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第4章 アジア通貨安定へのアプローチ 岩崎 慶市 欧米に後れをとっていたアジア地域で経済連携強化の動きが加速してきた。 二国間の自由貿易協定 (FTA) や経済共同体構想などがそれだ。 しかし、 そこには通貨の安定という決定的な要素が欠落して いる。 欧州が域内市場の統合化と同時に進めた域内通貨安定化の例を持ち出すまでもなく、 通貨の安定 はそうした地域経済圏を形成するうえで欠かせない。 なぜなら、 貿易や投資の壁を取り払っても、 通貨 が安定していなければモノやお金はスムースに流れず、 逆に極めて不安定な地域経済圏を形成してしま うからである。 本稿はこうした基本認識に立って、 東アジア地域の通貨安定策にアプローチした。 結論を先に言えば、 自由貿易圏や市場統合もそうなのだが、 価値観や経済システムとその発展段階が 著しく相違していたのでは通貨安定策を講じるにも限界があり、 発展段階に合った対応が必要だという ことである。 つまり、 アジア統一通貨などは遠い将来のことであり、 東南アジア諸国連合 (ASEAN) 各通貨は円、 米ドル、 ユーロの主要通貨を中心に ASEAN 通貨を加えて加重平均した通貨バスケット 制度が望ましい。 仮に共同体を志向するなら、 かつての欧州通貨制度 (EMS) を参考に、 経済発展段 階の近い日本、 韓国、 台湾、 場合によってはタイを加えたコアグループをつくり、 ASEAN や中国に先 行させることが現実的方法ではないか。 これはアジア通貨危機や人民元切り上げ、 ユーロ創造の経緯を検証しつつ、 グローバル経済下での日 本の国益とアジアの利益に資する通貨制度は何かという問題意識から導き出したもので、 有力な方策の 一つと考える。 少子高齢化・人口減社会の到来という長期にわたる未曾有の成長下押し圧力に直面した 日本が生き抜くには、 アジアとの共存共栄しか道はない。 この構想の実現は多くの困難を伴うが、 動き 出さなければ何も始まらないことを強調しておきたい。 1. アジア通貨危機が問いかけたもの 1.1. 「東アジアの奇跡」 とその脆弱性 1993年の世界銀行報告が 「東アジアの奇跡」 と呼んだ高成長は、 安価で勤勉な労働力を期待した海外 からの直接投資と、“共産主義ドミノ”を封じ込めるために結成された ASEAN の政治的安定と経済協 力枠組みへの変容でもたらされたものといってよい。 一方でそれは、 ポール・クルーグマン氏が 「まぼ ろしのアジア経済」 で指摘したように、 構造的脆弱性を内包していた。 アジアは日本を先頭としたいわゆる雁行形態で発展してきた。 とりわけ、 プラザ合意後の日本企業は ASEAN4 (タイ、 マレーシア、 インドネシア、 フィリピン) を中心に進出を加速させ、 この地域を生 産基地化していった。 これに伴い技術移転も進んだが、 自国産業が自前の技術と生産性を向上させる力 を待たなければ、 成長の自律的持続は難しい。 図表1にあるように、 東アジアの成長率は対ドル円相場の推移と明確な相関関係を示している。 円高 が進めば成長率が上昇し、 逆に円安になれば成長率が低下している。 円高は日本企業の進出を加速し、 日本国内からの対米輸出などに対しても競争力を強めたからだ。 なぜなら、 アジア各国通貨が事実上の ドルペッグ制度をとっていたからで、 いわば円相場と東アジアの成長率はトレード・オフの関係にあっ ― 83 ―

第4章 アジア通貨安定へのアプローチ - JICA · うから である。本稿 ... 場の攻撃の前にあえなく敗れ去った。当時のタイの外貨準備高は400

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Page 1: 第4章 アジア通貨安定へのアプローチ - JICA · うから である。本稿 ... 場の攻撃の前にあえなく敗れ去った。当時のタイの外貨準備高は400

第4章

アジア通貨安定へのアプローチ

岩崎 慶市

欧米に後れをとっていたアジア地域で経済連携強化の動きが加速してきた。 二国間の自由貿易協定

(FTA) や経済共同体構想などがそれだ。 しかし、 そこには通貨の安定という決定的な要素が欠落して

いる。 欧州が域内市場の統合化と同時に進めた域内通貨安定化の例を持ち出すまでもなく、 通貨の安定

はそうした地域経済圏を形成するうえで欠かせない。 なぜなら、 貿易や投資の壁を取り払っても、 通貨

が安定していなければモノやお金はスムースに流れず、 逆に極めて不安定な地域経済圏を形成してしま

うからである。 本稿はこうした基本認識に立って、 東アジア地域の通貨安定策にアプローチした。

結論を先に言えば、 自由貿易圏や市場統合もそうなのだが、 価値観や経済システムとその発展段階が

著しく相違していたのでは通貨安定策を講じるにも限界があり、 発展段階に合った対応が必要だという

ことである。 つまり、 アジア統一通貨などは遠い将来のことであり、 東南アジア諸国連合 (ASEAN)

