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報告 難波功士 関西学院大学社会学部教授 広告史研究の現状と課題 テレビ文化アーカイブズ研究プロジェクト 第9回 研究会 石田佐恵子 大阪市立大学大学院文学研究科教授 岩谷洋史 国立民族学博物館文化資源研究センター機関研究員 高野光平 茨城大学人文学部准教授 竹内幸絵 大阪市立大学非常勤講師 辻 大介 大阪大学大学院人間科学研究科准教授 村瀬敬子 佛教大学社会学部准教授 山崎 晶 四国学院大学総合教育研究センター准教授 川又 実 四国学院大学総合教育研究センター准教授 ●大阪メディア文化史研究会 秋山洋一 書肆グランデ主宰 井上祐子 京都外国語大学講師 石田あゆう 桃山学院大学社会学部准教授 加島 卓 東海大学講師 木原勝也 フリーランス 大石真澄 大阪市立大学院生 Olga Genadieva 大阪大学研究生 華 京硯 龍谷大学院生 山森宙史 関西学院大学院生  桐山吉生 事務局/京都精華大学全学研究センター *50音順(研究会メンバー)/肩書きは2013年度現在 参加者 2013年12月14日 京都国際マンガミュージアム

第9回 研究会 - 京都精華大学 · 第9回 研究会 石田佐恵子 大阪市立大学大学院文学研究科教授 ... *50音順(研究会メンバー)/肩書きは2013年度現在

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報告 難波功士 関西学院大学社会学部教授

広告史研究の現状と課題

テレビ文化アーカイブズ研究プロジェクト

第9回 研究会

石田佐恵子 大阪市立大学大学院文学研究科教授岩谷洋史 国立民族学博物館文化資源研究センター機関研究員高野光平 茨城大学人文学部准教授竹内幸絵 大阪市立大学非常勤講師辻 大介 大阪大学大学院人間科学研究科准教授村瀬敬子 佛教大学社会学部准教授山崎 晶 四国学院大学総合教育研究センター准教授川又 実 四国学院大学総合教育研究センター准教授●大阪メディア文化史研究会秋山洋一 書肆グランデ主宰井上祐子 京都外国語大学講師石田あゆう 桃山学院大学社会学部准教授加島 卓 東海大学講師木原勝也 フリーランス

大石真澄 大阪市立大学院生Olga Genadieva 大阪大学研究生華 京硯 龍谷大学院生山森宙史 関西学院大学院生 桐山吉生 事務局/京都精華大学全学研究センター*50音順(研究会メンバー)/肩書きは2013年度現在

参加者

2013年12月14日 京都国際マンガミュージアム

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【0】本日の発表の前提・ 広告史に関する難波個人の現在の課題:「博報堂 120年史」出版広告出自(博文館との関係、長らく神田錦町を拠点とした)というDNAゆえか、芸術家・学者に敬意を払う社風(宮武外骨、恩地孝四郎、川端康成、高橋邦太郎、多木浩二、乾直明…)今回フォーカスしたいのは、アニメーション作家としての藤井達朗、広告理論家としての今泉武治(いずれも博報堂に在籍。こうした人々を受け容れた博報堂とは)。藤井・今泉の話を中心に広告史研究に関する雑感を。

【1】関西CM史を振り返る。《広告がそのまま研究対象となる場合》2013年 8月 28日広告学会関西部会◎京都精華大学テレビCMデータベース(1) パール歯磨き(資生堂)パールちゃんの運動会、1953年、61秒(電通)(2) 東和スピードフリーザー(東和)、1956年、41秒(協和通信)(3) 吉田製作所(エアロマット)、1961年、30秒(博報堂)(4) 早川電機工業(テレビ)、1955年、112秒(電通)⇒関西の制作会社の作品をプラス(さがスタジオ、ハイスピリット)※ハイスピリット社に関しては、立命館大学アート・リサーチ・センター所蔵のフィルムをデジタル化

※津堅信之『テレビアニメ夜明け前:知られざる関西圏アニメーション興亡史』ナカニシヤ書店、2012年

⇒旧萬年社所蔵資料をベースとした研究プロジェクト

Ⅰ.1953~1973年:テレビ(CM)黄金期―関西広告界の最後の輝き―

・ 藤井達朗(1937~ 85年 /63年博報堂入社 /奈良生まれ)と堀井博次(1937年~/1955年電通入社 /京都生まれ)

報告

広告史研究の現状と課題

難波功士 Nanba Koji

164  テレビ文化研究

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(5) ヴィックス(阪急共栄物産?)1959/ 1963年(30/ 5秒)、さがスタジオ(博報堂)(6) ナショナルホームラジオ(松下電器)、1958年、90秒、さがスタジオ(7) 壽屋の洋酒(サントリー)、1958年、90秒、さがスタジオ(8) ダイハツミゼット(ダイハツ工業)ミゼット坊や、1959年、30秒、さがスタジオ(9) グンゼメリヤス肌着(グンゼ)スーパーインポーズ、1959年、20秒、さがスタジオ(10) 阪神パーク(阪神電気鉄道)、1960年、40秒、さがスタジオ、「天外のいじわる爺さん」(11) 黄桜(黄桜)、1962年、30秒、さがスタジオ(12) ハウスコショーピリット(ハウス食品)ワイプ、1963年、30秒、さがスタジオ(13) かっぱえびせん(松尾糧食工業)、1969年、30秒、ハイスピリット ※カルビーの東

京本社移転は 1973年→藤井の上京(松下電器・ピップフジモト・立山アルミ・日清食品→サントリーレッド・永谷園・資生堂)

Ⅱ.1973~1993年:テレビ(CM)爛熟期―堀井グループの時代―※「コマーシャルの転回点としての 70年代」長谷正人・太田省一編『テレビだョ!全員集合』青弓社、2007年「「ビジネスモデル」としての広告系文化人」南後由和・加島卓編『文化人とは何か?』東京書籍、2010年 ・ 『堀井博次グループ全仕事』(マドラ出版、1998年)1975年 松下電器(アームスタンド)/ 1976年 松下電器・冷蔵庫「電気なければ」1976年~関西電気保安協会  1980年~キンチョール  1984年~ミスタードーナッツ・ カウンターとしての存在感(低予算・高インパクト→不況期に見直される)

Ⅲ.1993~2013年:テレビ(CM)冬の時代・ 萬年社(1890~ 1999年)2003年 カンヌ銀賞 電通松山営業所・松平不動産(コンパクトスウィング)がカンヌ銀賞2009年 ワトソンクリック創立2010年 ACC賞グランプリ 電通関西・梅の花 

【2】1960年代メンズファッションを振り返る。《広告を資料として何かを論じる場合》2013年 10月 12日KFM

TVCM(TCJ作品から)①レナウン 1962 オックスフォードシャツ②丸井 1966③帝人 1960 テトロンシャツ

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  165

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④帝人 1962 ホンコンシャツ⑤帝人 1964 プレイシャツ⑥帝人 1968 ブーケシャツ

【3】 広告をめぐる言説を振り返る。《広告の語られ方を通じてその時々の社会を考察する場合》

・ 今泉武治(1905~ 95年)研究の現在井上祐子「太平洋戦争下の報道技術者:今泉武治の「報道美術」と宣伝写真」『立命館大学人文科学研究所紀要』75、2000年

加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学:近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ』2012年

~戦前:芸術と広告デザインとの拮抗→対芸術とともに、広告とデザインを語ることの分離(広告≒マーケティング/デザイン≒アート)→広告とデザイン、経営(マネジメント orマーケティング)と芸術(アート)とを統合しようとした今泉の「アートディレクター」論の消され方(新井静一郎が戦後アメリカから輸入したものとしてのアートディレクター制)

今泉が消えた/消されたというよりは、今泉の興味、もしくは守備範囲が、グラフィックからCMへ、クリエイティブから調査へ、さらには実際の企業経営へと向かっただけの話では?1952年 11月 10日発行「社内ニュース」18「各部便り」企画調査室「当企画調査室が労をとって広告研究会を作っています。これは広告界の第一線で活躍されている方々に御集まり頂き、その時々の広告界の問題をとりあげて調査研究をし実際に役立つ資料を得ることを目的としています。…今の所御集り頂いている方々は朝日の岡本・桶本両氏、朝日調査室後藤氏、丸見屋今泉氏、ヒゲタ川崎氏、第一生命渡辺氏、時事調査室深井氏の諸氏ですが、この会も今月で四回目に達して漸く軌道にのりつゝあります」(豊田)博報堂月報(広告)1953年 12月 1日No.69「ミューズ石鹸の広告実験調査」/「ミューズ調査の総合報告」広告科学研究会(会員 深井武夫記)朝日新聞読者に対する新聞広告の効果調査/「ミューズ調査について スポンサーの立場から」今泉武治(丸見屋宣伝課長)宣伝会議 1956年 5月「モチベーション・リサーチの意義と方法」座談会 室井鉄衛(中央調査社調査第三部長)/高月東一(与論科学協会主事)/上田八州(博報堂調査部)/今泉武治(丸見屋宣伝課長)/久保田孝宣伝会議 1959年 10月「テレビ広告を採点する」座談会 石原裕市郎/今泉武治(博報

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堂顧問 東京 ADC会員)/金久保雅/久保田孝 三菱ボンネル提供の「黒帯先生青春記(NTV)」「久保田 いや、今泉さんはボンネル広告のコンサルタントなんです」博報堂月報(広告)1959年 10月No.139「現代人の広告心理」司会室井鉄衛(中央調査社実施部長)南博(一橋大学教授)堀川直義(朝日新聞調査研究室員)八木俊雄(東芝商事株式会社広告部副部長)今泉武治(博報堂顧問・ADC会員);社会学者ライト・ミルズが話題に。今泉もミルズに言及。宣伝会議 1960年 2月「経営とイメージング」座談会 林周二(東京大学助教授)/今泉武治(博報堂顧問 東京 ADC委員)/田島義博(日本能率協会「マネジメント」編集部班長)/久保田孝 3・4月と連載はくほう第 9号 1962年 1月 30日号発行「新しい年へ各局の方針と抱負」(常務取締役総合企画局長斎藤太郎)取締役調査局長今泉武治「広告は美しいばかりでなく、科学的でなければなりません。広告を科学的に進めていくための基礎材料を作るのが、調査局の仕事です。調査とひと口にいっても、無限にひろい間口がありますし広告主からの依頼調査もたくさんもっています。今年から、いままで調査部一本であったものを広告調査部・市場調査部・資料部の三部にわけ、これを統合してゆく新しい局として発足しました。/今年やりたいこととしては、各種の心理実験装置をし、日本でまだ開拓されていなかった機械測定による心理実験テストやコピーテストを開拓する。また新たに、研究室と企画室を設けました。研究室は外部専門学者の協力によって、調査技術の原理的な開発と実験を行うことと、動機調査やコピーテストなどの六つの部門別の研究会を管理したり、横に関連づける仕事をします。企画室は調査全体を企業にもっとも機能的、効果的に役だつような調査の方向と方法を、つねに考えてゆくスタッフ部門です。これからも博報堂独自の調査といえるような調査を重点的に着々とつくりあげていきたいと考えています」博報堂月報(広告)1962年 2月No.167瀬木慎一「再びアートディレクターについて」~今泉武治への反論博報堂月報(広告)1963年 22月No.188「スポットCMにスポットをあてる」今泉武治の上原ゆかりマーブル CMへの講評。他には並河亮(日本大学教授)、中村昭二(日本テレビ CM室 CM課長。CMC会員)。今泉の紹介文「博報堂取締役。ADC委員。各種広告技術団体の要職を兼任し、幅広い活動をつづけている。今年の ACC・CMコンクールでは審査委員長をつとめた」博報堂月報(広告)1964年 11月No.200 今泉武治「テレビ CMのドラマ 第四回CMフェスティバル入賞作品から」「(筆者の今泉武治氏は、ACCの設立提唱者であり、第一回 CMフェスティバル以来、毎年審査委員長をつとめ、CMの質的向上のために、大きな貢献を果たしている。CMの歴史とともに歩み、その発展に寄与した功績に対して、今回、ACC会長賞を贈られた。)」

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  167

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宣伝会議 1965年 6月「日本宣伝賞・内藤豊次氏へ 三賞は今泉氏・遠藤氏・天野氏」「正力賞 今泉武治氏 広告の理論と技術について多くの新知見を発表しその向上開発に大きく貢献した。現博報堂取締役」宣伝会議 1967年 3月「今泉武治氏の受賞が決まる第 5回<全広連衣笠賞>」「東京広告協会は昨年 12月 14日に理事会を開き 42年度の第 5回<全広連衣笠賞>…博報堂取締役今泉武治氏(写真)を推薦することを満場一致で決めた。/今泉氏推薦の理由は「全広連をはじめ各種広告団体の技術関係の委員長または委員として、公共的事業に活躍すると同時に、常に新しい広告技術を追求、開発して広告界の発展に大きく寄与した」というもの」

【4】広告史研究の困難Ⅰ.資料の偏在・散逸・ CMアーカイブの困難:デジタル化の許諾すらも拒否されるケースがある(広告主/代理店/制作会社の 3者の合意が必要)。研究・教育目的であっても、アクセス・利用できる範囲が限定されている現状cf. 大阪府ほか編著『大阪に東洋1の撮影所があった頃:大正・昭和初期の映画文化を考える』ブレーンセンター

・ 関係者の物故、広告主/代理店/制作会社の廃業や体制の変更(ex.レナウン、三洋電機)・ 社史としてのみ描かれる広告史(史料の秘匿) ⇔ 産業史ではなく社会史・文化史として(受容史・利用史)→人々の広告観の変遷。広告人・広告業界が、どのように表象されてきたのか?

