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友岡ゼミナール 2006 年度 卒業論文集 第1号 2007 3 高崎経済大学地域政策学部 友岡研究室

2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

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友岡ゼミナール

2006 年度 卒業論文集 第1号

2007 年 3 月

高崎経済大学地域政策学部

友岡研究室

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友岡ゼミナール

2006 年度 卒業論文集 第1号

高崎経済大学地域政策学部 友岡研究室

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目 次

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(友岡邦之) p.001

1.方言イメージから見る東北方言蔑視についての考察

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(荒川知子) p.002

2.より魅力的な群馬テレビへ:地方テレビ局の現状を踏まえて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(菊池孝至) p.016

3.消えゆく県民性:群馬県の特徴と県民性

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(小坂奈美) p.032

4.文化の相互支援によるまちづくり:高崎市をモデルとして ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(佐藤美緒) p.042

5.公営ギャンブルの転換期:新しい明日へ・・・・・・・・・・・(滝川圭太) p.064

6.新設合併における既設公立文化施設の現状とこれからの飛躍 :群馬県みどり市について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(武井俊輔) p.074

7.学校におけるアウトリーチの意義・効果

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(角田由加) p.086

8.情報化と文化産業の変容・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(豊岡美佳) p.101

9.山並み眺望を利用した景観まちづくり・・・・・・・・・・・・・(本多忠勝) p.116

10.都市観光によるまちづくり:高崎市を事例として ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(森泉雅洋) p.128

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はじめに

研究室代表 友岡 邦之 当研究室は高崎経済大学地域政策学部地域づくり学科内に設置されており、地域社会に

おける市民や組織の文化活動、およびそれを支える制度を主な研究対象としている。「地

域政策学」という学問領域はいまだ発展の途上にあるが、私見では、それは地域社会の空

間的・制度的な下部基盤、および地域社会というフィールド上での人や組織の活動、そし

て地域社会の対外的関係という三つの対象を、政策提言に結びつきうる形式で研究するも

のである。またこれらのいずれの対象を扱うにしても、周縁性、資源制約性、生活世界志

向性の三つの特性が重要な検討課題となる点が、地域政策学の特徴だと思われる。 このような地域政策学において文化活動の問題に注目することの意義は、少なくとも三

つある。すなわち第一には、「対外的差異化」が地域社会に与える影響を考察することに

よる学術的貢献である。ここで「対外的差異化」とは、当該社会の固有性を強調すること

によって外部との区別を行うことを意味している。たとえば、群馬県高崎市が日本一のだ

るまの生産地であることをアピールし、それによって地域アイデンティティを強化しよう

とするような振る舞いは、対外的差異化の典型例といえる。このような対外的差異化は地

域コミュニティといった集団の形成において重要な意味を持つ。そしていうまでもなく、

こうした対外的差異化においては「文化」は主要な資源として動員されるのである。 第二には、「対内的価値基準形成」の問題を考察することによる貢献が挙げられる。こ

の「対内的価値基準形成」とは、当該社会内部の諸対象について、価値の優劣をつけるた

めの観点が形成されることを指す。これは、たとえば週末の過ごし方について、美術館に

絵を鑑賞しに行ったり、コンサートホールにクラシック音楽を聴きに行ったりする方が、

ゲームセンターや雀荘に行って遊ぶよりも高尚だとみなされるような事態にかかわってい

る。各社会の内部で形成されるそうした審美的価値基準は、人々の消費行動などにも影響

を与えるし、時には社会の内部において人々の間に対立的状況をもたらすこともある。 そして第三に挙げられるのが、「実存的意味付与」についての問題を考察することによ

る学術的貢献である。人の多くは、ただ機械の歯車のように組織やシステムの一要素とし

てのみ生きていくことには満足できない。そして、自分が道具のように無味乾燥な人生を

送っているのではないのだという確信を抱くために、自分の人生に何らかの意味づけをし

たり、もしくは実用性などとは無縁の(他人からは「無意味」と受け止められかねないよ

うな)趣味に没頭したりするのである。「文化」はそうした、生きる上での「意味」や

「無意味」(という意味)を求める人の行為にとって、決定的に重要な役割を果たす。そ

して、そうした文化的経験を求めようとする人々の行動や、あるいは豊かな文化的経験に

裏打ちされた人々の行動は、地域づくりの動向に対しても影響力を持ちうるはずである。 本報告書に収められた各論文は、いずれも興味深い諸事例を紹介しつつ、こうした文化

と地域社会との関係をめぐる諸問題に取り組んでいる。各稿の執筆過程では、数多くの関

係者の方々に様々な形で御協力いただいた。ここに深く感謝申し上げる次第である。

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方言イメージから見る東北方言蔑視についての考察

荒川 知子 はじめに

方言とは、『大辞泉』(小学館 2006)の記述によると、 「一定の地域社会に行われる言語。一つの国語が地域によって別々な発達をなし、

音韻・文法・語彙などの上で相違のあるいくつかの言語圏に分かれたとき、それぞれ

の地域の言語体系をいう」 とされる。このことからも分かるとおり、元来方言は各地域それぞれの文化や伝統

の歴史を垣間見せる「お国ことば」として大切に伝承されるべきである。したがって、

各々の「お国ことば」が存在するのは当然のことで、けして優劣を付けられるもので

はない。しかし、現実は方言を「偏見」と「誤認識」で見ている事を自覚していない

のではないか。 本稿で私が問題に挙げたいのは、まさしくこの事象である。特に東北方言は、お国

ことばの中でも、いわゆる「ズーズー弁」と言われ、汚い、田舎くさい、聞き取りにく

いなど、マイナスイメージを多く含む方言であることは世間一般に認識されていることだ

と思う。それゆえに、東北方言話者は方言を使うことで笑われる対象となってきた。私自

身、福島県の北部地域に位置する梁川町の出身であり福島弁話者だが、福島弁を使うこと

で笑われた経験は幾度とある。一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した

印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。 もちろん、昨今の方言ブームからも分かるとおり、現在は自己表現の一つとして、あ

えて方言を使うことにためらいを感じる人は少なくなった。それに伴い、東北弁が揶揄・

嘲笑されるという機会は相対的に減少していると感じられる。しかし、長い歴史的背景に

より東北方言に定着化したマイナスイメージは現在もなお、人々の自覚なしに残っている

のは否定できない。 では、人々の根底に潜む東北方言蔑視の傾向は何故なのか。そして何故、方言イメージ

から格差が作られていったのか。方言イメージが持つことばの影響と福島弁話者である筆

者の体験をもとに分析し、今後の東北方言の捉え方について述べていくこととする。 1.方言差別の変遷 1-1. 東北方言とは 方言差別の変遷を述べる前に、本稿の目的である東北方言について述べておくべき

だろう。 東北方言は、大きく北奥羽方言1と南奥羽方言2の2つに区別される。この2つの方

言の違いとしては、東北方言の たる特徴として挙げられるアクセントを聞けば理解

できる。文化庁の「標準語と方言」によると、東京式に似たアクセントである、型の

1本稿では青森県、秋田県、岩手県中北部・沿岸部を指す。 2本稿では宮城県、山形県、福島県、新潟県北部を指す

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区別を持つ東京式と、無アクセントで型の区別および型知覚を持たない崩壊アクセン

トが分布していると記述している(文化庁 1977:37)。崩壊アクセントについて補足

すれば、崩壊アクセントとは、言葉のアクセントに認められる相対的高低関係が決ま

っていないものである。つまり、話し言葉の中ではすべての語が同じ調子で発音され、

発話の調子は起伏が目立たないものを言う(大島 1977;38)。別の見方をすれば、東

京式アクセントは日本海側、崩壊アクセントは太平洋側に多く見られる傾向があると

いえる。 東北方言はさらに、津軽方言、秋田方言、仙台方言などと区別され、ざっと数えて

みても 20 種類はあるため、ここでは割愛させていただく。 1-2. 方言の起源と繁栄 方言に関する過去の記録というものは、まず無いに等しく、方言の成り立ちについ

て調べることは非常に困難である。そのため、昔の方言の状態を知るには文献から読

み取らざるをえない。特に、文献によって方言が確認できたのは奈良時代における

『万葉集』である。万葉集全二十巻のうち、十四巻の東歌、二十巻の防人の歌からは、

当時の都である奈良の言葉と東国(現在の関東にあたる)や防人がいる九州の言葉と

では非常に異なっていたとわかる。例えば、 武蔵野の小岫(おぐき)が雉(きざし)立ち別れ去(い)にし宵より夫(せ)ろに逢はなふ

よ(夫に逢っていないことだ)(巻 14・3375 番歌) このように打消しの助動詞として「ナフ」を用いる。また、

大君の命(みこと)かしこみ弓の共真寝(みたさね)か渡らむ長けこの夜を(長いこ

の夜を)(巻 20・4394 番歌)

このように形容詞の連体形の語尾がエ段音になるなどの特徴がみられる。この例では

中央語で「長き」となるものが「長け」になっている。 小椋秀樹 「ことばの地域差 -方言は今-」

(http://www.kokken.go.jp/public/kotoba_series/kotoba16.htm 2006.12.9) この時代、方言については、あくまで『万葉集』などの文献からでしか確認する事

ができない。だが、このことから推測すれば、奈良時代には言葉の地域差があったと

わかる。しかも、歌として歌集に掲載されていることを見ると、この時代、方言によ

る差別はまだなかったのだろう。 しかし、方言を蔑視するという傾向は平安時代には存在している事がわかる。際立

って文化が発達した平安時代の文献や文学作品からは、方言蔑視の意識がすでにあっ

た。その一例として、平安時代の『拾遺和歌集』には「あづまにて養われたる人の子

は舌だみてこそ物はいひけれ」(巻七,物名)という歌がある。「東国で育った人はな

まった言い方をする」という意味である。また、『今昔物語集』にも、東国方言を

「横ナハレタル音(こえ)」(巻 19-11)「なまった声」と表現している例も見られる

(徳川・真田編 1991)。

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このような描写からも、文化が発達した平安時代の都からみれば、東国の方言はひ

どくいやしい言葉として意識されていたということがわかるだろう。言い換えれば、

都会の者が田舎の方言を軽視するという傾向は、おおよそから平安時代から存在して

いたのではないか。 そして、日本の言語社会の転換期とも言える時代によって、方言の地位も変わって

くる。つまり、江戸時代の到来である。江戸幕府が開かれたことにより、政治・文化

の中心も京都から江戸へと移動し、それと共に江戸のことばも上方、つまり京都のこ

とばに対抗できるほど大きな勢力となっていったのである。 このような方言地位の変化を文学の特徴からも見る事ができる。例えば、江戸時代

前半の西鶴や近松といった人たちの作品は、みな上方、つまり京都のことばを基盤と

しているのに対し、江戸後期の式亭三馬やその他多くの人の作品は江戸を基礎として

いる(徳川 1978)。 このように、政治や文化の中心が日本の中で大きく移動することによって、方言の

地位をも変わってしまうことは、方言差別を考えるうえで非常に興味深い。見方を変

えれば、この現象によって、農村住民の言語よりも都市住民の言語が優れているとい

う優先構造が方言蔑視に繋がる要因である、と暗に裏付けているといっても過言では

ない。 1-3. 方言差別主流の時代

1-3-1. 国家統一のため 明治維新後から戦前 さて、次に方言の転換期となる時代は明治である。明治維新後、国家統一の観点か

ら言語の統一をはからなければならず、その方法は教育的、政治的におこなわれ、実

に一方的なものであった。その意味するところは、他のすべてを排して一つにすると

いうことであり、他の存在も認めて共通の媒介物で統一をはかるというものではなか

った。 その様な目的のもとおこなわれた統一の方法とは、岡倉由三郎らが提唱した「方言

撲滅運動」を採用したものであり、昭和の終戦まで繰り返し行われたものである。方

言撲滅運動は主として公教育を通して行われ、「方言は恥ずかしいもの」という観念

が徹底して植え付けられて行った。ただでさえ、中央から蔑まれがちであった方言は、

このときに社会的に悪であると認識づけられたのである。方言撲滅運動は学制の充実

に伴い全国規模で行われたが、その も激しかった地域は、東北・関東・沖縄であっ

た.つまり、大雑把に言えば箱根の峠より東側ほぼすべてである。その中でも、特に

早くから標準語教育が盛んであった沖縄などでは、「方言札」といって、方言を口に

した子供には教師から不名誉な札を与えられるという罰札制度さえ採用されている。 一方、この運動に無縁であったのは、京都・大阪・東京のみで、これが現代も続く

方言格差を一層強くする結果となった3。その際、明治維新当初における標準語とい

うものは、いわば京都方言だったのであるが、大日本帝国の首都府である江戸、つま

り東京の方言を土台とした言語が標準語と規定され、今日にまでおよんでいるのであ

3 これは明治政府が明治維新後の廃藩置県後に「京都府」・「大阪府」・「東京府」を特

別に配置したのに準拠している。

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る(方言と共通語 1990)(徳川・真田編 1991)(佐藤・米田編 1999)(安田 1999)。

1-3-2. 国家成長のため 戦後~1960 年代中頃まで 方言撲滅運動により地方に植え付けられた、「方言は悪い言葉」「方言を使うことは

恥かしいこと」という方言蔑視の風潮は、民主化がおこなわれた戦後も高度経済成長

とともに強まっていく。 この時代は、生活水準を先進国まであげ、豊かになることを目標とした時期であり、

東京中心の政治体制が強化された時期である。すべてが東京中心主義で、言葉におい

てもそうであった。例えば、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の 3 種類の家電製品は 3 種の神

器といわれ、これらを持つことは日本人の憧れであり、そういう文化生活を送れる人

が使っている言葉が東京の言葉であった。いわば、東京の言葉は一つのステイタスだ

ったのである。東京語の威光の前に、地方ができることは自らを卑下し、東京のよう

に姿を真似るしかないのは目に見えているだろう。このような風潮が常識となってい

る社会で、標準語のできないものは自分自身を卑下するしかないのである。 柴田武は、方言で話すことにより嘲笑を受け、自己への劣等感を持つことを「方言

コンプレックス」述べている(柴田 1958)。そして、このような環境の元に、方言

コンプレックスが社会問題として表面化したのが、1950 年代から 1960 年代にかけて

である。自分の方言をからかわれた事を苦に自殺したり、逆に笑った相手を殺害して

しまったりという事件は、この時期に頻発しておきている。さらに言えば、地方出身

者の集団就職による東京・大阪への大規模な人口移動も、このような社会問題を加速

させた一つの要因であろう。(徳川・真田編 1991)(佐藤・米田編 1999)(小林・篠崎

編 2003)。

1-4. 方言復興の時代 戦後においても一向に変わらなかった方言意識であるが、高度経済成長も安定した

頃、つまり 1970 年代から 1980 年代にかけて、方言の見方にも変化が現われるよう

になった。例えば、コピー機の会社が「モーレツからビューティフルへ」というコマ

ーシャルを流したり、国鉄が「DISCOVER JAPAN」のキャンペーンをおこなったり

と、こういった広告に示されるように、地方の見直し、中央集権、物質万能主義とい

った社会への反省が見られるようになったのである。その背景として、2 つあげる事

ができる。1つに標準語の普及である。尾崎善光によると、地方の人の、とりわけ音

声面での標準語を話せるようになったのが大きいという(徳川・真田編 1991:41)。2つ目に、高度経済成長により都市と地方の文化的・経済的格差が縮小したことといわ

れる。その結果、地方の伝統色が消えてゆき、それを惜しむ「ふるさとブーム」が起

こったのである。それは日本各地で開かれている方言劇や方言イベントだけでなく、

方言を取り扱うマスメディアの増加、方言を使ったホームページの大多さからも確認

することができる(佐藤・米田編 1999:6)。 このような機運からも、方言コンプレックスについて問題にされなくなり、方言に

対する注目が高くなった時代とも言える。(佐藤・米田編 1999:5)(徳川・真田編 1991:121)

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1-5. 現在における方言の立場 今までの節では、方言に対する中央の人々の軽蔑が何時の時代から存在していたの

か把握すべく、方言差別の歴史的経緯を述べてきた。 佐藤和之(1999)は、その様な方言に対する見方の変遷を時代別に区分し、20 世

紀を国家統一のための 50 年と国家成長のための 50 年と大きく二期に分けている。

なかでも、後半の 50 年を以下のように分類している。

・ 1960 年代以前・・・「第Ⅰ期:方言撲滅期」 ・ 1970~1980 年代・・・「第Ⅱ期:方言の再発見期」 ・ 1990 年代・・・「第Ⅲ期:方言と共通語の共生期」

(佐藤・米田編 1999:4,5,6)

現在にいたっては、おおむね「第Ⅲ期:方言と共通語の共生期」の延長線上なのだ

ろう。方言に対する中央の人々の軽蔑を代表とするような風潮は消え失せ、むしろ固

有の方言を持たない首都圏の若者たちにとっては、方言の個性的な表現効果が魅力に

うつっているようである。 1970 年代からの方言ブームからも見られるとおり、方言は現在一つのトレンドと

しての存在を確立している。それは、友人との会話の中に方言を取り入れることで、

会話の流れにスパイスを添えたり、方言を自己表現の方法として共通語と使い分けた

りして日常的に方言を楽しむことができる。 2.固定化した東北方言イメージ 前章では、東北方言差別のルーツを探るべく、その歴史的経緯を振り返ってきたわ

けだが、本章では東北方言が蔑視を受ける原因について分析していく。 2-1. 変わらぬ東北方言イメージ そもそも、東北方言は具体的にどのようなイメージをもたれているのだろうか。繰

り返しになるようだが、一般的に言われる東北方言というのは、シとス、ジとズの区

別がない、いわゆる「ズーズー弁」であり、「んだ(そうだ)」「だべ(だろう)」など

の語尾を使うなどという言い回しをまず思い浮かべることだろう。しかし、一般的に

東北方言として言われる特徴はあまりにも大雑把であり、当てはまらないことが多い。

例えば、竹浪りえはストウ夫人作の『アンクル=トムの小屋』の日本語訳を例に取り、

このように述べている。

「いい色に焼けてますだ。ケーキは、こうでなくちゃしょうがねえだ」 「ばあやがちゃんと、といでおきましただ」 「そうですべ、そうですべ」 (上崎美恵子訳・文『アンクル=トムの小屋』、少年少女世界の名作文学・アメ

リカ編、小学館) 等、どのページを開いても、アメリカ南部の黒人奴隷は、日本の「東北訛り」風

の言葉を喋っています(他に見た二、三の訳本も同じ書き方です)(方言と共通

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語 1990:183)。 竹浪が例示した『アンクル=トムの小屋』のセリフでまず目に付くのは、「~だ」

「~べ」という言い回しである。一見、東北方言のように聞こえるのだが、東北出身

者から見れば、この表現ではどこの東北方言なのか、ましてや東北方言であると断定

するには曖昧すぎる表現である。実際、東北の何処もそんな方言は使っていないので

ある。 竹浪は、このような東北訛り風の言葉が使われる背景について、誰が聞いても理解

できるように「全国共通東北弁」風のセリフが生まれるのではないかと述べている。

(竹浪「方言と共通語」1990)。上述した例からみても、東北方言はステレオタイプ

で見られる傾向が強い。 一方、そのような東北弁イメージを端的に示した図がある。「SD 法」といって、

Semantic Differential の頭文字で、±の単語(評価語と呼ぶ)を並べて、当てはまる

かどうかを答えてもらい、それを数値として表すという手法であるが、とりあえず下

の図を見て欲しい。 これは、井上史雄氏が札幌の大学生に対して行った方言イメージ調査の結果である。

なお、原典が手元にないので『新・方言学を学ぶ人のために(徳川宗賢・真田信治編 世界思想社 1991 年初版)』からの孫引きを用いる。 . <図1> 方言イメージ(徳川・真田編 1991:120 の図を一部改変)

マイナス側 ± プラス側 ぞんざい T | Y K 丁寧 悪い言葉 T | Y K 良い言葉 汚い T | Y K きれい 大声 T Y K 小声 若い女性にふさわしくない T | YK 若い女性にふさわしい 乱暴 T | Y K おだやか 嫌い T Y K 好き 重苦しい T | K Y 軽快

… | … 聞き取りにくい T K Y 聞き取りやすい 非能率的 KT | Y 能率的 標準語に遠い T K | Y 標準語に近い くどい T K Y あっさりしている 昔の言葉を使う TK | Y 昔の言葉を使わない 遅い K | TY 早口だ … | …

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固い T Y K 柔らかい 味がない Y | TK 味がある 深みがない Y | T K 深みがある

T=東北弁、Y=東京弁、K=京都弁 というようなわけで、外部からの感触のよさを示す「丁寧」「おだやか」「柔らか

い」で、京都弁が圧倒的に優位に立つ。東北弁が「深みがある」「味がある」でかな

り迫っているのに「柔らかい」で遠く及ばない点は注目するべきであろう。 そして、これらの3つの方言に対するパターンを大きくまとめると以下のような表

になる。 <表1> 方言イメージのパターン(徳川・真田編 1991:121 より孫引き) 代表 情的評価 知的評価 郷愁評価

田舎型 東北弁 - - + 近代都市型 東京弁 + + - 古都型 京都弁 + - +

表で見るように、東北方言のイメージは知的評価、情的評価に欠ける。端的にまと

めてしまえば、「田舎くさい」のであり、垢抜けない、どこか土臭さを感じさせるの

である。 しかし、あくまで、この表の結果となるイメージは井上史雄氏(1989)によって昭和

50 年代の調査をもとにまとめられたものである。しかし、言葉のイメージは時代背

景によって変動するモノだ。したがって、このようなイメージが現代において当ては

まるとは一概には言いにくい。しかし、1 章でも述べたが、長い歴史の中で蓄積され

た東北方言のイメージは現在にも確実に残っているのである。 2-2 音声面での特徴 日本中で数ある方言の中でも、東北方言が揶揄や嘲笑を受ける理由の一つに、音声

面での方言特徴が起因していると思われる。例えば、特別視される大阪弁や京都弁な

どの関西方言を除けば、九州方言も昔は差別の対象であった。その九州方言と東北方

言を比較すれば、その大きな違いは「ズーズー弁」に見られる音声なのである。「~

ばい」「~たい」に見られる言葉の語尾や逆接の接続詞である「ばってん」のように、

単語自体が異なるだけであって九州方言は音声の面では共通語とあまり変わらないと

いう要因もある。 つまり、アクセントやイントネーションの特徴から東北方言が笑われる要因の一つ

なのである。しかし、音声の問題であるので論文にて言及するには難しいのだが、比

較的説明しやすいアクセントについて言及しよう。 東北方言が笑いを誘う発音として「し」対「す」、「ち」対「つ」およびその濁音

「じ」対「ず」(「ぢ」対「づ」)などの区別がないこと(いわゆる「ズーズー弁」)が

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あげられる。例えば、 「し」対「す」・・・「寿司」「煤」「獅子」はみな[sisi(シシ)] 「じ」対「づ」・・・「地図」「知事」は[tsudzi(ツヅ)] 「い」対「え」・・・「息」「駅」・・・[egi(エギ)]

音声の区別をしないのを、非東北人が聞けば耳障りなことこのうえないだろう。共

通語と違う音声は異様な印象を持たせ、方言が劣ったものと解釈され笑の対象となっ

たと言われている(徳川・真田編 1991:41)(文化庁 1977:37)。 2-3. マスメディアや文学による影響 さて、ここではいかに東北方言がメディアや文学作品などの文化的なコンテンツに

よって歪められてきたか、例をあげていく。 まず、ドラマに登場する東北方言はたいてい農家や農民など、貧しい状況におかれ

ている人物に当てはめて使われている。例えば、1983 年に話題となった NHK の朝

の連続ドラマ「おしん」は典型的な例である。舞台となったのは山形であるが、その

方言使用については賛否両論である。また、藤沢周平作の小説ならびにそれを原作と

する山田洋次監督・永瀬正敏主演で 2004 年 10 月 30 日に公開された「隠し剣 鬼の

爪」においても同様だ。東北地方の小さな藩で暮らす下級武士という具体的な設定が

ないためか、使われている方言は非常に曖昧なものである。 ここで問題なのは、今回例示したドラマ・映画とも東北方言を話す登場人物は共通

して「貧しい」「田舎」「農家」という設定になっていることである。これは、東北方

言に対し「田舎=東北方言」という印象を与えてしまうことになる。 これは何も時代劇に限った事ではなく、先に述べていた『アンクル=トムの小屋』

の日本語訳の例でも似た様な話があげられている。竹浪りえ(1990)が言うには、 「東北弁風の言い方は、弱い立場の人間を表現するのには便利な言葉なのかもしれ

ません」(方言と共通語 1990:184) と述べているのに、あながち間違ってはいないといえるようだ。 一方で、このようなドラマの方言使用状況に対し「ドラマの中の方言は、方言の姿

を映し出したものではない」との批判も強い。これに対し、金沢裕之(1991)は

「全国ネットで放送される方言ドラマの場合、視聴者の理解のために、そこで使用さ

れる方言はある程度人工的なものにならざるをえない」と述べている(徳川・真田編

1991:125)とはいえ、テレビやドラマなどのマスメディアによる方言の使用、また文

学作品における登場人物の方言使用は、東北方言のマイナスイメージを定着させ、現

在にまで残る方言偏見を生んだのではないかと感じてならない。(徳川・真田編 1991)(方言と共通語 1990)(文化庁 1977)

3.方言使用者の立場 3-1. 言語認識とは ここで一度切り口を換えて、「言語認識」ということに注目してもらいたい。私た

ちが会話をする上で、言葉がどのような働きをするのか改めて確認していこう。 そもそも、言語とは何か、と考えるにあたりまず思い浮かべるのは、情報や意思の

伝達手段ということだと思う。もちろん、『大辞泉』(小学館,2006)の記述にも「音

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声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現・伝達する、または受け

入れ、理解するための約束・規則。また、その記号の体系」とある。 一方で、金沢裕之はこのような言語の役割に対し、もう一つの側面について注意を

促している。金沢によれば、「言語は言語それ自体として何らかの意味合いや価値を

持つものである」(徳川・真田編 1991:117)と言述している。つまり、言葉を使うこ

とで本来の伝えたい意味に加え余計なイメージが加わってしまうのではないかと言い

たいのである。 例えば、食事をする際に「食堂へ行こう」と使うのと「レストランに行こう」と使

うのではその意味する内容は同じでも店の雰囲気やメニュー、客層までもがイメージ

できてしまう。他にも、「カフェ」という言葉を使うのと「喫茶店」を使うのでは、

同じ利用目的にしてもその意味する内容は大いに異なる(たとえ、その言葉に定義が

あったとしても)。 このような現象に対し、金沢はこう述べている。

言語についてのこうした認識は、言い方を換えて繰り返すと、ことば

による表現というものは、内部にその意味するところの思想内容を包含している

のと同時に、その外側に、ことばや表現自体のイメージや価値を付随的に有して

いる、ということができる。・・・・・・使用する主体(人)の属性や性格をも、こと

ばが象徴しうるということを示す。(徳川・真田編 1991:119) 続けて金沢はこう述べる。 「あの人は上品な話し方をする」とか、「この人は汚いことばをしゃべる」と

いった表現は、本来は言い方やことばに対する評価でありながら、往々にして、

ことばを発した当人の人間性や境遇をも評価することばとなるのである。(徳川・

真田編 1991:119)

では、金沢が言うように、言語に付随性があるのだとしたら、言語自体特殊である

方言にもイメージがあり、評価の対象になっているといえるのではないだろうか。言

い換えれば、方言を使うことにより、本来の伝えたい意味に加え、余計な印象を与え

てしまう可能性からは逃れられないということになる。 3-2. 評価される東北方言 さて、前節で述べたことを踏まえ 2-1 節で述べた東北方言のイメージをあわせ見れ

ば、もうご理解いただけたと思う。つまり、東北方言を使うことで、東北方言話者自

信にも「田舎くさい」「垢抜けない」といったイメージが付いてしまうことになる。

そしてそのほとんどが自覚の無いなかで無意識に「田舎者=東北方言」のレッテルを

貼っているのだ。 現在において、方言コンプレックス(1-3-1 節参照)に象徴されるような社会問題

は見られなくなった。その理由として、共通語の普及と高度経済成長による都市と地

方の文化的・経済的格差が縮小したことがあげられる。このことは、尾崎善光

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Page 14: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

(1991)によると、ある地域が政治・経済・文化の面で中央に従属的である場合、

そこで使われている言葉も劣ったものとしてレッテルを貼られると述べている。つま

り言葉はその社会的象徴価値を有していると言っているのである(徳川・真田編 1991:42)。

確かに現在は文化的・経済的にも発達し、地方分権も進んだが、本当に東北方言蔑

視がなくなったわけではない。現実はまだまだ東北方言蔑視は残っている。時おり聞

く、「訛っているね」「アクセントがおかしいよ」といった指摘は、共通語が正しいと

される意識が根底にあるからであり、人々の意識には過去の方言イメージのままで方

言の格付けがなされているのである。 このことは友定賢治(1999)による「つくられた方言イメージと共通語イメージ」と

題した方言イメージ調査によっても結果が出ている。その調査によると、地元方言や

共通語方言に抱くイメージはステレオタイプ化したものになっているというのである

(佐藤・米田編 1999:97)。以下、調査結果についてのグラフは『どうなる日本のこと

ば』(佐藤和之・米田正人編 大修館書店 1999:97)を参照されたい。 一方で、東北方言が蔑まれるのには、もう一つの理由がある。それは 2-2 でも述べ

たように東北方言特有の音声からなのだろう。そもそも、東北方言が聞き取りにくい

のではなく、聞き慣れていないために違和感を覚えるだけだろう。人間は言葉だけで

会話するのではなく、アクセントやイントネーションの高低での会話流れを感じ取る

はずである。たとえ、単語が聞き取れなくても、会話の相手が同じアクセントとイン

トネーションの感覚の持ち主であれば、大体の雰囲気はつかめるはずである。言い換

えれば、単語以外で会話のニュアンスを伝えるのは、標準語でも関西方言でも東北方

言でもアクセントやイントネーションなのである。そのアクセントやイントネーショ

ンが違うと、同地方では通じるはずのニュアンスが通じず、違和感を覚えるのだろう。 このことに対し、金沢裕之(1991)は次に挙げる二つに大きく分類している。 (1) 背景となる、土地固有の生活や文化をうかがわせ、ニュアンスに富み、

美しく豊かで味のあるものとして、積極的に評価する。 [プラスの評価]

(2) 一般(共通語あるいは中央語)と異なる変わったものと見て、驚きや

目新しさを感じるのと同時に、悪く劣ったものとして一段低く評価し、笑

や嘲りの対象とする [マイナスの評価]

(徳川・真田編 1991:122) 前者が社会的象徴価値として、「都市>地方」の権力構造からくる立場の違いによ

る差別であれば、後者は人間の排他的な感情がもたらす差別といっていいだろう。 3-3. 福島弁話者としての体験 前節で述べたような、考えになるようになったのも、私自身福島方言を使うことに

よって、訛りの指摘や嘲笑、揶揄を受けてきた事が背景にある。以下、私の感じたま

まの方言蔑視の経験を述べていく事とする。

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まず、限られた範囲内での生活を送っていた高校時代までは、方言に対する知識・

意識も薄く、自分の訛っている現状に対しなんの劣等感も落ち目も持っていなかった。

しかし、大学に入学し、異なる地域社会で生活をして初めて自己の方言の存在を認識

し、劣等感を感じたのである。その具体的な例を東北方言のおかれた立場に則して述

べていくこととする。 1つに、会話の中で私が口にした訛り(主にイントネーション)を真似て繰り返さ

れることがあった。この行為の根底には、福島方言の訛り、イントネーションが面白

いから、という典型的な例だろう。ひと昔前に戻れば方言コンプレックスにもなりか

ねない、東北方言に対する嘲笑や揶揄である。 2 つ目に、「訛りを直した方がいい」と指摘を受けたことがある。この指摘の背景

には、将来就職活動をするにあたり、共通語が当たり前の社会において、方言は通用

しないとでも伝えたかったのであろう。このままの方言では不利だろうとの思いがあ

ったようだ。つまり、この発言の根底には東京中心主義が未だに残っているというこ

とも言えるが、方言の先入観や偏見によって方言話者の印象に悪影響を与えかねない

という懸念でもある。 一方で、多くの非東北人は「訛りをそのまま残しておいてほしい」と願望を述べる

事が多い。又は「訛りでなくなるのが寂しいよ」ともある。 3 つ目は、アルバイト先でのことである。私はホテルとスーパーのチェッカーとし

て働いてきたが、「お国はどちら?」なんて質問はしょっちゅうであり、時には「1年も(高崎に)居るのに、訛り直らないわね。」と言われた事がある。つまり「1 年も経

ったのだから、訛りは直るのが普通」と暗に言っているものであり、後者の発言は福

島方言を蔑視していると受け止めても間違いにはならないだろう。 他にも、「何言っているかわからない」「早口だ」など言われたことは数知れず、そ

の多くは1つ目の例も含め、東北方言の蔑視が現在にもあるという証拠でもある。2

つ目に関しては、改めて「共通語(東京のことば)>方言(地方の言葉)」の構図が

社会においては根強く残っていることを示したものであるが、見方を変えれば、日本

全国を対象とする共通語に対してローカルな地域差を持つ方言の必然的な限界を感じ

させることでもある。 3つ目にあたり、その指摘を受けた構図が、「店員」・「客」ということからも、共

通語の必要性、しいては訛りを直さなければという必要性を感じたときでもある。な

ぜなら、ビジネスマンが訛りを使用して営業をする様子をイメージできるだろうか。

ホテルの従業員が訛っていたらどうだろうか。これらから分かるとおり、公の場にお

いての訛りの使用は不釣り合いで、同時に方言に付随するイメージをそのまま持たれ

てしまう可能性がある。強いては、仕事にとって方言は不利ということなのではない

か。 4.お国ことばに自信を持つために 今までの各章において、東北方言のイメージがどのようにして出来上がったか、そ

して何故現在に至るまで蔑視を受けてきたのか述べてきた。 では、今後田舎の代名詞とまで言われた東北方言とどのように付き合っていくか、

その手がかりとなるものを本章で探して行くとしよう。

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4-1. 東北方言を地域に活かす 方言尊重の風潮、方言の価値が高まる中、日本全国の各地域で方言の保護・保存や、

まちおこしに方言を活用する自治体が増えてきている。はたしてこの様な傾向は方言

意識にどのような変化をもたらすのだろうか。 各地域でのそれは地域のローカルカラーを象徴するものとして方言を使っている町

や、方言を CD に残す録音事業、また、演劇・文学を方言になおして楽しむ地域など

実に様々である。その中で、方言に対するアプローチの方法として、まちづくりに関

する事例、地域伝統に関する方言事例と2つに分けて紹介していく。 まちづくりに方言を活用した事例として、山形県三川町では、方言を通した地域文

化の見直しによる地域づくりの一環として、毎年「全国方言大会」が行われている。

例年5~6組の県外出演者を招き、会場には主として本町及び周辺市町村の住民が、

観客または参加者として来場している。 次に地域伝統に則した方言事例としてあげるのは「語りべ」である。私の故郷でも

ある、福島県梁川町4では地元の民話を語り継いでいる「梁川ざっと昔の会」がある。

主に町内会のイベントがあれば必ず民話語りを披露している。私もよく聞きに行って

いたのだが、昔話を聞いていてもかかわらず、福島弁による独特の語り口は今でも印

象に残っている。 この 2 つに共通することは、どちらも地域の方言とじかに触れられることだ。つま

り、方言弁論で聞くのと、語り部で聞くのとでは共通して、実際に語られる方言雰囲

気を感じ取れる。三川町の場合、町ぐるみのイベントであり、内外の認知度も高い。

一方、梁川町の例は小規模だが、その地域の方言の独特の雰囲気が伝わり、かつ郷土

の昔話を聞くことで地域印象づけることができる。 4-2. 方言を知ること 私が求める「方言を知ること」とは、共通語と方言を知り、両方使いこなせること

を前提としている。その理由として、共通語と方言の比較が出来ることで方言を客観

的に見られることが挙げられる。 方言の問題に関しては往々として感情的になりやすいものである。それは方言に関

わるホームページの多さを見ればその傾向が強いと分かるだろう。 そして、各言う私も本稿において感情的であることを否定できない。しかし、自身

を正当化するつもりでもないが、感情的になってしまうのは仕方の無いことであると

感じる。自分の故郷の方言に愛着がわき、それを差別されることによって起こる感情

はごく自然なことであろう。訛っていることを卑下し、標準語とされる東京の言葉に

憧れを抱いていた時代とは違い、地方に魅力を見出す事ができた時代である。しかし、

今までに述べてきたとおり、方言に付随するイメージが今もなお存在している実情か

ら、方言に関して感情的になりやすく劣等感を感じやすい。 だからこそ、冷静さを失わないためにも共通語と方言どちらも使い分けられる必要

がある。例えば、訛りに対して嘲笑を受け、羞恥心を感じたのなら、それは方言事態

4 現在は合併し伊達市となっている。

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を本人が自覚しないままに話しているからである。方言を自覚していなければ、笑わ

れた時に自分自身が無意味に馬鹿にされたと受け取りかねない。よって、嘲笑を受け

た時の恥かしさが強くなる。だが、方言と共通語を使い分けるという行為は、自身の

方言を認識できているからこそできる事である。結果的にそれが方言に対し、誇りを

持つ事ができるのである。 4-3. 共通語の必要性 さて、本稿では今まで東北方言話者の立場にたち、東北方言擁護者のように振舞っ

てきたわけだが、方言だけで生活できないことは無論承知だ。むしろ共通語の必要性

を強く感じている。なぜなら、現在、流通している「表現」の大多数が共通語だから

である。例えば、本屋に行ってみる、あるいはウェブサイトの文章を読んでみる、そ

れらはほとんどが共通語である。尾崎善光(1991)が「方言は共通語の地位に取って代

わるようなものではなく、日本語のバリエーションとして彩を添える副次的な地位に

あるといえる」(徳川・真田編 1991:43)と述べているように、ローカルな地域差を持

つ方言の活躍の場は限られているのである。 また、方言を捨てて共通語に移行することには、経済的なメリットがある。例えば、

福島を一歩も出ないで一生を終えるのならともかく、そうでないのなら、共通語を全

く使わずに生きるのは至難の業である。それは、程度の違いこそあれ、どの地域でも

変わらない。国際的なビジネスにおける英語と日本語の関係と同じなのだ。方言が内

に向けられたものだとしたら、共通語は社会の中での外に向けられた武器だろう。 おわりに 本論文では、現在に至っても東北方言が蔑視されるのはなぜなのか、方言イメージが

持つことばの影響について、その歴史をたどり、分析を加えながら考察してきた。 それによると、明治政府の方言撲滅運動によって、「方言は悪いことば」という観念が

植え付けられ、その風潮が戦後、高度経済成長期までに及んだ経緯が挙げられる。現在に

いたっては方言の保護・保存が叫ばれ、方言と共通語の共存が主流となった時代である。

にもかかわらず、東北方言が未だに蔑視されているのは何故なのか。それには、未だに残

る過去の東北方言イメージの存在や、共通語とかけ離れた音声での違い、それによって起

こる人間の心理的行動が影響している事が挙げられる。むしろ、方言における問題は歴史

的影響よりも人間に無意識に働く感情が大きいのではないかという結論に至った。 東北方言に対する蔑視は今後も残るものだろう。それと共生していくには、共通語と

方言、双方に対する理解が必要である。 【参考文献】 小林隆/篠崎晃一 編,2003,『ガイドブック方言研究』ひつじ書房

佐藤亮一,2002,『お国ことばを知る 方言の地図帳』小学館

――1990,『ことば読本 方言と共通語』河出書房新社

柴田武,『日本の方言』岩波新書

徳川宗賢・真田信治編,1991,『新・方言学を学ぶ人のために』世界思想社

徳川宗賢,1978,『日本人の方言』筑摩書房

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平山輝男博士古稀記念会 編,1983,『現代方言学の課題』明治書院

「言語」別冊,1995・11,『変容する日本の方言』大修館書店

文化庁,「ことば」シリーズ6,『標準語と方言』大蔵省印刷局

佐藤和之・米田正人編,1999,『どうなる日本のことば 方言と共通語のゆくえ』大

修館書店

奥村隆編,1997,『社会学になにができるか』八千代出版

新「ことば」シリーズ 16 「ことばの地域差―方言は今―」, http://www.kokken.go.jp/public/kotoba_series/kotoba16.htm

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より魅力的な群馬テレビへ

―地方テレビ局の現状を踏まえて― 菊池 孝至

はじめに

2003 年 12 月、東京、大阪、名古屋の三大都市圏を中心に地上デジタル放送1(略称、

地デジ)が開始された。そして 2006 年 12 月 1 日でその視聴エリアが全都道府県に広が

り、視聴可能世帯が全世帯の 84%である 3950 万世帯に達したという(『読売新聞』 2006.12.2 朝刊)。そしてそれに対応すべく、全国各地のテレビ局ではその対応に追われ

ている。これによりテレビ放送が今後更に充実したものになり、私達にとってテレビとい

う存在がこれまで以上に魅力的なものになると考えたいものだが、一概にはそうは言えな

さそうである。というのも、デジタル化のための設備投資金が莫大であり、それを各々の

テレビ局が負担しなければならないからである。特に収益の乏しい地方テレビ局は厳しい

状況にあるといってよい。また、デジタル化によりチャンネル数が増加することになるの

だが、それに対応した質の高いコンテンツ・番組を、果たして地方局が用意できるのかと

いう疑問も残る。 また、テレビを取り巻く環境に目を向けてみると、インターネットとテレビの融合に

よる新たなビジネスが生み出されたり、通信と放送の融合に関する今後の見通しについて

国レベルで本格的に議論されたりするなど、今後のテレビのあり方をより便利なものにし

ようと様々な取り組みがなされているようであるが、それに関しても、果たしてその対象

にローカル放送は含まれているのかということに関しては定かではない。 テレビ業界は未だに華やかな世界であるように見受けられがちだが、その中でもキー

局2と地方テレビ局の間には、埋め尽くせないほどの差があるのは紛れも無い事実である。

実際に、現在全国的に放送されているテレビ番組のほとんどがキー局の制作する番組であ

る。もちろんキー局の制作する番組には、出演者、番組内容共に充実しているものも多い

のだが、このままキー局の番組ばかりが見られるようになっていったら、今後地方テレビ

文化の発展はあり得ず、徐々に地方テレビ局が全国各地から消えていってしまうだろう。

そのような状況の中、今後どのような形で地方テレビ局は生き残っていけるのだろうか。

そしてどうすれば地域の人々に必要だと思ってもらえるだろうか。これまで地方文化を支

え続けてきたという側面も持つ地方テレビ局が、今後経営難のために全国から消えていく

かも知れない状況にある今だからこそ、地方テレビ局の存在意義を再認識し、その理想的

なあり方とは何かを考えていく必要があるのだ。

1 これまで、地上波テレビ放送の電波はアナログ波だったが、これがデジタル化されるこ

とにより、テレビ画像がより鮮明に映ることや、1局で 大 3 チャンネルを同時に放送

できるなどの様々な効果が期待されている。しかし、視聴者はアナログ放送が終了すると、

従来のテレビでは見られなくなってしまうため、アナログ放送の終了する 2011 年 7 月ま

でに、デジタル対応型テレビに買い替えなければならない。 2 東京に本社を置く大手テレビ局 5 社のことを指す。すなわち日本テレビ放送網、東京放

送(TBS)、フジテレビジョン、テレビ朝日、テレビ東京の 5 社である。

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実際私自身が現在地上波ローカル放送で唯一見ることのできるのが群馬テレビの放送

なのであるが、その放送内容に対し何か物足りないという印象を持っていた。そのため、

地方テレビ局の作る番組、特にその中でも群馬テレビのテレビ放送が、今後魅力的な存在

になっていくにはどうすればよいのか考察してみようと思った次第である。 そこでまずは、テレビ業界が置かれている状況や地方テレビ局全体の現状を概観した

上で、今後の群馬テレビのあるべき方向を模索していきたい。 1.テレビのあり方と地方テレビ局 1-1. 地方テレビ局とは まず、これから地方テレビ局について考察していくにあたり、地方テレビ局とはどう

いったテレビ局のことを指すのか明らかにしておこう。そしてそれを説明するには、現在

の日本の地上波テレビ局がどのような構図で成り立っているのか知っておく必要がある。 日本における地上波テレビ局は、視聴者、すなわち日本国民からの受信料を主な財源

とするNHKと、広告収入を主な財源とする民間放送局に分けられる。その中でも民間放

送局は、既に知っている人も多いだろうが、キー局が形成する 5 大ネットワークに属す

るテレビ局(系列局と呼ばれることが多い)と、独立 UHF 局(以下、独立 U 局と略

す)と呼ばれるネットワークに属しないテレビ局に分けられる。そしてその全体像が図1

である(図 1 参照)。 地方テレビ局とは、その中でも、キー局と準キー局3を除いたテレビ局全般を指す場合

が多い。しかし地方テレビ局の中には、財政基盤のしっかりしている局もあれば、財政危

機に陥っている局もある。そこで、比較的他の地方局に比べて財政基盤のしっかりしたテ

レビ局のことを基幹局と呼んだりもする(図 2 参照)が、本稿でも、キー局と準キー局

以外のテレビ局(基幹局や独立U局も含む)を地方テレビ局と見なし、論を進めていく。 図 1 を見ると、一見全国のテレビ局がきれいに系列化されているようにも見える。し

かしローカル局が安定した広告料収入を得るには、1 局あたり 50 万人程度の人口が必要

とされているにもかかわらず、今の地方テレビ局が抱える人口は、ほとんどのエリアで1

局あたり 30~40 万人にも満たない状況にある(河本 2006: 80)。もしそれが地方局の危

機に繋がっているのならば、今とはまた違ったテレビ局の構図を形成することは考えられ

なかったのだろうか。次節では、なぜそのような経済的地盤の弱い地方にまで、複数のテ

レビ局が存在するようになってしまったのか、その原因を探っていく。

1-2. 地方テレビ局が厳しい状況にある背景 テレビ・ラジオなどの放送業は、総務省(旧郵政省)が管掌する許認可事業である。

そしてそれは、テレビ・ラジオなどのマスメディアが、有限性のある公共の電波を媒体と

しており、更に、新聞や雑誌などに比べて、人に与える影響力が大きいと考えられている

からである。そのため、誰もが表現の自由を求めて放送局を作り、テレビ放送やラジオ放

送を行うことができるというわけではない(河本 2006:16)。しかし、テレビ放送が開始

されてから現在に至るまで、国の管轄のあり方がすべて正しいものであったとは必ずしも

言えない。

3 大阪に本拠地を置くキー局系列のテレビ局のこと。詳しくは図 2 を参照のこと。

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その代表的な失敗例が民放四波化計画である。これは、旧郵政省が 1986 年に打ち出し

た政策であり、地域によるチャンネル数の格差を縮小するため、全国各地に存在する民放

テレビ局を 低 4 局にするというものであった。この結果、1989 年以降に開局した地方

局は 24 局にのぼったという。なお、この点に関しては鈴木(2004: 12)を参照されたい。 しかし、再び図 1 を見てもらえば分かるだろうが、現在すべての都道府県に 4 局以上

のテレビ局が存在しているわけではない。例えば宮崎県には、テレビ宮崎と宮崎放送の 2局しかテレビ局が存在しない。しかしテレビ宮崎がクロスネット局4となり、他系列の番

組も放送することにより、宮崎県の人々は実質的に 4 つのキー局系列の番組を見ること

ができている。また、島根県と鳥取県、岡山県と香川県のように、近隣の県で共同のテレ

ビを持っている例もある。このように、地域によってそれぞれ事情が異なるため、全国の

テレビ局をきれいに序列化しようとしてもこのようにうまくいくはずがない。地域間の情

報格差を無くそうという試みは評価すべきであったと思うが、各々の地域事情をもっと考

慮し、それに見合ったあり方を考察していくべきであったのである。そしてもしそうして

いれば、現在のような、地方にテレビ局が乱立するという事態は防げていたかもしれない。 歴史的に見れば以上のような背景があるのだが、現在進められている地上デジタル放

送への転換も、地方テレビ局を苦しめる要因となっている。これにより、すべての地上波

テレビ局は、局内の放送設備をデジタル対応型に切り替えるだけでなく、電波を受信エリ

アの各家庭に届けるために必要な中継局も、デジタル用に取り替えなければならないとい

う。そのため、キー局に比べて収益の乏しい地方局にとって、エリア内の全世帯に地上デ

ジタル放送を届けるのは容易なことではないだろう。それでは、そのように地方テレビ局

を苦しめている地上デジタル放送が始められた理由は一体何なのであろうか。 地デジが始められた背景には様々な憶測が行き交っているが、社団法人地上デジタル

放送推進協会5のホームページには、「デジタル化により電波の有効利用を計り、今後のさ

らなる情報通信技術活用社会、情報化社会の進展のために活用するため」と記載されてい

る。とは言うものの、そのような国の一方的な判断により、いまひとつ事情が呑み込めて

いない地方局が厳しい経営を余儀なくされるというのはいかがなものであろうか。まして

や、私達視聴者までもが、これまでのアナログ対応型受信機からデジタル対応型受信機に

自己負担で買い替えをしなければならないとなると、果たして地上デジタル放送は誰のた

めに始められたのかという疑問が浮かび上がってくる。 テレビのあり方が少なからず変化するということは、私達にとって 1 つの大きな問題

であるのにも関わらず、国によっていつの間にか勝手に推し進められているというのは明

らかにおかしい。もっと国が国民やそれぞれのテレビ局に分かりやすい形で説明し、納得

を得てから進めていくべきであったのではないだろうか。果たしてアナログ放送が終了し

て従来の受信機ではテレビが見られなくなる 2011 年までに、すべての人がデジタル受信

機に買い換えることができるのだろうか。ちなみに 2006 年 10 月までの地デジ対応のテ

レビ出荷台数は、目標台数 1 億台に対し、1500 万台に過ぎないという(『読売新聞』

4 一つのテレビ局で、複数の局が制作したテレビ番組を放送している局のことをいう。テ

レビ宮崎の他に、福井放送、テレビ大分がこれにあたる。 5 平成 15 年 8 月に、地上デジタル放送を円滑に運用するために設立された組織。テレビ

局や大手家電メーカー、通信会社などの重役によって組織されている。

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2006.12.2 朝刊)。 1-3. 通信と放送の融合による影響 ライブドアとフジテレビによるニッポン放送株買収騒動は、未だ記憶に新しい。この出

来事は、それまでの放送事業の“安定している”というイメージを覆すものとなった。ま

た、今のところ目立った動きは無いが、TBS と楽天も現在業務提携を結んでいる。この

ように 近の日本では、急成長を遂げている IT 産業が、テレビ局をはじめとする放送業

界に何らかの形でアプローチしてくるという例が少なくない。今後インターネットが更に

利便性を追求したものへと変わっていくにつれこの傾向はますます強まっていくであろう

が、そういった流れはいったい今後のテレビ局のあり方にどのような影響を及ぼすのであ

ろうか。そもそもよく世間で騒がれている“通信と放送の融合”とはどういったことを言

うのか、まずはそこから明らかにしていこう。 総務省が毎年作成している情報通信白書では、「デジタル化やブロードバンド化の進展

に伴い生じてきている、映像・音声コンテンツのネット配信の本格化、端末・ネットワー

ク等の共用化、通信・放送分野における事業者の相互参入等の現象等の現象」を、“通

信・放送の融合・連携”と呼んでいる6。具体的には、インターネットで過去にテレビ放

送された番組が配信されるようになったり、地上デジタル放送によりテレビを見ながら番

組に関する様々な情報を入手できるようになったりすることが挙げられる。 現在複数の事業者により、ネットでの映像配信サービスが行われている。これにはキ

ー局 5 社も参加し、自ら立ち上げたサイトから自社の制作する番組などを中心に配信し

ている。そしてその中でも特異な形で運営されているのが、日本テレビが運営している第

2 日本テレビである。ここでは会員に登録しさえすれば(入会金無料)、当サイトが提供

するコンテンツをほとんど無料で見ることができる。コンテンツには、日本テレビが過去

にテレビで放送した番組もあるが、現在のところ、新たに制作された番組や、日本テレビ

が現在放送している番組とリンクする内容のものがほとんどである。 そもそも、インターネット事業者などが過去にテレビで放送された番組をネットで配

信する際、著作権法に従い、権利者から承諾を得る必要があり、その手間が過去のテレビ

番組のネット配信を妨げていた。そこで政府の知的財産戦略本部7(本部長・安倍首相)

では、この手間を解消し、番組の 2 次利用(ネット配信だけでなくDVD化なども含む)

を促進するため、2008 年の通常国会で著作権法改正を目指す見通しであるという(『読売

新聞』2006.11.26 朝刊)。もしこの法案が可決されれば、今後ネットを通して過去のドラ

マやバラエティなどのコンテンツを目にする機会が増える可能性がある。しかし、テレビ

局側からすれば、貴重な資源である過去のテレビ番組をそう簡単にインターネット事業者

に売り渡されてしまっては、広告収入で成り立つ地上波テレビの基盤が揺らいでしまうの

ではという思惑もあるだろう。

6 総務省 情報通信統計ベース 情報通信白書平成 18 年版より 7 内外の社会経済情勢の変化に伴い、日本産業の国際競争力の強化を図ることの必要性が

増大している中、知的財産の創造、保護及び活用に関する施策を集中的かつ計画的に推進

するため、平成 15 年 3 月に内閣に設置された組織のこと。首相官邸知的財産戦略本部ホ

ームページを参照のこと。 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/

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もちろん私達視聴者にとってみれば、インターネットを通して過去に放送されたドラ

