143
Instructions for use Title 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによるロシア革命史再審と農業展望 : 農業・農民史研究の視 点から Author(s) 佐々木, 洋 Citation 北海道大学. 博士(農学) 乙第7097号 Issue Date 2020-03-25 DOI 10.14943/doctoral.r7097 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/78079 Type theses (doctoral) File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

  • Upload
    others

  • View
    3

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

Instructions for use

Title 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによるロシア革命史再審と農業展望 : 農業・農民史研究の視点から

Author(s) 佐々木, 洋

Citation 北海道大学. 博士(農学) 乙第7097号

Issue Date 2020-03-25

DOI 10.14943/doctoral.r7097

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/78079

Type theses (doctoral)

File Information Yo_sasaki.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

Page 2: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

ロシア革命史再審と農業展望

―農業・農民史研究の視点から―

北海道大学 大学院農学院

佐々木 洋

Page 3: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

目 次

序 章 小論の課題と独自性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

1.本論の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

2.異論派兄弟のロシア革命史再審の概観 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

3.「普通は考えられない共同作業」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

4.本論の独自性と関連研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

第1章 共著『フルシチョフ権力の時代』のソ連農業史再検討の試論 ・・・・・・・13

1.農業部門の収奪源から扶助・輸入部門への転換を糊塗する産金・産油国=ソ連・15

2.米アイオワ自営農の進取の精神と、農民性を亡くしたコルホーズ農民との落差・18

3.理念優先の急性改革とは別の、社会民主主義的で漸進的な選択肢がありえた・19

第 2 章 ロイ『10 月革命』とジョレス『ソヴィエト農業』によるのロシア革命史再審・25

第1節 『10月革命』1979 のロシア革命史再審の下図・・・・・・・・・・・・・・・26

1.ロシア内戦史の再検討:穀作地帯中農層が革命政権の穀物強奪政策に抵抗と反・27

2.レーニンの戦時共産主義期の過ちの歴史的背景と理論的根源・・・・・・・・・30

3.レーニン以降の歴代為政者も、レーニンと同じ農政上の過ちを繰り返す・・・・38

第2節 『ソヴィエト農業』1987 のロシア革命史再審とソ連崩壊の示唆・・・・・・・40

1.土地革命・農民革命としての 1917年革命と新経済政策=ネップの政治的限界・・43

2.1929-33 年の集団化のほうが 1917 年革命よりも根底的にソ連型社会主義に転換・46

3.ソ連の「アキレス腱=農業」の変容:「汲み移し」から「金食い虫」に・・・・・51

4.食糧を武器に使う米国と、逆石油危機による致命傷で崩壊する「産油国」ソ連・53

第3章 メドヴェージェフ兄弟がロシア革命史再審を成しえた五つの所以・・・・・・64

1.内戦やネップを体験した「歴史の後知恵」を活かす「選択肢的方法」・・・・・・64

2.伝統的共同体の地条農業の特性と一次大戦前ロシアの穀物商品化構造の理解・・65

3.クラークとは創意工夫に優れた家族経営の富裕農民=篤農家という歴史認識・・67

4.ソ連にも欧米型の家族経営の独立自営農が存在したし、存在しえたとの歴史認識 70

5.農政家コンドラーチェフや農民史家ダニーロフの実証研究に着目・・・・・・・72

第 4 章 ソ連農業失敗の経験から学ぶ世界史的教訓と持続可能な農業展望・・・・・・77

1.ソ連社会主義の農業実験の失敗と、ソ連農業にありえたもう一つの選択肢・・・77

2.ソ連農業の失敗から学ぶ五つの世界史的教訓と持続可能な農業展望・・・・・・82

終 章 要約と結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89

要約 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89

結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91

引用・参考文献一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95

メドヴェージェフ兄弟の著作歴年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111

付属統計資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・112

Page 4: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

1

序 章 本論の課題と独自性

1.本論の課題

『生物学と個人崇拝』1969や『ウラルの核惨事』1979の科学者ジョレスと、『歴史の審

判に向けて』1971や『社会主義的民主主義』1972の歴史家ロイという、メドヴェージェフ

双生児(1925年生れ)は、20世紀を揺るがした旧ソ連体制の、外部からは容易に推しはか

れない政治・経済・社会の体制的病理を、その内側から構造的に解き明かし、世界にひろ

く発信し続けた異論派 dissident(反体制民主派知識人)として知られる(注1)。

本論はとくに二人が共著『フルシチョフ権力の時代』1976、ロイ『10月革命』1979、ジ

ョレス『ソヴィエト農業』1987の三著と格闘する過程で(注 2)、ソ連の内側から、従来のソ

連公認史学のロシア革命史に対する根本的な再検討を試みる分野で、一連の注目すべき所

説を呈示したことに注目する。

本論は、ソ連の内側からのロシア革命史の根本的再検討を、歴史家ロイの代表作『歴史

の審判に向けて К суду истории / Let History Judge』にあやかり、「ロシア革命史の再審

Пересмотр истории русской революции / Retrial of the History of Russian Revolution」という。

『10月革命』は、一般に、革命後のロシア内戦は、政権の意図に反し、外から押し付け

られたとの理解があるところを、「内戦勃発と本格化の責任の多くは、政権が断行した農民

からの穀物強奪政策にある」と捉える。『ソヴィエト農業』は、いまなおロシア十月革命は、

プロレタリア=労働者革命との見方が根強いなかで、「根本は土地革命・農業革命 agrarian

revolutionであって、レーニンたちは、まさか都市と農村で別々の革命が、別個に進行し

ているとは気づかなかった」と見なす(注 3)。兄弟のロシア革命史再審は、三著のほか多岐

におよぶが、その基本はこの二著で展開されているとみてよい。

本論はまた、生物の加齢・老化 agingメカニズムの解明をライフワークとし、元来は放

射線分子生物学専攻のジョレスが、1980年にアメリカのカーター大統領が、ソ連のアフガ

ニスタン侵攻に対する制裁として、穀物禁輸を発動したのを契機に、次第に研究対象をソ

連農政史・政治史に移していき、その結果、ロシア革命史とソ連史の再審を進めるうえで、

歴史家ロイに劣らぬ重要な役割を演じたことにも注目する。

本論の目的は、歴史家ロイと農政史家ジョレスとが、一連のロシア革命史再審を試みた

その基本を特徴づけ、それを成しえた所以をも明示することにある。

本論は、この異論派兄弟によるロシア革命史再審の基本は以下三点にあると主張する。

第一は、1917年ロシア革命の根本は土地革命にあり、革命後の内戦の責任の多くは、新

政権が戦時共産主義のもとで断行した、農民からの穀物強奪政策にあること。

第二に、伝来のロシア社会を「ソ連型社会主義社会」へと根底的・不可逆的に変容させ

たのは、1917年ロシア革命よりも、1929~32年の農業の強制集団化であること。

Page 5: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

2

第三に、ソ連体制の「アキレス腱」といわれたソ連農業の欠陥が、集団化の結果、農村

住民の最も活動的・生産的な部分が、最初はクラーク層=篤農層の清算により、その後は

自発的な破滅 spontaneous destructionにより、損なわれたことに由来しており(注 4)、こ

の致命的欠陥こそが、最終的にソ連を崩壊に導いたこと。

早くから兄弟に注目していた元モスクワ特派員ハリソン・ソールズベリーは、ロイ(1979)

「前書き」で、兄弟が、「普通は考えられない共同作業」をすると紹介する一方、同書をソ

連内部からでた「ロシア革命再検討の最初の下図」と称賛し、「これが最後になることはあ

るまい」といい、続編の登場にも期待していた。

序章「本論の目的と独自性」は、以上の兄弟の主たるロシア革命史再審を概観する。ま

た、1973年に国外に追放されたジョレスと、ソ連国内で検閲・監視下にあったロイとが、

1987年の検閲停止まで、特派員らの提供する外交郵便 courierに支えられて「普通は考え

られない共同作業」を持続していたことを紹介する。

第 1章「共著『フルシチョフ権力の時代』のソ連農業史再検討の試論」は『10月革命』

1979と『ソヴィエト農業』1987のロシア革命史再審に活されていく論点をとり上げる。

第一には、ソ連が穀物輸入増大を金塊売却や原油輸出をもって糊塗することへの着目で

あり、この視点がジョレス『ソヴィエト農業』でも活かされている。第二に、フルシチョ

フによるソ連農業への米アイオワ自営農の活力導入の試みとその挫折の指摘、および、フ

ルシチョフには、「集団化以後、農民の精神をもつ人びとや、真の農民的伝統が事実上絶滅

された」という「ことの本質」を理解しなかったという指摘に注目し、この視点が兄弟の

ロシア革命史再審のスタンスに貫かれることを述べる。

第2章は二著に関する2節からなる。第1節「『10月革命』-ロシア革命史再審」は、同

書が戦時共産主義の過ちとその根源の考察が中心課題であることを指摘する。そのなかで、

「土地革命で土地を入手した穀作地帯の中農層は、穀物の無償譲渡に納得せず、彼らの穀

物自由取引と現物税導入を求めた。政権が 1918年にネップを導入していれば、反革命勢力

との内戦も最小限に留まった」とのロイの分析には、上の共著で、集団化以降に喪失した

という農民的伝統の体現者が、まさにこの中農層であることを指摘する。また、ロイは同

書で、レーニンの戦時共産主義期の過ちについて、欧州全交戦国が緊急避難的に導入した

穀物専売など戦時統制を、社会主義制度と誤解する一方、西欧革命が後進ロシアを助けて

くれるとの幻想に囚われ、さらにはマルクス・エンゲルスの「社会主義になれば商品も貨

幣もなくなる」とのユートピア的理解を鵜呑みにしたと指摘する。

第2節「『ソヴィエト農業』-ロシア革命史再審とソ連崩壊の示唆」は、同書が、一次大

戦と革命前に穀物輸出大国だったロシアが、とくに 1970年代以降、慢性的な輸入大国の転

落する過程を鳥瞰するソ連農業史研究であると位置づける。同書はまた、ゴルバチョフ就

任の矢先に国際原油市場が暴落、この衝撃が「産油国」としての恩恵で弥縫してきたソ連

Page 6: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

3

経済の「アキレス腱」、すなわちソ連農業の慢性的疾患を、まさに致命傷として顕在化させ、

ソ連そのものを崩壊させてしまうと診断した現代農業史研究でもあるとする。

しかし、本論が何よりも注目するのは、ジョレスに当初からその意図があった訳でない

が、同書が、帝政ロシアからゴルバチョフまでの農業・農民史を跡づける過程で、『フルシ

チョフ権力の時代』および『10月革命』の成果を活かし、敷衍することにより、その結果、

一連の「ロシア革命史の再審」を試みる労作となったところにある。

ジョレスのロシア革命史の再審のうち最重要なのは、1917年ロシア革命の根本が土地革

命にあるという所説である。2月革命に動転した領主=貴族地主が、播種期を迎えても春耕

せず、農耕期を前に農場を売却、逃亡し、それを許しがたいと見た共同体農民が、領主の

遊休地を強制収容する形で、10月の労働者革命よりも先に、土地革命が展開したという理

解である。ソヴィエト政府は、都市の労働者革命とは異なる別個の目標を掲げて進行中の

農村革命を理解せず、さらには戦時共産主義の強行により農民大衆を離反させ、それが内

戦の本格化につながったと解釈した見地がロシア革命史の再審であると述べる。

第3章「メドヴェージェフ兄弟がロシア革命史再審を成しえた五つの所以」では、第 1

章、第 2章を受けて、兄弟がロシア革命史再審を成しえた五つの所以を指摘する。

第一は、ロイの歴史研究の選択肢的方法がソ連史学の目的論、決定論の克服に有効であ

ったと指摘する。第二は、ロシアの割替共同体を、欧州農業の分割地所有農民への過渡的

形態であると位置づけたことの意義を指摘する。第三は、ボリシェヴィキが階級敵とみた

クラークとは多くの場合家族労働を基本とする富裕農民であり、篤農家であると認識した

こと。第四にはネップ最盛期に、小農層の、とりわけ中農・貧農の分割地所有農民として

の成長がみられたという史実認識。そして、第五にはコンドラーチェフやダニーロフなど

の非常に優れた実証文献に着目したことである。

第 4章「ソ連社会主義の農業経験からまなぶ世界史的教訓と農業展望」は、ジョレスが

提示したソ連農業の失敗とその世界史的教訓をとり上げる。失敗の原因は、集団化が最も

生産的で有能な「篤農家層」を抹殺し、次いで生産的な農民層全体が損なわれ、ソ連ではや

むなく農村に残留した「社会的弱者」しか耕していなかったとする。

ジョレスが提示した教訓の一つは「農業とは、その地域、地域の気候・自然環境・人間

社会の三者の理に叶う関係性である」というもの。「農民と大地との絆は、個人所有と個人

責任性によってしか」、そして「独立自営農民の家族労働経営によってしか鍛えられない」

との教訓もある。ほかにもあるが、これらの教訓は 1980年代末に提示されたものだが、こ

れは現在、人類が問われている「持続可能な人間社会」の農業展望ともいえる。

終章「要約と結論」では、ボリシェヴィキが、1917 年革命の根本が土地革命であったの

理解せず、「戦時共産主義」を強行し、内戦激化を招いたこと、また、集団化の結果、篤農

層と自営農全体を壊滅したことが、最終的にソ連を崩壊させたという、こうした兄弟特有

のロシア革命史再審の基軸となったのは、ソ連農業を、共著の 1976年時点まではただ単に

米・ソの対照で特徴づけていたのに対し、『ソヴィエト農業』の 1987年になると、ロシア

Page 7: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

4

の伝統的な割替地条農業を、欧州農業に共通する分割地農民の過渡的形態であると位置づ

けたことにあり、これが、農奴解放、ストルイピン改革、一次大戦と 1917年

革命、ネップ期の自営農復活、集団化と農業低迷、ソ連崩壊などをふくむ、帝政ロシア・

ソ連農業史全体の体系的理解を可能にしたと結論づけた。

2.異論派兄弟のロシア革命史再審の概観

西側で、メドヴェージェフ兄弟に、もっとも早くから注目していたひとりが、往年の「ニ

ューヨークタイムズ」紙モスクワ特派員であり、ソ連関係の多くの自著もあるハリソン・

ソールズベリーだった。その彼が、1979年にロイ著『10月革命』英語版の「前書き」執筆

を買って出て、こう書いている。

本書は、ロシア革命の再検討のための一つの下図であり、数十年もの間にソヴィエト・

ロシアの内部から生まれた、包括的で真摯なものの最初のものである。メドヴェージェ

フの判断が正しければ、それが最後のものになることはあるまい。・・・

・・・(ロイ・)メドヴェージェフが一〇月革命やレーニンの役割にことよせる哲学的

見地をこの前書きで強調しておくことには、少なからず意味がある。彼と兄のジョレス

は「例のないペア a unique pair」である。一方のモスクワの歴史家ロイはまだモスクワ

でどうにかくらしながら、そして他方の生物学者のジョレスは英国で亡命生活を送りな

がら、彼らはソヴェト体制についての我われの理解に独特の寄与をなしてきた。この双

子の兄弟は、別れ別れになりながらも普通では考えられない仕方で共同作業を行い、ど

ちらか一方が欠けることは考えられない。彼ら二人は真に注目すべきペアであって、ロ

シア革命の産物そのものである。(注 5)

