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1999年 2月 関東民放 くらぶ 第 47号 10 使 使 27 12 26 千代 田区二 番町の社屋建設予定地 -5-

日本民放クラブCreated Date 7/14/2013 12:03:25 PM

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  • 1999年 2月 関 東民放 くらぶ 第 47号

    開局

    への足どり

    当時テレビ技術の最先端は、

    イメージ

    ‘オ

    ルシコン撮像管

    (IO管)生カメラと

    10キロ

    ワット以上の大電力送信機に代表されていた

    が、

    両者とも日本では生産はおろか、

    輸入の

    現物さえ見た者がない椛のまぼろし的存在で

    栗田 富士男

    (NTV)

    った.

    前号で触れたNHK砧の技術研究所

    でさえ、 

    一世代前のアイ

    コノスコープと

    いう

    撮像告カメラしかなか

    ったのである.

    々は急返、

    RCA社に、

    同社

    の総代理

    店大合商■を通じて放送設備発注作業にとり

    かか

    ったのはいうまでもない。しかし、

    問題

    は、 ルはじめに予算ありき々なのである。

    材輸入として大蔵省から許された外貨は■①

    万ドルぽ

    つきりだ

    つた。

    々はこれを送信

    ・アンテナに工①万ドル、

    演奏設備

    一式

    ⌒生カメラ五台)に三〇万ドルをあてた。

    時は

    一ドル三六〇円の同定相場だ

    ったが、

    賃関税を含めると約五〇〇円、

    総額二億五千

    万円の買い物である.

    今にして思えば、

    随分

    みみ

    っち

    いように見えなくもないのだが、

    の年の同家予算も

    一兆円に満たなか

    ったこと

    を思えば贅沢はいえな

    い。

    放送局建設の敦地は、

    一条件として、

    日分布の中心に送信所を置くのがテレビの常

    道であると前年米国

    の権成

    に教えられてい

    才た!

    旧降軍lf常学校跡地

    ⌒】時、

    パーシング

    ハイツとして米軍が使っていた)が固有地で、

    価格的にも安価に取得出来そうだと

    いうこと

    で、

    当初から、

    GHQ、

    外務省、

    固机局等に

    払下げ交渉をしたのだが、

    如何せん敗戦円の

    悲哀か、

    目的は叶えられなか

    った。

    (十年後

    NHKは代々木ワシントンハイツを取得)

    代替策として有楽町説売別館

    (現そごうデ

    パート)に本社

    ・演奏所スタジオを置き、

    内で最も海抜高を得られる地点を株し歩

    いた

    末、

    麹町に焼け跡の空き地

    (旧満飲総裁邸)

    を見

    つけ、

    ここに送信鉄塔を建てる計画で中

    請書に記載した.しかしその後、

    読党別館は

    修復の焼けビルであるため、

    テレビスタジオ

    としては将来の増設が全く不可能と判明した

    ので、

    有楽町を断念して本社、

    演茶所、

    送信

    所すべてを麹町に建設することにした。

    有楽町に回執したのは、

    朗日、

    毎日、

    読売

    の新聞〓.社

    がここに集ま

    っていた。

    加えて、

    前年開局したラジオ東京のスタジオも毎日会

    館にあ

    った戦前のプラネタリウム

    ・ドームを

    改装して使

    っており、

    いつなれば

    マスコミの

    中心であ

    ったからである.しかし、

    やはりな

    んと

    いつても、

    まだまだ戦争の傷痕が深く残

    っており、

    日本中が貧しくて新聞も放送も焼

    けビルの柿修改装程度で計画せざるを得なか

    ったのである。

    民放に先を

    こされたNHKは、

    急遺法令

    の手続きを経て、

    昭和

    27年

    12月26日予備免許

    を取得、

    大急ぎで砧技研の実験局送信機を

    キロワットに増力して内幸町本館に移設し、

    千代田区二番町の社屋建設予定地

    - 5 -

  • 1999年2月 関 東民放 くら′Sミ・第 47冴

    28年8月20日、

    試験電波の発射に成功

    =28年2川lH開村、

    なんとかテレビ放送第

    一けの―lli日をたも

    った!