マやバラエティなどのテレビ番組が見られるようになるというのは、とても魅力的なサー

ビスである。また、地上波では受信できない他地域のローカル番組も見られるようになれ

ば、番組流通のあり方がこれまでと一変する可能性もある。しかし、もし地上波で見逃し

たテレビ番組がネットで、しかも無料で見られるようになったら、視聴者にとってはいつ

でも好きな時に見られるネットの方が便利なため、地上波テレビは見られなくなってしま

うかもしれない。今後の課題は、放送事業者と通信事業者が、お互いの強みをうまく活か

し、いかに双方が納得できるシステムを構築していけるかにあると言えるだろう。 1-4. 変化するテレビのあり方 日本でテレビ放送が始まってから現在に至るまで、テレビのあり方は日々変化してきた。

これまでテレビの視聴スタイルといったら、主にみんなで楽しめる地上波のテレビ番組を、

お茶の間で家族揃って見るというのが当たり前だったが、社会の変化と共にテレビ視聴の

あり方も各家庭や個々人によって違ったものとなってきている。 多チャンネルを武器にした CATV や BS・CS 放送が普及するにつれ、料金を支払って

でも専門チャンネルを視聴したいという人が増え始め、更には携帯端末でテレビ視聴がで

きるワンセグや、見たいときに見たい番組が見られるビデオオンデマンド(通称 VOD)

というサービスもネットで普及してきている。こういったように、見る番組に関しても、

現在では必ずしも地上波であるとは限らず、その視聴形態もまちまちである。こういった

テレビのあり方の変化により、家族でチャンネル争いをしながら 1 つの番組を見るとい

うよりも、個々人で見たい番組を見たい時に見るという傾向に拍車がかかっている。 もちろん、テレビ視聴者が多様な選択肢の中からそれぞれのニーズに合ったものを選

ぶことができるということを考えると、世の中便利になったものだと感心してしまうが、

その傾向が強まるにつれ、失われるものも多数存在するのではないだろうか。例えば学校

で友達と会ったときに、前日のテレビ番組が話題に挙がり、それについて談笑するという

経験は誰もが一度はしたことがあるだろう。また、テレビを見て会話しながら家族で夕食

をとるというのは、もはやどの家庭でも一つの習慣と化しているのではないだろうか。し

かし、もし個々人でテレビ視聴のあり方がばらばらになってしまったら、そういった友達

や家族との共通の話題、コミュニケーションのツールとしてのテレビの機能が薄れていっ

てしまうことが考えられる。今の段階では、まだ地上波放送が至上主義であるといった考

え方が主流であるが、今後の行方によってはその常識は覆されるかもしれない。 それではそんな中、地方テレビ局は今後どのようにして事業を展開していけばよいの

だろうか。いくらこれからデジタル放送が始まり、電波の有効活用がそれぞれの地方テレ

ビ局にも求められるとはいえ、ローカル放送にまで多チャンネルやワンセグといったサー

ビスが必要なのかどうかに関しては疑問が残る。地方テレビ局は、キー局とは異なり、時

代の流れに乗って 先端のサービスを提供すればいいというわけではない(そもそもその

ような金銭的余裕も無いとは思うが)。地方テレビ局は、これまで培ってきた歴史、そし

て金銭面などを考慮しても、あくまでも地域密着の精神を軸に、これからも各々の地域事

情に見合った放送事業を展開していくしかないのだ。

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Page 24: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

2.地方テレビ局の現状と問題点 前章では、地方テレビ局が現在苦しい立場にある背景を、テレビ業界全体が置かれて

いる状況を踏まえながら概観したが、この章ではより詳しく地方テレビ局の実態に迫り、

その問題点を探っていこう。 2-1. キー局系列地方局の現状 それではまず、キー局系列地方局の現状から見ていこう。前章では、国の一方的な政

策により、現在地方局が財政危機に陥っているということに触れたが、これまでの系列局

の運営のあり方にも問題が無かったわけではない。というのも、キー局の制作する番組を

そのまま放送する、いわばキー局の中継局化していた系列局もあるからである。 しかし系列局の放送がそういった傾向に陥るのも無理はない。というのも、キー局か

らの番組をそのまま流すだけだから番組制作費もかからない上、キー局に放送枠を売るこ

とになるため、電波料という名目で収入も得られるからである。スポンサーからの収入が

乏しい地方の系列局からすると、これほどおいしい話はないだろう。そしてそれが原因で

系列局の番組制作力が低下し、キー局依存の体制がますます強まり、もはや系列地方局は

キー局なしではやっていけないという状況になる。もちろん地方の視聴者の中には、キー

局の制作する番組をできるだけ多く見たいという人もたくさん存在だろう。しかし、あま

りにもキー局に頼りすぎていると、その系列局の存在価値は無くなってしまう。 このような図式で系列地方局の弱体化がささやかれる中、もはや頼りになるのはキー

局しかいないのであるが、キー局は、自社の持つ BS・CS 局などへの出資やその他多角

的事業の展開のため、系列局の援助をする余裕もない。つまり系列地方局はもはや取り残

されてしまっている状況にあるのだ(鈴木 2004:67-91)。そこで、必然的に浮かび上が

ってきたのが系列地方局再編案である。そこでこれから系列地方局の再編が行われるとし

た場合の、有力な 2 つの再編案を紹介しよう。なお、この再編案に関しては、岡村

(2003: 189)を参照したい。 まず 1 つ目が「垂直統合」、すなわち同一系列の統合である。これは、各地域における

基幹局を中心としたブロック化を想像してもらうと分かりやすい。これは、同一地域にお

けるチャンネル数がこれまで通り維持されるというメリットがある反面、各地域単位に存

在している歴史のあるテレビ局が、より収益の大きい局に吸収されてしまうというデメリ

ットがある。 そして 2 つ目が、「水平統合」、すなわち1地域内の他系列局の合併である。これは、

各地域単位でテレビ局が維持されるというメリットがある一方、同一地域におけるチャン

ネル数が減少してしまうというデメリットがある。 いずれにしろこのまま地方局が経営難から立ち上がれないようであったら、再編も視

野に入れて地方局のあり方をもう一度議論する必要があるだろう。その際には、国の関係

機関やキー局、準キー局、そして地方テレビ局それぞれの立場の人間が、自身の立場を擁

護するような態度をとるのではなく、あくまでもこれから 10 年 20 年先の地方テレビの

あり方を考慮に入れながら、本来のあるべき方向に進むような議論を展開していってもら

いたい。

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2-2. 群馬テレビの現状 ―独立U局の現状も踏まえて― さて次に、私にとって現在 も馴染みの深いローカル局である群馬テレビの現状や問

題点について、独立 U 局全体に共通して言える現状も踏まえながら考察していきたい。

そして今回、より詳しい事情を探るため、群馬テレビの職員の方(以下 A 氏とする)に

お話を伺う機会を設けて頂き、インタビュー調査を実施した。そしてそこで得た情報も参

考にさせて頂いた。 まず群馬テレビの概要について触れていこう。開局したのは 1971(昭和 46)年であり、

関東地方では初の独立 U 局として放送を開始した。開局当時はまだテレビ業界全体が華

やかな世界であったため、群馬テレビに投資したがる事業者が多数存在した、と A 氏は

語っていた。 また A 氏に収益について伺うと、バブル時が 高潮であったが、 近では年々減少傾

向にあるというという答えが返ってきた。また新聞でも、デジタル化により 2006 年 3 月

期の税引き後利益が 5 期ぶりに赤字となることが報道されるなど(『読売新聞』

2006.5.26 群馬版 地域欄)、経営面に関してあまり芳しくない状況が続いているようであ

る。 現在の主な自主制作番組には、図 3 にもあるように、朝の「あさいち・朝生・情報通」、

昼の「ひる生情報Ⅱ」、夕方の「ニュースジャスト N」をはじめとする県内情報番組や、

歌に自信を持つ人達が集まる「ニューカラオケ大賞」、そして有名なミュージシャンのプ

ロモーションビデオを公開したり、全国各地で活躍するミュージシャンをゲストに呼んだ

りする音楽番組「J-POP」などがある。また、 近群馬県のヒーローとして浸透しつつあ

るアカギレッド、ハルナブルー、ミョウギイエローが、悪者を退治するという内容の「超

速戦士 G‐FIVE」という番組も 2006 年 11 月から放送されている(『上毛新聞』

2006.11.4 地区総合)。 群馬テレビの放送を見ていると、番組が不足しているのではないかと疑問に思わずに

はいられない。これは、現在の放送時間の平均約 4 分の 1 を、テレビショッピングが占

めていることや(図 4 参照)、1 週間に複数回同じ番組が流されていたりすることからも

伺える。そのため、私自身も、何気なく群馬テレビにチャンネルを合わせてみたら、テレ

ビショッピングがやっていたり、以前見た番組がやっていたりして、すぐにチャンネルを

変えてしまったという経験を何度かした事がある。いくら収益が乏しいとは言うものの、

これでは視聴者がますます群馬テレビから遠ざかっていってしまう。 ただしこれは群馬テレビに限った問題ではない。独立 U 局は、系列地方局のように放

送枠の大半をキー局の制作する番組に充てることが不可能なため、少ない予算で番組を編

成していくのには頭を悩ませざるを得ず、一部の局を除いて独立 U 局全体がそういった

番組不足の傾向にあるのだ。 とは言うものの、このままの状況をいつまでも続けていく訳にもいくまい。群馬テレ

ビでも地上波デジタル放送が 2006 年 9 月から開始されてはいるものの、現段階でこのよ

うに番組を不足させているようでは、地デジによる放送内容の充実など到底期待できるも

のではない。A 氏によると、現在独立 U 局同士で番組の共同制作を行うなどといった取

り組みも行われているが、それもあまりうまくいっているとはいえないという。

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2-3. ローカル放送の醍醐味 このように、地方テレビ局の危機と一言で言っても、実際には系列地方局と独立 U 局

で、それぞれ違った問題があることが分かる。しかし、その中でも両者に共通して言える

ことは、スポンサー企業からの収入が十分に集まらない状況の中、いかに少ない資金で地

域の視聴者にとって必要だと思われるテレビ局であり続けられるかが、今後の課題である

ようだ。 筆者は、ローカル放送の醍醐味が、それぞれの地域で育まれてきた文化の違い、すな

わちその多様性にあると思っている。例えばそれぞれの地域でしか見られないご当地限定

のCMも、その魅力の一つである。私自身も、昔とちぎテレビで流れていた「とちのきフ

ァミリーランド」というテーマパークのCMで、女の子が「楽しかった。また行きたいと

思った。ねえお父さん。」と、いかにも棒読みで語っていた光景を見て、どこか愛おしく

想えたのを今でも鮮明に憶えている8。このように、各地域にしか存在しない多様なロー

カル放送が、それぞれの地域住民に何らかの影響を与えている場合が少なくない。 また、キー局のテレビ放送を見ていると、どの局も似通ったような内容の番組ばかり

作っていて、見ていて飽きてしまうという経験をしたことのある人も多いのではないだろ

うか。そんなときにふと立ち寄れる、キー局とはまた違った雰囲気の放送を展開している

のがローカル放送の醍醐味でもある。 そう考えると、地方局はこれから再編されて画一化の方向に向かうよりも、これまで

通り全国各地に存在し、それぞれの文化を育みながら、キー局とはまた違ったところにそ

の存在価値を見出していったほうが望ましいということになる。そしてこれから地方局が

そうあり続けるためには、それぞれの地方局がこれまで以上に視聴者を魅了させる番組を

作ることにより、豊かな地方テレビ文化を形成していく必要があるだろう。 そこで次章では、地方テレビ局の制作した番組の中でも、より魅力的な番組を制作す

るという点において成功した番組の例をいくつか挙げ、群馬テレビが今後限られた予算で

魅力的な番組を作っていくためにはどのようにすればよいのか、その事例から学び取って

いくとしよう。 3.地方局の奮闘例 それでは早速、全国に数多くあるローカル番組の中でも、筆者が特に魅力を感じた 3

つの番組に的を絞り、その概要、そしてどこに魅力があるのかなどに注目しながら見てい

こう。

3-1. 低予算で面白い番組を ローカル番組を語る上でまず欠かせないのが、「水曜どうでしょう」だろう。これはテ

レビ朝日系列の北海道テレビ放送が制作したバラエティ番組であり、1996 年に放送が開

8 筆者は高校時代まで栃木県に住んでいたため、それまではとちぎテレビが も馴染みの

深い地方局であった。

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始されてから徐々に口コミやインターネットなどで話題となり、ローカル深夜番組では異

例の高視聴率を獲得したことでも知られる(ウィキペディア参照)。簡単に番組の内容を

説明すると、主に北海道で活躍するタレント 2 人が、日本全国、そして世界にまで足を

運び、安価で過酷な企画をこなすというものである。サイコロの出た目によって全国各地

に飛ばされるという企画や、ベトナムを原付で縦断するなどといった突拍子もない企画が

好評で、過去の放送番組は DVD 化され、様々な関連グッズも発売されている。また、こ

の番組がきっかけで大泉洋が全国に知れ渡るタレントとなったことは有名である。 これは地方テレビ局制作の番組の中でも、大成功を収めた例であると言える。

この番組が成功した理由はいくつか考えられるが、まず、まだ当時大学生であった大泉洋

を番組のメインキャストに抜擢したこと、そして低予算で全国を旅するという奇抜なアイ

デアと行動力で、視聴者の度肝を抜いたことなどによるところが大きいと思われる。 3-2. 地元学生が伝える地域情報 次に紹介するローカル番組は、独立 U 局のテレビ神奈川が制作する「みんなが出るテ

レビ~ヨコハマ開放区~」である。この番組は 2004 年 5 月に放送が開始され、現在でも

形を変えて放送されている。その内容は、視聴者からの投稿を基に、地元の女子大生が神

奈川県内のお勧めスポットや話題のイベントなどを取材し、視聴者に対してレポート形式

で発表を行うというものである。 この番組の興味深い点は、地元の女子大生達をキャスターに抜擢している点にある。

ここに出てくる女子大生達はあまりテレビ慣れしておらず、お世辞にもトークがうまいと

は言えない。しかし今時の女子大生に地元のスポットを紹介してもらうことにより、若年

層が地域情報に関心を持てるような内容となっているのである。 また、視聴者からの投稿を基に番組が制作されているため、この番組が神奈川県内の

地域住民間の情報伝達のツールとしての機能も果たしていると言える。地域イベントなど

の地域情報を、アナウンサーが一方的に伝えるという形の番組はどこの地方局でも見受け

られるが、このように地域住民が地域住民の立場から見た地域情報を視聴者に伝える形の

番組は、他の地方テレビ局ではまだあまり見受けられない。

3-3. 視聴者参加型バラエティ 後に紹介するのは「水野キングダム」である。この番組を地方テレビの奮闘例に挙

げるのは少々躊躇われたが、番組の形式が視聴者にとって魅力的であったためこの事例も

紹介しよう。この番組は、独立 U 局の東京メトロポリタンテレビジョン(通称 TOKYO MX)で 2006 年 10 月から放送されている、まだ始まったばかりのバラエティ番組である。

番組は、視聴者を「水野キングダム」という仮の国家の国民に見立て、国に起こっている

問題(お題)に対する回答を視聴者からイラストで募集し、それを大臣に扮した数人の著

名お笑い芸人が評価し、実際に国で施政する(イラストを現物化する)という形で進んで

いく(ウィキペディア参照)。 また NHK の番組であるのだが、似たような形式で行われているテレビ番組に「着信御

礼!ケータイ大喜利」という番組がある。この番組では、生放送中に視聴者からお題に対

する回答を携帯メールで受け付け、それをお笑い芸人が評価するという形がとられ、出来

が良ければ景品までもらえるというシステムになっている。やはり自分の考えた作品が有

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名なお笑い芸人に評価されることが魅力的であるためか、毎回アクセス数が増加傾向にあ

る。 これまでは “視聴者がテレビを見る”というスタイルが当たり前であったが、これら

の番組は、“視聴者が番組に参加する”というスタイルで成り立っているため、視聴者は

これまでとは違った形でバラエティ番組を楽しむことができる。こういった形式の番組も、

視聴者を惹きつける大きな要因の一つとなるかもしれない。

3-4. 3 つの事例から学べること これまで、より魅力的かつ特徴的なローカル番組を 3 つ紹介してきた。まず 1 つ目の

事例は、地域で活躍する面白い人材を番組のメインキャストに起用するというテレビ局の

柔軟さと、地方テレビ局ならではの突拍子も無い企画が成功の鍵であった。そして 2 つ

目の事例は、女子大生という、ブームの火付け役となりうる人材を番組の主役に起用する

という発想から、都市型地域密着番組へと進化していった。そして 3 つ目の事例は、視

聴者が意欲的に番組に参加できるシステムを作ることにより、視聴者を惹きつけていこう

という取り組みの一例であった。 どの番組にもそれぞれ違った魅力があり、ローカル番組ならではの味もある。そして

それら魅力的な番組に共通して言えるのは、視聴者を惹きつけるための何らかの工夫がな

されているということである。そこでは、視聴者がどのような番組に魅了させられるのか

を探求すると同時に、それを地域資源とどのように結び付けていくかを考察し、形にして

いくことが大切であるように思われる。 現在全国各地で放送されているローカル番組で、先に挙げたように魅力的な内容であ

るものはあまり多いとは言えない。それは、現在多くの地方テレビ局で流通・上映されて

いるローカル番組が、一部のテレビ局によって作られたものであることからも察しがつく

だろう(図 5 参照)。これからそれぞれの地方局は、それらの番組のように多数のテレビ

局で放映されることを目指し、番組を制作していく必要がある。もちろんそのためには番

組制作スタッフの手腕も問われるだろう。それぞれの地方局が、工夫を凝らした特徴のあ

る番組を制作していくことで、もっと地方局全体を盛り上げていって欲しい。

4.群馬テレビの行方 4-1. 群馬テレビの今後 さて、これまで地方テレビ局が置かれている環境を概観するに始まり、そこから主に

群馬テレビに焦点を当て、地方テレビの置かれている現状を細かく見てきた。そうした中

でも、やはりテレビのあり方の変化や人々の価値観の多様化により、今後も地方テレビ局

が厳しい状況にあり続けることは必至だろう。しかし、いくらパソコンや携帯電話による

番組配信が盛んに行われるようになり、またケーブルテレビや CS 放送など多チャンネル

化が進もうと、これまで通り視聴者が面白いと思う番組を見るということに変わりはない。

そう考えると、群馬テレビにも全くチャンスがないわけではない。群馬テレビも、視聴者

にとって魅力的な番組とは何かを探求し、地域住民にこれまで以上に見てもらえるローカ

ル放送を展開していくことにより、徐々にその存在価値を高めていくことは可能である。

では、群馬テレビは、具体的に今後どのような番組作りに励んでいけばよいのだろうか。

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4-2. 番組改革 群馬テレビは、先述した通りいくつかの自主制作番組を持っているが、これといって

看板番組となり得るものが無いのが現状である。しかし、いきなり看板番組をゼロから作

っていくのは経済的にも人員的にも大変であろうから、まずは現在ある番組を、視聴者が

もっと惹きつけられるようなものへと改善していくところから始めるのがよいだろう。 例えば、先にも述べた「ニューカラオケ大賞」という番組は、現在出場者が比較的年

配の方に偏っていて、参加者が歌う歌もほとんど演歌であるため、若年層の視聴者は、知

り合いが出ていない限りまず見ないだろう。しかし、これを週毎に企画を替え、例えば、

第 1 週は演歌、第 2 週はアニメソング、第 3 週はラブソング、第 4 週は物真似しながら、

と言うように子供から年配の人まで広く出場してもらえるような工夫を施すことにより、

視聴者、そして出場者強く惹きつける魅力的な番組へと変化していく可能性を秘めている。 また、県内情報番組に関しても、県内の情報をただ伝えるだけというのではなく、それ

をいかに視聴者に興味を持ってもらえるような内容のものにしていくかが肝心である。そ

のためには、実際に街中に出向き、街行く人の生の情報を映像と共に伝えたり、地元の学

生と連携した取り組みを行ったりするなど、新たな取り組みを行ってみるというのも一つ

の方法だろう。特に県内情報番組は、その内容如何によって、視聴者である地域住民が、

県政に興味を持つようになったり、県内のイベントなどへ足を運ぶようになったりする可

能性を秘めているため、その期待される役割は大きいといえるだろう。 そして地方テレビ局は、視聴者との距離が近いという強みを活かし、今後視聴者とどの

ように向き合っていくか考察していくことも大切である。前章で挙げた例のように、視聴

者が番組に意欲的に参加してもらえるような番組を作っていくことも 1 つの方法であろ

う。また、先に述べた「超速戦士 G-FIVE」という番組に、毎回県民が何らかの形でゲスト

出演するなど、テレビ局と視聴者との距離の近さを活かした番組を作成していくのも面白

いかもしれない。いずれにしろ、いかに視聴者に見てもらえるような工夫を施すか、無限

にある可能性を色々試してみることが必要である。 このように、現在放送されている番組を魅力的なものへと変えていくには、これまで

のテレビ局の運営のあり方から変えていく必要があるのかもしれない。群馬テレビは、こ

れまで地域密着という理念を掲げながらも、その古い体質から抜け出せず、何か新しいこ

とを始めるのにも時間と手間をかけ過ぎてきた傾向があるように感じられる。しかし、1つ面白い番組ができれば、視聴者はそれをきっかけに群馬テレビにチャンネルを合わせる

機会が増えるだろう。これまでよりも群馬テレビが広く視聴者、すなわち群馬県民に愛さ

れるテレビ局になるためにも、そして他局に羨ましがられる存在になるためにも、視聴者

がどんな番組を欲しているのか察知し、それを形にしていくことができる柔軟なテレビ局

へと変化していく必要がある。

4-3. 群馬テレビとの接し方 群馬県民にとって、群馬テレビとはどんな存在であろうか。群馬テレビで地域情報を

毎日欠かさずチェックしているため、生活に欠かせないという人もいれば、そんなもの見

たことがないから必要性を感じないという人もいるだろう。それでは群馬テレビにチャン

ネルを合わせる人にとって、その動機はどんなものが考えられるだろうか。 まずはキー局の放送では流れないような県内の小さなニュースを知りたいと思ったと

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き、または県内で行われているイベントを知りたいと思ったときなど、地域情報を知りた

いと思ったときが考えられる。もしくは地元の高校や中学などの野球やサッカーといった

スポーツの試合を見たいと思うとき、もしくは、J2 ザスパ草津の試合を見たいと思いチ

ャンネルを合わせる人もいるかもしれない。現在のところ、そういった動機を持って群馬

テレビにチャンネルを合わせる人が多いことだろう。 それではそれに対し、キー局の放送に関してはどうだろうか。もちろん目的を持って

テレビをつけるという人もいるだろうが、大抵の人は特に見たいテレビ番組も無いのに、

とりあえずチャンネルをつけてみるということが多いのではないだろうか。 群馬テレビが今後もっと地域に密着したものになるためには、視聴者が気軽にチャン

ネルを合わせたくなるような放送を展開していくのが望ましい。そしてそのためには、ま

ずは群馬テレビにチャンネルを合わせようと思うような動機を、もっと増やしていくこと

が大切である。それは例えば昔見ていたテレビアニメがやっているから、キー局では放送

されないようなマイナーな旅番組がやっているからなど、どんな動機でも構わない。しか

し、現在群馬テレビで放送されている番組は、ゴルフ番組や時代劇など、特定のジャンル

の番組に偏っており、とても幅広い視聴者層に見てもらう工夫がされているとは言い難い。

人それぞれ違った接し方で群馬テレビと触れ合ってもらうためにも、様々なジャンルの番

組を幅広く放送していくことを考えていかなければならないだろう。そしてそれにより、

それぞれの視聴者がそれぞれ違った切り口から、地方テレビ独特の良さを感じ取っていっ

てもらえるようになっていってもらいたい。

おわりに これまで群馬テレビに関して色々述べてきたが、実は私自身も、本稿を執筆しようと

思う以前は、ローカル放送にあまり興味がなかった。というのも、ローカル放送は、どの

番組もどこか時代遅れであるというイメージがあり、昔懐かしいアニメ位しか見たいと思

う番組が無かったからである。しかし、本稿を執筆していくにつれ、ニュース番組や県政

番組、バラエティ番組などを見る機会が増え始め、時にはカラオケ番組まで見るようにな

った。すると、確かにまだまだ改善の余地があると感じた部分も多々あったのだが、地域

情報がためになると感じたり、一昔前の CM が懐かしく感じたり、更にはカラオケ番組

の審査員が面白いキャラクターだったりして、結構楽しめる部分もあるということが徐々

に分かっていった。しかし、残念ながらそういったローカル放送の魅力は、じっくり腰を

落ち着けて見なければ、他人にはなかなか理解してもらえないようである。実際のところ、

群馬テレビは歴史が古いためか、お年寄りが好んで見るような番組は結構あるのだが、若

者がふと興味を持てるような番組はまだまだ少ない。これまでの歴史で培ってきた番組制

作のあり方をなかなか変えられないという背景もあるだろうが、時には幅広い視聴者層の

ことも考慮し、うまくバランスをとりながらこれから徐々にそのあり方を見直していって

もらいたい。そして地方テレビ局が、キー局とは違ったところにその存在価値を確立する

ことを願ってやまない。

謝辞 本稿を執筆するにあたり、群馬テレビ職員の方に、多忙な中お時間を作っていただき、

貴重なコメントを頂きました。この場を借りて感謝申し上げます。

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【参考文献】 河本久廣,2006,『《業界の 新常識》よくわかる放送業界[改訂版]』,日本実業出版社 岡村黎明,2003,『テレビの 21 世紀』,岩波新書 南條岳彦,1996,『メディアのしくみ -新聞に制圧される地方テレビ局-』 明石書店 鈴木健二,2004,『地方テレビ局は生き残れるか 地上波デジタル化で揺らぐ「集中排除

原則」』 日本評論社 西正,2004,『放送業界大再編 デジタル放送が巻き起こす地殻変動』 日刊工業新聞社 齋藤茂樹,2005,『デジタル・コンバージェンスの衝撃』 日経 BP 企画 日本放送協会放送文化研究所,2005,『放送メディア研究 3』 現代用語の基礎知識・1994 年版 別冊付録 自由国民社 群馬テレビ株式会社ホームページ http://www.gtv.co.jp/ 水曜どうでしょう オフィシャルウェブサイト http://www.htb.co.jp/suidou/ みんなが出るテレビ 番組ウェブサイト http://www.tvk-yokohama.com/mintv/ 水野キングダム 番組ウェブサイト http://www.fandango.co.jp/mk/

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図 1 日本の地上波民間テレビ放送局の構図(色が塗ってある部分がクロスネット局) (平成 18 年 3 月 総務省 情報通信政策局 総合政策課 情報通信経済室制作 「我が

国における放送の現状に関する調査」より)

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本社 NNN JNN FNN ANN

キー局 東京 日本テレビ放送網 東京放送(TBS) フジテレビジョン テレビ朝日

準キー局 大阪 読売テレビ放送 毎日放送 関西テレビ放送 朝日放送

北海道 札幌テレビ放送 北海道放送 北海道文化放送 北海道テレビ放送

宮城 宮城テレビ放送 仙台放送

静岡 テレビ静岡

愛知 中京テレビ放送 中部日本放送 東海テレビ放送 名古屋テレビ放送

広島 広島テレビ放送 テレビ新広島

基幹局

福岡 福岡放送 アール・ケー・ビ

ー毎日放送

テレビ西日本 九州朝日放送

図 2 ネットワーク系列局におけるキー局、準キー局と基幹局 (ウィキペディアを参考に作成)

番組名 ジャンル 放送時間

5:30~6:00(金) 早起きは三文の得 教養

12:40~12:50(金)《再》

21:00~21:30(金) ビジネスジャーナル 教養

9:00~9:30(日)《再》

21:00~21:55(日) J-POP 音楽

23:00~23:55(月)《再》

20:00~21:00(金) ニューカラオケ大賞 カラオケ

10:00~11:00(日)《再》

12:00~12:55(土) Let's go Car Bazar カー情報

22:00~22:55(土)《再》

あさいち・朝生・情報通 県内情報 6:55~8:30(月~金)※祝日は休止

情報市場 県内情報 10:00~10:30(月~金)※祝日は休止

ひる生情報Ⅱ 県内情報 11:30~12:10(月~金)※祝日は休止

ニュースジャスト N 県内情報 17:30~18:30(月~金)

21:30~21:55(月~金) GTV ニュース ニュース

18:00~18:20、21:55~22:00(土日)

22:00~22:30(毎月最終水曜) 技に迫る 県内情報

22:00~22:30(毎月第 1 水曜)《再》

22:00~22:30(金) 県政番組 風人の画布 県政番組

17:30~18:00(日)《再》

12:00~12:30(日) 続ゴルフ上達 Q&A ゴルフ

21:00~21:30(土)《再》

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超速戦士 G-FIVE ヒーロー 18:45~18:55(土)※月 1 回更新、それ以

外の週は再放送

図 3 2007 年 1 月現在、群馬テレビの主な自主制作番組と放送時間(群馬テレビホーム

ページを参考に作成) 曜日 おおよその 1 日の総放

送時間

うちテレファンショッピングの放送時

割合

月 20 時間 5 時間 25%

火 20 時間 4 時間 30 分 23%

水 20 時間 5 時間 25%

木 20 時間 5 時間 30 分 28%

金 20 時間 30 分 5 時間 24%

土 20 時間 15 分 8 時間 40%

日 20 時間 15 分 4 時間 20%

図 4 群馬テレビのテレフォンショッピング放送時間の割合(群馬テレビ 2006 年 11 月

タイムテーブルを参考に作成) 番組名 制作局 現在放送されている局数(制

作局を除く)

探偵!ナイトスクープ 朝日放送 31

水曜どうでしょう 北海道テレビ放送 30

1×8いこうよ! 札幌テレビ放送 16

痛快!明石家電視台 毎日放送 15

ぐっさん家~THE GOODSUN HOUSE~ 東海テレビ放送 12

saku saku テレビ神奈川 11

怪傑えみちゃんねる 関西テレビ放送 11

たかじん胸いっぱい 関西テレビ放送 11

桑原征平のおもしろ京都検定 京都放送 11

タカラヅカ・カフェブレーク TOKYO MX 10

ノブナガ 中部日本放送 8

ほんじゃに! 関西テレビ放送 8

ウドちゃんの旅してゴメン 名古屋テレビ放送 7

NO MATTER BOARD 北海道テレビ放送 6

なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ! 朝日放送 5

図 5 2006 年 12 月現在 他のテレビ局でも放送されている主なローカル番組 (ウィキペディアを参考に作成)

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消えゆく県民性

―群馬県の特徴と県民性― 小坂 奈美

はじめに 「県民性」と聞いて何を想像するだろうか。

暖かいところで育った人はおおらか、寒いところなら無口といったイメージ。また、

「大阪人は食通だ」、「長野県人は教育熱心だ」、「名古屋人は冠婚葬祭を重んじる」といっ

たような具体的な性格などだろう。血液型診断と同様に県民性も他県民同士の相性や接し

方を扱ったサイトや書籍も存在している。

県民性とは地域ごとの独特の気質である。県民性をうみだす要因は様々で自然環境、

文化的伝統、産業の特徴などが関わっている。また、盆地世界ごとに固有の文化、気質が

形づくられてきたといわれている。交通手段が発達していない時代には村や町などで一生

を過ごす人が多く、県民性が存在していたかもしれない。しかし、現代では違う。生まれ

育った場所で一生を過ごすという人もいれば、大学進学、就職や転勤などにより住む場所

を変える人もいる。現代では生まれ育った土地から地域ごとの独特の気質である県民性が

表れるとはいえないだろう。

そもそも現代に県民性は残っているといえるのだろうか。県民性という単なるイメー

ジが先行し過ぎているだけなのではないか。

私は生まれも育ちも群馬県だ。群馬県といえば「かかあ天下とからっ風」といわれる。

だが、群馬県に限らず「かかあ天下」は、房州のかかあ天下、能州のかかあ天下、練馬のか

かあ天下などの言葉も使われていた。「からっ風」も群馬県だけではなく他県にもみられる

ものである。

群馬県人の立場から、現代までいわれている群馬の県民性が本当に存在するのか調べ

ていこうと思う。

1.県民性とは 1-1. 県民性とは 県民性とは一体どういうものなのだろうか。誰でも県民性と言う言葉を聞いたり、使っ

たりしたことがあるだろう。例えば「大阪人は食通だ」、「長野県人は教育熱心だ」、「名古

屋人は冠婚葬祭を重んじる」といったような話だ。今日でも県民性の特徴は各地域ごとに

みることができるだろう。(同じ県内に全く異質の気質を持つ集団が同居する場合もあ

る。)だが、県民性というものは確実に存在するものなのだろうか。県民性という型に無

理にはめようとしているのではないか。性格は人によってさまざまである。この多様なも

のを単純な類型で説明することに不満を持つ人もいるだろう。

県民性とは地域ごとの独特の気質である(武光 2001:8)。県民性をうみだす要因は

様々で自然環境、文化的伝統、産業の特徴などが関わっている。武光は県民性の底には二

つの要素があるとしている(武光 2001:17)。

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一つは、日本で古くから個々の盆地世界ごとに固有の文化、気質が形づくられてきた

ことである。中世以前から、同じ盆地世界の中の町と村との交流は盛んに行われていた。

人間は山などの自然の交通障害に囲まれた範囲にいれば、自分の生活圏に外的が入りこむ

のは簡単なことではないと考えるだろう。このことから、同じ盆地世界の住民は気心の知

れた同郷人であるとされる(樋口 1996)。一つの盆地世界と外の世界との交流が広まるの

は日本の均質化が始まった江戸時代になってきてからである(武光 2001:19,26)。

そして、もう一つは弥生時代の開始以来、日本の東と西でそれぞれことなる文化が作

り上げられていったことである。中世までは西日本と東日本とが全く異質な世界をつくり

あげていたといわれている。例えば「東京のそばと大阪のうどん」、「東京のしょうゆ味と

大阪のだし味」などを比較すると明らかに異なる食文化といえる。現代でも多くの日本人

は、日本の東と西で異なると考えているそうだ。

もともと日本列島全体に縄文文化が広まっていった。縄文文化は約 1 万 3000 年前にう

まれたもので、北海道から沖縄に及んでいた。縄文人の先祖は、シベリアから北海道に南

下してきたといわれている。そして、紀元前二世紀はじめに、朝鮮半島の戦乱を逃れた

人々が、大量に日本に移住してきた。彼らは、水稲耕作で生活する人々で原野を開発して

水田と住居をつくって安住したといわれている。そして西日本の縄文人の多くと同化し、

弥生人であるかれらと混血していった。そして弥生文化は紀元前二世紀なかばからゆっく

りと東に進出し、紀元前後ごろにようやく関東地方に到達した。この過程で西日本から東

日本への移住者はそれほど多くなかったといわれている。つまり、弥生文化の東日本への

広まりは弥生人が水稲耕作を受け入れて弥生式土器をつくることによってもたらせたと考

えられる(武光 2001:34)。このことが日本の東と西でそれぞれことなる文化が作り上げ

られていった大きな要因だと思われる。

つまり日本各地の盆地世界ごとに作られた固有の文化にあり、これに弥生時代以降の

大陸文化の影響などが加わり“お国がら”の骨格が決まったのが県民性と言われている。

県民性は歴史や気候風土を反映した気質・性格という面において少なからず存在していた

のだろう。

1-2. 生粋県人とは NHK 放送文化研究所が調査した全国県民意識調査では 15 歳頃まで暮らしていた県を

「生育県」としている。また、生育県と現在の住居県とが同じ人を「県出身者」とし、異

なる人を「他県出身者」としている。さらに、自県出身者の中で、両親ともその県の出身

者、つまり祖父母の代から3代にわたってその県に住んでいて、かつ、本人は他県で1年

以上生活をした経験がない人を「生粋県人」としている。

この調査によると生粋県人は全都道府県平均で 37.7%である。千葉では生粋県人は約

26%、残りの約 74%は県出身者や他県出身者である。千葉県人であるという気持ちを持

っている人は 54.7%で全都道府県中、 下位であった。その反対に沖縄では約 62%が生

粋県人である。この調査で沖縄は、47 都道府県の中で他を引き離してトップという結果

が多く現れた。まず、沖縄県人だという気持ちをもつ人が 86%に上り、県人の帰属意識

が強いことがわかる。また、沖縄県人のものの考え方には特徴があると考えている人は

72%と、これも全国 1 位の高さで、 も少なかったほうの兵庫とは 50%の開きがある。

生粋県人が多ければ自ずと帰属意識が高くなるのは当たり前のことだろう。

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1-3. 転入者と他県出身者の同化 転入者が多ければ生粋県人がいなくなり県民としての意識が薄れて行くことは仕方な

いことだろう。東京では、生粋県人はわずか約 16%しかいない。また、県出身者は東京

では約 57%であった。東京では半数以上が他県からの転入者であることがわかる。だが、

生粋県人や県出身者が少ないにもかかわらず、人びとの意識には県民としての強い特徴が

ある。これは人びとがある地域に長く住むことによって、そこに住む人間としての共通の

意識を持つようになることを示しているのだろう。みんなと同じように生きていこうとい

う人びとの基本的な生活姿勢が表れているからなのだろうか。転入者がその県に同化する

のは自然なことのように思える。だが、転入者や他県出身者の同化により県民性に影響は

ないのだろうか。

県民性とは転入者と他県出身者の同化と社会変化により失われていくものだと考えら

れる。それは同化した転入者や他県出身者が、本来存在していた県民性を薄れさせている

こと、また、県民性をうみだす要因が文化や産業であることが原因として挙げられるだろ

う。自然環境は変わることはないが文化や産業は時代と共に変化していくものである。こ

れらの変化と共に県民性も変化するものと思われる。その変化とは県民性が失われていく

ことだ。そこで次章では、群馬県の県民性をつくりだした気候・産業・文化の特徴をみて

いこうと思う。

2.群馬の気候・産業・文化の特徴 2-1. 気候からみる群馬 県民性をうみだす要因は自然環境、文化的伝統、産業の特徴などが関わっていること

は先に述べた。群馬の県民性を語るうえで群馬県の気候・産業・文化の特徴をみていこう

と思う。

群馬県の「3K」といえば、雷、からっ風、かかあ天下といわれている。夏は雷雨の多

発地帯として有名であり、また、冬に関東平野一帯に吹き渡るからっ風のうち、 も強く

吹くのが群馬県である。その他、冬場の乾燥や年間の日照時間の長さも全国一、二を争う。

群馬県と一口にいっても、南部の平坦地と北部山沿いでは気候もずいぶん違う。南部

は日本列島の大部分が属する温帯湿潤気候のうち、夏多雨・冬少雨の太平洋型気候であり、

夏は暑く、冬は乾燥した季節風が強いのが特徴である。北部は、冬に季節風に伴って雪や

雨が降る日本海型気候の特徴を持ち、標高が高い分、夏の暑さはしのぎやすい一方、冬の

寒さは厳しい。夏場、その日の 高気温を記録した場所としてしばしば群馬県内の地名を

耳にする。前橋、伊勢崎、太田、桐生、館林などだ。平野部であり、かつ内陸性気候であ

るこれらの地域は気温が上昇しやすい。この事実から、群馬県の夏は暑いといえる。冬に

は、積雪の多い山沿いは厳しく冷え込み、また、乾燥して風の吹く南部の平坦地も、その

強風により体感温度はごく低くなる。

これらの気候的特徴は、内陸県である群馬県の位置や地形的特性に由来しており、県

民性や方言の特徴にも影響を及ぼしているのではないかと考えられている。しかし、気候

によって方言が形成されたと考えられている地域は群馬県だけではなく他県にもいえると

されている。群馬県よりも冬の寒さが厳しい県は存在しており、気候が群馬県人の言葉が

荒いとされている原因なのかは疑問である。方言は政府の政策や時代の流れにより失われ

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つつある。現在ではテレビやラジオなどで標準語を使用しているため、ほとんどの人が標

準語や標準語を話せるようになった。このことにより群馬県人の荒い方言が共通語に変わ

り荒くない方言になることを望んでいる。

2-2. 養蚕で栄えた群馬 群馬県の歴史的な産業で忘れてはならないのは養蚕である。ここでは群馬県が養蚕業

で栄えた歴史をみていこう(群馬県,2002:75-9)。

群馬県は、近代以前から絹の産地として知られていた。その理由としては、水はけの

よい土がクワの栽培に適していたこと、水田稲作には不都合な斜面の耕地が多いこと、晴

天率が高く日照時間の長い気候が養蚕に向いていたことなどが挙げられる。現在でも群馬

県は日本一の繭と生糸の産地である。

1859 年の開港以来、日本の生糸は盛んに各国に向けて輸出されるようになったが、や

がて粗製乱造や品質の不ぞろいが目立つようになり、評判を落としていった。これを打開

しようという動きの一つが組合製糸の設立であり、もう一つが器械製糸の導入を目的とし

た模範工場の建設であった。組合製糸は、明治期の製糸の中心であった各農家での上州座

繰器による生糸を集め、量と品質をそろえて出荷する団体で、県内外にいくつも結成され、

大きな成果を挙げた。一方、1872 年に開業した官営富岡製糸場は、国内初の模範器機製

糸場として多くの技術者を養成し、その後の器機製糸発展の基礎を築く。全国的には

1894 年に、群馬県では 1913 年に器機製糸の生産量が座繰製糸のそれを上回る。その後、

戦争や恐慌の中で、技術革新を繰り返しながら、製糸は日本の産業をリードし続け、第二

次大戦の復興においても力を発揮していた。

ところが、1965 年以降の着物離れ、第一次産業である養蚕農家の減少による収繭量の

低下などにより、日本のそして群馬の製糸業は衰退してしまった。しかし、今日でも群馬

県をはじめとする国内の研究機関では日々新たな技術や製品が開発されている。

群馬県が養蚕で栄えたことから「かかあ天下」という県民性が形成されたと考えられ

ている。詳しいことは後述するが、養蚕が衰退していった結果「かかあ天下」という県民

性も失われてきているものと思われる。

2-3. 群馬県のかるた 上毛かるた 群馬には「上毛かるた」という日本一の郷土かるたが存在する。この上毛かるたはど

んな目的で誰が作ったのだろうか。

群馬県で生まれ育った人なら上毛かるたのことを誰でも知っているだろう。私も含め

群馬で育った人たちは、学校や地域などで上毛かるた遊びをした。他県から来た人はその

普及率に驚くほどだ。

上毛かるたのそのものの制作話は、戦後、恩賜財団同胞援護会1(以下援護会)の巡回

映画班2活動の中からわきあがった。1946 年 10 月、援護会の常任幹事の浦野匡彦氏に、

1 恩賜財団同胞援護会の目的は戦後新たに実施された生活保護法でも賄いきれない人々、

特に自らの生活権すら主張できない貧困者等に、同胞としての心を集結し、援護して再起

更正させていくための力強い支えとなることだった。 2 巡回映画班とは援護会の文化課が担当する事業で、文化や教養の素材がない時代、娯楽

がない時代に、子供たちに夢と希望を与える活動をする目的でつくられた。この援護会の

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かるたを作ってはみてはどうかと持ちかけた人物がいた。須田清基といい戦争中は台湾で

牧師をしていたが、終戦後日本に引きあげてからは援護会の紙芝居活動などに積極的に関

わっていた人物だ。

浦野氏は教育関係・郷土史研究・報道関係等の各界から集めた 18 人の文化人で構成す

る「上毛かるた編纂委員会」を発足させた。編纂委員会はまず 1947 年1月 11 日付の上毛

新聞で、「郷土を荒廃から救おう」「足もとから見なおそう」という趣旨により上毛かるた

を作成すること、そして上毛かるたの中に詠みこむ資料を広く県民から募集していること

を発表した。発表後、援護会に送られてきた資料は 終的には 272 件にものぼった。編纂

委員会は集まった資料に基づいて 44 枚のかるたを作成した。

1947 年 11 月、構想からわずか 10 ヶ月という速さで上毛かるたは第 1 回の発行となっ

た。上毛かるたを県内に普及させ公的にも残していきたいと、制作の翌年 1948 年、上毛

かるた競技県大会が行われた。第1回上毛かるた競技県大会が開催されてから現在の

2006 年の第 59 回も行われている。

また、上毛かるたは昭和 27 年3月7日には児童福祉法第八条に基づいて設けられた群

馬県児童福祉審議会から、「児童福祉のために役立つ優良文化財である」と推薦された

(群馬文化協会 1997:29)。一般に優良文化財に推薦されるものには、映画や図書等が多

いが、子供の遊びに関するもので推薦されたのは珍しかったといえる。

上毛かるたは 2006 年 10 月現在までに 1,285,000 組も発行されている。伝統度、普及

度、影響度等において上毛かるたに匹敵する郷土かるたは存在せず、まさに日本一の郷土

かるたと認識することができる(阪元 1987:19)。上毛かるたで幼いころからかるた遊び

をすることにより、郷土の歴史や人物を知ることができる。この上毛かるたが少なからず

郷土意識や県民意識の形成に寄与し続けていると思われる。では県民意識を形成させるた

めにはどうしたらいいのだろうか。群馬県では上毛かるたが県民意識の形成に有効である

と考えられる。それは上毛かるたが郷土意識や県民意識の形成に少なからず貢献している

からだ。だが、上毛かるたでは群馬県出身者の県人意識を高めていくことはできても転入

者には難しいだろう。なぜなら上毛かるたをして遊ぶのは群馬県出身の小・中学生であり、

高校生以降、群馬県に転入してきた転入者はほとんどすることはない。また、上毛かるた

には競技県大会3が存在するが、それには高校生以上の部は存在しない。上毛かるたを使

って転入者に群馬県人だという意識を形成するためには上毛かるたで遊んでもうことが必

要だ。そこで上毛かるた競技県大会に高校生の部や成人の部を設けることにより転入者が

大会に参加できるようにしたり、町内会で新年の恒例行事にするなど、かるた遊びをする

環境を作ることが必要であるのではないだろうか。

3.群馬県の県民性 3-1. 「かかあ天下」と「バクチ好き」 第二章で群馬県の気候・産業・文化の特徴をみてきた。どうやらこれらが群馬県の県

民性をうみだす要因となったようだ。特に「かかあ天下」や「バクチ好き」は群馬県の養

文化課というのは、他県の援護会各部にはない群馬県独自の組織として特徴がある。 3 群馬県内各郡・市の予選を勝ち抜いた小学生、中学生が上毛かるたで群馬県一を目指す

大会である。

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蚕の歴史がなければ存在しなかった県民性といえる。

ところでこの「かかあ天下」とはどういう意味なのだろうか。「かかあ天下」という言

葉がいつから使われていたかはさだかではないが、昔は群馬に限ったものではなかった。

「かか大将」、「かか大明神」、「かか旦那」などの類語もあり、また、房州4のかかあ天下、

能州5のかかあ天下、練馬のかかあ天下などの言葉も使われていたという。「かかあ天下」

が群馬名物として登場するのは明治になってからで、以後は多くの書物や県内各地の郷土

誌にのり、群馬名物として固定したようである。群馬県で養蚕が盛んだった当時、製糸・

織物業などから女性が一家の中心となって働いていた。この働き者の女性を男性たちは

「うちのかかあは天下一」だとほめ、自慢したといわれている。この言葉の中から「は」

と「一」がぬけて「かかあ天下」となったという説もある。群馬の女性が夫を尻に敷いて

いばっているというのは誤解であり、本来「かかあ天下」とは、よく働く女房という意味

である。社会生活統計指標では群馬県の女性の労働人口比率は約 50%で全国 18 位であり、

現在でも女性はよく働くことを表している。また、共働き世帯割合も約 33%で全国 17 位

である。だが群馬県の女性が特に働き者であるというわけではないことはたしかである。

そして、「かかあ天下」が存在しなければ、「バクチ好き」といわれることはなかった

だろう。ではなぜバクチ好きという県民性になっただろうか。

「バクチ好き」の歴史的背景は萩原進氏の研究によれば次のとおりである。

江戸時代、上州各地に養蚕が盛んになった。養蚕による繭の産出によって、

農村では糸挽きが行われ、下げ糸は各地の六斎市に売られて直ちに現金化さ

れた。下げ糸は更に織物に加工されて、絹織物として江戸に出荷される。こ

の養蚕から織物までは女性の仕事であった。その間、男性は田んぼの以外に

一年中するほど仕事がなく、女性からもらったお金で博場に出入りし遊び暮

らした。(萩原 1977:168)

江戸時代以降も博打が行われており、明治 11 年 11 月号の「群馬新誌」によると、前

橋市で人妻が自分の家を賭場にして、博打をしている現場を警官に踏み込まれたとある。

男性だけではなく女性も博打をしていたことがうかがえる。明治 30 年の全国の賭博犯統

計によると、賭博で捕まった人の多い順は、一位が兵庫県、二位が大阪府、三位が東京都、

四位が群馬県、五位が北海道であった。群馬県は人口の多い他県と肩を並べていることに

注目したい。その後、明治時代に賭博犯を取り締まる法律が改正され、現行犯だけでなく

常習犯まで逮捕できるように改正になった。それまで群馬県はいつも犯罪の多い県だった

が、その法律ができたあと、犯罪が非常に少なくなった。それは群馬県の犯罪の中で、賭

博の犯罪が非常に多かったことがわかる(萩原 1983:41)。現在、刑法によって賭博は禁

止されているが、公営競技およびパチンコなどの各種遊技は行われている。

だが、現在の群馬県民は本当に「バクチ好き」なのだろうか。平成 13 年社会生活基本

調査6の都道府県,趣味・娯楽の種類別行動者率によると、群馬県では調査対象者 1,796

4 安房(あわ)国の別名。千葉県南部に相当。 5 能登国の別名。石川県の北部能登半島を占める。 6社会生活基本調査は昭和 51 年に開始されて以来、5年ごとに行われている。国勢調査調

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人のうち 16.3%の人が調査日にパチンコをしていることがわかる。また、栃木県でも

1,785 人のうち 16.1%の人がパチンコをしている。両県の調査対象者数とパチンコをした

行動者率はあまり変わらない。群馬県が「バクチ好き」とするなら栃木県にもいえるので

はないか。

群馬県にはパチンコ機械製造会社が三社(㈱平和、㈱三共、㈱ソフィア)あり、その

うち二社が東証一部上場の企業である。また、群馬県には公営競技場が、前橋競輪場、桐

生競艇場、伊勢崎オートレース場の三ヵ所ある。以前は高崎競馬場もあったが景気が思わ

しくないため、2004 年に閉鎖された。公営競技場が全くない県は九つあり、その他の県

にはなにかしらの公営競技場がある。特に福岡県には七ヶ所もの公営競技場が存在してい

る。群馬県の公営競技場が三ヶ所というのは全都道府県の平均値といえるのではないだろ

うか。公営競技場の数の多さなどで県民がバクチ好きかどうかはわからないが、少なくと

も判断材料になると思われる。私には群馬県民はバクチが好きという歴史やイメージが先

行しているだけで、昔ほど県民性に色濃く現れるほど「バクチ好き」ではないと思える。

3-2. 県民性と自己成就予言 血液型性格診断は当たると思っている人もいるだろう。かつて血液型と気質の間に関

係があるという説が唱えられたことがあったが、これは統計上の誤りによるものとして問

題にされていない(宮城 1969:282)。ここでなぜ県民性の話に血液型の話が突然でてく

るのか。それは県民性と血液型性格診断には共通点が存在すると考えられるからである。

血液型を広めた擬似心理学書を調べると、たくさんの人のデータを収集し、あるいは

有名人の血液型を分類して、科学的な根拠があると言っているのが目につく。つまり科学

的手続きの正当性によってこれが社会的現実であると主張しているのである。これは認知

心理学でいう「動機づけられた推論」、つまり得たい結果が先にきてそれを補強するよう

な事実だけを集める推論の典型でしかない(池田 1993:34)。

池田は、この血液型性格診断が「社会的現実」となっていく過程を推し進めた要因が

3つあるとしている(池田 1993:40)。

一つ目は、「社会的ステレオタイプ形成」である。

社会的ステレオタイプとはスキーマ7が固定化され、単純化され、しかも社会的に広く

分有されるようになった信念を言う。その意味で、各々の血液型と性格との間の結び付け

られ方は、もはや社会的ステレオタイプとなりつつある。

二つ目は、「自己成就予言」である。

人にはある信念をもつとそれとよく一致する自称が生じると予期する傾向がある。「血

液型性格診断は当たる」という信念を持つと、「ある人の行動はその性格ゆえに生じ、そ

れは血液型に規定されている」と予期することになる。これは俗に「予断のワナ」と呼ば

れる普遍的な過程である。

査区の中から指定された調査区に居往する世帯のうち、約8万世帯が、統計理論に基づい

て選定される。調査を依頼されるのは、その世帯に普段住んでいる世帯員 20 万人である。

全国からかたよりなく公平に世帯を選ぶことによって日本全体の様子を知るという方法。

特定の 2 日間の生活時間を調査する。 7 スキーマとは情報処理の基となる知識や信念のこと。例えば「A 型の人は周囲の人に細

かく気を使う」は A 型のスキーマと呼べる。

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三つ目は、「社会的機能」である。これには3つの社会的な機能がある。

