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孝の原義に関する一考察
田
中
侃
刀
1
「孝」という字は、子供(子)が老人(ヂ)を背負った形であると謂われている。つまり、子供が老人(父母)を扶養す
ることを示しているのである。この見解が正しいとすれば、孝の本来の意味は、親を扶養すること、という意味であったと
思われる。そして、中国の古典を播くと、それを裏附けするような例が幾つか見られるのである。
やしな
「墨子」の経上に、「孝、利親也。」とあるが、日本では此れを、「孝ハ、親ヲ利フナリ。」と訓読している。利を養の意味
に解しているわけで、初めに訓読した人は孝の原義を養と解していたのであろう。もっとも、清の孫詰譲の著した「墨子間
詰」の註には、「頁子ノ道術篇二云フ、子ノ親ヲ愛利スルハ、之ヲ孝ト謂フ。」とあって、利を単に養という意味ではなく、
敬愛し利益をはかる意味に解している。
「論語」の為政の中に次のような孔子の言葉が見える。
子游孝ヲ問フ。子日ク、今ノ孝ハ、是レ静ク養フヲ謂フ。犬馬二至ルモ、鷺静ク養フ有リ。敬セズンバ何ヲ以テ鷲タ
一1一
ンヤ。
これは礼記の坊記にも孔子の言葉として同じ形で見えている。右の章について朱子の「論語集註」には次のような註が有
る。
また ごと たくは よ
養ハ飲食供奉ヲ謂フナリ。犬馬ノ人ヲ待チテ食フモ、亦養フ若ク然リ。人、犬馬ヲ畜へ、皆能ク以テ之ヲ養フ有ルヲ
ナへ こと
言フ。趣シ能ク其ノ親ヲ養ヒテ敬至ラザレバ、則チ犬馬ヲ養フ者ト何ゾ異ナラン。甚ダシク不敬ノ罪ナルヲ言フ。深ク
之ヲ聲ル所以ナリ・胡昏ク・世俗墾寒・能ク養・テ足サ。恩二獅・愛ヲ儲ミテ、其ノ漸ク不敬二流ルルヲ知
いま こご こ
ラザレバ則チ小失二非ザルナリ。子游ハ聖門ノ高弟ニシテ、未ダ必ズシモ此二至ラズ。聖人直チニ其ノ愛ノ敬二瞼ユル
ここ
ヲ恐ル。故二是ヲ以テ深ク警メテ之ヲ発スルナリ。
せん しよう
えい
また「新訳四書読本」(謝泳螢・李塗・劉正浩・郎墨友、編訳。三民書局)には次のように訳している。
子游が孔子にどうすれば孝になるのかと尋ねたので、孔子は次のように言われた。「世間のいわゆる孝は、ただ飲食
の面で父母の世話をするだけだ。犬や馬にでも人間は同じように世話をしているのだ。もしも父母に対して尊敬の念を
少しでも持たなかったなら、どんな区別がそこに有るのか。」と。(原文は中国語)
うやま
以上の解釈は、もし親の世話をする際に敬う心が無かったならば、父母を犬や馬と同列に扱ったことになる、としている
のである。右と異なった解釈に、陳溶の「論語話解」(一九一六年、商務印書館)の解釈が有って、同書には次の如くに見
える。
子游が孔子に会い、子游もまた孝道について尋ねた。孔子はこう言われた。「父母が年老いて、子供の世話に頼るよ
うになると、近頃の親孝行な人は、ただ力を尽して働いて、十分に親の世話をすると、それが孝だとしてしまってい
うやま
る。私の考えでは、孝はただ十分に世話をすることだけではなく、やはり十分に敬わなければならない。あの田舎の学
一2一
さかな
問もない連中が父母の世話をしていることはさて置き、犬や馬のように無知なものさえ、犬も兎を捕えて人間に酒の肴
を提供するし、馬も車を人間に代って引いて走り廻っている。それは人の世話をするということには十分に役立ってい