    NHKも送信機は我

    々と同じRCAに注

    文したが、

    カメラについては例のメガ問題に

    こだわりがあ

    つたのか、

    火litlのPYE社のも

    のを採用し、

    これを伴,4‐‐…方式用に改造して使

    用していたようである

    一トランス、

    幣流器を

    外付BOXにしてケーブルで接続一

    我々は前述のように商用化源を60ヘルツに変

    換するCVICF火性を設けたので、

    令く支障

    はなかったが、

    後に機朴増設の性に屯源作――……ヘ

    の肥はが不可欠となる不使があ

    った

    すべて愉人機材に取

    ったと

    いっても、

    現千‐…

    のように作部門中円のに■会社があるわけで

    はなく、

    ほとんど我々ネ人集‐ヽ11の子で設甘し

    なければならなか

    った,

    そのうえ、

    RCAで

    ハイバンドの牛冷式送信機はまだ実績がな

    ったためi場出荷が大幅に遅れ、

    受取は6

    月末にずれ込み、

    当初の4月開―・3

    予定はとう

    とう

    8月28‐―にな

    ってしま

    った,

    四ヶ月おくれで漸く開局

    7月十ば、

    前述の送信機とアンテナ系を除

    いて、

    やっとのことでスタジオ部分の設営を

    終えたので、

    いよいよ本格的添組制作のリハ

    ーサルに収りかかることにな

    った. しかし本

    邦初波のことばかりで、

    お千本が令くなか

    たことが最大の■労ではなか

    っただろうか。

    一足先に開問した

    NHKのやり方を勉強

    しておくべきだ

    ったのだが、

    建設の真

    っ最中

    でとてもそんな暇はなか

    った,

    その――――、

    私の

    祀はに残るブラウン付の映像は人――こ―女■性下

    の戴冠式に人草性ドの名代として列席される

    「単太子殴下横浜港プレジデント

    ・ウィルソ

    ン号でご出発」の実況中継と、

    二月場所大相

    撲のワンカットだけである.

    ヶえられたテーマが

    「技術の■労」とな

    ているが、

    すべてが生本番だ

    ったので、

    番組

    を放送するのにサブ

    コンだけでなく

    マスタ

    ー、

    テレシネ、

    場合によ

    っては

    マイクロ中継

    機を=】する送信機生まで全部が働くと

    いう

    共令で、

    逐 =労品をしては枚挙にいとまが

    ない一

    そこで技後に私の担当した中継の苦労

    話をして本稿を終わらせていただくことにす

    一”   一一【一)  . ≡開局「初アメリカの番組制作情報として聞

    いたのは、

    バラエティーショー形式のものと

    映川フィルムの放映時間が大きな比重を占め

    ていることだ

    った≡日本では本格的テレビド

    ラマなどまだ作れなか

    ったが、

    スタジオもの

    はリハーサルに

    一時間かけて最大三〇分の番

    組が出来ればL々であるし、

    劇場映問はテレ

    ビの誕生を歓迎していなか

    った.

    いきおい安

    上がりで街頭テレビ向き

    (視聴率と言

    いたい

    所だがそんなものはまだない)且つ時間が稼

    げる、

    二拍子揃

    った希組と

    いうことで中継制

    への要求はかなり強烈で、

    い時は

    一日に

    …ヶ所の中継をこなしたこともあ

    った。

    中継車を臨時副調に

    中継車は中祉番組制作のため絶対必要だ

    たが、

    「時

    「自動■」は愉人禁

    ―liの竿頭品H

    -6-

  • 1999年 2月 関 東民放くらぶ 第 47号

    十日河」一

    であ

    ったので適旋省にお市度を附んでやっと

    手に入れたi物であ

    った。

    映像音声は勿論、

    コミュニケーションラインの配線等万全の装

    備が整

    っているものと信じていたのだが、

    物は矢に相進して今思えば人川のキャンピ

    グカーを改造しただけのものだ

    った.

    テレビ

    中継用の特別装備と見られるものは、

    30メー

    トルのカメラケーブル巻収リドラム四基と当

    時まだ珍しか

    ったウインド型クーラーの他、

    前半分はカメコン操作中とモニター棚が収付

    けてあり、

    後半はカメラ三台その他の専用棚

    にな

    っているにすぎなか

    った。

    私は開局を目

    前に大急ぎで、

    これを

    コックピ

    ットのように

    ″動くサブコントロール々として作りliげる

    ことに没頭した。しかし困

    ったことにNHK

    の様子を見学していたデイレクター達は、

    の中継申を全く信用しな

    いのである.

