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思い出
5
一章
黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた︒叔母
は誰かをおんぶしているらしく︑ねんねこを着て居た︒
その時の︑ほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる︒
叔母は︑てんしさまがお隠れになったのだ︑と私に教え
て︑生き神様︑と言い添えた︒いきがみさま︑と私も興
い
がみさま
深げに呟いたような気がする︒それから︑私は何か不
つぶや
6
敬なことを言ったらしい︒叔母は︑そんなことを言うも
のでない︑お隠れになったと言え︑と私をたしなめた︒
どこへお隠れになったのだろう︑と私は知っていながら︑
わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す︒
私は明治四十二年の夏の生れであるから︑此の大帝崩
御のときは数えどしの四つをすこし越えていた︒多分お
なじ頃の事であったろうと思うが︑私は叔母とふたりで
私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き︑
そこで見た滝を忘れない︒滝は村にちかい山の中にあっ
た︒青々と苔の生えた崖から幅の広い滝がしろく落ちて
こけ
7
いた︒知らない男の人の肩車に乗って私はそれを眺めた︒
何かの社が傍にあって︑その男の人が私にそこのさま
やしろ
ざまな絵馬を見せたが私は段々とさびしくなって︑がち
ゃ︑がちゃ︑と泣いた︒私は叔母をがちゃと呼んでいた
のである︒叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を
もうせん
敷いて騒いでいたが︑私の泣き声を聞いて︑いそいで立
ち上った︒そのとき毛氈が足にひっかかったらしく︑お
辞儀でもするようにからだを深くよろめかした︒他のひ
とたちはそれを見て︑酔った︑酔ったと叔母をはやした
てた︒私は遙かはなれてこれを見おろし︑口惜しくて口
8
惜しくて︑いよいよ大声を立てて泣き喚いた︒またある
わめ
夜︑叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た︒叔母の胸
は玄関のくぐり戸いっぱいにふさがっていた︒その赤く
ふくれた大きい胸から︑つぶつぶの汗がしたたっていた︒
叔母は︑お前がいやになった︑とあらあらしく呟くので
ある︒私は叔母のその乳房に頬をよせて︑そうしないで
けんせ︑と願いつつしきりに涙を流した︒叔母が私を揺
り起した時は︑私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて
泣いていた︒眼が覚めてからも︑私はまだまだ悲しくて
永いことすすり泣いた︒けれども︑その夢のことは叔母
9
にも誰にも話さなかった︒
叔母についての追憶はいろいろとあるが︑その頃の父
母の思い出は生憎と一つも持ち合せない︒曾祖母︑祖母︑
父︑母︑兄三人︑姉四人︑弟一人︑それに叔母と叔母の
娘四人の大家族だった筈であるが︑叔母を除いて他のひ
とたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにいた
と言ってよい︒広い裏庭に︑むかし林檎の大木が五六本
あったようで︑どんよりと曇った日︑それらの木に女の
子が多人数で昇って行った有様や︑そのおなじ庭の一隅
に菊畑があって︑雨の降っていたとき︑私はやはり大勢
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の女の子らと傘さし合って菊の花の咲きそろっているの
を眺めたことなど︑幽かに覚えて居るけれど︑あの女の
かす
子らが私の姉や従姉たちだったのかも知れない︒
いとこ
六つ七つになると思い出もはっきりしている︒私がた
けという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の
本を読み合った︒たけは私の教育に夢中であった︒私は
病身だったので︑寝ながらたくさん本を読んだ︒読む本
がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をど
しどし借りて来て私に読ませた︒私は黙読することを覚
えていたので︑いくら本を読んでも疲れないのだ︒たけ
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は又︑私に道徳を教えた︒お寺へ屢々連れて行って︑地
しばしば
獄極楽の御絵掛地を見せて説明した︒火を放けた人は赤
お
え
かけじ
つ
い火のめらめら燃えている籠を脊負わされ︑めかけ持っ
た人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて︑せつ
ながっていた︒血の池や︑針の山や︑無間奈落という白
む
げんな
らく
い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や︑到るところで︑蒼
白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでい
た︒嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を
つ
抜かれるのだ︑と聞かされたときには恐ろしくて泣き出
した︒
12
そのお寺の裏は小高い墓地になっていて︑山吹かなに
かの生垣に沿うてたくさんの卒堵婆が林のように立って
そ
と
ば
いた︒卒堵婆には︑満月ほどの大きさで車のような黒い
鉄の輪のついているのがあって︑その輪をからから廻し
て︑やがて︑そのまま止ってじっと動かないならその廻
した人は極楽へ行き︑一旦とまりそうになってから︑又
いつたん
からんと逆に廻れば地獄へ落ちる︑とたけは言った︒た
けが廻すと︑いい音をたててひとしきり廻って︑かなら
ずひっそりと止るのだけれど︑私が廻すと後戻りするこ
とがたまたまあるのだ︒秋のころと記憶するが︑私がひ
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とりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻して見ても皆言
い合せたようにからんからんと逆廻りした日があったの
である︒私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十
回となく執拗に廻しつづけた︒日が暮れかけて来たので︑
しつよう
私は絶望してその墓地から立ち去った︒
父母はその頃東京にすまっていたらしく︑私は叔母に
連れられて上京した︒私は余程ながく東京に居たのだそ
うであるが︑あまり記憶に残っていない︒その東京の別
宅へ︑ときどき訪れる婆のことを覚えているだけである︒
私は此の婆がきらいで︑婆の来る度毎に泣いた︒婆は私
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に赤い郵便自動車の玩具をひとつ呉れたが︑ちっとも面
白くなかったのである︒
やがて私は故郷の小学校へ入ったが︑追憶もそれと共
に一変する︒たけは︑いつの間にかいなくなっていた︒
或漁村へ嫁に行ったのであるが︑私がそのあとを追うだ
ろうという懸念からか︑私には何も言わずに突然いなく
なった︒その翌年だかのお盆のとき︑たけは私のうちへ
遊びに来たが︑なんだかよそよそしくしていた︒私に学
校の成績を聞いた︒私は答えなかった︒ほかの誰かが代
って知らせたようだ︒たけは︑油断大敵でせえ︑と言っ
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ただけで格別ほめもしなかった︒
同じ頃︑叔母とも別れなければならぬ事情が起った︒
それまでに叔母の次女は嫁ぎ︑三女は死に︑長女は歯医
者の養子をとっていた︒叔母はその長女夫婦と末娘とを
連れて︑遠くのまちへ分家したのである︒私もついて行
った︒それは冬のことで︑私は叔母と一緒に橇の隅へう
そり
ずくまっていると︑橇の動きだす前に私のすぐ上の兄が︑
婿︑婿と私を罵って橇の幌の外から私の尻を何辺もつつ
むご
むご
ほろ
いた︒私は歯を食いしばって此の屈辱にこらえた︒私は
叔母に貰われたのだと思っていたが︑学校にはいるよう
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になったら︑また故郷へ返されたのである︒
学校に入ってからの私は︑もう子供でなかった︒裏の
空屋敷には色んな雑草がのんのんと繁っていたが︑夏の
或る天気のいい日に私はその草原の上で弟の子守から息
苦しいことを教えられた︒私が八つぐらいで︑子守もそ
のころは十四五を越えていまいと思う︒苜蓿を私の田
うまごやし
舍では﹁ぼくさ﹂と呼んでいるが︑その子守は私と三つ
ちがう弟に︑ぼくさの四つ葉を搜して来い︑と言いつけ
て追いやり私を抱いてころころと転げ廻った︒それから
も私たちは蔵の中だの押入の中だのに隠れて遊んだ︒弟
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がひどく邪魔であった︒押入のそとにひとり残された弟