各通貨は円、 米ドル、 ユーロの主要通貨を中心にASEAN 通貨を加えて加重平均した通貨バスケット

制度が望ましい。 仮に共同体を志向するなら、 かつての欧州通貨制度 (EMS) を参考に、 経済発展段

階の近い日本、 韓国、 台湾、 場合によってはタイを加えたコアグループをつくり、 ASEANや中国に先

行させることが現実的方法ではないか。

これはアジア通貨危機や人民元切り上げ、 ユーロ創造の経緯を検証しつつ、 グローバル経済下での日

本の国益とアジアの利益に資する通貨制度は何かという問題意識から導き出したもので、 有力な方策の

一つと考える。 少子高齢化・人口減社会の到来という長期にわたる未曾有の成長下押し圧力に直面した

日本が生き抜くには、 アジアとの共存共栄しか道はない。 この構想の実現は多くの困難を伴うが、 動き

出さなければ何も始まらないことを強調しておきたい。

1. アジア通貨危機が問いかけたもの

1.1. 「東アジアの奇跡」 とその脆弱性

1993年の世界銀行報告が 「東アジアの奇跡」 と呼んだ高成長は、 安価で勤勉な労働力を期待した海外

からの直接投資と、“共産主義ドミノ”を封じ込めるために結成されたASEANの政治的安定と経済協

力枠組みへの変容でもたらされたものといってよい。 一方でそれは、 ポール・クルーグマン氏が 「まぼ

ろしのアジア経済」 で指摘したように、 構造的脆弱性を内包していた。

アジアは日本を先頭としたいわゆる雁行形態で発展してきた。 とりわけ、 プラザ合意後の日本企業は

ASEAN4 (タイ、 マレーシア、 インドネシア、 フィリピン) を中心に進出を加速させ、 この地域を生

産基地化していった。 これに伴い技術移転も進んだが、 自国産業が自前の技術と生産性を向上させる力

を待たなければ、 成長の自律的持続は難しい。

図表1にあるように、 東アジアの成長率は対ドル円相場の推移と明確な相関関係を示している。 円高

が進めば成長率が上昇し、 逆に円安になれば成長率が低下している。 円高は日本企業の進出を加速し、

日本国内からの対米輸出などに対しても競争力を強めたからだ。 なぜなら、 アジア各国通貨が事実上の

ドルペッグ制度をとっていたからで、 いわば円相場と東アジアの成長率はトレード・オフの関係にあっ

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たわけだ。

1.2. 硬直的ドルペッグ制の暗転

ドルペッグは米国との関係でみれば為替リスクがない。 プラザ合意以降、 急成長を続けるこの地域を

米資金も運用先として逃すはずはなかった。 とりわけ米短期資金は通貨危機の震源地となったタイに向

かい、 主にオフショア市場を通じてノンバンクなどに流入、 不動産や株の過熱をもたらした。 まさに、

ドルペッグは資金を呼び込む装置だったわけだが、 これが暗転したのは1994年の34%という中国人民元

の大幅切り下げと、 1995年に1㌦=80円を突破した円が一転して円安に向かったからだ。

これを契機に各国の経常収支は悪化する。 高成長に伴って賃金も上昇し、 急速に競争力を失い、 タイ

の場合、 1993年に63億㌦だった赤字が1996年には146億㌦に拡大し国内総生産 (GDP) 比で8%に達し

た。 そして1997年、 市場メカニズムを無視した硬直的な通貨制度とあいまいで不透明な市場を理由に、

ヘッジファンドなど米金融資本がタイ・バーツ売りに走る。 市場は近隣諸国も構造は同じとみたため、

通貨危機は瞬く間に広がったのである。

ただ、 経常赤字の拡大でその通貨が売られるのは外為市場の常識だが、 途上国の場合、 資金不足で赤

字構造になるのは普通である。 このため、 それを問題にするのは不自然ではないかとして、 その背景に

米国の戦略があったとする見方もある。 すでに米政府は通貨危機前から、 自らの貿易赤字拡大の原因が

アジアのドルペッグにあると何度も警告していた。 日本とアジア一体の対米輸出構造と、 日本の牙城に

なりつつあったアジア経済を崩しにかかったというわけである。

「東アジアの奇跡」 の結果、 世界経済に初めて主要プレーヤーとして登場したASEAN 諸国は、 市

場の攻撃の前にあえなく敗れ去った。 当時のタイの外貨準備高は400億㌦に満たず、 一日2兆㌦もの資

金が動く市場の力にはとても太刀打ちできなかったのだ。 しかも、 ドル売りバーツ買いの市場介入で外

貨準備が減少して底を突き始めると、 タイ中央銀行は先物での介入を行うという稚拙さをみせて傷口を

広げた。 そしてついに1997年7月、 フロート (変動相場制) へ移行したのだった。 マレーシアを除き他

の国も追随した。

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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図表1 ニクソンショック後の円・ドル相場の推移とアジアの成長率

(出所) 円・対ドルレートは International Financial Statistics CDROM 2005、

GDP 成長率はWorld Development

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2. 「円経済圏」 構想はなぜつぶれたか

2.1. IMF 支援への反発と円への期待

この通貨危機はアジアにいくつもの教訓を残した。 一つはいうまでもなく、 市場メカニズムの働かな

い硬直的な通貨制度は国際経済社会で容認されないということだ。 アジア通貨は建前上、 通貨バスケッ

ト制をとっていた。 主要通貨を加重平均してレートを算出する方式なのだが、 その構成割合は通貨当局

間で公表しなくてもよい慣行になっている。 このため、 レートの動きや外貨準備の通貨構成比などから

推測するしかないが、 タイ・バーツの場合、 米ドルの比重が少なくとも82%以上と大半を占め、 日本円

はたった6%とみられていた。 これが事実上のドルペッグといわれた所以である。

仮に円の比重が3-5割あったら、 こうした通貨危機は起こらなかったかもしれない。 なぜなら、 円

の比重が高ければ円安局面でもタイバーツは円に連れてそれなりに切り下がり、 競争力を維持できたは

ずだからだ。 なのに、 なぜ円の比重はこうも微々たるものだったのか。 それが二つ目の教訓である。

図表2を参照していただきたい。 ASEAN4の1996年段階での対日輸出シェアは、 インドネシアの35

%を筆頭にタイ、 マレーシア、 フィリピンとも15%前後である。 対日輸入シェアもタイの27%をトップ

に他の3カ国もすべて2割以上だ。 つまり、 進出日本企業を中心にこの地域と日本の経済一体性は十分

に構築されていた。 にもかかわらず、 円とASEAN4通貨間の為替リスクは放置されたままだったので

ある。 通貨危機をきっかけにタイやマレーシアの首脳たちから、 「円重視」 の声があがったのは必然だっ

た。

そしてもう一つ、 ASEANが日本重視に傾斜した背景には、 国際通貨基金 (IMF) の支援条件 (コン

ディショナリティー) とグローバルスタンダードという名の米国的価値観を押し付けられたことへの反

発があった。 それは 「米国=IMF」 への反発とみてもいいのではないか。

アジアを撃った市場は市場原理万能主義で貫かれた新古典派エコノミストたちのイデオロギーにも似

たウォール街資本主義である。 ワシントンに本部がある IMF自体も米国主導でつくられた機関である。

その創設は1944年7月のブレトンウッズ会議で決まり、 同年12月には協定が効力を発生している。 つま

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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図表2 ASEAN4の地域別貿易取引高シェアの推移グラフ

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り、 第二次大戦中から連合国間で話し合われていたわけだが、 英国代表だったあのケインズでさえまっ

