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148. AR2 による ATP 産生調整と心機能制御 高島 成二 Key words:ATP,AMPK,低酸素ストレス,微小管 大阪大学 大学院医学系研究科 分子心血管医学 心臓研究の歴史は生命維持の根幹ともいえるその活発な拍動運動から力学面の解析を主として開始された.その成果として, 心臓は体動,外気温,摂食および精神的負荷を含めた環境要因に応じて短期的・長期的に多くの適応システムを有することが 明らかになった.20 世紀の初頭にフランクおよびスターリングにより提唱された「心筋の収縮エネルギーは心筋線維の初期長に 比例する」という心臓生理学の大原則は,上記の適応システムを解析する上でも臨床現場で循環生理を考える上でも重要な事 実である.しかし 100 年たってなお,この最も単純で重要な適応反応のメカニズムは解明されていない. 我々は,心臓力学や冠動脈循環器学の長年の研究により,これらの循環生理学における心筋細胞内 ATP 濃度の調節の重要 性を強く認識した.そこで ATP の低下を感知する分子機構,それに対する解糖系,ミトコンドリア系の役割,ATP の主な消費 場所である収縮装置,そしてその力を効率よく全体の収縮力に変化させる高次構造の重要性を生化学的側面からも明らかにし てきた.しかし酸化的リン酸化酵素をはじめとする高度な蛋白複合体と密接にリンクする代謝網がいかに ATP 代謝に総合的に 関与するかは殆ど解明されていない. そこで ATP 代謝に直接かかわる分子群の解析に焦点をあて,エネルギー代謝にかかわる古典的と考えられる分子群にもう一度 生化学的にアプローチし,ATP 代謝を中心とした循環生理の解明に多角的に取り組んでいる.特に ATP の恒常性を維持す るための分子機構および ATP のエネルギーを細胞機能へと効率的につなげる分子機構の解明を行っている.最終的にはこれ ら ATP 代謝を担う分子の調節制御を行うことにより心血管疾患の治療を行うことを目的としている. 本研究においては adenosine monophosphate dependent protein kinase (AMPK) の低酸素ストレス応答における重要 性を証明した.また,低酸素により一過性に誘導される ATP synthase regulatory factor 2 (AR2) という小分子が直接 ATP 産生を増加させることを明らかにした.これらの結果により,ATP 代謝にかかわる因子が心臓におけるストレス応答に重要 な働きをすることが明らかとなった. 方法および結果 1. AMPK による CLIP-170 のリン酸化部位の同定,CLIP-170 リン酸化の生体内での証明 心臓から AMPK の新規基質として CLIP-170 を同定した.CLIP-170 は細胞内において微小管の伸長端に局在する蛋白で ある.その後の研究により CLIP-170 が AMPK によるリン酸化を受けることで微小管の伸長スピード,細胞極生,細胞遊走を 保っていることを明確に示した(図 1) 1) .さらに本研究では,in vitro における AMPK と微小管,CLIP-170 との結合様式のさ らなる解明と,in vivo,特にエネルギー飢餓状態に鋭敏な心臓における AMPK-CLIP-170 経路の果たす役割を解明するこ とを目的とした研究をすすめた. CLIP-170 S311 の AMPK によるリン酸化は in vivo においても質量分析により証明された.さらに CLIP-170 の in vivo での リン酸化状態を観察するため,マウスを用いたストレス応答実験を行った.この結果,in vivo においては CLIP-170 のリン酸 化レベルは非常に低く,虚血負荷などによって誘導されることが明らかとなった.これは in vitro の細胞系における CLIP-170 のリン酸化が比較的高い状態で保たれていることと対照的であった.この事実は,AMPK-CLIP170 のシグナル経路が in vivo では実際にストレス応答のシグナル経路として微小管の活性化を介して働いていることを示唆し,意義深い. 上原記念生命科学財団研究報告集, 26 (2012) 1