実際、ロイ『10月革命』は従前のロシア革命観に対する画期的な再検討を試みた。例え

ば、上記のほかに、「戦時共産主義期」のレーニンの誤りの理論的根源が、貨幣や商業、商

品生産は社会主義の下で衰退するだろうとした、マルクスおよびエンゲルスの予言に含ま

れるユートピア的で非科学的な社会主義理解にあるとも指摘した。

同書はしかも、十月蜂起前の夏にはすでに農民の土地革命がはじまっており、10月のレ

ーニンの「土地布告」は、農民革命にただ、新たに強力な勢いをつけ加えたに過ぎない、

とも指摘していた。そのほか同書は、過去 50年のソ連史のすべての政治経済危機で、農政

上の誤りが繰り返されているとみた(注 6)。

ジョレスの『ソヴィエト農業』1987は、1917年革命は、根本的には土地革命、土地問題

の解決に決起した農民の自然発生的な叛乱であり、しかも、レーニンらは、都市と農村で、

プロレタリア革命と農村革命という別個の革命が、それぞれ異なる目標を掲げ、別々に進

行しているとは気づかなかった、と指摘する。この所説は、2月革命で成立した臨時政府の

Page 8: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

5

もろさと、ボリシェヴィキの十月蜂起の容易な成功とは、9月と 10月に進行中だった農村

における土地革命に由来するという理解にもとづく(注 7)。

当然ながら、ジョレスとロイは、ソ連崩壊後も、随時、ロシア革命観の再検討、旧ソ連

社会や新生ロシア社会の運命について、この兄弟ならではの一連の所説を発信してきた。

ロイ著『10月革命』刊行から、旧ソ連崩壊をへて、2017年秋の十月革命百周年記念の共

著論文(注 8)に至るまでに、メドヴェージェフ兄弟が随所で吐露してきた、一連のロシア

革命史の再審(あるいはロシア革命観の転回、再検討)には、様々なものがあるが、そこ

には以下に概略する所説が含まれる(注9)。

① 1917年革命は第一次大戦の総動員の破綻、および敗戦に伴なう危機と飢餓の所産で

ある。地主地を没収する土地革命=農民革命が、10 月革命前から村々で始まっており、レ

ーニンたちは、まさか異なる目標を掲げた二つの革命が、つまり都市の革命と農村の革命

が、それぞれ別個に進行していると気づいていなかった。1929~33年の農業集団化は、1917

年革命後に生じた最重要の出来事であり、農村の共同体とわが国の生活の全分野を根底的、

恒久的に変容させた。スターリンの集団化は、1920 年代のネップ期にありえた別の選択肢

を拒んだ結果として生じた。

② 1918年に革命政権は、憲法制定会議の強引な解散と、農民の穀物を強奪する食糧独

裁という、重大な過ちをおかした。この「戦時共産主義期」の過酷な穀物強奪政策こそが、

テロルや内戦を誘発し、長引かせ、深刻化させた。ロシア内戦は、実質的に、貧農委員会

と食糧徴発部隊によるクラーク(富農)の一掃から、すでに始まっていた。1918 年に農民

から穀物を強奪する食糧独裁ではなく、ネップ型の食料調達政策を採用していれば、外国

の干渉軍の試みも、何も達成させずに済んだ可能性がある。さらに内戦期の憎悪、猜疑心

がのちにスターリン専制体制が構築されるひとつの歴史的温床にもなった。

③ 市場経済を全否定して農民から「余剰穀物」を強奪した「戦時共産主義期」の農業

政策の誤りの理論的根源は、貨幣や商業、商品生産は社会主義の下で衰退するだろうした

マルクスおよびエンゲルスの社会主義理解に含まれるユートピア性・非科学性にある。そ

こにはまた、配給制や穀物専売など緊急避難の戦時統制を、社会主義制度と誤解する一方、

西欧革命が後進ロシアを助けてくれるとの幻想に囚われていたこともかかわる。

④ 1929年からのスターリンの「上から革命」=農業集団化が、個人所有と個人責任に

よってしか鍛えられない、大地と共生する農民の創意や心理、伝統を根底的に破壊してし

まった。ソ連で生じた大規模な環境破壊・生態系破壊も、その延長上で生じた。

⑤ 旧ソ連と、現ロシアの政治的実験には継承性、連続性がなく、レーニンからプーチ

ンに至る歴代政権が、同じ過ち=強制と破壊を伴う性急な「改革」を繰り返してきた。

⑥ 巨大で多彩なモザイク状の旧ソ連は、唯一の政治組織=共産党が権力を独占し、強

大な保安機関たる KGBがタガを締める以外に、政治的統一を支える拠り所がなかった。

⑦ 旧ソ連の党と国家権力の歴史の偽造・隠蔽体質である。不都合な時期の人口・農業・

Page 9: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

6

貿易などの統計が今も欠落する。ウラルとチェルノブイリの二大核事故の人的被害の全貌

は不明なままだ。農業・工業の闇経済と、数値偽造(党公認の「書き足し приписки プリピ

スキ」という詐欺があった)で創作した生産高の割合を査定する為政者限定版の統計編も

あった。アンドロポフの腐敗撲滅作戦が必至になったのは偽造なしの信ぴょう性ある情報

を欠いては、まともな計画化などありないからだった。

⑧ 独ソ戦勝利には米英の対ソ援助のほかに、独・ソ特有の要素もあった。ドイツでは

多くの優秀な科学者が亡命し、米英で研究を続けた一方で、ソ連ではすでに処刑されたも

のを除き、特別収容所内の研究センター内で、多くの囚人科学者と、まだ逮捕されていな

い専門家との共同開発を組織した。収容所内の研究が、間もなく軍事バランスをソ連側に

有利に変えた。ツポレフの軍用機やコロリョフのロケットの威力を知らぬものはいまい。

⑨ ソ連では、学問研究が、技術や経済進歩の推進力にはならなかった。学問は常に、「復

興」を繰り返し、技術と経済の発展は、基本的にはすで外国で達成されたものの模倣を通

じて行われてきた。

⑩ 十月革命は、民族独立運動や、中国革命への影響など、世界史の一大転換点となっ

たが、ロシアの人びとには幸福と正義をもたらさなかった。十月革命 100年の現ロシアは、

経済も福祉も健康も諸外国の後塵を拝する一方、いまだにあまりに多くを核ミサイル開発

に浪費しており、ウラルとチェルノブイリと福島の核事故を体験しても、核の抑制に向け

たイニシアティヴを発揮していない。

3.「例のないペア」による「普通は考えらない共同作業」

2018年秋、米英主要紙がジョレスへの弔辞で、ほぼ半世紀前の 1970年に、ソ連 KGBが精

神病棟に拘禁したジョレスを、内外の知識人が無事釈放させた事件を想起させた。

異論派兄弟の存在が広く知られたのは、ロイが指揮しサハロフやソルジェニーツィンが

加わる釈放運動を西側モスクワ特派員が連日、本社に打電したのが契機だった(注 10)。

ジョレスの精神病棟拘禁は、国内出版を禁じられたサミズダート=地下出版/自主出版

の『生物学と個人崇拝』を米英で公刊したことへの KGBの報復措置だった。

KGBは当時ソルジェニーツィンを国外に追放。ソ連軍がアフガンに侵攻すると、平和運動

家サハロフを、外国特派員が接触不能な内陸に隔離。KGBはロイ著 1971刊行を予告する

米社カタログに驚き、「ロイによるレーニン図書館貴重書窃盗事件」を捏造し裁判にかけた。

ゴルバチョフ登場まで、サハロフを内陸に隔離中だった同時期に、ロイの来客を住居の階

段でKGB職員がチェックするなど、軟禁に近い状態のときもあった(注 11)。

ジョレス『ソヴィエト農業』1987「まえがき」の謝辞は、「数十冊の本や雑誌類を提供し、

また、長期にわたり農業関係の数百に及ぶ新聞の切り抜きを送り届けることで支え続け、

ソ連邦内部での諸展開を私が追究するのを可能にしてくれた弟ロイに感謝したい」と、同

書刊行までにロイとの膨大な交信があったことを示唆するが、これだけだと、ソールズベ

Page 10: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

7

リーのいう「普通は考えられない共同作業」の独特さが十全に伝わってこない(注 12)。

だが、ソ連崩壊後に初めて、モスクワとロンドンに切り離されたロイとジョレスとが、

1973年から 1988年まで設けていた非公式な連絡回路の存在が明らかになった。

本論筆者が同書邦訳版 1995刊行のため、1993年にジョレス宅でインタビューした一項目

が、この非公式な連絡方法だった。質疑の詳細はある雑誌の会見記に載せた(注 13)。

ジョレス証言録から非公式回路の実際についてのみ、以下六点にわたり概説しておこう。

① 1973年(ジョレス国籍剥奪)~1988年(ソ連の検閲廃止)にかけ、兄弟は、一種の

非公式な連絡回路を設け、ロイは執筆中の草稿をこの回路を通じ、ジョレスに送付。ジョ

レスは草稿への論評のほか、多くの文献をモスクワに返信し、彼の家計も支援した。ロイ

は 1971 年非合法出版を廉に失職処分、以後 1989 年ソ連人民代議員選挙に当選・ソ連最高

会議議員選出まで、18年間無収入だったからだ(ロイの妻には給与所得があった)。

私信は検閲されるが、通常の郵送も可能だったため、普通の用紙から良質のカーボン紙

やタイプライターに至るまで、欠乏を訴えるものは何でも普通小包便で郵送した。

「ロイへの紹介状が欲しい」旅行者には「何か運んでくれる場合だけ紹介状を書く」と

応じ、連絡網を設けた。しかし、彼らにロイ宛ての草稿の類は託したことはない。

② ロイとの率直な議論、草稿や文献その他重要資料の交信には、別途、特に米・英の

モスクワ特派員が提供する非公式回路を利用した。米特派員団は外交特権を行使できる世

界唯一の記者団だった。記者が外交特権郵便クーリエ courie を利用できる国際協定はない

が、米国大使館は、自国特派員団に、本社との通信連絡用にその使用を認めていた(注 14)。

③ ジョレスが直にロイ宛て荷物や私信を特派員に託したわけでない。ロイ著英語版 Roy,

Let History Judgeをモスクワのロイに送る場合、同封の宛て先に「在ヘルシンキ・米国大

使館気付ニューヨークタイムス紙モスクワ支局長ヘドリック・スミス記者殿」と記し、モ

スクワでなくヘルシンキ宛てにロンドンから郵送する。在ヘルシンキ米国大使館は、当地

で受領した courie を、モスクワの花形特派員スミス記者に発送する。別便でそれがロイ宛

郵便物である旨、告知済みのため、同記者が郵便物を無事にロイに届けてくれる。1970 年

初頭~80 年代にソ連専門家 Sovietologist や米国人記者は、ロイやサハロフやソルジェニ

ーツィンなどの異論派、あるいはユダヤ人活動家との緊密な連絡を維持するのに腐心して

いた。

④ 兄弟は、私信も交換したが、私信が紛失した例はない。ただ私信は「何か郵送され

たし」など実務的用件に限り、草稿や政治的覚書の郵送は一切ない。courie はオーストリア

とフィンランド経由が多かった。ジョレスはロンドンに居ながら、外部からは容易に見え

ない、ソ連内部の政治・経済その他分野の論議に精通できていた。ただし誰もがロイとの

個人的接触を厳しく妨害された 1984~85年は、この連絡回路を維持するのは至難の業だっ

た。

⑤ 兄弟の非公式回路を支えた代表的な特派員はワシントンポスト紙ロバート・カイザ

Page 11: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

8

ー記者とニューヨークタイムズ紙のヘドリック・スミス記者だが、ロサンゼルスタイムス

紙、あるいは著名週刊誌の記者らも支えてくれた。彼らが帰任すると後任記者らが、この

回路を支える「業務」を引き継いだ。ほかに『ブハーリンとボリシャヴィキ革命』の著者

スティーヴン・コーエンのような著名研究者も、長期・短期のソ連滞在研修中に回路を支

えた。

⑥ 補足がある。ソ連崩壊後に判明したことだが、特派員団や Sovietologist が媒介し

た courie の動向は、すべてCIAが掌握していたようだ。異論派たちも米ソ情報戦争の真

っ只中にいた。KGBは、一部を残して監視を強め、一部を追放し異論派の分断と孤立に

成功したが、その高価な代償を米メディアと国務省・CIAに支払っていたのである(注

15)。

4.本論の独自性と関連研究

本論の独自性は三点ある。一つは、ジョレスとロイの、兄弟それぞれの個々の単著の、

ロシア革命史の再検討やソ連崩壊に関する所説をとり上げた研究は存在するが、ロシア革

命とソ連の運命を兄弟がどう論じたのかという全体像を考察した研究はない。この点、本

論は、内外初めての試みである。

第二に、兄弟の主要著作のうち、とくに、共著『フルシチョフ権力の時代』、ロイ『10月

革命』、ジョレス『ソヴィエト農業』の三著が、兄弟によるロシア革命史再審に最もかかわ

りの深いとみるのも、本論の特色である。

第三に、ソールズベリーのいう「普通は考えられない共同作業」の内実を明示するのも

本論の特色の一つである。本論の確信するところでは、ソールズベリーも、コーエンも、

この件について、証言を残すことを意識的に避けたと判断する。それは、この非公式回路

を支えたほかの当事者たち、すべてに共通している。

本論では、共著『フルシチョフ権力の時代』とロイ『10月革命』とジョレス『ソヴィエ

ト農業』の三著の時系列を理解する資料として兄弟の著作歴一覧を作成した。

また、本論では、巻末に、この三著それぞれの所説にかかわるソ連農業の動向に関する

付属統計図表資料を掲げてある。本文で、図表番号を示し、巻末の付属資料の参照を求め

ることがある。

本論の課題自体の先行研究はないが、関連分野の既存研究はある。

《例のないペア》の生きざまに注目したのが、前述のように H・ソールズベリーであり、

S・コーエンだった。わが国では共著『フルシチョフ権力の時代』の邦訳者の下斗米伸夫に

よるこのペアの重要性についての解説がある(注 16)。

邦訳『10月革命』には石井規衛の優れた訳者解説(1989)がある。邦訳『ソヴィエト農業』

には、崔在東(2012)の示唆的な指摘がある(注 17)。

Page 12: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

9

ロイの『10月革命』にはコンドラーチェフ(1922)『穀物市場』の実証研究に負うところ

がある。同著を重視する文献に、バーネット著(1998)や小島修一(2002,2008)がある。わ

が国で、コンドラーチェフ(1922)の実証的統計資料を活用した研究として、松里公孝(1988)

がある(注 18)。

ロシアの共同体農業の主要な欠陥として、「散在する地条(極端に幅が狭く細長い圃場)

の定期割替原則」に注目する兄弟の所見には、農民史家ヴィクトル・ダニーロフの所説に

負うところがある(注 19)。また、兄弟のロシアの共同体農業の理解には、亡命ユダヤ人の

学究ボリス・ブルツクス Boris Brutzkusの所説にも類似性がみられる。ブリツクスについ

ては森岡真史のすぐれた研究書『ボリス・ブルツクスの生涯と思想』2012がある(注 20)。

また、旧来の公式的な規定と異なるロイとジョレスの伝統的な農業共同体およびクラー

ク=富農の性格規定の理解には、溪内譲の『ソビエト政治史』(1962)から『上からの革命』

(2004)に至る一連の歴史的考察が示唆に富む(注 21)。

戦時大動員の破綻、敗戦、飢餓の革命については、梶川伸一の一連の研究がある(注 22)。

「農民の大地の絆は、個人所有と個人責任性でしか鍛えられない」というソ連農業の世

界史的教訓は、平田清明(1969)らの「個体的所有再現」論議にかかわる(注 23)。

ソ連における大規模環境破壊に関する研究に、地田徹朗の論稿「戦後スターリン期

トルクメニスタンにおける運河建設計画とアラル海問題」(2009)、および徳永昌

弘『20 世紀ロシアの開発と環境』 (2013)がある(注 24)。

本論が、兄弟がクラーク(富裕農)の実像が、日本農業史に登場する「篤農家」や「老

農」にも通ずると考えた契機は、守田志郎(1973)や暉峻衆三(2005)がある(注 25)。

注記 序章

注 1:著作年表の初期代表作が Zhores Medvedev, The Rise and Fall of T. D. Lysenko (1969) (邦訳『ルイセンコ

