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2000年度補教師試験①説教 聖書個所:ヨハネの福音書1章1~13節 説教題:最高のクリスマスプレゼント 主題:最高のクリスマスプレゼント(神の子どもとされる特権)を受け取るため に必要なことは、イエス・キリストを信じ受け入れることである。 所属教会:日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会 (東海聖書神学塾・教職志願者コース卒業) 野町真理

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  • 2000年度補教師試験①説教

    聖書個所:ヨハネの福音書1章1~13節

    説 教 題 : 最 高 の ク リ ス マ ス プ レ ゼ ン ト主題:最高のクリスマスプレゼント(神の子どもとされる特権)を受け取るため

    に必要なことは、イエス・キリストを信じ受け入れることである。

    所属教会:日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会

    (東海聖書神学塾・教職志願者コース卒業)

    野 町 真 理

  • ヨハネの福音書1章1~13節

    /j/勿必Zご、こjrぱif、右った。こ2rなりばj挙とと必Zご彦った。こg£・な″な’卯であった。

    /jにの方な、れSウノご卯とと必/;ご方6がた。

    /jjy’べて″の・6のが、このオ/こ’。lrってlzl6がた。

    -6ぬた必ので’、ごぶ乙?;;67;ご。た・6ダ“Zこできた・6のが一つ・6なp。

    μ、ダごga;夕・Z3・のちjf泌った。ごの1;・のちなy(政患で’彦った。

    μj碧/il・やみのj≠y/ご庫&・でp。5.やみなこが/;ごがちー力rなかった。

    /j∂卯、!1・6jl力さがたヨ/・、碑とpjλjl-わyz、た。

    μ7このλな・諮か£。のた必/;ごje:た。岩Zごつ(・であか£。ず’1た必で’諮6/、

    y・’べでのλjf膚/;二’よ・っrgじ。5た必で彦。、5.

    /。・∂-ylZ漣でななかった。た・だj11Zごつ&・であか£。ず゛。5た必Zごまたの‘ぴ諮、1.

    /Jy‘べて’のλ差=-6尹そのま’ことのj11が蓼/;こ7j央;よjと£.rpた。

    μ/∂こ41カ・な・6とか6泄/;ご方6れ、泄な’ご政か;ごよって’遊=6ぬたの/ご、

    泄な・このオ差:鳶6なかった。

    /J/ごのぶS・な’ご庁分のぐZごZご浹6ぬたのZご、ご涼分のji以111’/y.λ、¢zなかった。

    /ご/、2乙か£。、このオ差=f/yλがたλ・々’、y’な力右、その名差=膚`じたλ々/;ごな、

    卯のデど・6ときyz。。5卯盾差=方孝iZごなった。

    /。゛/jごのλ々な、虚Zご。1;って’‘rな・なぐ、肉ぶZ)1礎求やλの倉政/ごよっ’て″で・6なぐ、

    た、た、卯Zごよ・コて’生まyz、たのでy必。5.