るのである。もし人の子たるものが、単に父母を世話することだけ知っていて、父母を尊敬することを知らなければ、
つまりあの犬や馬が人の代りに力を尽しているのと同じで、犬や馬と少しも区別できないし、どうして孝子たり得よう
か。」之。(原文は中国語)
うやま
つまり陳溶の解釈では、犬も人間の食べ物ぐらいは提供するし、馬も人間のために労力を提供しているのだから、敬う心が
な
無ければ、人間も犬や馬並みの奉仕しかしていないことになる、というのである。この解釈は、このように解釈することも
可能であるから、否定することはできないであろうが、少々無理な解釈と言うべきであって、やはり朱子や新訳四書読本の
解釈の方が妥当であると思われる。
わか
「敬セズンバ何ヲ以テ別タンヤ。」について、佐藤一斎(一八五九年残、八十八歳)は、その著「論語欄外書」の中に、
次のように註している。
何ヲ以テ別タンヤトハ、孝ノ養ト別ツベカラザルヲ言フナリ。
つまり、孔子が「どうして区別できようか。」と言われたのは、敬う心が無ければ孝と養との区別がつかなくなる、という
意味である、と一斎は解釈した。結果的には先に挙げた解釈と同じことを意味しているのであるが、一斎は孔子の言葉から
コ
孝は養に敬が加ったものである、と解釈したと考えられるのである。
さて、孔子の右の言葉は非常に重要な意味を持っていると思う。第一に、孔子の時代より以前には、孝は養という意味で
り
しかなかったことを示している。第二に、孔子の此の言葉によって、孝が道徳として完成したことである。つまり、孔子の
此の言葉以後は、孝と養とは同じ意味ではなくなった、ということである。
一3一
孝が元来養の意味として用いられていたことは、他にも例が見える。
「礼記」の祭義中には、次のような曽子の言葉が有る。
はつかし
曽子日ク、孝に三有リ。大孝ハ親ヲ尊ビ、其ノ次ハ辱メズ。其ノ下ハ能ク養フ。
この言葉は、孝を三段階に分けているが、孝の最低の条件が養であるということは、孝の原義がやはり養であったことを意
味していると思う。
また、 「礼記」の内則にも次のような言葉が有る。
曽子日ク、孝子ノ老ヲ養フヤ、其ノ心ヲ楽シマセ、其ノ志二違ハズ、其ノ耳目ヲ楽シマセ、其ノ寝処ヲ安ンジ、其ノ
まこと
飲食ヲ以テ忠二之ヲ養フ。
この言葉は孝のかなり具体的な説明になっているが、この言葉からも、孝が養の意味に用いられていることが分るのであ
る。
更に「礼記」の祭統には、
つか さう をは
孝子ノ親二事フルヤ三道有リ。生ケルトキハ則チ養ヒ、没スレバ則チ喪シ、喪畢レバ則チ祭ル。
とあって、両親の生存中には養うことが孝になっているのである。
所で孝に対しては不孝ということが考えられる。不孝を指摘することは、孝を教えることにもなるわけで、礼記その他に
不孝についての記事が幾つか見られる。その中で、 「孟子」の離婁下には次のような言葉が有る。
孟子日ク、世俗ノ謂ハユル不孝ハ五。其ノ四支ヲ惰シテ、父母ノ養ヲ顧ミザルハ、一ノ不孝ナリ。博変シテ飲酒ヲ好
、よ、父母ノ養ヲ顧ミザルハニノ不孝ナリ。貨財ヲ好ミ、妻子ヲ私シテ、父母ノ養ヲ顧ミザルハ三ノ不孝ナリ。耳目ノ欲
ほしいまま
ヲ従ニシ、以テ父母ノ鐵ヲ為スハ、四ノ不孝ナリ。勇ヲ好ミテ囲恨シ、以テ父母ヲ危クスルハ、五ノ不孝ナリ、ト。
一4一
右の孟子が挙げている五不孝の中の三つの不孝は、父母の養を顧みないことになっている。
孝が養の意味に用いられている一例となるであろう。
これも裏返して考えて見ると、
