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33 年めの中国訪問 隅野隆徳 この度、 33 年ぶりに中国の北京を訪れて、その閣の中国の政治的・経済的・社会的な変化の 一端を実感することができ、また、法学研究者として、短期間であるが、比較的濃密な研究交 流を中国との聞にすることができた。 〔一 〕前回の訪問では、 1965 8 月中旬から 9 月にかけ 1 か月余にわたり、日中青年友好祭 (中国側では「中日青年友好大連歓」と呼称)に中国青年側の招待を受け、日本側の参加が、 青年諸国体で総数 300 人余に及ぶ中で、筆者は青年法律家協会代表10 人の一行の一員として参 加したものである 。当時、日本は中華人民共和国をまだ承認しでなく、台湾政権との国交を維 持し続け、その不当性が国民から批判されていた。また日本は、「高度経済成長政策」の過程 にあり、国民生活はそれほど豊かではなかった 。他方、アメリカのベトナム侵略戦争が1965 2 月から全面化し、中国も ベ トナム人民支援の姿勢をとっていたから、日中青年友好祭では、 「アメリカ帝国主義は日中人民の共通の敵」 ということが、くり返し確認されていた 。 また中 国では、 1949 10 月の建国から 16 年弱で、国中に革命とアメリカ帝国主義との闘争の気概が満 ちていた。ただし、われわれの中国訪問中に、林彪の論文「人民戦争勝利高歳」が発表され、 1966 年から 全面化する「文化大革命」の兆しが出ていたようであるが、それを明確に理解する にはいたらなカ〉った 。 この33 年の聞に中国は大きな変化を遂げたことを感じる。とりわけ「文化大革命」が、 1966 年から吹き荒れ、 1976 9 月毛沢東の死去、同年10 月「 4 人組(江青・張春橋・挑文元・王洪 文〉」の逮捕を通じ、咋 8 月中国共産党第11 回大会で文革終了が宣言され、 78 12 月中共第 11 3 中全会で総括されて、「改革・開放」 と社会主義的現代化の路線が提起される 。 この文 革の期間に中国が大混乱となり、多くの犠牲者のみならず、経済的・社会的に大きな損害を蒙っ たことは、よく知られている 。今回の訪問中も、文革批判はいろいろの場で聞くことができた。 それにしてもこのような事態がなぜ中国で起こったかは、それに追随した日本での動きととも に、今後とも反省を求められていると考える 。 ところで今回も天安門前広場に赴き、さらに故宮内を忙しく見学した。 1989 年の天安門事件 を確認するゆとりもなく、想像の中に過ごし、また故宮内では、清朝期の諸事象や日本軍国主 義 による傷痕等に、歴史の歯車が大きく廻る。同時に、故宮の入口と出口のところに、土産物 の販売店が多く並び、押し売りとみられる人々の動きが注目される。そこに限らず、万里の長 55 専修大学社会科学研究所月報 No.430 1999年4月20日

33年めの中国訪問 - senshu-u.ac.jpoff1009/PDF/geppo1999/smr430-g.pdf · 33年めの中国訪問 隅野隆徳 この度、 33年ぶりに中国の北京を訪れて、その閣の中国の政治的・経済的・社会的な変化の

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33年めの中国訪問

隅野隆徳

この度、 33年ぶりに中国の北京を訪れて、その閣の中国の政治的・経済的・社会的な変化の

一端を実感することができ、また、法学研究者として、 短期間であるが、比較的濃密な研究交

流を中国との聞にすることができた。

〔一 〕前回の訪問では、 1965年8月中旬から 9月にかけ 1か月余にわたり、日中青年友好祭

(中国側では「中日青年友好大連歓」と呼称)に中国青年側の招待を受け、日本側の参加が、

青年諸国体で総数 300人余に及ぶ中で、筆者は青年法律家協会代表10人の一行の一員として参

加したものである。当時、日本は中華人民共和国をまだ承認しでなく、台湾政権との国交を維

持し続け、その不当性が国民から批判されていた。また日本は、「高度経済成長政策」の過程

にあり、国民生活はそれほど豊かではなかった。他方、アメリカのベトナム侵略戦争が1965年

2月から全面化し、中国もベトナム人民支援の姿勢をとっていたから、日中青年友好祭では、

「アメリカ帝国主義は日中人民の共通の敵」ということが、くり返し確認されていた。また中

国では、 1949年10月の建国から16年弱で、国中に革命とアメリカ帝国主義との闘争の気概が満

ちていた。ただし、われわれの中国訪問中に、林彪の論文「人民戦争勝利高歳」が発表され、

1966年から全面化する「文化大革命」の兆しが出ていたようであるが、それを明確に理解する

にはいたらなカ〉った。

この33年の聞に中国は大きな変化を遂げたことを感じる。とりわけ「文化大革命」が、 1966

年から吹き荒れ、 1976年9月毛沢東の死去、同年10月「4人組(江青・張春橋・挑文元・王洪. 文〉」の逮捕を通じ、咋8月中国共産党第11回大会で文革終了が宣言され、 78年12月中共第