Ⅱ.テレビ視聴の文脈の忘却(14) わんさか娘(レナウン)、1961年、64秒(15) お気に召すままオープニング(レナウン)、1962年、18秒(16) スーパーインポーズ(レナウン)、1962年、22秒(17) わんさか娘(レナウン)、1962年、67秒(18) サンヨーテレビ 14型(三洋電機)、1962年、60秒(19) サンヨーワイドテレビ(三洋電機)、1964年、60秒・ 広告受容の記憶の、まだらな薄れ方(記憶の再編、創出)(20) JR東海 ファイト!エクスプレス(シンデレラエクスプレスへの収斂≒バブル期の記憶)

Ⅲ.東京電博中心史観の相対化宣伝会議 1960年 1月「リーダイ広告 100選」座談会 川崎圓 (博報堂制作審議室顧問 東京 ADC委員)今泉武治(博報堂制作審議室顧問 東京 ADC委員)久保田孝 司会・市橋

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立彦(リーダーズ・ダイジェスト広告局長)→市橋はその後、大広に入社(ダイハツなどを担当)・ 関西を回顧する辛さ(かつて栄光の…、というクリシェ)※阪神間(モダニズムの聖地、モダニズムの古都)/大阪(昭和のコールドスリープ)※「関西発文化について」小谷敏ほか編『若者の現在2文化』日本図書センター、2012年

▼報  告▼難波 今日はレジメの[1]関西 CM史を振り返るという話しを中心に、[2]のメンズファッションを振り返るは飛ばしつつ、最近興味をもっていることということで、研究者がほとんど3~ 4名しかいないのですが、今日はめずらしくその人たちが参加していらっしゃるので、今泉武治の話をしたいと思います。CMの話を中心に広告史やメディア史の話をしますが、時代が行ったり来たりだとか、発表が散漫になることはお許しください。まず、レジュメの[0]をご覧ください。「本日の発表の前提」と書きました。いま、自分が

広告史やメディア史について考えるときにいちばん興味をもっているかというと─興味をもっているというか、やらなければならない仕事というのが─、博報堂の 120年史という仕事なんです。私は博報堂の出身で、辻大介さんもそうなんですけれども、博報堂は 1895年にできた会社なので、2015年で博報堂が 120周年を迎えます。少し脇道にそれるのですが、博報堂という会社は、きちんとした社史をこれまでに出したこ

とがない会社で、それは出せなかったという事情のほうが強い会社なんですね。1895年に瀬木博尚さんという人が会社をつくられて、2代目が瀬木博信、3代目が瀬木博親という名前なんですけれども、瀬木博親さんは途中から瀬木庸介と改名しています。瀬木庸介は父・博信が存命中は、社業を一生懸命にこなし、海外に留学したりして、1960年代の話ですが、先進的な海外の仕組みを取り入れようとしたり、広告業界の若きニューリーダー的な存在になっていましたが、博信没後、1967年頃からはある人に経営を任せ、瀬木庸介氏自身は、ある修養団体の活動に専念していくことになります。その経営を任された人と、瀬木博政さんなど瀬木家の分家にあたる人々との間に確執が起こり、お家騒動として世間の注目を集めました。この事件による会社のイメージダウンの回復のためもあって、1980年代ごろには、国税庁

の長官が二代ほど社長をつとめてとしてきていた時期があります。近藤道生、磯邊律男という社長がずっと続いていて、博報堂で育った人間が社長の椅子に座ったのが 1990年代に入ってからのことですから、そのようなバタバタとした歴史の会社です。1995年時点で私はまだ会社にいましたが、ちょうど 100周年なんで、何か大々的にやろうというはずだったのですが、その頃私は制作現場を離れて経営企画室という部署にいて、100周年のことをやらされていたのですが、瀬木家の人々とその後の歴代社長との温度差はどうしてもあって、なかなか社史をまとめるという話にはなりませんでした。

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  169

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それから 20年経って、株式を公開したこともあり、かつ近藤道生氏のご逝去などもあって、また生え抜き社長の皮切りであった東海林隆氏もまだ矍鑠とされていることもあり、120周年が社史をつくるいい機会ではないかと、今回の博報堂 120周年史の話が持ち上がりました。データ(本史・正史)部分はすでに、印刷会社の社史編纂チームのようなところ、専門の

ライターさんたちでそこはガッチリまとめてやると。ただ、読み物としてもう少しおもしろいものをつくろうという話しもあって、博報堂生活総合研究所の初代所長の東海林さん、次の代の関沢英彦さん(現在、東京経済大学教授)─をブレーンにして、博報堂出身者を集めて「読み物版博報堂 120年史」をつくろうということになりました。小説家の逢坂剛さんやエッセイストの酒井順子さん、劇作家の鈴木聡さん、などの中に私も呼ばれたんですが、「いちばん下っ端で使いやすいから、他の人が書かないところを埋めることをやれ!」という話になって、最初はメディア史の全般の流れの中で博報堂の社業はどうだったかということをちょっとおもしろく書け、という話だったんですけれど、執筆予定の天野祐吉さんが亡くなられたので、もう少しクリエイティブよりのことも書け、という注文を受けております。ともかく周りは能力のある書き手ばかりなので、プレッシャーを受けて悩んでいる状態です。で、自分なりに博報堂に関して何か書きたいことがあるかなと思い巡らすうちに、「Ⅰ.

1953~ 1973年:テレビ(CM)黄金期」の話しに深く関わってくるのですが、藤井達朗さんというCM作家のことがずっと心に引っかかっていることに気づきました。藤井さんは1963年から 1985年くらいまで博報堂に在籍していて─ 47~ 8歳で亡くなられたんですけれども─、非常に有名なCMの作者でありクリエーティブ・ディレクターであった方で、私は 84年入社なので、入ってすぐ亡くなられて、スゴイ人だなあぐらいに思っていたんですが、TCJのデータベースができあがって、さらに京都にあったさがスタジオ制作の CMがデータベースに搭載されたときに、藤井さんは博報堂に来る前にさがスタジオにいたということがわかり始めてきました。博報堂に入ってから藤井さんについて聞いた話というと、関西で生まれて、京都辺りで絵描きになろうとしたけれど食べていくことができなくて、大阪に流れてきて、博報堂で絵コンテや四コマ漫画を書くような仕事をしていてだんだん CMの企画ほうがおもしろくなり入ってきた人である、みたいなことだったのですが、さがスタジオで藤井さんと一緒に仕事をしていた人に聞き取りをすると、それは全然違っていて、高校卒業後京都に行って、アニメーターとしての腕をものすごく磨かれて、初期のアニメCMの傑作をいくつか残されていて、それで博報堂に引き抜かれてきた人だということがわかってきたし、さがスタジオ時代の方々が口をそろえて仰るには、あのまま広告業界に行かなかったら宮崎駿になれていた人だということを延々と語られるんです。私にすれば広告の世界で有名になった人というイメージなんですが、アニメーター時代を知っている人たちにとってみれば、広告業界に行かなければ、もっと大成したろうし、早死にしなくてすんだのに……ということをみんなが語るというのが興味深くて、藤井さんのことをもう少し調べてみたいと思っていたのが先ずありました。あと、今泉武治という人に関しても、戦前から森永製菓のデザイナーとして活躍しは

170  テレビ文化研究

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じめて、戦時中は東方社や報道技術研究会等々でプロパガンダの仕事をしていて、戦後は丸見屋─食品ではなく、当時、いまでいうトイレタリーみたいな会社なんですけど、ミツワ石鹸の会社に入って「ワッワッワー、輪が 3つ……」という有名な CMに関わったりとか、そんなことをしてた人なんですが、1960年から 67年ぐらいまでは博報堂にいて、最後は取締役にまで上り詰めたんです。今泉さんに関しては、井上祐子さんが生前にお会いしているし(井上祐子「太平洋戦争下の報道技術者─今泉武治の「報道美術」と宣伝写真」『立命館大学人文科学研究所紀要』75、2000年)、そこで得た資料を加島卓さんが分析したりとか、いろいろと仕事があるんですが、戦後、博報堂に行ってからの今泉に関してはあまり誰も調べていないと思ったので、この機会にちょっとやってみたいなと思いました。「私は、藤井達朗と今泉武治に興味をもっているんですけど……」みたいなことを言ったんですが、「それはそれでいいけれど、ちゃんと社史に落とし込むように」と言われて、どうしようかと悩みはじめたんですが、社史なので博報堂のことを褒めなければいけない、いいところだと書かなければいけないと考えていて、博報堂ってどういう会社なんだろうと思い返したときに、いまはなくなってしまったんですが、神田錦町というところに古い本社社屋があった会社なんですね。創設時は博文館と関係が深く、出版業が浮上してくるなかで、成長していった広告代理店で、雑誌に広告を入れるというよりは、新聞に本の広告を掲載するという分野にものすごく強くて、それで伸びっていった会社です。出版業に近いところに位置していた博報堂に対して、メディアの町、新聞社の町を拠点にしていた電通─電通はメディアの側に立っていて、民放の立ち上げにも深く関与していたし、いまも築地→汐留と移っても、汐留では日本テレビや共同通信と同じところにいるような、メディアに近いところにいて新聞業・メディア業と一緒に成長を遂げてきた電通に対して、出版業に近いところにいた博報堂という構図があります。博報堂はそれがために電波媒体に乗り遅れたのが致命傷だとよく言われるんですが、それゆえに独特の気風のようなものもあるんじゃないかという話をするということにしています。これは、ちょっと感じることなんですが、博報堂は出版業に近いためなのかどうかわからな

いですが、本の著者、学者、文化人にあたるような人に対してはものすごく手厚いところがあって、そういうカラーが出てくるような会社だったなあと思います。神田の社屋がなくなってそんな気風が薄れたかもしれないけれど、ずっと出版業に近いところにいたというのは、書いておくべきであろうと考えています。レジュメに人名を羅列していますが、宮武外骨という人は初代社長・瀬木博尚とものすご

く近しい関係にありました。二人は石川島の刑務所のようなところで出会っています。瀬木博尚という人は富山から出てきた下級武士で、自由民権運動に関わり、捕えられて刑務所にいて、一方、宮武外骨は言論弾圧により刑務所にいて、そこで知りあって仲良くなったようです。その後宮武が古新聞を集めて回り、東大の明治新聞雑誌文庫を創設するときのスポンサーは瀬木家だし、博報堂だったりするという関係があります。

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  171

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また、恩地孝四郎という高名な版画家を抱え込んで博報堂の中に「装幀相談所」を開設(1949年)し、「本の装幀に関するよろず相談引き受けます」みたいなことをやっていて、博報堂に何もプラスにならないかもしれないのに、それをずっとやっていた。版画家としての恩地孝四郎のパトロンのようになったりとか、川端康成顧問がしばらくいたということがあったというのを最近知りました。川端康成というと “Discover Japan” で電通とのつながりを想起しますが、博報堂周辺にもずいぶんいたとか……。高橋邦太郎という人はもうちょっとマイナーなんですけれども、フランス文学者で、『アル

セーヌ・ルパン』を戦前に最初に訳したことで有名で、戦時中はフランス語ができるので日本放送協会に入り、仏領インドシナに行って、プロパガンダ放送をやっていた放送人なんですね。戦後は再びフランス文学者として働き出すんですけど、放送業界には力をもっていた人です。満州電電(満州電信電話株式会社)で活躍した金沢覚太郎も、戦後、大学の先生になりつつ放送業界に関わっていた人たちで、しかも二人とも共立女子大学の先生で、共立女子大と神田錦町の本社は目と鼻の先にあって、神田錦町の本社があって、学士会館があって、如水会館があって、その向こうが共立講堂だったりするので、その辺りを調べてみるのもおもしろいかなあ、と思ってみたりしています。今回、資料調査に行っておもしろかったのは、多木浩二が博報堂にいたというのが衝撃的

でした。博報堂には 1959年に入社、「東大の美学をでて、名取洋之助のもとで岩波写真文庫をやっていたが、それを終わったので博報堂に来ました」(社内報より)みたいなことを多木浩二が言っています。それから、乾直明さんという人は博報堂の図書館長を長年務めてきた方なんですが、アメリカのテレビドラマが日本でどのように放送されたかに関しては、第一人者のような方で、博報堂はむかし余裕があって、図書室を重視していたころは、こういった力のある人が室長を務めていたことがあったなあとか、そんなことをいろいろ感じます。ほかにもいろいろあるんですが、そういった辺りで文化系の博報堂に対して、体育会系の電通……草食系の博報堂、肉食系の電通という気風がどこかにあって、それは文化人を大事にするとか、文化人に近しいところにいるとかといったことなのかなあ、みたいなことを書こうと考えています。ここからは、ややこじつけがましいのですが、学芸に篤い、学者や芸術家にやさしいという

意味では、藤井達朗という有名なアニメーション作家を抱え込んでいたとか、今泉武治もデザイナーとしてきていたというよりは広告理論家や調査・リサーチの専門家として雇用されていたので、今泉武治に関しては学者として扱ったほうがいいのではないかと思いますが、そういう学者や芸術家に対してやさしいというようなことがこの二人を取り上げることによって書けるんじゃないかというふうに思い、その旨を伝えました。ただ、「もう少しクリエイティブな話しをたくさんしろ」というふうに振り向けられたので、

さらに、かなり強引なんですが、藤井達朗さんのような右脳派と─右脳と左脳という分け方はほんとうに俗流で嫌なんですが─今泉武治さんのような左脳派の制作者が二人いて、そ

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の次の世代の博報堂の制作者たちは、右脳と左脳の両方を使えるような人たちであると。宮崎晋も大貫卓也、佐藤可士和、それへのアンチとしての箭内道彦とかを書けという話になっているのですが、それなりに右脳・左脳両方を使えるような人たちが、藤井─今泉の系譜の中から生まれたという話に納めてくれるんだったら、「博報堂萬歳!」という話になるから、別に書いてもいいよという話になっているので、そういう方向で書こうとしております。前提が長くなって申し訳ないです。そんなことなので、Ⅰの話しをするにしても、藤井達朗

さんの話が中心になると思いますので、よろしくお願いいたします。先ずは、データベースを見ていただいたほうがいいかと思いますので、お見せいたします。大阪メディア文化史研究会の方には、京都精華大学テレビ CMデータベースというのはあ