第一に、血液型によって人との接し方を考える「行動調整機能」だ。つまり血液型は

相手に対する接し方の目安を与える。「AB 型には用心しろ」というのはその典型である。

第二に、会話を楽しむ「娯楽機能」がある。

第三に、対人関係の理解やコミュニケーションの道具としての「関係促進機能」があ

る。つまり、天気の話と同様に誰にでも通用し、しかも話が弾むというメリットがある。

特に注目したいのは、「自己成就予言」である。これは県民性によくあてはまる。例え

ば、「県民性は存在する」という信念を持つと、「ある群馬出身者がパチンコ好きなのは、

バクチ好きの群馬の県民性によるものだ」と予期することになる。さらに歴史的事実から

「群馬県人はバクチ好き」であることや、パチンコ機械製造会社と公営競技場の存在によ

り、「群馬県人はバクチ好き」というイメージが作られるのだろう。

3-3. 県民性の存在 群馬大学地域研究会県民性調査研究の調査で群馬県の県民性として挙げられている項

目は、「ことばが荒い」、「熱しやすく冷めやすい」、「感情に走りやすい」、「義理人情に厚

い」、「短気」、「感激しやすい」、「新しいものが好き」であった。

群馬県では自動車保有台数が一世帯あたり 2.35 台で第四位、免許取得率(対総人口)は

第一位である。また交通事故負傷者数(人口 10 万人あたり)は第三位で、「ことばの荒

さ」が運転に反映し「感情に走りやすい」こと、「短気」であることを証明しているよう

に思える。群馬県人は感情に走りやすく短気なため、それが車の運転に作用し交通事故負

傷者が多くなるのだろうか。しかし、これらの考えも「自己成就予言」なのだろう。実際

は単に群馬には車の数が多いため交通事故負傷者が多くなっているだけなのかもしれない。

このようにして「バクチ好き」を初め「かかあ天下」のような、現在ではそれほど存

在していない県民性が表れる。その原因は、他県からの転入者や他県出身者が先入観を持

っていること。また、群馬県人自らも群馬の県民性が存在すると思い込んでいること。さ

らに、自己成就予言により作られたイメージの県民性であることだ。統計調査などにより

群馬県人の特徴的な気質が表れたとしても、それは先入観で作られた群馬の県民性のイメ

ージとして表れているだけなのではないか。現在の県民性は血液型性格診断同様に「動機

づけられた推論」、つまり得たい結果が先にきてそれを補強するような事実だけを集める

推論でしかないように考えられる。現代では生まれ育った地域から違う地域へ移り住むこ

とは珍しくはない。そのため本来は存在していたかもしれない県民性が薄れていくことは

当たり前なのかもしれない。日本の社会変化とともに県民性は次第に失われていくものと

思われる。

3-4. 県民意識の必要性 全国県民意識調査によると群馬県は関東では例外的に郷土意識が強い県である(NHK 放

送文化研究所 1997:114)とされている。生活に満足している人や暮らしにゆとりがある

という人が特に多いというわけではないようだが、住んでいるところは住みよいという人

が平均よりかなり多い。県人意識を持つ人もかなり多く、土地の人情が好きで、地元の行

事や祭りに参加したいという人もかなり多い。群馬県の県民性は失われてきているかもし

れないが、群馬県人としての意識は強いようである。

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千葉県の他県出身者は 47%(全国平均は 28%)に達する。このことは県人意識に影響

しているようだ。この調査で県人意識を持つと回答したのは 54.7%で全都道府県中、

下位だった。住んでいるところは住みやすいという人は 70%で も少ない県の一つであ

る。千葉県が好きという人、県民の考え方には特徴がある、地元の行事や祭りに参加した

いという人も平均と比べかなり少ない。ちなみに千葉県出身者では千葉県が好きという人

は全国平均並に高い。千葉県には他県出身者が多く、千葉県で県人意識をもっている人が

少ないことはやはり他県出身者や転入者が多いことが理由なのだろう。転入者こそ県人意

識を薄れさせている要因であると思われる。

では県民意識を形成させるためにはどうしたらいいのだろうか。群馬県では上毛かる

たが県民意識の形成に有効であると考えられる。それは上毛かるたが郷土意識や県民意識

の形成に少なからず貢献しているからだ。だが、上毛かるたでは群馬県出身者の県人意識

を高めていくことはできても転入者には難しいだろう。なぜなら上毛かるたをして遊ぶの

は群馬県出身の小・中学生であり、高校生以降、群馬県に転入してきた転入者はほとんど

することはない。また、上毛かるたには競技県大会7)が存在するが、それには高校生以

上の部は存在しない。上毛かるたを使って転入者に群馬県人だという意識を形成するため

には上毛かるたで遊んでもうことが必要だ。そこで上毛かるた競技県大会に高校生の部や

成人の部を設けることにより転入者が大会に参加できるようにしたり、町内会で新年の恒

例行事にするなど、かるた遊びをする環境を作ることが必要であるのではないだろうか。

転入者や他県出身者が多いことは政治への関心にも違いがみられるようだ。「あなたは

国の政治、県の政治、市区町村の政治のどれに一番関心を持っているか」という問いに対

して、千葉県では国の政治であり、群馬県では市区町村であった。県の政治に関心がある

と回答したのは、群馬県は全国平均値の 9.7%、千葉県は 6.6%で全都道府県中 46 位とか

なり低い。県人意識が薄れることにより選挙の投票率や地域ボランティアの参加度などへ

の影響が少なからずあるのではないだろうか。今後、県民性が失われていったとしても、

県人としての意識を持ち続けることが県の政治への関心などにおいて必要であると考えて

いる。

おわりに 県民性は歴史や気候風土を反映した気質・性格という面において少なからず存在してい

たのだろう。群馬県も気候・産業・文化の特徴から県民性が存在していたと思われる。だ

が、群馬県人といえば「かかあ天下」や「バクチ好き」といわれることに違和感を持って

いた。この違和感は県民性が存在していないからなのだろう。私は群馬の生粋県人である

がそのような県民性は私自身にも存在しないし、周りにも県民性に当てはまる人もいない

からだ。 現在ではそれほど存在していない県民性が表れる。その原因は大きく三つある。一つ

目は、他県からの転入者や他県出身者が県民性への先入観を持っていること。二つ目は、

群馬県人自らが群馬の県民性が存在すると思い込んでいること。三つ目は自己成就予言に

より県民性のイメージがつくられていることが挙げられる。

このように現在の群馬の県民性は先入観やイメージとして表れているのであろう。そ

してこれは群馬県に限ったことではないように思える。転入者や他県出身者の同化や社会

全体の変化により県民性は全国的に失われているのだろう。

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【引用・参考文献一覧】 池田謙一,1993,『社会のイメージの心理学―ぼくらのリアリティはどう形成されるか

―』サイエンス社

NHK 放送文化研究所,1997,『現代の県民気質―全国県民意識調査』日本放送出版協会

岡野静二,1977,『イメージとは何か』相川書房

萩原進,1977,『上州の女―その歴史と民族』みやま文庫

萩原進,1983,『上州こぼればな誌』みやま文庫

群馬県,2002,『knowledge ぐんま 博物学的群馬』群馬県総務部広報課

群馬県高等学校教育研究会地理部会,1995,『ぐんま 112 のナゾ 不思議 なぜ? どう

して?』上毛新聞社

群馬県立女子大学,2005,『群馬学の確立にむけて』上毛新聞出版局

群馬文化協会,1997,『上毛かるた 50 年の歩み』群馬文化協会

素朴な疑問研究会編,2001,『県民性のおもしろ大疑問』夢の設計者

武光誠,2001,『県民性の日本地図』文芸春秋

田崎篤朗編,1984,『われら上州人―データが語る県民性』上毛新聞社

東工大社会心理グループ,1990,『いかにも・なるほど・まさかの社会心理学』川島書店

毎日新聞社地方部特報班,1996,『県民性大解剖「隣り」の研究』毎日新聞社

原口美貴子,1996,『上毛かるた その日本一の秘密』上毛新聞社

樋口忠彦,1996,『日本の景観―ふるさとの原型』春秋社

宮城音弥,1696,『日本人の性格-県民性と歴史的人物』東京書籍

群馬県,「群馬の暮らし,統計で見る特徴(暮らし)」

自 動 車 保 有 台 数 、 免 許 取 得 率 ( 対 総 人 口 ) 、 交 通 事 故 負 傷 者 数

(http://www.pref.gunma.jp/welcome/profile/prof05.htm)

収繭量(http://www.pref.gunma.jp/welcome/profile/prof04.htm)

財 団 法 人 群 馬 文 化 協 会 ,2006, 「 上 毛 か る た の ペ ー ジ 」

(http://www.jomokaruta.org/index.htm)

情報・システム研究機構 統計数理研究所国民性調査委員会,2004,

「日本人の県民性調査」(http://www.ism.ac.jp/~maeda/KSJapan/index.htm)

統計局ホームページ

「社会生活基本調査」(http://www.stat.go.jp/data/shakai/index.htm)

「社会生活統計指標」(http://www.stat.go.jp/data/ssds/5.htm)

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文化の相互支援によるまちづくり

~高崎市をモデルとして~ 佐藤 美緒

序論 「音楽のある街たかさき」この、高崎市市政施行90周年に掲げられたスローガンに表

すことができるように、音楽を通じた街づくりとして、群馬県高崎市では音楽文化活動が

盛んに行われている。1990年から現在に至るまで毎年秋に開催されている高崎音楽祭、

高崎青年会議所が主催している森とオーケストラ、高崎野外音楽フェスティバル、夏至の

日に行われる高崎の新しい音楽イベント、フェト・ド・ラ・ミュージックなどはほんの一

例に過ぎない。また、高崎市には、世界に誇る群馬交響楽団の本拠地があると言うことか

ら推測できるように、クラッシックからポップス、ジャズ、ロックなど幅広い音楽文化が

根付いている1。 高崎市はこのような音楽文化の他に、芸術文化の面においても恵まれていると感じる。

1987年から、地方都市における映像文化の振興と中心市街地の活性化を目的として始

まった高崎映画祭の盛況振りや、高崎市と映画を愛する人々を中心として設立されたミニ

シアターであるシネマテーク高崎などの存在は文化活動水準の高さを表している。これら

の活動は、音楽だけではなく、芸術面での文化活動の力の入れ様、更には行政だけではな

く市民レベルで考えても「文化」に対するニーズ、意識が高いということを顕著に示して

いる証であると、私は思う。 では、このように文化的意識が市民にまで広く浸透している高崎市において、「音楽」

「芸術」では括ることの出来ない文化の発展は望めないのだろうか。という疑問が浮き上

がった。高崎市のこの強靭な文化活動の基盤を借り、文化と文化が手を取り合い、相互支

援することによって、今まであまり注目されてこなかった活動をより活性化させることが

できるようになるのではないかと考えた。それが、本稿で扱う「スポーツ文化」である。

本稿は、高崎市をホームグラウンドとし、同市から J リーグ参入を目指すアルテ高崎とい

うサッカーチームの現状を軸として取り上げ、高崎市における現在までの音楽・芸術文化

活動の基盤を持って、全く違った文化を盛り上げることができるのであろうかという疑問

を解明していきたいと思う。そして、それが地域文化振興や地域づくりにどれだの可能性

があるのかという考察を行い、今までにない文化相互支援によるまちづくりの可能性を提

言したい。 1 ラジオ高崎ホームページ http://www.takasaki.fm/を参照。

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1.文化として捉えるスポーツ 1-1. スポーツ文化とは

文化相互支援の可能性を論じる前に、始めにスポーツを文化として捉えられるようにな

った経緯や意味を紹介する。 「人間の生活様式の全体。人類自らの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。そ

れぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互

の交流によって発展してきた。特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、及びそ

の所産。物質的所産は文明と呼び、文化と区別される。」2 文化という言葉を辞書で引くと、このように説明される。文化とは、長い間受け継がれ

た伝統芸能であったり、思想であったり、芸術作品の事柄を指すのである。と言うことは

「文化」という言葉で表現できるのは、モノやココロの部分において、人間が築き上げた

成果なのであろう。このように、文化は人間の精神の領域と捉えられ、高尚で誇り高いも

のと言うイメージが少なからず根付いている。教育の場である学校において、文化部・運

動部として分類されている事も、この良い例であると考える。では、モノでもなくココロ

でもない身体運動において築き上げられ広がった伝統は、「文化」と呼べないのであろう

か。この疑問はいとも簡単に払拭できる。なぜならば、日本には古来より「身体文化」と

呼ばれる文化が存在しており、それが現代においても受け継がれているからである。 例えば、「ナンバ歩き」という身体文化がある。これは、右手右足を同時に出し、左手

左足を同時に出す歩き方である。この歩き方は、農民が鍬を手にして畑を耕す姿勢であり、

腰を帯で締めている着物生活に適した日本人特有の身体文化なのである3。また、盆踊りや

能などの伝統芸能においてもナンバの要領が基本となっている。このナンバ歩きは、明治

維新によってもたらされた文明開化の流れにより、日本人の衣生活が和服から洋服が導入

されたこと、富国強兵の名の下に西洋風の軍隊が形成され始めたことが発端となり、徐々

に現代の歩き方へと変化した。現代の日本人の歩き方は、いわば矯正された作られた歩き

方とも言える。近年では、ナンバ歩きがスポーツ界で取り入れられるようになった。20

03年にパリで開催された世界陸上で、男子200メートルに出場した末續慎吾選手が銅

メダルを獲得した。短距離で、しかもオリンピックや世界選手権で日本人だけではなくア

ジア選手がメダルを取ったことは初めてであった4。そして、この末續選手の走り方は、日

本の身体文化であるナンバ歩きを応用したものであったのだ。末續選手の快挙を皮切りに、

様々なスポーツにおいて、ナンバ歩きを基本とした動き方が取り入れられるようになった。

このように、日本独自の身体文化であるナンバ歩きは現代へと受け継がれ、ただの日本古

来の身体運動という捉え方ではなく、現代でも息づく身体文化と位置付けることが出来る。

2 2005,大辞泉 増補・新装版より抜粋 3 http://www.hokodo.com/sozai2/ayumi.htm を参照。 4 2003,8, 毎日新聞より抜粋

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日本には、今まで挙げてきたナンバ歩き以外にも、柔道、剣道、弓道といった「道」の

世界、相撲などの身体運動の文化が存在する。ここで、これらの種目を想像して欲しい。

静けさの中にある素早い動き、力の強さだけではなく自らの精神の強さを要し、その練習

や試合では、礼儀と格式を重んじられている。日本古来の身体運動文化には必ずと言って

よい程に、競技者のココロ、精神が問われていることに気づいた。現代においても、スポ

ーツは根性であると言う考えは根強く、その集団の中の上下関係が重要視される傾向があ

る。そして、冒頭で挙げた文化のイメージをもう一度見てみる。「文化は人間の精神の領

域と捉えられ、高尚で誇り高いもの」この文化のイメージと、道や相撲の世界のイメージ

はまるで同じである。古来より現代まで、日本の身体運動の文化は、芸術・伝統文化と同

様に人間の精神の領域として捉えられ、それを重んじながら発展してきたのであろう。モ

ノでもなく、ココロでもない身体文化と冒頭で述べたが、これは間違いである。日本の身

体運動は、日本独自のモノやココロ、生活のスタイルが基盤となり発達し伝承されてきた

文化であるのだ。だからこそ、芸術や音楽などと同様に「スポーツ文化」として捉え、定

義することができる。 1-2. スポーツの歴史5

前節で定義されたスポーツ文化について、まずそのスポーツそのものの歴史に触れたい。 まず、スポーツの起源である。スポーツの起点は、一般的には古代ギリシャのオリンピ

ア祭とされている。がしかし、この起源論はあくまでも一般的なものであり、古代ギリシ

ャ以前に遡らせることもできる。スポーツ実践を示す も明確な考古学的遺跡として、シ

ュメール文明の時代(紀元前3000~1500年)に、闘技者(レスラー)や拳闘者

(ボクサー)などが描かれた粘土板である。この身体活動の痕跡は、エジプト文明に入っ

てはっきりしたものになる。その時代には特に、レスリングやボクシング、乗馬、弓射な

ど様々な身体ゲームが行われていた。この事実は、数多くの遺跡によって証明されている。

しかし、体と体の対決が本格的に確立され、定期的な競技が見られるようになったのは、

ギリシャにおいてであった。また、古代ギリシャ人の発展させた身体活動文化は、後世に

与えたその影響の強さから考え、19世紀イギリス社会が生み出した近代スポーツと共に、

おそらく世界の他の諸社会のスポーツ文化を大きく包括するものであろうと言う議論が現

れた。これらのことから、古代ギリシャで開催されていたオリンピア祭が、“スポーツ”

の起源であると一般化されている由縁であるということができる。こういった祭りは古代

ギリシャにおいて重要な役割を担っており、都市国家や人民同士が対立した戦争を、休

戦・和解へと導いた。いわば、ギリシャ人達に連帯感を与えるきっかけであったのだ。こ

のような、ギリシャスポーツ文化の世界において陸上競技に関する 古の言及は、ホメロ

スの『イーリアス』に見られる。それは、アキレウスの忠実な友で、ヘクトールによって

殺されたパトロクロスを追悼するために行われている。へクトールを殺してパトロクロス

5 レイモン・トマ著,1999,『スポーツの歴史』参照

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の死に復習した後で、アキレウスは、戦車競走や拳闘、弓射、槍投げなどのゲームから成

る葬送儀式を催したのだ。その勝者には、多大な褒美が与えられたが、敗者にも贈り物が

授けられた。また、『オデュッセイア』にも競技の記述がみられる。賓客たちのために催

されたゲームで、そこでは漂着したオデュッセウスを迎え入れてくれた島民のファイアケ

ス人に感謝して、英雄が円盤を投げている。このように、ギリシャ人にとって葬送ゲーム

は技を競う機会となり、宗教的祝祭でも、さらにやがてパネーギュリスと呼ばれる国民大

祭でも、後々まで競技が行われるようになった。この時代のスポーツは、各種の儀礼、主

に埋葬儀礼や通過儀礼、さらに神的存在同士の聖婚式に由来していると言っても過言では

ない。またギリシャ人たちは、儀礼的な意味ではなく、気晴らしや肉体維持のためにも

様々なスポーツを行っていた。とりわけ盛んだったのは球技で、そのほかにもレスリング

やボクシングの原型となった競技も行われていた。驚くべきことは、この時代の教育の場

においてすでに、身体の鍛錬と管理が大変重視され、美しさや善良さ、勇気、健康などを

兼ね備えた、均衡のとれた人間の育成に役立つと考えられていたのである。 その後西欧において、上記のような宗教的・儀礼的な意味を含んでいた身体活動は、時

代の背景、社会の変容・工業化、急速な成長期といった流れの中で、いくつもの時代を経

て近代スポーツへと変身した。生活の中の余暇や余裕が生まれたことから、スポーツクラ

ブ設立が流行りだす。次の時代には、スポーツが官僚的な組織となり、広範囲に渡って普

及するきっかけとなった。すなわち、社会的・経済的・文化的な側面を持つ要因が、この

ような発展の仕方を助長したのであろう。交通手段の発達は、スポーツが普及する上で重

要な要素であり、また電話やラジオ、新聞あるいはカフェなどの、コミュニケーション手

段もスポーツの広まりの一端を担った。スポーツは、社会情勢の発展・助長なしでは拡大

することができなかったともいえるであろう。 次に日本でのスポーツの変遷を見ていきたいと思う。日本で 古のスポーツであると言

えるのは、おそらく相撲である。5世紀後半から6世紀にかけて建築された各地の古墳か

ら、相撲人形が出土している。出土地は、西は福岡、東は福島に至る広範囲に及んでいる

のだ。こうした事実は、当時の日本ですでに相撲が盛んに行われていたこと、また相撲人

形が古墳に納められていたことからして、相撲が古墳の被葬者である支配者層に属する葬

送儀礼の一部を成していたことを示している。5~6世紀展開した相撲が後に、大化の改

新後に成立する天皇中央集権国家の経営体制において、7月の年中行事の相撲節として組

み込まれたことは、とても特徴的である。日本も西欧と同様に、宗教的・儀礼的な身体運

動の発端がスポーツの始まりということができる。 この相撲節は、日本のスポーツ史上で特別な存在である。それは、宮中に召し出される

相撲人のほとんどが毎年同じ面々であり、常連となった人物が多くいたことから、すでに

プロ化していたためである。また、相撲節が日本における 初の全国大会であった点であ

る。天皇によって毎年召しだされる相撲人は、かつて天皇によって征服された土地の者た

ちであり、彼らが天皇の前で裸体となることで、武装解除を再演するという意味が含まれ

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ていたことも特徴的であった。宮中スポーツには、他に、射礼(じゃらい)・騎射(うま

ゆみ)などがあり、季節の節目にとりおこなわれていた。騎射は、流鏑馬として現在にも

残っている。この他にも馬を使ったスポーツも盛んであった。これらの古代スポーツは、

日本だけで行われた種目であるとは言えない。相撲でさえ、高句麗からの伝播とする説が

色濃い。東アジア諸民族と共通するもの、つまり、大陸から押し寄せた文化の波によって

もたらされたスポーツがほとんどである。しかし、相撲節を典型に見るように、伝来後に

獲得した新しい文化性によって、いくつかのものは確かに日本固有のスポーツと言ってよ

いと思う。 中世になると武士は、「兵(つわもの)」という武芸を職とする家柄のものとしての自覚

から、日々武術の鍛錬に励み、その成果を宮中で披露していた。政権が武士の側に移動す

るにつれ、スポーツへの探究心を強め、武士のスポーツ文化と呼べるものが形作られた。

平安末から中世前期までの戦闘法が、騎射中心とされていたことにより、武士のスポーツ

文化の中核であったのが馬と弓だった。一方、宮中では、この頃鞠家と呼ばれる蹴鞠の家

元が出現した。蹴鞠の技術、プレーに使う鞠や靴、鞠場や装束、プレーの作法や試合展開

などを記した著書が著されるなど、始めてスポーツが芸道化された。がしかし、『枕草

子』が二一五段で「あそびわざは、小弓、碁、さまあしけれど鞠もをかし」と記し、『源

氏物語』では「をさをささまよく静かならぬ乱れごと」と断じられていたことも特徴的で

ある。 近世では、農村を中心に展開したスポーツと、武士のスポーツがとても重要な意味を持

っている。農村におけるスポーツは、基本的に稲作の年中行事に組み込まれて行われてお

り、ここではスポーツを娯楽としてだけでなく、宗教的な儀礼としての役割も果たしてい

た。その中の一つに、北は青森から南は沖縄にまで及ぶ多くの農村で、新年にその年の稲

の実りが豊かになることを祈り、男女が対抗して綱を引き合うスポーツが盛んに行われて

いた。それが今日にも残っている、綱引きである。綱引きは、実際に男女が対抗する場合

と、雄綱・雌綱と呼ばれる二本の綱を一本に結び合わせて引き合う場合とがあるが、いず

れも、性が対抗するところに意味のある儀礼的スポーツであった。そしてもう一つ、綱引

きと並んで農村で人気が高かったのが、相撲である。この時代の相撲は、古代のような葬

礼相撲ではなく、綱引きと同様の意味を持っていた。すなわち、豊穣儀礼として、稲作と

結びつけられていたのである。稲作に不可欠な水の精霊である河童が、相撲を好むとする

と言う伝承が広まり、田植え後の水田に水を張る際に相撲を行っていた。相撲は、農村に

おいてはこのように儀礼的に行われていたが、都市に住む庶民にとっては見世物としての

スポーツであった。すでに中世では、相撲を行う寺社で、観覧のための入場料を徴収する

システムを導入していた。近世においては、今日の相撲協会の前身が設立され、組織面で

の整備がなされた。また、地方巡業なども行われ、スポーツ活動と経済が結びつくように

なっていった。このことから、相撲は都市のプロスポーツとしての地位が確立され、スポ

ーツ産業が始まったことが分かる。

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「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」これは田代陣基『葉隠』の有名な一文である。

この『葉隠』の中に「勝つと云ふは味方に勝つ事なり。味方に勝つと云ふは、我に勝つ事

なり。我に勝つと云ふは、気を以って体に勝つ事なり。」と説いた部分がある。6また、林

羅山の『三徳抄』においては、「強は人に勝つをいえども、先ず自ら我に勝ち、私に勝ち、

欲に勝つを聖賢の強とす。我が私に勝つ時は其上人に勝つ事必定なり」と説いている。7

これは、幕藩体制の中に取り込む論理として導入された儒学の影響であり、武術が精神修

養の手段としてみなされていたことの表れである。敵を殺傷するという武士の考えでさえ、

克己に優先され、単なる武術から、武道へと姿を変えた。この変化を受け、精神修養を教

授することを目的とした、今で言うスポーツ教育産業が発達したのである。スポーツ史に

おいて近世は、スポーツのプロ化、産業化が日本で始めて確立した時代であったと言える。 幕藩体制が崩壊し中央集権国家が始動すると、西洋の文化がもたらされ、政治、経済、

工業技術、思想、文学、音楽、衣食住などにそれが大きく影響し、日本スポーツも近代

化・欧化が進んだ。陸上競技、ボート、ラグビー、サッカー、テニス、野球などがその例

である。また、軍事訓練としての体操も取り入れられた。これら近代スポーツがいち早く

定着したのは、教育の場である学校であった。学校同士の対抗戦が行われるなどし、広く

普及した。1912年、第5回ストックホルムオリンピックに日本人初の選手が2名参加

し、日本人スポーツ選手が徐々に世界へと羽ばたいていくのである8。 このような流れで変化していったスポーツは、プレーのルールや形だけではなく、競技

そのものの意味をも同時に変えながら現代に受け継がれてきた。では次に、現代のスポー

ツに添えられた意味とは一体何なのかを、考察していきたい。 1-3. 現代のスポーツ

現代のスポーツは、国際交流と地域密着という言葉で表すことができる。まず交流の言

葉から連想できるのが、オリンピックやワールドカップ、アジア大会や世界陸上など、世

界の兵たちが開催国に集まり、競い合う大会である。1896年にアテネで初開催された

オリンピックは、戦時中何度か中止せざるを得ない事態に見舞われたが、今日まで続いて

いる。1972年ミュンヘンオリンピックでは、会場内のイスラエルの選手村に、テロリ

スト黒い九月という武装集団が侵入した9。このテロリストたちは、イスラエル人選手と

コーチの2名を殺害し、他9名を人質にとった。この事件によりオリンピックは中断し、

人質にされた選手は、犯人と警察との銃撃戦の中で9名全員殺害された。1980年のモ

スクワオリンピックには、日本や西側諸国が不参加、1984年ロサンゼルスオリンピッ

クではソ連など東側の国々が不参加であった。このように、国際情勢が不安定な時代には、

6 山本常朝、田代陣基著,2003,『新編・葉隠』 7 レイモン・トマ著,1999,『スポーツの歴史』 8 http://www.naash.go.jp/muse/index.html 参照 9 マイケル・バー・ゾウハー、アイタン・ハーバー著,2006『ミュンヘン―オリンピ

ックテロ事件の黒幕を追え』

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スポーツの祭典・国際交流の大会であっても、悲劇が起こり、政治的対立によって参加し

ないといった事態が続いていたのである。近年においては、平和の象徴といった意味合い

が含められ、異文化交流と熱戦の試合が繰り広げられている。また、4年に一度のスポー

ツの祭典の開催国に立候補し、是非ともわが国でとやっきになって招致活動したり、オリ

ンピック委員会へ自国の魅力をプレゼンテーションしたりと、スポーツ以外の面での戦い

も面白いものがある。 国際交流のスポーツ大会にはもう一つ、サッカーワールドカップが特徴的であると考え

る。1993年に、プロ野球以来約60年ぶりにスポーツチームのプロリーグが誕生した。

それがJリーグの開幕である。Jリーグ開幕は、日本のスポーツ史に新たな1ページを刻

んだと言っても過言ではない。この詳細は第3章以降で挙げる。Jリーグ開幕のこの年、

ワールドカップ予選にまで進んだ日本代表は、その 終予選、イラク代表チームに試合終

了間際ロスタイムに同点ゴールを与えてしまい予選敗退となってしまった。この試合は

「ドーハの悲劇」とされ、語り継がれている。1997年にはフランス大会予選で、その

イランを劇的な逆転勝利でくだし、ワールドカップ出場の切符を手にした。そして199

8年、念願のワールドカップに日本が初出場したのである。日本は勝ち点を獲得すること

はできなかったが、ジュビロ磐田所属の中山雅史選手がワールドカップにおける、日本人

の初ゴールを決めたことは当時日本中に感動を与えた。2002年の大会はワールドカッ

プ史上初、日本と韓国の2カ国での同時開催大会であった。この大会はまだ記憶に新しい。

サッカー後進国とされていた日本が着実に力を付けてきたことを見せたことだけではなく、

日本と韓国両国の友好的な応援姿や、キャンプ地においての日本と他国との交流の模様は、

ワールドカップがただの巨大なサッカー大会ではなく、国と国の威信のぶつかり合いの場

と異文化理解の場であったと言える。オリンピックでもワールドカップでも、スポーツ大

会という意味だけではなく、スポーツを通じて精神的に国境を越えたかかわりをも持つこ

とができるといった点において、グローバルで盛大なスポーツ文化である。 また、現代のスポーツを語る上で、地域密着のスポーツというキーワードも忘れてはな

らない。昭和36年、スポーツ振興法が施行された。この法律の第3条には、「国及び地

方公共団体は、スポーツの振興に関する施設の実施にあたっては、国民のあいだにおいて

行われるスポーツに関する自発的な活動に協力しつつ、広く国民があらゆる機会とあらゆ

る場所において自発的に、その適正及び健康状態に応じてスポーツをすることができるよ

うな諸条件の整備に努めなければならない。」と規定された。また、国及び地方公共団体

の任務として、青少年のスポーツ振興やスポーツ施設の整備充実、スポーツ水準の向上、

スポーツ振興審議会の設置、国や地方公共団体の補助等、具体的な方策を執り行うことも

定めた。このスポーツ振興法では、行政が施設を整備し、スポーツ教室や大会を用意し、

住民はそのプログラムやサービスを享受するといったスタイルであり、ただ単にスポーツ

行政という形を作っただけであった。そして2000年、文部科学省が日本史上初めて、

日本政府によってスポーツの強化及び振興に関するマスタ-プランである「スポーツ振興

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基本計画」を発表した10。ここでは、10年後の定期的スポーツ実施率とメダル獲得率の

具体的な数値目標が設定されている。そして、多種目、多世代、多目的、自主運営という

特徴を持ち、日本では前例のない「総合型地域スポーツクラブ」の育成が地方自治体にお

いて本格的に始まった。内閣府の調査によると、東京オリンピックが開催された翌年の1

965年には、スポーツ人口は2800万人でしかなかったが、2000年には6800

万人にも増加している。20歳以上の成人の3人に2人は何らかの運動・スポーツを実施

する時代になってきたのである。この「スポーツ振興基本計画」において重要なのは“地

域”である。このマスタープランの中で、週1回以上の定期的なスポーツ実施者を以前の

35%から50%へと伸ばす政策として、2010年までに全国の市町村で少なくとも、

総合型スポーツクラブを1つ立ち上げるという目標が明記されている。このスポーツクラ

ブの中核として考えられているのは、もちろん地域である。複数の種目が用意され、子供

から高齢者まで、初心者からトップレベルの競技者まで、地域の誰もが年齢、関心、技術、

レベルなどに応じていつまでも活動でき、拠点とできる地域密着のスポーツクラブであり、

地域住民が主体的に運営する、と規定されている。クラブハウスが建てられ、専任マネー

ジャーが採用され、多彩なプログラムと指導者を持つクラブが続々と誕生しており、約2

200クラブにも及んでいる。また、総合型クラブが、まちづくりの中心になっていると

ころも出てきた。地域の運動会やイベント開催の中心になり、地域に住む多彩な人材が集

まり、スポーツ以外の地域行事にも積極的に参加するといったように、まちづくりの拠点

となっているのだ。 現代のスポーツは、国際交流や地域振興としての意味合いが強い。また、見るスポーツ、

するスポーツだけではなく、スポーツボランティアの活動も重要視されているため支える

スポーツといった側面においても現代のスポーツは人と人、地域と地域、人と地域の架け

橋となる文化であると考える。 ここで現代のスポーツを語る上で、もう一つなくてはならない特徴がある。それはスポ

ーツ振興くじ(toto)の存在である。スポーツ振興くじは、子供から高齢者まで、誰

もが、いつでも、身近にスポーツに親しむことのできる環境の整備、世界の第一線で活躍

するスポーツ選手の競技力向上のための環境整備などを大きな目的として2001年3月

から販売が始まった。これらの事は今まで十分に整備されて来なかったため、新しいスポ

ーツ振興政策を実施するための新たな財源確保の手段と考えられ、導入された。スポーツ

振興基本計画においてもスポーツ振興くじは、生涯スポーツ及び競技スポーツの振興を図

るための諸政策を推進する上で、重要な役割を果たすことを期待するという内容の事が記

載されている。そして、このスポーツ振興くじの制度は、サッカーJリーグを対象とした

もので、Jリーグ13試合の各試合のホームチーム90分間での結果を、「勝ち」「負け」

「その他」の3通りから予想するものである。スポーツ振興くじ制度にサッカーが選ばれ

たのは、サッカーが国民的に人気があること、試合実施のため組織的な体制が整っている

10 山口泰雄著,2005,『地域を変えた総合型地域スポーツクラブ』

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こと、天候の影響を受けにくいため、年間通じて確実な試合数の実施が保証されることな

どの条件が整っていたためであった。また、世界各国においてもサッカーを対象としたス

ポーツ振興くじが、地域スポーツの発展に大きく貢献している事実があることも理由のひ

とつである。スポーツ振興くじの収益は、以下のような目的の下に行われている11。 ①誰もが身近にスポーツに親しめる環境の整備

・ 地域のスポーツクラブの活動に対する助成 (総合型スポーツクラブの創設・活動、地域スポーツクラブなどが行う交流大会な

ど) ・ スポーツ大会、スポーツ教室開催等の事業に対する助成

(幼少者や高齢者を対象とする特色ある事業他) ・ 広域スポーツセンターの事業に対する助成 ・ 地域におけるスポーツ施設の整備に対する助成

②スポーツの指導者の養成、資質の向上 ・ 地域のスポーツ活動をサポートする指導者の養成等の事業に対する助成

(トップレベルの選手であった者による指導の機会の創出、総合型地域スポーツク

ラブのクラブマネージャーの養成など) ・ 競技力向上のためのスポーツ指導者が指導に専念できる環境の整備など

③世界で活躍するスポーツ選手の育成 ・ スポーツの競技力向上のための事業に対する助成

(将来性を有するジュニア選手の発掘、育成のための情報収集及び共有化、競技力

向上方策に関する調査研究、普及啓発事業など) ・ スポーツ団体の組織の基盤強化に対する助成

(マネジメント機能の強化など) ④国際的スポーツ活動への支援 ・ 特定事業の開催に対する助成

(オリンピック競技大会、アジア競技大会、ユニバーシアード競技大会などの国際

的な総合大会ならびにこれらに相当する大会) 2.地域文化とスポーツ文化のかかわり 2-1. 地域密着のスポーツ文化

1993年に開幕したサッカーJリーグ。これこそが、スポーツ文化と地域密着の意義

を見出すキーワードであると考える。まず始めに、Jリーグの基本理念、活動方針、参加

条件について触れたい。 Jリーグの理念・活動方針12

11 山口泰雄著,2005,『地域を変えた総合型地域スポーツクラブ』 12 飯塚健司著,2005,『アルビレックス新潟の奇跡』

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理念 1.日本サッカーの水準向上及びサッカーの普及促進 2.豊かなスポーツ文化の振興及び国民の心身の健全な発育への寄与 3.国際社会における交流及び親善への貢献 活動方針 1.フェアで魅力的な試合を行うことで、地域の人々に夢と楽しみを提供する。 2.自治体・ファン・サポーターの理解、協力を仰ぎながら、世界に誇れる、安全で快適

なスタジアム環境を確立する。 3.地域の人々に、Jクラブをより身近に感じていただくため、クラブ施設を開放するな

ど、選手や指導者が人々と交流を深める場や機会を作る。 4.フットサルを、家族や地域で楽しめるようなシステムを構築しながら普及していく。 5.サッカーだけでなく、他の競技にも気軽に参加できるような機会を多く作っていく。 6.障害を持つ人も一緒に楽しめるスポーツのシステムを作る。 参加条件 ・ 参加クラブの法人化

Jリーグは、クラブが自立し、運営できるように法人化を義務づけている。これは、

地元の市民、自治体、企業から支えられるクラブになることを目指したためである。 ・ ホームタウンの確保

クラブは、特定の市町村をホームタウンと定め、試合のみならずサッカー教室やフ

ァン感謝デーなどを開催したり、地域のスポーツ振興に努める等、ホームタウンと

一体となったクラブ作りを行わなければならない。 ・ スタジアムの確保 クラブは、良好な状態でホームゲームを実施できるよう、競技場を維持管理する責

任がある。 参加条件については、他にチームの保有や選手指導者についてのライセンスに関する事

項もなどもあるが、省略する。 この、Jリーグの基本理念、活動方針、参加条件を通して見ると、やはり地域ありきの

スポーツリーグであることが分かる。基本理念に「スポーツ文化の振興」という言葉を

使い、それを真に目指して活動しているプロスポーツリーグはこのJリーグだけであろ

う。また、「地域」の言葉を多用している点も、Jリーグのクラブチームから、スポー

ツを核とした地域づくりを行いたいという願が込められていることが伺える。その根拠

は、ホームタウンの確保をしているところにある。Jリーグでは、Jクラブの本拠地を

「ホームタウン」と呼んでおり、市民・行政・企業が三位一体となった支援体制を持ち、

地域の核として発展していく存在になることを意味している13。このホームタウンは、

13 飯塚健司著,2005,『アルビレックス新潟の奇跡』

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本拠地占有権や、興行権の意味合いの強い「フランチャイズ」とは違う。「Jクラブと

地域社会が一体となって実現する、スポーツが生活に溶け込み、人々が心身の健康と生

活の楽しみを享受することができる町」という意味なのである。クラブチーム名を地域

名と愛称を融合させているのも、地域の全ての人々が愛着を持てるチームを作るためで

ある。そしてホームタウン制で も重要なのは、地域に密着したスポーツクラブの頂点

が、プロチームであるということだ。プロスポーツチームは、地域の子供たちの憧れで

あり、地域の誇りであり、アイデンティティそのものになりうる存在である。地域に根

ざしたクラブは、スポーツをする楽しみだけでなく、見る楽しみ、支える楽しみを与え

ることができる。プロチームが地域のスポーツコミュニティを形作るのだ。だからこそ、

ホームタウンが単に「圏」を表すものでなく、地域に密着したスポーツクラブを核にし

たスポーツ文化の振興の可能性を示しているのである。 Jリーグは、他にもう一つの理念を掲げ、活動している。それがJリーグ百年構想で

ある。1996年、「Jリーグ百年構想~スポーツで、もっと、幸せな国へ」というス

ローガンを発表した。 Jリーグ百年構想14 ・ あなたの町に、緑の芝生におおわれた広場やスポーツ施設を作ること。 ・ サッカーに限らず、あなたがやりたい競技を楽しめるスポーツクラブを作ること。 ・ 「観る」「する」「参加する」。スポーツを通して世代を越えたふれあいの輪を作るこ

と。 これらの理念の下、Jリーグの各クラブは地域スポーツの振興活動を積極的に行っている。

Jリーグは、サッカーの試合以外での地域に向けたスポーツ活動をしたクラブを支援する

ために、 高21500万円、年間3000万円の予算を立てている。 主なクラブチームの活動例 ・ヴァンフォーレ甲府

初心者フットサル教室(ハッピーフットサル) 親子で楽しむバレーボール教室

・湘南ベルマーレ ベルマーレトライアスロンクリニック ベルマーレカップオーシャンマンジャパン ベルマーレビーチサッカー 神奈川県電動車椅子サッカー大会

・ジェフユナイテッド市原 ジェフユナイテッド市原カップ秋季家庭婦人バレーボール大会

14 http://www.j-league.or.jp/参照 15 http://www.j-league.or.jp/

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夏休み親子スポーツ体験合宿 ・モンテディオ山形

女子駅伝チーム ・ベガルタ仙台

ベガルタ仙台小中学生ソフトテニス教室 ベガルタ仙台障害者サッカー教室 ベガルタ仙台健康体操教室

・アルビレックス新潟 アルビレックス杯争奪ゲートボール大会 アルビレックス新潟ランニング合同セミナー アルビレックス・コンディションセミナー

これらの活動事例が示すように、Jリーグの活動はサッカーの試合を行うだけではなく、

「スポーツを核とした地域づくり」「生涯スポーツ」のために動いている。この姿こそが、

Jリーグの真の活動そのものであり、「生活の中にあるスポーツ」というコンセプトの地

域密着型スポーツ文化であると言える。 では次に、Jリーグチームの中でも特徴的な2つのチームの事例に触れようと思う。 2-2. アルビレックス新潟の事例から

未来ある子供達に『夢を与えられる人づくり』に貢献します 地域の人々と共に『活気あふれるまちづくり』に貢献します 地域と世界を結ぶ『豊かなスポーツ文化の創造』に貢献します これは、新潟県新潟市及び聖龍町をホームタウンと、42,300人が観戦可能な新潟ス

タジアム(ビッグスワン)を保有し、現在J1リーグで活躍しているサッカーチーム、ア

ルビレックス新潟のクラブコンセプトである。16このクラブコンセプトに表れているよう

に、アルビレックス新潟は、地域の人々と共に歩み、特徴あるクラブ作りを行ってきた。

まずは、その経緯を見ていきたい。 アルビレックス新潟の前身は、1955年「新潟イレブンサッカークラブ」として創部

された。1986年には北信越サッカーリーグに昇格し、新潟県のトップチームとして活

動していた。171996年「アルビレオ新潟FC」にチーム名を改称し、翌年にはチーム

母体を法人組織として、株式会社アルビレオ新潟を創設した。全国地域リーグ大会の激戦

を勝ち抜き、1998年2月にJFLの昇格を果たし、1999年3月からスタートした

J2リーグに参加した。そして2003年11月、 終節において、新潟アルビレックス

はJ2リーグ優勝を決め、同時に悲願のJ1リーグ昇格を確定した。

16 http://www.albirex.co.jp/参照 17 飯塚健司著,2005,『アルビレックス新潟の奇跡』

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次に、アルビレックス新潟の 大の特徴である、その成長の過程について考察する。 アルビレックス新潟は、2002年日韓ワールドカップの開催を、新潟に招致するために

強化された。ワールドカップの開催地への立候補するためには、大会終了後も地元にサッ

カーを文化として継承していけることといった諸条件があった。その際に必要だったのが、

大会が終わってもサッカーで盛り上がり、地域の活性化につながるようなプロチームであ

った。そういったきっかけから、新潟においてのプロサッカーチーム作りが始まったので

ある。そのチーム作りの中で特筆すべきなのは、効果的な方法で観客動員数を伸ばしてき

たこと。そしてもう一つ。アルビレックス新潟を地域の活性化、スポーツによる地域振興

のコアにしたいという明確な目標を抱き、活動してきたことである。 初のポイントは、地元企業や個人に向けての後援会会員の募り方である。JFL時代

は、スポンサーや会員登録の募集の呼びかけを行っていたのはホームタウンを中心とした

一部の地域のみであった。しかし、チーム存続の危機を迎える程の経営難に陥り、より多

くのバックアップが必要になったのである。そこでアルビレックス新潟は、新潟県全域に

後援会の支部組織を作り、チーム関係者全員で、新たな地域のアイデンティティを創造す

るためのJリーグチームのためと訴え、協賛を募った。後援会の組織を県下全域に広げ、

個人で1万円、企業で3万円と、県民の幅広い支援を確実なものとする支援システムを構

築したのである。こうした地道な普及活動を行ったことで、多くの企業、個人からの協力

を引き出すことに成功し、多数の県民から幅広く支えられているという構図ができあがっ

たのである。「おらがチーム」としての基盤が固まったのだ。そして2006年現在、個

人会員が10,780人、法人会員は1,361社の協力を得ている。こうして、ホーム

タウンの新潟市、聖龍町だけでなく、新潟県全域の知名度を獲得した。 次のポイントは、 大の課題である観客動員数である。スポーツを地域振興の核にする

には、まずその魅力を知ってもらわなければならない。そのためには、できるだけ多くの

県民にプロスポーツの試合を観戦してもらう必要があった。Jリーグ参入を計画していた

当初、経営陣は県民にサッカーについてのアンケートや街頭調査を行った。その結果は想

像に難くない。新潟にはサッカーはもとより、スポーツ文化の基礎がなかったのだ。その

スポーツ不毛の地にサッカーの根を生やすには、やはり、スポーツの楽しさを発信すると

同時に「新潟のチーム」という一種の地域アイデンティティの種をまかなければならなか

った。JFLからJ2リーグに昇格し、徐々に観客動員数を増やしていったがさほどチー

ムが地域に浸透しておらず、1シーズン平均して4千人程の数だった。J2リーグの試合

は13クラブによるホームアンドアウェイ方式で、全312試合である。1チーム全24

試合戦うため、アルビレックス新潟の1試合の平均観客動員数は約167人といったとこ

ろであった。2001年4万人のキャパシティを持つビッグスワンの杮落としに合わせ、

経営陣はより多くの県民にスタジアムに来て試合を観戦してもらおうと、ある策を打ち出

した。それが、地域密着型サッカーチームとしてのアルビレックス新潟としての第一歩で

あった。その策とは、チケット収入を度外視し、地域の人々に無料招待券を配ることだっ

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た。杮落としの試合だけでなく、その年のチケット収入はゼロでも、全ての試合を満員に

することを前提に打ち出したのである。実際にこの方法は、とてつもない効果を生み出し

た。ビッグスワンの杮落とし、2001年5月19日対京都パープルサンガ戦には32,

000人が詰めかけた。その8割以上が無料招待の人々であった。その後の、この無料招

待券は、ただ闇雲に配られた訳ではない。各自治体の協力の下回覧板を回し、住民一人一

人に、まずは観戦が可能な試合をピックアップしてもらい、チームサイドから無料招待券

を送る方法を採った。また、小中学生を対象に、同じくアンケートを取りスタジアムでチ

ケットと交換した。このシステムを始動した年、平均観客動員数は16,659人となっ

た。この数字は、J2リーグの平均を3倍以上上回り、J1リーグの平均(16,548

人)と並ぶ勢いであり、その後の試合ではJリーグの歴代観客動員数のトップとなった。

スタジアムを満員にすることで、選手たちのモチベーションも高まり、 後まで走り続け

る粘り強いプレーとアグレッシブなサッカーで数多くの新潟の人々を魅了し、徐々にリピ

ーターが増えていった。アルビレックス新潟は、マスコミにも取り上げられるようになり、

新潟県のみならず、全国規模で浸透した。現在では、幅広い年齢層の人々がサッカー観戦

に訪れ、スタジアムをアルビレックスカラーのオレンジに染めている。目標に向かって明

確に事業を行うと同時に、県民一人一人に、県の企業に対して地道に理解を求め、それを

スポーツの感動と興奮という作用で還元したことによって確実に新潟県全域に浸透してい

った。こうしてアルビレックスサッカーが、スポーツ不毛の地と言われていた新潟に、深

く根を張ることができたのである。アルビレックス新潟は、チームの目指す目標、そして

Jリーグが掲げる理念の一つであるスポーツによる地域振興を成功させたと言えよう。 今日のアルビレックス新潟は、サッカーのジュニアやユース、レディースクラブを充実

させているのはもちろんの事、定期的にサッカー教室を開催するなど県民とのコミュニケ

ーションの機会を十分に図り、地域貢献活動・育成活動にも力を入れている。また、サッ

カーのみならず様々な種目のスポーツに触れてもらおうと、教室や大会を催している。そ

のイベントを開催するのは、アルビレックス新潟が創設したバスケットボールチームやウ

インタースポーツチーム、チアリーディングチームなどである。また、新潟アルビレック

スランニングクラブというスポーツクラブをつくり、初心者でも上級者でも誰でもがスポ

ーツに親しむことのできる環境を整えた。スポーツ振興基本計画が理想とする、するスポ

ーツ、みるスポーツが新潟県にはある。スポーツが生活の一部にあり、総合型スポーツク

ラブとしての道をゆく新潟県は、スポーツを核にした地域振興・地域アイデンティティの

創造を形にするであろう。 2-3. ザスパ草津の事例から

次に、我が群馬県全域をホームタウンとしてJ2リーグで活躍しているザスパ草津の特

徴あるチーム作りについて見ていく。 全国的にも有名な、日本三名泉の温泉地として親しまれている群馬県吾妻郡草津町は、

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群馬県北西部の標高1,200メートルに位置し、面積49.7平方キロメートルで人口

が約7,600人という小さな温泉地であるが、年間約300万人もの観光客が訪れる。

このような小さな町から生まれたザスパ草津の、その経緯について始めに紹介したい。18 1995年、草津町に創設された東日本サッカーアカデミーにおいて作られたチーム

「リエゾン草津」が前身である。19群馬県社会人リーグでの好成績を収めてきたリエゾン

草津だったが、東日本サッカーアカデミーが廃校となり、選手だけが草津に残された。そ

して、地元のサッカークラブの協力を得てチームは存続した。2002年4月、本格的な

再建が始まり、名称を「リエゾン草津」から「ザスパ草津」に改称し、群馬県社会人1部

リーグから始動した。翌2003年1月には関東サッカーリーグ2部昇格を決め、同年1

1月に全国地域サッカーリーグ大会で優勝し、JFLに昇格を果たした。「湯の町からJ

リーグを」をスローガンに、草津町だけでなく群馬県をあげての支援を進めることで急速

に力を付け、2004年12月6日、念願のJ2リーグへの進出を遂げた。再建されたク

ラブが発足してから3年、県内初のJリーグクラブが誕生した瞬間であった。では次に、

なぜこのような発展を遂げることができたのであろうか、その特徴的な性質を紐解いて行

きたい。 「温泉と高原、文化とスポーツの国際温泉リゾート」これは、草津町のキャッチフレー

ズであり、温泉・高原・文化・スポーツは町の四本柱であると言われている。20草津町は、

温泉だけではない。スポーツも、とりわけウインタースポーツが盛んである。良好な雪質

と、8キロメートルのロングランコースを持つ草津国際スキー場には、年間30万人ほど

のスキー客が訪れる。天狗山スキーリフトは、日本で始めてリフトが設置されたスキー場

でもある。このような環境にある草津町から、有力なスキー選手を多く輩出している。し

かし夏には、高原の冷涼な気候の中でウインタースポーツ以外のスポーツや文化に触れて

もらう機会を作っている。ラグビーやテニス、サッカーなどの合宿を誘致するとともに、

高校生、少年、少女を対象としたサッカー大会や、ヒルクライムの自転車レース、ツー

ル・ド・草津などを催しているのだ。スポーツ以外には、クラシック音楽の草津夏季国際

音楽アカデミー&フェスティバルという音楽イベントが行われている。こうしたイベント

は当然、集客のため町の外部に向けられたものであり、内部の地域住民に還元される要素

は町に観光客がやってきてお金を落としていく、という程度のものだった。その中でザス

パ草津が成功したのは、他でもない、草津町民からの力強いバックアップを受けることの

できるシステムを構築したからである。ザスパ草津のチーム経営の方法は、地域の人々か

らの支援なくして成り立たず、それがザスパ草津の 大の特徴であると言える。その方法

とは、旅館などの企業はクラブに対してスポンサー料を払い、クラブはその対価として労

18 http://www.thespa.co.jp/top.html 参照 19 辻谷秋人著,2005『サッカーがやってきた―ザスパ草津と言う実験』 20 http://www.town.kusatsu.gunma.jp/cgi-bin/odb-get.exe?wit_template=AM020000 参

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働力と経済効果を提供するといったシステムである。選手を草津町の温泉旅館で働かせ、

