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10 Mansilla+Tuñón Enric Miralles, 1955 2000

五 レ で 奇 っ て など 受 建 ト 九 ネ シ ル スペイン …...10 バ ル セ ロ ナ 、 二 〇 一 二 年 二 月 二 十 二 日。建 築 家 L ・ M ・ マ ン

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� ●

 

バルセロナ、二〇一二年二月二十二日。建築家L・M・

マンシーリャがホテル客室で亡くなっているのを、親友で

ビジネス・パートナーのE・トゥニョンが発見した。彼ら

が一九九二年に起ち上げた設計事務所「マンシーリャ・

イ・トゥニョン」(M

ansilla+T

uñón

)は、スペインを代表

する建築デザイン・オフィスとしてすでに国際的に高い評

価を受けており、マドリッド国際会議場のコンペも勝ち取

るなど、今後のさらなる活躍が期待されていた。最も脂が

のっているまさにその時を襲った、五十二歳の早すぎる

死。奇しくもマンシーリャはその前夜、二〇〇〇年に四十

五歳で夭折したバルセロナの天才建築家エンリック・ミ

ラーレス(ミラリェス E

nric Miralles, 1955 –2000

)につい

ての出版記念イベントでのプレゼンテーションを終えたば

かりであった。

 

この一人の秀才の活躍と惜しまれる早世は、スペイン建

築界の栄光と挫折と時期を一にしている。マンシーリャ+

トゥニョン事務所が設立された一九九二年は、バルセロ

ナ・オリンピックとセビーリャ万博が行われ、スペインが

国際社会への本格的な復帰を確固たるものとした記念すべ

き年である。その後二〇〇〇年代前半に、希代の建設ブー

ムもあいまって、スペイン建築界は質・量ともに空前の繁

栄を迎える。スペイン開発省の統計によれば、建設が認可

された新築住宅戸数は一九九七年に三三万七七二八戸であ

ったのが、ピークの二〇〇六年に八六万五五六一戸に膨れ

スペイン現代建築の光と影

現代スペイン事情

伊藤喜彦

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特集 現代スペイン事情 ● �

あがっている。しかしこの時点で、建設ブームが実体を伴

わないバブルと化していたことは、多かれ少なかれ誰もが

感じ始めていた。そこへ二〇〇七年、〇八年の世界金融危

機が直撃し、スペイン建築界を一気に天国から地獄へと突

き落とした。二〇一〇年の新築住宅認可戸数は九万一六六

二戸、すなわちピーク時のわずか十分の一余りにまで落ち

込んでいる。完成はしたものの入居者が集まらずゴースト

タウンのようなニュータウン。床と柱だけ出来たところで

吹きさらしのまま放棄された建設途中のオフィス・ビル。

地方自治体に巨額の借金を残したまま開店休業状態の文化

複合施設やミュージアム……。スペイン各地に残されたこ

れらバブルの遺産は、二〇一二年現在の苦闘するスペイン

の姿を生々しく示している。一方で、こうした逆境の中か

ら、それまでとは異なったアプローチで建築に取り組む新

しい世代の建築家が生まれてきているのも、また事実であ

る。

 

本論では、現在に至るスペイン現代建築の軌跡を、新し

い建築の形がじっくりと模索され、後の躍進を準備したフ

ランコ政権後期から民主化初期、スペイン建築が世界的注

目を浴びるようになる一九九〇年代、そして建設ラッシュ

と経済危機に翻弄される二〇〇〇年代まで、代表的な建築

写真1 マンシーリャ+トゥニョン、レオン市音楽堂©Jonathan Chanca

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三色旗 2012.8(No.773)

家と作品に注目しながら辿ってみたい。

マドリッドの蕾とバルセロナの芽吹き

 

二十世紀建築史は、過去のモチーフで建物を飾り立てる

歴史主義を否定し、鉄、コンクリート、ガラスといった新

しい材料による、合理的な構造・機能・設備こそが正しい

建築のあり方だとするモダニズムによって特徴づけられ

る。二十世紀前半に確立したこうした機能主義・合理主義

は、各地域ごとに差異を見せながらも、日本を含めた西側

諸国での共通認識となり、住宅、オフィスビル、都市計画

などに適用されていった。

 