まりよくわからないと思いますので、ざっとご覧いただきたいと思います。レジュメに書いたCMを総覧するとものすごく時間が掛かるので、端折りながら進めます。

TCJという会社自体は日本の民放が始まった頃からあったテレビ CMプロダクションで、50~ 60年代の多くの作品を手がけていたところです。いまからお見せするのは 1953年の資生堂のCMです。

─パール歯磨き(資生堂)「パールちゃんの運動会」の CMを流す

こういった、表には出てこないであろうと言われていた 50年代のテレビ CMが……TCJからは何本くらいですか?高野 50年代ですか? 1,500本くらいですね。難波 ……が、ここにはあると。これをお見せしたのは、広告代理店が電通扱いになっていたんですけれど、博報堂の古い社内資料を調べていると、ここに登場するパールちゃんを博報堂の川瀬武士さんというCDが若い頃に描いていて─川瀬さんはその後、佐藤製薬のサトちゃんをくったことで有名なんですが─、ちょっと不思議に思ったのでご覧いただきました。

TCJは東京の会社なのでサッといきたいと思いますが、レジュメに書いた、(2)東和スピードフリーザーはソフトクリームをつくる機械の CM、(3)吉田製作所(エアロマット)は歯科医が歯を削る機械の CMであったりと、なぜかこんな不思議なCMもあったのだと笑いを取るための CMなので飛ばします。(4)早川電気工業の CMをご覧いただこうと思います。やはり、テレビ文化研究会なのでシャープのテレビの CM、1955年なのでほとんど最古に近い CMだと思われます。

─早川電気工業(テレビ)のCMを流す

1955年に制作された CMで、リミテッド・アニメーションの技術がなかったので、フル・アニメーションでやるのがあたりまえの時代で、気持ちの悪い動きはそのためだと思われます

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  173

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し、映像にティンカー・ベルのようなのが出てきますが、ディズニーのピーターパンは 1955年以前にはつくられていたはずですから、まるきりの引用なわけで、そういうことを平気でやっていたということがおもしろいかなあと思います。こういった CMがこのデータベースにはあります。

TCJのアーカイブができたことで、先ほど言いました、京都のさがスタジオという 50~60年代のアニメーションスタジオ─営業期間は 6~ 7年間くらいでそんなに長くやっていたわけではありませんが─のアニメCMが 147本納められていますし、ハイスピリット社という大阪のテレビ CM制作会社が制作した CMで、立命館大学のアート・リサーチ・センターに寄贈されたフィルムをデジタル化したCMも納められています。京都精華大学の津堅信之さんが書かれた『テレビアニメ 夜明け前─知られざる関西圏アニ

メーション興亡史』(ナカニシヤ出版、2012年)のなかで、アニメ史としてその辺りのことは十分に分析されていて─広告史や CM史の文脈では手つかずの部分が多いのですが─、さがスタジオ時代の藤井達朗さんについては、ずいぶん書き込まれています。それとはまた別に、大阪萬年社の収蔵資料をベースとしたデジタル・アーカイブをテレビ文

化アーカイブス研究会でつくる、というようなことをやっています。テレビ文化アーカイブズ研究会では CMだけではなくテレビ番組のアーカイブもやっています。

2012年 8月 28日に広告学会の関西部会で話したときに、テレビ放送開始 60周年なので20年ごとに区切って 3人で話をしようということになっていて、トップバッターの方が松下電器の宣伝部に長くおられた方で、60~ 70年代のテレビ CMをずいぶんつくられた堀川靖晃さんという方で、2番が私でしたので、73~ 93年くらいが担当のはずだったんですが、その前後もたくさん話しましたし、とくにさがスタジオの作品をたくさん使って 60年代の話もずいぶんしました。最初のテレビ CMが始まって 20年間というのはどういうことなのかというと、レジュメに

「関西広告界最後の輝き」と書きましたが、戦前、大大阪が東京と同じような経済規模を有していて、広告業も盛んだし、新聞社も大きいところがずいぶんあったし、ひじょうに栄えていた。戦後、どんどんと東京一極に集中するし、テレビも一元化していくなかで、関西のプレゼンスはどんどん落ちていくんだけれども、60年代いっぱいぐらいまでは関西はものすごく存在感があったんじゃないかという話をここではしようとしていました。なぜ、そういうことが言えるかというと、TCJのアーカイブスを見ていただいてもわかるんですが、初期のテレビCMのメインの広告主というと、繊維と食品と家電と化粧品を含めた薬品業界と思っていただいていいくらいなんですね。それらはだいたい大阪の地場産業で、製薬は厚生省の近くにあったほうがいいということで東京にどんどん移っていって、関西が廃れていったこと、家電もダメになったし、繊維産業もずいぶん前にダメになった。食品もそんなに……ということになって、いまテレビ CMを見ると通信や金融、流通関連が大量に流れていて、やはり東京中心になっており、大阪が得意としてきた 100円、200円の商品、つまり具体的にモノが見える

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商品が CMのメインからどんどん去って行った。60年代いっぱいくらいまでは、そうした商品の CMが多かったし、関西はすごかったんだという話にどうしてもなってしまうということを申し上げました。ここら辺で、藤井達朗さんの話に入りたいので、さがスタジオのCMを何本かご覧いただ

こうと思います。さがスタジオで藤井さんの代表作となると、(5)ヴィックスですね、それをご覧いただきます。

─ヴィックス(大正製薬→現 P&G)のCMを流す

50数年前のCMとして見ると、水準の高さがおわかりいただけると思います。次に同じヴィックスの 5秒 CMをご覧ください。

─ヴィックスの 5秒 CMを流す

こういった CMをつくっておられた方が藤井達朗さんです。これは日本の CM200選にも入っていますし、さがスタジオ、コピー・アニメーション・アイデアすべて藤井達朗という名前で出ていたりもします。藤井さんはどんな方かと言いますと、85年に亡くなられたときに藤井さんを偲ぶ人たちが、

本をつくっていて、絵コンテが滅茶苦茶うまいということで有名な方だったんですけれど─もとアニメーターなんだから、いま考えたらあたりまえなんですが─、コンテの神様のように言われていました。1937年生まれで、さがスタジオを経て、63年に博報堂に入社。79年ぐらいまで博報堂関西にいらっしゃったんですけれども、その後、東京に来て、85年にお亡くなりになりました。関西時代に松下電器ですとか、日清食品ですとか、東京に来られてからのお仕事ですが、大原麗子出演のサントリーレッドやピップフジモトの CMをつくっていらっしゃいます。広告学会関西部会でお話ししたときは、藤井達朗さんという有名な博報堂のCM制作者と堀井博次さんというとても有名な電通の制作者について、生まれた年もたまたま一緒だし、それを対比させながら語って─堂島の電通のホールでやっていたものですから─電通素晴らしいという話をしたんですけれど……。今日は堀井さんについてはちょっと置きますが、例の「ダダーン!」(ピップダダン /ピップフジモト)というのは、堀井さんと堀井さんのグループの仕事だったりします。ここで藤井さんの作品集をお見せいたします。ヴィックス以降、1972年の松下電器をご覧

ください。

─ナショナルマック(松下電器)のCMを流す

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  175

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堀井さんも松下電器の CMを制作していらっしゃったので、二人でライバル関係にあっていろいろ競い合ったみたいな話しをしていらっしゃいました。電通ホールでのシンポジウムでは堀井さんが目の前におられて、とてもやりにくかったんですけれど……。次にお見せするのは 1978年の日清食品のCMです。

─きつね どん兵衛(日清食品)のCMを流す

どん兵衛のパッケージも藤井さんの作品と言われていて、「えっ⁉」と思うのですが、アニメーターだし絵が描けるので、それくらいのことはできたんだろうなと思います。あと、2本。

─ピップエレキバン(ピップフジモト)のCMを流す

樹木希林さんとピップフジモトの横矢勲会長(1972年当時)の掛け合いのものです。それと、これがいちばん有名なんでしょうけど、大原麗子出演のサントリーレッドの CM

です。

─サントリーレッド(サントリー)のCMを流す

男性にとって都合のいい女性像を描いているんですが、監督は市川崑という有名な映画監督で、市川崑さん自身も、伊勢市(三重県)の出身で、戦前京都でアニメーターとして活躍していた時代があって、その頃からの知り合いなのかどうかはよくわからないですけれど、「市川崑 CM作品集」のDVDの中にもいまのが収録されていたと思います。こんなことをやったのが藤井さんです。ちょっとさがスタジオに話を戻して、さがスタジオの CMをいくつかご覧いただこうと思

いますが、全部やり始めると長くなるので、(7)のサントリーを見てください。1958年、さがスタジオ制作のサントリーのCMです。

─寿屋の洋酒(サントリー)のCMを流す

さがスタジオはアニメの会社なので、アニメの傑作ということでもう 1本。(11)を見てください。

─黄桜(黄桜酒造)のCMを流す

こんな恰好で、未だに記憶に残っているような CMが、京都にアニメスタジオがあって、

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アニメCMがつくられていた。「関西広告界の最後の輝き」と言いましたが、こういう底力があった時期があるんだよということを思い返そうというような話しを(広告学会で)しました。さがスタジオはそんな感じですかね。で、ここのアーカイブにはハイスピリット作品もある

というので、少しお見せしようと思います。ハイスピリット社自体は、60年代のものもありますが、70年代が中心で、カラー作品が多

かったんですが、何本か気になる作品を選んで流します。69年のカルビーです。

─かっぱえびせん(松尾糧食工業→現カルビー食品)の CMを流す

ハイスピリット社は大阪の CM制作会社で、多く手がけていたのは大阪ガスなんですが、かっぱえびせんの松尾糧食工業というのも、1973年に東京に移るまでは、広島市にあった小さな食品会社で、関西で CMをつくっていたことがあるというようなことです。つぎは、1979年制作の大阪ガスのCMです。

─ガスクリーンヒーティング(大阪ガス)のCMを流す

いまの大学生に見せても、若い明石家さんまが出てきておもしろいけど「なんなの⁉」って話になるんですが、このCMがON AIRされたときの文脈みたいなものを共有していないと全然わからない CMで、明石家さんまが、まだ関西で出始めの頃で、芸といえるのは阪神の小林繁というピッチャーのものまね(形態模写)するしか芸のなかったころのものなんですが、小林繁と言われてもピンと来ないし、でも、こういうヘンなモノがたくさん残っていておもしろいなあ、と思えるCMデータベースです。もう 1本だけハイスピリット社作品を見てください。これは広告史といいますか、CM史

でけっこう、私なども言及した作品なので、1985年のサンスターです。

─デミュートサンスター(サンスター)のCMを流す

まだお笑いをやっていた頃の北野武が、弟子(たけし軍団)のラッシャー板前に歯磨を選ばせるんですが、ラッシャー板前がサンスターじゃない方を選ぼうとすると頭を叩いて無理矢理サンスターを選ばせるみたいなオチです。こういう、おもしろCMみたいなのが成り立っていたのが 80年代中頃ですよね、みたいな話です。それと、先ほどの話の続きで言えば、堀井博次グループの仕事で、堀井さんがよく組んで

やっていた川崎徹という演出家の作品だったりします。でも、ハイスピリットのアーカイブを見ていて、この CMだけが妙に有名なので、この

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CMしか私の記憶には残っていなかったんですが、これ以外にも、「ガダルカナル・タカ」バージョンとか、たけし軍団の人のものが一通りあって、おもしろいものも、くだらないものも玉石混淆するなかで、ただこれ 1本がそんな形でいろんな人が言及したり、おもしろがるので、なんとなくCM史に残ってしまっているんですが、でもON AIRされたときはたけし軍団のいろんなバージョンの 1本でしかなかったというのがわかっておもしろかったです。このようにさがスタジオやハイスピリット社がどんどん作品をつくっていて、ハイスピリッ

ト社も休業してしまった CM制作会社ですし、そんなふうに関西の広告業界はしんどいよねという話をしました。藤井達朗さんは 1979年に東京の製作室に異動になります。博報堂ですからスター制作者

を大阪に置いておくわけにはいかなくて(大阪に居続けた電通堀井さんとはわけが違って)、東京に連れてきてもっと大きなクライアントをやらせようという話になり、早世してしまった。その一方で、堀井博次さんという人を中心とした関西の電通のクリエーターたちは、おもし

ろい作品をつくり続けるわけです。例えば、同じような商品を扱いながら博報堂と電通とではタイプが違っているなというのがナショナルの CMであるんですが、それ以外にも、 松下電器の有名なCMがあって、関西弁を話す外国人タレントのような人が登場して、「冷蔵庫、電気なければ、ただの箱」と言いながら、松下の製品のほうが指で測っていったら「大きいやろ⁉」というような CMなんですが、それが川崎徹演出で当時ヒットしたりだとか、堀井グループでいちばん有名なのは、やはり関西電気保安協会のCMだと思います。広告学会関西部会では、60年間を 20年ごとに区切って、関西のテレビ CMだとか関西の

広告業界のことを振り返っていったわけですが、最初の 20年間が関西広告業界の最後の輝きの時期だとすると、次の 20年間が堀井グループの時代だと言ってもいいであろうという話をしました。また、それ以降、93年以降、萬年社も倒産し、関西に明るい話題はないよねという暗い締めくくりになりました。関西電通からいくつか海外の賞をとったりしましたが、往年の力はなくなったりとか……2009年にワトソンクリック創立とレジュメに書いていますが、堀井グループにいた有名なクリエーターたちが東京に行って─電通の仕事を中心に受けているんだろうと思いますが─、自分たちでクリエイティブエージェンシーを興したりだとか、堀井さんが育てた人たちもそうやって東京にどんどん移っていくような時代ですよね、暗いですよねって私の発表を終えて、3人目に電通の現役 CDの方が登壇してきて、「いや、頑張っているんですよ」という話をされましたが、そんな内容の会(広告学会関西部会)を 2013年8月 28日に行いました。

*2番目は、全然話が違うんですが、神戸ファッションミュージアムというところで行われ

た「日本のメンズファッションを振り返る─ 1960年代のファッション」という話をしていて、VANの石津謙介さんのご子息やけっこうすごい人たちがお見えになっていて、このような方々が揃うのは最後だろうと言われていた座談会があって、その後研究者が何人かしゃべったん