  • 康λjタダヌマヌプj.・ぎンノ;. 4

    冰斎jj・.,髪膚`のタダヌマヌプシゼンMIイェヌ・キダヌMμ; -が・ryさっと4

    A、イエス・キリストは、すべてのものの造り主なる神である

    B 、 イ エ ス ・ キ リ ス ト は 、 い の ち の 源 、 や み の 中 に 輝 い て い る 光 で あ る

    共有する特権

    な・,イヱヌ・キダヌメ・を鳶`じ,心のヂ政受/y:,λぬ,ながyμ;1゛;a‘6,ない

    が夕

    C、イエス・キリストは、人(肉体)となってこの世に来られた神である_6

    冰鳶、2jJI肩゛のタダヌマヌプμゼンみとな、斧のヂど6とさ轟ぶ疹蔵’1:1あに7

    A、天の父なる神をお父さんと呼ぷことができ、父の所有しているものすべてを

    B、父なる神の愛を無条件に受け、キリストに似た者に変えられる特権

    鳶鳶丿鳶肩`のタダヌマヌグぶ・ゼン/、沸の子ど6とさぬ・5餉鯵りt受が最、5ため4r

  • 導入:クリスマスプレゼント

    毎年クリスマスには、様々なクリスマスプレゼントが贈られます。実は聖書の

    中には、最高のクリスマスプレゼントについての喜びの知らせが、書き記されて

    います。今日は、この最高のクリスマスプレゼントを、みなさんとー緒に味わい

    たいと思っています。

    聖書には、世界で最初のクリスマスに起こった歴史的出来事が、正確に記録さ

    れています。クリスマス。それは全世界で、イエス・キリストの誕生を記念する

    日です。

    キリストとは救い主という意味の言葉です。イエス・キリストという呼び方は、

    実は「イエス様がキリストである」という告白です。イエスが名前でキリストが

    母というわけではありません。イエス・キリストという呼び名は、「イエス様がキリストである」という単純明快な信仰告白なのです。

    今年私たちは、西暦2000年を迎えています。それは、「イエス・キリスト

    の誕生の時から約2000年経った」ということを意味しています。西暦という

    のは、イエス・キリストの誕生を元年とする紀元だからです。

    世界の歴史が、イエス・キリストの誕生を境にして、二つに分けられています。

    そして最高のクリスマスプレゼントは、このイエス・キリストが届けて下さったと、聖書は語っています。

    本論1:最高のクリスマスプレゼントはイエス・キリストが届けて下さった

    6 節 か ら 8 節 を 見 て 下 さ い 。

    μδ卯から.zlyフさぬたヨ/1,≠と4りλが膠Zフぬた。

    μ7ごのλな彦か乙のた必Zご浹た。蒼/;ごついで彦かしず’,ぶた必で’必6/。

    ず″べて’のλjl哨IZごよ・って″膚‘じ,1た必で彦。5.

    j’。‘j’膚yS;り11てiな・なかった。差rjとり11Zごつ乙・r彦かむず’Jた必Zこ7jまたの‘ぴ彦1.