が︑しくしく泣き出した為︑私のすぐの兄に私たちのこ
とを見つけられてしまった時もある︒兄が弟から聞いて︑
その押入の戸をあけたのだ︒子守は︑押入へ銭を落した
ぜに
のだ︑と平気で言っていた︒
嘘は私もしじゅう吐いていた︒小学二年か三年の雛祭
ひなまつ
りのとき学校の先生に︑うちの人が今日は雛さまを飾る
のだから早く帰れと言っている︑と嘘を吐いて授業を一
時間も受けずに帰宅し︑家の人には︑きょうは桃の節句
だから学校は休みです︑と言って雛を箱から出すのに要
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らぬ手伝いをしたことがある︒また私は小鳥の卵を愛し
た︒雀の卵は蔵の屋根瓦をはぐと︑いつでもたくさん手
にいれられたが︑さくらどりの卵やからすの卵などは私
の屋根に転ってなかったのだ︒その燃えるような緑の卵
や可笑しい斑点のある卵を︑私は学校の生徒たちから貰
った︒その代り私はその生徒たちに私の蔵書を五冊十冊
とまとめて与えるのである︒集めた卵は綿でくるんで机
の引き出しに一杯しまって置いた︒すぐの兄は︑私のそ
の秘密の取引に感づいたらしく︑ある晩︑私に西洋の童
話集ともう一冊なんの本だか忘れたが︑その二つを貸し
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て呉れと言った︒私は兄の意地悪さを憎んだ︒私はその
両方の本とも卵に投資して了ってないのであった︒兄は
しま
私がないと言えばその本の行先を追及するつもりなの
だ︒私は︑きっとあった筈だから捜して見る︑と答えた︒
私は︑私の部屋は勿論︑家中いっぱいランプをさげて捜
して歩いた︒兄は私についてあるきながら︑ないのだろ
う︑と言って笑っていた︒私は︑ある︑と頑強に言い張
った︒台所の戸棚の上によじのぼってまで捜した︒兄は
しまいに︑もういい︑と言った︒
学校で作る私の綴方も︑ことごとく出鱈目であった
つづりかた
で
たらめ
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と言ってよい︒私は私自身を神妙ないい子にして綴るよ
う努力した︒そうすれば︑いつも皆にかっさいされるの
である︒剽窃さえした︒当時傑作として先生たちに言
ひようせつ
いはやされた﹁弟の影絵﹂というのは︑なにか少年雑誌
の一等当選作だったのを私がそっくり盜んだものであ
る︒先生は私にそれを毛筆で清書させ︑展覧会に出させ
た︒あとで本好きのひとりの生徒にそれを発見され︑私
はその生徒の死ぬことを祈った︒やはりそのころ﹁秋の
夜﹂というのも皆の先生にほめられたが︑それは︑私が
勉強して頭が痛くなったから縁側へ出て庭を見渡した︑
21
月のいい夜で池には鯉や金魚がたくさん遊んでいた︑私
はその庭の静かな景色を夢中で眺めていたが︑隣部屋か
ら母たちの笑い声がどっと起ったので︑はっと気がつい
たら私の頭痛がなおって居た︑という小品文であった︒
此の中には真実がひとつもないのだ︒庭の描写は︑たし
か姉たちの作文帳から抜き取ったものであったし︑だい
いち私は頭のいたくなるほど勉強した覚えなどさっぱり
ないのである︒私は学校が嫌いで︑したがって学校の本
など勉強したことは一回もなかった︒娯楽本ばかり読ん
でいたのである︒うちの人は私が本さえ読んで居れば︑
22
それを勉強だと思っていた︒
しかし私が綴方へ真実を書き込むと必ずよくない結果
が起ったのである︒父母が私を愛して呉れないという不
平を書き綴ったときには︑受持訓導に教員室へ呼ばれて
うけもちくんどう
叱られた︒﹁もし戦争が起ったなら︒﹂という題を与え
られて︑地震雷火事親爺︑それ以上に怖い戦争が起った
なら先ず山の中へでも逃げ込もう︑逃げるついでに先生
ま
をも誘おう︑先生も人間︑僕も人間︑いくさの怖いのは
同じであろう︑と書いた︒此の時には校長と次席訓導と
が二人がかりで私を調べた︒どういう気持で之を書いた
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か︑と聞かれたので︑私はただ面白半分に書きました︑
といい加減なごまかしを言った︒次席訓導は手帖へ︑﹁好
奇心﹂と書き込んだ︒それから私と次席訓導とが少し議
論を始めた︒先生も人間︑僕も人間︑と書いてあるが人
間というものは皆おなじものか︑と彼は尋ねた︒そう思
う︑と私はもじもじしながら答えた︒私はいったいに口
が重い方であった︒それでは僕と此の校長先生とは同じ
人間でありながら︑どうして給料が違うのだ︑と彼に問
われて私は暫く考えた︒そして︑それは仕事がちがうか
らでないか︑と答えた︒鉄縁の眼鏡をかけ︑顔の細い次
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席訓導は私のその言葉をすぐ手帖に書きとった︒私はか
ねてから此の先生に好意を持っていた︒それから彼は私
にこんな質問をした︒君のお父さんと僕たちとは同じ人
間か︒私は困って何とも答えなかった︒
私の父は非常に忙しい人で︑うちにいることがあまり
なかった︒うちにいても子供らと一緒には居らなかった︒
私は此の父を恐れていた︒父の万年筆をほしがっていな
がらそれを言い出せないで︑ひとり色々と思い悩んだ末︑
或る晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして︑ま
ね
ごと
んねんひつ︑まんねんひつ︑と隣部屋で客と対談中の父
25
へ低く呼びかけた事があったけれど︑勿論それは父の耳
にも心にもはいらなかったらしい︒私と弟とが米俵のぎ
っしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいる
と︑父が入口に立ちはだかって︑坊主︑出ろ︑出ろ︑と
叱った︒光を脊から受けているので父の大きい姿がまっ
くろに見えた︒私は︑あの時の恐怖を惟うと今でもいや
おも
な気がする︒
母に対しても私は親しめなかった︒乳母の乳で育って
叔母の懐で大きくなった私は︑小学校の二三年のときま
で母を知らなかったのである︒下男がふたりかかって私
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にそれを教えたのだが︑ある夜︑傍に寝ていた母が私の
蒲団の動くのを不審がって︑なにをしているのか︑と私
に尋ねた︒私はひどく当惑して︑腰が痛いからあんまや
っているのだ︑と返事した︒母は︑そんなら揉んだらい
も
い︑たたいて許りいたって︑と眠そうに言った︒私は黙
ってしばらく腰を撫でさすった︒母への追憶はわびしい
な
ものが多い︒私が蔵から兄の洋服を出し︑それを着て裏
庭の花壇の間をぶらぶら歩きながら︑私の即興的に作曲
する哀調のこもった歌を口ずさんでは涙ぐんでいた︒私
はその身装で帳場の書生と遊びたく思い︑女中を呼びに
み
なり
27
やったが︑書生は仲々来なかった︒私は裏庭の竹垣を靴
先でからからと撫でたりしながら彼を待っていたのであ
るが︑とうとうしびれを切らして︑ズボンのポケットに
両手をつっ込んだまま泣き出した︒私の泣いているのを
見つけた母は︑どうした訳か︑その洋服をはぎ取って了
って私の尻をぴしゃぴしゃとぶったのである︒私は身を
切られるような恥辱を感じた︒
私は早くから服装に関心を持っていたのである︒シャ
ツの袖口にはボタンが附いていないと承知できなかっ
た︒白いフランネルのシャツを好んだ︒襦袢の襟も白く
じゆばん
28
なければいけなかった︒えりもとからその白襟を一分か
いちぶ
二分のぞかせるように注意した︒十五夜のときには︑村
に
ぶの生徒たちはみんな晴衣を着て学校へ出て来るが︑私も
毎年きまって茶色の太い縞のある本ネルの着物を着て行
って︑学校の狭い廊下を女のようになよなよと小走りに
はしって見たりするのであった︒私はそのようなおしゃ
れを︑人に感附かれぬようひそかにやった︒うちの人た
ちは私の容貌を兄弟中で一番わるいわるい︑と言ってい
たし︑そのような悪いおとこが︑こんなおしゃれをする
と知られたら皆に笑われるだろう︑と考えたからである︒
29
私は︑かえって服装に無関心であるように振舞い︑しか
もそれは或る程度まで成功したように思う︒誰の眼にも
私は鈍重で野暮臭く見えたにちがいないのだ︒私が兄弟
たちとお膳のまえに坐っているときなど︑祖母や母がよ
く私の顔のわるい事を真面目に言ったものだが︑私には
やはりくやしかった︒私は自分をいいおとこだと信じて
いたので︑女中部屋なんかへ行って︑兄弟中で誰が一番
いいおとこだろう︑とそれとなく聞くことがあった︒女
中たちは︑長兄が一番で︑その次が治ちゃだ︑と大抵そ
う言った︒私は顔を赤くして︑それでも少し不満だった︒
30
長兄よりもいいおとこだと言って欲しかったのである︒
私は容貌のことだけでなく︑不器用だという点で祖母
たちの気にいらなかった︒箸の持ちかたが下手で食事の
度毎に祖母から注意されたし︑私のおじぎは尻があがっ
て見苦しいとも言われた︒私は祖母の前にきちんと坐ら
され︑何回も何回もおじぎをさせられたけれど︑いくら
やって見ても祖母は上手だと言って呉れないのである︒
く
祖母も私にとって苦手であったのだ︒村の芝居小屋の
舞台開きに東京の雀三郎一座というのがかかったとき︑
私はその興業中いちにちも欠かさず見物に行った︒その
31
小屋は私の父が建てたのだから︑私はいつでもただでい
