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Title 新垣美登子「未亡人」論 : 1950年代沖縄の新聞における「戦争未亡人」表象をめぐる抗争
Author(s) 仲村渠, 麻美
Citation 琉球アジア社会文化研究 = Studies of the society and culturein Ryukyu and Asia(14): 41-77
Issue Date 2011-10
URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/24081
Rights
41
新垣美登子「未亡人」論
―1950 年代沖縄の新聞における「戦争未亡人」表象をめぐる抗争―
仲 村 渠 麻 美
はじめに
新垣美登子は、沖縄で戦前から戦後にかけて作品を発表し続けてきた唯一の
「女性作家」として位置づけられており*1、約 60 年間に及ぶ執筆活動を行った人
物である。しかし、その執筆期間の長さと作品数にもかかわらず、新垣について
詳細に論じた論文は管見の限り見当たらず、これまで注目して研究が行われてき
たとは言い難い状況である。
本稿は、『沖縄タイムス』に 1952 年 1 月 1 日から 4 月 18 日までの約 3 ヶ月間
連載された新垣の「未亡人」という作品を取り上げ、論述する。
この小説は、「支那事変」の 2 年後を舞台の始まりとし、東京の県人会で知り
合った「松村由起子」、「島芙紗子」、「島雅春」、「石川俊夫」を中心とした新聞連
載小説である。「見合い結婚」ではない「恋愛結婚」という選択を取る形で「芙紗
子」と「俊夫」、「由起子」と「雅春」が結婚するが、戦争によって夫が戦死者、
戦犯者とされ、帰郷後の沖縄で「未亡人」となった後の生き方が描かれている。
「芙紗子」は「日本から来た建築技手」である「田中けい輔」と再婚するも、そ
の後戦死の通告が出されていたはずの元夫「俊夫」が帰還してくるが、結局は「田
中」との生活を選ぶという道を辿る。「由起子」は軍作業に出てメイドの仕事に就
く中で「宇根道雄」や「ジョンス」等、度重なる求愛を受けるが応じず、タイピ
ストとして働く会社の社長からの誘惑を退け、最終的には「芙紗子」の元夫であ
る「俊夫」との再婚に応じようとする姿で物語の幕を閉じていく。
この作品について、吉武輝子は、「夫を失った女たちが、世間の目を気にする
あまり自分の人生を閉ざすことがないようにとの祈りをこめて書いた」作品であ
ると指摘し、評価している*2。
しかし、吉武は指摘していないが、一方でこの時期の新垣の作品は、『琉大文
学』のメンバーから痛烈な批判が加えられるといった状況でもあった。『琉大文学』
*1 吉武輝子「ある沖縄女流作家の開眼」(松村和夫編『別冊婦人公論』第二号 中央
公論社 1980.10)、三木健「新垣美登子(1901-1996)【沖縄を代表する女性作家】」
(海勢頭豊(ほか著)藤原良雄編『琉球文化圏とは何か』藤原書店 2003)、岡本恵
徳「沖縄近代女流文学の系譜」(三木健編『那覇女の軌跡―新垣美登子 85 歳記念出版
―』潮の会 1985)他。
*2 吉武輝子「ある沖縄女流作家の開眼」p.256
42
第七号に掲載された新川明の「戦後沖縄文学批判ノート―新世代の希むもの―」
では、
今、新聞小説や通俗小説のもつ必然的な制約や、その占めるべき位置や意
義についてはあえて書かないことにするが、ただその後もひきつづいてその
ような虚脱状態の麻薬的存在としての山里永吉や新垣美登子氏などが今なお
厚顔に居坐って通俗小説の筆を取っていることは奇怪という外はない。*3
とあるように、当時の新聞に小説を連載していた「前世代の作家」の一人として
新垣美登子が批判されている。また、後年行われた座談会で
嶺井 (略)今、こゝに文学の不毛というのを僕等が論じている様にあの頃
も同じような事が論じられたように憶えているんです。例えば、山里
永吉とか新垣美登子とか 沖縄の一流小説家がいた訳なんですよね。
(中略)あの頃の文学の状況というのは、やはり、我々も問題にした
訳です。ああいう色々な人々が、沖縄の一流然としている事が癪に障
った訳なんです。*4
とあるように、新川と同時期に『琉大文学』に作品を発表していた嶺井正(嶺井
政和)を含め、複数のメンバーが新垣の当時の執筆態度に対して批判的な意識を
持っていたことが述べられている。しかし、いずれにしても山里永吉との並列で
名は挙げられるものの、新垣の作品が個別に論じられることはない。新川はこの
評論において、戦後登場した作家たちが「どれ程明確な社会的認識で自らの位置
立場を自覚して、その文学を展開していったか」という問いの視点から論述して
いる*5。これらの事柄において問題とされているのは、「既成作家」たちの作品が
「敗戦後の文学的並に精神的空白を尐なくとも潤した」という点は認められるも
のの、「新しく現実を切り拓いていくという自覚された立場」は見られず、「戦争
―敗戦の傷痕」を描くことのないという点である*6。この点を批判するにあたっ
て引用されているのは佐々木基一の「恐らく戦争はこの大家たちの心に何程の爪
痕も残さず一種の災害として感じられたに過ぎないのではないだろうか」*7とい
*3 新川明「戦後沖縄文学批判ノート―新世代の希むもの―」『琉大文学』第七号
1954.11 p.29
*4 伊礼孝・大湾雅常・清田政信・東風平恵典・嶺井正・松原伸彦「座談会 沖縄に
おける文学と政治の状況」『琉大文学』第 3 巻第 1 号(通巻 21 号)1961.12 p.57
*5 新川明「戦後沖縄文学批判ノート―新世代の希むもの―」p.28
*6 新川明「戦後沖縄文学批判ノート―新世代の希むもの―」pp.28-30
*7 佐々木基一「戦後文学の諸相」猪野謙二他編『岩波講座 文学 第五巻』岩波書
43
う言葉であり、そのような意識における問題を、新川は「沖縄の大家」と一括り
にした上で新垣を含む作家らに批判を行っている。
冒頭で記した「未亡人」の粗筊のように、作品の要素のみを取り出してこの作
品を見た場合、戦後の沖縄の状況を取り扱いながらもそこには「愛欲のいざこざ
のみ」*8が描かれ、「通俗的」に描くことに終始していることへの憤りを誘う作品
として読まれることもあったであろうことが想像出来る作品だと思われる。『琉大
文学』で展開された批判とはそのような面からの批判であったといえる。しかし、
この作品が 1952 年の 1 月から 4 月という時期に「未亡人」という題で紙上に毎
日連載されていくというコンテクストを踏まえると、「通俗的な読物に堕する」*9
という意味合いでの捉え方では削ぎ落とされている、もっと深刻な問題性を伴っ
ているのではないだろうか。本稿はそれを明らかにするためにも、まず、敗戦後
「未亡人」といわれる人々がどのような状況に置かれ、どのような存在とされる
中でこの作品が連載されていったのかという点に着目することから始めたい。
1.作品が持つ時代性
1-1.敗戦後の「戦争未亡人」のおかれた状況
敗戦直後、連合軍の占領下に置かれることによって「未亡人」を取り巻く状況
はどのように変化してきたのだろうか。また、新垣が小説を連載し始める前段階
において新聞記事や小説などを通して、どのような「未亡人」に関する言説が充
満していたのだろうか。
敗戦に伴い、「未亡人」を取り巻く状況や論調の一変した点として、「未亡人」
を救済する為の措置として再婚が推奨され始めたことが挙げられる。そこには扶
助料の停止という経済的な問題が関連している。
敗戦によって日本は連合軍の占領下におかれ、戦争未亡人は精神的・経済
的に大きな影響を受けることになる。GHQ(連合国軍総司令部)は戦争犯罪
人を裁き、軍国主義者の公職追放を命じたが、それは遺家族にもおよんで、
戦時期から継続されていた戦死者に対する「軍人恩給」(遺族の場合は扶助料)
もその対象となった。(略)この措置によって未亡人の経済的支柱であった扶
助料は、一九四六(昭和二一)年二月をもって、廃止されることに決定した
が、扶助料の支給停止は未亡人に二重の衝撃をあたえていた。一つは当然の
ごとく日常生活の困窮であり、もう一つは夫の死が正当に評価されずに「犬
死」とされることへの挫折感で、これは夫が「軍人」であった未亡人はこと
店 1954 p.289
*8 川瀬信「沖縄文学の課題」p.52
*9 新川明「近頃思う事」p.19
44
のほか強く意識したであろう。*10
扶助料の支給停止により「戦争未亡人」の生活は困窮し、靖国神社の法人化も
行われ、「戦時は「英霊の妻」と称えられて国から保護されていた未亡人は、軍国
主義の残像として国から見捨てられることになった」*11。それに加えて、1946
(昭和 21)年の 5 月に開廷された「極東国際軍事裁判」によって、「日本の軍人
の実態が国際的に明らかにされ、「醜し こ
の御楯み た て
」であったはずの夫の犠牲は、犬死と
なって無視されるどころか、加害者の罪をも問われるマイナスの評価になり、国
民の非難の目は、軍人のみならずその延長にある戦争未亡人にも向けられていた」
という*12。
このように、敗戦後の占領による GHQ の改革の影響を大きく蒙ったのが「未
亡人」の境遇であった。しかし、それにも関わらず、鹿野政直によるとこれまで
「未亡人問題を伝えたのは、おもに一般紙や婦人雑誌や、ことに敗戦とともに簇
生した地域女性紙」であり、「戦後民主主義の論壇におけるにない手ともいうべき
雑誌『世界』『中央公論』『改造』は、はなやかな民主化論議の半面で、まともに
女性問題を追求しなかったとの印象を与えるのだが、ましてや未亡人問題にはか
すりもしなかった」と指摘している*13。
羽矢みずきは、「林芙美子「うず潮」論―隠蔽された〈戦争未亡人〉―」(日本
文学協会編『日本文学』2006.11)において、1947 年 8 月から 11 月に連載され
た林芙美子の「うづ潮」という小説を考察し、当時の「戦争未亡人」の存在がい
かに黙殺されてきたのかを明らかにしている。また、扶助料の停止に伴い困窮化
した「未亡人」の生活に対する明確な救済策が確立しない状況の中、「当時の日本
政府が最も効率のよい未亡人問題の解決策として」*14、再婚を一般に広く奨励し
ていたことを指摘している。
ここまで確認してきたことからわかるように、他ならぬ戦争によって生み出さ
れたのが「戦争未亡人」という存在であり、占領期における扶助料の停止といっ
た政策によって底辺での生活を強いられる状況や戦争加担者の妻という見方へと
変貌していく風潮にさらされる状況など、占領期の影響をより深く受けた存在と
して「未亡人」がいるのだということが明らかである。
先の新川の批評では、「戦争―敗戦の傷痕」を描くことのないという点が批判
*10 川口恵美子『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』ドメス出版 2003 p.107
*11 川口恵美子『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』p.108
*12 川口恵美子『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』p.112
*13 鹿野政直「戦争未亡人」朝日ジャーナル編『女の戦後史Ⅰ 昭和 20 年代』朝日新
聞社 1984 pp.28-29
*14 羽矢みずき「林芙美子「うず潮」論―隠蔽された〈戦争未亡人〉―」日本文学協
会編『日本文学』2006.11 p.9
45
されていたが、「未亡人」という存在がいかに占領下における問題と深刻に関わっ
ており、それを全面的にテーマとして作品で扱い新聞紙上で連載するということ
自体が当時において重大な意味を持ちえているということがここから見えてくる
のではないだろうか。ここではさらに作品が発表された当時の沖縄の状況に照ら
し合わせながら考察していく。
1-2.沖縄における「戦争未亡人」の状況
1949 年において、日本における「未亡人」の総数は 187 万 7161 人とされ、そ
のうちの約 60 万人が「戦争未亡人」であったといわれている*15。では、沖縄の
「戦争未亡人」はどのくらいの人数に及んだのだろうか。沖縄大百科事典による
と、その数は「3 万とも 4 万ともいわれたが定かではない」*16と曖昧に記され、
正確には把握されていない。新垣の連載小説「未亡人」が発表された年である 1952
年の 12 月 2 日付の『沖縄タイムス』に掲載された記事*17によると、国勢調査統
計の結果確認された「戦争未亡人」の数は 6 万 5 千人とされている。これは、15
