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発掘調査B区
家老石川家
金龍寺
照護寺
善證寺
宗玄寺
代官神谷家
侍水野家
発掘調査 G 区 現存する堀と土塁
庫裏裏門
鐘楼経蔵
本堂
龍宮池
●本證寺のイブキ
鼓楼
本證寺
本證寺は、永えいろく
禄6年(1563)の三河一向一揆の後、いったん破
は
却きゃく
されたと伝えられます。約20年後に一揆の罪を許され、100年後の寛
かん
文ぶん
3年(1663)には現在の本堂が再建されました。入
いり
母も
屋や
造づくり
・本ほん
瓦かわら
葺ぶき
の建物で、地方の真宗寺院本堂としては比較的大型になります。内
ないじん
陣の後ご
門もん
柱ばしら
(来らい
迎ごう
柱ばしら
)のみ円柱とし、他は全て角柱が用いられています。また、広
ひろ
縁えん
と矢や
来らい
内うち
の正面を除いて1間ごとに柱が立つ、古い本堂建築の様式を留めています。 内部に見られる内陣・余
よ ま
間正面の柱上部の組み物、彫刻欄
らん
間ま
や巻まき
障しょう
子じ
などは、宝ほう
暦れき
年間(1751 ~ 63)に改修を受けた際に加えられたものと考えられています。 欄
らん
干かん
の擬ぎ ぼ し
宝珠には、寄進者の銘が刻まれています。
聖徳太子16歳の姿を表しているとされます。的確な表現から、鎌倉時代末期の力量のある仏師の作と考えられます。 真宗では、聖徳太子を観
かんのん
音の生まれ変りとするとともに、日本に仏教を広めた恩人として信仰してきました。
本證寺の本尊で、低い肉にくけい
髻から鎌倉時代後期の作と推定されます。腹部から膝
ひざ
は十分な厚みがある一方、胸部から上が華
きゃしゃ
奢なのが特徴です。 本尊を安置する宮
くうでん
殿は、宝ほうれき
暦11年(1761)に門徒である水
みなくち
口藩加藤家から寄進されました。
本證寺の内堀に咲くハスの起源はよくわかりません。明治32年(1899)の「三河三ヶ寺野寺本證寺全図」に見られることから、少なくともこの頃には本證寺の景観の一部と認識されていたようです。 毎年、初夏には山門に向かって右側には白い花を、左側には赤い花を咲かせていました。ところが、平成6年(1994)を最後に、突如消滅してしまいました。 平成22年(2010)になり、ハスのある本證寺の景観を取り戻そうと、地元の有志が「本證寺ハスの会」を結成します。会では、内堀で繁殖したミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)など外来生物の駆除を進めました。その結果、平成25年(2013)には、山門両側のハスの再生に成功したのです。そして、会の活動は、現在でも続けられています。
庫裏は、寺の賓ひん
客きゃく
をもてなす客殿、台所、住職の住まいなどの機能を持つ建物で、文
ぶん
政せい
13年(1830)に再建されました。 入口を入ると、広大な表土間と広間が広がります。天井では太い梁
はり
組ぐみ
を見せるなど、本證寺の格式を象徴しています。
裏門は薬やく
医い
門もん
という形式で、庫く り
裏東側に1700年代前半に建立されました。薬医門とは、2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切
きりづま
妻屋根をかけた門のことで、名称は医家の門として用いられていたことに由来するといわれています。 簡素ですが姿が雄
ゆう
偉い
で力強く、風格が備わっています。
本證寺を開いた慶円の木像です。胎たいないめい
内銘から、貞じょう
和わ
3年(1347)に「きやうけい」という慶けい
派は
の仏ぶっ
師し
により作られたとわかりました。合
がっ
掌しょう
する姿は、真宗では古い肖像彫刻にみられる特徴です。 旧 暦1月13日 の「おきょうえんさん」の時のみご開帳されます。
この樹は、樹高約23m、胸高囲340cm、枝張りは東西8.5mと南北9mで、樹齢は800年と推定されています。 また、親鸞聖人にまつわる伝説が伝えられています(「本證寺の伝説」参照)。
鼓楼は、宝ほうれき
暦10年(1760)の建築です。真宗寺院特有の建築で、大
たい
鼓こ