2
それでは、一般的に親子関係(普通は父子関係と呼んでいる)について、概ね孔子の時代にはどのように考えられていた
であろうか。
「荘子」の人間世には次のような記事が見える。
めい
仲尼日ク、天下二大戒ニアリ。其ノ一ハ命ナリ。其ノ一ハ義ナリ。子ノ親ヲ愛スルハ命ナリ。心二解クベカラズ。臣
ゆ これ こ ごこ
ノ君二事フルハ義ナリ。適キテ君二非ザルハ無キナリ。天地ノ間二逃ルルトコロ無シ。是ヲ之レ大戒ト謂フ。是ヲ以テ
そ これ
夫レ其ノ親二事フル者ハ、地ヲ択バズシテ之ヲ安ンズ。孝ノ至リナリ。夫レ其ノ君二事フル者ハ、事ヲ択バズシテ之ヲ
安ンズ。忠ノ盛ンナルナリ。
これは孔子の言葉として録されているものであるが、子供が親を愛することを宿命的なものであって、心理的には説明でき
ないものであるとしている。
また「呂氏春秋」の節喪には次の言葉が見える。
孝子ノ其ノ親ヲ重ンズルヤ、慈親ノ其ノ子ヲ愛スルヤ、肌骨ヲ痛マシムルハ性ナリ。
右は孝子と慈親との関係であるから、大戒のように一般的な親子関係を指すものとは言えないかも知れないが、しかし「肌
ほねみ とお せい めい
骨ヲ痛マシムル」(骨身に徹るほどの)という親子の愛情を性(大戒の命と同じ意味に解していいと思う)であると言って
めい せい
いるのは本能的とも言える親子の愛情を、極めて的確に表現していると考えられる。そして私たちは、命とか性とか呼ばれ
一5一
の
るような親子の愛情の上に孝が成立していることを認めることができるのである。ただ、孝がこのような愛情そのものであ
るとは言えないことも認めなければなるまい。孔子の言葉の意味する孝の道徳は、謂わば本能的な親子の愛情そのものを意
味するものではないのである。
更に、現実の親子関係が常に愛情に満ちたものであったかどうかということも考えて見たい。
「韓非子」に繰返して見える記事であるが、十過から引用すると、次のような話が有る。
いかん そ つかきど
(桓)公日ク、然ラバ則チ易牙ハ何如ト。管仲日ク、不可ナリ。夫レ易牙ハ君ノ為二味ヲ主ル。君ノ未ダ嘗テ食セザ
ただ
ル所ハ、唯人肉ノミ。易牙、其ノ子ノ首ヲ蒸シテ之ヲ進ム。君ノ知ル所ナリ。人ノ情、其ノ子ヲ愛サザルハナシ。今、
其ノ子ヲ蒸シテ以テ君に膳ヲ為ル。其ノ子スラ愛サズ。又イヅクンゾ能ク君ヲ愛サンヤ、ト。
右は易牙が忠義の余り、主人の桓公のために自分の子供を料理して、その人肉を桓公に供したという話である。和田清博士
の説では、古代中国に喰人の風習が有ったようであるから、この話も全く虚構であるとは言い切れないようである。子供が
父の為に進んで命を捨てたのだとすれば、易牙の子供は孝(子孝)であったかも知れないが、易牙は決して慈(父慈)では
ない。そして管仲の「人ノ情、其ノ子ヲ愛サザルハナシ。」という批評こそ正当であると考えられる。
また「韓非子」の説林上に次の話が見える。
がくやう あつもの おく
楽羊、魏ノ将ト為リテ中山ヲ攻ム。其ノ子、中山二在リ。中山ノ君、其ノ子ヲ烹テ之ガ菱ヲ遺ル。楽羊、幕下二坐シ
すす くら
テ之ヲ畷リ、一杯ヲ尽ス、文侯、堵師質二謂ッテ日ク、楽羊、我ガ故ヲ以テ、其ノ子ノ肉ヲ食フ、ト。答ヘテ日ク、其
かヘ
ノ子ニシテ之ヲ食フ、且ツ誰ヲカ食ハザラン。楽羊、中山ヨリ罷ル。文侯、其ノ功ヲ賞シテ其ノ心ヲ疑ヘリ。
これも楽羊という忠臣が、主人の文侯のために、敵に殺されて吸い物になってしまった我が子の肉を食べるという陰惨な話