たく主導権を握れなかったといわれる。 通貨マフィアたちによると、 いまも IMF調査団が帰ってまず

報告に行くのはホワイトハウスだというから、 米政府の影響力は絶大なのである。

では、 具体的にどんなコンディショナリティーだったのか。 それは緊縮財政と金融の引き締め、 さら

に金制制度改革という米国流の構造調整である。 金融制度改革はまだしも、 この財政金融政策は経済実

態をまったく無視したものといわれた。

当時訪れたタイのバンコクは、 建設中のビルというビルが青いシートにおおわれていた。 通貨危機に

よるバブル崩壊がもたらした流動性不足で産業の血液である金融がマヒし、 建設がストップしてしまっ

たのである。 危機を表す象徴的風景だった。 こうした緊急事態に対応するには通常、 流動性の供給が必

要なのに、 IMF の条件は金融の引き締めだった。 しかも、 財政政策では増税までを盛り込んだ緊縮財

政だったのである。

通貨の安定には健全な財政構造と適切な金融政策が求められる。 しかし、 こうした改革を実現するに

は、 先進国でも長い時間と高い政策立案・遂行能力が要る。 それを途上国に、 しかも危機時に画一的に

求めたのである。 短期と長期の政策を混同し、 かつ経済発展段階や漸進的改革を志向するアジア的価値

観を考慮しない手法であった。 グローバルスタンダードという名の米国的価値観はマクロ政策にとどま

らず、 企業のガバナンスや会計など企業社会全体に及んでいった。

これがアジアの感情的反発につながったのは、 周知の通りである。 とりわけ、 IMF 支援の調印式で

背を丸めてサインするインドネシアのスハルト大統領 (当時) を、 IMF のカムドシュ専務理事が腕を

組んで見下ろしている一葉の写真はアジアの人々の誇りを深く傷つけた。 同大統領は 「昔は軍隊だった

が、 いまは経済がやってくる」 と周囲に漏らし、 韓国では 「IMF 時代」 という言葉が屈辱的に語られ

た。

こうした中で、 旧日本輸出入銀行の融資など政府開発援助 (ODA) 以外の資金も含め総額で820億㌦

に上る日本の支援は、 規模の大きさだけでなく日本らしいきめ細かい包括的手法がアジアの高い評価を

受けた。 それは貿易決済資金の融資や生活物資の提供などの緊急支援と経済改革や人材育成などの中長

期支援の両面から行われた。 しかも、 支援条件とその手法は IMFと違って漸進的改革で、 かつその国

の実情を考慮したものだった。 これは危機からの復興に大きな効果を発揮し、 タイやインドネシアなど

だけでなく反日感情が強い韓国からも謝意が寄せられた。

特筆すべきは通貨危機支援の新宮沢構想の一環として実施されたベトナム支援である。 これは日本独

自に明確なコンデショナリティーを提示したもので、 インフラ建設にとどまらず、 経済システムの改革

まで日本的な手法を用いた点が注目された。 例えば、 眠った貯蓄を顕在化させ、 それを開発資金に利用

する日本の戦後復興型の郵便貯金制度創設や株式市場の育成など広範囲にわたった。 この 「ベトナム支

援モデル」 は日本で初めての 「顔の見える援助」 として内外で高い関心を呼んだ。 その成功は、 社会主

義市場経済ながら日本人とメンタリティーが似たコンセンサス社会という特性に着目した結果ともいわ

れた。 しかも、 中国とインドシナ半島の境界に位置するベトナムに日本型システムの移植を試みたのは、

地政学的にみても極めて重要な意味があったといえよう。

2.2. チャンスだった 「円経済圏」 構築

このように日本はアジア通貨危機を通じてアジアの期待に十分に応えたといえる。 それまでの民間セ

クターに公的セクターが加わったことで、 アジアでの日本のプレゼンスは一気に高まった。 日本への期

待という形で存在感が高まったのは戦後初めてだろう。 それは、 かつての 「大東亜共栄圏」 とは別次元

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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の健全なプレゼンスであった。 政官財の円の国際化論者たちは、 これを円のプレゼンスを高める絶好の

チャンスととらえ、 「円経済圏」 論も一気に盛り上がった。

なぜなら、 1971年のニクソンショックで金とドルの交換を断ってブレトンウッズ体制が崩壊、 ドルは

基軸通貨の地位を降りたにもかかわらず、 変動相場制の中でも実質的基軸通貨として君臨し他通貨を振

り回してきたからだ。 それはその時々の米政権の都合によるものだったといわれる。

石油危機を乗り切った日本の輸出圧力を抑えるために円高ドル安政策を採ったカーター政権は、 ドル

暴落が懸念されるとドル防衛策に走った。 レーガン政権は一期目で米国の威信を回復するために 「強い

ドル」 政策を掲げたが、 貿易赤字が手におえなくなった二期目はドル高是正のプラザ合意を演出した。

冷戦終結後に登場したクリントン政権は日本に厳しい構造調整を迫り、 1㌦=80円突破という異常な円

高圧力をかけた。 アジア通貨危機にもこうした米政権の都合が投影されたとみてよいだろう。

歴史的に世界最大の債務国通貨を最大の債権国が使って振り回された例はない。 こうした 「ドル支配」

から脱却するには、 円を中心にした経済圏を形成してドルの為替リスクを弱めるしかない。 しかし、 大

陸欧州が統一通貨 「ユーロ」 の実現を目前にしていたのに、 「ドルの傘の下」 に馴れて安住してきた日

本は、 ほとんどそうした努力を怠ってきた。 だから指摘したように、 経済の一体性が強いタイの外貨準

備でさえ円の構成比が6%しかなかったのだ。 世界的にみてもこの傾向は変わらず、 日本が世界に占め

る経済規模と比較して円のウェートは著しく低い。

それは図表3のように貿易決済通貨にも表れている。 日本からアジアへの輸出で円決済は当時で4割

半ば、 輸入で2割弱だ。 他はほとんど米ドルで、 いまもこの傾向は変わっていない。 日本の親会社とア

ジアの子会社間の取引割合が圧倒的に多いにもかかわらず、 である。 資本取引に至っては円はほとんど

ゼロに近い。 邦銀の貸し付けもこれまたドル建てだった。

2.3. アジア通貨基金構想の失敗にみる教訓

こうした 「ドル支配」 に風穴を開けようとしたのが、 日本が一連の通貨危機支援会合などで提案した

アジア通貨基金 (AMF) 構想である。 アジアで再び通貨危機が発生した場合に備えで創設する構想で

ある。 その規模は1000億㌦ともされ、 日本は半分の500億㌦の拠出を表明、 通貨外交としては画期的な

ことだった。 AMFを通じでアジア経済は地域としての求心力を強め、 それを日本が主導することで円

経済圏の構築につながる可能性があったからである。

残念ながら、 この野心的な試みはあえなく失敗し、 1997年11月のアジア諸国を中心とする蔵相・中央

銀行総裁代理会合によるマニラ合意 (マニラ・フレームワーク) に姿を変えた。 その主な内容は次の通

りである。

① 域内マクロ経済指標のサーベイランス (相互監視) の確立

② 域内各国の金融セクターを強化するための技術支援

③ 新たな危機の対応に向け IMF強化を求める

これはいわば危機の発生を予知・予防する仕組みの強化策であり、 日本主導のAMF構想とはまった

く違う。 通貨危機への緊急的市場対応も2000年5月の 「ASEAN+3 (日本、 中国、 韓国)」 の蔵相会

議による合意 (チェンマイ・イニシアティブ) にとどまった。 それは ASEAN スワップ協定の拡大と

ASEAN、 日、 中、 韓での二国間スワップのネットワーク構築が主な内容である。 つまり、 互いに介入

通貨を融通する仕組みであり、 AMFのような組織体的性格を伴うものにはならなかった。

AMFは、 なぜ失敗したのか。 主因は米国と IMFによる反対である。 アジアに IMF機能の一部を持

つある種の組織体ができることは IMFの存在感を脅かすことになる。 それは指摘したように、 IMFに

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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影響力を及ぼすことで世界経済の盟主の座を保とうとする米国にとっても好ましくないからである。 そ

こへ日本の主導権を嫌う中国が反対を表明するに至って、 構想の頓挫は決定的になった。

日本側にも戦略上の失敗があった。 米国と IMFの反対は当初から予想され、 これを突き崩すには国

家戦略として一丸とならなければならなかったが、 この構想が当時の大蔵省先行で進められたこともあ

り、 橋本政権にはその覚悟はできていなかった。 また、 交渉が性急過ぎたこともある。 中国にしても当

時はAMFの必要性に理解が浅く、 現在のように 「東アジア共同体」 を志向する意識が醸成されていれ

ば、 対米戦略上からも日本提案に乗った可能性は十分にある。 息の長い交渉が必要だったと思われる。

2.4. 円経済圏論の衰退

AMF構想がつぶれるのと軌を一にして日本は金融危機に陥った。 1997年末の山一証券や北海道拓殖

銀行の破綻、 年をまたいで日本長期信用銀行の破綻と続きデフレスパイラルに足を突っ込んで行った。

バブル崩壊後の不良債権問題が日本版 「ビッグバン」 (金融大改革) を先取りする形で顕在化したから

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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図表3 貿易決済通貨別比率の推移

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である。 自らの身を守るのに精一杯となり、 円経済圏論は急速に衰退し、 アジアでのプレゼンスをも急

