20
五山文学 -絶海・義堂を中 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る わが国の五山文学作品には和韻詩が非常に多く、代表的 である以心崇伝二五六九〜〓ハ三三〕他編r翰林五鳳集jでは 巻第十一、十二は試筆和分韻、巻第二十六〜三十一は雉和部とな ている。それにも関わらず、管見の範囲では、この作詩法は、従 来、あまり注目されていない。五山禅僧の作品を正しく読み解き、 研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな くてはならないと思われる。 本稿では、「五山文学の双璧」と称せられた絶海中津〔三三六 〜一四〇五〕と義堂周信二三二五〜八八〕 の作品類を通して、和 萬詩の様相の〓廟を明らかにしてみたいと思う。義堂にはr空車日 1 用工夫略集」(以下、rH工集」と略す)という日記が残されている 朝倉 ので、詠作状況を知る上で便利である。原 2 ぶ)が判明する場合は、和親詩との、内容面 また、和韻詩の作成が、五山文学にとって、ある って如何なる意味を持つか、も併せて考えてみたい。 「和韻」という作詩法 まず、本論に入る前に、「和畠」という作詩法について確認して おきたい。「文体明弁」 (明・徐師曽撰) の「和韻詩」項に ような説明がなされている。 一三 和親詩 按和親詩有三倍l一。一日二依韻∴謂r同在二 一韻中一而不内必用乙其字甲也。二日l一一次韻∴謂下和二其原韻一 雨先後次第皆囚Lレ之也。三日二用誼∵、謂下用二其覇一而先後不 中必次士也、如丁韓愈(昌黎集)有丙へ陸渾山火和二皇甫提一周乙 其韻甲)是巳。(提詩今不レ伝、故援三此詩一不レ録。)古人靡和、 17

五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

五山文学における 「和韻」 について

-絶海・義堂を中心にー

は じ め に

「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。

わが国の五山文学作品には和韻詩が非常に多く、代表的な詩の総集

である以心崇伝二五六九~〓ハ三三〕他編r翰林五鳳集jでは、

巻第十一、十二は試筆和分韻、巻第二十六~三十一は雉和部となっ

ている。それにも関わらず、管見の範囲では、この作詩法は、従

来、あまり注目されていない。五山禅僧の作品を正しく読み解き、

研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな

くてはならないと思われる。

本稿では、「五山文学の双璧」と称せられた絶海中津〔三三六

~一四〇五〕と義堂周信二三二五~八八〕 の作品類を通して、和

萬詩の様相の〓廟を明らかにしてみたいと思う。義堂にはr空車日

(1)

用工夫略集」(以下、rH工集」と略す)という日記が残されている

 

ので、詠作状況を知る上で便利である。原詩(特に「本説話」と呼

(2)ぶ)が判明する場合は、和親詩との、内容面での関係を考察する。

また、和韻詩の作成が、五山文学にとって、あるいは五山禅僧にと

って如何なる意味を持つか、も併せて考えてみたい。

一 「和韻」という作詩法

まず、本論に入る前に、「和畠」という作詩法について確認して

おきたい。「文体明弁」 (明・徐師曽撰) の「和韻詩」項に、つぎの

ような説明がなされている。

一三 和親詩 按和親詩有三倍l一。一日二依韻∴謂r同在二

一韻中一而不内必用乙其字甲也。二日l一一次韻∴謂下和二其原韻一

雨先後次第皆囚Lレ之也。三日二用誼∵、謂下用二其覇一而先後不

中必次士也、如丁韓愈(昌黎集)有丙へ陸渾山火和二皇甫提一周乙

其韻甲)是巳。(提詩今不レ伝、故援三此詩一不レ録。)古人靡和、

17

Page 2: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

答二其来意一而巳、初不レ為二韻所一レ縛。如三高適贈二杜甫去。

「草(玄)今巳畢、此外更何言?」甫和レ之則云。「草(玄)吾

畳敢? 既成似二相如一。」(中略)中唐以還、元、白、皮、陸

更相唱和、由レ是此標始盛、然皆不レ及二他作∴厳羽所謂「和

韻鼻糞三大詩こ者此也。今略採二次説話二篇∴

且著二其説一、便二学者勿一.放レ尤云。(下略)

以備二標l・、

(r明詩話全編」韓、江蘇古籍出版社)

和親詩には三種類ある。一つは本絹詩と同じ宙中の文字を用いる

が、必ずしも本韻詩の文字を用いなくてもよい「依韻」、一つは本

訊詩の文字およびその順序をそのまま用いなくてはならない「次

富」、残りの一つは本韻詩の文字を用いるが、必ずしもその順序通

りに用いなくてもよい「用萬」である。元来、古人の靡和は、その

来意に答えるのみで、初めは親に縛られることはなかった。中唐以

降、元横や自居易らが互いに相唱和したことにより、この作詩法が

始めて盛んになったという。しかし一方で、後世になると、詩人が

いたずらにその出来映えを競い、その才能を誇るとして、この作詩

法に対して批判的な意見も提起されるようになった。『文体明弁」

中にもその一部(傍線部)が引用されていたが、宋の厳羽が撰述し

たr拾浪詩話」には、以下のような記述がある。

和也最害二人詩一。古人酬唱不二次韻∴

此風始盛二於元白皮陸l一。

本朝諸賢、乃以レ此而闘レ工、遂章二往復有二八九和者l一。

(「拾浪詩話校釈」・詩評・四一、人民文学出版社)

翻ってわが国の五山文学作品に日を向けてみる。本稿を通じても

気付かれると思うが、和絹詩の大半は「次親」である。それは例え

ば、「翻ヲ用フ」とか「韻二依ル」、「韻ヲ借ル」と記されていても、

である。虎関師錬〔一二七八~一三四六〕の『済北集」巻第十「

詩話には、

楊誠斎日。大抵詩之作也。輿上也。賦次也。磨和不レ得レ巳也。

(中略)至÷於鹿和㌔則親触レ之訊感レ之親題レ之哉。人而巳

臭。出二乎天一猶慣レ状二乎天㌔専二千我一猶憧レ強∴乎我一。今

牽二乎人・而巳夫。尚釆共有二妹之天。一黍之我l・平。革我季一

首閉息物∴而逆追・級之覿・。我不レ欲レ用∴足掛・。而抑従∴

彼之用一。雄二李杜一能レ之平。而李杜不レ為也。是故李杜之集

無ll牽率之句㌔申花白有∴和部之作1.。詩畢和甲而詩始大壊

臭。故韓子蒼以一和甜一為∴詩之大戒㌔此香住夫。然不∴必皆

然一夫。夫話者志之所レ之也。性情也。雅正也。若∴其形‥レ言

也。或性情也。或雅正也者雉・鹿和・上也。或不∴性情・也。

不二雅畢也。雉レ輿次也。(中略)又李杜準南軍。元白有‥

和韻一両詩大壊者非也。夫人有二上才・焉。有∵下才H焉。李杜

者上才也。李杜若有∴和親一井詩又必善夫。李杜世無1和親一。

故靡和之美悪不レ見臭。元白下才也。始作‥和韻一不=必和韻而

詩壊一夫。只其下才之所レ為也。故其集中畢触感之作一皆不レ

18

Page 3: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

及二杜李㌔何特至二靡和去月レ之平。(下略)

(r五山文学全集」第一巻)

という文章がある。楊万里(楊誠斎)や韓駒(韓子蒼) の、「和韻」

に対する批判的な言が引用されているものの、詩は志の之く所であ

って、「胱」や「和」 であっても、性情や雅正が表われていたら

「上」である(性情や雅正が表われていなかったら、「興」であって

も「次」である)、元環や白居易は「下才」だから和韻詩が芳しく

なかった (「上才」の杜甫・李白に和韻詩があったら傑作に違いな

い)、と虎関は (苦しい) フォローをしている。どうして和蕾詩は、

五山禅僧の問でもてはやされたのだろうかー。

二 絶海・義堂の和韻状況

絶海および義堂の和韻状況を見てみる。

(3)