を打って時を知らせるとともに、物もの
見み
櫓やぐら
としての機能も有していたとされます。 上層の柱は内側に傾けられ(内
うちころ
転び)、目の錯覚を利用して、より高く安定しているように見せています。石積みの基
き
壇だん
上に建つ姿は、城郭の隅すみ
櫓やぐら
を思わせます。内部には、中央の柱
はしら
間ま
に大おお
梁ばり
を渡して大鼓が吊
つ
られています。
経蔵は寺宝の経典を収納する蔵で、文
ぶん
政せい
6年(1823)に建立されました。腰
こし
壁かべ
は、四角い平瓦を貼り付けて、漆
しっくい
喰をかまぼこ状に盛り上げて目地をふさぐ海
な ま こ
鼠壁かべ
となっています。この工法は耐火性に優れ、土蔵などに見られます。 内部には、輪
りんぞう
蔵(回転式書架)ではなく、経
きょう
檀だん
(書棚)を備えています。
鐘楼は元げんろく
禄16年(1703)に建立されました。牛
うし
久く ぼ
保(現豊川市)の堂どう
宮みや
大だい
工く
岡おか
田だ
五ご ざ え
左衛門もん
が建築に関わっています。 丸柱の主柱に脇柱を持つ形式は、各宗の本山など大寺院に用いられるもので、当時の本證寺の寺格がわかります。また、頭
かしら
貫ぬき
端部の彫刻木
き
鼻ばな
や、蟇かえる
股また
の龍、獅し し
子、麒き
麟りん
、虎とら
などの彫刻も秀逸です。
本證寺は、内堀と外堀という二重の堀に囲まれています。内堀は、本堂を中心に囲むものと、庫裏を囲むものの2つがあり、その外側に東西約320m、南北約310mにおよぶ外堀がありました。 外堀は、三河一向一揆前の16世紀前葉から中葉(戦国時代)に掘られ、その後、短期間で埋まっています。堀の幅は約4.7m、深さ約3mで、傾斜が急なV字形断面をしています。 その後、18世紀後葉から19世紀前葉(江戸時代)に、戦国時代と同じ位置に、傾斜が緩やかで幅広な浅い外堀が掘られました。 また、堀の内側に残る土塁は、基礎部分の幅が約7mあります。堀の底から土塁の上までの高低差は、少なくとも5.4m以上ありました。
阿あ み だ
弥陀如に ょ
来ら い
立りゅう
像ぞ う
(市指定文化財)
慶きょう
円え ん
上しょう
人に ん
坐ざ
像ぞ う
(県指定文化財)
聖しょう
徳と く
太た い
子し
立りゅう
像ぞ う
(市指定文化財)
本 堂 (県指定文化財) 庫く
裏り
本證寺のイブキ (県指定天然記念物)
経きょう
蔵ぞ う
(市指定文化財) 鐘しょう
楼ろ う
(市指定文化財)
鼓こ
楼ろ う
(市指定文化財)
裏う ら
門も ん
(市指定文化財) 本證寺のハス 本證寺の堀と土塁
(本堂欄干擬宝珠銘文のひとつ)
国指定史跡 本ほ ん
證しょう
寺じ
境け い だ い
内の見どころ
堀と土塁(推定)の形(戦国時代)
堀の形(江戸時代)
人の身長(160cm)
三州碧海郡
野寺本證寺
寺内之者共
寄進致之干時
寛文三
正月 十一日
きぼう癸卯
(本堂)
(庫裏) (裏門)
(本證寺のイブキ) (経蔵) (鐘楼)
(阿弥陀如来立像・宮殿)
正面に阿弥陀如来立像、右に慶円上人坐像、左に聖徳太子立像があります。(本堂内部)
(慶円上人坐像)
(聖徳太子立像)
(ハスと鼓楼)
内堀にハスが描かれています。 (三河三ヶ寺野寺本證寺全図・部分)
(現存する堀と土塁) 本證寺外堀発掘調査B区(東側から見たところ)
( 本證寺外堀発掘調査G区)
(復元外堀断面を見上げる)
外そとぼり堀(一部)
(国指定史跡)
外そとぼり堀(一部)
(国指定史跡)
北きたでいりぐち出入口
東ひがしでいりぐち出入口
南みなみでいりぐち出入口
西にしでいりぐち出入口
N
本図の位置
安城市歴史博物館・安城市埋蔵文化財センター
西尾市
本證寺
碧南市
刈谷市
豊田市
知立市
岡崎市
愛知県
名鉄新安城駅
名鉄西尾線
名鉄本線
JR三河安城駅
新幹線三河安城駅
安城市
堀内公園駅
桜井駅
碧海古井駅
JR安城駅JR安城駅南安城駅
JR東海道本線
安城市歴史博物館安城市埋蔵文化財センター
■開館時間 AM9:00~PM5:00(入館時間PM4:30まで)
■休 館 日 毎週月曜日(祝日の場合は開館)年末・年始(12/28~1/4)
