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8 7 日(火) 1 ないじぇる芸術共創ラボ 古典インタプリタ日誌 川上弘美さん WS 連載中「三度目の恋」と平安時代の生活 1,平成 30 年度 1回目のご来館 昨年度から AIR としてないじぇる芸術共創ラボに参加してくださ っている川上弘美さんと、今年度はじめてのワークショップを行い ました。 現在『婦人公論』で川上さんが連載中の小説「三度目の恋」は、『伊 勢物語』をモチーフにした作品です。 川上さんは「三度目の恋」執筆のために、平安時代の生活(暗さ、 明るさや、どのように話していたのか、何を食べていたのかなど)を お知りになりたいとのことで、平安時代の文学を専門としておられ る青木賜鶴子先生(大阪府立大学教授)、小山順子先生(京都女子大 学教授)、岡田貴憲先生(当館特任助教)をお招きし、様々な資料を 参照しながら具体的なイメージを追求してゆきました。 2,平安時代のことば たとえば川上さんは時代設定を昔にした作品を書かれる際、時代 ごとにつかわれていた単語を調べることのできる辞書を使われるこ とがあるそうですが、語尾は?帝と公家の言葉は一緒?この身分と この身分の人が話す時にはどんな感じ?等と、細かな疑問に対する 答えが得られず困ることもあるのだとか。 そこで、平安時代の言葉について検討してみることになりました。 ただし「三度目の恋」は基本的に現代日本語で執筆しておられる ため、ニュアンスが出るのが大切なのだとか。そのため、京都弁を少

川上弘美さん WS 連載中「三度目の恋」と平安時代の生活...8 月7 日(火) 1 ないじぇる芸術共創ラボ 古典インタプリタ日誌 川上弘美さんWS

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  • 8 月 7 日(火)

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    ないじぇる芸術共創ラボ 古典インタプリタ日誌 川上弘美さん WS

    連載中「三度目の恋」と平安時代の生活

    1,平成 30 年度 1回目のご来館

    昨年度から AIR としてないじぇる芸術共創ラボに参加してくださ

    っている川上弘美さんと、今年度はじめてのワークショップを行い

    ました。

    現在『婦人公論』で川上さんが連載中の小説「三度目の恋」は、『伊

    勢物語』をモチーフにした作品です。

    川上さんは「三度目の恋」執筆のために、平安時代の生活(暗さ、

    明るさや、どのように話していたのか、何を食べていたのかなど)を

    お知りになりたいとのことで、平安時代の文学を専門としておられ

    る青木賜鶴子先生(大阪府立大学教授)、小山順子先生(京都女子大

    学教授)、岡田貴憲先生(当館特任助教)をお招きし、様々な資料を

    参照しながら具体的なイメージを追求してゆきました。

    2,平安時代のことば

    たとえば川上さんは時代設定を昔にした作品を書かれる際、時代

    ごとにつかわれていた単語を調べることのできる辞書を使われるこ

    とがあるそうですが、語尾は?帝と公家の言葉は一緒?この身分と

    この身分の人が話す時にはどんな感じ?等と、細かな疑問に対する

    答えが得られず困ることもあるのだとか。

    そこで、平安時代の言葉について検討してみることになりました。

    ただし「三度目の恋」は基本的に現代日本語で執筆しておられる

    ため、ニュアンスが出るのが大切なのだとか。そのため、京都弁を少

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    しいれてはどうだろうと考えておられるそうです。しっかりとした

