17
Hokkaido University of Education Title �1) Author(s) �, Citation �. �, 64(1): 61-76 Issue Date 2013-09 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/6971 Rights

古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

Hokkaido University of Education

Title 古代中央アジアの�善国の主簿ソーンジャカについて(1)

Author(s) 山本, 光朗

Citation 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 64(1): 61-76

Issue Date 2013-09

URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/6971

Rights

Page 2: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第64巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.64,No.1

平成25年8月 August,2013

古代中央アジアの郭善国の主簿ソーンジャカについて(1)

山 本 光 朗

北海道教育大学旭川枚史学研究室

OnSorpjaka,WhowasChu-pO(主簿),OrChiefofGeneralAffairsSection,

oftheStateofShan-Shan(郭善)inAncientCentralAsia

YAMAMOTO Mitsuo

StudyofHistory,AsahikawaCampus,HokkaidoUniversityofEducation

ABSTRACT

WhenwereadofficialandprivatedocumentswritteninKharosthTscripts,Wefindlotsofdocuments

(131documents)inwhichSo吻aka,Whowascozbo=Chuj)0(主簿),OrChiefofgeneralaffairssectionof

theStateofShan-Shan(鄭善)whichsituatedinthesouth-eaStOfHsinchiangこ/なhurAutonomousRe-

g10n,appeared.MdhiriorthekingofShan-Shangavehimvariouscommandsabouttaxcollection,

judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!thidocuments.Onthe

OtherhandSomeofEicialssuchasqgu(ormosthigh-rankingofficial),COZboandsoon,SentOfficialorpri-

Vateletterstohim.SinceKing腸hiriappointedhimrajadhara皇aortheProtectoroftown,hebecamea

leadingofficialinCbdotatownofShan-ShanState.

So吻akareceivedagriculturallandasapresentfromdivira(=‘scribe’)RamざOtSa,andhismotherre-

ceivedawomanandherchildrenasapresentfrommenofKhotan(theStateinthewestofShan-Shan

State),WllOlladinvadedCa∂olatownandplunderedller.TlleSeSllOWtllatCOZboSoITljakawasavery

importantpersoninthetown.HissonNamdasenawasdiviraorscribe,andhelpedhisfatherSoITljaka

withthe businessofhisfief.

LotsofChineseofficialdocumentsonwoodhavebeendiscoveredintheareaofShan-ShanState,and

eightdocumentsofthosegaveusaccountsthatmotheroftheking,aWifeofprince,andsomevassals

sentpresentstotheking,tOaWifeofthekingandsoon.So7わaka(orSo7わak-a)couldbeidentifiedwith

Su-Ch’ieh蘇且(accordingtoKarlgren,SO斥uq)-is’㌶掩如ノ),Whosentpresentsofjades浪汗forthewife

ofkingfromCalmadana且末夫人.Thesefactsshowthatatthattimepeopleofupperstratumwere

bilingualintheStateofShan-Shan.

61

Page 3: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

はじめに

主簿のソーンジャカというのは,中華人民共和国新彊維吾爾自治区の東南地域にかつて存在したシャン

シャン国(鄭善国,あるいは楼蘭王国とも呼ばれる。東部はロブ地域,西部はニヤ遺跡群に及ぶ王国)の王,

マヒリの治世期(283-310年,または303-330年1)に活躍した人物で,「主簿」(cozbo2,本来は“庶務課長’’

のような官職3)という中国由来の官名を帯びた,ソーンジャカ(SoITljaka,またはソーンジャクSoITljak-a)

なる名の官人のことであるが,この人物は当時,シャンシャン国西部のチャド一夕の町(ニヤ遺跡群を中心

とした地域)を治める責任者を務めたと見られる4。

主簿ソーンジャカは,当地出土のカロシュティー文書の書簡において,「大いなる主簿(mahacozbo)のソー

ンジャカ」あるいは「大人(mahatva)で,主簿のソーンジャカ」などと呼びかけられたこともあり,この

場合,儀礼的な呼びかけということを考慮したとしても,こうした表現からその有力ぶりが強く窺われた人

物である。なお,「大いなる主簿(mahacozbo)」という表現については,「大主簿」と訳して文字通りそう

した官名が存在したと見るむきもあるが,この表現はむしろ,この国で行なわれた書簡作成上の儀礼的表現

の延長上にあるもので,この人物に敬意を表してそのように呼びかけたと解すべきである。その決定的な理

由は,シャンシャン王自身がこの人物に対して文書を出す際にこの官号を使った例は皆無であったことで,

「大主簿(mahacozbo)」なる官名があったと見るのは妥当ではない5。

小満は,紀元300年前後にシャンシャン国西部のチャド一夕において有力であった,この主簿ソーンジャ

カの事跡を明らかにすることで,当時のシャンシャン国社会の一面を明らかにしようとするものである。な

お以下で扱う,現地文書カロシュティー文書については,基本的にA.M.Boyer,E.J.Rapson,E.Senart,

およびP.S.Nobleらの編集によるKharoざthTlnscriptionsdiicoveredbySirAurelSteininChineseTurkes-

tan(以下Kh.1.と略記する),Parts.I-III,1920,1927,1929,0Ⅹfordに拠っていることをあらかじめ断ってお

く。

1主簿のソーンジャカに関するカロシュティー文書

主簿ソーンジャカが活躍した時期は,Kh.1.Ⅲ所載のKingsandRegnalYearsによれば,判明する限り

ではマヒリ(Mahiri)王治世の4年から22年の時期にわたっており,実年代としては286-304年,あるいは

306-324年の頃が考えられる6。これを中国の歴史に対照させると,西晋末から五胡十六国の初期の時期に当

1 マヒT)王治世の実年代に関しては他の説もあるが,代表的なものは283-310年としたJ.Broughのものと,303-330年とし

た榎一雄のものである。両説についてはそれぞれ,J.Brough,Commentsonthethird-CenturyShan-ShanandtheHistory

ofBuddhism,1965,ESOAS,ⅩⅩⅧ-3,pp.594-605,榎一雄「法顕の通過した郭善国について」1967年,『榎一雄著作集』(汲

古書院,第1巻)所収,pp.121-126,を参照。

2 チョーヅボーCOZboと「主簿」の対応を最初に指摘したのは,榎一雄である。榎一雄「中央アジアオアシス都市国家の

性格」,「岩波講座世界歴史」第6巻(1971年)所収,357頁参照。COZbo=主簿とする説の問題点などについては,市川良

文「職掌からみたカローシュティー文書中のCozboと漢語の主簿」(『西南アジア研究』54,2001年)が良くまとめられて

いる。ただcozbo=主簿説の問題点は実は,決定的に否定も肯定も出来にくいところに問題があると思う。私は榎説は現

状から見て論証はないが客観的に見て安当性は高いと考えており,小稿でもその立場から論を進める。

3 『アジア歴史事典』(1960年,平凡社),第4巻,宮崎市定「主簿」の説明参照。

4 後述,第2章参照。

5 たとえばKhJ,ⅢのIndexVerborum,p.378,SOITljaka-の,Fortheperiodofhiscareerascojhbo(=COZbo)and

mah豆COjhboなどという件から,Khlの編者らはofficialtitleと見なしていたことは明らかである。

6 注1に出したBroughおよび榎論文から算定した数字である。

62

Page 4: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

古代中央アジアの郡善国の主簿ソーンジャカについて(1)