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ですが、私は、ファッションをめぐる 1960年代のメディア環境について話すなかで、このデータベースからレナウンやテイジンのCMを流しました。このころ(1960年代)は、繊維のCMがほんとうに多くて、テトロンとかナイロンとかビニロンとか、化繊のCMが 60年代前後にむちゃくちゃ登場するんですね。その多くは関西─旭化成も東レもテイジンも関西の企業で、生地を買って、家に持って帰って、服をつくる文化が 70年代くらいまであって、最近『ミシンと日本の近代』(アンドルー・ゴードン、みすず書房、2013年)という本が出ましたが─、そういう文脈がわからないと、なぜこんな布地の CMがバンバン流れるんだということが誰にもわからない。しかし、丸井の 1966年の CMなどは、VANや JUNのブランドで売り始めていた頃だし、テイジンの紳士物のワイシャツも最初テトロンシャツと言っていて、テトロンという素材を売りにしていたのが、だんだんとブランド化をはかっていって、その様子が TCJのアーカイブを見れば見えてくるという話をしました。そういう形で、TCJのテレビ CMアーカイブはいろいろ使いようがあり、価値があるとい

うことを話しております。*

で、最後に今泉武治の話を少しいたします。今泉武治については、報道技術研究会の頃から少し興味はあったんですが、いまなぜ今泉

武治についてもう少し掘り下げて考えてみたくなったかというと、やはり加島卓さんの『〈広告制作者〉の歴史社会学─近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ』(せりか書房、2014年)という博士論文の副査になったのがきっかけです。加島さんの議論の前提には井上祐子さんの調査があります。今泉武治という人はデザイナ

ーなので、デザイナー出身者がどのようにプロパガンダに関わったのか、東方社や報道技術研究会では何をやったのか、ということを中心にまとめられ、その資料が立命館大学に寄贈され、井上さんが整理し、加島さんがそれを読んだわけです。加島さんの博論は、デザイン史・デザイナー史というよりは、デザイナーに関する言説分析のような内容で、デザイン理論家として今泉はこんなことを言い続けてきたということだとか、そういうことを中心にいろいろと分析されていたと思うんです─このまとめ方がいいかどうかわかりませんが……。加島さんの博論を読んでいて、なるほどと思ったのは、生前、芸術と広告デザイン、商業

美術という相互関係があって、芸術に対して商業美術もひとつの確固とした領域であるということを、一生懸命に唱えた人がいる、戦後になると、対芸術だけではなく広告とデザインとの分離があるという話はよくわかるんですね、広告がマーケティングの方向で、デザインがアートの方向で、だんだんとデザインがアートの領域に閉じ込められていったとか、日宣美(日本宣伝美術会)みたいになっていった、でもその中にあって今泉という人は最後の最後まで広告とデザインとか、経営とアートの統合みたいなことを言い続けていて、それを統括する存在としてアートディレクターというものがいなければいけないという話をずっとしていたのに、そうした議論が全然残っていないのはなぜか、というのが加島論文の大きな論点のひとつだった

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よう思います。審査のときは、今泉に関する資料もあまり読んでいなくて、そうなのかなぐらいに思ってい

たのですが、今回、東京に行って博報堂の資料を渉猟する内に、博報堂にいた頃の今泉についてわかりはじめたので、ちょっと違った今泉像が書けるのではないかと思い始めています。この夏に渉猟して見てきたものの概要だけですが、レジュメに記してみました。3頁のトップにあるのは Aグループという─マニアックでわかりにくい話なんですが─、東京 ADC(Tokyo Art Directors Club)の前身に Aグループという人たちがいて、それが ADCにつながっていったという話がいろんなところでされていて、そこに今泉も参加していたという話があるんですが、その Aグループと言われていたものの実態が博報堂の資料から出てくるんですね。1952年の博報堂の「社内ニュース」のなかで、企画調査室─マーケティングとクリエイティブを一緒にしたような部署だと思ってください─のトップの豊田連さん─この人は 80年代ぐらいまで存命で、クリエイティブ統括の常務のようなことをやっていた博報堂の生え抜きです─が、こんなことを社内報に書いていて、Aグループのようなことをやっていますという話なんですね。「丸美屋 今泉氏、ヒゲタ 川崎民昌氏……」といった人たちも入ってきているという話もあるんです。Aグループの事務方ってどこなんだろうというのがわからなかったんですが、ほぼ博報堂が中心になって切り回していたようで、Aグループから ADCへの流れというのは割りと語られるんですが、その一方で、調査畑の人たち(リサーチャー)も入っていた Aグループのなかのリサーチの部分は、どんどん博報堂内に吸収されていったんだろうなということがいくつか資料を見ていて見えてきました。さらに、今泉という人は広告業界でどのような扱い方をされていたのかというと、「博報堂

月報」などを見ていると、ほんとうに初期の市場調査のようなことをやっていて、そのときに丸見屋の宣伝課長として「ミューズ」という石鹸のブランドの新聞広告の効果測定に関するいろんなことを書いていて、だから今泉武治のことをデザイナーとして認識していない人も当時の広告業界にはたくさんいたんだと思いますね。「宣伝会議」のような雑誌が出てくると、そのなかでリサーチの専門家と話をしなければいけないというときには、必ず今泉が出てくるようだし、テレビ広告に関してもずいぶん発言をしている人なので、当初のグラフィックを中心とした ADCからどんどん領域を広げていったのかなあという感じもします。

1959年の時点で今泉は博報堂の顧問になっています。と同時にアルバイトなんでしょうか、三菱ボンネルの仕事をしていたようで、ある座談会で、その化学繊維メーカーが提供した連続テレビ番組「黒帯先生青春期」(1958年 9月~ 1959年 9月放送/NTV)という番組に話が及んだ時、「今泉さんはボンネル広告のコンサルタントなんですよ」という発言があったりもします。また、別の博報堂月報のなかでは、南博などの大学の先生が来られた場合には今泉武治が必ず出ていったり、ライト・ミルズの著書を翻訳にせよ読んでいて、いろいろと言及している。ちょっと不思議な人といった印象です。今泉武治が博報堂に入っていくプロセスというのが、デザイナーとしてとかクリエイティブ

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の人としてというよりは、リサーチの専門家とかそういう扱いで引っ張られていった感じが窺えます。1962年の社内報「はくほう」には、取締役調査局長・今泉武治として出てきます。総合企画局長ですからクリエイティブを統括していたのは、斎藤太郎というデザイナー出身の人で、斎藤も今泉も森永製菓出身ですし、森永製菓出身者がけっこう博報堂に入ってくるという人脈の流れがあるんですが、クリエイティブの統括は、報道技術研究会にもいた斎藤太郎の仕事で、今泉の役割はリサーチの専門家なんですね。調査局で心理実験テストやコピーテストなどをやりたいみたいなことを言ってますし、その頃の PR映画を見ていても脳波をとるとか、心電図をとるとか、いまのニューロ・マーケティングに近いような、「なんじゃ、これは⁉」と思えるほど、「科学」「科学」で押し切ろうとしていて、今泉はそうした動きの中心にいるような人であったと思われます。これが今泉の写真です。お顔を知らなかったんですが、男前ですよね。これは、博報堂の

資料を調べているときに出てきたアルバムからコピーしたものです。ちょっと字が小さくて申し訳ありませんが、「マッキャン・エリクソン international workshop」とありますから、渡米のときの写真で 1970年か 71年の写真ですね。今泉武治が博報堂理事という肩書きで、マッキャン・エリクソンというアメリカの広告会社の社内研修に行っているはずなんです。当時、マッキャン・エリクソンと博報堂は関係を深めていて、「株式会社マッキャンエリクソン博報堂」(1960年 12月に、米国の広告会社マッキャンエリクソン・ ワールドワイドと博報堂との日本初の合弁の広告会社として設立)という会社もつくられたりもしましたけれど、そんな関係が見えるようなものがあったりします。今泉が CMのほうに近寄っていったんじゃないかという話で言いますと、彼は CM業界の

発展に寄与した人ということで「第 1回 CMフェスティバル」で ACC会長賞を受賞しているんですね。CM業界でものすごく今泉の業績(評価)は高かったんだろうと思いますし、レジュメの博報堂月報 1962年、63年はテレビ業界でこんなに活躍したんですよ、業界からこういう表彰を受けてますよというような話が載っています。67年の宣伝会議にも、今泉が広告の業界賞を受賞するにあたり、広告団体をいろいろ組織したことや調査ですとか、そういったところの活躍、実績が評価された旨が記されています。

3泊 4日の博報堂調査では、けっこう収穫がありました。博報堂に入ってからの今泉武治について書けたらなと思っています。67年に今泉武治は常務で退職しており、斎藤太郎も辞めているんですが、そのあたりから

お家騒動の伏線が始まるわけですが、その後の激動の時代には今泉は博報堂から身を引いています。

*広告史研究の困難については、8月に広告学会で話したときは、こんなにテレビ CMのア

ーカイブや CMデータを使うのにこんなに苦労があるんだという話をして、広告業界の人たちがたくさん聞いていましたので、ちょっとは考えて欲しいというつもりでしゃべりました。

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  181

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ほんとうに簡単にいろんなところで使えない。広告学会のシンポジウムにおいてでさえ、公開の場ではすべて広告主・広告代理店・制作会社の許諾を得なければならないという状況をどうにかしてくださいという話をいろいろとしました。それと、いま、1950年代や 60年代の CMをいきなり見せられても訳がわからないと自分

でも思ってしまうのですが、それは当時の社会的な文脈を全部忘却してしまっているから訳がわからないことが多くて、その辺りの復元は高野さんがずいぶんとやられたことと思いますけれど、そんな話もしました。その中で、使った CMをお見せいたします。SEIKAコレクションばかり使っているのも何ですから、1本だけ萬年社コレクションからご覧いただこうと思います。レジュメの(20)番……で、どんな話をしたかというと、JR東海のCMはいくつか萬年社

コレクションの中に残っていて─萬年社がつくっているわけではなくて、電通がつくっているんですが─、みんなの記憶に残っていて何度も繰り返し言及されるのは、この「シンデレラ・エクスプレス」と呼ばれている、しかし当時は「シンデレラ・エクスプレス」と呼ばれていなくて、「ホームタウン・エクスプレス」と呼ばれていた、この深津絵里や牧瀬里穂のデビュー作とかのものなんですが、でも、ほかにもこの手のものは、「ハックルベリー・エクスプレス」というのは、夏休みに子どもたちだけで新幹線に乗せて旅行をさせましょう、みたいなキャンペーンもあったし、これからお見せするCMのように、クリスマスに郷里に帰る男の子という設定だけじゃなかったはずなのに、それだけがなぜかみんなの記憶に残っているのはなぜなんだろう⁉ という話をしました。そのときに 1本だけかけたのがこれなので、ご覧ください。

─ファイト! エクスプレス(JR東海)のCMを流す

萬年社コレクションのテレビ CMは現在何本ぐらいでジタル化されていますかね?桐山 5,056本です。難波 大阪の広告代理店ですから、萬年社コレクションには日清食品の CMとかがひじょうに多くて─つくっているのは堀井さんだったり藤井さんだったりするんですが。最後もう 1本だけ、SEIKAコレクションから見ていただきたい CMがあります。当時の文

脈を忘却してしまうと何も訳がわからなくなるという例だと思ってご覧ください。

─モナパクト(関西有機化学工業)のCMを流す

これは『てれび・コマーシャルの考古学』という本の中でちょっとふれたんですけれど(難波「結語 放送史の余白から 1 関西のプレゼンス存在感」217頁)、さすがに森光子とかが出てくるので、画像とかは使いませんでしたが、最初見たときには何のことか全然わからないCMだったんですけれど、「びっくり捕物帖」(1957~ 60年放送/OTV)という番組が当時

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あったらしくて、ダイマル・ラケット主演で、その中で「おタエさん」という役所で森光子さんが出演していて、「びっくり捕物帖」は 1社提供ですから、その間(幕間)に入る 90秒のCMのなかで、「……では、ここで現代のおタエさまに登場していただきましょう……」ということで、町娘に扮していない(素の)森光子になって、このモナパクトという商品を宣伝しているんですけれど、関西有機化学工業といういまとなっては誰も知らない中小の化粧品メーカーが提供していて、でも、それが全国ネットで、しかも視聴率 30~ 40%をとったという記録があるぐらいのヒット作だったらしいんですが、その番組の間のCMだと理解すると、「ああ、そうだったんだ」と腑に落ちる例だと思います。

1959年ぐらいの「週刊朝日」の臨時増刊号だと思いますが、いちばん上に森光子があって、森光子のプロフィールが書かれていて、住所までもが当時は出ていると……◯◯アパート◯号まで書かれているんですが、当時、大阪市西区に住んでいるということになっていますね。この「週刊朝日」にタレント名鑑ではないですが、テレビでいろいろ活躍している人たちがダーッ出ているんですが、その住所を見ていると 3分の 1ぐらいが大阪在住だし、森光子も大阪のタレントとして紹介されています。美空ひばりでも住所が掲載されているというのはすごいですけれども、そんなものを見るにつれ、60年代いっぱいぐらいまでが、関西が─民放界もそうだし、テレビ CM界もそうだったんですが─最後に盛り上がっていた時期なのかなと思ってしまいます。1960年代ですと大阪の民放局がつくった番組が全国ネットになって、30~ 40%の視聴率をとるような、「てなもんや三度笠」のような番組がたくさんあったし、現在のように系列化されてキー局、準キー局のように序列の中には入らずに、元気にやっていて、大阪ローカルのクライアントがまだまだ力をもっていて、牛乳石鹸なんかも「シャボン玉ホリデー」という番組をもっていて、しかしそのために、東京からスタッフが来て大阪で CMをつくったり番組をつくったり、牛乳石鹸にプレゼンテーションをしに来たりとかしていたほどに力があった大阪が……のような話に、どうしてもなってしまうので、東京電博中心史観を相対化しなければいけない、大阪にも太い流れがあったはずなんだということを言わなければいけない、と言うんですが、言えば言うほど寂しくなるなあという感じがして、あまりこの話はしたくないんですが、いちおう広告学会の関西部会での発表ですので、「そういった現状だけど、頑張りましょうね」といった話で最後は終わりました。話も散らばりすぎて、論点の絞りようもないと思いますが、何かいろいろとご意見をいただ