学説の興亡』)., Nuclear Disaster in the Urals (1979) (邦訳『ウラルの核惨事』). Roy Medvedev, Let History Judge

(1971)(邦訳『共産主義とは何か』)., De la démocratie socialiste (1972) (邦訳『社会主義的民主主議』)。

ジョレスの The Rise and Fall of Lysenko やロイの Let History Judgeが、日本をふくむ西側言論界に与え

た衝撃を知らない旧ソ連専門家はいない。両書とも西側で脚光を浴びる前の 1960年代半ばに、紙挟み入り

のタイプ稿が、手渡しで回覧されるサムイズダート(自主出版=地下出版)という出版形態で、カピッツ

ァやサハロフなどの核物理学者、詩人トワルドフスキーや作家シーモノフ、『収容所群島』を脱稿する前の

ソルジェニーツィンなど、当時屈指のソ連知識人の周辺に広まっていた。ロイ著はのちの KGB 議長と党書

記長アンドロポフも読んでおり、ジョレス著は、えせ科学者ルイセンコによる農学と遺伝学の支配に加担

してきたソ連農業省上層部に脅威を与えていた。

金光訳『ルイセンコ学説の興亡』と梅林訳『ウラルの核惨事』は英語版の重訳である。英語版 The Rise and

Fall of T. D. Lysenko が露文テクスト 3 割を省略したため、英語版を底本とする他の外国語版では、論争当事

者でもあった著者の真意が十分伝わらない。現代思潮新社刊の『ジョレス・メドヴェージェフ&ロイ・メ

Page 13: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

10

ドヴェージェフ著作集』全三巻全四冊』に収める名越陽子訳の『生物学と個人崇拝』2018 と『ウラルの核

惨事』2017 は、世界初の露文テクストからの外国語版である。同著作集が収める名越陽子訳『歴史の審判

に向けて』2018、は、石堂訳『共産主義とは何か』の露文底本とは異なり、ロイが 1989 年に増補改訂した、

新たな露文テクストをもとにしている。

注2:三著は、Zhores & Roy Medvedev, Khrushchev, The Years in Power (1976) (下斗米伸夫訳『フルシチョフ

権力の時代』御茶ノ水書房、1980年)、Roy Medvedev, The October Revolution (1979), (石井規衛訳『10

月革命』(1989)、Zhores Medvedev, Soviet Agriculture (1987),(拙訳『ソヴィエト農業 1917-1991-集

団化と農工複合の帰結』北海道大学図書刊行会、1995年)。

注3:『10月革命』最後の「若干の結論」。『ソヴィエト農業』vii, 28頁参照。

注 4:ここでいう「自発的な破滅」については、ジョレスの以下の一文を参照。「集団化の結果、農村住民

のなかの最も活動的かつ生産的な部分が、最初はクラーク(=富裕農)の絶滅により、さらにその後は、

内発的に損なわれてしまった。仕事のつまらなさ、個性の否定、責任の欠如、農民の劣等な社会的地位、

自由や起業心に対する夥しい制限、がんじがらめの規制、不人気な支払方法、地方官僚への依存、孤立し

た農村生活をときに襲う極端な陰うつさなどなど、これら一連の事情によって、最も有能で、若く、行動

力のある人物が、あらゆる犠牲を払ってまでコルホーズやソフホーズから足を洗おうとやっきになってき

たのである。」『ソヴィエト農業』318頁。

注 5:『10月革命』「前書き」12-19頁参照。ハリソン・ソールズベリーHarrison Salisbury は、「ニューヨ

ークタイムズ」特派員として 1949~54年にモスクワ滞在した著名なジャーナリストであり、かつ作家。The

900 Days: The Siege of Leningrad (1969),(邦訳『攻防九〇〇日-包囲されたレニングラード』(1972)、

Black Night, White Snow: Russia's Revolutions 1905-1917 (1978)., (邦訳『黒い夜、白い雪:ロシア

の革命 1905-1917』(1983)、などでも知られる。

注 6:『10月革命』149-150、264頁。

注 7:『ソヴィエト農業』vii, 20-21, 28頁。

注 8:2017 年初秋、兄弟から『週刊金曜日』誌宛て、ロシア十月革命記念の投稿が寄せられた。同誌はそ

れを ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ共著論文「『10 月革命』はロシアの人びとに幸福をもたらさなか

った-「異論派」兄弟が見たレーニンからプーチンまで」と題する 4 回の連載記事として掲載(『週刊金曜

日』1159、1161、1162、1163 号、2017 年 11 月~12 月)。同共著論文の露文テクスト Жорес Медведев и Рой

Медведев, От Ленина к Путину,"2000", 2017.は、キエフの週刊誌「2000」の電子版にアップされている。See

https://www.2000.ua/v-nomere/aspekty/istorija/ot-lenina-k-putinu.htm.

注 9:兄弟に特有な「ロシア革命史の再審」については、前掲の『10 月革命』、『ソヴィエト農業』、『フル

シチョフ権力の時代』、『週刊金曜日』連載記事以外に、さしあたり以下を参照。Zhores Medvedev, Soviet

Science (1978) pp. 33-36.(邦訳『ソ連における科学と政治』30-34頁)., Рой Медве́дев, Русская революция

1917 года (1997) с.4-5.94-99.,(ロイ著/北川和美・横山陽子訳『1917年のロシア革命』、13-14、142-147 頁)., ジ

ョレス基調報告『市場社会の警告』51-56, 201-205 頁、249-250 頁。

注 10:ロンドンのジョレスが、2018 年 11 月 25 日永眠した。満 93 歳だった。モスクワのロイは健在であ

る。ジョレス急逝をうけ、翌 11月 16日以降、米紙ニューヨークタイムズや同ワシントンポスト、そして

Page 14: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

11

英紙ガーディアンなどの電子版が、相次いで長文の追悼記事をのせた。訃報の主要紙電子版は、

www.nytimes.com/2018/11/16/obituaries/zhores-medvedev-dead.html.,

www.washingtonpost.com/local/obituaries/zhores-medvedev-dissident-soviet-scientist-who-was-arr

ested-then-exiled-dies-at-93/2018/11/17/story.html

www.theguardian.com/world/2018/nov/23/zhores-medvedev-obituary。

どの記事も、1970年 5~6月にモスクワ近郊カルーガで起きた衝撃的な事件、つまり KGBが精神病棟に

拘禁したジョレスを、ソ連異論派による内外の抗議運動が 19日目に無事、釈放させた事件に言及、往時を

想起させている。訃報記事が示唆するように、メドヴェージェフ双生児が、後のノーベル平和賞受賞者サ

ハロフおよび同文学賞受賞者ソルジェニーツィンとともに、ソ連異論派の代表的存在として一躍注目され

るようになったのは、1970 年 5月、KGBがジョレスを、精神病棟に拘禁したとき、3週間で彼を釈放させ

たソ連異論派の闘いの勝利だった。このときロイが指揮し、サハロフやソルジェニーツィンなど、多くの

内外著名人が加わったジョレス釈放運動を、西側モスクワ特派員が連日、母国に打電した。同年 5-6 月の

ジョレス釈放運動については、日本でも報じられた。『朝日』、『毎日』、『道新』などの 6月 1日、3日、18

日などの記事を参照。このうち米紙誌特派員が、後述の「非公式回路」を支えることになる。

ジョレスの精神病棟拘禁は、サミズダート(地下出版=自主出版)の『生物学と個人崇拝(英語版書名

Rise and Fall of T.D. Lysenko)』を海外出版したことへの KGBの報復だった。ジョレス拘禁と釈放運動

には、共著ドキュメンタリー書がある。Zhores & Roy Medvedev, A Question of Madness. (1971)., 石堂

清倫訳(1977)『告発する!狂人は誰か 顚狂院の内と外から』。ロイ回想記「サハロフに関する回想より」

メドヴェージェフ兄弟共著/大月昌子訳『ソルジェニーツィンとサハロフ』(2005),90-94頁も参照。

注 11:拙稿解題「スターリン主義批判の記念碑的労作」『歴史の審判に向けて』(下)、420-421 頁。ジョレ

ス新刊エッセー集(2019)『危険な職業 Опасная Профессия』所収第 10章「合衆国での『歴史に審判に向け

て』の公刊"К суду истории" издается в США」や、第 14章「ロイが逮捕から身を隠す Рой скрывается от ареста」

などを参照。同書原典は Жорес Медведев (2019), Опасная Профессия, Время,,с. 144--146, 196-198.

注 12:『ソヴィエト農業』ix頁。

注 13:拙稿インタビュー記事(1993)「わが人生、わが研究――ジョレス・メドヴェージェフ大いに語る」、

季刊『窓』18号、131-134頁。

注 14:外交用語クーリエ courier は、外交文書を本国と各国大使館・公使館等の間や大使館・公使館相互

間で運搬する業務のこと。外交文書は機密文書も多く含むことから、運搬業務に際し厳重に封印を施し

"DIPLOMAT(外交官)"の文字を印刷した機内持ち込み可能の巾着袋「外交行嚢」(外交封印袋)を用いる。

また、一般に外交特権の一種として、行嚢の中身を税関などで確認しないことも認められている。

注 15:ジョレス・メドヴェーヂェフ (2005)「ロンドンでの最初の一年」メドヴェージェフ兄弟共著『ソ

ルジェニーツィンとサハロフ』284-285頁。

注 16:注4のように、ソールズベリーはロイ著『十月革命』(1989)に「前書き」の執筆を買って出た。そ

の前年に、労作『ブハーリンとボリシェヴィキ革命』(1973)で知られる歴史学者スティーヴン・コーエン

Stephen Cohen が、兄弟の共著『フルシチョフ権力の時代』英語版第二版に「前書き」を寄せていた。兄

弟と同年齢のコーエンも、双生児の存在にもっとも早くから注目していたひとりであり、2010 年代前半ま

Page 15: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

12

でジョレスとコーエンとはメール交信の仲間同士だった。

共著『フルシチョフ権力の時代』の邦訳者下斗米伸夫による同書巻末の論稿「解説・フルシチョフ再考」

の末尾近くに、以下のような指摘があり、示唆に富む。「ソビエト社会はそれ自体、外部の研究者、観察者

にとって理解し難いだけでなく、しばしば指導者の特権維持と、反面での自信の欠如からもたらされる情

報の欠如によって、一層不可解なものになっている。スターリン時代の「巨大な嘘」「ロシアの謎」(A・シ

リガ)といった表象は、現在では緩和され、相当量の情報の入手も許容されてはいるが、その政治的側面

は依然謎につつまれている。このようななかでメドヴェージェフ兄弟によってもたらされた、本書をはじ

めとする一連の労作は、ソビエト社会の多様な側面と過程に光をあてており、我われのソビエト社会に対

する理解を豊かなものにしている。ソビエト社会に対する判断がしばしば荒唐無稽なまでに不正確な認識

に支えられている例は、最近顕著となっている。しかし、ソビエト社会への理解が「現代」認識に不可欠

となっている今日、この批判的知性から学びうるものは多い」。同書 229 頁。

わが国で、もっとも早くから、メドヴェージェフ兄弟に注目し、しかも、モスクワのロイと、ロンドン

のジョレスとも、直接、交信していたのが石堂清倫である。石堂はロイとジョレスの一連の著作、雑誌を

邦訳し、わが国に、異論派メドヴェージェフ兄弟の存在を知らしめた。石堂清倫著『20世紀の意味』平凡

社、2001 年。同書 II 部のパラグラフ「ロシア革命と世界革命」、「メドヴェーデフのスターリン批判」を

参照されたい。同書 89-97頁。

注 17:石井規衛(1989)「訳者解説」。野部公一・崔在東編著 (2012)『20世紀ロシアの農民世界』の崔在東

による編者序文を参照されたい。

注 18:Vincent Barnet, Kondratiev and the dynamics of the Development: Long Cycles and Industrial Growth in

Historical Context (1998) .,(ヴィンセント・バーネット著/岡田光正訳『コンドラチェフと経済発展の動学』

(2002). 小島修一(2002)「コンドラーチェフとロシアの農業発展」,――『二十世紀初頭ロシアの経済学者

群像』(2008)., 松里公孝(1988)「総力戦と体制崩壊 : 第一次大戦期の食糧事情を素材として」, ―― (2017)

「総力戦社会再訪――第一次世界大戦とロシア帝政の崩壊」、В.П.ダニーロフ著/荒田洋・奥田央訳『ロシ

アにおける共同体と集団化』のほかに、ジョレスが参照したダニーロフ編集の二巻本Данилов (1977, 1979)、

すなわち『ソヴィエトのコルホーズ以前の農村;人口・土地利用・経営』1977、『ソヴィエトのコルホーズ

以前の農村;社会構造・社会関係』1979 がある。

注 19:森岡真史のブルツクス研究は『ボリス・ブルツクスの生涯と思想――民衆の自由主義を求めて』(成

文社、2012年)。崔在東(2017)『近代ロシア農村の社会経済史――ストルイピン農業改革期の土地利用・土

地所有・協同組合』も参考になる。

注 20:溪内譲の『ソビエト政治史』(1962)と『スターリン政治体制の成立』四部作(1970,1972,1980,1986)

及び『上からの革命』(2004)。また、奥田央の『ヴォルガの革命』(1996)と編著『20 世紀ロシア農民史』

(2006)の歴史的考察も示唆に富む。

注 21:梶川伸一の『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民;戦時共産

主義下の農村』、『幻想の革命』など。

注 22:平田清明(1969)『市民革命と社会主義』。

注 23:地田徹朗 (2009)「戦後スターリン期トルクメニスタンにおける運河建設計画とアラル

Page 16: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

13

海問題」『スラヴ研究』 56 号。徳永昌弘 (2013)『20 世紀ロシアの開発と環境』。

注 24:守田志郎(1973)『小さい部落』や 暉峻衆三(2005)『日本の農業 150年』。西村卓(1997)『「労農時

代」の技術と思想』も参考になる。

第1章 共著『フルシチョフ権力の時代』のソ連農業史再検討の試論

本共著も、序章で述べたような、外からは容易に推し測れない旧ソ連の体制的病理を、

内側から構造的に解き明かし、世界に発信し続けた異論派兄弟による労作の一つである。

共著の刊行当時(1976 年)、フルシチョフの死後 5年、失脚後 12年も経ており、西側では

自叙伝をふくめ元指導者に関する多くの書物が出ていたが、それでも西側が殆ど知らない

できたフルシチョフの多様な横顔を本共著が初めて明らかにしたからだ(注1)。

ジョレスは、共著序文でこう述べる。この指摘は、その通りである。

西側にはフルシチョフ関連の多くの文献が存在するが、ソ連では、フルシチョフ関連

の書物が存在しないだけでなく、1964年以降は、わずか 1971年の短い死亡記事以外には、

彼の名前さえ挙げられなかった。ロイと私とが、それぞれスターリンとルイセンコにつ

いての本を書いていた当時、数十冊もの回想、批判的論文、そして、豊かな文献その他

の資料を手にすることができたが、フルシチョフが権力から追われた 1964年以降、これ

と似たことは何も起こらなかった」。したがって、「本書は、ロシア人による、最初のフ

ルシチョフ諭であり、彼の改革と政策とを、その改革の「内側」で受けとめた者の観点

から、事実上はじめて分析した試みである。(注2)