○絶海中津r蕉堅藁」

・五言律詩他(計三〇首、他作四首を含む)⊥二首(すべて他作)

・七言律詩(計六七首)…二二首

・五言絶句他(計二〇首)…一首

・七言絶句(計五五首、他作三首を含む)…一四百(他作三首を

含む)

(4)

○絶海中津「絶海和尚語録」(以下、r絶海録」と略す)

・偶項(計一二〇首、他作一首を含む)三二六首(他作一首を含む)

(5)

○義堂周信r空華処し

・巻第一

・古詩(計七百)…二首

・歌(計三首)…一首

・楚辞(計一首)…ナシ

・四言 (計一七首)…ナシ

・五言絶句(計五六首)…一首

・六言絶句(計〓首)…一首

・七言絶句(計一三二百)…六一首

・巷第二

☆七言絶句(計二〇九百)…二一百

・巻第三

☆七言絶句(計二一三百)…一〇七首

・巻第四

・七言絶句(計二三六首)…五六百

・巻第五

・七言絶句(計二一四首、四百は他作か)…六七首

・巻第六

☆五言八句(計一九三首)…一三八首

☆五言排律(計二首)…二首

・巻第七

19

Page 4: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

☆七言八句(計一七〇首)…一四四首

・巻第八

☆七言八句(計一八〇首)…一四七百

・巻第九

☆七言八句(計一五一首、他作三首を含む)…八五首(他作二

首を含む)

・巻第十

・七言八句(計一〇〇首)…三六首

・七言排律(計一首)…ナシ

【注】☆印は五割以上が和韻詩であることを示す。なお、和韻

詩の総数は、現段階で把捉し得るものであって、今後の調

査により変動する可能性がある。本来ならば、本萬詩と逐

一、照合するのが望ましいが、散供している場合が殆ど

で、数値は目安程度に考えていただきたい。

絶海の詩作品は「蕉堅毒し、侃甥作品は「絶海録」に収められて

いる。前者は総数一七二首中四〇首(約二三・三%)、後者は総数

一二〇首中三六百(三〇・〇%)が和韻詩である。義堂の詩(侃

項)作品はF空華集」に収録されており、総数一八九六首中、和韻

詩は九五八首(約五〇・五%)である。義堂の詩の半数が和韻詩で

あることが注目される。

三 絶海・義堂の和韻詩の詠作状況

先に結論から述べると、絶海と義堂の和韻詩を概観すると、その

詠作状況は、(I)贈答・唱和にともなって詠作する場合と、(Ⅲ)本

韻詩が契機となって詠作する場合とに大きく分類される。さらに

(Ⅱ)は、(a)本韻詩が中国の詩人のもの、(b)本韻詩が先輩僧の

もの、(C)本韻詩が自身の旧作、の三つの場合に分けられる。以

下、具体的に各々の用例を見て行くことにする。なお、[本韻詩]項

には当該詩の本韻詩、[参照]項には当該詩と同じ説字が用いられ

ている詩をそれぞれ掲げた。傍線、文字囲、番号等は私に施した。

20

(-)贈答・唱和にともなって詠作する場合

①「蕉堅藁」

一里二真寂竹篭和尚l一

不レ堪二長仰止一。渚上寄二高岡三流水寒山路。探雲古寺図。

香花厳二法会一。氷雪老二禅闇「。重癖レ軍表薬一。多生慶二此

図㌔

一A 和                浮草老謬懐沼

絶海戒主力究二本参一。禅燕之除問事二吟詠㌔吐レ語軌杏。

予帰二老真寂一。特柾二存慰一。将レ遊二江東一。留レ詩為レ

別。有レ日。流水寒山路。探雲古寺鐘。気格音韻。居然玄

Page 5: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

勝。当レ不レ悦二作者l一。予老突。無二能為一也。不レ覚有下

娩二後生乏欺上。遂次レ韻用答。誠所謂珠玉在レ側。不二自

知二其形稼一也。

三韓辞二海国一。五竺訪二霊園一。洗レ姦龍河水。焼レ香鴬嶺

園。安居全二道力一。段食長二斎胞一。特柾留レ詩別。何時定二

再囲一。渋

武六年。歳在二発車。冬十二月廿日。畢寅寂山中一

一B                 浮草蒲巷来復

東遊二呉越専一。雲水寄二行画一。暗曜花間柄。寒吟月下囲。

鴻飛誇二健融一。鶴痩誠二活周一。別去拾洲隔。持桑幾日園。

一C                 延 陵 夷 簡

絶海蔵主。嘗依二今寵河全室宗享。於二中天竺室中一参二

究禅学㌔暇則工二於為一.詩。又得二相法於西丘竹奄禅師l・。

放出レ語下レ筆。倶有二準慶一。将丁遊二上国一組丙人物衣冠

之盛。与乙夫吾宗碩徳神林之衆㌔有レ詩留二別竹奄㌔巷

喜而和レ之。藁承レ見レ示。復徴l一一於予一。逐次レ韻一首。奉二

答雅意去。

問レ道金陵去。国求二勝地囲一。光飛舎利塔。声動景陽図。燕

塁懐二王樹一。鷹巣謁二鏡甲。節河禅席盛。聖代単一遭図㌔

【注】「竹奄和尚」「懐清」とは清遠懐沼、「蒲竃来校」とは見心

来復、「夷簡」とは易道夷筒、「全室宗主」とは季澤宗渦。

②「蕉堅毒し

八〇 応レ別胱二三山一

熊野峰前徐福田。洞山薬草雨鎗囲。只今海上波涛穏。万里好風

須卑図一。

八〇A 御製賜レ和 大明太祖高皇帝

熊野峯高血食桐。稔根琉拍也応レ国。当年徐福求二仙薬㌔直到二

如今一更不レ回。

【注】「高皇帝」とは渋武帝(朱元埠)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観中寄二示南陽押腹図詩二予読レ之忽憶。昔観中訪二予南 21

陽旧業二過レ冬。焼レ芋戯撃老披耕畢作壷笠詩・。今観-

中在レ里予磨l一膏寺㍉屡乞レ退未レ許。有レ感次レ軍一首謝二

観中一日。

披レ図想レ曙二臥龍匝l一。州舎天賽耐雪囲。一山糊酬二三顧軍。

英雄割拠本無由。

新詩読了一長田。旧隠南陽落葉囲。尚記三冬風雪夜。辟鵡撥出

地焼山。

【注】「観中」とは観中中評。

[本韻詩]r昔時葉」 (観中申請著)

九七 南陽仲店図

Page 6: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

隙臥夕陽梁甫囲。中原消息乱雲園。軽レ耕初起髭如レ雪。不レ

慎二対郎鼎時四一。

(梶谷宗忍氏「観中録 音障集」、相国寺、昭四八)

④r空華集j巻第九

奉レ呈二准后大相公一

幾年林下望二雲圏一。今夕那期辱見レ囲。東閣華廷披二宿霧一。

西園瑛樹戦二掠国一。座間天近蓬莱閑。箸際秋高河漠圏。暫我

疎才非二賦鼎一。謹聯二拙句一答二靖国一。

(菅)

