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21 1960 年代末の若者文化 一一フーテン(族)とヒッピー(族)についての覚書一一 市川孝一 はじめに これまで 3 固にわたって戦後の若者文化の流れを追ってきた(市、川, 2012 2013 2014)が,本稿はその第 4 弾である。今回は,'フーテン, c 族)とヒッ ピ-,(族〕を中心に 1960 年代末の若者文化の→端を検証対象とする ω 。こ れまでの論考と同様,なるべく当時の新聞記事や雑誌記事の一次資料応立ち 返って,彼らが当時どのようにとらえられ,どのよ.うに語iられていたかを再 検証していきたい。それらの作業を通じて,フーテン(族〕とヒッピー(族) の特徴とそれらにあらわれた当時の若者文化の特質,その恭礎や背景にある 社会的状況や若者の心理および時代の社会心理のあり様をさぐっていきた L この時期の若者文化といえば,何よりも全国で吹き荒れた学生運動こそ最 大の“若者にまつわる社会現象"と言える。じかし, ζ れはあまりにも大き 過ぎるテーマであり,簡単には扱えな L 、。このテーマは別の機会に改めて取 り上げることにして,本稿では,最低限ふれるだけにとどめる。 フーテンとは フーテンとは言うまでもなく「踊癒」のカタカナ表記である。それでは, 「癒痛」とは何か。辞典℃は次のように説明されている O 一一①精神状態が 正常でないこと。また,そういう人。②定まった仕事も持たず,ぶらぶらし ている人 c r 広辞苑」第 6 版, 2008 年〉。 ちなみに,フーテンが話題になっていた時点での「広辞苑J (初版, 1954 年,第 2 版, 1969 年)の「掴痛」の説明は凄まじい。一一後天的精神病の中 148

1960 年代末の若者文化 - m-repo.lib.meiji.ac.jp · また,そういう人。掘狂。一ーという簡単な記述になり,第5版 (1998年)から上記の第6版と同様の記述となる。

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1960年代末の若者文化

一一フーテン(族)とヒッピー(族)についての覚書一一

市川孝一

はじめに

これまで3固にわたって戦後の若者文化の流れを追ってきた(市、川, 2012,、

2013, 2014)が,本稿はその第4弾である。今回は, 'フーテン, c族)とヒッ

ピ-, (族〕を中心に 1960年代末の若者文化の→端を検証対象とするω。こ

れまでの論考と同様,なるべく当時の新聞記事や雑誌記事の一次資料応立ち

返って,彼らが当時どのようにとらえられ,どのよ.うに語iられていたかを再

検証していきたい。それらの作業を通じて,フーテン(族〕とヒッピー(族)

の特徴とそれらにあらわれた当時の若者文化の特質,その恭礎や背景にある

社会的状況や若者の心理および時代の社会心理のあり様をさぐっていきたL、。

この時期の若者文化といえば,何よりも全国で吹き荒れた学生運動こそ最

大の“若者にまつわる社会現象"と言える。じかし, ζれはあまりにも大き

過ぎるテーマであり,簡単には扱えなL、。このテーマは別の機会に改めて取

り上げることにして,本稿では,最低限ふれるだけにとどめる。

フーテンとは

フーテンとは言うまでもなく「踊癒」のカタカナ表記である。それでは,

「癒痛」とは何か。辞典℃は次のように説明されている O 一一①精神状態が

正常でないこと。また,そういう人。②定まった仕事も持たず,ぶらぶらし

ている人 cr広辞苑」第6版, 2008年〉。

ちなみに,フーテンが話題になっていた時点での「広辞苑J(初版, 1954

年,第 2版, 1969年)の「掴痛」の説明は凄まじい。一一後天的精神病の中

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で,言語錯乱・意識混濁・感情爆発の著しいものの俗称。きちがい。精神病。

繍狂。「一病院」。

なお,第 3版 0983年)・第4版 0991年〉では「精神状態が正常でない

こと。また,そういう人。掘狂。一ーという簡単な記述になり,第 5版

(1998年)から上記の第 6版と同様の記述となる。

一つの言葉の説明にこだわり過ぎたが,その意味の変遷が興味深い。後者

②の意味については,ある世代以上の日本人だったらすぐに,映画「男はつ

らいよJの主人公で複葉清が演じた車寅次郎の通称「フーテンの寅Jを思い

浮かべるだろう。この作品は, もともとは 1968-69年にかけてフジテレビ

のテレビドラマとして放映された。ところが,人気が高かったにもかかわら

ず,主人公がハブにかまれて死ぬという唐突な終わり方をしたため,視聴者

からの抗議が殺到したこともあり,改めて 1969年に松竹で同じ主人公の映

画がつくられた。それがシリーズ化され,結果的には 48作〈特別編も入れ

ると 49作)という一大国民映画になったのである。

本稿で扱う「フーテン(族)Jが登場したのが, 1967年と言われているの

で,時間の前後関係から言うとドラマや映画の「男はつらいよ」より,フー

テン族の方が先行している。「男はつらいよ」の主人公「フーテンの寅」と

いうキャラクターが,逆に「フーテン(旗)Jからヒントを得たものだとい

う説を立ててもいいかもしれなL、。

もちろん, ["フーテン」ということばを広く知らしめるのに貢献したのは,

元祖「フーテン(族)Jよりも,圧倒的に買さん口「フーテンの寅Jの方であ

ることは言うまでもない。なお,寅さんの名誉のために付け加えるなら,寅

さんには「テキ屋」という立派な生業がある(九

また, ["癒繍Jという言葉との関連で言えば,谷崎潤一郎の有名な作品の

一つに「癒繍老人日記J0961年)とLサ小説がある。ここでの「癒痛」は

言うまでもなく①の意味であるが, ["異常」とか「変態」と言ってしまうと,

身も葺もなL、。この作品は, ["鍵J0956年)と並んで,“老人の性"がテー

マの作品だというとらえ方がされることも多い。この題材自体が,俗受けし

やすいテーマなので,両作品とも映画化やドラマ化されているω。

フーテン族とは

フーテン族は例えば次のように説明されている。一一11967(昭和42)年夏,

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東京・新宿に出現した異様な風体の若者たちのこと。定職を持たず,ぼうぼ