い席に坐れたのである︒学校から帰るとすぐ︑私は柔い
着物と着換え︑端に小さい鉛筆をむすびつけた細い銀鎖
を帯に吊りさげて芝居小屋へ走った︒生れて始めて歌舞
伎というものを知ったのであるし︑私は興奮して︑狂言
を見ている間も幾度となく涙を流した︒その興行が済ん
でから︑私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で
芝居をやって見た︒私は前からこんな催物が好きで︑下
男や女中たちを集めては︑昔話を聞かせたり︑幻灯や活
動写真を映して見せたりしたものである︒そのときには︑
32
﹁山中鹿之助﹂と﹁鳩の家﹂と﹁かっぽれ﹂と三つの狂
言を並べた︒山中鹿之助が谷河の岸の或る茶店で︑早川
鮎之助という家来を得る条を或る少年雑誌から抜き取
くだり
って︑それを私が脚色した︒拙者は山中鹿之助と申すも
のであるが︑
︱という長い言葉を歌舞伎の七五調に直
すのに苦心をした︒﹁鳩の家﹂は私がなんべん繰り返し
て読んでも必ず涙の出た長篇小説で︑その中でも殊に哀
れな所を二幕に仕上げたものであった︒﹁かっぽれ﹂は
雀三郎一座がおしまいの幕の時︑いつも楽屋総出でそれ
を踊ったものだから︑私もそれを踊ることにしたのであ
33
る︒五六にち稽古して愈々その日︑文庫蔵のまえの広い
いよいよ
ぶんこ
ぐら
廊下を舞台にして︑小さい引幕などをこしらえた︒昼の
うちからそんな準備をしていたのだが︑その引幕の針金
に祖母が顎をひっかけて了った︒祖母は︑此の針金でわ
たしを殺すつもりか︑河原乞食の真似糞はやめろ︑と言
ま
ね
ぐそ
って私たちをののしった︒それでもその晩はやはり下男
や女中たちを十人ほど集めてその芝居をやってみせた
が︑祖母の言葉を考えると私の胸は重くふさがった︒私
は山中鹿之助や﹁鳩の家﹂の男の子の役をつとめ︑かっ
ぽれも踊ったけれど少しも気乗りがせずたまらなく淋し
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かった︒そののちも私はときどき﹁牛盗人﹂や﹁皿屋敷﹂
や﹁俊徳丸﹂などの芝居をやったが︑祖母はその都度に
がにがしげにしていた︒
私は祖母を好いてはいなかつたが︑私の眠られない夜
には祖母を有難く思うことがあった︒私は小学三四年の
ころから不眠症にかかって︑夜の二時になっても三時に
なっても眠れないで︑よく寝床のなかで泣いた︒寝る前
に砂糖をなめればいいとか︑時計のかちかちを数えろと
か︑水で両足を冷せとか︑ねむのきの葉を枕のしたに敷
いて寝るといいとか︑さまざまの眠る工夫をうちの人た
35
ちから教えられたが︑あまり効目がなかったようである︒
私は苦労性であって︑いろんなことをほじくり返して気
にするものだから︑尚のこと眠れなかったのであろう︒
父の鼻眼鏡をこっそりいじくって︑ぽきっとその硝子を
割ってしまったときには︑幾夜もつづけて寝苦しい思い
をした︒一軒置いて隣りの小間物屋では書物類もわずか
売っていて︑ある日私は︑そこで婦人雑誌の口絵などを
見ていたが︑そのうちの一枚で黄色い人魚の水彩画が欲
しくてならず︑盗もうと考えて静かに雑誌から切り離し
ていたら︑そこの若主人に︑治こ︑治こ︑と見とがめら
おさ
おさ
36
れ︑その雑誌を音高く店の畳に投げつけて家まで飛んで
はしって来たことがあったけれど︑そういうやりそこな
いもまた私をひどく眠らせなかった︒私は又︑寝床の中
で火事の恐怖に理由なく苦しめられた︒此の家が焼けた
ら︑と思うと眠るどころではなかったのである︒いつか
の夜︑私が寝しなに厠へ行ったら︑その厠と廊下ひと
かわや
つ隔てた真暗い帳場の部屋で︑書生がひとりして活動写
真をうつしていた︒白熊の︑氷の崖から海へ飛び込む有
様が︑部屋の襖へマッチ箱ほどの大きさでちらちら映っ
ていたのである︒私はそれを覗いて見て︑書生のそうい
37
う心持が堪らなく悲しく思われた︒床に就いてからも︑
その活動写真のことを考えると胸がどきどきしてならぬ
のだ︒書生の身の上を思ったり︑また︑その映写機のフ
ィルムから発火して大事になったらどうしようとそのこ
とが心配で心配で︑その夜はあけがた近くになる迄まど
ろむ事が出来なかったのである︒祖母を有難く思うのは
こんな夜であった︒
まず︑晩の八時ごろ女中が私を寝かして呉れて︑私の
眠るまではその女中も私の傍に寝ながら附いていなけれ
ばならなかったのだが︑私は女中を気の毒に思い︑床に
38
つくとすぐ眠ったふりをするのである︒女中がこっそり
私の床から脱け出るのを覚えつつ︑私は睡眠できるよう
ひたすら念じるのである︒十時頃まで床のなかで転輾し
てんてん
てから︑私はめそめそ泣き出して起き上る︒その時分に
なると︑うちの人は皆寝てしまっていて︑祖母だけが起
きているのだ︒祖母は夜番の爺と︑台所の大きい囲炉裏
い
ろ
り
を挟んで話をしている︒私はたんぜんを着たままその間
にはいって︑むっつりしながら彼等の話を聞いているの
である︒彼等はきまって村の人々の噂話をしていた︒或
る秋の夜更に︑私は彼等のぼそぼそと語り合う話に耳傾
39
けていると︑遠くから虫おくり祭の太鼓の音がどんどん
と響いて来たが︑それを聞いて︑ああ︑まだ起きている
人がたくさんあるのだ︑とずいぶん気強く思ったことだ
けは忘れずにいる︒
音に就いて思い出す︒私の長兄は︑そのころ東京の大
学にいたが︑暑中休暇になって帰郷する度毎に︑音楽や
文学などのあたらしい趣味を田舍へひろめた︒長兄は劇
を勉強していた︒或る郷土の雑誌に発表した﹁奪い合い﹂
という一幕物は︑村の若い人たちの間で評判だった︒そ
れを仕上げたとき︑長兄は数多くの弟や妹たちにも読ん
40
で聞かせた︒皆︑判らない判らない︑と言って聞いてい
たが︑私には判った︒幕切の︑くらい晩だなあ︑という
一言に含まれた詩をさえ理解できた︒私はそれに﹁奪い
合い﹂でなく﹁あざみ草﹂と言う題をつけるべきだと考
えたので︑あとで︑兄の書き損じた原稿用紙の隅へ︑そ
の私の意見を小さく書いて置いた︒兄は多分それに気が
附かなかったのであろう︑題名をかえることなくその儘
発表して了った︒レコオドもかなり集めていた︒私の父
しま
は︑うちで何か饗応があると必ず︑遠い大きなまちか
きようおう
らはるばる芸者を呼んで︑私も五つ六つの頃から︑そん
41
な芸者たちに抱かれたりした記憶があって︑﹁むかしむ
かしそのむかし﹂だの﹁あれは紀のくにみかんぶね﹂だ
のの唄や踊りを覚えているのである︒そういうことから︑
私は兄のレコオドの洋楽よりも邦楽の方に早くなじん
だ︒ある夜︑私が寝ていると︑兄の部屋からいい音が漏
ね
れて来たので︑枕から頭をもたげて耳をすました︒あく
る日︑私は朝早く起き兄の部屋へ行って手当り次第あれ
これとレコオドを掛けて見た︒そしてとうとう私は見つ
けた︒前夜︑私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオド
は︑蘭蝶だった︒
らんちよう
42
私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ︒次兄は東
京の商業学校を優等で出て︑そのまま帰郷し︑うちの銀
行に勤めていたのである︒次兄も亦うちの人たちに冷く
取扱われていた︒私は︑母や祖母が︑いちばん悪いおと
こは私で︑そのつぎに悪いのは次兄だ︑と言っているの
を聞いた事があるので︑次兄の不人気もその容貌がもと
であろうと思っていた︒なんにも要らない︑おとこ振り
ばかりでもよく生れたかった︑なあ治︑と半分は私をか
らかうように呟いた次兄の冗談口を私は記憶している︒
しかし私は次兄の顔をよくないと本心から感じたことが
43
一度もないのだ︒あたまも兄弟のうちではいい方だと信
ほう
じている︒次兄は毎日のように酒を呑んで祖母と喧嘩し
た︒私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ︒
末の兄と私とはお互いに反目していた︒私は色々な秘
密を此の兄に握られていたので︑いつもけむったかった︒
それに︑末の兄と私の弟とは︑顔のつくりが似て皆から
美しいとほめられていたし︑私は此のふたりに上下から
圧迫されるような気がしてたまらなかったのである︒そ
の兄が東京の中学に行って︑私はようやくほっとした︒
弟は︑末子で優しい顔をしていたから父にも母にも愛さ
44
れた︒私は絶えず弟を嫉妬していて︑ときどきなぐって
は母に叱られ︑母をうらんだ︒私が十か十一のころのこ
とお
とと思う︒私のシャツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒いた
じゆばん
ようにしらみがたかった時など︑弟がそれを鳥渡笑った
ちよつと
というので︑文字通り弟を殴り倒した︒けれども私は矢
張り心配になって︑弟の頭に出来たいくつかの瘤へ不可
こぶ
ふ
か
飲という薬をつけてやった︒
いん
私は姉たちには可愛がられた︒いちばん上の姉は死に︑
次の姉は嫁ぎ︑あとの二人の姉はそれぞれ違うまちの女
学校へ行っていた︒私の村には汽車がなかったので︑三
45
里ほど離れた汽車のあるまちと往き来するのに︑夏は馬
車︑冬は橇︑春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くよ
そり
り他なかったのである︒姉たちは橇に酔うので︑冬やす
みの時も歩いて帰った︒私はそのつどつど村端れの材木
はず
が積まれてあるところまで迎えに出たのである︒日がと
っぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ︒やがて隣村
の森のかげから姉たちの提灯がちらちら現れると︑私
ちようちん
は︑おう︑と大声あげて両手を振った︒
上の姉の学校は下の姉の学校よりも小さいまちにあっ
たので︑お土産も下の姉のそれに較べていつも貧しげだ
46
った︒いつか上の姉が︑なにもなくてえ︑と顔を赤くし
て言いつつ線香花火を五束六束バスケットから出して私
いつたばむ
たば
に与えたが︑私はそのとき胸をしめつけられる思いがし
た︒此の姉も亦きりょうがわるいとうちの人たちからい
われいわれしていたのである︒
上の姉は女学校へはいるまでは︑曾祖母とふたりで離
座敷に寝起していたものだから︑曾祖母の娘だとばかり
私は思っていたほどであった︒曾祖母は私が小学校を卒
業する頃なくなったが︑白い着物を着せられ小さくかじ
かんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は︑この姿が
47
こののちながく私の眼にこびりついたらどうしようと心
配した︒
私は程なく小学校を卒業したが︑からだが弱いからと
言うので︑うちの人たちは私を高等小学校に一年間だけ
通わせることにした︒からだが丈夫になったら中学へい
れてやる︑それも兄たちのように東京の学校では健康に
悪いから︑もっと田舍の中学へいれてやる︑と父が言っ
ていた︒私は中学校へなどそれほど入りたくなかったの
だけれどそれでも︑からだが弱くて残念に思う︑と綴方
つづりかた
へ書いて先生たちの同情を強いたりしていた︒
48
この時分には︑私の村にも町制が敷かれていたが︑そ
の高等小学校は私の町と附近の五六ヶ村と共同で出資し
て作られたものであって︑まちから半里も離れた松林の
中に在った︒私は病気のためにしじゅう学校をやすんで
いたのだけれどその小学校の代表者だったので︑他村か
らの優等生がたくさん集る高等小学校でも一番になるよ
う努めなければいけなかったのである︒しかし私はそこ
でも相変らず勉強をしなかった︒いまに中学生に成るの
だ︑という私の自矜が︑その高等小学校を汚く不愉快に
じきよう
感じさせていたのだ︒私は授業中おもに連続の漫画をか
49
いた︒休憩時間になると︑声色をつかってそれを生徒た
こわいろ
ちへ説明してやった︒そんな漫画をかいた手帖が四五冊
もたまった︒机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり
眺めて一時間を過すこともあった︒私は硝子窓の傍に座
席をもっていたが︑その窓の硝子板には蠅がいっぴき押
はえ
しつぶされてながいことねばりついたままでいて︑それ
が私の視野の片隅にぼんやりと大きくはいって来ると︑
私には雉か山鳩かのように思われ︑幾たびとなく驚かさ
きじ
れたものであった︒私を愛している五六人の生徒たちと
一緒に授業を逃げて︑松林の裏にある沼の岸辺に寝ころ
50
びつつ︑女生徒の話をしたり︑皆で着物をまくってそこ
にうっすり生えそめた毛を較べ合ったりして遊んだので
ある︒
その学校は男と女の共学であったが︑それでも私は自
分から女生徒に近づいたことなどなかった︒私は欲情が
はげしいから︑懸命にそれをおさえ︑女にもたいへん臆
病になっていた︒私はそれまで︑二人三人の女の子から
思われたが︑いつでも知らない振りをして来たのだった︒
帝展の入選画帳を父の本棚から持ち出しては︑その中に
ひそめられた白い画に頬をほてらせて眺めいったり︑私
51
の飼っていたひとつがいの兎にしばしば交尾させ︑その
雄兎の脊中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせ
たり︑そんなことで私はこらえていた︒私は見え坊であ
ったから︑あの︑あんまをさえ誰にも打ちあけなかった︒
その害を本で読んで︑それをやめようとさまざまな苦心
をしたが︑駄目であった︒そのうちに私はそんな遠い学
校へ毎日あるいてかよったお陰で︑からだも太って来た︒
額の辺にあわつぶのような小さい吹出物がでてきた︒之
も恥かしく思った︒私はそれへ宝丹膏という薬を真赤に
ほうたんこう
塗った︒長兄はそのとし結婚して︑祝言の晩に私と弟
しゆうげん
52
とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行ったが︑嫂は部屋
あによめ
の入口を脊にして坐って髪を結わせていた︒私は鏡に映
った花嫁のほのじろい笑顔をちらと見るなり︑弟をひき
ずって逃げ帰った︒そして私は︑たいしたもんでねえで
ば!
と力こめて強がりを言った︒薬で赤い私の額のた
めによけい気もひけて︑尚のことこんな反撥をしたので
あった︒
冬ちかくなって︑私も中学校への受験勉強を始めなけ
ればいけなくなつた︒私は雑誌の広告を見て︑東京へ色々
の参考書を注文した︒けれども︑それを本箱に並べただ
53
けで︑ちっとも読まなかった︒私の受験することになっ
ていた中学校は︑県でだいいちのまちに在って︑志願者
も二三倍は必ずあったのである︒私はときどき落第の懸
念に襲われた︒そんな時には私も勉強をした︒そして一
週間もつづけて勉強すると︑すぐ及第の確信がついて来
るのだ︒勉強するとなると︑夜十二時ちかくまで床につ
かないで︑朝はたいてい四時に起きた︒勉強中は︑たみ
という女中を傍に置いて︑火をおこさせたり茶をわかさ
せたりした︒たみは︑どんなにおそくまで宵っぱりして
も翌る朝は︑四時になると必ず私を起しに来た︒私が算
あく
54
術の鼠が子を産む応用問題などに困らされている傍で︑
ねずみ
たみはおとなしく小説本を読んでいた︒あとになって︑
たみの代りに年とった肥えた女中が私へつくようになっ
たが︑それが母のさしがねである事を知った私は︑母の
その底意を考えて顔をしかめた︒
その翌春︑雪のまだ深く積っていた頃︑私の父は東京
の病院で血を吐いて死んだ︒ちかくの新聞社は父の訃を
ふ
号外で報じた︒私は父の死よりも︑こういうセンセイシ
ョンの方に興奮を感じた︒遺族の名にまじって私の名も
新聞に出ていた︒父の死骸は大きい寝棺に横たわり橇に
そり
55
乗って故郷へ帰って来た︒私は大勢のまちの人たちと一
緒に隣村近くまで迎えに行った︒やがて森の蔭から幾台
となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たの
を眺めて私は美しいと思った︒
つぎの日︑私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてあ
る仏間に集った︒棺の蓋が取りはらわれるとみんな声を
ふた
たてて泣いた︒父は眠っているようであった︒高い鼻筋
がすっと青白くなっていた︒私は皆の泣声を聞き︑さそ
われて涙を流した︒
私の家はそのひとつきもの間︑火事のような騒ぎであ
56
った︒私はその混雑にまぎれて︑受験勉強を全く怠った
のである︒高等小学校の学年試験にも殆ど出鱈目な答案
で
たらめ
を作って出した︒私の成績は全体の三番かそれくらいで
あったが︑これは明らかに受持訓導の私のうちに対する
うけもちくんどう
遠慮からであった︒私はそのころ既に記憶力の減退を感
じていて︑したしらべでもして行かないと試験には何も
書けなかったのである︒私にとってそんな経験は始めて
であった︒
57
二章
いい成績ではなかったが︑私はその春︑中学校へ受験
して合格をした︒私は︑新しい袴と黒い沓下とあみあげ
くつした
の靴をはき︑いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒
ラシヤ
しや
落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って︑
れ
もの
その海のある小都会へ出た︒そして私のうちと遠い親戚
にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた︒入口にちぎ
れた古いのれんをさげてあるその家へ︑私はずっと世話
になることになっていたのである︒
58
私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持っている
が︑入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り︑袴
かぶ
をつけた︒そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると︑
私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである︒
それなのに︑学校はちっとも面白くなかった︒校舍は︑
まちの端れにあって︑しろいペンキで塗られ︑すぐ裏は
海峽に面したひらたい公園で︑浪の音や松のざわめきが
授業中でも聞えて来て︑廊下も広く教室の天井も高くて︑
私はすべてにいい感じを受けたのだが︑そこにいる教師
たちは私をひどく迫害したのである︒
59
私は入学式の日から︑或る体操の教師にぶたれた︒私
が生意気だというのであった︒この教師は入学試験のと
き私の口答試問の係りであったが︑お父さんがなくなっ
てよく勉強もできなかったろう︑と私に情ふかい言葉を
かけて呉れ︑私もうなだれて見せたその人であっただけ
に︑私のこころはいっそう傷けられた︒そののちも私は