低下させていった。

象徴的なのは邦銀のアジアでの貸付残高の急減である。 図表4はASEAN4における邦銀の債権残高

だが、 タイの場合では1996年に400億㌦近かったのが通貨危機と日本の金融危機を境に急激に減少、 8

分の1の水準でいまも推移している。 これは国内の不良債権処理と連動してアジア向け資産を圧縮した

結果である。 その代わりにアジアでの存在感を高めたのは、 通貨危機の引き金を引いた米銀や欧州の金

融機関である。

日本は大規模かつ有効な通貨危機支援をしながらそれを生かせず、 果実は米欧に横取りされた形だ。

しかも、 クローニー・キャピタリズム批判は日本経済にも向けられ、 企業は自信を喪失して行った。 日

本がアジア通貨危機で得た教訓は、 日本に明確な国家戦略とそれを推し進める官民一体の外交能力がな

ければ、 アジアでの日本の国益は守れずアジアの期待にも応えられないという冷厳な事実であろう。

3. 中国の台頭と人民元改革

3.1. 中国の貿易黒字急増と人民元

「東アジアの奇跡」 は通貨危機とともに終わった。 取って代わったのは中国である。 その台頭が安い

人件費と安い人民元に支えられていることに異論をはさむ余地はあるまい。 アジア通貨危機の遠因となっ

た1994年の大幅な人民元切り下げで、 その幕は開けた。 それまで1㌦=5・76元だったのが、 8・62元

へ一方的に、 かつ一気に34%も切り下げたのだった。

図表5が示すように、 中国の貿易収支はこの94年から黒字に転じた。 そして1997年のアジア通貨危機

をきっかけにその勢いを増し、 黒字は前年の4倍近くに跳ね上がっている。 同年9月、 返還されたばか

りの香港で開かれた世銀・IMF 総会では通貨危機への対応が協議されたが、 ここに一層の改革開放策

を携えてやってきた朱鎔基副首相 (当時首相に内定中) の演説は象徴的だった。

「香港は世界経済と中国の重要な交差点になる」

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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図表4 ASEAN4における邦銀債権残高の推移

(出所) BIS Quarterly Review-5 December 2005

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皮肉にも香港市場は程なくクラッシュに見舞われたが、 通貨危機の影響はそこで食い止め、 中国は朱

氏の自信に満ちた言葉通り、 世界経済の主要プレーヤーとして躍り出る。 日米欧企業の直接投資は故�

小平氏の 「南巡講話」 から増加していたが、 通貨危機を機にそれまでASEAN に向かっていた分まで

中国に呼び込むことに成功したからだ= (図表6参照)。 さらに2001年末の世界貿易機関 (WTO) 加

盟もあり、 その額は02年に500億㌦に達し、 04年、 05年には600億㌦台の高水準を維持した。

とくに日本企業はデフレ経済とグローバル競争を生き残るために、 中国への生産シフトを強め技術移

転を進めた。 そして中国沿海部には珠江デルタが電子・電機、 上海が自動車・アパレルといった具合に

高度な産業集積地が形成されていった。 こうした流れにハイアールやTCL といった中国の優良国有企

業が加わり、 「世界の工場」 ができあがったのである。 中国の貿易黒字構造はこうして構築されたわけ

だが、 その競争力を支えてきたのが極めて低コストの労働力と安い人民元だったのだ。

日本の二十分の一ともいわれる安い人件費の構造はこうだ。 一人当たり国民所得は上海地域で5000㌦

を突破しているが、 内陸部のそれは数百㌦に過ぎない。 13億の人口のうち内陸部には9億がおり、 一つ

の国にヨーロッパとアフリカが同居しているようなものだ。 中国には共産党独裁体制を維持するために、

人の移動を制限する厳しい戸籍制度がある。 3年の期限で若年労働力が沿海部に出稼ぎにくるのはこの

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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(出所) 『中国経済統計』 (中嶋 誠一2005)

図表5 中国の貿易収支と人民元対ドルレートの推移

(出所) 『中国経済統計』 (中嶋 誠一2005)

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ためで、 中にはニセの証明書をもった少女までがやってくる。 だから人件費は上昇しないわけで、 例え

ば殊江デルタの深�などでは、 新規工場労働者の賃金は市の設定する最低賃金にずっと張り付いてきた

のである。

ASEANのように人件費の上昇は競争力を調整する一方で、 消費市場の拡大を促し自律的成長を可能

にする。 一人当たり国民所得が1000㌦に達すると、 そうした発展モデルに移行するといわれる。 いわゆ

る 「1000㌦の法則」 である。 中国も平均でその所得レベルに達したが、 残念ながらこうした発展モデル

は適用できない。 国土と人口が巨大すぎるうえ、 戸籍制度という社会主義中国独特の制度を維持せざる

を得ないことから、 沿海部の恩恵が内陸部に波及しにくい経済社会構造にあるからだ。 北京政府は西部

大開発などでこの格差是正に取り組んでいるが、 効果は微々たるものである。 もっとも、 この格差こそ

が成長の原動力なっているわけで、 実に皮肉な話だ。 まさに世界に例を見ない異質な発展モデルといえ

よう。 ただ、 最近は沿海部の労働・賃金構造に変化が見られるから、 このモデルも要注意だ。

ともかく、 中国の競争力は、 こうした安い人件費構造とそのメリットを求めて急増した直接投資、 こ

れに伴う産業技術集積、 そして安い人民元に支えられ飛躍的に高まってきたのである。

さて、 94年の切り下げ後の人民元の推移を図表5でみてみよう。 多少の調整はあったが、 アジア通貨

危機以降はずっと1㌦=8・28元でピクリとも動いていない。 中国通貨当局は以前、 人民元は通貨バス

ケット制をとっているとしてきたが、 実際は通貨危機を招いたASEAN 通貨以上に米ドルペッグだっ

たわけだ。 しかも、 イラク戦争に突入した米国は貿易赤字の改善を目指してドル安政策をとったが、 ド

ルにペッグした人民元には効かない。 円、 ユーロにとってはドル安政策がそのまま人民元安につながる

ため、 結果的に人民元はさらに切り下がる形となった。

こうして中国の貿易黒字急増の勢いは止まらず、 日米欧の対中貿易赤字は拡大の一途をたどった。 こ

のため、 03年のドバイ G7 (先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議) で当時の塩川正十郎財務相が人民

元切り上げに言及して以来、 この問題は常に国際通貨会議の重要テーマとなった。 とりわけ、 対中赤字

が2000年から対日赤字に代わり最大となり、 赤字全体の3割を占めるに至った米国は、 強く人民元の改

革を迫り続けた。

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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図表6 中国の対外・対内直接投資の推移

(出所) 『アジア動向年報』 (各年版)

