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日本記者クラブ 社員総会記念講演 私の歩んできた道 大村智 北里大学特別栄誉教授 (ノーベル生理学・医学賞受賞者) 2016年5月25日 2015年のノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授が、2016 年度社員総会記念講演会で「私の歩んできた道」と題して語った。 生まれ育った山梨県での子どもの頃の暮らしから始まり、スキーに明け暮れた学生 時代から、東京の大学院での研究生活、米国への留学、北里研究所で発揮したリーダ ーシップと話は広がった。ノーベル賞の理由となったエバーメクチンの研究について も詳しく説明した。 司会:伊藤芳明 日本記者クラブ理事長(毎日新聞) C 公益社団法人 日本記者クラブ

私の歩んできた道 - Amazon S3 · 2018. 1. 19. · 私の歩んできた道 大村智 北里大学特別栄誉教授 (ノーベル生理学・医学賞受賞者) 2016年5月25日

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Page 1: 私の歩んできた道 - Amazon S3 · 2018. 1. 19. · 私の歩んできた道 大村智 北里大学特別栄誉教授 (ノーベル生理学・医学賞受賞者) 2016年5月25日

日本記者クラブ

社員総会記念講演

私の歩んできた道

大村智 北里大学特別栄誉教授

(ノーベル生理学・医学賞受賞者)

2016年5月25日

2015年のノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授が、2016

年度社員総会記念講演会で「私の歩んできた道」と題して語った。

生まれ育った山梨県での子どもの頃の暮らしから始まり、スキーに明け暮れた学生

時代から、東京の大学院での研究生活、米国への留学、北里研究所で発揮したリーダ

ーシップと話は広がった。ノーベル賞の理由となったエバーメクチンの研究について

も詳しく説明した。

司会:伊藤芳明 日本記者クラブ理事長(毎日新聞)

○C 公益社団法人 日本記者クラブ

Page 2: 私の歩んできた道 - Amazon S3 · 2018. 1. 19. · 私の歩んできた道 大村智 北里大学特別栄誉教授 (ノーベル生理学・医学賞受賞者) 2016年5月25日

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司会:伊藤芳明理事長(毎日新聞) きょう

はご参加いただきましてどうもありがとうご

ざいます。記者クラブの理事長をしております

伊藤芳明でございます。

2016 年度の社員総会記念講演会を始めさせ

ていただきたいと思います。

本日は、2015 年のノーベル生理学・医学賞

を受賞されました北里大学特別栄誉教授、大村

智先生にお越しいただいております。大村先生

については、昨年、洪水のような報道がありま

したので、皆さんご存じかと思いますけれども、

簡単にプロフィールをご紹介します。

先生は、1935年(昭和 10年)、山梨県の神

山村、現在の韮崎市でお生まれになられました。

学生時代はスキーあるいは卓球に打ち込まれ

たというのは有名な話でございますけれども、

山梨大学をご卒業後、東京都立墨田工業高校の

夜間部で教鞭をとられるかたわら研究のほう

もお続けになられまして、東京理科大の修士過

程を修了されて、母校の山梨大学の助手として

研究生活をスタートされております。

その後、北里研究所の研究員をされておりま

して、これまた去年、随分エピソードが有名に

なりましたけれども、静岡県のゴルフ場のそば

の土壌から採取した微生物をもとに開発され

ました抗寄生虫薬のイベルメクチンがアフリ

カで非常に猛威を振るっておりましたオンコ

セルカ症など、寄生虫由来の感染症治療で非常

に大きな成果を上げ、命を救われた方は 2億人

を超すと言われております。

その後も、先生は独創的な研究を積み重ねら

れて、昨年、ノーベル賞を受賞されるというこ

とになりました。

先生は美術のほうでも非常に造詣が深くて

いらっしゃいまして、女子美術大学の理事長も

長年お務めになっておられますし、それから、

ふるさとの韮崎市では、韮崎大村美術館も建設

されて、収集された美術品と共に韮崎市に寄贈

され、皆さんにごらんになっていただいている、

そういう方でございます。

いまご紹介いたしましたように、いわゆるエ

リート研究者とは一味も二味も違う、そういう

経歴の先生に、きょうは「私の歩んできた道」

ということでお話をいただきたいと思います。

それでは、大村先生、よろしくお願いいたし

ます。(拍手)