たる。

主簿ソーンジャカの活動時期は,判明する限りでは上のようにあまり長期ではないが,実はこの人物が関

わるカロシュティー文書の数は極めて多い。シャンシャン国の領域から出土したカロシュティー文書の総数

は,現在判明する限りでは900点前後と見られ7,そのうち主簿ソーンジャカに関わるカロシュティー文書は,

下に示すように131点ある。そしてその全部は,かつてチャド一夕(Cadota)と呼ばれたニヤ遺跡群から出

土したものであるが,その数の多さから見ても,いかにこの人物がチャド一夕において重要な働きをした人

物であったかが推定される。以下に,その数が大変多いが,主としてKh.Z.Ⅰ-Ⅲ,およびBurrow,A

r和〃ざ/α如玖8などを参照しつつ主簿ソーンジャカに関わる文書の内容をまとめ,一覧化したものを表1とし

て示す。

表1 主簿ソーンジャカ関連文書一覧

文書番号 内 容 ニヤ出土遺祉

9 4人の男による人妻流産事件を裁くよう命じた王命。 N.Ⅰ遺址出土

2 10 養子の晴乳斜に関する争いを裁くよう命じた王命。 ク ク

3 13 私有の牧場に入り馬などを傷つけた者たちを裁くよう命じた王命。 ク ク

4 17 (戦争のため)隠し埋められた物品を掘り出した者を裁くよう命じた王命。 ク ク

5 18 財産分割の取り決めを破って人々を掠奪などした者を裁く王命。 ノク ノク

6 20 2人の婦人に傷害を与えた男2人を裁くよう命じた王命。 ク ク

7 27 王妃がチャド一夕に来た時,雌馬と子馬が与えられなかった案件を処置する

ク ク よう指示した王命。

8 29 No.20文書に記された事件の経緯を述べ,チャド一夕での裁判を命じた王命。 ク ク

9 30 公役を代わって行った者に賃金が支払われ,事件が解決されるよう命じた王

A ロPo

ク ク

10 31 養父が亡くなった後,養子の子どもとしての権利を主張した争いを裁くよう ク ク 命じた王命。

33 奴隷から馬などを奪った者を訴えた奴隷主の訴えを裁くよう指示した王命。 ク ク

12 36 配下の農場から財産を奪った者を訴えた事件を裁くよう命じた王命。 ノク ノク

13 王延で以前,ある女の所属すべき村を裁定したように,そのように女の所属

46 ク ク

14 50 アルギなる者の賃金の残りを払わせるよう?指示した王命。 ク ク

15 51 誓いにより?法(ダルマ)のごとく裁くよう指示した王命。 ク ク

16 52 王への献上の荷が途中奪われたので,再度ラクダを雇用するよう命じた王命。 ク ク

17 53 リイペーの女2人を打ち傷つけた男2人を裁くよう命じた王命。 ク ク

18 56 リイペーの雌牛と羊などを無断で奪った2人の者を裁くよう命じた王命。 ク ク

以前算定された今年の税と昨年の滞納分などを,(王廷に)送るよう命じた

19 57 ク ク

7 Kh.1.,I-Ⅲ,およびT.Burrow,FurtherKharo?thiDocumentsfromNiya,ESOS,ⅠⅩ-1,1937,林梅村「中国所出怯虚文

書研究綜述」(1988年,『尼雅考古資料』(鳥魯木斉)所収)pp.177-182などを参照。

8 T.Burrow,ATranslationq/themaroギthiDocumenisj>omChineseTuehesian(以下ATranslation.と略記する),Lon-

don,1940.

63

Page 5: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

20 ある女と財産を奪った者について調査し,その女が魔女(khakhorni)でな

58 ク ク

21 61 何かを(内容不明)裁くよう命じた王命。 ク ク

22 63 女を魔女として殺した者に,王廷での判定通りに,償いをさせるよう命じた ク ク 王命。

23 93 穀物の徴税の表? ク ク

24 118 何らかの代金支払い表? ク ク

自分の奴隷を殴打殺害された者の事件を裁くよう壬延で命じたが,遅延して

25 144 ク ク

26 175 (王家の?)ブドウ酒を飲んだ者の記録。 N.Ⅱ遺址出土

27 186 5年に行われた土地売買に関する証書?主簿ソーンジャカ(?)の名あり。 N.Ⅲ遺吐出土

28 212 放牧していた雌馬をスピ族に奪われた者が,その土地所有者に苦情を言った

事件を裁くよう命じた王命。 N.Ⅳ遺址出土

29 214 主簿のコーリイサとソーンジャカに宛てて,コ一夕ンヘ向かう使者への糧食

支給を命じた王命。 N.Ⅴ遺址出土

30 217 逃亡者を王廷に送るよう指示した王命。 N.Ⅴ遺吐出土

31 219 王廷に訴えられた,ラクダに関する訴訟を現地でを裁くよう命じた王命。 N.Ⅴ遺址出土

32 222 書記のラムショーツア・スグタらが主簿ソーンジャカに土地を贈り,後者が

お返しの贈物を与え,双方合意したという証書。 N.Ⅴ遺吐出土

33 227 何かを(内容不明)不足なく王廷に送るよう指示した王命。 N.Ⅴ遺址出土

34 229 何かを(内容不明)調査し,法に則り裁くよう指示した王命。 N.Ⅴ遺址州土

35 233 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容亡失)。 N.Ⅴ遺吐出土

土地(mi亨i)を奪われたことを訴えた者の案件に関する調査と裁定を指示し

36 235 N.Ⅴ遺址出土

主簿ソーンジャカ宛の書簡(3頭のラクダの保護,借用したブドウ酒の返却 37 244 N.Ⅴ遺址出土

主簿ソーンジャカ宛の書簡(家長9人を徴用すること,チャルマダナ・チヤ

38 246 N.Ⅴ遺址出土

じている)。

39 248 革製の王命文書(魔女の取り締まり,逃亡(亡命)者の移送,コ一夕ンへ使

者を行かせたことなどを記す)。 N.Ⅴ遺址出土

40 253 使者にコ一夕ンまでの警護とラクダを支給するよう命じた王命。 N.Ⅴ遺吐出土

41 259 大いなる主簿ソーンジャカ宛の,タスチャのイリと主簿ピテー(ヤ)の書簡

N.Ⅴ遺址出土 (安否を問う)。

愛する兄弟である主簿ソーンジャカとモーゲ一夕宛の書簡(贈物を送ったこ

42 261 N.Ⅴ遺址出土

43 262 ラクダを殺された者の案件に関して裁定を早くせよとの再度の王命。 N.Ⅴ遺址出土

44 263 何かを(内容不明)送れとの王命。 N.Ⅴ遺址出土

45 267 ラクダを送れ(?)との王命。 N.Ⅴ遺址出土

46 270 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.Ⅴ遺吐出土

47 271 愛する兄弟である主簿ソーンジャカ宛のリイペーヤの書簡(チャド一夕の自

己の属民の世話の依頼など)。 N.Ⅴ遺址出土

48 272 チャド一夕の町にスピ族が侵入した後の,町の体制整備などに関する王命(主

簿ソーンジャカへ不服従の者を罰することなどを記す)。 N.Ⅴ遺址出土

64

Page 6: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

古代中央アジアの郡善国の主簿ソーンジャカについて(1)

