間と政治」(1972 年)の中でやはりエテ

ロトピーという語を使用し、都市空間をイゾトピー(同質

的空間)/エテロトピー/ユートピーという三つの場に分

類している。フーコーの場合、ユートピーへの対抗概念と

してエテロトピーを提出しているわけだが、それほど厳格

な意味に限定しなければ、これ以降、異質な要素が混在す

る場所、すなわちエテロトピーのイメージは、新たな都市

のモデルとして数多くのテクストに余波をあたえた。

『建築文化 No,592』 彰国社 1996 年 p,50

ここではヘテロトピーをエテロトピーと五十嵐太郎は呼んでいる。

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 このように大澤真幸は「人間」という領域の拡大について述

べ、その後、「人間」とそれ以外の存在者と区別する境界線が、

あいまいなものとなり、(例えに脳死の問題や胎児がいつ「人

間」としての権利を得るかをだしている。)ある段階に達した

とき、都市において空間内に突如として自然環境が露出したと

しても、もはやなんの不思議ではないと述べている。その理由

として、「人間と自然という区別が無効になったような都市で

あり、そして、私たちは都市の人間的(人工的)な空間から、

自然環境へと連続的に移行することができるのである。」*1 と

述べているが、その後に次のように示している。

 黒人は、欧米起源の法規範の水準で、最初は「人間」

の中に入っていなかった。しかし、今日では、黒人も「人

間」の内に入るべきだと、ほとんどの社会で考えられて

いる。その他、女性、子供、囚人、外国人などが、何ら

かの意味での権利を与えられたり、拡大されたりしてお

り、「人間」の領域に、あとから参入したのである。

 この法規範の変化を、われわれは、人間の道徳的進化

の賜物のように考えたくなる。しかし、それは、資本主

義の運動が必然的に強いる人間の拡張を、ただ、法規範

の中に移し取った結果にすぎない。近代社会に棲まう

人々が、段々立派になったから「人間」の項目を増やし

たのではなく、資本主義の運動を肯定する以上は、徐々

にその領域を拡張させながら「人間」を再定義していく

ほかにどうしようもなかったのである。もちろん、「人間」

の定義と、資本主義との繋がりが、気づかれないままに。

大澤真幸 『資本主義のパラドックス 楕円幻想』  p,336

*1 前掲書 p,338

前掲書 p,338~340 環境倫理

 資本主義の本態が、以上のような運動の内にあるのだ

とすれば、資本主義的な社会の未来を嚮導する規範は、

不可避的にエコロジカルなものになろう。すなわち、人

間の存続と自然の存続とを同等の重みにおいて評価する

ような規範、簡単にいってしまえば人間と自然との共生

を至上の命令とするような規範が、資本主義の未来に要

請されているはずだ。実際、今日高度な資本主義社会で

見られるような変化は、このような予想を、支持してい

るように見える。繰り返し述べておけば、このような規

範が、われわれの道徳的な進化によって現実化しようと

しているのではない。ただ、資本主義の展開が、それを

強いるだけである。

 しかし、環境倫理は破綻した倫理、反規範としてしか

実現しない。

 近代社会の原理の延長上に、環境倫理をいかなる妥当

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 このように今の法規範では、河の汚染が誰にも被害が及ばな

ければ、自然物の権利が失効されることはないのである。言葉

の持たない、ときには生物ですらない自然物に権利を持たせる、

などといったことが可能であるのか。ストーンはこういった障

害に対して、「われわれはすでに、生物ではない存在者に―純

粋に虚構でしかありえない存在者—、たとえば法人にも権利

も許さず、最も理想的な形態で実現したとすればどうな

るだろうか。それは、権利概念を究極に拡張させた法規

範を帰結するような、倫理であるだろうか。すなわち、

その倫理は、自然に、—それが動物であろうと、植物

であろうと、そして鉱物や地形のような無生物であろう

と―、権利を認めるものでなくてはなるまい。

 犬も樹木も、そして河も、身の回りのあらゆる対象が

権利を主張できるような規範—これはとてつもなく無

謀なアイディアであるように見える。しかし、今日、環

境問題を憂慮する幾人かの倫理学者や法哲学者は、実際、

このような方向で、新たな規範を樹立すべきだと提唱し

ているのである。たしかに、近代社会の内部では、この

ような規範のみが、真に整合的な環境倫理でありうる。

 クリストファー・ストーンは、権利を保持するという

ことが何を意味するのかをあらためて反省することから

考察を開始する。権利をもつとは、—ストーンによれ

ばー、公的な権威のある機関が、その「権利」に矛盾す

る諸行為に対して、ある量の審査をする用意がある、と

いうこととは別に、さらに次の三つの条件が、その事物

に関して満たされていなくてはならない。第一に、その

事物が自ら自身の要請において法的行為を設定しうるこ

と、第二に、法的な補償を決定する際に、法廷がその事

物にとっての直接の利益につながらなくてはならないと

いうこと(Stone [1972:458])。

 現代の法規範のもとでは、かりに自然環境の保全に対

して好意的な処置が取られる場合でさえも、自然物は、

以上の三つのどの基準からも、権利をもっているかは判

定することはできない。たとえば、ある企業の工場によっ

て河が汚染した場合を考えてみよう。河自身は、この公

害に対抗するいかなる手段もない。公害を告発するため

には、企業のとった行為が、河ではなく、他の誰か別の

人間—たとえば下流の人間—の権利を侵害しているこ

とを示さなくてはならない。〜だから、今日の法規範の

下では、人間の権利を経由することなしに、自然環境を

維持したり回復したりするためのいかなる行為も正当化

されない(Stone [1972:459-63])。

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与えているのだから。」*2 と述べている。

 ここから、大澤真幸はストーンの自然物に関する権利の執行

についての有効性を述べていくが、その後に他者との共存する

際に、すべての事柄に権利を与えるということで決定的な不可

能性について述べる。(ストーン自身も「存在論的問題」につ

いて、自然物の「負債」の処理との関係で、示唆している。)

 環境倫理の問題は資本主義の運動が進んでいく中での終極的

な形態であろう。そして、この運動の中で今の社会と自然、も

しくはすべての事柄が共存していくことの決定的な不可能性が

ある。つまり、伝統や自然、その他多くのものが今の資本経済

のなかで、いかに価値体系を維持できないかという証明がなさ

れてしまう。最初に述べたユートピーを維持する方法を探さな

ければならない。では、資本経済という加速的に更新されてい

く世界と「保存された世界—ユートピア」の共存の可能性を

探っていく必要がある。その答えを作品研究を通して考えてい

く。

前掲書 p,342

前掲書 p,350~351 洪水で多くの被害がでたとする。このとき、われわれ

は、堤防を建築したり、設計したりした者にだけでなく、

河にも、その洪水の責任を問うことができるだろうか。

そう河が権利を保持しているような世界では、できるか

もしれない。しかし、河に帰責するならば、当然に雨=

水あるいは大気のほうにも、責任を追及しなくてはなら

ない。さらには、太陽にも責任を分担してもらわなくて

は困る。こうして、因果的な連鎖を遡ればれるすべての

事物の上に責任は拡散されるだろう。

 すべてが責任の主体となるとき、責任という概念が無

効になってしまう。これと同じように、権利をすべての

事物に授与しようとする博愛は、権利という概念を無意

味なものに変えてしまうだろう。

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第四部 作品研究

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第四章 作品研究一節 コンティニュアス・モニュメント/スーパースタジオ

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一項 本文

一項 本文では、スーパースタジオの「コンティニュアス・モニュメント」のテキストを紹介する。

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一節 本文

スーパースタジオ 「コンティニュアス・モニュメント」

われわれは、建築とは地球に宇宙的な秩序を形成し、わけても

理性に従って行動する人間の能力を確認するための数少ない手

段の1つであると信じている。そして、建築が将来、人間にド

ルメンやメンヒル、そしてピラミッドを樹立させ、四角や円型

や星形の都市を地上に描かせ、最終的には砂漠に白線を引かせ

るといった動機を、明確にすることのできるシングル・デザイ

ンに基づいた唯一の行為によって、創造されると信じている。

これはいたって穏健な理想郷(ユートピア)である。われわれ

は建築が再発見され、全面的にその力を回復して、建築のもつ

あらゆるあいまい性を放棄し、自然に代わることのできる唯一

のものとして君臨するような未来を信じている。われわれは「構

成的自然(自律的自然)」と「非構成的自然(神の摂理による

自然)」という2つの言葉の後者を選ぶ。

自然発生的と呼ばれる蜃気楼のような、あるいは鬼火のような

建物、気のきいた家屋、建築家不在の建物、生物学的、幻想的

建築を排除し、われわれはコンティニュアス・モニュメントへ

向かって歩もう。それはただひとつの連続的環境から生まれた

建築の一形態であり、テクノロジーや文化、さらに帝国主義に

よってつくられたすべての不可避的なものによって画一化する

世界である。

われわれは隕石、ドルメン、オベリスク、宇宙の軸、天地の関

係を再生する重要な元素、数多くの結婚式の立会人、法律が記

された古代ローマの板、さまざまなドラマのエピローグ、カバー

神殿から垂直式組立構築物に至るまでの連綿とした歴史の延長

線上に生きている。

地球上におかれた四角い石の塊、それは原始的な行為であろう。

しかしそれは建築が技術と神性と実利主義の関係の中心にある

ことを示しており、また人間と機械と合理的な構造物と歴史と

を意味しているのである。

その四角い石材は、建築の思想の歴史における最初にして最後

の行為である。

建築は、それ自身のために、また理性の用途のためにどこへで

も導きうる、1つの閉じた、固定したオブジェとなるであろう。

 以上がスーパースタジオが描いた「コンティニュアス・モニュ

メント」の本文である。

スーパースタジオ+森山エディターズスタジオ 『JAPAN INTERIOR DESIGN /インテリア 別冊 スーパースタジオ&ラディカルス』 インテリア出版株式会社 1982 年 p,136

前掲書 p,137

自然シリーズ 渓谷 Canyon

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(前掲

書 

p,13

8)

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 以下はスーパースタジオが「コンティニュアス・モニュメント」が発想される時のス

ケッチである。これらは発想されると同時にひとつの物語になっている。      

映画のためのスケッチ・ボード〈コンティニュアス・モニュメント〉の発想

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1ケプラーは惑星軌道間に基本的な実体を刻印しようと試みた。われわれは宇宙的秩序と構造的秩序を信じ、後者が前者からの派生物であることを信じている。建築とは地上に秩序を回復し、すべてのものの中にそれを顕在化させる手段である。

2ヴィトルヴィウスとレオナルドは円の中に人間を描いた。インド人はマンダラの中に根源的なカオスを設定した。秩序づけられた宇宙のただひとつの活動する現実となる。

3ホラチウスのゴールデン・ミーン(中庸)、すばらしいプロポーション・オーダー(比率基準)、シンメトリー―これらは世界のヴィジョンであると同時に物の性質といかなるコミュニケーションにも必要な調停者でもある。ユークリッド幾何学、構造的要素、マジックサイン(魔法の表象)、マンダラなどは基本的フォルムである。

