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49 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 【書評】 Pierre Montebello, Deleuze, esthétiques la honte d'être un homme, Dijon, les presses du réel, coll. « Ferma », 2017. ⿊⽊ 秀房 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 哲学はその始まりから芸術とともにあったと⾔えるが、その関 係は⼀筋縄にはいかない。とりわけ 20 世紀フランス哲学におい て、芸術は哲学の単なる例⽰であるどころか、哲学の主要な源泉 の⼀つでもあった。ドゥルーズもまた例外ではない。⽂学、絵画、 映画について浩瀚な著作を残しているだけでなく、初期から晩年 に⾄るまで様々な著作において数多くの芸術への⾔及を⾒出す ことができる。だが、それらは従来の美学や芸術論といった形で 安易に要約することを受け付けない。だとすれば、ドゥルーズは 芸術に⾔及しながら何を⽬指していたのだろうか。このような問 いを考察するにあたって、本書は⽰唆に富む。 著者ピエール・モンテベロは、すでにドゥルーズに関する著作 を⼆冊執筆しているだけでなく、メーヌ・ド・ビラン、ラヴェッ ソン、タルド、ニーチェ、ベルクソンらに関する著作があり、こ れらの哲学研究を⼟台としながら、ドゥルーズに着想を得た 「⾮ ⼈間主義」の哲学を精⼒的に展開している (1) 。著者はすでに来⽇ した経験があり、⽇本のドゥルーズ研究者にも広く知られている。 また 「⾮⼈間主義」の哲学についても、すでに鈴⽊泉による簡に して要を得た優れた紹介があるので、そちらを参照していただき たい (2) 。とはいえ、ここで著者が強調するドゥルーズの 「⾮⼈間 主義」の特徴をきわめて単純化してまとめておくならば、歴史的、 社会的、⽂化的にア・プリオリに規定される 「⼈間」から逃れる ことを思考の条件とすることであると⾔えよう。 本書は、これまで著者が展開してきた 「⾮⼈間主義」の哲学を 下敷きとしながら、ドゥルーズによって⾒出された芸術が担う脱 ⼈間化の機能について多⾓的に論じたものである。ともすると、 ドゥルーズの⽂章以上に難解であったり、重箱の隅をつつくよう な研究とは異なり、他の哲学者にも⽬配せをしながらバランス良 く重要な論点を明晰に論じている。著者は、芸術との出会いの舞 台となった思想史的背景を紐解き、きわめて凝縮された⽂章の背 後にある思想の流れに対して明快な⾒取り図を与えつつ、⼀⾒す ると四散的にも思われるドゥルーズの芸術への関⼼とその倫理 的接点を 「⼈間であることの恥」というプリモ・レーヴィの⾔葉 へと集約する。この点において、本書は著者によるこれまでの ドゥルーズ研究の蓄積を感じさせるものだが、単に研究領域を広 げ、「⾮⼈間主義」の哲学を芸術論にも⾒出すといったものに留 まらない。というのも、題名に含まれる esthétique が、「美学」 と訳されるべきであるような定冠詞つきの esthétique でないこ とからも⾒て取れるように、本書で⽬指されているのは、⾮⼈間 的なものに美的価値を認めるドゥルーズ美学の抽出というより は、「⾮⼈間主義」の哲学における多様な芸術の必要性を明らか にすることであり、「⾮⼈間主義」に関する考察のさらなる発展 が認められるからである。 本書に特徴的なのは、概念毎の記述や、テーマ毎の分析という よりはむしろ、ドゥルーズが批判的に参照したと思われる様々な 哲学 ・思想を巡って展開される点である。戦後フランス思想にお ける最も⼤きな分断線の⼀つに芸術に対する評価をあげること ができるが、本論はまさにドゥルーズとレヴィナスのそれを取り 上げ、その分⽔嶺となったブランショにおける 「⾮⼈称的なもの」 の解釈に⾔及することから始まる。著者は、このブランショ読解 を巡る哲学的ドラマを出発点に、従来の研究で指摘されてきた ドゥルーズにおけるベルクソン、ニーチェ、スピノザの重要性を 改めて捉え直しつつ、現象学(メルロ=ポンティ)、超越論哲学 (カント、フッサール、ハイデガー)、本質主義 (プラトン)、構 造主義 (レヴィ=ストロース)、精神分析 (フロイト)といった哲 学・思想との対決を跡付けながら、「⾮⼈間主義」としてのドゥ ルーズ哲学の独⾃性を浮き彫りにする。 だが、最も興味深く思われるのは、こうしたドゥルーズ哲学の 背後にある思想史的対決が、理論の直接的な突き合わせというよ りは、芸術ないし感性的なものの位置づけによってその輪郭が描 かれる点だ。著者によれば、芸術による⼈間性の否定を認め、芸 術に対して批判的な哲学者がいる⼀⽅で、ドゥルーズはベーコン の絵画、プルーストやゾラの⽂学、映画、ブーレーズの⾳楽など