色んな教師にぶたれた︒にやにやしているとか︑あくび
をしたとか︑さまざまな理由から罰せられた︒授業中の
私のあくびが大きいので職員室で評判である︑とも言わ
れた︒私はそんな莫迦げたことを話し合っている職員室
ば
か
60
を︑おかしく思った︒
私と同じ町から来ている一人の生徒が︑或る日︑私を
校庭の砂山の陰に呼んで︑君の態度はじっさい生意気そ
うに見える︑あんなに殴られてばかりいると落第するに
ちがいない︑と忠告して呉れた︒私は愕然とした︒その
日の放課後︑私は海岸づたいにひとり家路を急いだ︒靴
底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた︒洋服の袖で額
の汗を拭いていたら︑鼠色のびっくりするほど大きい帆
がすぐ眼の前をよろよろととおって行った︒
私は散りかけている花弁であった︒すこしの風にもふ
61
るえおののいた︒人からどんな些細なさげすみを受けて
も死なん哉と悶えた︒私は︑自分を今にきっとえらくな
かな
るものと思っていたし︑英雄としての名誉をまもって︑
たとい大人の侮りにでも容赦できなかったのであるか
ら︑この落第という不名誉も︑それだけ致命的であった
のである︒その後の私は兢兢として授業を受けた︒授
きようきよう
業を受けながらも︑この教室のなかには眼に見えぬ百人
の敵がいるのだと考えて︑少しも油断をしなかった︒朝︑
学校へ出掛けしなには︑私の机の上へトランプを並べて︑
その日いちにちの運命を占った︒ハアトは大吉であった︒
62
ダイヤは半吉︑クラブは半凶︑スペエドは大凶であった︒
そしてその頃は︑来る日も来る日もスペエドばかり出た
のである︒
それから間もなく試験が来たけれど︑私は博物でも地
理でも修身でも︑教科書の一字一句をそのまま暗記して
了うように努めた︒これは私のいちかばちかの潔癖から
来ているのであろうが︑この勉強法は私の為によくない
結果を呼んだ︒私は勉強が窮屈でならなかったし︑試験
の際も︑融通がきかなくて︑殆ど完璧に近いよい答案を
作ることもあれば︑つまらぬ一字一句につまずいて︑思
63
索が乱れ︑ただ意味もなしに答案用紙を汚している場合
もあったのである︒
しかし私の第一学期の成績はクラスの三番であった︒
操行も甲であった︒落第の懸念に苦しまされていた私は︑
その通告簿を片手に握って︑もう一方の手で靴を吊り下
げたまま︑裏の海岸まではだしで走った︒嬉しかったの
である︒
一学期をおえて︑はじめての帰郷のときは︑私は故郷
の弟たちに私の中学生生活の短い経験を出来るだけ輝か
しく説明したく思って︑私がその三四ヶ月間身につけた
64
すべてのもの︑座蒲団のはてまで行李につめた︒
こうり
馬車にゆられながら隣村の森を抜けると︑幾里四方も
の青田の海が展開して︑その青田の果てるあたりに私の
うちの赤い大屋根が聳えていた︒私はそれを眺めて十年
そび
も見ない気がした︒
私はその休暇のひとつきほど得意な気持でいたことが
ない︒私は弟たちへ中学校のことを誇張して夢のように
物語った︒その小都会の有様をも︑つとめて幻妖に物語
げんよう
ったのである︒
私は風景をスケッチしたり昆虫の採集をしたりして︑
65
野原や谷川をはしり廻った︒水彩画を五枚えがくのと珍
らしい昆虫の標本を十種あつめるのとが︑教師に課され
た休暇中の宿題であった︒私は捕虫網を肩にかついで︑
弟にはピンセットだの毒壺だののはいった採集鞄を持
さいしゆうかばん
たせ︑もんしろ蝶やばったを追いながら一日を夏の野原
で過した︒夜は庭園で焚火をめらめらと燃やして︑飛ん
で来るたくさんの虫を網や箒で片っぱしからたたき落
ほうき
した︒末の兄は美術学校の塑像科へ入っていたが︑まい
にち中庭の大きい栗の木の下で粘土をいじくっていた︒
もう女学校を卒えていた私のすぐの姉の胸像を作ってい
お
66
たのである︒私も亦その傍で︑姉の顔を幾枚もスケッチ
して︑兄とお互いの出来上り案配をけなし合った︒姉は
真面目に私たちのモデルになっていたが︑そんな場合お
もに私の水彩画の方の肩を持った︒この兄は若いときは
みんな天才だ︑などと言って︑私のあらゆる才能を莫迦
にしていた︒私の文章をさえ︑小学生の綴方︑と言って
嘲っていた︒私もその当時は︑兄の芸術的な力をあか
あざけ
らさまに軽蔑していたのである︒
ある晩︑その兄が私の寝ているところへ来て︑治︑珍
動物だよ︑と声を低くして言いながら︑しゃがんで蚊帳
か
や
67
の下から鼻紙に軽く包んだものをそっと入れて寄こし
た︒兄は︑私が珍らしい昆虫を集めているのを知ってい
たのだ︒包の中では︑かさかさと虫のもがく足音がして
いた︒私は︑そのかすかな音に︑肉親の情を知らされた︒
私が手暴くその小さい紙包をほどくと︑兄は︑逃げるぜ
て
あら
え︑そら︑そら︑と息をつめるようにして言った︒見る
と普通のくわがたむしであった︒私はその鞘翅類をも私
しようしるい
の採集した珍昆虫十種のうちにいれて教師へ出した︒
休暇が終りになると私は悲しくなった︒故郷をあとに
し︑その小都会へ来て︑呉服商の二階で独りして行李を
68
あけた時には︑私はもう少しで泣くところであった︒私
は︑そんな淋しい場合には︑本屋へ行くことにしていた︒
そのときも私は近くの本屋へ走った︒そこに並べられた
かずかずの刊行物の背を見ただけでも︑私の憂愁は不思
議に消えるのだ︒その本屋の隅の書棚には︑私の欲しく
ても買えない本が五六冊あって︑私はときどき︑その前
へ何気なさそうに立ち止っては膝をふるわせながらその
本の頁を盗み見たものだけれど︑しかし私が本屋へ行く
のは︑なにもそんな医学じみた記事を読むためばかりで
はなかったのである︒その当時私にとって︑どんな本で
69
も休養と慰安であったからである︒
学校の勉強はいよいよ面白くなかった︒白地図に山脈
や港湾や河川を水絵具で記入する宿題などは︑なにより
も呪わしかった︒私は物事に凝るほうであったから︑こ
のろ
の地図の彩色には三四時間も費やした︒歴史なんかも︑
教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要点を書
き込めと言いつけたが︑教師の講義は教科書を読むよう
なものであったから︑自然とそのノオトへも教科書の文
章をそのまま書き写すよりほかなかったのである︒私は
それでも成績にみれんがあったので︑そんな宿題を毎日
70
せい出してやったのである︒秋になると︑そのまちの中
等学校どうしの色々なスポオツの試合が始った︒田舍か
ら出て来た私は︑野球の試合など見たことさえなかった︒
小説本で︑満塁とか︑アタックショオトとか︑中堅と
フルベエス
センタア
か︑そんな用語を覚えていただけであって︑やがて其の
試合の観方をおぼえたけれど余り熱狂できなかった︒野
球ばかりでなく︑庭球でも︑柔道でも︑なにか他校と試
合のある度に私も応援団の一人として︑選手たちに声援
を与えなければならなかったのであるが︑そのことが尚なお
さら中学生生活をいやなものにして了った︒応援団長と
71
いうのがあって︑わざと汚い恰好で日の丸の扇子などを
持ち︑校庭の隅の小高い岡にのぼって演説をすれば︑生
徒たちはその団長の姿を︑むさい︑むさい︑と言って喜
ぶのである︒試合のときは︑ひとゲエムのあいまあいま
に団長が扇子をひらひらさせて︑オオル・スタンド・ア
ップと叫んだ︒私たちは立ち上って︑紫の小さい三角旗
を一斉にゆらゆら振りながら︑よい敵よい敵けなげなれ
ども︑という応援歌をうたうのである︒そのことは私に
とって恥しかった︒私は︑すきを見ては︑その応援から
逃げて家へ帰った︒
72
しかし︑私にもスポオツの経験がない訳ではなかった
のである︒私の顔が蒼黒くて︑私はそれを例のあんまの
故であると信じていたので︑人から私の顔色を言われる
と︑私のその秘密を指摘されたようにどぎまぎした︒私
は︑どんなにかして血色をよくしたく思い︑スポオツを
はじめたのである︒
私はよほど前からこの血色を苦にしていたものであっ
た︒小学校四五年のころ︑末の兄からデモクラシイとい
う思想を聞き︑母までデモクラシイのため税金がめっき
り高くなって作米の殆どみんなを税金に取られる︑と客
73
たちにこぼしているのを耳にして︑私はその思想に心弱
くうろたえた︒そして︑夏は下男たちの庭の草刈に手つ
だいしたり︑冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどし
ながら︑下男たちにデモクラシイの思想を教えた︒そう
して︑下男たちは私の手助けを余りよろこばなかったの
をやがて知った︒私の刈った草などは後からまた彼等が
刈り直さなければいけなかったらしいのである︒私は下
男たちを助ける名の陰で︑私の顔色をよくする事をも計
っていたのであったが︑それほど労働してさえ私の顔色
はよくならなかったのである︒
74
中学校にはいるようになってから︑私はスポオツに依
っていい顔色を得ようと思いたって︑暑いじぶんには︑
学校の帰りしなに必ず海へはいって泳いだ︒私は胸泳と
いって雨蛙のように両脚をひらいて泳ぐ方法を好んだ︒
頭を水から真直に出して泳ぐのだから︑波の起伏のこま
かい縞目も︑岸の青葉も︑流れる雲も︑みんな泳ぎなが
らに眺められるのだ︒私は亀のように頭をすっとできる
だけ高くのばして泳いだ︒すこしでも顔を太陽に近寄せ
て︑早く日焼がしたいからであった︒
また︑私のいたうちの裏がひろい墓地だったので︑私
75
はそこへ百米の直線コオスを作り︑ひとりでまじめに走