答二管翰林学士見一レ和

翰林珠玉下二青囲一。喚二起吟魂一不レ待レ囲。工部逸才詩似レ

史。話仙豪気筆凌レ囲。送迎毎見雲随レ馬。来往時愁水断レ噛。

応三是交情無二貴規一。武夫勿レ怪凧二瑠囲一。

【注】「准后大胡公」とは二条良基、「菅翰林学士」とは東坊城

秀長。

[参照]「日工集」庚暦二年〔二二八〇〕八月十四日条

十四日、二條殿使下菅秀長送二一純一来上、其詩紋日、謹依二来

韻l、軍容建仁義堂和尚座右一、致二日外垂訪之謝二石、

老禅昂気日経レ園、甚喜来遊応二我国∴雅韻驚レ人歌l膏雪∴

罪談洗レ耳畢商圏一、関河曾隔幾千里、雲月今隣第五輿何

日得丁過二方丈室∴重聴丙新句夏乙攻囲甲、〒略)

⑤r蕉堅藁」・「宝冠精舎次二韻大亨西生見-レ訪」(九九)

⑤貢堅藁」・「次二允修小生歳旦韻こ二二七)

⑦r絶海録」巻下・「和レ韻謝l哀寧天倫禅師上竺一奄講師過訪こ

(二七六)

[参照]『青峰集」・「和二天倫和尚韻こ(二二)

⑧r絶海録」巻下・「将レ往二近県一。次レ韻奉.レ別二元章和尚l一

〔三首〕」 (二八三)

⑨完工華集」巻第二・「素中上入所レ蔵銭舜挙自賛牡丹芙蓉梅竹

同幅之画蓋天下絶品也。予欲二倍一観l・。上人戯レ予日。子若和二

吾詩一当二以レ画為こ報也。喜不二自勝一。連和二二章㍉幸勿レ

食レ言云レ爾 〔二百〕」

[本韻詩]r空華集」巻第二・「観二諸友淵明宋レ菊図詩巻・戯

題二其尾こ

⑲完工華集」巻第三・「次レ韻悼二大喜和尚二二百」

22

⑪r空華集」巻第七二器之蔵主畢和三首一見レ寄。恵存了以レ文

Page 7: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

挑∵レ戦。予倒レ娃而遺。復和二三百一以納レ款云 〔三百〕」

[本韻詩】「空車集」巻第七二和レ蕾答二古庭訓蔵主こ、「次レ

韻再酬二古庭こ、「次レ規答二義田了蔵主こ等

[参照]「空華集」巻第七二黄梅塔下値レ雪有レ懐寄二古庭l一。

兼革藷友一以促レ軍三、「和二答挙党窺軍手以述二昔遊之

情こ、「和一融古庭見一レ索二先師之語こ等

⑫完工華集J巻第八・「寄二答京城諸友一各次二釆韻二六首〕」

⑬「空華集」巻第八二l次レ韻劉二石室住二建長こ

⑪「空華集」巻第九二次レ韻戯謝二無外袖レ茶見し訪」

⑮完工華集」巻第十二次レ識答二明宝一井叙」

序文に「明室侍者家世天漬。年尚少性長政。昨於二慈聖老人廷

中一。和二余茶鼎詩唐律八句者㌔食頃而成。時観者如レ堵。成

骸歎日。未曾有也。余老且遅鈍。不レ勝‥健羨l一。重用‥前絹一

為レ詩張レ之而自嘲云」とある。

[本韻詩]r空華集」巻第十・「某軍一小茶鼎一。定今左丞相源

君所レ賜。珍愛之佳器也。即金随室l一抹レ欲二私蔵一可レ待哉。

遂送上二慈聖龍漱和尚一。少補二客延着典之関二至、「龍翁和∴

前掲・且以レ鼎見レ還復和再献」

①~④は詩の全文、⑤~⑮は話題と序文のみを掲げた。詩の贈答

や唱和は、複数の禅僧間(時に公家も含む) で行われるのが一般的

なので、本韻詩が複数あったり、自身の作だったりする場合もあ

る。まずは②、石垣藁」からの引用である。この二首の詠出経緯

は、r仏智広照浄印瑚聖国師年譜」(以下、「仏智年譜」と略す)永

和二年二三七六〕条で知ることができる。

永和二年丙辰。師四十一歳。大明渋武九年春正月。太祖高皇帝

召一見英武楼・。間以∴法要・。奏対称レ旨。又召軍政房・。指.・

日本図㌔顧問∴海邦遺跡熊野古詞㌔勅賦レ詩。詩日。熊野峯

前云云。御製賜レ和日。熊野-。又賜以・億伽梨・鉢多羅・茶

褐綴・柘栗杖・井宝紗若干∴詔許レ還レ回云云。(下略)

(「大正新修大蔵経」第八十巷)

これによると、絶海は永和二年(洪武九年)、四十一歳の時に、高

皇帝〔一三二八~九八〕 に金陵(南京)の英武接に招かれて、法要を

問われ、その答えは皇帝の気に入るものであった。また、皇帝に背

籍の部屋に招かれて、日本の地図を指しながら熊野の古河を尋ねら

れ、勅命によって熊野三山(熊野三社、本宮・新宮・那智) の詩

(八十番詩)を賦すと、御製の和(八十番詩A)を賜った。また、

皇帝からたくさんのご褒美(僧伽梨等)をいただき、日本に帰るこ

23

Page 8: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

とを許されたという。

再び②に戻る。「御製の和を賜ふ」とあるが、両詩とも一、二、

四旬日の韻字が「詞」「肥」「帰」なので、八十番詩Aは、八十番詩

に次韻していると言えよう。苗字に注目しながら、少し内容面に目

を向けてみる。「徐福」は始皇帝の命令で、蛮男童女を率いて海上

に入り、不老長寿の仙薬を求めたが、その後行方不明になり、熊野

(6)

に到着したという伝説もある。両詩はこのことを踏まえている。ま

ずは一句目。絶海が「熊野の峰前、徐福の醐」と詠じているのに対

して、「嗣」を韻字に用いなくてはならない高皇帝は「熊野の峰高

し、血食の醐」と詠じ、ともに徐福の詞を詠じている。続いて二旬

日は、絶海は「満山の薬草」、高皇帝は「松根の琉泊」がそれぞれ

「肥」えると詠じている。四旬日の苗字は「帰」であるが、高皇帝

は「不帰」と用いており、三旬日から四旬日にかけて、その昔、徐

福は仙薬を求めたが、今に至るまで帰って来ない、と詠んでいる。

対する絶海は、只今(天子の御威徳で)海上は波が穏やかで、万里

の好風を受けて、徐福は (仙薬を持って)早く帰って来るでしょう

(わたしも早く帰国したい)、と詠んでいる。一方は希求を詠み、一

方は現実を詠んでおり、好対照である。なお、この絶海と高皇帝の

エピソードは、広く流布していたらしく、度々他の禅僧の詩文集や

抄物(「補庵京華前畢二輪林前渡集」「中華若木詩抄」等)に指摘

されている。

①は、序文や詩後の自注によると、渋武六年(応安六年、二二七

三)十二月二十日、其寂山において、これから江東地方(金陵) へ

赴かんとする絶海が、清達憤滑に留別詩を贈呈し、それに対して活

達、見心来復、易道夷酷がそれぞれ送別詩を唱和したことがわか

る。絶海が「多生、此に逢ふを慶ぶ」(こと、清遠に逢えた喜び

を詠じているのに対して、活遠は「何れの時か再達を定めん」 (一

A)と詠じ、再会を期している。見心も「縛桑、幾日か達はん」(一

B)と、日本での再会を望み、易道は「聖代、遭通を喜ぶ」(一C)

