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1
ヒロシマひ ろ し ま
にいた
友とも
だち
文ぶん
:檜ひ
山やま
純じゅん
子こ
協きょう
力りょく
:中越なかごし
尚なお
美み
/シティし て ぃ
・ハジャは じ ゃ
・ビディンび で ぃ ん
絵え
:アイナあ い な
・ヒヤマひ や ま
・ザズリざ ず り
2
1941年ねん
12月がつ
、日に
本ほん
軍ぐん
がイギリスい ぎ り す
領りょう
マラヤま ら や
を攻撃こうげき
し
ました。そして、1942年ねん
2月がつ
にマラヤま ら や
を占領せんりょう
しました。そ
れから、マラヤま ら や
の学校がっこう
で日本語に ほ ん ご
の授業じゅぎょう
が始はじ
まりました。
マラヤま ら や
から3人にん
が日に
本ほん
に行い
って勉強べんきょう
する南なん
方ぽう
特と く
別べつ
留りゅう
学がく
生せい
に選えら
ばれました。ラザクら ざ く
さんは今いま
のマレま れ
ーシアし あ
、ペぺ
ナな
ンん
州しゅう
出しゅっ
身しん
、ユソフゆ そ ふ
さんはクランタンく ら ん た ん
州出身しゅうしゅっしん
、そして、オマお ま
ールる
さんはジョホじ ょ ほ
ールる
州出身しゅうしゅっしん
です。
日に
本ほん
軍ぐん
Japanese army イギリスい ぎ り す
領りょう
マラヤま ら や
Unfederated Malay States
攻撃こうげき
しました attacked 占領せんりょう
しました occupied
南方特別留学生なんぽうとくべつりゅうがくせい
Special Students from Southeast Asia
選えら
ばれ chosen 今いま
の current 出身しゅっしん
です be from
ラザクら ざ く
Haji Abdul Razak Bin Abdul Hamid ユソフゆ そ ふ
Nik Yusof bin Nik
Ali オマお ま
ールる
Syed Omar bin Mohamad Alsagoff
3
ユソフゆ そ ふ
さんとオマお ま
ールる
さんは1943年ねん
から東京とうきょう
で日に
本ほん
語ご
を勉強べんきょう
しました。そして、1944年ねん
から広ひろ
島しま
高こ う
等と う
師し
範はん
学がっ
校こ う
*1で勉強べんきょう
しました。
ラザクら ざ く
さんは1944年ねん
から東京とうきょう
で日に
本ほん
語ご
を勉強べんきょう
し、
1945年ねん
から広ひろ
島しま
文ぶん
理り
科か
大だい
学がく
*2で勉強べんきょう
を始はじ
めました。
広島ひろしま
は東京とうきょう
より空襲くうしゅう
が少すく
なく、静しず
かな町まち
でした。
*1今いま
の広ひろ
島しま
大だい
学がく
教きょう
育いく
学がく
部ぶ
faculty of education, Hiroshima University
*2今いま
の広島大学大学院ひろしまだいがくだいがくいん
graduate Schools of Hiroshima University
空 襲くうしゅう
air strike
4
広島ひろしま
には9人にん
の南なん
方ぽう
特と く
別べつ
留りゅう
学がく
生せい
がいました。今いま
のイい
ンん
ドど
ネね
シし
アあ
、マレま れ
ーシアし あ
、ブルネイぶ る ね い
などから来き
ていました。
中国ちゅうごく
などからの留学生りゅうがくせい
もいました。
日に
本ほん
は戦せん
争そう
中ちゅう
でしたから、食た
べ物もの
があまりありません
でしたが、日に
本ほん
人じん
は時々ときどき
、留学生りゅうがくせい
を誘さそ
っていっしょにうち
でごはんを食た
べました。
留学生りゅうがくせい
たちは食しょく
事じ
の後あと
、ブンガワンぶ ん が わ ん
・ソロそ ろ
やラサら さ
・サさ
ヤや
ンん
ゲげ
などふるさとの歌うた
を歌うた
いました。
戦争中せんそうちゅう
during the war 誘さそ
って(誘さそ
います)invite
ブンガワンぶ ん が わ ん
・ソロそ ろ
Bengawan Solo (インドネシアい ん ど ね し あ
・ジャワじ ゃ わ
島とう
のソロそ ろ
川がわ
の歌うた
/song of Solo River in Java, Indonesia)
ラサら さ
・サヤンさ や ん
ゲげ
Rasa Sayange(「愛いと
しい思おも
い」というマレま れ
ー語ご
の歌うた
Malay language song with title meaning "feeling fondness")