ところがスペインでは、一九三六―

三九年の内戦に勝利

したフランコ将軍によりこうした建築の新しい形が否定さ

れ、初期モダニズムの立役者たちは内戦で命を落とし、あ

るいは亡命を余儀なくされ(J・L・セルト、F・キャン

デラ)、でなければ体制の求める古典的なスタイルに順応

せざるを得なくなった。こうした制限の中、二つの大都市

マドリッドとバルセロナでそれぞれ建築家たちの悪戦苦闘

が始まる。彼らは徐々に世界の建築的潮流からの遅れを取

り戻し、やがて世界からも注目される作品を生み出すこと

になる。

 

フランコ政権下の首都マドリッドでは、後に世界的建築

家モネオを誕生させる一つの主流(A・デ・ラ・ソタ、

F・J・サエンス・デ・オイサら)が存在した一方で、他

の建築家と一線を画す独創的な作品を生んだ奇才ミゲル・

フィサック(M

iguel Fisac, 1913 –2006

)が異彩を放った。

マドリッド郊外のドミニコ会神学センター(一九五五)

は、モダンなのにどことなくクラシックな風格を残す構成

や、寡黙なレンガの壁体の中に収められた柔軟で自由な空

間といった、フィサックの作風の典型である(写真2)。

 

一方、天才ガウディを生み、一九二九年には近代建築史

上のエンブレム、ミース・ファン・デル・ローエによるド

イツ・パビリオン誕生の舞台となったバルセロナでは、内

戦後のスペインで最初にモダニズムへの復帰を宣言したと

もいえるJ・A・コデルクによるウガルデ邸(一九五一)

からセルトによるミロ財団(一九七二―

七五)まで、近代

建築を地形や地中海の風土に合わせて翻案した名作が生ま

れた。一方、民主化前後からは、宮殿か神殿かと見まごう

建築で一世を風靡したリカルド・ボフィール、現代美術に

も通じるアプローチで既存の建築や都市を変貌させるトー

レス&マルティネス・ラペーニャらが活躍した。

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この両都市を跨いで活動したのが、ラファエル・モネオ

(Rafael M

oneo, 1937 –

)である。モネオはマドリッドで学

んだが、マドリッド、バルセロナ、ハーヴァードで教鞭を

とり、あらゆる意味で両都市の建築界、そしてスペインと

世界の建築界をつなぐ極めて重要な役割を果たした。現在

活躍するスペイン人建築家でモネオの薫陶を受けていない

者を探す方が難しい。建築作品としては古代ローマ都市メ

リダの国立ローマ美術館(一九八〇―

八五)が特に重要

で、近代建築の原則を保ちつつ、ローマ建築のアーチやレ

ンガ表現を取り込み歴史性を巧みに想起させることに成功

し、高い評価を受けた(写真3)。以降モネオの建築は、

それに続く世代にとって、肯定するにせよ否定するにせよ

避けて通ることは出来ない古典となっ

たのである。

 

世界の中のスペイン

 

一九九二年に開催されたセビーリャ

万博(四月二十日̶

十月十二日)とバ

ルセロナ・オリンピック(七月二十五

日̶

八月九日)は、建築界においても

重要な転換点となった。すでに他の先

進国では八〇年代から加速していた建

築のグローバル化がスペインにも訪

れ、日本の磯崎新のオリンピック・ス

タジアムや安藤忠雄の万博日本館、イ

ギリスのN・フォスターの塔などがお

写真2 �M・フィサック、ドミニコ会神学センター礼拝堂、アルコベンダス(マドリッド)

©宮城島崇人

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目見えした一方で、この頃にスターとなったのは橋や駅な

どの土木デザインと建築・彫刻を融合したサンティアゴ・

カラトラバ(Santiago C

alatrava, 1951 –

)である。セビーリ

ャのアラミーリョ橋(一九八七―

九二)に見られるような

カラトラバの単純明快でモニュメンタルなデザインは以後

世界各地でもてはやされていくが、同時に建築界において

は、形態以外の問題がおざなりにされ

ているとの批判も高まり、経済危機以

降はバレンシアの芸術科学都市(一九

九一―

二〇〇六)のような巨大建造物

の超高額な費用が問題となっている。

 