49 273 何かの(内容不明)裁定を指示した王命。 N.Ⅴ遺吐出土

50 275 20年以前から査定されたアジヤマ村の年税を送ってこない主簿ソーンジャカ

に,計算書と共に,現物を不足なく送ってくるよう命じた王命。 N.Ⅴ遺排出十

51 276 全く内容不明の王命。 N.Ⅴ遺址出土

52 277 ラクダと所有者らしき人物名の一覧(ソーンジャカの名が載る)。 N.Ⅴ遺址出土

53 279 ヤウェー村とアジヤマ村とで女昏姻をかわした場合,互いに妻として出す女の

数の帳尻が合うようにすることを指示した?王命。 N.Ⅴ遺吐出土

54 280 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容亡失)。 N.Ⅴ遺址出土

55 281 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容亡失)。 N.Ⅴ遺吐出土

56 285 主簿ソーンジャカ宛の書簡(王国の税ハルガに関すること)。 N.Ⅴ遺吐出土

57 286 農場を壊した?者を訴えた案件の裁定を指示した王命。 N.Ⅴ遺址出土

58 288 生きた菩薩で大いなる主簿のソーンジャカ宛の,主簿イリとナミルガーの書

簡(沙弥チャクヴァラを健康を問うため送ったこと,贈物を贈ったことなど)。 N.Ⅴ遺吐出土

革製の王命文書(ケーマ・コ一夕ンからの情報を知らせること,王国人

59 289 N.Ⅴ遺址出土

60 292 革製の王命文書(亡命者へ土地と種などを与えること,穀物を徴収すること N.Ⅴ遺址出土

61 293 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容亡失)。 N.Ⅴ遺吐出土

コ一夕ンからの亡命者があればしかるべき村の者に引き渡すよう指示した王

62 296 N.Ⅴ遺址出土

63 297 イルンディナ村で属人(kilmeci)が出したha!如?を王廷に送るよう指示

N.Ⅴ遺址出土 した王命。

64 305 カラのクナラが主簿ソーンジャカヘ宛てた書簡(チャド一夕・チャルマダナ

からの穀物などの荷積みに関すること)。 N.Ⅴ遺址出土

65 307 カラのクプシュタが,生ける神である主簿ソーンジャカヘ宛てた書簡(徴税

N.Ⅴ遺吐出土 のことなどを記す)。

66 309 冬にチャルマダナに穀物を運ぶよう指示した王命。 N.Ⅴ遺址出土

67 310 罪人を捕まえるようにとの王命,また橋を押さえ他国に逃げさせぬようせよ

との王命。 N.Ⅴ遺址出土

68 311 主簿ソーンジャカ宛の書簡(王廷に何かを(内容不明)送るよう記している,

差出人は王ではない)。 N.Ⅴ遺吐出土

配下の男を雇用された者が訴えて来たので雇った者に報酬を出させるよう指 69 312

示した王命。 N.Ⅴ遺吐出土

70 314 チュワライナのマルツタが主簿ソーンジャカ宛に出した書簡(ラクダの放

N.Ⅴ遺址出土 牧?に関わる事件について記す)。

71 317 革製の書簡(主簿ビマセーナの主簿ソーンジャカ宛,年税などについて記す)。 N.Ⅴ遺排出十

72 329 チャルマダナヘ,ブドウ酒を送るよう指示した王命。 N.Ⅴ遺吐出土

73 336 書記ラムショーツアからの土地の贈物に関する証書の表書き。 N.Ⅴ遺址出土

主簿ソーンジャカあて書簡(属民の不正を法に則り裁くべきこと,属民の女

74 338 N.Ⅴ遺址出土

スチャンマが得る筈であったラクダの賠償に関する事件を解決するよう指示

75 339 N.Ⅴ遺址出土

革製の王命文書(放牧しているラクダを王廷に送ること,ピサリの情報を送っ

76 341 N.Ⅴ遺址出土

65

Page 7: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

77 349 革製の王命文書(王家のラクダ群の管理に関する指示を記す)。 N.Ⅴ遺吐出土

78 351 革製の王命文書(国事に勉励すべきことなどを記す,後は断簡)。 N.Ⅴ遺址出土

79 352 何らかの裁定(内容不明)を指示した王命の末尾部分。 N.Ⅴ遺址出土

80 355 王自身が亡命者をコーリのスジャダに与えたので,文句をつけぬようにと命

じた王命。 N.Ⅴ遺址出土

81 356 ブダセーナが訴えている死んだラクダの原因調香と裁定と指示した王命。 N.Ⅴ遺排出十

82 357 革製の王命文書(スピによる?掠奪被害の後,その処置と税物を王廷へ送る

よう指示,7月2日の日付あり)。 N.Ⅴ遺址出土

83 358 革製の王命文書(スピによる?掠奪被害の後,罪人と亡命者の処置などに関

N.Ⅴ遺址出土 する指示,6月13日の日付あり)。

スチャンマ?が訴えているラクダの賠償の件(No.339文書)の調査の指示, 84 359

ラクダを死なせたと訴えられた案件の裁定を指示した王命。 N.Ⅴ遺址出土

トウグジャのチモーラ,カラのクナラ,主簿のコーリイサとソーンジャカに

85 360 N.Ⅴ遺址出土

86 364 チャマカの奴隷を12年間働かせた者に対する裁定を指示した王命。 N.Ⅴ遺吐出土

87 366 ナヴァガ村の者の属人ではないクンゲー(ヤ)がそこの土地を奪って耕作し

た案件を裁定するよう命じた王命。 N.Ⅴ遺址出土

88 367 主簿のソーンジャカとタンジャカ宛の王命(王国の職務に従事しているプ

シューに対して馬と警護をつけるよう指示した王命)。 N.Ⅴ遺址出土

革製の王命文書(スピの侵入の後?,彼らの町(raja,サチャの町?)で耕

89 368 N.Ⅴ遺址出土

28日の日付あり)。

オーグのアリアヤが兄弟である主簿ソーンジャカに送った書簡(クロライナ

90 370 N.Ⅴ遺吐出土

た内容)。

91 371 主簿ソーンジャカの命令に従わない者は罰することを宣言した王命(主簿

ソーンジャカヘ宛てた王命)。 N.Ⅴ遺址出土

92 373 主簿ソーンジャカ宛の書簡(収税のことなどを記す)。 N.Ⅴ遺址出土

93 374 主簿ソーンジャカ宛の王命(マシナの年税を王廷に送るよう指示した王命)。 N.Ⅴ遺吐出土

94 381 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.Ⅴ遺址出土

95 385 革製の書簡(息子の書記ナンダセーナが,父で大主簿のソーンジャカに宛て

N.Ⅴ遺吐出⊥ た書簡)。

96 388 主簿ソーンジャカ宛の王命(コ一夕ンヘの使者?の件を記す)。 N.Ⅴ遺址出土

97 389 主簿ソーンジャカ宛の王命(アジヤマ村の案件,内容不明)。 N.Ⅴ遺址州土

98 391 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.Ⅴ遺吐出土

99 392 主簿コーリイサから主簿ソーンジャカ宛の書簡(王廷からラクダ20頭が来た

こと,プデーナがパルヴァタに行ったことなどの報知?)。 N.Ⅴ遺址出土

100 393 オーグのヴイハラヴアラの属人がトラサ村で20ムリの借金をした案件を調

査・裁定するよう指示した王命。 N.Ⅴ遺址出土

101 394 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.Ⅴ遺吐出土

102 396 チマカらが言ってきた主簿ソーンジャカの命令に服従しない王国人を,ただ

ちに服従させるよう指示した士命。 N.Ⅴ遺吐出土

103 408 主簿ソーンジャカ宛の王命(裁定を指示した王命(内容不明))。 N.Ⅶ遺址出土

104 412 ヤプグの訴えた羊に関する案件(内容不明)の処置を指示した王命。 N.Ⅶ遺址出土

66

Page 8: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

古代中央アジアの郡善国の主簿ソーンジャカについて(1)