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3.2. 微調整に終わった2005年の人民元切り上げ

中国もこうした国際圧力を受け、 早くから人民元を改革する考えを表明していた。 しかし、 それは意

思表示だけにとどまり、 実行に移したのは05年7月である。 その内容は①人民元を対ドルで約2%切り

上げる②通貨バスケット制を導入し、 1日の変動幅を0・3%以内とするーというものだった。 改革へ

一歩を踏み出したとの評価はあったが、 あまりの小幅な改革に失望感も広がった。

なぜなら、 米国内の研究所などでは中国の競争力からみて5割の切り上げが妥当との試算が示されて

いたし、 日本の政府系研究所が購買力平価から算出したレートでも、 人民元は対ドルで14%、 対円で6

%過小評価されていた。 もちろん、 指摘したように中国経済は一元的にとらえることはできず、 農村部

なら切り下げが妥当だろうし沿海部なら5割切り上げても足りない。 しかし円もそうだったが、 市場が

通貨価値を判断するのは詰まるところ輸出競争力である。 アジア通貨危機後の中国の競争力強化からみ

て、 少なくとも危機の遠因をつくった1994年の切り下げ分くらいは切り上げなければ、 国際的義務を果

たしたとはいえないとの批判は強い。

にもかかわらず、 中国は切り上げ幅もさることながら、 導入したバスケット制さえほとんど機能させ

ていない状況にある。 理論上は1日0・3%の変動が可能だから、 月6%上下していい。 しかし、 人民

元の対ドルレートは昨年7月のからほとんど動いていない。 中央銀行である中国人民銀行はバスケット

の中身について、 ドル、 ユーロ、 円の主要通貨を中心に11通貨を加重平均する方式であるとしているが、

これは依然として実質的ドルペッグが続いているとの証明であろう。

それは外貨準備高の急増にも表れている。 中国は通貨当局が外貨を一元的に管理する外貨集中制をとっ

ている。 だから、 貿易黒字はすべて外貨準備高となって積み上がる。 図表5及び図表7のように、 貿易

黒字と外貨準備高の推移が同じような軌跡をたどっているのはこのためだ。 いや、 人民元切り上げ圧力

がかかり始めてからは、 貿易黒字以上に外貨準備の伸びが大きい。 これは海外からの投資資金を吸収し

ているからで、 バスケット制導入後はさらに外貨準備が積み上がっている。 その増加額は2004年、 05年

とも年間2000億㌦を超し、 05年末の外貨準備高は8189億㌦と日本の8468億㌦に迫った。 元売りドル買い

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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図表7 中国の外貨準備高の推移

(出所) 『中国経済統計』 (中嶋 誠一2005)

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により人民元の上昇を抑制しているためとみられる。 だからバスケットが機能しないわけで、 このまま

では貿易黒字と相まって、 外準が日本を抜き世界一になるのは時間の問題である。

外貨準備は通常、 外貨不足で貿易決済がままならい途上国に必要なのであり、 黙っていても資金が流

入してくる中国にはこれほどの額はまったく必要ない。 中国は多くを米国債で運用し、 米金融資本市場

への影響力を誇示することで米国を牽制する“外交カード”に使っているともいわれるが、 ドル安が進

めば資産価値は下がる。 何より、 通貨当局が一元管理するということは、 それだけ人民元の流動性を国

内に放出するわけで、 常にインフレ圧力を抱え込むことになる。 上海などの不動産市況が一時過熱した

のも、 この結果と指摘されている。 いまは過剰生産によるデフレ傾向にあるため問題になっていないが、

この不健全な通貨制度が、 いつ実体経済に大きな負荷をかけるかわからない。

3.3. 人民元改革が進まない中国の国内事情

人民元はこれだけの問題と矛盾を抱えているのに、 なぜ改革が微調整にとどまったのか。 それは中国

経済の脆弱性と体制崩壊リスクを背景にしているといってよい。

脆弱な分野とは社会機能が失われたといわれる農村はもちろんだが、 経済社会への影響力という点で

圧倒的な 「国有企業」 と 「国有商業銀行」 を指す。 この二つに地方を含めた 「政府=共産党」 を加えた、

一種の 「負のトライアングル」 が形成されているのである。 これを 「金融社会主義」 構造という。

朱鎔基前首相が市場経済化を加速するに当たって着手したのは、 国有企業、 金融、 政治の三大改革で

ある。 当時の国有企業の雇用人員は中国全土で15%前後、 国有事業を含めると都市部労働者の実に7割

を雇用していた。 しかし、 生産性と競争力の低下で黒字企業はせいぜい2割と見られ、 中小を中心に破

綻が相次いでいた。 四大国有商業銀行のうち、 外為中心の中国銀行は別として、 工商銀行、 建設銀行、

農業銀行は貸出残高の3分の2が国有企業向けで、 その多くが焦げ付いて不良債権化していた。

なぜこうした異常な貸し出しを行ったかというと、 多くの国有企業のトップにはそれぞれの 「地方政

府=党委員会」 から幹部が派遣されていたからだ。 つまり、 政治、 国有企業、 国有商業銀行という三つ

のセクターが預金を税金のように使う 「金融社会主義」 構造が形成されていたのである。 しかも、 こう

した構造のなかで汚職など不正行為が日常茶飯となった。 一方では中国経済の牽引役を担い、 生命線で

もある直接投資を呼び込まねばならず、 三大改革を実施しなければ国内産業は競争力を高めることがで

きず生き残っていけなかったのである。

しかし、 改革はリストラなどの副作用が伴う両刃の剣である。 図表8は三大改革が本格実施された

1998年から国有企業の雇用者数が急速に減少していることを示している。 しかし、 進出外国企業はそう

した人材を必要としないから、 そのまま失業圧力となる。 中国の統計によると、 05年の都市部の失業率

は4・2%だが、 実際には二ケタに達しているとみるのが常識で、 内陸部はその2倍以上といわれてい

る。

しかも、 国有企業は共産党を支える基盤であるだけでなく、 政府に代わって年金や病院などの社会保

障分野から学校まで運営しており、 その破綻は社会不安に直結する。 2005年春の反日デモ参加者の中に

はリストラされた多くの国有企業従業員や低賃金に不満を持つ出稼ぎ労働者が含まれていたという。 沿

海部と内陸部の格差だけでなく、 都市部の中でも激しい格差による不満のマグマが膨らんでいるからだ

ろう。

人民元の大幅切り上げは、 まさにこうした競争力の弱い国有企業を直撃し社会の安定を根底から揺る

がす。 だから、 昨年の人民元改革は微調整に終わったわけで、 切り上げに向けて四大国有商業銀行の不

良債権処理に乗り出したのも、 この一環である。 2004年初めに建設銀行と中国銀行に450億㌦、 日本円

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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で5兆円にのぼる公的資本を注入するなど、 数次にわたり公的資金を投入したのがそれで、 共に15%前

後だった不良債権比率は、 05年末でそれぞれ3・9%と5・2%に低下したという。 しかし、 これは公

表ベースであり真相ははっきりしない。 もっとも問題といわれてきた工商銀行と農業銀行は、 それぞれ

19%、 26・7%と高水準のままだで、 実際にはこの二倍の水準ともいわれている。 日本のメガバンクが

最悪時で8%だったことを考えれば、 その惨状は推して知るべしだろう。

3.4. 遠いハードカレンシーへの道のり

人民元が世界の注目を集めるのに伴い、 人民元がアジアの基軸通貨になるとの議論も盛んになってい

る。 確かに、 中国を生産基地とする日本企業や中国と競合するASEAN 諸国にとって人民元への関心

は極めて高い。 だが、 それを基軸通貨化に結びつけるのは、 短絡した見方であり幻想である。 人民元は

国際的に流通可能なハードカレンシーになるのでさえ、 さまざまな段階を踏まねばならないからだ。

国際通貨になる最低の条件は、 資本取引の自由化と変動相場制の採用であろう。 つまり、 市場メカニ

ズムによって通貨価値が決定されなければ、 その通貨信認は得られない。 しかし、 指摘したように、 人

民元は社会主義市場経済が内包する矛盾を抱え、 バスケット制さえ機能させられないでいる。 仮に資本

取引を解禁すれば、 米短期資金の急激な移動がアジア通貨危機の引き金を引いたのと同じような事態も

考えられる。 中国経済が併せ持つ脆弱性を理由に、 中国資本を含めた資本逃避が起こるかもしれない。

それは間違いなく中国経済の破綻につながる。 第一、 中国の株式市場や債券市場は規模の小ささもさる

ことながら、 相場の人為的な動きが目立つなど市場の健全化がなされておらず、 資本取引解禁の環境は

まったく整っていない。

変動相場制も然りだ。 市場には人為的な操作ではなく、 マクロ政策での対応が必要なのは国際金融の

常識である。 健全な市場が育たなければ、 金融政策などマクロ経済政策も機能しない。 市場介入技術も

含めて、 中国にはこの市場対応能力がまだ備わっていない。 外貨準備がたとえ1兆㌦を上回ったとして

も、 資金規模を拡大させグローバル化した市場の本格攻撃には勝てない。 フロートで人民元が乱高下す

れば、 中国経済の混乱がそのまま世界経済をも混乱に陥れるのは間違いない。

中国が市場への対応能力を身に着けるには、 途方もない時間を要する。 現在の社会主義市場経済下で

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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図表8 中国国有企業の雇用人員の推移