った︒その墓地はたかいポプラの繁みで囲まれていて︑
はしり疲れると私はそこの卒堵婆の文字などを読み読み
しながらぶらついた︒月穿潭底とか︑三界唯一心とかの
げつせんたんてい
さんがいゆいいつしん
句をいまでも忘れずにいる︒ある日私は︑銭苔のいっぱ
ぜにごけ
い生えている黒くしめった墓石に︑寂性清寥居士という
名前を見つけてかなり心を騒がせ︑その墓のまえに新し
く飾られてあった紙の蓮華の白い葉に︑おれはいま土の
したで蛆虫とあそんでいる︑と或る仏蘭西の詩人から暗
うじむし
示された言葉を︑泥を含ませた私の人指ゆびでもって︑
76
さも幽霊が記したかのようにほそぼそとなすり書いて置
いた︒そのあくる日の夕方︑私は運動にとりかかる前に︑
先ずきのうの墓標へお参りしたら︑朝の驟雨で亡魂の文
しゆうう
字はその近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗い
さらわれて︑蓮華の白い葉もところどころ破れていた︒
私はそんな事をして遊んでいたのであったが︑走る事
も大変巧くなったのである︒両脚の筋肉もくりくりと丸
くふくれて来た︒けれども顔色は︑やっぱりよくならな
かったのだ︒黒い表皮の底には︑濁った蒼い色が気持悪
くよどんでいた︒
77
私は顔に興味を持っていたのである︒読書にあきると
手鏡をとり出し︑微笑んだり眉をひそめたり頬杖ついて
思案にくれたりして︑その表情をあかず眺めた︒私は必
ずひとを笑わせることの出来る表情を会得した︒目を細
くして鼻を皺め︑口を小さく尖らすと︑児熊のようで可
しわ
愛かったのである︒私は不満なときや当惑したときにそ
の顔をした︒私のすぐの姉はそのじぶん︑まちの県立病
院の内科へ入院していたが︑私は姉を見舞いに行ってそ
の顔をして見せると︑姉は腹をおさえて寢台の上をころ
げ廻った︒姉はうちから連れて来た中年の女中とふたり
78
きりで病院に暮していたものだから︑ずいぶん淋しがっ
て︑病院の長い廊下をのしのし歩いて来る私の足音を聞
くと︑もうはしゃいでいた︒私の足音は並はずれて高い
のだ︒私が若し一週間でも姉のところを訪れないと︑姉
は女中を使って私を迎いによこした︒私が行かないと︑
姉の熱は不思議にあがって容態がよくない︑とその女中
が真顔で言っていた︒
その頃はもう私も十五六になっていたし︑手の甲には
静脈の青い血管がうっすりと透いて見えて︑からだも異
様におもおもしく感じられていた︒私は同じクラスのい
79
ろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合った︒学校からの
帰りにはきっと二人してならんで歩いた︒お互いの小指
がすれあってさえも︑私たちは顔を赤くした︒いつぞや︑
二人で学校の裏道の方を歩いて帰ったら︑芹やはこべの
せり
青々と伸びている田溝の中にいもりがいっぴき浮いてい
るのをその生徒が見つけ︑黙ってそれを掬って私に呉れ
すく
た︒私は︑いもりは嫌いであったけれど︑嬉しそうには
しゃぎながらそれを手巾へくるんだ︒うちへ持って帰っ
ハンカチ
て︑中庭の小さな池に放した︒いもりは短い首をふりふ
り泳ぎ廻っていたが︑次の朝みたら逃げて了っていなか
80
った︒
私はたかい自矜の心を持っていたから︑私の思いを相
じきよう
手に打ち明けるなど考えもつかぬことであった︒その生
徒へは普段から口もあんまり利かなかったし︑また同じ
ころ隣の家の痩せた女学生をも私は意識していたのだ
が︑此の女学生とは道で逢っても︑ほとんどその人を莫
迦にしているようにぐっと顔をそむけてやるのである︒
秋のじぶん︑夜中に火事があって︑私も起きて外へ出て
見たら︑つい近くの社の陰あたりが火の粉をちらして
やしろ
燃えていた︒社の杉林がその焰を囲うようにまっくろ
ほのお
81
く立って︑そのうえを小鳥がたくさん落葉のように狂い
飛んでいた︒私は︑隣のうちの門口から白い寝巻の女の
子が私の方を見ているのを︑ちゃんと知っていながら︑
横顔だけをそっちにむけてじっと火事を眺めた︒焰の赤
い光を浴びた私の横顔は︑きっときらきら美しく見える
だろうと思っていたのである︒こんな案配であったから︑
私はまえの生徒とでも︑また此の女学生とでも︑もっと
進んだ交渉を持つことができなかった︒けれどもひとり
でいるときには︑私はもっと大胆だった筈である︒鏡の
私の顔へ︑片眼をつぶって笑いかけたり︑机の上に小刀
82
で薄い唇をほりつけて︑それへ私の唇をのせたりした︒
この唇には︑あとで赤いインクを塗ってみたが︑妙にど
すぐろくなっていやな感じがして来たから︑私は小刀で
すっかり削りとって了った︒
私が三年生になって︑春のあるあさ︑登校の道すがら
に朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって︑私はし
ばらくぼんやりしていた︒橋の下には隅田川に似た広い
川がゆるゆると流れていた︒全くぼんやりしている経験
など︑それまでの私にはなかったのである︒うしろで誰
か見ているような気がして︑私はいつでも何かの態度を
83
つくっていたのである︒私のいちいちのこまかい仕草に
も︑彼は当惑して掌を眺めた︑彼は耳の裏を掻きながら
呟いた︑などと傍から傍から説明句をつけていたのであ
るから︑私にとって︑ふと︑とか︑われしらず︑とかい
う動作はあり得なかったのである︒橋の上での放心から
覚めたのち︑私は寂しさにわくわくした︒そんな気持の
ときには︑私もまた︑自分の来しかた行末を考えた︒橋
をかたかた渡りながら︑いろんな事を思い出し︑また夢
想した︒そして︑おしまいに溜息ついてこう考えた︒え
らくなれるかしら︒その前後から︑私はこころのあせり
84
をはじめていたのである︒私は︑すべてに就いて満足し
切れなかったから︑いつも空虚なあがきをしていた︒私
には十重二十重の仮面がへばりついていたので︑どれが
と
え
は
た
え
どんなに悲しいのか︑見極めをつけることができなかっ
たのである︒そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を
見つけたのだ︒創作であった︒ここにはたくさんの同類
がいて︑みんな私と同じように此のわけのわからぬおの
のきを見つめているように思われたのである︒作家にな
ろう︑作家になろう︑と私はひそかに願望した︒弟もそ
のとし中学校へはいって︑私とひとつ部屋に寝起してい
85
たが︑私は弟と相談して︑初夏のころに五六人の友人た
ちを集め同人雑誌をつくった︒私の居るうちの筋向いに
大きい印刷所があったから︑そこへ頼んだのである︒表
紙も石版でうつくしく刷らせた︒クラスの人たちへその
雑誌を配ってやった︒私はそれへ毎月ひとつずつ創作を
発表したのである︒はじめは道徳に就いての哲学者めい
た小説を書いた︒一行か二行の断片的な随筆をも得意と
していた︒この雑誌はそれから一年ほど続けたが︑私は
そのことで長兄と気まずいことを起してしまった︒
長兄は私の文学に熱狂しているらしいのを心配して︑
86
郷里から長い手紙をよこしたのである︒化学には方程式
あり幾何には定理があって︑それを解する完全な鍵が与
えられているが︑文学にはそれがないのです︑ゆるされ
た年齡︑環境に達しなければ文学を正当に摑むことが不
つか
可能と存じます︑と物堅い調子で書いてあった︒私もそ
うだと思った︒しかも私は︑自分をその許された人間で
あると信じた︒私はすぐ長兄へ返事した︒兄上の言うこ
とは本当だと思う︑立派な兄を持つことは幸福である︑
しかし︑私は文学のために勉強を怠ることがない︑その
故にこそいっそう勉強しているほどである︑と誇張した
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感情をさえところどころにまぜて長兄へ告げてやったの
である︒
なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないの
だ︑という脅迫めいた考えからであったが︑じじつ私は
勉強していたのである︒三年生になってからは︑いつも
クラスの首席であった︒てんとりむしと言われずに首席
になることは困難であったが︑私はそのような嘲りを
あざけ
受けなかった許りか︑級友を手ならす術まで心得ていた︒
ばか
蛸というあだなの柔道の主将さえ私には従順であった︒
たこ教
室の隅に紙屑入の大きな壺があって︑私はときたまそ
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れを指さして︑蛸もつぼへはいらないかと言えば︑蛸は
その壺へ頭をいれて笑うのだ︒笑い声が壺に響いて異様
な音をたてた︒クラスの美少年たちもたいてい私になつ
いていた︒私が顔の吹出物へ︑三角形や六角形や花の形
に切った絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑し
ばんそうこう
がらなかった程なのである︒
私はこの吹出物には心をなやまされた︒そのじぶんに
はいよいよ数も殖えて︑毎朝︑眼をさますたびに掌で顔
を撫でまわしてその有様をしらべた︒いろいろな薬を買
ってつけたが︑ききめがないのである︒私はそれを薬屋
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へ買いに行くときには︑紙きれへその薬の名を書いて︑
こんな薬がありますかって︑と他人から頼まれたふうに