共著『フルシチョフ権力の時代』の国際的視点 本論は、殊に本共著の特性である、ソ

連農業をみる国際的視点に着目する。それは、この対外的な対照のなかでソ連農業をみる

という同共著の考察視点が、『10月革命』1979と『ソヴィエト農業』1987に、とくに後者

でのロシア革命史の再検討ないし再審に、積極的に受け継がれ、ソ連農業の世界史的な視

点での考察に繋がっていくからである。

ここで本論のいう本共著の国際的視点にはふたつある。

その第一は、共著者が、コルホーズ農民の生産性とモラールの低さを、フルシチョフの

友人でもあった、アメリカのアイオワ州の独立自営農民の生産性と活力の高さとの対比で

歴史的に考察する視点を呈示していることをいう。

共著の考察によれば、フルシチョフは、アメリカの独立自営農民の活力の所以を彼なり

に理解し、自主独立の営農方法のソ連導入を試みるが、朝令暮改もあり、挫折する。コル

ホーズ農民が笛吹けど踊らないのはなぜか。この米ソを国際対比するこの問いかけが、メ

ドヴェージェフ兄弟のソ連農業史再検討の営みに通底していると、本論は考える。

第二は、一次大戦前の帝政ロシアが穀物の主要な輸出大国であったのと対照的に、1970

Page 17: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

14

年代以降のソ連が世界最大級の穀物輸入国に転落したことから、ソ連農業が、ソ連財政の

巨額な赤字部門であるのみならず、国際収支上でも巨額な赤字部門としての性格を呈する

ようになり、そのうえ、ソ連農業の対外依存の深まりが、世界経済・国際金融・世界市況

の動向の不安定要因にもなってきた状況を、共著者が重視していることをいう。

自国農業が、自国民を養えなくなっていることへの危惧。人間社会の存立の基礎として

の農業のあり方の考察。これもまた、兄弟のソ連農業史再検討の営みに通底していると、

本論は考える。ソ連農業が世界穀物需給の攪乱要因になりつつあることは、兄弟にとって、

1963-1964年にフルシチョフ農政研究の共同作業を始めた当初から、焦眉の問題になってい

た。

すなわち、1963-1964年には、フルシチョフの失政から食糧不足と経済危機が生じ、世界

第二の産金国=ソ連が急きょ、飢饉を回避するために、金塊 500トンをロンドン金市場に

搬送し、ソ連史上初めての穀物の大量輸入を余儀なくされた時期でもある。ロンドンへの

金現送は、本論の巻末付属統計図表の表 1-7を参照されたい。

表 1-7の出典は、Gold Fields Mineral Service Ltd 社(ロンドン)の 1978-1995年の公

表データによる。1976年刊行の共著者が本データを閲覧するのは不可能であるが、兄弟が

指摘するソ連の金塊売却が資本主義圏の金市場を揺るがす規模のものだったことが表 1-7

でも確認できる。年平均ベースで 1961-65年が表示期間の最大であり、新産金の売却では

足りず、退蔵金まで取り崩していた。

本諭巻末の付属統計図表集について ここでひとこと本論巻末に用意した付属統計図表

に言及しておこう。

本章、第 1章関係は、フルシチョフ時代のソ連農業の特徴的動向を示唆する資料を用意

した。図1と、表 1-6、表 1-7を除けば典拠は基本的に、ソ連国民経済統計であり、ソ連国

民が誰でも利用できる一般統計を加工したものばかりである。国家調達価格の引き上げに

関する、表 1-2aの原資料も、基本的には同じであり、一部 1964年のフルシチョフ報告が

使われているが、これも識者にはよく知られていた。

第 1章関係の付属統計図表では、1953-64年のフルシチョフ時代がスターリン時代と比べ

農業の生産性が改善され、政府買い上げ価格が引き上げられたこと。農産物の増産が、作

付面積の増加に依存し、その多くが処女地開発によることのほか、穀物以外の農畜産物の

生産が、自留地=宅地付属地の副業菜園(後述)に大きく依存し続けていることなどの特

徴が表示されている。

兄弟によるフルシチョフ農政の共同研究で注目する三つの所説 二人の共同研究には、

1971年にブレジネフ政権による、ロイの家宅捜査と、スターリンおよびフルシチョフに関

する調査研究資料の没収という手荒い妨害があったが(注 3)、10年余の努力がみのり、1976

年に共著『フルシチョフ権力の時代』として公刊される。

Page 18: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

15

フルシチョフが、非スターリン化とソ連農業の欠陥の修復のため、果敢かつ衝動的でさ

えある革新者として功績を残した反面、多くの場合さしたる予備知識もなく、短兵急であ

ったため、とくに農業で重大な失政を繰り返し(注 4)、失脚を強いられたという元指導者

の破天荒な行動様式の所以を活写したのは、同書の貴重な功績であると本論は考える。

フルシチョフが政権の座にあった 1953-64年は、スターリンの大量テロルと収容所群島

の時代、農民にとっての「半奴隷的」・「半封建的」な時代から、「雪どけ」をはさみ、非ス

ターリン化、平和共存、デタントへの方向へと、ソ連が、さまざまな揺れ戻しを含みなが

らも、政治的、社会的改革を模索していた時期にあたる。

他面、フルシチョフ時代は、兄弟自身にとっても 20歳代後半から 30歳代後半期でもあ

り、ふたりはこの同時代史の希望と失望とに直にかかわってきた。

共著序文はこうも述べる。

ロイと私にとって、フルシチョフとその時代はいまだに生きた歴史であって、私たち

はこの時代の希望と失望にかかわってきた。私達は熱狂と痛苦とを体験し、彼の大胆な

内政的、外交的改革に得意になると同時に、単純な経済、農学や理論問題を扱う時の彼

の驚くばかりの無知に対し、時として怒った。(注 5)

同書には、非常に興味深い多くの論点がある。しかし、とりわけ本章で着目するのは、

本共著の成果が、その後のロイの単著『10月革命』1979およびジョレスの単著『ソヴィエ

ト農業』(1987)という二著において、序章で述べた「ロシア革命史再審」、あるいはソ連農

業史の抜本的な再検討に積極的に受け継がれていく、そうした共著の論点とその視角につ

いてである。

本論は、そうした共著の論点として、以下の三つの所説をとり上げる。

1.農業部門の収奪源から扶助・輸入部門への転換を糊塗した産金・産油国=ソ連

2.米アイオワ自営農の進取の精神と、農民性を亡くしたコルホーズ農民との落差

3.理念優先の急性改革とは別の、社会民主主義的で漸進的な選択肢がありえた

1.農業部門の収奪源から扶助・輸入部門への転換を糊塗する産金・産油国=ソ連

第一は、兄弟が、フルシチョフ時代の到来を契機に、ソ連の農業部門が、従来の収奪源

から、一転して、社会保障部門のような巨額な国庫支出が不可欠となる、扶助部門へと変

容しつつあったほか、1970 年代以降、巨大な対外依存部門に転落していき、さらには、1973

年からの世界石油危機の時代に、ソ連の大量穀物輸入が、食糧不足にあえぐ発展途上国の

人びとの苦境を加重する、世界の食糧農産物の価格高騰を促進する要因にさえなっている

ことに危惧を抱いていたことである。

Page 19: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

16

フルシチョフ時代は、スターリン時代から「非スターリン化」への転換期となった。農

業部門も、従来の一方的な収奪源から、屋敷付属地=自留地での副業経営(注 6)の制限緩

和等によるコルホーズ農民への宥和策や、農産物の政府調達価格の引き上げを通じて、膨

大な国庫負担を要する部門に変容していくが、1970 年代には、ソ連農業は都市化と畜産振

興に伴なう穀物と飼料作物の需要増大に応えられず、世界最大級のソ連農業部門が、輸入

依存度を高めていく(注 7)。

本論は、共著第 4章「失敗の辛酸」で、不作年の 1963-64年の穀物大量輸入時にハード

カレンシーの不足を非常措置として金鋳塊 ingot売却で賄ったこと、そして、第 16章「フ

ルシチョフ以後」で、1963 年より深刻な 1972 年の農業危機時に、ソ連の穀物大量輸入が、

世界穀物価格を吊り上げ、世界資本主義の第一次石油危機に連動する一次産品価格高騰を

促迫する一要因ともなり、アジア・アフリカ発展途上国の農業危機と飢饉を招いたことを

とり上げていることに注目した。

第 4章「失敗の辛酸」で要旨こう述べる。

1963年は「中位の旱魃」に過ぎなかったが、フルシチョフは「南部地方(穀倉地帯だ

が旱魃常襲の乾燥地域)の飢饉」がソ連全体に不満を呼び、一層の農業危機を招きつつ

あると理解した。ソ連全土が飢饉の脅威に晒された。この災禍は外国からの大量買い付

けで回避されたが、こうした広範囲の非常措置が要請されたのは、ツアーリ時代も、ス

ターリン時代にも、空前絶後だった。かかる大量買い付けに支払う外貨が十分でなかっ

たため、国庫退蔵金を一部手離さざるをえなかった。最初に総量 500トンの金鋳塊イン

ゴット ingotをロンドン金市場に現送した。・・・世界最大級の農業国=ソ連が資本主義

国に依存する状況に陥ったが、(1970年代半ばの現在)、この依存関係から脱却しえてい

ない。(注 8)

第 16章「フルシチョフ以後」で大意こう述べる。

フルシチョフ失脚後 10年間(1964-1974年)のソ連工業は成長し続け、生活水準も上

昇したが、農業が成長を確保するにはあまりに疲れ切っていた。農業機械を運転できる

熟練者の不足や若い人々の農村で働くことへの忌避、肥料の不足、都市と農村の差別と

不平等(注 9)などが主要問題であり続けた。収穫には多くの都市住民と、軍隊までが動

員された。こうして不可避になった食糧不足と穀物備蓄が不可能となったため、1972年

には農業危機となり、1975年には、1963年よりもさらに深刻な危機があった。1972年に

は、世界最大級の穀作面積を擁するソ連の外国産穀物の買い付けが、3千万トンという世

界記録となり、世界の食糧需給バランスを壊してしまった。その結果、農産物の世界市

場価格も高騰した。本質的には 1973年の石油危機と食糧価格の上昇とが発展途上諸国の

Page 20: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

17

農業危機と飢餓を招いたのであるが、もしも 1974年にソ連が 1971年と同様な余剰農産

物を有していたら、発展途上国の旱魃と凶作の災禍はそれほど悲惨ではなかっただろう。

(注 10)

共著のこの箇所は、ソ連が当時、図1が示すような、サウジアラビアと米国と並ぶ産油

国として資本主義世界市場に包摂されていたとの指摘を提示してはいない。しかし、往年

の農業大国ソ連が、先進工業技術のみならず、農産物までも先進資本主義諸国に依存を深

めつつあり、1960 年代に非常措置としての金売却により、この依存関係を弥縫していうた

ことに注意を向けていたと確認できる。この視点が、のちの『ソヴィエト農業』1987 に活

かされていく。共著第 14 章が農産物の資本主義国依存の継続を指摘しており、第 16 章で

は石油の世界市場価格高騰にも言及していることから、兄弟は、1976年の時点で、ソ連が、

穀物大量輸入の代金を、金売却のほか、石油売却収益によってやり繰りしていたことを認

識していた。本論はそう判断する。

ただし、共著の上記引用につづく次の期待は、後日、裏切られることが判明する。

もしも 1974 年にソ連が 1971 年と同様な余剰農産物を有していたら、発展途上国の旱

魃と凶作の災禍はそれほど悲惨ではなかっただろう。

世界の食糧供給問題の圧力により、ソ連邦は一連の新農業改革を採用したが、その効

果はそう遠くない将来において明らかとなり、その結果ソ連邦は農産物の輸入国から輸

出国になるはずであるように、私たちには思われる。(注 11)

