18
日本原始。 古代の琴 杉野 友香 じめに 中国に「他方絶弦」という 故事があ る。 春秋時代に 伯牙 という人物がいた。 琴の演奏に優れ、 仲のよい鍾子期という 人物によく琴を 聴かせていた。 しかし鍾子期が 亡くなると、 自分の琴の 音を解するものがいなくなってしまったことを 悲しみ、 琴を壊して、 それ以後二度と 琴を弾く ことがなかったという このように今から 約 2500 年という遥か 昔に、 中国では人々は 琴を奏 でていた。 この仙方はついての故事は 後々まで人々に 好まれ、 唐の時代になると 銅 鏡の背面に その姿を表現するようになった 伯牙 弾琴 鏡 であ る。 中国の人々の 琴への特別な 思いが伝わ ってくるようであ る。 この伯牙 弾琴鏡は日本へ 伝わり、 伝世されている。 では日本人にとって 琴 とはいつたいどういうものだったのだろうか。 琴 という言葉を 聞いて、 今私たちが思い 浮かべている 楽器は 実は寧という 中国から伝来し た楽器であ る。 よくお稽古ごとで、 おことと呼ぶのも 実は寧なのであ る。 中国ではこれら 2 の楽器を厳密に 区別しているが、 日本では弦を 張った楽器全般を「こと」 と呼んだ。 やまと ( ) こと、 ( ) のこと、 びは ( 琵琶 ) のこと、 しら ( 新羅 ) ことなどのように 弦楽器をす べて「こと」と 呼び、 特定の楽器を 示す言葉ではなくなってしまった。 これら、 ことと呼ばれ る楽器の中で、 寧が日本人に 特になじみのあ る楽器であ ったため、 江戸時代には、 零すなむち 寧と 考えるよ になったのであ るの。 奈良時代から 伝世されている 琴が正倉院にあ る。 現在の琴とほとんど 変わらない姿をしてい る。 それ以前、 原始・古代の 琴の姿を知るためにほ、 文献の記載、 発掘調査によって 発見され た 琴や琴柱、 埴輪に表現されている 琴から推測するしかない。 日本の考古学では、 現在の琴 は異なり、 木製 板 の一端にいくつかの 突 起を作りだし 複数の弦を固定し 弦を弾 7 い て楽器として 使用したと考えられる す べてのものを 琴と 表現している。 本来な らば特定の楽器を 意味する琴 との混同を 避けるため「こと」 と表現すべきかもし れないが、 現状を追認する 形でここでも と表現し、 論を進めてゆ @ 琴の名称についても 色々な呼び方があ るが、 寧の各部の名所と 区別するため、 また琴の細かい 説明を行 上での混乱を 琴尾 ( 尾部) 2. 突起 3. 琴柱 4. 共鳴槽 避けるため、 図 1 のように呼称する。 5. 琴板 6. 実技 7. 琴硬 頭部 ) 1 琴の名称と名所 1 7

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日本原始。 古代の琴

杉野 友香

ほ じめに

中国に「他方絶弦」という 故事があ る。 春秋時代に 伯牙 という人物がいた。 琴の演奏に優れ、

仲のよい鍾子期という 人物によく琴を 聴かせていた。 しかし鍾子期が 亡くなると、 自分の琴の

音を解するものがいなくなってしまったことを 悲しみ、 琴を壊して、 それ以後二度と 琴を弾く

ことがなかったという 緩 。 このように今から 約 2500 年という遥か 昔に、 中国では人々は 琴を奏

でていた。 この仙方 は ついての故事は 後々まで人々に 好まれ、 唐の時代になると 銅 鏡の背面に

その姿を表現するようになった 働 。 伯牙 弾琴 鏡 であ る。 中国の人々の 琴への特別な 思いが伝わ

ってくるようであ る。 この 伯牙 弾琴鏡は日本へ 伝わり、 伝世されている。 では日本人にとって 、

琴 とはいつたいどういうものだったのだろうか。

琴 という言葉を 聞いて、 今私たちが思い 浮かべている 楽器は 、 実は寧という 中国から伝来し

た 楽器であ る。 よくお稽古ごとで、 おことと呼ぶのも 実は寧なのであ る。 中国ではこれら 2 つ

の楽器を厳密に 区別しているが、 日本では弦を 張った楽器全般を「こと」 と呼んだ。 やまと

( 和 ) こと、 そ う ( 寧 ) のこと、 びは ( 琵琶 ) のこと、 しら ぎ ( 新羅 ) ことなどのように 弦楽器をす

べて「こと」と 呼び、 特定の楽器を 示す言葉ではなくなってしまった。 これら、 ことと呼ばれ

る楽器の中で、 寧が日本人に 特になじみのあ る楽器であ ったため、 江戸時代には、 零 すなむち

寧と 考えるよ う になったのであ るの。

奈良時代から 伝世されている 琴が正倉院にあ る。 現在の琴とほとんど 変わらない姿をしてい

る。 それ以前、 原始・古代の 琴の姿を知るためにほ、 文献の記載、 発掘調査によって 発見され

た 琴や琴柱、 埴輪に表現されている 琴から推測するしかない。 日本の考古学では、 現在の琴 と

は 異なり、 木製 板 の一端にいくつかの 突

起を作りだし 複数の弦を固定し 、 弦を弾 7

い て楽器として 使用したと考えられる す

べてのものを 琴と 表現している。 本来な

らば特定の楽器を 意味する 琴 との混同を

避けるため「こと」 と表現すべきかもし

れないが、 現状を追認する 形でここでも 「 琴 」 と表現し、 論を進めてゆ @

琴の名称についても 色々な呼び方があ

るが、 寧の各部の名所と 区別するため、

また琴の細かい 説明を行 う 上での混乱を 琴尾 ( 尾部 ) 2. 突起 3. 琴柱 4. 共鳴 槽

避けるため、 図 1 のように呼称する。 5. 琴板 6. 実技 孔 7. 琴硬 頭部 )