北里研究所から本格的な研究が始まった

大村智 北里大学特別栄誉教授 ご紹介いた

だきました大村でございます。

まず、このようなところで皆様に「私の歩ん

できた道」というお話をさせていただくことを、

大変光栄に思います。ただいま、理事長の伊藤

様が、まさにサマリーをお話しいただきました

から、早速話に移らせていただきたいと思いま

す。

先ほども話がありましたように、私は韮崎に

生まれたのですが、高等学校を卒業後、山梨大

学の学芸学部自然科学科に入学し、卒業して墨

田工業高校の教員になったのですが、後で話し

ますように、教えることもあまり知らないので、

もう一度勉強し直そうというので、大学を卒業

してから 5年かかって修士課程を修了します。

そして、山梨大学の工学部発酵生産学科で微

生物を扱う仕事をして、2年たって北里研究所

に行きます。ここから本格的な私の研究が始ま

っていくということであります。

そして、いろんなことを仰せつかっておりま

したけれども、みずからこれになろうとしてや

ったのは、この北里研究所の副所長になったと

きだけでありまして、あとはみんなが「おまえ、

やれ」、「おまえ、やれ」と言われて、おだて

られていろいろな役職を務めてきたというこ

とであります。

しかし、この北里研究所から始まった研究は、

何をやっていても続けてきたということであ

ります。これがまた条件で引き受け、やってき

ました。「研究をさせてもらえるなら受けます

よ」というようなことで来て、今日でも研究を

している。

しかし、私が実際自分でやるわけではなくて、

いまはもう若い人たちが頑張っていますから、

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そういう人たちとディスカッションしながら、

ある程度方向づけをしたり、あるいはいろんな

提案をしたり、相談に乗ったりというようなこ

とでいまはやっているのであります。

考え方のもとになる影響を受けたのは

祖母 母は情操教育 父には野良仕事

を仕込まれた

これが私が 3歳のときの写真であります。母

がいて、父、祖母、それから父の弟です。弟が

満州へ行くというので、記念撮影を撮ったとき

の写真らしいのですが、この母は、小学校の教

員をやっておりました。終戦になってやめたん

ですけれども、ずうっと小学校の教員ををして

おりました。父は、村のいわゆる顔役です。そ

れから、祖母は、隣村の村長さんの娘で、村人

の言うには、小学校の 2 年ぐらいでほとんど勉

強を終えて、村の青年を集めては講談を読んで

聞かせていたなどという話もあるくらいだっ

たらしいです。

それで、一番私が自分の考え方、行動のもと

になる影響を受けたのは、この祖母だと私は思

っています。しかし、母は、情操教育というこ

とに非常に力を入れてくれたと思います。

父のほうは、とにかく背中をみせて育てよう

という考えだったと思います。私は家の跡取り

として野良仕事を徹底的に仕込まれました。内

は中農です。豪農でもなければ、その当時は小

作人などと言っていましたが、それでもない、

どうにか食べていけるというような農家だっ

たと思います。

ですけれども、これもまたかなりそれぞれに

影響を受け、母は、先ほど言ったように、絵を

描きなさいとか、勧めてくれましたが、勉強を

するように言われたことは一回もないです。な

ぜかというと、仕事をやらせなければならない

から、勉強をしてもらっては困るわけですね。

それで、勉強をするようには言わないわけです。

そういう状況でいたわけです。

これが中学校のときの写真ですけれども、日

がまだ上らないうちに起こされて、野良の現地

へ行ったときにようやく明るくなって仕事が

できるというぐらいになる、そういうときもあ

るわけです。そして、仲間たち、村の友達がぼ

つぼつ学校へ行き始めると、智、おまえも学校

へ行ってこい、こういうふうなことを農繁期に

は繰り返します。

しかし、農閑期には、また自由にいろいろで

きました。山登りをするとか、スキー、スケー

トをやりました。そういうときは、忙しい時に

いろいろ言いつけていた父親にしても、母にし

ても、結構いいスキーを買ってきてくれたり、

スケート靴を買ってきてくれたりというよう

なことをやってくれたと思います。

しかし、野良仕事というのは大変過酷な、子

どもにとっては非常に重労働なのです。しかし、

ここにコンラート・ローレンツが言っています

けれども、子どものときに肉体的につらい経験

を与えないと、大人になって人間的に不幸だ、

ということからすれば、私は幸福だったと思う

んです。

それから、よかったのは、風光明媚。大岡信

さんは言っています。「眺望は人を養う」とい

うことを言っていますけれども、本当にいまで

も私は自慢するんですけれども、郷里のこの風

景は非常にいいところに生まれたなと思って

いるのであります。

それからもう一つは、敬神崇祖。まさにそう

いう風習のある地域だったと私は思います。こ

ういうことも、いま考えてみると、よかったな

というふうに思っております。

そして中学のときに出会ったのが、この鈴木

勝枝先生です。私は、本当の理想的な先生とい

うのはこういう先生だなと、いまでも思います。

例えば農繁期なんかに私が学校を休んで手伝

いをしていますと、夕方になって、野良仕事を

しているところに来てくれるんです。そして、

「大村君、よく頑張っているね。きょうはこう

いうことがあったんだよ」と、ちゃんと教えて

くれるんですね。

そういうことの中で、「大村君、もうちょっ

と国語の勉強しなきゃだめだね、あんたの字は

下手だね」とか、「あなた、村長になるにはこ

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んなことをやっていたらだめだよ」と言ってく

れました。そして初めて、将来大きくなったら

村長になるのかなと思ったのですけれども、い

ま神山村というのは消えてしまっていますか

ら、村長にはなれませんでした。しかし、こう

いう先生が本当の先生だなと私は思うんです

ね。

スキーにのめりこんだ大学時代

それで、農閑期は、スキーに明け暮れました。

裏山といっても、スキーを担いで 4時間ぐらい

歩いて行って、スキーをやって帰ってくるとい

うようなことをやりながら、スキーの県下の大

会や何かに出場しまして、このときは高校 3

年のときに、韮崎高等学校がリレーで優勝した

ときの写真です。私がやっていたのは長距離で

す。

スキーに明け暮れて、よく受かったなと思い

ますが、山梨大学に受かりました。大学に行っ

ても勉強すればいいのに、またスキーをやって

いるわけです。この姿をみてください。これは

スキーから帰ってきて、おなかがすいて弁当を

食べているところなんです。見てください、こ

れは化学の実験室なんですが、化学記号は一個

も書いてないのにミロの絵のような落書きが

ある、ここにようやく化学実験室らしい天秤が

置いてあるという、こういう場所なんです。

ところが、実は私はこれをみると思い出すん

ですが、山梨大学はよかったなと思うことは、

こうやって遊ぶというわけではないけれども、

スキーの練習したりして帰ってきて、少しでも

時間があればいつでも実験ができるようにあ

けてくれるてあるんです。それが夜であろうが、

私がやりたければ、いつでも実験ができるんで

すね。

化学というのは、やっぱり実験なんですね。

実験をやるということが非常に大事なわけで、

その実験が難なく、いろいろ手がけても、何と

かどうにかこなしながら実験がやれるように

なったというのはこのときがあったからだと

思うんですね。そういうマイスター制度という

のがありまして、その化学の部屋へ入ると、い

つでも実験できる、これはすばらしい教育だっ

たと思うんです。

スキーで、国体にも行きました。もちろん行

けば、後ろから数えたほうが早いわけですけれ

ども、山梨というのは雪が降りませんから、ハ

ンディキャップもあるんです。それでも国体へ

行って、汗を流したわけです。

これが大学 3年のときに、全国区ではとても

だめですけれども、山梨県内ではいろいろ優勝

しました。これはほとんどが優勝したときのカ

ップです。団体で優勝するとか、個人で優勝す

るとか、1年間でこれだけのカップ、盾をいた

だきました。これをごらんいただくと、いかに

スキーにのめり込んでいたかがおわかりいた

だけるのではないかと思います。

そして、夏になるとスキーはできませんけれ

ども、今度は、私、化学の研究室へ入りながら

ですけれども、地質学の先生に随分とかわいが

られまして、ちょっと顔が合うと、「大村君、

何日、おまえ、空いているか」というようなぐ

あいで、「空いていますよ」と言うと、「ちょ

っと手伝ってくれないか」。手伝うということ

は、要するにその先生は、南アルプスの前衛の

山に夜叉神峠というのがありますけれども、そ

の夜叉神峠にトンネルを掘って、林道を引いて

いく、あの工事をやっているころで、どうして

も地質調査が必要になるわけです。それで、そ

の田中先生が地質調査を担当され、そのアシス

タントをやったわけです。そして、実はこうい

う経験が、後でも出てきますように、温泉を私

が掘るというその伏線になったと私は思って

います。何が役に立つかわからないということ

です。

そして、その田中(元之進)先生から言われ

たことは、「大村君、大学はどこを出ようと関

係ないことなんだぞ。大学を出てから 5 年間、

本気で勝負しなさい。これで決まってくるよ」

という。その大学を出てから 5年、これは、き

ょう先生の写真が出てこないんですけれども、

田中先生に言われたことです。

もう一つは、スキーをやっていてよかったこ

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とは、集中力を身につけることができたと思い

ます。スキーへ行くためにお金が必要ですから、

アルバイトもしなければならない。そして、農

繁期にはもちろん農業の手伝いもしなければ

ならない。等々やっていると、しかし、短い時

間にいろいろやりましたが、私は一つも試験で

落ちたことがないんです。

この間、韮崎市で、私がノーベル賞を受賞し

た後、韮崎市が私の記念の部屋を用意して、私

のいろんなものを並べてくれたら、よせばいい

のに、通信簿が出てきちゃったんですね。(笑)