    ここには、神から遣わされたヨハネという人が登場します。このヨハネは、バ

    プテスマのヨハネと呼ぱれていて、この福音書を書いたヨハネのことではありま

    せん。

  • グリューネヴァルトという画家が描いた有名な絵の中に、このバプテスマのヨハネを描いた絵があります。その絵の中には、十字架につけられたイエス・キリ

    ストを力強く指差しているバプテスマのヨハネが描かれています。そしてその絵

    には、バプテスマのヨハネの言葉として、/’貧肱il夕‘″19e!i、力た£Jalりi。5./と書

    き添えられています。/’貧なJISy’:111!i、力た£.jば・濾りi貳/という言葉は、キリストをまっすぐに指し

    示しているバプテスマのヨハネの指と共に、彼の生き様を生き生きと表わしてい

    ます。彼は人々に自分のことをあかしし、人々の賞賛を受けようとしたわけでは

    ありません。彼はただ、イエス様をキリストとしてあかしし、人々にイエス・キ

    リストを指し示しました。

    著者ヨハネはこの冒頭において、イエス・キリストを指し示しているバプテスマのヨハネを登場させることによって、イエス・キリストに私たちの心を向けさ

    せます。

    そして著者ヨハネは、イェス・キリストというお方がどのようなお方なのかを、

    冒頭で明らかにしています。

    A、イエス・キリストは、すべてのものの造り主なる神である

    1 節 か ら 3 節 ま で を 見 て 下 さ い 。

    /j/勿必/と’、ごg!・Zか哺った。ご2・がな’卯とと必Z二’あった。ごとば’な卯で゜諮った。

    μ2ごgp.かば・、1勿必/;ご卯とと・6/ご方6カ、た。

    μjy’べでの・6のが、ごgZ)。オ・/;ご。たって1zl6がた。

    -6ぬた必のでy、ごの方/こ’。た6力;こできた・6のがーつ必なp。

    ここでは、イエス・キリストが「ことぱ」なるお方、また、すべてのものの造

    り主なるお方として紹介されています。初めに、この宇宙が創造される前から、

    父なる神と共におられ、すべてのものを創造されたお方。全宇宙の創造者。私の、

    そしてあなたの造り主なるお方。それがイエス様であると聖書は語っています。

    ですから、あなたは偶然に存在しているわけではありませんし、サルから進化

    したわけでもありません。「イエス様があなたを、かけがえのない大切な存在とし

    て造られたんです!」そう聖書は語っています。聖書は、偶然を信じ創造者なる神

  • を信じない進化諭ではなく、創造論に立っています。

    B、イエス・キリストは、いのちの源、やみの中に輝いている光である

    次 に 、 4 節 と 5 節 を 見 て 下 さ い 。

    μ4ごIZ?j;れ3・の右jず泌った。こ’の&lの右なλのj11‘r諮った。

    μj鳶Z;t・f5みのj戸Z二・庫詐a・。5.やみなごれにが右瀞力;なかった。

    ここにはイエス・キリストが、いのちの源なるお方、やみの中に輝いている光

    として紹介されています。

    私たちの罪を身代わりに背負って、罪のないイエス・キリストが十字架につけられて殺され、そして墓に葬られました。けれどもイエス様は、3日目に死とい

    うやみに打ち勝ち、死人のうちからよみがえられ、今も生きておられるお方です。/:池なやみのφに

    葉は、よみがえられ、今も生きておられるイエス・キリストのことを意味しています。

    死の向こうに、確かな希望の光として輝いておられるお方。いのちの源なるお

    方。今もやみの中に輝いておられる光。それがイエス様です。

    C、イエス・キリストは、人(肉体)となってこの世に来られた神である

    そ して 、 9 節 と 1 4 節 を 見 て 下 さ い 。

    /j夕貳べでのλfjiy6ず’ぞ・のま’ごとの鳶jllf泄Zごまよラと乙で&lた。

    /jμこ・2:■Z’ンぱλ2・なっr、鳶たちの犀Zご茫まLかぬた。

    ここには、この全宇宙を創造された神御自身が、肉体を持たれたという驚くべ

    きメッセージが記されています!永遠の昔から父なる神と共におられ、すべてのも

    のを創造されたお方。私の、そしてあなたの造り主なるお方。いのちの源、やみ

    の中に輝いている光であられるイエス・キリストが、私たちと同じ肉体をもった人となって、この世界に来て下さったのです。

    そして世界で最高のクリスマスプレゼントは、この人となられた神、イエス・キリストが届けて下さったと、聖書は語っています。

  • イェス・キリストが届けて下さった最高のクリスマスプレゼント。それはどの

    ようなプレゼントなのでしょうか?次にそのことを見ていきたいと思います。

    本論2:最高のクリスマスプレゼントとは、神の子どもとされる特権である

    ヨハネ福音書の冒頭部分は、1章1節から18節まで続いています。けれども

    今日は、1章の1節から13節までを見ていきたいと思っています。実はこの冒

    頭の中に、著者ヨハネがこの福音書全体を通して、最も伝えたいメッセージがす

    でに記されています。1章12節を見て下さい。

    μz、2£。か乙、この方差=。吏/九λがたλ々、y’な力ち、その名蒼:-じたλ々/ごな、

    卯のデど・6とさが。5卯着差=方与、i:Zごなった。

    ここに「神の子どもとされる特権」という言葉があります。実はこの「神の子どもとされる特権」こそ、世界で最高のクリスマスプレゼントなのです!

    A、天の父なる神をお父さんと呼ぶことができ、父の所有しているものすべてを共有する特権

    昔、日本人の牧師が、ナイアガラの滝を見ていたそうです。あの世界一大きいというナイアガラの滝です。一人のアメリカ人が、彼の所に来てこう言いました。「どうだ日本人、おまえの国にはこんな大きな滝はないだろう」と。するとその

    日本人牧師はこう答えました。「これは私のお父さんのものです」。これを聞いた

    アメリカ人はびっくりしてこう尋ねました。「あなたはインディアンの息子なので

    すか?」。その時、日本人牧師はこう答えました。「私はイエス・キリストを信じ

    ている牧師ですから、この滝は私のお父さん、父なる神様のものなのです」と…。これを聞いたアメリカ人はびっくり仰天した後、次の日曜日にその日本人牧師

    を教会に招いて、集会をすることにしました。そこには「ナイアガラの持ち主の

    息子来る!」という大きな垂れ幕が掲げられたそうです。

    「神の子どもとされる特権」。それはまず、この牧師のように、「ナイアガラの

  • 滝も、エベレストも、太平洋も、全世界も、地球も、宇宙も、私のお父さんのものです」と言うことができる特権です。それはつまり、天の神様に向かって「お

    父さん!おとうちゃん!」と親しく呼びかけることのできる特権でもあります。

    そして、「私のお父さんのものです」と言うことができる特権は、同時に、お

    父さんの持っているものすべてを、共有することのできる特権なのです!