次章の第 2章第 2節でみるように、『ソヴィエト農業』1987が、この期待が適切でなかっ

たことを検証する作業ともなる。

1972年の『成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機リポート」が、世界の人口増加や

経済成長を抑制しなければ、地球と人類は、環境汚染、食糧不足など 100 年以内に破滅す

る、という衝撃の警告を発していた、まさにそのさなかに世界石油危機と世界食糧危機が

発現したなかでの大量穀物輸入は、ソ連の対外的信用をも失墜させた。ソ連は当時、小麦

その他の生産で世界一であるのに、原油高騰で得たハードカレンシーで大量に穀物を買い

漁り、穀物の世界市況を高騰させたことから、ソ連は穀物大強盗 The Great Grain Robbery

とさえ呼ばれ、ひんしゅくを買っていた(注 12)。

前述のように、兄弟は、1973年からの世界石油危機の時代に、ソ連の大量穀物輸入が、

世界の食糧農産物の価格高騰を促進する要因にさえなっていることに危惧を抱いていた。

いずれにしろ、共著には、ソ連農業の動向を世界経済の動向との相互関係を踏まえて考

察する視角が見られる。この視点も『ソヴィエト農業』で活かされていく。

なお、ソ連=産油国の恩恵についていえば、旧ソ連の油田開発はカスピ海のバクーには

Page 21: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

18

じまり、その後、ヴォルガ・ウラル地方、そして西シベリア地方へと東進していき、1965

年、すなわちフルシチョフ失脚 2 年後の西シベリア・サモトロール大油田の発見が、旧ソ

連を米国とサウジアラビアにならぶ一大産油国として浮上させる。

2.米アイオワ自営農の進取の精神と、農民性を亡くしたコルホーズ農民との落差

第二は、再三の米欧視察体験がフルシチョフ改革に与えた影響を論ずる、共著第 4章「西

洋の挑戦」、第 10 章「ソビエト=アメリカの混成」、第 16 章「フルシチョフ以後」の考察

を通じ、兄弟が、帝政ロシア期・革命期・ソ連期の農業・農民像を、欧米農業・農民像、

とりわけ欧米の家族労働に基づく独立自営農民像との対比で考察する立場を重視するよう

になったと思われる点である。

第 4章「西洋の挑戦」は大意こう述べる。

スターリン統治下の運河・ダムや新都市・新工場・新高層建築は主に囚人労働により

建造され、核開発事業の過半が政治犯により遂行された。大戦後ドイツ人戦争捕虜数百

万人が建設労働等で酷使された。この奴隷的服役制度を、通常の工業と科学の雇用に転

換過程が、1953年のスターリン死後に始まった。その際、比較して意味のある規準はも

はや第一次大戦前の 1913年のロシアではなく、現代の西欧諸国の現状であった。

想像力と野心に溢れたフルシチョフの夢は、ソ連が工業や科学、芸術面で世界を主導

することだった。農業に熱意を傾注した理由は、政治経済の成功には祖国の慢性的な農

業危機からの脱却が不可欠だと分かっていたからだ。外交と海外視察の経験からソ連農

業も経済全般も、米・英国ばかりか、敗戦と荒廃から蘇った独・日にすら後塵を拝して

いることを理解した。1953-54年以降、ソ連で外国の農・工・その他博覧会が定期的に開

かれ、展示品がソ連製品近代化の範型として買い上げられた(注 13)。

第 10章「ソビエト=アメリカの混成」で要旨こう述べる。

フルシチョフは、友人=アイオワ農民の忠告や 1959年秋の農業視察等の結果、農民の

自己決定こそが積極要因をなし、米国農務省が農民に絶対的な統制をせず、模範や実例

や忠告により間接的に影響を及ぼすに過ぎないことを明確に理解した。

スターリンの集団農場や国営農場は、個々の作物の耕作、国家が期待する納入規模、

MTS機械トラクター・ステーションへの現物支払い分量などの全てが確定された完全

な計画が割り当てられた。

スターリン死後、党中央委員会と閣僚会議は、国家が個別作物ごとに供出割当を定め

る権利をもつが、生産目標や播種面積、家畜頭数、耕作方法は、集団農場自身が決めう

Page 22: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

19

ることを法令化した。これは集団農場にとり、農産物の増産をはかる「物質的刺激」と

なる。国家の割当を供出した後の剰余分が、より高い価格で売却され、その売上分が、

作業日数基準の貢献度に応じ、集団農場成員間で分配されるからだ。

「自由起業」の着想を導入したこの新制度は、1955-58年の農業の成功に肯定的役割を

演じたが・・・1959年以降、(唐突で)非現実的な七か年計画のカンパニアが始まるやい

なや、この新計画制度は放棄された。農場には、ふたたび、耕作面積、家畜頭数、農作

物の選択、動植物の品種改良に用いる種や血統を特定した、「上からの」詳細な計画が課

され、播種や収穫の予定表が押し付けられ、生産物の自由販売が禁じられ、機械や肥料の

購入を規制する指令が発せられた(注 14)。

第 16章「フルシチョフ以後」は、大要、以下の試論を展開する。

一旦暇になると、フルシチョフは彼の失敗、とくに農業面でどこが悪かったのか、熟

慮を強いられた。だが自分の不運が、単にトラクターや肥料、良い監督や献身的農民の

不足だけによるものでなかった事実をフルシチョフは最後まで理解できなかった。

ことの本質は、強制的集団化以後、農民精神をもつ人びとや、真の農民的伝統が事実

上絶滅されたこと。つまり農業労働者を工業労働者の範型の変種とし、農民を、その基

本的権利は否定しつつ、工業労働者に転換していくという、乱暴な試みにより、真の純

粋な農民がいなくなったことだ。農場労働者は土地に緊縛され、官僚主義的規律の対象

となり、政府、官僚制の無神経さの犠牲となった。

もし彼らが独立農民として自由な労働を許されるか、仕事にかなり経済利害を有する、

真の協同組合の成員だったなら、実際事情はかなり異なるものになっていたはずである。

とりわけ農業においてこそ、個人のイニシアティヴと個人の自由な仕事とが鼓舞される

べきだった(注 15)。

帝政ロシアにも、ネップ期ソ連にも、フルシチョフの友人となった、アメリカのアイオ

ワ農民のような、農民が自主的判断で営農を進める、家族労働に基づく独立自営農民が存

在したし、存在しえたという、『10月革命』1979と『ソヴィエト農業』1987が描いたソ連

農民像の萌芽的素描が、共著における以上の引用中にも確認できるだろう。

3.イデオロギー優先の急性改革でない社会民主主義的で漸進的な選択肢がありえた

第三に、本論は、共著最終章=第 16章ではもうひとつ、ロイが『10月革命』で、政治史

研究の方法として提示する「選択肢的方法」の萌芽が確認されるほか、『10月革命』におけ

る戦時共産主義期のレーニンの過ちの歴史的背景および理論的根源の考察にも活かされる

試論も展開されていると考える。それと同時にこの論点には、「社会民主主義的で漸進的な

Page 23: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

20

選択肢」という視点もあることも重視したい。この視点は、第 2節の1.で検討する「ネ

ップの政治的限界」の議論にも繋がっていく。

第 16章「フルシチョフ以後」末尾近くには、要旨以下のような指摘がある。

ネップ以降の生産性の高い個人農や職人の成長を、もし強制集団化や全私的部門の廃

絶が中断しなかったなら、農業もソ連経済全体も、もっと効率よく、成功したものにな

っていただろう。またもし、集権的で権威主義的方法でなく、社会主義的民主主義の漸

進的な復活が、たとえ当初は党内だけであろうと、漸次わが国全体に広がっていけば展

開は異なったものになっていただろう。

ひとはフルシチョフが行った多くを非難するが、彼の功績も帰すべきこともまた多い。

フルシチョフ改革の歴史的結果はまったく矛盾したものとなっている。フルシチョフは、

彼が決定を純粋にイデオロギー的基礎で根拠づけようとした時は必ず多くの失敗を犯し

た。彼は不適切な予備知識と視野の狭さゆえに、多くの過ちを犯した。そして、もちろ

ん、彼の短気さにより、別なやり方なら達成できたはずの目標に到達せんとする試みが

水泡に帰した。しかし、彼が決定を簡単な常識と、人間的判断により根拠づけた場合、

よりしっかりした基盤にたち、ソ連と全世界にとって肯定的な役割を果たした(注 16)。

ここの上段の指摘も、先に引用した「もし彼が独立自営農民として自由な労働を許され

るか、仕事にかなりの経済的な利害を有する、真の協同組合の成員であったなら、実際事

情はかなり異なるものになっていただろう」も、ソ連農業史にありえた別の選択肢の蓋然

性を指摘しているが、両者に共通しているのは、いわば「米アイオワ型自営農」と同類の

自営農が、集団化以前のソ連には、実際に、かかる自営農が存在したし、存在しえたとい

う歴史的考察に依拠しようとする立場である。本論は、こうした考察がひとつの重要なス

テップとなり、『10月革命』の「選択肢的方法」にもつながったと推察する。

そして、上段の後半の、「集権的で権威主義的方法でなく、社会主義的民主主義の漸進的

な復活が、たとえ当初は党内だけであろうと、漸次わが国全体に広がっていけば展開は異

なったものになっていただろう」という指摘には、ありえた選択肢を不可能にしたのは、「集

権的で権威主義的方法」であるという含意がある。これは、後に『ソヴィエト農業』が展

開する「ネップの政治的限界」という見かたの萌芽的なあらわれとも考えられる。

下段のフルシチョフが「決定を純粋にイデオロギー的基礎で根拠づけようとした時」「不

適切な予備知識と視野の狭さ」があった時に、「過ちを犯し」、「決定を簡単な常識」と「人

間的判断」という「しっかりした基盤に」立った場合には「肯定的な役割を果たした」と

の考察も、『10月革命』における戦時共産主義期のレーニンとボリシェヴィキの過ちの分析

作業にも繋がっていると考える。

Page 24: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

21

第 2章にはいる前に、「ソ連は農業がアキレス腱」の譬えについて言及しておきたい。

ソ連社会主義ないしソ連体制、あるいはソ連経済にとって、「ソ連農業がアキレス腱」ま

たは「アキレスの踵」であるという見かたは言いえて妙な表現でもあるところから、ソ連

研究者がこの譬えを枕詞に、自説を展開した例は枚挙に暇がない。

この譬えの最初の使用例が、亡命農業経済学者ナウム・ヤスニーJasny(1948)であり、著

名外交官で元ソ連駐在大使ジョージ・ケナンの Kennan(1951, 1952)だったと思われる。と

もにソ連農業の際立つ生産性の低さとコルホーズ農民に対する過酷な支配・処遇・強制労

働が、ソ連体制の「アキレス腱 Achilles’ tendon(ないし踵 heel)」であるとする。ケナン(1952)

『アメリカ外交 50 年』は衆知のようにベストセラーである(注 17)。

兄弟もこの譬えを承知していた。ただし、本論が考察する三著にはこの譬えの直接の言

及はないものの、別の著作によれば、ジョレスは、一般に「旧ソ連型社会主義のアキレス

腱は農業である」という場合、ヤスニーやケナンとは異なるバリアントで考えていたよう

である。ジョレスのいう「アキレス腱」について引いておこう。

現代の資本主義でも農業問題や環境問題は解決からほど遠い状態にありますが、旧ソ

連型社会主義における、問題の深刻さは、皆さんの想像を絶するものがあります。

いくら近代化、機械化を進めようとも、農業も工業も、経営者はもちろん、現場の担

い手たる農民と労働者の当事者能力を欠いては立ちゆきできません。この点、旧社会主

義国では、一般に、労働者も農民も、もっぱら上からの指令によって管理されるだけの、

受け身の存在でした。環境破壊の深刻さも、このことを抜きに議論できません。(注 18)

これは、1997 年の日本での国際シンポジウムの発言であるが、本論筆者は、ジョレスが、

より以前からそのように考えていたものと想定していた。そこで、先に引用した発言をい

ま一度ここに再掲しておこう。

ネップ以降の生産性の高い個人農や職人の成長を、もし強制集団化や全私的部門の廃

絶が中断しなかったなら、農業もソ連経済全体も、もっと効率よく、成功したものにな

っていただろう。またもし、集権的で権威主義的方法でなく、社会主義的民主主義の漸

進的な復活が、たとえ当初は党内だけであろうと、漸次わが国全体に広がっていけば展

開は異なったものになっていただろう。(注 19)

このように見てくるならば、メドヴェージェフ兄弟が、共著『フルシチョフ権力の時代』

1976の共同作業を通じて、「一般に旧ソ連型社会主義のアキレス腱は農業である」という譬

えについて、それを「旧ソ連体制の根本的な欠陥」として、すなわち、「ソヴィエト社会が、

強制集団化や全私的部門の廃絶のために、個人農や職人が失われ、その結果、農業も工業

も、経営者はもちろん、現場の担い手たる農民も労働者も当事者能力を欠いてしまう社会

Page 25: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

22

に変容していた」、と理解する試論を提起したともいえるだろう。

そして、1976 年時点では、同共著が「世界の食糧供給問題の圧力により、ソ連邦は一連

の新農業改革を採用したが、その効果はそう遠くない将来において明らかとなり、その結

果ソ連邦は農産物の輸入国から輸出国になるはずであるように、私たちには思われる」と

して(注 20)、ソ連農業の修復・健全化への期待を表明していたことも再度確認しておきた

い。

いま一つ確認しておきたいことが、ここでいう「社会主義的民主主義の漸進的な修復」

というスタンスである。『社会主義的民主主義』1972 の著者でもあるロイは、二人の「社会

民主主義的な漸進主義ないし進化主義」についてこう述べたことがある。

ソ連の民主化を唱えててはいても、性急な変化を望んだことはない。過去の惰性はあ

まりのも重く、体制は依然としてあまりにも堅固だった。フルシチョフの改革のお多く

が失敗に終わったのは、無駄に急ぎすぎたからである。わたしが革命でなく進化を支持

する者だというのはわかり難いことかもしれない。しかし現状ではそう判断するしかな

いとわたしは考える。いまのソ連には革命のための条件は存在せず、体制を進化させる

ための最低限の条件が存在するだけだからだ。・・・(以下、注 21を参照)もちろん、漸

進的変化を、ただ指をくわえて待っているという訳にはいかないし、その変化の過程を

早める必要はある。しかし、異論派はいまやれる範囲のなかで目標を選ばなければなら

ない。なざなら、もし状況が反転したら、失望が一挙に襲ってくることになるからであ

る。

ロイが自らを「革命でなく進化を支持する者」と述べていることに留意しておきたい。

こうした諸点が、ロイ『10月革命』とジョレス『ソヴィエト農業』でどのように受け継

がれ、さらに展開されることになるのか、次章で検討するとしよう。

注記 第 1章

注 1:本共著の評価については、邦訳者による優れた解説論文、下斗米伸夫(1980)「解説・フルシチョフ

再考」がある。また、同著英語版 Khrushchev: the Years in Power 第二版に「前書き」を寄せたブハーリ

ン研究で著名なスティーヴン・コーエンが、「前書き」を寄せていて興味深い。S. Cohen (1978), v-viii.

注 2:Zhores & Roy (1976), Khrushchev, The Years in Power 共著邦訳『フルシチョフ権力の時代』2頁。

注 3:兄弟のフルシチョフ研究を 1971年に KGB=ソ連国家保安省が荒々しく妨害した。同年秋にロイ著『歴

史の審判に向けて(英語版は Let History Judge)』の米国での公刊を知らせる出版カタログに驚いた KGB

がロイ宅を捜査し、スターリン関係の全調査資料のほか、フルシチョフ関係資料をも没収した。だが、ロ

イを編集者、ジョレスらを補佐とする月刊『政治日誌』(サミズダート誌)に掲載されたフルシチョフ農政

Page 26: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

23

関係の論文等を基礎としてふたりはフルシチョフ研究を再開する。

月刊『政治日誌』(サミズダート誌)については Медведев, Жорес и Медведев, Рой (2010), 1925-2010: ИЗ

ВРСПОМИНАНИЙ 天野尚樹訳『回想 1925-2010』第 5 章「異論派の思い出(ロイ稿)」の「二、『政治日誌』

創刊のこと」210-215 頁に詳しい紹介がある。本章注 1 の下斗米伸夫(1980)にも若干の解説がある。注 4:

共著第 8章「フルシチョフの権力濫用」や第 9章「リャザン州での失敗」など。

注 5:共著(1976)3頁。同著英語版第二版に「前書き」を寄せた S・コーエンも、「ジョレスが<生きた歴

史>と表現したのはけっして文学的な作為でない。兄弟の著作は、フルシチョフ時代を生きたソ連の作家

が、内部からその同時代史を詳述した、初めての拡張研究 extended study である」と紹介している。Cohen

(1978), vi.

注 6:屋敷付属地=自留地での副業経営の制限緩和等によるコルホーズ農民への宥和策や農産物の政府調

達価格の引き上げについては共著第 3章「農業改革」のとくに 37-41頁を参照されたい。

ソ連型社会主義では、個別農戸が営農に勤しむ小区画の「屋敷付属地 приусадебный участок」の「副業

菜園の国家による容認なしに、集団農場本体の経営も立ちゆかない。農場の成員である各農戸が、集落の

中の自宅に付属する小区画地で、それぞれ個人経営を営む一方、集落の外側に広がる集団農場の圃場や畜

産施設で、共同の労働に従事していた。この付属地は、コルホーズ成員とソフホーズ労働者の宅地に付属

する自家菜園用の1/4ha ほどの自留地。個人副業菜園、家庭菜園、自家菜園など様々な言い方、訳し方が

ある。ソ連全土の農地面積の 1.5%に過ぎなかったが、生産額比では 1950 年代で 40%、1980 年代初頭でも

30%弱をしめていた。この副業菜園の重要な役割を抜きしてソ連農業は理解できない。

そこで、コルホーズ農業と副業菜園との関係についてのロイの理解を以下に示しておこう。

農業が多年にわたって停滞した主な原因は、農業が発展する上での農業者の個人的な物質的関心の原

則を、ソヴィエト政府が乱暴にも破ったことにある。工業はそれ自体すでに多くを蓄積したにもかかわ

らず、農村から都市への資金の移動は減るどころか、増加した。・・・コルホーズはその生産物を、事実

上の原価よりもはるかに低い価格で引渡していた。・・・調達計画はたいていコルホーズの実際の能力を

超えており、それに対して巨額の未納金がたまった。事実上、調達は食糧徴発へと変わった。農村から

は二〇年代と三〇年代でもそうであったように、蓄積の一部ではなく、すべての蓄積が、さらには生産

物の単純再生産に必要な部分すらも巻き上げられた。そして、コルホーズの経営がそうした欠陥のある

実務の下でもなんとか破壊されずに、多くの分野でゆっくりとではあるが前進したのは、数千万人のコ

ルホーズ員が事実上ただ働きをしたからであり、お金や農産物のためではなく、労働手帳に記入される

「 線バーロチカ

」のために働いたからだった。生活費はというと、コルホーズでの労働によって得たのではな

く、個人的な副業経営[コルホーズ農民やソフホーズ労働者が宅地に付属する自留地で営む個人経営の

家庭菜園や家畜飼育のこと]によって得ていた。副業経営にも税金と義務的納入が課せられたが、それ

でも集団経営よりは少なかった。多くの場合、自分の個人経営を維持しようという希求こそが、コルホ

ーズ員を集団農場で働くように強いた。コルホーズ農場における未払い労働は、農民が自分個人のわず

かな土地を使用する権利としての弁済に化していた。それなしにコルホーズ員の家族の生活は成り立た

なかった。当然のことながら、集団的、社会主義的諸関係のかわりに、農村では私有財産的傾向が保持

Page 27: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

24

され、固定化されていった。コルホーズ農場および飼育場での自分の労働に対してほとんど何も得られ

ず、個人経営による収入だけでしか生活できないようなコルホーズを、社会主義的経営とみなしてよい

ものか、という疑問も無理からぬものだった。ロイ・メドヴェージェフ著/名越陽子訳(2017)『歴史の

審判に向けて』、 314-315頁。原著は с. 604-605.