dglaboratory.files.wordpress.com · Jacques Rancière, « Existe-t-il une esthétique deleuzienne ? », in Gilles Deleuze, une vie philosophique, Paris, Synthélabo, 1998. Author:

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【書評】

Pierre Montebello, Deleuze, esthétiques ̶ la honte d'être un homme, Dijon,

les presses du réel, coll. « Ferma », 2017.

⿊⽊ 秀房

―――――――――――――――――――――――――――――――――

哲学はその始まりから芸術とともにあったと⾔えるが、その関

係は⼀筋縄にはいかない。とりわけ 20 世紀フランス哲学におい

て、芸術は哲学の単なる例⽰であるどころか、哲学の主要な源泉

の⼀つでもあった。ドゥルーズもまた例外ではない。⽂学、絵画、

映画について浩瀚な著作を残しているだけでなく、初期から晩年

に⾄るまで様々な著作において数多くの芸術への⾔及を⾒出す

ことができる。だが、それらは従来の美学や芸術論といった形で

安易に要約することを受け付けない。だとすれば、ドゥルーズは

芸術に⾔及しながら何を⽬指していたのだろうか。このような問

いを考察するにあたって、本書は⽰唆に富む。

著者ピエール・モンテベロは、すでにドゥルーズに関する著作

を⼆冊執筆しているだけでなく、メーヌ・ド・ビラン、ラヴェッ

ソン、タルド、ニーチェ、ベルクソンらに関する著作があり、こ

れらの哲学研究を⼟台としながら、ドゥルーズに着想を得た 「⾮

⼈間主義」の哲学を精⼒的に展開している (1)。著者はすでに来⽇

した経験があり、⽇本のドゥルーズ研究者にも広く知られている。

また 「⾮⼈間主義」の哲学についても、すでに鈴⽊泉による簡に

して要を得た優れた紹介があるので、そちらを参照していただき

たい (2)。とはいえ、ここで著者が強調するドゥルーズの 「⾮⼈間

主義」の特徴をきわめて単純化してまとめておくならば、歴史的、

社会的、⽂化的にア・プリオリに規定される 「⼈間」から逃れる

ことを思考の条件とすることであると⾔えよう。

本書は、これまで著者が展開してきた 「⾮⼈間主義」の哲学を

下敷きとしながら、ドゥルーズによって⾒出された芸術が担う脱

⼈間化の機能について多⾓的に論じたものである。ともすると、

ドゥルーズの⽂章以上に難解であったり、重箱の隅をつつくよう

な研究とは異なり、他の哲学者にも⽬配せをしながらバランス良

く重要な論点を明晰に論じている。著者は、芸術との出会いの舞

台となった思想史的背景を紐解き、きわめて凝縮された⽂章の背

後にある思想の流れに対して明快な⾒取り図を与えつつ、⼀⾒す

ると四散的にも思われるドゥルーズの芸術への関⼼とその倫理

的接点を 「⼈間であることの恥」というプリモ・レーヴィの⾔葉

へと集約する。この点において、本書は著者によるこれまでの

ドゥルーズ研究の蓄積を感じさせるものだが、単に研究領域を広

げ、「⾮⼈間主義」の哲学を芸術論にも⾒出すといったものに留

まらない。というのも、題名に含まれる esthétique が、「美学」

と訳されるべきであるような定冠詞つきの esthétique でないこ

とからも⾒て取れるように、本書で⽬指されているのは、⾮⼈間

的なものに美的価値を認めるドゥルーズ美学の抽出というより

は、「⾮⼈間主義」の哲学における多様な芸術の必要性を明らか

にすることであり、「⾮⼈間主義」に関する考察のさらなる発展

が認められるからである。

本書に特徴的なのは、概念毎の記述や、テーマ毎の分析という

よりはむしろ、ドゥルーズが批判的に参照したと思われる様々な

哲学 ・思想を巡って展開される点である。戦後フランス思想にお