歳以上の女子人口の 21%にあたるという。
いうまでもなく、沖縄において「戦争未亡人」は無視しえない相当な数として
存在していたのであるが、先に記したように占領下において扶助料の支給停止が
行われたため、その多大な数にも関わらず、対策が取られないままの状態が継続
していく。その結果「未亡人」の生活は極めて困窮化し、子どもや家族を養うた
め何らかの職業に就労し、生活費を得なければいけなかったのであるが、そこに
も深刻な問題が起きていた。
一九五二年には軍関係労働者は約六万八〇〇〇人(一九五〇年一二月一日
の沖縄群島の人口五八万人余)いた。一九五八年当時メイドは約一万人いた
といわれている。メイドには琉球政府の労働基準法はおろか、布令第一一六
号「琉球人被用者に対する労働基準及び労働関係令」の適用もなかった。米
軍要員の家庭に使用されているメイドの雇用条件は、雇用主とメイド本人同
士の話し合いで決められていた。そのため多くの人権問題を含むトラブルが
起こった。*18
*15 一番ヶ瀬康子編『日本婦人問題資料集成 第六巻 保健・福祉』ドメス出版 1978
p.537
*16 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典 中巻』沖縄タイムス社 1983
p.602
*17 「数字は語る 戦争未亡人六万五千人」『沖縄タイムス』1952 年 12 月 2 日
*18 神山幸子「基地と女性」歴史科学協議会編『歴史評論』1994.5 pp.47-48
46
1952 年 11 月 10 日付の『沖縄タイムス』には、「政府総務局主催する労働者と
の懇談会」の様子が記されており、参加した「女子四名」の間から、「使用者に
よつては採用したメード等に対しハーニーになれと強制する人がおり、応じない
と不当な理由をつけて解雇する人が」いることを指摘している*19。
基地内の米軍人家庭に住み込みで働くことから、メイドが浴槽で全裸で殺さ
れたり、米人の子どものおやつの要求に応じなかったメイドがピストルでう
たれ半身不随にされるなど、メイドへの人権侵害事件はあとをたたなかった。
外人事件は軍事裁判だったためうやむやにされることが多かった。夫を奪わ
れ、米軍基地に農地を奪われ、収入の道をとざされやむなく買春をしなけれ
ばならなくなった女性もいた。*20
先の新聞記事は、「未亡人」連載の年と同年であり、連載終了後の 7 ヶ月後に
同じ新聞機関によって取り上げられたものである。小説「未亡人」の作中では、
主人公の「由起子」が敗戦後、夫のいない中で子どもと義母と暮らし、軍作業に
出ることを勧められて「ジョンス」の「メイド」として働く場面が書き込まれて
いる。作中において当時起きていた「メイドへの人権侵害事件」がそのまま書き
込まれることはない。しかし、「ジョンス」から求婚を迫られそこから逃れるため
に失職せざるをえない「由起子」の姿が数日にわたって紙上に連載されるのであ
る。また、「由起子」が軍作業に出て「メイド」として働いていることを知った友
人は「軍作業つて?あぶない、あぶない、由う子のように美しい人には」*21とい
う言葉を発している。その言葉の意味するところを作中には深く記述していくこ
とはしないため、当時の検閲に引っ掛かることもなく、特に注視されずにそのま
ま読み進められていきそうな言葉である。しかし、この何気なく挿入されている
ような言葉が、検閲を潜り抜けながらも読者の読みの中で、当時の頻発していた
「メイド」に対する事件や問題を感受できる効果を生み出しているように読むこ
とが出来る。
新垣の小説「未亡人」が現実の状況に関わり、言及する作用をもたらしている
ことについて、さらにはっきりと示されているのは「パンパン」と呼ばれる「未
亡人」を描く場面においてである。
小説「未亡人」では、「メイド」として働き、失職せざるをえない「由起子」の
姿が連載されると同時に、「子供が次々と病気して借金をしてから、貧乏に追ひつ
*19 「作業管理・労務管理一体化せよ 結論は出た!即ち労働法規の制定」『沖縄タ
イムス』1952 年 11 月 10 日
*20 神山幸子「基地と女性」pp.47-48
*21 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 12 日 連載 40 回目
47
められてパンパンになった」*22「よし子」という「未亡人」の姿が連載されてい
く。
夫の戦死を知つてからもずつと女教員をつゞけてゐたが、子供が三人とも
次々に病気をして借金がかさみもうどうしても俸給だけではやつていけなく
なつた。その時隣りのをばさんが、軍作業の娘達の宿舎や、それからパンパ
ン街にいつて彼女達から、煙草や石けんウヰスキーなど買つて来ては、壷屋
の市場へ出したりするが、儲けがあるらしいとのこと、それは足さえまめに
動かせば、直金になるもので、又市場から食料品を買つてもつていつてやる
と、彼女等は市場の相場の倍の値でとつてくれるからそれはほんの尐しの金
しかならないが毎日歩くと、女教員の俸給の五倍にもあがるとのこと、それ
をきいてよし子も歩き始めた(略)
隣りのをばさんも商売ばかりかと思つたらやつぱりパン助だつた。
をばさんの誘惑に自分がのつたのも、皆金故にいよいよゆきつまつての挙
句で子供達にひもじい思ひをさせられなくて、たゞ子供達さへ食べさせられ
ることならと、自分もとうとう転落してしまつたのだ。*23
このように「パンパン」として働く「よし子」の経緯が記述されていく。「皆金故
にいよいよゆきつまつての挙句」であるという状況は「よし子」個人における問
題として描かれるのではなく、そこにまた「はる子」という人物を登場させ、
「八重山の人よ、やはり、戦争未亡人なの、八重山で沢山豚を飼つて暮し
てたんですつて、でも去年のグロリア台風ですつかりなくしちゃつて、それ
からさんざん苦労してとうとう沖縄へ自分一人で働きに来たのよ、とつても
気の毒な人なの、時々泣いているわ、子供達のことを思つて、お金や物をち
ょいちょい送つてるわ自分はちっとも使わないのだからあんなにやせてるの
よ」
食べたいものも食べずに倹約をして、専ら子供達へ仕送りをしてゐるとの
こと何と云う可哀想な人だらう*24
という書き方をしており、「誰だつて心からやつてるんぢやないわ」*25という言
葉からも敗戦後の社会において子どもを抱えた「戦争未亡人」が容易に生きられ
*22 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 28 日 連載 55 回目
*23 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 13 日 連載 69 回目
*24 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 14 日 連載 70 回目
*25 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 14 日 連載 70 回目
48
ない状況が充満しているということが強調されている。またそれは、「未亡人」に
対する補償が欠如する中で、一定の額を稼げる職業に「未亡人」が就ける状況も
用意されていないという社会の構造的な貧困によるものであり、「未亡人」個人の
問題に還元できない多数の人々が抱えている社会的問題であるということがこの
小説を通して読み解いていくことが出来る。
高里鈴代は「基地と売買春」(那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあと 那
覇女性史(戦後編)』琉球新報社事業局出版部、2001)の中で、
家族の病気や貧困から、米兵に体を提供して稼ぐ買春が次第に増えていく
一方で、女性たちを巧妙にだまし斡旋する「媒合」の横行、さらに女性の心
身を拘束して売春を強要する強制管理買春業者が多数、基地周辺に幅を効か
せて存在し、米兵相手のバー、キャバレー、クラブなどの形態で営業をはじ
めていた*26
と指摘しており、「買春の理由の第一が貧困である」*27ということを述べている。
しかし作品が書かれた 1950 年代当時において、このような見方は決して定着し
ておらず、「侮蔑」の意のこもった発言が多数見られる。例えば、1951 年 5 月に
『月刊タイムス』に掲載された「特集 未亡人を凝視する」は「沖縄群島政府社会
教育課」の長嶺はる、嶺井百合子、「婦連幹事」の吉田つる、比嘉榮子、「厚生委
員」の島マス、中村節、「記者」の伊波圭子による座談会を記したものであり、「未
亡人」と青春、経済、恋愛という項目から、まだ「はっきり、究明されて」いな
い「未亡人問題」について話し合い、「新しい女性の生きる道を見出すといつたと
ころまで追求」することを目的として語られたものである*28。しかし、そのよう
な座談会の中でさえ「パンパン」について語る際に、「パンパンまでに陥ちた未亡
人」、「人間は常識人としてそう簡単に身を持ち崩すものではない」と言った発言
がなされている*29。
外間米子は、この当時の状況について「沖縄の婦女子が常に米兵による暴行を
おそれており、また為政者たちが米兵相手の女たちに手を焼いている時代である」
と述べる*30。「米兵の犯罪も多く、強姦、殺人、傷害、住居ならびに部落侵入な
*26 高里鈴代「基地と売買春」那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあと 那覇女
性史(戦後編)』琉球新報社事業局出版部 2001 p.287
*27 高里鈴代「基地と売買春」p.289
*28 「特集 未亡人を凝視する」沖縄タイムス社編『月刊タイムス』沖縄タイムス
1951.5 p.11
*29 「特集 未亡人を凝視する」p.13
*30 外間米子「屈辱と栄光からの出発」沖縄婦人運動史研究会著、宮里悦編『沖縄・
女たちの戦後 焼土からの出発』ひるぎ社 1986 p.44
49
どの事件は四六年から四九年までに一千件を越し、米軍政府も特別布告(四七年
三月)で占領軍人への売淫の禁止、性病取締りをやったがラチがあかず、そこで
米軍筊からの示唆」により、「民政府は、コザ、那覇、前原、石川の数ケ所に、米
軍人を慰安する施設の設置を米軍政府に要請することになった」と述べ、「同性の
中にも“良家の子女を守る”防波堤論で賛成の声、“女性の人権を守る”ために反
対する声等々の両論が起り、これに“ドル獲得論”までからんで世論がわいた」
と指摘している*31。反対運動の先頭に立った沖婦連の主催による「歓楽街の設置
可否問題」に関する懇談会が 1949 年 9 月 31 日に開かれ、『うるま新報』で次の
ような記事が掲載される。
“歓楽街”大ゆれ、理想と現実の論戦、
歓楽街設置可否問題をとり上げ、各階層の意見をきく婦人連合会主催懇談
会は、三十日、那覇洋裁講習所でひらかれた。民政府仲宗根保安課長、池原
公衆衛生庶務課長、仲泊事務官、人民党瀬長亀次郎、民主同盟仲宗根源和、
牧師中里朝幸氏その他婦連、男女青年会員多数列席、仲宗根保安課長からさ
きに軍へ提出のダンスホール設置案を説明、これに対しダンスホールの実態
糾明の質問があり、瀬長氏は、ダンスホールは美名に過ぎず、検黴制を実施
するので(ダンサーは毎週一回検診を行う)、明らかに買春街であり、人権擁
護、婦人解放の立場から絶対反対を表明、城間越来村長、糸数胡座署長らは
中部地区の惨状を例にあげて、青尐年の堕落、住民の危難防止の方策として
散在する売春婦を一画にあつめ社会の安寧を保持する防壁たらしめよ、と設
置論を強調、この間傍聴席からも多数発言があり、賛否両論活発な意見がか
わされたが、現実論と理想論は最後まで相容れず結論を待たずに散会した。
なお婦連では今度の懇談会の意見を資料として対策をねりあくまで設置反対
の態度を堅持し軍へ意見を具申することになった。*32
この懇談会で提起された問題は「次第に下火になり、人々の話題から遠ざかり
つつある」*33状況が続いていく。それに対して再び問題を呈したのが上地榮であ
り、1950 年 1 月に「歓楽街問題に就いて」を『人民文化』に掲載する。上地は
「尐数のパンパンの人権」を無視して推し進めることは、「彼女等を人間扱ひにし
てゐない証拠」と述べ、防波堤論について「“歓楽街”さえ設ければ全部が解決す
ると云う錯覚」であり、「何故女性に明るい職業を興え、未亡人救済の方法を考え、
*31 外間米子「屈辱と栄光からの出発」p.44
*32 『うるま新報』1949 年 10 月 4 日
*33 上地榮「歓楽街問題に就いて」『人民文化 50 年新年号』1950.1 p24.