注 7:共著(1976) 201 頁。

注 8:同上 173-174頁。

注 9:たとえば農民差別として、コルホーズ農民を農村に土地緊縛する、国内旅行禁止と一体化した都市

への移動制限が、ブレジネフ憲法が制定された時期に当たる 1976-78年まで存続していた。同上 173-175

頁。Zhores (1987); 拙訳(1995)71-75頁。

注 10:共著(1976) 200-201 頁。

注 11:同上 201頁。

注 12:James Trager(1975), p.233

注 13:共著(1976)42-43,46-47頁。

注 14:同上 119-121頁。MTS(機械トラクター・ステーション)の各サービス基地は、幾つもの集団農場

に対し、多くの農作業(犂耕、播種、収穫など)用の機械と運転手・機械手(オペレーター)を提供した。

1958年にフルシチョフにより廃止された。農業機械補給局がその後身にあたる。

注 15:同上 198-199頁。

注 16:同上 201-202頁。

注 17:Jasny (1948) 30 (2) 303., Kennan (1951) p. 355, Kennan (1952) p. 129;邦訳(1952)155 頁。またヤスニーの

問題提起に触発された、Schlesinger (1951) や、Nove (1952, 1952) のほか、Monthly Review 誌の寄稿論文 A

Student of the USSR, (1952) も参照されたい。上記ケナン(1952)が「アキレスの踵」に言及した論稿「ア

メリカとロシアの将来」の初出はフォーリン・アフェアーズ誌掲載の Kennan (1951)。

注 18:1997年 11月の札幌学院大学創立 50周年記念国際シンポジウム「市場社会の警告」での基調報告が、

ジョレス・他(1999)『市場社会の警告』現代思潮社に収められている」。同書 17-18頁。

注 19:共著(1976)199 頁。

注 20:共著(1976)201 頁。

注 21:本文括弧箇所以降のフレーズは「もちろん、漸進的変化を、ただ指をくわえて待っているという訳

にはいかないし、その変化の過程を早める必要はある。しかし、異論派はいまやれる範囲のなかで目標を

選ばなければならない。なぜなら、もし状況が反転したら、失望が一挙に襲ってくることになるからであ

る」。これは 1978年初出稿からの引用である。メドヴェージェフ兄弟共著邦訳(2012)『回想 1925-2010』

279頁参照。

Page 28: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

25

第 2章 ロイ『10月革命』とジョレス『ソヴィエト農業』によるロシア革命史再審

はじめに 本章は兄弟の二著、ロイ『10月革命』とジョレス『ソヴィエト農業』のロシア

革命史再審への寄与についての二つの節からなる。

それは、本論が、ソールズベリーのひそみに倣っていうなら、ロイ『10月革命』こそが、

ソ連内部からでた、ロシア革命の再検討のための一つの重要な下図であり、それとともに、

ジョレス『ソヴィエト農業』こそが、ロシア革命再審のためのソ連内部から出た、真に包

括的な最初の試みであって、さらには、後者こそが、あくまでジョレスの単著でありなが

らも、まさにソールズベリーのいう、兄弟の「普通は考えられない共同作業」の営為の所

産でもあったと考えるからでもある。

序章で確認したように、H・ソールズベリーはロイ『10月革命』1979を「ロシア革命の

再検討のための一つの下図であり、数十年のうちでソヴィエト・ロシアの内部から出た、

包括的で真摯なものの最初のものである。メドヴェージェフの判断が正しければ、それが

最後のものになることはあるまい」と述べた(注 1)。

だがロイ自身は、自著英語版 The October Revolution,1985第二版序文で、同書は「ロ

シア革命史全体の展開とか、包括的なロシア革命論の提示とかを意図したものではない。

ただ 1917年と 1918年に起きた革命的出来事の諸問題のうち、以後のソ連の発展を理解す

るのに特に重要と思われる二~三の問題を考察したに過ぎない」とさりげない(注 2)。

ロイは 1917年のロシア革命の歴史研究のあり方について、こう述べたことがある。

革命の同時代人や参加者が革命を評価するにあたり客観的であることは難しい・・・

1917年という時間枠から外に出ない限りロシア革命の運命と性格も理解できない・・・

フランス革命に、バスティーユ監獄襲撃やフランス国王夫妻の処刑ばかりか、1789年か

ら 94年にいたる全事件が含まれるように、ロシア革命にも 1917年 2月から、ネップ(新

経済政策)への移行が完了し、ソヴィエト連邦が成立した 1922年にかけてわが国でおき

た全事件を含めるべきである(注 3)。

この尺度からみると、『10月革命』1979の考察対象時期は主に 1917年初から 1921年春

までとなっており、ネップへの移行完了や 1922年のソ連邦結成の時期まではは含んでいな

い。その意味において、ロイは、ソールズベリーが自著 1979を、同書の「前書き」で「ロ

シア革命のための下図」と評価したことに十分満足していた可能性がある。

序章でも指摘したように、ソールズベリーは「それが最後のものになることはあるまい」

Page 29: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

26

とも述べたが、兄弟のその後の労作については具体的な証言を残さなかった。

本論は、「然り。それが最後とはならなかった」と断言したい。

いま一度いえば、ジョレス『ソヴィエト農業』1987 こそ、あくまでジョレスの単著であ

りながらも、まさしくソールズベリーのいう、兄弟の「普通は考えられない共同作業」の

営為の所産であり、「農政家」ジョレスに当初からその意図があった訳ではないにもかかわ

らず、結果的に、ソ連内部から「ロシア革命史の再審」を試みる労作になったと考えるか

らだ。同書刊行の 2年後、1989年にジョレスはソ連国籍を回復している。

第 1節 『10 月革命』1979 のロシア革命史再審の下図

ロイは第二版英語版序文で、自著の課題と力点を以下のように簡潔に要約している。

本書は、2月革命も 10月革命も時期尚早とは言えず、10月革命もそれが起るだけの十

分な可燃物があったのに反し、1918 年春にボリシェヴィキ政権が採用した政策は、極め

て性急かつ早まった premature 経済的・政治的措置であり、その多くは時代の観点ばか

りか、原則の観点からも過ちだった。なかでも早計というか単に無分別を欠いたものが、

大企業と中小企業の国有化、民間商業の全廃、都市と農村の直接的生産物交換導入の試

み、 農民からの余剰穀物その他農産物の強制徴発、特別権限で武装した労働者の食糧軍

部隊と貧農委員会の編成、商業的に成功した高収益の農場を含むすべての大規模農場と

農業施設の解体、それに続いた比較的裕福な「クラーク(富裕農)」の農場の破壊、殆ど

全ての「クラーク」の土地と資産の没収といった暴挙である。

これらの暴挙は、富裕農層のみならず、中農、職人、熟練工、さらにはプロレタリア

ートの一部でさえ、ボルシェヴィキに背を向けさせた。ボルシェヴィキと社会主義政党

および小ブル政党との妥協は不可能と判明した。 最初は小ブルと社会民主主義のスロー

ガンの下に反乱の波が全国に広がった。こうした事態が、ソヴィエト権力を著しく弱体

化させ、そのことが資本家と地主による反革命に道を開いたのである。この後者、2番目

の、そして私見(ロイの)では本書の最重要と考える部分は、これらの事実の提示とこ

れらの議論の証明に捧げられている(注4)。

このようにロイ自身が、本書の最重要な狙いを、「ボリシェヴィキが 1918年春に導入し

た、極めて性急かつ早まった経済的・政治的措置のために、最初は小ブルと社会民主主義

のスローガンの下に反乱の波が全国に広がり、次いで、これらの事態が、ソヴィエト権力

を著しく弱体化させ、その結果、資本家と地主の反革命に道を開いた」、というように、「最

初」の事態が「2番目」の事態に連なっていくことの史実の呈示と、この所説の立証におい

ていることが分かる。本論もまさにそのように理解する。

Page 30: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

27

第1節は、ロイ『10月革命』が、農業・農民史の視点からみて、ロシア革命史の再審を

進めるうえで、いかなる重要な下図を提示したのか、以下の三つの論点をとりあげる。

1.ロシア内戦史の再検討:穀作地帯中農層が革命政権の穀物強奪政策に抵抗と反乱

2.レーニンの戦時共産主義期の過ちの歴史的背景と理論的根源

3.レーニン以降の歴代為政者も、レーニンと同じ農政上の過ちを繰り返す

1.ロシア内戦史の再検討:穀作地帯中農層が革命政権の穀物強奪政策に抵抗と反乱

一般に今でも革命後の内戦は、政権の意図に反して、日本のシベリア干渉を含め、列強

諸国の干渉戦など、外部が仕掛けてきたとの理解がある。同書は内戦勃発と本格化の責任

の多くは、政権側の過酷な穀物強制徴発にあるとみた。

同書第 13章「貧農委員会と内戦の開始」はこう述べる。

1918年夏に多数の地下「(反革命)センター」や「地下連盟」が、両首都、その他都市

にも出現し、あるものはロシアの元の「連合国」を、あるものはドイツを頼りにした。

協商国の代理人とロシアの反革命家は、ソヴィエト領内にいたチェコスロヴァキア軍団

の指導者と秘密裏に交渉を行っていた。ロシア人右翼の多くは、エスエルやメンシェヴ

ィキをボルシェヴィキと同じくらい「有害である」とみなしていた。・・・だが、こうし

た狭量な陰謀は、皆、辺境地域で起こる孤立した反乱と同様、大多数の農民がソヴィエ

ト権力を支持している限り、若きソヴィエト共和国の運命に重大な影響を及ぼすことも

なかったはずである。まさに食糧徴発隊の編成と貧農委員会の立ち上げとが、ロシアの

農村の政治状況を決定的に変えた。貧農委員会の立ち上げで、食糧徴発部隊の活動がや

り易くなり、ボリシェヴィキのための社会的基盤を農村内部につくりだしたが、反面、

同委員会の編成は、一種の農村革命委員会の結成となり、それ以前、中農とクラークが

主要な役割を演じていた地方ソヴィエトを後景へと押しやった。ボリシェヴィキは、大

部分の農民層を構成する中農層の圧倒的多数の共感と支持を一時的に失う破目になった。

これこそが(血みどろの内戦を誘発する)主要な危険だったのである(注5)。

ボリシェヴィキ政権は、1918年 5月 13日「食糧独裁令」を布告。個別農家ごとに、播種

と自家消費分を超える穀物を余剰と認め、全余剰穀物の登録を義務付け、同月末には「農

村ブルジョアジーと闘う十字軍」派遣をアピール、志願制の赤軍を徴兵制に切り替えた。

農村ブルジョアジーとは余剰穀物をもつ農民のことであり、食糧独裁令は「本質的に農民

に対する宣戦布告」であった。(注6)

1918年 6月人民委員会議は次のような布告「飢えとの闘いに全力を」を発した。

Page 31: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

28

労働者と飢える農民の同志諸君、君たちは穀物がどこのあるのかを知っている。殆ど

すべての穀物余剰は農村クラークの手元にある。彼らは戦争中に豊かになり巨額資金を

ため込んだため、自分の穀物を売る必要がなくなり、隠し持って価格上昇を待っていた

り、投機価格で売ろうとしたりしている。・・・戦争から利を稼いだ彼らは、今、飢餓か

ら利を稼ごうとしている。農村クラークは、穀物専売を自分の好みに合わないと考える

大ブルジョアと一緒になって、穀物専売の廃止と公定価格の変更を要求している。・・・

農村ブルジョアジーに対する「十字軍」を開始しなければならない。・・・君たちが編成

する部隊を、鍛錬された赤軍部隊と一緒に、経験豊かで試練済みの革命家や食糧調達の

専門家の指揮下に、農村ブルジョアジーから穀物を勝ち取るために、進軍させよう。

クラークに対する無慈悲な戦争を!(注 7)

ここで本論は、ロイが、当布告には至る所に「クラークや農民、担ぎ屋、投機人に対す

る雷鳴のような威嚇がある反面」、「農民への播種や耕作の支援に全く言及せず」、「共和国

に穀物が必要なのがあたかもこの春と夏だけであるかのように、将来の収穫を全く配慮し

ていない」と指摘したことに注目する。

ロイによれば布告を発した当事者には、ロシアという農業国で商品穀物を生産する担い

手は誰か、あるいは国民経済の生産と消費の再生産をどう確保するかという肝心の視点が

全く欠落しているという訳である(注 8)。

戦前、商品穀物の出荷比率は地主 2割強、クラーク 5割、中農と貧農で3割弱だった。

土地革命が地主経営を清算した結果、地主は余剰穀物=商品穀物を提供しなくなった。ボ

ルシェヴィキが「穀物余剰は農村クラークの手元にある」として、クラーク経営を清算し、

それを貧農たちで分割してしまえば、クラーク亡き後、穀物生産の主体も、余剰穀物=商

品穀物の供給主体も、自給自足的な小農経営に移行する。それゆえクラーク清算後、強制

調達先が小農一般に拡大。抵抗する農民一般が「クラーク」として敵視される構図となる。

ロイはコンドラーチェフ作成の表 2-10fも、ネムチーノフ作成の表 3-3bも知っており、一

次大戦前後、革命前後の穀物の商品化構造の基本を理解していた(注9)。

以下は、1918年夏以降、政権がクラーク(富農)経営を廃絶したことの農業生産力に対

する破壊作用に関する同書第 13章「貧農委員会と内戦の開始」の考察である。

10 月革命は大土地所有地を除去した。1918年の貧農委員会結成は、クラーク農場、す

なわち大農経営を廃絶した。だが、ソヴィエト史上初の「クラーク清算 раскулачивание

/de-kulakization」は、大規模集団農場の形成でなく、膨大な数の中小規模の農場の新た

な出現だったほか、これら富裕農から無償で、役畜や農機具、製粉所、家庭用品の一部

も奪い取られた。ところが、富裕農がそれまで農場資産を取得してきたさい、雇用労働

者からの搾取に基づくものはごく僅少部分にすぎず、一部は、勤勉で企業心に富んだ農

家自身の長年の家族労働による所産だった。・・・

Page 32: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

29

クラークの土地分割や中農層の増加が脅威なのは、ロシア農村の生産力に強力な打撃

を加えた事実に潜んでいる。というのは、富裕農経営の、より生産的で、商業的にも成

功した農場に代わり、新たに、貧農の農場と中農の農場が設けられたが、これらの自給

自足的な農業経営は、穀物を市場向けに生産しないか、仮にそうしても、その量は僅か

でしかなかったからだ。こうして食糧人民委員部は、この時期の差し迫った課題-都市

の住民と農村の貧困層にパンを供給する課題を解決しようとしながら、遠い将来にむけ

てのみならず、近い将来にむけてさえ、問題解決を一層困難にしてしまった。・・・

しかも、のちに中農や貧農から「余剰」穀物をとる段になって、穀物の入手が、大土

地所有者やクラークから確保していた当時よりもはるかに困難となった。(注 10)