図 1 琴の名称と名所

一 1 一

7

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ェ 琴の研究 史

第 Ⅰ段階 一 音楽史家による

古代の琴の姿を 知るための研究は、 正倉院に伝世する 琴の研究と中国や 日本の文献から 探る

ことから始まる。 それらは音楽研究分野の 人々によって 進められだ。

Ⅰ 920 年秋、 田辺尚雄は宮内省楽長上真行、 楽師多恵 基 らと共に正倉院に 保管されている 楽器

の調査を行い、 北 倉の階下及び 暇 台中に一束になってほいれてあ った和琴の胴を 発見した。 19

36 年、 田辺が「日本音楽の 研究」ゆの中で 日本民族固有の 楽器の一つとしてこれを 取りあ げて

いる。 この和琴もしくは 倭琴と呼ばれる 琴の全長は約 1.93fn 、 幅は琴頭で約 巧 ・ 5 ㎝、 尾部で約 2

4cm 、 琴尾にむかうほど 幅が広くなっているのが 特徴であ る。 琴尾には 6 つの突起があ る。 そ

の突起に対応する よう に弦が 6 本かけてあ る。 弦は 6 本が平行するのではなく、 琴の形に対応

するように琴頭からでた 弦が琴尾にむかって 放射状に張られている。 しかし、 弦は突起にかけ

られるのではなく、 各突起におけられた 穴に通す作りになっている。 琴 全体は箱 状 ( 槽 作り ) に

なっており、 琴の裏 面には共鳴音を 外部に響かせるための 大きな穴がおけられている。 正倉院

で 発見された和琴は、 宮中の賢所、 神宮、 それに準ずる 神社で行われる 神楽、 東遊、 大和舞、

久米舞など、 今日の古楽の 伴奏に用いられている 琴とぽ とんど姿が変わらず、 進歩した楽器と

いえる 働 。 田辺は、 このように進歩した 楽器を太古の 日本人が持っていたとは 思えないとし、

古代の琴は原始的で、 大きさは現在の 和琴よりも小さく、 - 端は鳥の尾の 形をしていたのでは

ないかと推測した。

一方で、 さらに田辺は 1932 年、 和琴の演奏形態について、 今日の久米舞において 和琴の両端

を他の人が持ち 立って演奏するが、 これは古代において 小型の琴を立って 演奏した名残ではな

いかと考えた り 。 また田辺は、 記紀や風土記の 記載を参考に 古代の琴について 様々な検証を 試

みている。 特にその大きさについては、 F 古事記』上巻大国主命の 矢のでは、 大国主が自分の

妻とした 頃 性理屈責を背負って 素義 鳴 尊から逃げる 際に、 素義 鳴尊 の圭太刀、 生弓矢、 天の詔

琴を持ち出すという 記載から、 現在のような 大きな琴では 須世 理屈責を背負いながら 持ち出す

ことはできないと 考える。 つまり当時の 琴は古代のアッシリア や ユダヤに見るよ う に、 小型で

紐によって身につけていたのではないかと 見るのであ る。 ァ 万葉集コ 巻五 雑歌 働 においても琴

@ 膝の上で演奏されており、 現在の大きさの 琴を膝の上で 演奏したとは 考えにくいので、 より

小型であ ったとし、 和琴は「 ( 一川 、 形なものを身に 着けて立って 奏した時期。 ( 二 ) 安座して膝

の上にのせて 奏して居た時期。 ( 三 ) 天武天皇以後は 今日の如く座して 奏する時期。 」の順に変

遷したと考えた。

第 2 段階 一 出土遺物からの 研究 一

Igt@l 年、 黒沢隆朝は静岡県登呂遺跡から 出土し、 従来用途不詳とされていた 木製品を琴であ

ると断定し、 これに基づき 東洋音楽会は「愛日 式 やまと 琴 」 と命名したり。 以降古代の琴が 田

上品に基づいて 研究される よう になる。 また、 ほぼ同時期に 埴輪に表現された 琴に注目した 研

究 が進展する。

一 2 一

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1958 年、 林謙三は古代の 琴を考古資料に 基づき分析し、 正倉院の和琴と 比較検討した /,0 ノ 。