4マンダラはちょうど死者の旅路を導く絵入り地図のように、東洋では瞑想のための基準として使われている。それは多様な要素を完全な意味のある全体の内に結合する企てである。

5世界を明確に把握しようという欲望は人間をして彼ら自身の顔に、また寺院の前面および都市建設予定地などに碁盤目の表象をしるさせた。

6人間および幾何学に同時にあてはめられる測定方法が創りだされた。(たとえばル・コルビュジェのモデュール基本単位)

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7人間は宇宙の中心ではない。ただ宇宙、地球、理性などの関係づける無限の多角形の角のひとつにすぎない。占星術はあらゆる人間の活動を星に関係づけようとし、物理科学は常に全体と部分の関係をわれわれに示してきた。

8そして自由で無軌道的に思われるものが実はもっと複雑な高次元の法則下に置かれていることを識る。自由とはより優れた秩序の1法則に過ぎない。

9われわれは過去の歴史のどの時代においても人間の存在のあかし、情報や記念碑の証拠ともいうべきこのような基本的フォルムを発見する。孤立していようが、連なっていようが、これらのフォルムは創造者の世界に対するヴィジョンを反映している。ドルメン、メンヒル、スートンヘンジのように・・・・・

10エジプトのピラミッド、マヤやバビロニアのジグラットなどは死に対する

(肉体的または記憶の死)記念碑である。あらゆる人類は永遠の生を求めて建築物を建てた。石を立て山を崩し、または子供を生むだけでも彼らは死の恐怖から逃れることができた。

11人類は常に、彼ら自身を照らしだすことのできる階級をつくることや魔法の場所や記念碑を必要とした。そのたびに彼らは記念碑に対する本来の必要性を他の属性によって粉飾してきた。理性と無意識との間にギャップを埋めるための手段を意識する。カバー神殿から・・・・・

12ケープ・ケネディの垂直式組立構造物に至るまで、それは天から落ちた黒い石・隕石と地上に立てられた最初の石などを意味する長い物語りであった。付属的意味は変るかもしれないが、その本質的なものは不変であろう。

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13人類の記号が、地上に立てられた巨大な幾何学的構造物や石の塊や鉄などでない場所、それは長い線の形をとる。何回もくり返される一連の要素—数をかぞえ、寸法を計り、標識を施そうとする人間の同じ欲望を表現ともいうべきコンティニュアス・モニュメント。たとえば橋のような・・・・・

14万里の長城・・・・・

15それからのローマの水道・・・・・違った用途・目的・理由をもった、実用的でシンボリカルなコンティニュアス・モニュメント。地球そのものを理解するためにそこに常に横たわる長い記念碑・・・・・

16われわれが高速道路やダム、そして他の巨大な近代テクノロジーの産物を手に入れるまでの連綿たる歴史の流れ・・・・・特に自然の中の長い無感動なりボンともいうべき高速道路は新しい次元をもった記念碑ともいうべきものである。

17創世記—はじめに、神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく・・・・・ヨハネ黙示録—都は方形で、神がその測りざおで都を測るとその長さと幅は同じである。すべての歴史は形なきものと形あるものとの間に横たわる。

18カオスと建築の間に・・・・・記念碑的建築において、われわれは様式化のもっとも高度なフォルムを発見する。われわれの歴史は砂漠と山々の、なかでも前者の歴史である。砂であり塩である、とりわけ自然であり人工的な、公共的であり私的な、外面的で内面的な砂漠の歴史・・・・・

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19雲が降りきたり、泡やゼラチン状の植物やとけたアイスクリームが生まれる砂漠、原始的なカオスの香りのする砂漠・・・・・

20そこから待望の幾何学が出現する。

(これはウォルト・ディズニーの “ 建築の国にて ” の始まりともいえる。)

21かくして幾何学が生れ、われわれの砂漠と隕石の物語りの最初の役者が、舞台に姿を現す。

22地上に置かれたひとつの四角い石はテクノロジーと神秘さと実用主義との関係の中心としての最初の建築を意味する。それはまた人間と機械、理性的構造物と歴史を意味する。その石は建築における思想の歴史の最初で最後の行為である。建築は閉ざされた不動のオブジェであり、自己回帰的である・・・・・

 

23理性の使い方を人間に教える・・・・・かすかな光を放つ不可知の物体。この石は砂漠の中の光そのものである。そのものから、明かりや夜明けや虹が生まれる。

24突然、その立方体は浮遊し、遠近的空間から体積的空間へと移行する。

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25それからこのブロックは、はっきりした立方体の形をとり始め、各面は同じ大きさである。しかしすべての角が直角と限らず、そのためひもでくくられ、その物体を強引にあるべき姿である立方体に閉じこめる。

26しかしそのひもが解き放たれると同時に、それは綿密な法則によって分解し始める。そのたびにその生産の法則の秘密を明かしながら。

 27それは、より小さい立方体へと進展する。

28各部分は秩序づけられた種族のメッセージととも飛散するが秩序の法則に従って混乱することはない。

29建築博物館における自動車旅行。描かれた建築物の間を実際の自動車が走る。ある種のまっすぐな高速道路。論理の国への旅の種々の階段を示す象徴的な物体。

30記念碑的建築から彫刻的・技術的建築を通して論理の建築へ。

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31(旅行の間じゅう、記念碑・生産社会における建物、色々な機械、彫像がさっ

と過ぎさってしまった。)

 32“ 純粋論理 ” の寺院への輝かしい到着。

33いかに砂漠に施設を与えるか。多少現実的な砂と椰子の木。それから実際のラクダ、突然それらが複数のラクダになり、次の瞬間 “ ソップウィズ・カメル ” のポスターのように飛び去る。棺桶の一種が砂の中から現れる。

34太陽は輝きを増す。不思議な物体、啓示の箱、囚われの議論の容器が、風が砂を吹き飛ばすにつれ、その全容をあらわす。

35ぼんやりとした黒い形が立ちあがる。砂嵐はやみ、光り輝く鋭い角—水晶と鋼鉄のようなプリズム金色に輝く水晶。論理の宝石や夢の水晶。

36光り輝くプリズムは、根から手に入れた木や茶色の鏡やクロームの家具の貴重な装飾品となる。しかし、それらは他のどんなものにもなることができる。たとえば建築物、物体、夜の悪魔をしずめる護符など・・・・・太陽は明るく勝ちほこった地表にさんさんと降りそそぐ。

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37いかにも砂漠を照らすか。ふたたび地平線からみた砂漠。2つの大きな黒い立体が、その間にある虹のような3本の輝くチューブによってつながれている(もうひとつのラブ・ストーリー?)。心を照らし出すランプ、公共的で個人的なすべての砂漠に、砂または塩の砂漠に、人工的なまたはあなた自身の中の砂漠に設置すべきランプ。太陽が沈み、暗闇が訪れる。

383本のチューブが(ネオンライトがウォーミングアップするように)かすかに光り出す。

39輝くランプの中に夢の建築のイメージが現れる。幸せな家庭、週末のための緑の庭、週末のためのメゾン、レジャータイムのイメージなど。

40建築による幸福のイメージ。

41光はその輝きを増す。われわれはその光の中に古代のモニュメントをみる。科学とテクノロジーの神話を、水晶宮をみる。最初のユートピアであるファランステリー、ニュー・ハーモニー、フィラデルフィアなどの都市をみる。

42光が焼く町。それから合理主義の英雄的建造物—ルース、ヴァイゼンホフ、コルビジェ、バウハウス、・・・・・建築的幻想とユートピアのカタログ。ユートピア Utopia の語源はギリシャ語 “Utopia” すなわち “ 良い場所 ” または “Eutopia すなわち無い場所 ” のどちらかを意味する。後者の場合は想像上の場所にすぎないが、とにかくそこからのニュースはリアルなニュースである。

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43“ イデーと幻想とプロジェクトの世界は現実と同じようにリアルである。ユートピアは北極と南極のようなものである。・・・・・。われわれは容易にその主要なポイント―ユートピアに近づくこともできず、住むこともできないだろうが、それはわれわれの運動方向を指示する重要な磁石の針の役目を果たす。”(L・マムフォード)

 

44この3本のチューブは凱旋門となり、その下を遊牧民のキャラバン、会社のピクニックにでかけるホワイトカラー族、学校の児童たち、幸せそうな家族などの平和の行列が通り過ぎる。

45“ われわれは、われわれが愛したすべてのものを失った。いまやわれわれは砂漠の中にとり残されている。われわれの前には、白い地上に黒くて四角い物体があるだけだ。”(K・マーレヴィッチ 1915 年)

46その黒くて四角の物体はドアになり、自由な砂漠と囲まれた空間との間に形而上学の出発の役目を果たす。

47外部と内部を分かつこの中間的な短形は暗くされるかまたは照らされており、われわれを分けている2つの世界の何かを示しているが、それは今のところ神秘的な存在であるだけだ。

48われわれが住んでいるのはこの境界、すなわちドアの入口なのであり、われわれは時には水晶体の中に住むべきであると考えたり、またある時には砂漠の中で孤立した生活をする必要が痛感したりする。

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49地上で立てられたはっきりした輪郭と U 形をした廊下。

50外部からわれわれは視線をその形にそそぎ、そのなめらかで輝く表面を確かめる。そして、われわれはそれが内部を持っているが、どんなものであるかさだかでないことを知る。

51

52すると突然、3台のジェット機が飛びだす。その廊下はあらゆる用途に供せられるが、飛行機が内部や直角の周辺を飛び交うことなどは想像を絶する。(しかも、ただ破壊を目的とするジェット機を考えることはなおさらむずかしい。)

53突端に虹がかかる平らな壁・・・・・。

54その前を通り過ぎるわれわれはたえず新しい部分—終りもなく驚きもない建築や、外傷もなく、時間的にも空間的にも不動の座を占める建築などにでくわす。

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55本当の問題から目をそらさせず、その消費には特別のエネルギーを要求しないように落ちついた建物。

56理性の消費を防ぐ建物。そしてわれわれは、それぞれの建物の末端に虹をみる。

 57巨大な黒い石が砂漠に横たわっている。それはダークミラーのように、そしてまた、あたかもその前を都市が(われわれが、あなたがたが)過ぎ去るように、人間・物・流れる雲・自動車・列車・砂漠・舗装道路・カーテンウォール・ネオンサインなどのイメージを映す。その巨大な黒い石は静止したイメージで、われわれはその前を猛烈なスピードで走り過ぎる。

 58それから鏡は動きだす。それはもはや動き、映すイメージではなく、空中に舞い上がるひとつの鏡である。

59それはある高さに達すると地上に平行して進みだす。それは短形の空の一片となる。空のブラックミラーはその中にわれわれを新しい角度から投影する。おそらくそれはゆがんだ反映かも知れないが、他のありきたりのゆがみとは違う。