クラブは、企業から払われるスポンサー料を運営費と選手の給料を捻出するのだ。クラブ

の人材派遣と言い換えることができる。派遣社員にあたる選手はクラブで指示された職場

で勤務するが、彼らに給与を支払うのはクラブなのである。この方法の 大のメリットは、

運営資金を確実に確保できることという側面もあったが、何より、草津町の地場産業であ

る温泉旅館で選手が働くということだった。地域住民のバックアップはJリーグに上がる

ために必要不可欠な要素であり、その要素を得るためのきっかけとして、このシステムが

キーポイントであった。ザスパ草津は、若い戦力だけでなく、Jリーグで活躍していたが

戦力外通告を突きつけられた選手たちを積極的に採用していた。こういった選手からは、

温泉旅館で働くことへの不満を隠そうとしなかった選手も出てきたらしい。しかし、チー

ムが練習できるのは、選手を雇い、スポンサー料を支払ってくれる各旅館の力が大半であ

る。まさに、地域住民たちの協力なしにザスパ草津は成り立たない構図だったのだ。そう

いった現状が選手たちの意識を変え、支援してくれる町民のためにサッカーをするという

信念が確固たるものになった。その意識の変化は、徐々にチームが草津町に溶け込み始め

た証拠である。クラブ側は選手にサッカーを指導し、地域住民は選手の人間形成をしたと

言える。このようなシステムから、Jリーグ参入を目指したチームはザスパ草津ただ一つ

である。 町民からの支援だけでなく、ザスパ草津は行政からの支援も重要な位置を占めていた。

町営グラウンドや体育館などの無償使用はもちろんの事、草津のグラウンドが積雪で使用

不可能な際、近隣のグラウンドも無償で使用できる約束をとりつけた。また、クラブ事務

所も無償で用意し、フロントスタッフの住居まで町営住宅などを提供した。そして、町営

の温泉施設であった「ベルツ温泉センター」の運営業務をザスパ草津に委託したのである。

ここは元々選手受け入れ施設の一つであったが、それをさらに発展させ、ザスパ草津に運

営全般を任せた。こうすることでより確実な利益を生み出し、チーム運営・資金作り・選

手雇用の受け皿施設の確保といった面で、行政の強力なバックアップが成された。ここま

で徹底した官・民の支援を受けることができるようになるには、チームの関係者や選手が

地域住民と一番近い位置で活動したことがポイントである。また、草津町の規模の小ささ

が功を奏したとも言えるだろう。こうした動きがあったからこそ、3年というスピードで

草津町民だけでなく群馬県全域に浸透し、J2リーグ昇格を果たすことができた。現ユニ

フォームのバックに「草津温泉」を背負っているのはこういった経緯からである。 現在J2リーグにおいて、J1リーグへの昇格を目指し戦っているザスパ草津の運営の

基本理念は「地域に根ざし、地域の人々と共に歩む」である。この考えから、ザスパ草津

のチームコンセプトを「草の根的発想に基づくチームづくり、真のおらが町のチームにな

るために」とした。ザスパ草津から地域住民へは、スポーツ参加の機会と場の提供や、企

業を介しての経済的還元を与え、見返りにチームへの積極的な応援やボランティア活動な

ど、12人目のチームの一員として、ザスパ草津の後押しをしてもらう。そしてチームは、

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草津町の温泉旅館のみならず、群馬の地元企業・地場産業のイメージアップのための「動

く広告塔」としての役割を担っている。ザスパ草津支援委員会が、官民一体となり創設さ

れもした。この委員会は草津町の観光業界や商工会といった民間の住民が中心となり、会

長には観光協会会長が、副会長には旅館協同組合理事長、商工会長、サポーターズクラブ

会長が就任し、草津町の産業界団体による協力体制が整備された。また、群馬県としての

取り組みは、群馬新時代の新たなモデルケースとして、地域振興、地域経済の活性化等

様々な効果が得られるJリーグクラブの活用策を行っている。インフラ整備やにぎわい空

間の創出に関する事項、集客確保に関する事項など、クラブのバックアップと、ホームス

タジアムのある前橋市の振興策を絡めながら、取り組んでいる。 ザスパ草津が真のおらがチームになるには、まだまだその活動を発展させながら、J1

リーグに昇格しなければならない。地域貢献として、ザスパ草津の選手たちが県内の幼稚

園・保育園を訪れ、サッカーの楽しさを与える「ザスパ草津キッズキャラバン」の活動も

活性化させるべきであると考える。また、原点に立ち返り、草津町の振興にも深く関わる

ことが必要になってくると思う。 3.文化の波及効果 3-1. 文化の経済効果

本稿で今まで考察してきた「スポーツ」が、地域振興にとって意味のある文化であると

いう事は前章で十分に理解できると思う。では次に、文化的効果以外の効果、すなわち文

化の経済的な効果について、始めに芸術・音楽文化を例に挙げ言及していきたい。 文化と経済効果という概念は、相反するもののように思われがちであるが、そうではな

い21。芸術文化は文化的価値、すなわち「芸術的な効果」の他に、芸術の振興に不可欠で

ある文化事業や、文化施設を通じて、高い経済的な効果を合わせ持つことが明らかにされ

ており、経済社会へのインパクトも飛躍的に拡大している。余暇の増大や心身の豊かさを

志向する気運を背景にして、文化事業、文化施設における投資や支出が、関連する産業に

新たな需要を巻き起こし、雇用をもたらし、高度な経済社会を作り出そうとしている。特

に、地域の活性化や都市づくりに対して、芸術文化は極めて重要な貢献をすることが期待

されている。地域の発展は、経済の発展と文化の発展が対となって進むことによって、は

じめて可能になると言っても過言ではない。こういった、文化とその経済効果とのかかわ

りは、人々の文化的活動の様々にあらわすことができるように、多種多様な形態がある。

さらに、経済効果が及ぶ範囲も多岐にわたる。ここでは、分かりやすいデータとして、文

化や芸術が人々を惹きつけ、新たな就業機会の創出や経済発展に大きく貢献するとの考え

から、文化教育や助成活動を盛んに行っているアメリカ合衆国ニューヨークの事例を紹介

したい。 ニューヨークは、1970年代に都市の荒廃、衰退を経験し、1970年代半ばにニュ

21 文化経済研究会,1997,『文化の経済効果に関する調査研究』

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ーヨーク市の財政は破綻状態に陥った。このような都市衰退から脱却するために、ニュー

ヨーク市は様々な政策を実施した。その政策の一つとして、芸術文化施設や文化事業の振

興による都市づくりがあったのである。1977年にニューヨーク市長となったエド・コ

ッチ氏は、“I love NY”というキャンペーンを行いつつニューヨークの再生に

取り組んだが、その も重要な戦略の一つは「アートセンターとしてのニューヨーク」を

アピールすることであった。インターナショナル・デザイン・センターの建設が進められ、

舞台芸術やギャラリーに対して税制上の優遇措置・資金援助が実施された。世界のアート

の中心としてのニューヨークの地位を確立することが「NY」という商品価値を高め、

人々をニューヨークに惹きつけ、再生を行おうと考えられたのである。そして、実際に1

980年代には着実に再生への道を歩み始めた。現在のニューヨークは、メトロポリタン

美術館、ニューヨーク近代美術館、グッゲンハイム美術館、またブロードウエイミュージ

カルなどが代表するように、歴史的な芸術やアートとミュージカルといった文化が定着し

ているのは言わずと知れた事である。 次にその経済効果をデータで見てみる22。 ①ニューヨーク市への来訪者と来訪者の消費総額

年次 年間来訪者数 消費総額 2001 3,940万人 171億ドル(2兆0,520億円) 2000 3,048万人 167億ドル(2兆0,040億円) 1999 3,670万人 156億ドル(1兆,8720億円)

②ブロードウエイについて 年間入場者数 1,167万人 チケット売上高 5億8,800万ドル(705億6,000万人

③経済波及効果 アート関係のニューヨーク市への経済波及効果 非営利団体による経済波及効果 32億ドル(3,840億円) 劇場による経済波及効果 10億ドル(1,200億円) 営利目的のアートギャラリーによる経済波及効果 8.23億ドル(988億円) 映画・テレビプロダクションによる経済波及効果 34億ドル(4,080億円) 来訪者による経済波及効果 25億ドル(3,000億円) 直接経済効果 1.8億ドル(212億円) 総計 111億ドル(1兆3,320億

円) アート関係のニューヨーク市への税収効果

22 http://www.mid-tokyo.com/07/aboutthis.html 参照

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アート関係の直接・間接の就業機会 130,446人 アート関係のニューヨーク市の税収入 2億2,100万ドル(265億2,000万

円) このようなデータから、文化が経済に与える効果は大きいことが一目瞭然である。しかし、

こういった大規模文化施設やエンターテイメント施設をどこにでも作ることができる訳が

ないのは周知の事実である。NYの例はスケールが大きいものであったが、「文化」の及

ぼす影響の可能性は無限にあるということだ。 3-2. スポーツ文化の効果

ザスパ草津のJリーグ昇格を起爆剤とした、地域経済の活性化を目指す群馬県は、Jリ

ーグ昇格に伴う県内経済への影響は124億円に上るという試算結果を明らかにした。群

馬県の依頼を受けた大手民間シンクタンクのコンサルタントが、県内で開催されるJ2リ

ーグの22試合に、平均5千人の観客が入るとして算出した。そして、ザスパ草津のチー

ム収入となる入場料やスポンサー収入などの「事業収入」は10億円と見積もった。これ

には、J2リーグに昇格し、その試合を放映するための放映権料を含む分配金も含められ

ていた。ホームゲーム観戦での会場内外での飲食は13億円、ユニフォームなどのグッズ

販売と交通費、サポーターの宿泊費などで7億円とも推定していた。Jリーグ昇格が与え

る少年サッカーへの影響も重視し、地域貢献活動のためのユニフォームの作製や移動費な

ど10億円の新たな需要が見込まれた。また、イベント開催やグッズ販売などで20億円

を見込み、事業収入と消費による「直接的な経済効果」を60億円、こうした収入が新た

に事業者などに出回る間接的な消費を考慮した「波及効果」を64億円と見積もった。 現在、ザスパ草津の株主に名を連ねる企業は、50社を上回っている。群馬県の産業政

策課は、地元への経済効果としては標準的なものであり、J2リーグからJ1リーグへの

昇格の夢が実現すれば、さらにメディアへの露出度が多くなり全国的な知名度が上がる。

それによって、経済効果がはねあがり、草津温泉への観光客は増大すると予想している23。

ザスパ草津は、前橋中央通商店街、前橋市のにぎわい観光課の隣に「ザスパーク」という

オフィシャルショップを2008年6月に開設した。グッズやチケット販売、試合の生中

継、各種イベントを開催している。また、県内の観光やイベント、前橋の商店街の情報な

どを随時紹介している。サポーターだけでなく、市民が気軽に立ち寄ることのできる中心

市街地になるようにという願いが込められている。まだ開設して日は浅いが、ザスパ草津

とサポーター、市民との交流の場であり、前橋商店街のにぎわいを取り戻す起爆剤になる

ことを祈る。

23 室岡雅和,2004,『スポーツ行政と政策評価に関する考察~「ザスパ草津」を支え

る群馬県・草津町の政策を中心として~

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結論 ~文化と文化のつながるまち、高崎へ~ スポーツを文化として捉える。1-1でそう述べたが、スポーツと芸術・音楽文化と同

様の性質も、スポーツは持っていることに気づいた。それは「非日常の世界」である。人

は、芸術を楽しみに、音楽や映画を鑑賞しに行く。そこで、よい芸術に音楽に映像に出会

い、どこが良かったのか、何が自分の琴線に触れたのかを思い返し感慨に浸る。またそれ

を、誰かに話したくて話題にし、議論しあうことだってある。いわゆる芸術文化に触れて

いる時間・空間は、日常から解き放たれた異空間であると言っても過言ではない。芸術作

品をつくりだすアーティストは、自らのイメージのおもむくままに制作する。アーティス

ト達は、必ずしも全ての作品に、鑑賞者に向けてのメッセージを込めて制作している訳で

はないだろうが、大半は何らかの言葉を発している。鑑賞者は作品をみて、これはどんな

意味があるのだろう、なにが言いたいのだろうとイメージをする。そのイメージしている

時間は、非日常世界である。音楽を聴きに行き、ミュージシャンや演奏者の生み出す音や

歌に感動を覚え、ステージに立つ彼らのメッセージやパフォーマンスなどを前身で受け止

め、その空間にいる全てと一体化している感覚になる。現実の生活とはかけ離れた、非日

常の世界である。これは映画などの映像にも言えることだ。館内にいる鑑賞者は、映像か

らあふれ出すストーリーに喜怒哀楽を表す。駄作だと感じても、結局そう感じたのは自分

のイメージや感覚であるから、映画のメッセージを受け止めたが自分には合わなかったと

いうだけのことである。その空間も、もちろん非日常世界である。これらの事は「スポー

ツを観戦する」際にも同じである。選手の繰り出す華麗なプレーや、勝利に向かって戦い

抜く姿、負けた時の悔しさ、不甲斐ない試合をしたときの怒り。それは観戦している人に

も同様の感覚を与えるのだ。つまり、芸術鑑賞をする、音楽を聴く、映画を観るといった

ことと同じ、非日常世界がそこにはあるのだ。形態はどうであれ、どれも文化なのである。

その個々の性質を持つ文化が結びつき合ったら、きっと大きな文化の力ができるであろう。

そして、より盛り上がりを見せる地域活性化を行うことができるだろう。 高崎市は、序章で述べたように、芸術文化としての基盤があると考える。とりわけ音楽

の文化活動が多い。今日では、高崎のアマチュアバンドをメジャーデビューさせようとい

う活動も行われている。「音楽のある町たかさき」と銘打っているが、美術・博物館も多

く存在する。各々のクオリティーは、声を大にして高い・素晴らしいと言えるものがある

かは今の問題ではない。芸術・音楽でカテゴリされる文化の、強い基盤の一つとして考え

たい。これらの基盤を使って、あまり浸透していないスポーツ文化をいかに盛り上げるこ

とができるか、その可能性を考察し、結論としたい。 高崎市には「アルテ高崎」という、Jリーグ参入を目指しJFLで戦うサッカーチーム

がある。「FCホリコシ」という名前を耳にしたことのある市民は数多くいると思うが、

そのFCホリコシがアルテ高崎と改称し、高崎をホームとして活動していることを知って

いる人は少ない。高崎市をホームとしているのにもかかわらずである。ホームタウンと言

うのは、市民・行政・企業の三位一体となっての支援体制を持ち、コミュニティの核とし

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て地域と共に発展していくという意味がある。アルテ高崎がJFLで優勝し、J2リーグ

にあがるには、今シーズン10位という成績では全く不十分であるのに加え、ホームタウ

ンでの認知度が低すぎる。平均観客動員数は、200人にも満たない。もしJリーグに昇

格できれば、様々な可能性が待っているのに、このままでは、高崎市初のJリーグチーム

を生み出すことができない。こういった現状から打開するためにはやはり、アルビレック

ス新潟の事例のように、試合会場を観客で満員にすればいい。ザスパ草津の事例のように、

市民からの手厚いサポートを得られるように、広くチームを浸透させ、誰でも知っている

おらが町のチームにすればいい。その方法とは、今まで述べてきた文化と文化の支援体制

を確立することである。 高崎市では、高崎映画祭や野外音楽フェスティバルなど県外にも有名なイベントがあり、

群馬交響楽団がある。これらの芸術文化イベントと、融合させるのだ。しかし、そこに難

しいことはいらない。ただ、お互いの文化性の相違を理解しあい、相互支援のパイプライ

ンを構築させるのだ。アルテ高崎のホーム戦で、試合開始前に有線放送が流れている。こ

れを、高崎市のミュージシャンが行う。いわゆる前座といったところだろうか。そして、

群馬交響楽団のイベントに合わせて、彼らの演奏がある。まさに、音楽のあるまちである。

また、野外音楽フェスティバルや群馬交響楽団の公演の会場で、アルテ高崎のユニフォー

ムを着た選手たちが受付を行ったり誘導を行う。ラジオ高崎という高崎独自の情報発信ツ

ールも駆使し、いつ、どこで、何を行うかをアルテ高崎選手自身が告知する。このような

活動は、他にはないだろう。地道で効果がすぐに現れるものではない。文化とはそういう

ものだ。広く一般にセンセーショナル的に、知れ渡り普及するものもあれば、長い時間を

かけて浸透する文化もある。前者はまれな例だろう。独自の特異な活動を行えば、人は振

り返り興味を示す。そこで初めて認知されるのだ。そして、その認知された後が重要であ

る。一過性の興味に終わらないように、常に文化的な非日常空間を作り上げるのだ。お互

いがお互いを理解しあい、支えあい、触れ合いながら発展していく文化は決して崩れない。

それは、その支援しあう時点で確固たる基礎が生まれるからだ。きっかけは何でも良い。 アルテ高崎の試合で、良い音楽が聴ける。群馬交響楽団の公演に、サッカー選手がいる。

どんなきっかけであっても、そこに人が集まり、非日常空間を共に味わう。それが文化の

持つ可能性だ。2章で紹介した総合型スポーツクラブ。これは、すべてスポーツでなけれ

ばならないことはない。それぞれの地域の特性や気風を生かして、「総合型」として捉え

るのだ。芸術・音楽・スポーツの総合型地域。全ての人々が、それぞれの文化を、自分が

好きな文化を体験することができる。このような、高崎市の文化相互支援体制を構築し、

実行することは一つの作品を作り上げることと同様である。悠久の時を越え、受け継がれ

る芸術作品のように、高崎市に壮大な文化作品を完成させることは、高崎市独自の地域発

展の姿となり、根を張っていくことであろう。そして、「群馬交響楽団」や「ラジオ高崎」

「高崎映画祭」「高崎タワー美術館」などといったと文化団体の名が刻まれたユニフォー

ムを着た選手たちと大勢のサポーターたちが手を取る姿を、Jリーグの檜舞台で見ること

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ができるようにと願う。 【参考文献】 中村雄司,2006,『スポーツの行政学』 成文堂 町田光,2006,『Jリーグの挑戦とNFLの軌跡』 ベースボールマガジン社 山下秋二・原田宗彦,2005,『図解 スポーツマネジメント』 大修館書店 クレイグ・マクギル,2002,『サッカー株式会社』 文藝春秋 林慎吾,2004,『野球型vsサッカー型 豊かさへの球技文化論』 平凡社 原田宗彦,2002,『スポーツイベントの経済学―メガイベントとホームチームが都市

をかえる』平凡社 上条典夫,2002,『スポーツ経済効果で元気になった街と国』 講談社 矢野龍彦、金田伸夫、織田淳太郎著,2003,『ナンバ走り』光文社

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公営ギャンブルの転換期

~新しい明日へ~ 滝川 圭太

序論

「ギャンブル」…賭け事、博打、賭博(広辞苑第五版)

「ギャンブル」、この言葉を聞いて何を思い、感じるだろうか。まず、多くの人

がパチンコ・競馬 etc を想像し、趣味や遊びの範疇、気晴らしや気分転換といった

こと、または博打・賭け事といった金銭の賭けをイメージするだろう。しかし、

一部の人たちはその魅力に取り憑かれ、麻薬的な興奮・刺激を感じている。また、

ある人はその言葉に対し、眉間にしわを寄せ、嫌悪感を抱くだろう。 このように、ギャンブルは肯定と否定という二つのイメージを持ち合わせてい

る。それは現在におけるカジノ構想論議の対立にも見て取れる。 しかし、否定的な面を見せる一方で、ある種、肯定的な面が見て取れる一面が

あった。それは、群馬県高崎市における高崎競馬場閉鎖問題である。これは、高

崎競馬場が多くの市民に惜しまれつつも、経営難により閉鎖を余儀なくされてし

まったという出来事である。この問題当時は市民による署名運動や存続を願う声

が鳴り響いていた。では、市民はギャンブルに対し肯定的なイメージをもってい

たのだろうか。それは必ずしもイエスではない。否定的な意見を持っていた人達

もいただろう。 時に群馬はギャンブル発祥の地と呼ばれ、群馬県民は根っからのギャンブル好

きと称される。そのことは、公営ギャンブル施設の多さからも分かるとおりであ

る。しかし、ギャンブル好きと称される群馬においても高崎競馬場が閉鎖される

という事が起きた。これは珍しいことではなく、全国的にみても大きな問題とな

っている。現に、高崎競馬場以外にも閉鎖を余儀なくされた施設や、運営は為さ

れているが経営自体は赤字で、いつ閉鎖されてもおかしくはないという施設が少

なくない。このことにおいて早期閉鎖を求める市民の声はなく、存続を求める声

ばかりである。だが、この声の主がその施設におけるギャンブルに貢献している

というわけではない。では、このような状況において公営ギャンブル施設はどの

ような存在を求められているのだろうか。また、どのように進むべきなのだろう

か。今、公営ギャンブル施設は窮地に立たされていると言っても過言ではない。 1.ギャンブルの存在 1-1. 誕生~その歴史~ 一般的に示されるギャンブルとは序論で触れたように「賭け事」である。つま

り、何かを賭けて勝負事をすることである。何か、それは自らの大切な品物であ

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ったり、お金であったり、そして、時に自身の命でさえもある。 では、ギャンブルにはどのような種類があるのか。今日におけるギャンブルと

は金銭の賭けを意味し、競馬・競輪・競艇、パチンコ、宝くじと、その種類も

様々である。今でこそ、何兆円とも言われる産業であるが、日本におけるその歴

史は浅い。 史実として初めて行われたギャンブルは双六賭博である。これはどういうもの

かというと「二個の賽を一本の筒に入れて盤上に振り出し、出た賽の数に従って

駒を進めて勝負を争う」ものである。(高柳・竹内)これは奈良時代に入る前から

行われていたものであり、現在における「遊び」のスゴロクと言えるであろう。

この双六賭博の発展形が丁半と呼ばれるサイコロ賭博である。他にも花合わせと

呼ばれる平安時代の遊びから生まれた花札がある。(高橋 p16) だが、これらの賭博は現在におけるギャンブルのイメージではない。そのイメ

ージを持つものとして富くじが挙げられる。これは江戸時代に流行したものであ

り、今日における宝くじの原形といえる。この富くじこそが公認ギャンブルのは

しりである。江戸時代にはもう一つ、西洋から伝わった競馬が横浜で初めて行わ

れた。これは第二次世界大戦中まで続いており、近代日本の公営ギャンブル第一

号と呼ばれている。しかし、馬券一枚の金額は高く、上流階級の人の為のギャン

ブルであった。今日の中央競馬会の基盤はこの時に出来上がったといえるだろう。

(高橋 p18)だが、その他における今日のギャンブル、競輪・競艇・パチンコ等は

第二次世界大戦後に誕生したものであり、歴史的にはごく 近なのである。 これらのことから、どの時代にも様々なギャンブルが存在し、人々を魅了して

いたといえるだろう。また、その時代の風習や歴史的背景が様々なギャンブルを

生んだともいえる。特に第二次大戦後に生まれたギャンブルについては、戦後、

何もなかった日本人を魅了する娯楽としての要素が強いといえる。この戦後の競

輪・競艇等はスポーツ競技として戦前から行われていたものであり、ギャンブル

として誕生したものではない。だが、戦後の経済・活気を回復するために、競馬

の例を習い、賭けとしてギャンブルを成立させたと思われる。これが、たちまち

人々を魅了し現在の様な産業に繋がったといえるだろう。また、この戦後の頃の

ギャンブルは博打としてより人々の娯楽としての存在が強かったのではないだろ

うか。 1-2. 博打とギャンブル そもそも博打・ギャンブルはどのような存在にあるのか。気分転換や遊びとい

う娯楽として楽しまれているのか。それとも単純にお金を増やしたいという金銭

のためなのか。その楽しみ方は人それぞれかもしれない。だが、一般的な見解と

しては金銭面の駆け引きというイメージが強い。果たして娯楽として参加してい

る人はどのぐらいであるのか。そのデータを出すのはままならない。また、ギャ

ンブル別に比較した場合にも結果に差が生じるのは明確であろう。 博打と聞くと闇のようなイメージを抱くのは私だけであろうか。サイコロや花

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札を用い、裏の世界で密かに行われているような。そして、古臭い印象を受ける。

だが、ギャンブルと聞くと現代における競馬・競艇・宝くじ・パチンコなどを真

っ先に頭に思い浮かべる。博打とギャンブル、この二つの言葉、意味は同じであ

るが与える印象は大きく変わる。この「ギャンブル」というフレーズは政府が図

ったものであり、博打がもつダークなイメージから娯楽という明るいイメージへ

の転換と思われる。この言葉が使われ始めたのは第二次世界大戦後である。つま

り、近代ギャンブルと呼ばれる現在の公営ギャンブルの普及と同時期である。し

かし、一方で博打という言葉が抱かせるサイコロ・花札賭博は元来、上流階級層

が楽しむものであった。それが中層・下層階級に伝わり、広く流行していったの

だ。だが、ニュースやテレビドラマの扱いによりダークなイメージを持たせる言

葉となったといえる。 海外に目を向けるならば、ギャンブルというものが上流階級のためにあるとい

うのが見て取れる。日本においても花形である競馬を例に取ると、本家イギリス

では格式のあるレースの際には正装をした上流階級が集まり、ダービーともなれ

ば女王も出席する。 このように海外においてはギャンブルと上流階級の結びつきの強さが見て取れ

る。それに対し、日本において博打がギャンブルと呼ばれ始めて上流階級との結

びつきは失われてしまったのだろうか。現在における公営ギャンブルは大きく分

けると公営競技と公営クジの二つに分けられる。だが、主に公営ギャンブルとい

う言葉は公営競技の意味合いを持つ(本文においても同様とする)。始まりは上流

階級であった競馬、そして競輪・競艇などは公営競技に含まれ、宝くじ・toto な

どは公営クジとなる。 では、今日の公営ギャンブルはどのような立場にあるのであろうか。 1-3. 全国にみる公営ギャンブル 日本における公営ギャンブルをすべて挙げると、競馬・競艇・競輪・オートレ

ースの 4 種であり、これらはそれぞれの頭文字から一般的に 3 競オートと呼ばれ

ている。 この公営ギャンブルのうち、競馬は更に中央競馬と地方競馬に分けられる。中

央競馬は日本政府直轄化の特殊法人である日本中央競馬会(JRA)により開催され

るが、地方競馬、並びに他のギャンブルは地方公共団体により開催される収益事

業である。その開催の目的は社会資本の整備や関連産業の振興・スポーツ・社会

福祉など公益の福祉財源の確保である。そのため刑法の適用除外となり公営ギャ

ンブルとしての存在を認められている。(日本プロジェクト産業協議会・都市型複

合観光事業研究会 p41)。 戦後の復興が一段落した後にも公益事業の増進という名目で各都道府県に相次

いで競技場が誕生していったが 1991 年をピークにバブル崩壊の煽りを受け公営ギ

ャンブルの売り上げは減少し続けている。特に地方自治体による公営ギャンブル

においてはピーク時に比べ 40%以上の売り上げダウンとなっている。その為、赤

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字が度重なり閉鎖を余儀なくされた施設が少なくない。そしてそれは現在でも続

いており深刻な状況となっている。その始まりは 2001 年 3 月、大分県の中津競馬

場の突然の閉鎖であり、それを皮切りに翌年には三条競馬場(新潟)、西宮競輪場

(兵庫)、更に翌年には足利競馬場(栃木)、上山競馬場(山形)が閉鎖された。

そして群馬県においても 2004 年 12 月 31 日をもって高崎競馬場が閉鎖されている。 これら多くの公営ギャンブルは売り上げに頼る経営を変えず行ったことや不況

の長期化、レジャーの多様化、パチンコ産業や toto くじ・数字選択式宝くじなど

様々なギャンブルの登場と多種多方面の影響を受けたことが閉鎖要因であると思

われる。 現在、下降を続ける公営ギャンブルにおいて具体的・効果的な対策案はとられ

ていない。問題点を明らかにし、改善策を挙げるのか、このまま閉鎖の岐路をた

どるのか、公営ギャンブルは窮地に立たされている。 そのような公営ギャンブルにおいて 2004 年をもって閉鎖された高崎競馬場の経

緯を辿っていきたいと思う。 2.さまざまな視点 2-1. 群馬県、高崎競馬場の例 まずは高崎競馬場の誕生から閉鎖までを見てもらいたい。

1923 年 高崎競馬場を設置 24 勝馬投票を伴う初の競馬開催

61 県、高崎など 4 市で一部事務組合を設立 76 境町トレーニングセンター完成 85 中央競馬の場外発売開始 90 年間発売額ピークの 245 億円 92 単年度収支が赤字転落、以後 12 年連続赤字に

2001 競馬場リニューアル 03 高崎競馬検討懇談会、「2 年で収支均衡の見通しなければ、速やかに廃止

を」と提言 04 高崎競馬場閉鎖

(2004.9.29.読売新聞朝刊を基に作成) この高崎競馬場の経緯を見ると、1992 年から赤字に転落して以来、回復の兆し

を見せることなく閉鎖を迎えたことが分かる。戦後の復興を支え地域経済を担い、

人々に感動と熱狂を与えた。この高崎競馬場が運営されていたころは、群馬に 3競オートと全ての公営ギャンブルが存在していたのである。

だが、1992 年の赤字を境に下降を続けているにもかかわらず効果的な策が行わ

れなかったのである。その間、高崎競馬場は何を施し、改善しようとしていたの

だろうか。

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2-2. 考察、そして未来 高崎競馬場の急降下、その間に行われた策といえば同じ関東における地方競馬

の交流や相互発売、また中央競馬の場外馬券発売などである。この中央競馬の場

外馬券発売については、むしろ、地方競馬の馬券販売を減少させる原因ではない

かと思われる。また、販売を優先することで地方を活かした地域関係の構築を怠

っていたのではないだろうか。唯一、行われたのは家族連れでも来場してもらえ

るよう土日も開催を決定したということである。果たして、そこに地域関係の構

築があったのだろうか。やはり地方競馬の存在として利益の 優先というものが

あったのではないだろうか。これは高崎競馬場を含め地方競馬のみならず競輪・

競艇にもいえるのだが、この利益優先的な考えを改めない限り公営ギャンブルに

は未来がないといえるだろう。だが、この根底に存在する収益事業という考えが

変わるとは思えない。ならばいっそのこと事業を廃止してしまおうという考えが

必要ではないだろうか。 経営者側の理念が一貫して変わらぬ間に、民衆の心は加速度的に移り変わって

いった。戦後の人々に与えた熱狂、娯楽という存在は現在において失われ、さま

ざまなレジャー産業・娯楽の登場とともに人々の心からは娯楽としての公営ギャ

ンブルは薄れていったのではないだろうか。つまり、現状の公営ギャンブル施設

の存在意義が失われているといえる。政府直轄下である中央競馬を除き、他の公

営ギャンブルは淘汰され、閉鎖を迎えるべきであると思われる。そして、そこに

は新たな公営ギャンブルが求められている。 2-3. 新たな公営ギャンブル 公営ギャンブルは大きな窮地に立たされている。その打開にはやはり、時代に

合わせた運営・展開を行っていかなければならない。根本からの見直しを図るの

か、または時代に合わせた新たなギャンブルを運営するのか。歴史を紐解けば、

ギャンブルとは常にその時代の風俗・社会文化を反映し、行われてきたものであ

り、歴史的背景によって生み出されてきたといっても過言ではない。今日の日本

はまさに転換期にあるであろう。既存の公営ギャンブルは風化しゆく時を迎えて

いる。ならば、何が必要とされているのか。 日本における中央競馬の冠レースともなれば、その売り上げは世界一とも言わ

れてきた。そのようなギャンブル大国において何が足りないのか。 ギャンブルの視野を世界に広げると も目に付くものがある。それはギャンブ

ルの代名詞的存在であり、古くより上流階級の間で遊ばれ、交流・たしなみ、そ

して、来客のもてなしにも行われたルーレットである。つまりはカジノの存在で

ある。 ‘ギャンブルは時代と共に’、貴族の遊び・交流、戦後の経済復興、人々の娯楽

として存在し、時代を投影してきた。では、今日のギャンブルは何を映し出すの

か。 現在、わが国においてさけばれているもの。それは観光産業である。 先端を

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行くハイテク機器や自動車は海外へと売られ、日本の文化である漫画もまた広く

世界へ名を轟かせている。だが、それら日本を代表する文化・産業が重要なので

はない。必要とされるものは観光産業なのである。今日、多くの日本人が海外へ

と観光・旅行に行く。そして、その滞在先において多大な消費を生んでいく。い

わば、海外への流出である。海外の地に危険がある場合にのみ国内旅行を選択す

ると言ってもいいだろう。この理由のみならず、国内旅行が増えるならば、大き

な経済効果を生むといってよいだろう。また、国内から国内への旅行というので

はなく、海外からの観光客が少ないのも難である。だからこそ、観光産業に力を

入れていかねばならないのだ。 全世界におけるあらゆる産業の中で も外貨を稼ぐものは何か。それこそが国

際観光産業である。一時はリゾート法により多くのテーマパーク・レジャー施設

が誕生した。だが、それら多くの施設は建設に急ぎ、貧弱な構想や危うげな集客

予測と共に生まれたものである。そして、それは見事に消えていった。そのよう

な中において必要とされる物がカジノである。海外からの観光客を呼び込むと同

時に海外へ出かける観光客を呼び戻す。カジノ産業はその可能性を秘めている

(室伏 p15)。 3.カジノ誕生に向けて 3-1. 活性効果 実際にカジノが誕生した場合、何がもたらされるのか。それは「新たな観光資

源と都市文化の創造」、「雇用の創出およびサービス産業などの振興」、そして、

「税収の確保である」(日本プロジェクト産業協議会 都市型複合観光事業研究会

p12)。前章でも述べたようにわが国における観光収入はあまり期待されていない。

そこにはやはり、観光資源というものの弱さが現れている。従来の観光地という

考えではなく、人的交流、情報交流、集客といったものをテーマにした観光資源

が求められているのだ。それを補うのがカジノである。 人々が余暇を楽しむ手段として、スポーツ、芸術文化観賞、ショッピングなど

と様々であり、人々が持つ価値観も余暇志向へとなりつつある。その中において

自由時間が増加していくと時間消費の場が限られる。 東京都市科学振興会による「東京の魅力づくりとレジャー・娯楽に対する意識

調査」によると東京に不足している観光資源の第一位は「参加型アミューズメン

ト」である。 更にカジノを中心とした複合型施設があればよいと答えた人は 43%にものぼる。

いまやカジノは新たな観光資源として求められているものなのである。 日本にカジノが創設された場合、その観光資源としての存在のみならず、新雇

用の確保という面が期待される。その新雇用の人員は 大で 30 万人とも言われて

いる。これはカジノゲームとカジノホテルのカテゴリー別の新雇用人員の総数を

予測したものである(室伏 p85)。 その雇用の確保の例としてニュージャージー州が挙げられる。ニュージャージ

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ー州に初めてカジノが設立されたのが 1978 年である。その時は特定地区に設立と

いう形で 12 のカジノが認められていた。その後、カジノ産業が成長すると共に雇

用も拡大していったのだが、その総雇用者数は 250 万人から 310 万人へと、50 万

人以上もの増加を見せている(日本プロジェクト産業協議会 都市型複合観光事

業研究会 p17)。その雇用創出は目を見張るものであり、他にもミシシッピ州の例

にも同じことがいえる。 また、雇用の創出のみならず、他のホテルや商業施設、サービス業の振興など

の相乗効果も期待され、経済発展を促す力や地域全体の活性化というも効果も現

れるのではないだろうか。 そして 後に期待される効果が税収の確保である。これはカジノ創立に対する

具体的な規定が示されない限り、明確な数値を挙げることは出来ない。だが、税

率が高いことで有名な欧州では、ドイツが 80%という数値を示し、フランスやス

ペインでも 40%を超えている。一方で、カジノの地として有名なラスベガスのあ

るネバダ州では 6.5%の数値である。これは薄利多売といった原則があるのかもし

れない。だからこそ、今日におけるカジノの地位が築かれているのだろう。しか

し、そのカジノ単体の収入は大きく、その収入は 1 兆円を超え、総合的な経済効

果は 3 兆円超である(室伏 p82)。もし、このネバダ州の税率がフランスなどと同

じ 40%であれば、単純計算で 4000 億を超える。カジノ収入が未知ではあるが、こ

れが日本にも言えることであれば、税収の確保として大きな助けとなる。 このようにカジノがもたらす効果は大きく、今後の日本を変えうる力をも持っ

ているといえるだろう。 3-2. カジノ反対論 カジノ創設が大きな活性効果を生む。しかし、歓迎できる話が想定されるだけ

ではない。そこにはやはり否定的、不安視される問題も抱えている。 まず、 初に掲げられるのが「子どもの教育に良くない」、「青少年の健全教育

に有害」などの教育論である。そしてその主な意見が一攫千金を手にするギャン

ブルは勤労意欲の低下を引き起こし、それに伴い健全な青少年の堕落を生むとい

うことである。だが、果たして本当にそうであろうか。海外におけるカジノは未

成年者の立ち入り禁止が当たり前である。また、競馬の例を挙げると未成年者・

学生の馬券購入は禁止されている。子どもの教育に良くないとはいうものの、上

記のことが徹底されれば問題のなきものとはいえないだろうか。更に厳しいもの

をあげるならば、モナコにおけるカジノではネクタイ着用を義務付けられ正装を

求められるところもある。そもそもギャンブルとは資本社会の根底にあり、世の

多くのものの根本はギャンブルといえるのではないだろうか。また、少年の非行

というものが必ずしもギャンブルから派生すると考えるのは間違っているのでは

ないだろうか(カジノが日本に出来るとき p42)。 上記の問題についで懸念されるのが暴力団やヤクザの問題である。カジノにお

ける収益が裏・闇世界に繋がるという囁きだ。しかし、このことに対しても、法

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律の明確化、運営の公正化を図れば問題ないといえるのではないか。この問題が

挙げられる裏には、今日における違法カジノ・闇カジノの存在があるのではない

だろうか。明確な法律を制定し、カジノを創立することによって現在のアングラ

カジノは消滅するのではないか。また、カジノ収益が裏へと繋がる心配はないだ

ろう。これは英国において見て取ることが出来る。68 年に法律が制定されるまで、

英国では 1300 以上ものアングラカジノがあり、犯罪の多発がさけばれていたが、

法律制定後、アングラカジノは全滅し、政府公認のオフィシャルカジノ 128 軒が

公明正大にほぼ無事故で営業が行われているのである(室伏 p32)。 要するに、今日さけばれている多くの問題は単なる否定的な意見であり、根拠

のないものである。それら多くの問題は、その根底に潜むギャンブルへの嫌悪か

ら生まれているのではないか。否定的な意見や問題を掲げ、反対する。だが、そ

の実情は解決できるものであり、問題視されるものではないのだ。カジノ創設に

対し、解決せねばならぬ問題は他にある。 3-3. 立ちはだかる壁 これまでにおいてカジノ創設によってもたらされる利益・効果、また、疑問

視・不安視される問題について語ったが、全てはカジノ創立ということが念頭に

あってのことである。しかし、そのカジノ創立ということが 大の壁である。違

法カジノ・アングラカジノがなぜ存在するのか。なぜ、正規にカジノ営業を行わ

ないのか。それは日本という国がカジノを合法としていないからである。 カジノ合法化、つまりはカジノ法案を国会にて成立させること。それがカジノ

創立に必要である。だが、その法制化が 大の壁である。2001 年に石原慎太郎都

知事が東京の魅力を売り出せと共に「お台場にカジノ創設を」、と発言したことは

反響を呼んだが、その後の展開はというと停滞したままである。国会においても

公営カジノ創設に向けての議員立法運動が起きたものの具体的なプラン、動きは

見られない。つまり日本はカジノに対して閉鎖的であるのだ。それ以外において

観光収入の増大を図ろうとしているのだ。 国連加盟世界 189 カ国のうち、カジノを合法化している国は 116 カ国にものぼ

る。更に付け加えると、GDP が 2 万ドルを超え、人口一千万以上の国家および同

1 万ドル以上かつ 500 万人を超える首都においてカジノが非合法化されているのは

日本と東京だけである(室伏 p101)。これは世界の他の国々から出遅れているとい

っても過言ではない。このような日本において、合法化に対して耳を傾け、カジ

ノというものの正しい存在を理解してもらうことが大切である。カジノ合法化へ

の道は困難を極めるだろうが、何年費やしてでも達成させることが必要であると

思う。 4.光と影 4-1. イメージ払拭 カジノが設立されたとして、大きな効果をもたらすことは前述の通りだが、そ

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こに至るには、やはり日本人が持つギャンブルに対するイメージを変えていかね

ばならない。カジノ、ギャンブルに対する誤ったイメージが批判的な発言を生ん

でいる。そもそもカジノをギャンブルと捉えるのが間違いである。ギャンブルと

いうよりは、エンターテイメントである。また、欧米ではカジノのことを一般的

にゲーミング産業と呼び、ギャンブル産業と呼ぶことはない。 一般的なイメージにおいて宝くじを除く賭博行為は良い印象を与えない。宝く

じも賭け事の本質としては他の公営ギャンブルと同等である。しかし、それほど

悪いイメージはもたれていない。もし、カジノが設立された場合、新たな公営ギ

ャンブルとして持たれるイメージは従来の賭博としてのダーティな印象であろう。

カジノとは何かという具体的なイメージが一般的に分かりづらいかもしれない。

また、知らぬままに感情的な反発・反対が起きることも予想される。そして、身

近な地域にカジノという観光遊興施設を設置するとした場合、その地域において

様々な議論が起きるのは当然のことなのである。 これらの誤ったイメージを正すため、カジノがどういうものかを理解してもら

うためにもカジノ設立を目指す動きの中にはカジノに対する正しいイメージを植

え付け、理解してもらうという働きかけが重要である。つまり、単に設立を目指

すのではなく相互理解が必要なのである。 4-2. 未来の在り方 ここ数年来同様、今後も現代人の余暇活動の活性化はサービス産業としてのエ

ンターテイメントに大きな位置づけを与える。エンターテイメントはサービス産

業としては重要なものであり、国民の余暇の過ごし方にさまざまな選択肢を与え

るものである。観光振興は国内外を問わず多様な観光資源を提供し、消費を喚起

することを目的とする。これらを政策的に捉えることは重要であり、カジノもそ

の一つの要素として適切に位置づけられることが求められるし、必要なものであ

る(日本プロジェクト産業協議会 都市型複合観光事業研究会 p198)。 単に新しい公営ギャンブル、従来の公営ギャンブルの代わりとしてカジノが誕

生するのであれば、その目的は明らかに誤りである。エンターテイメントとして、

観光産業として誕生することが求められる。緻密な仕組みを考慮し、大きな制度

や枠組みの中で始めて、その効果をもたらすことが出来る。国が枠組みを考え、

これを制度として提供し、地域単位で行政や住民、企業が高い理念下で主体的に

考え、施行のあり方とフレームを官民共同で実践することが必要である(日本プ

ロジェクト産業協議会 都市型複合観光事業研究会 p199)。 上記のような考え、施行活動の活発化、そして相互理解を含んだカジノに対す

るイメージの払拭を行うことによって、既存の公営ギャンブルの存在は淘汰され、

新たな公営ギャンブル、いや、ゲーミング産業・観光産業として近い将来にカジ

ノが誕生する。 「ギャンブル」…エンターテイメント、人々の娯楽、レジャーゲーム

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【参考文献】

佐々木 晃彦 「公営競技の文化経済学」 芙蓉書房出版 谷岡 一郎 仲村 祥一 「ギャンブルの社会学」 世界思想社 谷岡 一郎 「カジノが日本に出来るとき-大人社会の経済学」 PHP 研究所 谷岡 一郎 「ギャンブルフィーバー-依存症と合法化論争」中央公論社 紀田 純一郎 「日本のギャンブル」中央公論社 紀田 純一郎 「賭博の日本史」平凡社 アレックス・ラブナー 「ギャンブルと財政・経済」 高橋 勇悦 「ギャンブル社会」 室伏 哲郎 「カジノ 新ビジネスが日本を救う」 高柳 光寿 竹内 理三 「日本史辞典」 (社)日本プロジェクト産業協議会都市型複合観光事業研究会 「日本版カジノ」

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新設合併における既設公立文化施設の現状とこれからの飛躍

―群馬県みどり市について― 武井 俊輔

はじめに 本論文では新設合併によって発足した自治体が抱えることとなった既設文化施設

の現状を明らかにし、今後の飛躍について考察する。対象とした自治体は平成 18年 3 月に群馬県で 12 番目の市となったみどり市である。群馬県みどり市は旧新田

郡笠懸町と旧山田郡大間々町、旧勢多郡東村の 2 町 1 村の合併により新たに発足

した。今回、対象を群馬県みどり市とした理由は、編入合併によって発足した市で

はなく、新設合併によって発足した新しい市であるという点にある。つまり、旧自

治体同士が対等な立場にあるという前提条件のもとで合併したことによって、今ま

で各々の旧自治体が育んできた地域性を市としてこれからどのように発展させてい

くのかということに関心を持ったということである。もちろん、編入合併によって

組み込まれた旧自治体にも独自に形成された地域性があり、合併という枠組みの中

で如何に地域性を発展させていくかという議論がなされていると考えられる。しか

し、ここではあくまで新設合併によって発足した自治体、すなわち群馬県みどり市

に焦点を絞ることとしたい。対等な立場で合併したことにより各旧自治体同士での

対立などが起こっているのではないかと考えたためである。 地域性という言葉を挙げたが、これを公立の文化施設に当てはめることは出来な

いかと考えた。すなわち、今まで各々の旧自治体によって運営されてきた文化施設

が合併(特に新設合併)によってどのような影響をうけるのか、またどのような影

響を地域にあたえる可能性があるのかと考えたのである。影響として考えられるの

は、合併により予算の都合によって今まで行ってきた事業ができなくなること、類

似施設の統廃合によって住民の文化活動に支障をきたすことなどのマイナス面と、

それぞれの文化施設の特徴をあきらかにした上でそれらを地域の活性化に活用でき

るというプラス面の 2 つがあると考えられる。本論文ではこの 2 つの面から新設

合併における文化施設について論じていきたい。 ところで、本論文における文化施設とは教育委員会の社会教育系の施設(博物館、

公民館等)と、それ以外の部署に所属している場合もある文化会館(劇場、コンサ

ートホール等の舞台芸術のための機能を有するもの)などを指すものとする 1。そ

れぞれの施設において設置目的や法律等に違いはあるものの、地域の文化活動を推

進していく施設であると考えたためである。たとえば社会教育施設である公民館で

は文学・美術・音楽などの活動を行うサークルが存在している。これは公民館が文

化的な活動を行うことができる施設という意味での文化施設であるといえるのでは

1 この定義づけは小林真理、2006、『指定管理者制度』時事通信社を参考としてい

る。

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ないだろうか。 ここで、みどり市にある文化施設について簡単に紹介したい。現在のみどり市に

はいくつかの公立文化施設が存在している。以下に旧自治体ごとに文化施設を挙げ

ていく(公民館については各旧自治体に類似・代替施設があるためここでは割愛す

る)。 ◆旧笠懸町 ・岩宿博物館―日本における旧石器時代の存在を明らかにした岩宿遺跡に関する資

料を中心に展示している施設。建設費は 2,287,997,448 円。収入 5,995,000 円

(入館料、事業収益を含む)、支出 59,812,000 円(運営費) ・笠懸野文化ホール―主にクラシックやミュージカル、ロックバンド等のコンサー

ト会場として利用されている。収入 13,020,000 円(チケット販売、自主事業、

物品販売を含む)、支出 92,593,000 円。 ◆旧大間々町 ・大間々博物館―歴史・民俗・自然に関する資料を展示している施設。愛称はコノ

ドント館。建築費は以前からあった建物の費用が判らなかったため不明。収入

500,000 円(入場料のみ)、支出 24,949,000 円。 ・ながめ余興場―木造二階建ての劇場・ホールであり、寄席などを行うこともある

施設。建築費は以前からあった建物の費用が判らなかったため不明。収入

12,399,000 円、支出 37,231,000 円(維持管理費、管理事業費、活用事業費を含

む)。 ◆旧東村 ・富弘美術館 2―みどり市東町(旧勢多郡東村)出身の画家、星野富弘氏の作品を

展示。収入 124,401,000 円、支出 288,791,000 円 ・旧花輪小学校記念館 3―廃校となった花輪小学校を記念館として保存したもの。

今泉嘉一郎や石原和三郎、斉藤利江についての展示室がある。今泉嘉一郎の財産

によって建てられた木造校舎を保存するために記念館とした。建設費は以前から

あった建物の建設費が判らなかったため不明。収入 5,000 円、支出 1,923,000 円

(管理費)。 ・童謡ふるさと館―石原和三郎についての展示室と多目的ホールがある。収入

824,000 円、支出 8,788,000 円。 ・陶器と良寛書の館 4―業家である松嶋健壽(1914~1995)が生家と共に、収集した

品々を旧勢多郡東村に寄贈したもの。松島コレクションは有田焼・九谷焼など日

本各地の陶磁器と、東南アジアの陶磁器約 1,000 点。また良寛直筆の屏風・掛け

2 富弘美術館の詳細については http://www.tomihiro.jp/museum/index.htm を参

照されたし。 3 人物紹介、及び展示については

http://www.city.midori.gunma.jp/hanawa/index.htm を参照されたし。 4 陶器と良寛書の館の詳細については

http://www.city.midori.gunma.jp/sisetsu/museum05.htm を参照されたし。

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軸 11 点、その他、書 59 点にも及ぶ。これらの品々の中から約 150 点を展示。建

設費は民家だったため不明。収入 540,000 円、支出 3,108,000 円。 なお、収入と支出に関しては平成 18 年度予算によるものである 5。 これらの文化施設の中で類似・重複関係にあると考えられる施設は以下のとおり

である。 ・公民館 ・岩宿博物館と大間々博物館 ・笠懸野文化ホールとながめ余興場、及び童謡ふるさと館 これらの施設は先に挙げた「合併により予算の都合によって今まで行ってきた事

業ができなくなること、類似施設の統廃合によって住民の文化活動に支障をきたす

ことなどのマイナス面」があると考えられる。このことについて、第 1 章では公

民館、第 2 章では博物館、そして第 3 章では文化ホールについて述べている。ま

た、その上でこれらの文化施設がみどり市全体にもたらしうるプラス面も述べてい

る。第 4 章では以上に挙げた施設以外の文化施設も含めつつ、みどり市の文化施

設がどのような効果をもたらしうるのかということをエコミュージアムという概念

を参考とし、1 つのモデルを述べてみたい。 1.みどり市の公民館―現状とこれから― 市町村合併では合併以前より各自治体で運営されてきた文化施設が存在している。

その中でも公民館は地域の中で住民が主体となって文化活動を行うことができる場

であると考えられる。本章ではハード面とソフト面の両面で積極的に公民館活動を

行ってきたみどり市笠懸公民館 6を事例として考察していくこととする。公民館は

社会教育施設であるが、地域の文化活動を支える側面も持ち得るということで、本

論文で取り上げることとした。つまり、公民館事業の中には文化的な催しや文化的

活動の比重も多く存在しており、書道、絵画、工芸、手芸、生花、盆栽、茶道、舞

踊、謡曲、詩吟、俳句、短歌、川柳などの多岐にわたる活動が行われている。たと

えば、公民館事業として現在のみどり市笠懸公民館(旧笠懸町)では文学・美術・

音楽等の活動を行うサークルがある。 公民館は「合唱・演劇生活記録等の表現活動や文化活動が「サークル」という小集

団を基盤に発展し、公民館はこうした新しいサークル活動の拠点としての意味をも

ちはじめた」(日本社会教育学会 1999:292)とある。つまり、住民の文化活動を行

う「場」としての施設であると捉えることができるのではないかということである。

以上の観点からみどり市笠懸公民館を事例として以下に論じていく。 1-1. 笠懸公民館の歴史 笠懸公民館の歴史は社会教育法制定以前から始まっていた。昭和 21(1946)年

5 聞き取り調査を参照して執筆。 6 みどり市笠懸公民館の設備等に関しては

http://www.city.midori.gunma.jp/sisetsu/gyosei01.htm を参照されたし。

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4 月に笠懸村(当時)の各部落から集まった青年たちによって「笠懸村青年連盟」

が組織された。この組織から、村に活気を取り戻すために人々が集まり、話し合え

る場所がほしいという声が出てくるようになった。この事と当時の村長であった籾

山琴次郎の「公民講堂構想」が重なり「公民講堂」建設が始まっていくことになっ

たのである。建設中に出された文部次官通牒の“公民館の設置・運営について”の

ねらいが“公民講堂”と一致することから、『社会教育法』公布前の昭和 23(1948)年 2 月 11 日に『笠懸村公民館』として開館した(みどり市笠懸公民館、

2006)。この事から全国に先駆けての公民館活動の開始であったと考えられる。昭

和 30 年代になると建物の老朽化が始まり、それに伴い新しい公民館を昭和 41(1966)年 3 月に新しい公民館を社会体育館とともに完成させた。 昭和 40 年代の半ばになると隣接する桐生市などからの転入者が多くなり都市化

が進んでいった。これに伴い地域網羅的な団体援助からさまざまな団体グループの

学習活動への援助へと援助の幅が広がるのと前後して、自主的なサークルが次々と

誕生していった(みどり市笠懸公民館、2006)。サークル活動が盛んになるにつれ、

公民館が手狭になり昭和 50 年代の後半には新たな文化活動の場を求める声が高ま

ってきた。新たな文化活動の拠点づくりは昭和 63(1988)年の「仮称文化会館等

施設調査委員会」の発足によって具体的に始まった。この委員会のメンバーには住

民を中心とした多くの人たちが参加し、住民による計画・施設づくりが行われた。

平成 3(1991)年発足の「建設計画策定委員会」を経て、平成 6(1994)年、新

笠懸公民館の建設が始まり、翌平成 7(1995)年 12 月 3 日に新公民館が開館した。

この建設に当たり、文部省(当時)の社会教育施設設備援助金より補助率が高い自

治省(当時)の地域整備総合事業債を活用したことによって、“まちづくり交流

館”の名前を併記することとなった。以上がみどり市笠懸公民館の現在までの歴史

7である。 1-2. 合併による影響について 前節で述べてきたことから、旧笠懸町の公民館は住民の活動の拠点として住民の

手によって運営されてきたことが考えられる。実際、平成 11 年までは必ず置くこ

とと定められた公民館運営審議会が平成 12 年以降には任意設置でよいとされてか

らも、月 1 回の間隔で行われてきた(旧大間町地域と旧東地域では公民館運営審

議会は行われなくなっている)。公民館運営審議会が活発に行われるということは

地域住民の活動も活発になっていくと考えられる。公民館の運営のあり方を住民と

議論する場が存在するからである。 運営が異なった形で行われてきた旧各町村が合併したことによって公民館事業に

どのような変化がおきているのであろうか。公民館運営職員であるA氏に対して行

った聞き取り調査によって考察していきたい。A氏によると合併によって旧笠懸町

7 本節は『新笠懸町公民館基本計画書』(笠懸町教育委員会 1994:5-7)と『笠懸村

史下巻』(笠懸村 1987:1003-12)および『かさかけ公民館』(みどり市笠懸公民館

2006)を参照し執筆した。

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で行われてきた事業などは合併による財政問題により、他の旧町村の水準に合わせ