埴輪に表現されている 琴は、 簡単な表現であ るが、 弦の数や演奏法、 大きさなどをあ る程度知

ることができる。 大きさは小型で、 膝の上で奏でている。 また、 琴 全体の三分の 一ほどの頭部

を 持ち、 頭部には弦は 張られていない。 尾部には突起を 有し、 弦をかけたと 思われる。 全体的

に三味線の磯形をしており、 頸部で一度くびれている。 このように大きな 頭部を持っ形は 正倉

院の琴にもあ り、 埴輪の琴の遺制ではないかと 解釈している。 また埴輪に表現されている 琴に

断面が n 状になったものがあ る。 5 つの突起を持つ 板状の琴の長逝に 添って、 両側に板を直角

に取り付けただけの 簡単な作りであ る。 裏 板は存在しない。 林は、 このような n 状の琴は板状

の 琴から 槽状 の 琴 へと移行する 過渡的段階だとし、 原形は登呂遺跡で 出土した琴のように 板状

で、 突起ではなく 単に一枚の板に 切り込みを入れるような 素朴な楽器であ ろうと見なしている。

一端の切り込みに 弦をかける原始的な 方法が、 年月の経過とともに、 しだいに突起を 作り、 そ

れに弦をかけるよ う になっていったのではないかというのであ る。 このように林は 登呂遺跡出

土の琴、 埴輪の琴、 正倉院の琴を 連続するものとして 捉え、 構造や弦 数 が変化するのは 中国や

朝鮮からの影響だとして、 特に高麗の「秋空 篠 」 という楽器が 和琴の成立に 影響を与えたので

はないかと推定した く,,ノ 。

第 3 段階 一 主に

1970 年代になると 各地で琴の出土があ いっ ぎ 、 考古学の立場から 琴の研究が進められるよう

になる。 1973 年、 大場 磐 雄は千葉県木更津市 菅生 遺跡で発見された 琴を紹介するとともに、 登

呂遺跡出土の 琴や埴輪の琴について、 出土地、 形態、 弦 数などをまとめ、 さらに重要な 資料と

して、 福岡県沖の 島 祭祀遺跡から 発見された金銅製雛形の 琴をとりあ げた /1 ク ノ 。 そして沖の島

のものは上流階級の 琴であ り、 菅生のものは 農民の使用した 素朴な琴であ るとして、 両者の,性

格の違いを指摘している。 大場は、 古代の琴はいずれも 小型で、 大きさは 60cm 前後、 弦は 6 弦、

5 弦、 4 弦が存在するが、 出土 側 では 5 弦が多いとして、 参考にアイヌに 伝わる「トンコリ」

という楽器をあ げている「, 力 。 トンコリは全体的に 細長い形をしており 管主遺跡の琴の 形に似

ている。 頭部は三味線に 似て、 糸巻きが 5 本欄に通っており、 それぞれに弦が 結びつけられ 糸

の張り具合を 調節する。 演奏するときは 抱きかかえるように 立てて弾く。 トンコリは内地から

伝わったという 説もあ るため、 弥生時代の菅生の 琴と 直接結びつけることはできない。 しかし、

形 が非常に類似していることに 大場は注目したのであ る。

1977 年、 兼 康保明は、 滋 賀県森 浜 遺跡から琴が 3 点出土したのを 契機に、 以前から出土して

いた琴を含めた 8 例について「 登呂型 」、 「 菅 生理」、 「服部型」の 3 型式に分類した レノ 。

「発目 型 」は登呂遺跡出土の 琴に代表されるよ う に oocm ほどの長さで、 一枚の横長の 板の尾部

に突起を作り 出しただけの 簡単な作りのものであ る。 森浜 遺跡で出土した 2 号 琴 、 3 号 琴 もこ

れに該当する。 「 菅 生理」は登呂遺跡出土の 琴と同様一枚の 板を削って作るが、 裏 面中央に 稜

を 作り出し断面が 三角形になるように 削ってあ る。 頭部は細長く 柄のようになっている。 「服

部型」は長さ 1% 以上あ る大型で、 突起を持った 一枚の板に共鳴 槽 として 箱 状 はくりぬいた 材

が 取り付けられている。 兼康は 、 「 登呂型 」、 「 菅 土型」は板状で 共鳴槽を持っていないため

「服部型」に 比べ原始的な 形態であ ると考えた。 また、 古墳時代中期に 3 つの型式の琴が 並存

一 3 一

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していた可能性があ ることも指摘している。

それ以来古代の 琴の出土は各地から 報告されるようになり、 その数も次第に 増えていく。 そ

のようななか、 1980 年、 水野正好は琴の 構造について 細かく分類し、 考察した dJ タノ 。 水野は発

掘 された資料をまず 大きく 「抜作りの 琴 」、 「 槽 作りの 琴 」に分類する " 仮 作りの琴は一枚の

板を削り、 形 づくったものであ る。 槽 作りの琴は一枚の 板に 箱 状の共鳴 槽 をつけたもので、 よ

り複雑な構造をしている。 さらに仮作りの 琴を 3 群に、 槽 造りの琴を 2 群に分けた。

表 1 のように、 出土した 琴 、 埴輪の琴を分類した 結果、 水野は弥生時代後期にすでに 仮作り、

槽 作りの琴が並存しており、 中国や朝鮮半島の 文化的影響があ ったと示唆している。 両者の形

態は古墳時代中期まで 受け継がれる。 ところが古墳時代後朝になると、 形や製作技法などの 点

でそれ以前とは 大きく異なる 展開を見せ始める。 そして正倉院の 琴へと展開する 過程の、 7 世

紀から 8 世紀に至る間に、 現在の琴の祖 形 が成立したのだとする。 つまり古墳時代後期と 奈良

時代に、 大変革が 2 回 赴 こったと考えた け 6 ノ 。

表 1 水野正 好によ る琴の分類

く 発掘された 琴ノ

木炭 叶モ りの 琴 槽 作りの 琴 く 第 1 群 ) く第 1 群 )

第 Ⅰ 種 ‥琴の表面が 板状のもの 第 1 種…大きな 板 @ 球 坤オ で作った小さな 槽を紐 て 縛り、 固定させる

鍍種 …琴の表面は 平坦六 %; 、 裏 に稜を作りだしているもの 第薩 ‥琴の表面は 平坦だが、 尾部の m@@% こ変 づま あ るもの ・ 餅詑種 ‥大きな 楓胡曲オで 作った大きな 槽を固定させるもの

簗 " 察種 ‥大きな板で 表 板 と横板まで作り 出し、 ml 搾オ で作った 底板を

第 1 種‥琴の表裏 とも板状で、 長さが短 く 幅広いもの 固定させるもの

く篆抄 轡 " 第 Ⅰ 種 ‥特異な 升須烏 をし、 琴 以外の楽器とも 考えられるもの ・ 第 m7%% 高 が 広く長さが 知俵板 に同じ大きさの 漕を固定するもの

く 埴輪の琴 ノ

ん始 モ りの 琴 月哲叶乍 りの 琴 相打乍 りの 琴 第 1% 穿き‥琴の倶 煽 が大きくくびれ 昆賠反 尾部を図引 し 、 亮賠隙丘 くに ・ 「抜作りの 琴 」 第 1 類の裏 面に ・琴の下に空Ⅶ而があ り

5 玄 アヒを エ Ⅱ固もづけるもの 断面が W 状になるよう @ 脚 婁則鮒曹 となっている

第 2 類 …挙例 疋粛 9 緩 飼料こくびれ 妄執爵封富広く、 名弦 ごと @ ご 弦 があ るもの もの

孔 をもつもの

また佐田茂は、 中国の出土品と 比較し、 中国の琴や麸からの 影響に言及して、 へる 1% 。 さら

に「 箆伏 木製品」と呼ばれていた 縄文時代の木製遺物が、 岸辺城雄、 細川修平、 ディヴィッ ト

・ W. ヒューズなどによって 琴であ る可能性が指摘され、 登呂遺跡で出土した 琴の祖形ではない

かと考えられるよ う になったね タノ 。 現在では「縄文 琴 」、 「粗彫 琴 」と呼ばれる /, タノ 。

近年、 琴の出土が多数報告され、 今日では約 50 例を数えるまでになった。 また、 弦を琴の胴

から離し演奏しやすくするための 琴柱の出土も 数例確認できる。

1991 年 、 金子裕之は琴柱の 変遷から零本体の 構造の変化を 推定した。 4 、 5 世紀代の琴柱に

一 4 一

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は 下部にくり込みはないが、 6 世紀後半には 下部にくり込みが 施される。 これは琴の表 板 が平

担から甲高に 変化したことに 対応しているのであ って、 6 世紀後半 ( 古墳時代後期 ) に琴の形態

が変化したと 考えたは fl ノ 。 さらに 7 世紀中頃 の琴柱は、 すでに 8 世紀以降の琴柱と 同じ形態を

とっていることから、 7 世紀中頃 に和琴への変革が 行われたと考えた。

1993 年、 宮崎まゆみは 楽器を持つ埴輪資料を 整理した ぽ,ノ 。 埴輪に表現された 楽器の中で、

琴の数は他より 多く、 33 例みられる。 埴輪に表現されている 琴は、 頭部に楽器としてあ まり 意

味を持たない 鳥の尾形スペースを 持つている。 この頭部スペースは、 平安時代に製作された

「 鶴尾 例挙」 佛ノ 0 頭部 ( 鶉の尾を表現した 部分 ) に継承されていると 宮崎は考えた。 また埴輪

の 琴は、 尾部にむかって 弦を放射状に 張っていることや、 尾部に突起を 持つことなど、 和琴と

共通点があ り、 和琴にも鳥の 尾形スペースを 排除した形で、 埴輪に表現されている 琴の形態が

継承されたのではないかと 推測した。

このように琴は 縄文時代から 存在し、 長い時代の中で 幾度も変化しながら、 現在の琴の形態

とほとんどかわらない 奈良時代正倉院の 和琴へ、 その形は集約されていくと 考えられるように

なった。

2 出土 琴 の 変

先述のように 最近、 琴の出土が多数報告され、 今まで 琴 とみなされていなかった 木製品が琴

ではないかと 考えられるよ 引こなった。 そこで先学の 研究に 、 新たに出土した 琴 資料を加えて、

仮作りの 琴 十酎乍 りの 琴 A B ⅠⅠ 「■■ TlLL ノ E

Ⅱ l Ⅰ ワ - 口 口

公 口 口

a 口 口 口

琴の変遷を再検討してみよう。

まず、 出土した琴を 水野分類にした

がって、 板 作りの 琴 、 槽 作りの琴の 2

つに分類するはコ ソ 。 仮作りの琴は、 1

枚の板を削り、 弦を張ったと 考えられ

るものであ る。 槽 作りの琴は、 共鳴す

るための箱 を持っており、 2 つ以上の

板を組み合わせて 作られる。 さらに両

者を以下のように 細分しょう [ 図 2]