50
売笑婦の更生策を講じないのか」と述べている*34。しかし、このような考え方が
聞き入れられず、より深く浸透しない状況がその後も続く。
ここで注目したいのは、この上地の発言がなされた後で、1950 年 6 月に『う
るま春秋』に発表された「“若い人たち”座談会」という題で掲載された山田みど
り、亀谷千鶴子、正木香代、城間宗男、嘉陽安男、大城立裕による座談会での発
言である*35。この座談会は、『うるま春秋』が募集した創作に入選したメンバー
を招いたものであり、戦後新垣と時代を同じくして新聞に連載小説を発表する書
き手となっていく人々によるものでもある。それと同時に、先に引用した新川明
「戦後沖縄文学批判ノート」の中で、「戦後の新人たち」として取り上げられ、「彼
等すべてが、どれ程明確な社会的認識で自らの位置立場を自覚して、その文学を
展開していったかという問に対しては否定的な答えしか出せない」*36という批判
の対象となった人々でもあった。
歓楽街の問題について意見を述べる段階で亀谷の意見は書かれていないが、そ
の他のメンバー全員が設置に賛成の意思を表明している。そこで述べられている
のは、家が隣接しているため「パンパン」のいる家と間違われて困るという山田
による「あの人達の態度を見ると救われない」という発言や、大城による「新聞
でも人権尊重の点から反対するというのがあつたが、意味がない/人権問題をお
題目にしています」という発言である*37。これは、先の上地の指摘が全く受け入
れられていない発言であることがわかるが、さらに述べられていくのは、「女には
娼婦型と母性型があつて娼婦型は自ら堕落....
していくのじゃないか」(圏点-引用者、
以下同じ)という嘉陽の発言に続き、「一寸した機会で、その人が顛落..
するのでな
いかと思いますが」(正木)、「普通は、自業自得....
だと思いますが気の毒に思います」
と言う正木に対し、「他人から見れば気の毒ですが本人は何とも思つていませんよ」
と山田が述べ、「春のめざめ式ですネ」(正木)といった言葉まで使われている*38。
ここから窺えるように、「パンパン」に対する見方が「堕落」や「顛落」、「自業自
得」といった言葉を用いて述べられる言説空間であることがわかる。この言説空
間における問題点は、先の上地による批判の中で、「パンパン」を「人間扱いして
ゐない」のは、「インテリ層」においてさえ基本的人権の尊重の認識がないからで
あり、「彼女等」がどのような境遇にあるのかという点が充分に議論されずに見落
とされているという指摘に繋がるものである*39。
*34 上地榮「歓楽街問題に就いて」pp.26-27
*35 「“若い人たち”座談会」『うるま春秋』第二巻第五号 1950.6
*36 新川明「戦後沖縄文学批判ノート―新世代の希むもの―」p.28
*37 「“若い人たち”座談会」p.32
*38 「“若い人たち”座談会」p.32
*39 上地榮「歓楽街問題に就いて」『人民文化 50 年新年号』1950.1pp.24-29
「“若い人たち”座談会」(『うるま春秋』第二巻第五号 1950.6)では、冒頭部で「闇
51
これまで見てきた、新垣が小説「未亡人」を発表するまでにおける言説空間の
特徴とは、高里が先の論稿において示した以下の指摘に該当する特徴であると言
えるのではないだろうか。
売買春問題が女性の人権の観点から論じられるよりは、むしろ、「一般の子
女の保護」がより重要視されている意味では、前借金で苦しむ事実は承知し
ていても、その一方で、そもそもなぜ買春へ転落したか、安易な生活、享楽
を求めて堕落した女性たちという侮蔑を、そこには読み取ることができるの
ではないだろうか。それは、伝統的慣習の中で培われた根深い女性への差別
そのものなのである*40
この問題が 1950年代当時においても存在しているということが先の大城の「人
権尊重の点から反対するというのがあつたが、意味がない」という発言や嘉陽の
「自ら堕落」という言葉から十分に見受けられる*41。ここには、「未亡人」の抱
える問題がまるで「自己責任」であるかのように主張する差別的な見方が顕在し
ている。そして、このような主張を公的な場で公然と発言することによって、さ
らに「未亡人」に対する差別的な状況を増殖させているといえるのではないか。
「未亡人」について語る「戦後の新人たち」に対し、先に取り上げた新川ら『琉
大文学』の同人達は、「未亡人」問題について語らず、新垣の作品で取り上げ、描
かれているにも関わらず、読み取らずに批判するということが行われていた。新
川の「戦後沖縄文学批判ノート」では、大城ら「戦後の新人たち」による文学的
態度は批判の対象となっているが、しかし、「未亡人」という問題について取るに
足らない問題として考えている点においては同様の立ち位置であったといえるの
ではないだろうか。
の女は如何にして生れて来たか」という質問に山田が「闇の女になるのは失職し生活
苦から来るのと また一つは今まで社会から厭さえられてきた その社会に対する
反動からでないかと思います」と述べ、亀谷も「失業からそうなると思います」と指
摘する箇所がある。しかし、その発言が他のメンバーには共有されていかず、「虚栄
心から堕落するのがいます」という大城の言葉で容易に崩され、消去されているのが
窺える。山田もまた「女は堕ちたら最後まで堕ちていくのではありませんか 米兵が
歩いていると呼びとめて一所に歩いて行く これは金儲けよりも遊んで喜んでいる
と思います」という大城の論の流れに沿うような発言へと移行している。そして、歓
楽街問題について再び述べる段階に至ると、本文で取り上げたような発言で占められ
ていることから「未亡人」の置かれた境遇に争点が向けられず、中傷的な発言が横行
する場となっていることが窺える。本稿ではそのこと自体が問題であるとして取り上
げている。
*40 高里鈴代「基地と売買春」p.293
*41 「“若い人たち”座談会」p.32
52
このような言説空間が形成されていた中で新垣の小説「未亡人」はどのように
読み込むことが出来るだろうか。先に記したように、小説「未亡人」では、「戦争
未亡人」である「よし子」と「はる子」という人物がどのような事情で「パンパ
ン」として働いているのか、その生活が決して「安易な生活、享楽」的な生活で
はないということが深く示されていた。そのような状況を描くとともに、「パンパ
ン」に対して「堕落した女性」という侮蔑でもってまなざされる状況もまた描写
している。それは、「よし子」が同窓会に参加する場面で最も顕著になる。
「よっちゃんはそんなに考へるなら、恥かしい仕事をよせばいゝぢやないの」
何だかその語音には軽蔑が含まれ居る、よし子はこゝへ来る前から覚悟はし
てゐた(略)
「それを云はれることが一番痛いの、でもわたしはもう救へないわ、こんな
に堕落しちまつて」*42
よし子は自分一人なら飢えて枯れて死んでもいゝが子供達を飢えさせる苦
痛は母としてとてもたえられない、子供達に食べさせることが出来るなら、
自分なんかどうなつてもいゝと思つたことをしみじみと話したたゞ口ではパ
ンパンなどに堕ちなくてもと他人は云へるけれど、しかし今日明日にせまつ
た飢えを満たす為めには手段など考へるいとまがなかつた、その為に同窓の
あなた方にまで迷惑かけてほんとにすまないと素直にわびられると、誰もよ
し子をとがめることが出来ない、心の底では誰も彼も、それまで堕落しなく
てもとは思つてゐても*43
ここでは、「堕落」した存在として「よし子」をまなざす視線が描かれている。引
用した箇所以外でも「パンパン以上の堕落はないと思つて居る皆」*44という書き
方がされており、作品内では当時蔓延っていた「堕落」という「パンパン」に向
けられた侮蔑的視線そのものを、そのまま書き込んでいるように思われる。それ
は他者から向けられた視線であるとともに、「でもわたしはもう救へないわ、こん
なに堕落しちまつて」*45という言葉に見られるように自身にも向けられる言葉と
なっていく状況が描かれている。
作品は「よし子」と「はる子」が何故「パンパン」という職業をしているのか、
そのいきさつを詳細に記述した上で、「たゞ口ではパンパンなどに堕ちなくてもと
*42 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 24 日 連載 79 回目
*43 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 25 日 連載 80 回目
*44 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 26 日 連載 81 回目
*45 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 24 日 連載 79 回目
53
他人は云へるけれど、しかし今日明日にせまつた飢えを満たす為めには手段など
考へるいとまがなかつた」*46と訴える。ここでは先の「“若い人達”座談会」で
出た発言に見られる「安易な生活、享楽を求めて堕落した女性たちという侮蔑」
*47が他者から向けられていることをしっかりと描かれている。その上で、それと
は違う切迫した状況から生み出される現実を描き、「未亡人」に向けられた侮蔑的
な発言が的を射ていない発言であるということを、この場面では露呈させている
のではないだろうか。ここでは「未亡人」に対する差別の構図を描きながらも、
「未亡人」の抱えた問題がその人個人に帰せるものではないということを暴き出
している。
由井晶子は、「“パンパン”を自ら堕落し、反省のない女」*48と見る当時の社会
状況に対し、「彼女等」が「どんな悲惨な境遇にあるか、生活実態まで丹念に取材、
社会の矛盾をついて対比を見せた」と伊波圭子の記者として書くという行為に注
目していた*49が、これを新聞紙上に毎日掲載される新聞小説という形で書いて見
せたのが、新垣の小説「未亡人」といえるのではないだろうか。
次はさらに、1952 年という時代に「未亡人」という題で書くことが持つ問題提
起性について提示していく。
「未亡人」連載中の 1952 年 3 月には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が成立
し、これまで GHQ の改革により支給が停止されていた「未亡人」を含めた遺族
に対する扶助料が 4 月から日本「本土」において支給されることとなる。しかし、
日本「本土」が、1952 年 4 月 28 日にサンフランシスコ講和条約の発効により、
連合国による占領下から脱したのに対し、沖縄は米軍による占領が継続されるこ
とが承認される。その沖縄では、「援護法」が適用されない状況が継続されること
となる。「未亡人」連載中の新聞記事の中でもこの沖縄に住む「遺家族」に援護法
が適用されないという問題が幾度も取り上げられる。例えば、1952 年 2 月 5 日
の『沖縄タイムス』に掲載された「遺家族援助費など 日本へ折衝員派遣」とい
う記事では、
日本では既に戦争犠牲者対策費として二百三十一億余円が、政府予算に組
で軍人軍□遺家族の援助の手が伸ばされているが、沖縄では公務員の恩給、
退職金の支払は勿論、戦争犠牲者の援助問題も未解決の現状である、郡府で
*46 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 25 日 連載 80 回目
*47 高里鈴代「基地と売買春」p.293
*48 由井晶子「ジャーナリズムの興隆」那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあと
那覇女性史(戦後編)』琉球新報社事業局出版部 2001 p.416
*49 由井晶子「ジャーナリズムの興隆」那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあと
那覇女性史(戦後編)』琉球新報社事業局出版部 2001p.417
54
はそのため恩給問題や遺家族 学徒隊 防衛隊の援助等の早期解決のため職員
の日本派遣を計画中である(後略)*50
といった動向が書かれており、1952 年 2 月 10 日には読者の側から投稿という形
で、
日本の「遺家族援護法案」が議会に提出されたことは誠によろこばしいこ
とと思います。そこで、私達沖縄の遺家族も当然この援護の恩恵に浴すべき
ではないかと考えるしだいであります。というのは戦争中蒙った損害は、太
平洋ひろしといえども沖縄に及ぶものはないからであります。(後略)*51
といった文章が掲載される。「戦争中蒙った損害は、太平洋ひろしといえども沖縄
に及ぶものはない」という主張に見られるように、沖縄の「戦争犠牲者」に対す
る補償がない状況に対する訴えが盛んになされていく状況が「未亡人」連載中に