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148. AR2 による ATP産生調整と心機能制御

高島 成二

Key words:ATP,AMPK,低酸素ストレス,微小管    大阪大学 大学院医学系研究科   分子心血管医学

緒 言

心臓研究の歴史は生命維持の根幹ともいえるその活発な拍動運動から力学面の解析を主として開始された.その成果として,心臓は体動,外気温,摂食および精神的負荷を含めた環境要因に応じて短期的・長期的に多くの適応システムを有することが明らかになった.20 世紀の初頭にフランクおよびスターリングにより提唱された「心筋の収縮エネルギーは心筋線維の初期長に比例する」という心臓生理学の大原則は,上記の適応システムを解析する上でも臨床現場で循環生理を考える上でも重要な事実である.しかし 100 年たってなお,この最も単純で重要な適応反応のメカニズムは解明されていない.我々は,心臓力学や冠動脈循環器学の長年の研究により,これらの循環生理学における心筋細胞内 ATP 濃度の調節の重要性を強く認識した.そこでATP の低下を感知する分子機構,それに対する解糖系,ミトコンドリア系の役割,ATPの主な消費場所である収縮装置,そしてその力を効率よく全体の収縮力に変化させる高次構造の重要性を生化学的側面からも明らかにしてきた.しかし酸化的リン酸化酵素をはじめとする高度な蛋白複合体と密接にリンクする代謝網がいかに ATP 代謝に総合的に関与するかは殆ど解明されていない.そこでATP 代謝に直接かかわる分子群の解析に焦点をあて,エネルギー代謝にかかわる古典的と考えられる分子群にもう一度生化学的にアプローチし,ATP 代謝を中心とした循環生理の解明に多角的に取り組んでいる.特に ATP の恒常性を維持するための分子機構および ATP のエネルギーを細胞機能へと効率的につなげる分子機構の解明を行っている.最終的にはこれら ATP代謝を担う分子の調節制御を行うことにより心血管疾患の治療を行うことを目的としている.本研究においては adenosine monophosphate dependent protein kinase (AMPK) の低酸素ストレス応答における重要性を証明した.また,低酸素により一過性に誘導される ATP synthase regulatory factor 2 (AR2) という小分子が直接ATP 産生を増加させることを明らかにした.これらの結果により,ATP 代謝にかかわる因子が心臓におけるストレス応答に重要な働きをすることが明らかとなった.

方法および結果

1. AMPK による CLIP-170 のリン酸化部位の同定,CLIP-170 リン酸化の生体内での証明心臓から AMPK の新規基質として CLIP-170 を同定した.CLIP-170 は細胞内において微小管の伸長端に局在する蛋白である.その後の研究により CLIP-170 が AMPK によるリン酸化を受けることで微小管の伸長スピード,細胞極生,細胞遊走を保っていることを明確に示した(図 1)1).さらに本研究では,in vitro におけるAMPK と微小管,CLIP-170 との結合様式のさらなる解明と,in vivo,特にエネルギー飢餓状態に鋭敏な心臓における AMPK-CLIP-170 経路の果たす役割を解明することを目的とした研究をすすめた.CLIP-170 S311 の AMPK によるリン酸化は in vivo においても質量分析により証明された.さらに CLIP-170 の in vivo でのリン酸化状態を観察するため,マウスを用いたストレス応答実験を行った.この結果,in vivo においては CLIP-170 のリン酸化レベルは非常に低く,虚血負荷などによって誘導されることが明らかとなった.これは in vitro の細胞系における CLIP-170のリン酸化が比較的高い状態で保たれていることと対照的であった.この事実は,AMPK-CLIP170 のシグナル経路が in vivoでは実際にストレス応答のシグナル経路として微小管の活性化を介して働いていることを示唆し,意義深い.

 上原記念生命科学財団研究報告集, 26 (2012)

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 図 1. AMPK による細胞ストレス応答機構.

AMPK は様々なストレスに伴う ATP の低下を感知しエネルギー代謝を制御するのみならず,微小管機能の制御を介した細胞機能の活性化に関与する.

  2.ARによる ATP産生調整さらに,新たなミトコンドリア代謝調整蛋白の同定のため,ミトコンドリアが最も豊富に存在する心筋細胞に低酸素ストレスを加え,発現が変化する遺伝子を網羅的に解析した.その中で敏速にしかし一過性に発現上昇する遺伝子AR2 が同定された(図2). 