60動く都市はゆがんだイメージである。それは怪物の、不条理の、恐怖のショーであり、休憩なしのパーナムサーカスの曲芸である。空中のブラックミラーは直線で、直角で、残酷なまでに知的である。

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61場所、廊下。2つの暗い壁のビスタ。多くの人がその間を通る。まっすぐに見通しのきいたこの道を歩く。(ニューヨーク)

62出口に近づくと同時に、ストーン・ミラーが見えてくる。

 63そのストーン・ミラーは平行な両側の壁の上に舞いおり、天井となる。

64長い間このトンネルの中を歩いていくと、やがて明るくなる。その光の中に地平線にそった白線のような高架線が見える。光は新鮮でまるで春のようになごやかである。

65進歩にともない、地球の貧困化という宿命にぶつかる。そこで人類だけのための住空間というさしせまった要求に直面する。

66・・・・・われわれはすべて余った土地を解放してたったひとつの建物を最良の場所に建てる。住宅と人間生活の集中化によって地球の生態は、大地のより合理的な開発のために静かに保存されるであろう。

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67しかし機能的な考慮は別として、このトータル・アーバニゼーションの建築的アプローチは、一般の建築技術の理論的な発展と考えられるかもしれない。それらは人類の歴史始まって以来の論理的結論のように思える。ストーンヘンジ(有史前の巨大な石柱群)で始まり、万里の長城、カバー神殿、垂直式組立構築物、モーターウェーに至る建築の歴史は、今やコンティニュアス・モニュメントとともに終わりを告げようとしている。

68地球全体にわたってあるいはその一部に、適合させることのできる単一の建物、他の惑星からきた訪問者にも文明の産物として直ちに認められるような建物・・・・・

69コンティニュアス・モニュメントとは、変更することなくある空間を他の空間に移しかえることのできるシングル・デザインのイデーから生まれたデザインから都市計画にいたる一貫したプロジェクトの終着点といえる。

70この不変性はわれわれの関心を呼びおこす。われわれは完全なる静止がみずからかもしだす愛によって世界を支配するような無感動で不変なイメージを捜し求める。一連の精神的作業を通して、われわれは現実を把握することができ、悟りをひらくことができる。恐怖と悩みから解放された唯一の状態・・・・・かくして建築は世界を理解し、自分自身を認識する手段となる。

71一連の精神的作業を通して、われわれは現実を把握することができ、悟りをひらくことができる。恐怖と悩みから解放された唯一の状態・・・・・かくして建築は世界を理解し、自分自身を認識する手段となる。

72われわれは、「・・・・・からの愛」をもって終わる手段のあらゆるイメージがそうであるように、とつとつとしかも不安げにこの謎めいたコンティニュアス・モニュメントのイメージについて思いつくまま語ろう。

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73自然建築は、自然に偽せたり適合させたりするものではなく、唯一の代替物として自然に立ち向かっている。われわれは建築のよって砂漠を超えることもできるのである・・・・・。

74渓谷に屋根を・・・・・

75アルプスの湖水を結び

76新たな地平線を造り、丘や河を幾何学化する・・・・・大地を、平原を、山を、そして海を・・・・・いつでも環境をそのままに組織化できる理性的な作業の一例として。

77古代のモニュメントカバー神殿の代替物として。巨大な黒大理石のブロック(どの穴に聖なる石が容られているのか、いやあるかないかさえ誰一人として知らない。きわめてくだらないことだが、これは信仰のための穴なのである)

78コンティニュアス・モニュメントの典型である、エレクタイオン神殿の婦人像のついた飾りのポーチ。

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79ガラスの温室で保護されたタージ・マハール

80住居にしたマドリッドの古典庭園・・・・・そしてピッチ・パレスの増築、コロセウムの高度拡張、これらはみな一見したところ不条理な作業である。そして首尾一貫した偉大な行為のデモンストレーションであり、歴史の枠内で行うただ一度のチャンスを生かしたデモンストレーションである。

81都市英国の炭住街、コンティニュアス・モニュメントとは対象的な要素にみえる。しかし住みにくい都市に生活していこうと思うことがより理想的であると実感するために、わざわざ炭住街にいく必要はない。

82オーストリアのグラーツ。コンティニュアス・モニュメントがシュロスパークの町とムール河をまたぎ、2つの広い緑の空間を結んでいる。

83モーターウェーは、コンティニュアス・モニュメントを想像するのに最も簡単な方法である。

84イタリアのフィレンツェ。丘のふもとの、住人たちのために静寂なコンティニュアス・モニュメント。いったん非個性的な家並や道路が排除されれば、この古い都市は墓や木や花の中に埋もれ完全にとり残されるだろう。そして上下、方形、円、多角形、ピラミッド型、半円球、プリズムなどに関する1つの新しい考え方や指示の発想の根拠となり、さらにあらゆるものシンボルとして作用するであろう。

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85アメリカにニューヨーク。一例としての都市。モデルとしてのマンハッタン。最初の計画では、ハドソン河と半島の先端とを横ぎり、ブルックリンとニュージャージーを結ぶスーパーストラクチャアであった。

86中央、マンハッタンの摩天楼はのこし、古代のモニュメントとして保存される。

872番目にスーパーストラクチャアは最初のものに垂直になるように加えられ、半島を横ぎる。残った土地はみな公園に転換される。

88他の地域へ居住区間の転換が必要とみなされるまで・・・・・。

89

90かくして摩天楼を通して、われわれは巨大なガラスの壁のような、あるいは氷の、あるいは雲のプリズムのような、巨大に横たわる新しい摩天楼を眺めることができる。

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91そして港からは、束になった古代の摩天楼の現実の大きさの都市が見える。

ス ー パ ー ス タ ジ オ + 森 山 エ デ ィ タ ー ズ ス タ ジ オ 『JAPAN INTERIOR DESIGN /インテリア 別冊 スーパースタジオ&ラディカルス』 インテリア出版株式会社 p,149~156

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二節 スーパースタジオ

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二節 スーパースタジオ

 スーパースタジオは磯崎新の「建築の解体」で「スーパース

タジオ/アーキズーム 概念建築による異議申し立て」といか

たちで紹介された。

 磯崎新にスーパースタジオをアーキズームとあわせて次のよ

うに紹介している。

 

 スーパースタジオはアーキグラムの陽気なラディカルさと

ポップな感覚にかわって、よりアナーキーなイデオロギーとミ

ニマリズムの感性は歴史的都市の文化の洗練という一面の継

承、他面歴史の重みに対する反発から援用された彼らの態度と

言えるかもしれない。

こうした彼らの建築に対するスタンスが「建築の解体」で解説

されている。その中で、今の社会における下記の三つの事柄の

意味から彼らのデザインに対する態度、マニュフェストが見て

取れる。

Superstudio

磯崎新 『建築の解体」 鹿島出版界 1997 年p,243

前掲書 p,246~248

 1967 年ごろから「ドムス」誌上で二つのグループが登場

しはじめた。両方とも、フィレンツェ大学の建築科を 1966

年に卒業した建築家たちが中心になったもので、ひとつが

「スーパースタジオ」、ほかが、「アーキズーム」であった。

彼らは、フィレンツェの左岸の丘の上に、はなればなれに、

小さい仕事場をもっている。ともに数名のメンバーだが、

後輩が充填されていった。

 「オブジェクトの破壊」とは、権力から押しつけられた偽

の意味と、「地位」の属性の破壊を意味する。つまり、われ

われはオブジェクト(それは中性的で、使い捨て可能な状態

に還元されたものだ)とともに生きているのであって、オブ

ジェクトのために生きるのではない。

 都市の否定とは、権力の形式的構造物の累積を否定するこ

とを意味する。すなわち、だれもが平等の出発点からスター

トし、自己の能力の展開によって、べつべつの地点に到達で

きるような、新しい自由と平等を求めて、ハイアラキーや社

会的様式としての都市を否定することである。

 機械的作業の終焉とは、細分化し反復する労働の終焉を意

味する。その結果として、だれもが自分の能力を完全に開

花でき、「能力に応ずるしくみから、必要に応ずるしくみへ」

という原則が実施される、新しい革命的社会がうまれるだろ

う。ひとつの革命的社会の建設が、創造と消費と生活様式に

おいて、現代社会への本質的かつ具体的な告発をつうじて、

おしすすめられているのだ。

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 彼らのこのマニュフェストに対して、磯崎新は次のように講

評している。

 彼らのデザインに関するこの考えから、ディストピア的思考

を感じとることができる。彼らは、明らかにデザインの「結末

なき結末」を語っている。磯崎新の「コンピューター・エイディッ

ト・シティ」に描かれた世界と類似していることがわかる。

 「コンピューター・エイディット・シティ」はコンピューター

という情報テクノロジーが進化することで、都市での活動が均

質化し、ここでは区切りの無い大きな空間で都市での活動がひ

とまとめにパッケージ化され、都市での機能の共通点がコン

前掲書 p,248

 オブジェクトの破壊、都市の否定、機械的労働の終焉は

相互に関連し合った事柄なのである。(ロンドン、AA スクー

ルでの講演。1971 年 3 月)

 「スーパースタジオ」にとって、ひとつのマニュフェスト

にも似たこの発言から、彼らがデザインをたんにオブジェ

クトの生産にとどまらず、既存のオブジェクト、都市、労

働のもつ本質的な矛盾を指摘し、徹底的に否定しつくす行

為の一部と考えていることはあきらかだろう。デザインを

非機能的、非商品化することだけでも、すでにデザインの

置かれている現代社会の内部における位置を否定するよう

な自家撞着があるわけだが、彼らは、それをさらに拡張し、

単純なオブジェクトのみならず、都市も社会的な諸システ

ムさえも決定的に否定しつくそうとする。その否定の構造

のなかに、マルクーゼのユートピア論やアラン・ジュフロ

ワの「芸術の廃棄」論のにおいを感じとることも可能であ

ろう。彼らは、いわばソットサスのドロップアウト的な方

法から出発しながら、それらを理性的な方法に拡張し、現

況の徹底的分析をおこなおうとする。とりわけ、デザイン

が今の社会で置かれている、本質的矛盾の根源をえぐりだ

そうとする。それを定式化すると、次のようになる。

 a, デザインは、消費の誘因となるにすぎない。

 b, 現在のデザインは、ステイタス・シンボルであり、支

配階級によって提示されたお手本の表現である。プロレタ

リアートへのその一見進歩的な歩みよりは、階級闘争の激

化をさけようとする、「平均化戦術」の一部である。

 c, オブジェクトの所有は、無意識下にある動機のあらわ

れである。分析的にその動機をとりはらってみれば、その

座に横たわっている欲望が姿をみせるであろう。(スーパー

スタジオ、「自由な人間環境のために」、『ジャパン・インテ

リア』1971 年 5 月号)

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ピューターによって普遍化し、ヒエラルキーがなく、あえて均