いたり、ご質問をいただければと思います。私の報告は以上で終わらせていただきます。どうもありがとうございました。石田佐恵子(以下、石田) ありがとうございました。難波先生にはいろいろとご無理なお願いをしてしまったかもしれないんですけれども……。全部で 4本分くらいの報告の内容があって、いろいろなところでお話しになった内容を簡潔にご紹介いただき、現在の話まで進めていただくということで、とても興味深く拝聴いたしました。

報告:難波功士/広告史研究の現状と課題  183

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石田 今日は、大阪メディア文化史研究会と、テレビ文化アーカイブズ研究会(元テレビ CM研究会)の2つの合同開催です。そのため、質問も広告史的な質問とデータベース作成的な質問があると思いますが、分けずにランダムに進めていきたいと思います。先ず基本的な質問がある方に先にうかがって、そのあとコメントやこういった議論があるというようなディスカッションを行いたいと思います。まず、簡単なことを私から質問させていただきたいのですが、難波先生に見せていただい

たデータベースは TCJのものとさがスタジオのものとハイスピリットものと萬年社のものがありましたね。テレビ CM研究会のほうではお馴染みのデータベースなんですけれども、今回は制作者を中心に紹介していただいたので、データベースを見せながらこの CMはこの制作者のものであるという紹介がありましたが、それはデータベース上には載っていないデータですね? データベースに詳細情報があるかどうかというのが私の質問です。難波 そこまでとれていないと思います。例えば、さがスタジオの作品として……石田 藤井達朗さんの話が出てきましたが、藤井さんという名前はデータベースのどこにも載っていないんですか?難波 載っていないですね。石田 載っていないわけですね。なので、難波さんが別な資料を見て、その知識でもって、これは藤井さんのつくったCMだと言っているということですかね?難波 そうですね。『昭和の秀作 CF200選』(玄光社、1995年)のような本があって、それはテレビ CM制作会社が集まった団体が 100選、200選を選んだ本の中に、スタッフリストが掲載されていて、それは確かなものだと思います。さがスタジオで一緒に働いたという岡部望さんとお話しをしたときも、藤井さんの話をずいぶんとしておられましたし、どういうふうに参加したかという話もずいぶん一生懸命されていましたので、さがスタジオでつくられて、藤井さんがやっていたというお話しが根拠になっています。博報堂が広告会社ですから、ヴィックスの CMは博報堂作品としていちおう「博報堂名作 100選」の VTRの中にももちろん入っています。そこにはスタッフリストはなかったと思います。石田 こういう発表を期に、少しずつそういうもの(データ)を加えていったらどうかなと思いますけれど、だいぶ不完全なものではありますけれど……。他の人が同じデータベースをもっていたとしてもなかなか難しいですよね、そういうのはね。桐山 さがスタジオに関して申し上げますと、このデータベースに 147レコードありますが、アニメーターや代理店についてのメタデータがない状態で搭載されています。しかし、さがスタジオを主宰されていた守居三郎氏はご存命であり、できるだけ早い機会に聞き取り調査を行うことが肝要だと思います。また、147レコードというのは関西アニメ史研究の聞き取り調

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査のなかで提供いただいたものなので、アニメが使用された CMに限られています。その他に部分的にアニメが使用されたもの等を含めて、新たなCMが出てくる可能性はあります。石田 ありがとうございます。その作業をするとなると、インタビューをしたり……桐山 実写して、見ていただくというのが……石田 これは誰の作品かを語ってもらって、それを……桐山 代理店名がよくわからないというのもあります。高野 たぶん、2年後ぐらいに、アド・ミュージアム東京からデータベースの共有の話がくると思われます。そのときに、少なくとも有名な人物に関しては、データを作成するということを要求されると思います。藤井さんレベルの有名人については明らかにしておいたほうがいいのかもしれない。石田 それは少し後の話なんですけれども、やはり難波先生のレジュメ 4の「広告史研究の困難」というところにも関わる話だと思うんですけれども、そういうデータをどのように共有していくかという、手間暇かかるし、たいへんなことですし、そのデータをつくることによって残されるデータが限定されていくということが生じるな、ということをすごく感じます。加島 今日の報告会の前提は博報堂の 120年史ということだったと思いますけれど、─これはきちんとフォローできてないんですが─社史の数が相当に減ってきているというか、M&Aによって企業統合が進むようになってきて、企業史を書くのが難しくなってきていると思うんです。いままで、企業史とか産業史とか経営学の経営史みたいなものがあって、これはたぶん業界的に広告学、広告史がつくられていると思うのですが、社史とデータベースがくっつくみたいなのは─社史はおそらく企業の資料室のなかで、残されているものから専門家をお呼びして、つくっていくと思うんですけど─、難波さんのやられている作業をお伺いしたら、詳しくいろんなデータベースを参照しながら、みたいな形になると、社史の書き方が変わってきているというようにお話を伺っていて感じたんです。博報堂の中にまだできていなかったというのがあるのかもしれませんけれども、データベースとの関係で社史の書き方が変わるみたいな、私はそういうところをかなり強調すべきことだと思っているんです。というのはデータベースの使い方にも関わってきますが、研究者がただデータベースを使うということだけではなくて、意味のある使い方を提案できることになると思うんですね。その辺り(報告の前提に関わるところ)に関するお考えがありましたら教えていただきたいと思います。難波 博報堂の社史をちゃんと書こうとか、博報堂のフィルムの歴史、CMの歴史を全部書こうとすると、博報堂作品といわれるものに全部目を通さなければいけないと思いますし、それは探せば、まだ磁気テープの状態かもしれないけれど、社内にありそうな気はするんですけれど、それをデータベース化しようという動きはないですね。そういうことをして何かやるところがあるとすれば、やはり電通がアド・ミュージアムと一緒になって、電通の作品を全部、どんな形にしろ見える形にする日が来ると─それでもクローズな見せ方しかできないと思いますが─、かなりおもしろいことになるんじゃないかと思うんです。

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今日、たまたま何点か藤井達朗作品をお見せしたのは、博報堂社内で藤井さんのことを知らない若い世代に、こんなクリエーターがいたんだよ、顕彰しましょうという動きがあって、最後のお弟子さんみたいな人が、藤井さんの作品集をつないで持ってきて、社内で見せる会をやっていた時のものです。組織立てて何かをしているわけではないし、いまの博報堂の若いクリエーターたちに、こんな偉大なクリエーターがいたんだよという会を開いても、若い世代は忙しくて、50代ばかりが集まって懐かしんでいる(笑)、よかったねという話をしているんで……。会社全体としてやろうというほどには─文化的なことには理解のある会社と最初に申し上げましたが─、そこまでやる気はないのではと、私は思っています。アド・ミュージアムと精華大学に期待したいです。加島 そのポイントとしては、いま仰ったこともわかるんですが、企業にとってデータベースが社史とは違う意味で、わかりやすい形で使えるとか、いままでは社史ぐらいしかなかったものが、データベースが有効な手段として使えるのであれば、それはデータベース研究にとってひじょうに意味のあることだと思うんですね。その点について、もしお気づきの点があれば教えていただきたいなと思います。難波 広告代理店等々が業務の都合上、ちょっとワンシーンをと言うと東京企画=CM総合研究所に話をして、あそこだったら過去 30年ぐらいの関東でONE AIRされた全 CMぐらいはひょっとすると持っているかもしれないので、そういうところに業務として話を持っていくことがあるとしても、オープンなデータベースが欲しいとか使いたいとか自分たちでやろうという気が代理店各社にはないし、業界全体としてもないという印象はあるので、精華大学のような仕事は貴重なんですが、そこに企業が目をつけて、もっと何とかしようというのは想像できないですよね。加島 社史にとってデータベースが使えるものだという主張は、あまり成り立たないのかもしれないということですか?難波 そうですね、社史は基本的にその会社にとって都合のいいことを書きますから、データベースのようにダメな作品から全部ひっくるめて、というのは望まないんじゃないですか。名作選のようなものは一生懸命につくって残しているんだと思いますけれども、失敗したキャンペーンだとかはなかったことにしていますから、自分たちにとって都合のいいものとは思わないわけですね。社会的に残っているデータベースみたいなものは……。加島 むしろ、その距離そのものを見越して別の形で残すほうがいいかもしれない⁉難波 どんなものも全部残しておかなくてはいけないというのは、アカデミズムとか歴史家の視点かもしれないけど、都合のいいことだけ残すよ、すくなくともネガティブな資料は出さない、それがたぶん企業が社史をつくるときの立場なので、その辺で、相乗りはちょっと難しいと思います。竹内 少しだけ追加といいますか、サントリーをたくさん出していただいたんですが、いま見せていただいたものが社内にあるかというと、間違いなく、ないですね。という日常(現実)と、

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いま仰った社史というものは、うち(サントリー)はわりとたくさん出している会社なのですけれども、そこでいま加島さんは、「(社史は)内部資料でつくるものですよね」っていう前提で仰いましたが、ではないんです。結局のところ残っていないわけですから、外部データソースを必死になって集めてきて、最終は難波さんが言われたように、自社に都合のいいものをつくるために外部資料を集めてくるという、うちも文化性の高い会社だと言っていただいているんですが、そこにお金もかけないし、データベースとして残すことに魅力を感じることは、おそらく未来にもないと、残念ながら思います。だから、そこに精華大自体のコマーシャルフィルムの意味があると、私は思っています。うちの社員の誰も知らないものがここにある、という状況にどんどんなっていくので、そこの溝をなんとか埋めたいですし、社史の都合のよさを曝露しておきたいというのが、私の気持ちです。桐山 ちなみに、先ほど難波先生が上映してくださった寿屋の洋酒に関して、同じ作品ではないですが、サントリーに許諾申請を行ったところ、「社内には誰も知るものがいない」という回答でした。竹内 はい、そうだと思います。私は知っていましたけれど……。辻 『テレビ・コマーシャルの考古学』を出したときも、サントリーに CMのキャプチャー画面の掲載許可を申請しても、肖像権の問題で、「ここに映っている人が誰か、社内の誰もわからない」ので掲載許可は出せないという回答で、掲載を見合わせた経緯がありました。加島 そうすると、分けておいたほうがいい? 会社に問い合わせると、返答可能な人がいないと会社としてパブリッシュできなくなる⁉辻 いや、それは単純に肖像権の問題として、「うちのほうでは誰だかわからないので、許諾の出しようがない」という回答でした。木原 データベースに紐付けられた情報についてですが、CMの本質にちょっと関わることなんですけれど、保存状態から考えて、ON AIRされたものかどうかという判断はどうしたらいいのかということなんです。つまりは、CMというのは完パケ納品まで完結するのか? それとも放映(ON AIR)されてはじめてCMとしての性格ができるか? という問題で、クリエイティブ的には完成しても、もしそれが放映されなかったらそれをCMと言ってもいいのかという話なんですけれども。いまのデータベースはON AIRされたものと確定できるのか、という疑問です。確定しようと思うと企業のデータなり、あるいは放送局のON AIRプログラムを調べたり、CM素材コードと照合しないとわからないですよね。その辺はもうわからない状態でスタートしたということですか?高野 私はこのデータベースの制作責任者なんですが、まったくわからないです。わかりやすい例があって、同じ映像、同じコンテンツが 2本入っているとずっと思い込んでいたものがたくさんあるんですが、それらを 2台の PCを使って同時再生して検証してみると、1カットだけ違ったりするものがあるんです。どっちがON AIRされたものなのかということを確定する手掛かりがない、というケースが多くあって。ただし手掛かりがある場合もあるんです。

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お酒を飲んだ人がバイクで走り去るバージョンと歩いて去るバージョンがあって、これはバイクのほうがダメなんだろう(ON AIRされなかった)なというのはわかるんですが、そういう例は少数で、どれがON AIR素材なのか、あるいは 1バージョンしかないものが、そもそもこれはON AIR素材なのか、ということを検証する方法がないので、そこを回避したまま資料として活かすロジックを使い手が持つしかない、という状況だと思います。木原 ひとつはON AIRされたかどうかという問題と、もうひとつはON AIRされた時期の問題がありますよね。ON AIRされた時期はわからない?高野 わからないです。長期的にON AIRされている場合─納品日はわかります。台帳があれば─、いつまでON AIRされていたかはまったくわからない。放送コンテンツとしての CMと映像としてのCMというのが一致しない。木原 そのあたりが、調査の限界かもしれない。もう一点、どの局に納入されたのか、というエリアの問題もありますよね。われわれ関西の人間は、たとえば旧東京放送がどんな CMを流していたかということはわからないので、その辺のことも調べようとすると難しいわけですよね。高野 まあ……初期は一社提供なので、そのドラマに出ていた人が CMにも出ていてくれたりすると、比較的どこで流されたかということは、ほぼ確定することができるんですが、そういうケースは多くはありません。難波 TCJの場合には台帳があるからいいですけれど、萬年社のものは何だかよくわからないけど残っているから、どんどんデータベース化されているけれども、先ほどの JR東海の CMも何年に流されていたものかという話をしていましたが、わからないですよね。まあ、それは、そのときの ACC年鑑などを調べれば、つくられた年代やスタッフまでは確定できるかもしれないけれど、強いて言えばON AIRされたところまではわかると思いますけれど、ACC年鑑に収められていなかったら……竹内 萬年社コレクションについて言えば、ごく一部ですけれども、そのテープが入っていた箱にON AIR日だったり、局だったりが書いてあって、それが入れ替わっているかどうかの検証まではできないので、箱に書いてあればほんとうにそのテープがその記述と対応するのかというと、厳密には絶対そうですとは言えないですが、ほぼ信頼してよさそうな当時のメモが残っているテープもあって、それについてはそのテープに文字として起こして紐付けられるように努力はしているというような状況です。石田 萬年社コレクションの中には、テレビ CMとラジオCMがあって、ラジオCMというのは音源なんですけれども、そちらのほうはとくに CM以前の段階のものがいっぱいある、「take◯」「take□」……とかがいっぱいあるので、それも全部「これが完パケだ」ということを区別せずに全部デジタル化しています。なので、先ほど「CMは何本あるんですか?」という質問がありましたが、本数だとすごく答えにくいようなデータベースになっていますね。放送されたかどうかが重要だというのは、ひとつの考え方だと思うんですけれども、それこ