ボリシェヴィキは史上2度もクラーク清算 раскулачивание/de-kulakizationを断行した。

最初が戦時共産主義の 1918-21 年。二度目が 1929-32 年である。ただし、最初の清算は

次の点で 1929-32 年の集団化時と異なる。元クラークの家族には、自分の土地、自宅のほ

か屋敷付属地や農機具、役畜の一部保持を認められたため、1917 年革命前のクラークは中

農に変身し、自分の生まれた村ら地方から強制的に追放されることもなかった(注 11)。

ここで留意すべきは、ロイが、クラークを「農場資産を取得してきたさい、雇用労働者

からの搾取に基づくものはごく僅少部分にすぎず、一部は、勤勉で企業心に富んだ農家自

身の長年の家族労働による所産だった(注 12)」と特徴づけていること、すなわちクラーク

を基本的には勤労農民の富裕層と見ていること。したがってクラ―ク農場を解体し、貧農

たちで分割してしまえば、余剰穀物を没収する対象が、ひろく中農一般にまで拡大され、

その結果、「余剰」穀物はもたないと抵抗する小農一般までが「クラーク」として敵視され

ていく構図を提示していることである。

ソールズベリーは、ロイの所説から、「内戦期の反乱に加わった農民は、ときにボリシェ

ヴィキの敵の教唆による事例があったが、それよりも多くの場合、農民はもっぱら自分の

意志で行動を起こした」と理解したが(注 13)、この点、ロイは、ボリシェヴィキの暴挙に

抵抗し、反乱を起こした農民の正当な根拠について、やはり第 13章でこう述べる。

進取の気性に富んだ農場経営主は自分の穀物備蓄を「余剰」とは考えなかった。第一

に、それは彼自身の穀物であり、彼が自分の土地で、しかも自家労働によって栽培した

穀物だった。第二にその農民には、翌年の収穫がどうなるのか、どんな事態が翌年に発

生するのか分からなかった。こうして彼は、自分の「余剰」を必要な保険として、ある

いは予備の物資として、あるいは交換可能な、商品(これを用いれば、減価する紙幣で

なく、不可欠な工業製品が入手できる)とも見なしていた。このように、農民の抵抗に

もまた、正当な根拠があったのである。というのも、食糧徴発隊は彼らの穀物のほぼす

べてを強奪し、殆ど何も支払わなかったからである。しかも同隊は、そうすることによ

り、農民の経済的努力や彼らの将来への自信を失わせたばかりか、続く時期に自分の畑

Page 33: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

30

仕事に勤しむ刺激もすっかり農民から奪ってしまったからでもある。(注 14)

実際、火花にはこと欠かなかった。コサックや農民は、四年の戦争で、ともにくたく

たになっていた。そして、再び武器をとることは、もちろん、やりたくなかった。彼ら

は、ボリシェヴィキのおかげで、すでに平和と土地を手に入れていたのであり、ゆえに、

彼らは 10月革命とソヴィエト権力を支持した。しかし、彼らは、それまで努力して栽培

してきた穀物を、おいそれと、しかもただでくれてやろうとは思っておらず、彼らの多

くは、この問題では、武器をとる覚悟ができていた。

ボリシェヴィキの政策に不満をいだく大衆がいないということが、1917 年には内戦が

おこりえない得ないことを意味していた。だが、そうした大衆が舞台に現れた今となっ

ては、彼らが現にいるというそのことが、1918 年に内戦を事実上不可避なものにしたの

だった。(注 15)

そして第 12章「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」では、1918年 3月と同年 4月

~8 月に実施された全露ソヴィエト選挙と100の郡レベルのソヴィエト選挙で選出され

た代議員の党派別構成を比較対照できるスピーリン Спирин (1968)を引き、穀作地帯の中農

層の意志として、ボリシェヴィキが落選し、代わりに、穀物取引の自由を掲げるエスエル

左派が当選するという、注目すべき変化が生じていたことを喚起した(注 16)。ロイは第1

2章で、スピーリンの、郡レベル党派別構成を比較する総括表しか引用していないが、本

論巻末の付属統計表では、いま少し詳細な統計表、表 2-11aと表 2-11bも掲げておいた。

本論は、上記の農民像が、共著『フルシチョフ権力の時代』が集団化以降喪失したとの

べていた、まさに、農民的精神の体現者としての、大戦前のストルイピン改革期に成長し

た生産性の高い、家族労働を基本とするクラーク=富裕農と、1917年の土地革命で自らの

土地を得た独立自営の中農層のスケッチであることを確認する。

しかも、ごく最近まで農民兵だった中農層の多くは、前線から武装したまま、帰郷して

いた。ロイが引用する農政家コンドラーチェフ『穀物市場』1922はこう述べる。

農村は、1917-18年の秋と冬の、自然発生的な軍の復員後に帰村した兵士であふれかえ

っていた。そして農村は、武力による暴力に対し武装した抵抗や多数の叛乱で応えたの

であった。まさにこのことが、1918 年の秋の終わりまでの時期を、農村的ロシアの穀物

余剰生産地域における、悪夢のような流血の闘争の時代に転じた理由なのである。(注 17)

2.レーニンの戦時共産主義期の過ちの歴史的背景と理論的根源

異論派兄弟によるロシア革命史再審のなかには、マルクス主義の始祖の見解の誤りの指

Page 34: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

31

摘、批判的再検討も含まれる。ロイ著『10月革命』はその点で、ソ連内部から提示された

ロシア革命史再審の最初の作品とみてよい。

ここでとり上げるのは、1918年にネップ(1921年に採用する新経済政策)を採用せずに、

小農(中農と貧農)から穀物強制徴発するという戦時共産主義期のボリシェヴィキの過ち

の歴史的背景と、その理論的根源の解明しようとした同書の試みについてである。

同書訳者解説のとおり、「本書は、内戦の勃発とその本格化の責任の多くは、ボリシェヴ

ィキ政権が自ら採った「間違った」政策にあると主張している(注 18)」。この「間違った」

政策が小農(中農と貧農)からの穀物強制徴発であった。

内戦期の 1920年に英国労働党代表団の一員としてソヴィエト・ロシアを視察した哲学者

バートランド・ラッセル卿は同年、ロシア内戦を以下のように評した。

戦争、とりわけ国内戦の欠点は疑う余地がなく、非常に重大である。とてつもない闘

いの過程で、憎しみ、猜疑心、残酷さが人びとの相互関係で当たり前のようになる一方、

どうやら、文明の遺産は失われるのちがいない。・・・権力の企てが共産主義理論を作り

変えるのは必至で、巨大な政府機構を統制してきた人びとも、彼らが抱いてきたのと同

じ人生観をもつことはできないだろう。・・・もしボリシェヴィキが権力に留まるなら、

彼らの共産主義が色あせる懸念が多く存在することになる。(注 19)

1917年にはロシアで、誰も大規模な内戦 civil war を求めていなかった。レーニンも、

コルニーロフの反乱を失敗させた社会の底辺層の間の自然発生的な同盟(ボリシェヴィキ

指導下のプロレタリアートと農民の底辺層と、当時まだメンシェヴィキを支持していた労

働者との同盟)があれば、権力をソヴィエトと労働者に移すことは、血なまぐさい内戦を

伴わずに可能であるとの結論を引き出していた。

ロイは、こうして「レーニンは 1917年に内戦を求めていなかった」と認めながらも、し

かし、「内戦の勃発とその本格化の責任の多くは、ボリシェヴィキ政権が自ら採った「間違

った」政策にある」と指摘する、そこでロイの論旨の大筋を確認しておこう。

レーニンは、下層間の同盟を、内戦を防ぐ保証と呼んでいた。この同盟の成立には社会

の下層を構成する様々な社会集団の利益を考慮した明確な政策と、明確な譲歩が不可欠だ

った。とりわけロシアの下層の大部分は農民であり、彼らの経済的な利害関係が、労働者

階級のそれと根本的に異なっていたからにもよる(注 20)。

この点、ボリシェヴィキは、1917年 10月時点では、農民に譲歩し妥協策を採用すること

ができた。レーニンの「土地布告」の主要実践項目を、自党の政綱でなく、圧倒的多くの

農民が支持する社会革命党(エスエル)の土地政綱から採用したからだ(注 21)。

だがボリシェヴィキは半年後の 18年春には同じ社会的和解策を繰り返さなかった。土地

革命で、同年すでに土地を獲得していた農民にとり、穀物取引を含め、商取引の一部自由

化が、欠くことのできない最低限の要求になっており、この要求は、ロシアの小ブルジョ

Page 35: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

32

ア住民の大多数の利害関係に合致しているばかりか、当時の状況にも照応していた。(そし

て、もしもボリシェヴィキが)直接的生産物交換や、総ての食料品の購入と分配などの中

央集権化、さらには、農民からの全穀物余剰の強制的没収などを無理強いせずに、一種の

自己調整過程である商業に委ねていたら、ソヴィエト政府は当時煩わされた仕事からかな

り解放されていたはずであるが、そうはしなかった(注 22)。

そのうえ政府は、臨時政府が採用した戦時制度の穀物専売を維持したばかりか、それを

穀物以外の基本必需品総てにまで適用しようとした。こうした一連の事態がが、大部分の

農民や兵士をして、コサックや都市の小ブルジョアと同様に、ボリシェヴィキに敵対的な

態度を取らせる至った。そして反革命勢力が内戦を開始するために求めていたもの、すな

わち、ボリシェヴィキ政権に不満をいだく大衆を提供することになったのである。1918年

春にはブレスト講和により軍も復員し、戦時の穀物専売も撤回でき、穀物の低位の公定価

格による強制買い付けも現物税に転換可能であり、実際 1921年にはその転換を決断してい

る。もしも転換を決断していたら、刃向かいはじめた中農もソヴィエト政府側についただ

ろうし、個々ばらばらの事件として勃発した内戦も、長期にわたる破壊的な戦闘へと発展

しなかっただろう(注 23)。

内戦は 1920年 11月には赤軍勝利に終わるが、ボリシェヴィキ政権が、内戦の終結後も

部隊や強制徴発を残し、あくまで「余剰穀物の割当徴発」を続行する試みが、全土を覆う

農民叛乱を引き起こした。首都労働者の大衆ストライキや要塞クロンシュタットの叛乱は

ボリシェヴィキ党の最後の支持基盤が蒸発・霧消しつつあることを示した。ソヴィエト権

力は崖っぷちをさ迷い、政権の命脈もあと数か月とも見られた(注 24)。

こうした情勢を好転させたのがネップの導入、穀物徴発の停止、現物税の導入だった。

若干の制限つきながら自由商業と私的企業が許された。中農への譲歩であり、結局は労働

者階級にも利益をもたらすような、農民全体への譲歩だった。レーニンが「鎖全部を引き

ずって」荒廃した経済の復興と進展に向かわせるものと期待した、その鎖の「主たる環」

こそ商業だった。消耗しきった国の体内に、ふたたび血液が循環しはじめた(注 25)。

こう見てくると、1921年に決断したネップをなぜ 19818年春に導入できなかったのかと

いう問いが生ずる。古参党員には 1918年当時の「党はネップを導入し制御するだけの力が

なかった」との意見があるが、それには同意できない(注 26)。

1918年春のボリシェヴィキの過った政策に、もちろん、悪意は全くなかった。ボリシェ

ヴィキやその指導者レーニンが 1917年革命後の時期の経済問題に対するもっと正しい解決

方法を当時、思い付かなかったというだけのことに過ぎない。そうした解決方法にたどり

つくのには、内戦という厳しい体験と、1921年の政治危機とが必要だった(注 27)。

以上がロイの論旨の大要である。

それではロイは、レーニンなどのボリシェヴィキが当時「より正しい解決方法を思い付

かなかった」理由、すなわち、1918年春に、ネップ型の譲歩を決断できなかった理由をど

Page 36: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

33

う考えたのか。本論はこの点、ロイは、次の五つほどの淵源があると判断したと見る。

第一は、革命の成功による「多少の幻惑」ないし「熱狂」。

第二は、世界革命とヨーロッパ革命が近いという情勢判断と期待感。

第三は、レーニンの国家独占資本主義論が、穀物専売や配給制などの戦時統制に引きず

られた理解になっていること。

第四は、「社会主義の下では「貨幣、商業、商品生産は「衰退」する」という、マルクス・

エンゲルスの間違った理解を鵜呑みにしたレーニンの理論的な過ち。

第五は、農業・農民問題の無知・無理解である。

第一の熱狂と、第四の世界革命への期待感には相関がある。ルナチャルスキーがいう「熱

狂」の背景には、十月革命後の 100 日間の「凱旋行進」があった。ロシア領土のすべての

要衝でソヴィエト権力が急速に、かつ、ほとんど無血で勝利していくと共に、大衆がソヴ

ィエト新権力を支持したことにより、「ボリシェヴィキは二~三週間すらもち堪えられない」

と確信していた外国の観察者や国内の政敵の目算をすっかり狂わせてしまった。

ロイは、ルナチャルスキーがこう述懐したと紹介する。

何もかも荒れ狂う流れの中に巻き込まれ、革命的熱狂で溢れかえっていた。なにより

必要だったのは、われわれの理想を完全に表現しきること、・・・当時、中途半端な施策

とか、順を踏むべき段階とか、われあれの理想に一歩一歩接近することについて、人と

話し合うことは難しかった。そう語ることを、『慎重居士』ですらも日和見主義とうけと

ったことだろう。(注 28)

ロイによれば、こうした理想に熱狂していた当時、レーニンとボリシェヴィキの主要な

目的は、革命が西ヨーロッパにもひろがり、ロシア革命の勝利を強化してくれるときまで

ロシアが持ちこたえることだった。1918 年春には社会主義の建設が「ロシア一国で」進行

すると想定するロシアの革命家は一人もいなかった。彼らは、10 月革命を世界プロレタリ

ア革命の発端とみなしていた。こうした意識はときに、もしヨーロッパ革命が遅延したり

すれば、必要とみなされるいかなる手段も用いて何が何でももちこたえる必要がある、と

の考えを促した。そのさい、長期的にみると、ボリシェヴィキ党の立場を弱めたり、どん

な社会主義にも有害となるような手段も採用されたりしたのである(注 29)。

第三の、レーニンの国家独占資本主義観が戦時の経済統制に引きずられていることは、

第二の、世界革命への期待感とも関係するが、本論は、第四の、「社会主義の下では「貨幣、

商業、商品生産は「衰退」する」という、マルクス・エンゲルスの間違った理解と、それ

を鵜呑みにしたというレーニンの理論的陥穽と、第三の論点との関係を重視する。

ロイは、「四月テーゼ」以降、10月革命前の数か月間にレーニンとボリシェヴィキが打ち

出した主要な提案は、完全に実現可能で、かなり控え目なものであり、それゆえ、レーニ

ンがこう書いたのは正しいという(注 30)。

Page 37: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

34

われわれが「解決不可能な」社会的課題をとりあげたことはかつてないこと、また、

きわめて困難な事態から脱却するただ一つの活路として、社会主義をめざす即時の方策

をとるという完全に解決可能な任務を解決できるのは、プロレタリアートと貧農の独裁

だけであるということを、われわれは銘記しておかなければならない。(注 31)

