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38 Profile ─宅 香菜子 2005 年,名 古 屋 大 学 大 学 院 教 育 発 達科学研究科修了。博士(心理学)。 ノースカロライナ大学心理学部客員 研究員を経て,2008年より現職。専 門 は 臨 床 心 理 学,比 較 文 化 心 理 学。 著書は『悲しみから人が成長すると き:PTG』(風間書房),『心的外傷後 成長ハンドブック』(共監訳,医学書 院)など。 10 年日本 10 年アメリカ オークランド大学心理学部 アソシエイトプロフェッサー 宅 香菜子 (たく かなこ) 私は神戸大学に在籍していた3 回生の頃,心理学に進もうと決め ました。1995年のことです。10 年後の2005年に名古屋大学で博 士号を取得して,その2 ヵ月後に 渡米しました。そして今2015年。 渡米して10年になります。私に とって節目の年です。日本で心理 学を学んだ期間とアメリカでの期 間がちょうど10年で,イコールに なるからです。 それにしても最初は,自分より も年上の先生たちに「You」とい う単語を使うのにさえ抵抗があり ました。廊下で先生と会っても礼 をしないというのが慣れなくて, 動作が不自然で,おどおどしてい ました。研究会では英語が全く分 からなくて,皆の中に入っていけ ないので,とりあえず録音して後 からテープおこしをしていました (研究会中は,とにかく寝ないよ うに手の甲をつねっていました)。 転機は渡米後3年目に来まし た。就職が決まったのです。そも そも私は渡米を決めたとき,受け 入れ先の大学から「給料はなし。 部屋とパソコンは準備できる」と 言われていました。そのことも あって,日本の機関から経済的な 援助を受けることができるか調べ たところ,援助を受けるというこ とは,アメリカで学んだことを日 本でいかすということだから,決 まった期間が終われば日本に戻っ てくるというルールがあることを 知りました。私はその頃,自分が 博士論文の研究に取り組む中で, 海外で行われている研究に対して (生意気にも)いろいろモノを言 いたい気持ちがありました。なの で申請はせず,自分で貯めたお金 で行くことを選びました。それも あって,客員研究員としての生活 は貧乏でした。四畳半より狭い部 屋で,トイレ・シャワー共同,お 風呂なし。食事に困った日もあり ました。けれども,そのおかげで 研究期間が終わったとき,自分で どこに行きたいかを自由に選べる ことができ,日米両方で就職活動 をスタートさせました。 アメリカ心理学会の雑誌から 公募を調べ,アメリカ国籍を持っ ていない人でも応募できるポジ ションで,常勤,テニュアトラッ ク(採用された数年後に審査を経 て終身雇用となる可能性がある もの)を見つけたら,片っ端から 応募しました。履歴書に加えて, 応募先の大学ごとに 3 通の文書を 準備します。1通目はなぜそこの 大学で働きたいか,なぜそのポジ ションに自分が合うと思うかにつ いて,2通目はその大学に採用さ れたらむこう 5 年くらいでどう研 究を進めるつもりでいるか,その 大学のどの人とどんな共同研究が できそうかについて,3通目はど んな科目を教えたいか,その学部 の先生たちにはなくて自分だから こそできることは何か,その大学 の理念に照らし合わせて,どう教 育に貢献するつもりがあるかにつ いての手紙です。それぞれ3枚, 合計 9 枚のこれらの手紙を大学ご とに送るのです。振り返ると冷や 汗が出るくらいたくさん受けて, たくさん落ちました。が,もうあ と 2 ヵ月で決まらなかったらビザ が切れるという頃,オークランド 大学から面接に呼ばれました。三 日間かけての面接では,各教員, 学部長,学科長,事務長と会った り,研究発表や模擬授業をしたり しました。驚いたのは,学生との 面接もあったことです。学生から は,「もしうちの大学にきたらど の授業を教えるつもりか。成績は テストのみか。レポートもあるの か」など質問を受けました。 そして,その2週間後に採用が 決まりました。これが 2008 年のこ とです。それから6年経た去年, テニュアを取りました。上の写真 は,大学の写真室で,テニュアの知 らせをもらった人が一人ずつ呼ば れ,撮ってもらった時のものです。 写真家の方は6年前に,新人特集 で私を撮ったことを覚えていらっ しゃり,6年前は歯を見せてにっ こりなんかできないと言っていた のに上手になったもんだねと言わ れ,自分でも笑ってしまいました。 10 年後はどんな顔をしているのや ら。どこにいても心理学を続けて いたいです。