(出所) 『中国経済統計』 (中嶋 誠一2005)

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それを求めるのは、 到底無理ではないか。 まずは人民元を適正な水準に切り上げ、 バスケット制を機能

させることから始めなければならない。 米国は盛んにフロートへの移行を求めているが、 それは米国の

持つ市場への影響力で中国をコントロールできるという政治的意図もあり得ることを念頭において考え

ねばなるまい。 人民元のフロート移行の危険性について、 これ以上の説明は必要ないだろう。

4. あるべき新しいアジアの通貨制度

4.1. 欧州通貨制度は参考になるか

これまでのアジア通貨についての議論は、 円の国際化や円経済圏化というなかなか実体のつかみにく

い段階にあったが、 ASEAN の FTAや日本の対アジア FTA戦略、 さらには 「東アジア共同体」 構想

が東アジアサミットでもテーマになったことで、 現実の問題として議論しなければならない段階に入っ

た。 通貨の安定がなければ、 地域や二国間の貿易・投資の自由化は円滑に進まないし、 通貨が不安定な

ままでの協定は逆に混乱をもたらす可能性が大きいからだ。 しかし、 現状では政府間ベースの具体的な

通貨の議論はなされていない。

そうした中で、 アジア開発銀行やアジアの学者などが 「アジア統一通貨」 に言及し始めている。 政府

レベルの対応の鈍さも問題だが、 いきなり統一通貨というのも突出した議論であろう。 まず、 統一通貨

論の背景ともなっているユーロに至る欧州通貨の経緯を検証しながらアジアの通貨制度がどうあるべき

かを展望したい。

欧州の経済と通貨の統合構想が打ち出されたのは、 1967年のハーグ欧州首脳会議であり、 市場統合と

単一通貨は初めからセットであった。 その背景には域内間での 「大戦は二度と起こさない」 という精神

があった。 同時に西側の盟主を米国に奪われ、 経済でも 「米=ドル」 支配下に置かれた状況からの脱却

という政治的意思があったというのも常識的見方である。 それはユーロ創造に向け長期にわたるドイツ

(西独) とフランスという歴史的対立国が協調関係を構築したのをみれば、 一目瞭然であろう。 1971年

のニクソンショックによりブレトンウッズ体制が崩壊し主要通貨がフロートに移行してから、 欧州通貨

が曲折を経てユーロに至った経緯は次の通りである。

1972年 ニクソンショックを受け、 対ドルで上下2・25%の幅内で変動させるいわゆるスネーク制発

1973年 域内通貨の変動幅は維持しつつ、 対ドルではフロートする共同フロート制に移行

1979年 欧州通貨制度 (EMS) 発足

(注) この制度は①ECU (欧州通貨単位) を創設して決済手段として使う②ERM (為替相

場メカニズム) を創設するーなどがポイントである。 ERMは参加国通貨のバスケットであ

る ECUに対しそれぞれの通貨間の中心相場を決め、 そこからの変動幅を上下2・25%とす

る。

1991年 マーストリヒト条約でEU市場統合へ。 同時にユーロの収斂基準制定

(注) ユーロの主な収斂基準は①インフレ率は3・3%②一般政府ベースの財政赤字を

GDP比で3%以下③残高ベースではGDP比60%以下④長期金利は7%―である。

1992年 通貨危機で英、 伊が ERM離脱

1993年 変動幅を15%に拡大しERMが事実上崩壊

1999年 ユーロ誕生。 これに先立ち欧州中央銀行 (ECB) 創設

2002年 ユーロの流通開始

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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このように欧州の通貨制度はスネーク制発足から単一通貨ユーロの流通まで30年を要している。 それ