うの髪と汚れ放題のシャツにジーンズ,ゴム草履という姿で日が暮れるとど

こからともなくあらわれ,新宿駅東口のグリーンハウスと称する芝生にたむ

ろし,通行人をぼんやり眺めたり,小金をせぴったり,奇声を発したりした。

当時グリーンハウスを定宿としたフーテンの数は約 800人。睡眠薬ハイミナー

ルでラリって,ダンモ(モ夕、ン・ジャズ)に踊り狂い,放縦なセックスにふ

ける。このハイミナール(ハイチャン),ダンモ,フリー・セックスが当時

フーテンの三種の神器といわれた。フーテンの祖型は 1950年代アメリカの

ビートニクに求めることができるが, ビートニクやヒッピーほど明確な思想

を持つことも反体制的運動に結集することもなく,ただ一過性の現象,風俗

で終わったJ(r増補新版戦後史大事典』三省堂, 2附。

重要なポイントを押さえ,かっ要領よくまとめた素晴らしい解説と言えよ

う。いわゆる事典的な解説としてはこれで十分であるが,本稿では改めて当

時の新聞や週刊誌記事にあたってもう少し詳しく検討していきたいへ

フーテン族の誕生

「族」はメディアによって「族Jとなる。これまで検討してきたすべての

「族J同様,フーテン族もまたメディアによって取り上げられることによっ

て「族」となった。マスコミのフーテン族への注目は,当時の新聞記事によっ

て,テレビというメディアが先行したことがうかがわれる。「朝日新聞』の

「波」というコラムが, 1967年7月から 8月にか1;て,相次いでフーテン族

を取り上げたテレビ番組にふれている。

まず, 1さばかれた“フーテン族"Jというタイトルで, 7月 18日放映の

TBSテレビ「おはようにっぽん」のティーチイン「若者はダメか」を紹介

している (7月初日〕。スタジオ出演のフーテン族の男女に対し評論家や女

優・歌手にコメント安させ, 30人の視聴者代表に判定させたところ, 1ダメ

派J10名, 1ダメじ pない派J20名だったことを伝えている。

「“フーテン"ラッシュ」と題された, 8月 22日の回では, 20日の日曜日

には, 1新宿フーテン族J(TBS) , 1無着先生フーテン族安語るJ(東京 12

チャンネlレ), 1スター千一夜J(フーテン娘と大島渚l監督出演)(5) とフーテン

関連の番組が 3本も放送されたことを取り上げているo

これらの番組で披露された彼ら(フーテン)の言い分に共通していること

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は, 1仕事ぎらL、J1フリー・セックス」であり, 1ベトナム戦争に興味なし」

「左翼は,嫌L、」などが特徴であることを紹介している。その上で日本の

フーデジにはアメリカのビート族の物質文明への反抗やヒッピ一族の徴兵

拒否という背骨がないことを指摘し, 1彼らはしょせん今日的繁栄の『残飯』

による『自由』でしかなL、」と結んでいる。

さらに, 1目標喪失の“フーテン番組"J(8月30日)では,フーテン娘な

ど数λの十代の女性を集め「自分自身の広告」をやらせていた「マスコミ QJ

(TBS, .8月28日放送〉を取り上げている。この番組の司会者の「マスコミ

がフーテンを取り上げすぎるのには抵抗を感じる」というコメントに対し,

この番組自体がフーテンを物見高げに珍しがっているのではないか占書き,‘

「近頃のテレビはフーテンばやりで,ほかにやることがないみたいだ。テレ

ビ自体が目標を喪失しでフーテン化しているのではあるまいか」と批判して

いる。

これらの一連の新聞記事からは,フーテン族にはテレビがいち早く飛びつ

き,盛んに報じたため,“フーテン族"なる流行が生まれた(作られた)と

いう実態の一端がうかがわれる。マスコミが「流行っている」と伝えたもの

が,実際に「流行する」という,おなじみの「自己成就予言」のメカニズム

である。

当初はテレビ報道に批判的だった活字メディアもすぐに後追いすることに

なる。新聞はもとより週刊誌・雑誌メディアは,盛んにフーテン族を取り上

げるのだが,その扱いは決して好意的なものではない。とりわけ週刊誌記事

にはそれが顕著だが,彼らに与えたレッテル(呼び方・形容自体)にそれは

端的に表れている。

「狂える著者“フーテン族"J1町のゴミ同様の俗物の群れJ1ナマケ者で,

ニセモノの多い輩の群れJrフーテン乞食」一一これらはいずれもある週刊誌

の一つの記事の中に見られる表現である (1狂える若者“フーテン乞食"の

行方J~迫刊大衆J 1967年 9月21日〉。

他の週刊誌記事も負けていはいない。ー一「コジキの遠足J['青春の日々 を

コジキ姿に身をやっしJ1女に寄生して,かろうじて生き長らえている糞ひ

り虫J1性衝動はイヌ・ネコ同然J1ウジ虫の湧くようにどこからともなく集

まってきたJr宿なしコジキJ(r女に寄生する“青春コジキ"の 24時J~ア

サヒ芸能J1967年9月17日号)。

「若いモダンこじきJrなまけ者J.r資本主義の無害な寄生虫Jr残飯に群が

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る豚の群れ」 ι(夏堀正元「本格派フヶ子ン族いでよ!J ~週刊読売J 1967年 9

月 15日)。散々な言われようである。‘それまでも,さまざまな「族」が世間

の輩彊を買い,大人たちから冷ややかな視線を浴びせられてきたが,ここま

で罵晋雑言を浴びせられたケースも珍しいのではないか。それは,フーテン

という存在が,何よりも基本的に勤勉を尊び「働かざる者食うべからず」の

倫理を共有してきた平均的日本人の感覚を逆なでするものだったからだろう。

流行としてのフーテン族

上記の新聞記事が示すように,ブーテン族がマスコミに取りl上げられて広

く知られるようになったのは, 1967 (昭和 42)年の夏頃だということは間

違いない。ところが,同年秋にはすでに「フーテン族にも秋風 新宿駅前か

ら追い立てられるJ(~毎日新聞J 1967年 9月1日〉という記事が見られる。

それによると,“この夏突然変異的に発生,テレビに映画に大きな話題を

まいた若者たち"が新宿駅周辺にたむろしていたが,たまりかねた同駅がフー

テン締め出しの断を下し, 9月1日午前 10時から,同駅鉄道公安官を動員,

淀橋署の応援を得て,東日前芝生に立ち入り禁止の立て札を 10本打ち込ん

だと L、う。

この朝も雑踏をよそに約 30人の岩者ーたちが芝生に寝転んでいて,女性 4

人を含む 16人J (16歳-19歳)が補導された。この記事では,“この種の若

者たち"(フーテン族)は「ざっと 500人」と記録している。

しかし,フーデシ肢がこの秋で完全に姿を消したわけではなL、。約一年後

に同じようなタイトルの記事が見られる。一一「質も落ち“秋風立つ"“フー

テン論理"に背いてJ(~毎日新聞J 1968年 8月17日)。冬の寒い時期にいっ

たん姿を隠していたフーテン族は,冬眠から覚めた動物たちのように,春先

にはまた姿を現したのである。朝日新聞のコラム「こんてな」には,“春風

と共にフーテン族がふたたびメッカ・新宿をのし歩き始めた"とある(~朝

日新聞J1968年 3月7日)。

そして上記『毎日新聞』の記事は, r立ち入り禁止」の掲示があるにもか

かわらず,無残にハゲた芝生の上で,薄汚れたジーパンにゴムぞうりの若者

が. 3. 40人, とろんとした目付きで, ビ、ニール袋のシンナ一号かいだり,

男同上・で抱き合ったり……と, 1968年夏の時点でのグリーンハウスの状況

をイ云えている。

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しかし,この頃になると一般の人々の反応は冷ややかなものとなっていた。