である。易牙にしても楽羊にしても、主人に忠義を尽そうとした結果かも知れないが、やはり人間の本来持っている親子の
一6一
愛情を無視した行為であった為に、非難を受け、また特殊な出来事として後世にまで伝えられるようになったのであろう。
以上の二例は父不慈の極端な例ではあるが、現実には親子の人間関係に於ける父慈が必ずしも常に親子の強い愛情によって
支えられてはいない事を示している。又、古今東西を通じて、父不慈・子不孝の例は幾つも見られるのが現実なのである。
「老子」の十八章に、
すた ヨへまく
大道廃レテ仁義有リ。慧智出デテ大偽有リ。六親和セズシテ孝慈有リ。国家昏乱シテ忠臣有リ。
という有名な言葉が有る。右の六親は色々な説が有るが、父母・兄弟・妻子などを指すのであろう。老子の言葉を裏返す
と、孝慈の道徳の存在するところには、六親が相い和している、ということにもなるが、老子は当時の現実社会の六親が相
い和していない状況を見た上で右の言葉を吐いたのであろう。つまり、老子や孔子の時代には父不慈・子不孝という関係も
有ったことを示す言葉であると見ていい。
「墨子」の兼愛・上には、
らん みつ か
臣子ノ君父二不孝ナルハ、謂ハユル乱ナリ。子、自カラ愛シテ、父ヲ愛サズ。故二父ヲ彪キテ自カラ利ス。弟、自カ
ラ愛シテ、兄ヲ愛サズ。故二兄ヲ繭キテ自カラ利ス。臣、自カラ愛シテ、君ヲ愛サズ。故二君ヲ膨キテ自カラ利ス。此
レ謂ハユル乱ナリ。父ノ子二慈ナラズ、兄ノ弟二慈ナラズ、君ノ臣二慈ナラザルハ、此レマタ天下ノ謂ハユル乱ナリ。
という言葉が見える。臣が君に対して不孝(世話をしない意味であろう)であり、子が父に対して不孝である状態を乱だと
し、又、子・弟・臣それぞれが自分を愛して自分の利益をはかっている状態も乱だとし、更に、父の不慈、兄の不慈、君の
不慈も乱である、としている。
「墨子」の兼愛・中には、
君臣、恵忠ナラズ、父子、慈孝ナラズ、兄弟、和調セザルハ、此レ則チ天下ノ害ナリ。 (中略)君臣、相ヒ愛サザレ
一7一
バ、則チ恵忠ナラズ。父子、相ヒ愛サザレバ、則チ慈孝ナラズ。兄弟、相ヒ愛サザレバ、則チ和調ナラズ。
とあって、君臣関係に恵忠がなく、父子関係に慈孝がなく、兄弟関係に和調がない状態を天下の害としている。そして其の
原因を、互いに愛し合っていないからであるとしている。つまり墨子は父子関係で言うならば、父と子との格愛が無ければ
慈孝は無いとしているのであって、墨子の兼愛説に基づいた考え方である。
また、 「韓非子」の外儲説左上には、
これ
人ノ嬰児タルヤ、父母之ヲ養フコト簡ナレバ、子長ジテ怨ム。子盛壮二成人シテ、其ノ供養薄ケレバ、父母怒リテ之
ヲ謝ル。子父ハ至親ナリ。而シテ或ハ欝或ハ怨ム者ハ・皆・相ヒ巻一シテ・己ガ為二・朧がラザルヲ饗バナリ・
と有る。つまり、韓非子は父子関係に於て、利害観念や利己心の働く限り、父慈・子孝は存在しないと見ているのである。
「管子」の形勢には、
きみ
君、君タラザレバ、則チ臣、臣タラズ。父、父タラザレバ、則チ子、子タラズ。
という有名な言葉が有る。これは君不恵ならば臣不忠、父不慈ならば子不孝、という相互関係を考えているのであって、墨
子や韓非子と同じ考え方であると言える。そして、管子の言葉は、君不恵でなければ臣不忠でなく、父不慈でなければ子不
孝ではない、という意味にもなるから、君恵臣忠・父慈子孝を消極的な立場で説いたものと言えよう。