く板作りの 琴ノ

A : 「鐘状木製品」と 呼ばれていた

頭部に幅が

もので、 縄文時代から 存在する。 「 祖 図 2 分類模式 図

形 琴 」とも呼ばれる ぽ 4 ノ 。 その中でも頭部が 丸く削られているものを A 一 l とし、

あ り、 全体的に台形に 見えるものを A 一 2 とする。

毬 : 長方形をしており、 尾部に数個の 突起を削りだしたもの。

C : 頭部を細く削り 棒状にし、 尾部は裏 面を削り、 断面が姉角形になったもの。

くネき イモリの 琴ノ

D : 槽を持った琴の 中で、 大きさが lm を超えるもの。

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E : 槽を持った琴の 中で、 比較的小さく、 大きさが lm 以下のもの。

以下、 各類 は ついてまとめて 記す [ 図 3 、 表幻 。

A 一 「 類

縄文時代晩期からすでに 存在が確認ほれている 琴であ る。 北海道 忍 路上場遺跡、 青森県 是川

遺跡、 滋 賀県松原内湖遺跡の 3 カ所から出土している。 大きさは比較的小さく、 長さ 巧 cm から

55cm くらいであ る。 形は細長い三角形をしており、 頭部は丸く削り 出して細く作る。 中には文

様を彫り込んだものや、 三角形を逆さまに 3 つ つ なげたような 形をしたものなどがあ る。 頭部

には弦を通した 弦孔が 1 ~ 4 個、 尾部には突起が 2 本あ り、 それらに弦を 張れば、 琴の機能を

果 たせる。

弥生時代の例は 奈良県唐古遺跡、 三重県納所遺跡、 香川県井手束遺跡、 石川県西念 南 新保造

跡 (1 号 琴 ) から出土している。 弥生時代になると 文様は彫り込まれなくなるが、 唐古 、 納所、

井手束の各遺跡では 頭部の作りや 尾部の突起が 確認できる。

古墳時代では 前期のものが 滋 賀県入江内湖遺跡から 唯一出土している。

A 一 2 類

大阪府瓜生生遺跡、 大阪府 鬼虎川 遺跡、 静岡県登呂遺跡、 奈良県四分遺跡で 出土した琴であ

る。 弥生時代になって A 一 l 類から発展したと 思われる。 A 一 l 類のような三角形状ではなく

全体的に台形に 近い形になっている。 頭部は A 一 I 類に比べ幅広くなり、 尾部の突起の 数も増

加していることから、 弦 数が増え、 音域も広くなったと 考えることができる。

l3. 針江浜 遺跡 29. 鬼虎川 遺跡

l4. 杉 / 木遣 跡 30 . 巨摩 遺跡

は ・両三宅遺跡 3l. 西 / 辻 遺跡

l6. 服部遺跡 32. 瓜生 堂 遺跡 忍 路上場遺跡 l7. 赤野井 遺跡 33. 亀井遺跡

18. 下長 遺跡 34. 下田遺跡 3. 西念 南 新保遺跡 l9. 柳 遺跡 35. 鳥羽離宮

20 ・湖西線遺跡 36. 正垣遺跡

5. 国府 関 遺跡 2l ・ 星塚 1 号 墳 37. 袴狭 遺跡

22. 布留遺跡 38. 山垣 遺跡

7. 小黒遺跡 23. 唐古遺跡 39. 蓮池 北 遺跡 8. 登呂遺跡 24. 四分遺跡 40 ・南方等 田 遺跡 9. 納所遺跡 25. 栄和 遺跡 4l. 前田遺跡 l0. 大庁内湖遺跡 26. 平城宮下層 42. 井手束遺跡

Ⅱ・松原内湖遺跡 27. 四条大田中遺跡 43. 辻田遺跡

l2. 森浜 遺跡 28. 新家遺跡 44. 上鐘子 遺跡

図 3 琴 出土遺跡分布地図

一 6 一

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表 2 出土 琴一 賀表

一 7 一

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B 類

弥生時代後期に 登場する長方形の 琴であ る。 弥生時代のものとして 京都府正垣遺跡、 福岡県

辻田遺跡 (3 . 4 号 琴 ) の出土品があ る。 A 類に比べて幅が 太くなり、 そのぶん尾部の 突起数も

増えたと考えられる。 正垣遺跡では 頭部に集 弦孔が 確認できるが、 孔の形は単なる 丸形ではな

いため、 あ る企画性をもって 作ったのであ ろう。 また 集弦 孔の位置も A 類のように頭部の 先端

にあ るのではなく、 中心寄りにあ る。

B 類は古墳時代後期の 奈良県布留遺跡、 奈良時代の兵庫県山 垣 遺跡出土の琴に 続くと考えら

れる。 また少し変形したものとして、 奈良県 星塚 1 古漬出土の琴もこれに 含められよ う 。

c 類

古墳時代中期に 現れる特殊な 琴であ る。 滋 賀県森 浜 遺跡 (1 号琴 ) 、 奈良県四条大田中遺跡

(1 . 2 号 琴 ) 、 兵庫県 葮 他化遺跡で出土している。 頭部は細く棒状に 削り、 表面は平らだが

裏 面は丸みを持っており、 断面は半月 状 になる。 また頭部には、 現在の三味線のように、 糸を

巻くための棒を 通して弦の張り 具合を調節したと 思われる孔がおけられている。 尾部に い くに

つれ幅広く断面が 三角形になるよさに 削られている。 尾部には突起が 5 つ存在している。 現在

の琴のように、 床に寝せて演奏するのではなく、 頭部が棒状になっていることから、 棒を握り

琴を立てて演奏したとも 考えられる。

| |

。・・・

l.-

2

A

虫入

こき i コ ㎏ きヮダ - つ

一 8 一

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古墳時代後期では 千葉県 菅生 遺跡で出土した 琴が該当する。 菅 生の琴はそれ 以前のものより