と、絶海に逢えたことを喜んでいる。③は義堂と観中中諸、①は義

堂、二条良基二三二〇~八八〕、東坊城秀長の詩の応酬であるが、

いずれも内容面では、本部詩と和親詩がよく呼応していると思われ

る。③に関しては、徐庶が諸葛亮を臥竜と評したこと、劉備が三

度、諸葛亮の草腹を訪れ、山腹を請ったことなど、使用されている

故事まで呼応している(r三国志J諸葛亮伝、F蒙求」「孔明臥龍」・

「諸葛顧腹」参照)。

さて、これまでと少し視点を変え、r日工集」を見ることによっ

て、禅僧の日常生活における和親詩の在り方を確認してみたい。永

24

徳二年〔一三八二〕正月十一日~廿日条を挙げる。

一トー

十一日、晴、赴二東光古剣之招∴時会者玉堂・将作・土岐宮

内少輔・山名民部、古剣山・廟年試筆七言八句詩∴和者十九

人、将作問二金剛経四句偶等事∴余略答レ之、又問日、俗人可レ

Page 9: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

得レ悟否、余日、悟無二真俗∴安有二不レ悟之理一哉、又日、戎

【日イ】

云不レ悟如何、余日、悟不悟、是什應椀、只貴二目黙契一耳、因

挙二荘子輪扁云々、

±首、陰、和二胡字八句∴寄二東光古剣一、

十三日、雨、元車和二余湯字・華字各二首一見レ呈、

十四日、両歌而陰、午後晴、達二和胡字三首∴戯答二古剣一、

十五日、古剣復和二胡字三首一、余又和二三首一、是夜以レ無レ油

故、戯及二東壁隣光云々、

十六日、晴、不運二冗章来賀、余与二個録・太清一参二下府∴々

君出接、略賀而退、人事、銀剣一腰・杉紙十刀、伴二個録高二

通玄寺一賀歳、尼長老母子三人々事、一襲十刀、余独先帰、与二

不達・元章一相看、不達出乙和下余賀二首座一君字上八句詩甲、余

出二胡字唱和之什∴元章・不達写取而去、就二千管領宅一賀歳、

人事、青磁櫨瓶・「襲十刀、時令弟将作在焉、次週二赤松宅∴

他之不レ面、

十七日、晴、大御所、次大方殿、次無等局賀歳、次建仁方丈・

諸塔奄巡輿南禅蘭洲及古剣至、不レ倍、古剣復和二胡字∴留

而去、余亦和者三首、

十八日、暗、府俄、請二南禅長老蘭洲及僧九人∴例也、余先

与二蘭洲一人事、十刀一輿時古剣復至、戯話商二柁胡宇和章∴

古剣又出二昌普省レ母八句者∴予和レ之、予与二古剣五レ詩戦、

【川】

且云、足レ成二十侶l一而止可也、古剣挙二旧作一日、塔前班竹今

朝滑、壁上苺苔旧日詩、龍漱所二歎伏一也、

十九日、晴、作レ詩寄三謝雲門太清和尚送∴古尊宿録∴小師宗

偽侍者持来、散布二番林抄底独雲門之句∴

廿日、暗、太清和二門字一者三首、為∴南子も、古則至、以二

胡字詰作∴与レ余講明、余改二数十字∴万里小路・侍従中納

言殿賀歳、話及二旧年雪詩唱和∴人事、十刀一興、右京大夫

殿・月心和尚来礼、

【注】「古剣」(十一日条)とは古則妙快、「玉堂」(同上)とは

斯波義将、「将(匠)作」 (同上)とは斯波義椎、「土岐宮

内少輔」(同上)とは土岐詮直、「山名民郡」 (同上)とは

山名氏清、「元章」(十三日条)とは元章周郡、「不運」(十

六日条)とは不達法序、「僧録」(同上)とは春屋妙花、「太

清」(同上)とは太清宗消、「府君」(同上)とは足利義満、

「尼長老」(同上)とは智泉聖通、「首座」(同上)とは鏡湖

以宗、「管領」(同上)とは斯波義将、「赤松」(同上)とは

赤松義則、「大御所」(十七日条)とは渋川幸子、「大方殿」

(同上)とは妃良子、「蘭洲」(同上)とは蘭洲良芳、「昌

普」(十八日条)とは天心昌普、「龍漱」(同上)とは龍漱

周沢、「宗倍侍者」(十九日条)とは友岩宗倍、「香林」(同

上)とは香林登彗「雲門」(同上)とは雲門文恨、「南子」

25

Page 10: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

(廿日条)とは浦雲周南、「万里小路」(同上)とは万里小

路嗣房、「侍従中納言殿」(同上)とは三条西公時、「右京

大夫殿」 (同上)とは細川頼元、「月心和尚」 (同上)とは

月心慶円。

十一日、義堂は古則妙快に招かれて、斯波義将(玉堂、一三五〇

~一四一〇)や義桂(将作)等と東光寺を訪れた。古剣は新年の試

筆七言八句詩を作り、その詩に唱和する者が十九人いた。翌十二

日、義堂は胡字八句に和韻して、古剣に寄せた。十四日にも胡字三

首に連和し、戯れに古剣に答えている。翌十五日には、古剣がまた

胡字に三首和すると、義堂もまた三首和した。この夜は油が無かっ

たので、「東光寺」に因んで、戯れに「東壁の隣光」という語句を

詩に詠み込んだという。十六日、不遵法序と元章周郡が義堂の許を

訪れ、一連の古剣との胡字の唱和詩を写し取って去って行った。十

七日には、古剣が胡字に和してその詩を残して去った後、義堂もま

た三首和している。そして十八日、古剣がまた義堂の許を訪れ、戯

れに胡字の唱和のことを話題に出したので、義堂は、古剣と詩を以

って戦っている現状を省察し、「十偶を成すを足れりとして止むれ

ば可なり」と言って、一連の詩の応酬(詩戟)に終止符を打ったの

である。なお、二日後の二十日、義堂と古剣は、胡字の諸作につい

て説き明かし、義堂は数十字を改めている。義堂の詩は、r空華集」

巻第十に収録されている。古剣の詩に関しては、彼の詩文集である

「了幻集-にも見当たらない。

古剣新年試筆侶和二軍一十甲十首宥レ叙

余少時耽レ詩。嘗在二間左一周二城雷峯三韻l一為二八句詩一和二

答友人一者殆乎百算。好事者雅為二詩戟・。逮二年柵長一鋭

気鈍磨。乃痛悔二前非l一憤防・白菜l・不二復従.政戦事Fl・夷。

会庚申春来二軍下一後三年。壬成歳首一夕。忽被寸東光古剣

老禅将以二胡字誠一為二突騎二。嚢中我不備士。其鋒不レ可レ

当。而避レ之無レ計。窮不レ奈。掲レ竿為レ旗。則レ高為レ矢。

三戦三北而乃降臭。送収二其遺失堕鉱一。束為二包一奉レ

納。呵珂

(辻)

甲子推窮到二大一里。笑他水垢孝敵甲。祁蓬且問年多少。特

地休レ論法有囲。画餅充レ機円レ似レ月。燃燈授記験同レ園。伽

陀写出虚空紙。字字看来説不レ回。

(三首省略)

上元座向二瞑鐘固∴剰珊岨矧をレ及レ喝祖室千鐙従レ此続。油

耕一滴弗レ憂レ囲。詞章麓レ似∴宜春帖∴号令厳レ於∴王様甲。

莫下放二神鋒一軽出土レ匠。避来識レ剣少∴風甲。

(以下五首省略)

【注】「古剣」とは古剣妙快。

ここで注意したいのは、『日工集∵永徳一一年正月十八日条にも見

られたが、義堂が、古剣との詩の応酬を「詩戦」と表現(認識)し

26

Page 11: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

(7)

ていたことである (⑫の詩題には、「意は文を以って戦ひを挑むに

在り」と記されている)。序文の「たまたま庚申の春、輩下に来た

りて後三年」以下の文章は、例えば古剣を「老禅将」に喩えていた

(8)