質化(コンピュータライズ化)した状態になっている。今の社

会がこのまま加速的に進んでいったときに見えるのはヒエラル

キーのない均質化された世界であろう。このように磯崎新の「コ

ンピューター・エイディット・シティ」にみる、ヒエラルキー

のない均質化された世界がスーパースタジオのデザインに対す

る態度がみえる。スーパースタジオの「デザインは、消費の誘

因となるにすぎない。」という言葉の裏には、デザイン自体が

人との違い「差異」を求める人々の欲望なので、均質化した世

界ではその差異すらなくなった、デザインのない世界というこ

となのかもしれない。 スーパースタジオは次にこう付け加え

る。

 上記のデザインに対する概念がスーパースタジオのいう「シ

ングル・デザイン」であり、あるいはその具現化としての「コ

ンティニュアス・モニュメント」と呼ばれる一群の計画案がし

めしているのは洗練された反デザインと呼ぶべき彼らのスタイ

ルである。

 シングル・デザインと彼らが呼ぶホワイトキューブの連続に

よる巨大な構築物がマンハッタンを囲い込み、ニュー・ニュー

ヨークと名づけられる。一部の摩天楼が立ち並ぶエリアだけが、

前掲書 p,249

ニュー・ニューヨーク ロックフェラーセンターNew New York, Rockefeller Center

 もしデザインが、たんに消費への誘因であるならば、デ

ザインを拒否しなければならない。

 もし、建築が、たんに所有と共有についてブルジョワ的

生活を編成したものであったならば、建築を拒否せねばな

らない。

 もし、建築と都市計画が現存する非正義の社会的階層を

定式化するならば、都市計画と都市とを拒否せねばならな

い。

 あらゆるデザイン行為が、人間の基本的な必要をみたす

ものになるまで、デザインは消えさらねばならない。

 建築なしだって生きられるのだ。(前出、AA スクール講演)

 否定に否定をつづけて、ついに自己の存在をその極限にま

で追いつめることのよって、はじめて、既成権力なかに組

みこまれている病める部分があきらかになるという論理は、

マルクーゼによって基本的に提出されていたテーゼである。

それを、デザインという物体をつくりだす作業において展

開していくと、建築も都市もすべてが、現存制のなかでの

存在をまるごとに否定せざるをえなくなっていく。あらゆ

る表層の構造、あるいは可触的な部分は、彼らの分析にも

あるように、権力があたえてきた意味からはなれるわけに

はいかないものである。

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都市がシングル・デザインによって計画されなかった時代の記

憶として対比的に残される。ホワイトキューブという基本的な

要素によって家具から都市計画まですべてがデザインされてし

まえば建築家がやることは何も残っていない。つまりデザイン

の終着点である。「コンティニュアス・モニュメント」は 1968

年の 5 月革命によって明らかになったユートピアの不可能性

を、その翌年にアンチ・ユートピア、つまりディストピアとし

て描き出した。スーパースタジオの手法は、反ユートピアの思

想とともにコールハースに引き継がれている。

 このように磯崎新は「コンティニュアス・モニュメント」を

上記のように説明して、最後にスーパースタジオについてこう

評価した。

パリ 1968 年 5 月革命

前掲書 p,264~265

前掲書 p,294~295

 スーパースタジオが「コンティニュアンス・モニュメント」

と呼んで発表したモンタージュのシリーズは、そのとほう

もないスケールにおいて、現代建築がもつプロジェクトの

射程をはるかに外延させた記念的な作業とみることもでき

よう。それは、「理性の国への旅」の最後にあらわれた、黒

御影石の静的な物体ともつらなり、複眼的建築にくまなく

浸透していた「シングル・デザイン」の手法にもからんで

いる。砂漠の光景のなかに、突如として出現する立方体の

均質な物体からはじまり、ローマの水道の水道橋のように、

万里の長城のように、現代の無限にのびる高速道路のよう

に、自然のなかに、まったく理想的な論理的帰結をもった

形態を、きわだたせ、侵入させ、無限に延長していくイメー

ジである。彼らにとって、このプロジェクトは、「隕石、ド

ルメン、オベリスク、宇宙の軸、天地の関係を再生する重

要な元素、数多くの結婚式の立会人、法律が記された古代

ローマの板、さまざまなドラマのエピローグ、カバー神殿

から垂直式組立構築物に至るまでの連綿とした歴史の延長

線上に生きている」ことを確認することによって、あらた

めて文明の総体の延長上に提出していく、分類の手による

建築物をイメージしているものだ。しかし密実な物体では

なく、透明でひかり輝くガラス、もしくは鏡のような結晶

体である。

 それは、渓谷のうえに巨大な被膜をつくり、河岸を横ぎり、

サントロペをおおい、岩はだの露出した海岸に進出し、サ

ンモリッツ、ニューヨークと、地球上のあらゆる場所を横

断して連続していく。(磯崎新「建築の解体」)

 物体が、いやおうなしにステイタス・シンボルを賦与され

ていくという事実を拒否しながら、それでも物体の生産と形

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 スーパースタジオは「シングル・デザイン」というデザイン

手法、もっとも少ない方法論で、多くの計画案を出したといっ

てもいいだろう。そして、磯崎新が上記の文章から、「現存す

るテクノロジーの本質にせまり、それを支配する社会的諸関係

を解除したときに、テクノロジーはまったく均質で、とめどめ

もなくひろがっていくような、非階級的構成に到達するかもし

れないという、ひとつの仮説をたててというべきであろう」と

いう文献から先に述べているところから、スーパースタジオが

「コンピューター・エイディット・シティ」に影響を与えたこ

とが伺える。その後の文章でユートピアと述べているが、そこ

で述べられている仮定とは「今の社会が加速的に進んだ究極の

状態」であり、ディストピアであることは明白である。また、

最後に磯崎新は「未来の都市は、おそろしく非人間的な相貌を

呈するだけで、希望のかけらもみつかっていないということで

ある。」とスーパースタジオがいかにシニカルな未来を描いて、

人々に反省を加え、何かを訴えていることがわかる。彼らは「概

念建築による異議申し立て」と磯崎新が題している通り、彼ら

は社会批評、もしくは社会批判としてのデザイン方法論をもっ

てディストピアを描いたのであろう。

態的な産出に関与するデザインをさがしていくうちに、こ

の二つのグループは、現存するテクノロジーの本質にせま

り、それを支配する社会的諸関係を解除したときに、テクノ

ロジーはまったく均質で、とめどめもなくひろがっていく

ような、非階級的構成に到達するかもしれないという、ひ

とつの仮説をたててというべきであろう。にもかかわらず、

その仮説の証明は、社会的な諸関係の一方的な解除という、

パラノイアックともみえる偏向のうえでしか、とりだすこ

とができないという矛盾も、また同時に提示したのである。

 あらゆる現存の物体がもつ社会的シンタックスを破壊す

ることが目標であったとすれば、このような、非人間的と

も思える究極の状態は、現在描写可能なひとつのユートピ

アなのかもしれない。「十二の都市の問題」にあるように、

そんなユートピアに遊ぶかどうかは、結局のところ、あな

たがたの選択しだいでもあるが、心すべきは、どのような

やさしい配慮をなしたとしても、未来の都市は、おそろし

く非人間的な相貌を呈するだけで、希望のかけらもみつかっ

ていないということである。

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 建

築家

の墓

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 スーパースタジオは今の社会におけるデザインを深く追求し

ていったその結果、「デザインは消費の誘因にすぎない。」とい

う、ひとつのディストピアに行き着いたのである。彼らは今日

の資本主義(あるいはテクノロジーの発展)がもつデザインの

ディストピアを描いている。

 磯崎新はこの計画を「ユートピア」と言っているが、最後に

希望のないという点も含め、「ディストピア」と受け取っても

よいだろう。

 また、スーパースタジオは「コンティニュアス・モニュメン

ト」の解説とともに「ユートピとディストピア」について、下

ように述べている。

スーパースタジオ+森山エディターズスタジオ 『JAPAN INTERIOR DESIGN /インテリア 別冊 スーパースタジオ&ラディカルス』 p,119

 1968 年末に出来上がった否定のユートピア、反ユートピ

アの理論を示しておくのがよいだろう。人はユートピアとい

う通りを向こう側へ渡ると何処へ着けると思うだろうか?

ユートピアは我々を苦しめている誤診とか苦痛から我々を

救い出してくれる方法だと人は本当に信じているのだろう

か?人はこの道が人類そのものの生存と同じくらい長い過

去をもち、尚且そこで足掛かりを見つけられた人はこれま

で一人としていないということをもう忘れてしまったのだ

ろうか?その輝きは幻想に過ぎず、その向こうに広がる国々

は夢物語やおとぎ話に出てくる世界であり、太陽の激しい

熱にうかされた結果だということを知らないだろうか?こ

んな夢のような方法で現実の悪夢から人間を目覚めさせる

強いものを発見できるというのだろうか?それを人はどこ

で探そうと言うのだ?このユートピアという道にまつわる

無気力な神話の中ででもと言うのだろうか?あるいは酒を

あおるグラスの底に透けて見える旅の話の陶酔鏡の中でで

も言うのだろうか?あるいは抽象的な社会機構に関する熱

狂的な書物の中にころがっているのでは、などと期待して

いるのではないだろうか?

 ユートピアの中に救済を探し出そうということはそれ自

体崇高なユートピアである。そこで人は遠くの人家の明か

りと間違えて星に向かっては知ることになるだろう。恐ら

く貴殿でさえも。ちょうど美しい森の中で道に迷った幼い

子のように。

 人間にとってユートピアとは常に遥か彼方で輝く星の泉、

幻想的な体験、実現不可能な夢であって、それは現実とい

う恐怖を我々の目から隠してしまうものだ。救済への道を

探し求めようとする決意を生み出せるのは現実において他

にはない。

 従って希望が残されているのはただ我々が抱く恐怖心の

中だけなのだ。

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 スーパースタジオはユートピア自体を幻想だと述べている。

また、最後に「従って希望が残されているのはただ我々が抱く

恐怖心の中だけなのだ。」と述べていることから、反ユートピ

ア(ディストピア)を重視していることもわかる。スーパース

タジオはやはり、ユートピアを否定し、ディストピアを描いた

ことが分かった。

 そして、このディストピアから何を感じ、何を思うのか。

スーパースタジオは社会批評、社会批判のための計画案を世

に輩出したのである。社会批評としての計画案(あるいは、

UNBUILT)が、今日輩出されない中、スーパースタジオの描い

た「ディストピア」は大きな意味をもつように思われる。

長いスパンでものを見る重要性、現状の社会を批評する重要

性を「ディストピア」を観察することで理解できる。

 しかし、スーパースタジオの描いた世界では『建築の解体』

で磯崎新が言う「希望のかけらもない」未来を描くだけで良い

のか。「ディストピア」だけを描くというパラノイアックな見

方をしている限り、今の社会がもつ二項対立的図式は解消しき

れていないのである。

 また、ディストピアという片方の側面のみを描くのではな

く、現実社会を批評するのであるならば、ユートピアとディス

トピアを補い合い存在することが必要である。片方の側面だけ

をもって批評するのではなく、ディストピアとユートピアとい

う両義的概念をもって、批評することが重要なのである。  

    