られた(事実上縮小されてしまった)との事である。事業縮小の例としては昭和

24 年 1 月から発行されてきた『笠懸公民タイムス』が廃止されたことがあげられ

る(みどり市笠懸公民館、2006)。また、公民館運営審議会が任意設置となった際

には他の旧町村では公民館運営審議会はほとんど行われなくなったことから旧大

間々町と旧東村の公民館事業はそれほど活発ではなくなったと考えられる。また旧

大間々町では施設としての公民館を設置してこなかった(みどり市立厚生会館とい

う施設で公民館活動が行われている) 8という経緯から他の旧町村との公民館のと

らえ方も異なっていると考えられる。社会教育法制定以前から住民の寄付と勤労奉

仕で公民館を開館した旧笠懸町と教育・文化施設としての公民館を設置しなかった

旧大間々町が1つの市として合併した。このことは公民館に対する住民の認識も

様々なものになっていくということを示しているのではないだろうか。今まで異な

った形で各々の旧自治体は公民館活動を行ってきていたことを考えれば合併によっ

て新しいまちづくりを住民が考えていく事は重要ではないかと考えられる。その住

民の活動の場所となる公民館の事業を活発化していくことがよりよいまちづくりを

行う原動力となるのではないか。 運営面では影響を受けてはいるものの、公民館での住民の活動は行われているこ

とから住民への対応という点では今までとほぼ同じものが行われていると考えられ

る。もちろん今後みどり市としての公民館がどのような形で運営されていくのかと

いう点ではまだ模索状態であることは想像に難くない。市としての方針と住民の認

識がより良い状況になっていけばよいのではないだろうか。たとえば公民館で活動

しているサークルがみどり市内の他の地域に行き、その成果を披露し、その地域の

住民と交流を持つことによって、お互いの地域の文化活動を理解し、活動内容を充

実してゆければ住民の文化的活動が活発化されてゆくのではないだろうか 9。 2.みどり市の 2 つの博物館について 公民館は合併の影響によって活動規模が事実上縮小されたということであったが、

2つの博物館施設の現状はどのようになっているのか。この章では 2 つの博物館

について筆者の調査をまとめ、それに基づいて考察していく。みどり市には登録博

物館が2館存在している。すなわち、岩宿博物館と大間々博物館(愛称コノドント

館)である。合併したことにともない旧笠懸町の岩宿博物館(旧称笠懸野岩宿文化

資料館)と旧大間々町の大間々博物館(旧称大間々町歴史民俗館)がみどり市の博

物館となったことによって今後の運営について見ていくこととする。

8 みどり市立厚生会館の施設概要については

http://www.city.midori.gunma.jp/sisetsu/gyosei02.htm を参照されたし。 9 実際に笠懸地域にある合唱団が東地域の祭りに参加。また、平成 18 年 12 月に

は第 1 回みどり市合唱祭が行われ、公民館サークルも多数参加した。

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2-1. 2 つの博物館の概要 岩宿博物館はJR両毛線岩宿駅から徒歩 15 分あまりに位置している博物館である。

この博物館は日本における旧石器時代の発見を知らしめた岩宿遺跡がある丘陵を中

心とした周辺環境に調和させるとともに存在を主張させるような建物としてデザイ

ンされている。デザインのモデルは岩宿遺跡から発見された黒曜石の石ヤリである

10。展示概要としては岩宿文化時代の発見・岩宿の発見・人類の時代と環境・岩宿

時代の暮らしという日本の旧石器時代(岩宿時代)に関する 4 つのテーマを持つ

それぞれのコーナーからなる展示がなされている。平成 4(1992)年に岩宿遺跡

に隣接する形で笠懸野岩宿文化資料館として開館した。みどり市となったことによ

り名称を岩宿博物館と変更した。 大間々博物館(愛称コノドント館)はわたらせ渓谷鐵道大間々駅から徒歩 5 分

あまりに位置している博物館である。展示概要は自然・歴史・民俗の 3 点のテー

マを並立させた展示がなされている。大間々博物館の建物 11は大正 10(1911)年

に建てられた。元々は群馬県で初めて設立した大間々銀行のための建物(国策によ

り群馬銀行大間々支店となった経緯がある)であった。その後群馬銀行大間々支店

が移転するということをうけて、旧店舗の土地と建物を買収し、昭和 63(1988)年に大間々町歴史民俗館として再スタートすることになった。この建物は木造2階

建ての寄せ棟造りの洋風建築で、外観はレンガ造りに見えるが、「木骨石積みタイ

ル張り」工法である。コノドント館という名前はコノドント(顕微鏡で見ないと見

えないくらいの小さな化石)を渡瀬川流域で初めて発見した人が大間々に在住して

いた事に由来している。みどり市となったことを契機として名称を大間々町歴史民

俗館から大間々博物館に変更する事になった。 以上の概要をみてみると、岩宿博物館、大間々博物館共にそれぞれの旧自治体の

特色をいかした博物館であることがいえる。すなわち岩宿博物館は旧笠懸町から岩

宿遺跡が発見されたことをうけたという地理・歴史的特徴から、大間々博物館は旧

大間々町に存在した大間々銀行という銀行の建物をいかし、大間々に由来するもの

を中心に展示をしていたという歴史的特徴からみることができるということである。

次からは 2 つの博物館がみどり市発足にともなってどのような変化が起こってい

るのかということについてみていきたい。 2-2. 合併における変化 みどり市誕生によって各々の博物館が変化したことは企画展の内容が合併を意識

しての展示内容になったということである。岩宿博物館ではみどり市誕生記念展と

して「みどり市の歴史と文化財」 12という展示事業を、大間々博物館では「オアシ

10 岩宿博物館の建物については

http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/index.html を参照されたし。 11 大間々博物館の建物については http://www.city.midori.gunma.jp/conodont/ main/gaiyo/index.htm を参照されたし。

12 http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/index.html を参照されたし。

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スの野鳥たち」 13という展示事業をそれぞれ行った(オアシスの野鳥たちという展

示事業は笠懸地域に存在する阿左美沼に集まる野鳥に関する事柄をあつかった展示

事業である)。これらの展示事業はみどり市発足記念事業として行われた展示であ

るが、今後もみどり市ということを意識しての展示を行うことも考えられる。もち

ろん各博物館の性格の違いにより今後の企画展示にみどり市としての内容が反映さ

れることは少ないことも考えられる。しかし、上記の企画展を行ったことから今後

の企画展事業に反映される可能性があると考えても良いのではないだろうか。 2-3. これからの博物館 企画展に見ることができるみどり市発足にともなう影響もあるが、運営面での影

響はあるのだろうか。岩宿博物館と大間々博物館の 2 つの博物館がこれからどの

ような形で運営されていくのかということについてみどり市の博物館職員である B氏と C 氏に行った聞き取り調査をもとにして考察していきたい。

両氏によると、2 つの博物館は性格が異なるため各々が独立した形で運営される

ということである。すなわち、岩宿博物館は主に日本の旧石器時代(岩宿時代)を

専門として扱う考古学系の博物館であり、大間々博物館は歴史・民俗・自然関係を

扱う総合博物館であるということから統合することはないということである。しか

し職員数の削減などは行われており、合併以前と全く同じではないということであ

った(岩宿博物館は 5 人から 4 人になり、大間々博物館は 4 人から 3 人になった)。

また、1 つの自治体の中で博物館が 2 つ併設されていることは珍しく長いスパンで

見ていけばいずれ統合するべきではないかという声があがる可能性も否定できない

と語っていた。 確かに財政面で見てみると 1 つの自治体が 2 つの博物館を運営するということ

が負担になるということは想像に難くない。しかし、性格の異なる博物館を統合し

たとしても立地面・新しいシステムの構築していくことはさらなる混乱を引き起こ

してしまうことが考えられるのではないだろうか。むしろ、性格の異なった博物館

が2館あることで今まで旧自治体単位で考えられてきた効果以上の効果が得られる

のではないかと考えられるのではないだろうか。このことを考える上で上山信一と

稲葉郁子はエコミュージアムという概念が地域の文化を育むという以下のような概

念を紹介している。

潜在する地域力を発掘するうえで、ミュージアムはそのきっかけを与える有

効な存在となり得る。たとえば、フランスを中心にエコミュージアム(エコミ

ュゼ)という新しいミュージアムのあり方が提唱されてきた。フランスでは、

一九六〇年代後半に中央集権排除の気運が高まっていた。エコミュージアムも、

地方文化を再確認する動きを背景に提唱された考え方であり、ジョルジュ・ア

ンリ・リヴィエールが中心となって考案、推進した。地域の自然環境、歴史や

13 http://www.city.midori.gunma.jp/conodont/main/gaiyo/index.htm を参照され

たし

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Page 84: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

文化、産業、暮らしなどを探求し、地域の営みから生まれた文化遺産や資源を

再発見して地域で保存、継承、活用しようという考え方だ。(上山・稲葉

2003:80) 上山と稲葉は、続けて以下のように紹介している。

ここでのミュージアムの概念は、コレクションをハコの中に集めて展示する

というものではない。街並みや自然など、地域の「財産」をあるがままに保存

活用し、地域全体をミュージアムに見たてて育むのである。行政と住民がパー

トナーシップを組んでつくり、運営する。必ずしも立派なミュージアムを建て

ない。既存の伝統建築物や史跡をうまく改造し、それらを線で結び、地域の祭

りやイベント、産業、宿泊、観光などと絡めて立体的に展開する。いわば地域

全体をミュージアム化しようという発想である。(上山・稲葉 2003:80)

博物館を活用するという点ではエコミュージアムという概念とは異なっているが、

既存の施設を活用していくという点で考えるならばエコミュージアムという考え方

をしてもよいと考えられる。その点をふまえた上で、岩宿博物館周辺と大間々博物

館周辺をそれぞれの特色をいかす形で効果が見込めるのではないだろうか。岩宿博

物館周辺には岩宿遺跡が存在し、大間々博物館にはわたらせ渓谷鐵道や大間々の歴

史に関する展示があり付近にわたらせ渓谷鐵道大間々駅やながめ余興場が存在して

いる。おのおのの博物館がもつ特色を考慮した上でそれをみどり市全体への文化的

効果をもたらし得る可能性をもっていると考えられる。 3.みどり市の文化ホールについて みどり市には笠懸地域に笠懸野文化ホール、大間々地域にはながめ余興場、そし

て東地域には童謡ふるさと館がある。ともに合併以前から存在していた文化ホール

であり合併したことによりどのような運営がこれからなされていくのであろうか。 3-1. それぞれの文化ホールの概要 笠懸野文化ホール 14平成 5(1993)年に完成した多目的ホールである。特に音響

設備に力を入れた中規模な文化ホールといえる。 ながめ余興場 15は昭和 12(1937)年にながめ遊園地(現ながめ公園)の中心施設

として持箸米造氏によって建てられた。平成 2(1990)年に旧大間々町の所有となり

様々な運動により平成 9(1997)年に改修工事が終了したことによって往年の姿が復

活した。歴史的建築の装いの多目的ホールであるといえる。

14 笠懸野文化ホールの詳細については

http://www.city.midori.gunma.jp/pal/index.html を参照されたし。 15 ながめ余興場の詳細については

http://www.city.midori.gunma.jp/sisetsu/bunka03.htm を参照されたし。

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Page 85: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

童謡ふるさと館は平成元年5月に、童謡「うさぎとかめ」などの作詞者である石

原和三郎の顕彰と文化振興を目的として開館した文化ホールである。館内には、常

設展示室の「童謡ホール」とイベントなどを行う「ファミリーホール」、喫茶、売

店がある 16。 以上がそれぞれの文化ホールの概要である。 3-2. これからの文化ホールの運営に関する考察 これらの文化ホールの共通点は様々な事柄に利用されるホール、すなわち多目的

ホールとしての側面を持っていることである。しかし、これらの文化ホールが廃

止・統合されるという可能性は今の時点では無いといえるのではないだろうか。と

いうのも多目的ホールとしての側面を持つと同時に専門的な文化ホールということ

にもなるからである。笠懸野文化ホールは音響設備がよくクラシック音楽などを十

分楽しむことが可能である(また、CD のレコーディングもホールで行える)。な

がめ余興場はもともと芝居小屋として建てられたという経緯から現在でも寄席など

が行われている。そして童謡ふるさと館では「うさぎとかめ」等で知られる石原和

三郎に関する資料が展示されているコーナーがあり記念館的なものも兼ね備えてい

る。ただ童謡ふるさと館はホールの収容人数が 400 人あまりということと、12 月

から 3 月まで休館しているということを考えれば童謡ふるさと館についての運営

見直しの声が出てくる可能性は否定できないと考えられる。ただ、現状からみれば

それぞれの館の運営に関する意見については、他の文化施設職員への聞き取り調査

から得られた事柄から、まだ運営に関する方針が出てこないということであったの

で、文化ホールに関することも同様であると考えられる。 また、ホールの利用について考えられる中に住民の発表の場というように考える

ことが出来るならば、公民館活動を行っているサークルなどが 3 つの文化ホール

に行き、発表を行うことによって各地域の特色をみることも出来ると考えられる。

4.合併による文化施設の効果 今までの章では合併によってそれぞれの文化施設が受けた直接的な事柄、すなわ

ち各施設が受けた影響についてまとめた上で様々なことを考察してきた。 この章では合併によってみどり市にどのような効果を与えることになるのかとい

うことについて考察していきたい。効果として期待できる項目には観光・文化の共

有・新しい地域性の構築があげられる。これらのことを以下に述べていきたい。 4-1. 観光資源としての文化施設 現在群馬県では平成の大合併を契機として観光を地域振興の柱に据える動きが相

次いで起きている。今までの市町村の観光施策は各々の自治体の枠内で行われてき

た。しかし、今回の合併によって隣接しているにもかかわらず結びつきが弱かった

16 http://www.city.midori.gunma.jp/sisetsu/museum03.htm を参照し執筆。

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名所や名跡の魅力を体系的に伝えることができるのではないか 17。 みどり市を例にすると、地理・歴史的にも結びつきがあった旧新田郡笠懸町・旧

山田郡大間々町・旧勢多郡東村の 3 つの旧町村が今回の合併で 1 つの市になった。

笠懸地域には日本の旧石器時代の存在を示した岩宿遺跡と岩宿博物館があり、大

間々地域には近代化の象徴ともいえる建物を利用した大間々博物館があり、東地域

には草木湖をはじめとする豊かな自然や富弘美術館、陶器と良寛書の館、旧花輪小

学校記念館がある。これらの歴史・民俗・自然の文化を扱う施設が各地域に存在し

ている。これらの施設を結びつけ、観光という側面から見ていくことはとても意味

があることだと考えられる。文化はそれぞれの地域独自の風土から発生してくるも

のであると考えるのであればそれを他の地域の人々に見せるということは観光とい

うことにならないだろうか。 観光施設としてよい機能を持っている施設の 1 つとして富弘美術館があげられ

る。富弘美術館は群馬県旧勢多郡東村(現みどり市東町)出身の画家である星野富

弘氏の作品を展示している美術館である。この美術館は山の向こうの美術館という

キャッチフレーズからもわかるように交通の便は良いとはいいがたい(わたらせ渓

谷鐵道神戸駅から平均 1 時間に 1 本のバスがある程度である)。しかし来館者数は

新しい富弘美術館となってから 1 年間で約 34 万人、2005 年 12 月には通算で 500万人にのぼっている 18。このことから魅力 19があれば交通の便がたとえ良くなかっ

たとしても多くの人々が訪れる観光施設になると考えられる。富弘美術館はみどり

市における観光・文化施設としての 1 つの指針となりうるのではないだろうか。 4-2. みどり市の文化施設の可能性 前節では富弘美術館が観光・文化施設として有効な施設ではないかということに

ついて述べた。とはいうものの、富弘美術館の来館者全員がみどり市内の他の文化

施設に訪れる可能性は少ないのではないかと考えられる。本節では今まで述べてき

た文化施設を活用する 1 つのモデルとして、第 2 章で触れた上山・稲葉が紹介し

ていたエコミュージアムの考え方をもとにしてみどり市全体に文化施設がもたらす

効果の可能性について考察していきたい。 「地域の営みから生まれた文化遺産や資源を再発見して地域で保存、継承、活用

しようという考え方」(上山・稲葉 2003:80)がエコミュージアムの考え方として

あるならば現在みどり市にある既設文化施設を再発見していけばみどり市を文化的

であり品格のあるまちとしていけるのではないだろうか。たとえば笠懸地域の岩宿

博物館、大間々地域の大間々博物館(コノドント館)、東地域の富弘美術館・陶器

と良寛書の館・旧花輪小学校記念館といった施設はそれぞれの地域の特色を知るた

めのツールとなりうる可能性を持っていると考えられる。公民館は住民の文化活動

17 『読売新聞』2006.10.27 朝刊、群馬県版、1 面の記事を参照し執筆。 18 富弘美術館『試みの自画像』2006 を参照し執筆。 19 星野富弘氏の作品の魅力については石井利明、2006、「星野富弘 作品とその背

景」『試みの自画像』富弘美術館 66-70 に詳しい。

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を行える場であるし、文化ホールは公民館での地域住民の文化活動発表の場になり

うるのではないだろうか。これらの 3 つの地域にある文化施設を結びつけ、相互

に関係することが可能であればみどり市としての新しい文化が生まれる可能性があ

るのではないかと考えられる。 では、以上の文化施設を結びつけるモデルについて述べていきたい。エコミュー

ジアムの 1 つの体系を大原一興は以下のように述べている。

エコミュージアムの理念でまず重要な特徴は、ある一定の「領域」=「地域」

を重要な対象としていることである。この特徴には 2 つの側面があると考え

られる。ひとつは「手法的特徴」としての地域社会・住民との一体化、つまり

「住民の主体的な参加」であり、もうひとつは「形態的特徴」としての地域内

の各種遺産の保全、つまり「遺産の現地保存」である。「領域」というキー概

念のもとに、両者をあわせもち、統合化した存在がエコミュージアムであると

いえよう。(大原 1999:15) 続けて大原はこのように述べている。

・ H(heritage):地域における自然環境、文化遺産、産業遺産などを現地保

存すること。 ・ P(participation):住民の未来のために、住民自身の参加による管理運営。 ・ M(museum):博物館活動 の 3 つの要素がバランス良く整い、かつ一体的に密接なネットワークを組ん

でいることが理想的な姿である。(大原 1999:15-16) 以上のことをみどり市の文化施設に当てはめると次のようになると考えられる。

・岩宿博物館と大間々博物館、富弘美術館、陶器と良寛書の館、旧花輪小学校記

念館といった博物館系施設の相互関係を構築させる。例えばある場所にこれ

らの展示の一部を集めた複合展示施設をつくり、そこを起点としてそれぞれ

の施設の紹介をし、各施設への興味をもたせる。そして、それぞれの博物館

系施設へ行き、展示内容とともにその地域の特徴を感じる。 ・公民館活動を行っているサークルの成果を様々な場で発表する。たとえば舞台

で発表を行うサークルであれば、笠懸野文化ホールやながめ余興場、童謡ふ

るさと館のいずれかの施設で発表を行いそれぞれの地域の特徴を感じる。 などといったことが出来ると考えられる。もちろん交通面や財政的な面において

実現できる可能性があるとは言い切れない。あくまでも 1 つのモデルとして提示

したいということである。 旧 2 町 1 村が合併してからまだ日が浅いことからこれからみどり市にある既設

公立文化施設が今後どのような状況に置かれるのかは予測できないのが現状である。

とはいうもののこれらの文化施設がみどり市の財産となりうる可能性を秘めている

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可能性は否定できないと考えられるのである。 おわりに 本論文では市町村合併によって複数の文化施設をかかえることとなった自治体の

現状を中心に考察することを目的とした。事例をみどり市とした理由は、はじめに

で述べたとおりである。実際にまとめてみて感じたことはみどり市内には純粋に重

複している文化施設はほとんど無かったということである。もちろん規模の大小の

違いはあるもののそれぞれの文化施設が独立して存在しうる施設ではないかと感じ

た。今回の事例は旧町村が持っていた文化施設がそれぞれ個性をもっていたという

こと、それらを結びつけられるとするならば 1 つの文化的なまちづくりをしてい

くモデルとなる可能性があることを 後に指摘しておきたい。 謝辞 本論文執筆にあたり、ご多忙にもかかわらず聞き取り調査に応じていただいた公

民館・博物館・文化ホールの職員の方々に甚だ簡単ではありますがこの場を借りて

感謝申し上げます。 【参考文献】 小林真理、2006、『指定管理者制度 文化的公共性を支えるのは誰か』時事通信社 後藤和子、2001、『文化政策学:法・経済・マネジメント』有斐閣 笠懸村、1987、『笠懸村史』笠懸村 上山信一・稲葉郁子、2003、『ミュージアムが都市を再生する』日本経済新聞社 石森秀三、2000、『博物館経営・情報論』放送大学教育振興会 松永直幸、2003、「ミュージアムの立地に関する考察」『文化経済学』3(4):53-

62 みどり市笠懸公民館、2006、『かさかけ公民館報告書』 笠懸町教育委員会、1996、『新笠懸町公民館基本計画書』 日本社会教育学会、1999、『現代公民館の創造―公民館 50 年の歩みと展望―』東

洋館出版社 笠懸野文化ホール事業報告書 森啓、1991、『文化ホールがまちをつくる』学陽書房 富弘美術館、2006、『試みの自画像 詩画作家星野富弘の世界』富弘美術館 大原一興、1999、『エコミュージアムへの旅』鹿島出版会

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学校におけるアウトリーチの意義・効果

角田 由加 序論 近年、いじめや自殺、青少年の凶悪犯罪など子どもにまつわる社会問題が多発している。

その要因のひとつとして、自己表現能力やコミュニケーション能力の喪失が考えられる。そ

もそも、なぜこれらの能力が問題とされるようになったのかは、日本の教育のあり方に関係

があると思われる。日本とアメリカの教育の違いについて日米両国で授業を受けた日本人高

校生約千人のアンケート調査結果がある。それによると、大学入試に合格するのを目標にし

た教え方では高校生の 55%が日本を評価、アメリカの方が良いとする回答は 1%に過ぎな

かったのに対して、独創性に富んだ思考を育てる教え方ではアメリカの教育を支持する回答

は 52%、日本は 1%だったという1。このような受験を目標にした日本の教育は、子どもた

ちが自らを表現すること、あるいは、表現する機会を奪ってきたのではないだろうか。それ

が一つの要因となり、日本人は表現力やコミュニケーション能力が乏しいと言われるのでは

ないだろうか。ならば一層これからの学校教育において自らを表現することの機会を提供し

ていくことが必要だと思われる。そこで、表現する機会を提供し、能力育成において重要な

意義をもたらす活動、アウトリーチ2に着目してみた。 芸術文化に触れる機会の少ない市民や地域に対して働きかけ、芸術を提供していくことを

広くアウトリーチと呼んでいる3。アメリカにも日本にもアウトリーチは存在する。文化施

設や芸術団体などが市民に対して働きかけをおこない、文化施設に呼び込んだり、学校や他

の施設に出向いたりと多岐にわたる活動を展開しているのはアメリカも日本も変わらない。

しかし、アメリカではアーティストが学校に入り込んでいる光景を目にするのは珍しくない

という一方、日本ではまだ、アーティストと学校が関わりをもつ機会は決して多いとはいえ

ない。日本のさまざまな論文でもアウトリーチの意義が強く語られるが、実際、私の周りに

いる人々はアウトリーチという言葉を知らない人がほとんどである。私自身もそのうちの一

人であった。なぜ、アメリカでアウトリーチが定着している一方、日本ではアウトリーチが

定着せず、社会に浸透していかないのであろうか。 芸術文化4は人に感動を与える。だから芸術活動の一端としておこなわれるアウトリーチ

には人の内面に働きかける効果を持っているといえるのではないだろうか。例えばそれは自

己表現能力やコミュニケーション能力の育成であったりする。現代社会の人々は自己表現能

力やコミュニケーション能力が乏しいと言われていることからも、アウトリーチはもっと社

会に浸透するべきであるという考えを持ち、学校における子どもを対象としたアウトリーチ

1 http://www.art.hyogo-u.ac.jp/ 2 芸術普及活動、教育普及活動ともいう。「アウトリーチ」の概念については後述を参照の

こと。 3 吉本光宏,2001,「アートと市民・子どもをつなぐ「アウトリーチ活動」-芸術による社

会サービスの可能性-」『ニッセイ基礎研 report』 4 芸術文化にはさまざまな分野があるが、本稿では特に美術や音楽を中心に取り扱う。

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5の重要性を考察していくとともに、効果をもっていながらもなぜアウトリーチは浸透して

いないのか考察していきたい。

1.アウトリーチの概要 1-1. アウトリーチとは何か アウトリーチとは、「手を伸ばすこと、伸ばした距離」あるいは、「(地域への)奉仕・援

助・福祉活動」「(公的機関や奉仕団体の)出張サービス」という意味である。もともとは、

社会福祉の分野で、クライアント(援助を必要とする人)の表明されないニーズ把握の手法と

して開発されたもので、ケースマネージャーがクライアントの生活現場や職場、関係してい

る地域の機関などに出向いて課題を解決することをいう。そこから出発したアウトリーチは、

芸術文化の分野において、日頃、芸術や文化に触れる機会の少ない市民に対して、文化施設

や芸術団体が働きかけを行うことを意味する6。アウトリーチの実施主体としては、劇場、

ホール、美術館といった文化施設や芸術家・芸術団体などが挙げられる。

1-2. アウトリーチの分類 アウトリーチ活動の具体的な内容は、対象や手法によって様々であるが、財団法人地域創

造ではそれらを 8 つのタイプに分類している7。 ① 地域派遣型事業:アーティストを地域に派遣したり、作品を外部に持ち出して行う事

業。 ・ 学校や福祉・医療施設、コミュニティ施設等におけるワークショップ、ミニ・リ

サイタル、出前展示会など ・ 出張実技指導(公開レッスン、マスタークラス、クリニックなど)

② 体験・創作型ワークショップ事業:芸術を体験・創作する様々なスタイルのワークシ

ョップ事業。 ・ 演劇系(脚本、からだ、声、演技、技術などに関するワークショップ) ・ 音楽系(楽器演奏、歌、リズムなど音楽を媒介にしたワークショップ) ・ 舞踊系(からだ、ダンス、振り付けなどを媒介にしたワークショップ) ・ 美術系(作品の鑑賞、創作などを媒介にしたワークショップ) ・ その他の芸術を媒介にしたワークショップ

③ 子供、青少年、親子向け普及事業:対象を子どもや青少年、親子向けに特別に企画さ

れた普及事業。 ・ 小中高生徒向けのプログラム ・ 親子で参加する特別プログラム

④ 解説付き芸術鑑賞事業:専門家やアーティストの解説と一緒に芸術を鑑賞する事業。

5 本稿では学校と連携し、子どもを対象としているアウトリーチを見ていくが、アウトリー

チの対象としては、ほかにも高齢者や入院患者を対象としたものなどもある。 6 的場康子,2003,「アウトリーチ活動の意義・課題についての一考察-現代における芸術

文化の社会的役割」『ライフデザインレポート』 7 財団法人地域創造,2001,「アウトリーチ活動のすすめ-地域文化施設における芸術普及

活動に関する調査研究」

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・ レクチャーコンサート、アフター・パフォーマンス・トーク、ギャラリー・トー

クなど ⑤ 教育普及を主目的とした展覧会事業:従来型の展覧会ではなく、教育普及活動を主目

的とした展覧会事業。 ⑥ 実技指導・専門人材育成事業:実技指導や芸術の専門家育成をおこなう事業。

・ 演劇・音楽・舞踊、美術等の実技教室 ・ 舞台技術学校、芸術指導者養成コース

⑦ 教養型セミナー・講座事業:芸術の専門的知識を学ぶ事業。 ・ 演劇講座、音楽講座、舞踊講座、美術講座

⑧ 施設体験型事業:日頃見られない施設の裏側や文化施設そのものを見学・体験する事

業。 ・ 劇場・ホール探検ツアー、バックステージツアー、美術館探検ツアー

以上のように分類することができるが、具体的な事業を個別に見ていくと、こうしたタイ

プ分類を行うことは非常に困難で、複数の要素が複合されたものになっているケースが多い

という。

1-3. アウトリーチの効果・意義 アウトリーチが公演や展覧会などのほかの事業と異なる点は、もともと演劇や音楽などに

興味があったり、ホール運営に関心を持つ市民を対象としたものではなく、芸術に全く関心

のない人、あるいは、興味があってもホールに足を運ぶことのできない市民も対象となりう

るところである。だから、アウトリーチは他の事業では得られない、あるいは質の異なる意

義や効果を地域や市民にもたらすと言える。 では、アウトリーチには具体的にどのような効果や意義があるといわれているのであろう

か。財団法人地域創造は 5 つに分けて整理している8。 ① 文化施設の間口を広げ、垣根を低くして、それまで関係の薄かった市民や地域との

新たなつながりを生み出すなど、文化施設の公共性をより強固なものにできる<地

域や市民との新たなつながりと公共性>。 ② 地域の文化環境を育み、結果的に劇場や美術館の観客を開拓、育成することにつな

がっていく<観客の開拓や育成>。 ③ 現在の学校教育の枠組みとは異なる形で、子どもや青少年の健全育成や感性教育に

大きな効果を有している<子どもや青少年に対する成果>。 ④ アウトリーチに取り組む事によって、アーティストにもあらたな社会的な役割が生

まれ、そのことが、社会的な意義や価値の理解に結びついていく<アーティストや

芸術団体にとっての新しい役割>。 ⑤ 行財政改革や評価制度の導入など、文化施設を取り巻く環境が大きく変化する中で、

アウトリーチは劇場・ホールや美術館などに「市民」の側にたった運営を促し、文

化施設の重要性に対する行政内部の理解促進にも効果を有している<文化施設内部

8 財団法人地域創造,前掲書

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や行政組織に対する効果>。 上に挙げた効果のうち、<地域や市民との新たなつながりと公共性>、<観客の開拓や育

成>、<アーティストや芸術団体にとっての新しい役割>、<文化施設内部や行政組織に対

する効果>は実施主体側すなわち文化施設や NPO 側から考えた効果であるように思われる。

一方、<子どもや青少年に対する効果>は、子ども側や享受者の内面に働きかける効果を持

っている。また、子どもや青少年に対する効果を得るためには、先に述べた分類では体験・

創作型ワークショップ事業が も効果的であるように思われる。なぜなら、芸術文化をより

身近で感じることができるし、表現する機会やコミュニケーションをとる機会を与えるから

現代社会でなくなってきている自己表現能力やコミュニケーション能力の育成につながって

いくと考えられるからである。このようなことからも、子どもを対象として行われるワーク

ショップ事業のアウトリーチは意義あるものであるいえる。また、その子どもを大量に保持

していることから、学校におけるアウトリーチについて見ていきたい。 2.学校におけるアウトリーチ 2-1. 総合的な学習の時間の導入 なぜ学校教育でアウトリーチが行われるようになったのかを考察していきたい。一つの要

因として「総合的な学習の時間」が導入されたことが挙げられる。もともと学校教育は、固

定的な教育課程、教員中心の授業展開、一定の標準に基づく結果測定など定まった教育活動

のスタイルをとる定型教育であるといわれていて、一定の基準に基づく定型的な教育を実施

してきた9。これらは子どもの学習状況に影響をおよぼし、以下の問題点が現れてきている。

それは、過度の受験競争の影響もあり、多くの知識を詰め込む授業になっていること、時間

的にゆとりをもって学習できずに教育内容を十分に理解できない子どもたちがすくなくない

こと、学習は受け身で覚えることは得意だが、自ら調べて判断し、自分なりの考えを持ちそ

れを表現する力が十分にそだっていないこと、一つの正答をもとめることはできても多角的

なものの見方や考え方が十分ではないことなどの問題があると指摘されている。 課題克服のひとつとして、「生きる力」の育成を目指し、各学校が創意工夫をいかして、

これまでの教科の枠を超えた学習などができる「総合的な学習の時間」が 2002 年に新設さ

れた。これは、これまで画一的といわれる学校の授業を変えて、地域や学校、子どもたちの

実態に応じて、学校が創意工夫をいかして特色ある教育活動が行える時間、国際理解、情報、

環境、福祉、健康など従来の教科をまたがるような課題に関する学習を行える時間として新

しく設けられるものである。知識を教え込む授業ではなく、自ら学び、自ら考える力の育成、

学び方や調べ方を身につけることをねらいとしている。このような「総合的な学習」が本格

的に始まった背景のもと、開かれた学校づくりが提唱されるようになり、従来の学校とは異

なる授業展開がなされるようになった。社会人をゲストティーチャーとして授業に迎える機

会も増え、それに伴って、アーティストが学校を訪れるという機会が現れてきたといえる。 2-2. 芸術教育とアウトリーチ しかし、従来学校教育には美術や音楽などの芸術教育は存在していた。ならば、先にあげ

9 山根常男・森岡清美・本間康平・竹内郁郎・高橋勇悦・天野郁夫編 1985,『テキストブッ

ク(3)教育』有斐閣,pp54‐55

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た「総合的な学習の時間」10のなかに学校が創意工夫をいかして特色ある教育活動が行える

時間を設けて、そこに芸術文化に関するアウトリーチを取り込む必要はあったのか。美術や

音楽などの芸術教育だけでは不十分であったのか。 春山作樹(1983)は芸術教育の必要性についてこう述べる。

われわれは音楽を聞き、絵を見て感動する。芸術作品を鑑賞して喜びを感ずる。子ど

もたちにも美しい音楽を聞かせ少年や青年にも立派な美術品を鑑賞させて、美を感受し、

美を愛する心を育てなければならない。感動を美しく表現することができるように指導

しなければならない。 しかし、そのことは子どもたちを音楽家にするためでもなければ少年たちを画家にす

るためでもない。普通教育はそれぞれの子どもが将来どのような進路を選びどのような

職業に従事することになっても、人間として社会の一員として立派に生きていくことが

できるように調和的に発達させるのでなければならない。調和的に発達させるためには

美的陶治も欠くことができない。美育のためには子どもの発達に応じて、歌を歌わせる

絵を描かせることが必要であろう。美しい音楽を聞かせ立派な美術品を鑑賞させること

が必要である11。 このような芸術教育のあり方は、鑑賞させることを強く主張しているところや“指導しな

ければならない”という表現がされているところから、従来の芸術教育に相当すると考えら

れる。従来の芸術教育は鑑賞が中心だったり、作品を作り上げたり、教養として覚えること

に重点が置かれていた。美術や音楽という教科である以上、優劣がつけられてしまうし、指

導という一方向性のかたちがとられていた。また、美術や音楽には専門の教師がいるため、

アーティストが学校に訪問する機会もほとんど無い。 その点、アウトリーチ12はどうであろうか。アウトリーチは単に、音楽や美術を教えると

いうものではなく、芸術的な表現や双方向のコミュニケーションを通して、子ども達自信の

持つ想像力や創造力を引き出すこと、表現能力やコミュニケーション能力を養うこと、他人

の個性や価値観の違いを認めあうことなどに重点が置かれている。また、教科ではないから、

優劣がつけられない。このようなことから、従来の芸術教育が鑑賞を中心とした一方向性で

受動的な教育であるのに対して、アウトリーチは双方向性で能動的に参加していく教育であ

るといえる。もちろん鑑賞であっても芸術に触れる機会と環境を与えていることには変わり

ないので、否定はできない。しかし、鑑賞という受動的な姿勢はこどもたちを飽きさせかね

ない。実際に、私は群馬交響楽団13の調査の中で群馬音楽センターに小学生がきて、移動音

10 学校が創意工夫をして特色ある教育活動が行える時間や国際理解、情報、環境、福祉、

健康など従来の教科をまたがるような課題に関する学習を行える時間として、新設された

と前述してあるが、ここでは前者の時間におけるアウトリーチについてみていく。 11 前田博,1983,『教育における芸術の役割』玉川大学出版部,p128 12 アウトリーチのなかには、鑑賞事業もあるが、ここでは子どもを対象とした芸術を体

験・創作する様々なスタイルのワークショップ事業をさす。 13 後の群馬の事例で詳しくみていくが、群馬交響楽団とは群馬を拠点に音楽活動を行う財

団法人である。そのうちの事業のひとつである移動音楽教室とは、県内の小中学校の児

童生徒に対して、優れた生のオーケストラ鑑賞の機会を提供するものである。

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楽教室を鑑賞する様子を見ることができた。はじめはうるさく騒いでいた子どもたちであっ

たが、楽団が出てくると一斉に静まり音楽を鑑賞する様子が見られた。しかし、少しすると

子どもたちがざわつき始めた。飽きてしまったのだ。途中で楽団の演奏をバックに一緒に歌

を歌うというコーナーも設けられて大きな声で歌っていたが、鑑賞に戻ると子どもたちの集

中力は切れてしまった様子であった。このような子どもたちの反応を見て鑑賞だけでは子ど

もたちは飽きてしまうということがわかった。 その点、アウトリーチはどうであろうか。様々な事例を見ても、子どもが目を輝かせて、熱

心に取り組んでいる様子が述べられている。あるアウトリーチの子どもたちの感想には、

「思ったことを体であらわすことができるようになった」「女子と一緒に行動ができるよう

になった」「思ったことがもっとふくらませるようになった」「班の発表を聞いて、あぁって

思うのもあったし、私の考えとちがうなぁっていうのもありました」などというのがあげら

れていた14。このようなことからも、鑑賞中心の従来の芸術教育では子どもたちに大きな効

果をもたらすには不十分であり、子どもの内面に働きかけたり、自己表現能力、コミュニケ

ーション能力の育成に効果を有するワークショップを含めたアウトリーチというものが重要

であると考える。それは、子どもの表現能力やコミュニケーション能力を育成する点で、知

識を詰め込む授業や教養として芸術を覚える学校の場で必要とされるのではないだろうか。

3.文化と不平等 3-1. 階層による差異 ここまで、学校におけるアウトリーチの意義や効果についてみて、必要性を主張してきた

が、学校教育以前に芸術に触れた子、触れない子には格差があるのだろうか。格差があるな

らば、学校におけるアウトリーチは芸術享受の機会の格差を是正する効果もあるのではない

かと考えた。ここで視点を変えて、社会学の中で語られてきた文化と不平等についてみてい

きたい。フランスの社会学者ピエール・ブルデュー15の調査によると、美術に対する知識や

理解は家庭環境によって左右されると言う結果がでている。「クラシックコンサートに行く」

「美術館に行く」などの活動が上層に高い頻度で現れているという。これを端的に表してい

るのが『美術愛好』(1969)として公刊されたブルデュー、ダンベル、シュナッペールらが

1960 年代にヨーロッパの主要美術館で行った調査である。調査結果について詳しくみてい

きたい。 ヨーロッパの中のフランスをはじめとするいくつかの美術館に訪れた観客に対して調査を

行い、観客の好みの絵画の流派、時代について、絵画についての意見の回答を見てみると以

下のようになる。 【図表 1】 観客の好む「好きな画家」(ジャンル別、階級別) 無回答 19 世紀までの西欧絵画 印象派絵画 現代絵画 合計

庶民階級 67% 18% 10% 5% 100

14 財団法人地域創造,2003,『地域創造 14 号』,p18 このアウトリーチは北海道音更町の「舞台塾 Ca-CCo(カッコー)」によるドラマワー

クショップである。 15 Pierre Bourdieu,1930 年 8 月 1 日‐2002 年 1 月 23 日 フランスの社会学者。コレージ

ュ・ド・フランス名誉教授。

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中流階級 36 32 22 10 100

上流階級 21 48.5 14 16.5 100

全体 30 36 21 13 100

【図表 2】 絵画についての意見(選択肢つき)

興味がない

むずかしい

いいものだが

印象派が好きだ

抽象画が好きだ

どうやっても描ける

現代絵画は

よい

作者はどうでも

庶民階級 26% 62% 7% 4% 32% 7%

中間階級 14 56 16 14 45 9

上流階級 5 31 37 27 55 12

まず、【図表 1】であるが、ここで注目すべき点は、庶民階級での無回答が 67%と高い割合

を占めていて、画家の名をあげたのはわずか 3 分の 1 にすぎない点である。このことから、

日頃、画家や作品や様式に関心を持つという習慣を持たず、たまに何かの機会に美術館を訪

れるにすぎないという庶民達の存在が伺われる。また、【図表 2】においても、庶民階級は

「興味がない」「むずかしい」と応える割合が他の階級と比べて高い割合をしめていて、階

級間に明白な差が見られる。 また、ヨーロッパに限らず、アメリカでも D・ホールによって、絵画(抽象画)の受容

に関する調査研究がなされている。 【図表 3】家に抽象画があるか(階級および居住地別:ニューヨーク)

都心上層

(マンハッタン)

郊外上層中級

(マンハセット)

都心労働者

(グリーンポイント)

郊外労働者

(メッドフォード)

抽象画ある 60% 33% 0% 5%

抽象画ない 40 67 100 95

合計 100 100 100 100

この調査からも、抽象画が家にあるという回答において、都心上層階級が 60%を示して

いるのに対して、労働階級(都心労働者階級と郊外労働者階級をあわせて)は 5%にすぎな

いという結果が出ていて、階級による差が明瞭に表れている(【図表 3】)。 では、下層階級のものは芸術に対して否定的なのか。そうでもないようである。宮島喬

(1999)は、労働者たちも、絵を観るという行為においてしばしば恭しい態度を示すと述べ、

イギリスの労働者階級について論じたR・ホガートについてみている。ホガートはかれらに

とって芸術は現実生活とかかわりの薄い「端っこのもの」であるとして、労働者にとって芸

術とは「心を休ませてくれる」「自分をわすれさせてくれる」または「一つの休みで、ちょ

っとして気分転換」をなしてくれるものであると述べている。しかし、芸術が「本物」の生

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活とは別物であると感じ、その点では醒めていて、労働者にあって芸術は「楽しみ」をみつ

つも、生活のささやかな慰みの地位を与えるにとどまる、または知識不足を理由にコミット

メントを放棄するという態度が多い16。このような視点もあるが、下層階級が全く芸術に興

味関心がないとは言えないのは確かである。 3-2. ブルデューの視点から 以上のように、ブルデューらの調査をもとに階層による差異をみてきたが、各階層には特

徴的な趣味や判断、行動などの様式を持続的に生み出す性向がそれぞれ定着しており、それ

によってその集団、階層の個人が意識することなく、それらの様々を再生産しているという

ように、ブルデューの階層論は『ディスタンクシオン』の中でも集大成されていて、出身階

層による趣味や判断、行動の違いなどが明らかにされている。それは先にも述べたような芸

術鑑賞においても見られる傾向である。対象の作品への見方、感じ方、自己関与の仕方、芸

術を享受する芸術的能力には階層ごとに差異があり、それは生得的なものではなく、後天的

に与えられた環境の中、すなわち出身階層ごとの家庭環境において習得され、獲得されると

いう17。後天的に与えられた環境の中で能力が確保されていくならば、学校教育の重要性は

高いように思われるが、ブルデューは出身階層における家庭環境が芸術的能力に大きく影響

していて、学校教育は一見格差をなくしているように見えて、家庭環境ですでに生じている

格差を助長していると述べている。確かに家庭環境において芸術に触れる子、触れない子の

間の芸術に対する理解や知識、芸術的能力の格差は容易には埋められないだろう。しかし、

芸術に対する見方や感じ方の格差(差異)はそれぞれの子どもにあって良いと思われる。ア

ウトリーチはその見る、感じる機会を均等に配分することによって家庭環境によって生まれ

る芸術享受の機会の格差を是正できるのではないだろうか。学校という大量の被教育者を対

象としている機関が芸術に触れる機会を提供すれば、子どもは芸術的能力がなくても、興味

や関心を持つ、あるいは、見たことのないものに触れて疑問を持つ。そこで、自分なりに考

える。その考えるということが大事なのであり、その機会を均等に与えると同時に、その考

えを表に出す機会を与えるのがアウトリーチの役目であると考えるならば、そういう観点か

ら見ても、大量の被教育者を対象としている学校教育で、アウトリーチを取り込むことは意

義のあることではないだろうか。 3-3. メディアの発達による芸術享受 以上のように述べてきた階層によって文化格差があるとするブルデューの考察に対して、

宮島は以下の再考を要すると述べている。

人々の示す文化的な趣味や選好の形成を説明するのに、市場化、情報化という現代的

な文化普及メカニズムがほとんど考慮されていない18。

たしかに現代社会は、急速にマスメディアが発達し、情報社会が出現し、あらゆる個人が

情報、関係、機会などの資源を利用できるようになったと思われる。メディアを通して芸術

16 宮島喬,1999,『文化と不平等』有斐閣,pp53‐54 17 宮島喬,前掲書 pp50‐51 18 宮島喬,前掲書 p45

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文化を知り、興味や関心をもつようになるということもあり、宣伝効果としても優れている。

また、メディアを通して芸術作品や美術館情報が提供されるようになり、人々は芸術に触れ

る機会が増えた。わざわざ美術館や博物館、文化施設などの場に行かなくても、芸術に触れ

るようになったことは、階層によってことなる芸術享受に平準化をもたらしたともいえる。

しかし、ここではメディアによる芸術享受に否定的な視点を持つ。 もともと芸術19とは、身体表現を中心にしたコミュニケーションによって、人間的な感性

を育て、共同体を形成・維持し、文化的伝統を担ってきた。いつの時代にも人間は、芸能か

ら教養・娯楽を得、生活の中に心の豊かさを得てきた。しかし、メディアの発達により、非

日常の場に人々が集まって、直接に感動や楽しみを伝達し、交流し、一体感を共有する機会

は減少し、日常の場でそれぞれが感動や楽しみを受け取るようになった。それは受動性が強

く、一体感を共有することはすくない。 メディアの発達によって芸術を身近に感じられるようになったという点では批判できない。

芸術や文化は実生活からかけはなれたものに位置づけるのではなく、もっと日々の生活の中

で身近に感じられる、体験できる位置にあることが重要であると主張する私の意見の「身近

に感じられる」という点ではメディアの発達は意義を有している。しかし、「体験できる」

という点ではあてはまらない。メディアを媒介することで十分に芸術が享受できるとも思え

ない。だからこそ、ここでも芸術をもっと身近なものとして感じられる、体感できるアウト

リーチの果たす役割は大きいといえるだろう。

4.事例からみる日本の課題 4-1. アメリカの事例 ここまでは、学校におけるアウトリーチの意義や効果を見てきた。しかし、実際このよう

な意義や効果を有していながら、人々に浸透していない。その要因として、アウトリーチと

いう言葉自体が浸透していないことにあると考える。実際にアウトリーチという言葉を知ら

ない人がほとんどであるし、言い換えれば芸術普及活動や教育普及活動ともいうけれども、

どのような活動があるかを知る人は、芸術関係者や教育関係者がほとんどであろう。もっと、

国民全体にアウトリーチが認識され、表現能力やコミュニケーション能力の必要性が意識さ

れれば、アウトリーチの発展にもつながるのではないだろうか。 ここでアウトリーチが頻繁に行われているアメリカの実態を見ていく。林睦(2002)は、

アメリカの実態を以下のように述べる。

アメリカではアーティストが学校に張り込んでいる光景を目にすることは珍しくな

い。というのも、劇場、オペラ、オーケストら、コンサートホール、芸術教育普及活

動専門のNPOや芸術系の学科を持つ大学などが、数多くの教育普及プログラムを供

給しているからである。また、これらのプログラムは、単なる子どものための芸術鑑

賞活動にとどまらない。子どもが能動的に参加できるワークショップ、アーティスト

が一定期間続けて授業に関わるレジデンシーなど、その形態は様々である。各学校の

教育状況に合わせてカリキュラムやプログラムが組まれたりするのは当然のこと、教

師や親、地域の人々まで巻き込む工夫が凝らされているなど、きめ細かなケアが行き

19 ここでは音楽、演劇、舞踊などの芸能をさす。

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届いている20。

では、実際にどのような活動が行われているか、芸術普及活動を専門におこなっている

NPO を一つ紹介しておく。 「ヤング・オーディエンス」はテキサスやワシントンなど全米各地に広がるNPOであり、

その中の「ヤング・オーディエンス/ニューヨーク」は、文学、視覚芸術、舞台芸術の公演、

ワークショップ、レジデンシー、地域の公共施設などに出向いて行われるアウトリーチ活動

をおこなっているNPOである。年間 20 万人の子どもやその家族、教師を対象としている。

プログラムの種類は、体育館や講堂での公演、レジデンシー、教師のためのワークショップ、

障害児向けプログラム、ファミリー向けプログラムなどがあり、扱う芸術の種類も世界中の

音楽やダンス、文学や演劇、美術と多岐にわたっている。このNPOには、「アール・コー

プ」というプロジェクトがあり、学校との緊密なパートナーシップを目指しているもので、

提携校とカリキュラム作成の段階からかかわって、レジデンシー、学校公演、教師のための

講座、親・家族・地域の人々へのワークショップを学校の事情に合わせて総合的にデザイン

し、学校の先生と一緒に授業を作り上げていくというものである。また「アーツ・フォー・

ラーニング」という教師のための地域資源活動サイトがあり、教師がインターネットで地域

のアーティストを探せるシステムも整えられているという21。このほかにもアーティストを

学校に送りこんで、ワークショップなどの能動的に参加できる形態を重視したさまざまなア

ウトリーチがアメリカでは盛んに行われている。その背景には、1970 年代に景気低迷にお

ける財政難のため学校教育から芸術教育の授業が大幅にカットされたことがある。その弊害

に気づき、このままではいけないと、学校の芸術授業の変わりになるものを外部から補給す

るサービスが発展していった22。このことから過去に芸術機関や団体、教育関係者、政府や

自治対などが芸術普及の必要性を強く認識していることも、今日の学校におけるアウトリー

チの発展につながっていると思われる。

4-2. 日本の事例 日本にもアメリカの活動と類似する活動を展開する NPO 法人がある。それは、「NPO 法

人芸術家と子どもたち」が行う 2000 年に開始した ASIAS(エイジアス:芸術家と小学生

プロジェクト Artist’s Studio In A School)という活動である。これは、アーティストが小

学校に出向き、学校の先生と協力しながら、ワークショップ型の授業を実施する活動である。

エイジアスの事務局が実施校を募集し、学校の要望に応じて、アーティストを選出、アーテ

ィストと学校の先生、エイジアスの三者で、授業の内容を話しあい創っていくものである。

つまり、エイジアスは学校とアーティストをつなぐ橋渡りコーディネーターとしての役割を

果たしている。ここで、具体的な事例をひとつ挙げておく。

●学校:上板橋第二小学校(東京都板橋区) ●アーティスト:水谷亜紀/ダンサー・振付家 ●日程:2003 年 12 月 24 日、2004 年 1 月 20 日、21 日、2 月 4 日、6 日総合的学習の

20 芸団協・芸能文化センター編,2002,『教育と芸術/新たな関係』芸団協出版部,p2-3 21 芸団協・芸能文化センター編,前掲書,p6-7 22 芸団協・芸能文化センター編,前掲書,p3

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時間 ●対象:4 年生 3 クラス 86 人 ●概要:コンテンポラリー・ダンスの一つとして、水谷作品をビデオで紹介した後、ア

ーティスト自身の創作手法を動きながら体験。この手法をもとにして、グループ毎に

ダンス作品創作。総合学習の授業時間を練習時間に多く当てて、作品を完成させて発

表した23。 このような活動がダンス、音楽、美術、演劇など多岐にわたる内容で行われている。

2003 年度の活動実績は実施合計 28 校、実施日数 120 日(289 時限)、体験者数 2112 人、

参加アーティスト 30 人であり、2000 年度の実施校 7 校、総参加者数 350 人に比べて頻繁

に行われるようになったことが伺える。 このNPOは 2002 年から総合的な学習の時間が本格導入されることを視野に入れ、「小学

校へプロの芸術家を派遣し、一般的に学校講師が苦手とする子どもたちとの双方向型、参加

体験型の授業を総合的なテーマへ関連づけやすい低術(音楽、美術、身体表現、マルチメデ

ィアなど)を題材に、芸術家がその技能と、子どもたちの個性や表現力を引き出す力を持っ

て実践する(設立趣意書から)」ことを目標としている。アーティストの授業といっても、

音楽や美術をただ教えるというスタイルのものではない。芸術的な表現や双方向のコミュニ

ケーションをとおして、子どもたち自身の持つ創造力や想像力を引き出すこと、表現能力や

コミュニケーション能力を養うこと、他人の個性や価値観の違いを互いに認め合うことなど

に重点が置かれているところに特徴がある24。 しかし、このような先進的な取り組みを行っている機関や団体は一部であり、アーティス

トが学校とかかわりを持つ機会は決して多いとはいえず、アーティスト側も教えることや子

どもに接することに充分な経験があるとは限らない。そもそも、日本でアウトリーチにスポ

ットが当たったのは 近のことであり、学校教育の中で芸術教育があっても、音楽・美術の

時間での鑑賞が中心だったり、作品を作り上げること、教養として覚えることに重点が置か

れていた。学芸会などの自己を表現する機会があっても、表現することを楽しむのではなく、

大きな声ではっきりとセリフを言うに力が注がれたりしていた。 しかし、上手く演じたり、演奏したりするだけを目的とせずに、自ら表現するというその

過程の大切さに学校側は認識し始めている。しかし、実際に行動に移すためのシステムは整

っておらず、「学校にアーティストを呼びたいのだけれど、どこで探したらよいのかわから

ない」という教師や「学校に行きたいのだが、どうやってアクセスすればいいのかわからな

い」というアーティストの声がある。実際にインターネットを活用しても、財団法人地域創

造25のホームページ上の「人材ネットバンク」でコーディネーター情報や登録アーティスト

情報が見られるようになっているが、学校向けのものではく、どこに問い合わせればよいの

23 第一回アイランドシティにおける文化・芸術が息づくまちづくり検討のための懇談会の

資料⑨文化芸術機能の街づくり導入参考事例(http://www.island-city.net/Topics/others_20041208_1.html)より参照。