    父なる神が持っておられるもの。その中には、イエス様の十字架と復活によっ

    て現わされた永遠のいのちも含まれています。そして、神の国の国籍(神の家の

    籍)、天国へのパスポートも含まれています。さらに、私たちの内に住んでくださ

    る聖なる神の霊、すなわち聖霊なる神との親しい交わりも含まれています。聖霊

    なる神は、助け主、慰め主、またいのちの泉とも呼ぱれています。

    B、父なる神の愛を無条件に受け、キリストに似た者に変えられる特権

    そして、「神の子どもとされる特権」の中には、父なる神の愛を無条件に受けることができる特権も含まれています。

    私たちがまだ罪人(神の敵)であった時、キリストは十字架の上で、その愛を

    あますところなく明らかにして下さいました。私たちの弱さや醜さをすべてご存

    知の上で、父なる神は/ヲフたZ.のーZごなあなたZ;17肩・-でF-p。力た乙。な諮なたf

    fl.rp、1./とおっしやっていて下さるのです。「神の子どもとされる特権」とは、そのような無条件の愛の中で、永遠に生き

    ていくことができる特権なのです。

    そして私たちが父なる神の愛を受けて歩んでいく時、将来私たちは、必ずキリストに似た者に変えられる。そう聖書は約束しています。神の子どもとされたならば、将来必ず父なる神のように、キリストのように変えられていくのです。

    イエス・キリストの父なる神は、私たちが神を神とせず、神に背を向けてやみの中を歩んでいた時に、私たちを愛して下さいました。「神に頼るほど自分は弱く

    ない。私は神に造られたわけでもないし、自分の力でいきているのだ!」。そう言いながら、私たちが神に背を向け続けて、自己中心に歩んでいた時に、父なる神

    はいのちをかけて、私たちを愛して下さったのです。

    その考えられないほどの大きな神の愛は、私たちを神の愛を受けるにふさわし

  • い者に、将来必ず変えて下さるのです。

    天の父なる神を「お父さん」と呼ぶことができる特権。父なる神の持っておら

    れるものすべてを、一緒に持つことができる特権。父なる神の愛を無条件に受け、

    キリストに似た者に変えられる特権。それが「神の子どもとされる特権」という

    言葉で表現された、最高のクリスマスプレゼントなのです。

    結論:最高のクリスマスプレゼント(神の子どもとされる特権)を受け取るためには、イェス・キリストを信じ、心の中に受け入れなけれぱならない

    プレゼントというものは、必ず送る側がすべて代金を支払います。受け取る側

    は、ただ「ありがとうございます」と言って受け取るだけです。

    もし受け取る側が、少しでも代金を支払ったとすれば、それはもはやプレゼン

    トとは言えません。

    世界で最高のクリスマスプレゼントも同じです。それは世界で最高のプレゼン

    トである以上、その代金は最高に高価なものでした。実はその高価な代金は、イエス・キリストがあの十字架の上でいのちを捨ててくださることによって、すべ

    て支払われたと聖書は語っています。

    イエス様は十字架に架けられ、息を引き取られる直前に/で忿アした。/という言

    葉を口にされました。この言葉は文字通り救いが完了したという意味でもありま

    すが、/’謄虚・・鳶-ZZ’尹・り7返旅£。た/。/という意味の言葉でもあります。

    もうお分かりでしょう。返済することのできない私たちの罪の負債は、イエス

    キリストが十字架で苦しんで下さったことによって、すべて支払われたのです。

    世界で最高のプレゼント、「神の子どもとされる特権」は、イエス・キリストのいのちと引き換えに、無代価のプレゼントとなったのです。

    ですから私たちは、ただ「ありがとうございます」と言って、受け取るだけでいいのです。

    私たちがプレゼントを贈る場合、必ずプレゼントを贈るだけの値打ちのある人に贈ります。そのプレゼントに見合うだけの価値がない人に贈るようなことはしません。そんなことをすれば無駄だと思うからです。

  • けれども、天の父なる神様は、こんな私のために、そしてあなたのために、最

    高に無駄に思えることをして下さったのです。ヨハネの福音書3章16節に、

    jj/∂卯な、鳶/;ご、そのひと6/ヂ差=方与iZごなったー’どZご、泄差=fさがた。そがな

    摩デ差;fじ・、5者が、ひと6/とムでjfび。5こと、なぐ、鳶遠の乙・のち蒼;斧つた必で諮

    1.

    と記されているとおりです。

    さて、私たちが「神の子どもとされる特権」という最高のクリスマスプレゼントを受け取るためには、どうしたらいいのでしょうか?最後にそのことを見てい

    きたいと思います。1章10節から12節を見て下さい。

    /.゛/∂ごg?.方な’必とか6泄/;ご方6が、泄なご4Z?4;おごよ・コrて1差6がたの/に’、

    泄な・ごのオ差=.却6なかった.