駅前を通る人たちはもうそんな若者たちに好奇の目を向けたりしない。「ま

だいるのか。しつこいなあ」とでも言いたげな流し目をくれて,そそくさと

通り過ぎるだけであったという。

また,この記事では“テレビも来ない,週刊誌の取材も少なくなって,出

演料や謝礼がもらえなL、"というフーテンの嘆きの声やほろ酔いのサラリー

マンのおじさんのカンパもなくなったという愚摘も紹介されている。地元で

の商店街からも“フーテン締め出し運動"も起こり,フーテンに対する逆風

が強まったことにもふれている。

この時点では,フーテンに対するマスコミの注目も一般の関心もだいぶ薄

らいできたことがうかがわれる O さらに, 1971年頃になると「フ一子ン族」

の中身も微妙に変わってきたようである。フーテン対象の取り締まりでは,

補導される中学生や高校生などの未成年者が増加し,フーテンが,家出少年

や少女,学校生活から脱落した少年少女の非行形態の一つに変わってきたこ

とを伝える新聞記事が見られる。同じフーテンと言う言葉で呼ばれながら,

当初のフーテン族とは,いささか異なった集団になりつつあったということ

である (1新宿 フーテンは変わった チビっ子急増悪を求めさまよう」

『毎日新聞Jl1971年8月 10日〉。

しかし,まだフーテン族自体は消滅には至らなかったようだ。それはもう

少し先のことになる。彼らを新宿から追いやった最大の要因は,新宿という

街自体の変容にあった。いわゆる「新宿副都心計爾Jの進展である。もちろ

ん,この計画自体は新宿駅西口を中心としたプロジェiクトであるが,新宿の

街全体に影響を及ぼさずにはいかなかった。

「新宿脱ヤング旋風値上げで締め出し ビジネス副都心への変身図る」

(~読売新聞Jl 1972年 10月 11日〕という記事では,経済的な面から新宿が

若者にとって居づらい街に変わったことが紹介されている。まず,新宿の喫

茶庖で,物価異変が起こった。

伊勢丹では,一杯 350円, 450円という「デラックスなコーヒー」が登場

した。フーテンのたまり場として名をはせた風月堂新宿屈でも, 70円のモー

ニングコーヒーが 90円に, 120円のレギュラーコーヒーが 150円に値上げ

されたという。

衣料品庖もターゲットをティーンエイジャーから, 20, 30代にターゲッ

トをシフトし,デパートもファミリ一層やヤング・エリートの顧客を対象に

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する戦略に転じた。

また,新宿署は,新宿駅東日で「フーテン追放作戦」ぞ展開した。新宿か

ら若者がじわじわと締め出され,新宿は若者の街からビジネスマンの街へと

変わっていったのである。この過程で,フーテンは絶滅へと向かったものと

思われる。

以上のように新聞記事をチェックしてくると,フーテンは発生から消滅ま

で,実に約 5年以上の期聞を跡つeけることが出来る。これは,それまでの

「六本木族J["みゆき族J["原宿族」などと比べて, ["街族」の寿命としては相

対的に長い方だと言ってよい。

「街族」としてのフーチン(族)

前稿で取り上げた,六本木族,みゆき族,原宿族が,それぞれ「六本木」

「銀座J["原宿」という東京のある特定の場所を拠点としていたように,フー

テン族も「新宿」を拠点とした「街族」のーっとしてとらえることもできる。

馬淵U(1989)は, ["若者たちが選ぶステージ土街にはかならずEこかしら

に異文化の光彩が認められたJ(163頁)と言っているが,新宿の場合のそ

れは何だろうか。馬淵はそれをずばり「ロシア文化Jだと指摘する。明治以

来日本の主流となってきた欧米文化ではなく,その対抗文化とみなされる

「ロシア文化」こそが,新宿という街の色合いを決定づけている。ロシア民

揺を基調とする「歌声喫茶」や「ロシア風酒場Jがその具体的な表れだとい

うのである(同〉。

かといって,新宿に欧米文化の香りが全く欠落しているというわけではな

い。ただ,新宿の場合メジャーなそれではなくマイノリティーの周縁的なも

のがもてはやされた。アメリカ文化で言ったら「モダンジャズ」とか「ビー

ト族J,フランス文化で言えばその「ビート族」と共振していたサルトルの

「実存主義」というように。そして,結論は次のようになる。十一東京一番

の盛り場としての銀座を脅かさんばかりに勢いを増しつつあった当時の新宿

はたとえて言うなら["~閣の光J ともいうべき光彩を放ってその存在を主張

し続けていたJ(馬淵, 1989, 164頁)。

もっと端的に,新宿という街の特性を「二流の躍り場」とするとらえ方も

ある。銀座を「一流の盛り場」とするなら,新宿はまさに「ニ流の盛り場」

であるというのだ。 60年代の新宿は「二流の盛り場」だづたがゆえに特別

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のエネルギーを発揮し得たのであり,雑多な若者文化の拠点になりえたので