実際に起きていたことがわかる。その中でさらに着目される記事として、1952
年 2 月 11 日に「戦争未亡人」の側から発した読者投稿記事が挙げられる。
「遺族の一人として」
今日は全琉遺族大会を開き日本及び中央政府へ遺族の援護及び保護につい
て陳情するという。悲鳴に似て痛々しい。私も一戦争未亡人であるが、今更
悲鳴をあげたところで…と直に参加する気にはなれない。しかし私は一言い
いたい。特別に保護はしなくても不当な負担を早く除いてほしいと。私の男
の同僚は私と同額の月給をとり、子供は同じく二人いるが勤労所得税は私よ
り尐い。何故か、彼は妻と子供二人の扶養者だから私は子供二人だけしか扶
養していないからという。妻は果して無能力者、被扶養者なのだろうか、家
事労働は認められないのだろうか、男女同権の世に俺が養っているのだと無
能力者あつかいされる妻も気の毒であるが夫を失ったばかりに一躍被扶養者
から慣れぬ職場へ押し出され、職業も家事も育児も一人で背負い税金を余計
納めさせられるこの矛盾はどう考えても納得がいかない。□□の憂のない男
性は羨しい限りである私は女中を頼んでも妻の場合より金が掛り、家事も育
児も妻のようには出来ない未亡人の家庭を貧乏と不良児の温床にしているこ
の制度を再検討してほしい(那覇市三区一組・平良史子)*52
*50 「遺家族援助費など 日本へ折衝員派遣」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 5 日
*51 「遺家族の援護」(公聴 投稿歓迎)『沖縄タイムス』1952 年 2 月 10 日
*52 「遺族の一人として」(公聴 投稿歓迎)『沖縄タイムス』1952 年 2 月 11 日
55
このように、遺家族の中でも現行の制度によりさらに苦しい生活を余儀なくさ
れていたのが他ならぬ「未亡人」の存在であったということがこの読者による投
稿で明瞭に示されている。その後、「援護法」適用に向けて「琉球遺家族会」が発
足し、7 月1日に「那覇日本政府南方連絡事務所」が設けられ、適用への交渉が
行われる。翌年の 1953 年 3 月 26 日に、北緯二九度以南の南西諸島において「援
護法」の適用が公表される。北村毅は、「沖縄の「本土」に対する戦後補償要求が、
沖縄住民が「日本国民」であることを言明することからはじめなければならなか
ったこと」に注目している*53。「「補償」を受けるためには、遺族としての沖縄の
住民が「外国人」ではなく「日本人」であることと、戦死者が「日本人」であっ
たことが再確認されなければならなかった」のであり、「戦死者が、日本のために
戦い、「日本人」として死んでいったこと」を強調する「ナショナルな語り」が促
される状況においてでしか戦後補償の要求は成り立たなかったと指摘している
*54。
しかしこの「ナショナルな語り」が促され、援護法適用に向けた取り組みがな
される中で、「援護法」適用を巡る「ナショナルな語り」の影で、先の「戦争未亡
人」からの発言に見られるように、「未亡人」の抱える問題は排除され、忘却され
ていったのではないだろうか。いわば非―ナショナルな存在として、「二流国民」
として差別され、言外の位置に「未亡人」は置かれていったのではないだろうか
*55。
「未亡人」が子どもを抱えて生きられないという状況は、「援護法」適用に向
けた取り組みに見られるように、紛れもなく沖縄において日本との関係の中で抱
えていた問題と直結するものであった。またそれは、軍雇用者の不当な労働条件
による酷使といった扱いが公然となされる中で頻発したメイドに対する人権侵害
*53 北村毅『死者たちの戦後誌―沖縄戦をめぐる人びとの記憶』御茶の水書房 2009
*54 北村毅『死者たちの戦後誌―沖縄戦をめぐる人びとの記憶』pp.78-84
*55 北河賢三は、「戦争未亡人と遺族会・未亡人会」(早川紀代編『戦争・暴力と女性
3 植民地と戦争責任』吉川弘文館、2005)で「地域の遺族会のなかでは、戦没者の
父である男性遺族が主導する団体が圧倒的に多い。遺族のなかでは母が多数を占める
が、女性の役職者はごく尐数である。この種の遺族会の活動は、遺骨の出迎・伝達や、
慰霊祭などの慰霊事業に力点が置かれている」(p.168)と述べており、「母子の生活
安定」を訴える「未亡人」の声とは異なる特徴であることを示している。「未亡人」
にとっては「何よりも、生活の糧を得るために内職・就職の斡旋や講習の機会を得た
り、授産場を設立して共同事業を営んだりすることが不可欠であった」(pp.170-171)
として、「男性遺族主導の遺族会では未亡人・母子家庭の抱える問題が理解されず、
また解決できないと判断した」(p.171)ために、「遺族会」とは別に「未亡人会」の
結成が各地で起きていったことが示されている。(「遺族会と未亡人会」pp.163-172)
このような訴えは先の「全琉遺族大会」が沖縄で開かれる中で、「遺家族の援護」
((公聴 投稿歓迎)『沖縄タイムス』1952 年 2 月 10 日)を新聞に投稿した先の「戦
争未亡人」の訴えと呼応している問題なのではないだろうか。
56
事件、「米兵による暴行」から「良家の子女を守る」防波堤論が主張された歓楽街
設置問題に見られるように、アメリカとの関わりの中で勃発している問題でもあ
った。それらいくつもの占領期における問題が「未亡人」に多重に振りかかって
いたのである。このような時期に「未亡人」というタイトルで新聞に約 3 ヶ月間
にわたり連載するということ自体がすでにある政治性を帯びたものとして読み込
むことが可能なのではないだろうか。
さらに、「パンパン」を取り締まる MP の存在が「彼女達」を守るのではなく、
「彼女達」から罰金を課してお金を奪っていくということについても小説内では
描かれており*56、二重にも三重にも抑圧されている存在であることがこの小説を
通して読み取ることが出来る。そしてその全てにおけるそもそもの原因が「戦争」
によるものであるということが「戦争が残したものは未亡人と、貧困と」*57、「戦
争の為めに家もなくなり、息子もなくなつて、ほんとに憎らしい戦争を一体誰が
始めたんですか」*58、「戦争が悪いんだわ」*59、「戦争はよつちゃんをこんな女
にしちゃつて」*60、「戦争つて本当に罪悪ね」*61という登場人物らの一連の発言
によって表現されている。
ここにおいて、これまで見てきた新川による「戦争―敗戦の傷痕」*62を描くこ
とのないという点からの批判、「恐らく戦争はこの大家たちの心に何程の爪痕も残
さず一種の災害として感じられたに過ぎないのではないだろうか」*63という佐々
木基一の言葉を引用しての批判は、新垣の作品において容易にあてはめてはなら
ないことがわかる。むしろ、新垣の連載小説「未亡人」にははっきりとした占領
期における問題が幾重にも描かれていて、1950 年代においても、また現在に続く
中においても、その問題を読み取らない読み手の問題が逆照射される形で露呈し
ているのではないだろうか。「戦争―敗戦の傷痕」を描くことのない、と言ったと
き、ここで見落とされている問題として「未亡人」を取り巻く問題があることは
これまでの論述からも明らかであろう。新垣の作品「未亡人」を考察する中で、
同時に見えてくるものとして、この作品で書かれているものを読み取らない読み
手の問題があるのである。鹿野政直の次のような指摘を再度引用する。
*56 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 15 日 連載 71 回目。作中で
は、「性病保持者は大方体刑処分を受ける、懲役初犯は二十日から三ヶ月以内、再犯
は一ヶ年以上、性病のないものは罰金刑で五百円から三千円まで」と記されている。
*57 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 1 日 連載 57 回目
*58 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 5 日 連載 61 回目
*59 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 9 日 連載 65 回目
*60 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 12 日 連載 68 回目
*61 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 14 日 連載 70 回目
*62 新川明「戦後沖縄文学批判ノート―新世代の希むもの―」p.30
*63 佐々木基一「戦後文学の諸相」p.289
57
戦後民主主義の論壇におけるにない手ともいうべき雑誌『世界』『中央公論』
『改造』は、はなやかな民主化論議の反面で、まともに女性問題を追及しな
かったとの印象を与えるのだが、ましてや未亡人問題にはかすりもしなかっ
た。一九八二年刊行の女性史総合研究会編『日本女性史』全5巻(東京大学
出版会)中、近現代を扱った二冊にも、この問題はすっぽり落ちている。未
亡人問題を伝えたのは、おもに一般紙や婦人雑誌や、ことに敗戦とともに叢
生した地域女性紙であった。*64
このような「未亡人」の抱える問題に対して深く取り扱わないという状況は、
1950 年代においても、そして現在の沖縄における研究状況の中でも、問題化され
ずに忘却された問題としてあるのではないだろうか。だからこそ今、新垣の「未
亡人」という作品を読み直していく必要性があるといえる。「未亡人」の抱える問
題を鑑みない状況の中で新垣が向き合い、言語化された「未亡人」という作品を通
して、そこからどのような呼びかけを聞き取ることができるのだろうか。このこ
とについては次節を通して考えていきたい。
2.書くことの行為遂行性
2-1.問い続ける「未亡人」
本節でははじめに、新垣自身が当時おかれていた状況を確認するとともに、ど
のような時代状況や文脈で「未亡人」という問題が問われているのかという点を
整理することから始める。
小説「未亡人」では、連載してまもなくの 14 回目に次のような戦時中におけ
るシーンが挿入されている。
応接間では、仲田氏と島雅春の話しがはじまつて居る。内容は沖縄人が、
特高□係のことで、□□□に留置されてゐる、その人はあけぼの新聞を編集
してゐる山田と云ふ人で、何でもその新聞に新田みどりと云ふ沖縄県人が、
未亡人と題した随筆の中に、東京駅で遺骨出迎へをみて、あの未亡人達は戦
争さへなければと思つてるにちがいない。戦争未亡人は、社会の冷たい眼の
中で苦しんでゐる、未亡人にも許される範囲内で享楽はしていゝだろう。未
亡人も女であり人間であると云ふ筊であつたが、戦争さへなければと云ふの
は、戦争否定になるし、又未亡人の享楽と云ふのは、不埒であると云ふこの
*64 鹿野政直「戦争未亡人」pp.28-29
58
二つの為めに、出版法違反に問はれ、今調べられてゐる。*65
この描写からは、1939 年において発表された一つのエッセイが想起される。以
下がその文である。
今度の事変で未亡人になった人が数へ切れない程居る。それが大抵若い人
で子供のある人が多い。ニュース映画でよく見るが、東京駅に黒紋付を着た
婦人がずらりとならんで、遺骨を迎へる所を見ると、自と涙が止め度もなく
流れて来る。若い女が子供の手を引いて立ってゐるのには、よけい胸をひし
ひしと打たれる。*66
という書き出しで新垣美登子によって書かれたこの「未亡人」というエッセイは、
1939 年 7 月 1 日、大阪沖縄県人会の機関紙である『大阪球陽新報』に掲載され
た。このエッセイは、「自分がいくつの時には未亡人になるべく運命がもうきまっ
てゐたのだと思ったり、戦争さへなければと恨んだり、平和の礎となったのだと
諦めたり、さぞいろいろと自分をもてあつかい慰めかねてゐることだろう」*67と
いう文章が記されている。また、作者自身について「私は戦死した夫の妻ではな
いが、それでも未亡人と何の変るところもない生活をして来て、もう十二年にも
なった」*68と書いた上で、「女手独り」で生活してきた体験を通して以下の文章
を記す。
子供の問題は一番親を悩ませるものだが、しかしそれとともにわたしは自
分自身をいとほしむ気持も強い。又とない一生だ。世の女の享楽出来る限り
は、自分も人生を楽しみたい。恋愛が実を結んで結婚をし、そして子供も出
来たのであるが、その夫に限りなき幻滅を感じてからは、一刀両断のもとに
いろいろの感情を清算したわたしだった。
だが、恋愛そのものまで否定する気にはなれなかった。その気持はいつも
わたしの気分を若々しくさせてくれたし、わたしに生甲斐を感じさせた。勿
論すべてを忘れて思案の外にひた走る気持にはなれなかったが、それでも人