個人住宅や学校建築からキャリアを

スタートし、カラトラバとは全く対照

的な作風で名声を確立したのが、マド

リッドで学んだA・カンポ・バエサ

(Alberto C

ampo B

aeza, 1946 –

る。彼の作品においては、シンプル極

まりない壁・床・天井とそこに射し込

む自然光による静謐な内部空間と共

に、コンクリートの平坦で一様な壁に

よる閉鎖的でときにやや威圧的でもあ

る外観が特徴的である。代表作グラナダ貯蓄銀行(一九九

五―

二〇〇一)および隣接するアンダルシア記憶の博物館

(二〇〇一―

〇九)の、巨大な王墓のような人を寄せつけ

ない外観には圧倒される。

 

バルセロナでは、一九八〇年代後半から新星ミラーレス

が高い評価を受けた。初期作品のバルセロナ郊外イグア

写真3 R・モネオ、メリダの国立ローマ美術館©Will Collin

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ラーダの墓地(一九八五―

九一)では、地形が最大限活か

されながら、ミラーレスのみずみずしいデッサンからその

まま立ち上がったかのような変則的なカーヴと斜線が、荒

石を積んで金網をかけた擁壁、コンクリートの構築的なキ

ャノピーなどの、素材と構造の存在感と掛け合わされてい

る。建築、ランドスケープ・デザイン、彫刻の融合という

べき力強い作品である。またミラーレス没後に完成したバ

ルセロナのサンタ・カテリーナ市場(一九九七―

二〇〇

五)では、既存の古い市場の構造を残してその上にふわり

とかぶせるように波打つ大屋根がかけられた(写真4)。

周辺環境の改善をも視野に入れつつ、地区の新たなランド

マークとして構想されたこのプロジェクトでは、カラフル

にうねるタイル屋根や、屋根を支える折れ曲がった支柱の

束、複雑な曲線を描く梁に、ガウディへのオマージュを感

じ取ることが出来る。

 

しかしなんといっても、一九九〇年代スペインにおいて

最大の社会的インパクトをもたらした建築は、ビルバオの

グッゲンハイム美術館(一九九一―

九七)であろう。波打

つ金属板をぎゅっと寄せ集めて船の形を抽象的に表現した

かのようなこの有名な建築は、スペイン人ではなく、アメ

リカ人建築家フランク・O・ゲーリーによって建てられた

写真4 E・ミラーレス&B・タリャブエ(EMBT)、サンタ・カテリーナ市場(バルセロナ)©Javier Gutiérrez Marcos

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ものだが、その経済的・社会的・文化的衝撃は単なる地方

の一個の美術館建築をはるかに超えるものとなった。すな

わちこれは国際的にはほぼ無名の工業都市だったビルバオ

自体の転換点となっただけではなく、記念碑的建築がもた

らす経済的・文化的効果を国内外に強烈に見せつけ、以後

世界各地の自治体にスター建築家が招かれて斬新なミュー

ジアム等を建設する潮流を決定的にしたのである。また、

バルセロナのラバル地区に建てられたアメリカのR・マイ

ヤーによるバルセロナ現代美術館(M

AC

BA

一九九一―

五)も、その後同都市で続く一連の「スター建築家現象」

の口火を切った象徴的事例である。

新たなる才能の開花

 

スペイン建築の評価の高まりは、多くの展覧会や名だた

る建築雑誌の特集にも反映されてきた。世界でも指折りの

建築メディアを誇る日本においても、一九九〇年四―

五月

にSD誌が「イベリアの熱い風」と銘打ってスペイン現代

建築を特集して以来、たびたび特集が組まれている。こう

した世界からの注目の総括と言うべき展覧会が、二〇〇六

年にニューヨーク近代美術館で開催された O

n Site: New

Architecture in Spain

展で、経済危機という嵐を迎える前の

スペインに殺到した国内外のスター建築家による大規模プ

ロジェクトだけでなく、次世代を担う建築家の珠玉の小品

が多数紹介されている。

 