して言わなければいけなかったのである︒私はその吹出
物を欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥しかっ
た︒いっそ死んでやったらと思うことさえあった︒私の
顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してい
た︒他家へとついでいた私のいちばん上の姉は︑治のと
ころへは嫁に来るひとがあるまい︑とまで言っていたそ
うである︒私はせっせと薬をつけた︒
弟も私の吹出物を心配して︑なんべんとなく私の代り
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に薬を買いに行って呉れた︒私と弟とは子供のときから
仲がわるくて︑弟が中学へ受験する折にも︑私は彼の失
敗を願っていたほどであったけれど︑こうしてふたりで
故郷から離れて見ると︑私にも弟のよい気質がだんだん
判って来たのである︒弟は大きくなるにつれて無口で内
気になっていた︒私たちの同人雑誌にもときどき小品文
を出していたが︑みんな気の弱々した文章であった︒私
にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてい
て︑私がなぐさめでもするとかえって不気嫌になった︒
また︑自分の額の生えぎわが富士のかたちに三角になっ
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て女みたいなのをいまいましがっていた︒額がせまいか
ら頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである︒私
はこの弟にだけはなにもかも許した︒私はその頃︑人と
対するときには︑みんな押し隠して了うか︑みんなさら
しま
け出して了うか︑どちらかであったのである︒私たちは
なんでも打ち明けて話した︒
秋のはじめの或る月のない夜に︑私たちは港の桟橋へ
出て︑海峽を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれなが
ら赤い糸について話合った︒それはいつか学校の国語の
教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって︑私
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たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてい
て︑それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る
女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである︑
ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない︑どん
なに近づいても︑たとい往来で逢っても︑その糸はこん
ぐらかることがない︑そうして私たちはその女の子を嫁
にもらうことにきまっているのである︒私はこの話をは
じめて聞いたときには︑かなり興奮して︑うちへ帰って
からもすぐ弟に物語ってやったほどであった︒私たちは
その夜も︑波の音や︑かもめの声に耳傾けつつ︑その話
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をした︒お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ︑と弟
に聞いたら︑弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりう
ごかしてから︑庭あるいてる︑ときまり悪げに言った︒
大きい庭下駄をはいて︑団扇をもって︑月見草を眺めて
うちわ
いる少女は︑いかにも弟と似つかわしく思われた︒私の
を語る番であったが︑私は真暗い海に眼をやったまま︑
赤い帯しめての︑とだけ言って口を噤んだ︒海峽を渡っ
つぐ
て来る連絡船が︑大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部
屋へ黄色いあかりをともして︑ゆらゆらと水平線から浮
んで出た︒
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これだけは弟にもかくしていた︒私がそのとしの夏休
みに故郷へ帰ったら︑浴衣に赤い帯をしめたあたらしい
小柄な小間使が︑乱暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れ
たのだ︒みよと言った︒
私は寝しなに煙草を一本こっそりふかして︑小説の書
き出しなどを考える癖があったが︑みよはいつの間にか
それを知って了って︑ある晩私の床をのべてから枕元へ︑
きちんと煙草盆を置いたのである︒私はその次の朝︑部
屋を掃除しに来たみよへ︑煙草はかくれてのんでいるの
だから煙草盆なんか置いてはいけない︑と言いつけた︒
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みよは︑はあ︑と言ってふくれたようにしていた︒同じ
休暇中のことだったが︑まちに浪花節の興行物が来たと
き︑私のうちでは︑使っている人たち全部を芝居小屋へ
聞きにやった︒私と弟も行けと言われたが︑私たちは田
舍の興行物を莫迦にして︑わざと蛍をとりに田圃へ出か
けたのである︒隣村の森ちかくまで行ったが︑あんまり
夜露がひどかったので︑二十そこそこを︑籠にためただ
けでうちへ帰った︒浪花節へ行っていた人たちもそろそ
ろ帰って来た︒みよに床をひかせ︑蚊帳をつらせてから︑
か
や
私たちは電灯を消してその蛍を蚊帳のなかへ放した︒蛍
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は蚊帳のあちこちをすっすっと飛んだ︒みよも暫く蚊帳
のそとに佇んで蛍を見ていた︒私は弟と並んで寝ころび
ながら︑蛍の青い火よりもみよのほのじろい姿をよけい
に感じていた︒浪花節は面白かったろうか︑と私はすこ
し堅くなって聞いた︒私はそれまで︑女中には用事以外
の口を決してきかなかったのである︒みよは静かな口調
で︑いいえ︑と言った︒私はふきだした︒弟は︑蚊帳の
裾に吸いついている一匹の蛍を団扇でばさばさ追いたて
ながら黙っていた︒私はなにやら工合がわるかった︒
そのころから私はみよを意識しだした︒赤い糸と言え
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ば︑みよのすがたが胸に浮んだ︒
三章
四年生になってから︑私の部屋へは毎日のようにふた
りの生徒が遊びに来た︒私は葡萄酒と鯣をふるまった︒
するめ
そうして彼等に多くの出鱈目を教えたのである︒炭のお
すみ
こしかたに就いて一冊の書物が出ているとか︑﹁けだも
のの機械﹂という或る新進作家の著書に私がべたべたと
機械油を塗って置いて︑こうして発売されているのだが︑
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珍らしい装幀でないかとか︑﹁美貌の友﹂という翻訳本
のところどころカットされて︑そのブランクになってい
る箇所へ︑私のこしらえたひどい文章を︑知っている印
刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらって︑これは奇書
だとか︑そんなことを言って友人たちを驚かせたもので
あった︒
みよの思い出も次第にうすれていたし︑そのうえに私
は︑ひとつうちに居る者どうしが思ったり思われたりす
ることを変にうしろめたく感じていたし︑ふだんから女
の悪口ばかり言って来ている手前もあったし︑みよに就
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いて譬えほのかにでも心を乱したのが腹立しく思われる
ときさえあったほどで︑弟にはもちろん︑これらの友人
たちにもみよの事だけは言わずに置いたのである︒
ところが︑そのあたり私は︑ある露西亜の作家の名だ
かい長編小説を読んで︑また考え直して了った︒それは︑
ひとりの女囚人の経歴から書き出されていたが︑その女
のいけなくなる第一歩は︑彼女の主人の甥にあたる貴族
の大学生に誘惑されたことからはじまっていた︒私はそ
の小説のもっと大きなあじわいを忘れて︑そのふたりが
咲き乱れたライラックの花の下で最初の接吻を交したペ
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エジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ︒私もまた︑
し
おり
すぐれた小説をよそごとのようにして読むことができな
かったのである︒私には︑そのふたりがみよと私とに似
ているような気分がしてならなかった︒私がいま少しす
べてにあつかましかったら︑いよいよ此の貴族とそっく
りになれるのだ︑と思った︒そう思うと私の臆病さがは
かなく感じられもするのである︒こんな気のせせこまし
さが私の過去をあまりに平坦にしてしまったのだと考え