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そがCMだ、と考えるとするとですね。でも、CMのみのデータベースとは別ものだと考えると、別の考え方ができるのかなと、最近思うようになりました。これまでいろいろやってきて、完パケ以外のものを排除することができないので、ちょっと考え方を変えたほうがいいんじゃないかなというふうに思っています。高野 全然話が変わりますが、大阪メディア史文化研究会の方がいらっしゃるので、長年の疑問を解消したいのですが、大阪とか関西というのは、いつからお笑いの本場と見做されるようになったんでしょうか? ピップフジモトの CMは藤井達朗さんがつくられたということですが、これは藤井さんが東京にいってからの作品ですよね? 私が気になったのは、おもしろCMの全盛期である 80年代初頭の雑誌とか資料を見ていると、東の川崎、西の堀井のように東西並び立つような……そういう東西でつねに語っているし、同時期に漫才ブームも興っていますが、それも、「爆笑東西ベスト漫才」というように、つねに東西で、大阪の笑いというのは、あくまで上方漫才のような大阪のローカルなアイデンティティをもったまま紹介されているようなことが多くて……。先ず、関西でつくられる広告というのは、むかしからお笑い指向だったのか? そうでないのか? いま 100人に大阪のイメージを聞いたら、90人ぐらいが「お笑いの本場」とか答えるよう

な気がするんです。ですから「関西の◯◯」というテーマを掲げたら、必ずそんな目で見られる状況になってしまっているような気もするんですが、いつからこんなふうになったのかということが、 すごく気になるんです……こんな質問をいまここでぶつけてもいいんでしょうか⁉竹内 竹内の持論を申し上げますと、答えは戦前だと思っているんですけれども、それも大正末期か昭和初期ぐらいかなあと思っていて、その当時はテレビもありませんから、広告は何が主流かと言えば、ポスターなんです。ポスターが主流で、当時のポスターの主流は美人画なんですね。きれいな女の人の肖像をきっちりとお金を掛けて印刷をしてというのは、東西いずれもやり始めたんです。東は当然三越百貨店が全盛で、その美人画で流行ったんですが、関西は─最近展覧会もありましたが─高島屋が中心かなと……。しかし、美人画をつくりだしたんですけれど、どうもあまりうまくいかなかったようで、あまり続かなかった。で、高島屋は宗旨替えをするんです。美人画ではない、ちょっとお茶目な絵になっていたり、あるいは文字がやたら多くて説明的で、くどい感のするものになっていたり、見て美しいとはあまり思えないものに大きく宗旨替えをするように私には映っていて、それを「おもしろ」とまで言えるかは判断が分かれるところですが、少なくとも「きれい」というものから離れていく、というのが東西の分岐になるのではと、見た目からは思っています。それはなぜかと問われると─以前、大阪市立大学で話し、文章も残しているので、機会

がありましたらご覧いただければと思いますが─、大阪の大金持ちは商いの人が家にやってくる(外商が発達していた)ので、あまり広告を見る必要がなかった。大阪の広告を見る人は、どちらかと言えば大衆的な方が多かったというのが、大きく関係しているのかなと私は思っています。

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それが、全然のその時期、東京では三越ブランドでみんなが憧れていたんだけれども、大阪で高島屋ブランドが美人画であまり続かなかった。で、面白広告で大衆受けを考えるような百貨店の広告が前面に打ち出されてきたような気がします。ひとつのルーツかなあ、というぐらいですが、ご参考になれば。

高野 三越と高島屋をチェックします。竹内 高島屋広告は印刷物になっていないので、見に行かれたほうがいいかなあと思います。木原 いまのお話しは映像に関しての?高野 というか、映像を含めた全体です。木原 メディア文化史的なお話をしますと、ラジオ放送がスタートした大正時代(大正 14年)、東京放送局(JOAK)がスタートしたときはクラシック音楽が最初の放送だったようですが、大阪(JOBK)は確か株式市況と相場が最初で、その次は演芸中心なんですよ。大阪のメディアは演芸分野との親和性がもともと強いというのが、東京と違ったところです。それが大正時代ですが、テレビ放送が始まってからのことで申し上げますと、最初映画との対立があって、のちに融和というか、映画のほうが衰退したというか、初期の頃に大阪テレビ放送(朝日新聞社、朝日放送、毎日新聞社、新日本放送(現:毎日放送)の 4社が合弁して設立、1956年開局)ができたときに、系列の映画会社を抱き込んでタレントさんを使ってくるとか、松竹芸能とか吉本興業などの系列のタレントさんをどれだけ自分のところで扱えるかということにずいぶんと力を注いだようです。そもそもで言うと、テレビがスタートした時点からいわゆる興業系の分野と放送局の間で、東京とはかなり違うレベルの協力関係があったのではないかと私は思っています。おもしろやお笑い関係に限ったこととは違うんですが、そういう芸能や舞台演劇・映画系との近しい関係をもともと大阪のテレビ局がもっていた、ということがあるようです。高野 1枚ずつベールがはがれていきます。(笑)竹内 すごくおもしろいテーマだとずっと思っているんですが、あまりにも大きなテーマなので、ひとりでは難しいので、みなさんと研究したいなというのが、研究会の底にございます。難波 大阪(関西)がお笑いの聖地のようになってくるプロセスは、むかしから何かあったんだと思いますけれど、他がどんどんなくなってきたという印象のほうが強くて、古典芸能もそれなりにあったし、ファインアートの流れもあったし、若者向けの音楽だったり、音楽・演劇・ファッションなどいろんなものがそれなりに関西を拠点として発信力があったものが、全部なくなっていって、まだあるのがお笑いだけで、なぜかお笑いだけに何となく収斂していったのかなあという印象のほうが強い。もちろん、80年代くらいからシチュエーション・コメディで延々とやっているものがあっ

たり、そういうものの影響力が大きかったのですが、他がなくなっていったというのが大きいという気がしています。加島 近代史的に東と西はここが違う(笑)、というようなものは、いつぐらいから……味が違うとか、「違う

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ということが楽しい4 4 4

」みたいなのって、いつぐらいなんですか? 明治時代

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でもあるんでしょうか? ありそうな気がするんですけれど……。難波 江戸時代ですか⁉ わからないですね。加島 確か移動してますよね? 参勤交代とか……難波 上方だとか江戸ものだとかという意識は江戸時代ですか⁉ わからないです。辻 「違うのが楽しい」ということかどうかわからないですが、金水敏さんという日本語学者が『バーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003年)という本を書かれています。役割語というのは典型的には男言葉とか女言葉とかですが、関西弁、上方弁も役割語として考察されています。例えば漫画だと、食いしん坊なお笑いキャラという役割はなぜか関西弁を喋ることが多いわけですね。そのルーツを探る中で『東海道中膝栗毛』の話が出てくる。弥次さん喜多さんは関西を旅する道中で、盛んに関西は「しみったれだ!」みたいなことを連呼している、つまり今に通ずるような関西=ケチというステレオタイプが描き出されていて、難波さんがおっしゃったような関西と関東の文化の違いに関する意識みたいなものは、江戸時代に遡れるかもしれません。ただその中では関西は笑いの文化だということは出てこなかったと思いますが。加島 たぶん、「違う」ことと「違いの中身」の組み合わせが……村瀬 ゼミの学生が、「「大阪=お笑い」イメージの創造」というテーマで卒論で取り組んだことがありました。ある時期に「大阪人」を取り上げた本がたくさん出ていて、そこで「お笑い」の文化と「大阪人」の性格が結び付けられている、というのです。高野 80年代くらいですね⁉村瀬 80年代ぐらいからで、90年代以降は、「お笑い」を大阪の呼びものとしようということが、政策レベルでもいわれはじめる。京都は自らの都市イメージを近代性や神聖性に置いて、それを発信してきたけれども、昭和初期には「古都」へと転換していったといわれます。こうした転換は、例えば近代性という点で東京や大阪と肩を並べていくのが難しい、となったときにおこるのですが、大阪が「お笑い」イメージに力を入れていくのも、似たような背景があるのかもしれません。高野 80年代ですよね。辻 以前もテレビ CMデータベース研究会のときにだと思うんですが、私が博報堂に入ったのは 1988年で、その当時、博報堂の大阪制作だと松下電器(担当)がやはり花形なんですね。当時は確か垂水敏さんが松下のマックロード(VHSビデオデッキ)のCMでヒットを飛ばして、垂水さんというのは、今回の話の流れでいくと、藤井達朗さんのお弟子さんの世代─直弟子ではないと思いますが─にあたる方です。当時社内では東京制作も併せたその月のクリエイティブの品評会のようなものがあったんですが、そこで東京制作からの評価として返ってくるのが、「いかにも、大阪らしいね! 垂水ちゃんらしいね」という評で、要は大阪というイメージでの評価なんですね。だから、東京基準と評価がちょっと違うんですよ。「大阪らしさ」という評価基準ができていたわけで、藤井達郎さんが大阪制作で活躍されていた 70年代頃に─藤井達朗さんが東京制作に移られたのって 79年ですよね─、はたしてそんな感じ

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があったのかなあ、とも思うんですね。藤井さんの広告絵本なんかに出ているような作品を見ていても、大阪テイストという感じはあまりないですし。CMの中でも、「大阪らしさ」とか、笑いなんかをクリエーター自身が意識しはじめたりするのは 70年代後半から 80年代にかけてではないかなあという気がするんですよ。半ば印象論なんですけれど。加島 ものすごいベタですけれど、大阪万博(1970年)に向けてのキャンペーンだとか関係あるのではないですか? 東京オリンピック(1964年)があったときに、あれの大阪版でって言われてるじゃないですか⁉ そうすると、わかりやすい軸を立てて、キャンペーンをする中で、ここに書かれている黄金期みたいなものが……難波 データベース自体が 67- 8年ぐらいで、いまのところ終わっていますよね。万博に向けてどんなCMがあったとか、万博関連、万博便乗 CMがどっと出てくれば、また見たらおもしろいかもしれないですけど……。高野 おおごとになりましたけれど……(笑)ちょっと 80年代の高島屋をキーワードに、少し考えます。ありがとうございました。

石田 今日の難波先生のご報告タイトルは、先にお知らせいただいたのは「関西 CM史を振り返る」ということだったんですけれども、今日のご報告では「広告史研究」になっていますが、「関西 CM史」と言うのと、「大阪メディア史」という言い方というのは、意識して違う言い方になっているんですか?竹内 京都まで入れる。石田 京都まで入れる(と関西なのですね?)。難波 京都のさがスタジオの話を中心的にしたので、8月に喋ったときには「関西 CM史」という言い方をしました。「関西」と言った場合と「大阪」といった場合に何か違いがあるのかと言われると、難しいですね。石田 高野さんの質問は、わりと「大阪」イメージですよね。「関西」じゃないですよね。高野 う~ん、お笑いに関することで、自分の中ではあまり大阪と京都の区別がない……石田 区別がない⁉高野 京都出身の漫才師ってけっこういるじゃないですか。石田 そうだったんですか⁉高野 ……違うんですか? 関西で生きている人たちからすると。石田 ものすごく違うんじゃないですかね。(笑)難波 なんで、大阪メディア文化史研究会になったんでしたっけ? 関西でもよかったような気がしますが……竹内 土屋礼子先生が大阪にいらっしゃったから……(笑)石田 そういう理由なんですか?竹内 最初、ちょっと違う名称だったんですけれど、戦後期広告史研究会だったんですが、市大にちょっとお金をつけていただいたときにこういう名前になりました。

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石田 じゃあ、大阪にはあまり意味がなかったんですね?竹内 実は、関西と受け取っていただいてもいい、あまり深い意味はなかったんです。石田 はい、よくわかりました。何か全然違う話でもけっこうです。

加島 今泉観というのは(笑)……大阪メディア文化史研究会で私の博論を発表したときに津金澤聰廣先生もいらしていて、津金澤さんが私と井上祐子さんに、「今泉の評価について二人の違いを教えてくれ」みたいな質問をされて、そのときに私は─井上さんはあとで本人からお話ししていただけると思うんですが─、確か、今泉を広告だけで見るとつまらなくなる気がするというようなコメントをしたんですね。つまり、難波さんが今回やられている作業がすごくよくわかると同時に、いままでの今泉についての言及が、広告史やデザイン史の中にチョロっと名前が出て……といった形で、戦後、不思議なぐらい消えているというのがひじょうに大きな課題になっていて、井上さんと私は、戦前から戦後のアートディレクター時代になるくらいまでの不思議な人間としての今泉を研究しようというようなやり方をしています。それに対して、博報堂に移ってこられてからの今泉のことが気になっていて、なぜ博報堂に行ったのかもよくわからないし、1960~ 67年にかけて広告史的には微妙な時期というか、今泉を見ていくと、今泉はつねに制度化される前にいろんなところにいるみたいな感じというか、ごちゃごちゃしているときにポッと入っていって、名前だけ残すんだけど、メインになる業績がないから大きな歴史が書かれるときに消されてしまうんです。転々としているか、そういう印象があって、ある種いろんなメディアの初期のところを渡り歩いた人として、今泉がいるように思うんですね。なので、何と言うか、私はデザイン史や広告史から見えてくる今泉が消されていくことを事実として書けばいいのかなあと思ったんですが、難波さんの場合、レジュメに書かれていることはよくわかるし、今泉自身の関心が移行していったと思うし、そのようなことも確かに今泉資料に残っていたので、こういうのあったなあという感じをもっているんですけれども……。質問というよりも、もう少し教えていただきたいんですけれども、なぜ今泉がフワフワしていたのかと思うのかを、敢えて博報堂─博報堂と深い関係があったからというのは事実としてわかるのですけれども、それにしても今泉を巡る不思議な感じが解けないんですよね。つねに移動し続けるというか、移動し続けていろんなことをやっている割りには全然残されていないということが、かなり奇妙な感じがする。なんでこれを言ったかというと、1960年の世界デザイン会議に今泉は出ていますよね。あの議事録を読むと、なんかよくわからないことを喋っているんですよ。で、こんなことを喋っていたら、やっぱりちょっと残されにくいだろうなと思うような内容で、存在として記録に残しにくい人(笑)……いろいろやっているにも関わらず、なんかちょっと残しにくい人だったんではないかなという気がします。その辺りを難波さんにおうかがいしたいんです。だから、今回、博報堂史で今泉を取り上げるというのはすごい重要なことだと思うんですけれど、やっぱり取り扱いにくさみたいなものをどのようにお考えなのか、お教えいただきたいと思います。