ある(宮沢, 2014,. 39マ41頁〉。

実際, 60年代の新宿は,複数の「族」の街であった。六本木にたむろし

た若者が「六本木族J,'原宿に集まってきた若者が「原宿族」だとしたら,

新宿に集まってきた若者たちは「新宿族JでいいのではなL、かと思うかもし

れない。ところが, 1960年代後半から末にかけて新宿という場所を拠点と

して展開した若者集団や若者文化はi従来の「街族」の図式ではとらえられ

なかった。

当時の新宿という街には,大小さまざまな若者の群=フーテン(族),ヒッ

ピー(族),アングラ族,サイケ族,全共闘,政治少年などの雑多な若者集

団が集結していた。あるいは,一人の若者が視数の「族J=若者集団に所属

していたとも言える。一人でいくつかの族を兼ねていたという場合もあった

(馬淵, 1989, 164頁)。

つまり, r……政治的であれ,文化的であれ,風俗的であれ,あらゆる先

鋭的なものが呑み込まれ,閃光を放ち,渦巻いている, 60年代の新宿はそ

んな盛り場だったJC吉見, 2008, 278頁〉のである。いずれにしても, r新宿族Jとひと括りにはできなかったのである。

フーテン族の種類

改めて,フーテンの実態と特性についてふれておこう o 一口にフーテン族

と言っても,細かく見て行くといくつかの異なったタイプが存在したようだ。

自らも小さな違いで互いに差別化を図るのが下族」の特徴であることは,今

までに何度も繰り返してきた。フ F テン族の場合もその例にもれなL、。

例えば,フーテン族を①享楽派,②通勤派,③観光派,④本格派の 4つに

分類して紹介しているものがある cr東京メモ ミニ・ハイド氏 フーテン

の昼と夜Jr読売新聞JI1968年6月24日〉。

①享楽派というのは,長髪で原色の衣装という外見を整え, rなにかおも

しろいこと」を探しに来る高校生や大学生。②通勤派は,昼間は勤めを持ち,

夜になると着替えて出かけてくる。地方出身の中卒で,中小企業の従業員が

多い。⑥観光派は,マスコミから情報を得て近郊や地方から都会に出てくる。

④本格派は,文字通り本物のフーテンで,彼らは外見がとにかく汚いので,

一目瞭然だという。

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この記事では, もっとも多いのが②の通勤派だと書いている。彼らに共通

しているのは日常の生活に強L、欲求不満を持勺ていることだ。積極的に欲求

不満を解消する術を知らず,気ままな夜のフーテンに変身してァ一時的に自分

を取り戻す。

その意味で,昼間は満たされないながらも小心なジキルを装う,いわば

「ミニ・ハイド」だというわけである。

フーテンの三種の神器

ハイミナール(ハイチャン),ダンモ(モダン・ジャズ),フリー・セック

スをヌーテンの三種の神器という。もう一つの説として,彼らの三種の神器

を「セックス,ゴーゴー, ドラッグ」とするものもある(ケクロス編集室編,

1995, 117頁)。

しかし,このうちゴーゴーに関しては,邪道だとする見方もある。ある週

刊誌のルポ記事では, 1ゴーゴーなんか踊っているヤツは,フーテンじゃね

えよ o ありゃパカだ。フーテンならモダンジャズを聴いてほしいね」唱という

フーテンのリーダー格の男の声が紹介されている (1新宿フーテン族の東大

生 深夜の乞食生活に陶酔する若き男女の生態J~週刊文春.n 1967年 8月14

日号)。我こそが「本物」だと主張し,他の類似の集団をポカにするのは,

「族」の特性のひとつである。

それはともかく,フーテンといったら,睡眠薬に代表される薬物,フリー・

セックスはっきもので,とれに音楽または踊りが加わるということである。-

睡眠薬で一番ポピュラーなのが「ハイミナール」で,その代用として「アト

ラキシンJ(鎮静剤), 1ドロランJ(鎮痛剤)などが使われ,それも手に入ら

ない時は目薬が使われたという。もちろん, ドラッグというとその後の言葉

の用法では,マリファナの方がしっくりくるが,マリファナは入手が難しい

ため一般には睡眠薬が使われたようだ (1若者たち最新版“フーテン"するっ

てどんなこと?J ~女性自身.n 1'967年 8月21日号)

この薬物にまつわる独特の表現として, 1ラリる」という言葉がある。

般的な辞書的な説明では, 1睡眠薬・シンナーや麻薬などで酔ったようなふ

らふらの状態になることJ(米川明彦編『集団語辞典、1東京堂出版, 2000,

784頁)とされるO

これを当時の新聞記事は,さらにその正確な語源lこまでさかのぼって,次

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のように解説する。一一「睡眠薬を飲んでラリルレロの発音拘ができない状態

に陥る。これをラリる,またはラリったというJ(1こじきの系列J(1サイド

ライトJ~読売新聞J 1967年8月8日)01ラリる」という表現は俗語として

はかなり定着した言葉だが,この語源まで知る人は少ない。

フリー・セックスに閲しては,“女の子はみんなの共有物"などと豪語す

る男もいるが,フーテンの多数派は男女とも実はフリー・セックスには否定

的だったようだ。「だれだっていいなんてこと,いえないわ。やっぱりある

程度は好きじゃなきゃダメよ。……J(女, 19歳), 1フリー・セックスなん

て日本でできっこないよ。……J(男, 21歳〉という芦が紹介されているが

(前出「週刊文春」記事),おそらくこれが実態だったと思われる。

いずれにしても, 100の三種の神器Jという表現はマスコミが好んで使

う常套句だ。“モダンジャズと睡眠薬とセックスに陶酔する若き乞食たち"

のようなステレオタイプ化された伝え方もマスコミがよく使う手法で,読者

の側もそうしたパターン化した物言いを好むところがある。

フーテンとヒッビー

ヒッピーとフーテンの違いについて,ずばり「汚い方をフーテンと呼ぶJ

という記述もある(馬淵, 1989, 170頁)。異装異形は,街族に共通する特

性だが,フーテン族の場合のそれは際立っていた。すでに紹介してきたよう

に,彼らのいでたちに関する描写はほぼ共通している。一一ぼうぼうに伸び

た長髪,汚れ放題のシャツにジーンズ,裸足にゴム草履やサンダルをはいて

いた。そのため, 1新宿こじきJ1街頭こじき」などとも呼ばれた。外見に関

する限り,いわゆるホームレス(路上生活者〉のようだったといった方が,町

現在ではたとえとしてはわかりやすいかもしれない。

これは両者の外見上のわかりやすい区別だが,もちろんこれは半ばジョー

クであり,もう少しまじめな分類をしなければならない。

ヒッピーは hippieあるいは hippyという原語があることからも明らかな

ように,元はアメリカの若者文化である。そのルーツは, 1950年代の「ビー

ト・ジェネレーションJ(beat generation)にまでさかのぼることが出来る。

彼らは,ザンフランシスコを中心に登場した若者たちで,アメリカ文明から

離脱し,質素で原始的な生活を送り,自然や禅を愛し,前衛芸術やジャズを

好み,麻薬.(マリファナなど)と自由恋愛ぞ容認していた(同, 174-175頁〕。

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これが, 日本に飛ぴ火して 1959(昭和 34)年の「ビート族」の誕生とな