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Profile─宅 香菜子2005年,名古屋大学大学院教育発達科学研究科修了。博士(心理学)。ノースカロライナ大学心理学部客員研究員を経て,2008年より現職。専門は臨床心理学,比較文化心理学。著書は『悲しみから人が成長するとき:PTG』(風間書房),『心的外傷後成長ハンドブック』(共監訳,医学書院)など。

10年日本 ─10年アメリカオークランド大学心理学部 アソシエイトプロフェッサー

宅 香菜子(たく かなこ)

 私は神戸大学に在籍していた3回生の頃,心理学に進もうと決めました。1995年のことです。10年後の2005年に名古屋大学で博士号を取得して,その2 ヵ月後に渡米しました。そして今2015年。渡米して10年になります。私にとって節目の年です。日本で心理学を学んだ期間とアメリカでの期間がちょうど10年で,イコールになるからです。 それにしても最初は,自分よりも年上の先生たちに「You」という単語を使うのにさえ抵抗がありました。廊下で先生と会っても礼をしないというのが慣れなくて,動作が不自然で,おどおどしていました。研究会では英語が全く分からなくて,皆の中に入っていけないので,とりあえず録音して後からテープおこしをしていました

(研究会中は,とにかく寝ないように手の甲をつねっていました)。 転機は渡米後3年目に来ました。就職が決まったのです。そもそも私は渡米を決めたとき,受け入れ先の大学から「給料はなし。部屋とパソコンは準備できる」と言われていました。そのこともあって,日本の機関から経済的な援助を受けることができるか調べたところ,援助を受けるということは,アメリカで学んだことを日本でいかすということだから,決まった期間が終われば日本に戻ってくるというルールがあることを知りました。私はその頃,自分が博士論文の研究に取り組む中で,海外で行われている研究に対して

(生意気にも)いろいろモノを言

いたい気持ちがありました。なので申請はせず,自分で貯めたお金で行くことを選びました。それもあって,客員研究員としての生活は貧乏でした。四畳半より狭い部屋で,トイレ・シャワー共同,お風呂なし。食事に困った日もありました。けれども,そのおかげで研究期間が終わったとき,自分でどこに行きたいかを自由に選べることができ,日米両方で就職活動をスタートさせました。 アメリカ心理学会の雑誌から公募を調べ,アメリカ国籍を持っていない人でも応募できるポジションで,常勤,テニュアトラック(採用された数年後に審査を経て終身雇用となる可能性があるもの)を見つけたら,片っ端から応募しました。履歴書に加えて,応募先の大学ごとに3通の文書を準備します。1通目はなぜそこの大学で働きたいか,なぜそのポジションに自分が合うと思うかについて,2通目はその大学に採用されたらむこう5年くらいでどう研究を進めるつもりでいるか,その大学のどの人とどんな共同研究ができそうかについて,3通目はどんな科目を教えたいか,その学部の先生たちにはなくて自分だからこそできることは何か,その大学の理念に照らし合わせて,どう教育に貢献するつもりがあるかについての手紙です。それぞれ3枚,合計9枚のこれらの手紙を大学ごとに送るのです。振り返ると冷や汗が出るくらいたくさん受けて,たくさん落ちました。が,もうあと2 ヵ月で決まらなかったらビザ

が切れるという頃,オークランド大学から面接に呼ばれました。三日間かけての面接では,各教員,学部長,学科長,事務長と会ったり,研究発表や模擬授業をしたりしました。驚いたのは,学生との面接もあったことです。学生からは,「もしうちの大学にきたらどの授業を教えるつもりか。成績はテストのみか。レポートもあるのか」など質問を受けました。 そして,その2週間後に採用が決まりました。これが2008年のことです。それから6年経た去年,テニュアを取りました。上の写真は,大学の写真室で,テニュアの知らせをもらった人が一人ずつ呼ばれ,撮ってもらった時のものです。写真家の方は6年前に,新人特集で私を撮ったことを覚えていらっしゃり,6年前は歯を見せてにっこりなんかできないと言っていたのに上手になったもんだねと言われ,自分でも笑ってしまいました。10年後はどんな顔をしているのやら。どこにいても心理学を続けていたいです。