11期3中全会で総括されて、「改革・開放」 と社会主義的現代化の路線が提起される。この文

革の期間に中国が大混乱となり、多くの犠牲者のみならず、経済的・社会的に大きな損害を蒙っ

たことは、よく知られている。今回の訪問中も、文革批判はいろいろの場で聞くことができた。

それにしてもこのような事態がなぜ中国で起こったかは、それに追随した日本での動きととも

に、今後とも反省を求められていると考える。

ところで今回も天安門前広場に赴き、さらに故宮内を忙しく見学した。 1989年の天安門事件

を確認するゆとりもなく、想像の中に過ごし、また故宮内では、清朝期の諸事象や日本軍国主

義による傷痕等に、歴史の歯車が大きく廻る。同時に、故宮の入口と出口のところに、土産物

の販売店が多く並び、押し売りとみられる人々の動きが注目される。そこに限らず、万里の長

55

専修大学社会科学研究所月報 No.430 1999年4月20日

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城での零細な販売活動や、あるいは、街中での食事処などに、中国で導入されている市場経済

の一端に接することができる。

北京の都市計画は確実に進展している。かつて33年前には、故宮等の歴史的建造物を除けば、

中国の青年たちがその建築に自ら参加したことを誇った人民大会堂等、天安門前広場周辺の建

物や、あるいは、北京でわれわれ一行の宿泊所となった民族飯店等が新しく目立つ存在でtあっ

た。しかし今回は、平面でも立体でも伸展していた。まず、北京空港から市の中心に至る高速

道路に面して、日本の「ナショナノレ」も含めた外資合弁の企業団地等が林立していて、そこに

は、王府井にとどまらない北京の商業センターの一つがあるとのことであった。確かに市の中

心部分の舗装道路等が未整備のままであるのが見られると同時に、北京の歴史的都市計画と接

続して、今日の展開が進められているようである。しかしまた、そこには、朝布と農村の格差、

住宅問題の深刻さなどが同居していることもうかがえる。

農村に対する一定の優遇政策は、例えば、都市での一家族一子に対し、農村では二子まで認

めるなど、存在するが、農村から都市への人口流入傾向は避けられないのであろう。北京の郊

外にある住宅団地に、近郊農村から、自転車に付けたリアカーに野菜や果物を積んで販売に来

る集団を見かけたが、これらも、自由市場の一つのパイプとなっているのだろう。また、高層

建築物の狭間で、古い平屋建ての住居や商店が存在している場所もあったO 日本への帰国にあ

たり、ホテルから北京空港に向かう車内で、旅行社の中国男性ガイドが話してくれたなかで、

「商品住宅」を一般市民が購入することの困難さを、自らの給料額を挙げて説明してくれたの

が印象的である。

このような中国の経済・社会状況に対する素朴な関心は尽きないが、ここで、今回の中国訪

問にあたり強く念頭にあった一つのことがある。それは、日本と中国の両共産党聞の関係正常

イヒについての合意が、 1998年6月に成立したことである。両党間の関係断絶は、中国の「文化

大革命」とも結びつき、 1966年以来、中国による日本共産党の内部問題干渉として起き、継続

してきたが、それは、日本国民にとっても、 一政党の問題にとどまらない、日本の内政干渉の

意味をもっていた。 1997年末ごろからの両党聞の折衝を通じ、中国側が、日本共産党に対する

干渉をめぐる歴史問題について、「真剣な総括と是正をおこなった」ことを表明し、日本側が

それを肯定的に評価して、今後の両党閣の友好交流の展開を双方が確認したことは、重要であ

る。今回の中国訪問において、上記の問題に直接かかわることはなかったとはいえ、法学研究

者として相互対等の立場で交流することができたのは、当然のことではあるが、意義あること

と考える。

〔二 〕今回のわれわれの中国訪問団は、本社会科学研究所でのグループ研究(研究テーマ=

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「国際的地域統合をめぐる法と政治J)を母体として、石村修、木幡文徳、隅野隆徳、田高寛貴、