■歴史博物館観覧料【常設展】 【特別展】一般:400円程度 注 常設展も観覧可。 ※中学生以下は無料 ※団体(20人以上)、 障害者は割引有り。
一般:200円
利用のご案内
〒446-0026 愛知県安城市安城町城堀30番地歴史博物館 TEL 0566-77-6655 FAX 0566-77-6600埋蔵文化財センター TEL 0566-77-4490 FAX 0566-77-6600URL http://www.city.anjo.aichi.jp
東海道新幹線
北安城駅
※寺は神聖な場所です。見学の際には、 マナーを守るようにお願いします。
環境に優しい植物油インキを使用しています。
歴史の散歩道南桜井駅
桜井公民館
2019.3 5,000(S)
三河一向一揆の舞台本證寺を歩く
公共交通機関のご案内
名鉄西尾線・ 南桜井駅から 徒歩15分 ・あんくるバス4分
・ 桜井駅から 徒歩30分 ・あんくるバス14分
〈桜井公民館に無料レンタサイクル があります〉 桜井公民館 0566-99-3313*あんくるバス(コミュニティーバス)は、 1乗車100円です。
高浜市
三河一向一揆の舞台 本證寺を歩く
本證寺は浄土真宗(真宗大谷派)の寺院で、山号を雲うん
龍りゅう
山ざん
といいます。鎌倉時代後期(13世紀末ころ)に、慶きょう
円えん
によって開かれました。寺伝によれば、慶円が新たな布教の土地を求めて矢を放ち、この地に落下したとされます。 15世紀後半には、本願寺の蓮
れんにょ
如の教化によって浄土真宗の高田門
もん
徒と
から本願寺門徒(いわゆる一いっこう
向宗しゅう
)に転じました。このころから、三河地方の本願寺門徒における寺院の組織化が進み、後に上
じょう
宮ぐう
寺じ
、勝しょう
鬘まん
寺じ
(いずれも岡崎市)とともに三河三さん
か寺じ
とされます。そして16世紀の前半になると、二重の堀と土塁が築かれ、城郭寺院とも呼ばれています。 永
えいろく
禄6年(1563)には、寺の不ふ
入にゅう
権けん
(租税免除と治外法権)侵害が発端となって、三河一向一揆が勃
ぼっぱつ
発します。本證寺は他の三河三か寺とともに領主の徳川家康と争いました。翌年、いったんは和議が結ばれますが、家康から一方的に出された改宗命令を拒否したため、坊主衆は領国から追放となり、建物も破
は
却きゃく
されたと伝えられます。本證寺10代の空くうせい
誓も、賀か
茂も
郡ぐん
菅すげ
田だ
和わ
(現豊田市)に逃れました。そして約20年の後、家康の伯
お ば
母石川妙みょう
春しゅん
尼に
の尽力もあって、一揆の罪は赦
しゃめん
免されます。天てん
正しょう
13年(1585)の徳川家康黒印状では、本證寺は施設である「道場屋敷」の保証と、寺に属した「家来三十間」(家来=外堀に囲まれた「寺内」の住人)の租税免除が認められています。 江戸時代になると、三河三か寺は、本山―中本山―末寺という本末制度のなかで中本山の地位を与えられ、末寺のとりまとめ役を担いました。また、本證寺は領主や寺社奉行と配下の寺院とをつなぐ三河国の触
ふれ
頭がしら
としての役割をあわせ持ち、幕末には200か寺余の末寺を有する大寺となりました。 今日の本證寺の寺観は、江戸時代を通じて順次整えられています。現存する建造物のうち最も古く再建されたのは本堂で、以後、鐘
しょう
楼ろう
、裏うら
門もん
、鼓こ
楼ろう
、経きょう
蔵ぞう
、庫く
裏り
の順となります。「寺内」には金こん
龍りゅう
寺じ
、照しょう
護ご
寺じ
、宗そうげん
玄寺じ
、善ぜん
證しょう
寺じ
の4つの寺じ
中ちゅう
(角かどでら
寺)と、家老石川家、代官神谷家、侍水野家の屋敷もありました。そして、江戸時代後期には、かつての外堀の位置が掘削され、再整備が行われました。 また、大名家と関係を持っていたことも特徴です。近おうみのくにみなくちはん
江国水口藩(現滋賀県甲こう
賀か
市)の加藤家は、本證寺の門徒であったことから、宝
ほうれき
暦11年(1761)に藩主の加藤明
あきひろ
熙が本尊を納める宮くうでん
殿を寄進しています。 明治時代になると、本末制度は廃止されますが、今日まで多くの寺宝を伝え、堀や土塁、建造物群が残されています。 平成27年(2015)3月10日に、国の史跡に指定されました。