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井上 私が今泉さんにお会いしたのは、報道技術研究会のことを修論で書こうと思い、報道技術研究会のメンバーで、まだご存命だったのが今泉さんだったのでお会いして、博報堂とのつながりとか、そのようなことは全然知らないで、戦時期の話だけをお伺いしたんですね。難波先生の報告の中にもありましたが、理論家というか独自に理論をつくりあげたというか、報道技術研究会のときにそういった宣伝物というか、そういうものをいかにしてつくったらいいのかということをものすごく考えるわけですよね。最初に構想があって、報道技術があって企画があって、そして最後に実践という形で、三段階で考える。そうすると構想と企画のところというのは別に紙媒体でなくても、CMにも通じる軸だったんだと思うんですね。どうやって宣伝物や広告で何かを相手に伝えるというか、相手に振り返らせるというか、そういうようなものをつくっていくのに、どういう形でつくりあげればいいのか、そのためにはどういう技術を構築していけばいいのかということを、戦時下においてひじょうに必死になって考えた。そういう意味ではやはり特異な人だったと思うんですね。報道技術研究会と併行して東方社にも行くんですけれども、東方社でもたぶん浮いていたと思うんですね。東方社だと林達夫がいちばん上にいて、中島健蔵が編集でいるにもかかわらず、原弘の下の美術部の今泉が編集にものすごく口を出すわけですね。編集会議をもっとこういうふうにしたらいい、といったことをどんどん進言するらしく、たぶん今泉の存在は東方社の中でも違和感があったんだろうと。自分の考えを曲げなかった。報道技術研究会では、他がみんなクリエーターなので、それで通用したんですね。そういった理論構築は今泉に任せて、もっぱら企画からあとのつくるところを担当すればいいと。でも、東方社はそうはいかなくて、たぶんそこではねられた(スポイルされた)ということがあると思うんですね。戦時下で言っていたもともとの理論が、その後、博報堂でどういかされているのか、いか

されていないのか、私はそこまで今泉を追いかけていないので、そこのところは難波先生に教えていただきたいと思うんですけれども。今泉は明治大学の商学部の出身で、それでたまたま広告界の室田庫造に紹介されて、森永

の広告部に入ったような人なので、もとより技術者としてものを書くということを得意としていたわけではない。だから、写真とかそういうものを使って、いかにして宣伝物をつくるか、自分で手で描くよりもそういうものを使ってやっていくということを考えた人なので、クリエーターというよりもやっぱり理論構築というところにひじょうに特徴があったのではないかと、今日のお話を伺って改めてそういうふうに思いました。博報堂時代の話については難波先生に、もともとの戦時下のものとのつながりがあるのか

どうかというところを聞いてみたいと思ったんですが……。加島 一言だけ付け足すと、たぶん私と井上さんが見た今泉の時代は、制作者なんだけど仕事術とか喋っちゃう人、いまの言葉で言うと「方法知」と言えばいいでしょうか、つまり、ものを残すのではなくて、いかにしてものをつくればいいのかということを一生懸命考える人だからものが残らなくて、歴史の中で書き残されなかったけれども資料だけは残っているという

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不思議な人で、たぶん ADC(Art Directors Club)まではいけたんだけれど、博報堂の時代になると管理者=管理職なんじゃないですか? という疑問があるんですよね。その断絶をどのように考えるかですが、博報堂時代は管理者として仕事のモードがけっこう変わっているから記録の残り方も少し違うのではないかと判定をして、博報堂時代の今泉というのはけっこう管理職としてのものが多いような気がしていて、たぶん井上さんや難波さんが見ていたような若い頃の今泉とちょっと違うんじゃないかな、という感じがするんです。その辺りをどのように考えておられるのかお伺いしたい。難波 井上さんの言ったように、手を動かす以上に口や頭を動かす人で、それでデザイナー仲間からは便利に使われてはいたけれども、浮いてたんだろうなと。人柄は悪くなかったので、みんな嫌ってはいなかったかもしれないけど、「ああ、また何か言っているよ」という扱いを受け続けていた人だという印象はあるんですね。博報堂は、先ほども言いましたように、電波媒体(メディア)に出遅れたために、メディア

への支配力じゃなくてクリエイティブやマーケティングの能力でなんとか頑張らなければいけないという話をずっとやっているときに、じゃあそれを強化する人として、Aグループの人脈があって、丸見屋:今泉氏、ヒゲタ:川崎氏─川崎も博報堂にいっぺん入っているんですよね。ただ川崎民昌がどこかで語っているんですが、「今泉くんは真面目だし、ちゃんとしているから残れたけれど、僕なんかは 1年ぐらいで辞めちゃったよ、首切られちゃった」みたいなことを喋っています。川崎はクリエーターとしてはずっと評価が高いですよね。ヒゲタ醤油の新聞広告もたくさん賞もとっていますし、でもそういう人は残らなくて、今泉のような人が調査系のリサーチとマーケティングの長として、年格好もいいし人柄も悪くないし、広告の技術者上がりの人としてはちゃんと喋ることのできる人とか、デザイン会議の司会のできる人という評価を周囲から与えられ続け、博報堂の中でもそれなりに管理職として機能したから 6~ 7年間は取締役として、三代目の社長(瀬木庸介)が一生懸命やっているときに今泉さんを立てたり大事にしていたんだと思います。なんでフワフワしているかと言われると、手を動かして形にすればそれでいいだろうという

タイプじゃないがために、いろんなところでいろんなことを言うことに自分のアイデンティティや存在意義を見出し続けていた人なので、博報堂の中でも管理職として会議とかボードに出て偉い人たちともちゃんと話せるという意味では、希有なクリエーターだし、希有なデザイナー出身者だし、意味のあることだったと思うんですが、「もういいよ」と言われてしまえば、別にいなくなっても困る人もいないという、そういう人だったんじゃないかな、という印象はあります。博報堂時代のクリエーターとしての今泉を知っている人はほとんどいなくて、唯一、東海林

さんというデザイナー出身の元社長が今泉について、「デザイナーとしては斎藤太郎の方がすごかった…」とおっしゃったらしいのですが。博報堂月報の中に見る今泉は、広告の批評家だったと思うんですね、海外の作品を毎月紹

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介したりだとか、いま、そういう存在が誰になるのかわからないですけれど、広告の評論家だし実務もわかっていないわけじゃないし、管理職としてもそれなりに押しが強くて立派で、海外に派遣しても何とかやれる人だと思うので、広告業界、広告代理店が大きくなって近代化しなくてはいけないときに、いなくてはいけない人だったんだけれど、何をしたかといわれると、誰も……月日が過ぎてしまうと、何だったんだで終わりになってしまうし……。そういう人にでもちゃんとポジションを与えて、それなりに遇する社風みたいなものが博報

堂にあった。そういう人を必要としていた……(博報堂 120年史では)博報堂の特質としてそういう話にもっていこうかなと考えています。加島 博報堂にとって今泉はどんな評価ができるとお考えですか?難波 三代目の瀬木庸介社長が自分も海外に行って、アメリカの代理店を視察して、制度をどんどん広めようと……新聞枠のブローカーみたいな人たちとは違う存在になりたい。そのためにはマーケティングやアートディレクター制を導入しようとした時に、そういったスタイルを日本に持ち込もうとした時に応えてくれそうな人という意味ではよかったんだけれど、その社長が退くと、後ろ盾を失うし、必要とする人もいなくなってしまう、という存在だったのではないかなと思います。加島 戦後、なぜ日記が残っていないのか、井上さんにおうかがいしたいのですが、今泉って不思議な人で、1924~ 47年までほぼ毎日日記をつけていて─それが立命館大学に入っているんですね─、戦後、突然日記がなくなり、90年代になると数冊ある。戦後、なぜ記録を残さなかったのかよくわからない。井上 私もインタビューに行ったときに、あんなに日記をきちんと書いていらっしゃるということを知らなかったので日記の話は聞けなかったんですけれども、昭和 22(1947)年までは自分で製本までして残しているので、やはり仕事が忙しくなったのかなという気もしますが、それだと戦時下もいっしょのことなので……。日記は大正 12(1923)年からありますよね。ずっと書いてきて、戦時下のはやはりあとで何かを書こうとして─戦争が終わってからというような具体的な見通しがあったとは思えないですが─、何か報道技術研究会なり東方社なり、自分が戦時下でやっていたことをあとからもう一度なぞりたいというような希望があったんじゃないかと思うんですよね。どうして 47年で切れちゃうのかということについては、私もよくわかりません。戦後、復活するのは脳梗塞になられて、そのあとリハビリを兼ねてというようなものなので、

あまり戦後のところは書くつもりはなかったんだと思いますが、博報堂で話したりするようなことのもとの草稿から全部残してますよね、いろんなところで喋ってたり書いたりするようなものをひじょうにまめに残していらっしゃるので、書くこと自体はずっと続けていらっしゃった。ただそれが、日記という形態ではなくなってしまったんだろうと思うんですけどね。加島 なぜ、今泉の話にこだわるかというと、戦前はかなり論文を書く人だったんです。ところが、戦後になると突然、トークの人になってしまうんですよね。対談とかトークの記録は残

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っているけど、自分で書いて理論をつくるみたいなことは止めてるんですよね。で、それが終わった頃に博報堂に入っている感があって、かなり戦前とは違う存在になった感じがするんですね。そこをそれとして取り出しているのがわかる故に、戦前に見られていたもので違う評価があり得るのかどうなのか、お尋ねしたかったんです。この時期になると論文を書く人ではなくなっていますよね⁉ たぶん、忙しいということも

あると思うんですが、広告については接触のしかたも変わっている可能性もあるし、そのあたりもお気づきになっていることがあるんだとしたら教えていただきたいんです。やはりちょっとモードが違う時期かな……管理職と関わるのでしょうか? ということですね。井上 私の印象ですけれど、やっぱり戦時下の『報道技術研究』とかにも書いている「報道技術構成体」とか、そこで自分の理論をつくりきってしまったというところがあるんじゃないかと思うんですよね、理論としては。それを応用していく、だからちょっとリサーチの話とは違うんだと思うんですよね。戦後リサーチ部門のリサーチ関係の専門家ということで評価されていくというところに、先ほどのお尋ねにあった、戦時下でつくりあげたものを応用しているのか、なにかそれが問題になっているのかと思ったんですが……。私は、戦後に今泉がどれだけ書いているのかというところをきちんとフォローしていないのであれなんですけど、たぶん、あそこ(戦時下)でけっこうつくりきった感はあるのではないかという気はするのですけれど……。加島 歴史資料的には、今泉の論文を本にまとめようという新井静一郎が立てた企画があるじゃないですか。その目次案を見ると戦前がメインなんですよね。戦後の論稿は ADCぐらいまでで、ですから博報堂の前で全部切れてるんですよね。その切断が何だったのかなあ、というのがいまでもわからない。辻 今泉のことはまったく知らないんですけれど、相当な勉強家で、海外の論文などにも詳しかったんですか?加島 蔵書数とかもすごかったですよ。けっこう紹介する感じで宣伝をやった。辻 今泉の経歴を見ていても、効果研究の流れをそのままこの時期なぞっている感じがするなと思ったんですけれど。戦前戦中からのプロパガンダ研究の流れに対して、戦後、1950年前後ぐらいからですかね、アメリカの社会心理学的な効果研究が入ってきて、ちょうど 1950年代の後半期は限定効果説というのが最盛期を迎えるんですね。1960年代には、「科学」でなければいけないという思潮が高まって、ある種の心理主義化というのか自然科学的な計量研究が表立ってきた頃だと思うんです。そのために、かつてのような新聞学研究やプロパガンダ研究の流れで書けた論文というのが、この時期になると書けなくなる、ということはないんですかね?加島 最後の部分をもう一度教えてください。辻 要は、広告効果を含めた広い意味での効果研究、そういうところに関心の中心があったとすれば、もはやかつてのような大衆(非「科学」的な)プロパガンダ研究というのはもはや通

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用しない。だからといって、数字を駆使する「科学」主義的な効果研究を自分で一から勉強し直して、勝負することもできない。そのため、もっと実務に拠った方法でトーク中心になっていく……なんら裏付けはありませんが、そういうような可能性は考えられませんか?加島 今泉は小山栄三と一緒にいろいろとやっていたので、新聞学の流れの中から世論調査に行ったり、他方で今泉が博報堂に入る 1960年ぐらいは、経営学や日本生産性本部ができて マーケティングが今泉の流れとは別のところで立ち上がって、科学としての広告学とか、経営学と広告学が重なったような形で動き出す時期なので、─たぶん今泉は経営学にいっていないんですよね、私は、その間にいたという理解なんですよ、だから中途半端なんですよ。ですから、いろいろ知っているわりには位置づけにくいという感じなって、経営学も今泉は出てこないし、広告学研究にも今泉はほとんど出てこない。直感的に似たようなものを扱っている人なんですけれども、どこかに深く書き残しているかというと、そういうことはできてなかった。故に、博報堂に行けたのかもしれないというか、学者的な記述を徹底して残す感じには至らなかった。しかし、戦後の資料を見ても経営学で回収されていない感じがしますよね。そういう意味では、戦後の小山栄三的なネットワークの中で、物語に回収されない人を動かすときの数値の意味みたいなものには敏感ではあったという感じですね。それは、経営学=回収されない意味での科学化みたいなものかもしれません。すごく扱いにくい 1950~ 1970年代初期までくらい、戦後の初期マーケティングにおいて