細身であ るが、 頭部におけられた 弦をとめるための 孔や 、 断面が半月収になるところなど 形態

が類似する。 奈良時代では 兵庫県 袴狭 遺跡出土品が C 類 と考えられる。

D 類

共鳴槽を持った 琴の中でも比較的大型なもの。 ここでは具体的に lm 以上の大きさがあ った

と考えられるものを D 類 とする。 福岡県辻田遺跡Ⅰ 号琴 ) 、 石川県西念 南 新保遺跡は号 琴 ) な

どの例から弥生時代後期には 存在していたと 考えられる。 また完全な形ではないが、 辻田遺跡

は号 琴 ) 、 大阪府 巨摩 遺跡・新家遺跡で 出土したものも 突起の数や槽を 結びつけた孔の 位置

などから、 lm 以上の大型であ ったと考え木類に 含める。 辻田 2 号 琴 、 巨摩 、 新家の琴は破片

のため全体の 大きさははっきり 分からないが、 辻田 工 青翠、 西念 南 新保 2 号琴は琴板が 完存し

ており、 どちらを )140c" 以上あ る。 このように大きな 琴板に別の木をくり 抜いて作った 槽を、

紐状の樹皮などで 結びつけて一つの 琴をつくっている。 琴板と槽を結びつけた 孔や槽をはめ 込

むための溝が 彫られている。 現在の琴に比べると 槽の大きさは 小さいので、 音量も少なかった

と思われるが、 明らかに縄文時代の A 一 l 類 とは形態が異なり、 音響の面では 何倍も進歩した

といえる。 尾部には、 仮 作りの 琴 同様、 弦を結びつけたと 思われる突起が 6 本確認できる。

古墳時代になると D 類の出土数が 増加する。 前期では、 新潟県西谷遺跡、 千葉県国府 関 遺跡、

滋 賀県 赤野井 遺跡・ 下長 遺跡、 奈良県 栄和 遺跡の例があ る。 水野も指摘しているよう @ こ 、 古墳

時代になると 槽 部分がより大きくなる め 。 栄和側 では 槽 部分だけで 133cm もあ る。 また琴板と

槽を結びつけるための 孔がょり外側におけられていることなどからも、 槽が巨大化したことが

分かる。 より大きな音が 求められたといえるのではないだろうか。

中期には、 滋 賀県服部遺跡・ 両三宅 東 遺跡、 岡山県南方金田遺跡の 例があ る。 服部遺跡では

琴板と槽が結びつけられた 状態で発掘された。 両 三宅 東 例は現在までに 出土した琴の 中でも 最

長 で、 161.3cm を測る。 そのうえ頭部が 尾部に比べ緩やかに 広がっており、 埴輪に表現された

琴や福岡県沖ノ 島で発掘された 雛形 琴に 類似した形をしている。

後期になると 滋 賀県湖西線遺跡、 大阪府 西 / 辻 遺跡、 島根県前田遺跡などで 出土している。

湖西線の琴は 琴板がやや n 状になっており 現在の管や和琴の 形態 ( くり抜いた 槽状 のものに 底

板を取り付ける 方法 ) に移行する途中の 段階ではないかとの 意見もあ るは rn ノ 。 西 / 辻 遺跡の琴は

集 弦孔が 頭部よりやや 内側におけられていることなど、 古墳時代前期の 国府 関 遺跡の琴に共通

する。 前田遺跡の琴は 古墳時中期の 市姉宅 東 遺跡出土の琴同様、 頭部が広がった 形をしており、

槽 部分などがほぼ 完全な形で出土している。 長さは 160cm あ る。 両三宅 東 、 前田例は形として

は埴輪に表現された 琴に非常によく 似ている。 特に前田 側 では音響面で 全く必要ない 頭部が確

認 でき、 長さが 160 。 m を超える長大な 琴であ るが、 埴輪や沖ノ島の 琴はいずれも 小型であ る。

形が似ていることだけですぐには 結びつけることはできないが、 関連性があ ると考えられよ う

E 類

槽 作りの琴の中でも lm 以下と比較的短小な 類 。 弥生時代後期から 認められる。 静岡県小黒

遺跡、 滋 賀県 針 江海遺跡、 福岡県上 鐘子 遺跡の例が該当する。 針江浜 、 上 鍵子 例は部分的にし

か 残っていないが、 尾部の突起の 間隔が狭いことや、 槽を結びつけた 孔の幅が狭いことから、

lmm 以上の大きな 琴 とは考えにくい。 琴板が完存している 小黒例は琴板が 49.acm と小さく、 集

一 9 一

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弦 孔を内側に設け、 集弦 孔から頭部にかけては 少し細く削り、 はっきりと頭部を 区別している。

形だけに注目するなら、 辻田 1 号琴を小型にしたような 形であ る。 どれも琴板と 槽を結びつけ

た孔があ り、 小型ながらも、 槽を持っていたようであ る。

古墳時代前期には 大阪府下田遺跡の 例があ る。 長さ f60.4cm 、 槽 部分には中を 仕切る板がはめ

られている。 金子裕之はこの 下田例を出雲大社などに 伝わる 「琴板は ,ノ 」ではないかと 考えて

いる 擁ゾ 。 尾部に突起を 持っていない。 古墳時代中期には 滋 賀県森 浜 遺跡 (2 . 3 号 琴 ) 、 大阪

阿亀井遺跡、 奈良県平城宮下層 (2 例 ) から出土している。 亀井 側 では頭部が幅広く 広がってお

り、 集弦 孔も頭部から 三分の一ほど 内側におけられている。 平城宮下層でも 頭部は幅広く 扇形

になっており、 琴身 と頭部の間が 削り込まれ、 区別されている。 D 類でも見られたよ う に、 頭

部と 琴 身を区別した 形態が E 類にも見られるが、 数が少ない。 どちらも出土 側 が増えれば、 細

かく分類できるのかもしれない。 E 類の琴は古墳時代後期には 今のところ見られないようであ

る 。 しかしこのように l m 以下の琴は、 人物埴輪が膝の 上で弾いている 琴と 何か関連性があ る

と考えてもよいのではないだろうか。

平城京跡でも E 類の琴が出土している。 これは井戸の 枠に転用されていたが、 同時に出土し

た 遺物などを考えて 奈良時代の琴と 思われる。 古墳時代に E 類が消えてしまうのではなく、 奈

良時代までこの 形態が続いていたと 考えられる。

小結

以上の分類をもとに、 縄文時代から 奈良時代までの 琴の変遷を整理してみる 姻 5-1 . 2 コ

まず 板 作りの琴では、 縄文時代に見られた A 一丁類は古墳時代にまでその 形態が続くが、 次

第に 衰退してゆく。 弥生時代に A 一 l 類から発展したと 思われる A 一 2 類も 、 新しく弥生時代

に出現する B 類に影響され 次第に吸収されていくのではないだろうか。 また B 類は、 槽 作りの

E 類の影響下で 誕生したかもしれないが、 奈良時代まで 続く。 古墳時代には、 全く新しい形態

の c 類が出現し、 奈良時代まで 続く。

槽 作りの琴は弥生時代にすでに 存在する。 D 類 、 E 類のように大型、 小型の琴が並存するが、

小型の琴が古墳時代後期に 見られなくなることから、 槽 作りの琴では 大型の琴が主流となって

いったよさであ る。 より大きな音を 追求した結果ではないだろうか。 また小型の琴は 埴輪の琴

や沖の鳥の雛形 琴 につながっていくのだろう。 弥生時代後期、 それまでの仮作りの 琴 とは大き

く 異なる fg ヤモリの琴が 出現する。 そして古墳時代中期には C 類 という全く新しい 琴が登場する。

奈良時代には 現在の形態とほとんど 変わらない琴が 正倉院に存在している。

また平安時代の 和琴が鳥羽離宮跡から 出土している。 新しい琴の形態は、 それまでとは 大きく

異なっており、 当時の人々にとっては 劇的な変化だっただろ う

S 長きと 幅 。 こ よる検討

現在までに出土している 琴について、 長さと何に注目し 分析してみよう。 図 6 は 板 作りの 琴、

槽 作りの 琴 双方について、 長さと幅の相関関係を 図示したものであ る。 板 作りの琴は、 槽 作り

の琴に比べ、 全体的にどれも 大きさが小さく、 単に長さだけでなく、 幅に関しても、 槽 作りの

一 10 一

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一 11 一

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5-2 坪変遷 図

一 12 一

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琴に 比べ狭い。 1 側 だけ 1.58m のもの 接 偉 長 さとも計測可能な 資料