りして、非常にユニークである。義堂が詩の唱和を、文学的遊戯と

して捉えていたことが端的に表われていよう。

先に挙げた「日工集」からの引用において、義堂と古剣の詩の応

酬以外にも、「和韻」に関する記事は散見した。こうして見ると、

詩の贈答や唱和は、禅林社会において日常的に行われており、「和

宙」という行為は、社交の一手段として半ば習慣的に、時として遊

戯的に行われていたことが知られる(和韻詩の詩畳にもよく「戯」

字が見られる。⑨・⑭参照)。それ故、例えば、唱和の場などでう

まく立ち振舞えるように、常日頃から義堂の許に和讃詩の添削を求

めてやって来る禅僧や公家が跡を絶たなかったのであろう(r日工

集」貞治六年七月九日条、応安三年八月七日条、永徳元年十一月十

三日条等参照)。

(=)詩作の契機になる場合-(a)本韻詩が中国の詩人のもの

①r空華集」巻第六

二月二十四夜大雨。次早余病少間。偶閲三唐高僧無

可贈二詩僧一。有下目二病多身又老。枕倦夜兼長一之

句上。遂感二千心一和二其全篇一付二侍侶日レ某者一

詞レ之。日

雨声喧二竹屋∴風響撼二松閻「。幾夜吟款レ枕。三春病臥レ囲。

停レ餌両軍菱㌔願レ箪l葡髭園∴今古亡羊者。畳惟穀与レ図。

[本韻詩]r全唐詩」巻八百十三・無可一

贈二詩僧一

寒山対二水塘二一作レ廊)。竹葉影侵レ園。洗レ薬水生レ岸。

開レ門月溝レ囲。病多身又老。枕倦夜兼園。来謁・吾尊者㌔

ロ王レ詩問二否画一。(明倫出版社印行。( )内は割注を示す)

②「空華集」巻第六

和二校然詩一送卜中空遺者赴二叡山一受戒上井序

不二膏資二章甫l一。勝衣被二木圃㌔今随一森陵信㍉欲レ

及∴桑川団l↓。埜寺鐘声遠。春山戒足囲。帰来次第学。

応レ見二後心図一。此乃唐高僧宮之昼公。送卜志公沙弥赴‥一

(や)

上元一受戒上詩也。永和丙辰二月。小師中竺季十三。以二

道者㌔自∴福山㌔将下赴二比叡山㌔登壇受戒上也。特

来告レ辞。且軍機詩㌔則告レ之日。夫登壇受戒。定仏

祖之椎輿。揮智之基本也。而選挙暦浮図之輩。冒レ名

縞レ服。辱二戒壇一老骨是也。汝其慎也哉。送草遍公詩

於前㌔歩二其韻於後一。示為二受戒之資去。

労レ髪為÷童子l・。安レ名配二法固l・。試経須レ待レ度。東成要レ

27

Page 12: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

登レ団。岳雪粘レ按潟。江風掠レ両国。青春看易レ幕。海路莫レ

愁レ囲。

【注】「畳公」とは餃然(俗姓は謝、字は活昼)。

③r蕉堅藁」・「山居十五首次二禅月苗一〔十五首〕」(三四)

[本韻詩]「禅月集」巻第二十三・「山居詩井序 〔二十四首〕」

④r空拳集」巻第「「自書吉夢山説後こ

序文に「余既為二盟上人一作二夢山説一。後数月一日閉レ戸午睡。

陸中有レ若下人引レ余径帰二半雲旧隠一。盤中桓乎掴罪空翠問上。

忽聴二剥啄一。覚而眠レ之。乃夢山上人也。手二五巻一求レ書レ

後。拭二陸自一和二蘇詩一。以填レ之日。」とある。

[本韻詩]「蘇拭詩集j巻二十三・「初入二晩山一三首」

⑤F空華集」巻第九・「謝三永相山恵子扇面蘇李泣別図一次二元朝

楊氏賛新二

①、②は詩の全文、③~⑤は詩題と序文のみを掲げた。①のr空

華集」巻第六からの引用に注目する。序文によると、ある年の二月

二十四日夜、外は大雨が降っていた。翌朝、義堂は少しく病気が癒

えた。偶々唐の高僧である無可の「詩僧に贈る」詩を日にして、「病

多くして、身も又老ゆ。枕に倦みて、夜兼ねて長し」の句に感じ入

り、その詩全編(①[本韻詩]参照) に和して、侍僧に諭せしめ

そlぱた

たという。義堂の詩には、「幾夜吟じて、枕を駄つ。三春病んで、

林に臥す」という句が見受けられる。

芳賀幸四郎氏r中世禅林の学問および文学に関する研究し (日本

学術振興会、昭三一)などを見ても、当時の禅僧が多くの漢籍に精

通していたことが知られる。彼らはある作品と対峠して、その作品

内容に共感し、輿に乗じた時、詩を詠出していたと思われる。「翰

林五鳳集」巻第五十八~六十一の支那人名部には、「~ヲ読ム」と

いう詩が散見する。

・「読二伯夷伝こ(巻第五十八、江西二二益)

・「読二宋玉風賦こ(同右、琴叔・梅陽)

・「読l由造逆算こ (同右、琴叔)

・「読二金鋼仙人辞漠歌こ(巻第五十九、心田・琴叔)

・「読二孔明出師表こ(同右、春沢・配…春)

・「箪一蘭亭記こ(同右、蘭牧)

・「読二淵明帰去来辞こ(同右、瑞渓・月舟・村庵)

・「読二李白活平調詞こ(巻第六十、瑞岩・万里・月舟・仁如・

天隠・蘭妓)

・「読二杜甫洗馬行こ(同右、春沢)

・「読二杜牧集こ(同右、絶海)

28

Page 13: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

・「読二束披試院煎レ茶詩こ(巻第六十一、瑞着・春沢)

・「読二和靖詩こ(同右、南江)