「論語」の顔淵には、次の如き孔子の言葉が見える。
こた
斉ノ景公、政ヲ孔子二間フ。孔子対ヘテ日ク、君ハ君タリ、臣ハ臣タリ、父ハ父タリ、子ハ子タリ、ト。公日ク、善
イ哉、壁姉シ君、君タラズ、臣、臣タラズ、父・多ラズ・子・子タラズ・バ・薯リト讐・得テ識ヲ食ハンヤ・
トo
右の言葉は、孔子が現実の君臣父子関係、つまり往々にして君臣不恵忠、父子不慈孝という状況を見ていたからこそ発し
一8一
た言葉であろうが、管子の言葉よりも、もっと積極的に君臣恵忠と父子慈孝とを説いているのである。
王陽明は「伝習録」上巻に、
げん
則チ、君ハ君タリ、臣ハ臣タリ、父ハ父タリ、子ハ子タレバ、名正シク、言順二、一挙ニシテ政ヲ天下二為スベシ。
せいめい かく
孔子の正名、或ハ是レ此ノ如シ。
と述べている。正名(名を正す)は社会の正しい秩序を建設することであって、礼に通ずるものである。王陽明の言葉の意
味は、孔子の言葉の意味を正しく捉えているものである。
3
父子の関係は私的な関係であるが、君臣の関係は公的な関係である。先述の如く「荘子」の中には仲尼の言葉として、
の ゆ
大戒の一つに義を挙げて、 「臣ノ君二事フルハ義ナリ。適キテ君二非ザルハ無キナリ。天地ノ間二逃ルルトコロ無シ。……
夫レ其ノ君二事フル者ハ、事ヲ択バズシテ之ヲ安ンズ。忠ノ盛ンナルナリ。」と述べて、君臣関係を義としている。
しかし、常に君臣関係が義であったり、君恵・臣忠の関係が保たれているかと言えば、必ずしもそうではなく、ことに私
゜ h
的な孝と、公的な忠とは、屡々矛盾し衝突し、個人の中で判断に苦しむ場合が出て来るのである。
われ われ
管仲は、 「吾、嘗テ一ニタビ戦ッテ三タビ走ル。飽叔、以テ我ヲ怯ト為サズ。我二老母ノ有ルヲ知レバナリ。」と言ってい
るが、表の意味は飽叔との友情を述べたものであるが、実はこの言葉は管仲が孝の為に忠を捨てたことを意味しているので
ある。
これに似た話が、 「韓非子」の五銘に見えている。
う に ごた
魯人、君二従ッテ戦ヒ、三タビ戦ッテ三タビ北グ。仲尼、其ノ故ヲ問フ。対ヘテ日ク、吾二老父有リ。身死スレバ之
一9一
な ここ
ガ養莫キナリ、ト。仲尼以テ孝ト為シ、挙ゲテ之ヲ上ス。是ヲ以テ之ヲ観ルニ、夫レ父ノ孝子ハ、君ノ背臣ナリ。
この話では、はっきりと父の孝子は君主にとって背臣になることが有るとして、忠と孝との矛盾衝突を指摘しているのであ
る。
よ
また、 「韓非子」の姦劫斌臣の中に見える話の一つに、楚の荘王の弟の春申君の愛妾に余という女性がいて、この余が春
申君に護言して、春申君の正妻を追い出し、正妻の子供を殺してしまうという話が有る。その話について韓非子は次のよう
に批評している。
よ なほ そし とも
是二従ッテ之ヲ観ルニ、父ノ子ヲ愛スルヤ、猶、殼リヲ以テ害スベキガゴトクナリ。君臣ノ相ヒ与ニスルヤ、父子ノ
しん
親有ルニ非ザルナリ。而シテ群臣ノ鍛言ハ、特一二妾ノロニ非ザルナリ。何ゾ夫レ賢聖ノ数死スルヲ怪マンヤ。此レ商
君ノ秦二車裂セラレタル所以ニシテ、呉起ノ楚二枝解セラレタル所以ナリ。
つまり君臣関係には親子のような愛情は無いということを指摘しているのである。 “
更に、 「韓非子」の備内にも同じ意味の言葉が見える。
しん つか
人臣ノ其ノ君二於ケルヤ、骨肉ノ親有ルニ非ザルナリ。勢二縛セラレテ事ヘザルヲ得ザルナリ。
これも君臣関係の結びつきに親子のような愛情は存在しないとしているのである。韓非子は君臣関係を利害関係による結び