以前に関税同盟などを実施しているから、 経済統合へ向けた地ならしは大戦直後から始まっていたといっ

てよい。 通貨面からみて重要な節目となったのは、 1979年の EMSの発足だろう。 これは高度な管理変

動相場制であり、 バスケット通貨の ECUに一定幅で参加国通貨を収めるために、 変動幅を超える場合

は無制限の市場介入が義務付けられた。 EU市場統合には通貨の安定が不可欠との強い考えがあったか

らだ。

当然ながら、 この管理変動相場制を維持するには、 金融を含むマクロ政策も調整と協調が迫られる。

1992年の英国のポンド危機は、 あのジョージ・ソロス氏の大規模なポンド売りに対抗して相場を変動幅

内に維持するために、 ねじれた金融政策をとらざるをえなかったことによる。 当時の深刻な不況にもか

かわらず、 中央銀行であるイングランド銀行は一日で二度にわたる利上げを行ったのである。 この危機

は財政悪化が止まらなかったイタリアのリラにも波及、 結局、 両通貨とも ERMの離脱を余儀なくされ

た。

イタリアはその後、 緩い条件で ERMに復帰しユーロにも加盟したが、 英国はいまもユーロに未加盟

である。 このように、 欧州はユーロにいたる過程で自国の経済をある程度犠牲にするという厳しい政策

協調の試練を経てきた。 にもかかわらず、 ユーロが実現できたのは、 この長期にわたる政策協調の中で、

各国の経済社会システム、 経済指標が同質化されてきたからである。 その背景に宗教や民主主義、 欧州

型資本主義という共通の価値観・文化があったのはいうまでもない。

そして、 フランスの政治力とアンカー通貨としてのドイツ・マルクという存在が域内の求心力を強め

る役割を果たした。 さらに、 G7の“劣等生”といわれたイタリアまでが、 厳しい構造改革で財政赤字

の残高以外はユーロ収斂基準を達成したように、 大陸欧州各国には 「ユーロにあらずんば欧州にあらず」

という政治の意思と国民的合意があった。

金融政策を ECB に移譲し通貨主権も放棄して創造したユーロは、 壮大な歴史的実験という側面も持

つ。 それゆえに、 ECB の金融政策が景気状況にばらつきのある域内経済に不適合を生じたり、 大国の

独、 仏が3%の財政赤字基準を上回って小国から批判が出るなど、 いまも不協和音が絶えない。 各国は

求心力を保つために多大なエネルギーを使っており、 そういう意味ではいまも実験は続いているといっ

てよい。

4.2. ASEAN各国通貨はまず適正なバスケット制から

欧州の壮大な実験を見たとき、 アジア統一通貨がいかに困難か、 これ以上の説明は不要だろう。 宗教

や文化、 経済システムからその発展段階までばらばらだからである。 アジア開発銀行は通貨バスケット

で算出するアジア通貨単位 (ACU) 構想を持っているようだが、 それはあくまで参考値としての価値

であり、 ECU のように政策協調を伴う通貨単位として発足させるには相当な時間を要する。 しかし、

アジア域内経済の一体性が強まる中で、 通貨安定に向けた具体的、 現実的議論を欠いたままでは、 アジ

アの利益にならない。

政府間レベルの議論が、 チェンマイ・イニシアチブの通貨スワップ協定で止まったままで制度改革に

進まなかったのはなぜだろうか。 この協定は通貨危機により移行したフロートを前提に介入通貨を融通

し合う協定である。 しかし、 すでに指摘したようにフロートを維持するには、 G7のような成熟した市

場経済システムと一定の経済規模を備えている必要がある。 ASEAN各国はその条件を備えておらず、

市場の攻撃に対する抵抗力は依然として弱い。 にもかかわらず、 具体的議論が低調なのは、 フロート移

行後、 アジア通貨市場が落ち着いているからだ。

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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その一つの理由として注目すべきなのは、 通貨危機後に逆にドルにペッグさせたマレーシアを除くと、

フロート通貨が円との連動性を強めていることではないか。 図表9をみると、 対ドルレートはタイ・バー

ツも韓国ウォンも円の軌道に似た動きを示しているのがわかる。 事実上のドルペッグが円安局面で暗転

し競争力を落としたことが通貨危機の原因の一つになったが、 円との連動性を強めることでアジア通貨

が安定したのである。

これは市場が日本とアジア経済の一体性の強さを認識して相場を形成している結果とみられ、 アジア

の各通貨当局もこれを容認しているということだろう。 それはイラク戦争後の米国のドル安政策にもか

かわらず比較的安定していた円の動向をも反映し現在に至っている。 ならば、 この傾向をさらなる通貨

安定に向けた新しいアジア通貨制度づくりにつなげたらどうか。 円を重視した新しいバスケット制に移

行するのである。

バスケット制は IMF の SDR (特別引き出し権) や ECU のように、 その構成通貨の加重平均でレー

トを算出する。 アジアの場合、 構成通貨の種類とその比重は競合度や貿易量、 経済規模などを基準にす

べきである。 したがって各国によって構成比は違ってくるが、 円、 ドル、 ユーロの主要通貨を中心に

ASEAN通貨を加えたバスケットにするのが安定的だろう。 構成通貨としての人民元については、 中国

がバスケット制を機能させて適正相場が形成されるようになったら、 その比重を上げていく方法が適当

だ。

変動幅を設けた場合は市場の攻撃に目標を与えやすいとの指摘もあるが、 特定通貨に偏らないから基

本的には抵抗力が強い。 人民元に続いてマレーシアもバスケットを採用した。 アジア各国がこれに続け

ば、 円の比重はアジアで必然的に高まる。 適正なバスケットは外貨準備の構成にも連動するから、 円で

の運用が必要になる。 それは日本国債が対象になり、 今後懸念される貯蓄率の低下による日本国内での

国債消化不安の解消にも役立っていくはずだ。

4.3. 「北東アジア通貨制度」 の提唱

検証してきたように、 アジアの統一通貨は現段階では極めて非現実的であり、 実現には相当の時間を

要する。 「東アジア共同体」 も、 EU のような市場統合と通貨統合を目指すのだとしたら、 遠い将来の

話だろう。 とくに社会主義市場経済という異質な政治経済体制をとる中国は、 それがアプリオリに内包

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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図表9 ASEAN4と NIES 各国のドルレートの推移

(出所) International Financial Statistics CDROM 2005 (台湾のみ 『アジ

ア動向年報』 (各年版))

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する矛盾の膨らみから崩壊リスクまで高まっている。 中国が提案する 「ASEAN+3 (日、 中、 韓)」

にしろ、 日本が志向する 「ASEAN+3とインド、 オーストラリア、 ニュージーランド」 にしろ、 この

リスクを参加国が直接的にすべて引き受けることになる。 したがって 「東アジア共同体」 は、 中国の体

制転換を視野に入れつつ拙速を避けることが望ましい。

しかし、 EUだけでなく米大陸も、 ドルを機軸に北米から南米までの自由貿易地域形成に向かってい

る中で、 日本がそうした方向を目指さないでいいわけではない。 人口減、 少子高齢化という不可避で長

期の成長下押し圧力に対応するには、 共同市場を形成して市場規模を拡大する方策は極めて重要になる。

こうした問題意識を持ってアジアをみると、 日本が共同で市場を形成することが可能なのは韓国、 台

湾の北東アジア地域しかない。 日本に比べ韓国、 台湾の成熟度が高いとはいえないが、 経済発展段階も

経済システムも比較的近い。 これは戦前からの歴史だけでなく、 戦後も日本の官僚制度を参考にするな

ど、 日本という存在が目標にされてきたからだ。 この地域はともに儒教文化圏であり、 最近は日本のポッ

プカルチャーがアジアの中で最も急速に浸透している。 逆に日本でも韓流ブームが広がっている。 この

地域の観光やスポーツなどの交流も加速度的に深まっており、 近くて遠いといわれた距離感は飛躍的に

縮まった。 日韓間では FTA交渉も進んでおり、 共同市場はかつてよりはるかに形成しやすくなったと

いえよう。 韓国は米国ともFTA交渉入りを宣言したが、 日韓間の方がはるかに質の高いものとなる。

図表10のように、 人口は日本に韓国、 台湾の7000万を加えると約2億になる。 域内総生産は韓、 台の

1兆㌦を加えて5・5兆㌦だ。 金融資本市場も他のアジア諸国に比べてはるかに整備されているから、

財政金融政策の遂行能力もある。 農業保護という共通の問題も抱えており、 共通市場づくりのネックも

他のアジア諸国に比べて少ない。 欧州もコアグループで先行したように、 アジアでもこの北東アジア地

域でコアグループを形成して先行させるのだ。

通貨制度は EMS を参考に 「北東アジア通貨制度」 (仮称) をつくる。 欧州が市場統合前にこの通貨

制度を使って政策協調とマクロ経済システムの同質化を図ってきたのは、 すでに述べた通りである。 北

東アジアでは円、 ウォン、 台湾元の3通貨バスケットで中心値を決め、 一定の変動幅内で3通貨を安定

させ、 他通貨に対してはフロートとする。 変動幅は大き過ぎると制度の意義を損なうが、 ERMよりは

緩やかにする方が望ましい。 日、 韓、 台のギャップを考えれば、 できるだけそれぞれの政策余地を残す

ことが賢明だからである。

当然ながら、 EMS が西独マルクだったようにアンカーの役割を果たす通貨は円になる。 バスケット

内での円の比重はかなり大きくなるが、 アジア通貨危機後のウォンはアジア通貨の中で最も高い円との

連動性を示している。 競合度合いを市場が反映させた結果であり、 韓国通貨当局もこれを容認している

からで、 大きな支障はないはずだ。 円がアンカーとなれば、 その責任も大きくなり、 日本の金融、 財政

政策に強い規律を促す効果もある。

もちろん、 この北東アジア通貨制度の実現には多くの困難を伴う。 まず、 台湾の参加に中国が猛反対

するだろう。 しかし、 市場経済の成熟度やファンダメンタルズ (経済の基礎的諸条件) で明確な参加基

準を設ければ、 政治的反対理由は説得力を持たない。 また、 そうした客観基準がなければ、 逆にこの制

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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図表10 日本、 韓国、 台湾、 タイの主要経済統計(2004年)