それで、その通信簿を並べるときに、担当官が

私のところに恐る恐る持ってまいりまして、

「大村先生、こういうものが出てきたけど、こ

れを展示していいでしょうか」。聞くのはわか

るんです。こんな成績のものをみせていいかと

いうことなんですけどね。「ああ、いいよ、い

いよ。私は、これは平均すると、六十何点か七

十何点になるんだろうけれども、スキーをやっ

て残った時間で勉強していたんだからいいよ」

というようなことを言ったんですけれども。

これは、誰が撮った写真か、私はわからない

んですが、当時、勉強部屋には周期律表なんか

とともにミレーの絵の写真が飾ってあります。

これもまた後に美術にのめり込んでいく伏線

にもなっているのではないかと思います。

レベルの高いなかにいると、知らぬ間に

自分も高いレベルに行く

スキーをやっていてよかったという話なん

ですが、スキーヤーで私の年代ぐらいの方だっ

たら新潟県のスキーの池の平の横山隆策とい

ったら知らない人はいないぐらい、「スキーの

天皇」と言われた方がおりました。このお嬢さ

ん、息子さんもいま、それからさらに息子さん

の子どもがいますが、一家で、全日本で 37 回

ぐらい、毎年のように優勝しまして、この先生

の二人のお孫さんはオリンピックにも出てい

る、そういうスキー一家なんです。そういうと

ころで私が訓練をすることができたというこ

とが、先ほどありました、山梨では軽く優勝す

ることができるようになった。

ここで勉強したことは、やはりレベルの高い

ところにいると、いつか知らぬ間にそのレベル

には行くんだということを思います。それがま

た私の、後で話しますように、若い人たちを育

てる、そのためにいかにレベルの高いものを用

意して、学生さんたちに勉強してもらおうかと

いうことにつながっていくのであります。

こういう中に、こんな話も聞きます。これは

横山先生を囲んで、竹の子会といって、タケノ

コのシーズン、要するにスキーのシーズンオフ

になると、みんな集まってきて、いろいろな話

をする中で、私も招かれていきました。これが

後でまた出てきますが、松橋高司さんという人

なんですけれども、こういう人たちの話でこん

なことを聞きました。

かつては、北海道に行っては練習してくる、

そして、大会へ行くと、いつも北海道には負け、

どうしても勝てないという時期があったとい

うことでした。では、どういうことになったか

というと、もう北海道へ行って練習するのはや

めよう、自分たちで独自に練習方法を考え、や

ることのほうが大事じゃないか、ということを

横山先生が言い、そのとおりやっていったら、

やがて勝てるようになった。それで、新潟とい

うと、もうクロスカントリーのまさにトップに

躍り出た、という話をこういう仲間で聞くこと

ができました。

だから、私、研究においても同じだと思いま

す。やはり、あるレベルまでは、なるべく優秀

な人の中にもまれていくのもいいだろう。しか

し、それを超えなければいけない。それを超え

るのは、やはり独自の方法であるということだ

と思います。これも私が実践してきたことにな

っていきます。

この松橋高司さんが私の憧れの人です。とに

かく私はビリから数えたほうがいいけれども、

この人はいつもトップですから、その当時。こ

れは、国体へ行ったときの写真ですけれども、

この間、ストックホルムでノーベル賞の授賞式

があったときに、ストックホルムへ行きまして、

松橋さんに会える予定でいたんですけれども、

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残念ながら、体調が悪くて会えなかったんです

が、受賞が決まりましたら、すぐに祝電報を送

ってくれました。そして、今度、行ったら会お

うということでしたが、会えなかったんですが、

読売新聞の甲府支局の横森という記者が、松橋

さんのお宅まで行ってくれて、そして、私の色

紙も差し上げて松橋さんの色紙をもらって帰

ってきてくれました。

そこに「銀雪 2本のコース」、日付があっ

て、松橋高司、スウェーデンと書いてあります。

これは非常に意味深いこと、さすが松橋さん、

いいことを書かれるなと思ったのは、2本のコ

ースということは、1本はご自分なんです。ご

自分はスコーバレーのオリンピックの日本代

表でも出ています。それから、スウェーデンに

住むようになって、そして 1972 年のオリンピ

ックの札幌大会があったときに、スウェーデン

の選手がクロスカントリーで優勝しているわ

けです。そのときのコーチをやったのが松橋高

司さんなんです。だから、自分はスキーでこう

やったよということ。

工業高校夜間部で勉強している生徒を

見て、勉強し直すことにした

もう一本のほうの話、これをちょっといたし

ましょう。もう一本は私のことですけれども、

墨田工業高校に奉職します。そして、夜間部の

生徒さんですから、ほとんど私と年が 4つか 5

つしか変わらないんです。だから、友達みたい

な形でいたわけです。これは卓球部の生徒達が

東京都の大会で準優勝したときの写真ですけ

れども、私は体育(教員)の資格、免許も実は

あったんです。なぜかというと、スキーをやっ

ていましたから、スキーを教える体育の先生が

山梨大学にいなかったので、体育でスキーの実

習のときは、私が代わって指導しました。その

かわり、体育課の課長が、「大村君、君、体育

の免許、取れるよ」と言うんです。取れるよと

いったって、そこですぐくれるわけではないん

ですけれども、「後で履修の内容をみせてくだ

さい」と言う。私がこういうものを履修してい

ますということを後で教えたら、先生が、これ

とこれと、あと 3つか 4つあったと思うんです

けれども、「この学科を取ると、体育の免許を

出せるよと。こういうことで、実は体育の免許

ももらっていたんです。

ですから、こうやってスキーや卓球なんかの

部長もやったわけですけれども、このときに言

ったことは、私より強いのが 1人いたんですが、

あとはみんな私にはかなわなかった。だから、

そのときに目標を決めまして、君たちの中で誰

でもいいけれども、私より勝てる人間が、彼以

外にあと 3人生まれれば、東京都で優勝できる

から、私に向かってこい、というようなことを

やっていたわけです。そうしたら、本当に 4

人が私よりうまくなりました。そして、そのと

きに準優勝をすることができた、ということで

す。

ここで私は、実は大変な感動を覚えたことが

あるんです。いよいよ試験のときになりますと、

夜間の学生さんが、試験勉強をして試験を受け

るわけです。私も答案を配って、監督をするわ

けです。そうしたら、本当に飛び込んできて試

験を受けているわけですけれども、手をみたら

油がついているのです。墨田工業高校は江東区

にあるんですけれども、あの近くは、家内工業

といったら失礼ですけれども、中小企業が盛ん

なところです。そういうところで働いている人

たちが夜間に学校に来るわけです。忙しくて、

手も洗っている間もなく飛び込んできて勉強

しているのをみて、一体私は何をやっていたん