したがって、このような状況で和韻詩を作成した場合、その詠作

内容は、おのずから本韻詩と同趣のものになってしまう。それは②

に関しても同様で、義堂は永和二年二三七六〕二月、唐の高僧で

ある岐然の「至洪沙弥の上元に赴きて受戒するを送る」詩に和し

て、中望遠者が比叡山に赴いて受戒するのを送っている。ちなみに

「日工集」応安元年〔一三六八〕十二月廿八日条によると、義堂はこ

の日、諸子のために故然詩を講じ終えたという。

(b)本韻詩が先輩僧のもの

①r空華集」巻第五

同二諸友一和二禅居詩嘉三二鴫廟亭壁一井叙

信毎歎二生晩不一レ及レ識二禅居師一。故握一名山勝軍。得レ

見二共通題一。別姓土片言隻字一。皆収而宝レ之。丁未秋九

月。予及福鹿両山諸友。志二諸古哀若干人。倍登二斯亭l一。

拝二観禅師泊諸老侶和之什一。想二見前朝人物之盛一。乃属二

同遊者一府歌。以告二後来君子。庶乎継二述灰美去

禅居妙侶筆通レ国。蒲壁龍飛霧雨囲。後四十年槍海変。山神猶

護二旧艶匝一。

禅居和尚題二三島廟壁一侃附

瀬戸行宮昏最国。魚能舞レ浪海風囲。前江亭上多一痙似㌔

隔レ岸越山相対配。

【注】 「禅居」とは清拙正澄。

②完工華集】巻第九

畢由泉広済接待竃一井叙

応安甲寅春。余以二湯医一与二九峰神野会二千斯華。一日

九峰出二枚梅洲老人旧題及日和者一。傘・余泊同遊者一和レ

之。後四年戊午春。九峰主二於正続㌔余戸二黄梅一。隣糖

往反話及二温泉旧遊㌔遂探二諸故紙中一待二其旧藁㌔仮二

筆遵用中五日レ版而刊レ之。九峰師レ之日。剣巳去突。子尚

刻レ舟何也。余笑而不レ答。達者為レ叙。

中宵夢破響浪囲。応三是厳根涌二熱囲一。先先伝レ泉煙透レ屋。

家家具レ浴客胎レ図。海涯地暖冬無レ雪。山路天寒午踏レ囲。通

暁膣脱雲霞黒。江潮送レ月落二微臼㌔ 梅 州

山間二三両二沿喝上布二霊神元走レ喝潮怒雷声事由枕一。

沙堆雪色謹去書聖。千枚一樹何年墓。紅葉千林昨夜囲。勝禁

無二詩収拾尽一。多情遠客転菅囲。 九 峰

温泉乱浴汗淋囲。接待知消二幾杓図㌔宿客毎分玉店楯。詩人

偏愛賛公図。陶二成什器一軽レ於レ土。煮二出官塩一日レ似レ園。

暫倍二個窓一同二達眺一。東南日断水茫臨。

29

Page 14: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

【注】「九峰禅師」とは九峰信虎、「梅洲(州)老人」とは中巌

円月、「連用中」とは用中昌連。中巌の詩は、r東海一湛

集」一に「熱海」と題して収録されている。

③r蕉堅藁」・「次二韻壷隠亭こ(六三)

[参照]r空華集」巻第八・「留二題能里居士壷隠亭二一首」

④「絶海録」巻下二永徳壬成春活白寺裳レ花。謹奉レ追二和先国

師韻こ(一九三)

⑤F絶海録」巻下・「次二韻師月軒こ(一九四)

[参照]r空華集」巻第四・「追和二師月軒旧韻一。畢一臨川古

剣こ、r了幻集」(古剣妙快著)・「建武甲成歳 吾先国師

憩二乎臨川一之日。栽二竹於東軒一。軒扁二飾月一。説レ侶賞レ

焉。従而和者。凡三十有四人。皆江湖英禍。卓傘塊倖之士

也。後四十年。庚申夏。予来在レ此。数下其人之在二千今一者上。

不レ過二三四畢爾。掩レ巻浩嘆不レ巳。而此君国自若也。追

和二恢韻一。柳寄二仰慕之憲一。且記二歳月一云。」

①、②は詩の全文、③~⑤は詩題のみを掲げた。①のr空拳発】

巻第五からの引用に注目する。「禅居師」とは中国渡来僧の清拙正

澄〔一二七四~一三三九〕のことである。序文によると、義堂は遅

く生まれたため、活拙と面識がなく、そのことを常々嘆いていた。

それ故に名山や勝景を訪れ、活拙の避退を発見すると、それがたと

え片言隻字であっても、すべて手に入れて宝物にしていたという。

貞治六年〔二二六七〕秋、義堂は、建長寺や円党寺の諸友等ととも

に三島廟(三島大社、静岡県三島市大宮町) の四阿に登り、清拙や

諸老の唱和詩を拝観して、前代の人々の盛んな梯子を想像した。そ

して、同遊の者たちとその詩に唱和し、後世の人々に、眼前の美し

さを語り継ごうとした。「五山文学新集」別巻一には「詩軸集成」

があり、r三嶋廟亭詩j(東福寺霊雲院蔵のr亀鑑集」という古写本

の雑録の中に在る)も収められている。これによると、清拙が同廟

に遊んだのは元徳元年〔一三二九〕春、義堂がこの詩軸を作成した

のは応安二年〔一三六九〕秋七月朔のことである。こうして見る

と、禅僧が名勝地や寺院の境致、塔輿寮合などを訪れた際、風景

の素晴らしさや古跡(旧跡) の奥床しさ、以前に同地を訪れ、詩を

吟詠した先輩僧に対する尊敬の念などが相俣って、彼らをして和餓

せしめていたと言えようか。義堂の詩には、「禅居の妙偶、筆、霊

に通ず」という句も見受けられる。

②は、義堂が応安七年〔一三七巴二月十八日に、湯治先の熱海

広済庵で中巌円月〔一三〇〇~七五〕 の旧題に和したものである

(「日工集-)。ここでは、同じく中巌の詩に和した九峰信虎のものと

30

Page 15: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

同様、主として眼前の風景が詠じられているようである。

なお、つぎのような用例もある。「空華集」巻第七に「次二韻春屋

首座一四十首」という詩があり、その序文には、

辛卯春。吉見春屋首座有二病中作㌔同病諸公遮相磨和。或五

首。戎十首。乃至二三十百。愈出愈奇。一時之盛作也。周信亦

効二其軍㌔凡四十首。此内戎贈答。戎時事。或琴詠。或紀行。

余時有二温泉之行一。遂及レ之云。

と記されている。これによると、春屋妙花〔三二一~八八〕に

は、観応二年〔一三五こ春に病中の作(虫字韻)があり、同じ病

気に雁った諸公と、或いは五首、或いは十首、乃至二、三十百、互

いに相靡和したという。義堂もそれにならって、機会を別にして四

(9)

十首も次韻したのだが、その詠作内容は、贈答、時事、題詠等と多

岐に渡っており、病中の作から離れていることも注目されよう。

(C) 本韻詩が自身の旧作

①完工華処し巻第四

人日通二亀山一訪二無求首座l一不レ値。迫和二旧韻一

留二題屋軍

人日尋レ人不レ在レ田。義兄一笑指二他四㌔梅花処処開応レ逼。

不二是雲間一即水囲。

【注】「無求首座」とは無求周仲。

[本韻詩]「空車集」巻第四

化成遺‖目送・一・無求首座帰・・西山・

裡曇曾山雪中田。首座今帰雪外四。等是応レ難レ忘∴熱処・。

睦州房在∴万松厩・。

⑦r空拳集」巻第二・「十八日府命屡至再埠疏泉・自利∴旧侶こ

[本韻詩]「空筆先」巻第二・「巳些一月十三日因レ事謝‥事瑞

泉一有レ侶留∴別道人こ

③「空華集」巻第八・「突卯分歳日和‥前親・」

[本韻詩]r空拳集」巻第八・「謝・東谷西生悪・レ柑」

[参照]r空華集」巻第八・「甲辰歳旦試レ筆併.・前和・答.南陽

谷こ、「用二柑字甜∴詠レ雪」、「人口偶読∴柁詩.有レ感複用.・

前甜一軍・陽谷こ

①は詩の全文、②、③は話題のみを掲げた。①は『空華集」巻第

四からの引用である。この詩の、より詳しい詠出経緯は、『日工集』

で知ることができる。

七日、赴二西山∴三会・雲居上香展拝、両院主・臨川・天龍

方丈人事、次週二無求房∵、カ主乞之、因用二旧識山字l・作レ詩、

留∵付恵瑛童子∴即絶海度弟也、慎二無求帰l・里似、詩R「人

31

Page 16: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

【児】

日尋レ人不レ在レ田、童子一笑指二他四一、梅花処々開応レ遍。

不二是雲間二即水間、楷中和二山字も、北斗維南有二此型、輝

喋秀気圧二群掴∴陽崖多産玉芝草、雨露恩従二空漠同一、(下略)

(永徳三年正月七日条)