があ るが、 これは平安時代の 琴であ り、 今窩 あ るいは愛さから 大きさ 寺 推定した資料

当時は正倉院の 琴のよ引こ、 すでに現 祀 在のような大型のものが 主流となって

いた。 そのため、 この 杉 / 木 遺跡出土

の 琴を例外とするならば、 板 作りの琴

はほとんどが l m 以下の小型で、 やや

細長い琴であ るといえる。

それに比べ、 槽 作りの琴は小型と 大

型とに分けることができる。 いずれも 長さ

弥生時代に出現し、 奈良時代まで 並存

している。 小型であ る抜作りの 琴 A 類

は、 古墳時代前期の 入江内湖例を 最後 l0 @@ 一一 -

把 に 、 それ以後見られなくなる。 完全に

A 類が使用されなくなったとはいえな

いが、 衰退したとは 考えられよ フ @

O 今

かし、 小型の琴という 観点で考えるな 0@ 0

ら 、 古墳時代中期には c 類が登場し、

弥生時代から 存在する 琴 B 類 、 琴 E 類

が 併存している。 C 類は板作りの 小型

長 さ

琴 であ るが、 琴の中でも特殊な 形態を

しており A 類 、 B 類から発展したもの 図 6 大きさによる 琴の分布バラフ

とは考えにくいため、 別扱いし、 C 類については 後で述べたい。 ここでは特に E 類に注目しよ

つ @

E 類は A 類が衰退していったのに 対し、 奈良時代まで 存在している。 また古墳時代には D 類

も 存在する。 D 類の槽が大きくなっていることは、 水野正妃 が 指摘したとおり、 当時の人がよ

り大きな音を 求めた結果だと 考えられる ぽ 9 ノ 。 しかし小型の E 類が D 類のように大きな 音を出

せるとは居、 えない。 また B 類も同様に大きな 音を出せるとは 思えない。 これらのことから /J 、 型

琴 、 大型 琴が 同時に存在するのは、 それぞれ使用する 場面が異なっていたからではないだろう

琴は古代において、 神託に使用されていたと 考えられている。 田辺尚雄は、 『古事記 刃 仲哀

天皇紀で皇后が 神懸かりする 際に琴を弾いたという 記述から、 琴を神託をするための 道具と考

えたは クノ 。 笛など、 他の楽器では 余韻が残らず 精神統一にはむいていないとし、 琴の重要性を

指摘している。 大場 磐 雄は琴を使用した 場面を想定、 第一は神事用、 第二は宴会用、 第三は民

衆の娯楽用としたは , ノ 。 しかしどれも 神事の延長であ り、 神との っぽ がりに使用されたと 大場

は考えた。 また、 生田紀明も布留遺跡が 祭祀遺跡であ ることから、 琴を祭祀に使用したと 考え

たはタノ 。 水野正妃 は、 琴を弾きながら 男性のシンボルを 出した埴輪があ ることから、 琴は神託

に関係していたものと 考えた。 しかし一方で『肥双国風土記刀を 引用し、 男女の恋を語るため

一 13 一

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の道具であ ったとも述べている㈹。 宮崎まゆみは、 記紀や風土記では 神事に関係している 記

述よりも、 宴会などの場面で 使用されている 記述のほうが 多いことから、 神事に関係すること

だけでなく、 宴会などの場面でも 琴が使用されたと 考えるべきであ るとしているけ 4 ノ 。 確かに

宮崎の指摘どおり、 琴 というとすぐに 祭祀に結びつけてしまう 傾向が強いのであ る。

私も大場 読 めように、 琴は様々な場面で 使用されたと 考える。 しかも種類の 異なる琴を使い

分けていたのではないだろうか。 琴の変遷の中で、 大型と小型が 弥生時代から 並存し、 奈良 時

代 にも並存していることを 指摘した。 この両者の違いは 使用した場面の 違いであ ると考えるの

であ る。 より大きな音を 追求していった 結果として、 槽 作りの大型 琴 D 類は 、 人にメロディを

聴かせるということから 宴会などの音楽場面に 使用されたのではないだろうか。 大型の琴が 宴

会など音楽場面に 使用されたと 考える一つの 例として、 中国の壁画に 描かれた琴をあ げたい

[ 図 Ⅱ。 そこには、 琴を含めた種々の 楽器が演奏する 音楽に合わせ、 舞っている人々を 見る

ことができる。 これは宴会ではないだろうか。 これらに描かれている 琴はどれも大型で、 膝の

上に琴を載せて 演奏している。 埴輪の表現では 小型の琴全体を 膝の上に載せて 演奏しているが、

中国の壁画では 膝の上に載せられているのは 頭部だけで、 ほとんどは地面になげだされた 形で

大型の琴が描かれている。

逆に笠原 潔は 「大型で作りに 規格 判 のあ る 槽 作りの琴は儀式や 祭祀に使ったパブリックな 楽

@ 二 ' 。 "

、 ' フ "@ あ

一 Ⅰ ,

白城

山東省

2

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諾 ではないか」との 意見を示しているは タノ 。 大場が述べているように、 古代において、 神事、

宴会、 娯楽がどれも 神との関わりがあ ったとするならば、 音楽場面は祭祀と 切り離してほ 考え

られない。 古代ギリシアにおいては、 芸術であ る「 劇 」 と「祭祀」は 不可分であ った。 J .E.