主簿ソーンジャカの母が,コ一夕ン人の侵入の際に拉致されたツイナーなる

105 415 女をコ一夕ン人から贈物として受け取ったこと,そのツイナーなる女が息子

で沙弥である者をカチャナなる男に養子として与えたことなどを記した証書 N.X遺址出土

(契約および証書作成は主簿ソーンジャカの前で行われた)。

106 434 主簿ソーンジャカによる,養女の晴乳斜に関する裁判の裁定書? N.XIⅡ遺吐出土

107 440 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.XIⅡ遺祉山土

108 507 主簿ソーンジャカらによる裁判の裁定書(内容不明)。 N.XXIV遺吐出土

109 568 主簿ソーンジャカが押印して成立した,スグタとカブゲーとの仲裁に関する

証書(後者が前者に羊10頭を与えること),マヒリ王11年2月9日の日付あり。 N.XXIV遺吐出土

女ツイナーが沙弥の息子を養子としてクニタに与え,晴乳料としてラクダを

110 569 N.XXIV遺址出土 受取り,養子授受に関するトラブルが解決したことを証した証書(No.415

と関連),主簿ソーンジャカの押印あり。

主簿ソーンジャカの前で,アジヤマ村から嫁いで来た母の代わりに,自分の

111 573 N.XXIV遺吐出土 娘をその村のオーガチャに嫁がせ,その代金として馬・ラクダを受け取った

ことを証した証書(マヒリ王7年11月20日の日付)。

表面にマヒリ王11年2月2日の日付がある,スグタとプリヤヴァガとの死ん

112 578 N.XXIV遺吐出土 だラクダに関する争いの裁定文(主簿ソーンジャカも裁定に加わった)が書

かれ,裏面にはスピ侵入への防備を命じた王命が善かれている文書。

ワスのヴギチャが力ずくでラムショーツアの耕地を奪った事件について,以

前の証書(アンゴーカ王20年4月22日付け)をもとに,オーグのジューヤバ

113 582 N.XXIV遺址出土

書,マヒリ王4年2月28日の日付)。

書記ラムショーツアに羊4頭を贈った3人の者が,その後ラムショーツアか

114 584 N.XXIV遺址出土 ら羊20頭を奪ったという事件の裁定文書9(マヒリ王4年2月28日付,グシュ ラのジューバトラ,主簿ソーンジャカらの押印)。

115 585 大いなる主簿ソーンジャカ宛の書簡(奴隷が妻を迎えるため出した女昏資 N.XXIV遺吐出土

(lote)に関して,その所有者の異議が述べられている)。

主簿ソーンジャカ宛の王命(サギモーウイが他人の妻とクチに長年逃亡し,

116 621 N.XXIX遺址出土 王の許可でチャド一夕に戻った時,婚資(lote)を請求された事件に関して,

それを止めさせるよう指示した王命)。

主簿ソーンジャカ宛の王命(クチに逃亡した者から借金を取り立てることを

117 629 N.XXIX遺址出土

主簿ソーンジャカ宛の王命(15人の男を用務?のため,カーラのプンニヤバ 118 630

ラに渡すようにとの王命)。 N.XXIX遺吐出土

主簿ソーンジャカ宛の王命(クチに逃げていたザギモーウイと掠奪妻をチヤ

119 632 N.XXIX遺址出土 ド一夕のヤウェー村に所属させ,以前彼らのものであった家に住まわせるこ

とを指示した王命,Nos.621,629文書と関連)。

主簿ソーンジャカの時の支出明細書(王妃のコ一夕ン行に際して,カーラの

120 637 N.XXTX遺址出土 キルテーヤがパルヴァタまで往復した時,ブドウ酒・食程等を支出したこと

など,マヒリ王11年6月1日の日付あり)10。

121 711 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.Ⅲ遺址出土

122 725 主簿ソーンジャカ宛の王命(徴税の命令を実行させるよう命じた王命)。 N.Ⅲ遺址出土

9 No.584文書については,拙稿「古代中央アジアの書記ラムショーツアー族の農場経営について一書記一族の生活から見

た都善国の社会-」2012年,(『西南アジア研究』77号),p.9の表も参照。

10 No.637文書については,拙稿「パルヴァタ考」(1988年,『東洋史研究』,46-4)pp.28-36を参照。

67

Page 9: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

主簿スマテイの案件(内容不明)について,オーグのジューヤバトラらと裁

123 732 N.XLV遺址出土

124 733 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.XLV遺吐出土

125 735 主簿ソーンジャカ宛の王命(コ一夕ンからの逃亡者を誰に渡すか,その指示

N.XLV遺址出土 をした王命)。

126 736 主簿ソーンジャカ宛の王命(何らかの裁定を指示したもの)。 N.XLV遺址出土

127 738 主簿ソーンジャカ宛の王命(内容不明)。 N.XLV遺址出土

128 743 主簿ソーンジャカ宛の王命(規定に従ってラクダなどの動物が支給されるベ

きとの王命)。 N.XLV遺吐出土

主簿ソーンジャカ宛の王命(クウンタが訴えた主簿リイペーヤとの争いに対 129 750

する裁定の指示?)。 N.XLV遺吐出土

130 751 主簿ソーンジャカ宛の王命(クウンタの訴えに対する裁定の指示)。 N.XLV遺吐出土

主簿ソーンジャカ宛の王命(オブゲーヤと養子に山したウパセーナとが報知

131 764 N.Ⅰ遺吐出土 してきた,養子先でウパセーナの指示を聞かない着たちへの禁止の徹底を指

示した王命)。

以上を見ると,主簿ソーンジャカがシャンシャン王マヒリの命を受けて,微視から各種の裁判,さらに使

者・ラクダの差配,水の管理,さらにはスピ族に荒らされたチャド一夕の町の再建整備まで,多種多様な業

務を果たしていたことが分かる。そしてさらには,他のオーグ(ogu,シャンシャン国で最も高位と見られ

る官11)と呼ばれた高官,および同じ主簿の地位にある者たちから,多様な公私の用向きを報告・依頼され

ていたことなども分かる。

なお,微視の指示が善かれた王命文書である,上に出したNo.725文書を少し詳細に見ると,

ヴァスのオープゲー(ヤ)にきちんと言葉が与えられるべきである。この税はアギタ(官職名)のクウンタとサルビガ

の手でここに送られるべきである。…読んでヴァスのオープゲー (ヤ)に与えられるべきである。(vasuop畠eya§apidita

matradadavo.edapalすia畠itakuuIptaSarpi畠a!aCahastamii畠avi§ajidavo.…VaJitivasuop畠eya§adadavo.)

とあるので,本来,徴税の命令はヴァスのオープゲー(ヤ)を主たる対象として与えられる筈のものであっ

た可能性がある。そして,そのことを連絡または総括していたのが主簿ソーンジャカであったと考えるべき

で,このことは上掲の王命のすべてが,必ずしも直接,主待ソーンジャカを対象とするものではなかったこ

とを暗示するものである。

ただ,いずれにしても上掲した多様な王命文書,そして書簡が主簿ソーンジャカ宛に送られ,それが残っ

ていたことは,この人物が当時,シャンシャン国西部ののチャド一夕の町において,一時期,極めて重要な

職責にあった人物であったことを如実に示すものである。

2 主簿ソーンジャカの社会的ステータス

中国史科の『後漢書』西域伝・子安国条を見ると,後漠の元嘉2年(152年)に西域長史の王敬が,シヤ

11オーグogu一についてはT.Burrow,TheLanguageqftheKharoIthiDocumentsj>omChineseTurkestan,Cambridge,

1937(以下では属五β.と略記する),pp.80-81を参照。

68

Page 10: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

古代中央アジアの郡善国の主簿ソーンジャカについて(1)

ンシャン国西隣の拘弥国(ニヤ遺跡群の西方460里に位置したケーマKhema国)の王,成国と謀って,西

隣の子安国に行って宴席で子安王の建を殺害した事件が記されているが,その中に,まわりの吏士が子安王

建の殺害を躊躇した時のこととして次のような件が記されている。

時に,(拘弥王)成国の主簿の秦牧は,(王)敬にしたがいて会に在り,刀を持ち出でて日く,「大事己に定まれり,何

すれぞまた疑うや」,と。即ちすすみて(子安王)建を斬る。(時(拘弥王)成国主簿秦牧,随(王)散在会,持刀出目,「大

事己定,何為復疑」。即前斬(子安王)建。)