だ、こんなにまでして勉強しようとしている人

たちがいるのに、いままで何をやったんだろう

ということになって、それからもう一回勉強し

直すことにしたんです。

それで、東京教育大学へ行って、そのときの

先生がこの中西香爾先生です。私はこの先生か

ら天然物の構造を決める、そういう勉強をしま

した。天然からとれる有機化合物の構造決定の

ことを教わったのです。これが私にとって、将

来、非常に役に立ちました。

教育大の修士課程へ行きたかったんですけ

れども、だめなのです、東京教育大学は国立で

すから。都立の教員が国立の修士課程へ入ると

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いうわけにいかないわけです。それで、中西先

生から推薦されて東京理科大学大学院理学研

究科の都築洋次郎先生のところで勉強するこ

とができるようになりました。

こちらは森信雄先生で、私より 4つか 5つぐ

らい上の先生で、私を弟のようにかわいがって

くれまして、いろんなことを教えてくれました。

都築先生から教わったことはいろいろあり

ますけれども、一つだけ言うと、「とにかく大

村君、論文は英語で書かなければ、遊んでいる

のと同じになるよ。英語で書かなければ世の中

はみてくれないんだから、日本でみてもらって

も仕事にならない。必ず英語で書きなさい」と

いうことを教わりました。

それで、私は、下手な英語でしたけれども、

論文は英語で書きました。たまたま日本の雑誌

に日本語の総説を書いたことがありますけれ

ども、オリジナルの論文は、私は日本語で書い

たことがありません。

日本に1台しかない装置で夜、実験した

昼間は理科大へ行って勉強して、夜は学校へ

行って教えて、また理科大へ帰ってきて研究を

するわけです。これは東京工業試験所でその当

時日本で 1台しかないという 60MHzNMR、核

磁気共鳴装置を使っている写真です。いまは初

台にないんですが、当時は初台にあった東京工

業試験所にこれがあり、これを使わせてもらえ

たんです。都築先生は、お弟子さんたちが立派

な人たちが大勢おりましたから、頼んでくれて、

この 1 台しかない機械を私が昼間使うわけに

いかないけれども、夜なら東工試の人たちが誰

も使っていない間なら、いつでも使っていいよ

と許可をいただいて、それで私は夜、出かけて

いっては、学校の先生を終えて、またさらに夜、

こういう実験をやりました。これが私にとって

非常にプラスになりました。

それで、5 年たって、修士課程を終わって、

いよいよ今度は教員をやめて研究者になるこ

とを考えました。そのときに、結婚するんです

けれども、墨田工業高校の教頭先生が仲人をし

てくれまして、「新潟県糸魚川に研究者と結婚

したいという娘がいるけど、おまえ、どうだ」

というようなことで、研究者になっていなかっ

たんですけれども、志向していたわけですね。

それで、見合い結婚をします。

ここにおられる先生が大先生なんです。旅順

工科大学という、年配の方はご存じだと思いま

すけれども、旅順工科大学の学長をされていた

先生が戦後、引き揚げてこられて、そして私が

卒業した山梨大学の初代の学長になられた安

達禎先生。私が卒業すると同時にこの先生は退

官されて、大田区池上に住んでおられまして、

卒業するときに、先ほどの地学の田中先生が私

に「学長に会っておけ。これからも東京へ行く

んだから、学長にいろいろ相談することもでき

るから」と言って、わざわざ私を学長室へ連れ

ていってくれまして、この先生に会いました。

この先生から教わったことは、「何事も正々

堂々とやりなさい。こせこせすることは絶対す

るな」と、いうことでした。お酒を好きの先生

で、私も一升瓶をつるしては先生のところへ行

って、お酒を飲みながら、先生のいろんな話を

聞いたことを思い出します。

それで、今度は、理科大を卒業して山梨へ行

くんですけれども、そのときにまたいい先生に

私はお目にかかることができたんです。坂口謹

一郎先生、これは文化勲章も受賞された、「お

酒の神様」などと言われたぐらい、発酵学の大

家でありますが、山梨大学は新制で、先ほどの

安達先生が発酵研究所というのをつくられた

んですが、そこに時々学生に講義に来てくれた

んです。私が助手になっても、その担当の教授

が、「大村君、あなたは化学だけれども、坂口

先生の話だけは聞いておいたほうがいいよ」と

いうことで、学生と一緒に話を聞くことができ

ました。

この先生の話と、それから、私自身が経験し

た酵母を使って、アルコール発酵するときの微

生物の偉大さというものを学ぶわけです。いま

だに誰一人、グルコースを一晩のうちにアルコ

ールにするという化学者はいないのです。とこ

ろが、微生物は、グルコースを翌朝ちゃんとア

ルコールにしてくれているわけです。そういう

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8

ことで、微生物に興味を持ち、よし、微生物を

使って仕事をしてみようという気になりまし

た。

ところが、山梨大学に 2年いましたけれども、

甲府は暑いのです。うちの家内は暑いのが嫌い

で、あるときなんか、うちへ帰ったら、冷蔵庫

をあけて背中を向けて休んでいたということ

があって、「何をやっているの」と言ったら、

「暑くて仕方ないから涼んでいるんだ」と言っ

て、そのくらい暑いのを嫌いなんです。それで、

東京へ行きたい、東京へ行きたいと言うもので

すから、2年山梨大学にいて、また東京へ戻り

ました。

大学卒から7年過ぎて北里研究所へ

そして、北里研究所へ行きますが、北里研究

所へ行くときには、もう 7年過ぎているわけで

すけれども、北里研究所の所長で、秦藤樹先生

が、1人、化学をやる人間を募集しているから、

東京へ出てくるなら、ここを受けたらどうかと

私の友人が教えてくれたんです。そこで、受け

たんです。新卒と一緒に、7年過ぎた人間が同

じ試験を受けたんです。私も、うん、こういう

研究所だなと思ったんですけれども、ほかに行

くところがないから、仕方ない、北里研究所を

受けに行きました。そうしたら、2人採ってく

れたんです。たまたま 2 人採ってくれたという

ことで、私は北里研究所に転がり込むことがで

きました。

しかし、その 7年のブランクは、取り返さな

ければいけないと考え、とにかく朝は誰より早

く行こうと、大体人より 1時間半とか 2時間前

には研究所へ行って仕事を始めました。みんな

が出てくるころには一仕事終わっているぐら

いで、そういう研究生活を続けまして、あっと

いう間に、かなり自分なりにもよくできたなあ

という抗生物質についての研究成果をあげる

ことができました。研究の内容については、後

でお話します。

しばらくすると、北里研究所というのはお医

者さんの研究所です。そのお医者さんの研究所

で化学をやる、どうも違和感というか、私はな

じまないところがありまして、もうやめようか、

いろいろ迷っているときに、この八木沢(行正)