森川幸ーの各氏より構成されていた。それに「北京日本学研究中心」に本学の長期在外研究で

滞在していた古川純氏が、現地で参加した。実際には今回の行程は、古川氏の斡旋・案内等に

負う ところが多大であり、また、 98年4月より「北京日本学研究中心」主任であり、周年 3月

まで本学法学部教授であった野村浩一氏のご配慮をいただいたことを、ここに記して謝意を表

したい。

法学研究者として今回行なった中国側との交流の主要な出来事は、 1998年9月3日(木)午

後に、「北京日本学研究中心」で日中共同セミナー「ア ジア太平洋の平和と安定 21世紀の

日中関係を展望する」を開催したことと、 9月4日(金)午後に中国社会科学院法学研究所を

訪問して、所長の劉海年教授、同研究所研究員・兼・全国人民代表大会常務委員会委員の王家

福教授等と意見交換し、また本学の歴史・現状等も説明して、今後一層の交流を話し合ったこ

とである。そこでの報告や意見交換の詳細は、別稿に予定されている。ここでは、それらの中

でとくに印象的な 3点を指摘しておきたし、。

第 1点は、中国に対する日本の15年にわたる侵略戦争、あるいは、もっと遡って日清戦争後、

台湾に対する50年間の植民地支配に関する歴史認識の問題である。共同セミナーでの石村修氏

の報告「戦争犯罪と戦後補償」は、中国側のコメントに見られるように、基本的に支持された

が、森川幸一氏の報告「日米安全保障協力の現状と中国」をも含めて、日中関係の全般的問題

についての中国側の捉え方が注目される。すなわち、日中関係の現在の大きな問題として、台

湾問題、歴史問題、そして尖閣列島等の領土問題の 3つを挙げ、その中、歴史問題は日中政府

間では解決している、「戦後補償Jにつき民聞からの要求が出て来ているが、政治的問題であ

り、日本弁護士連合会のこの問題に関する立法の取り組みなどに注目しつつ、むしろ、基本的

な最大の問題は台湾問題にあると、ほとんど共通して中国側は指摘していた。. この点につき、中国側の研究者の立場として理解できるが、われわれ日本国民同って歴史

認識の問題は、中国との関係、あるいはアジア・太平洋地域の平和と安定を考える場合の前提

として、きびしく反省し、明確にされなければならないことである。われわれ訪中団の帰国後、

中国国家主席江沢民氏が、日中平和友好条約20年を記念して来日し、小淵恵三首相との会談の

上、 1998年11月 「日中共同宣言」が発表された。その中に、日本側は、「過去の一時期の中国

への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を

表明した」という記述がある。日中間の公式文書で、日本の中国に対する「侵略」ということ

ばが明記されたのは初めてであり、「双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日

中関係を発展させる重要な基礎であると考える」という記述とともに、上の「日中共同宣言」

は日中関係の重要な一歩前進ということができょう。ただし、厳密に検討すれば、日本の「侵

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略戦争」という認定が明らかに回避されており、それに伴い、日本の戦争責任、昭和天皇の戦