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二章 エクソダス、あるいは自発的な建築の囚人/レム・コールハース

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一項 本文

一項 本文では、レム・コールハースの「エクソダス、あるいは自発的な建築囚人」のテキストを紹介する。

参考文献、引用図版

OMA/REM KOLHAAS and BRUCE MAU <S,M,L,XL> THE MANACELLI PRESS 1995 p,2~21<PERFECT ACTS OF ARCHITECTURE> Museum of Modern Art 2002 p,14~33

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プロローグ

かつて、都市は二つの部分に分けられた。

一つの部分は良い半分になり、もう一方は悪い半分になった。

悪い半分のほうの住民は分けられた都市の良い半分のほうに群れをなして行き始め、直ぐに都市のエクソダ

ス(集団的大移動)へと膨れ上がった。

もしこの状況が永久に続くことが許されたならば、良い半分のほうの人口は二倍になるだろう。ところが一

方で悪い半分のほうはゴーストタウンに変ってしまうだろう。

この好ましくない人口移動を遮るためのすべての試みの失敗の後、悪い部分の権力者達は建築を絶望的にそ

して、野蛮に使った。つまり彼らはその都市の良い部分の周りに壁を建てた、それを完全に彼らのサブジェ

クト(主体、自我、主題)と接触させないように。

壁はマスターピース(傑作、名作、代表作)だった。

元々は有刺鉄線というただの悲しいひもが不意に境界という空想上のラインの上に置かれたに過ぎなかった

が、その心理的で象徴的な影響は、物質的な存在感よりも無限により力強かった。

良い半分のほうは、今となっては苦痛な距離から近づきがたい障害物の上にのみちらっとかいま見えるのだ

が、より抑えられないくらいたまらなく魅力的なものにさえなった。

陰鬱な悪い半分のほうに置き去りにされた人々は、脱出のための無駄な計画に取り憑かれるようになった。

絶望は壁のもつ、間違った(悪い)側面の上に絶対的な支配をした。

かつて、この人類の歴史なかで建築は絶望の罪を犯した道具だった。

一節 本文

 

 最初にレム・コールハースの描いた「エクソダス、あるいは自発的な建築の囚人」のテキストを紹介する。

このテキストはコールハースが出版した『S,M,L,XL』 を筆者が翻訳したものである。(また、スケッチなどは

『PERFECT ACTS OF ARCHITECTURE』から抜粋した。)   

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建築

この恐ろしい建築のありのままに映すイメージを、激しく破壊的だが肯定的な意図の有用性の代わりに使わ

れる力(権力)として想像することは可能だ。

分裂、孤立、不均質、侵略、破壊など、壁のすべての否定的な側面は、新しい現象の構成要素、つまり、こ

のロンドンの場合では、望ましくない状況に対する建築の良い半分と悪い半分の交戦状態に成り得た。これ

は臆病な改良に関係するのではなく、全体的な望ましい代案の供給に関係するあつかましい建築なのであろ

う。

この建築の居住者は―彼らはその建築を愛するほどまでに十分強力だが―自発的な囚人―彼ら自身の建築的

制限(監禁)から生まれる自由の中でのエクスタシー状態―になるだろう。

近代建築やその絶望的な後産とは反対に、この新しい建築は権威主義でもなければヒステリー的でもない。

つまりそれは個々の欲望に完全に適応する集合的なファシリティー(便宜、設備、施設)を計画する快楽主

義的科学である。

外部から見れば、この建築は澄み渡ったモニュメントのシークエンス(連続、順序、結果)である。つまり

内部の生活は装飾的な狂乱と錯乱やシンボルの過剰摂取の連続する状態を作り出す。

これは、建築家のマゾヒズム(自虐愛)と自己嫌悪を驚異的に治療しながら、それ自身の後継者を生み出す

建築になるだろう。

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自発的な囚人達

この研究はロンドンの行動的なシンク(掃きだめ、巣窟)の中に建築的なオアシスを設立する為に採られな

ければならないだろうステップを描写する。

突然、激しい大都市の望ましいことがロンドンの中心を走り抜けた。ストリップ(細長い土地)は脱走のよ

うであり、集合的なモニュメントの新しい建築の為の仮説滑走路のようである。二つの壁はその健全さ(正

直さ、完全さ)を保持し、それを飲み込むおそれのある癌組織によるその表面の如何なる汚染も防ぐ為に、

このゾーン(地域)を囲い込み保護する。

直ぐに最初の被収容者達は入場許可を請い求める。彼らの総数はどんどん止められない氾濫にまで膨れ上が

る。

私達はロンドンのエクソダス(集団的大移動)を目撃する。

古い町の物理的な構造はこの新しい建築的プレゼンス(存在感)の継続する競争を持ちこたえることはでき

ないだろう。私達が知っているロンドンは一包みの廃虚になるだろう。

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レセプション・エリア

その壁が閉じられた後、へとへとになった逃走者達はレセプション・エリアと壁の間のロビーで注意深い監

視員によって収容される。この待合室の慰めようとする雰囲気は解放(救助、気分転換)の建築的兆候である。

壁のもう一方の側への導入プログラムにおける最初のステップが実現される。つまり新来者はそのレセプショ

ン・エリアに入る。到着時にスペクタクルな歓迎がすべてのものに与えられる。

レセプション・エリアの中の活動は新しい到着(出現)の為の最小限の訓練を要求し、それはあらかじめ肝

心な要素が不足した感覚を圧倒することによってのみ成し遂げられる。その訓練は最も快楽主義的な状態、

つまり贅沢と満足のいく状態のもとで管理(処理、執行)される。

レセプション・エリアは人に対する接し方を通して政治的な発明の才のある鼓舞された(霊感を与えられた)

状態を果たす素人によって永久に込み合い、それは建築によって反響される。この感覚は思考によって圧倒

される。

共にたずさわる者の唯一の関心事はストリップ(細長い土地)の現在と未来である。つまり彼らは建築的改

良や拡張や戦略を提案する。興奮したグループは、一方で他の者たちが絶えずモデルを変えている間、特別

な部屋でプロポーザル(案)を練っている。最も矛盾したプログラムは妥協なしで融合する。

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レセプション・エリア

レセプション・エリア

セントラル・エリア

4つの要素の公園

ストリップ(細長い土地)セントラル・エリア

セレモニアル・スクエアー

セレモニアル・スクエアー

ストリップ(細長い土地)の先端

4つの要素の公園

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セントラル・エリア

レセプション・エリアの屋根は、内部からアクセスできるのだが、古い町の衰退とそのストリップ(細長い土地)

のフィジカル的(身体的)な輝きの両方が経験され得る高い標高のプラトー(高原)である。

ここから、巨大なエスカレーターが「古い」ロンドンの保存された断片の中へ下って行く。これら、古代の

建物は彼らのトレーニング期間においての到着の為の一時的な(滞在の)場所を提供する。つまりそのエリ

アは環境の(周囲の)水門である。

      

「古い」ロンドンから来た人々のトレーニング期間における到着の為の一時的な滞在の場の様子

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セレモニアル・スクエアー(儀式の四角形の広場)

その屋根のもう一方の(西の)側は完全に空っぽであ

る、詰め込んだ駅のタワーを除いては、それはストリッ

プ(細長い土地)の住民に関して、その世界の残りの

部分で電子装置的にさらされることから保護するだろ

う。この黒いスクエアーはフィジカル(身体的)で心

理的なエクササイズ(運動、訓練)の混合、コンセプ

チャルなオリンピックに適応するだろう。

セレモニアル・スクエアー

セレモニアル・スクエアー

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ストリップ(細長い土地)の先端

これは古いロンドンで行われている建築的戦争の最前線である。ここでは、ストリップ(細長い土地)の無

慈悲な前進は日々の奇跡を実行する。つまり建築の矯正的(調整的)激しさ(熱狂)はそれの最も激しいも

のである。古い都市への絶え間のない直面の中で、存在する構造は新しい建築によって破壊され、些細な闘

争が古いロンドンの被収容者とストリップ(細長い土地)の自発的に拘束された者との間で突発する。古い

文明のいくつかのモニュメントはその疑わしい目的とプログラムのリハビリテーション(修復)の後、そのゾー

ン(地域)に組み込まれる。

ストリップ(細長い土地)のモデルは、連続的にレセプション・エリアから入ってくる情報を通して変化さ

せられ、戦略やプラン(計画)やインストラクション(教育)を運ぶ。ストリップ(細長い土地)の先端に

あるバラックの中の生活はハードでありえるが、このオブジェクト(客体)の前進している創造(建設)は

満足で使い尽くされたその建設者達を置き去りにする。

      

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4つの要素の公園

4つの四角いエリアに分割されたその4つの要素からなる公園は、4つの巨大なステップの中の地面の中に

消えてしまう。

最初の四角い広場、「Air(空気)」は芳香性の幻覚誘発の経験を創り出す様々な気体の混合を噴出する精巧に

作り上げられたダクトのネットワークで大きくなり過ぎたなか埋め込まれたパビリオンから成っている。香

料の添加のその濃度、おそらく色の中においてさえ繊細な変化を通して、これらの揮発性の香料を付けた雲

は楽器の様に少し変えられあるいは一様に保たれうる。

高揚、意気消沈、静穏、受容性の気分はプログラム化されあるいは即席に作られたシークエンス(連続)と

リズムの中で目に見えない様に引き起こされうる。垂直的に空気の噴射されるパビリオンの上の環境的な保

護を提供する。

最初の四角い広場とサイズでは同じだが表面のレベルから下に埋め込まれているものは「Desert(砂漠)」で

あり、エジプトのランドスケープの人工的な再建であり、その目まいがするような(ばかな)状況、つまり、

ピラミッドや小さなオアシスや火のオルガン(異なる強烈と色と熱の炎の為の無数の吹出口がある鉄のフレー

ム)をシュミレーション(擬態)しているものである。

それはストリップ(細長い土地)のすべての部分から花火のスペクタクルな光景、夜の太陽を提供する為に

夜にプレイ(演奏)される。

      

擬態されたモニュメントによるスペクタクルは、ロバー

ト・ヴェンチューリの『ラスベガス』の影響だろう。そ

してこの計画の平面の分割はラ・ヴィレット公園コンペ

案へと繋がってゆく。

近代的貴賎の暗黙の判断、それ自体は形而上的な二項対

立であるため、近代建築には当然のごとく下地として存

在していたわけだが(近代的形而上学の二項対立を批判

したのはデリダである)、それは今も根強くあり、もちろ

んその「形式」からは逃れようのないことは誰もが承知

の上である。ヴェンチューリはモダニズムによって暗黙

の内に賎しいとされた商業的な装飾(擬態)を再読(復権)

しようとしたわけだが、コールハースはその影響を受け、

「建築家が作品としての建築をデザインする」という近代

的形式を盲信するよりも、都市の集団的無意識によって

生み出されたジェネリックな(匿名の)混沌や突然変異、

あるいはショッピングという消費の欲望を読もうとする。

ラ・ヴィレット公園コンペ コールハース案

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第二項 エクソダスとは?