を愛するといふことは、何といふ素晴らしい生命の泉だらうと思った。(略)
愛されることもたのしい。しかしそれ以上に愛することは感激を新たにし、
溌剌とした気分にする。わたしは絶えず誰かを愛せずには居られない。そし
*65 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 1 月 17 日 連載 14 回目
*66 新垣美登子「未亡人」三木健編『新垣美登子作品集』ニライ社 1988 p.49
*67 新垣美登子「未亡人」p.49
*68 新垣美登子「未亡人」p.49
59
て一人で心の中まで楽しむのである。これは決して他人に迷惑をかけない。
愛する人に打開けなくてもいゝ。知って貰へればなほ結構だが、知らなくて
もその人と友人関係ならば、それは同性の友達よりはたのしい。(略)
わたしはどっさりたのしみがある。独身だからといって寂しがることはな
い。そして又世間の毀誉褒貶なんか問題にしない強さも持ってゐるから、決
してわたしは世の未亡人のやうに、消極的に暮しはしない。わたしは自分で
自分を慰める術をよく知ってゐる。*69
このエッセイが掲載された同紙は治安当局の検閲を受け、このエッセイがもと
で発禁処分となる。大阪球陽新報社は「新垣美登子氏の執筆に係る未亡人中其筊
の忌避に触れ、新聞を没収されたため、沖縄県内及び海外購読者の一部に発送洩
れの処がありますから不悪御諒承願ひます」との「お詫び」を出したという*70。
この「未亡人」が発禁処分になった理由について、三木健は、「戦争さへなけ
ればと恨んだり」という文に見られる戦争否定の語や「戦争未亡人」に恋愛を勧
めたりしたためである、と指摘している*71。また、「今からみれば、これしきの
ことで、と思うかもしれないが、この年に「国民徴用令」がしかれ、ノモンハン
事件が起きるなど、世はまさに軍国主義一色の時代である。「未亡人」の中で書か
れたことが「非国民」として当局からマークされたとしても不思議ではない」*72
と述べている。
では、エッセイ「未亡人」が発表された 1930 年代末における「戦争未亡人」
を取り巻く状況とはどのようなものであったのだろうか。川口恵美子は『戦争未
亡人―被害と加害のはざまで』(ドメス出版、2003)で、1930 年代における「戦
争未亡人」の再婚や性に関する言説の変遷をたどり、以下のように述べる。
未亡人の再婚は、召集軍人未亡人の増加が顕著になった三〇年代末から奨
励の声は静まり、しだいに菊池寛のような理由(「良人が国家のために犠牲に
なられたのですから、自分も犠牲になつて、立派に遺児を育ててゆくべきだ」
(『主婦の友』1939 年 10 月)との理由―註・引用者)から否定論が声高にな
り、やがては再婚という文字さえもが誌上から消されていた。三〇年代初頭
に性という医学的見地から立証された未亡人の再婚推奨論は、出征兵士の士
気に関わる問題という国策によって一転し、一度は開きかけた未亡人の性の
問題は充分に開花しないうちに、戦争という嵐によって再び封じ込められて
*69 新垣美登子「未亡人」pp.51-52
*70 三木健「天衣無縫の裏表」三木健編『新垣美登子作品集』ニライ社 1988 p.206
*71 三木健「天衣無縫の裏表」p.206
*72 三木健「天衣無縫の裏表」p.206
60
いた。戦争が長引くにつれて未亡人の再婚は否定論が声高になり、性につい
ても黙秘されて、若い未亡人の性は問題視しないという解決策が採られてい
た。夫の命の代償である扶助料は経済的困窮から未亡人の身を護っていたが、
その見返りとして、再婚の禁止による性の封じ込めを、新しい倫理として軍
人未亡人に課していた。*73
ここでは 1930 年代初頭において推奨されていた「戦争未亡人」の再婚が、1930
年代末には国策に関わる問題として否定されていく状況であったことが示されて
いる。新垣のエッセイ「未亡人」が掲載された 1939 年という時代は、『婦女新聞』
や『主婦之友』といった婦人雑誌を通して「戦争未亡人」の再婚を否定する論調
が蔓延していった時期であった*74。このような社会状況の中で書かれたことを踏
まえて先の新垣の文章を読むと、そこでの新垣の主張は恋愛を勧めるものではあ
っても「未亡人」に再婚を勧めるものではないという点に目が向けられる。文中
に「再婚」という文字は現れず、むしろ婚姻にとらわれない(再婚を目的としな
い)一つの「享楽」としての恋愛の勧めであることが読み取れる。
しかし、この主張は、再婚問題と同じく戦場の兵士の士気に関わるとして「戦
争未亡人」の「風紀問題」が取りざたされ、さらに「未亡人」自らが「風紀粛正」
を訴えるよう促されたり、「未亡人」の行動に対する周囲からの監視が過剰に行わ
れていく*75中での主張であり、それだけに当局の懸念していた問題に抵触するよ
うな発言であったということが発禁処分になるという出来事でもって明瞭に示さ
れている。このように 1939 年に発表されたエッセイの「未亡人」は、一つの「享
楽」として提示された生き方が、国策によって「未亡人」の性が抑圧され狭めれ
ているという状況を露呈させた点でも当時における意味を含んだものであったと
思われる。
このエッセイが書かれ発禁処分となった後にも、新垣は「未亡人」について触
れた作品をたびたび書いている。1951 年 7 月に『月刊タイムス』に戦時中の「未
亡人」の貞操について取り上げた短編小説「山猫と未亡人」を発表し、その後さ
らに「未亡人」というテーマを中心に扱って発表されたのが、これまで論じてき
*73 川口恵美子『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』p.76
*74 そのような時期の中で、例外的に特筆するものとして、吉屋信子が『主婦の友』
に六人の「未亡人」を主人公とし、軍人未亡人の再婚を推奨する記述も含めた連載小
説「未亡人」(1939 年 7 月~1940 年 12 月)を発表している。川口恵美子は「軍人未
亡人の再婚をめぐる社会的反応は読みとれないが、発行部数の多い女性雑誌に掲載さ
れた人気作家の「未亡人」は多くの未亡人読者の心をとらえ、登場人物の心情は「他
人ごととは思へぬ」という「感激の反響」を呼び、物語の行く末に未亡人読者は我が
身の「道標べ」を捜し求めていた」と指摘している。
*75 川口恵美子『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』pp.77-82
61
た 1952 年『沖縄タイムス』に連載された小説「未亡人」である。これらの事実
から、新垣が「未亡人」というテーマにこだわって書き続けてきたことがわかる。
また、本項始めの引用*76に見られるように、1952 年の小説「未亡人」は 1939
年のエッセイ「未亡人」と連動する形で書かれているように読めるという点が指
摘できる。しかし、1939 年に書くということと 1950 年代に書くということでは
社会状況も新垣自身の立ち位置も異なってくるはずである。そのような時間、状
況の変化や経過の中で何度も「未亡人」について書くということは、どのような
変化を生み出しているのだろうか。まずはその点を明らかにするために新垣自身
の置かれた状況について言及していく。
新垣は 1944 年に島根県鹿足郡の日原町へ疎開し、そこで終戦を迎える。疎開
先では、美粧院を開業し生計を立てていたが、1945 年 3 月 18 日に長男の伸がフ
ィリピンで戦死したとの報を受けた後、1946 年 4 月 4 日に二男の敞三が蒸発、
行方不明となり、2 人の息子を失う*77。
長男は開南中学を卒業して軍隊に行き、二十年三月十八日にフィリピンで
戦死した。
二男は中学三年のとき疎開したので島根県の津和野中学校に入り、そこか
ら学徒動員の形で広島に行ったが終戦になって島根に帰ってきた。あの時分
の若者に共通したものだと思うが、戦争に負けたのが相当ショックだったよ
うだ。私は息子を慰めるつもりで旧制高校に受験するようにすすめた。積宝
に似て頭はよかった。しかし高校受験の発表があるという前の日の二十一年
四月四日、蒸発してしまった。手を尽くして調べてみたが、ついにわからな
かった。私の妹たちには「こんな世の中に生きていてもつまらない」といっ
ていたそうだ。自殺したとしか考えられない。いま生きていたら五十二歳に
なる。*78
後年新垣は疎開先での記憶についてこのように回想している。新垣は戦争の被
害によって息子の死に直面し、母や妹と暮らしていた日原町を去ることを決意し、
1947 年に単身帰郷する。この時期の執筆活動について新垣は、「疎開中は作家活
動から遠ざかっていた。疎開先での苦労、二人の息子を失った悲しみが、私にそ
*76 註 65 参照。新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 1 月 17 日 連載 14
回目
*77 新垣美登子「私の戦後史」沖縄タイムス社編『私の戦後史 第一巻』沖縄タイム
ス社 1980 p.141 『哀愁の旅』(新垣美登子 松本タイプ出版部 1983 p.289)では、
二男の蒸発は 1947 年 4 月 4 日と記載されている。
*78 新垣美登子「私の戦後史」p.141
62
の気を起こさせなかった」と述べている*79。
「私は戦死した夫の妻ではないが、それでも未亡人となんの変るところもない
生活をして来て、もう十二年にもなった」*80とあるように、1939 年の新垣は、
夫と離婚し、二人の息子を一人で育てるという立ち位置から「未亡人」というエ
ッセイを書いていたのだが、「山猫と未亡人」を発表した 1951 年の新垣は、さら
に戦争によって今まで育ててきた二人の息子を失うという状況に遭い、二人の息
子の死が、以後の新垣にとって暗い影を落としていたということがいたるところ
で述べられている*81。
このように 1939年における新垣自身の状況と 1950年代における状況とではい
くつかの異なる面が見られるが、それでもエッセイ「未亡人」、短編小説「山猫と
未亡人」、連載小説「未亡人」で繰り返し問い続けてきたのが「未亡人」という存
在であった。それはまた、新垣自身の状況が異なるだけでなく、敗戦後の沖縄に
は先述したように六万五千人の「戦争未亡人」がいた*82といわれる状況の変化の
中で示されたテーマといえる。
ここで何故、小説「未亡人」について論じる際に、1952 年に連載された作品内
から指摘するのではなく 1939 年のことから論じているのかという点について若
干の説明を加える。それは、単に新垣自身において 1939 年の時点から問い続け
てきた問題であるということを示したいわけではない。戦後の「未亡人」の置か
れた状況が戦中からどのように変化しているのかという点を見ることが出来ると
いうこと、またその中で「未亡人」という言葉に付与されてきた意味や中傷性が
どのように維持されつつ、変化してきたのかという点を含めて検討することが出
来るのではないだろうかと考えるためである。ゆえに、次項では「未亡人」を取
り巻く社会状況がどのように変化してきたのかという点に留意しながら小説「未
亡人」について論じていく。
2-2.再婚否定論から再婚推奨論への過程の中で
先に示したように、1939 年に発表されたエッセイ「未亡人」は、当時の国策の
中で再婚否定論が蔓延し、同時に「未亡人」の風紀問題が取りざたされている中
で発表された文章であり、あえて「世間の毀誉褒貶」に囚われて身を殺さないよ
うに生きることを主張したものであった。また、一つの「享楽」としての恋愛の
勧めを提示していたということにも注目できるエッセイである。そしてこのエッ
セイに書かれたことと関連しているように読み込み可能な形で、1952 年に連載さ
*79 新垣美登子「私の戦後史」p.151
*80 新垣美登子「未亡人」三木健編『新垣美登子作品集』ニライ社 1988 p.49
*81 新垣美登子「私の戦後史」p.151、吉武輝子「ある沖縄女流作家の開眼」p.248
*82 「数字は語る 戦争未亡人六万五千人」『沖縄タイムス』1952 年 12 月 2 日
63
れた小説「未亡人」でも類似した記述がなされているということを前節では指摘
した。その点について改めて着目するためにもう一度その場面を引用する。
応接間では、仲田氏と島雅春の話しがはじまつて居る。内容は沖縄人が、
特高□係のことで、□□□に留置されてゐる、その人はあけぼの新聞を編集
してゐる山田と云ふ人で、何でもその新聞に新田みどりと云ふ沖縄県人が、
未亡人と題した随筆の中に、東京駅で遺骨出迎へをみて、あの未亡人達は戦
争さへなければと思つてるにちがいない。戦争未亡人は、社会の冷たい眼の
中で苦しんでゐる、未亡人にも許される範囲内で享楽はしていゝだろう。未