    理解をフィクションの要所要所にちりばめるのですね。

    業平は様々なところへ行きますが、宮中が舞台になる時には京都

    ですから、最も適当かもしれません。

    「だ」を「や」にするとか、「~できない」を「ようせぇへん」に

    するとか、「~する」を「~しはる」にするとか……東京ご出身の川

    上さんと一緒に、ひとしきり京都弁らしさについて考え、参考とし

    て、現代の京ことばに『源氏物語』を翻訳した書籍 1のご紹介もさせ

    ていただきました。

    3,登場人物の人間関係とことば

    また川上さんは、登場人物たちがお互いにどのように呼びかけ合

    っているのかについても考えを巡らせておられます。

    たとえば業平は親しくしていた 惟喬これたか

    親王と話すときにどのよう

    な言葉で呼びかけていたのでしょうか。そしてそれは現代語にする

    とどのような言葉があてはまるのでしょうか。

    やはり親王から業平へ呼びかける時には官位だったのでは、とい

    うのが妥当な解釈のようですが、それでは現代語にし辛い、という

    ことで、親王から業平へはなしかける際には「あなた」、業平からは

    1 中井和子『現代京ことば訳 源氏物語〈1〉』(大修館書店、

    「親王さま」とするのが良いのではというところに落ち着きました。

    どちらも名前を呼ばないのは、当時名前には特別な力があり、簡

    単に本名を口に出すことがはばかられたためです。

    それでは自分の妻や恋人にはどのように呼びかけるのでしょうか。

    『伊勢物語』にはたくさんの女君が登場します。業平がモデルに

    なっていると思われる「三度目の恋」のナーちゃんのまわりにも、た

    くさんの女の人が描かれます。それぞれの関係性によって呼び名も

    違うのでしょうか。

    先生方によると、基本的には女の人は愛称で呼ばれるのでは、と

    のことです。『源氏物語』の女君たちも、そういえば「紫の君」「明石

    の君」「六条の御息所」など、住まいや縁あるものから名づけられて

    いますね。

    『伊勢物語』には伊勢の斎宮や二条の后と思われる、身分の高い

    女性も登場します。伊勢の斎宮は「斎いつき

    の宮様」、二条の后は「姫様」

    あたりが相応しいのでは、という提案もなされました。

    名前で呼ばれるのは、おそらく本妻だけなのです。それは、当時の

    結婚が家と家の結びつきによるものであるという文化的背景が影響

    しています。本妻と他の女君との違いは明確にあるのですね。

    2005)

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    女性からは業平をどう呼

    ぶのか、という問題ですが、

    女の人からは話しかけない

    のではないかということ

    で、仮に呼ぶとすると「あな

    た様」位ではないか、と結論

    付けられました。

    作品中に描かれていない

    部分も、時代背景や身分の

    違い、立場の違いを考慮し

    て、みんなで知恵を出しな

    がら現代語に落とし込んで

    ゆく過程はとても楽しいも

    のでした。

    4,食事と宮中での生活

    川上さんのご関心は、食事の具体的な在り方にも向かっているそ

    うです。作品を執筆する時、食事シーンを描くのが好きだという川

    上さん。そういえば、川上さんの作品では登場人物たちが食べてい

    2 『宮廷に生きるー天皇と女房と』『内親王ものがたり』『宮廷の春

    るものが、おかずのひとつひとつにいたるまで詳細に描かれていて、

    なんとなくその人の生活を想像させるところがあります。

    ところが平安時代の文学では、食事に関する描写は俗世的である

    ためか、ほとんど描かれていません。特に女性の食事シーンについ

    ては例を見付けるのが難しいほどです。

    先生方からは、食事は男女共には食べないのではないか、という

    意見や、宮中では主人の下がりものをいただいている描写がある、

    という意見がありました。特に宮中での女房の生活については、ご

    自身の宮仕え経験を元にして描かれた岩佐美代子氏のエッセイ 2に

    も同様の場面があるとのことで、参考文献として紹介がありました。

    川上さんは、多くはなくとも、男女で食事を共にすることや、宮中

    での食事の在り方が分かったので、好きな食事のシーンが書けそう

    ですと喜んでおられました。

    ※後日、WS に参加された先生方から様々な補足がありました。その

    中で、岡田先生からは夫婦の食事について以下のような補足をいた

    だきました。

    『落窪物語』巻一、落窪姫君のもとに少将が通うようになり、三

    秋ー歌がたり、女房がたり』

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    日夜の餅をすませた翌朝、お付きの女童(あこぎ)が二人のもと

    に食事を持参する場面があります。

    (それまで留守にしていた継母達が帰宅し、食事が用意され

    たので、あこぎがそこからくすねたもの)

    同場面は新全集の69頁に

    「御台まゐりに来ぬ。物のくさはひ並びたれば…」

    (少将と姫君に御食膳を差し上げに来た。いろいろの種類の

    ご馳走が並んでいるので…)