つきだと考えているのである。この考え方も時には正しいかも知れないが、常に利害による結びつきばかりではなく、先述
しん
の大戒のような結びつきも見られるのである。従って私たちは、君臣関係に骨肉の親が無いという韓非子の指摘だけをここ
で認めて置きたい。そして、もう一つ注意すべきことは、孝が忠に優先して考えられている、ということである。これは入
間関係の基本である父子関係に於ける孝を第一に尊重した為であろう。
「葡子」の子道には次のような言葉が見える。
一10一
入リテハ孝、出デテハ弟ハ、人ノ小行ナリ。上二順ヒ下二篤キハ、人ノ中行ナリ。道二従ッテ君二従ハズ、義二従ッ
めい
.テ父二従ハザルハ、人ノ大行ナリ。 (中略)孝子ノ命二従ハザル所以ハ三有リ、命二従ヘバ則チ親危ク、命二従ハザレ
バ則チ親安キトキハ、孝子命二従ハズシテ乃チ衷タリ。命二従ヘバ則チ親辱メラレ、命二従ハザレバ則チ親栄ユルトキ
ハ、孝子命二従ハズシテ乃チ義タリ。命二従ヘバ則チ禽獣、命二従ハザレバ則チ修飾ナルトキハ、孝子命二従ハズシテ
乃チ敬タリ。
右の「劔二従ハザル所以ハ三有リ。」という葡子の言葉は、忠と孝との矛盾衝突を解決したものであり、且つ葡子も孝を忠
よりも尊重していたということを示している。
しん
以上の例から見ると、君臣関係は骨肉の親が有るわけではないが、もし君恵・臣忠という状態が保たれているならば、当
然そのような君臣関係には利害の関係もなく、忠と孝との矛盾衝突も起らない、という事が言えると思う。つまり孔子の
「君ハ君タリ、臣ハ臣タリ。」という関係が最良の君臣関係であると言えよう。
4
の
ロ ロ
孝は単に養であるばかりでなく、敬でもあることは既に述べた通りであるが、養は人の行動であり、敬は人の精神であ
る。しかし、その敬は、養の外に喪と祭とによって表現されるのである。
先に一部を引用したが、 「礼記」の祭統には次の如き言葉が有る。
鐸・養ヲ追ヒ孝ヲ継グ所以ナリ・孝ハ醸ナリ・道に瞥・竺難ズ。章・レ畜ト謂・。匙ノ故二孝・親二事
をは
フルヤ、三道有リ。生ケルトキハ則チ養ヒ、没スレバ則チ喪シ、喪畢レバ則チ祭ル。養ハ則チ其ノ順ヲ観ルナリ。喪ハ
則チ其ノ哀ヲ観ルナリ。祭ハ則チ其ノ敬ニシテ時ナルヲ観ルナリ。此ノ三道ヲ尽ス者ハ、孝子ノ行ナリ。
一11一
右の言葉に拠れば、養と喪と祭とを尽すことが孝子であるということになっている。親が没しても喪と祭とによって孝道を
尽すということは、孝が敬という精神的な面を有しているからである。
「伝習録」の中巻を見ると、王陽明は朱子の格物を論じた際に次のように述べている。
夫レ理ヲ事事物物二求ムルハ、孝ノ理ヲ其ノ親二求ムルガ如キノ謂ヒナリ。孝ノ理ヲ其ノ親二求ムレバ、則チ孝ノ理
われ わ
其レ果シテ吾ノ心二在リヤ、抑よ果シテ親ノ身二在リヤ。仮二果シテ親ノ身二在ラバ、則チ親没スルノ後、吾ガ心二遂
二孝ノ理無カランカ。
右の王陽明の言葉の通り、私たちも孝の理は私たちの心の中に在ることを認め得ると思う。 「葡子」の礼論の中の言葉に、
をは
「生二事フルハ始メヲ飾ルナリ。死ヲ送ルハ終リヲ飾ルナリ、終始具ハリテ孝子ノ事畢レリ。」とあるのは、柳か形式的な
考え方であって、親が没しても、子は自分の生涯を終るまで孝の心を失うべきではないと思うのである。
また「論語」の学而に、
いま み
子日ク、父在セバ其ノ志ヲ観、父没スレバ其ノ行ヲ観ル。三年、父ノ道ヲ改ムルコト無キハ、孝ト謂フベシ。
