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1999年 2月 関 東民放 くらぶ 第 47号
開局
への足どり
当時テレビ技術の最先端は、
イメージ
‘オ
ルシコン撮像管
(IO管)生カメラと
10キロ
ワット以上の大電力送信機に代表されていた
が、
両者とも日本では生産はおろか、
輸入の
現物さえ見た者がない椛のまぼろし的存在で
栗田 富士男
(NTV)
あ
った.
前号で触れたNHK砧の技術研究所
でさえ、
一世代前のアイ
コノスコープと
いう
撮像告カメラしかなか
ったのである.
我
々は急返、
RCA社に、
同社
の総代理
店大合商■を通じて放送設備発注作業にとり
かか
ったのはいうまでもない。しかし、
問題
は、 ルはじめに予算ありき々なのである。
機
材輸入として大蔵省から許された外貨は■①
万ドルぽ
つきりだ
つた。
我
々はこれを送信
機
・アンテナに工①万ドル、
演奏設備
一式
⌒生カメラ五台)に三〇万ドルをあてた。
当
時は
一ドル三六〇円の同定相場だ
ったが、
運
賃関税を含めると約五〇〇円、
総額二億五千
万円の買い物である.
今にして思えば、
随分
みみ
っち
いように見えなくもないのだが、
そ
の年の同家予算も
一兆円に満たなか
ったこと
を思えば贅沢はいえな
い。
放送局建設の敦地は、
第
一条件として、
人
日分布の中心に送信所を置くのがテレビの常
道であると前年米国
の権成
に教えられてい
才た!
旧降軍lf常学校跡地
⌒】時、
パーシング
ハイツとして米軍が使っていた)が固有地で、
価格的にも安価に取得出来そうだと
いうこと
で、
当初から、
GHQ、
外務省、
固机局等に
払下げ交渉をしたのだが、
如何せん敗戦円の
悲哀か、
目的は叶えられなか
った。
(十年後
NHKは代々木ワシントンハイツを取得)
代替策として有楽町説売別館
(現そごうデ
パート)に本社
・演奏所スタジオを置き、
都
内で最も海抜高を得られる地点を株し歩
いた
末、
麹町に焼け跡の空き地
(旧満飲総裁邸)
を見
つけ、
ここに送信鉄塔を建てる計画で中
請書に記載した.しかしその後、
読党別館は
修復の焼けビルであるため、
テレビスタジオ
としては将来の増設が全く不可能と判明した
ので、
有楽町を断念して本社、
演茶所、
送信
所すべてを麹町に建設することにした。
有楽町に回執したのは、
朗日、
毎日、
読売
の新聞〓.社
がここに集ま
っていた。
加えて、
前年開局したラジオ東京のスタジオも毎日会
館にあ
った戦前のプラネタリウム
・ドームを
改装して使
っており、
いつなれば
マスコミの
中心であ
ったからである.しかし、
やはりな
んと
いつても、
まだまだ戦争の傷痕が深く残
っており、
日本中が貧しくて新聞も放送も焼
けビルの柿修改装程度で計画せざるを得なか
ったのである。
民放に先を
こされたNHKは、
急遺法令
の手続きを経て、
昭和
27年
12月26日予備免許
を取得、
大急ぎで砧技研の実験局送信機を
5
キロワットに増力して内幸町本館に移設し、
千代田区二番町の社屋建設予定地
- 5 -
1999年2月 関 東民放 くら′Sミ・第 47冴
28年8月20日、
試験電波の発射に成功
=28年2川lH開村、
なんとかテレビ放送第
一けの―lli日をたも
った!