先生が、「少しアメリカへ行っていろんな人と

会ってきたらどうか」というようなことを言っ

てくれまして、それで、紹介状をもらって、1

カ月、1971 年 3 月に 1 カ月かけて、カナダか

らアメリカをぐるっと回って、いろんな人に会

うことができました。

一番安い給料の大学に留学

そして、帰ってきてすぐに、今度は所長の許

可をとって留学することになったんですが、ど

こに留学するか、ということになるわけです。

最終的にマックス・ティシュラー先生(ウェス

レーヤン大学、米コネチカット州)のところに

決めたんですけれども、手紙を 5つの大学に出

していたんです。そうしたら、最初に電報で、

客員研究教授として、年俸 7,000ドルで迎えた

いと、ティシュラー先生から連絡がありました。

ところが、しばらくして追いかけてきた手紙

は、みんな 1万 6,000ドルとか 1万 5,000ドル

とかと言ってくるわけです。どうせ家内は一番

高いところがいいと言うと思いながらも家内

に聞くわけです――「それは高いところに行き

ましょうよ」と言うんだけれども、まてよ、こ

の 7,000 ドルは何か意味があるんだというこ

とで、この先生のところへ行くことにしました。

年棒 7000㌦の意味は大ありだった

意味は大ありでした。何と恵まれたと思う、

この先生のところに行ったことが。それはどう

いうことかというと、1971 年にテイシュラー

先生の所へ行きましたところ、間もなくこの先

生がACS(American Chemical Society)プ

レジデントになるのです。アメリカ化学会とい

うのは、おそらく世界最大級

の学会だと思います。16 万人会員がいる、

そこのトップです。その先生のところに、会長

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ですから、いろんな人が出入りする中に、本当

にアメリカを代表するような化学者が寄って

こられるわけです。私もビジティングプロフェ

ッサーだから、一応ちゃんと研究室があり、オ

フィスもあります。そういうアメリカ化学界の

トップクラスの人たちをテイシュラー先生が

私の研究室へ連れてきてくれるんです。そして、

そういう人たちとディスカッションできまし

た。

だから、いながらにして、本当にアメリカの

教科書にも名前が出てくるような人たちと会

えたんですね。7,000ドルは本当にいいものを

選んだと、私は思っているんですけれどもね。

それからもう一つ、例えばノーベル賞を受賞

したコンラッド・ブロック先生こそまた恩人の

一人ですけれども、私がすでに東京でみつけた

おもしろい薬があったんですが、セルレニンと

いって、作用がおもしろいんです。それで、メ

カニズムを研究しましたら、これが脂肪酸の生

合成を阻害するということがわかります。これ

は後には、いわゆるスタチン類の前駆物質にも

なったと言われるぐらいの化合物だったんで

す。われわれの化合物は実用にはならなかった

んですけれども、ただ、作用としては非常にお

もしろいんです。脂肪酸の生合成を阻害すると

いうのは、われわれがみつけたものが最初なん

です。

その話を私は、実はこのブロック先生にしま

した。ファイザー研究所の部長をやっている友

達がいまして、「きょう、コンラッド・ブロッ

クが来ることになったから、来ないか」と言う

ので、私もドライブして、3時間ぐらいかかっ

たと思うんですけれども、とにかくグロトンに

あるファイザーの本社へ行きまして、この先生

と会いました。そのときに彼が撮ってくれたポ

ラロイド写真で、ちょっとあまりよくないです

けれども、1971年 11月と書いてあります。こ

れは先生が私にサインしてくれたんです。

この先生こそ、まさにそのセルレニンが、本

当にあなたが言うように脂肪酸の生合成を阻

害する、いままでにない化合物だということを

認めてくれました。それから、私が 52 歳にな

ったときだと思いますけれども、何と米国生化

学分子生物学会の名誉会員に推薦してくれま

して、それで名誉会員になったんです。

そんなこともあり、それから、この先生から

まさに生化学の真髄を私は勉強できたと思っ

ています。私の恩人です。

それで、いよいよ日本に帰ることになるのは、

そうやってルンルンで、とにかくいろんな人と

会って研究のデイスカッションしたり、それか

らティシュラー先生の部屋はそっくり任され

て、先生が会長をやっているから、研究室の人

達を指導ができないから、「おまえ、やってく

れ」と言われて研究成果も挙り、本当に充実し

た生活を送っていたんですけれども、北里研究

所の所長から、急遽帰ってこいということにな

りました。

帰っても、あの貧乏研究所へ帰って、これだ

けの研究できないと思いました。しかし、しゃ

くだから、できないだけで終わりたくないわけ

です。そこで考えてやったことが産学連携だっ

たのです。

よし、アメリカの製薬会社とかけ合って、ア

メリカの製薬会社と協定を結んで、研究費を導

入して成果が上がったら、その化合物なり成果

をその会社に使ってもらって、そして、もし利

益を上げたら、何%は私がいただきますよ、こ

ういう理論を構築しまして、それで 4~5 社当

たりました。

ティシュラー先生自身は元研究所長を務め

た、「メルク社の中興の祖」と言われるぐらい

の大先生だったんです。それがメルク社を退職

後、ウエスレーヤン大学で教授をやっていたと

ころに私を呼んでくれたわけです。私が色々な

製薬会社を回っていることを知ったティシュ

ラー先生が私をメルク社に紹介してくれまし

た。

そこで、共同研究が始まりました。それで、

研究を経営するということを考え、質の高い研

究者の育成、“人間形成”をまず一番に目指し

ました。それから、もちろん何をやるかという

ことを考えなければならないですが、資金を確

保して、成果を社会に還元するというのが研究

を経営することだということです。メルク社は

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8万ドルで、ほかの会社は何社か回って、みん

な 1万ドルとか、出してくれることは出してく

れるということだったんですが、8万ドルを出

してくれるというのはメルク社だけでした。

企業から資金を確保して成果を社会に

還元する共同研究

だから、アメリカへ行くときは、一番安いと

ころを選んで、今度、帰ってくるときは一番た

くさんいただける会社を選んで帰ってきまし

た。そして、共同研究が始まるわけです。

まずやらなければならないことは、リーダー

シップです。リーダーがしっかりしていなけれ

ば、新しいものはとてもみつからないわけです。

まず自分を磨かなければならない。結構忙しか

ったです。

それから、先ほど言った、質の高い、レベル

の高い環境を用意してやろう、これが何しろ大

事だということは、先ほどのスキーで学んだこ

となんですが、それで、まずKMCセミナー

(Kitasato Microbial Chemistry 北里微生物

化学セミナー)と言っていますけれども、セミ

ナーを興します。そのセミナーに、なるべく外

国人を呼ぼうということで始めました。これは

最初のセミナーのポスターです。まず、オレン

ジ色の紙を使うということは、その当時、色の

ついたものを掲示板に張るということはまず