この記事で,2C中頃のシャンシャン国西隣のケーマ(拘弥)国の王名が中国的な「成国」であったこと

は若干違和感を持たれるかも知れないが,先に触れたシャンシャン国の王マヒリの前の王名はアンゴーカま

たはアンゴーク(AIpgOk-a)で中国的な「安国」を名乗っていたらしいことを考慮に入れれば違和感は少

なくなる。要は,当時の中央アジア東部はそういう地域であったのである。

いずれにしても上の記事によれば,2C中頃,ニヤ遺跡群西方の460里に位置したケーマ(拘弥)国で,

王の直近の臣下に,いかにも中国的な官職名と名前の,「主簿」の「秦牧(カロシュティー文書風では

Cina-を頭に持つ名前になろう)」なる者がいて,この謀殺事件においてきわめて重要な働きをしたことが

分かる。そして同時に,この時代に,これらの地域で,中国的要素とのつながり,すなわちバイリンガルな

文化がこの地域に存在したことが窺えるのであるが12,このような,ケーマ(Khema)国での「主簿」の「秦

牧」の存在は,まさに紀元300年前後のシャンシャン国の「主簿」のソーンジャカの存在について考える際

にきわめて参考になる。この地域でこの時代に,中国起源の官「主簿」はもともとそれほど低い官位ではな

かったものと見られる。

さて,「はじめに」以下で幾度も述べて来たように,シャンシャン国のマヒリ王の治世期(283-310年また

は303-330年)において,その西部の町チャド一夕において主簿のソーンジャカはきわめて有力な人物であっ

た。以下でこの点についてもう少しくわしく触れておく。

シャンシャン王の王名文書である,カロシュティー文書No.272に,次のような文言がある13。

また,昨年以来,貴方らはそこにおいて,非常にスピ人達に対して警戒すべきであった,このため貴方と王国人らは,

都市の中に居た。いまスピ人達は管すべて行ってしまった。以前,彼等が居たところに,かの地に彼等は居た(居る)。

貴方らの王国は解放された。またコ一夕ンナから平穏がある。今,戻った者達のことが善かれるべきである。都市こそ守

られるべきである。残った王国人らは,解き放たれるべきである。都市の中で,再び思い悩むべきではない。…またさら

に,そこで主簿のソーンジャカを,公務に従う貴人たちが,非常に拒んでいて,良くない,と聞く。私は,この者一人に

王国を任せたのである。あらゆる者が国事を行うべきというのではない。今後,二度と拒むべきではない。主簿のソーン

ジャカを拒む者,かの者達はここ王宮に送るべきである。ここにおいて罰せられるであろう。11月17日において.(avi

paruvar?auVadaesupiyanaparidesuthaatratumahuupa畠aITlgidavyahuadi,ityarthatusyarajiyejaITlnanagaraITlmi

asidetha.ahunosupiye[sa]rvigataITlti.atrapurvaasidaehuaITlti,tatraaSitaITlti.tumahurajaITlminiryo如huda.avi

khotaITlnadeyo畠akhksema.…avica畠ruyadiyathaatracozbosoITljakenaatho寸aeajhatejaITlnaSuthaabomata

karemditahanalaITICa畠akaremdi.ekisyaeta§arajapicavidemi.na§arVajaITlnaSyarajakaryanikartavo.idovadaena

12 この点については,拙稿「カロシュティー文書に見える漢人について」『西南アジア研究』48,1998年を参照。

13 この文書については,拙稿「カロシュティー文書No.272について一都善国とスピ族-」(『北海道教育大学紀要(人文科

学・社会科学編)』55-1,2004年)も参照されたい。

69

Page 11: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

bhuyaabomatakartavya.yomaITlnu畠acozbosoITljakenaabomatakari畠ati,SemaITlnu畠ai畠arayadvaraITlmivisajidavo.

i畠eminigrahalabhi?yati.ma§elOldiva§elO[4]3)

11月17日の日付が入ったこの革製の王命文書には,シャンシャン国の南方に居たスピ族の侵入のことが善

かれているが,スピ族の侵入に関してはNo.578文書にもそれに対する警告を記した,書き手不明の命令が

下板の外側に載っていて14,下板の内側にはマイリ(=マヒリ)王11年2月2日の日付が記されている15。

外側の記述,すなわち不明な人物の命令は,時期的に再利用された表面の裁定文からさほど遠くない頃のこ

とと考えられ,No.272文書に記された,上のスピ族の侵入事件は,マヒリ王11年(293年または313年16)

の11月頃のことではなかったかと思われるが,確証はない。なお先に触れたことではあるが,カロシュティー

文書全体の中で主簿のソーンジャカが現れるのは,少なくともマヒリ王の治世4年から22年にかけての期間

のことなので,No.272王命文書の差出人であるシャンシャン王は,マヒリ王であることはまず間違いない。

また,文書中には,スピ族侵入後の状況について,

そこで主簿のソーンジャカを,公務に従う貴人達が,非常に拒んでいて,良くない,と聞く。私は,この者一人に王国

を任せたのである。あらゆる者が国事を行うべきというのではない。今後,二度と拒むべきではない。主簿のソーンジャ

カを拒む者,かの者達はここ王宮に送るべきである。ここにおいて罰せられるであろう。

とあるが,こうした状況から,シャンシャン国のチャド一夕の町(文書の発見地でもあるニヤ遺跡群そのも

の)の不安定な社会状況に対して,シャンシャン王がその終息方を主簿のソーンジャカに任せたことが記さ

れている。すなわち主簿ソーンジャカは,文書に記されているように,当時,スピ族の侵入後の不安定な状

況において「公務に従う貴人たち(atho寸aeajhatejaITlna17)」の中に反抗する者がいたにせよ,シャンシャ

ン国チャド一夕の町においてその再建を任された中心人物であったことが分かる。

また,同じくニヤ遺跡群で発見されたNo.309文書を見ると,次のような記述がある。

汝が以前,そこで国守(rajadhara)になる時,その時,そこから,koyimaIT14hina?の穀物150ミT)マがここにもたら

すはずであった。汝が国守になった時,その後,この穀物はもたらされていない。(yotahipurvaatrarajadhara

huaITlti,taITlkalaadehikoyimaITlqhinaaITlnamilimalSa202010i畠aani?yati(?).yaITlkalatuorajadharahudesi,tade

uvadeedaaITlnanaanidae.)

これを見ると,おそらく最初は主待としてそれほど有力な存在ではなかったと推定されるが,主待ソーン

ジャカがチャド一夕において有力となったのは,「国守(rajadhara)」の地位に就いたからと見られる。カ

ロシュティー文書に出るraja-dharaは,対応するSkt.rajya-dharakaの語義としては“王国を支えるもの’’

であるが,ニヤ遺跡群=チャド一夕の町のことをカロシュティー文書ではraja(Skt.rajya)“王国’’と読ん

でいることから,実質はチャド一夕の町を守る‘国守’のような存在であったと考えることが出来る。なお,

14 Khl,II,pp.214-215に載るNo.578文書のUnder-tablet,Rev.を参照

15 Khl,II,pp.214-215に載るNo.578文書のUnder-tablet,Obv.の(1)行目参照。

16 注1の,Broughおよび榎論文から算定した年代である。

17 atho寸aeajhatejaITlnaのうちのatho寸aeの語義については前掲,拙稿「カロシュティー文書No.272について一都善国と

スピ族-」,p.33,注21を参照。atho寸aeajhatejaITlnの存在意義などについては,同論文のpp.28-29を参照。

70

Page 12: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

古代中央アジアの郡善国の主簿ソーンジャカについて(1)