    μ//ご4;pj;タなご濾分のく’/ごZご.;央:6がたのZご、ご’j痙分のーなj-’九λがなかった.

    /jZ2£.か£.、この方差=f/九λがたλ、4t、y’な・1り右、その者差=-‘じたλ々Zごな、

    卯のデど必とされる卯着f方与iZごなった.

    私たちがイエス・キリストから「神の子どもとされる特権」という最高のクリスマスプレゼントを受け取るために必要なこと。それはただ、あなたの心の中に、

    イエス様をキリスト、すなわち救い主として受け入れるということです。イエス

    様は今、あなたの心の扉をノックしながら、こうおっしやっています。

    j’。’gjgよ。力たむな、戸のjμこj2’っでたたぐ。

    だyzで゛必、めた乙の声差:-pr戸差=彦/y・1な6、

    、わた£。な、貧のとこ’ろZこ’な1、・って’、貧とと必Zこjl・襄f乙、

    疲’6力たととと必Zご鳶夢差=尹。、5.

    もしあなたが、心の扉を開き、「イエス様私の心の中に入って下さい!」と祈

    るなら、たとえあなたの心の中がどんなに汚れていたとしても、イエス様はあなたの心の中に入って下さいます。

    10

  • あなたは、この世界で最高のプレゼントをもう受け取っておられるでしょうか?もし受け取っておられないならば、今日、あなたもこの最高のプレゼントをお受け取りになられませんか?もし心を開いてイエス様を心にお迎えし、「神の子どもとされる特権」を受け

    取りたいと願われる方がおられましたら、私が短く区切って祈りますから、ご一緒にお祈りして下さい。

    祈 りイエス・キリストの父なる神様。

    私は今まで、あなたに背を向けて、自分勝手に歩んでいました。

    けれども、私がまだ罪人であった時、イエス様が私の罪のために、

    死んで下さったことを感謝します。

    今私の心の中に入って下さい。

    あなたが、私の人生を導いて下さい。

    神の子どもとして下さったことを感謝します。

    イエス・キリストのお名前によって祈ります。

    アーメン。

    11

  • 2000年度補教師試験②

    教 憲 教 規 に み る 補 教 師 の 務 め と 責 任 に つ い て

    所属教会:日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会

    (東海聖書神学塾・教職志願者コース卒業)

    野 町 真 理

  • がZ]めだ

    叔碧≒騨`∂鳶β~;βll’21疹凌-g壕節次・ついて」;jj.P

    yy夕ly,1

    第4章教会担任教師(第48条~57条)について第48条第49条第50条第51条第52条第53条第54条第55条第56条第57条

    第5章教師(第66条~76条)第66条第68条第69条第70条第71条第72条第73条第74条第75条第76条

    δ

    66

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    0・1

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    0011

    11

    11

    11

  • は じ め に日本同盟基督教団の教憲教規において、補教師の務めと責任について述ぺられ

    ている項は全部で3箇所ある。それらは、教憲においては第8条(教師)、教規に

    おいては第4章の第48条~57条(教会担任教師)と第5章の第66条~76

    条(教師)である。

    以下にそれぞれの項において、補教師の務めと責任について述べられているこ

    とをまとめ、私の考えを述べる。なお現在は、1995年3月に改訂された教憲・

    教規が最新のものである。

    教憲第8条日本同盟基督教団の教師について

    本蜜-の&鉱ぱ、卯のー蹟ff/y’、膚身£。たまが、Z蒼の手-き差=瀞て・その岳/;ごあた。5.斎節なこぬ蒼分/ブ・て’、ji齢席゛fも3iぴW斎藤と尹。、5.

    Zlll;參なj吋Ξ視蒼g£。た者、却満席な’政-励t忿ff/y・た者と尹。5.

    解説書によると、ここで教師という言葉は「神のことぱを教える教師」という狭義の意味で使われている。故に、たとえ補教師であっても、最優先すべき務めは、主なる神の前に静まり、神のことぱを聴くということである。イエス様はすべてのキリスト者に対して、どうしても必要なことは静まって神

    の御声を傾聴することであると教えて下さった。教師であればなおさら、主の前にひざまずき、静まって御声を聴くことが、どうしてもしなけれぱならないことだと言える。そして教師は聴く祈りの中で、主から与えられた神のことばを、まず自分自身

    に対して語られていることばとして受け止め、率先して御言葉に従わなけれぱならないと私は考える。たとえ教師であっても、自らが実践していない御言葉を他人に教える資格はないと思われる。次に教師は、さらに祈りつつ説教の準備に時間をかけるべきであると考える。

    なぜなら教会は説教によって立ちもし、倒れもするからである。そして、神のことぱだけが、どんな人であっても、人を内側から新しく造り変えることのできる力を持っているからである。聖書は、教師は格別厳しい裁きを受けると警告している。最も光栄ある務めで

    あると同時に、最も責任が問われる務め。それがみことぱに仕え、「神のことぱを教える教師」の務めであると考えられる。

  • 日本のキリスト教会が今、世からほとんど危険視、あるいは重要視されていな

    いのはなぜであろうか?