【注】「無求」とは無求周伸、「恵瑛童子」とは元瑛恵放、「相

中」とは楷中ロ模。

永徳三年二三八三〕正月七日、義堂は、西山の臨川寺や天龍寺

を挨拶回りしたついでに、無求周仲を訪ねたが、あいにく不在だっ

た。よって、旧韻の山字-r日工集」によると、前年の十二月八日

(仏成通日)に無求が西山に帰るのを送って作った自身の侃(①[本

韻詩]参照) の韻を用いて、この詩を作り、絶海の徒弟である元環

恵瑛に預けておいたという。両詩の内容面での関わりは、それ程な

いように思われる。

○ 補 足

この章を終えるに当たって、論の進行とは別に、気付いたことを

四点、以下に述べておきたい。

第一点は、禅僧が規に和(次)す時の意識について、である。

(I)③で義堂は、観中の詩一首に次韻して、二首詩を作っている。

また、(Ⅲ) (a)③で絶海は、祥月大師(徳隠貰休、八三二~九一

二)の山居二十四首のうちの十五首に次韻している。この他、F空

華集」には「次レ韻答二厳密宝剣南江一七百」詩(巻第三)や、「和三

立季成再任二信陽安国一四百」詩(巻第五)があり、前者は、結句

の緯字が「盃」字四百と「風」字三百、後者は、結句の苗字が「来」

字三首と「幽」字一首から成っている。それぞれ本部詩は未詳であ

るが、前者は盃字韻一首と風字班一首の計二首、後者は釆宇宙一首

と幽字餓一首の計二首と推測される。以上のことから、彼らは、か

なりアットランダムに誤字を選んで、詩を詠作していたのではない

か、と思う。

第二点は、幼童や少年僧との詩の唱和に関して、である。r蕪堅

藁」には、(I)⑥に挙げた「允修小生の歳旦の韻に次す」詩(一

二七)の他にも、「人目、別室の韻に和す」詩(一二二)や「雷童

の調に和す」詩二二三)があり、幼童や少年僧との唱和詩を確認

することができる。『空華集」には見当たらない (『日工集」には、

義堂が少年僧の作品(試筆詩)を添削したり、少年僧に詩作を促す

記事が見受けられる。永徳二年正月一日条、同五日条、嘉慶二年正

月二日条等参照)。

室町時代の後期になると、禅林社会では、試筆詩やその代作詩、

唱和詩が盛んに作られるようになった (横川章二〔一四二九~九

三〕や景徐周麟〔一四四〇二五一八〕の作品集には、試筆代作詩

や唱和詩がよく見られる)。元来、試筆詩は誰でも製することがで

きたのだが((I)で引用したF日工集J永徳二年正月十一日条で

32

Page 17: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

は、古剣が製した試筆詩に対して、そこに居合わせた者が唱和詩で

応えている)、この頃になると、主として幼童や少年僧によって梨

せられるようになった。幼童や少年僧が独力で作詩することが不可

(10)

能な場合は、師僧が代わって作ったという。これらのことを勘案し

て、病者は冒転売」に試筆唱和詩、見方をかえれば艶詩の濫橘

(萌芽)を認めたいと考えている。

第三点は「前富二和ス」という表現について。この場合の「前

説」とは、作品集において、当該詩の直前に位置する詩の韻を意味

するのではない。例えば、(I)⑮に挙げた「空華集」巻第十所収

の「次レ韻答二明室一井叙」詩の序文には、「重ねて前韻を用ひて」

とある。この詩の八旬日の苗字は、「錯」であるが、拾字韻は、当

該詩よりも三、四首前に、二首並んでいる。(I)⑮[本韻詩]参

照。要するに、「前韻」とは、唱和の場において、当該詩を詠出する

以前に自身(もしくは他者)が詠んだ詩の韻を意味するのであろう。

第四点は「~字韻こ和ス」という表現について。(I) で引用し

た「日工集∵水徳二年正月十一日~廿日条には、「胡字八句に和す」

とか「胡字三首に連和す」とあり、「胡字」とは七言律詩の八旬日

の韻字を指している。また、(=) (C)で引用した『日工集」永徳

三年正月七日条には、「因りて旧韻山字を用ひて詩を作り」とあり、

「旧韻山字」とは七言絶句の一句自もしくは二旬日の窺字を指して

いる。F空華集」全体に日を配ると、「和二頻字畢与二諦叔真こ詩

(巻第八)、「畢和昏字畢酬∴海東嘩こ詩(同上)、「和∵朋字甲

答二介然上人村甲云二百」詩(同上)では、「頻」「昏」「朋」字は

すべて、八旬日の苗字に用いられている。また、「春日和.奈中秋字

こ詩(巻第二)で「秋」字は二旬日、「複用二橋字甲寄二陽谷義

山二上人こ詩(巻第八)で「橋」字は四旬日、「用二柑字訳∴詠レ

雪」詩(同上) で「柑」字は一句日にそれぞれ用いられている。以

上のことから、一般的に「A字頂二和ス」と言えば、絶句ならば四

旬日(結句)、律詩ならば八旬日の韻字が「A」字である詩に和

(次)したように考えがちであるが、現実には必ずしもそうではな

いように思われる。

お わ り に

以上、絶海と義堂の和頂詩の詠作状況を、大まかに分類した。詩

によっては暖味なものも存するが、数量的には「(I)贈答・唱和

にともなう場合」が圧倒的に多く、ここに、五山禅僧の、いわゆる

「同社」「友社」の繋がりと、その中で詩作に興じる彼らの有様とを

見ることができよう。彼らは、中国において「和茹」が否定される

向きがあることを知っていながらも、やはり沸き立つ衝動を自制し

梓かったのだろう。義堂の詩の半数が和萬詩だったのは、彼が当

時、禅林社会の中枢的な役割を担っていたことも理由の一つとして

挙げられると思う。夢窓疎石〔一二七五~一三五二や春屋に和韻

33

Page 18: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

詩が多いことも、同様の理由で説明できるだろう(意外と思われる

のが、あの一休宗純〔三一九四~一四八二に和韻詩が極端に少な

いことである。この事実は、これまでの一休像を見直す契機になる

かも知れない。伊藤敏子氏編「考異狂雲集」に一例のみ)。作品解

釈が大雑把であるため、五山禅僧の禅心や悟境の交流までは捉え切

れていないが、和韻詩の作成に、彼らの、文学活動へ傾斜する一面

を、稿者は読み取りたいと思っている。

今回は、絶海と義堂の作品類を中心に、五山文学における和韻詩

の様相を概観したが、残された問題は、大小様々である。例えば、

大きいものでは、座の文学、特に聯句文芸との関連は、いずれ明ら

ー‖、

かにしなくてはならないだろう。また、和帯詩が詩軸に纏められて

行く過程などにも興味がある。吉川幸次郎氏は、福原麟太郎氏との

共著≡都詩問】(新潮社、昭四六)の中で、中国詩の「一韻到底」

という原則に関して「この外国人からは面倒そうに見える詩法を、

本国の人には、所要の行き先と合致するバスを、町角で待っている

ほどの面倒としか感じさせないのではないか」(東への手紙二二二

頁)と指摘されているが、やはり外国人である五山文学僧が詩を作

成する際、最も苦しんだのが「韻」の問題であろう。そのことが

「和韻」のどのあたりに影響しているか-。これも今後、探ってみ

たいと思っている。

注(1)引用は辻善之助氏r空拳日用工夫略集し(太洋社、昭一四)による。ま

た、返り点は蔭木英雄氏『訓‥ほ 空拳日用工夫略集】(思文-輿監㌢昭五

七) を参考にして、私に施した。

(2)冨山文学全集」やr五山文学新集」を播くと、以下のような用例が見

られる。

O r空車集」巻第十二・「敬序卜仏光師阻却薗清見関l一唱和板首L

応安戊申。無二一公。適主二義山一。有二祖風烈一。得l五徳和事真染

者若干華。将ド附二本畢而板中刻之上。逐軍一乃華。自単一板些。

且空二其右一。以俣二後之随レ得而填嘉。(r五山文学全集」第二巻)