Burrowはこの語を‘(whowas)inchargeoftheprovince’と訳し,榎一雄は漢文出土文書に記された「主国」

の訳を与えたことがある18。

また上の記事で,おそらく税物としての,「koyimaITldhina?の穀物150ミリマ」ということが善かれてい

て,ここの「koyimaITldhina?の」という語の語義は不明ではあるが,この用語は先のNo.272文書におい

ても徴収されるべき碗物として記されていて19,両文書はマヒリ王の11年頃の同時期のものではないかと思

われる。なお,ここで注意すべきは,「汝が以前,そこで国守(rajadhara)になる時,その時,そこから,

koyimaITl¢hina?の穀物150ミリマがここにもたらすはずであった」が,その後,王廷にもたらされていな

いと,税物徴収とその王廷への輸送が滞っていることをシャンシャン王が叱責していることで,主簿ソーン

ジャカの国守としての職務は十分成果をあげていなかったと思われることである。その原因はNo.272文書

に記されていたように,「公務に従う貴人たち(atho寸aeajhatejaITlna)」の抵抗があって職務が完遂されな

かった可能性が高い。

ところで,こうした一定の制約はあったにせよ,チャド一夕において国守(rajadhara)となった主簿ソー

ンジャカは当地において,富裕な階層に属し,有力な存在であったことは間違いない。そのことを証する資

料としては以下のようなものがある。

まず,マヒリ王7年3月5日の日付があるカロシュティー文書No.415文書に,次のような記述がある。

コ一夕ン人らがチャド一夕の町を掠奪した時,その時,かの女ツイナーを若い3人のコ一夕ン人が連れ去った。彼らは

来た。キンツアイツアのルトウの農場で,主簿ソーンジャカの母に,贈物としてかの女ツイナーを与えた。コークン人ら

は,息子・娘らと一緒に(かの女ツイナーを)与えた。(yaITlkalakhotaniyecadotaraja[parasitaITlti],taITlkalaITlmita

striyatsinaekhotaniyetremanave20a如jhidaITlti.ayida(ITl?)ti.kiITltSayitsaluthua§agOthaITlmicozbosoITljaka§a

matuaela亨ititaI71titastritsinae.sadhaputradhitarehititaI71tikhotaniye.)

この記述によると,マヒリ王7年3月5日よりかなり前に,コ一夕ン人によるチャド一夕襲撃事件があっ

て,3人の若いコ一夕ン人がこの地の女ツイナーを連れ去ったことがあり,その後,おそらくマヒリ王7年

3月5日の少し前に,コ一夕ン人がかの女ツイナーを息子と娘と共に,「贈物(1a亭i)」として主簿ソーンジャ

カの母に与えることがあったというのである。この文書自体は,その後,女ツイナーが息子で沙弥の者を,

カチャナなる男に養子として与えることがあり,そのことを証明する意図を持った証書であるが,本文書の

最後に主簿ソーンジャカの面前で養子引き渡しのいわば対価として「哺乳科(kut丘ekhk$ira)」を受け取っ

て契約が成立した旨が記されている。/ト稿との関わりで言えば,この文書で重要な点は,チャド一夕の女ツイ

ナーを掠奪したコ一夕ン人らがその後,彼女を主簿ソーンジャカの母に「贈物」として贈ったという件である。

そもそも,「贈物(1a亭i)」を与える,または差し出すという行為は,この国・地方では,相手に対して(表

面上だけのことであっても)敬意を示す行為なのであって,いろんな意味で下位の者が上位の者にある意図

を持って,物を差し出す行為であったと見られる21。とするならば,上で記されていたような,コ一夕ン人

18』L7h別朋滋ガ正偶.,p.56,No.309文書の訳。また,榎一雄「部善の都城の位置とその移動について(2)」,『オリエント』(8-2,1965

年)pp.51-54参照。またこの語については,拙稿「カロシュティー文書No.582について」(『北海道教育大学紀要(人文科

学・社会科学編)』50-1,1999年),pp.34-35参照。

19 前掲,拙稿「カロシュティー文書No.272について一部善国とスピ族-」,p.25の第6-7行を参照。

20 A7771nSlation.p.84,No.415,Notesにより,manareの語をmanaveに改め解釈する。

211a亭i-の語義については,m.D.,p.115,1a$i-を参照。また「贈物(1a亭i)」の意図については,後述のNo・222文章の分析を

参照されたい。

71

Page 13: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

がかつて掠奪した女ツイナーらを,主簿ソーンジャカの母に「贈物」として与えたということは,ソーンジャ

カの母,ひいてはソーンジャカ自身が,外部者であったコ一夕ン人にとっても一定の敬意を払われ,社会的

には上位にあったことを示したものと理解することが出来る。主簿ソーンジャカはチャド一夕の町にあって,

隣国のコ一夕ン人からも敬意を払われた「国守(rajadhara)」であったと考えられる。なお,シャンシャン

国の西隣の強国コ一夕ン,あるいはコ一夕ン人の侵入については,カロシュティー文書Nos.376,494など

に記述があり,No.494文書などには,マヒリの次の王であるヴァシュマナ(あるいはヴァシュマン)の治

世期と見られる「8年5月16日」という日付が善かれているが,それらの詳細については不明な点が多い。

ついで,マヒリ王22年1月25日の日付がある土地贈与文書である,カロシュティー文書No.222文書を見

ると,以下のような記述がある22。

書記のラムショーツア,スグタ,スナンタ,クニタ,チャシュゲーヤとが,立ち上がって,主簿のソーンジャカに,ア

デイニ(綿の種?),2キの播種量の末耕地1,その他その外側の土地,総計,アデイニ(綿の種?),5キの種(「種」

は「播種量の土地」とするところを誤ったものと見られる)を,贈物として与えた.(tiviraram?0ITltSaSu亘utasunaITlta

kuaitaca?貪eya§aCauthitaITlti,COZbosomjakasaakribhumalbhiJapayatiadinikhi2pramanaaITl自abahiyadebhuma,

§arVapiIT14abhiJaa6inikhi41pramanala$atitaITlti.)

この文書は,マヒリ王の22年1月25日に,書記のラムショーツアと,その一族のスグタ,スナンタらが,

主簿のソーンジャカに,播種量5キ(khi,容量としては1キはほぼ2.3ゼー2.5ゼほどになる23)の土地を贈っ

たことを記した証書であるが,これを見ると,書記のラムショーツアー族が主簿ソーンジャカに土地を,や

はり「贈物(1a亭a)」として与えたことが分かる。そしてこの「贈物」に対して,主簿ソーンジャカは,

主簿ソーンジャカは立ち上がって,書記のラムショーツアとスグタとに,土地の報酬として贈物(1a亭a)を与えた,10

ムリ(価)の長さの耗髄(koねva24)を。彼らは共に合意した。今後,かの土地において,主簿のソーンジャカが所有者

となった。種蒔くこと,耕すこと,担保として与えること25,かくて,すべての使用,いかなる意図もなされよう。

(cozbosoIPjakauthitativiraram?OIptSaSu亘uta§aCabhuma§apratikarala$atita.koJavalda畠amulipramana.sama

samasarajitaITlti.ujukhk苧uuVadaetebhumaITlmicozboso(ITl)jaka革ae畠varihuda.vavaITlnaekri苧ivaITlnaenamanaga

deyaITlnae§arVapO如kikamakaraITmisiyati.)