る。日本に入ってきたルートとしては,前衛芸術家がグリニッチ・ビレッジ

から持ち帰ったケースと放浪中のビートニク (beatnik)のたまり場となっ

た新宿のジャズ喫茶から広がった二つのルートが考えられるという(同,

175頁)。

「風月堂」をジャズ喫茶と呼ぶのがふさわしいかどうかはともかく,新宿

風月堂が,外人ヒッチハイカーやヒッピーの一つの拠点となっていたことは

確かなようだ。また,風月賞は「べ平連Jの手引きで脱走した米兵たちの日

本潜行の際の舞台ともなったことでも有名になった (r日本のアンチ社会派

「フーゲツ族」ヒッピーの巣窟,新宿「風月堂』に集まる青年たちj~週刊漫

画サンデーJl1967年 12月 13日号), r日本の“グリニッチ・ピレッジ"風

月堂の二十年j~増刊漫画サンデーJ 1968年 11月 15日号〉。

ヒッピー・ムーブメントという言葉があるように, ヒッピーが目指すのは,

本来は反文明や反物質主義,反競争主義などの実践運動である。しかし,こ

のような意味で自覚的な対抗文化運動を展開した本来のヒッピーは, 日本に

はほとんど存在しなかったようである。

その数少ないヒッピー・ムーブメントの当事者〈実践者)の,これまた貴

重な実践記録である山田塊也「アイ・アム・ヒッピー 日本のヒッピー・ムー

ブメント '60一'90J(第三書館, 1990)には次のような記述がある。

日本では「部族Jが 1967年にコミューン連動を開始し,カウンター・

カルチャーの花を咲かせた。「部族」は,新宿ビートニックと国分寺グ

ループがドッキングしたもの。信州富士見高原に「雷赤烏族j,南諏訪

之瀬島に「パンヤン・アシュラマj,東京国分寺に「エメラルド色のそ

よ風族」の三拠点を構築し,新聞『部族Jを発行して,わが国のヒッピー・

ムーブメントの前衛的役割を果たした (39-39頁)。

彼らは,富士見高原では土地も入手し「自給自足的」な生活の実践も試み

ているのだが,この記述にあるように, r本物のヒッピー」は, 1967年の時

点ですでに新宿を離れているのである。

従って, 1967年の夏にマスコミによってその存在が一気にクローズアッ

プされた「フーテン」は,いわば「偽のヒッピーjrヒッピーのE流jr風俗

化されたヒッピー」だったのである。

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もちろん,日本においても,ムーブメントのレベルにまではいかないが,

ファッションやライフスタイルの面で,“ヒッピー的なもの"を求めた広義

の「ヒッピー」も一定数は存在七たと思われる。

ヒッピー・ファッションは,長髪・ジーンズはフーテンと同じだが,“指

輪は中南米,ベストはアフガニスタン,パンダナはインド,ブレスレッドは

タイ,履き物はぐえ卜ナムのホーチとンサンダル等々"というように第三世界

の手作り品を愛好した。彼らはいわばそうした「おしゃれ」のこだわりを通

して, r自覚的に(対抗文化的に〉その反公害あるいは文明批評としてのファッ

ション表現」を行ったのである(馬測, 1989, 178-179頁)。

また,反ベトナム戦争運動の中で掲げられた, rLOVE & PEACEJゃ

「フラワーチルドレンJなどのスローガンにも心情的共感安示した(同, 179

頁)。

フーテンの逸脱行動

さまざまな「朕Jは,その逸脱行動によってi吐間の雄躍を買ってきた。フー

テンもまたその例外ではない。そして,逸脱行動には世間一般の常識から外

れているという程度のものから犯罪に至るまで,さまざまなレベルのものが

ある。

目障りであったり周囲に不快感を与える程度のものに対しては,大人たち

は眉をひそめはするものの,積極的に排除しようとはしなL、こうしたもの

に対しては,若者の行動ゆえに黙認することも少なくなι、。

薄汚い恰好でグリーンベルトにただたむろしているだけのフーテン族は,

まさにこのレベルのものであろう。それが,シンナー遊びをし始めると「非

行」のレーベルへシフトする o r非行1という言葉は, 言うまでもなく特に青

少年の社会規範に反した行為をさすのに使われる。

そして,万引き,恐喝,強盗となると,これは明らかに犯罪である。フー

テンたちは, rカンパ」と称して通行人などに物や金銭をねだった。ほろ酔

い気分の酔っぱらいなどは,面白がって彼らにタバコや金を渡した。物や金

品を与える行為も,与える側が自主的にやる限りは犯罪にはならない。相手

の意に反して物や金銭安巻き kげると, rゆすり JrたかりJr恐喝」となる。

この時期の新聞記事には,フーテン族をめぐるこれらの行為に関したもの

が多く見られる。これらはいわばありふれた犯罪で,扱いも小さいベタ記事

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となる。

そして,目立ち過ぎてしまった若者たちには,必ずそれにつけ込むより大

きな悪が存在するのが常だ。フーテンもしばしば不良外人や暴力団の餌食と

なっていた。これらは, 1事件」として当然扱いも大きくなる。

フーテン族の若者に睡眠薬を通常の 10倍にもなる高値で売り付けていた

密嘉人三ふが逮捕されたという記事 (1フーテン族を食いもの 睡眠薬暴利

で密売J~読売新聞J 1967年8月 7日)を皮切りに,この種の記事が多く見

られる。

「外人フーテン族逮捕 大麻密輸 女性含む云人組新宿J(~朝日新聞』

1968年 1月 16日), 1外人フーテンまた逮捕新宿で大麻持つ二人J(同,

1,968年 1月 24日), 1マリファナ密輸“フーテン外人"ら 10人J(同, 1968

年 6月26日)など。

特に最後の記事では,新宿周辺でフーテン族にマリファナを売りつけてい

た不良外人グループ 3人と仲介役の暴力団員を含む日本人 7人が逮捕された

ことが報じられている。不良外人と暴力団が合体した「犯罪組織」にとって,

フーテン族が格好のターゲットであったことが分かる。

また,同じ餌食でも犯罪の片棒を担がされるという形をとるケースもある。

暴力団員が,新宿にたむろするフーテンや家出少年を利用して,いわば組織

的に万引きをさせていたというケースもある。万引きした商品を値引き販売

までしていたというからたちが悪い (1フーテン集め万引き暴力団員ら九人

を送検J~読売新聞J 1968年 5月 14日)。

フーテン族はまたしばしば「騒動」を起こしている。 1967年 9月 10日午

前 2時頃,新宿東口で,フーテン族と酔っ払いとのいざこざがきっかけで,

約 200人の野次馬が集まった。両者入り乱れて,グリーン地帯に建てられた

[立ち入り禁止」の立て札を引き抜き火をつけたり,投石したりした。

その後,群衆は約 500人に膨れ上がり,淀橋響察署新宿東口派出所に投石

などした。警視庁機動隊エ個中隊が出動し, ,6人が逮捕されたが,騒ぎは明

け方まで続いた (1フーテン族ら騒ぐ 新宿駅前J~朝日新聞J 1967年 9月

11日)。ι

約一年後にも全く同じような「騒動」が起きている。 1968年 6月30日午

前 2時前,フーテン族に深夜営業の映画館やスナックから出てきた野次馬が

加わった約 300人の群衆が新宿駅東口広場に集まり,東口派出所に投石じた。

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警視庁機動隊が出動し,最終的に 10人の逮捕者を出した (1逮捕者は 10人