とあるが、この三年には意味が有るようで、 「論語」の陽貨を見ると、宰我が、三年の喪の期間は長過ぎないだろうか、と
孔子に質問した時、孔子が憤った話が有る。
その時、孔子は次のように言っている。
よ ふところ
予(宰我)ノ不仁ナルヤ。子生レテ三年、然ル後二父母ノ懐ヲ免ガル。夫レ三年ノ喪ハ、天下ノ通喪ナリ。予ヤ三年
ノ愛ヲ其ノ父母二有ランカ。
コ
これが恐らく三年の意味であろう。
つまり喪は孝の変形であると同時に、喪は孝と同義であると言ってよい。又、先に引用した如く、 「礼記」の祭統には、
一12一
コ
「祭ハ、養ヲ追ヒ孝ヲ継グ所以ナリ。」とあり、祭も孝の変形であると同時に、孝と同義であると言ってよい。
5
喪と祭とを尊重する思想は、自分自身の中に祖先の生命が存在していることを発見するに至る。そして更に自己の身体は
父母の遺体であるということを自覚するのである。 「孝経」の中には、 「身体髪膚、之ヲ父母二受ク。敢テ致傷セザルハ孝
ノ始メナリ。」という孔子の有名な言葉が見える。また「礼記」の祭義には、「身ハ、父母ノ遺体ナリ。父母ノ遺体ヲ行フ、
敢テ敬セザランヤ。」という曽子の言葉が見える。共に自己の身体を父母から贈られたものとして、大切に維持し、立派に
行動すべきであることを説いているのである。又、このような考え方は、自分の身体の中に父母と祖先の生命を受け継いで
いるという考え方になり、同時に、子孫が喪と祭とを継承することによって、自分自身の生命も、子孫の身体と生命の中に
保存されて行くのである。 「孟子」の離婁・上に、「孟子日ク、不孝二三有リ。後無キヲ大ト為ス。」という言葉が有るが、
自分限りで祖先や父母の生命を絶ってしまうことを最大の不孝だとしたのである。
そして、人間は完全な形で父母から受け取った自分の身体を、完全な形で大地に返還することにより、自己の孝を完成す
ることができる、という考え方も生れて来る。 「礼記」の祭義の中に次の言葉が見える。
われ これ
……(楽正子春日ク)吾、諸ヲ曽子二聞ク。曽子ハ諸ヲ夫子二聞ケリ。日ク、天ノ生ズルトコロ、地ノ養フトコロ、
人ヨリ大ナルハ無シ。父母全ウシテ之ヲ生ミ、子全ウシテ之ヲ帰ス。孝ト謂フベシ。
り
「子全ウシテ之ヲ帰ス」は、中国では全帰と呼んでいるが、佐藤一斎は「言志垂録」の中で全終と呼んだ。
つか
王陽明は右の言葉を引用して「伝習録」の中巻に「天二事フ」ということを説明して次のように述べている。
われ まつた
天ノ我二命ズル所以ハ、心ナリ、性ナリ。吾、但シ之ヲ存シテ敢テ失ハズ、之ヲ養ヒテ敢テ害セザルハ、父母全ウシ
一13一
テ之ヲ生ミ、子全ウシテ之ヲ帰スルガ如キ者ナリ。
つまり「敢テ失ハズ(存)」と「敢テ害サズ(養)」ということが全帰なのである。
言うべきであろう。
これは子供自身が自からに課す孝とでも
6
「論語」の為政の中に次のような孔子の言葉が有る。
ぎよ これ こに
孟灘子、孝ヲ問フ。子日ク、違フコト無カレ、ト。焚遅御ス。子之二告ゲテ日ク、孟孫孝ヲ我二間フ。
我対ヘテ日
つか
ク、違フコト無カレト。簗遅日ク、何ノ謂ヒゾヤ、ト。子日ク、生ケルトキハ之二事フルニ礼ヲ以テシ、死スレバ之ヲ
葬ルニ礼ヲ以テシ、之ヲ祭ルトキハ礼ヲ以テス、ト。
右の言葉も重要な意味を持っている。即ち孔子は、 「生ケルトキニハ之二事フルニ」、つまり養は礼であり、「死スレバ之ヲ
コ の ロ