    その原因のーつは、あまりにも個人主義的な、貧しい福音理解の故だと私は考える。口でどんなに福音の素晴らしさを説いても、もしその人が本当に福音の豊

    かさを知り、福音に生かされていなければ、態度や顔の表情で「これは本当は素

    晴らしくないんです」と語っていることになりかねない。

    世の中には、巧みなコマーシャルや虚言によって飽き飽きしている人々、けれ

    ども本物の救いを求めて羊飼いのいない羊のように、空しさと孤独と絶望の中を

    生きている多くの人々で満ちあふれている。

    その人たちに対して、本物の福音を伝えていくためには、まず私たちキリスト

    者自身が、福音の豊かさを理解し、味わい、福音の神、イエス様を喜んで生きることがどうしても必要だと私は考えている。

    教会教職として大切な点は、①まず神の召命を受けて献身した者であること。②正規の手続きを経た者であること。という2点である。正規の手続きについては、「日本同盟基督教団教師検定規則」が定められてい

    る。

    私たち日本同盟基督教団は、教会の主権者はキリストであり、教会の権能の源泉であると信じている。そしてキリストの教会統治は霊的であり、みことぱと聖霊によってなされる。このキリストのもとに、初めに使徒の職務が定められ、教会の職制は歴史的に形成されて来た。その中に、神のことばを教える教師が置かれ、その職務を果たして来た。

    教会政治の起源はキリストに帰せられると考えられる。それは、キリストが1

    2使徒を選んで、創始したばかりの教会の指導者としたからである。

    教会がエルサレムで歩み始めたとき、これを治めたのは使徒会誰であった。使

    徒たちはペンテコステの時に与えられた聖霊の力と知恵とによって教会を導いた。そのような政治とともに古代教会は誕生した。そこには長老、執事、監督、あるいは教区、伝道局、公会議、年会などは存在しなかった。統治構造や管理組織は、

    必要が生じて次第に発展したと考えられる。他の役務を設けるに際しては、聖霊の指図を受けた使徒たちが音頭をとった。その際、新しい役務者は聖霊によって

  • その役務へ内的召命を受けるとともに、教会の民主的選挙と使徒たちによる外的

    召命を受けた。

    これら役務者は大きく二つに分けられる。第一にキリス。トに選ぱれ、特別な霊

    の賜物を与えられていた霊の賜物による役務者たち、次に管理的な役務者である。

    霊の賜物による役務者たちとしては、使徒、預言者、福音伝道者、牧師あるいは

    教師が挙げられる。

    使徒の時代が終わろうとする頃、教会は次第に独立し、上位にある者は監督と

    呼ばれるようになった。そのほかの者は後になって長老と呼ぱれた。どの教会に

    おいても1人の監督の地位が高められるようになり、人々はだんだん監督をほか

    の長老たちよりも優れている者と認めるようになり、監督の権限は徐々に近隣の

    町にも及ぶようになった。

    初代教会においては、どの監督も、階級、権威、機能において平等であった。

    そして、初期の監督は教会の独裁者ではなかった。彼らは、自分の指導する長老や執事、また自分の管理する都市や地域の教会全体と常に接触を保っていた。そ

    れゆえに彼らは教会の信仰を代弁し、かつ堅持し、迫害や異端との戦いの中で教

    会を建て上げていく指導性を発揮する代表者であった。

    しかし2世紀の中頃になると、ある教会の独裁的な監督たちが他の監督たちよ

    りも璽んぜられるようになった。

    そ して ミ ラノ の 勅 令 に よ って ロ ーマ 帝 国 の 迫 害 に 終 止 符 が 打 た れ た 3 1 3 年

    から590年までの間に、ローマ監督がこれら平等な監督たちのうちの第一と認

    められるに至った。590年にグレゴリウス1世が監督になると同時に、ローマ

    教会は他の監督たちに対する首位権を主張しはじめた。これがローマ・カトリッ

    ク教会の始まりである。

    後にピラミッド形の階制による絶対的な権力をローマ・カトリック教会が持つに至った時、その権力が腐敗を招くことになる。

    同盟教団は、この教師の職務を重んじ、自称教師ではなく、教会の秩序の中でその職務が正しくなされるように、職制が置かれ、正規の手続きが定められている。教師の検定は教団に委ねられた部分、究極のご任命は教会の主権者である主御自身によると考えられている。教師は、正教師と補教師に分けてあり、正教師は同盟教団の補教師になってから3年以上専ら伝道に従事した者が、正教師試験を受けた後に按手礼を受ける。