亡人も女であり人間であると云ふ筊であつたが、戦争さへなければと云ふの
は、戦争否定になるし、又未亡人の享楽と云ふのは、不埒であると云ふこの
二つの為めに、出版法違反に問はれ、今調べられてゐる*83
ここで前もって注意しておきたいのは、この場面に登場する人物「新田みどり」
が書いた「未亡人と題した随筆」の内容が、新垣の 1939 年のエッセイ「未亡人」
と連なることを理由に、その人物が作者新垣を表現したものである、などという
ような主張を行おうとしているのではないということである。そうではなくてこ
こで着目すべき点は、この場面が 1939 年という時代に書かれたエッセイ「未亡
人」が発禁処分になるという出来事自体を参照しているということ、その出来事
を 1950 年代という時代状況や文脈などの枠組みの中で連載することによってど
のように意味を再変換していっているのかという点である。1939 年においてすで
に提示されていた問題が 1950 年代という時代に改めて提示された時、1939 年に
問題が語られたコンテクストから、どのように関連して 1950 年代における問題
へと繋がり、意味の転換が起こっていったのだろうか。
1939 年という時期には「未亡人」は、戦場の兵士の士気に関わるとして再婚す
ることを否定され、「未亡人」自らが「風紀粛正」を訴えるよう促されたり、「未
亡人」の行動に対する周囲からの監視が過剰に行われていくという状況があった
*84。
国家のその種の猜疑心は、第二次大戦中にはいっそう深まり、憲兵や警官
は、出征兵士の妻や戦争未亡人の動向に眼を光らせ、その補助的役割を国防
婦人会に分担させもした。寡婦の再婚への社会心理上の障壁は、戦後も持続
しており、まして子供をもつ未亡人の再婚はむずかしく、そこに林芙美子が
*83 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 1 月 17 日 連載 14 回目
*84 川口恵美子『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』pp.77-82
64
「うず潮」(一九四七年に『毎日新聞』連載)を著して、この問題をとりあげ
なければならなかった理由もあった。*85
このように、敗戦後も「再婚」に対する社会の眼は厳しい状況が続いていた。
しかし一方でこれまで見てきたように、占領下には「未亡人」に対する扶助料の
支給の停止が行われ、生活出来ない状況の中での「やむをえざる結果としての再
婚も尐なく」ない状況へと変わっていく*86。このことについて鹿野は、「自立不
可能なため無念さをおし殺して、あらためてべつの男性の拘束下に入らざるをえ
ない実情が、そこには反映していた」と指摘している*87。「国家にとっては、彼
女たちが再婚しさえすれば、未亡人問題は立ちどころに消滅するのだった」*88と
いうように、政府が補償を行わない形での解決策として、「当時の日本政府が最も
効率のよい未亡人問題の解決策として」*89、再婚を一般に広く奨励する方向へと
時代状況は移行していた。
このように「日本本土」では、戦時中の再婚否定論から敗戦後の再婚推奨論へ
と変化していく中で、1950 年代の沖縄では「未亡人」の再婚についてどのような
言説が広まっていたのだろうか。
先に取り上げた「未亡人を凝視する」という題の座談会における記述では、再
婚について「子供さえ責任をもてば再婚することは悪くないと思う」、「もう再婚
を罪悪視する見方は殆どなくなりましたよ。再婚はいゝことですね」という意見
が見られる*90。また、「全体として見た場合再婚は問題解決の一つの鍵ではあつ
ても全部ではない」という意見も出ている*91。これらの発言から読み取れるのは、
1950 年代当時の沖縄における状況もまた、以前には「再婚を罪悪視する見方」が
中心であったが「再婚はいゝこと」であるとして積極的に肯定しようとする流れ
があるということ、しかし決して「再婚しさえすれば、未亡人問題は立ちどころ
に消滅する」というようなものではない状況であると理解されていることがわか
る。また、一方では周囲から再婚を勧める声が持ち上がり、親族からのすすめや
世間の言説に押し潰される形で再婚していくケースもあったといわれており、「や
むをえざる結果としての再婚」が当時の沖縄においても広く行われていたことが
窺える。
また、澤岻悦子は「経済的な負担だけでなく、「未亡人」という言葉が示すよ
*85 鹿野政直「戦争未亡人」p.32
*86 鹿野政直「戦争未亡人」p.32
*87 鹿野政直「戦争未亡人」p.33
*88 鹿野政直「戦争未亡人」p.33
*89 羽矢みずき「林芙美子「うず潮」論―隠蔽された〈戦争未亡人〉―」p.9
*90 「特集 未亡人を凝視する」pp.13-14
*91 「特集 未亡人を凝視する」p.14
65
うに、戦争で夫をなくした女性に対し、社会は何かと監視の目を向ける傾向があ
った」*92ことを指摘している。この当時新聞記者であった伊波圭子は「妹の娘を
おんぶして出勤した」際、「「あの人は子供が出来ている。誰と出来たんだろう」
と田舎でうわさになってしまった。私は平気だったが、未亡人って大変だなと思
った。尐ない収入で子供二人を育てるため苦労しているのに、あらぬうわさをた
てられる」と述べている*93。
小説「未亡人」においてもそのような状況は至る所で提示されている。
未亡人になったことが近所隣りに知れ渡ると、外人のジープが来るのは忽
ち噂をまく種であった*94
那覇の人は同なマ マ
じ那覇人のことは何でも直ぐ噂にのせる、由起子の家に、
ドライバーの宇根が来て時々荷物を置き、それを又姑がうりさばきに歩くの
で、夫が死なない前から、宇根とはあやしいと噂されてゐた。*95
何もかも面白くない、不快なことばかりだ、友達を慰めに行けばぱんぱん
と間違へられるし、夜大田署長にジープで送られてゆけば隣近所では「又男
がかはつてゐる」と噂さをするし、どうして未亡人は世間からいぢめられな
ければならないのか*96
ここで描かれているのは、戦時下のみならず戦後もなお続く「未亡人」の性・
生き方を監視する「社会の冷たい眼」である。いわば、再婚が推奨され始める一
方で「貞節」を守る「未亡人」という戦前から続く「未亡人」に求められた社会
的規範が、戦後も続いている状況であることがわかる。小説内におけるこれらの
記述には再婚を良しとする状況へと変わりつつある中で、再婚という形以外で女
性が自由に恋愛し、生きようとすることに対する強い拒否感が見られることも関
連している*97。戦時中に行われた再婚の禁止による「未亡人」の「性の封じ込め」
*92 澤岻悦子「「戦争未亡人」・孤児」『なは・女のあしあと 那覇女性史(戦後編)』
琉球新報社事業局出版部 2001
*93 伊波圭子『ひたすらに―女性・母子福祉の道』ニライ社 1995 pp.54-55
*94 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 20 日 連載 48 回目
*95 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 20 日 連載 48 回目
*96 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 17 日 連載 73 回目
*97 「未亡人を凝視する」(『月刊タイムス』第 28 号 1951 年 5 月)では、「結婚に
よる男女の結合だけが正しく、それ以外の場合は全部罪悪視するのは偏狭過ぎはしま
いか」(p.13)と当時の状況に対する問い立てを行っている。
66
*98が、戦後に再婚推奨へと言説が転化する中でもさらに継続し続けていることが
窺える。
「未亡人」という言葉に付与された意味や中傷性とは、その生/性が夫に殉じ
るものであることに起因している。「女の身体と生死の決定権」*99が「未亡人」
からは常に容易に奪い取られていく状況であったといえるのではないだろうか。
そしてこれらの問題こそが、新垣が 1939 年にエッセイ「未亡人」を発表し、1950
年代に再び「未亡人」というテーマで新聞小説の連載に取り組む中で常に継続し
て問わずにはいられなかったもの、「未亡人」に対する社会状況に向き合い、書き
続ける中で一つの軸として問われ続けてきたものとして読み取ることが出来るの
ではないだろうか。
2-3.「未亡人」という言葉の「流用」/濫喩としての「未亡人」
「未亡人」という語の持つ意味について、『大言海』(大槻文彦・大槻清彦編、
富山房、一九八二)では次のように定義されている。
〔夫ト共ニ死スルベキニ、未ダ死ナズシテアル意〕又、みばうじん。夫死
シテ後ニ遺レル妻。ヤモメ。後室。後家。元来、自称ナルベシ。今、誤リテ、
多クハ、他ヨリ敬称ノ如クニ用ヰラル。*100
鹿野政直はこのことについてさらに次のように説明している。
もともと寡婦の謙称つまり自称であったこの語が、他称として定着しかも
普及してゆくには、どんな経緯があったものか。そこにはたぶん、日本産で
ごく庶民的に使われるようになっていた「後家」から、語感として一段高い
ところにまつりあげるとともに、その“素行”にたいする規制力あるいは看
視を強めようとする社会意識がはたらいていた。そうしてその語は、日露戦
争時には、たとえば「陸軍尐佐の未亡人」といったかたちでほぼ完全に定着
する。
*98 先に引用したように川口恵美子は、「戦争が長引くにつれて未亡人の再婚は否定
論が声高になり、性についても黙秘されて、若い未亡人の性は問題視しないという解
決策が採られていた。夫の命の代償である扶助料は経済的困窮から未亡人の身を護っ
ていたが、その見返りとして、再婚の禁止による性の封じ込めを、新しい倫理として
軍人未亡人に課していた」(『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』ドメス出版 2003
p.76)と指摘している。
*99 阿部小涼「「集団自決」をめぐる証言の領域と行為遂行」新城郁夫編『沖縄・問
いを立てる3 攪乱する島―ジェンダー的視点』社会評論社 2008 p.47
*100 大槻文彦・大槻清彦『新編 大言海』富山房 1982 p.1737
67
本来ならば夫に殉ずべきものをとのイメージをただよわせるこの語は、夫
に死別した妻たちの生をますます閉ざされたものへと追いこむ。*101
この鹿野の指摘が示すように、「未亡人」という語は時代の中で謙称から他称
へと変わる中で、「本来ならば夫に殉ずべきものを」という、他者からの誹謗を深
く内在化させた言葉として使われるようになったということがわかる。そしてこ
れまで見てきたように、新垣の小説「未亡人」が書かれた当時においてもまた、
「未亡人」の生/性が夫に殉じるものであるという意味が刻まれた言葉であるこ
とが窺える。
また、羽矢みずきは、1947 年に『毎日新聞』に発表された林芙美子の「うず潮」
で描かれる「未亡人」を考察する中で、連載当時「戦時中に抑圧されていた性愛
の表現をふんだんに盛り込んだカストリ雑誌」によって「戦争未亡人は、男性達
の性的好奇心を煽る対象として、これらの雑誌の目玉商品にされた」ことを取り
上げる*102。そこには、「旺盛な性欲を内に秘めた存在」として「未亡人を未婚の
女性や家庭の主婦とは異なる領域に囲いこむ意識が働いて」おり、「娼婦性を有す
る存在」として「未亡人」を位置づける状況が描かれていることを指摘している
*103。これによって「性に放埓な未亡人」*104という新たな侮蔑的意味づけがなさ
れていることが明らかとなっている。このような状況は、「本来ならば夫に殉ずべ
きものを」という強い社会通念が元にある社会的状況の中で、「未亡人」の性への
監視が働くことによってさらなる誹謗へと繋がっているといえる。鹿野は先の論
文の中で 1950 年に全国未亡人団体協議会の結成による決議文を取り上げて「い
かに彼女たちが世間から好奇と侮辱の矢にさいなまれていたか」ということが窺
えることを指摘していた*105。
このように「未亡人」という言葉が、ある時代の中で様々な意味を付与されつ
つ、侮蔑を帯びた語として存在し続けてきたことは明らかである。ジュディス・
バトラーは、『触発する言葉』で中傷的な名称について以下のような指摘を述べる。
中傷的な名称には、明らかに歴史がある。はっきりと述べられていなくて
も、発話の瞬間に想起され、再強化される歴史がある。その歴史とは、名称
の用法や文脈や目的を列挙するような単純な歴史ではない。それは、そのよ
うな複数の歴史が、名称のなかで、名称によって、設定され、また阻まれる
*101 鹿野政直「戦争未亡人」p.28
*102 羽矢みずき「林芙美子「うず潮」論―隠蔽された〈戦争未亡人〉―」p.5