ともにマドリッド建築学校を卒業し、モネオ事務所で修

行を積んだルイス・M・マンシーリャとエミリオ・トゥニ

ョンによる「マンシーリャ+トゥニョン」は、あくまでも

質実さを失わず、それでも条件によって建築の形を柔軟に

変え、遊び心さえ見え隠れさせる、二〇〇〇年代スペイン

を代表する建築アトリエの一つであろう。母校で教鞭をと

り若い世代と積極的に関わる姿勢に加え、歴史的建造物や

既存の環境を重視し、プログラムに合わせて使用する材料

や形態を大きく変えていく作風、単純な幾何学形態の使

用、そしてダイナミックであっても決してアクロバティッ

クには至らないある種の「渋さ」には、師であるモネオの

影響を見ることが可能であろう。しかし彼らの真骨頂は、

こうしたモネオ的な自己抑制の中で、品の良さを失わない

ギリギリのところで見せるポップさにこそ発揮される。彼

らの「渋ポップ」が最初に明確に現れたのはレオン市音楽

堂(一九九四―

二〇〇二)においてで、位置も形も大きさ

もバラバラな隅切りされた窓が、各層を区切る水平線と全

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体の絶妙なプロポーションの中で、見事に統御されている

(写真1)。この作品に隣接して建てられたレオンの現代美

術館(M

USA

C

二〇〇一―

〇四)は、ヨーロッパの年間最

優秀建築に与えられるミース賞を二〇〇七年に受賞してお

り、中世の色濃いレオンの町に、文字通りフレッシュな彩

りを加えている。

 

さらに若い世代の建築家では、建築批評・理論の分野で

積極的な発言をするだけでなく、現代社会の軽さ、うつろ

い、混乱を表現したかのような建築を作るアンドレス・ハ

ケ(A

ndrés Jaque, 1971 –

)やカルロス・アローヨ(C

arlos

Arroyo, 1964 –

)が注目される。彼らの実作や、情報化社会

の感性を反映したシニカルな建築批評は、モネオの安定

感、カンポ・バエサの厳格なミニマリズムからははるか遠

く、スペイン現代建築の主流であるクリーン、平明、質実

な建築とも対極のようなスタイルである。また一九六九年

生まれのアントン・ガルシア・アブリール(A

ntón García-

Abril

)も、石材の荒々しさを意図的に前面に押し出した

力強い表現のサンティアゴ・デ・コンポステーラSGAE

本部(二〇〇四)などの作品において、プロジェクト毎の

設計プロセスがそのまま建築として立ち上がるような、新

しい建築デザインの形を追求している。

 

二〇一二年現在、スペイン経済が冷え込む中、かつての

経済成長を支えた建設業界も底なしの不況にあえぐ。そん

な中で、モネオのような大御所から気鋭の若手建築家ま

で、建て続けて駆け抜けた二〇〇〇年代とは対照的に、皆

が立ち止まり、省察し、真に社会に根ざした建築のあり方

を模索し、議論しているのは、決して無意味ではないだろ

う。スペイン建築界が現在の苦境を乗り切り、再び世界を

あっと驚かすのは、そう遠いことではないと信じたい。

〔いとう 

よしひこ 

日本学術振興会特別研究員(法政大学デ

ザイン工学部)、マドリッド自治大学美術史学科客員講師。専

門はスペイン中世建築史。二〇〇八年東京大学大学院工学系研

究科建築学専攻博士課程修了、博士(工学)。主要業績―

「サ

ン・ミゲル・デ・エスカラーダ教会堂における円柱使用法につ

いて」『日本建築学会計画系論文集』第六七五号、二〇一二年、

一二五七―

一二六四頁。「サンティアゴ・デ・ペニャルバとそ

の煉瓦積トロンプルイユについて」『建築史攷』中央公論美術

出版、二〇〇九年、五―

二七頁。東京大学大学院工学系研究科

建築学専攻学位論文『スペイン十世紀レオン王国の建築と社

会』二〇〇八年。〕