ける最も⼤きな分断線の⼀つに芸術に対する評価をあげること

ができるが、本論はまさにドゥルーズとレヴィナスのそれを取り

上げ、その分⽔嶺となったブランショにおける 「⾮⼈称的なもの」

の解釈に⾔及することから始まる。著者は、このブランショ読解

を巡る哲学的ドラマを出発点に、従来の研究で指摘されてきた

ドゥルーズにおけるベルクソン、ニーチェ、スピノザの重要性を

改めて捉え直しつつ、現象学(メルロ=ポンティ)、超越論哲学

(カント、フッサール、ハイデガー)、本質主義 (プラトン)、構

造主義 (レヴィ=ストロース)、精神分析 (フロイト)といった哲

学・思想との対決を跡付けながら、「⾮⼈間主義」としてのドゥ

ルーズ哲学の独⾃性を浮き彫りにする。

だが、最も興味深く思われるのは、こうしたドゥルーズ哲学の

背後にある思想史的対決が、理論の直接的な突き合わせというよ

りは、芸術ないし感性的なものの位置づけによってその輪郭が描

かれる点だ。著者によれば、芸術による⼈間性の否定を認め、芸

術に対して批判的な哲学者がいる⼀⽅で、ドゥルーズはベーコン

の絵画、プルーストやゾラの⽂学、映画、ブーレーズの⾳楽など

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に⾮⼈間的世界の再構成を⾒出し、むしろ芸術を「⾮⼈間主義」

哲学に不可⽋なものと位置づける。このような対⽴軸の背景には、

唯⼀絶対の真理があるのではなく、真理は創造されなければなら

ない、というニーチェ的な真理観があることは⾔うまでもなかろ

う。フランス現代思想におけるニーチェの重要性は幾度強調して

もし過ぎることはないが、重要なのは、「真理とは何か」という問

いから、「真理を可能にする条件とは何か」という問いへと重⼼

が移ったことではないか。まさに著者は、⼈間中⼼主義の紋切り

型の世界から抜け出すために、芸術のうちに新たな真理を可能に

する⾃⼰と世界の⾮⼈間的関係をつぶさに⾒出すドゥルーズを

強調する。

とはいえ、著者は、⼈間以前、あるいは⼈間未満の世界として

の 「⾃然」へと回帰する傾向をドゥルーズ哲学のうちに⾒て取る

わけではなく、むしろ、「世界の終焉」といったニヒリズムを忌避

し、世界への信を取り戻すために新たな世界のヴィジョンの必要

性を指摘する。だとすれば、ドゥルーズ哲学に⾒出される⾮⼈間

主義とは、単に⼈間なしの世界を想像することではなく、新たな

世界に住まう 「⾮⼈間的」⼈間の形象の創造を⽬指すものではな

いか。これらの点についてさらに掘り下げるためには、ドゥルー

ズの芸術に対する⾔及をより丹念に精査していく必要があるよ

うに思われる。今後、本書で取り上げられなかった芸術も含め、

さらなる展開が望まれる。他にも、ドゥルーズ研究においてこれ

まで⽐較的⾔及が少なかった⾳楽論やベルクソンの神秘主義と

の関係への⾔及、「ドゥルーズ的美学は存在するか」(3)というラ

ンシエールが発した問いに対する応答など、議論を呼び起こしそ

うな⾒逃せない論点も多い。本書をきっかけに、ドゥルーズ研究

がさらに深化するにちがいない。

――――

Notes

1. そのうち⼀冊は、翻訳がある。ピエール・モンテベロ 『ドゥルーズ 思考のパッション』⼤⼭載吉、原⼀樹訳、河出書房新社、

2018 年。他に翻訳されたものとして、ピエール・モンテベロ 「ドゥルーズ、反-現象学」⼩倉拓也訳、『年報⼈間科学』第 32

号、⼤阪⼤学⼈間科学部社会学・⼈間学・⼈類学研究室、2011 年、199-206 ⾴がある。

2. 鈴⽊泉 「⾮⼈間主義の哲学――ピエール・モンテベロの仕事をめぐって」、『死⽣学研究』第 9 号、東京⼤学⼤学院⼈⽂社会系

研究科、2008 年、82-96 ⾴。

3. Jacques Rancière, « Existe-t-il une esthétique deleuzienne ? », in Gilles Deleuze, une vie philosophique, Paris,

Synthélabo, 1998.