*103 羽矢みずき「林芙美子「うず潮」論―隠蔽された〈戦争未亡人〉―」p.6
*104 羽矢みずき「林芙美子「うず潮」論―隠蔽された〈戦争未亡人〉―」p.6
*105 鹿野政直「戦争未亡人」p.33
68
軌跡である。したがって名称には、歴史性、、、
がある。歴史性とは、ある名称に
内在するようになり、そして名称の現在の意味を構成するようになった歴史
だと理解してもよいだろう。その名称にまつわるさまざまな使用が沈殿して、
それがまさに名称の一部となっている。沈殿とは、凝縮し、その名称に力を
与える反復なのである。*106
バトラーは中傷的な名称には歴史性があると述べる。しかしまた、必ずしも歴
史的文脈に拘束され続けるわけではないことも指摘している。
行為遂行性を、明確な起源や帰結をもたず、そのつど新しく再生するものと
考えることによって、発話が、特定の発話者やそれを生み出した最初の文脈
に縛られることはなくなるだろう。そのような発話は、社会的文脈によって、
定義されるだけでなく、文脈を断ち切る能力も備えている。したがって行為
遂行性には、それがまさに絶ち切っていく文脈によって依然として行為を遂
行することが可能になるような、固有の社会的時間性がある。(中略)
発話行為の力を、その中傷の力に対抗するように再稼動させる政治的可能
性があるとすれば、それは、発話の力をそれ以前の文脈から別の方向へと流
用することである。*107
ここからバトラーは中傷的な名称を使用しないのではなく、その言葉を反復し、
「流用」することによってそれが帯びていた固有の文脈を断ち切り、新しい文脈
を得ることが可能であるということを示す。先の鹿野の論文では、茨城県未亡人
連盟を結成した鯉淵鉱子に注目し「未亡人運動」の足跡を辿る中で、そのような
運動を行った人々の間で運動を通して「そこに芽生えた自立する女性としての意
識は、しばしば、「未亡人」という名称へのこだわりとなった」との指摘がなされ
ている*108。中傷語である「未亡人」という言葉が中傷される「未亡人」ら自身
によって「名称へのこだわり」というかたちで、新たな意味を吹き込む契機とし
て獲得されていったことが窺える。このような「未亡人」たちの行動はバトラー
の述べる「言葉から誹謗性を奪い、誹謗性から肯定性を引き出し、これまで罵る
ために使われてきた言葉を流用するときの、その行為遂行的な力」*109が発生し
ているといえるだろう。では、そのような再文脈化が「日本本土」において「未
亡人」という言葉を巡って起きている一方で、沖縄において「未亡人」という題
*106 ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『触発する言葉』岩波書店 2004 pp.56-57
*107 ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『触発する言葉』 p.63
*108 鹿野政直「戦争未亡人」p.35
*109 ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『触発する言葉』p.244
69
やテーマで新聞に連載する新垣の小説を通してどのようなことが見えてくるだろ
うか。
1952 年に 3 ヶ月にわたって『沖縄タイムス』に掲載された「未亡人」は、「二
人の未亡人と一人の人妻との生活」を描いていくことを始めに宣言して書かれた
作品である*110。2 人の「未亡人」のうちの一方は、「芙紗子」という人物であり、
夫が戦死したとの報を受け別の人物と再婚した後に、元夫が帰還してくるが現夫
との生活を選ぶという境遇が描かれる。また、他方は「由起子」という人物であ
り、夫が「戦犯者」とされ死刑となり、帰還してきた「芙紗子」の元夫である「俊
夫」と最終的に再婚することを約束するところが連載の結末となる。ここでは一
見したところ、最終的に再婚の道を選択する「未亡人」の姿が描かれているよう
にも読み取れる。「未亡人」の再婚物語であるかのように見えるこの小説はしかし、
一方で「未亡人」に関する様々な言説を生み出していることが注目される。
たとえば作品中において「由起子」は、戦後沖縄に帰郷し、軍作業に出てメイ
ドの仕事に就く中で「宇根道雄」や「ジョンス」からの求愛を受ける。それらの
求愛に対して、「由起子」は応じることなく、次の言葉を発する。
宇根の愛情はむしろ厭はしかつた、ジョンスの求愛もうるさかった。*111
また、「ジョンス」の求愛から逃れるために職を辞め、タイピストとして働く
中で、今度は「由起子」を求める存在として彼女の勤める会社の社長である「松
本祐吉」が登場する。「松本」は「由起子」を「自分のものに」したいと考え、「由
起子」の「家」が壊れるとすぐに建て直したり、ジープで家まで送ったり、「月給
も他の社員よりよけいに上げ」たりする。その状況に対し、「由起子」の姑(「由
起子」は亡くなった夫の母と暮らしている)から次のような言葉を受ける。
「由起子、お前社長さんのこと、おろそかにするんぢやないよ」
と云ふ姑の言葉は、如何にも由起子が、色香で以て社長をつゝてゐるらしい
口振なのだ
「あんなきれいな人だから土建屋の社長さんをもう手に入れてゐるのさ」
と近所の人は噂さをしてゐるらしいことを由起子は耳にしたが、姑の考へも
大方それらしいのが、由起子には一緒に居る姑からもまだ信じられてゐない
のが情ない*112
*110 「小説新連載 1 月 1 日より 未亡人」『沖縄タイムス』1951 年 12 月 27 日
*111 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 20 日 連載 48 回目
*112 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 5 日 連載 61 回目
70
由起子は姑の心理に男の気げんをとつて金もうけをせよと云ふさもしさのか
くれてゐるのを悲しく思つた。一にも二にも金、金と云つてゐる姑。
金さへ手にはいることなら息子の嫁でも不貞なことをさせてもいゝと思つ
てゐるのか知ら、姑は又田舎の人だから、こんなことは何も悪いとは思つて
ゐないんだろうか。*113
「松本」自身もまた、「女は可愛がつて金に不自由させなければ、意のまゝに
なる」といった考えを持つ人物として描かれている。そのような中で「由起子」
は「松本」の「誘惑」に対して応じることなく、やがて「一生がいの仕事」を身
につけたいと考え一人で生きていく道を目指して動き出す。ここでは、「男性言説」
に見られる庇護される存在としての「未亡人」像を打ち破る姿が作品を通して表
出しているのではないだろうか。先に見たように、当時の「未亡人」に関する言
説は、生活できない「未亡人」は再婚せよ、といった言葉でもって語られていた
*114。
自立不可能なため無念さをおし殺して、あらためてべつの男性の拘束下に入
らざるをえない実情が、そこには反映していた*115
という鹿野政直の指摘がここでは想起される。このような状況に対し、屈しよう
としない「由起子」の姿が、作品を連載していく中で描かれ続けていた。「未亡人」
と題する作品で、新垣の描く「未亡人」の主人公「由起子」が、「宇根」や「ジョ
ンス」、「松本」の「求愛」を断り続けることが意味する重要な点がここにあるの
ではないだろうか。ここでは、「金」によって「未亡人」の生き方が拘束されるこ
とへの拒否として、従属しない「未亡人」の身体が描かれているのではないだろ
うか。「ジョンス」や「松本」ら「男達」の要求に応えないことは、すなわち職を
辞することへと繋がる状況であるということも作中では示されている。そのよう
な 1950 年代当時において社会的規範に抑圧され、拘束されていた「未亡人」の
生き方を描く際に、あえてその文脈とは違う選択を新垣は描き込んでいたのでは
ないだろうか。ここでは「男達」による「金」を用いた管理から逃れ、自分の生
き方を規定せずに、自分の「一生がいの仕事」を見つけることによって、「未亡人」
が生きることが可能であるという一つの指針が作品中で提示されていることが窺
える。それはまた、政府からの扶助を求めるのではなく、自活の道を見出すこと
によって、「“素行”にたいする規制力あるいは看視を強めようとする社会意識」
*113 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 8 日 連載 64 回目
*114 鹿野政直「戦争未亡人」p.33
*115 鹿野政直「戦争未亡人」p.33
71
*116といった主権的権力からの干渉から逃れることが出来るという側面も備えた
行為遂行であるといえる。
では次に、戦前から続く「未亡人」に対して作られた社会的規範が継続して「未
亡人」の身に降りかかっていたという状況に対しての、対抗言説としての「未亡
人」という作品について考察する。「貞節」を守る「未亡人」という言説に対抗す
る形での別の言説を、新垣は小説が進む中で作り出していっている。
連載の中盤にあたる 51 回目に、「由起子」は、「宇根」や「ジョンス」の「求
愛」を断る理由として、亡き夫に対する心情からであることを吐露している*117。
また連載 73 回目には同様に、
「えゝわたし結婚なんて考へたことありませんわ死んだ人のこと考へると、
一生独身をつゞけたいと思ひますの」
と述べている。しかし、そのような考えを持つ「由紀子」が連載 88 回目では一
変して「この頃の由起子は夫をしのび、子供を思ふことで、自分をいたはり慰め
て生きてゆく信条に段々疑ひを持ちつゝあつた一生独身をとほして二人の菩提を
とむろうマ マ
と云ふ気持が何だかぐらぐら□き出して来つゝあるのを感じてゐた」と
いう発言へと変わり、続けて 89 回目でも「男は人生の御馳走であると云ふ女も
居る、ほんとに何と云う素晴しい存在だろうと、時に思ふことがある思ひ出だけ
では、自分はもう生きられない」という発言が紙上で展開されている。このよう
に、回を追うごとに一人の人物の中での心情の変化が見られ、「貞節」を守る「未
亡人」の姿が内側から変化していく描き方が用いられている。また、子どもがい
て「まち小」としてお金を稼ぐ「貞子」という別の「未亡人」が子どもの家庭教
師である「久米島生れの青年」と恋愛をする姿も描かれており、また「芙紗子」
も「田中けい輔」と恋愛し、再婚していく姿が描かれている。ここで注目される
のは、「貞節」を守る「未亡人」とは違う形での「未亡人」の姿が複数描かれてお
り、これまでの「愛される客体」としての「未亡人」像に対する抗いとして、主
体的に「未亡人」自身が「愛すること」が重視されている点である。このように、
「未亡人」の欲望を多様に描く、ということがこの小説を通して行われているこ
とが窺える。
また一方で、小説内では「由起子」を取り巻く多くの人物が再婚を勧める場面
が挿入されている。
*116 鹿野政直「戦争未亡人」p.28
*117 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 24 日 連載 51 回目では、「自
分には雅春の愛以外には誰も愛を受け入れる気持はない」と言って断っている。
72
「由起子も一人ぢや淋しいだろう、ふさ子お前由起子の夫になる人も探して
あげたらどうかい」 *118
これは、「芙紗子」が「田中」との再婚が決まった際に「由起子」の姑の口か
ら出た発言である。さらに、連載 81 回目では、同窓会の中で「由起子」の友人
である「秀子」が次のように発言する。
「わたしね、毎朝の新聞をみる時、最初に目をとほすのは三面なのよ、そし
てすぐお葬式の広告をみるの」*119
「どうして?」
三人の目が不しぎそうに秀子にそゝがれた
「誰かの奥さんが死んで居はすまいかと思つて」
「まあ」
「お友達の未亡人を世話してあげられるような人ぢやないか知らつて、それ
をすぐ考へるのよ」(略)
「五十あまりの女の人で結婚した方もあるのよ、幸福にいつてるらしいわ、
茶のみ友達としてゆく気持で、なんて云ふけど、やつぱり女の独身も、年を
とつてからは却つて淋しい筈よ、だから、由起子さんも、よつちやんも、サ
ーコーも、結婚した方がいゝのよ」*120
またさらに、連載 85 回目では、「由起子」が「芙紗子」と「田中」夫婦の家に泊
まった際に、「由起子」は次のような会話を耳にする。
「おねえさんもいゝかげんに結婚するのがいゝなあ」
「そうだわ、何だか淋しそうで、こつちがみてゐてつらいわ」
「早くさがして上げなきあ」
「ねえ、あなた、考へてあげて」
「おねえさん、どう思つてるか」
「再婚はいやだとおつしゃるわ、でも周囲から押しつけてあげたら」(略)
「そうだろう、女が独身するなんて、けがのもとだよ」
わざと自分にきかせたい為めの話なんだろうか、由起子はつゝぬけに聞え