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二節 エクソダスとは?

 レム・コールハースの最初の作品「EXODUS、あるいは自発

的な建築の囚人」は、1972 年にエリア&ゾエ・ゼンゲリス、

マデロン・フリーセンドルフらとともにイタリアのカサベラ誌

のコンペ「意義ある環境としての都市」に応募され、後日コー

ルハースの AA スクールの修士設計として提出された。

 ロンドンの中心部を貫く巨大な帯状の壁は、束縛することで

恍惚を与えるという逆説的な自由を人々に提供する建築であ

り、ロンドン市民はそこに囚われるために自発的に古い街から

逃げ出してくる。人々の夢も悪夢も実現するこの建築は、救世

主的なユートピアをアイロニカルに批評する。

 コールハースはこのプロジェクトの参照元を二つあげてい

る。一つがベルリンの壁で、もう一つがスーパースタジオの「コ

ンティニュアス・モニュメント」だ。AA スクールのサマース

タディのため 1971 年にベルリンを訪れたコールハースは、壁

が南北に走っているのではなく、実はまさに西ベルリンを取り

囲んでいることで、その内部に自由を生み出しているという逆

説に感銘を受ける。またベルリンの壁そのものが恐ろしく美し

かったことにも驚きを覚える。「EXODUS(エクソダス)」との

関係は明らかである。コールハースは拘束することで逆説的に

自由を生み出すという建築の力を発見した。

 「EXODUS(エクソダス)」にはディストピアとユートピアを

内包している。明らかにその表現方法からもわかる通りに「コ

ンティニュアス・モニュメント」から、影響を受けていること。

また、拘束することで生まれる逆説的な自由、「ユートピー」

が垣間みえる。

 「EXODUS(エクソダス)」の本文、エピソードに「この好ま

しくない人口移動を遮るためのすべての試みの失敗の後、悪い

部分の権力者達は建築を絶望的にそして、野蛮に使った。つま

り彼らはその都市の良い部分の周りに壁を建てた、それを完全

に彼らのサブジェクト(主体、自我、主題)と接触させないよ

うに。」という文章がある。この文章は第三部ユートピアで述

べた、「ユートピアがユートピアであるためには外的な現実と

断絶されていなくてはならないのである」と同等の意味を持っ

ていることは明らかである。確かに、人々の夢も悪夢も実現す

るこの建築は、救世主的なユートピアをアイロニカルに批評は

しているが、外的な現実から切り離すことことによってできる

「ユートピア」自体を否定はしていない。むしろ、コールハー

スの以後の建築は “ 外的な現実から切り離すことことによって

できる「ユートピア」” を肯定している。

 

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エリア・ゼンゲリス Elia Zenghelis1937 年 ギリシャ アテネ生まれ1961 年 ロンドンAAスクール卒業1961-71 年 ダグラス・ステファン&パートナーズ1971-75 年 ジョルジュ・キャンディリス、ミシェル・カラペティア、アリスティディス・ロマノスと協働レム・コールハースと協働O.M.ウンガースと協働ピーター・アイゼンマンと協働1975-87 年 レム・コールハースとOMAをロンドンに設立1980-85 年 OMAロッテムダムパートナーOMAロンドンシニアパートナー1982-87 年 OMA アテネ設立1987 年 ジガンテス&ゼンゲリス建築事務所設立

西ベルリンを取り囲むベルリンの壁

スーパースタジオ「コンティニュアス・モニュメント」

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 また、コールハースのこのユートピア性はまさしく、村上春

樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のユー

トピア性と酷似していることは明らかである。コールハースも

村上春樹も、外的な現実から切り離すというメタファーとして

の壁を作品の中で用いている。

 そして、コールハースはこの計画案において、「かつて、都

市は二つの部分に分けられた。一つの部分は良い半分になり、

もう一方は悪い半分になった」という文章から、一見、西洋的

な二元論にみえる。しかし、この計画案は厳密に言えば西洋的

な二元論ではないと思われる。ここでコールハースがいってい

るのは二項対立という西洋的な二元論ではなく、二項共存とい

う東洋的な多元論を訴えているのであろう。なぜなら、コール

ハースの描いた二つの世界は二項対立という図式ではなく、二

項があるということが前提である計画案である。つまり、片方

の世界があることを否定することから始まるわけではなく、片

方の世界があるということを認めることから始まっているの

だ。そこにはまぎれもなく、二項がせめぎあっているのではな

く、二項の共時性が存在している。コールハースの「EXODUS

(エクソダス)」では、ディストピアとユートピアの共時性が存

在しているのである。

 また、「良い半分」の方にはセレモニアル・スクエア、4つ

の要素の公園などユートピア性を感じさせるものがいくつもあ

る。人々は「良い半分」に魅了され、ロンドンにエクソダス(集

団的大移動)が起こる。これらから、現存のロンドン、もしく

は今の社会性を批判的に描いていることがわかる。あくまでも、

ユートピアとして建設した世界を描いてはいるが、「ディスト

ピア」を描いている。

 コールハースはユートピアと廃墟が共存、もしくは共時性し

た世界を描いている。ここでの廃墟を「ディストピア」として

とっても良いだろうが、バーズアイでこの計画案を見たときに

この二つの世界が同時に描かれること自体が「ディストピア」

である。

 また、セントラル・エリアはこの2つの世界がどちらにも属

さない、あるいは属する世界である。セントラル・エリアでは

「古い」ロンドンが保存されている。「ユートピア」と呼ぶべき

「良い半分」の中に「古い」ロンドン(「廃墟」といってもいい

であろう)の一部、名残が保存されている。

 ユートピアから見てしまえば、これらは「遺跡」であり、モ

ニュメンタルなテーマパークになるだろう。セントラル・エリ

アはヘテロな空間として捉えることができることから、「ヘテ

ロトピア」が存在している。また、「ユートピア」の中では「古

い」ロンドンから来た人々のトレーニング期間、到着の為の一

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「エクソダス」にみえる、外的な現実から切り離すというメタファーとしての壁

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時的な滞在の場として機能している。ここは2つの世界の間の

場として機能している点から「ヘテロトピア」として捉えても

良いであろう。

セントラルエリア内部のスケッチ

セントラル・エリア

「良い半分」の中に保存されている「古い」ロンドンの一部

レセプション・エリア

レセプション・エリアの様子

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 コールハースは建築的ロボトミーを使って、2つの世界を断

絶しながらも、セントラル・エリアをつくることで、完全に「悪

い半分」あるいは「廃墟」を否定していないことが分かる。こ

の点からも、「エクソダス」は二項対立的図式をもっていると

は言えない。もし、否定するのであれば「廃墟」、「悪い半分」

を取り込まずに終わるはずである。あくまでも「古い」ロンド

ンの一部を保存されること自体が「古い」ロンドン自体を肯定

することになるのである。

 コールハースは資本制経済を否定しているのではなく、

1968 年以降、資本制経済のみになってしまったことを否定し

ているのである。

 また、コールハースはユートピアとディストピアという2つ

の側面を持って描いていることは、今までで明らかになってい

る。現実社会を批評する時に、ユートピアとディストピアを補

い合い存在するという概念が重要である。コールハースはディ

ストピアを描くだけでなく、囚われることによって生まれる逆

説的な自由に気づき、ユートピア性を「エクソダス」に付加さ

せた。これによって、この計画案にはディストピアとユートピ

アという両義的概念をふまえて描かれていることは明らかであ

る。

      

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三節 「囚われの球をもつ都市」と「エクソダス」

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三項 「囚われの球をもつ都市」と「エクソダス」

 1972 年にコールハースは「エクソダス」の他に「囚われの

球をもつ都市 ~The City Captive Globe」を記述している。こ

の作品はコールハースの著書である『錯乱のニューヨーク〜

Delirious NewYork』の最後に「補遺—虚構としての結論」で

発表され、この理論は同年に発表された「エクソダス」に色濃

く出ていると思われる。その基礎をなす三つの基本公理―グ

リッド、ロボトミー、垂直分裂―であるとし、 それぞれについ

て次のように述べている。

 

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 グリッド―またはメトロポリスの領土の下位区分を通じ

て最大限の地表管理効果を生み出すその他あらゆる方法—

は、「都市の中の都市」という群島状況を生む。各「島」が

それぞれに自分の価値を主張すれば、それだけシステムと

して群島の統一性は強化される。「変化」は「島」という構

成単位内で起こるから、システムそのものの修正は決して

必要がないのである。

 メトロポリス群島において、それぞれの摩天楼は―現実

の歴史の不在の中で―独自の即座「フォークロア」を発展

させる。

レム・コールハース 『錯乱のニューヨーク』 ちくま芸術文庫 1999 年 p,490

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 つまり、これらをまとめる3つ基本公理は次のようになる。

1 建築的ロボトミー

 建物のマスが一定の臨界量を超えるとその内部の活動と外部

= ファサードとの関連は無くなっていく。

2 垂直分裂

 各階は互いに独立し , 機能的にも空間的にも互いに分断した

まま積層されるため、建物は複合施設化する。

3 グリッド

 マンハッタンの地表を覆うグリッド内では、個々の独立した

世界が展開する。つまり , 均質なグリッドによって場所性は完

全に排除される。

 以上、コールハースが述べている基本公理である。これらの

基本公理のいくつかが「エクソダス」にも見て取れるように思

われる。建築的ロボトミーという分裂行為が壁によって断絶す

るというかたちで行われている。建築的ロボトミーが「エクソ

ダス」において、ユートピアとディストピアの共時性を可能に

したと言ってもよいだろう。建築的ロボトミーはニューヨーク

の都市において、「形態と機能のあいだの対立を永遠に解消し

た」が、この「エクソダス」において「ユートピアとディスト

ピアの二項対立を解消した」。つまり、建築的ロボトミーこそ

が西洋的な二元論から逸脱し、東洋的な多元論へと誘うのであ

る。

そして、グリッドという基本公理も「エクソダス」から見て

取ることができる。「古い」ロンドンの方はプランからもみて

分かるようにニューヨーク、マンハッタンのようにグリッドで

構成されている都市ではない。「エクソダス」では「良い半分」

は「古い」ロンドンと対比的に厳密なグリッドの都市を形成し

ている。そして、各グリッドにそれぞれの機能(レセプション・

エリア、セントラル・エリア、セレモニアル・スクエア)が入

り込み、個々の独立した世界を展開している。コールハースが

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 ロボトミーと垂直分裂という二重の分裂行為を通じて―

建物の外部と内部を分裂させ、ついで内部を小さな自律的

部分に分割して展開することによって―このような建物は

外部を形式主義だけに、そして内部を機能主義だけに割り

振ることができるようになる。

 このようにして、建物は、形態と機能のあいだの対立を

永遠に解消するばかりでなく、恒久不変のモノリスによっ

てメトロポリスの不動性を祝福する都市を誕生させるので

ある。

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「囚われの球をもつ都市」で述べる通り、各「島」がそれぞれ