NHKも送信機は我
々と同じRCAに注
文したが、
カメラについては例のメガ問題に
こだわりがあ
つたのか、
火litlのPYE社のも
のを採用し、
これを伴,4‐‐…方式用に改造して使
用していたようである
一トランス、
幣流器を
外付BOXにしてケーブルで接続一
我々は前述のように商用化源を60ヘルツに変
換するCVICF火性を設けたので、
令く支障
はなかったが、
後に機朴増設の性に屯源作――……ヘ
の肥はが不可欠となる不使があ
った
すべて愉人機材に取
ったと
いっても、
現千‐…
のように作部門中円のに■会社があるわけで
はなく、
ほとんど我々ネ人集‐ヽ11の子で設甘し
なければならなか
った,
そのうえ、
RCAで
も
ハイバンドの牛冷式送信機はまだ実績がな
か
ったためi場出荷が大幅に遅れ、
受取は6
月末にずれ込み、
当初の4月開―・3
予定はとう
とう
8月28‐―にな
ってしま
った,
四ヶ月おくれで漸く開局
7月十ば、
前述の送信機とアンテナ系を除
いて、
やっとのことでスタジオ部分の設営を
終えたので、
いよいよ本格的添組制作のリハ
ーサルに収りかかることにな
った. しかし本
邦初波のことばかりで、
お千本が令くなか
っ
たことが最大の■労ではなか
っただろうか。
一足先に開問した
NHKのやり方を勉強
しておくべきだ
ったのだが、
建設の真
っ最中
でとてもそんな暇はなか
った,
その――――、
私の
祀はに残るブラウン付の映像は人――こ―女■性下
の戴冠式に人草性ドの名代として列席される
「単太子殴下横浜港プレジデント
・ウィルソ
ン号でご出発」の実況中継と、
二月場所大相
撲のワンカットだけである.
ヶえられたテーマが
「技術の■労」とな
っ
ているが、
すべてが生本番だ
ったので、
番組
を放送するのにサブ
コンだけでなく
マスタ
ー、
テレシネ、
場合によ
っては
マイクロ中継
機を=】する送信機生まで全部が働くと
いう
共令で、
逐 =労品をしては枚挙にいとまが
ない一
そこで技後に私の担当した中継の苦労
話をして本稿を終わらせていただくことにす
一” 一一【一) . ≡開局「初アメリカの番組制作情報として聞
いたのは、
バラエティーショー形式のものと
映川フィルムの放映時間が大きな比重を占め
ていることだ
った≡日本では本格的テレビド
ラマなどまだ作れなか
ったが、
スタジオもの
はリハーサルに
一時間かけて最大三〇分の番
組が出来ればL々であるし、
劇場映問はテレ
ビの誕生を歓迎していなか
った.
いきおい安
上がりで街頭テレビ向き
(視聴率と言
いたい
所だがそんなものはまだない)且つ時間が稼
げる、
二拍子揃
った希組と
いうことで中継制
作
への要求はかなり強烈で、
多
い時は
一日に
…ヶ所の中継をこなしたこともあ
った。
中継車を臨時副調に
中継車は中祉番組制作のため絶対必要だ
っ
たが、
「時
「自動■」は愉人禁
―liの竿頭品H
-6-
1999年 2月 関 東民放くらぶ 第 47号
や
占
)
十日河」一
であ
ったので適旋省にお市度を附んでやっと
手に入れたi物であ
った。
映像音声は勿論、
コミュニケーションラインの配線等万全の装
備が整
っているものと信じていたのだが、
実
物は矢に相進して今思えば人川のキャンピ
ン
グカーを改造しただけのものだ
った.
テレビ
中継用の特別装備と見られるものは、
30メー
トルのカメラケーブル巻収リドラム四基と当
時まだ珍しか
ったウインド型クーラーの他、
前半分はカメコン操作中とモニター棚が収付
けてあり、
後半はカメラ三台その他の専用棚
にな
っているにすぎなか
った。
私は開局を目
前に大急ぎで、
これを
コックピ
ットのように
″動くサブコントロール々として作りliげる
ことに没頭した。しかし困
ったことにNHK
の様子を見学していたデイレクター達は、
こ
の中継申を全く信用しな
いのである.
彼らの
声
い分は
「野球場では九人の町千、
打杵、
杯
判、
格常、
コーチ、
枠えの世千そして例衆の
動き令てが被写体なのだ.カメラが撮
った本
一
つか
工つの小さな十‐‐‐‐をただ切り替えるだけで
呑純ができるわけがな
い。
NHKのディレク
ターは、
球場合体が児旭せる所に庄
ってカメ
ラにキ
ューを出している。
榊撲しかり舛台し
かりだ」。
古われてみれば在柾も
っとも、
神
常球場、
蔵前同技館ではそうやっていたし、
日比谷公公■も下子照明本を牛けてい用のテ
レビ年を作り、
中には木製の操作申が微にし
ていたのを児た記憶がある市
私はこの要求に抗し切れずやむなく、
わが
社の看版番組である後楽園球場の中継に限
っ
て機材を持ち込むことにした。
8川25日結合リハーサル決行、
生過ぎから
社貝総出で機材運搬をして、
一塁側内野席後
列に臨時副調整室を特設し夜の公式戦に備え
た。
そのHのカードは何だ
ったのか党えてい
な
い。
ただけ中で試合を通
っているうちに9
同一異が来たらしい。
機材を撤収して仕に帰り
ついたのは午前二時過ぎだ
った。
全員綿のよ
うに城れてそこに倒れてしま
つた。
これではとても開局を迎えられないと、
デ
ィレクター辻も
″陥時副詞竿生設嵩要求論々
を取り下げてくれたので、
この方式は最初に
して歳後のものにな
った≡
あれから十世紀、
了フソン、
限伝、
ゴルフ
トーナメント等ビ
ッグイベントになると中継
車単位では処叫できな
いので、
プレ
ハブの
〃特設副調整室々を設営するのが当たり前に
な
っている映像を見かけるが、
老兵は
「昔の
仕中には魂が入
つてた!」と心ひそかに自ら
を慰めている.