24 吉本光宏,2001,「アートと市民・子どもをつなぐ「アウトリーチ活動」-芸術による社

会サービスの可能性-」『ニッセイ基礎研 report』 25 1994 年 9 月 30 日設立された地方公共団体及び地方関係団体。地域の要請に応じて芸術

文化の振興による創造豊かな地域づくりを支援(設立目的)し、芸術文化活動を通じた

地域の振興を支援(活動法人)する団体。(http://www.jafra.nippon-net.ne.jp/)

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か分からず、アーティストと学校が結びつけるシステムが整えられていないことが伺えた。 以上のようにアメリカと日本を比較してみると、プログラムの内容や種類が多岐にわたる

ことは類似しているように思われる。しかし、対象とする人数が、アメリカの NPO が年間

20 万人を対象としているのに対して、日本の NPO は年間 2 千人にすぎない。アーティス

トが学校にいるのが珍しくないというアメリカに対して、日本では、芸術家と子どもたちの

ように先進的な取り組みをしている機関や団体は多いといえず、アーティストが学校に出向

き、生徒が能動的に参加できる取り組みをする活動は一部の機関や団体に限られる。その要

因として、学校とアーティストをつなぐシステムが整っていないことが挙げられる。日本に

は「アーツ・フォー・ランニング」のようにアーティストと学校を結びつけるシステムが整

っておらず、教師がアーティストを探すのは困難である。このようなシステムが整っていな

いことによって、学校でアウトリーチが行いづらい環境にあるといえる。アウトリーチがよ

り行いやすい環境を作り、アウトリーチを広めていくことで、アウトリーチを理解し、その

必要性を感じる意識が生まれてくるのではないだろうか。 また、アメリカが子どもとアーティストの触れ合いは必須だという共通認識があるのに対

して、日本では、公共ホールの運営維持のためであったり、将来の観客である子どもを公共

ホールに呼び込まなければならないなど、しばしばホール側にたった考え方が重視される傾

向がある。それらは、アメリカは独創性や表現することを重視しているのに対して、日本は

受験を重視している両国の教育環境も影響しているように思われるが、アウトリーチが浸透

しないという現状につながっているのではないだろうか。このことからも、国民が表現能力

やコミュニケーション能力の必要性を意識することが必要ではないだろうか。このようにア

ウトリーチが国全体に認識され、表現能力やコミュニケーション能力の重要性が意識されれ

ば、日本でのアウトリーチはより、発展していくのではないだろうか。

4-3. 群馬の事例 少なくとも、群馬県では学校にアーティストが出向いて、創作や体験などのワークショッ

プ事業を行い、自己表現能力やコミュニケーション能力に働きかける活動がほとんど行われ

てないといえる。群馬県でも学校に出向く芸術活動はないかと調べたところ、群馬交響楽団

の移動音楽教室が もそれに近いと感じたので、事例を挙げていきたい。 群馬交響楽団(以下、群響)は、群馬県にある常設の管弦楽団である。日本の地方管弦楽

団の草分け的存在で、高崎市を本拠地として活動していて、文化的な社会を建設するため、

会員および主として群馬県ないにおける児童、生徒、学生、その他一般に対し、音楽による

情操教育の向上および普及を図り、もって音楽の発展に寄与することを目的とする財団法人

である(設立目的より)。1945 年、戦後の荒廃の中で文化を通した復興を目指して「高崎市

民オーケストラ」が創設され、翌年「群馬フィルハーモニーオーケストラ」、1963 年に「財

団法人群馬交響楽団」と改称して現在に至っている。事業内容は大きく分けて、定期演奏会、

東毛定期演奏会、東京公演、巡回演奏会、夏休みコンサート、移動音楽教室、高校音楽教室、

特別演奏会、依頼演奏会の 9 つにわけられる26。なぜ数ある群馬の活動の中からこれを選ん

だかというと、この事業のうちの移動音楽教室がこの論文の主要テーマである学校に向けら

れたアウトリーチに も近い活動であると考えたからである。

26 群馬交響楽団ホームページ(http://www.gunkyo.com/),配布物より参照。

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移動音楽教室とは、県内小中学校の児童生徒に対して、組織的・計画的に各学校等を巡回

し、優れた生のオーケストラ鑑賞の機会を提供し、音楽教育の復興に寄与する活動である。

移動音楽教室は、県内の全小・中学校の児童生徒が 3 年に 1 回オーケストラを鑑賞できる

ように実施することを基本方針に年間約 80 回行っている。その開催数、参加者数はともに

日本一であるといわれている。高崎市民オーケストラとして発足した 1945 年 11 月から 2年後の 1946 年 5 月、安中市で初めて移動音楽教室が実施されている。まだ学校に楽器もレ

コードもなかった戦後の荒廃期に「食べるため」に始めたものであったが、その役割を変え

ながらも現在も続いている歴史ある事業である。私は今まで、学校に向けられたアウトリー

チ活動は意味があり、学校にアーティストが出向いていく事は非常に意義のあることである

と述べてきた。しかし、移動音楽教室は年間 80 回のうち、学校の体育館などで行うのはせ

いぜい 15 回程度でほかはホールなどで演奏している。それは、基本方針の中にも可能なか

ぎり良い会場で実施するということも言われているし、やはり、良い環境でよい音楽を聴い

てもらいたいという考えがあるということから、学校で行われる演奏よりも、ホールなどの

文化施設で行われる演奏を重視していることが伺えた。その市町村にホールが存在しなかっ

たり、近隣の小・中学校の児童生徒を集めても、ホールの収容人数に空きがありすぎるとい

う場合があるため、体育館で行わざるを得ない状況もある。 さらに詳しく移動音楽教室について事務局長にお話を伺ったところ27、移動音楽教室を行

う意義として、観客育成や新しい観客層の開拓はもちろん視野にいれているとのこと。音楽

とは何か、オーケストラとはなにか、実際に目で見て感じてもらい、感情やシンパシーには

たらきかけ感動を与えたい、そういうひとつの体験事業として子どもたちにとって意義のあ

るものになったら良いと語っていた。 しかし、子どもの表現能力やコミュニケーション能力にはたらきかける効果ももっている

かといったら、見て感じてもらう鑑賞事業であり、ワークショップなどを通して子どもたち

にとって能動的な活動でなないので、そこまでの効果にまでは至っていない。群響は、群馬

の森で行われる「群馬の森オーケストラ」28でも子どもや一般客にタクトを振らせるなどし

ていて、そのようなそのように実際に自分で体験したり、ワークショップという形式での取

り組みは大切だと感じているようだ。しかし、年間に 80 回の移動教室を行わなければなら

ないことや他にもさまざまな事業を行っているためスケジュールが合わないというのが群響

の現状である。このような現状にあるのは群馬県に限ったことではない。このことからも学

校に出向いて、創作したり、体験したりするワークショップ事業の活動がまれであり、ごく

一部の機関や団体に限られていることが伺える。

結論 アウトリーチにおける意義や効果は様々あり、能力育成における効果はそのうちのひとつ

にすぎないが、 も重要なことであり、それが学校においてより意義を有すると考え、見て

きた。アウトリーチは従来の美術や音楽などの芸術教育とは異なり、美術や音楽だけに限ら

ず多岐にわたる活動を行い、上手に作れたか、歌えたかという結果を重視するものでなく、

その活動の過程を大事にすることで自己表現能力やコミュニケーション能力を得ることがで

27 2006 年 12 月 5 日に群馬交響楽団事務局長に聞き取り調査を行った。 28 群馬の森(群馬県高崎市岩鼻町に位置する県立公園)で行われる、群響による野外無料

コンサートをいう。

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きるという可能性を秘めている。従来の鑑賞中心だった芸術教育に対して、体験的な活動、

ワークショップを行うことで子どもたちの興味関心をひきつけられる要素を含んでいる。ま

た、被教育者を対象としている学校では、芸術に触れることの少ない子どもにも芸術に触れ

る機会を提供することができるので、芸術享受の格差を是正する上でも学校でのアウトリー

チの意義は大きいと言える。 しかし、実際日本ではアウトリーチの歴史は浅く、そのシステムやプログラム内容など試

行錯誤している段階にあり、先進的な取り組みを行っている機関や団体は一部であることは

確かである。そこで、アーティストが学校にいる光景は珍しくないというアメリカと比較し

て、日本にアウトリーチが浸透しない要因を探ることを試みた。そこから見えてくる日本の

課題は、アーティストと学校を結びつけるシステムが充実していないこと、アウトリーチに

対する意欲の低さ、自己表現能力やコミュニケーション能力育成の意識が高まっていないこ

となどがあげられる。また、より身近な事例として群馬交響楽団をあげたところ、年間 80回という目標があり、なおかつ、他の事業と同時進行のため、スケジュールが合わないとい

うのが現状であり、鑑賞事業に追われていて、ワークショップなどはほとんど行っておらず、

子どもたちの自己表現能力やコミュニケーション能力を高めるという活動にまで行き届いて

いないということが調査の結果わかった。ここから見ても、アウトリーチ、とりわけ芸術を

体験・創作する様々なスタイルのワークショップ事業は広く行われていると言われているわ

りに、学校を対象としたものは少なく、そのような事業を展開している実施団体も少ないこ

とからまだ発展段階にいる日本の現状がうかがえる。 このように日本にアウトリーチが浸透しない要因をいくつか挙げたが、今後日本のアウト

リーチはどのように改善していったらよいのだろうか。 まず、今後アーティストと学校を結びつけるシステムをより充実させることが必要である。

そうすることによって、学校はアーティストを招きやすくなり、アーティストも学校に訪問

しやすくなり、学校にアーティストという光景が定着していくのではないだろうか。また、

アウトリーチを行うにあたって子どもの側に立った考えをもつことや自己表現能力やコミュ

ニケーション能力育成の必要性を意識し、国民全体がそのような能力育成においてのアウト

リーチの意義を知ることが必要であろう。 芸術文化に触れ、自分にないものを見ることによって、なぜこのように描いたのか、奏で

たのか、表現したのかなど考える機会が生まれる。個々人によって、考えることは異なるけ

れど、その考えるということが大事であり、自分の考えというものがここで生まれる。今ま

での鑑賞教育であったら、ここまでのことはできたであろう。しかし、それを表に出す機会

はなかった。そこでアウトリーチは表現をする機会、それによって人々とコミュニケーショ

ンを交わす機会を与える活動として従来と芸術教育と異なる重要な意義をもたらす活動とい

える。芸術文化は実生活からかけ離れたものに位置づけられるのではなく、もっと日々の生

活の中で身近に感じられる、体感できる位置にあることで、興味や疑問を持つようになり、

そうすることによって、自己表現能力やコミュニケーション能力が高まっていく。それは、

現代の社会問題の解決にもつながっていくだろう。日本においてアウトリーチの歴史はまだ

まだ浅く、試行錯誤している段階にある。だからこそ、これからの日本のアウトリーチはさ

らなる発展を成していき、芸術普及において人々に大きな効果をもたらす可能性を秘めてい

るといえるのではないだろうか。

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【参考文献】 1998,『雑誌 地域創造 5 号』財団法人地域創造 2002,『雑誌 地域創造 12 号』財団法人地域創造 2003,『雑誌 地域創造 14 号』財団法人地域創造 佐川馨,2005,「公共ホール、その教育資源としての可能性-アウトリーチ活動の視点か

ら」『秋田大学教育文化学部教育実践研究紀要』 的場康子,2003,「アウトリーチ活動の意義・課題についての一考察-現代における芸術

文化の社会的役割」『ライフデザインレポート』 吉本光宏,2001,「アートと市民・子どもをつなぐ「アウトリーチ活動」-芸術による社

会サービスの可能性」『ニッセイ基礎研 report』 宮島喬,1999,『文化と不平等』有斐閣 ピエール・ブルデュー 石井洋二郎訳,1990,『ディスタンクシオンⅠ〔社会的判断力批

判〕』藤原書店 ピエール・ブルデュー 石井洋二郎訳,1991,『ディスタンクシオンⅡ〔社会的判断力批

判〕』藤原書店 宮島喬,1994,『文化的再生産の社会学 ブルデュー理論からの展開』藤原書店 山根常男・森岡清美・本間康平・竹内郁郎・高橋勇悦・天野郁夫編,1985,『テキストブ

ック(3)教育』有斐閣 安田尚,1998,『ブルデュー社会学を読む 社会的行為のリアリティーと主体性の復権』

青木書店 芸団協・芸能文化センター編,2002,『教育と芸術/新たな関係』芸団協出版部 芸能文化問題研究委員会,1992,『芸能浴宣言』日本芸能実演家団体協議会 財団法人地域創造,2001,「アウトリーチ活動のすすめ-地域文化施設における芸術普及

活動に関する調査研究」 前田博,1983,『教育における芸術の役割』玉川大学出版部

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情報化と文化産業の変容

豊岡 美佳 はじめに 「情報化」または「情報化社会」という言葉にはそれぞれに様々な意味があり、一言で説

明することは難しい。これについて渡辺良智は「近代国民国家は初めから情報社会だったと

いう A・ギデンズの説から、高度資本主義社会を情報化社会とする説、産業社会の次の未来

社会を情報化社会とする説まで分かれている。なぜこうなったのかといえば、その背後には

技術進歩、未来予測、歴史認識等々をめぐる様々な事情がある(渡辺 2003)。」と述べてい

る。 そこで、本論ではより身近に情報化社会を感じられる、インターネット及びデジタル機器

の普及をより日常的な「情報化」であると定め、それらが文化各方面にもたららした影響につ

いて論じていきたい。具体例をあげるならば、高速インターネットの普及や、ブログ、ミク

シィに代表される Web2.0 的展開、iPod 等デジタル音楽再生機器のヒットなどである。 果たして情報化は文化にどのような影響をもたらしているのだろうか。情報化により新し

い文化が誕生し、既存の文化やメディアはどう変化しているのだろうか。あるいは適切な変

化を遂げることなく衰退していってしまうのだろうか。 1.情報化の現状 私たちの生活を便利にしている技術の多くがそうであるように、インターネットもまた、

はじめは軍事利用を目的に作られたものである。よって当初は利用方法や利用者が、大学、

研究機関、一部の企業などに限られていた。 しかし現在、情報化社会の基盤ともいえるインターネットは、もはや現代人の生活にかか

せないものとなっているといえるだろう。電子メールや web 検索機能などの機能的なツー

ルの利用は当たり前になり、そればかりでなく、 近のブログブームやネットオークション

の盛り上がりなど、インターネットがより日常化してきていると言っても過言ではない。多

くの人が利用するゆえに、インターネットを介しての情報のやりとりはますます拡大し、サ

ービスも増加する。そしてまた、有用なサービスがあるからこそ利用者が増える、という相

互効果を生んでいるのではないかと私は憶測する。 1章ではインターネットの普及状況及び利用目的等の基本情報を情報白書のデータを元に

整理していく。 1-1. インターネットの普及状況 図表 1‐1 インターネット利用人口及び人口普及率(総務省 2006 情報通信白書平成 18年度版

より引用)

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図表 1‐1 より、日本におけるインターネットの人口普及率は、2002年に54.5%

となり50%をこえ、2003年には60.4%と、60%を超えたことがわかる。翌年の

2004年は62.3%とこれまでより伸び率が小さくなっているが、2005年には66.

8%と回復しており、今後も普及率は上昇していくと考えられる。更に図表1-2から、3

0代までは利用率が85%を超えていることがわかる。通信総合研究所のデータによると、

16~24歳のインターネット利用率はネット先進国とされるアメリカや韓国でそれぞれ9

0.8%、95.1%であり1、ネット後進国といわれていた日本においても若年層の利用

率についてはネット先進国と比べても遜色がないことが見てとれる(通信総合研究所 2004)。また、ブロードバンド回線利用世帯は、65.0%と全体の約3分の2に達し、イ

ンターネットがより一般化するのと同時に高速化が進んでいることが、平成17年通信利用

動向調査で明らかになった(総務省 2005 平成17年通信利用動向調査)。

1 アメリカと韓国の数値はそれぞれ PC インターネットのみのものである

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図表 1‐2 インターネットの年層別利用率2(橋本・吉井 2005:3)

88.892.9

86.5

69.8

42.3

20.8

60.969.4

61.058.1

51.7

32.6

15.7

43.8

0

10

20

30

40

50

60

70

80

90

100

10代 20代 30代 40代 50代 60代以上 全体

広義のインターネット

PCインターネット

しかし、同時に図表 1‐2 からは同じく10代から30代の層においては PC インターネ

ット以外の方法でインターネットを利用している場合が多いという状況も判明した。広義の

意味でのインターネットとしては携帯電話やゲーム機などで接続する方法がある。このこと

から必ずしもインターネットを利用できるパソコンが家庭にあるとは限らないのではないか、

とも考えられる。 インターネットの利用目的については 1.2 にて詳しく述べるが、広義のインターネットの

中で も利用されていると考えられる携帯電話とパソコンでの利用を比較すると、ネットシ

ョッピングの利用経験はパソコン利用者の場合が89.1%なのに対して携帯電話利用では

18.1%にとどまっている。しかし、一方で音楽のダウンロードについては携帯電話での

利用率が5割を超え、パソコンでの利用より多い(総務省 2005 情報通信白書)。 よって、本論にて論じる文化と情報化の関係性においては、どちらの接続方法でも問題に

関連していると考えられるため、接続方法には拘らず、インターネットが確実に普及し、今

後もより普及していくであろう事実を強調したい。 1-2. 利用目的 図表 1‐3 インターネットでの有料音楽配信売上実績(総務省 2006 平成18年度版情報

通信白書より引用)

2 2003年11月から12月に行われたパネル調査の結果をもとに作成

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平成15年度の通信利用動向調査3では、個人のインターネット利用目的は「Eメール」

と「情報検索」がいずれも 6 割近くであり、「ニュースなどの情報入手」「商品・サービス

購入」と続いている。携帯電話などでの利用者は「Eメール」が 74.3%と圧倒的に多く、つ

いで「音楽のダウンロード・視聴」「画像のダウンロード」という結果だった(総務省 2003 平成15年度通信利用動向調査)。平成 17 年の同調査でも利用内容に大きな変化は見

られないが、音楽や動画のダウンロードなどのより文化的と思われる利用をはじめ、全体的

に安定した伸び率を示している(総務省 2005 平成17年度通信利用動向調査)。 また、図表 1‐3 で示しているように特に音楽のダウンロードについては iPod のヒット

に代表されるデジタル音楽再生機器や iTMS など各種専門サイトでのダウンロードサービ

スの開始、第三世代携帯の普及が進んだ春以降急激な成長をみせている。 1-3. デジタルデバイド インターネットの普及率は伸びてきているが、かねてより懸念されていたデジタルデバイ

ド4も依然として存在している。図表1-1からもわかるとおり、年齢別では、13~39

歳までの範囲では利用率が90%を超えているが、それに比べて6~12 歳または50代で

60%強、60~64歳で39%、65歳以上で15%と高齢になるほど低い数値となって

いる。ただし、10代から30代の利用者率の伸びが1.5倍以下なのに対して40代、5

0代では1.75倍と伸び率が高い。

3 通信利用動向調査(承認統計) 利用者の視点で電気通信,放送等のサービス利用の諸実態とその動向を調査し、情報通信行

政の施策の策定及び評価のための基礎資料を得るため、平成 2 年以降毎年、総務省情報通

信政策局によって実施されている。調査は、対象により、世帯、事業所及び企業に分けられ

ている。 4 デジタルデバイド 情報技術の進展に伴い、通信インフラへのアクセスやインターネットを使いこなせるかどう

かによって生まれる生活水準や収入の格差。

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このように年代別でのデバイドの縮小のほか、男女間での格差もほとんどなくなりつつあ

る。世帯年収別では200万円未満の世帯で利用率が50%を超え、都市規模でも町村部で

6割近い世帯利用率になるなど、様々な状況においてデバイドは確実に縮小傾向にあるとい

える(総務省 2005 情報通信白書平成17年度版)。 前述したことから、インターネットは私達の生活に確実に浸透していることがわかった。

そして、「情報通信機器の世帯普及率は一定水準に達しつつあるものの、高機能化による買

換え及びパーソナル化による需要のため、生産・出荷は依然として高い水準を維持している

(総務省 2006 情報通信白書平成 18 年度版)。」という総務省の報告とあわせると、人々が

インターネットをはじめとした情報化に依然として強い関心を抱き、それらが今後とも発展

を続けていくことが考えられる。 以上のことから、インターネットは一時的なブームとしてではなく、今後も重要な文化的

交流・情報発信の媒体の一つとなりつつあるといえるだろう。 2.インターネットの普及による影響

1 章で明らかになったインターネットの利用率、利用方法を元に、2章ではインターネッ

トが普及したことにより私達の生活で何が便利になり、何を新たに享受できるようになった

のか、あるいは逆にどのような問題が起きているのかを具体的に見ていきたい。 2-1. Webのコスト構造とロングテール 1.2でも述べたとおり、インターネット利用者の多くはメールや検索サイトの利用など

のほかにサービスや商品を購入も行っている。ネットショップで商品を購入することのメリ

ットとしては、①実店舗を訪れる手間がない ②商品の受け取り方法を選べる ③品揃えが

豊富である などがあげられる。 ①についてはほとんどのネットショップは 24 時間体制で商品の注文を受け付けており、

実店舗のように営業時間を気にすることはない。しかも日本全国はもちろん、海外にある店

の商品でも自宅などから注文可能である。また、特別なものでない限り(実店舗で通常購入

できる場合)早ければ翌日、遅くとも一週間のうちには商品を入手することが可能である。

②については、かつてはネット店舗で購入された商品は宅配で自宅に届けられる場合が多か

った。このシステムでは、書籍、米や飲料水などの重たいものや、生鮮食品などの扱いに注

意が必要なものなどを購入後持ち運ぶ労力を省くというメリットがある。さらに近年では駅

やコンビニで荷物を受け取ることのできるサービスも充実しており、より個々のライフスタ

イルに合わせることが可能となっている。 しかし、①と②については、カタログショッピング、テレフォンショッピングなど従来の

メディア・手段を利用してもある程度は可能であると考えられる。だが、③によるメリット

はインターネットの普及という情報化がもたらしたものだ。 今まで、品揃えを豊富にするためにはそれだけの在庫を保管・管理するための場所と労力

が必要だった。そして充実した在庫を持てばそれだけ商品が売れなかった場合のリスクも大

きかった。しかし、ネット店舗の場合は、インターネット上に商品をリスティングするため

のコストはほぼ0円で、それらを 小限に抑えることができる。加えて、販売するための店

舗そのものにもコストをかけなくてよい。よって、これまでにない豊富な品揃えの実現に加

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えて、商品によっては実店舗を利用するよりも安価で購入することができる場合もある。 実際、アメリカのリアル書店チェーンの「バーンズ・アンド・ノーブル」が所持する在庫が

13万タイトルなのに対して、アマゾンは230万点もの書籍を取り扱っている。しかも、

「バーンズ・アンド・ノーブル」の在庫13万タイトルがランキングで上位13万位に入るも

のであるのに対して、アマゾンでは、全売り上げの3分の1以上をランキング 13 万位以降

の本からあげているという(梅田 2006:100‐101,105)。ランキング下位の商品の売り上げ

は微々たるものだが、商品の数が膨大であるために大きな売り上げとなっているのだ。本に

限らず、商品の売り上げは、上位の 20%が全体の 80%を占めるという「べき乗の法則」に

従っているとされるため、「バーンズ・アンド・ノーブル」のように今までの店頭販売では上

位2割にランキングされる商品がラインナップの中心だった。しかし、web 上では、概念

上は無限に商品をリスティングすることができるため、残り80%にも目が向けられるよう

になり、またビジネスとして成立するようにもなった。この現象は、グラフ化したときに表

される非常に高い位置の上位20%を頭(ヘッド)底辺すれすれの残り80%を長いしっぽ

に例え、ロングテールと呼ばれている(梅田 2006 :98-99)。 以上のことから、web のコスト構造は従来の商品購入における利便性の向上のほか、文

化産業において新たなビジネスの可能性を示し、今まで人々の目に触れられなかった商品

(文化的資源・情報)の発掘も行えるようになったことがわかる。これによって、私達消費

者は今までよりも多くの商品の中から自分の欲しいものを選択するチャンスを得たことにな

るだろう。

2-2. 安全性と情報の信憑性 インターネット上の情報・サービスには信憑性・安全性の問題がある。インターネット上

の情報は発信者の匿名性が高く、そのため憶測の情報が確定したことのように発信されたり、

わざと誤った情報が発信されたりすることがあるのだ。2ちゃんねる等の大型匿名掲示板で

は誹謗中傷やプライバシーの侵害、著作権侵害が問題となっている。また、ウイルスによる

情報漏えいにより Winny というファイル交換ソフトのあり方も問題になっている。Winnyを利用すれば他の人が正規に購入した音楽や映像作品のファイルを簡単にただで、手に入れ

ることができる。しかも、従来のように特定のサーバーにアップされたものをダウンロード

するよりも更に匿名性が高いので、これまで以上に正規の販売を圧迫していると考えられる。 ネット上での商品の売買の場合もやはり売り手・買い手の匿名性が高く、入金してもオー

クションで競り落とした商品が送られてこないなどの詐欺トラブルや、逆に商品を購入した

はずの買い手が入金せずに行方をくらましてしまい、売り手側が損害を被る場合もある。 国民生活センターに寄せられたネットショッピングに関する相談件数は2000年に36

46件だったのが、1章で述べたインターネット普及状況に比例して2002年には914

8件、2003年には2万6476件、2004年には7万9063件と急激に増加してい

る。近年では対策が進んだことや、個人の危機管理が高くなったこともあってか、2005

年は3万9651件と下降傾向にあるが、全体の相談件数に占める割合はやはり大きい(国民生活センター 2006)。

web 上での情報のやりとりは匿名性が高く、それゆえに安全性に不安がある。ネットシ

ョッピングなど、利用方法はますます簡単で便利になってきているが、手軽になったからと

いって安易に利用せず、安全性や正当性を慎重に判断しなければならない。そして、それら

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の対策は利用する側ばかりでなく、商品あるいはサービスを提供する側にも必要である。責

任感と良識のある利用者を育てることは、違法なアップロードとダウンロードなどを防ぎ、

自分たちの利益を守ることにもつながるだろう。

2-3. 地域格差 インターネットの普及で、地方においても多種多様な情報を入手することが容易になった。

1.3 でも述べたように、 初のうちこそ通信速度など利用環境の差があったものの、現在で

はネットワークの技術が発展し、日本全国インターネット環境ならばほぼ同じ条件である。

例えば、今まで地方では入手しづらかったマイナーな商品でも、よっぽどのものでなければ

インターネットを利用すれば入手できるようになった。しかし、インターネットがあるから

東京も地方も情報格差がなくなったかというと、疑問視せざるを得ない。 第一の要因として、インターネット以外の部分での格差が依然として大きいことをあげた

い。Web 上でデータ化してやりとりのできるものに関しては格差小さくなったかもしれな

いが、モノとして実体を持つものに関しては従来の格差はそのままである。例えば、ネット

店舗で商品を購入した場合、配送に必要な経費や時間の差は埋めることはできない。そのた

め、アクションが簡単で便利になった分、物理的に解決できない地域格差が浮き彫りになっ

たとも考えられる。 そして、インターネットの特性から別の問題も生じている。そしてこれは本当の意味での

文化の地域格差であるといえるかもしれない。長年に渡る文化産業の都市と地方での展開状

況やテレビのチャンネル数の差、行政の文化政策の遅れにより、都市と地方とでは住民の心

理として文化的関心度にも開きがあるのだ。 以下は元新聞記者である蜂谷隆の話である。 私は神奈川県の藤沢に住んでいるが、昨年9月に新聞社を辞

めてフリーになった。 初は“充電”という位置づけで、自宅にい て勉強をしていた。1カ月ほどして東京に出てみて気がついたの は、山の手線や営団地下鉄と、地元の私鉄の吊し広告の違いであ る。情報の多さだけでない。山の手線ではベンチャー的な新しい お知らせも、お目にかかることができるのだ。

もう一点、しばらくぶりに友人に会って雑談をしただけで、大 いなる刺激を受けた。やはり人に会っていないと取り残されると 感じた。そこで勉強会や中小企業経営者の異業種交流会などに参 加することにしたのである。

東京からわずか50キロ圏でさえこれほど感じるのだから、さ らに遠くへ行けば、刺激は少なくなる。学会などで地方から来る 研究者が嘆くのは、地方の刺激の少なさである。勉強会を開こう としてもメンバーを集めるのに苦労するという。刺激が少ないと 新聞を読んでも重要な情報を見落とすし、インターネットで情報 を見つけることもできない(蜂谷,2000)。

このように都市から地方へ移り住んでみなければ、格差を実感することはない。地方に住

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み続けている人間には格差があるという自覚が薄いと考えられる。より高度な、あるいは

新の文化など多様な文化に触れようという気持ちも希薄になるのではないだろうか。 また、インターネットの特性について、森健は以下のように述べている。

スイッチをつければ、自動的に情報が流れるテレビと違い、

ウェブではその情報の選択はすべてユーザーにかかっている。 ―中略―いくつかのウェブサイトでは、自動的に特定の方向に 誘導していくパーソナライゼーション機能5やリコメンデーシ ョン機能6によって、情報のベクトルはいつしか方向が狭めら れていく。それは便利であるのは間違いないだけに喜んで使わ れるだろうし、逆に専門性を高めるには役立つ。 一方でそれはセレンディピティ(思いがけないものの発見)

をなくし、新たな出会いを失うことにもつながる。あらかじめ 予測された範囲のものだけが推奨され、自らの思考も意図せず して規定されていく可能性もある(森 2006:246-247)。

蜂谷の経験談と森の主張するインターネットの特性をあわせて考えると、周囲からの情報

量の少ない地方においては狭く深く情報を得るという特性を持つインターネットは、必ずし

も都市部との情報格差を埋めるために有用とはいえないのではないだろうか。この場合もイ

ンターネットは得られる情報の絶対量の格差をより露呈してしまうだけかもしれない。 以上のことから、インターネットを利用する際のデメリットは利用者全員にあるが、情報

を得る機会真偽を判断するための材料や専門的知識を深める以前のきっかけとなる情報の絶

対量に地方と都市部では差があり、やはり根幹的な部分で地方と都市部の格差は解消されて

いないといえる。また、地方での利用者のほうがインターネット上の情報に頼ったり、ネッ

トショッピングを利用したりする機会が多いと考えられるので、デメリットな影響を受けや

すいとも考えられる。

2-4. web2.0 近年、Web2.0の登場により、ますます情報化による文化の進展がみられると考えら

れる。Web 2.0とは、従来の WWW におけるサービスやユーザー体験を超えて次第に台

頭しつつある新しいウェブのあり方に関する総称である。

WEB 2.0という言葉は、あくまでもコンテンツの提供

の仕方や、技術の提供の仕方、あるいは要素技術の組み合わせの

仕方、サービスの使い方などを漠然と指しているため、明確な定

5 パーソナライゼーション機能 多種多様な情報の中からユーザーに必要な情報をピックアップする機能 6 リコメンデーション機能 ユーザーの好みを分析し、各ユーザーごとに興味のありそうな情報を選択して表示するサー

ビス

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義づけがなされている訳ではない。また、IEEE や ISO などのよう

に、特定の規格や標準のことを指している訳でもない。しかしW

EB2.0という概念で特徴付けられるものは、いくつかの共通

要素を共有しており、これらの要素を持っているかどうかによっ

てWEB2.0は特徴付けられている(IT 用語辞典 BINARY)。

具体的なWEB2.0としては以下のものがあげられる。

①貢献者としてのユーザー

従来の Webでは、情報を提供する側がユーザーに一方的に情報を提供していた。これに対

して Web 2.0 では、ユーザーによるレビューやユーザーによる評価がコンテンツの構築に貢

献し、結果的にそれがサービスとして蓄積されて行く。代表的なサービスとしては、Amazon

のレビューや参照回数の多いページほど検索の際に上位にくるという Google の PageRank な

どが挙げられる。

②ユーザー参加

従来の Webでは、情報提供側と提供される側との間に明確な境界線が引かれていた。これ

に対して Web 2.0 では、開発やコンテンツの制作などにユーザーが積極的に関わることによ

ってサービスそのものを成立させる。代表的なサービスとしては、トラバック機能のあるブ

ログ、自らコミュニティに参加し、またコミュニティを形成することのできる mixi などの

ソーシャルネットワーキングなどが挙げられる。

③オープンソースと根本的な信頼

従来の Web では、コンテンツは著作権によって、テクノロジーは特許によってという風

に知財が管理される志向を持っていた。これに対して Web 2.0 では、情報を享受する側に対

して根本的な信頼を寄せることにより、人間の知そのものを共有すると共に、それを相互に

発展させて行こうとする志向を持つ。代表的なものとしては、自由に情報提供し、内容を書

き換えることのできる電子辞書である Wikipedia などがある。

以上の3点の他、2.1 で述べたロングテールもWeb2.0の一つである。Web2.0

では、インターネット上で情報のやりとりがなされるばかりではなく、情報のやりとりをす

ることによって新たな情報が生まれ、それが半永久的に続く。商品を購入したり、場合によ

ってはとあるwebページを閲覧したりするというアクションをおこすこと自体が一つの情

報提供であり、Web上での情報形成への参加となりうるのだ。

このシステムは、基本的には一方的に情報を流すだけのテレビやラジオ、雑誌や新聞など

の従来のメディアとは大きく異なるのではないだろうか。

たとえば、一部の視聴率調査の対象となっている世帯を除けば、「テレビを見る(=視聴

している番組が興味深い)」という行動はその人が誰かにそのことを伝えなければ、まず反

映されない。クチコミなり、視聴率が発表されるなりでいずれ情報の形成は行われるが、そ

こにはタイムロスと、商業的な戦略7が加わり、不透明さが存在することになる。

7 ここでは、売り上げ等を限定的な見方をすることでより評価が高いかのようにみせること。

たとえばCDの売り上げを週間の売り上げが伸びていないにもかかわらずデイリーで1位で

あることを強調して発表することなど。

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その点、Webでの情報形成にはタイムロスも手間も 小限であり、匿名性と一部の悪質

な情報操作の部分を除けば、より多くの人の意見がより率直に生かされて情報が形成される

と考えてよいだろう。インターネットは従来のメディアと同じく情報を発信することに加え

て、非常に早い段階で情報を拡大、変化していく力も持っているのだ。今後は匿名性を悪用

した情報操作をどう防いでいくかが課題である。

3.インターネット普及による既存文化産業の変容 2 章で述べたようにインターネットの普及は良くも悪くも既存の文化に様々な影響を与え

てきた。本や CD の実店舗での売り上げは減少し続け、閉鎖される店舗も多い。表面上、

アナログな文化産業はインターネットの普及による産業のデジタル化によって衰退している

かのように見える。 しかし、本当にそうなのだろうか。店舗での売り上げが減少しているとされる大手販売店

のうち、インターネット販売を実施している販売店が大多数を占めるなど、アナログ手法で

の販売数の冷え込みが、イコール既存の文化産業の衰退と結びつけることはできない。むし

ろ、既存の文化産業は衰退しないために、情報化にあわせて様々なかたちでいい意味での変

容をみせているのではないのだろうか。 3章では、全体的な状況に加え、インターネットの普及によって変容をみせたと考えられ

る既存の文化産業の例をいくつか紹介したいと思う。 3-1. インターネット利用による支出の変化 図表 3-1 インターネット利用による支出の変化(2 年前との比較)(総務省 2005 情報通信白書平成

15年度版より引用)

図表 3-1 から、インターネットの普及とそれによる Web サービスの充実により、リア

ル世界で文化的なものにかける費用は少なくなったことがわかる。これは Web 上でのサー

ビスが従来の娯楽や情報提供に代替えされてきているという実態を示している。この状況か

ら、従来の文化産業には大きなダメージが出ているものと考えられる。実際、街中で閉店す

る店舗も見かけるし、1990年代には何十タイトルもあったミリオンヒットの CD もこ

こ数年は年間で1、2作品であり、全体の売り上げも減ってきている。

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3-2. リアル世界でしか得られない価値の創意工夫~書店~ しかし、従来の文化産業も黙って衰退しているわけではない。

近、椅子のある書店をよくみかけるようになった。椅子があるだけではなく、テーブル

まで設置されていたり、椅子の周辺に雑誌を並べていたりする書店や、収納よりもデザイン

性に優れた本棚を置いている書店もある。有名なところでは"図書館よりも図書館らしい"店づくりをモットーとし、座り読みスペースをいち早く導入したジュンク堂や、六本木ヒルズ

内でスターバックスと提携して、コーヒーを飲みながら書店内を巡ることができる

TUTAYA などが挙げられる。足音が響かないよう絨毯張りの床であったり、長編の一巻だ

け立ち読みできるようになっていたりと、多くの書店では立ち読みを倦厭する傾向は薄まり、

むしろより長い時間店内にいられるような工夫がなされているというのは大変興味深い。こ

れまでにも書籍の売り上げが減った一部の書店では、音楽 CD や映像作品、広くは雑貨や

化粧品にまで取扱品を増やしてきたという経緯があるが、それらとはまた異なる傾向の変化

である。 なぜ、今書店がこのように変化してきているのだろうか。それは、1、2章でも述べたよ

うにインターネットを利用して商品を購入することがごく当たり前になったからに他ならな

い。 特に本や CD、DVD といったものはネットショッピングに適している。なぜならば、服

やファッション雑貨のように実際に身に付けて確かめる必要もなく、食品のように配送・返

品の配慮も少なくて済むからだ。サンプルをネット上で公開することも可能なので、多くの

人がネットショップで購入し、自宅など指定場所に配達してもらう、という仕組みを利用し

ているのではないだろうか。書店で見つからない本を探したり、荷物になるほどのまとめ買

いをしたりするとき、あるいは忙しくて書店に寄れない場合には極めて便利だ。 つまるところ、ただ欲しい本を入手するだけならば、わざわざ書店に足を運ぶ必要がなく

なったのである。 こういった点から書店は人々が足を運びたくなるような、よりファッショナブルで文化的

な空間になりつつあるのではないかと考えられる。 3-3. 新しい価値観の誕生~アナログレコード~ イギリスでは 近若者を中心にアナログレコードのブームが起こっている。これは過去に

発売されたレコードにプレミアがついて起きたブームではなく、 先端の人気アーティスト

たちがこぞってアナログレコードをリリースしたためである。また、このブームを機にレコ

ードプレイヤーの生産台数も増加している。 では、なぜアーティスト達はあえてアナログ盤で曲をリリースしたのだろうか。アナログ

レコードを発売するには時間もコストもかかり、既存のCDやダウンロード販売に比べると

売る側にも、買う側にも手間がかかる。普通に考えれば、自分たちの作った曲を広く流通さ

せるには不利だ。 しかし、イギリスのアーティスト達の間ではそれが一種のステイタスとなっている。前述

の通り、アナログディスクの販売にはコストや、手間暇がかかる。回収の見込みがなければ、

アナログ盤は出すことができない。また、現在ではプレイヤーの所持率も低く、アナログデ

ィスクを聞くためにハードの購入もしなければならないので、音楽にそれだけの魅力が必要

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になってくる。つまりは、アナログ盤でCDを出すことが人気アーティストの証であり、良

質の音楽の証となっているのだ。 3-4. メリットの融合~広告~ 図表 3-2

インターネットが普及した今日、このような図を電車内の広告や、雑誌等で見ることが多

い。あるいはテレビの CM で「○○○で検索」、「続きは Web で」といった言葉を耳にするよ

うにもなった。 これはテレビCMや街中の広告の広域的な宣伝力をきっかけとして、より詳細な情報をW

ebで参照してもらう、という一種のコラボレーションである。CMやリアル世界での広告

は特別注意を向けなくても、何気なく人々の中に入り込んでくるという点では有効であるが、

コストがかかり、また情報を詰め込むとインパクトに欠けるという弱点がある。また、広告

そのものの芸術性も低下してしまう。 一方、Webでの広告はパーソナライゼーション機能やリコメンデーション機能によって、

自分が必要とする情報をより早く、詳しく知ることができるが、情報が整理されている分、

今まで自分の知らなかった新しい世界を見つけるきっかけは少ない。それがこのコラボレー

ションによって、リアル世界の広告できっかけを作り、興味をもった人がWebでスムーズ

に詳細情報を得ることができるようになった。 元々日本のテレビCMはイメージ戦略的要素が大きかったが、これにより 近はますます

その傾向が強くなっているように感じる。リアル社会での広告はより人目を引くものから惹

くものへ、商業的なものから文化的なもの、芸術的なものに変わってきている。

4.これからの文化産業 ここまで論じてきた中で、Web とリアル世界での文化のあり方には共通する部分と全く

状況が異なる部分があることがわかった。4章ではそれぞれが今後どうしていくことでより

文化産業が発展していくか、またサービスや商品を購入する私達は何に気をつけるべきかを

論じていく。

4-1. 情報形成と売り上げ Web上での情報形成にしろ、従来の情報形成にしろ、故意でないにしても必ずしも多く

の人に評価される作品が本当にいいものであるとは限らない。

商品やサービスの売買について、森は「『売れている』という状況にこそ訴求効果がある

(森 2006:175)。」と述べている。「売れている」ということが何よりの宣伝であり、「売れ

ている」とされるものはますます売れる、というものである。私はその法則は文化産業の場

でこそより強固なのではないだろうかと考えた。なぜならば、例えば化粧品ならその使用感

について多くの人が絶賛していたとしても、自分に合わなければけしてよい評価はしない。

判断基準が明確なのである。一方、本やCDなどへの評価はより感覚的である上に、センス

を問われるものである。多くの人が評価しているものを同じように評価することには安心感

があるのだ。

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この点を考えると、たとえ商業的戦略の介入の少ないWebでの評価においても、全面的

な信用を置くのではなく、一つの判断材料として自分の主観を見失わないようにしなくては

ならない。

4-2. ロングテールの限界 新たなビジネスチャンスを生み出すとされるロングテールであるが、その行き詰まりも懸

念されている。それは、ロングテールで成功しているのは一部、つまりヘッドでしかないと

いう事実にある。 このことについて森は以下のように述べている。 ウェブの強みは「中抜き」にあると言われてきた。メーカーサ

イドや大手小売が、直接ウェブでの販売を手がけるようになれ ば、中小小売は厳しい。-中略-要は、在庫設備や営業力、宣 伝力など、事業スケールによる体力差が序所に現れてきている のだ(森 2006:205 )。

大きなビジネスチャンスとみられていたロングテールであるが、蓋を開けてみると一部の

大手がその収益をほぼ独占してしまっているようだ。特に本や CD などは、大抵の商品を

検索して上位に出てくるネット通販企業の顔ぶれは似たりよったりだ。 結局は、ウェブにおいてもリアル世界においても中小小売は大手の持たないオリジナリテ

ィや希少性で勝負するしかないという現状がある。しかし、オリジナリティや希少性という

のは文化において重要な点でもある。それを無視して文化産業の発展はありえない。 もう一つ、理論上ウェブでは無限大に商品をリストアップすることができるが、実際には

それは不可能である。もちろん数の問題でもあるが、特に文化という性質上、しっぽの部分

は非常に長く、さらに見えない尻尾もあるのだ。実際にそうであるかは別にして、仮に音楽

分野で例えるならば、メジャーデビューしているアーティストがヘッド、インディーズのア

ーティストがロングテールだとすると、もっとマイナーな活動をしているアーティストの作

品はグラフ上には見えてこない。しかし、それらの中に素晴らしい作品が隠れている場合も

ある。これは美術にしろ、文芸にしろ、同じことだ。 文化産業を手がける企業に課せられているのはそういったよりマイナーなものの中から原

石を発掘することもある。そのためには、数による評価だけでなく、リアル世界において独

自の探求をしなければならない。

4-3. 新たなる展開 これまでは Web を通して、リアル世界の商品がやりとりされてきた。例外としてネット

ゲームで利用できる擬似マネーにゲームを楽しむために現実のお金を払うことはあったが、

ネット上に何かを持つために現実の資金を投じることはほとんどなかった。 しかし、ごく 近になってネット世界に持つ家をデザイナー(ウェブデザイナーではな

い)に依頼する等、ネット世界の擬似物質に現実のお金を支払うケースなどが見られるよう

になった。これらが産業として今後発展するかは未知数であるが、新たな展開として注目し

ておきたい。

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おわりに 以上のことから、情報化が進展し、どんどん便利になるからといってすべてをデジタルで

補い、発展させることができるというわけではなく、よって、従来のメディア媒体や文化産

業が衰退するとはいえない。しかし、急速な情報化の流れの中でそれらの影響によって変化

していることは事実であり、変容できなかった部分に関しては衰退してしまった部分もある

といえる。 しかし、3章で述べたように多くの場合、従来の文化産業はデジタルでは補えない部分を

強化したり、独自の価値を創出したり、あるいはデジタルな手法と相互補完しあったりして

良い意味での変質を遂げている。また、2章でも述べたデジタルな手法のメリット、デメリ

ットを考えると既存文化産業が変容を遂げながら生き残っていくことは必要なことであると

考えられる。よって今後も既存の文化産業は情報化の中にあっても生き残っていかねばなら

ないし、そうなるといえるだろう。 【参考文献】 梅田望夫,2006,『web 進化論』,ちくま新書 森 健,2006,『グーグル・アマゾン化する社会』, 光文社新書 橋元良明・吉井博明編,2005,『ネットワーク社会』,ミネルヴァ書 房 西垣 通,2001,『IT 革命』,岩波書店 小川 浩・後藤康成,2006,『図解 Web2.0 BOOK』,インプレスジャ パン ロザベス・モスカンター著,櫻井 祐子訳,2001,『企業文化の e 改革―進化するネットビジネス型組織』,翔泳社 渡辺良智,2003,「情報社会論の再考察」,青山学院女子短期大学総 合文化研究所年報 通信総合研究所,2004,『インターネットの利用動向に関する実態 調査報告書 2003』 ・総務省 情報通信統計データベース 情報通信白書 2005(平成17年度版),2006(平成18年度版) http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/whitepaper/ 平成17年通信利用動向調査,平成18年度通信利用動向調査 http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/linkdata/ ・国民生活センター 消費相談データベース http://datafile.kokusen.go.jp/ ・財団法人インターネット協会 インターネット白書2006 http://www.iajapan.org/iwp/ ・IT 用語辞典 BINARY http://www.sophia-it.com/category/ ・HACHIYA’S HOMEPAGE 社会・文化のページ http://www.asahi-net.or.jp/~HB1T-HCY/socialreview8.htm

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・JANJAN 文化ページ http://www.janjan.jp/culture/ ・ジュンク堂書店 http://www.junkudo.co.jp/ ※web 上の文献・資料については2006年12月現在のものとする。

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山並み眺望を利用した景観まちづくり

本多 忠勝 はじめに 日本の景観はヨーロッパに比べ、なぜこれほどまでに違うのだろうか。この疑問は、

多くの人が海外旅行やテレビの旅番組などを観て感じることだろう。ヨーロッパと異なり、

現在の日本の都市や農村には広告や看板、電線・電柱があふれ、統一感のない街並みが広

がっている。また近年、国立市マンション訴訟や京都駅ビルのように景観に関して議論が

なされるケースが増えている。それは私たちが高度経済成長によってもたらされた「豊か

さ」の中で、量から質へと価値観が変化したことが要因の一つと考えられる。 2004(平成 14)年の観光立国懇談会報告書1によれば、日本の出国者が約 1700 万人に

対し、外国からの入国者は約 500 万人しかなく、非常にアンバランスな状態である。ま

た外国人旅行者受入数国際ランキングで日本は第 35 位であり、第 1 位のフランスへの旅

行者数 7650 万人と比べるとわずか 16 分の 1 である(船瀬 2004: 10)。さらに、アジア

においても日本は第 9 位に甘んじており、先進国だけでなく中国やマレーシア、シンガ

ポールなどに比べ、日本の観光客数は低い。これがすべて、外国人旅行者は日本の景観を

好んでいないということが要因であるとはいえない。しかし、外国人にとって日本は観光

の魅力が少ないということは言えるだろう。日本政府はこうした現状を見直し、2010(平成 22)年までに入国者を 1000 万人にすることを目標にしている。私はあと 3 年あ

まりで入国者が倍増するとは思えないが、政府レベルでこうした動きがあることには重要

な意味があるだろう。 この論文では、より魅力的な日本を創りだすための一つの手法として、ヨーロッパと

日本の景観保全を比較しながら、景観について論じていく。しかし、ヨーロッパの景観保

全規定をそのまま採用するだけでは、日本独自の魅力を引き出せるとは限らない。その日

本の魅力でもある「日本らしさ」を探すために、明治維新による欧化政策以前、つまり江

戸時代以前における眺望を取り入れた都市形成を探っていく。その上で、その眺望を現在

の景観づくりに活かす手法を提案していく。 1.日本の都市景観と景観法 1-1. 日本の景観保全 現在、日本の景観に関する規定は、おもに「都市計画法」と「建築基準法」による制限

があるのみだった。その規定は欧米諸国と違い規制が弱く、景観保全と都市計画が一体と

なって結びついているものではなかった。さらに高度経済成長のもとでは合理性や経済性

が優先され、景観に対する配慮は軽視されたことが、現在の日本の景観を形成している大

きな要素となっていると考えられる。まずは日本の景観保全政策の歩みを見ていくことに

する。 日本の多くの都市のベースは、江戸時代に城下町や宿場町といった形で形成され始め

1 観光立国懇談会ホームページ http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kanko を参照。

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たと考えられる。こうした城下町や宿場町ではその歴史や機能を活かした、計画的な都市

整備が行われてきた。また周囲の山や川、海の自然環境と調和した道路や建物が造られ、

日本固有の風景を生み出していった。 昭和 10 年代、日本では景観を活かした都市づくりを進めようとする動きが活発だった。

特に関東大震災後の復興を行っていた首都圏のいくつかの地域では、風景を妨げる電柱を

なくし共同地下溝を設置するほど、景観保全の意識が高かったという。このことから日本

は欧米と比べても先進的な都市づくりを進めていたと考えられる。このときの根拠法は

1919(大正 8)年制定の「市街地建築物法」であり、また戦後その精神は 1950(昭和

25)年に公布された建築基準法に、「美観地区」2として受け継がれていく。 しかし、第二次世界大戦後の国土復興期では経済的・精神的余裕がなく、建築基準法

における美観地区の規定は徐々に形骸化していく。こうした要因として、一刻もはやい戦

後復興するためには、共同地下溝を設置するよりも電柱を使用したほうが安価で早いこと、

また日本は地震が多発するということが挙げられるだろう。 さらに高度経済成長期では、より効率的な土地利用が優先され、建築基準法もそのよ

うな社会的要請に応えるために次第に緩和規定が設けられていく。建築物の高さ制限は商

業地などで 31 メートル、住宅地で 20 メートルと定められていたが、1963 年の建築基準

法改正により撤廃されてしまった。このため、銀座や新宿、御堂筋などの 1960 年代まで

に形成された都市では一定の軒線が保たれているが、それ以降に発達した都市では高さの

そろわない街並みとなってしまっている。また、1970 年に制定された総合設計制度3は本

来、都心の空き地を確保するという目的であったが、この制度を逆手にとり周囲から突出

した高層ビルの建設が乱立するという問題を引き起こしている。 戦後・高度経済成長期における科学技術の発展は私たちの生活を豊かにしたことは確

かである。それだけでなく科学技術は風景をつくりだすさまざまな条件を変化させること

で、人々に新たな風景体験をもたらしている。たとえば、自動車や電車などの交通機関が

発達したことにより、今まで経験したことのない自然風景を経験することができるように

なった。また私たちは顕微鏡をのぞくことによってミクロの世界を、飛行機からの眺めや

衛星からの地球の写真などといった新しい風景を体験できるようになった(西村 2005: 219)。これらは今までにない風景であり、新しい風景の楽しみ方であるともいえる。