た︒私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思わ
れたのである︒
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私は此のことをまず弟へ打ち明けた︒晩に寝てから打
ち明けた︒私は巌粛な態度で話すつもりであったが︑そ
う意識してこしらえた姿勢が逆に邪魔をして来て︑結局
うわついた︒私は︑頸筋をさすったり両手をもみ合せた
りして︑気品のない話かたをした︒そうしなければかな
わぬ私の習性を私は悲しく思った︒弟は︑うすい下唇を
ちろちろ舐めながら︑寝がえりもせず聞いていたが︑け
な
っこんするのか︑と言いにくそうにして尋ねた︒私はな
ぜだかぎょっとした︒できるかどうか︑とわざとしおれ
て答えた︒弟は︑恐らくできないのではないかという意
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味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言っ
た︒それを聞いて︑私は自分のほんとうの態度をはっき
り見つけた︒私はむっとして︑たけりたけったのである︒
蒲団から半身を出して︑だからたたかうのだ︑たたかう
のだ︑と声をひそめて強く言い張った︒弟は更紗染めの
さ
ら
ぞ
蒲団の下でからだをくねくねさせて何か言おうとしてい
るらしかったが︑私の方を盜むようにして見て︑そっと
微笑んだ︒私も笑い出した︒そして︑門出だから︑と言
いつつ弟の方へ手を差し出した︒弟も恥しそうに蒲団か
ら右手を出した︒私は低く声を立てて笑いながら︑二三
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度弟の力ない指をゆすぶった︒
しかし︑友人たちに私の決意を承認させるときには︑
こんな苦心をしなくてよかった︒友人たちは私の話を聞
きながら︑あれこれと思案をめぐらしているような恰好
をして見せたが︑それは︑私の話がすんでからそれへの
同意に効果を添えようためのものでしかないのを︑私は
知っていた︒じじつその通りだったのである︒
四年生のときの夏やすみには︑私はこの友人たちふた
りをつれて故郷へ帰った︒うわべは︑三人で高等学校へ
の受驗勉強を始めるためであったが︑みよを見せたい心
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も私にあって︑むりやりに友をつれて来たのである︒私
は︑私の友がうちの人たちに不評判でないように祈った︒
私の兄たちの友人は︑みんな地方でも名のある家庭の青
年ばかりだったから︑私の友のように金釦のふたつし
きんボタン
かない上着などを着てはいなかったのである︒
裏の空屋敷には︑そのじぶん大きな鶏舍が建てられて
いて︑私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した︒
番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて︑なかは
二坪ほどの板の間で︑まだ新しいワニス塗の卓子や椅子
テエブル
がきちんとならべられていた︒ひろい扉が東側と北側に
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二つもついていたし︑南側にも洋ふうの開窓があって︑
それを皆いっぱいに明け放すと︑風がどんどんはいって
来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでいるの
だ︒まわりには雑草がむかしのままに生えしげっていて︑
黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつ
つ遊んでいた︒
私たち三人はひるめしどきを楽しみにしていた︒その
番小屋へ︑どの女中が︑めしを知らせに来るかが問題で
あったのである︒みよでない女中が来れば︑私たちは卓
をぱたぱた叩いたり舌打したりして大騒ぎをした︒みよ
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が来ると︑みんなしんとなった︒そして︑みよが立ち去
るといっせいに吹き出したものであった︒或る晴れた日︑
弟も私たちと一緒にそこで勉強をしていたが︑ひるにな
って︑きょうは誰が来るだろう︑といつものように皆で
語り合った︒弟だけは話からはずれて︑窓ぎわをぶらぶ
ら歩きながら英語の単語を暗記していた︒私たちは色ん
な冗談を言って︑書物を投げつけ合ったり足踏して床を
鳴らしていたが︑そのうちに私は少しふざけ過ぎて了っ
しま
た︒私は弟をも仲間にいれたく思って︑お前はさっきか
ら黙っているが︑さては︑と唇を軽くかんで弟をにらん
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でやったのである︒すると弟は︑いや︑と短く叫んで右
手を大きく振った︒持っていた単語のカアドが二三枚ぱ
っと飛び散った︒私はびっくりして視線をかえた︒その
とっさの間に私は気まずい断定を下した︒みよの事はき
ょう限りよそうと思った︒それからすぐ︑なにごともな
かったように笑い崩れた︒
その日めしを知らせに来たのは︑仕合せと︑みよでな
かった︒母屋へ通る豆畑のあいだの狹い道を︑てんてん
と一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて︑私
は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむし
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りとった︒
犠牲などということは始めから考えてなかった︒ただ
いやだったのだ︒ライラックの白い茂みが泥を浴びせら
れた︒殊にその悪戯者が肉親であるのがいっそういやで
いたずらもの
あった︒
それからの二三日は︑さまざまに思いなやんだ︒みよ
だって庭を歩くことがあるでないか︒彼は私の握手にほ
とんど当惑した︒要するに私はめでたいのではないだろ
うか︒私にとって︑めでたいという事ほどひどい恥辱は
なかったのである︒
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おなじころ︑よくないことが続いて起った︒ある日の
昼食の際に︑私は弟や友人たちといっしよに食卓へ向っ
ていたが︑その傍でみよが︑紅い猿の面の絵団扇でぱさ
え
うちわ
ぱさと私たちをあおぎながら給仕していた︒私はその団
扇の風の量で︑みよの心をこっそり計っていたものだ︒
みよは︑私よりも弟の方を多くあおいだ︒私は絶望して︑
カツレツの皿へぱちっとフオクを置いた︒
みんなして私をいじめるのだ︑と思い込んだ︒友人た
ちだってまえから知っていたに違いない︑と無闇に人を
む
やみ
疑った︒もう︑みよを忘れてやるからいい︑と私はひと
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りできめていた︒
また二三日たって︑ある朝のこと︑私は︑前夜ふかし
た煙草がまだ五六ぽん箱にはいって残っているのを枕元
へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け︑あとで気がついて
うろたえて部屋へ引返して見たが︑部屋は綺麗に片づけ
られ箱がなかったのである︒私は観念した︒みよを呼ん
で︑煙草はどうした︑見つけられたろう︑と叱るように
して聞いた︒みよは真面目な顔をして首を振った︒そし
てすぐ︑部屋のなげしの裏へ脊のびして手をつっこんだ︒
金色の二つの蝙蝠が飛んである緑いろの小さな紙箱はそ
こうもり
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こから出た︒
私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし︑ま
えからの決意にふたたび眼ざめたのである︒しかし︑弟
のことを思うとやはり気がふさがって︑みよのわけで友
人たちと騒ぐことをも避けたし︑そのほか弟には︑なに
かにつけていやしい遠慮をした︒自分から進んでみよを
誘惑することもひかえた︒私はみよから打ち明けられる
のを待つことにした︒私はいくらでもその機会をみよに
与えることができたのだ︒私は屢々みよを部屋へ呼んで
しばしば
要らない用事を言いつけた︒そして︑みよが私の部屋へ
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はいって来るときには︑私はどこかしら油断のあるくつ
ろいだ恰好をして見せたのである︒みよの心を動かすた
めに︑私は顔にも気をくばった︒その頃になって私の顔
の吹出物もどうやら直っていたが︑それでも惰性で︑私
はなにかと顔をこしらえていた︒私はその蓋のおもてに
ふた
蔦のような長くくねった蔓草がいっぱい彫り込まれてあ
つた
つるくさ
る美しい銀のコンパクトを持っていた︒それでもって私
のきめを時折うめていたのだけれど︑それを尚すこし心
なお
をいれてしたのである︒
これからはもう︑みよの決心しだいであると思った︒
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しかし︑機会は