5
1945年ねん
8月がつ
6むい
日か
。
明あか
るい太陽たいよう
、青あお
い空そら
。とても天てん
気き
のよい朝あさ
でした。新あたら
しい一日いちにち
が始はじ
まり、ラザクら ざ く
さんは授業じゅぎょう
に行い
きました。
午ご
前ぜん
8時じ
15分ふん
、とても強つよ
い光ひかり
がピカぴ か
ーッっ
と、空そら
から落お
ちてきました。
「稲妻いなずま
だ!」 ラザクら ざ く
さんは言い
いました。
太陽たいよう
The sun 光ひかり
the light ピカぴ か
ーッっ
と flushing
から落お
ちてきました It has fallen from / been dropped
稲妻いなずま
lightning
6
それは、稲妻いなずま
ではありませんでした。そして、地じ
震しん
のよ
うに地じ
面めん
が揺ゆ
れ、壁かべ
が傾かたむ
き、建物たてもの
が壊こわ
れました。
「ああ、アッラあ っ ら
ーの神かみ
よ!」
ラザクら ざ く
さんは壊こわ
れた建物たてもの
の中なか
に埋う
もれました。
まわりは真ま
っ暗くら
でした。ラザクら ざ く
さんは小ちい
さい光ひかり
を見み
つ
け、やっと外そと
にでることができました。
地じ
震しん
のように like an earthquake 地じ
面めん
が揺ゆ
れ (ます) ground shakes
壁かべ
wall 傾かたむ
き(ます)lean 壊こわ
れました has broken
アッラあ っ ら
ーの神かみ
God, Allah 埋う
もれました he has been buried
真ま
っ暗くら
pitch dark 見み
つけ(ます)find やっと at last
7
外そと
にはどこにも建物たてもの
がありませんでした。まわりは、が
れきだらけでした。人ひと
や動物どうぶつ
の焼や
け焦こ
げた死し
体たい
もありま
した。
ラザクら ざ く
さんも頭あたま
から血ち
が出で
ていました。でも他ほか
の留りゅう
学がく
生せい
といっしょに、がれきの下した
の人ひと
を一生懸命助いっしょうけんめいたす
けまし
た。
がれきだらけ full of rubble 焼や
け焦こ
げた死し
体たい
burned corpse
血ち
が出で
ていました was bleeding 他ほか
の other
一生懸命いっしょうけんめい
with one’s utmost effort 助たす
けました saved
8
広島ひろしま
は大おお
きな火事か じ
でした。とても熱あつ
いので、多おお
くの人ひと
が川かわ
の中なか
に飛と
び込こ
みました。ラザクら ざ く
さんも川かわ
に飛と
び込こ
み
ました。
とても恐おそ
ろしい爆弾ばくだん
でした。一ひと
つの爆弾ばくだん
でたくさんの
人ひと
が亡な
くなりました。ユソフゆ そ ふ
さんは8月がつ
7なの
日か
に亡な
くなった
ことが、後あと
で分わ
かりました。
8月がつ
15日にち
に戦争せんそう
が終お
わりました。留学生りゅうがくせい
はふるさとに
帰かえ
ることになり、東京とうきょう
へ行い
きました。
火事か じ
fire 飛と
び込こ
みました jumped into 爆弾ばくだん
bomb
亡な
くなりました passed away 恐おそ
ろしい tragic, horrible
9
オマお ま
ールる
さんは東京とうきょう
へ行い
く途と
中ちゅう
、9月がつ
3みっ
日か
に京都き ょ う と
の
病びょう
院いん
で亡な
くなりました。ユソフゆ そ ふ
さんもオマお ま
ールる
さんもまだ
19歳さい
でした。
ラザクら ざ く
さんは1945年ねん
9月がつ
にふるさとに帰かえ
ることがで
きました。そして、その後ご
、1977年ねん
に日に
本ほん
語ご
教きょう
育いく
の専せん
門もん
家か
になりました。ラザクら ざ く
さんは、いつも平へい
和わ
を願ねが
っていま
した。2013年ねん
に88歳さい
で亡な
くなるまでいつも、人々ひとびと
に
ヒロシマひ ろ し ま
の話はなし
、恐おそ
ろしい爆弾ばくだん
の話はなし
をしました。
ヒロシマひ ろ し ま
でいっしょに勉強べんきょう
した友とも
だち、ユソフゆ そ ふ
さんと
オマお ま
ールる
さんのことは決けっ
して忘わす
れませんでした。
途と
中ちゅう
on the way専せん
門もん
家か
expert 平へい
和わ
を願ねが
って hoping for peace
人々ひとびと
people 続つづ
けました kept on 決けっ
して忘わす
れません never forget
10
あとがき (Postscript)