    彼らの

    い分は

    「野球場では九人の町千、

    打杵、

    判、

    格常、

    コーチ、

    枠えの世千そして例衆の

    動き令てが被写体なのだ.カメラが撮

    った本

    つか

    工つの小さな十‐‐‐‐をただ切り替えるだけで

    呑純ができるわけがな

    い。

    NHKのディレク

    ターは、

    球場合体が児旭せる所に庄

    ってカメ

    ラにキ

    ューを出している。

    榊撲しかり舛台し

    かりだ」。

    古われてみれば在柾も

    っとも、

    常球場、

    蔵前同技館ではそうやっていたし、

    日比谷公公■も下子照明本を牛けてい用のテ

    レビ年を作り、

    中には木製の操作申が微にし

    ていたのを児た記憶がある市

    私はこの要求に抗し切れずやむなく、

    わが

    社の看版番組である後楽園球場の中継に限

    て機材を持ち込むことにした。

    8川25日結合リハーサル決行、

    生過ぎから

    社貝総出で機材運搬をして、 

    一塁側内野席後

    列に臨時副調整室を特設し夜の公式戦に備え

    た。

    そのHのカードは何だ

    ったのか党えてい

    い。

    ただけ中で試合を通

    っているうちに9

    同一異が来たらしい。

    機材を撤収して仕に帰り

    ついたのは午前二時過ぎだ

    った。

    全員綿のよ

    うに城れてそこに倒れてしま

    つた。

    これではとても開局を迎えられないと、

    ィレクター辻も

    ″陥時副詞竿生設嵩要求論々

    を取り下げてくれたので、

    この方式は最初に

    して歳後のものにな

    った≡

    あれから十世紀、

    了フソン、

    限伝、

    ゴルフ

    トーナメント等ビ

    ッグイベントになると中継

    車単位では処叫できな

    いので、

    プレ

    ハブの

    〃特設副調整室々を設営するのが当たり前に

    っている映像を見かけるが、

    老兵は

    「昔の

    仕中には魂が入

    つてた!」と心ひそかに自ら

    を慰めている.

    中継車輸入で税関を説得

    中継■が所網「自動中」の範時に入れられ、

    輸入に手こず

    った話は前に触れたが、

    RCA

    からの輸入、

    通関業務を

    一手に引き受けてい

    た私にと

    って、

    今でも忘れることが出来ない

    税関とのやり取りの思

    い出がある。

    それはテ

    レシ不ヽの■ヽ要設備フィルム

    ・プロジ

    ェクター

    通関のことだ

    った。

    書類にコ】ヨ

    可る」R”Rと

    っているので、

    税関は鬼の首をと

    ったよう

    テレビ中継車の陸上げ (横浜港)

    手造りの中継車内部

  • 1999年 2月 関 東民放くらぶ 第 47号

    に、

    映画館に置く遊興機器

    (税率表にこうな

    っていたか定かではないが)の項目に入れ、

    贅沢品として50%課税だと主張するのだ。こ

    ちらは通信機器のうち品名明記のな

    「その

    他」を適用して20%で通したい。

    そこで習い

    覚えたばかり

    のテレビ技術講釈を始めた。

    後楽園球場に急造した調整卓

    「確かにプ

    ロジ

    ェクターと書

    いてあるが、

    映画館のものと

    は全く構造が違

    っている。

    画は万国共通で毎秒

    24コマと

    決ま

    っているが、

    テレビはこ

    れを毎秒30枚の画像に重ね直

    さねばならな

    い。この機械は

    いうなれば

    ″打ち出の小槌″

    なのだ」と。しかし天下の大

    蔵省税関がこんな説明で引き

    下がるわけはなか

    った。

    私は

    紙に

    (時\〇〇十∞\〇〇)×岸時‐‐Oo\oO=津

    いう算術式を書

    いて

    「奇数

    コマと偶数

    コマではフィルムの停止時間が違

    い、

    その割合は2対3にな

    っている。この機

    械はテレビ用の特殊機械で映画館ではつかえ

    ない」と30歳前の若造がしたり顔で、213プ

    ルダウン方式の開陳におよんだc

    数式が功を

    奏したのか、

    税関も理解してくれて高額の課

    税は免れたが、

    実は私も初めて見た機械で、

    今思いだしても全く冷汗ものである。

    しかし、

    このことは最初に述べたが

    NT

    SCと

    PAL方式

    に密接な関係を持

    ってお

    り、

    単に方式の違

    いと片づけることは出来な

    い。

    因みに欧州ではこの

    〃からくり″が使え

    いため、

    テレビの映画放映は25コマで放送

    している筈である。と

    いうことは映画の

    一時

    間ものはPALでは三分半ほど早く終わ

    って

    しまう勘定になり、

    民放はスポ

    ットCMのこ

    とを考えると馬鹿にできない数字である。

    現役を退

    いて十五年にもなり、

    その間の技

    術革新はより激しく、

    つて数億円と

    いわれ

    たNTSCIPALISECAM方式変換器

    も、

    秋業原で僅か数万円で入手できるご時世

    だ。

    欧州でも今は正規の24コマ放映に切り替

    えているかもしれないが、

    フィルム自体がテ

    レビに登場する機会が少なくな

    った昨今、

    事にも保守的な欧州がそのためにテレシネ機

    器を取り替える筈はないと思

    っている。

    十年

    ほど前に日本がミューズ方式

    ハイビジョンを

    世界の標準方式にしようと、

    欧州に売り込み

    に行

    ったが、

    賛意を得られなか

    ったことと無

    関係ではなさそうだ。

    この辺りの実情がどう

    っているのか、

    機会があれば専門家に聞

    てみたい。

    (写真の

    一部は日本テレビ放送網

    「大衆とと

    もに25年」より転載)

    本邦初演のプロヨルフ中継 (32年10月)

    -8-