と,その報酬として「10ムリ(価)の長さの耗髄(毛織りの敷物,koJava)」を,「贈物」として与えるた

わけで,これによってその土地が主簿ソーンジャカのものになったことを証したのがこの文書だったのであ

る。

私が以前検討したように26,書記ラムショーツアの一族は,マヒリの前王のアンゴーカ(あるいはアンゴー

22 No.222文書については,拙稿「古代中央アジアの書記ラムショーツアー族の農場経営について一書記一族の生活から見

た郭善凶の社会-」,pp.6,11を参照されたい。

23 拙稿「パルヴアタ考」,pp.34-35を参照。Thomas説では1キ=約2.5Pで,H.W.Bailey説では1キ=約2.3Pとなる。

24 耗就(knjava)については,拙稿「カロシュティー文書Nn.714について」(『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科

学編)』,52-2,2002年),32頁を参照。また馬薙「新藍住慮文書中之Ko畠ava即耗黙考一兼論“渠捜”古地名」1984年,『西

域史地文物叢考』(1990年,文物出版社)所収も参照。

25 namana如の語義については,とりあえずm.D.,p.100,namaITmiya-を参照。

26 拙稿「古代中央アジアの書記ラムショーツアー族の農場経営について一書記一族の生活から見た都善国の社会-」,p.9

の表1「ラムショーツアー族関連の証書類(1)」,およびpp.11-15。

72

Page 14: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

古代中央アジアの郡善国の主簿ソーンジャカについて(1)

ク)王の治世期に活躍したラムショーツアの時代において,様々な人から土地を購入・集積し続けたのであ

るが,ここに記されているような,土地を「贈物」として与える,あるいは売却するということは殆どして

いない。ところがアンゴー カ(あるいはアンゴーク)王の次の王マヒリの治世期には,主簿ソーンジャカと

いう有力者が出てきたので,書記ラムショーツアー族は,有力者の主簿ソーンジャカに対して「贈物(1a亭a,

1a亭i)」をし,また後者は対価として前者に別の「贈物」を返したというのが,この証書に善かれた行為の実

情ではなかったかと思われる。つまり明らかに,有力者への贈物,ある意味で‘寄進’といった要素が強かっ

たのではないかと考えられる。

これらは正に,主簿ソーンジャカが有力者であったゆえの,母親および本人への「贈物」の贈与であった

が,主簿ソーンジャカの一族にはどのような人物がいたのだろうか。先に,カロシュティー文書で母親の存

在が窺えたが,その他に確たるものとしては,息子の存在がある。

カロシュティー文書のNo.385を見ると27,「愛する父で大いなる主簿ソーンジャカへ(priyapitumaha-

cozbosoITljaka§a)」と宛名を記した,次のような書簡が息子から出されていたことが分かる。

主で,見目麗しき人,生ける神で,愛する父,偉大なる人,主簿のソーンジャカの足下に,書記のナンダセーナが敬礼

(し),健康をおくります,計り知れないほど無限に多く.貴方が健康で,私は喜んでいます。私も,あなたの恩恵によ

り健康です。このように知らせます,全てはあなたのご明察どおりです,貴方がここに,私に仕事を送れば,そのように,

私はおこたりなく受けます。文書配送人により(?),滞りなく,送ります。また,私はそこの人から,沙門サンガラタ

から敷物(arnavaJi)28を,スヤンマからフェルトを,チャルのジモーヤからフェルト1枚を,マラヴァラのクウイニュー

(ヤ)からフェルト1枚を得るべきです。彼らに,はっきり命令があるべきです。彼らは急いで,これ(ら)をここに送

るべきです。(bhatara畠a§apriya[dar皇ana§apratyakhk?a]devata§apriyapitumahaITltaCOZbosoITljaka§apadamulaITlmi

diviranaI71daきenanamakero,arOgipre?eti,bahuaprameyo[a]dhimatra・亨Omi[?atOSmi]29yotuoaro畠eきi・ahaI71Ca

aro畠emitahiprasadena.evaITICaViBatisaca,SarVatahidivya自anaITlmi,yOtuOi畠amahikaryachori?yaSi,tahaahu

uparyaITlmrdhenapa4ichami.1ehare[a畠e!e]vi§ajema.avicamahiadehijaITlna§aparidegiITmidavya畠ramaITlna

saITlgaratha[§a]paridearnavaJi,SuyaITlma§aparidenamata,Carujimoya革aparidenamatal,maraVaraku寸iBeya革a

paridenamatal.te?api6itaanatisiyati.cavala[e]dai畠apre?eyaIPti.)

これによると,主簿ソーンジャカの息子は書記(divira)のナンダセーナ(NaITlda§ena)であって,書記

のナンダーセーナは,父の主簿ソーンジャカの指示により,ある村またはその所領地(kilme,あるいは

‘所属地,30)の経営を見るため派遣されたものと推定され,後者はそこの状況について前者の予測通りで

あることを述べ,さらに主簿ソーンジャカに,配下の沙門サンガラなどから敷物などを送る手配を命令する

よう依頼したのである。「書記」のナンダセーナがなぜこのような事を行っているのかは予想の域を出ないが,

父である主簿ソーンジャカの代理として,その所領地(kilme)の状況を見るために出かけたものではない

かと考えられる。

この文書については,小満ではこれ以上検討することは控えるが,この文書で注意すべきは有力な主簿ソー

27 v.互滋.上,Ⅰ,p.138,No.385.

28 以下のarnavaJi-,namata-などとそれが「税物」として徴収されたらしいことについては,拙稿「カロシュティー文書

No.714について」,pp.32-34を参照されたい。

29 v.m.L,Ⅲ,IndexVerborum,p.374,SOmi-.

30 キルメーkilme‘領地,所属地’に関する諸問題については,拙稿「都善国におけるキルメーチとダジャーカロシュティー

文書No.331とNo.39の内容から-」(『内陸アジア史研究』15,2000年)を参照。

73

Page 15: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

ンジャカの息子が,書記(divira)であってSkt.風のナンダセーナ(NaIPda$ena<Nandasena)という名

を持っていたということである。すなわち,かつて私が検討したように,当時のシャンシャン国において「書

記」の職務はマハトヴア(mahatva)と呼ばれた官人にきわめて親近の職業であって,チャド一夕の町の書

記ラムショーツアー族のようにきわめて富裕な一族も存在していた職業だったのである。こうした「書記」

の職業に就いたナンダセーナは,その存在として,有力であった主簿ソーンジャカの息子としてきわめて相

応しい人物であったと言えるのではないかと思われる。

3 関連するニヤ遺跡出土の漢文木簡

シャンシャン国西部の町チャド一夕,すなわち現在のニヤ遺跡群からは,若干数の漢文文書も出土してい

る31。そしてその中に,小満の趣旨と関連があると思われる記事が善かれているものがある。それは,ニヤ

遺跡群の最北部のN.XIV遣址から出土した木簡で,以下のような記述があるものである。以下では,最初

に木簡の遺物番号を記し,その後に()を付けて表面か裏面かを示し,その後にその文面を提示している。

なおこれらの木簡は贈物に付けて差し出された荷札のようなものであったと考えられている32。

① N.XIV.iii.7

② N.XIV.iii.8

③ N.XIV.iii.1

④ N.XIV.iii.2

(釘 N.XIV.iii.3

⑥ N.XIV.iii.4

⑦ N.XIV.iii.5

⑧ N.XIV.iii.6

(表) 春君

(表) 春君

(表) 夫人春君

(表) 大王

(表) 王

(表) 春君幸勿相忘

(春) 小大子九健持

(表) 且末夫人

(裏) 蘇且謹以娘王干一致間

(裏) 蘇且謹以黄娘王干一致間

(裏) 大子~ 美夫人叩頭謹以浪王干一致間

(裏) 臣承徳叩頭謹以=魂一再拝致間

(裏) 王母謹以現王干一致間

(裏) 奉謹以娘王干一致間

(裏) 休烏宋耶謹以娘王干一致間

(裏) 君華謹以娘王干一致間

これらの木簡の内容を見ると,上に記したように,王などに娘王干などの贈物を差し出した際の荷札,ある

いは表書きのようなものであったことが一目瞭然であろう。そしてまた,贈物の全てが「浪汗」「=魂」といっ

た上質の玉であったことも分かるが,ここで問題となるのは贈物の受け手と送り手の顔ぶれである。

その顔ぶれとしては,まず大王(カロシュティー文書ではmaharayaに該当する。以下同じ)または王(raya)

があり,これに対しては,「臣の承徳」が=魂1個を叩頭・再拝して贈り,さらに王母が改王干1個を贈り致

間している。次に夫人(devi)の春君に対しては,「蘇且」が,娘汗と黄娘汗,各1でもって致間し,さら

に「大子((maha)rayaputra)子美?の夫人」がやはり浪汗1個を贈り,そして無名の者が「春君,幸い

にあい忘るるなかれ」という文面と共に,浪汗1個を贈っている。さらに「/ト大子の九健持」に対しては,

おそらく臣の,休烏宋耶が,浪汗1個を贈り,また「且末(Calmadana)夫人」に対して,「君華」がやは

り浪汗1個を贈り,致間しているのである。

ここから,贈物を受けた者としては,「(シャンシャン)王」,その「夫人の春君」,そして「/ト大子の九億

31Chavannes,DocumentsChinoisd烏couvertsParAurelSteindanslesSablesdu Turkestan Oriental,1913,0Ⅹford,

pp.198-200,TableXXXI.羅振玉・王国維『流砂墜簡』(初版1914年),修訂本(1993年,中華書局),pp.69,223。また林

梅村『楼蘭尼雅出土文書』(1985年,文物出版社),p.88参照。

32 v.Chavannes,DocumentsChinoisdicouvertsparAurelSiein.,p.199.