も科学的にしなければいけないと思っているんだけれども、うまくやれない感じといいますか……。1970年ぐらいに貿易自由化が何段階かで行われて、外資系広告会社がたくさんに入ってきて、日本においても外国流のマーケティングがやられるようになるんですね。そこで広告代理店がクリエイティブ部門とマーケティング部門を分けるようになって、「デザインのマーケティング部門」というような言い方が可能になる。今泉は、それ以前なんです。ですから、ある種本気でデザインも広告の中に入れてしまおうという以前の、移行期の人間なので扱いにくい感じ……数字が大事だといっているにもかかわらず、デザインもうまいわけではないし、じゃあ完璧にマーケティングに通じているかというと、そうでもないというような、そんな感じがするんですが……。難波 今泉はもの知りだし、新しい知識をどんどん貪欲に、しかも海外の状況まで知ろう知ろうという、ものすごい知識欲は感じるんですが、この人の中に一本なにか芯があった感じはしないんですよね。その時その時に本を読んで勉強したことを切り貼りして何かをつくることはいつもいつもできるんだけれど、1960年ぐらいからの「博報堂月報」広告の中でやっていることは、アメリカの ADCだとかそういうものの紹介とかばかりをやっていたりするので、なにか一貫して何かがあるというよりは、その時その時にいちばん、海外の広告業界の最先端を知っている人としてあり続けようとしたけど、何者かといわれると、その時その時最前線の技術というよりは、広告に関する知識であったり、海外の広告に通じている人という位置をとり続けた人という印象がありますかね。その辺の印象は、ペダンチック親爺というか、なにか

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難しいことを知っているぞ、といって周囲を威圧するような人という印象があったんですが、でも、ちゃんと会社組織の中で機能しているから、そこまで周囲から浮き上がるような嫌なただのもの知り親爺というか、ペダンチックに知識をひけらかして周囲を威圧するような人ではなかったろうなと思いますし、報道技術研究会やあの辺の仲間たちも別に嫌ってはいないです。石田 個人的には 4番目の話「広告史研究の困難」がおもしろかったなあと思うんですね。いまのお話を聞いていても思うんですけれど、どういうふうに研究を進めていくかというときに、人物を中心にして研究をするというやり方とか、社史=会社を中心にしてまとめるというやり方とか、高野さんが先ほど予言されていたデータベースの統合版をつくるときのロードマップとか、いろんなやり方があると思うんですよね。人物を中心に語るというやり方って、データベースがあまり整備されていない場合や、なんでそんな資料が残っているのかわからないときには魅力的なやり方だと思うんですけど……。特に資料の偏在からどうやって研究を進めていくかというところについてアイデアがあればな、と思ったんですけれども……。それは、データベースをどうやってつくっていくかという問題にも関わりますよね。だから、

制作者について(データを)入れるというのもひとつあるでしょうし、企業名とか、スポンサー別とか、業種別とかそういう形でいろいろやっていく、どういう形でも検索可能なものにつくっていければ、わりといろんな(分野の)人の使用に耐えるものになるのかなあと思います。その辺いかがでしょうか?石田あゆう(以下、石田あ) その点は見ればわかるというのもあると思いますけれど、さっき、難波先生が明石家さんまが阪神の小林繁投手の真似をするというコンテクストがいまの学生にはわからないと仰っていましたが、それも明石家さんまが今いなければ、明石家さんまであることすらわからない。そうすると誰が出てるかということはけっこう重要な情報なのかなあというふうに……石田 誰がつくっているかじゃなくて……石田あ ……誰が出ているか。それこそさっきの「ファイト! エクスプレス」なんですけど、尾崎豊が歌っているという印象はありますけれど、牧瀬里穂が可愛かったというほうが、やはり印象がある(強い)、いわゆる広告効果という点では……。私も実際何度も目にしたのか、回顧の中で見たのか、すでに記憶が定かではないんですが─ちょっとつくられた記憶になっているかもしれませんが─、そういう印象の話としてみたときには、牧瀬里穂=エクスプレスというイメージが強いので……。あと、私は集英社のこととかを調べていて、橋本治さんが「明星」の表紙でひたすら一冊書いた『「明星」50年 601枚の表紙』(集英社新書、2002年)というのがありますが、スターの顔というのは情報として重要なんだというようなことを書いていて、広告の印象ということにおいては、けっこう重要なのかなと思います。ただ、出演しているタレントが誰かは調べればわかるので、データベースに入れる必要が

あるのかどうかはわからないですけれど、広告を見たときに印象的な情報になるかなあと思います。

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石田 「調べればわかる」というのは、共有のされ方がすごく難しいなあと思いますね。データベースを実際につくっていると、とくに若い学生とかを使っていると、「わからない」というようなことはいっぱいあるので、あっという間にそういう共有の知識というのは失われてしまうのかなという気がしますね。石田あ タレントとかだと、誰かのお父さんだとか、おじいさんだとか、というような説明をすればつながっていくことがままあるのかなあという……。加島 資料体にもよっても異なると思うんですが、データベースで検索するときに、制作者の名前はほとんど見ないと思うんです。むしろ、コマーシャルに出ている人みたいなものも、そういう利用の実証みたいなものは可能なんですか? 研究者として検索するときと、研究者ではない人が検索するときとでは、探し方が違うように思われるので、そのときにどうタグを付けるかはだいぶ違うと思うんですけれども、データベースの活用のしかたを考えていくと、石田さんがおっしゃったような、つくっている人が覚えて欲しい情報と受け手として見た場合には、だいぶ違いがありますよね。石田 データベースをどこで見せるかという話なんですけど、いまの段階では研究者が見るということだけを前提につくっていると思いますね。一般向けでは公開できないから、それは研究用に作るべきなんじゃないかなという気がします。アド・ミュージアムはどうなるかわからないですけどね。高野 ミュージアム的には、タレントと制作年ですね。自分が生まれた年だとか、自分が何歳の年。石田 一般の関心は、自分が生まれた年のCM。ですから、その年の代表作でいいんですよね。全部を入れる必要はないので、そこは全然用途が違うものになるのかなという気がします。加島 そうすると、ベスト・テンみたいなのが年ごとに出ていたりしたほうが一般向けだと……高野 一般向けだとキュレーターズ・チョイスのようになるんですけど、ただ、フリーで検索するためには、広告主名・商品名・商品ジャンル・制作年・タレント名くらいは必要だと思います。タレント名は難しいですね。1950年代や 60年代になると……

山崎 誰かわからない。高野 そうですね。おじいさん、おばあさんの記憶を頼りに 1本ずつ見ていただく……(笑)石田 出演者の名前をどうやって調べるかですね。高野 落語家とか、わからないんです。ですから私も画面を撮って、父親にメールして、父親からの返事を待ってを入力していたりしたんです。石田あ その記憶が間違っている可能性もあるんですか?高野 いや、たいへんな自信で返事が返ってきます。(笑)石田あ その点は大丈夫ですか?

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高野 わからないですけど。辻 1950年代くらいまでだと、その情報があれば、それで画像検索だとかネットとかを調べれば、裏はとれる。川又 いま、検索のためのアーカイブの作り方とその用法ということなんですが、先ほど難波先生も仰ってたと思うのですが、CMの前後に流されていた番組のストーリーとか、そういうことまでアーカイブに入れるということは考えられていないのでしょうか?高野 TCJの場合は、台帳が完全な形で現存していて、台帳にこの CMが放送されていたスポンサーとして番組名が書いてある場合があるんです。それはもう情報としてデータベースに付記しています。そうした情報がない場合、基本的には 90秒以上の長い CMは必ずどこかの番組の中で流

されたものであって、かつ一社提供の時代ですから、なにかと対応しているはずなんですけど、それを調べるということはひじょうに困難です。当時の新聞広告には「◯◯の番組を提供しています。この CMは◯時から流れます」といったことが書かれている場合があるので、それを執念で探す。それぐらいのことをしないと完全なものはできない、と思います。石田あ さっきのアニメーションの広告が、藤井達朗が優れたアニメーターで広告業界に行かなければよかったという話がありましたが、見せていただいたビックスの CMはどういった点が優れているんでしょうか?難波 私もアニメーション研究家ではないのでよくわからないんですが、名作 CMのひとつとして残っているのと、音楽とシンクロしてあれだけきちんと動かせるというのは、かなり能力のあるアニメーターにしか、たぶんできなかったんだろうなという印象があります。藤井さんのことをいま、ほじくり返そうとしているのは、記憶の聞き取りなんだけれども、「いつもかかっているのはディズニーの「ファンタジア」で大好きだった」とか、「フライシャー「ベティー・ブープ」や「ポパイ」とかを一生懸命研究した人なんだよ」という言い方をされるんですね。そういった CMづくりなので、そういうところから独特な映像表現をあみ出したという話なんですけれども、手塚治虫より少し世代は下かもしれないけど、先進的なアメリカのアニメーション技術の影響を受けて、それをかなりのレベルで日本でやれたのは藤井さんだったんだという人がちらほらいた、と。石田あ アニメーション研究で、広告アニメを扱っている研究というのは?難波 この津堅さんの『テレビアニメ 夜明け前』というのがそれなんだと思いますけれど。石田 以前、テレビ CM研究会に来ていた大橋雅央さんがアニメの技法についての解説をして下さったことがあります。ご自身もアニメーターなので、この技術はすごく難しいんだとか、この時代にはこういう技法はなかったんだ、みたいなことを詳しく教えて下さる方がいらっしゃいました石田あ その方が、ビックスの広告は……石田 それは、ちょっとわからない。

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高野 言ってましたよ、ちょっと触れていました。辻 リミテッドでしたっけ⁉ もともとリミテッド・アニメーションというのは、手塚がはじめたと言われていたんですが、それ以前にCMでは使われていた、という報告をなさっていました。石田 やってみたくなりましたか?石田あ 資料を探すだけでもたいへんなのに、それを特定するのもほんとうにご苦労……石田 特定するのが仕事じゃなくて、そのアーカイブを使ってどう研究するかというのが課題なので、ものすごく難しいんです。石田あ そういう意味では、すごく印象的な広告が時代を映すことについては、ひじょうに印象があるというか、感銘を受ける。石田 優れたものとか、印象に残るものだけが CMではない、と感じています。どうしてあるCMだけが選ばれて記憶に残るんだろうかなあ、というようなことですけど……。アーカイブ研究をやっていると、なぜかだんだんそういうふうになってきて……。(笑)

竹内 どの子も可愛い⁉(笑)石田 出来が悪い子ほど可愛いというか、ちょっとそういう感じはある。(笑)石田あ さっきの大阪のことに関しては、大阪人=関西弁を喋る悪人みたいなイメージがすごくあると思うんですけれど、広告で関西弁を喋るというのはあまりないと思うんですけど、イメージ研究というのを考えたときに、大阪人というのはどう表象されるのかというのは興味深ですね。難波 映画の吹き替えで使われる関西弁とかですかね。石田あ そう、そうです。悪い奴は関西弁を喋る。石田 それはプロの×××屋さんですね。(笑)辻 藤井達郎さんの広告業界における評価のされかたって、どんな感じだったんですか?それこそ、先ほどの関西ということでいくと、堀井さんは関西のクリエーターという評価がすごく強いと思うんですね。藤井さんは関西出身だということが全然強調されないような感じがするんですが、そうでもないんですか?難波 やっぱり「どん兵衛」の人というイメージは業界的には強かったんだろうと思いますし、東京に移ってからの「サントリー RED」が代表作のような言われ方をしますけど、サントリーも関西系の企業ということになっていますので、堀井さんはいろんなところで「ライバルだ、ライバルだ」という語り方をされていて。東北新社とかに行くと藤井さんの絵がたくさん飾ってあるという話もあって、慕う人も多かったし、市川崑などとも藤井さんに関していろいろ書き残しているとかあって、クリエーターとして優れていたし人間としても優れていたというような語り方もされています。ACCの殿堂入りクリエーターというのが何人かいるんですけれど、堀井さんや小田桐昭さん、藤井さんも貰っている。だから、伝説に残る優秀な人だという言説が残っていて、関西色は堀井さんほど強くはなかったかもしれません。関西に居続けて「キ

202  テレビ文化研究

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ンチョール」みたいな CMばかりをつくっている人とくらべればそうじゃないですけれども、でも関西から来てものすごく関西色が強かったし、関西のへんなおっちゃんだけれどいい人だったという語り方はいろんな人がしていますし、亡くなったときの社内報にはそんな追悼の辞を何十人も述べていて、その中のできるだけ年配の人に聞き取りをしようとしているんですけど、けっこうみなさん冥界入りされていて……。石田 いまの辻さんの質問は、CMの表現そのものの大阪的ってことですね?辻 作風として、大阪的とか関西的とか、そういう評価があったのかなあと?難波 関西弁を無茶苦茶に使ったりというのはないですし、有名なのは愛川欽也だったり、山城新伍にしても京都(東映)の大部屋出身というのがあるかもしれませんが、関西というよりは京都だったり時代劇だったりで、いわゆる大阪こてこてというイメージはなかったと思いますね。石田 辻さんがさっきおっしゃった「これはいかにも大阪風だねと」いうその評価と関連づけて考えると、難波報告の時代区分で「お笑いだけが残っていく」という時期がひじょうに腑に落ちました。ある特定の時代からそういうふうに語られる雰囲気が強くなっていったのかなという感じがしますね。それ以前は、わざわざ「大阪」という必要はなかったんでしょう。難波 それなりにメインストリームに大阪があったのが、だんだんカウンターとして、やっぱり「おもろい、どぎつい一発」「安いけど、おもろいもんつくってくれる」みたいなことになってしまった感がありますね。石田 お話しはつきないのですが、本日は、難波先生ありがとうございました。

以 上

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