  • 教 規第4章教会担任教師(第48条~57条)について

    第48条ここでは、教会担任教師の呼び名が規定されている。教会担任教師とは、特定

    の教会に就任した教師のことであり、正教師は牧師、補教師は伝道師という職名で呼ばれる。

    第49条ここでは、教会担任教師が執行できる教務を規定している。補教師は第2項の

    聖礼典の執行はできない。1、礼拝・伝道及び信徒の信仰指導2 、 聖 礼 典 の 執 行3、結婚式、葬式その他の儀式

    教師の最優先すべき務めは「みことぱを宜ぺ伝える」ことにある。礼拝においては聖書に基づいて神のみことぱが説教され、聖礼典が正しく執行されなければならない。「すべての造られた者に、福音を宜べ伝えなさい」との伝道は、教会に委ねら

    れた使命である。また、教職が立てられているのは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」という御言葉のとおり伝道と牧会を通して、教会形成のみわざに奉仕するためである。また、私たちの地上の歩みには、結婚式、葬式、その他の諸式がある。すべて

    の機会を主の栄光を現わす良い時として用いるために、積極的にこれらの諸式を聖書に基づいて行う勤めが教職にはある。

    受洗に導くことを目的・ゴールとした伝道活動を行うと、出来るだけ短い洗礼準備会によって実利主義的に能率良く未信者に福音を伝えようとするため足腰の弱い教会となってしまう危険がある。3年程で約半数の受洗者が教会から離れて信仰をなくしていくという日本のクリスチャンの幼児死亡率の高さを考えると、必要以上のけが人を出しているように思えてしかたがない。教会にとって洗礼教育(求道者会・洗礼準備会)は最も重要な働きの中のひと

    つである。聖書的背景のない日本では正しい信仰、福音理解に導かれるにはそれ

  • なりの時間を必要とすると私は考える。また、洗礼を受けるということは、単なる個人的な問題にとどまらないという

    ことがあまり語られていないと思われる。これは敬虔主義から生じた個人主義的信仰によるものと考えられ、共同体意識を希薄にしている。信仰告白を公にし、洗礼を受けることによってキリストの体の一部とされ、ぷどうの木につながる枝として共同体の一員とされることの意味の重さは、聖餐にあずかる者となることの重さの理解に直接結びつく。

    近年、伝道者・牧会者のメシア・コンプレックスや燃え尽き症候群という言葉を耳にする。も・ともと燃え尽き症候群という言葉は、対人関係を中心とする仕事に就いている人々の間で生まれた言葉である。なぜなら対人関係においては自分の思いどうりにならないことが多く、また目に見える形ではなかなか結果が見えてこないからである。伝道者や牧会者もこの例にもれず、実利主義的に受洗者の数や礼拝出席者の数でその働きを人間的に評価されやすい中にあって、その意義と安全を何に置くかが予防の鍵となると私は考えている。神ご自身の中に働きの意義と安全を見いだすことは、牧会伝道をする動機と目

    的、つまり「何のために、何が見たくてそれをするのか」という思いを健全なものとし、私たちを同労者同士の妬み合いなどからも解放し、私たちの働きをただ神にのみ栄光を帰するものとする唯一の道であると考えられる。

    第50条教会担任教師は、次の事務を掌る。

    教団事務局との連絡に関する事項官庁その他各種団体との連絡に関する事柄教会総会及び役員会の招集に関する事項教会財産及び財務に関する事項その他公益事業に関する事項

    教会担任教師2名以上あるときは、教会規則により主任者を1名定め、

    前項の事務を掌らせるものとする。

    教師にはこの5項目の事務の責任がある。けれども御言葉の奉仕を最優先するために、教職の責任において、具体的な事務分担は役員会に負って頂くことが望

  • ましい。

    第51条教会担任教師は、本教団教師中より選び当該教師と教会、及び教団理事会とが

    合議し、教会総会の議を経て、教団理事長に申請し、その任命を受けるものとする。

    教会担任教師は、本教団教師の中から、教師と教会と教団理事会との合議によって選任され、教会総会の承認を経て、理事長が任命する。この場合、教会とは、教会を代表する役員会が責任をもって話し合うので、教会総会においては、その合議の結果を承認するような形になる。最終的には、主がご任命くださるという信仰と祈りを持って待ち望むことが大切である。