 図 2. 低酸素刺激による AR2 の発現誘導.

心筋細胞において低酸素刺激により AR2 の強い発現誘導が見られる. AR2 はミトコンドリアに局在する.結合蛋白を同定したところ,ATP合成にかかわる酵素が同定された.一過性の発現と特異的な結合はAR2 による ATP産生の制御を強く示唆した.そこでミトコンドリア ATP産生を感度よく測定可能な新たな方法を開発した.まず ATP 感受性プローブを細胞に導入し,ATP 濃度をリアルタイムで測定可能な細胞を確立した.ATP 濃度を直接測定することにより,非常に鋭敏にATP産生制御が測定可能となった.本プローブを利用し,AR2 の抑制によりミトコンドリアにおける ATP産生が顕著に低下することが示された.しかし生細胞系ではミトコンドリアの ATP産生の増加を鋭敏に感知する系が確立できなかった.そこで細胞膜を部分的に透過性にしたセミインタクト細胞を使用して,細胞質の ATP 緩衝成分を取り除くことにより,ミトコンドリアからの ATP 産生を直接測定する手法を開発した.本方法を利用して AR2 を細胞に強制発現させることによりミトコンドリアの ATP 産生効率が上昇することが明確に示された.

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さらに陽イオン蛍光色素を利用したミトコンドリア膜電位測定により AR2 の発現が膜電位に影響を及ぼさないこと,およびセミインタクト細胞系においては基質を同時に加えるため初期Proton Motive Force が同じであることが示された.以上の実験結果より,AR2 はミトコンドリア内膜内外の Proton Motive Forceが同じ状態でも多くの ATP を産生させうることが明らかとなった. 

考 察

好気性代謝を営む生物はミトコンドリアの電子伝達系を利用して非常に効率のよいエネルギー産生系を確立し高度な生命活動を可能にしてきた.この生命活動を維持するため低酸素刺激により発現が誘導される分子には,エリスロポイエチンやVEGF など低酸素に適応するための重要な因子が多く含まれる.さらに,これらの分子そのものやその阻害剤は現在,積極的に臨床応用され目覚しい効果を挙げている.今回研究テーマとした AMPK および AR は共に ATP の低下を伴うこれらの刺激に対応して全く異なる形でストレス応答タンパクとして機能していた.特に,AR2 は脊椎動物以下ではそのオルソローグが同定されておらず,脊椎動物で初めて検出される蛋白である.このことは AR2 による ATP 産生増加は,高度な血管系を有する脊椎動物において低酸素負荷に対して新たに獲得された生体適応の一つであることを示唆する.本分子機構は外来生物の寄生とも考えられるミトコンドリアの機能を,体細胞遺伝子である AR2 が必要性に応じて調整する高度なメカニズムである.そのためその解明は脊椎動物のエネルギー代謝全体のメカニズムの解明に寄与すると考える.一方で,心臓血管疾患の病態あるいは移植心や心臓手術時の臓器保護に関しては細胞内の ATP 量の増減が重要な役割を演じることが知られている.今回の研究は新しい ATP 測定法および ATP 濃度調整メカニズムを提供することによりこれら臨床的課題の分子メカニズム解明にも資すると考える. 

共同研究者

本研究は,京都産業大学総合生命科学部生命システム学科の吉田賢右博士,京都大学白眉センター/生命科学研究科の今村博臣博士,科学技術振興機構 ICORP ATP合成制御グループの鈴木俊治博士らとの共同研究である.最後に,本研究に御支援賜りました上原記念生命科学財団に深く感謝いたします. 

文 献

1) Nakano, A., Kato, H., Watanabe, T., Min, K-D., Yamazaki, S., Asano, Y., Seguchi, O., Higo, S., Shintani,Y., Asanuma, H., Asakura, M., Minamino, T., Kaibuchi, K., Mochizuki, N., Kitakaze, M. & Takashima,S.:AMPK controls the speed of microtubule polymerization and directional cell migration throughCLIP-170 phosphorylation. Nat. Cell Biol., 12 : 583-590, 2010.

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