に自分の価値を主張すれば、それだけシステムとして群島の統

一性は強化されるのである。

 

 「囚われの球をもつ都市」と「エクソダス」を比較することで、

やはり同じ 1972 年に構想されていることもあり、「囚われの

球をもつ都市」で論じられている定理が「エクソダス」に見て

取れることが分かる。つまり、コールハースはロンドンにマン

ハッタニズムを取り入れたのである。

 また、建築的ロボトミーという基本定理は『錯乱のニューヨー

ク〜 Delirious NewYork』の後に「ビッグネス」という理論と

して発表された。むしろ、『錯乱のニューヨーク〜 Delirious

NewYork』は、暗黙のうちに「ビッグネスの理論」を含んでい

た。「ビッグネス」の定理はつぎのようになる。

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1, あるマッスの臨界を越えると、ビルディングは〈ビッグ・

ビルディング〉となる。そのようなマッスはもはや単一の

建築的営為によっては制御しきれない。いや、どのような

建築的諸営為の組み合わせによってすら制御しきれない。

この不可能性は部分の自律性を誘発するが、しかしそれは

断片化とは異なり、部分は全体に従い続ける。

2, エレベーター そしてその建築的であるよりも機械的で

あるような接続を可能にする力 およびその種の関連発明

品は、建築の古典的レパートリーを無意味で無効なものに

する。構成、スケール、プロポーション、ディテールといっ

た問題は、いまや空論となる。

3, 〈ビッグネス〉においては、もはやファサードがそ

の内部で起きていることを開示し得なくなるまでに、核

心〔コア〕と外被〔エンベロープ〕の距離が拡がってい

る。そこでは「正直さ」などというものへのヒューマニ

スティックな期待は消え失せる。内装〔インテリア〕の

建築と外装〔エクステリア〕の建築は別個のプロジェク

トと化し、前者がプログラムやイコノグラフィーといっ

た落ち着きなく変化する需要の相手をする一方で、後者

は 偽情報を伝えるエージェントとして ひとつの物体

としての見せかけの落ち着きを都市に進呈する。

 ものを開示するのが建築だとすれば、ものを混濁させ

るのが〈ビッグネス〉だ。〈ビッグネス〉は、都市を確

実なものの総和から謎の集積へと変容させる。もはや、

あなたが見るものはあなたが得るものではない。

4, そうしたビルディングは、ただそのサイズによって

のみ、没道徳的な、善悪の彼岸の領域に踏み込むことに

OMA/REM KOLHAAS and BRUCE MAU <S,M,L,XL>

THE MANACELLI PRESS 1995 p,495~516

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 「ビッグネス」の原理から見て取れるように 1972 年に『錯

乱のニューヨーク〜 Delirious NewYork』で提示された建築的

ロボトミーの考えはより一層、発展されコールハースのマニュ

フェストになっている。

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なる。

 そのようなビルディングのインパクトは、それ自身の

クオリティーからは独立している。

5, これらすべての断絶 スケールとの、建築的構成と

の、伝統との、透明性との、倫理との断絶 とともに、

最終的な、最も根源的な断絶が含まれている。すなわち、

〈ビッグネス〉はもはや都市という連続的な組織の中の

一部ではない。

 それはただ存在する。あるいは、せいぜい共存するに

すぎない。

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四項 レム・コールハースとスーパースタジオ

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四節 レム・コールハースとスーパースタジオ

第四章の一部でも述べたように、スーパースタジオの「コン

ティニュアス・モニュメント」は、シングル・デザインと彼

らが呼ぶホワイトキューブの連続による巨大な構築物がマン

ハッタンを囲い込み、ニュー・ニューヨークと名づけられる。

一部の摩天楼が立ち並ぶエリアだけが、都市がシングル・デ

ザインによって計画されなかった時代の記憶として対比的に

残される。ホワイトキューブという基本的な要素によって家

具から都市計画まですべてがデザインされてしまえば建築家

がやることは何も残っていない。つまりデザインの終着点で

ある。コールハースはこの作品に強く影響されたことを告白

している(後にコールハースは、スーパースタジオのアドル

フォ・ナタリーニを AA スクールに招いて講演会を企画してい

る)。「コンティニュアス・モニュメント」は 1968 年の 5 月革

命によって明らかになったユートピアの不可能性を、その翌年

にアンチ・ユートピアとして描き出した。スーパースタジオの

手法は、反ユートピアの思想とともにコールハースに引き継が

れる。「EXODUS」において「古い」ロンドンの一部が壁のな

かに取り込まれている点にも《コンティニュアス・モニュメ

ント》との共通点を見ることができるだろう。偶然のように、

「EXODUS」はコールハース自身のロンドンからニューヨーク

への「EXODUS」も象徴している。コールハースがニューヨー

クに移ったのは、1972 年のプロジェクトの提出直後のことだっ

た。コールハースの出発点はスーパースタジオによって与えら

れたのである。

 しかし、コールハースがスーパースタジオから影響受けたこ

とはわかるが、そこで描かれていることはスーパースタジオと

大きく異なるっている。スーパースタジオのシングル・デザイ

ンは今の社会が加速的に進んでいった世界、ディストピアにお

いて、そこではデザインというものがいかに不必要であるかを

訴えている。むしろ、デザインというものがなくなって、「シ

ングル・デザイン」だけしか生き残れないという今の社会のも

つ不条理さを訴えている。しかし、スーパースタジオの描いた

「ディストピア」に対してコールハースは囚われることで生ま

れる逆説的な自由という「ユートピア」を描いている。言い換

えれば、囚われることでしか自由が生まれないという「ディス

トピア」を描いているとも言える。そこにコールハースのクー

ルでシニカルな批判性が見てとれる。もちろん不条理さはある

が、あくまでも資本経済が内包しているパラドックスを解消し

ているのである。また、スーパースタジオの希望の無い絶望的

な「ディストピア」描いたのに対してコールハースは「ディス

トピア」を描く中で、マンハッタニズムの理論をロンドンに展

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開することでユートピア性をその中に含ませている。むしろ

「ユートピア」を描きながら、それ自体を「ディストピア」と

して描くことで、スーパースタジオよりもっとクールで内省的

なのである。

 また、スーパースタジオがディストピアだけをもって描いて

いるのに対して、コールハースは現実社会を批評する上で重要

な概念、ディストピアとユートピアを補い合って存在すべきと

いう概念を満たしている。この点で、コールハースの描いた「エ

クソダス」は社会批評する上で、ベンチマークになり得るもの

であり、これから、この計画案を通して、建築、都市、社会を

再考していく必要があることは明確な事実である 。

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第六章 結語

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結論として

 ディストピアを描くことは今の都市や社会を批評することが

出来る。その点でディストピアを描くことの重要性を訴えるこ

とができる。

 その点でラディカルなディストピアを描いてきた建築家たち

を評価することが出来るであろう。しかしながら、そこで描か

れている世界は磯崎新が述べているように希望の無い絶望的な

世界である。UNBUILT であるからもちろん絶望的であっても

いいであろうがそこに絶望の中の希望を描くことがあってもよ

いであろう。

 ここからは第ニ章の冒頭で述べたことをしつこいようだが、

くり返す。

 資本主義もその成長志向の中にあるユートピア的性格をもっ

ており、結局のところユートピアは資本主義的性格、要素、社

会主義的性格、要素、共産主義的性格、要素それぞれ共存させ

ているとも考えられる。また、ユートピアは静的とは言え、一

種の目標物、理想像、ベンチマークであり、そこへの過程は動

的なものである。したがって、動的要素、動的側面をもたらす

ものとしてのユートピアは決して、資本主義の概念と矛盾する

ものではない。

 一方、ディストピアがユートピアを過度に拡張した形、望ま

しくない未来として定義されるならば、それはユートピアに対

して極めて自省的な概念と言える。しかし、自省的だからといっ

て単にユートピアが時としてリニアーな暴走的運動性をもち得

るのに対して、反省的な対抗性を示すことによって、更により

明確であったり、具体的なユートピアをつくることにつながる

かもしれないからである。もちろん、ユートピアはあまり現実

化したものはユートピアたり得ないかもしれない。しかし、現

実の社会に照らして考える時、ユートピアとディストピアは補

い合って存在すべき概念と考えられるだろう。

 つまり、スーパースタジオはラディカルなディストピアを描

いてきたがそこに描かれている世界は「ディストピア」だけで

ある。そこにユートピア性は含まれていない。コールハースが

描いた「エクソダス」には、ユートピアとディストピアが共時

している。私が結論として述べているユートピアとディストピ

アは補い合って存在すべき概念が「エクソダス」にはある。

 ディストピアとユートピアの共時性こそ、「エクソダス」か

らはじまり、「錯乱のニューヨーク」を経て、いまでもコールハー

スの建築の主題なのだろう。あくまでも、その時代、時代に「ユー

トピア」は存在して、ディストピアのなかにどう「ユートピア」

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をみるかが重要なのである。

 コールハースは現在の資本制経済のみの価値観だけ進んでい

くことを危惧し、「エクソダス」でディストピアとユートピア

を同時に描いた。結局はその後、社会は資本制経済のみの価値

観で加速的に進んでいったが、コールハースは一見、その物事

を加速的に進めてきた加担者であるように見える。しかし、そ

れは事実として筆者は受け取っている。

 第二章の最後にも述べたが、柄谷行人は「資本制経済を制御

するいかなる企てにも希望をもつことはできない。その結果、

彼は資本主義的経済を加速的に発展させてそれが内部から崩壊

するに至るようにする、という考えをもったように思われる。」

と述べている。コールハースは柄谷行人が述べるように確かに

資本制経済が内部から破壊すること目的にしているのであろ

う。コールハースの資本制経済に対するあきらめの精神は、「建

築家が作品としての建築をデザインする」という近代的形式

を盲信するよりも、都市の集団的無意識によって生み出された

ジェネリックな(匿名の)混沌や突然変異、あるいはショッピ

ングという消費の欲望を読もうとするという点からわかる。し

かし、コールハースはそのディストピア的思考体系の中であく

までも、グリッド、建築的ロボトミー、垂直分裂、ボイドの概

念といったユートピア性を考えているのである。

 また、建築的ロボトミーはニューヨークの都市において、「形

態と機能のあいだの対立を永遠に解消した」が、この「エクソ

ダス」において「ユートピアとディストピアの二項対立を解消

した」。つまり、建築的ロボトミーこそが西洋的な二元論から

逸脱できるもとである。

 ほかにも、形而上的な二項対立、それらから建築家がデザイ

ンすることで逃れることができないことは誰しも承知の上で

あったが、コールハースは前述に出てきた都市の集団的無意識

によって生み出されたジェネリックな(匿名の)混沌や突然変

異、あるいはショッピングという消費の欲望こそが形而上的な

二項対立が逃れるものとして考えている。

 以上の結果が、スーパースタジオとレム・コールハースの作

品研究を通して得ることができた。

 また、最後にディストピアとユートピアを研究していった結

果、以下のようなことをふまえてものをつくることが重要であ

ることがわかった。以下はこれから、筆者がものをつくる時の

ひとつの土台になるものであり、またこれからのマミュフェス

トにもなる。

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 ディストピアもユートピアもフィクションと密接に結びつく