に 新宿のフーテン族騒動Jr朝日新聞J1968年7月1日〉。

もちろん,フーテン族が放置されていたわけではない。それまでの「族J

たちがそうであったように,フーテンもまた,その存在が目立つようになっ

てからは,取り締まりの対象となってきた。

現に後者の「騒動」の直前には,大規模な一斉取り締まりが実施されてい

た。 1968年6月 17日から警視庁防犯部が,地元の淀橋・四谷警察署と協力

し, 1暴力等防止条例J1軽犯罪法」を適用し大がかりな“フーテン狩り"に

乗り出すことになったという記事が見られる (1“暴走フーテン"一掃警視

庁きょうから取締まりJr朝日新聞J1968年6月17日)。

7, 80人の私服審官も動員して,悪質なものはびしびし検挙するという意

気込みが語られているが,この取り締まりの結果についての記事は見当たら

ない。直後に「騒動」が起きていることを考えると,その実効性は疑われる。

また,この記事ではこの時点での新宿のフーテンの数が,約 300人とされ

ている。①本格派フーテンが 5,60人,②通勤フーテンが 150-160人,③

“観光"フーテンが,約 100人,ハイティーンと 20代の男女が半々という内

訳も紹介されている。

いずれにせよ,大小様々なレベルのフーテン族と取り締まり側との攻防は

長期間にわたり繰り返され,先にのべたように 1970年代初頭にフーテンの

消滅をみるまで続いたということであるω。

アンダラ文化

フーテンやヒッピーと親和性の高い同時代の文化といえば, 1アングラ文

化」と総称されるものである O

「アングラ文化の教祖たち」というサブタイトルのついた『サンデー毎日』

の記事が,当時のアングラ文化の概要と主要な担い手たちぞジャンル別に簡

潔にまとめている (1天下太平にショックをまこう アングラ文化の教祖た

ちJrサンデー毎日J1968年3月24日号)。

まず, 1映画」では金坂健二という名が上がっている。彼は, 1966年に第

l回アングラ映画フェスティパルを開催。アメリカのアングラ映画(7)や自作

の「アメリカ・アメリカ・アメリカ」を上映した。 1967年には第 2回目を

開催し,大林宣彦,足立正生,岡部道男等のアングラ映画作家を組織し「ア

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ングラ・シネマ協会」設立を計画している。

彼は,二冊目の評論集『映画は崩壊するか』も出版し,大学の学園祭では

引っ張りだこで,都内の主要大学はもちろん北は北海道大学,南は熊本大学

まで遠征し,“アングラ教"を布教したという。大学の学園祭に呼ばれると

いうことは,若者の支持を示すバロメーターであるので,当時は彼の人気が

肖かったことが分かる。

「アングラ演劇」の教祖として上げられているのが. I状況劇場Jをひきい

る鷹十郎。新宿花園神社でテント小鹿(赤テント)での芝居をする。客席は

ムシロの上だが,定員 130人はいつも超満員。劇団員も風変わりな“アング

ラ的経歴"の持ち主ばかりで. )去の苦によれば. I泣優JI恨使JI痴優」と

いうことになる。「俳優というのは固定民族に対する遊行民族で,役者の原

点はかわらコジキ・かわら者」だとする彼の持論が紹介されている。

他には. I天井桟敷J(寺山修司). i早稲田小劇場J(鈴木忠志〉の名前が

上がっているが,これに「黒テントJ(演劇センタ-68/69)の佐藤信を加

え「アングラ四天王」と呼ぶこともある。

「イラスト」というジャンルでは,横尾忠則が登場している。横尾忠則の

描いたポスターは,ポスターの役割を果たさない。なぜなら,街頭はもちろ

ん,喫茶庖や集会場など屋内にはったものまで,一日ももたないうちにファ

ンの千で持ち去られてしまうからだという。しかも,それが高値で売れると

言うエピソードが紹介されている。

これだけで,人気のすごさを伝えるには十分である。「デザイナーでもな

いし,絵かきでもないという感じが,私をアングラと言わせるのでしょうね。

……」というのが本人の言。

「ハプニング」というジャンルでは,加藤好弘という名が上がっている。

「ノ、プニング」というのはこの時期特有の呼び方で,その後の一般的な呼び

方で言えば. Iパフォーマンス」のことである。突然,場所を選ばず奇妙な

振る舞いを披露するのが. Iハプニング」である。

加藤は. 1960年に前衛パフォーマンスアート集同「ゼロ次元(の会)Jを

結成,過激な全裸パフォーマンスで注目を浴びてきた。 1967年には,新宿・

紀伊国屋書庖の地下アーケードを全裸で防毒マスクといういでたちで行進し

fご。

以上が. Iアングラ文化」の教組と呼ばれた面々だが,この時期に「アン

グラ」と並んで使われた言葉が. iサイケ」である。「アングラ族J・「サイケ

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族」などという呼び方もある。アングラ族の一部がサイケ族と呼ばれるグルー