日本に ほ ん
の人々ひとびと
は、ユソフゆ そ ふ
さんとオマお ま
ールる
さんのためにイい
スす
ラら
ムむ
式しき
のお墓はか
をつくりました。
人々ひとびと
は二ふた
人り
が亡な
くなった日ひ
に、毎まい
年とし
お墓はか
の前まえ
でお祈いの
りをしています。二ふた
人り
の事こと
を忘わす
れないように、そして平へい
和わ
を願ねが
って……。
~のために for イい
スす
ラら
ムむ
式しき
Islamic style 墓はか
graveつくります make/build
忘わす
れないように not to forget 平へい
和わ
を願ねが
って hoping for peace
お祈いの
り pray
11
資し
料りょう
のペぺ
ージじ
ユソフゆ そ ふ
さんのお墓はか
は「光こう
禅ぜん
寺じ
」にあります。
(住所じゅうしょ
: 広ひろ
島しま
市し
佐さ
伯えき
区く
五いつ
日か
市いち
二に
丁ちょう
目め
1番ばん
1号ごう
)
The grave of Nik Yusof is located at “Kozen--
ji Temple” 2-1-1,
Itsukaichi, Saeki Ward, Hiroshima
マレーシア、コタバル市訪問団 2019年 10月 19日
写真提供:青木圭子(南方特別留学生を語り伝える会)
A group of visitors from Kota Bharu,Malaysia in front of the grave of
Nik Yusof. November 2019 Photo: Ms. Keiko Aoki
Reference
中國新聞ヒロシマ平和メディアセンター
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=94251 (in Japanese)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=94462 ( in English)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=94251http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=94462
12
オマお ま
ールる
さんのお墓はか
は「圓光寺えんこうじ
」にあります。
(住所じゅうしょ
: 京きょう
都と
市し
左さ
京きょう
区く
一いち
乗じょう
寺じ
小こ
谷たに
町ちょう
13 )
The grave of Syed Omar is located in “Enko--
ji Temple”, 13 Ichijoji
Kotanicho, Sakyo Ward, Kyoto, 606-8147, Japan.
京都市の圓光寺に眠る被爆南方特別留学生サイド・オマール展
(2019年 8月 20日~9月 3日)
Exhibition for Syed Omar had held from 20 August 2019 until 3
September 2019 at Enko-ji Temple
13
サイド・オマールさん法要(2019年 9月 3日)
Memorial service had been held on 3rd September 2019 at Enko-ji temple
写真提供:中越尚美(平和の大切さを伝える日本語教材をつくる会)
Photo: Ms. Naomi Nakagoshi
参考資料:
わが心のヒロシマ―マラヤから来た南方特別留学生 1991
オスマン・プティ (著), 小野沢 純 (翻訳), 田中 和夫 (翻訳), 山下 勝男 (翻訳)
南方特別留学生ラザクの「戦後」―広島・マレーシア・ヒロシマ 2012宇高 雄志 (著)
ユソフさん Remembering Nik 2019青木圭子 Keiko Aoki
Debu Hiroshima 1992 Othman Puteh
Razak-sensei 2015 Kalthom Husain,Aida Nasirah Abudullah, Hanipah Hussin
広島平和記念資料館 平和データベース(最終閲覧日 2020年 3月 23日)
Hiroshima Peace Memorial Museum Peace Database http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database/
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database/