*              *

O r東海環華竺〓惟肖待巌著)

梅屋以レ詩留別、歩レ韻奉レ寄、(太鰯詩云、堂上慈親髪巳固、

春未レ帰朗協聾嬰、前石竹屋田園日、却可二長安是故囲∴)

顔筋柳骨挟二風固∴十襲華躇字数阻、慕鹿新吟添÷幾□二、江山信

美況吾囲、

(以下二百省略) (r五山文学新生】第二巻。( )内は割注を示す)

(3)引用はr五山文学全集」第二巻、詩の総数や作品番号は蔭木氏r蕪堅藁

全注し(清文堂、平一〇)による。また、返り点は蔭木氏・前掲吉、入矢義

高氏校注r五山文学第二新日本古典文学大系輿…岩波香頃平二)、梶谷

宗忍氏r蕪堅藁 年譜」(相国寺、昭五〇)等を参考にして、私に施した。

(4)引用は「大正新修大蔵経」第八十巻、詩の総数や作品番号は梶谷氏r絶

海語録二二昭五一、思文閣出版)による。また、返り点は梶谷氏∵前

掲許等を参考にして、私に施した。

(5)引用や詩の総数はr五山文学全集し第二巻による。また、返り点も同書

等を参考にして、私に施した。

34

Page 19: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

(6)原田稔氏「徐福の熊野来任とその日本古代文化に及ぼした影響」(r追手

門学院大学文学部紀要」第三号、昭四四)参照。

(7) 「詩戦」という語は、「日本国語大辞典 第二版」 に「漢詩を応酬

すること」と説明されている。r日工集」 には他に二例ある (康安元

年条、貞治元年夏粂)。なお、r空拳集」には、漢詩の応酬を「闘鶏」

に喩えている箇所がある(巻第十二・「序二闘鶏詩巻こ)。

(8)本文中に「忽ち東光の古剣老禅将、胡字韻を以って突騎と為して、我が

不備を襲はる。其の鉢当たるべからすして、而も之を避くるに計無し」

とあるが、これは「劉白唱和集解」(巻六十・瓢)の「彰城の劉夢得は詩

の豪なる者なり。其の鋒森然として、敢へて当たる者少なし」という箇

所を明らかに踏まえているだろう。三木雅博氏「平安朝における「劉自

唱和集解」の享受をめぐって」 (「自店易研究年報」第二号、平一三・五)

等参照。

(9)蔭木氏はr義堂周信】 (日本漢詩人選集3、研文出版、平〓) におい

て、同詩を「制作年代の最も早いものと見られるものは、r空拳処し巻七

の虫宙の七言律詩四〇首である」 (一一頁)として、観応二年〔一三五

二春、義堂が湯治のため、有馬温泉に向かった時の作とお考えのよう

だが、稿者もこの意見に賛成である。と、いうのも、r日工集∵水徳元年

三月三日条で、有馬温泉に赴いた義堂が、「詩を作りて旧を懐ふ。奴に云

く、余、辛卯の歳(観応二年)、上巳を以て立の山に遊ぶ。転時の問、巳

に三十一年なり。云々」と往事を偲んでいるからである。また、次韻詩

四十首中に「二月十六日、まさに温泉に赴かんとす。乱に因りていまだ遂

げず。偶々此の作有り」詩(十七首目)や「乱後に輿を遣る二首」詩(二

十六、二十七首目)があるが、「乱」とは、具体的に言うと、氏もご指摘

の如く、観応の擾乱二三五〇~五二〕 のことを指すだろう。この年の

二月二十六日、高師直は武庫川付近で、上杉能憲によって斬殺された

(「圃太暦」等)。後詩に「乱後に」とあるのは、このことを踏まえてのこ

とと思われる。四十首中には 「上巳前の一日、武庫渓に橘して、亀山の

諸友に零す」詩(二十八首目) や、「武庫山に過ぐ」詩(二十九首目)も

見られる。この他、「地動に因りて友人に答ふ」(二十五首日)という詩

があるが、r皇年代略記」の「崇光院」項には、この年の二月十九日に京

都に大地震があり、将軍塚が鳴動したことが記されている。

ただし、稿者は「機会を別にして」という箇所を強調しておきたい。

すなわち、その和韻状況は「(I)贈答・唱和にともなう場合」ではな

く、本斑詩と詠作時期がずれる可能性がある、ということである。春屋

詩と義堂詩の詠作時期は (偶々)近接していたものの、例えば、慈氏門

派の竺関瑞要(義堂-大基中建-竺閑)などは、義堂の寂後に、機会を

別にして義堂詩に和親している。玉村竹二氏r五山禅僧伝記集成」 (講談

社、昭五八) の 「竺関瑞要」項には、以下のように記されている。

(空間は)南禅寺慈氏院の徒で、文明六年(一四七四)には、義堂

が首で観応二年二三五一)春、病臥中の法兄春屋妙花の作の雷を和

すること四十首(虫字の韻の七言律詩)があるのに、またその絹を和

し、同時代の文筆僧・月建令諸・季弘大叔・太極・横川景三等をして、

またその竺関の韻の追和の詩を製せしめ、太極は五十首の和韻を製

したという。それを軸装して、竺閲は大切に熊蔵していたという。

(二五八頁)

和也詩の詠作時期を特定する際にも、注意を要する場合がある。

(10)朝倉尚氏「禅林における試筆詩・試筆唱和詩について」 (r国文学

致し第六十五号、昭四九・一一)参照。

(11)朝倉尚氏には「禅林聯句略史-尭生周信とその前後-」 (r中世文学研

究」第二十二号、平八・八。後にr抄物の世界と禅林の文学」 (清文堂、

平八)所収)というご論考がある。

35

Page 20: 五山文学における 「和韻」 について...五山文学における 「和韻」 について -絶海・義堂を中心にー は じ め に 「和韻」とは、特定の詩と同じ韻を用いて詩を作る方法を言う。くてはならないと思われる。研究して行くためには、このような基本的な事柄が明らかにされな来、あまり注目されていない。

【付記】

成稿後に内山楕也氏に、詐拭の次韻語に関するご論考があるのを知っ

た。「蘇拭次韻詩考」(r中国詩文論叢」第七集、昭六三二ハ)、「蘇拭次恕詩考

序説-文学史上の意義を中心に1」 (r早稲田大学大学院文学研究科紀要」別

冊・第一五集(文学・芸術学福)、平元・こ。氏によると、蘇拭は、現在伝

わる詩の、約三分の一が次韻詩である(本萬詩が確認できるものに限る)。そ

して、それらを原窟(本盤詩、朝倉注) の提供者(作詩者) で分類すると、

「A 同時代の他者から寄せられた原筒に次抗した作品」「B 過去に詠んだ

自己の詩に自ら次富した作品」「C 古人の詩に次韻した作品」に分けられ、

特にB、C類は、蘇拭が新たに確立した次点の形態らしい。

本稿では、日本中世の中でも異質な、禅林社会における和頂詩の様相を迫っ

てきた。内山氏の言うB類やC類は、本稿においても確認できた。また、義堂

の和韻詩は、総詩数の半分以上を占める。「空軍集」には蘇拭の詩に和したも

のがあるし(第三章(Ⅲ)(a)④参照)、r日工集」には「東牧、海上に在りて、

陶淵明詩に和す」(貞治六年八月八日条)というくだりも見受けられる。これら

の現象は、いったい何を意味しているのだろうか-。他日を期したい。

*              *

本稿は、第七十四回和漢比較文学会東部例会(平成十四年一月二十六

日、於大東文化大学) における口頭発表を、加筆修正したものである。

-あさくら・ひとし、本学大学院博士課程後期在学-

36