プだと言えるかもしれないが,いずれにせよ両者は重なっている部分が少な

くない。現に,前出の横尾忠則の作品は, rサイケ調」と呼ばれた crサイケ・

パーで陶酔する男と女Jrアサヒ芸能j]1968年 5月 19日号〉。

ちなみに,サイケとは,サイケデリック (psychedelic)の略語である。

幻覚剤 CLSD)を使用した際に生じる幻覚状態をL寸。幻覚世界を表現し

た芸術が,サイケデリックアートである。極彩色のぐるぐる渦巻くイメージ

やベイズリー模様が代表的なものである。

また,アングラといえば, rアングラ・レコード」も忘れてはいけない。

その筆頭は,何と言っても「帰ってきたヨッパライJC松山猛・北山修作詞,

加藤和彦作曲,ザ・フォーク・クルセダーズ歌)である。レコードは 1967

年 12月発売されたが, '関西で火がついたブームはたちまち全国に広がり,

1968年オリコンの年間シングル売り上げ第。2位になった。

ザ・フォーク・グルセダーズは京都の現役の太学生 3人で,手作りの文字

通りの自作自憤にレコードだった。テープの早回しという意表を突く音づく

りと人を食った歌詞のナンセンスさが受けたコミックソング.である。

2匹目のどじょうを狙うレコード会社は, rケメ子の歌」で続いた。これ

は,もともとは作者不詳の歌で,作曲家の浜口庫之助が見いだした曲で学生

たちの聞で愛唱されていたという。ザ・ジャイアンツの歌うビクター版とザ・

ダーツの歌うコロムピア版との競作となった。内容は,たわいのない失恋ソ

ングだが,キワモノ感はぬぐえない cr地上で旋風 “アングラ・レコード"J

「読売新聞j]1968年 1月 24日)。

この時期の音楽メディアといえば, rフォーク・ゲリラ」も忘れてはなら

ない。 1969年の春に「ベ平連Jの若者たちが,新樹商口地下広場で始めた

ささやかな歌によるデモンストレーションである。やがて,それは見物客や

野次馬を集め巨大な集会へと膨れあがった。騒動を恐れた警察は, r広場」

ではなく「通路Jだと強弁し, r公共空間の占拠」に当たるとして排除に動

いた。 7月には,機動隊によって強制的に追放された。

これもこの時期の注目すべき若者現象だが,この事例は学生運動との関連

でとらえるのがふさわしいので,ここではあえて詳しくは取り上げない。こ

の「フォーク・ゲリラ」に関しては,大木晴子+鈴木一誌編著 n969,新宿

西口地下広場j](新宿書房, 2014)という当事者による素晴らしい証言集と

記録がある。

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社会的・時代的背景

ーフーテンが注目された 1960年代末とはどのような時代だったのかを簡単

に掠りi患ってみよう。ひとことで言うとこの時代は, 1950年代の半ば以降

高度経済成長路線をひた走ってきた日本社会にひずみやゆがみが見え始めた

時期だと言える。

東京オリンピック終了後は,その反動で一時的な不況を迎えたが,直ちに

それは克服され..1965 (昭和 40)年からは好景気に転じ,以後 1970(昭和

45)年まで続くいわゆる円、ざなぎ景気」の時代に入っていく。 1966(昭和

41)年には 3C(Car,. Cooler. Color-TV)が流行語となり, 1新三種の神器J

の新しい耐久消費財に固まれた豊かな生活が広がってL、く。 1964(昭和田)

年に自由化された海外旅行を含め余暇も大型化・高級化してし吋。 1960年

代後半は,端的に「大型耐久消費財と大型レジャーの時代」と呼ぶことが出

来る。

1968 (昭和 43)年には GNP(国内総生産〉が,資本主義世界で第 2位と

なり,国民は「昭和元禄Jの繁栄を彊歌していた。

ところが一方で,この時期には,あまりにも急、激な高度経済成長の弊害と

して,公害問題・都市問題が噴出してきた。高度経済成長の功罪の罪の部分

が露呈してきたのである。 1966(昭和 41)年には交通事故による死者が l

万4千人近くに遣し, 1交通戦争」という言葉が流行語となった。

また,全国各地で噴出した公害問題を受けて. 1967 (昭和 42)年には

「公害基本法」が公布された。翌 1968(昭和 43)年には. 1四大公害訴訟」

(1イタイイタイ病J1"水俣病J1新潟水俣病J1"四日市ぜんそく J)と呼ばれた

公害の被害を訴える訴訟が相次いだ。

1968 (昭和 43)年 10月 21日には,国際反戦デーで集結した反日共系全

学連の学生たちが新宿駅機内に乱入し,いわゆる「新宿騒乱事件」が起きた。

1969 (昭和 44)年 1月には,学生運動の最大の拠点であった東大安田講堂

が,大規模な機動隊の導入によって陥落する。学生運動は,これを契機にピー

クから衰退に向かつて行くことになるが, 1960年代末はよい意味でも悪い

意味でも奇妙なエネルギーが横溢し,騒然とした時代であったことは間違い

ない。

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フーテンの評価

当時の「朝日新聞」に, I論争 フーテン族」という特集記事がある(1967

年8月3日)。フーテンに肯定的な立場から映画監督の大島渚が,否定派の

代表として明星学園教諭の無着成恭がコメントを寄せている。

大島は言う一一フーテンが生まれた理由は, 日本の高度成長の結果余剰な

金が生じたことである。ヒッピーがアメリカの繁栄が生み出した「鬼っ子Jであるように, 日本のフーテンも日本社会の繁栄の「鬼っ子」である。

いつの時代いつの社会にもそれにふさわしい青春の反逆のかたちというも

のがあった。 1960年以降の日本経済の成長が青春の反逆のかたち安変えて

しまった。それまでは,若者は社会に激しく正面からぶつかっていったが,

彼らは「静かにフーテンする」のだーーと言う。

繁栄した現代社会に働く巨大な政治や経済のメカニズ、ムの前に,人聞は卑

小な部分品にすぎなL、。フーテンたちはそのことを本能的に知っている。彼

らは「メカニズ、ムに組み入れられることを拒否して自分自身が一個全体とし

ての人間ならんとしている」というのが結論である。

一方,無着の見解は次のようなものである。一一「六本木族JIみゆき族」

「原宿族」なh どのいままでの「族」は,一般的には恥ずかしい行動も醜い姿

も, Iカッコイイ」と思い込んでいる気の毒な人たちだ。この赤ん坊のよう

な判断力のない自日中心主義のこどもたちは,ある場所から追放しても,ま

たどこかへ行って「なんとか族Jになるだけだ。

車やセックスやジャズに夢中になっている時の充実した感覚だけが人生な

のだと:主張して譲らない彼らは, Iもはや人間ではなL、。虫けらであり,ゲ

ジゲジだ」と,言葉は激しL、。

そして,話は突如自民党政権の教育政策批判に飛躍する。こんな若者たち

を生んだのも日本の教育のせいだというわけである。教科を科学的に分析し

体系的に順序正しく教えれば, I人聞の労働と人聞の社会を愛する真に人間

らしい人間」が生まれるはずだと主張する。

ところが,従来の誤った教育を受けてきた若者たちの本質は,保守的で反

動的ですらある。彼らの行動は,真に青年らしい行動的なものとなっていな

い。前世代との断絶を強調するためには,自分の中にある前世代的なものと

激しく戦う「自己否定」があるべきだと結論づける。

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フーテンが,現代社会が生み出した特有の若者のあり方であるという点で

