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第1章
私が年賀状を友人と交換し始めたの
は、昭和二十四、五年、だったかと思
う。昭和二十六年(一九七〇)三月に
小松崎茂先生が千葉県の柏に転居して
来た。私が高校一年を迎える春休みの
ことで、待ちに待った引越の夜、さっ
そく遊びに行き、先生とお会いした。
実は先生と私は東京荒川区南千住の、
それもごく近くの生まれだった。
私は、先生と初対面だったが、先生
は私の小さい時から知っていてくれ
て、「ペンキ屋(私の家の家業)の圭ちゃ
んかい。大きくなったなァ」と大歓迎
してくれた。
正式に弟子入りして住み込むのは高
校の卒業式(昭和二十八年)の翌日だっ
たが、二十六年の三月から私は小松崎
家へ入りびたりとなった。
それ以来、当時全盛で多忙をきわめ
た先生の手紙類の代筆を引きうけるよ
うになり、ファンレターの返事はもと
より、年賀状はほぼ全体にわたって私
があて名書きをした。
一方、小松崎家へ来る年賀状の数は
想像をはるかに超える量で、郵便局で
も小松崎家のために特別配達してくる
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■小松崎茂■
くらいだった。
忘れもしない私が書生として住み込
んでいた昭和二十九年の元旦、その日
も例外ではなく、徹夜明けで初日の出
が昇ってからの就寝となったが、寝入
りばなに「小松崎さあん、電報です
よー」という声と、犬達のけたたまし
い声で夢を破られた。
二人いたお手伝いさんも起きてくる
気配がなく、「元旦早々に電報とは何
事だろう」と少し不吉な予感を抱きな
がら勝手口から顔を出した。
私は吠え続ける犬を家の中に入れ、
勝手口の扉を開けて電報を受け取って
みると、差出人はテヅカオサム 年
賀電報とあった。
かなり長文の電報で、「今年は私も
勝負の年。先生を目標に頑張ります!」
といった内容だった。
後年手塚先生と親しくなった折り、
その話をしたところ、「あー打ちまし
た。なつかしいなあ。でもあの電報で
根本さんを起こしてしまったんです
か。ゴメンナサイ」とベレー帽をとっ
て丁寧に謝ってくれて大笑いとなっ
た。あの時の手塚先生のいたずらっ子
みたいな温かい笑顔が、なつかしく思
い出される。
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■小松崎茂■
ところで多忙すぎた小松崎先生は、
年賀状を書くということには当然のこ
とながらほとんど関心がなかった。
ただし仕事の合間に興にのってほん
の何枚か、日本画、それも花鳥画でき
たえた腕で、美事な手描きの年賀状を
描いてくれた事もあった。
かと思うと、じゃがいもを輪切りに
し、あやしげなイモ判を作り、ペタペ
タ押した下へ例の横文字のサインを入
れた年もあり、受取った人から、「あ
れは何の絵ですか?」と聞かれたこと
もあった。
最盛期の小松崎家には何枚ぐらいの
年賀状が来たか……私は全部に目を通
している筈だが、すごい量だった!
としか覚えていない。
とに角忙しく、記録として残ってい
る七十二時間 三昼夜ノンストップ
で仕事を続けた事もあり、私は二昼夜
目にダウンしてしまった。
正月の年始客に会う時間がないと
言って、玄関脇に書き初め用紙に大き
く〝正月はやめた〞と書いて貼りだし
たこともあり、私は親類の人達を含め
年始客との板挟みで苦労した。
それでも、先生に〝正月早めた〞っ
て読めますよ、と嫌味を言うのが精一
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■小松崎茂■
杯だった。
小松崎家へ来た年賀状は、私が一通
り目を通し返事を出す分をチェックし
た後、奥様に渡してしまうので、そ
の後それらの年賀状はどのように管
理されたか私は全くしらない。おそ
らくどこかへ仕舞われて、平成七年
(一九九五)の失火による自宅全焼の
際、灰燼に帰したものと思われる。興
に乗って描いてもらった数枚の手描き
の年賀状は、私が大事に保管していた
が、熱心なファンの懇望に負けて、一
枚一枚と差し上げてしまい、今は手許
に二枚程残るのみとなった。
何年位まえになるだろうか、知らな
い人から、「私が子どもの頃、小松崎
先生から年賀状をいただき嬉しくて嬉
しくて、今も大切にしています……」
という便りとともに当時の年賀状のコ
ピーが同封されてあった。宛名書きは
勿論私の文字でなつかしい思いをし
た。年
賀状ではないが、ファンレターの
返事を私が出したのが縁で、相手が本
田宗一郎さんのお嬢さんだった と
いうことで本田氏と先生の対面、工場
見学、仕事を依頼されるという運に恵
まれたこともあった。
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■小松崎茂■