葬ルニ」つまり喪は礼であり、 「之ヲ祭ルトキハ」つまり祭は礼であると言っているのである。此れは、孝が礼であると言
っていることになる。
「論語」の八倫には次のような言葉が見える。
がく
子日ク、人ニシテ不仁ナラバ、礼ヲ如何セン。人ニシテ不仁ナラバ、楽ヲ如何セン。
がく
この孔子の言葉から考えると、礼を実践する人は仁者であり、楽を実践する人も仁者である。ということになる。従って孝
を実践する人も仁者であると言える。
「墨子」の非儒・下にも次のような言葉が見える。
つか つく う よ あやま
夫レ仁人ハ上二事ヘテ忠ヲ蜴シ、親二事ヘテ孝ナルヲ得。善ヲ務ムレバ則チ美シ。過チ有レバ則チ諌ム。此レ人臣タ
一14一
ルノ道ナリ。
この言葉からも、孝を実践する人は仁者であると言うことができよう。
また、 「墨子」の経・上には「礼ハ敬ナリ。」とあり、更に「葡子」の礼論には「礼ハ養ナリ。」と見える。つまり礼には
ロ
敬の要素もあり、養の要素も有るのである。そして、敬と養とは正しく孝であるから、孝は礼であると言えるのである。
王陽明は「伝習録」の中巻に次のように述べている。
明道云フ、仁ヲ行フハ孝弟ヨリ始マル。孝弟ハ是レ仁ノ一事ナリ。之ヲ仁ヲ行フノ本ト謂ヘバ則チ可ナリ。是レヲ仁
ぜ
ノ本ナリト謂ヘバ則チ不可ナリ、ト。其ノ説、是ナリ。
王陽明ば程明道(実は伊川)の見解を正しいとしているが、筆者も此の見解を是認したいと思う。 「論語」の学而に、有子
が「孝弟ハ、其レ仁ヲ為スノ本力。」と言っているために、少なからぬ学者たちが、孝弟こそ仁の根源であるとしている。
しかし、第一に右は有子の言葉であって、孔子の言葉ではない。第二に仁は広大無辺であって、親子兄弟関係の上に成り立
つ孝弟に集約され限定されるものではない。先述の如く孝を実践することは礼を実践することであり、礼を実践することは
位を実践することである。そして、人間は社会に生存しており、その社会には複雑な人間関係が有るが、一人の人間が此の
コ
世に生れ出て最初に所有する人間関係は親子関係である。そういう意味では、孝は仁の出発点と言うことができよう。
以上述べて来たことから、私たちは孔子が「敬セズンバ何ヲ以テ別タンヤ。」と言った孝の意義を再認識しなければなら
ない。この言葉こそ孝の道徳を確立したものであり、孔子の此の言葉以後、孝はそれまでの単なる養という意味だけではな
の
く、敬という意味が含まれることとなり、礼の大きな要素となったからである。
孔子の理想とした礼の社会の内容、孔子が礼を唱えた歴史的社会的背景に就いても考察を必要とするが、本稿では孝の原
義を検討することが主眼であったので、いずれ別な機会に論じて見たいと思う。(在台北、昭和四十五年八月上辮識)
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〔附記〕 筆者は現在、明治大学在外研究員として中華民国に於て研究生活を送っている。本稿は研究報告の一つとい
う意味で執筆し、本稿の要旨は十枚余の中国語に麟訳し、この地に残すことにした。
本稿中の引用文で漢字仮名混り文(書き下し文)の原文は、すべて漢文である。但し、日本から資料を携行しなかっ
た為に訓読は筆者の見解に拠っており、伝統的な訓読でない箇所も有ると思われるが、御諒承頂きたいと思う。
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