ハリソンによると、 ギリシアでは 全員が踊ることで 神への喜びを 表現していた 祭りが、 次第に

踊る者とそれを 見物する者へ 分化し、 劇 という独立した 芸術へ移行している /, の 。 全く同じこ

とが日本でも 起きたとはいえないが、 祭祀として始まった 音楽が次第に 祭祀と切り離され、 美

しい音楽を聞くことを 目的とし、 純粋に音楽を 楽しむようになっていったと 考えることができ

るのかもしれない。 大型の琴は昔を 奏でるという 意味で祭祀と 関係があ ったかもしれないが、

祭祀のみではなく、 そこには昔を 楽しむという 意味も持っていたのではないだろうか。

琴の大きな変革の 理由に、 大陸文化の影響がなかったとは 考えられない。 弥生文化がそうで

あ ったよ う に、 大陸の影響は 日本人にとって 非常に大きなものだったと 思われる。 その大陸か

らの影響の 一 っとして、 c 類に分類した 特殊な形の琴をあ げたい。

C 類の琴は古墳時代中期に 出現した。 断面が姉角形になるよ う に削られ、 頭部は柄のように

細長く半月形状をしており、 現在の琴と異なる 形をしている。 以前から存在する A 類 、 B 類が

発展して生まれた 形であ るとはとうてい 考え

られない。 すでにどこかで 確立された C 類の

形態が日本に 入ってきたと 考える方が自然で

はないだろうか。 中国では、 明器だが、 C 類

の琴と 非常によく似た 形の楽器が馬王堆 漢墓

から出土している 「 筑 」という柄を 備え

た 5 弦の楽器であ る [ 図 8] 。 日本の琴のよ

う に指に爪を着けて 弦をはじくのではなく、

棒状の搬で弦をたたいて 音を出す。 また、 連

雲港 西漢墓の漆画の 中にも筑を演奏する 姿が

描かれている。 しかし、 筑には c 類の柄にあ 図 8 棺に描かれた 筑 ( 中国馬王堆 漢墓 1 号 墳 )

図 9 漆画に描かれた 筑 ( 中国連 雲 西漢 墓 )

一 1'"" @1 --

Page 16: ú { ´ n B à ã Ì Õ · 1958 N A Ñ ª O Í Ã ã Ì Õ ð l à ¿ É î à « ª Í µ A ³ q @ Ì a Õ Æ ä r ¢ µ ½ /,0 m B û Ö É \ » ³ ê Ä ¢ é Õ Í A È P È \

るような弦を 張るための孔は 存在せず、 また日本の古墳時代中期と 中国の漢代とでは 年代差が

あ ることなどから、 c 類の琴と筑が 直接関係があ るとはいえないけれども、 c 類の基礎となっ

た楽器と 筑 とは、 同じ流れの中で 成立していったと 考えられないだろうか。 また、 C 類の琴が

出土した京浜遺跡からは、 琴柱も出土している。 琴柱は弦と琴板との 間に空間を作って 弦を弾

きやすくし、 同時に昔の高さを 調節するための 道具であ る。 しかし単に弦を 持ち上げるだげな

ら、 現在の琴柱のような 三角形であ る必要はない。 ただの木の破片でも 代用できるものであ る。

しかし、 森浜 遺跡で出土した 琴柱は三角形であ り、 頂点の部分に 弦をかける溝を 持っている。

このような三角形の 琴柱は中国ではすでに 紀元前 5 世紀の曽 侯乙墓で 出土しているは タノ 。 この

ように琴柱の 形からも、 大陸からの影響を 窺い知ることができるのではないだろうか。

和琴は日本独自の 琴だと一般にいわれている。 確かに日本独自に 発達した楽器かもしれない。

しかし、 その基本となる 楽器は大陸からの 影響を受けて 成立したかもしれないし、 現在の和琴

の形に成立する 途中の段階で、 大陸から何らかの 影響を確実に 受けたはずであ る。 厳密な意味

での日本独自という 言葉はあ てはまらないのかもしれない。

おわりに

出土した琴については 現在まで多くの 人々によって 研究されてきた。 また、 最近の発掘調査

で 新たに 琴 だと思われる 木製品も数多く 出土している。 いままで研究されてきた 資料に 、 新た

に出土した琴も 付け加えながら、 琴の長さや幅に よ る違 い から、 どのような場面で 琴が使用さ

れてきたのかを 検討し、 あ わせて大陸との 関係も考えてみた。 大陸との関係については、 現在

のところ、 年代が大きく 離れているため、 日本と直接には 結びつけることはできないが、 あ る

程度の規格をもって 琴が出現していることなどから、 影響があ ったのは確実であ る。 今後新た

な 資料が増加することによって、 大陸からの流れがより 鮮明になるであ ろう。

(1) 諸橋轍次ア大漢和辞典 ロ 第一巻 ( 大修館書店 1955L (2) 『新潮世界美術辞典』 ( 新潮社 1985L 。

(3) (2) 註に同じ。

(4) 田辺尚雄 は 日本音楽の研究 J ( 京 文社 1926) 。 ㏄ ) 田辺尚雄丁日本の 音楽ロ ( 中文館書店 1947) 。 (6) 田辺尚雄『日本音楽史 J ( 雄山 閣 1932) 。 (7) 倉野 篤司、 武田祐吉『古事記 祝言詞 J ft 岩波書店 1959) には次のように 読み下している。

「其の妻 須 性理民 曹を負 ひて 、 即ち其の大神の 生大刀と生弓矢と、 及 其の天の詔琴を 取 り 持ちて逃げ

出でます時、 」

(8) 高木市之助、 五味智英、 大野 普口 萬葉集 二 』 皓波 書店 1959) には次のように 読み下している。 「大伴旅人謹みて 伏 す

梧桐日本拳一面対馬の 籍 るぬ の孫枝なり

此の琴夢に娘子に 化りて日はく、 余根を遥島 の 崇き 轡に託け、 を 九場の % き光に 稀す 。 長く煙霞 を 帯びて、 山川の阿に 趙遷 し、 遠く風波を望みて、 雁と 木との間に出入りす。 唯し 百年の後、 空しく 溝に朽ちなむといふことを 恐るらくのみ。 たまたま良匠 に遭ひて、 削りて小琴に 為らる。 質の麓 く 昔

の少しきなることを 顧みず、 常に君子の左 琴を希 ふと い へり。 即ち歌いて日はく、 如何にあ らむ日の時にかも 聲 知らむ人の膝の 上わが枕かむ」

(9) 黒沢隆朝『楽器の 歴史 コ ( 音楽之友社 Ⅰ 956) 。 またこの「発目 式 やまと 琴 」については ァ 東洋音楽所 究コ 第 10 ・ 11 合併号の口絵解説で、 岸辺戒雄が「絶好の 和琴研究資料であ る。 現物そのものであ る点、 実

一 If 一

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に 貴重な資料であ る。 」と紹介している。 また同時に群馬県から 出土した埴輪に 表現された楽器を 琴と断

定している。 (10) 林 謙三「和琴の 形態の発育経過について」 ( M 書陵部紀要 J lo 号 1958) 。 林はこのような n 状の琴を

「台付平板状」と 呼び、 和琴のような 槽状 のものを「中高裏 板付」と呼んでいる。 (l1) 「 臥雙筏 」という楽器は 現在その構造ははっきりしていないが、 当時の他の楽器は 槽の作りや弦の 数、