しかし一方で、都市環境を構成する建物などの増加、その大きさや形態、色彩、素材

などの多様化が私たちの生活の風景を煩雑なものにしていったのも事実である。さらに、

建設技術の向上は空間スケールの巨大化、土地の自然や歴史との関係を希薄にしている。

その結果として、東京や大阪などの大都市への一極集中、地方都市での経済の空洞化が引

き起こされたのである。 戦後復興と高度経済成長は日本の経済発展と同時に、どの都市を訪れても同じ風景と

2 「美観地区」とは市街地建築物法(1919 年制定)における、建築物の除去や改修、

設計の変更が可能な地域のことである。また、「風致地区」とは都市計画法(1919 年

制定)における、建築物以外の工作物の新増改築や地形の改変、土石木竹の採取を

規制している地域である。 3 建築物の周囲に一定の公開空地を確保するという目的で、建築基準法第 59 条 2 項に

規定された。特例的に緩和を認める制度の一つで、容積率、高さ制限、斜線制限な

どを緩和することができる。

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いう画一的な都市を生み出した。そのような同じ風景の町では、地域の魅力がなくなり、

地域の価値を決めるものは便利さのみになってしまうだろう。また都市の駅前では、屋外

広告物が中心に氾濫し、それらは目立つどころか乱雑な街並みの空間を作り出している。

一方で繁華街における看板やネオンは、その街が活気のある証拠であり、それが日本や韓

国などのアジア独特のものであることも否定することはできない。しかし、あまりにも目

立ち、派手で大きな広告や看板、ネオンは街の統一感を喪失させており、自治体ごとに一

定のデザインや容積で規制すべきだろう。 こうした現状と反省を踏まえ、各自治体では魅力ある地域づくりを目指して景観条例

を制定していった。全国の都市では、京都や倉敷、飛騨高山、金沢などで景観条例が制定

され、一定の基準で建築指導が行われ、観光客の増加などにつながる成果をあげている。

その他、全国の都市でも 500 以上の景観保全条例を定めている(景観まちづくり研究会 2004: 11-2)。しかし、これら法律の委任規定のない自主条例では、建築基準法や都市計

画法より厳しい制限・罰則を設けることができないという欠点があった。そのため、その

有効性には疑問があり、国の立法措置が望まれていた。 1-2. 景観法の制定 そして国も「国土が国民にとって魅力的なものになっていない」という反省から、街

並みや自然景観を整備することで地域の魅力を高め、活性化させようという理念が打ち出

し、景観保全にのりだした。2003 年には「国際交流の増進、我が国の経済活性化の観点

から、自然環境、歴史、文化等、観光資源を創造・再発見し、整備を行い、これを内外に

発信することによって、我が国が観光立国を目指していくことが重要である」という認識

のもとに「美しい国づくり政策大綱」を発表した。そこから 2004(平成 16)年に「景観

法」が国会で成立し、これにより地方自治体の景観条例に法的根拠が加えられるとともに、

景観保全の必要性が初めて明文化されることとなった。この景観法は地方自治体の実情に

合わせた条例を制定できるよう、詳細な規定は自治体に委ねられている。以下の文章は社

団法人日本建築学会(2005: 16-25)を参照した。 景観法制定と同時に、「景観法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」と「都市

緑地保全法等の一部を改正する法律」も制定され、総称して景観緑三法と呼ばれている

(景観まちづくり研究会 2004: 11)。これにより都市計画法、建築基準法および「屋外広

告物法」などが改正された。都市計画法における美観地区の規定は「景観地区」として受

け継がれている。 この「景観地区」は、建築物の形態意匠の制限等を定める都市計画であり、都市計画

区域および準都市計画区域内では景観地区を設定することができる。条例を制定すること

で、その他の地域でも準景観地区を設定することもできる。 また、都市緑地保全法が「都市緑地法」に名称変更され、緑地保全地域、緑化地域な

どその規定が設けられた(景観まちづくり研究会 2004: 188)。景観法制定以後、景観保

全条例を制定する地方自治体が多くなってきている。自治体の方針により規定内容は異な

るため、自治体の環境や状況に応じた「景観計画」を策定していくこととなる。景観計画

は、住民が提案をすることもできる。三重県伊勢市では、乱雑な屋外広告物や電線、統一

感のない街並みであったが、屋外広告物の表示・掲出の制限や電線の地中化を行った。こ

れによって、1992 年に 35 万人だった観光客数が 2002 年には 300 万人に増加し、経済効

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果を生んでいる(景観まちづくり研究会 2004: 11)。 1-3. 景観法の特徴と課題 次に景観法の三つの特徴を考察していく。以下の文章は池辺(2004:2-6)を参照した。 一つ目の特徴は景観法では対象領域が拡大され、全国の都市だけでなく農山漁村が対

象となったことである。また景観概念を拡張し、景観とは「自然、歴史、文化、生活、経

済活動領域により形成されるもの」であると明記された。 二つ目の特徴としては、景観保全すべき地域のみならず、景観を形成していこうとする

地域も「景観計画区域」として指定対象となることである。これにより、住宅地や商店街

において住民が景観保全を行いたい区域で景観協定を結び、規制を行うことが可能となっ

た。また景観地区と景観計画地域では景観計画区域内の建築などに関して届出・勧告によ

る規制を行うとともに、必要な場合に建築物などの形態や色彩、意匠などに関する変更命

令を出すことができる。これにより罰則などの法的規制がなかった従来の景観条例が、強

い拘束力をもったものとなった。 三つ目の特徴として、まちづくりにおける一歩進んだ、住民と NPO 団体の参加をうな

がしていることが挙げられる。住民や NPO からの計画提案が可能である。今までは土地

や建物の所有者の相続や後継者不足などの理由により、建物が取り壊しや売却されていく

ことが多かった。しかし、景観地区であれば、行政だけでなく住民や NPO 団体が景観管

理主体(景観管理機構)として所有者に代わり、建物を保存していくことが可能となって

いる。 また景観法の制定により、自治体や住民による景観保全政策が進められていくことに

なるが、景観法にはいくつかの課題がある。そのうちの二つを挙げる。 その一つ目は、財産権などの私権に対する規制強化である。日本の土地法制の特徴と

して土地所有権が強いことがいわれる。現在の日本の都市は土地所有権などの私権の重視

によって、都市計画や屋外広告規制を妨げられた結果として成立したといっても過言では

ない。 二つ目は市街地にある規制不可能な屋外広告規制である。屋外広告物法では屋外広告

物業の登録制を導入する。しかし、道路や駅など日本各地で見られる巨大な看板や派手な

ネオン、ファミリーレストランやファーストフードなどのチェーン店などの看板は違法で

はない。先にも述べたように、自治体の景観条例においてこうした屋外広告を取り締まっ

ていかなくてはならない。 これらの課題は先に挙げた景観法の特徴を十分に活かすことで解決されると思われる。

ただ、自治体が景観保全を行うとき、しっかりとした基本理念が必要であり、住民の意見

を取り入れ、地域の魅力を高められる景観形成ガイドラインを作らなければならない。そ

れがなければ住民や地元企業の協力の理解を得ることはできず、自治体が目指す美しい街

並みを生み出すことはできない。 2.ヨーロッパの景観保全 2-1. ヨーロッパの景観規制 次に日本に比べ先進的な景観保全を実施し、美しい景観を創出しているヨーロッパの

制度から景観保全について見ていこう。ヨーロッパの景観規制をみていくことで、日本の

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今後の景観規制に活かされていくはずである。

ヨーロッパでは、早くから都市計画で都市景観の保全、形成に取り組んできた。イタ

リアとフランスでは 1900 年代初頭から歴史的景観に関する法律を制定し、都市景観に関

する様々な規制を行っている。その他の国でも、国の責務として景観や歴史的遺産の保護

を憲法に位置づけており、景観に関する法律や条例は細かく規定されている。さらに、美

しい景観を創るための土地所有権の制限を認めており、美しい景観づくりは国民の責任と

して深く浸透している。ヨーロッパでの景観保全は教会などの歴史的建造物の保全からは

じまり、日本での景観保全は、山や川、滝、海岸などの自然風景から田畑などの生産景観

や里山景観、集落景観などへと発展している(池辺 2004: 2)。こうしたことから日本の

関心は都市景観よりも自然景観や環境保護への意識のほうが強かったといえる。近年日本

での都市景観への関心の高さは、魅力的な地域や快適な都市空間を求める人々の意識が高

まってきた表れだろう。 しかしながら、同じ「戦後」を経験した日本とヨーロッパ(特に東ヨーロッパ)で都

市景観やその保全規制がこれほどまでに違うのはなぜだろうか。ポーランドではナチスド

イツによって破壊された街並みが、現在では見事に修復されている。ヨーロッパと日本の

景観保全を比較すると、次のような特徴がある。以下の文章は、三幸エステート株式会社

ホームページ4を参照した。 風景・景観や歴史的遺産の保持などを行政の責務として法に位置づけている場合が多

い。都市計画と景観保全が一体であり、開発規制と建築規制が詳細で景観に密接に結びつ

く形で景観保全をしている。都市だけでなく、市街地の外もあわせて国土全体を対象とし

て一体的な土地利用制度を持つところが多く、風景・景観保全に大きく寄与している。日

本ではあまり使われていない、眺望保全が多く用いられ重要な手法となっている。 2-2. イタリアとフランスの景観規制 次にイタリアとフランスを例に、景観規制の歴史と法制度を考察していく。以下の文

章は、鹿野・進士(1999: 463-8)、Murmurez du milieu~middle ageの独り言~ホーム

ページ5を参照した。

まず、イタリアにおける風景保全に関連する法制度は、「文化財保護法」と「自然美保

護法」、「ガラッソ法」という 3 つの法律によって成り立っている。イタリアでは、第一

次世界大戦前後の 1910~1920 年代から歴史的価値や芸術的価値のある公園や庭園などの

保護が叫ばれはじめ、1939 年には「文化財保護法」と「自然美保護法」が制定されてい

る。これらの法律は、歴史的価値や美術的価値が優れるとされる場所や建物、公園などを

特定して、その保護を義務付けた。 しかし、法律に指定されていない場所や地域では景

観を損なう開発が継続して行われていた。

第二次世界大戦後には、都市部では無秩序なスプロール現象が起こり、中心市街地で

ある歴史的地区の荒廃を引き起こした。戦後の復興後、経済状況が少しずつ改善されはじ

めると、歴史的地区の保存を目指す国民運動が全国的に起こり、1967 年に全ての自治体

4 三幸エステート株式会社ホームページ、http://www.websanko.com/ 参照。 5 Murmurez du milieu~middle age の独り言~ホームページ,

http://www.msoops.com/index.html 参照。

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に歴史地区の保存を義務付ける「都市計画法改訂措置法」(通称、「橋渡し法」)が制定され

る。この画期的な「計画なければ開発なし」を理念とした同法の成立により、建築許可交

付の厳格化や不当な建設に対する罰則、計画策定能力を欠いた市町村に対する国の介入、

歴史地区の区域規定と保全計画策定までの建設活動の凍結などの制限や罰則が強化され、

民間ディベロッパーなどによる建築活動は大きく制約を受けることになった。

1985 年には、国土全体の景観を保護するために「ガラッソ法」が制定される。この法

律は、自然環境と歴史的資産の保護のために、全ての州に風景計画の策定を義務づけてい

る。また、州の風景を考えるうえで重要な地域の中から、州に建設行為などによる国土の

改変を一時的に禁止できる地域を定める権限を与えている。風景計画の内容として義務付

けられているのは、各種の環境資源の調査とその保全と利用を図る方法の提示である。も

ともとガラッソ法は、自然環境を対象に制定されたものであるが、立法に携わった文化環

境財省が自然資源と歴史的資産の 2 つを所管することから、実際には自然環境だけでな

く歴史的環境の保全に関する視点が多く盛り込まれることになり、自然美の風景に加えて

歴史的風景を一体的に保全することとなった。風景計画の策定方式は各州に任せられてい

るが、計画を策定するときは州法によって国が指示するもの以上の内容の上乗せが行われ

ており、地域ごとに個性あるものとなっている。

州内の自治体は、州の策定した風景計画に沿って「都市マスタープラン」を策定し、

景観規制をすることになっている。都市マスタープランでは、歴史的建造物が集まる「歴

史都心地区」を指定し、これに基づいて同地区内の建造物の工事に対して厳重な規制を行

なうとともに、屋外広告物や看板、ショーウィンドウの設置場所や材質、大きさ、照明な

どについても詳細な規制を行っている。

次にフランスを見ていく。以下の文章は、池辺(2004: 6)、和田(1998・1999・2000) を参照した。

フランスでは、1913 年に歴史的建造物の保存法が制定されたのをきっかけとして、国

による歴史的建造物の保全が本格化した。この法律は、指定・登録という2つの制度を設

定して国による一元的な規制を目指すものであった。

1943 年には都市計画法が改正され、ゾーニングの手法の導入や用途による制限、建築

禁止地区、工場制限地区、自然景勝・歴史遺産の保護地区が指定される。歴史的記念物に

ついては、指定・登録を問わず半径 500m以内の建物や場所の改変が規制の対象となり、

景観的に問題ないかの審査が課されるようになった。

1962 年には、世界初の歴史的環境の保全制度となる「マルロー法」が制定され、歴史

的環境の保全地区を定めるとともに建物の修復を進めるための制度がつくられた。これは

不動産修復事業を行なうための法律で、保全地区はこの事業を優先して行なう地区とされ

た。しかし、この制度では保全対象地区に接する周囲の建物が取り壊されたりする事態が

発生したため、1983 年には地方分権を定めた法律が制定され、歴史的環境を保全するた

めに「建築的・都市的文化財保護区域」(ZPPAU)制度が設けられた。さらに、1993 年に

は、「風景法」(LOY PAYSAGE)が制定されて、景観保全の視点も加わった「建築的・都

市的・景観的文化財保護区域」(ZPPAUP)が指定された。

風景法では、市町村の土地利用を規定する「土地占用計画」(POS)において「景観の

質の保全およびその変動の制御」に配慮することを義務づけた。市町村長は、建築計画が

土地占用計画に合致しない場合は建築を許可しないとされている。土地占用計画では、高

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Page 125: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

さや容積率の規制が設けられている。さらに首都パリでは、市内の 45 箇所で「ある特別

な意味を持つ景観のなかに、これを阻害する性質の建造物が侵入することを防ぐ」ために

景観ポイントからの三次元平面を設定し、この平面以下になるように建物の高さや壁面線

規制(フュゾー規制)を行っている。

ZPPAUP は歴史的環境だけでなく、自然景観やその他の保護する必要のある環境を含

めて広域的な地区を定めている。その点で、土地占用計画の延長線上あるが、いくつもの

市町村にまたがって広域的に土地利用の計画を定めることができるのが特徴である。実際

の市街地や自然環境の広がりに応じて、カテゴリックな周域規定を補正し、逆に必要なと

ころには保護対象区域を広げるようにする。その区域内においては、いかなる建造物の変

更行為もフランス建築保護建築家の承認なしには行うことはできない。 その策定にあた

っては、市町村の発意にもとづいて遺産史跡地方会議の答申がなされ、地方知事の命令に

よって「建築都市遺産保護地区」が定められる(和田 1998,1999,2000)。

2-3. 私権規制 次にそれぞれの私権の規制について見ていく。まずイタリアでは、自然美保護法の時

代から景観保全を目的として不動産の私権を制限しており、制限を受けた不動産を許可な

く破壊や改変した場合は、自己負担による復旧を求めている。こうした制限は憲法上問題

があるとして、何度か争われたが、「景観保全を目的とした私権の制限は当然であり、こ

うした制限に対する補償は特に行われない」と判決されている。また、フランスでは、土

地占用計画による私権の制限については、補償を行わなくても良い場合があるとされてお

り、美しさを守るためには私権を制限し公共を優先する姿勢が根底に流れている。これは

ヨーロッパだけでなく日本でも同様だが、景観保全と開発の歴史は法規定と土地買収や保

全補償などの補助制度の歴史でもあるようだ。ここから自治体の熱意だけでなく住民の理

解と協力が景観保全には欠かせないものだということがわかる。 先にも述べたが、私権に対する規制を自治体の条例に求める景観法においても、私権を

制限する規定を設けるべきであろうと考える。その上で、自治体の自主条例で景観法の規

定よりも厳しい規定を定める。これにより、全国的に一定の景観保全が行うことができる

だろう。 3.眺望と景観まちづくり 3-1. 自然を取り入れた都市形成 しかし、日本の都市景観を魅力的にしていく必要があるとはいえ、ただヨーロッパと

同様の規定では再び画一的な都市が出来てしまう。日本の都市や地域を個性的で魅力ある

ものにしていくには、日本にある本来の独自の要素を取り入れていかなくてはならない

(西村 2000: 232)。ではそれは何か。明治維新により、日本はヨーロッパ諸国に追いつ

くため、西洋文化・思想を積極的に取り入れていた。長崎や横浜のような都市はその代表

例である。第一章で述べたように、現在の日本の都市形成が城下町にあるのであれば、

「日本らしさ」は江戸時代にあるのではないだろうか。そこで、ヨーロッパの都市形成と

比較しながら、日本の都市形成の特徴を見ていくことにする。以下の文章は堀繁ホームペ

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Page 126: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

ージ6、三村(2005: 15-23)を参照した。 おもにヨーロッパの街並みは石やレンガを使った建造物で造られている。それはヨー

ロッパの人々が自然災害よりも異民族からの侵入ほうが脅威であると考えていたことが大

きい。そのため、頑丈で巨大な城壁や城門が都市の周りを囲むように造られ、要塞都市が

形成されることになった。これはヨーロッパだけでなく、中東アジアや中国などの都市で

も同様のことがいえる。また、スペインやイタリアの地中海沿岸部などで山の斜面に造ら

れた都市があるが、これは地形を利用した都市防衛の要素が強い。そのため、山を覆うよ

うにして都市が造られている。 一方日本の場合、人々が都市を形成していく過程で、重要な要素としていたのは人工

物よりも山や川である。これは外部からの侵入者ではなく自然の脅威から身を守るためで

あり、都市は山と川に守られるようにして形成されている。山は風から自分たちを守って

くれるからだ。また日本では古くから自然物信仰があり、ヨーロッパのような一神教の考

え方と違って、山や川、岩などの自然物を神として信仰の対象としていることが多い。そ

うした都市では神社などが建てられ、山や川を神として崇拝する。このとき重要視される

のは自分たちを守る神の存在そのものである。 また、ヨーロッパでは都市の内部に街路を切るきっかけとして人工物を造っている。

それに対し日本は、都市の外部にある山を使って街路を切っている。つまり、まちの中に

山を取り入れようとしていたのである。特に富士山のようなきれいな二等辺三角形の山は

「神様の力が強い」という思想があった。 もちろん日本の戦国時代に造られた城下町でも、防御のために河川や山などの地形を

利用して造られていた。河川を利用して外掘りを造り、山には敵が攻めて来たときに逃げ

込む要害山、城を置く城山としての機能が求められていたと考えられる。戦(いくさ)の

とき、城を守るために、城下町は防護の役割を果たし、城下町の街路は迷路のように屈折

させていた。さらに城の天守閣は城下町のランドマークにもなっている。ヨーロッパでは

教会などが同じ役割を果たしていた。また山があることで人々に安心感が生まれ、自然と

人の生活空間が快適なものになっていたのではないだろうか。ちなみに、平野部では大規

模な洪水が起こりやすかったため人々が住むことができなかったが、治水技術が向上する

につれ、平野部に都市が造られることが増えていった。 これらのことから同じ山の機能を利用するといっても、日本とヨーロッパでは考え方

に違いがあるようだ。日本ではヨーロッパと違い、自然と人々が一体となって都市を形成

していくことが見て取れる。 このように、明治維新以前の日本では自然条件をうまく取り入れた機能的な都市づく

りが行なわれていた。こうした地形を利用した都市形成は地域により異なるため、個性的

な都市が生まれてくる。こうした自然を取り入れた都市こそが「日本らしい」都市なので

ある。現在の日本では歴史的建造物群を有する都市は限られてくる。むしろ、都市の成り

立ちが異なり、このような都市の方が「日本らしさ」があるのではないだろうか。また日

本ではほとんどの都市で山が多く、周囲に印象的な山並みを間近に見ることができる。都

市の背景として山並みの風景を保全することも景観計画の重要な点であろう(西村 2000: 25)。この眺望を有効に利用すれば、景観を利用したまちづくりの手法の一つとな

6 堀繁ホームページ http://www.jice.or.jp/keikan/pdf/shou03.pdf 参照。

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り、その地域独自のまちづくりを進めていくことが可能となる。 3-2. 眺望を取り入れたまちづくり――岩手県盛岡市を事例として では、このような方法で都市づくりを行なう自治体の事例を紹介したい。山並み眺望

の確保のための景観形成ガイドラインを策定した岩手県盛岡市の事例である。以下の文章

は三幸エステート株式会社ホームページ7を参照した。 岩手県盛岡市は、南部富士と呼ばれる岩手山などの山並みに囲まれた美しい町として知

られている。城下町として 400 年以上の歴史を持ち、北上川、中津川といった市街地を

流れる河川には今でもサケが遡上し、白鳥も飛来する。自然があふれる風景はそこに住む

人々に愛されるとともに、多くの観光客の人気も集めている。このため、1981 年には盛

岡市主催で都市景観シンポジウムが開かれ、日本国内でも早い時期から景観保全の問題に

取り組んできている。市民の理解と協力を前提にして進められた景観行政は「盛岡方式」

と呼ばれ、その後、他の自治体の政策に大きな影響を与えている。この盛岡方式の柱とな

るのが山並みの眺望の保全である。1984 年に「都市景観形成ガイドライン」を作成し、

新築建物の建築基準を設けた。「山並み眺望」を町の原風景とする考え方から出発してい

るため、建築基準は非常に明確なものになっている。盛岡城跡に造られた岩手公園や開運

橋、与の字橋といった市内の中心地を基点とし、一定の角度で町のシンボルである山が眺

められるような建物の高さ制限が決められている。その結果、すでに 100 棟以上の建物

が基準に沿って新築されている。 また、南部藩がまちづくりの基本とした「五の字プラン」と呼ばれる屈曲した街路レ

イアウトを地域によって残し、歴史ある城下町を継承するように努め、散策ルートの整備

拡充などの活動も進めている。盛岡市の都市景観形成ガイドラインは景観法成立以前に作

成されたものであるため、法的拘束力を持っていない。しかし、盛岡市固有の景観を守る

ことへの市民の関心は強く、早くからの取り組みによって建築主との協力関係も築かれて

おり、「盛岡らしさ」を活かしたまちづくりは今後も継続していくと思われる。 また、眺望保全を行うために屋外広告の規制に乗り出した自治体もある。京都市は景

観条例を改正し、市内に約 400 か所ある屋上広告や点滅照明などの屋外広告物を市内で

全面禁止すると発表した。違反した業者は営業停止や登録取り消し処分となり、公表され

る。さらに、賀茂川から見る「大文字」や借景で知られる円通寺の庭園から見る比叡山な

ど、38 地点をリストアップし、守るべき眺望とした。地点ごとに建物の高さやデザイン

を規制する区域などを定め、高さ規制を守っていても眺めを遮る建物は認めない。広告業

界からの反発が予想されるが、マンションが多く建ち並び、京都らしい風景が減りつつあ

る現状に対する京都市の危機感を表している(『朝日新聞』2006.11.24 朝刊)。 3-3. 景観まちづくり 盛岡市や京都市のような、眺望保全を実施する自治体は全国的に少ない。それはすで

に高層ビルやマンションが多く建ち並び、これを規制・再開発するのは保全補償などの財

政面や不動産・広告業界からの反発などで現実的ではないからであろう。 しかし、高崎市といった地方都市においては、実現不可能とは言い切れない。それは

7 三幸エステート株式会社ホームページ、http://www.websanko.com/ 参照。

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歴史遺産や自然風景の保存を目的とした都市計画は一般的になっているからである(西村 2005: 29)。ただその場合、一部の地域に限定されていることが多いので、先に挙げた盛

岡市のように広域にわたり、場合によっては自治体や県を越えた景観保全の合意形成が必

要となる。 また、明治以降の歴史によって生み出された、現在の日本の都市景観も「日本らし

さ」ではないかという意見もある。昭和 30 年代のまちの風景を懐かしむ人々も少なくな

い。私自身も昭和の下町風情の残るまちでは、電線・電柱を「時代の遺産」として残すこ

とも、その地域の特性を活かしたまちづくりの一つであると考える。では時代と景観・風

景はどのような関係があるのだろうか。これについて西村は、景観と風景を同一視した上

で次のように述べている。

風景とは時代とともに変化する。風景は人が自らの周辺環境を知覚し、認識するこ

とによって現出し、人と環境とが相互に働きかけることによって形成されるものであ

る。したがって、各時代の技術や生活様式によって新たな風景が創出され、そして価

値づけられる(西村 2005: 217)。

すなわち、明治・大正・昭和時代の都市景観の美しさが現在と同じ美しさとは限らない

ということである。重要なことは現在の景観をどのようにとらえるかということである。

過去の合理性・経済性優先の政策が現在の都市景観を生み出しているのであれば、電線・

電柱や広告、高すぎる建物によって、多くの都市景観は雑然としていることは確かだろう。

また、その「美しい」景観ということを誰が判断するのか。しばしば、美しさの基準は容

易に判断できるものではないといわれる。それは、それぞれの人の主観によって美しいと

思う基準が異なるからである。しかし、田村は次のように述べている。

美しい都市とは個人の趣味や主観の問題ではない。その地域の人々が共有し、来訪

者にも認められた、地域が共有する価値である。個人のレベルの次元を超えて客観化

されている(田村 2005: 32)。 つまり、美しい都市や景観はその地域に居住する人が共有するだけでなく、来訪者・観

光客が訪れることによって判断されるのである。私たちが住んでいる都市が快適で住みや

すく、地域アイデンティティを自覚し、自分たちの都市を誇りに思えなくてはならない。

その対価として観光による経済効果は存在していると考えたほうがよいだろう。 私たちは自然保護という名目で、現在居住する都市と自然を切り離しているように感

じる。そのため私たちは日常では体験できない自然風景を求め、農山村に旅行に出かけ、

その風景を写真や絵などに残している。だが本来、私たち日本人は江戸時代の城下町のよ

うに、自然とともに生活し、それを都市に取り入れてきた。緑地を設ける都市も増えてい

るが、それは都市空間内のものであり、人工的なものにすぎない。確かに眺望を取り入れ

たまちづくりは、現実的に困難が多い。しかし先に述べた、山や川の自然風景を取り入れ

た都市形成を検討することも必要なことであるし、それを現在のまちづくりに活かす手法

の一つだろう。このような眺望を利用した「日本らしさ」を生み出すまちづくりがあって

もよいのではないだろうか。

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では、この提案をふまえ高崎市について考察していきたい。以下の文章は、高崎市ホー

ムページ8、高崎市(2003: 99-100)、高崎市(1999: 41-77)を参照した。 高崎市では 1993(平成 5)年、「高崎市都市景観条例」を制定以後、大規模建築物など

の行為に対する届出制度の実施や「たかさき都市景観賞」を設けるなど、景観形成の誘導

や市民参加が推進されている。「高崎市都市計画マスタープラン」では高崎市を 5 地域 16地区に区分し、地域別の課題と目標を設定し、土地利用や交通整備の方針などを決めてい

る。2000(平成 12)年には中心市街地の活性化を目指し、高崎駅西口を対象とした「高

崎市中心市街地活性化基本計画」を策定した。だが、大型店舗の郊外進出や人口の減少な

どの原因から、中心市街地の活力低下に歯止めがかかっているかは疑問である。また、駅

前の屋外広告や建物の不均等な高さがみられる。この点から高崎市においても、日本の一

般的な景観問題が存在しているといえよう。さらに、隣接する自治体との連携も見られる

が、眺望を中心市街地に取り入れたまちづくりの動きはないようである。 高崎市は榛名山や赤城山、烏川など豊かな自然に囲まれた都市である。高崎市では観

音山丘陵の自然景観の保全を行っているが、付近にゴルフ場があることから、場所によっ

てはその景観を損ねている。このことから、今後、公園などのからの観音山丘陵や榛名山、

赤城山、烏川などといった眺望を眺めることのできる基点を設け、周辺部の建物や屋上広

告を規制していかなくてはならない。特に美しい山並みが見える場所では、京都市の同様

の厳しい規制をかけていくことも必要だろう。 高崎市の場合、地区単位で景観形成を行なっているようにみえる。今後さらに、より広

域にわたる景観形成を行い、山並みの眺望を都市に取り入れていくことで「高崎らしさ」

ある、魅力的な高崎市が創出されていくのではないだろうか。 おわりに 私はこれまで日本の景観についてあまり考えたことはなかった。しかし、日本の雑然

とした景観は、戦後復興と高度経済成長によることが大きいことがわかった。現在の都市

の多くは江戸時代にベースにしていることから、都市の原点に目を向けた。そして、眺望

を都市に取り込むまちづくり手法を提案してきた。それはまた、「日本らしさ」とも呼べ

るものであろう。 人々が、より快適な空間を求めるようになるなか、景観法の制定は日本の景観にとっ

て大きな意味があるだろう。今後景観法を活かし、その都市に住む人が快適な生活を感じ

られるまちづくりが進められていくと考えられる。都市内部の統一感のなかに、いかにそ

の地域のオリジナリティを引き出すかが今後の景観保全の重要な課題となろう。その地域

の歴史や伝統はもちろんのこと、都市の周りの風景をまちづくりに取り入れていくことで、

地域の個性は生み出される。また住民や企業、自治体が一体となり、景観づくりを進めて

いかなくてはならない。また、住民も美しい景観とつくりだすために、私権が制限される

ことを受け入れる必要もある。こうした点は、ヨーロッパの厳しい私権規制が良い参考と

なろう。 「日本らしさ」や「美しさ」とは何かという議論は容易に終わるものではない。しかし、

都市空間の整備だけでなく、山並みの眺望を取り入れていくことで「日本らしさ」や「美

8 高崎市ホームページ、http://www.city.takasaki.gunma.jp/ 参照。

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しさ」が生まれてくるのではないだろうか。 【参考文献】 社団法人日本建築学会,2005,『景観法と景観まちづくり』学芸出版社 景観まちづくり研究会,2004,『景観法を活かす――どこでもできる景観まちづくり』学

芸出版社 三村浩史,2005,『地域共生の都市計画』学芸出版社 西村幸夫編著,2005,『都市美――都市景観施策の源流とその展開』学芸出版社 西村幸夫,2000,『西村幸夫都市論ノート――景観・まちづくり・都市デザイン』鹿島出

版会 船瀬俊介,2004,『日本の景観を殺したのはだれだ?――よみがえれ!美しい緑の列島…。

景観修復から経済再生へ』彩流社 池辺このみ,2004,「文化資産としての景観形成の時代へ――景観法が問う国民の感性と

行動」『ニッセイ基礎研 REPORT』ニッセイ基礎研究所 田村明,2005,『まちづくりと景観』岩波書店 和田幸信,2000,「ZPPAUP の運用による景観保全手法について:フランスにおける建

築的・都市的・景観的文化遺産保存区域(ZPPAUP)に関する研究 その 3」『日本

建築学会計画系論文集』社団法人日本建築学会,536: 177-84 和田幸信,1999,「ペルヌ・レ・フォンテンヌにおける ZPPAUP の運用 フランスにおけ

る建築的・都市的・景観的文化遺産保存区域(ZPPAUP)に関する研究 その 2」『日本建築学会計画系論文集』社団法人日本建築学会,526: 201-8

和田幸信,1998,「ZPPAUP の景観保全制度としての特徴と作成状況:フランスにおけ

る建築的・都市的・景観的文化遺産保存区域(ZPPAUP)に関する研究 その 1」『日本建築学会計画系論文集』社団法人日本建築学会,512: 221-8

鹿野陽子・進士五十八,1999,「イタリアにおける法制及び法定財物件数の推移からみた

歴史的庭園の保護動向(平成 11 年度 日本造園学会研究発表論文集(17))」『ラン

ドスケープ研究:日本造園学会誌』社団法人日本造園学会,463-8 高崎市環境部環境政策課,2003,『高崎市環境基本計画 改訂版』高崎市 高崎市都市計画部都市計画課,1999,『高崎市都市計画マスタープラン』高崎市 観光立国懇談会報告書ホームページ、http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kanko 堀繁ホームページ、http://www.jice.or.jp/keikan/pdf/shou03.pdf 三幸エステート株式会社ホームページ、http://www.websanko.com/ 高崎市ホームページ、http://www.city.takasaki.gunma.jp/

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都市観光によるまちづくり

―高崎市を事例として―

森泉 雅洋 はじめに 近年,観光産業は世界的に著しい成長を見せている.世界旅行産業会議(WTTC)の調査

では.観光産業の規模は,97年に 3 兆 4,610 億ドルを占め,全世界 GDP の 11.6%に達

している.同調査によると,2010年には観光産業は全世界 GDP の 12.5%に達し,

「21 世紀 大の産業」になると予想されている.観光産業が重要な産業になるであろう

ことは日本においても同じである.このことを裏付けるように,総理府の国民生活に関す

る世論調査(平成 8 年 7 月)では,今後生活に力を入れたい分野として「レジャー・余

暇生活」を挙げる者(36.6%)が も多く見て取れる.観光の需要は大きいのである.ま

た,近年各地で成功している「まちおこし」の例を見ても観光産業が大きな役割を果たし

ていることが見て取れる.観光産業は,地域振興を必要とする地域の基幹産業となりうる

のだ.もちろん全ての地域に観光産業が有効なわけではない,観光産業による「まちおこ

し」を出来ない地域もあるだろう.一口に観光と言っても様々な観光の形態があるので,

その地域にあった形態の観光産業が必要となる.しかし,21 世紀の地域づくり,地域の

発展を考える上で観光産業は無視できない重要なファクターであることは間違いない.同

様のことが,筆者の住む高崎市でも言える.現在,高崎市では観光を重要な産業と捉え

様々な方策が行われている. 本稿では,観光の概要・概念を押さえながら,高崎市を事例とし観光戦略の可能性を論

じていくと共に,都市観光によるまちづくりがもたらす可能性を論じる事とする. 1.観光とは 高崎市の観光戦略を考える前に,「観光」とは何であるかを捉えておく必要がある.本

章では,「観光」の概念に始まり,歴史,観光行動を引き起こす動機などを論じていく. まず,「観光」の概念とは,どのように定義出来るのであろうか.これについては多様

な見解があり,今日までに様々な定義がされてきた.ここでは,そうした既存の研究によ

って定義されてきた「観光」の概念1を参考に,本稿としての「観光概念」を規定したい

と思う. ではまず,日常用語としての「観光」を百科事典の説明から参照してみる. 「観光とは保養・遊覧などの慰楽的目的をもって旅行すること.日本で観光という語

を英語のトゥーリズムにあてて用いるようになったのは明治初期からで,その出所

1 鈴木忠義,1984,「現代観光論」有斐閣双書.1-1「観光」の概念参照.

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は『易経』の『国の光に観する』によるといわれるが,この国の光を観るという意

味は,他国を巡歴して,その土地の風俗・制度・文物を観察することである.トゥ

ーリズムはラテン語の tonus(ろくろ)から発したもので,諸国を巡回旅行するとい

う意味である.」(『世界大百科事典』6巻,平凡社,1968,361 項) 百科事典で述べられてように,「観光」という言葉は,中国語の「観国之光」からつく

られたもので,「国の光を見る」つまり他国に行って,その良いところ(光)を見て,学

んでくるという意味があった.時と共にその意味合いも変わり,現代では「楽しみのため

の旅行」という意味が日常用語としての「観光」にある(鈴木 1984: 3). では,学問(観光学)として「観光」はどのように定義されてきたのであろうか.「観

光」の学術的定義は時代と共に形を変えてきた.古い定義は,観光を「旅」の一つの形態

と捉え,移民や島流しなどの「生きるための旅」「命令される旅」と「自ら好んでする

旅」を区別するために,滞在した後で定住地に戻ることを強調している.また,経済的側

面を重視したものとなっている.比べて, 近の定義では,観光を逃避欲求,人間性の回

復欲望などの現われとして捉えている,また,経済活動としてというよりも,広く文化活

動とみなす考え方が多くなっている. 日常用語としての「観光」,また,上記のような「観光」の定義の変遷を踏まえた上で,

本稿における「観光」の概念を以下のように考えたい. 「観光とは,一時的に日常生活圏を離れ他地域に一時的に滞在したり,その土地の風

俗・制度・文物を体験・観察・購入したりすることによって経験や教養を深めたり,保養

したりする余暇活動・文化活動であり.また,そうした行為によって生じる,経済的事

象・文化的事象・人間関係など社会現象の総体である.」 この概念規定をもとに本稿を論じていくこととする.

1-1. 観光の歴史2 上記で観光の概念を述べたので.本節では観光の発展の歴史,また,観光の形態の変

遷を見ることによって,その背景から観光が発達する要因を探ることとする. 観光はいつ頃から行われていたのであろうか.人間には知らない場所を歩き回りたいと

いう本能があり,それが観光の 初の動機になったのではないかとする学者もいる(鈴木 1984: 5).そうすると,「観光の歴史は人類と共に古い」と言うことが出来るかもしれな

い.しかし,歴史の話をする上では文献を足がかりにしなくてはならないので, も古い

もので古代エジプトやギリシャ時代から「観光の歴史」をふり返ることが可能となる. 初の観光は,神殿への礼拝といった,「宗教」を目的とするものであった.参拝や礼

拝といった「宗教」目的の観光は,近代に至るまでもっとも一般的な観光であった.古代

ローマ時代に入ると,貨幣経済の発達や学問の発達,治安が良かったことを背景に,観光

は飛躍的に発展した.「療養」「宗教」「食道楽」「芸術」「登山」といった観光があったと

考えられている.現在でも多く見られる観光の形が現れた.当時の観光は,ごく一部の上

2 鈴木忠義,1984,『現代観光論』有斐閣双書.観光の歴史に関する記述を参照.

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層階級だけに限られたものであった. 紀元 5 世紀に入ると,ローマ帝国が崩壊し,治安が乱れると共に観光は一旦衰退して

いった.長い「観光の空白時代」に入ることとなった.中世・近世ヨーロッパにおいての

観光は,「大航海時代」を迎えるなどしたが,基本的には宗教観光が主なことに変わりは

なかった.しかし,19 世紀に入ると旅館ギルドの発展にともない旅館が増え,旅行がし

やすくなった.また,文芸が盛んになり,著名な作家・思想家が大陸を旅し,その旅を書

いた作品が観光旅行を促すようになった.この時代を「教養旅行の時代」「グランド・ツ

アーの時代」などと呼ぶ歴史家もいる. そして,近代,イギリスにおいて産業革命が起き,技術革新の一つとして鉄道が発達

したことにより,観光において新たな局面を迎えた.イギリスでは,1850 年に主要鉄道

網がほぼ完成し,それに目をつけたトーマス・クック(Th.Cook)は,英国国内やアメリカ合

衆国に団体遊覧を実施した.今日で言うところの,旅行会社主催の団体旅行・ツアー旅行

を実施したのである.この出来事は,歴史上初めて営利を目的として団体旅行を組織した

という点で,今日の観光産業の始まりということが出来る.クックを「近代観光産業の

父」という人もいる.19 世紀の終わりごろには,ヨーロッパと北アメリカ間の往来が活

発となった.20 世紀前半にかけて,大西洋の豪華客船時代が出現する.近代の観光は,

古代・中世の観光と違い,宗教的動機よりも知識欲や好奇心の方が観光の主な動機となっ

ていた. ここで日本においての観光の歴史を紹介することとする.日本においての 初の観

光も「宗教」を目的とするものであった.日本では,中世までの旅は危険であり,観光旅

行は一般的ではなかった.江戸時代に入り,治安が維持されるようになると,5 街道や宿

場の整備が進み,それとともに観光旅行は促進して行った,観光の発達の背景に,治安の

維持・交通網の発達が存在することは,日本・ヨーロッパ共に見て取ることが出来る.江

戸末期の観光形態は宗教観光の形をとった.「講3」を盛んに行った.伊勢の「伊勢講」や

「熊野講」などが有名である.伊勢講が帰途に大阪・京への回遊の楽しみを含めて盛んに

なったのに比べ,「熊野講」が,その立地から伊勢講のような楽しみが無く,衰退してい

ったことから,この種の宗教講には多分に道楽目的の観光としての性格を持っていたこと

が伺える.また,この頃から人々は観光に多様な目的を持っていたと言えるのではないで

あろうか. 第2次世界大戦後の先進国では大量の大衆による観光の時代,「マス・ツーリズム」の

時代を迎えた.観光がこのような時代迎えた背景には,以下のような要因が考えられる.

まず,鉄道・船舶以外にも航空機やマイカーなど,公通機関の整備・能力の飛躍的発達が

挙げられる.また,戦後の経済力の回復に伴い国民の所得の増加,余暇の増大,加えて,

マスメディアの発達による未知の世界の情報を人々が得やすくなったことも重要な要素だ.

他にも,都会への人口集中や公害の頻発などが,自然への逃避欲求を刺激するようになっ

たことも挙げられる.このような社会背景が現代の観光を飛躍的に発展させていった. 産業の観点から見ても,観光は急速に注目され始め,はじめに述べたように,観光は

国際取引の 大の産業となった.国内的効果としても,観光は国民厚生の増大と地域開発

3 庶民が月々の掛け金をもとに交替して遠隔地の神社仏閣に詣でること.

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Page 134: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

の促進にとって大きな効果を持っていると言える.各国の政府や地方公共団体は積極的に

観光を促進する政策をとっている.そのような観光のあり方は「ソーシャル・ツーリズ

ム」と呼ばれている. ここまで観光の歴史を見てきて,観光が発展する上で,その時代の様々な社会現象が

大きな影響をもたらしていることが見て取れた.観光が発達する要因を大きく見てみると

以下のようなことが言えるであろう.①治安の維持②経済の高度化③交通手段・道路網・

宿泊施設などの発達④知識水準・マスコミュニケーションなどの発達.これらの要因が,

「人が持つ知らない場所に行きたいという本能」を高め,その時代背景にあった形の観光

を推進してきたと言えるであろう.

1-2. 観光の動機・欲求 ここまで,観光の歴史を見てきて,人々の観光行動にはその時々の目的が存在するこ

とが見て取れた.そして,現在,人々の観光に対する目的は非常に多様化している.一般

的に人々は,観光に何を求めているのであろうか.このことを考えることは,観光による

まちづくりを考える上で,大きなヒントとなると私は考える.ここでは,人が観光行動に

至らせる動機・欲求を論じていくこととする. 人間が観光行動を行うには,欲求と動機が存在し,その上で目的が出来,観光行動に

至る.観光の欲求と動機は以下のように分類4出来るであろう. ① 心情的動機(思郷心,交遊心,信仰心) ② 精神的動機(知識欲求,見聞欲求,歓楽欲求) ③ 身体的動機(治療欲求,保養欲求,運動欲求) ④ 経済的動機(買物欲求,商用欲求)

これらの動機・欲求を元に人々は観光の目的を決定していくと言える.①の目的として

は,宗教的行事への参加や帰省などが挙げられる.②の目的としては,歴史的史跡の見学

や博物館・美術館の見学,スポーツ観戦,演劇観覧,音楽鑑賞などが挙げられる.③の目

的としては,湯治や保養,スポーツレクリエーションなどが挙げられる.④の目的として

は,ショッピングなどが挙げられる.このように,様々な動機から,観光に対する目的が

生じて来るのである.もちろん,全ての目的の説明になるような動機は存在しない.同じ

動機・欲求があれば,同じ目的を持つという単純な前提が成立しないことは明らかである.

しかし,上記に挙げた動機・欲求や,それ以外にも存在するであろう動機・欲求には,共

通して「非日常への憧れ」が見て取れる.観光の歴史でも述べたように,人間の本能には,

自然やその他異なった地域の風物を楽しむという観光欲求があると主張する学者もいる.

特に,組織化・合理化され人間個々人を押しつぶしてしまう傾向にある現代の社会,また,

都市化に伴う自然破壊,都市生活環境の悪化など極めて多くなっている現代では,日常か

ら脱出したいという欲求,「非日常への憧れ」が強くなっているといえるであろう.「非日

常への憧れ」は,人々が観光に求めるものの重要な1つであるといえる.高崎市の観光に

よるまちづくりを考える上でも,外から来た人が非日常を感じることが出来るようにする

ことが重要となってくるといえるであろう.

4 田中喜一,1950,『観光事業論』観光事業研究会.参照.

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1-3. 多様化する観光の形態 ここまでは,観光の概念や歴史,人々が観光に求めるものについて触れてきたのだが,

観光にはどのような形があり,高崎市はどのような観光によるまちづくりを目指せばよい

のであろうか.一括りに観光といっても,様々な形態がある.1970 年代の初めまでは,

慰安旅行が約6割を占め,これに見物・行楽を加えると約 8 割に達しており,団体での

親睦旅行が一般であった(鈴木 1984: 43).しかし,近年の観光の形態には様々なものが

存在する.観光の歴史でも述べたように,観光の歴史は古いが,その目的・形態は時代に

より違い,近年急速に多様化しているのである. このような変化をもたらしている要因の一つとして,交通手段の発達による観光の一

般化が挙げられるであろう.産業革命以前の観光は,比較的限られたエリートのみが出来

ることで,旅行出来ること自体が社会的ステータスであった.しかし,19 世紀後半にな

ると,鉄道による団体・集団旅行が広く行われるようになる.交通手段の発達により,経

済的格差による「いけるものといけないもの」という違いが出なくなってきたのである

(アーリ 1995: 29).20 世紀に入ると,自動車や航空機などの発達は,さらに地理的な

移動を平等化していった.観光が一般化したのである.こうなると,人々は以前より観光

に対し様々な目的を持つようになった.そして,趣味の違い,観光に対する目的の違いが

観光の形態を多様化させたのである.また,社会的格差の違いも,旅行先やそこで行うこ

との違いによって現れるようになった.つまり,観光の形態が旅行者にとって大きな意味

を持つようになったのである. 現代の人々は観光の形態を重視し,多様な「非日常」を求めるようになった.現代の

観光地は,そうした多様化したニーズに応えられる観光の形態をとる必要がある.そのた

めには,差異性・独自性のある観光地でなくてはならない.どこでも味わえる「非日常」

では,駄目なのである. 差異性・独自性のある観光地にするには,その地域の特色を生かした観光の形態を採る

必要がある.地域の特色とは,地域の性格である.地域の現行の経済・歴史・文化的強み

や独自性であったり,または,新しく作り出すものであったりする場合もあるであろう. ここで,高崎市の性格を考えたとき,①中山道の宿場町であったという歴史を持ち,

昔から現在に至るまで交流の拠点としての性格を持つ.②また,昔から商業都市としての

性格を持つ.特に,高崎市は「ショッピング」による集客力が高いと言える.③ショッピ

ングだけでなく,ビジネスでのヴィジターも多い.④交流の拠点なので,都心から日帰り

圏内であることから,ステイよりヴィジットに向いている.こうした性格を見ると,高崎

市の強みとして,その都市機能は無視できない.また,④高崎の市街地を少し離れるとす

ぐ近くに,自然やレジャースポット,田舎の風景など都市と相反するものが存在している

のだが,倉渕村,箕郷町,群馬町,新町,榛名町と合併した現在,これらを活かしやすく

なったという新しい可能性も生まれた.このことから,高崎の魅力は都市機能だけではな

いという柔軟性を持つと言えるであろう. こうした高崎の特色を踏まえた上で,高崎市の目指すべき観光の形態を考えると,「自

然・名称など」を観て回る「観る観光」や保養のためのステイを目的としたリゾート観光

の形を取るのではなく,その都市・地域自体の機能,また,そこでの人々の暮らしが魅力

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となり観光客を引き付けるような観光の形態をとるべきである.よって,高崎市は,都市

自体を観光資源とする「都市観光」を目指すべきである.また,高崎市の都市観光は,前

にも述べたように,「都市」と「自然(田舎)」という,相反するものを同時に味わえる,

柔軟性のある都市観光を目指せる可能性を持つものである. 1-4. 都市観光と文化 上記でも述べたように,都市観光をテーマに,高崎市の「まちづくり」を考えていく

のだが,ここで「都市観光」についての本稿における概念,また何が重要かをまとめてお

くこととする. 都市観光とは,前節でも述べたように,その都市自体の機能やそこで暮らす人々の生

活が観光資源となり,観光客を引き寄せる観光である.そのためには,その都市での「日

常」が,外から来た人にとっては「非日常」であるような,魅力的な都市の機能や暮らし

が存在する必要がある.「都市観光を創る会」5の調査によると,魅力有る都市の条件とし

て,「街並み,景観が良い」「食べ物がおいしい」「歴史,文化遺産がある」「地域に個性が

ある」などが挙げられている.逆に魅力のない都市としては,「個性がない」「不衛生」

「無機質」「何もない街」などがある6.このように,都市に個性や差異性があり,住む人

が暮らしやすく,その都市の「日常」が魅力的な都市は,外の人にとっても魅力的に感じ

るのである.さらに,都市観光を考える上で,魅力的な「日常」に欠かせないものの 1つとして「文化」の存在がある.木村(東大名誉教授)によると,都市観光とは「知恵が

求められる時代の『自分のためになる』観光」としている7.従来の物見遊山的なものだ

けでなく,多様な知的欲求に応えられるような,文化的経験や体験が,都市観光には求め

られるのである. 本稿で言う「文化」とは,街づくりの「ソフト」に当たるものである.その地域の歴

史や伝統文化,風土,また,その地域で営まれる芸術活動,さらにはスポーツなど広い視

点で文化を捉えていきたい.これらは,その地域にストーリー性をもたらすものであり,

来訪者にとって知的欲求を満たすものである.もちろん,観光産業を考える上で,都市観

光の場合も「ハード」の整備は重要である.たとえ魅力的な文化がその地域に存在したと

しても,街が汚く,交通の便が悪く,治安が心配な場所では,人々は訪れようとしないで

あろう.インフラが整備され,街並みが美しく,治安が良いなど,都市機能が整備されて

いる必要があるのである.つまり,実際にその地域に住む人が,住み良いと思える都市機

能を持った街である必要があるのだ.しかし,それだけでは個性が無く,無機質な街にな

ってしまう場合がある.また,個性的な街並みを造っても,施設や設備だけでは,一過性

のものになってしまう.そこに,ストーリーがある必要があるのである,北川は 21 世紀

の観光について以下のように述べている.

21 世紀の観光は,国内観光においても,国際的な観光交流においても,そこで得

5 産官学の代表者による都市観光の振興を図ることを目的とした会.平成 11 年(1999 年)7 月に設立.会

長は木村尚三郎東京大学名誉教授. 6 以上の都市観光をつくる会の調査による記述は,2000.10,『ニッセイ基礎研 REPORT』参照. 7 2000.10,『ニッセイ基礎研 REPORT』参照.

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る感動は,魅力的な観光地や施設の快適環境である「もの」と,観光それぞれの場で

付加される「ひと」による様々なホスピタリティやサービスによるところが大きい.

(北川 2004: 6)

つまり現在の観光には,これまでの物見遊山的な「もの」との交流だけではなく,そ

の地域の「ひと」によって営まれてきた,また,現在営まれている文化との交流が求めら

れているのである. 都市の機能の背景には,文化が存在する必要があるのだが,その文化は,京都のように

歴史や伝統に裏づけされたものであったり,宇都宮の餃子のように歴史とは関係なくまっ

たく新しくつくり上げたものであったりしても良い.街に,ストーリーが存在することが

重要なのである.東京ディズニーリゾートのリピーターが,全国の他の遊園地に比べて非

常に多いのは,ただ楽しいアトラクションがあるのではなく,そこにウォルト・ディズニ

ーのストーリーが満載されているからではないだろうか.何度行っても,ウォルト・ディ

ズニーの世界の雰囲気やストーリーを楽しめることが,多くのリピーターを呼ぶ 1 つの

理由だと筆者は考える. はじめにでも述べたように,観光を新たな機関産業として捉える観点から考えても,

文化は無視できない.なぜなら,近年,文化も新たな産業として大きく期待されるように

なって来たからである.日本の文化産業,特にポピュラーカルチャーが,重要な輸出産業

となってきていることなどを背景に,1990 年頃から,文化の持つ経済力が注目されてい

る.また,2000 年頃からは,「文化政策」が都市計画の中核的要素として導入されるよう

になって来た.文化に手をかけることは,経済・社会的効果を得ることが出来ると言われ

るようになって来たのである.このように,近年,経済的・社会的に注目されている「観

光」と「分化」の領域は切り離して考えることは出来ないのである. 以上のことから,都市観光において文化は重要なものであると捉え本稿を進めていく

こととする.

2.高崎市の都市観光における可能性と課題 本章からは,高崎市の具体的な観光戦略について論じていくこととする.そのためには,

まず高崎市の現状を把握する必要がある.1-3 でも述べたように,高崎市は,「都市」と

「自然(田舎)」という相反するものを同時に味わえるという可能性を持つ.本章では,

高崎市という都市(特に中心市街地)に存在する都市観光資源と,自然や名勝,田舎の暮

らしといったものに存在する自然・人文観光資源に注目し,観光地としての可能性・問題

点を述べることとする. 2-1 都市観光資源の可能性 高崎市の都市に存在する観光資源は,どのような点から見出すことが出来るのであろう

か.ここまで述べてきたように,高崎市は都市観光としての観光地を目指していく.魅力

ある都市の条件である個性や差異性に注目し,その都市の風土や歴史,地理,文化を見て

いくこととする.また,高崎市の「日常」にも注目したい.これまで繰り返し述べてきた

ように,都市観光において地域の「日常」は重要な観光資源である.何らかの集客施設を

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造り,人を集めるだけでは観光振興は成功とは言えない.そのような観光地は一過性のも

のに過ぎないのである.一人でも多くのリピーターが訪れてくれることが,持続的に発展

する観光地に重要なのである.リピーターの多いまちの代表と言える京都や金沢は,その

都市が,来訪者にとってひとつのテーマパークとなりえているのである,と北川は述べて

いる(北川 2004: 164).それらのまちでは,地域で培われてきた「日常」が魅力となり

リピーターを多く引き付けているのである.よって,高崎市の観光を考える上で,魅力と

なる可能性を持つ「日常」を押さえておくことは重要なことなのである.