なかったころです。なぜオレンジ色がいいかと

いうと、これが一番目立つ色なんです。それで、

この色にしました。

それから、なるべく外国人を呼んでくるとい

うことをやりまして、この 1975 年は私が教授

になった年ですけれども、2008 年まで続きま

した。そのときに、外国から 178名をお招きし

て、このセミナーをやることができました。こ

ういうわけで、いながらにして、外国人と接触

できるような環境をつくりました。

仕事を始めて、メルク社からも研究費をもら

い、日本の企業もいろいろなところで応援して

くれました。私を支援して、研究を進めること

をやってくれたんですけれども、研究室を持っ

て 4年経った頃、北里研究所が、おまえの部屋

は閉鎖してくれ、ということになってしまった

んです。

そのとき、すでに私は研究所と大学の両方に

研究室があって、兼務していました。ところが、

大学のほうは、本当に小さな研究室があっただ

けで、研究所のほうに大きな施設があり、まさ

に研究の本体は研究所にあったわけです。そち

らをやめてくれというわけです。そして、こう

いう職員が 5人いましたけれども、この職員の

就職をあっせんしてやってくれという話にな

ったんです。

それで私は、「あと研究室をどうするんです

か」と言ったら、「いまのところ考えていない」

と言うので、「じゃ、そっくり私に貸してくだ

さい」と。たんかを切ったものです。そのかわ

り、私は資金を稼いできて、この 5人の給料を

そっくり払います、部屋代も、集めてきた資金

の 12%を部屋代として研究所に入れますよ、

というぐあいで、1977 年から、しかも今日ま

でこれが続いています。今日まで、自分たちが

用意する研究費、中には特許料もあります、あ

るいは会社から請け負ってやる仕事もありま

す、いずれにしても、とにかくうちの研究室は

全てそういう資金で運営しています。大学の中

にあっても、なおかつ独立して研究ができる、

これがいいのです。好きなことができますから

ね。そういうやり方で研究を続けてきました。

これがノーベルレクチャーで一番最後に使

ったスライドですけれども、この「一期一会」

の精神でやると研究はスムーズに進めること

ができるんだよ、というような話もしたわけで

す。

こうやって海外から研究者が来ると、いろん

な人たちを自宅に招いてホームパーテイーを

しました。そして後ろにいるのが若い私共の研

究者たちですが、こういう人達が海外の研究者

といつも交流できるようにしてやることを心

がけました。

それから、自分自身もいろんな人に会いまし

た。これはデレック・バートンといって、天然

物有機化学では知らない人はいない大先生で

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す。こういう人たちが亡くなるまでおつき合い

をしてくれました。ここにいる E. J. コーリ

ー先生もコンラッド・ブロック先生もハーバー

ド大学におられました。ブロック先生は、私の

机をハーバードの先生の研究室に用意してく

れていましたから、こういう先生方とも会える

機会があったわけです。

これは、パピローマウイルスが子宮頸がんの

原因となるということをみつけて、そのワクチ

ンを開発してノーベル賞をもらったツア・ハウ

ゼンさんというドイツの先生です。

それから、野依良治さんと一緒にノーベル賞

をもらったバリー・シャープレス先生、こうい

う先生方がうちに出入りするようになりまし

たし、そういう中でうちの若い連中が研究して

いるということです。

パチンコかゴルフかどちらかをやりな

さいと医師にいわれ、ゴルフを始めた

ゴルフをやって楽しんでいるけれども、最初

からゴルフをやったわけではなくて、いま言っ

たようなことをやっていますと、どうしても神

経を使う、ストレスもかかるしで、実はちょっ

と精神的におかしくなったんです。夜は眠れな

くなる。めまいはする。うちの家内が、これは

もうぐあいが悪いんじゃなくて、神経の問題だ

と言うわけです。それで精神科へ連れていかれ

たんです。行ったら、ちょっと話をしているう

ちに、これはもう「パチンコか、ゴルフか、ど

っちか、とにかくやり出したら仕事のことを忘

れるようなことを何かやりなさい」と、言うわ

けです。そのときはもうすでに教授になってい

ましたから、教授がパチンコ屋へ入り浸るとい

うのはちょっと問題があるかもしれないとい

うわけで、たまたまアメリカにいたときに、2

~3回ゴルフをやっていましたから、じゃ、ゴ

ルフを始めよう、と言ってゴルフをやりまして。

それで、やり出せばすぐにまたのめり込むほ

うで、ゴルフを始めて 5 年でハンディ 5つまで

いきました。いまはまた腕を落としていますけ

れども、ゴルフを本格的に始めて、5年で 5つ

になったというのは、研究者仲間では少ないん

じゃないかと思います。

そして、これは 60 歳前後のときです。私の

知らないうちに、山梨大学の学長選考がありま

して、そこで私が学長に当選したから受けてく

れないかという話が、ちょうどフランスを旅行

している最中に言ってくるわけです。だけれど

も、文部省に電話して、とにかく研究ができる

なら受けてもいいけれども、研究ができないな

ら、とてもだめと思い、文部省に聞いたら、「学

長になったら研究なんかできませんよ」という

ので、じゃ、やめましょうということにしまし

た。

断るときに、うちに大蔵省から来ていた人間

がいたんですけれども、「大村先生、北里研究

所では勲二等をもらえませんよ。山梨大学の学

長をやれば、間違っても勲二等はもらえます」

という話で、(笑)そんなことを言われたのを

思い出すんです。

それで、こうやって学生を育ててます。これ

は、ソフィア会と言っているうちの研究室で学

位を取った人達の会ですけれども、ことし 3

月まで、120名余りいます。その中で赤いのは、

どこかの教授に就任した人間がこれだけいる

んです。たしか 30 人ぐらいいると思います。

そうやって人を育てた。だからこそ私はいろん

な賞をいただくことができたと思うのです。

これがロベルト・コッホのゴールドメダルの

授賞式の写真で、日本人では私が 2人目の授賞

のときで、最近、2~3 年前に岸本忠三先生が

もらいましたね。それから、プリンス・マヒド

ン賞、これはタイのプンポン国王からいただい

ているところです。これは、カナダのガードナ

ー(国際保健)賞授賞式です。こういうふうに、

やっぱり人を育てておいて、そういう人たちと

一緒に仕事をしたからよかったんですね。まず

自分のことより先に人を育てたということが

私はよかったんじゃないかと思っています。

もちろん研究していると成果が上がってき

て、特許料が入るようになります。そして、そ

のお金をどう使うかということになると、もち

ろんさらにいろいろ研究をするのに使うわけ

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ですけれども、特許料を使ってどうしようもな

かった北里研究所を再建することにもできま

した。病院をつくることができました。看護師

さんの学校をつくることもできました。それか

ら、いろんな人材育成事業にも使うことができ

ました。韮崎に美術館をつくることもでき、そ

れから温泉まで掘ることができたという話に

なっていくわけです。(笑)