日本仏教の恩人である聖徳太子の生涯を、全10幅、121場面にわたって描いています。聖徳太子七百回忌であった鎌倉時代の元
げんこう
亨元年(1321)ころの作とされ、鎌倉・室町時代の現存する太子絵伝としては最大の規模です。 太子の1年に対し、必ず1場面以上が振り分けられ、下から上へ場面が配置されています。
善光寺(長野市)の本尊・阿あ み だ
弥陀三さんぞんぞう
尊像が、天てんじく
竺(インド)でつくられ、百
く だ ら
済(朝鮮)を経て、善光寺に安置されるまでの由緒を、全4幅、36場面にわたって描いています。鎌倉時代に東国で盛んになる善光寺信仰が、真宗とともに三河へもたらされたと考えられます。
2.龍りゅう
燈とうのまつ
松 慶
きょう
円えん
が済さい
度ど
(迷いや苦しみから救うこと)した大蛇は、龍宮に戻り龍となり、野寺にお堂を建ててからも慶円の元に現れました。龍は、龍宮と地下でつながる境内の龍宮池から地上に出て、池を覆うような松の木を伝って本堂に向い、法
ほう
燈とう
を灯とも
したと伝えられます。慶円は、この松に燈火を献じて「龍燈松」と呼びました。
「おきょうえんさん」 慶
きょう
円えん
の命日にあたる旧暦1月13日(現在は2月の第2日曜日)に、「おきょうえんさん」と呼ばれる法
ほう
会え
が開かれます。これは、本證寺の門もん
徒と
(檀だん
家か
)であるなしに関係なく、外堀に囲まれた「寺内」の人々(現在では野寺町のみなさん)が運営しています。最後に、独特な形をしている「イナイモチ」が参
さんけいしゃ
詣者に配られます。
3.柳やなぎ
堂どう
説法・雨あま
漏も
り御ご
殿てん
・イブキの木 浄土真宗を開いた親
しんらん
鸞が、矢作の柳やなぎ
堂どう
(現岡崎市大和町の妙
みょう
源げん
寺じ
)に逗とう
留りゅう
して説法をしました。この時、慶
きょう
円えん
も参加し、親鸞を野寺へ案内したといいます。親鸞が留まった部屋は大変な雨漏りがしたのですが、親鸞の周囲だけは不思議と水滴が落ちてきませんでした。その際、親鸞は本尊前の花
け
瓶びょう
に生けられたイブキの枝を庭の地面に挿
さ
したところ、やがて根を張り、現在の大木(天然記念物 本證寺のイブキ)へと成長していきました。
1.龍りゅう
宮ぐうのふち
淵 幡豆郡小
お
島じま
村(現西尾市小島町)を訪れた慶きょう
円えん
(その時は性
しょう
空くう
と名のる)は、村民が大だいじゃ
蛇に苦しめられているのを知り、大蛇が現れる龍宮淵に向いました。すると老人が現れ、「坊主の身で刀を帯びるのはなぜか」と問うてきます。慶円が「例え殺生の破戒をしても、危害を与える大蛇を退治するのは僧の務めである」と答えると、老人は大蛇に変じて、淵の底に消えていったとされます。
4.龍りゅう
椀わん
(貸し椀) 寺での法要などで膳
ぜんわん
椀が必要な際、境内の龍宮池に数量を記した紙片を投ずると、龍宮に住む龍がこれを用意し、翌朝にはその数の膳椀が浮き上がってきたといいます。ある時、一組の椀(「龍椀」・垣
かきつた
蔦文もんくみわん
組椀:愛知県指定文化財)を返し忘れると、以後、二度と膳椀が浮かび上がることはありませんでした。
本ほ ん
證しょう
寺じ
の歴史 聖しょう
徳と く
太た い
子し
絵え
伝で ん
(国指定重要文化財)
善ぜ ん こ う
光寺じ
如に ょ ら い
来絵え
伝で ん
(国指定重要文化財)
本證寺の伝説
(聖徳太子絵伝第六幅)右下は、聖徳太子 22 歳のとき、推
すい古こ天皇の摂
せっ
政しょうに任ぜられていると
ころです。その上では、「物
もののべ部氏との戦いに勝
利したら、全ての人々を救済する寺院を建立します」と太子が誓せいがん願
されたのを受けて、四し天てん王のう寺じがつくられた場面です。
(善光寺如来絵伝第二幅)最下段は、阿弥陀三尊像を日本へ送り出す、百済の海岸での場面です。その上は龍
りゅう宮ぐう城じょうで、
ここの金きんを使って阿弥
陀三尊像がつくられました。これら二つの海を合成して描いている場面は、この絵伝のみどころのひとつです。
(水野桜山画)
(垣蔦文組椀)
(「おきょうえんさん」の法要)
(イナイモチ)
(三河三ヶ寺野寺本證寺全図・部分)