*118 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 26 日 連載 53 回目
*119 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 26 日 連載 81 回目
*120 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 27 日 連載 82 回目
73
る言葉にいよいよ目がさえて来る。*121
ここでは本人の意思とは別に周囲からの「押しつけ」でもある再婚の勧めがは
っきりと描かれている。これは先に見たように、当時の社会状況の中でも同様に
「未亡人」に対して起きていたことであり、その圧力によって拒否できない「や
むをえざるの結果」としての再婚を選び取っていく人々も同時にいた。そのよう
な社会状況の中で、「由起子」は周囲からの再婚を促す声に対して、
「結婚した方がいゝつてでせう、でもわたし東京へ行きたいの、もつと何か
一生がいの仕事を身につける勉強をしたいわ」*122
といった発言をしており、必ずしも再婚へと向かう姿が描かれてはいない。また
一方でこの作品では、先にみたように「貞子」という別の「未亡人」が恋愛をす
る姿や、「芙紗子」が「田中けい輔」との恋愛によって再婚する姿も描かれている。
ここから読み取ることが出来るのは、新垣の小説が再婚の否定や肯定に偏った作
品ではないという点である。むしろ作品内で重視されているのは、再婚をするに
せよ、しないにせよ、自身の意思によるものとしてそれが描かれているという点
である。そしてそれは、
その「うず潮」に描かれているように、あらたな愛情の発生によるあらたな
結びつきであれば、祝福を惜しまぬひとも多かろう。だが実際には、やむを
えざる結果としての再婚も尐なくなかった。*123
と鹿野が指摘していることを踏まえて考察すると、この小説で描かれている「未
亡人」の姿とは「あらたな愛情の発生によるあらたな結びつき」としての再婚は
描かれているものの、「やむをえざる結果としての再婚」を決して選び取らないこ
とが全編を通して描かれているといえる。「未亡人」連載の終盤において、「由起
子」は「石川」との再婚を考えるようになるが、その中で次のような言葉が挿入
されていることは注視してよいだろう。
おねえさまも、お位牌にしばられて暮すのは古いわ、勿体ないわ、これから
まだ長いんですもの、人生は、生甲ひのない生活はつまらないことよ*124
*121 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 3 月 30 日 連載 85 回目
*122 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 4 月 13 日 連載 98 回目
*123 鹿野政直「戦争未亡人」p.32
*124 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 4 月 13 日 連載 98 回目
74
「芙紗子」のこの発言が注目されると同時に、それに対して述べた「由起子」の
発言も注目される。
わたしその時に当つて最善をつくす気持、いつでも持つてるの、卑屈には
暮したくないわ、自分の意志通りに動きたいのよ、自分が主だと思つてるの、
わたし誘惑も今まで相当あつたけど、でもそれにはわたしの意志が動かなか
つたからなの、若しわたしが動いたら、わたし、突進してゆくわ、だからわ
たし自分の気持を大切にして、今まで暮して来たのよ、はたの人が何と云つ
ても 自分がいゝと信じたら、やつていくわ、それまで考へに考へぬくのは
勿論なのよ*125
これらの言葉から読み取れることは、何よりも「未亡人」の生き方に対して他
者からの押し付けではなく自分の意思を尊重するべきであるということ、それに
よって再婚の選択、拒否もまた自身の意思を通して行うことが可能なのだという
主張である。
小説「未亡人」の最終回は、「由起子」による「石川」との再婚の選択である
とともに、「ふさ子さんは位牌にしばられるなと云つた。人生はたのしく生きてこ
そ甲ひがあると云つて居る」と書き、あえて連載 98 回目と同じ発言を繰り返し
強調した回でもある。これまで述べてきたことから明らかなように、小説「未亡
人」は「未亡人」の生き方に対して多重の様態の言説を取り込んだものとして機
能しているのではないだろうか。そしてその言説を紙上に載せることを通して、
小説「未亡人」は遂行的に当時の「未亡人」に対して付与されてきた社会的規範
を打ち破る新たな「未亡人」像を生み出す効果をもたらしたといえるのではない
だろうか。この行為遂行性が読まれるためにバトラーの次の言葉を引用する。
逆説的なことに、「行為する」というその位置によって、言葉は、それが意図
している誹謗を例証し現実化する試みを、まさに空洞化していくのである。
言葉は行為なので、現象的なものである。それは一種の言語的表明であり、
誹謗の意味を克服することはないが、その意味を公的テクストとして再生産
し、この再生産によって、それを再生産可能で、再意味づけ可能な語として
表していく。公的な誤用というラディカルな行為をとおして、そういった言
葉を脱文脈化したり再文脈化する可能性こそ、言葉と危害のあいだの慣習的
関係が時の推移の中で希薄になり、さらには壊れていくという逆説的な希望
*125 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 4 月 13 日 連載 98 回目
75
に、根拠を与えるものである。*126
つまり、連載小説「未亡人」というテクストは、新聞という公的な空間で「未
亡人」という言葉の再意味づけを行っているといえるのではないだろうか。
再婚を選ぶ「未亡人」を描き、またそれを選び取ろうとしない「未亡人」を描
くということや、またそもそも再婚のみに規定されず自らの欲望を肯定して語る
「未亡人」、愛される客体ではなく愛する主体であろうとするということ、一生涯
の仕事を見つけ自分の力で生きていくことを考える「未亡人」など、そこには濫
喩*127としての「未亡人」が現れているといえるのではないだろうか。そしてこ
うした「未亡人」たちの顕現から見出されるのは、新垣の描く「未亡人」そのも
のが一つの生き方に規定されず、定義不可能な「未亡人」像であるということで
もある。書くことを通して崩し、同時に生みだしてもいく多様な意味での「未亡
人」がそこには描かれている。
作品中において「自分が主」*128だと主張すること、位牌に縛られずに人生を
楽しく生きるということ、自分の意思を通して動くということ、それらの言説は
明らかにこれまで「未亡人」という言葉に付与されてきた「本来ならば夫に殉ず
べきものを」という中傷性を根底から覆していく新たな文脈である。
つまり、「未亡人」から奪い取られていた生/性の自己決定権が、この作品で
は見事に奪い返されているといえるのではないだろうか。新垣の作品「未亡人」
は、国家の枠組みにおいて規範化されてきた「未亡人」の生き方そのものを攪乱
していく描き方が見られるという点において、「未亡人」という題で紙上に三ヶ月
間連載していくということが持つ政治性がより顕在化しているといえる。
「未亡人」という言葉を「流用」し、「未亡人」と名指される人々の生き方の規
定を崩していくという重要な特徴が新垣の作品「未亡人」には織り込まれていた。
本稿では紙幅の都合上論じることが出来なかったが、この特徴は作品内部に留ま
るのではなく、読む行為を通して読者の側へと流れ込んでいくものであった。こ
の点については、また稿を改めて論じたい。
(なかんだかり・あさみ 琉球大学大学院博士前期課程 2010 年度修了生)
*126 ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『触発する言葉』pp.156-157
*127 竹村和子は、「 濫 喩カタクリーシス
」とは「比喩が本来の意味をはずれて用いられること」を
意味すると指摘する。比喩は「誤用されて、べつのものを生み出す力」をもっており、
「比喩本来がもつ余剰性が規範的な物質の生産をずらしていく」と指摘する(竹村和
子・富山一郎「バトラーがつなぐもの」『現代思想 特集ジュディス・バトラー―ジェ
ンダー・トラブル以降』2000.12)。他に、本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波
書店、2005)を参照。
*128 新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 4 月 13 日 連載 98 回目
76
【参考文献】
・新垣美登子「未亡人」『沖縄タイムス』1952 年 1 月 1 日~1952 年 4 月 18 日
・阿部小涼「「集団自決」をめぐる証言の領域と行為遂行」新城郁夫編『沖縄・問
いを立てる3 攪乱する島―ジェンダー的視点』社会評論社 2008
・新川明「戦後沖縄文学批判ノート―新世代の希むもの―」『琉大文学』第七号
1954.11
・伊礼孝・大湾雅常・清田政信・東風平恵典・嶺井正・松原伸彦「座談会 沖縄
における文学と政治の状況」『琉大文学』第 3 巻第 1 号(通巻 21 号)1961.12
・上地榮「歓楽街問題に就いて」『人民文化 50 年新年号』1950.1
・沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典 中巻』沖縄タイムス社 1983
・鹿野政直『戦後沖縄の思想像』朝日新聞社 1987
・鹿野政直「戦争未亡人」朝日ジャーナル編『女の戦後史Ⅰ 昭和 20 年代』朝日
新聞社 1984
・我部聖「「日本文学」の編成と抵抗―『琉大文学』における国民文学論」『言語
情報科学7』2009
・神山幸子「基地と女性」歴史科学協議会編『歴史評論』1994.5
・川口恵美子『戦争未亡人―被害と加害のはざまで』ドメス出版 2003
・川口恵美子「占領期における戦争未亡人」『日本女子大学大学院 人間社会研究
科 紀要 第 7 号』日本女子大学大学院人間社会研究科 2001.3
・川瀬信「沖縄文学の課題」『琉大文学』第七号 1954.11
・北河賢三「戦争未亡人と遺族会・未亡人会」早川紀代編『戦争・暴力と女性3
植民地と戦争責任』吉川弘文館 2005
・北村毅『死者たちの戦後誌―沖縄戦跡をめぐる人々の記憶』御茶の水書房 2009
・恵泉女学園大学平和文化研究所『占領と性―政策・実態・表象』インパクト出
版会 2007
・佐々木基一「戦後文学の諸相」猪野謙二他編『岩波講座 文学 第五巻』岩波
書店 1954
・高里鈴代「基地と売買春」那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあと 那覇
女性史(戦後編)』琉球新報社事業局出版部 2001
・澤岻悦子「「戦争未亡人」・孤児」『なは・女のあしあと 那覇女性史(戦後編)』
琉球新報社事業局出版部 2001
・竹村和子+富山一郎「バトラーがつなぐもの」『現代思想 特集ジュディス・バ
トラー―ジェンダー・トラブル以降』2000.12
・「特集 未亡人を凝視する」沖縄タイムス社編『月刊タイムス』沖縄タイムス
1951.5
77
・那覇市総務部女性室『なは・女のあしあと 那覇女性史(戦後編)』琉球新報社
事業局出版部 2001
・羽矢みずき「林芙美子「うず潮」論―隠蔽された〈戦争未亡人〉―」日本文学
協会編『日本文学』2006.11
・外間米子「屈辱と栄光からの出発」沖縄婦人運動史研究会著、宮里悦編『沖縄・
女たちの戦後 焼土からの出発』ひるぎ社 1986
・本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波書店 2005
・由井晶子「ジャーナリズムの興隆」那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあ
と 那覇女性史(戦後編)』琉球新報社事業局出版部 2001
・吉武輝子「ある沖縄女流作家の開眼」松村和夫編『別冊婦人公論』第二号 中
央公論社 1980.10
・ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『触発する言葉』岩波書店 2004
【新聞】
・「遺家族援助費など 日本へ折衝員派遣」『沖縄タイムス』1952 年 2 月 5 日
・「遺家族の援護」(公聴 投稿歓迎)『沖縄タイムス』1952 年 2 月 10 日
・「遺族の一人として」(公聴 投稿歓迎)『沖縄タイムス』1952 年 2 月 11 日
・「数字は語る 戦争未亡人六万五千人」『沖縄タイムス』1952 年 12 月 2 日