北里研究所を再建した

これをみて、私はショックを受けたのです。

これは赤痢菌を発見した志賀潔先生です。土門

拳が写真を撮りに行ったときのことが書いて

あります。障子をみると、新聞紙が張ってある。

畳をみればぼろぼろだ。そこに文化勲章が置い

てある。どうも違和感を感じた、というような

ことが書いてあるんですね。私は、こういう先

生をこんな状態にしているようでは日本はも

うだめだと思ったのです。志賀先生は北里研究

所の先輩ですから、北里研究所の恥だと思った

のです。よし、では北里研究所を再建して立派

な研究所にしてやろう、ということで始まるわ

けです。

大学の教授時代に北里研究所の監事もやっ

ていましたけれども、いよいよ北里研究所を何

とかしようというときに、私は、大学の教授を

やめました。その時に、また家内が、「また始

まった、いつもあなたは給料の安いほうへ、給

料の安いほうへと移っていく」と言うのですね。

大学の教授をやっているより副所長のほうが、

給料が安いんです。だけれども、北里研究所を

立て直すということは大変な仕事なんだ、こう

いうことをやらないでどうするんだ、というよ

うなことを言って、北里研究所へ帰って、副所

長になりました。ここで教授ではなくなるわけ

です。

それで、特許料はこのくらい入るので、これ

を使って新しい病院を創設しようと考えまし

た。一方、とにかくその当時、借金のほうが預

金より多かったので、北里研究所の経営の大改

革を先ず進めました。この年に借金したのは、

病院を建設するためですが、やがては借金をな

くしました。経営状態も立て直して資産を殖や

すことができ、私はこの再建を完成させて、北

里研究所と北里大学を統合させて、第一線の経

営者から退きました。

しかし、こんなことをやっているけれども、

研究だけは絶対に止めませんでした。これは家

内との約束なんです。「あなた、何やってもい

いけれども、研究だけはやるというのが条件で

すよ。それ以外、もう研究もできないようにな

ったら、あなたはもうそういうものは受けない

でください」とか言われてやってきたのです。

先程も色紙に書いてくれというので、「実践

躬行」と書いたのですけれども、やはり言い出

したことを絶対やる。自分でやってみせるとい

うことを実行してきたのです。そして、信用が

でき、部下が動く、改革が進むわけです。

このスライドのような病院をつくりました。

440床あり、ヘリポートまであります。看護師

さんの養成学校、看護師さんの宿舎等々があり

ます。埼玉県の北本市に 9万坪、国有地を手に

入れまして、1989年にこういう事業を展開

したのです。

ここは、病院のエントランスホールですけれ

ども、こうやってコンサートができるように設

計してあります。廊下は、こういう絵がかけら

れるように最初から設計しました。日本におけ

る、病院におけるヒーリングアートの先駆けに

なったと思います。

これは看護師さんの学校です。これをみて看

護師さんの学校と思う人はいないと思います

ね。なぜこんなことをやったかというと、20

世紀から 21世紀、20世紀は科学がうんと進歩

したけれども、心が置いていかれたではないか。

21 世紀は心を大事にする時代でなければいけ

ないのではないかというのが私のコンセプト

だったのです。

それで、山梨県に山梨科学アカデミーをつく

りました。いま政府が「地方再生」と言ってい

ますけれども、残念ながら、地方再生の言葉の

中に、教育、人材育成というのが、入っている

のか、入っていてもあまり大きくみえませんね。

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しかし、私は、再生するならまず教育からだと

いう考えがあるんです。それで、21 年も前に

山梨科学アカデミーをつくって、若い研究者や

小、中、高校生の育成事業を始めました。

それから、韮崎に大村美術館をつくりました。

経済と文化、両方がなければ本当の意味の発展

はないんだというのが私の考えだったわけで

す。そして、韮崎市には美術館もないんですね。

では、自分の持っているものをそっくり寄附し

て美術館をつくって、そして、文化の一端を担

うことをやったらどうか、ということで始めた

ものです。

これは子供の頃に励ましてくれたり、お世話

になった近所の皆さんに楽しんでいただけれ

ば、と考えて作った温泉です。白山温泉と言い

ますけれども、「赤字続きだから、赤字温泉に

名前変えろ」なんて言っていたんですけれども、

ノーベル効果がありまして、何と、もういまや、

本当に小さな温泉ですけれども、大勢訪ねてく

れるようになりました。

外部の人間が科学を前進させる

さて、ちょっと研究の話も少しやりましょう

ね。

私は、大学院時代に先ほどのNMRの装置を

使った研究をしましたから、有機化合物の構造

を決めるというのは、得意中の得意になってい

たんですね。ところが、新しい物質をみつける

ことの大変さということを実は知ったわけで

す。隣の研究室で、1年かかっても 2年かかっ

ても新しいものをみつけられないということ

が起きているわけです。それを私が人のみつけ

た物質の構造をパッと決めては発表する、これ

はフェアでないなと思いました。よし、自分で

泥をかぶる仕事をやろう。それで、こういう構

造決定の研究は若い連中に任せて、自分はもの

をみつけることに専念していこうということ

になったのです。

このスライドに示しますように、ノーベル賞

受賞者のシドニー・ブレナー先生が私のところ

に何回か来てくれました。彼がここに書いたよ

うに、“I’ve always found that the best

people to push science forward are those who

come from outside it”、外から来た人間、門

外漢がある領域を発展するということもある

んだということを、言っているわけです。まさ

に私は、化学をやっていた人間ですが、微生物

を使ってものをみつけてやろうというのです

から、かなり勇気も要ったわけですけれども、

実行しました。

しかし、やっぱり微生物を扱っている人たち

をみると、私とは随分科学的に違うところがあ

るんです。だから、私は自分の考えをどんどん

導入していきました。

これは微生物を単離し、培養して、培養液を

いろいろな検定法で調べて、目的の物質をさら

に大量に培養してものをとっていくという一

つの流れですけれども、こういうことを、1年

間にうちの研究室では大体 4,000~5,000 ぐら

いの培養液の中にものがあるかどうか調べて

みつけていくという仕事をやっています。

研究室の人数はトータルすると、70 人ぐら

いです。それで、さっき言ったように、私が研

究所へ入ったころはここです。みてください。

どのくらい発見したかという数ですね、この年

は 1 個です、この年が 5 個です。1 個、1 個と

か、ほとんど発見されない年のほうが多いわけ

です。

私は研究所に入って、他の人達がみつけたも

のの構造を決めていたんですけれども、これで

はいけない、自分でみつけることをやろうと始

めたのがこのころです。このあたりは留学して

いた時ですから、みつけたものがないんですけ

れども、みていただくと、急に多くの物質をみ

つけることができるようになってきています。

これは、私が探索研究に本腰を入れ、様々な探

索系を構築して導入していったからです。

それで、トータルすると、去年まで 500近く

の化合物をみつけました。ということで、実際

何かの形で使っているのが 26あります。

その中に、今回ノーベル賞受賞することがで

きるようになったエバーメクチンがあるわけ

です。

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エバーメクチンの研究

富士山が高いのはすそ野が広いから高くな

るわけです。だから、ただエバーメクチンだけ

ポーンとみつけたからノーベル賞授賞という

ことはあり得ないんですね。いっぱいものをみ

つけた中から、そういう世の中に使われるよう

なものになっていくのが1つや2つあるという

ことなのです。

私の研究室は小規模な研究室です。大企業が

みんないいものをみつけようとしてやってい

るのを、私共が全く同じことをやったていては

勝てない。これは、舞の海が曙に勝っていると

きの、朝日新聞さんの写真をを使わせていただ