74

Page 16: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

古代中央アジアの郡善国の主簿ソーンジャカについて(1)

持」と「且末夫人」などのメンバーであり,これらはシャンシャン王家の主要な人員であったと思われる。

一方,贈物をした側としては,「王母」,「「大子(=太子)子美?の夫人」,「臣の承徳」,そしておそらく「臣」

であった「蘇且」,「休烏宋」,「君華」などであった。彼らはチャド一夕で王以下を接待した主要な人員であっ

た可能性が高い。

これらの顔ぶれから,ここには,シャンシャン国王家とチャド一夕の町の主要なメンバーの一部が登場し

ていると見てほぼ間違いないと見られるが,これらのメンバーにより,シャンシャン王らに対する贈物とい

う行為がこのニヤ遺跡群最北部のN.XIV遣二址において行われたもので,その時の状況は,シャンシャン王

が何らかの理由で,例えばスピ族の侵入か,コ一夕ン人の来襲かといった非常事態へ対処するため,チャド一

夕の最北部に滞在したことを示しているように思われる。

そしてこのような事態をふまえて,小満がここで改めて問題とするのは,上の木簡①②において,シャン

シャン主夫人の「春君」に対して娘王干を献じた「蘇且」なる名の人物のことである。

「蘇且」なる名は,これをKarlgrenの仮定的な古代中国語の音で表記すると,SO(suo)-tS’ia(ts’ia)と

いう音が想定され33,また紀元前後以来,存在したいわゆる西域の且末なる国名・地名はカロシュティー文

書でCal-mad-anaと記された音を写したものであり,そこからすると「且」の字はcalに類する音を写す

漢字でもあったことが分かる。そうとすると「蘇且」の音は,小満が主として扱った主簿ソーンジャカ

SoITljaka(あるいはソーンジャクSoITljak-a)の名,ソーンジャカSoITljaka(ソーンジャクSoITljak-a)

の音を写したものと見て,それほど違和感はないと考えられる。私は,上の木簡①②に善かれた,シャンシャ

ン王(raya)の夫人(devi)「春君」に対して浪汗を献上した,あるいは贈物として与えた「蘇且」は,主

簿ソーンジャカその人であったのではないかと思う。

そしてこのことは,同様にN.XIV.iii.6木簡において,「且末夫人」に現王干を贈った「君華」なる者が,

カロシュティー文書にKuun皇e-,あるいはKun皇eyaとしてその名が出てくる人物と音として殆ど完全に対

応している事実とパラレルに考えると,より蓋然性が高くなると思う。なお,「君華」なる人物は,おそら

くカロシュティー文書でari(=Skt.arya‘noble,)Kun皇eyaとしてその名が出てくる34人物と同一人では

ないかと考えられる。

4 小 結

以上,紀元300年前後に,中央アジアのタリム盆地東南部に存在したシャンシャン国において,その西部

のチャド一夕の町で有力であった主待のソーンジャカ(cozboSoITljakaorSolTljak-)の事跡について見て

きた。

それによれば,主簿ソーンジャカは,当初は有力な存在であったかどうか不明であるが(「Cozbo=主簿」

として,主簿自体は,第2章で引用した『後漢書』に出ているケーマ(拘弥,Khema)国の主簿秦牧の例

から見ても,それほど地位が低いものであったとは考えられない),この人物が有力になったのは,チャド一

夕の国守(rajadhara皇a)に任じられて以降のことで,その結果,自身は,書記ラムショーツアの一族から

土地の「贈物(1a亭a)」を受け,その母はチャド一夕の女を掠奪したコ一夕ン人から,その女と家族を「贈物」

33 v.B.Karlgren,GrammataSerica,ScriPtandPhoneticsinChineseandSinoManese(1sted.,1940),Reprintedin

Taipei,1966,p.144,67ed,andp.137,46a-g.また周法高(主篇)『漢字古今音彙APronouncingDictiona7Tq/ChineseChar-

αCお門オ〃AγCゐαオc&A〃Cオゼ〃fCゐオ〃ゼぶゼ,腸〃(ねγオ〃&(力〃わ〃βぶβ』(中文大学出版社,1974年),pp.1,294を参照。

34 Khユによると,ariKun畠eyaの名が出てくるカロシュティー文書は,Nos.76,157,762などである。

75

Page 17: 古代中央アジアの/善国の主簿ソーンジャカについ …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6971/6/64-1... · URL Rights. ... judgement,administrationofCadotatown(Nb,aSites),andsoon,intheKharo!

山 本 光 朗

として返却されたのであった。それは,まさに有力者一族ゆえの「贈物」であったと言うことが出来よう。

ソーンジャカの息子であるナンダセーナ(NaITlda§ena)は,シャンシャン国の官人に親近な職業で,か

つラムショーツアのような富裕な階層の者がいた,書記(divira)の職業に就いていたことが分かっており,

No.385文書から,主簿で国守(rajadhara皇a)の地位にあった父ソーンジャカの所領経営などを助けたと見

られた。

さらに,第3章で見たように,チャド一夕の町の最北部のN.XIV遣址で発見された,贈物の荷の表書き

と見られる漢文木簡8点の中の,2点に「蘇且」なる人名が記されていて,私は,それが主簿のソーンジャ

カに該当する可能性について指摘し,このソーンジャカが,別の木簡で「大王(maharaya)」に贈物をした

王母,臣承徳らと共に,チャド一夕の町がスピ族の侵入を受けたからか,チャド一夕最北部に居た筈のシャ

ンシャン王,その夫人「春君」に浪汗などの贈物をした「蘇且」なのだと結論づけた。そして,このことは,

8点の中の1点の木簡で,シャンシャン王の「且末(Calmadana)夫人」に浪汗を贈ったと記された「君華」

なる人物が,カロシュティー文書に現れるクンゲー(ヤ)Kuun皇e,Kun皇eyaと音としてよく対応してい

ることからも,ある程度首肯しうるのではないかと思われ,これらの事は,カロシュティー文書と先の漢文

木簡などが明らかに同時代に混交して,使用されていたことを示唆するものである。

このように考えて,ニヤ遺跡群北辺で発見された木簡8点を改めて見なおしてみると,これらの存在は,

当時,シャンシャン国において,王家を中核とする上層階層の人々が,カロシュティー文書とそこに記され

た中期インド語を理解すると共に,中国語・漢字をも理解した,言わばバイリンガルな文化を持った人々で

あったことを仮定的に示しているように思われる。私は,中国王朝側は冷淡ではあったが,シャンシャン国

と当時の中国人との関係は,中国資料で見るより以上に関係が深かったのでないか,このようなバイリンガ

ルな文化こそがシルク・ロードの存在を強く語る証左ではなかったかと考えるのである。

(旭川校教授)

76