ものである。つまり、もののつくり手が何らかのイメージを膨

らましていくものにある意味不可欠なものとも言えるだろう。

             

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あとがき

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あとがき

 本論文では「ディストピア」と「ユートピア」について論じ、

作品研究としていくつもの作品を見てきた。その中で、スー

パースタジオの「コンティニュアス・モニュメント」とレム・

コールハースの「エクソダス、あるいは自発的な建築の囚人」

を取り上げた。いくつもの作品を見てきたが、それはいずれも

「UNBUILT」と分類されるものであった。これらの作品をみて

いくと、「UNBUILT」に独特の強さがあることに気づいた。そ

れは「BUILT」な作品群と比べて圧倒的な強さを感じた。その

後、彼らは歴史上でラディカルな建築家たちと呼ばれていたが、

彼らの一見、ふざけているように思える計画が強烈な社会批評

であったということに気づいた時に、なぜ「BUILT」な作品群

と比べて圧倒的な強さを感じたかが明確になった。そして、そ

の裏にあるものが「ディストピア」、「ユートピア」であること

が後にわかっていくのだが、いずれにしろ、「UNBUILT」を描

くことは現実社会がもつ問題であり、パラドックスを表現する

ことに等価なのであることがわかった。これは筆者にとって、

「UNBUILT」はこれから建築、もしくは都市、広くいえば、も

のの作り手として将来、没頭する上で土台となるになった。

 このように「UNBUILT」について深く思考していった結果、

「ディストピア」と「ユートピア」の概念に行き着いたわけだ

が、これらの研究をしていく時に建築以外の多く作品をみてき

た。映画やアニメ、小説といった分野にまで枠を広げて研究を

進めていった。それは一般的に「ディストピア」として扱われ

ていないものであったが、それらの作品に「ディストピア」と

「ユートピア」を見いだすことができた。本論文では村上春樹

の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」をとりあ

げて、ユートピアについて説明したが、ここでは他の作品をと

りあげることにする。

 ディストピア映画としてよく知られている映画ではあるが、

「ブレードランナー」も最初にとりあげる、「ブレードランナー」

は、建築界ではその描かれた都市の様子がよく知られている。

たしかにその都市の様子はアジア的カオスの臭いが漂い興味深

い都市の風景が描かれている。また、ピラミッド状の大きな都

市が登場するところから、管理社会を暗に意味している。しか

し、この映画で一番重要なものはやはり、ストーリーであり、

当時の社会状況に対する批判性が重要なのである。この映画で

は宇宙開拓の前線で遺伝子工学により開発されたレプリカント

と呼ばれる人造人間が、奴隷として過酷な作業に従事している。

肉体を超人的に強化されたレプリカントは、外見上は本物の人

間と全く見分けがつかないが、唯一違うのは「感情移入」する

ブレードランナー Blade Runner

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能力がなかった。ところが製造から数年経てば彼らにも感情が

芽生え、人間に反旗を翻すレプリカントも現れるようになった。

しばしば反乱を起こし人間社会に紛れ込む彼等を「処刑」する

ために結成されたのが専任捜査官 “ ブレードランナー ” である。

2019年、タイレル社が開発した最新型レプリカント男女6

名が人間を殺害し脱走。ひそかに地球に帰還してロサンゼルス

に潜伏した。人間そっくりなレプリカントを「処刑」するとい

う自らの職に疑問を抱き、ブレードランナーをリタイアしてい

たデッカードだったが、その優秀な能力ゆえに元上司ブライア

ントから現場復帰を強要される。しかし、そのレプリカたちは

感情をもっていることがわかるが、人間に対して強烈に敵視し

ているため、人間との間に衝突が生まれる。最終的にデッカー

ドはレプリカを処刑することになる。

 この映画では人間が自分たちの目的のためにつくったレプリ

カが暴動を起こす、一部のレプリカたちは感情をもつようにな

る。しかし、レプリカたちは人間の権利は持つことができず、

結局は処刑されることになる。つまり、今の現実社会にも置き

換えることができ、権利を拡張していく際におきる問題である。

今の社会では権利を持っているのは人間、もしくは人間の利害

関係にあるもの、それらは結局のところ人間を介さず権利を持

つことはできないわけだが。つまり、今の社会そのものが進ん

でいけば、人間以外のものとの共存はできないという悲劇的な

結末をこの映画は訴えているのかもしれない。

 また、「攻殻機動隊」は今の情報化社会が加速的に進んでいっ

た社会を描いているディストピアアニメである。時代は21世

紀、第三次核大戦と第四次非核大戦を経て、世界秩序は大きく

変化し、科学技術は飛躍的に高度化した。その中でマイクロマ

シン技術を使用して脳の神経ネットに素子(デバイス)を直接

接続する電脳化技術や、義手・義足にロボット技術を付加した

発展系であるサイボーグ(義体化)技術が発展、普及した。そ

の結果、多くの人間が電脳によってインターネットに直接アク

セスできる時代が到来した。人間、電脳化した人間、サイボー

グ、アンドロイド、バイオロイドが混在する社会の中で、テロ

や暗殺、汚職などの犯罪を事前に察知してその被害を最小限に

防ぐ内務省直属の攻性の公安警察組織、公安9課、通称 " 攻殻

機動隊 " の活躍を描いた物語。

 人間が電脳化したときに起きる問題を詳細かつリアルに描か

れており、今の情報化社会がもつ問題、便利さか生まれる不便

理さというパラドックスを表現している。 

 しかし、このアニメには人間が本来的に持つ自我や意識、霊

性をゴーストとして持ち出している。これらは電脳化が進んで

いっても変わらず片隅にのこるゴーストが表現されている。こ

      

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ブレードランナー Blade Runner

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX

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こにユートピア性を見て取れることができる。

 交響詩編エウレカセブンではディストピアとユートピアの概

念が表現されたアニメである。このアニメでは人間と知覚生命

体「コーラリアン」との戦いを描いている。意思をもっている

「コーラリアン」は人間の大地である。しかし、「コーラリアン」

は人とコミュニケーションをとりたがっている、しかし「コー

ラリアン」は人間を吸収する他にコミュニケーションをとる方

法を知らない。人間は「コーラリアン」を撲滅するために大地

である「コーラリアン」に攻撃を始める。そんな中、新しいコ

ミュニケーションをとるため、もしくは人間と「コーラリアン」

が共存していくために、「コーラリアン」は人型コーラリアン、

エウレカを生み出す。主人公たちはエウレカとともに人間と

コーラリアンとの共存の道を探し出す。しかし、人間たちは大

地「コーラリアン」の撲滅を止めることはない。最終的に人間

と「コーラリアン」は分け隔てることで生きることになる。こ

のようにアニメは人間と大地「コーラリアン」の新しい共存の

道を探す物語である。

 交響詩編エウレカセブンは人間と大地の戦いという最も終極

的なものである。しかし、大地は人間に必要なものである。今

の現実社会も大地との共存する道は見つけることはできていな

い。むしろ、交響詩編エウレカセブンのように大地を傷つけ資

本経済を加速的に進めている。このアニメでは大地、「コーラ

リアン」はユートピアであり。その共存の方法として分け隔て

生きることになる。現実社会ではエコというかたちで、自然を

壊さないように活動している。しかし、今の資本主義経済は欲

望の手によって動いているのに対して、エコというものは抑制

でしかない。これでは根本的な解決方法ではないのである。現

実社会も交響詩編エウレカセブンのように共存の道を探さなく

てはならない。

 このようにいくつかの作品をみていくと、そのなかにディス

トピアとユートピアに置き換えてみることができた。これらの

作品は現実社会に対しての批評性があり、建築家も映画、アニ

メ、小説のように社会批評するスタンスを見習うべきものであ

ると切に感じる。映画、アニメ、小説は私たちに何か訴え、人々

はそれをみて何かに反省し、何かを思う。そんな力がフィクショ

ンにはあるのである。これからの建築家は映画、アニメ、小説

とコラボレーションしていくことが重要に感じられ、これは筆

者がこれから、建築に従事していく上でのマニュフェストであ

り、「ディストピア」と「ユートピア」はものの作り手が悩ん

だ時に帰着する場所であろう。

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交響詩篇エウレカセブン

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参考文献、図版引用

磯崎新 『建築の解体」 鹿島出版界 1997 年

磯崎新 『UNBUILT/ 反建築史』 TOTO 出版 2001 年

大澤真幸 『資本主義のパラドックス 楕円幻想』ちくま学芸文庫 2008 年

柄谷行人 『定本柄谷行人集第2巻 隠喩としての建築』 岩波書店 2004 年

菊池誠 『トランス・アーキテクチャー』 INAX 出版 1996 年

スーパースタジオ+森山エディターズスタジオ 『JAPAN INTERIOR DESIGN /インテリア 別冊 スー

パースタジオ&ラディカルス』 インテリア出版株式会社 1982 年

村上春樹 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 新潮社 1985 年

レム・コールハース 『錯乱のニューヨーク』 ちくま芸術文庫 1999 年

C.A. ドクシアディス 『エントピア―ディストピアとユートピアの間に』 彰国社 1975 年

『建築文化 No,592』 彰国社 1996 年

OMA/REM KOLHAAS and BRUCE MAU <S,M,L,XL> THE MANACELLI PRESS 1995

Peter Lang / William Menking <Superstudio Life Without Objects> Skira 2003

<PERFECT ACTS OF ARCHITECTURE> Museum of Modern Art 2002

参考映画、アニメ

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 原作 士郎正宗 放送局 日本テレビ系列 2002 年〜

交響詩篇エウレカセブン 原作 BONES 放送局 毎日放送ほか TBS 系列 2005 年〜

Blade Runner ( ブレードランナー ) 監督 Sir Ridley Scott  1982 年公開

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謝辞

 本論文を書くにあたって、テーマの大きすぎる論文にもかか

わらず何度も丁寧にご指導していただいた法政大学デザイン工

学部建築学科、渡邊真理教授に心より感謝し、深くお礼を申し

上げたいと思います。

 また、添削等、何度も気にかけていただいたチューターの法

政大学大学院工学研究科建設工学専攻修士1年の安藤善章先輩

に深く感謝いたします。

 また、わざわざ家にまで来ていただき長時間に渡って、ご指

導いただいた赤松さんに心より深く感謝しいたします。

      

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