争責任の問題もあいまいにされている。その点は引き続き今後の課題としつつ、なによりも今

度の「共同宣言Jの趣旨を、日本の政治・社会・教育・外交等の場において、軍国主義復活の

潮流に抗して、いかに浸透・展開させていくかが重要な問題となっている。

今回の中国訪問で、一行の 3人は、北京市西南にある麗溝橋と中国人民抗日戦争紀念館を訪

れた。橋そのものは燕京八景のーっとして名勝地であるが、ここで麗溝橋事件を起こし、日本

軍国主義が中国侵略戦争を全面化させたことは知られている。そこで事件後50年の1987年に上

記紀念館が開館した由である。紀念館では、映写場や展示を通じ、日本侵略軍が中国人民にい

かに多くの犠牲を課し、それに対し中国人民が困難な中で団結し勝利を得ていったかを、南京

虐殺事件や 731部隊による人体実験を含めて、明らかにしており、われわれは襟を正さないで

はいられなかった。

第2点は、日米新ガイドラインに基づく日米軍事同盟の新展開と、日中関係とくに台湾に関

する問題である。森川報告に対する中国側の反応は、前記のように台湾問題を最重要視する観

点から、同報告の姿勢を基本的に支持しつつ、次々と意見が述べられた。例えば、新ガイドラ

インに関する日本での反対意見は中国にあまり伝わってこない、新ガイドラインで中国政府は

憂慮しているのに、日本政府は台湾問題に消極的である、中国大陸の人々にとり台湾は一体感

をもつようになっている、他方、中日の信頼関係は、 1980年代と対比して後退した感がある、

台湾問題で日本が原則的立場をはっきりさせないと、その影響は中日関係の経済や文化面にも

及ぶのではないかと、明確であり、きびしいものである。

この点で、前記の 「日中共同宣言」 は、「日本側は、日本が日中共同声明の中で表明した台

湾問題に関する立場を引き続き遵守し、改めて中国は一つであるとの認識を表明する」と記述

し、明確な立場を確認している。しかし周辺事態法案では、地理的にも不明確な 「周辺事態」

をアメリカが認定した場合、自衛隊が事実上自動的に米軍への支援活動に入るようになってお

り、その対象地域に台湾や台湾海峡の入ることが、一つの重要な争点となっている。そのこと

はとりもなおさず、中国の内政問題に対する米日の軍事介入の危険性をもっているO ところで、

この問題の根本には、 1972年の日中共同声明と、 78年の日中平和友好条約により、日本は「一

つの中国」の立場を認めながら、日本が台湾政権を中国人民の代表としていた時期に締結され

た、 1960年の日米安保条約をそのまま維持し、その極東条項に台湾地域を含ませたまま、在日

米軍基地を使用した米軍の行動を引き続き認めていること、しかも、新ガイドラインと周辺事

態法案により、前記のように日米軍事行動の範囲と態様を一層拡大しているところに理由があ

る。そして、今日のアジア・太平洋地域では、軍事同盟や覇権主義は時代逆行のものになって

おり、非同盟、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、主権の相互尊重、平和共存の関係が主流

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になってきている。その意味で、日米安保体制は明らかに異質の、否定されるべきものになっ

ているO このことから、日米安保条約廃棄の問題は、なによりも日本国民の平和・人権尊重・

民主主義・主権独立の諸原則の立場から喫緊の課題であり、それがまた、アジア・太平洋地域

の平和と安定に日本国民が寄与する重要な路である。

第 3点として、中国の社会主義の現段階における基本的人権の位置づけに関する問題がある。

これは、中国社会科学院法学研究所で劉海年所長及び王家福教授との意見交換の中で若干展開

した問題である。中国の現段階の、「改革・開放」と社会主義的現代化の路線を、中国では、

「郵小平理論」により、社会主義発展の初級段階にあると規定しているが、そのことの検討は

大きな問題であり、ここではさておき、天安門事件で、中国における人権抑圧が国際的に批判

されたが、今日では、その状況が一定程度是正されてきている。例えば、国際人権規約A規約

を中国はすでに批准しており、さらに同B規約につき、上記意見交換の中で、法制度改革を含

め、加入の準備を進めていると語られていたが、われわれの帰国後98年10月に、中国の同規約

署名が発表された。

ただし、われわれの関心のーっとして、かつてマルクス=レーニン主義法理論では、人間の

生来的な基本的人権を否定し、社会主義国家では、国家の認める法制度の枠の中で市民の基本

的権利を保障するものであった。ところが、今回われわれ一行に贈呈していただいた王家福・

劉海年編『中国人権百科全書』(1998年、北京)の「人権」の項では、人聞はその白然の属性

と社会の本質により人権を享有する、となっている。さらに、王教授によると、中国古代の孔

子等の思想に人権概念の一根拠を求める理論研究もあるようである。社会主義法における人権

論の根拠は、一つの重要な課題である。また両氏との意見交換において、国際人権規約との関

連で、欧米諸国は自由権を重視する傾向にあるが、中国では、生存権または発展権あっての自

由権と考え、二つの人権の不可分性を強調していた。この点は、これまでの社会主義法理論と. 連続し、社、中国の人権保障状況に関してとくに問題にされるところである。

短時間の会談であるため、理論的に深めるまでには至らなかったが、今日の中国法学界での

課題の一端に触れる感がした。それと同時に、中国の法理論面で社会科学院法学研究所及び人

権研究センターの果たしている組織的役割が注目される。また、それらの理論研究が、中国で

の人権保障と、それにかかわる国家制度とどのように結び、つくかは、より一層重要な問題とい

える。

中国社会科学院法学研究所の在る二階の廊下のところに、かつて同所長を務められた故張友

漁氏の胸像が置かれていた。 33年前中国を訪問したとき、青年法律家協会の一行を、張友漁氏

がとくに北京の四川料理店に招待してくださり、アメリカのベトナム戦争や中国の社会主義建

設等につき懇談したことを慎かしく想い出した。

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