は,両者の見解は一致している。それを肯定的にとらえるか否定的にとらえ

るかの違いである。

また, r毎日新聞」の「憂楽帳」というコラムでは, rゲパとフーテン」と

題して, rゲパ学生」と「フーテン」を論じている 0969年 11月22日)。

そこでの主張は次のようなものである。

この両者は,一見正反対の存在のように見えるが,案外共通点があるので

はないか。いずれも機械化・マンネリ化・画一化された現代社会に対する

「社会的欲求不満」の表れではないか。「とにかく殻を突き破りたい, 自分と

いうものの個性をあからさまに発揮し,その人間的存在意義を自分の日で確

かめてみたい一一こういった衝動に駆られているのではないか」というのが

中心的な論点である。

方向性こそ違え, rゲパ学生」と「フーテン」には,相通じる「心理基盤」

があるのではないかという見解で,二つの若者集団に共通の「心理」を見い

だしている。フーテンのとらえ方としては興味深いもので,筆者の見方もこ

れに近L、。

おわりに

それでは,改めてフーテン・ヒッピーとは何だったのか? 彼らが, 1960

年代に成立した高度成長期の終盤の日本社会を基礎にした「豊かさの病理」

の表れの一つであり, r飽食の時代」の産物であるととは間違いない。

そうかと言って,フーテンやヒッピーをただの怠惰な若者ーたち,怠け者の

集団であり,一時的な若者風俗レベルの流行現象にすぎないと言ってしまっ

たら,あまりにも否定的な評価となる。

彼らの行動もまた,学生運動とはベクトルの向きは追うものの,青春の反

抗の一つの形態であ勺たことも事実だろう。たとえ自覚的なものではなかっ

たにせよ,社会の現状に対するいわば本能的な拒否反応,無意識の抵抗だっ

たかもしれないのである。

競争主義の社会に背を向け,体制(大勢〉から敢えて「降りる」こと(ド

ロップアウト!)は,ひとつの立派な「思想」である O コミューンのような

本格的な運動にまでは杢らなかった「疑似ヒッピーJも,来るべき減速経済・

低成長時代のライフスタイルを先取りしていたのかもしれなL、。彼らの「思

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想」は, 1自然回帰」や「エコロジ一重視Jの先駆けだったとも言える。

1 一方, ヒッピー文化としてのアングラ文化が残したものは,確実で大きL、。

当時は珍奇なものとしてキワモノ扱いだったが,それらはその後大きく花を

聞かせ, 1アングラ文化の旗手」と呼ばれた人たちの中には,それぞれのジャ

ンルで優れた業績をあげ,今では「大御所Jと言われるような人も少なくな

L 、。

そのことに対しては,マイナーな文化がメジャーに取り込まれてしまった

のだという否定的なとらえ方もある。しかし,それぞれのジャンルでその時

期に生み出されたものが,その後の大衆文化やポピュラーカルチャーの基礎

を築いたことは事実である。それらは,大衆文化やポピュラーカルチャーの

領域で実り豊かな成果是残し,今では貴重な「遺産」とも言えるようなもの

になっている。

ただ,ここで問題になることがあるとすれば,その担い手についてである。

ごの時代の「アングラ文化の旗手」と呼ばれた作り手たちの多くは,実は団

塊の世代よりは 10歳ほど年上の人たちだったということである。アングラ

文化の作り手たちは,この時期の若者の中核的な部分を構成していた人間た

ちよりは,少し年長の人たちだった。

しかし,間違いなくそれらの受け手・支持者たちは庇倒的に団塊の世代だっ

た。大衆文化・ポピュラーカルチャーとりわけサブカルチャーにとっては,

熱心な享受者・消費者はその成立には欠かせない存在である。受け手もまた

大衆文化の重要な扱い手なのだ。その意味では,団塊の世代もアングラ文化

に参入し,アングラ文化を「作った」のである。

1960年代末は,戦後の第一次ベピーブーム世代 (1団塊の世代J)が,ま

さに若者世代の中核を構成するようになった時期である。そして,この巨大

な“かたまり"の団塊の世代の中に集積されたエネルギーとパワーが,いた

るところで爆発したのである。

従って,フーテン・ヒッピー,ア.ンダラ文化とは,この団塊の世代と当時

勢いを増しつつあった新宿という街が交差するころに生まれたひとつの“化

学反応"であり,“特異で奇妙な若者文化"だったと,ひとまずは結論づけ

ることが出来る。

そのときに,団塊の世代の量的な大きさ(ヴォリューム!)は,無視でき

ない要因だろう。過密状態におかれた動物たちは,パニックや異常行動を起

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こすと言う。 1960年代末の若者文化の大爆発は,そのような俗流生物学的

解釈を想起させずにはおかない。

《注〉

(1) 以下の記述では, 1フーテン」と「フーテン族」および「ヒッピー」と「ヒッ

ピ一族」は,特に区別しなければならない場合を除いて,相互互換的に使う。

(2 ) フーテンという言葉の由来については,次のような説もある。一一「日雇い

港湾労働者安風太郎(フータロー)と読んでいて,これがのちにプータローに

かわるが,このフータローがフーテンにかわったとも考えられるJ(馬淵,

1989, 174買〉。(3) 1鍵J(市川昆監督, 1959年,大映), 1癒瀬老人日記J(木村恵吾監督, 1962

年,大映〉など。

C 4) フーテンの数については,新聞や週刊誌の記事では,多くて 500人とするも

のが一般的だ。 800人というのはL、ささか過大すぎる数字ではないか。

(5 ) 大島渚監督はスカウトしたフーテン娘・桜井啓子を主演で「無理心中 日本

の夏J0967年,松竹)という映画を作っている。

(6 ) フーチンが起こした騒動には奇妙なものもあった。 ζの時期の学生運動で最

も注目を集めた東京大学とフーテンとの聞に思わぬ接点が生じた出来事である。

1968 C昭和 43)年 8月24日の夜,安田講堂前広場に新宿のフーテン族約 50

人が集まり,広場横にある浜属新元東大総長の銅像に白ラッカー(ペンキ)を

吹きかけ,金のこぎりで首の部分を切ろうとしたという事件である (1浜尾総

長に像に乱暴 フーテン族,東大で集会Jr朝日新聞.11968年8月25日)。

(7) アングラとは,言うまでもなく undergroundの略。アングラ映画とは,商

業主義のペースで作られることを拒否して個人が作る自主製作映画のこと。

引用及び参考文献

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