中継車輸入で税関を説得
中継■が所網「自動中」の範時に入れられ、
輸入に手こず
った話は前に触れたが、
RCA
からの輸入、
通関業務を
一手に引き受けてい
た私にと
って、
今でも忘れることが出来ない
税関とのやり取りの思
い出がある。
それはテ
レシ不ヽの■ヽ要設備フィルム
・プロジ
ェクター
通関のことだ
った。
書類にコ】ヨ
可る」R”Rと
な
っているので、
税関は鬼の首をと
ったよう
テレビ中継車の陸上げ (横浜港)
手造りの中継車内部
1999年 2月 関 東民放くらぶ 第 47号
に、
映画館に置く遊興機器
(税率表にこうな
っていたか定かではないが)の項目に入れ、
贅沢品として50%課税だと主張するのだ。こ
ちらは通信機器のうち品名明記のな
い
「その
他」を適用して20%で通したい。
そこで習い
覚えたばかり
のテレビ技術講釈を始めた。
後楽園球場に急造した調整卓
ジ
「確かにプ
ロジ
ェクターと書
いてあるが、
映画館のものと
は全く構造が違
っている。
映
画は万国共通で毎秒
24コマと
決ま
っているが、
テレビはこ
れを毎秒30枚の画像に重ね直
さねばならな
い。この機械は
いうなれば
″打ち出の小槌″
なのだ」と。しかし天下の大
蔵省税関がこんな説明で引き
下がるわけはなか
った。
私は
紙に
(時\〇〇十∞\〇〇)×岸時‐‐Oo\oO=津
と
いう算術式を書
いて
「奇数
コマと偶数
コマではフィルムの停止時間が違
い、
その割合は2対3にな
っている。この機
械はテレビ用の特殊機械で映画館ではつかえ
ない」と30歳前の若造がしたり顔で、213プ
ルダウン方式の開陳におよんだc
数式が功を
奏したのか、
税関も理解してくれて高額の課
税は免れたが、
実は私も初めて見た機械で、
今思いだしても全く冷汗ものである。
しかし、
このことは最初に述べたが
NT
SCと
PAL方式
に密接な関係を持
ってお
り、
単に方式の違
いと片づけることは出来な
い。
因みに欧州ではこの
〃からくり″が使え
な
いため、
テレビの映画放映は25コマで放送
している筈である。と
いうことは映画の
一時
間ものはPALでは三分半ほど早く終わ
って
しまう勘定になり、
民放はスポ
ットCMのこ
とを考えると馬鹿にできない数字である。
現役を退
いて十五年にもなり、
その間の技
術革新はより激しく、
か
つて数億円と
いわれ
たNTSCIPALISECAM方式変換器
も、
秋業原で僅か数万円で入手できるご時世
だ。
欧州でも今は正規の24コマ放映に切り替
えているかもしれないが、
フィルム自体がテ
レビに登場する機会が少なくな
った昨今、
何
事にも保守的な欧州がそのためにテレシネ機
器を取り替える筈はないと思
っている。
十年
ほど前に日本がミューズ方式
ハイビジョンを
世界の標準方式にしようと、
欧州に売り込み
に行
ったが、
賛意を得られなか
ったことと無
関係ではなさそうだ。
この辺りの実情がどう
な
っているのか、
機会があれば専門家に聞
い
てみたい。
(写真の
一部は日本テレビ放送網
「大衆とと
もに25年」より転載)
本邦初演のプロヨルフ中継 (32年10月)
-8-