いていますけれども、これは了解していただい

ていますが、「小よく大を制す」と書いてあり

ます。

だから、研究というのは、やっぱり自分の力

というか、自分の置かれた状況をよくみて、勝

てることを考えなきゃだめなんですね。

それで何をやったかというと、一つ、動物用

の薬をみつけるということにしたわけです。そ

れで、メルク社から研究費をもらってきて、い

ろいろやりましたけれども、成功したのは、こ

の(ウィリアム・)キャンベルさんとの共同研

究です。今度、私とノーベル賞を一緒に受賞す

る人物です。

どういうことをやったかというと、これは線

虫ですけれども、これをマウスに感染させて、

えさと一緒にこの試料をまぜて 6 日間投与し

ます。それから普通のえさだけをやって、それ

から 14 日たったところで培検して、中の小腸

にいる虫を数える。これは大変な仕事なのです。

これはメルク社とやったからこういうことが

できるわけです。

それでみつかりました。この微生物が作る物

質が少量でさっきごらんに入れた線虫をあっ

という間に殺してしまうことをみつけるわけ

です。

その物質、エバーメクチンの構造式がここに

書いてありますが、22、23位の二重結合を

還元することによって、イベルメクチンという

よりすぐれたものが得られたんですね。

この触媒はウイルキンソン触媒といいます。

ほかに 5つも二重結合がありますが、そのうち

のここの二重結合だけを埋めるということは、

この触媒があったからできたのです。この触媒

の発見者、J. ウイルキンソン博士は、実は、

私がメルク社と共同研究を始めたその年にこ

の触媒の発見でノーベル賞を受賞しているん

です。これが逆だったら、イベルメクチンは開

発されなかったんですね。先にこういうものが

あったから、これを使って、こういうイベルメ

クチンをつくることができたということです

ね。

概要を先に話しますと、動物用としては、と

にかく発売された1981年の 3年後から、20

年間、世界売上ナンバーワンなんです。それか

ら、メルクという大会社、あの当時ナンバーワ

ンだった会社で人体用の薬を含めても 2 番目

の売上を持っていた薬になったということで

す。

さらにその後、ヒトにも使われるようになり

ます。WHOの指導によりオンコセルカ症撲滅と、

それから後にはリンパ系フィラリア症の撲滅

に、このイベルメクチンが使われるようになっ

ていくのであります。

1973 年、ちょうど私がメルクと共同研究を

始めた年なんですけれども、世界銀行のマクナ

マラ総裁が「西アフリカ諸国の人々の健康と経

済的な見地から最も重篤な病気はオンコセル

カ症である」ということを言ってこの撲滅作戦

を主導するわけです。

主導していくんですが、そのオンコセルカと

いうのは、これは患者さんです。みてください。

足がこんなになっています。かゆいんです、目

がみえない、ここに書いてありますように、線

虫が幼虫を産む、その幼虫が体に回っていって、

皮膚に来ると、2週間ぐらいで死んでしまうわ

けです。その遺骸によってかゆくなるんですね。

それが、目も同じことなんです。ところが、幼

虫が生きているうちにブヨに刺されると、ブヨ

の中に入っていって、ブヨの中でちょっと大き

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くなって、もう一回別の人を刺す、それが今度

は感染していく、ということになるのです。

こんな感染地域です。いま、中南米はほとん

ど撲滅が終わりました。いまアフリカも、この

西海岸はほぼ終わって、あと、こちらの中心の

ほうをやっているということで、2025 年には

撲滅されるだろうと推測されております。これ

がメクチザンといって、ヒト用の無償供与され

ているイベルメクチンです。

それで、このロイ・バジェロス博士ですが、

縁というものは本当に不思議なもので、彼がメ

ルクに来る前、まだセントルイスにあるワシン

トン大学の教授をやっているころ、実は私のみ

つけた薬に興味を持って、彼と一緒に共同研究

をやっているんです。それで、論文も幾つか出

しています。

ところが、私が日本へ帰ってきて、メルク社

と共同研究を始めて、しばらくすると彼がメル

ク社へ移って、メルクの研究所長からどんどん

上っていって、結局、メルクのトップ、CEO

になって、会長になるわけです。そのときに無

償供与するということを決めまして、その無償

供与した状況を私のところに説明に来てくれ

たんです。その時に北里先生の肖像画の前で話

をしているところです。

もう一つ、リンパ系フィラリア症にも適応に

なります。こちらこそ、世界の人口の 20%に

相当するぐらいの人たちがこの病気に感染す

るところに住んでいるんですね。その当時、1

億 2,000万人も感染していたんです。日本の人

口ぐらいが感染していたんですね。それで、

2000 年からこの薬の投与が始まりまして、い

まやほとんどこれがなくなってしまっている。

世界中にこれが蔓延し、日本はもうなくなった

のです。

日本は、ジエチルカルバマジンという薬でリ

ンパ系フィラリア症を撲滅しました。しかし、

これは何回も何回も投与しなければ効かない

薬なんですけれども、日本だからそれができま

すが、アフリカではそれはできません。あんな

広いところに、また貧しい人たちを集めて、何

回も何回も薬を投与することはできないから、

うまくいかなかったわけですね。

ところが、今度イベルメクチンは年に 1回投

与するだけでいいんですね。それで、オンコセ

ルカ症には、1億 700万人、それからリンパ系

フィラリア症に 1 億 2,000 万人が、2013 年、

実際投与を受けた、という報告で、2 億 2,700

万人がこの薬を飲んで、ああいう病気にならな

いようになったわけです。

成功した撲滅作戦 ブロンズ像がゴー

ルドに

それで、この写真は、私がガーナに 2004 年

に行って、現地を視察したときの写真です。子

どもたちは目が輝いています。本当に、貧しさ

というのを感じないですね。しかし、実際貧し

いんです。小学校に行っても、床がないんです

よ。土間ですね。白壁に墨を塗って、それが黒

板がわりというような状況で勉強しているん

ですが、子どもたちが非常に明るいです。

それで、もう終わりになってきますけれども、

ちょうどその撲滅作戦が始まったのが 1988 年

からです。1年たったところで、オランダのラ

イデンというところで、ちょうど西海岸 11 カ

国で試しにやっていたんですけれども、その成

果を発表する会がありまして、私も招かれて行

きました。そのときに、エブラヒム・サンバさ

ん、これがWHOの撲滅作戦を主導した部長さ

んなんですけれども、彼が私にお土産を持って

きてくれました。

これはわかりますね、子どもが、目がみえな

くなった大人を誘導している、こんな小さなブ

ロンズ像ですけれども、彼が言ったことを非常

にいま思い出すんですけれども、「プロフェッ

サー・大村、この病気がいま、あなたたちのこ

の薬で撲滅できれば、このブロンズ像は黄金に

なるよ、ゴールドになるよ」ということを言わ

れました。

そのとき、私、それを聞いてすぐに思ったこ

とは、しかし、薬というのは耐性菌という問題

があるわけです。何年かすると効かなくなる。

だから、完全に撲滅するまでに薬が効かなくな

Page 16: 私の歩んできた道 - Amazon S3 · 2018. 1. 19. · 私の歩んできた道 大村智 北里大学特別栄誉教授 (ノーベル生理学・医学賞受賞者) 2016年5月25日

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るということがあるのではないかなと、実は私

は、ふと一番先に思ったのはそれでした。

ところが、実際、それからもう 30 年もたっ

ていますけれども、耐性菌が出てくることなく、

撲滅作戦がどんどん成功してきています。

それで、本当にゴールドになったということ

で、(笑)私の話を終えたいと思います。

どうもありがとうございました。(拍手)

司会 大村先生、どうもありがとうございま

した。

もう一度大きな拍手をお願いします。クラブ

からお礼といたしまして、特製の万年筆をお贈

りさせていただきます。

これで社員総会の記念講演会を終わらせて

いただきます。本当に先生、ありがとうございまし

た。(拍手)

文責・編集部