    第52条教会担任教師が就任したとき、教会は教団と合議のうえその就任式を行うものとする。

    第53条教会担任教師が辞任しようとするときは、教会総会の議を経てこれを教団理事

    長に申請し、その承認を受けなければならない。

    第54条教会担任教師が次の各項の1に該当するときは、本人または役員会において遅

    滞なくその旨を教団理事長に届け出なければならない。1、病気その他の事由で3ヶ月以上その職務を行なうことができないとき2、死亡したとき前項の教師が主任者であるときには、教会が遅滞なく役員会の議を経てその代

    務者を定め、教団理事長の承認を受けなければならない。

    第55条教会担任教師が他の教会から兼務を求められたときは、教会総会の議を経て、これを教団理事長に申請し、その承認を受けなければならない。

  • 第56条教会において、教会担任教師を解任する必要が生じたときには、教会総会の議を経て、これを教団理事長に申請し、その承認を受けなければならない。ただし、この場合において教会総会は、出席者の3分の2以上の同意を得なければならない。前項の教会総会の議長は、教団理事長またはその指名する者がこれにあたるも

    のとする。

    第57条宗教法人法による教会の代表役員の職務は、主任者たる教会担任教師が行う。

    第5章教師(第66条~76条)

    ここでは、教師の資格について主に書かれている。教職となるには、何よりも

    神の恵みによる召命であって、自分の能力によってではないことが基本的条件で

    ある。しかし、本人が神の召命を受けたと言っても、それが直ちに神の選びであ

    ると言うことはできない。

    教会の定めた機関によって、その職に相応しいことが認定される必要がある。この本人の召命の自覚と、教会の認定によって、教師となることができる。同盟

    教団の場合、教団がその機関を通して認定している。

    教師を志願する者について、補教師の場合は、本教団の信徒として3年以上経

    った者であり、教団の認める神学校を卒業し、教団の教師検定機関が、信仰、召

    命の自覚、学力などを考慮し、理事会の議を経て伝道の准允を受ける。以下に第66条~76条を記す。

    第66条教師はこれを分けて正教師及び補教師とする。教師は教団教師名簿に登録しなければならない。

    第68条補教師とは補教師試験に合格し、伝道の准允を受けた者とする。准允式は教団理事長が司る。

  • 第69条

    教師試験の規定は、別に定める。

    第70条次の各項の一に該当する者は、教師となることができない。ただし第3号に該当する者でも刑の執行を終わりまた受けないこととなった後3年以上を経た者はこの限りではない。1、禁治産者または準禁治産者2、破産者でない復権を得ない者3、信仰以外の理由で禁固以上の刑に処せられた者

    第71条教師はその職務により、次の各項に属する者とする。1、教会担任教師、教会または伝道所に在職する者2、巡回教師、巡回伝道に従事する者3、東京キリスト教学園に在職する者4、在外教師、教団理事長の承認を得て休職教師となることができる

    ①現任教師で国外に留学する者②現任教師で長期の療養を要する者③その他、特殊事情を認められた者休職の事由がやんだときは、理事会の議を経て、復職することができる。教師にして前項の何れの職務にも従事しない者を、無任所教師として取り扱う

    第72条

    教師が退任しようとするときは、その理由を具し、教団理事長にこれを願い出

    て、その承認を受けなければならない。

    第73条

    教師を退任した者が、復職しようとするときは、本教団の教師2名の推薦書を添えて、教団理事長に願い出なければならない。

    前項の願い出があったときは、教団理事長は、教師試験委員会の審査を経て、

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  • これを復職させることができる。

    第74条本教団に属さない教会の教師が、本教団の教師になろうとするときは、教団理

    事会の議を経て、教団理事長に願い出なければならない。前項の願い出があったときは、教団理事長は、教師試験委員会の審査を経て、これを本教団の教師とすることができる。

    第75条

    教師が引退するときは、謝恩金を呈する。

    謝恩金の規定は、別にこれを定める。

    第76条教師の養成は、東京キリスト教学園でこれを行う。

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