成立年代などが 和琴とかみ合わなし 、 ため、 林は消去法によって「空漠」以覚の 楽器で和琴に 構造的影響

を与えた楽器は 無いだろうと 推測した。 け 2) 大場 磐雄 「管主発見のやまとごと」 上 ・ 下 ( V どるの んコ 1 . 2 号 1973, Ⅰ 974L 。

け 3) 6 弦の琴として 登呂遺跡出土の 琴をあ げている。 登呂遺跡の琴を 6 突起であ るとしているが、 突起の間

に弦を張るか、 突起に弦を結びつけるかで 弦の数は異なるため 大場は "?" としている。 また 5 弦では埴

輪の 4 例と沖の鳥の 雛形 琴 、 4 弦では埴輪の 3 例を挙げている。

(14) 兼 康保明「古代の 琴 一森浜 遺跡出土などの 遺品をめぐって 一 」 ( T 月刊文化財団 10 月号 第一法規出版

1977) 。

(15) 水野正 好 「琴の誕生とその 展開」 ( 『考古学雑誌』 66 一 Ⅰ 日本考古学会 1980L 。 水野はこれ以前にも

文献や埴輪出土遺物から 琴を検討しているが、 そのまとめとしてこの 論文を発表している。

(16) 解釈によっては、 弥生時代も含み 3 度の変革と解釈することもできる。 (17;7) 佐田茂「古代 琴 雑考」 ( 『考古学雑誌 j 66 一 Ⅰ 日本考古学会 1980) 。

く 18) 岸辺威雄「和琴の 祖 形 」Ⅱ雅楽界 よ 56,57,58 号 小野雅楽界 1981 ~ 1984) 。

細川修平「滋 賀県松原内湖出土の 箆伏木製品」 ( 『考古学雑誌』 72 一 4 日本考古学会 1987) 。

デ イ ヴィッ ト ・ w . ヒュース「古代の コト に関する 2 、 3 の資料」 ( F 考古学 ソャ一 ナルロ 284 1987) 。

く 19 Ⅰ 岡崎 晋明 「最近出土の 琴」 ( F 花園史学 コ第 10 青 花園史学会 1989) 。 (20) 金子裕之「楽器・ 酒造兵・紡織 具 」 ( 「古墳時代の 研究 ロ 第 3 巻 雄山 閣 1991) 。 (21) 宮崎まゆみ ニ 埴輪の楽器 & ( 三文 社 1993) 。

(2 の 琴の頭部に 、 鶉の尾のように 中央をくびれさせた 形の飾りをつけたもの。 伊勢神宮などに 宝物として伝

えられており、 現在も製造されている。 (23) 水野正 好 (15) 註に同じ。

(24) 岡崎 晋明 (19) 註に同じ "

(25) 水野正 好 (15) 註に同じ。

(26) 上原真人『木器集成図録 近畿原始編目 ( 奈良国立文化財研究所 Ⅰ 993) 。 (27) 琴板とは 箱 状 になった板の 表面を箸のような 棒でたた き 、 占いを行 う ものであ る。 そのため普通の 琴の

ような弦は存在しない。 (28) 金子裕之 尹 日本の美術 コ 5 N0.360( 至交 堂 1996) 。

(29) 水野正 好 (15) 註に同じ。

(30) 田辺尚雄 (6) 註に同じ。

(31) 大場 磐雄 (12) 註に同じ。

生田紀明「布留遺跡だより (1) やまと 琴 」 ( 『天地口第 2 巻第 7 号 道文 社 Ⅰ 979) 。

(33) 水野正 好 「埴輪弾琴 像 幻想」 ( 『月刊文化財 J 169 号 第一法規出版 1977) 。 は 4) 宮崎まゆみ (21) 註に同じ。 (35) 1996 年滋 賀県柳遺跡で 出土した 2 つの琴について、 笠原 潔が 1 月 17 日の京都新聞で 述べた意見を 引用し

たものであ る。

(36) J . E ハリソン、 佐々木理訴 叩 古代芸術と祭式』 筑摩書房 1964) 。

(37) 湖北 省 博物館 編 ニ書 候乙墓 コ上 ( 文物出版社 1989) 。 (38) 朝彦八編ア中国楽器 図 毒ョ健 二亜 出版 1987) 。

参考文献 杯 健三Ⅱ東アジア 楽器 考コ ( カワイ楽譜 1973L 。

金閣 恕 「呪術と祭り」 ( ニ 岩波講座 日本考古学 4J 岩波書店 1986) 。

水野正 好 「楽器の世界」 ( 「弥生文化の 研究 コ 第 8 巻 1987) 。 水野正雄「古代琴の 世界」 ( 『井上コレクション 弥生・古墳時代資料図録 コ 言議 社 1988) 。

孫 文綿 ニ 中国の音楽世界 ロ ( 岩波書店 1990) 。 滝 遼 一口中国音楽再発見 楽器 編コ儂 一書房 1991) 。

図 ・表出典一覧 図 1 琴 部分名称 : 『秋期特別展 古代の琴 コ 似、 下 T 古代の琴 コと 省略 )( 橿原市千塚資料館 1992)22 頁の図

を改変 図 2 分類模式 図 : 筆者作図

図 3 琴 出土遺跡分布地図 : 『古代の琴 0 23 頁の図を補足

一 17 一

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図 4 琴 実測図

1. 松原内湖遺跡出土 : r 木器集成図録近畿原始 編 』 ( 以下『木器集成原始縞コ と 省略 )( 奈良国立文 化財研究所 1993)15607 を 再 トレース

2. 鬼虎川 遺跡出土 : F 木器集成 原始 編 』 15604 を 再 トレース

3. 布留遺跡出土 : 『布留遺跡姉島 ( 里中 ) 地区発掘調査報告書』 ( 埋蔵 文化財天理教調査団 Ⅰ 995)

挿図 138 一 1 を 再 トレース

4. 葮 他化遺跡出土 : 『木器集成 原始 編 j 15603 を 再 トレース

5. 森浜 遺跡出土 : r 木器集成 原始 編 』Ⅰ 5802 を 再 トレース

6. 国府 関 遺跡出土 : 『調査報告集 15 集』Ⅱ 財 ) 長生郡市文化財センタ 一 1993) 第 194 図を再トレース

図 5 一 1 . 2 変遷 図 : 筆者作成

図 6 大きさによる 琴の分布バラ 7 : 筆者作成

図 7 中国の壁画に 表現された 琴 : 中国老木研究員音楽研究所ァ 中国音楽史図 J ( 人民音楽出版社 1988)

34 頁Ⅱ 一 5 、 36 頁Ⅱ 一 17 複写

図 8 . 9 筑 : 中国老木研究員音楽研究所口中国音楽史図鑑』 ( 人民音楽出版社 1988)55 頁Ⅱ イ 2 、 n-73 複写

著作成

基に筆

筆者作成

め表

は覧

好一

玉琴

野土

氷山

エ 2

表表

一 18 一