    とあり、男女が食事をともにする様子を描いた例と言えそうで

    す。夫婦の場合には、同室で食事をとることもあったかと想像さ

    れます。

    同場面ではその後、姫君の全く手を付けなかった食事と、少将の

    残り物とを、あこぎが回収して調理し直し、夫の帯刀に食べさせ

    る様子も描かれています。

    これを受けた川上さんからは、「妻と夫が並んで食べることもある、

    という描写、心強いです」とのコメントをいただきました。

    「三度目の恋」の中で、どのように食事の場面が登場するのか、大

    変楽しみです。

    5,手紙のセンス

    平安貴族の恋愛にとってたいせつなのが、和歌(手紙)のやりとり

    です。歌を贈り合う際に、どのような紙を使っていたのか。どのよう

    に折っていたのか。川上さんが疑問に感じておられた点です。

    ここでは『伊勢物語』本文のほかに、装束の重ねの色目が説明され

    ている『源氏物語図典』(小学館、1997 年)が役立ちました。

    業平は歌を送る際、何種類かの色紙を使い重ねの色目を表現して

    いたそうです。実際にどのような色目なのか確認しつつ、川上さん

    は「(業平は)お洒落な男ね」

    とにっこり。

    顔を見ずに手紙のやりとり

    だけで相手の教養や人柄をは

    かった時代、さぞそのセンス

    が際立ったことでしょう。

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    その他、料紙の色と折枝の色を合わせることなどが図解されてい

    る書籍(小松茂美『手紙の歴史』(岩

    波書店、1976))もご紹介させていた

    だきました。

    このような資料をご覧になった川

    上さんの中で、貴族達の生活の詳細

    がどのように想像されているのか

    な、と考えを巡らせました。

    6,業平とはどういう男か

    さて、業平のセンスについてひとしきり盛り上がったところで、

    業平の人柄や恋愛の在り方についての話になりました。

    「三度目の恋」には、業平がモデルと思われる男「ナーちゃん(原

    田 生な る

    矢や

    )」が登場します。ナーちゃんは、生来女性の心を掴む魅力

    的な男性として描かれ、妻の梨子とは別の女性たちとも、多くの関

    係を持ちます。

    こういった人物造形は、『伊勢物語』に描かれる業平がもとになっ

    ているのだと思われますが、川上さんは、業平をどのように捉えて

    3岡田先生は、こういった有り様のことを「情けなからぬ」という

    おられるのでしょう。

    川上さんが「三度目の恋」を執筆していて思ったのは、「色々な女

    の人に手を出すというよりも、やってきた女の人たちを受け容れて

    いるのだ」ということだそうです 3。これは、書いていて分かってき

    たことなのだそうですが、ナーちゃんが物語の中でそういった男性

    像になってゆくにつれ、妻の側からはどう見えるのだろう、という

    思いも持たれたのだそうです。

    また、当初ナーちゃんは「素敵になるはずだった」そうなのです

    が、物語の中で段々と動き出し、「甘えたな男」になっているのだと

    か。

    ちょうどこの時、連載 15 回目(『婦人公論』8 月 28 日号)が発売

    される前だったのですが、「今度、ナーちゃんが梨子のことを温泉に

    誘うんです。元気がないからと思って」。と、15 回以降の展開を少し

    教えてくださいました。梨子に元気がないのは、ナーちゃんが別の

    女の人との恋に夢中になっているからですし、その為に彼女は夢の

    中で江戸時代へ行き、その時代を生きる「春月」という女性の人生に

    夢中になっているからなのですが・・・・・・このことに気づかず、見当

    違いな優しさを見せるナーちゃんのことを、「しょうがない知人」に

    ついて話すかのように語ってくださる川上さんが、とても印象的で

    のだと教えてくださいました。

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    した。

    「三度目の恋」の中で、業平の造形はナーちゃんだけでなく、高丘

    さんという、梨子の同志のような男性の中にも現れます。川上さん

    の中での業平像は、ご自身の作品世界で新たな人生を自在に生きて

    いるのでしょうか。

    各登場人物像や、川上さんの『伊勢物語』解釈については、是非改

    めてうかがってみたいところです。