資源① 交流の拠点

高崎市は,中仙道の宿場町であったという歴史を持つ.明治以降,田町・九蔵町など旧

中山道沿いを中心に,市内各地に600余りの卸売業者(問屋)がひしめき,関東甲信越

一帯を商圏とする物資の集散地として栄えてきた8.高崎市の近代化の担い手は,地元の

有力な商人であり,商業都市として栄えてきたのである.つまり,高崎市は,昔から「モ

ノ」「ヒト」の交流の拠点としての性格を持っていたのだ.関東と甲信越を繋ぐ地点に位

置することや東京から新幹線で約 1 時間の距離にあることから,現在も交流の拠点とし

ての性格を,他の類似都市と比べても,強く持つと言える.この性格からは,多くのヴィ

ジターを期待できる可能性を見出すことが出来るであろう.外から来訪者が気軽に立ち寄

ることが出来る地点に高崎は位置するのである.

資源② コンパクトな都市

高崎は面積的に見てコンパクトな都市であるといえる.高崎の市街地域は,ほとんどが

徒歩圏内に入ると言える.よって,大規模な公共交通の整備を行わなくとも,徒歩によっ

て街に回遊性をもたらすことが可能なのである.確かに,高崎の街は面積的に広くないの

で,小さな街のイメージを持たれてしまいがちだが,都市機能の密度を濃くすることが出

来れば,十分魅力的な街となりえるのである.

資源③ 商業都市

上記で述べたように高崎は商業を中心に発展してきた歴史を持つ.現在でも商業都市と

して意味合いは強く,特にショッピングにおける集客力は非常に高い.高崎市の人口 23万 8 千人(旧高崎市)に対し,小売吸引人口は 35 万 7 千人もいるとのことである9.中

高年層は高島屋・スズラン,若年層はヴィブレ・モントレを中心に,群馬県内や上信地区,

埼玉県北部からの客が多い.背景としては,関東と信越を繋ぐ位置にあること,群馬県内

の鉄道の始点に当たることなど,高崎が公共交通の結束点に位置しているため訪れやすい

ことが挙げられる.また,高島屋・スズラン・ヴィブレのような大型のデパート以外にも

若年層向けの店を中心に個性的なショップの存在もショッピングの高い集客力の背景にあ

るであろう.公共交通の結束点であることから,ビジネスでの来訪者も多いことにも注目

したい.高崎のショッピングの一番の利用者は高崎市民であり,高崎の商業は高崎の「日

常」と言える.高崎市の「日常」である商業都市は,その機能を高めることによって来訪

8 高崎市ホームページ http://www.city.takasaki.gunma.jp/gaiyou/taka100/taka73.htm 参照. 9 平成 17 年度高崎市産業活性化委員会会議録 参照.

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者を引き付けるという可能性を持っているのだ. 資源④ 「音楽のあるまち」高崎

現在高崎市は,「音楽のあるまち」を宣言し,文化政策として推進している.背景とし

ては,高崎市に財団法人群馬交響楽団10という,日本の地方管弦楽団の草分け的存在の楽

団の本拠地であることが挙げられる.また,BOØWYのメンバー二人を排出するなど,バ

ンド文化の土壌が厚いという,クラシックだけではない音楽の資源が存在することも注目

できる.現在,高崎市で行われている音楽に関するイベントや活動で注目できるものには,

「高崎音楽祭11」や「フェト・ド・ラ・ミュージック12」,「森とオーケストラ13」,「高崎

野外音楽祭14」などが挙げられる.また,音楽を通じたまちづくり取り組む団体として,

高崎文化事業団,高崎青年会議所,高崎音楽復興委員会15,WATER MUSIC16などが存

在する.施設としては,群馬交響楽団のホームグラウンドである群馬音楽センター,市民

が表現活動の場として使える高崎シティーギャラリーなどがある.また,高崎club FREEZやDUST BOWL REFUGEといったロックカルチャーの表現の場であるライブハ

ウスの存在も忘れることは出来ない.このように音楽の資源は存在していることは確かで

ある.だが,現状では,高崎のまちの「日常」に音楽があふれ,内外に認知されていると

は言えないと筆者は感じる.しかし,音楽を上手く街のストーリーとすることが出来れば,

音楽が高崎市の都市観光の魅力となる可能性は十分あるだろう.

資源⑤ スポーツ

連日,各メディアでスポーツの情報が発信されていることからもうかがい知ることが出

来るように,現在,人々のスポーツに対する関心は非常に高まっているといえる.背景と

しては,オリンピックやワールドカップなど世界の舞台で,各競技の日本人選手が活躍し

ていることなどが挙げられるであろう.また,国民の余暇の増加や健康志向の高まりもあ

って,スポーツを観戦するだけではなく参加することにも関心が高まっている.このよう

なスポーツへの関心の高まりを背景に,近年,スポーツ振興をまちづくりの一環として取

り入れる動きが各自治体で見られる.高崎市でも教育委員会によって「プロ野球イースタ

ンリーグ公式戦17」の誘致や「バスケットボール 3on3 大会」,「子供球技大会」,「高崎市

民スポーツフェスティバル」など,市民参加型のスポーツレクリエーション大会が実施さ

10 1945 年 ,戦後の荒廃の中で文化を通した復興を目指して「高崎市民オーケストラ」が創設され, 翌年

「群馬フィルハーモニーオーケストラ」, 1963 年に「財団法人群馬交響楽団」と改称して現在に至る.

(群馬交響楽団ホームページ参照) 11 高崎市が,高崎の新しい都市文化の創造と情報発信を目指して市制執行 90 周年記念事業として企画

した音楽祭. 12 世界 170 カ国同時開催の音楽祭.フランス発祥のムーブメントで,毎年夏至の日に開催される.この

日は,プロ・アマ問わず,全ての人が街で音楽を楽しもうということで,路上で演奏などが自由に出来

る. 13 群馬交響楽団による参加型野外コンサート.群馬の森で開催. 14 群馬 大のロックの祭典.群馬県の出身バンドを始め,県内外で活躍するバンドが出演.もてなし広

場で開催. 15 高崎の音楽復興を目指し創られる.高崎を中心に活動するバンドや高崎出身のアーティストを応援. 16高崎のストリートミュージシャンをリードする音楽プロダクション.各種ライブの開催,CD の通販な

ども行っている. 17 インボイス対巨人戦.場所は,高崎市城南野球場.

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れたり,スポーツイベントの誘致・開催が行われたりしている.また,高崎には日本でト

ップレベルの女子ソフトボールチームが2つもある18.サッカーでも,JFL所属の「アル

テ高崎」がある.これらは,「音楽」の場合と同じく「日常」に根付き,内外に認知され

ているとは言えない,また教育としての観点で行われており,観光としての視点では行わ

れていないのが現状だが,高崎市がまったくのスポーツ不毛の地ではないことを意識した

い.近年のスポーツへの関心の高まりを見ても,スポーツを高崎市の魅力とする可能性を

見出すべきである.

資源⑦ 都市と自然を手軽に,同時に楽しめるまち高崎

高崎は,東京から電車で草津・伊香保などの温泉地に行く場合,中継地点に位置する.

この条件を生し,温泉地に行く前に高崎で昼食を取り回遊できるようにすれば,伊香保や

草津に向かう観光客も高崎市街地に引き寄せることが可能になる.また,高崎市は,平成

18 年 1 月 23 日に,倉渕村,箕郷町,群馬町,新町と,10 月 1 日には榛名町と合併した.

合併によって,高崎市街地の都市空間と自然あふれる榛名や倉渕で連係した観光がつくり

やすくなった.この新たな可能性にも注目したい.榛名・倉渕などと高崎市街地に回遊性

を持たせることが出来れば,都市と自然を手軽に,同時に楽しめる都市観光が高崎市の魅

力となるのである.

資源⑧ 観音山

高崎市には,市街地からすぐのところに市街を一望できる観音山が存在する.夜には,

高崎市街の夜景を一望できる,夜景スポットである.筆者は,夜景スポットとしての可能

性に注目し,観音山を自然観光資源として捉えるのではなく,都市観光資源として都市観

光資源として捉えることとする.夜景は重要な都市観光資源である.北海道の函館やオー

ストラリアのシドニー,中国の上海などでは,街全体で夜景をつくるために政策を取って

いる.これらの地を訪れる観光客にとっては,夜景だけで一つの観光目的となっているの

だ.高崎の場合,都市の規模からみても,夜景だけで観光客を呼ぶことは難しいと思うが,

山という自然の中から都市の夜景を一望することは,都心ではなかなか出来ないことなの

で,音楽や食と複合的に活用することで,十分観光資源となりえる可能性を持っていると

考える.

資源⑨ 食文化

食文化の可能性としてパスタや高崎うどん,オランダコロッケなどがある.特に,高崎

は「パスタのまち」を自称するように,パスタの店が多く存在する.宇都宮の餃子の場合

を見ても分かるが,食文化は重要な観光資源と言えるのである.

資源⑩ 高崎染

高崎のように商業都市の都市観光において,街のブランドとなるような観光商品は必須

である.その 1 つの可能性として,高崎には高崎染(捺染)と呼ばれる伝統工芸が存在

18 日立&ルネサスと太陽誘電.

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する,群馬は養蚕業を中心に発展してきた歴史を持つ,高崎の場合も例外ではなく「高崎

絹」と呼ばれ,高崎の商都を形成する大きな原動力であった.高崎絹の発展に付随する形

で,その絹を染める技術も発展し,「高崎染」は「京染」「江戸小紋」「加賀友禅」と肩を

並べる 4 大産地であった.こうした伝統工芸を観光資源として活用している例は全国に

いくつもある.昔の日常品は,現在の観光客の知的欲求を満たす観光商品として形を変え

存在することが出来る.昔の「日常」は,現在の「非日常」として観光資源となりえる可

能性を持っているのである.しかし,現在「高崎染」の知名度は他の染物の産地と比べて

も明らかに知名度が低く,担い手も少ない.「高崎染」を高崎の街の「日常」として見直

す必要があるのだ.そうすることによって「高崎染」が都市観光資源となりうる可能性を

見出すことは出来るであろう. 上記以外にも高崎市の都市観光資源としての可能性は存在する,こうした資源は挙げた

ら限がないので,筆者が重要と考えるもののみで留めておくこととする.こうして,高崎

市の都市観光資源を見ると,可能性は存在するが,「日常」に根付いているとは言い難く,

内外に認知されていないものが多い.ここに,高崎市の都市観光における課題を見出すこ

とが出来るのではないであろうか.こうした高崎市の問題点は,ひとまず 2-2 で自然・人

文観光資源を見た後,2-3 以降で考察していくこととする. 2-2. 自然・人文観光資源の可能性 先にも述べたように,高崎市はその立地から,都市と自然を手軽に,同時に楽しめる可

能性を持っている.ここでは,自然・人文観光資源の可能性について論じることとする.

では,自然・人文観光資源とは同のようなものであるのか.①自然観光資源とは,地形と

植生が一体化して資源性を高める山岳・高原・湿原・峡谷・湖沼・河川・海岸などの自然

景観や動植物,温泉などであり,②人文観光資源とは,神社・仏閣・史跡・庭園・公園・

年中行事や農村漁村の郷土景観,近代的建造物を含む都市景観などのことである19.本章

では特に,合併し新しく高崎市となった,旧町村部20の自然や田舎の暮らしに注目して,

これらの地に潜在する自然・人文観光資源の可能性を見ていく.

資源① 榛名山

高崎の自然・人文観光資源として榛名山の存在は,まず押さえておきたい.榛名山は上

毛三山の 1 つであり,水神・農耕信仰の地として関東一円から講を集めていた榛名神社

や四季を通してレジャーを楽しむことが出来る榛名湖を有している.また,南総里見八犬

伝で有名な里見氏発祥の地であったり,茶聖で有名な千利休の地であったりと,歴史的価

値の高い地である.榛名一帯は,梨や葡萄の産地でもある.このように,多様な目的の観

光レクリエーション客の欲求に応えることが出来る榛名山一帯は,都心から近いこともあ

り,多くの観光客を引き付ける可能性を持つ自然・人文観光資源といえる.

19 以上,自然・人文観光資源についての記述は,(鈴木 1984: 72)参照. 20 高崎市は,平成 18 年 1 月 23 日に倉渕村・箕郷町・群馬町・新町と市町村合併した.同年 10 月 1 日

には榛名町と合併した.新たな市の人口は 34 万人を超え,面積は 401.01 平方キロメートルに及ぶ.

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資源② 榛名湖

山上にある榛名湖は,榛名火山の活動によって生まれたカルデラ湖である.水質も良く,

中央火口丘の榛名富士や外輪の山々を映し出す非常に美しい湖である.春は花見,夏はキ

ャンプなどのレジャー,秋は紅葉,冬はワカサギ釣りなど四季を通して楽しむことが出来

る.

資源③ 榛名神社

榛名神社は約 1400 年前に創建された延喜式内社で,現在でも関東一円に榛名講を持つ.

神仏混交の歴史を持つ門前には,講中の人々を宿泊させる宿坊を中心にした社家町が形成

されている.神社入り口より本殿までの約 700 メートルの参道は,清流に沿い,老杉と

巨岩奇岩の続く景勝の地・幽玄の社で,自然・人文資源の豊富な地域である21.高度経済

成長期に他の農山村と同じく衰退が著しかったが,榛名神社・社家町再生を目的とした社

家町活性化委員会によって,食文化として門前町の伝統料理を取り入れた「門前そば」を

観光商品にする,神社神殿で春秋開催の弦楽 4 重奏およびジャズによる「幽玄の社音楽

会」を企画するなど,現在では様々な取り組みが行われている.こうしたユニークな取り

組みによって,宗教意外に観光客を引き付ける自然・人文観光資源を持つようになったと

言える.また,2005 年に社殿や宿坊が,国の重要文化財や登録文化財に指定された.こ

うした,文化財登録されることは,観光客の誘致力を高める上で重要なことである.この

ような自然・人文観光資源を持つ榛名神社の存在は,高崎市の観光において大きな可能性

を持つと言えるであろう.

資源④ 周辺の有名観光地

群馬県は 70 以上の温泉が湧く関東一の「温泉王国」(青柳 2006: 38)である.代表的

なものとして伊香保温泉や草津温泉があり,これらは県内外に広く知られる温泉地である.

もちろん伊香保や草津は高崎市ではない.しかし,高崎市の観光を考える上で,たとえ行

政区域が違ったとしても,これらの存在は無視できない自然・人文観光資源であると筆者

は考えるので,ここで触れることとする. 高崎は群馬の玄関口に位置する.都心から伊香保や草津に訪れる場合,高崎を通過し,

これらの地に行くこととなる.また,伊香保と榛名は同じ榛名山麓にあり,近くに位置す

る.こうした高崎の立地を活かし,温泉地に訪れる観光客を高崎市にも誘致することが可

能性となれば,伊香保や草津といった有名温泉地は,高崎市にとっても貴重な自然・人文

観光資源と言えるであろう.

もちろん,自然・人文観光資源の場合も,2-1 で述べた都市観光資源の場合と同じく上

記以外にも多数存在する,しかし,ここで取り上げるのはここまでとする.

2-3. 高崎市の観光における課題 本章では,ここまで高崎市の都市観光資源と自然・人文観光資源について述べてきた.

21 以上の榛名神社についての説明は,(崎経済大学都市地理学・政策研究室 2006)参照.

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Page 143: 2006 年度 卒業論文集 - Fiber Bit · 一方で、関西弁や九州弁といった西日本の方言は前述した 印象はなく、堂々と方言を使い、一つの言語文化として受け入れられているのである。

本節では,そういった観光資源を活かしきれていない実態,そこにある問題点を,高崎市

の都市観光における課題として述べていくこととする.

課題① 交通の結束点

先にも述べたように高崎市は交通の結束点としての性格を持つ.2-1 では,その性格を

都市観光資源としての可能性を持つと紹介した.しかし,この性格は利点である反面,高

崎市にとってマイナスの側面も持つことを理解しておきたい.新幹線など公共交通が整備

されたことにより,来訪者が気軽に高崎に訪れることが出来るようになったが,ストロー

効果的に人口の流出を招いたり,日帰り圏内なったことによるオフィスの撤退を招いたり

と,マイナスの影響もある.また,他の観光地に行くための単なる通過点になってしまう

場合もある.実際,高崎に停車しない新幹線も何本かある.また,例え停車しても駅のホ

ームから出て,高崎の街を回遊してくれなければ意味がないのである.安中榛名駅や長野

県の佐久平駅を見ても判るが,新幹線が通るだけでは地域観光の発展にはつながらないの

である(佐久平の場合は,首都圏のベットタウンとして発展し始めているが).交流の拠

点として都市観光を発展させるには,交通の結束点であると共に,その地に立ち止まらせ

る魅力が存在することが必要なのである.

課題② サイン不足

高崎は外から来た者にとってわかりやすい街であるだろうか.観光客が高崎駅から出て

高崎の地に降り立ったとき,戸惑うことなく観光を始めることが出来るであろうか.筆者

は県外出身だが,高崎に住んで間もない頃,高崎の街を歩くときよく道に迷った.また,

バスを利用する時も,どのバスを利用すればよいのか非常に判りにくく感じたのを覚えて

いる.高崎の街には,通りの名が書いてある看板や標識があまり見当たらない,どこにど

の施設があるのか案内するものが少ない.高崎は観光客を案内する機能,つまりサインが

不足しているのである.これでは観光客にとって親切な街とは言えない.観光地にとって,

こうしたサインを充実させることは重要なことである.

課題③ 市街地の空洞化

高崎市街地は,他の地方都市と同じく空洞化の問題を抱えているように思われる.程度

は深刻なほどではないが,駅を降りてすぐに見えてくるビル(ウエ ストワンビル,ラ・メルセ)の空テナントの多さや商業機能の偏り(高崎駅から役所を繋

ぐシンフォニーロードより北側に偏っている),夜間の人の少なさなどから,うかがい知

ることが出来る.原因としては,高崎市の都市機能が拡散していることが挙げられる.車

社会である群馬の都市なので,必然的なことなのかもしれないが,駅前ビルの空テナント

の多さなどは日常生活・都市観光両面において解決すべき重要な課題である.

課題④ 夜の街の文化

③でも触れたが,高崎市街地は夜間の人が少ないように思われる.伊香保や榛名といっ

た周辺の観光地からの帰りに,高崎に寄っていくとしたら,時間帯は夕方以降になるのが

普通であろう.また,日常を考えても,昼間は多くの人が働いているので,夜間,仕事帰

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りの人を集客できることは経済的に大きな意味を持つ.高崎の場合,夜間の飲食店などは

他の都市と比べても少なくないと思われるので,イベントなどの文化が,高崎の夜の街に

は足りていないのだと考える.夜の街が活発になることは「日常」的なことであるが,夜

の街が面白いと思える街は観光客にとても魅力的な街なのである.

課題⑤ 希薄なストーリー性

1章で繰り返し述べたように,街に「ストーリー性」があることが都市観光においては

重要なことである.それは,高崎らしさであり,観光客を引き付ける魅力=「非日常」な

のである.しかし,2-1 で都市観光の資源として,「音楽のあるまち」や「スポーツ」,伝

統工芸として「高崎染」を紹介してきたが,これらの「文化」は高崎市の「日常」として

十分馴染んでいないのが現状である.「音楽」の場合を見ると,高崎市でもいくつかのイ

ベントが行われているが,単発で一過性のものに過ぎない.また,ウリである群馬交響楽

団の音楽は,一般にハイカルチャーとしての認識が普通のクラシックであるので,どうし

てもそれを楽しむ層が偏ってしまう.こうした原因が「音楽」が「日常」になっていない

背景に挙げられるであろう.「文化」は,ただ資源として存在するだけではなく,そこに

住む人の「日常」として根付き,内外に広く認知されて始めて地域の「魅力」となるのだ.

そのためには,高崎市は今以上に工夫を凝らすことが求められる.

課題⑥ 土地利用

高崎市は土地利用の面でも解決しなければならない課題がある.特に筆者が問題である

と考えているのは,「カッパピア22」「高崎競馬場23」の跡地の問題である.まず,カッパ

ピアについてだが,観音山山中にあったカッパピアは廃園になった後,取り壊されること

なく廃墟となっている.そこに興味本位で不法侵入するものが増え,周辺の治安悪化の原

因となっているのである.高崎市の重要な都市観光資源となりうる観音山に,こうした社

会問題を抱えた地があることは由々しい問題である.次に,高崎競馬場についてだが,廃

止後は場外馬券販売所となっている.跡地の利用については様々な案が出ている.高崎市

でも検討委員会を設けて話し合われているが,地権が複雑に絡んでいることや場外馬券販

売の黒字などが原因で,跡地利用の目処が付いていない現状にある.しかし,高崎駅東口

すぐの広大な土地が,場外馬券販売のみの機能しか持たないのでは,健全な土地利用が出

来ているとは決して言えない状況である.この2つの問題を含め,高崎市の土地利用は改

善すべき点がまだ多く存在すると思われる.都市観光において,有効な土地利用は重要な

課題である.確かに,地権や土地法など複雑な問題があり,困難な課題であるが,都市観

光によるまちづくりを行うのであれば解決しなければならない.

課題⑦ 治安

22 入場者数の減少,施設の老朽化を原因に,2003 年 11 月 30 日,42 年間の営業期間に幕を下ろし閉鎖. 23 近年の累積赤字経営が原因で,2004 年 12 月 31 日を以て廃止.2005 年 3 月までは,群馬県競馬組合

が地方競馬他場の場外発売,JRA の場外発売を行い,4 月 1 日より株式会社日本レーシングサービスに業

務を引き継ぎ「BAOO 高崎」(バオーたかさき)として引き続き地方競馬他場の場外発売を実施する.

(JRA の場外発売も継続する.)

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観音山の治安について触れたので,ここで観光地と治安の重要性について述べておくこ

ととする.1章の観光の歴史でも述べたが,観光の発展の歴史において,治安は重要な要

素であった.観光客にとって治安が良いか悪いかは重要な問題なのである.日本は世界的

に見ても治安は非常に良い,高崎市も他の都市と比べて決して悪くはないと思われる.し

かし,観音山や夜の中央銀座などは治安の悪いイメージを受ける.実際,観音山では山頂

駐車場で夜間に暴走行為が行われている,中央銀座には風俗店などの呼び込みが多いなど

問題がある.高崎市が都市観光で発展するためには,こういった問題の解決に取り組むこ

とが必要だ.

課題⑧ 周辺の自然・人文観光地と市街地の回遊性

先に述べたように,高崎市は市街地の周辺に豊富な自然・人文観光資源が存在する.し

かし,現状では個別に存在するだけで,そこに回遊性があるように思えない.伊香保や榛

名の観光客が行き・帰りに高崎市街地に立ち寄っていく,そうした流れを生み出す必要が

ある.また,高崎だからこそ可能なことであると思われる. 以上,高崎市の都市観光の可能性と課題を現状として述べてきた.高崎市は活かすべき

資源を豊富に持っていると同時に,解決すべき課題も多くある.次章では,他地域の事例

を参照にしつつ,高崎市の都市観光がどのように進んで行くべきか筆者なりの提案を述べ

ることとする. 3.高崎市の都市観光に対する提案 本稿では,ここまで「観光」の概要,「都市観光」のあり方,高崎市の現状(可能性・

課題)について考察してきた.それらを基に,本章では高崎市の都市観光のあり方につい

て,筆者なりの提案をしていくこととする.本提案には,法や利権の関係で実現が困難な

ものもある.しかし,そうした問題が存在することは承知の上で,高崎市の発展を強く希

望する意をこめて,あえて困難な提案も記すこととする. 3-1. ハードにおける提案 都市観光においてハードの整備は重要な課題である.先に述べたように,インフラが整

備され,街並みや景観が良く,衛生的な街は,訪れたいと思える街である.また,地域に

実際に住む人が住みやすく,活き活きと暮らせる街も,魅力ある街である.高崎市も住む

人・訪れる人両方に優しいまちになるようハードの整備を行うべきである.

提案① サイン計画

住む人にとても,訪れる人にとっても優しいまちとして,まず取り組むべきは,「わか

りやすいまち」にすることであると筆者は考える.観光客が高崎の地に降り立ち,どこに

行くか,何をするか戸惑うことのないまち,また,住民が生活する上で必要とする情報を

入手しやすいまちをつくるために,サイン計画を始めとした,案内機能の整備を提案する. サインとは,案内板や標識ことで,サイン計画とは,そうしたサインをどのように設置

するかの計画である.2-2 でも述べたが,高崎市はサインが街中にあまり見当たらず,外

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から来た者にとって分かりやすいまちとは言えない状況にある.ここでサインが整備され

ている街の事例として横浜市のサイン計画を紹介する24.①様々な来訪者に対し,街を分

かりやすくする.②横浜の 3 地区(関内・関外・みなとみらい21)に渡り回遊性を高

める.以上2点を目的とし,街の構造・施設分布を分析した上で,適切にサインが配置さ

れている.横浜市の具体的なサイン設置方法は以下の点が優れている.①街の拠点を 3段階(大拠点・中拠点・誘導拠点)に設定し,それぞれのレベルによって情報量を制限し,

サインを設置している25.こうすることによって,必要以上に目立ったサインを設置し,

景観を損ねることを防いでいる.②3 段階共通して設置されている矢羽式誘導サインをた

どっていけば,地図を見なくとも目的地にたどり着けるようになっている.③街の主要軸

と施設の配置を考慮し誘導することによって,街に回遊性を持たせている.④地図内の情

報変化が多い都市では,年 1 回程度情報更新が必要となる.横浜市の場合,本体をガラ

スケースとし,中に地図を印刷したマイラー紙26を貼る構造にすることによって,情報更

新を容易に行えるようにしている.⑤大拠点のサインには,視覚障害者,子供,老人に対

して,音声・触知案内図を設けている.もちろん英語での案内もされている.様々な来訪

者に対応できるように,こうしたユニバーサルデザインの考えもサイン計画には重要であ

る.また,サインのデザイン性も重要であると考える.デザインに統一性があり,街の雰

囲気ともマッチしていれば,サインは景観を作り出すひとつのツールとなる可能性がある

のだ.都市観光によるまちづくりを行う高崎市においては,横浜市のサイン計画の優れた

点などを参考にしながら,早急に,計画的にサイン計画に取り組む必要がある. また,観光客に向けてのサインを充実させると共に,住む人に向けてのサインの充実も

必要である.そこで案内される情報は,住む人の生活に役立つ情報である.例えば,高崎

は車社会なので,交通情報が案内されているサインが街中にもっと充実していてもいいで

あろう.札幌市の市街地では,主要幹線道路に,周辺駐車場の位置や空車・満車情報が電

光掲示板によって案内されている.これによって,入庫待ちの渋滞が解消されたり,駐車

場を探す手間が省けたりしている.また,バスの乗り場が高崎は分かりにくいので,どの

バスがどこに行くのか一目で分かる案内板や,行き先や到着時間,目的地の情報が調べら

れるような検索端末を設置しても良いであろう.このようなサインも計画に入れ,内外の

人にとって分かりやすいまちづくりをするべきである. ただ,ここで一つ問題となるのは,高崎市の都市観光の有力な資源である各商業施設は,

行政主導のサイン計画では誘導の目的地として設定することが難しいことだ.よって,高

崎市の場合は民間主導でのサイン計画考えていく必要もあることを念頭に入れておきたい.

提案② コンパクトシティ

高崎市の課題として空洞化の問題がある.都市観光において都市の機能が観光の魅力と

なる,その都市が健康な機能を持っていることは必須である.よって,空洞化の問題は必

24(浜市都市計画局都市企画部都市デザイン室 2003)参照. 25 大拠点となる駅前に,市都心部全域の地図と,広域の交通案内図を併設し,総合的な情報案内をおこ

なう.また主要な交差点である中拠点には周辺案内図を設置.その他交差点には矢羽式誘導サインのみ

設置する.3 段階の拠点に共通し,矢羽式誘導サインを設置. 26 耐水性のある樹脂系の紙.

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ず解決しなければならない問題だ. まず,高崎市もコンパクトシティ27という考えを多少なりとも持つ必要があるように思

う.高崎市の都市機能は,①車社会である②公共交通の不発達、を背景に広範囲に拡大し

ている.確かに,①②を変えるのは高崎では困難なことであり,高崎市がコンパクトシテ

ィに向いているとは言えないであろう.しかし,中心市街地に都市機能を集中させ活性化

しようとするコンパクトシティの考え方は,都市機能が魅力となる都市観光において無視

できない考えである.そうした考えを持ちつつ,高崎市は以下の点に取り組むべきである

と提案したい. ① まず,ウエストワンビルや,ラ・メルセといった駅前の好立地にあるビルの空きテナ

ントを無くす必要がある.駅を降りてすぐの所に,空きテナントの多いビルがそびえ建っ

ていることは悲しい限りなので,行政や民間でテナント誘致活動を行い解決するべきであ

る. ②次に,商業施設の偏りを無くす必要がある.現在の高崎の市街地は,商業施設がシンフ

ォニーロードより北側に偏っている.よって,人の流れがシンフォニーロードより北側に

偏って流れてしまい,南側にはほとんど流れてこないのが現状である.そこで,商業施設

を満遍なく配置できるよう誘致し,商業施設によって回遊性を生み出す必要性がある. また,街の雰囲気が統一されていると,人々は魅力を感じ引き寄せられる.横浜の中華

街やみなと未来21,金沢の茶屋街など,そのエリアの雰囲気に人は魅力を感じているの

である.高崎の場合も,エリアと雰囲気と言う概念を念頭に入れまちづくりを行うべきで

ある.具体的な提案としては以下の通りである.【図 1】 ⅰ:ビブレ・高島屋からスズラン・もてなし広場までの通り(通町・連雀町・鞘町・宮

元町周辺)を「近代的なまち」をテーマに,街の景観整備や中高年・若年層向けの 新の

ファッションなどの店を誘致する. ⅱ:中央銀座周辺を,昭和の雰囲気を活かし,レトロな店を誘致する.また,中央銀座

に関しては,風俗店などに対し規制をしたり,照明を明るくしたりし,夜でも安心して歩

けるようにする必要もあるだろう. ⅲ:昔の観音山までの参拝道であった,高崎市美術館から聖橋までの道り(八島町・新

田町・下横町・若松町周辺)を,寺院が多いことを活かしつつ,歴史的情緒ある街並みを

つくる.そこに,「高崎染」を関連させても良いであろう.この通りをうまく商業地とす

ることが出来れば,高崎市街地の人の流れの偏りも解消できるであろう. 上記のようなエリアの概念を念頭に入れたまちづくりも必要である. ③もちろん公共交通の整備にも力を入れるべきである.市街地にマイクロバスを循環

させたり,市内循環バス「ぐるりん」が観光スポットを回りながら巡回するようにしたり,

「ぐるりん」の本数を増やしたり,また循環バスだけでなく観音山や群馬自然の森と言っ

た観光スポットへのシャトルバスも整備するべきである.公共交通の整備は,観光客にと

っても,そこに住む人にとっても重要なことである. 以上のような市街地の整備に取り組み,中心市街地の都市機能を高めることは,高崎市

27 主にヨーロッパで発生した都市設計の動き,またその背景にある思想・コンセプト.都市郊外化・ス

プロール化を抑制し,市街地のスケールを小さく保ち,歩いてゆける範囲を生活圏と捉え,コミュニテ

ィの再生や住みやすいまちづくりを目指そうとする発想.

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の都市観光の魅力を高めることにつながるのである. 提案③観音山の整備 観音山の特に展望機能の整備事業も取り組むべき政策として提案する.先にも述べたよ

うに,観音山は高崎市街地の夜景を一望できる位置にある,また,市街地からの距離も近

いことから,絶好の夜景スポットである【図 2】.しかし,現在観音山山頂に有効な展望

機能は存在しない.また,夜間暴走行為を行う者がいるなど,治安の問題もあり,観光地

とは言えない状況にある.よって,高崎市は観音山山頂に展望施設を整備するべきである.

市街地周辺の山に展望施設を整備し観光資源としている事例として,札幌の藻岩山28の例

が挙げられる.藻岩山山頂には,札幌市街の夜景を一望できる展望施設があり,展望施設

には夜景を眺望しながら食事を取れるレストランが付属している.アクセス方法としては,

ロープウェイ・自動車道・雪上バス29が用意されており,様々な観光客に対応できるよう

になっている.藻岩山は,年間約50万人が訪れる市内有数の観光地となっているとのこ

とである30.【図 3】また,「MOON VIEWING ~藻岩山の秋~」という,夜景とコンサ

ートと食を楽しむことの出来るイベントも行われている.高崎市も観音山山頂の展望施設

を整備し,食や文化といった付加価値を付けることで,改めて観音山の観光機能を見直す

必要がある.特に,文化の付加価値を付ける際に,「音楽」のイベントなどを行うコンベ

ンションホールとして機能を観音山山頂に持たせれば,「音楽のあるまち高崎」を内外に

アピールする有効な場となるであろう.また,観音山山頂を,夜間も観光客が多く集まる

観光地として整備することが出来れば,山頂で暴走行為などを行うことも難しくなり,周

辺の治安回復にもつながることが予想できる.

提案④ 高崎競馬場跡地のコンベンションホールとして活用

現在,高崎駅周辺の人の流れは西口に偏っている.背景としては,①商業施設が西口に

集中していること②東口には目立った観光資源がないこと、が挙げられるであろう.そこ

で,東口にある高崎競馬場跡地をコンベンションホールとして機能させることを提案した

い.高崎競馬場の施設自体は歴史的建造物として保存し,中で音楽やスポーツのイベント,

物産展など様々なイベントを行うコンベンションホールとして利用することで,人の流れ

を東口に呼ぶことを狙える.また,同時に場外馬券販売も続けるべきであろう.群馬の県

民性や歴史から見ても,高崎競馬場の施設や馬券販売といった「ギャンブル」は,群馬の

立派な文化であると考える.しかし,課題で述べたように高崎競馬場跡地の利権は複雑で

ある.だが,そうした問題によって足踏みをしていては,今後の発展は難しいであろう.

行政・民間が協力し,土地利用の問題に取り組んでいくべきである. 上記のようなハードの整備を行うことを,都市観光によるまちづくりを行う高崎市に提

案したい.ここで改めて念頭に入れておきたいのは,観光事業としてハードを整備すると

28 札幌市のほぼ中央に位置する.標高 531m. 29 自動車道が封鎖される冬期間のみ. 30 札幌市 HP,札幌の観光行政「モイワヤマ通信」参照.

(http://www.city.sapporo.jp/keizai/kanko/moiwayama/moiwayama.html)

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いっても,観光客のためのみを考えた整備事業では,これからの都市観光の発展は望めな

いと言うことである.上記の提案に共通して言えるのは,観光客と高崎に暮らす住民両方

に有益な整備事業であることだ.観光地としての整備が「日常」の都市機能の向上につな

がる,また,その逆も言える.そのようなハードの整備を行うことが,都市観光の発展に

必要な視点である. 3-2. ソフトにおける提案 3-1 では,高崎市の都市観光におけるハードの整備について提案を行った.しかし,先

にも述べたように,ハードの整備が行われただけでは,まちの魅力は一過性のものに過ぎ

ず,リピーターを引き付けることは難しいであろう.高崎を訪れた人に,高崎の「日常」

に点在するストーリー性のファンになってもらうことで.リピーターを確保することが出

来るのである.そのためには,ストーリー性に当たる,ソフトの充実が必要である.本節

では,そうしたソフトについて提案を行うこととする.

提案① イベントの連続性

2-1 でも述べたように,高崎市は「音楽」を資源として捉え,「音楽のあるまちづく

り」を推進している.筆者としても,「音楽」のように五感で体感できる文化は,重要な

観光資源となることからも「音楽のあるまち高崎」になるようまちづくりを進めるべきで

あると考える.また,「スポーツ」のように,体験性の高い文化も観光資源として活かす

べきであると考える.しかし,先にも述べたように「音楽」にしろ「スポーツ」にしろ,

高崎の街の「日常」になっていないのが現状である.よって,まず,そうした高崎の文化

として捉えるものを内外に広く認知させることが必要である.そこで,イベントの連続性

が重要であることを提言したい. 「音楽のあるまち」を推進するために高崎市で行われているイベントを見ると,それら

は単発でイベント間の連続性が無いように思える.イベントごと単体で見ると,群馬交響

楽団のクラシックを始め多岐にわたるジャンルの音楽を扱っており,思考を凝らしたもの

である.しかし,年 1 回しか行われないものが多く,1 回の機会を逃した者には,そのイ

ベントは印象の浅いものになってしまいがちである.広く内外に認知してもらうには,イ

ベントの頻度を増やし,大きなイベントとイベントの間に小さなイベントを定期的に行う

ようにし,高崎の街では,常に何かしら「音楽」のイベントが行われているイメージを内

外の人が感じられるようにする必要があるのだ. 例えば,「フェト・ド・ラ・ミュージック」のような路上ライブが毎日高崎の街では行

われているような環境をつくれば,高崎の街の「日常」に「音楽」を感じることが出来る

のではないだろうか.そのために,人目を引きやすいように路上に一定間隔で簡易ステー

ジを設置し,そこで市民が自由に表現活動できるようにするなど環境整備を行うことも必

要となる.このように,高崎の音楽を盛り上げる機能が,都市機能として目に見える形で

存在することで,高崎の街が「音楽のあるまち」であることを,人々が意識できるのであ

る.そして,年 1 回のフェト・ド・ラ・ミュージックの際に,群馬交響楽団や高崎出身

のアーティスト,地元の学生など,プロ・アマ問わず盛大に音楽の祭典を行うことが出来

れば,「日常」とイベントに連続性が生まれるのである.

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また,イベント自体の頻度を増やし,連続性を持たせることも必要である.例えば,観

音山山頂に展望施設を整備したとして,そこで定期的に群馬交響楽団のコンサートや県内

外のアーティストによる演奏を行うとよいであろう.定期的に行うことによって,「日

常」イベントの存在が根付いていくのである. 夜行われるイベントを増やすことも必要である.先にも述べたように,高崎には「夜の

まちの文化」が足りないように思える.しかし,夜のまちが活発になることは,経済的に

見ても都市の活性化から見ても重要なことである.高崎のまちの「日常」に,夜のイベン

トを楽しみ,その行き帰りで飲食をしていく流れ,イベントと商業の連続性を持たせるこ

とが必要なのである.その観点から考えると,高崎は車社会なので,イベントに車で来て,

終わったらそのまま車に乗って帰ってしまう現状は何とかしなければならない.パークア

ンドライド31のような考え方も検討する必要があるのかもしれない. ここまでは「音楽」のイベントに関して述べてきたが,同様のことが「スポーツ」に関

しても言えるであろう.スポーツのイベントも,頻度を高くし,高崎のまちには「日常」

にスポーツのイベントが存在するというイメージを広く内外に認知してもらう必要がある.

また,そのための環境の整備も必要だ.そして,商業とスポーツイベントの連続性を持た

せるべきである.例えば,スポーツイベントに参加,または観戦した後,興奮の余韻を残

しつつ飲食出来るような流れをつくる.また,スポーツにはファッション性もあるので,

スポーツファッションを利用して,イベントとショッピングに連続性を持たせてもよいで

あろう.さらには,「音楽」と「スポーツ」に連続性を持たせる方策を模索することも必

要であろう. 観音山のイベントにしても,「音楽」,「スポーツ」のイベントにしても商業や展望機能

など複数の資源と複合的に活かし,高崎のまちの「日常」とすることに大きな意味がある.

そうした複合的な観光戦略を行っている事例として,名古屋の「産業技術記念館 32」や

「ノリタケの森33」の例が挙げられる.この2つの施設は共に,近代産業の都市名古屋を

象徴する産業観光施設である.この2つは,共に「産業」をメインテーマとする施設であ

るが,そこに音楽や食,憩いの場としての機能,学習の場としての機能といった名古屋の

様々な都市観光資源を,複合的に活かしている34.そうすることで,名古屋に住む人に快

適な日常空間を提供すると共に,観光客にとっては「名古屋の多様な局面」を楽しめる場

所として,集客を実現しているのである.高崎の場合も,「商業」や「音楽」といったメ

31 市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため,末端交通機関である自動車等を郊外の鉄道駅又はバス停

に設けた駐車場に停車させ,そこから鉄道や路線バスなどの公共交通機関に乗り換えて目的地に行く方

法. 32 1994 年,トヨタグループ13社によって設立.「豊田自働織布工場(大正時代の赤レンガ造りの工場

建屋)」がそのまま残されていたのでそれらを貴重な産業遺産として保存するとともに,産業技術記念館

として活用している. 33 2001 年,株式会社ノリタケカンパニーリミテドの創業 100 周年の記念事業として,ノリタケ本社敷地

内に陶磁器に関する複合施設「ノリタケの森」をオープン.名古屋市中心部の約 48,000m2という広大な

敷地の森の中にある. 34「産業技術記念館」では,名古屋フィルハーモニー交響楽団のコンサートや「赤レンガ宵物語」とい

ったジャズなどのコンサート兼ビアガーデンバイキングを催している.「ノリタケの森」では,森の自然

の中で「ノリタケミュージックシーン」というコンサートが行われている.また敷地内はオープンフリ

ーとなっているので,市民の憩いの場となっている.共に,「産業」体験し学ぶことが出来るイベントが

定期的に催されている.

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インテーマと共に,高崎の都市生活の多様な局面(都市観光資源)を複合的に活かすこと

が必要である. これからの都市観光に重要なのは,イベントなどを通して,都市の「日常」に存在す

る芸術・商業・憩い・食など多様な都市観光資源を巧みに盛り込み,連続性を持たせる観

光戦略である.そうすることによって,地域で暮らす人が地域の文化や経済といった「日

常」を再認識し誇りを持つことが出来る.また,観光客がその地域の「日常」を体感し学

ぶことが出来るのである.

提案② ブランド商品

ここで改めて高崎の発展の歴史を考えると,先にも述べたように高崎は「商業都市」と

して発展してきた歴史を持つ.そうした背景からも「商業」は高崎の都市観光のメインテ

ーマの一つであると改めて認識しておきたい.その商業の中心であった養蚕業,また「高

崎染」の存在は無視できないものである.しかし,「高崎染」は高崎の日常に根付いてお

らず,認知されていない現状にある.よって,「高崎染」を高崎のブランド商品として見

直すことを提案したい. 都市観光において,その地域を表すブランド商品は重要である.金沢の加賀友禅や金沢

泊,宇都宮の餃子,先の事例でも紹介した名古屋のノリタケ(陶磁器)などの例からも,

その地域を代表する商品に観光客は魅力を感じるのである.高崎の場合も「高崎だるま」

というブランド商品が存在する.歴史や全国生産量の 80%を占める実績を考えて,これ

からも重要な高崎のブランド商品として扱うべきであろう.しかし,だるまの場合,容や

用途がある程度限られてしまい,多様なニーズを持つ観光客に柔軟に応えることが出来る

商品とは言えない.だが,「高崎染」の場合,それは技法に過ぎないので,アイデア次第

で様々な商品になりえる可能性を秘めていると言える.確かに,現状では後継者も少なく,

「高崎染」は危機的な状況にある.しかし,高崎を代表する商品を考える上で,「高崎

染」を高崎の重要な観光資源として見直し,官民共にバックアップしていく必要があるだ

ろう. 以上のような,ソフトの充実を行うことを,都市観光によるまちづくりを行う高崎市に提

案したい.今後の高崎市の都市観光の戦略を考える上で,高崎に住む人が,高崎の「日

常」に存在する多様な都市生活の局面を再認識し,活かし,そして新たに創出していくこ

とが重要である.都市観光の魅力となるソフトを充実させていく上で,そうした姿勢が求

められるであろう. 3-3. 都市周辺の自然・人文観光資源との連続性 ここまでは,高崎の都市観光資源に注目し都市観光戦略について提案してきたのだが,

高崎市の観光における可能性の一面として周辺の自然・人文観光資源との提携を無視する

ことは出来ない.高崎の市街地と周辺の自然・人文観光地とが回遊性を持つことが出来れ

ば,高崎市全体の集客性を高めることが出来るであろう.

提案① 観光施設・イベントの連続性

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高崎の市街地と周辺の自然・人文観光地とが回遊性を持つためには,観光施設やイベン

トが連続性を持つ必要がある.例えば,高崎市内の全ての観光施設の利用券やイベントの

チケットを扱う販売所を駅ビルの中や観光案内所に設ける.そこで,複数の施設の利用券

やイベントのチケットを同時に購入した場合,割引される制度を設けるなどの方策をとっ

てもいいのではないだろうか.実際に札幌市では,「さっぽろセレクト」と銘打って,札

幌の観光施設 6 施設35から希望の 3 施設を選ぶことで合計料金が割引されるチケットを販

売している.また,榛名などの観光地でお土産などのショッピングをした際のレシートを

提示すれば,市街地でのショッピングに何らか特典が付くようにする(逆の場合も可)な

どの工夫を凝らすことも出来るであろう.こうした方策を行えば,ある一つの目的のため

に訪れた観光客に,別の観光の存在を認知させることが可能となる.このように観光施設

やイベントに関連性を持たせることによって,観光地を相乗効果的にアピール出来るので

ある.外から来たものが,高崎市の観光が連続性を持っているイメージを受けるようにす

ることが大切なのである.

提案② 回遊性のあるプランの発信

高崎市の観光が市街地から榛名や伊香保といった自然・人文観光地と回遊性があること

を観光客に認知してもらう必要がある.そのためには,回遊性ある観光のプランを情報発

信することが必要である. 普通,観光客が観光を行う際,目的の観光地の情報を調べ,プランをたてるであろう.

その際の情報源は,自治体や観光協会の HP であったり,出版社が出す観光情報誌や JR駅構内の情報であったりするであろう.そのようなメディアで,回遊性のあるプランを情

報発信することが必要である.自治体や観光協会の HP では,そのようなプランを分かり

やすく,イメージしやすく提案するべきである.また,JR や旅行雑誌の出版社に,そう

したプランの情報を発信するよう働きかけるべきであろう.各種メディアから積極的に情

報を発信することで,自然・人文観光地と回遊性があることを観光客に認知してもらうこ

とが可能となるであろう. 高崎市には,上記で述べたような都市周辺の自然・人文観光資源との連続性を持つこと

で,高崎市全体で相乗的に都市観光を盛り上げていく可能性が存在するであろう.広域市

町村合併をした今,転機と捉え,その可能性に挑戦していくべきである. 4.都市観光によるまちづくり ここまで,高崎市の都市観光をテーマに,観光の概要から高崎市の現状,そして,提案

に至るまで論じてきた.ここで, 後に改めて,これからの都市観光戦略において重要と

なる考えを提言し,本稿を終えることとする.

35 テレビ塔展望台・藻岩山ロープウェイ・大倉山リフト・羊ヶ丘展望台・札幌ウィンタースポーツミュ

ージアム・北海道開拓の村.

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4-1. ホスピタリティの重要性 都市観光は,来訪者を地域の文化や商業,歴史,自然,風景といった様々な生活の局面

で迎え入れる.そして,その生活の主役は地域の住民であり,創りあげるのは地域に住む

人なのである.つまり,これからの都市観光は,「ヒト」と「ヒト」との交流の場なので

ある. 「ヒト」と「ヒト」との交流の場である都市観光の街にとって,いかに来訪者を住民がホ

スピタリティを持って迎え入れることが出来るかが重要となる.そして,ホスピタリティ

を持つためには,住民がその地域の一番のファンでなくてはならない.自分の地域を他人

に紹介したくなるような「まち」にしなければならないのである.観光客のことしか考え

ない,人を集めることしか考えない観光戦略では都市観光によるまちづくりは成功しない.

「その地域に住むヒト」「その地域を訪れるヒト」両方に魅力あるまちづくりを行う必要

があるのだ. 4-2. 都市観光によるまちづくりの成せること 筆者は改めて,まちづくりに「都市観光」という考えは重要であると述べておきたい.

都市観光の観光戦略における要点は,①都市機能を高めることと,②都市の「日常」を再

認識・再発見し,それを磨くことにある.そして,①②は,その地域の住民の生活向上に

繋がることなのである.また,繋がるような戦略でなくてはならない.観光ちとして,施

設の整備や,治安の向上,文化政策を行うことに,そこで住む人にとっても住みやすいま

ちになる.また逆に,住民の生活向上のため様々な方策を行い,住みよいまちになること

は,訪れる人にとって,知的欲求に応える魅力あるまちなのである. 高崎市は,市政 100 周年を向かえ,また,広域合併も終え,新たな転機にあると思わ

れる.民官の協力の下,高崎市の「日常」にある可能性を十分に活かし,魅力ある「都市

観光のまち」として,更なる発展を遂げていって欲しい.

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[図表]

至観音山

旧観音山参道

JR 高崎駅

ビブレ 高島屋

音楽センター もてなし広場

市役所

中央銀座

ウエストワ

ンビル

ラ・メルセ 高崎美術館

昭和の

雰囲気

ある

街並み

エリア

歴史情緒ある

街並みエリア 近代的街並み

エリア

図 1 高崎駅西口街並みエリア分け構想

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図2 観音山山頂から見た高崎市の夜景(筆者撮影)

藻岩山から見た札幌市の夜景

藻岩山山頂に向かう雪上バス

藻岩山山頂に向かうロープウェイ 図3 藻岩山展望機能 「出展:札幌市ホームページ (http://www.welcome.city.sapporo.jp/sites/moiwa.html)」

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【参考文献】 鈴木忠義,1984,『現代観光論』有斐閣双書.

山本光正,2005,『江戸見物と東京観光』臨川書店. 原田宗彦,2002,『スポーツイベントの経済学――メガイベントとホームチームが都市を

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バンビレッジ』彰国社. 田村明,1999,『まちづくりの実践』岩波書店. 北川宗忠編,2001,『観光事業論』ミネルヴァ書房. ――――編,2004,『観光文化論』ミネルヴァ書房. 岡本伸之編,2001,『観光学入門』有斐閣. 青柳栄次,2006,『なるほど知図帳群馬』昭文社. John Urry, 1990, THE TOURIST GAZE: Leisure and Travel in Contemporary

Societies, London, Sage Publications.(=1995,加太宏邦訳,1995,『観光の

まなざし』法政大学出版局. 横浜市都市計画局都市企画部都市デザイン室,2003,『横浜市公共サインガイドライン』

(http://www.city.yokohama.jp/me/toshi/design/m10/j02.html,2006.12.6). クリスチャン,デュパヴィヨン,2001,『フェト・ド・ラ・ミュジック音楽の祭典,音楽

が成せるもの』 (http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/fete_de_la_musique.pdf2006.8.1).

街なか居住研究会,2006,『コンパクトシティとは』 (http://www.thr.mlit.go.jp/compact-city/contents/what_is/what_is.html,2006.12.11). 宮城県,2006,『白石川遊歩道サイン計画ワークショップ』

(http://www.pref.miyagi.jp/ok-doboku/ws/index.htm). 高崎市ホームページ(http://www.city.takasaki.gunma.jp/). 高崎市文化スポーツ振興財団ホームページ

(http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/bunka-jigyoudan/index.htm). 財団法人群馬交響楽団ホームページ(http://www.gunkyo.com/history.php). ラジオ高崎ホームページ(http://www.takasaki.fm/takasaki-music.html). 高崎青年会議所ホームページ(http://www.takasaki-jc.com/xoops/). 榛名町観光協会ホームページ( http://harunavi.jp/). 榛名神社ホームページ(http://www.haruna.or.jp/). BAOO 高崎ホームページ(http://www.nrsnet.co.jp/company/takasaki.html). 横浜市ホームページ(http://www.city.yokohama.jp/front/welcome.html). 金沢市ホームページ(http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/). 金沢市観光協会ホームページ(http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/). 金沢21世紀美術館ホームページ(http://www.kanazawa21.jp/ja/index.html). 札幌市ホームページ(http://www.city.sapporo.jp/city/). 札幌市観光文化局観光部ホームページ(http://www.welcome.city.sapporo.jp/). 名古屋市ホームページ(http://www.city.nagoya.jp/).

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産業技術記念館ホームページ(http://www.tcmit.org/). ノリタケの森ホームページ(http://www.noritake.co.jp/mori/). 総務省統計局ホームページ(http://www.stat.go.jp/). 宇都宮市ホームページ(http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/).

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《執筆者一覧》 荒川 知子 菊池 孝至 小坂 奈美 佐藤 美緒 滝川 圭太 武井 俊輔 角田 由加 豊岡 美佳 本多 忠勝 森泉 雅洋 友岡 邦之

友岡ゼミナール 2006 年度 卒業論文集 第1号

発行日 2007 年 3 月 31 日 発行・編集者 友岡 邦之 発行所 高崎経済大学地域政策学部友岡研究室

〒370-0801 群馬県高崎市上並榎町 1300 TEL 027-344-7595(直通) TEL 027-343-5417(代表) FAX 027-343-4840 http://homepage1.nifty.com/k_space/ E-mail:[email protected]

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○C TOMOOKA seminar

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