(出所) 『アジア動向年報』、 IFS CDROM 2005

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度自体も成り立たない。 公式には日本と台湾に国交はないが、 台湾は中国と同様にWTOに加盟して

おり、 擬似協定の締結などなら問題はないだろう。 中国経済に飲み込まれつつある台湾自身にとっても、

この制度の求心力は大きな利益になろう。

韓国は日本に対し歴史的わだかまりがある。 日本にとっては韓国のわだかまりと労働市場などに懸念

を持つ。 この通貨制度には政策協調が不可欠であり、 それが英国の ERM離脱のように亀裂を深めるこ

ともあるあるかもしれない。 しかし、 歴史的に対立関係にあった独、 仏が官僚の交換までして協調を図っ

たように、 絶えざる政策協調にはこうしたわだかまりを薄める作用があることも忘れてはなるまい。

そして問題は米国である。 米国はAMFに反対したように、 「東アジア共同体」 にも強い懸念を示し

ている。 アジアへの影響力低下につながりかねない北東アジア通貨制度には一層の反発が予想される。

しかし、 指摘したように米国自身もEUの動きをみながらドルを機軸に自由貿易地域形成に乗り出して

おり、 正面切って北東アジア通貨制度に反対できる理由はあるまい。 米国とは中国の反発を牽制するた

めにも協調関係を保ちつつ、 理解を求めることだろう。

ASEAN との関係にも神経を使う必要がある。 日、 韓、 台で独自の通貨制度を創設するとなれば、

ASEANの立場は極めて微妙で複雑になるからで、 北東アジア通貨制度はあくまで将来のアジア統一通

貨に向けた先行コアグループと位置づけなければならない。 場合によっては、 ASEANでいち早く市場

経済化を進め、 かつ日本との経済関係が深いタイを創設時から参加させることを検討したらどうか。 変

動幅や参加基準を緩くすれば、 参加は不可能ではない。 それはインドシナ半島、 そして ASEAN 地域

の代表という意味合いを持ち、 ASEAN諸国に経済構造改革を促す動機付けにもなる。 シンガポールも

参加を望むなら、 拒む理由はあるまい。

他のアジア通貨は人民元を含め、 参加基準を満たした順に加盟する。 それまでは、 各国別の通貨バス

ケットで市場対応能力を高めていくことが必要だ。 その意味で、 日本主導で進んでいるアジア債券市場

育成は政府や企業の資金調達という側面もさることながら、 市場で金利水準が形成される概念を定着さ

せるうえで役立とう。 モノだけでなくカネの市場成熟化はマクロ政策の機能・技術向上と一体だからだ。

4.4. 日本の役割と責任は何か

日本はアジア通貨危機で多大の貢献をした。 しかし、 それを生かすことなく、 国内の金融危機ととも

にアジアでのプレゼンスを低下させてきた。 代わってアジアへの影響力を高めてきたのが中国である。

しかも、 世界経済における中国の存在感は通貨危機当時よりはるかに大きくなったという現実がある。

アジア各国はこの地域における日、 中の覇権争いには極めて強い懸念を抱くに至った。 アジア通貨安定

に寄与できる条件を備えているのは日本だけだが、 自ら突出するのは好ましくあるまい。

北東アジア通貨制度は日本が強い主導力を発揮せねばならないが、 ASEANの通貨バスケット制づく

りなどでは、 金融を含めた政策ノウハウなど経済システム面で協力していくことだ。 この地域の求心力

と通貨の安定性を高めるために、 改めてAMF創設論議を盛り上げる役割を担うのも一案だろう。 かつ

ては反対した中国も、 人民元のバスケットを機能させていかねばならないから、 通貨安定に寄与する

AMFの必要性に理解を示すのではないか。

日本は通貨危機支援のように、 アジアから期待される形でアジアに関与を強めることが賢明だ。 その

ためには、 日本がアジアから尊敬され、 範となるような改革を進めることが不可欠になる。 北東アジア

通貨制度をつくるにしても、 現状のような金融・財政状況では円がアンカーになる資格を欠いていると

いわざるを得ない。 金融政策は確実な成長軌道に入れば常態に戻ろうが、 財政は危機的である。

政府目標である2010年代初頭の基礎的財政収支の黒字化を達成したとしても、 すでに GDP 比で150

第4章 「アジア通貨安定へのアプローチ」

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%を超した国・地方合計の長期債務残高はもっと悪化していく。 ユーロ基準は60%だった。 何とか参加

が容認されたイタリアでさえ100%強だったことを考えれば、 それがいかに異常かわかろう。 日銀と銀

行が国債を買い支えていなければ、 長期金利は2桁台に乗っていてもおかしくないし、 通貨信認も揺ら

いでいよう。

指摘してきたように、 少子高齢化の進展と人口減が家計貯蓄率の急速な低下をもたらす懸念もある。

これは米国と同じように国内で財政赤字のファイナンスができなくなる危険性を指す。 外国の日本国債

保有率は5%程度と他の先進国に比べて極めて低く、 今後はアジア諸国による購入を促進せねばなるま

い。 それは円のウェートを高める効果もあるが、 例えば中国が恣意的な外交カードとして日本国債を大

量保有するようなことになれば、 米国のように揺さぶられる可能性もある。 軍事的プレゼンスを持たな

い日本にとっては、 経済の安全保障問題そのものといえる。 財政再建はそういう意味でも国内だけの問

題ではないのである。

5. おわりに

通貨は国家の主権であり、 重要な外交ツールの一つである。 したがって通貨外交は極めて戦略性を要

する。 本稿で提唱した北東アジア通貨制度にしても、 AMFでさえ簡単に失敗した経緯をみると、 慎重

に運ばなければならないのは当然である。 その意味で、 共同の制度研究も政府間レベルより中央銀行間

で先行させた方が賢明かもしれない。 しかし、 臆しているだけでは新たな歴史は開かない。 欧州がそう

だったように、 それを開くのが強い政治の意思以外にないことは論を待たない。

【参考文献】

アジア経済研究所 (2000年) 「アジア諸国の市場経済化と企業法」 小林昌之編

岩崎慶市 (1998) 「見てきたアジアの危機」 『諸君!』 1月号

岩崎慶市 (2004) 「人民元は三割切り上げて当然」 『Voice』 5月号

王文山 (1997) 『七つの中国』 (金美齢訳) 文芸春秋社

関志雄 (1998) 『円と元から見るアジア通貨危機』 岩波書店

久保田勇夫 (1988) 『国際金融の新展開』 財経詳報社

田中直毅 (1996) 『アジアの時代』 東洋経済新報社

ヘンリック・ミュラー (1998) 『欧州はユーロで変わる』 (山本武信、 荒川道子訳) 東洋経済新報社

逸見謙三 (2003) 『13億人の食料』 大明堂

ポール・クルーグマン (1998) 『資本主義経済の幻想』 (北村行伸訳) ダイヤモンド社

若月三喜雄 (1996) 一橋フォーラム21 『円とドルをめぐる日米関係』 如水会

渡辺利夫編・日本総合研究所調査部環太平洋研究センター (2003) 『ジレンマのなかの中国経済』 東洋

経済新報社

その他

「グローバリゼーション下のアジアと日本の役割」 研究会報告書

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