ところが、『さしせまる破局、それとどうたたかうか』や『国家と革命』のような、やは

り 10月革命の直前に書かれた小冊子などのなかには、非常に性急で非現実的な、あるいは

著しくユートピア的な言説が含まれており、ロイは、レーニンのこれらの謬見が 1918年春

から 1921年春までのボリシェヴィキの誤った経済政策のもとになっていたと考えた。

ロイは、『さしせまる破局、それとどうたたかうか』と『国家と革命』から、それぞれ、

以下のようなレーニンの謬見の類例を引用する(注 32)。

国が未曾有の惨禍をなめているときの革命的民主主義的政策は、さしせまる破局とた

たかうためには、パンの切符制だけにとどめずに、さらにつぎのことをつけ加えるべき

であろう。第一に、全住民を消費組合に強制的に統合すること。なぜなら、このような

統制をやらなくては、消費にたいする統制を完全に行うことはできないからである。第

二に、金持ちに労働義務を課し、彼らがこれらの消費組合のために、書記の仕事その他

これに類する仕事を無報酬でするようにさせること。第三に、ほんとうにすべても消費

物資を住民に平等に分配し、戦争負担が均等にかかるようにすること。第四に、住民中

の貧しい階級がほかならぬ金持ちの消費を統制するような仕方で、消費を統制すること。

(注 33)

ブルジョア・イデオローグ(とツェレテリ、チェルノーフの一派のような腰巾着)の

欲得ずくの資本主義擁護はじつに、彼らが、今日の政治上の緊急で焦眉の問題、すなわ

ち資本家を収奪する問題や、すべての市民を一大「シンジケート」―すなわち国家全体

―の労働者と勤務員に転化する問題や、この全シンジケートの全活動を真に民主主義的

な国家である労働者・兵士代表ソヴィエトの国家に従属させる問題を、遠い将来のこと

についての論争やおしゃべりにすりかえているところにある。(注 34)

全住民を消費組合に強制加入させ、消費に対する完全統制を行う構想や、社会全体が単

一事務所と単一工場から構成されるという構想では、商業などは問題にならない。上の引

用部分は、レーニンの筆がすべった結果ではない(注 35)。

同じ『国家と革命』の数頁あとには、以下のくだりもある。

このような経済的前提条件があれば、資本家と管理を打倒して、生産と分配との統制

の仕事でも、労働と生産物との記帳の仕事でも、彼らを武装した労働者、武装した全人

Page 38: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

35

民に代えることに、ただちに、きょうあすにもうつることが出来る。

記帳と統制―これが共産主義社会の第一段階を「調整」するために、これを正しく機

能させるために必要なものである。・・・すべての市民が、ひとつの全人民的な国家的「シ

ンジケート」の勤務員と労働者になる。必要なことは、彼らが仕事の基準をただしくま

もって、平等に働き、平等の賃金をうけとるだけである。これを記帳し、これを統制す

ることは、資本主義によって極度に単純化され、監視と記録や、算術の四則の知識や、

適当な受領証の発行といったような、読み書きのできるものならだれにでもできるごく

単純な操作にかえられている。

人民の大多数が、自主的に、またいたるところで、資本家(いまでは勤務員になって

いる)や、資本家的習癖をもちつづけているインテリゲンツィアの紳士諸君にたいして、

このような記帳、このような統制を行いはじめるなら、そのときには、この統制は、真

に普遍的、一般的、全人民的なものとなるであろう。そのときには、どんなにしてもこ

の統制を避けることはできない。・・・(注 36)。

この、およそ「商業など問題にならない」、レーニンの、非現実的な社会主義像を、「理

解したり、評価したりするためには、マルクスとエンゲルスのいくつかの概念や、社会主

義理論の若干の中心問題にもたちかえらなければならない」(注 37)。

ロイの見かたでは、「マルクスとエンゲルスは、社会主義の下では国家のみか、商品、貨

幣、信用制度も衰退すると深く確信していた。マルクスの理解では、商品と商品制度とは

純資本主義的なカテゴリーだった」。エンゲルスも「社会が生産手段を掌握するとともに、

商品生産は廃止される。同時に、生産者に対する生産の支配も廃止される」と語っている、

と指摘する(注 38)。

マルクスも、『ゴータ綱領批判』で「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会では、

生産者はその生産物を交換しない。同様にここでは、生産物に支出された労働がその生産

物の価値として、すなわちその生産物にそなわった物的特性として現れることもない。な

ぜなら、いまでは資本主義社会とは違って、個々の労働は、もはや間接にではなく直接の

総労働の構成部分として存在しているからである」(注 39)と述べている。

ロイがいうように、「商品、貨幣、商品生産が、社会主義の下では「衰退」するだろうと

の主張は、そのどれもが、マルクスやエンゲルスの深遠な学問的探査作業の結果ではなか

った。・・・ユートピア社会主義は、マルクス主義の源泉の一つである。そして、マルクス

やエンゲルスは、社会主義をユートピアから科学に変えるために大変な努力をはらった。

けれども、彼らは、万事にこの作業を達成することはできなかった」「レーニンの場合、彼

は革命前の時代に、この問題についてのマルクスやエンゲルスの明らかに間違った定式を、

単純に、しかも無批判的に繰り返していた」(注 40)

そして、例えば、1908年にレーニンは、「社会主義についていえば、それが、商品経済の

廃止にあることは周知のとおりである。・・・交換がのこされている以上は、社会主義をう

Page 39: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

36

んぬんすることは滑稽である」と書いていたと指摘する(注 41)。

この問題は、マルクス主義の創始者の間違いにかかわる面とは別に、先の第三の、世界

大戦の交戦国が一時採用した「戦時社会主義」ないし「戦時国家独占資本主義」の非常時

施策につてのレーニンの積極的な活用策とも関係がある。

すでに臨時政府が、2 月革命の翌 3月に、全穀物とその副産物との「穀物専売制」を導入

していた。こうした穀物専売制やパンの切符制=配給制度など、民間の自由商業の統制を伴

う「戦時社会主義」施策は、総力戦となった第一次大戦の事実上すべてのヨーロッパ交戦

国と多くの中立国で、非常時の一時的制度として導入されていた。それがロイの見るとこ

ろ、レーニンは、ロシアでは、有産者階級がそうした布告を巧妙に回避する術に長けてお

り、そのため他の欧州諸国より厳格に適用されなかった。そこでレーニンは、この穀物専

売制度と、パンの切符制の強化をはかる措置にでたと考えた(注 42)。

ロイのこの示唆とレーニンの『さしせまる破局とどうたたかうか』のよみ方は、彼の 1918

年春の誤りの根源を考えるうえで、すこぶる示唆に富む。

ロイは、独占資本主義の形成、帝国主義戦争のはじまり、さらには国家独占資本主義の

台頭にともない、19 世紀に妥当だった概念が、新たに到来した帝国主義時代にはその多く

が意味を失ってしまった、というのが、大筋のところのレーニンの意見であると見る。

「確かに、ロシアは後進国のままだ」「それでもロシアは、独占資本主義や帝国主義の段

階に入っている。だから、かかる国で起こる社会主義革命を一概に時期尚早とは言い切る

ことはできない」・・・かくて「レーニンの意見では、ロシアの相対的な經濟的後進性とブ

ルジョアジーの弱さとは、たとえ人数は多くはないが(政治的に)高度に成熟したロシア

のプロレタリアートのために、いくつかの格別の利点を与えているわけである」(注 43)。

ロシアのプロレタリアートは、権力を掌握した後、長く待たれていたブルジョア民主主

義的改革ばかりか時宜にかなった若干の社会主義的改革をも実行した後では、国の社会

的・経済的発展をブルジョアジーよりもはるかに効率的に、はるかに迅速に前進させられ

るだろうと。いやそればかりかレーニンは、ロシアが長く一人ぼっちでいるはずがないと

確信していた。つまりロシアの社会主義革命が、他のヨーロッパ交戦国での社会主義革命

が勃発する時期を早めたり、その革命への道を滑らかにしたりするだろう、とも確信して

いた。経済的に発展したそうした国が、ひるがえって今度は、ロシアが自分の経済的・文

化的な後進性をもっと早く克服するのを助けてくれるようになるだろうと(注 44)。

実際、レーニンは、「記帳と統制」を展開した『さしせまる破局、それとどうたたかうか』

の結び近くで、こう述べている。

戦争は、無限の危機を生みだし、人民の物質的および精神的な力をはなはだしく緊張

させ、現在の社会組織全体に深刻な打撃を与えたため、人類は、ほろびるか、それとも、

より高度な生産様式にもっとも急速に、もとも徹底的に移行するために、自分の運命を

Page 40: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

37

もっとも革命的な階級にゆだねるか、二つに一つをえらばなければならなくなった。

・・・ロシアでは、他の国々にさきがけて、(1917 年 2月)革命が勃発した。革命のお

かげで、ロシアは数か月のうちに、政治体制の点で、先進諸国に追いついた。

だが、それだけではない。戦争は仮借ないものであり、容赦ない鋭さでつぎの問題を

提起している。すなわち、ほろびるか、それとも、経済的にも先進諸国に追いつき、さ

らに追いこすか、という問題である。

これは可能である。なぜなら、われわれの眼前には、多くの先進諸国の既成の経験、

それらの国々の技術と文化の既成の成果があるからだ。(注 45)

ロシア資本主義の後進性を論ずるとき、真っ先に思いつくのが、「ひとつの社会構成は、

それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展し切るまでは、け

っして没落するものではなく、新しい、さらに高度な生産諸関係は、その物質的依存関係

が古い社会自体の胎内で孵化されてしまうかでは、消して古いものにとって代わることは

ない。それだから、人間はつねに、自分が解決できる課題だけを自分に提起する」という

マルクスの『経済学批判序言』のくだりだろう(注 46)。

ロイの見かたでは、レーニンは、「19世紀に妥当だった概念」は、帝国主義の時代に意味

を失ってしまい、したがって『序言』のメルクマールからも解放されていたのだ。

このように見てくると、ロイは、レーニンとボリシェヴィキが 1918年春に、ネップと同

種の政策を導入できなかった間違いの根源には、レーニンの国家独占資本主義の理解が、

第一次大戦下のヨーロッパの全交戦国が導入した、穀物専売や食糧配給制などにより、民

間の自由商業を排除し、制限していた(商品と貨幣の機能を制約していた)、非常時の「戦

時社会主義」的方策に、著しく引きずられていた側面があるという見かたを、示唆してい

る。

本論はロイが「戦時共産主義期のレーニンの過ちの歴史的背景とその理論的根源」を考

察する際、重要な実証研究文献として、コンドラーチェフ著『戦時および革命期における

穀物市場とその統制』(通称『穀物市場』)に着目したことを重視した。

飢餓に直面したボリシェヴィキ新政府は、前ケレンスキー臨時政府の穀物専売制度を受

け継ぎ、食糧調達機関としての食糧省を食糧人民委員部に改組した。農政家コンドラーチ

ェフこそ、この臨時政府時代の食糧省次官であり、食糧人民委員部の業務引継ぎにも尽力

を惜しまなかった人物であって、現実の事態にうといレーニンとは対照的に、実際の食糧

調達行政の動向にもっとも精通していた農政学徒でもあった(注 47)。

ロイが『穀物市場』から学んだなかには、コンドラーチェフの描く「担ぎ屋」「投機商人」

の実像も含まれる。巻末統計集にロイが参照したことが確実な「担ぎ屋」「闇商人」に関す

る表 2-8a,b,c,dを収めておいた。ロイは穀物消費県カルーガの 627集落および全ロシア事

務職員組合のアンケート調査の分析から、もしも担ぎ屋商人がいなかったら、穀物消費県

Page 41: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

38

でかなりのかなりの餓死者がでた可能性があるとみなし、反ボリシャヴィキの論客 A・S・

イズゴーイェフの以下の証言を正しいと認める(注 48)。

もしも(戦時共産主義という-引用者)社会主義者の実験が、数百万人ものロシア人

の餓死という大惨事を引き起こさなかったとすれば、われわれは担ぎ屋に感謝しなけれ

ばなるまい。彼らはソヴィエト政権が全力を挙げて生産物の交易を止めさせていたその

時期に、自分の命を賭して、家族を扶養するため、その交易を支え続けてきたのであ

る。・・・(注 49)。

3.レーニン以降の歴代為政者も、レーニンと同じ農政上の過ちを繰り返す

ここでは、本章第 1節の最後に、兄弟の共著とロイ『10月革命』とジョレス『ソヴィエ

ト農業』の密接な相互関係を、同書自身がどう語っているかを主眼に述べる。

ロイ『10月革命』の末尾は、レーニンがネップ導入半年後の、10月革命 4周年記念に書

いた論稿のかなり長い抜粋を引用したあとで、次の一文をもって結ばれている。

レーニンは、以上の文を 1921年に書いた。しかし、それと同じ考えを敷衍した形でだ

が、私のこの試論の基礎にもなっている。不幸なことに、ソヴィエト権力の最初の四年

間という、はるか昔に起ったできごとのすべてが、今日まだ完全に無関係になったわけ

ではない。過去 50 年に我が国でおきたすべての政治危機や経済危機は(1928-32 年の危

機、1953-54 年の危機、1963-64 年の危機、最近の危機の徴候)、主に農政上のあれこれ

の間違い、農業生産に関する多数の重要な問題や、この生産領域で働く労働者などに対

する間違った態度と結びついていたことを認めないわけにいかない。まさにこれこそが、

農業生産の豊かさをわれわれがまだ達成できず、また穀物や食肉の余剰をもっていない

ことの理由なのである。それこそが、それらの余剰を資本主義諸国から購入しなければ

ならない理由でもあるのだ。もちろん、わが国の現在の経済問題の解決方法がレニ時代

のそれと同じではありえない。が、しかし、ネップのある局面を、今日でも記憶に留め

ておくのも不都合ではあるまい。(注 50)

レーニンの論稿のうち、ロイが「試論の基礎になった」と述べたことに、とくにかかわ

りが深いと思われる箇所をあげれば以下の部分であろう。

1921 年春から(ネップ導入から)は、われわれはこういう扱い方、計画、方法、行動

様式のかわりに、まったく別の、改良主義的な型のものを取り入れつつある。・・・その

型というのは、古い社会経済制度、商業、小経営、小企業、資本主義を打ちくだくので

Page 42: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

39

なく、商業、小企業、資本主義を活気づけ、そのあいだに慎重に徐々にそれらを手にお

さめるとか、あるいは、それが活気づく程度でのみ国家的統制を加えることができるよ

うにするものである。

これは、任務のまったく別の取り扱いである。(注 51)

ここで本論が注目するのは、第一に、同書自身の考察対象は 1917 年から 1921 年の 4 年

間に限定されているものの、二人の共著 1976と同じように、ソ連農業の歴史と現状をたえ

ず念頭におきながら、しかも、ありえた別の選択肢を考慮しながら考察していることであ

る。

共著 1976は、1970年代に穀物輸入大国に転落したソ連の、輸入国からの脱却への努力に

期待を表明していたが、3 年後に公刊された同書 1979 は、それが全く叶わなかったという

現状認識の進展を示唆している。

レーニンの引用も、共著における、「ネップ以降の生産性の高い個人農や職人の成長を、

もし強制集団化や全私的部門の廃絶が中断しなかったなら、農業もソ連経済全体も、もっ

と効率よく、成功したものになっていただろう」という指摘に重なる。

第二は、同書の「過去 50 年に我が国でおきたすべての政治危機や経済危機は(1928-32

年の危機、1953-54 年の危機、1963-64 年の危機、最近の危機の徴候)、主に農政上のあれ

これの間違い、農業生産に関する多数の重要な問題や、この生産領域で働く労働者などに

対する間違った態度と結びついていたと認めない訳にいかない」と、もう一つの「まさに

これこそ、農業生産の豊かさをわれわれがまだ達成できず、また穀物や食肉の余剰をもっ

ていない理由なのである。それこそが、それらの余剰を資本主義諸国から購入しなければ

ならない理由でもあるのだ」という、二つのフレーズはいずれも極めて重要な指摘である

が、同書 1979自身が、この命題を論証したわけではない。その意味では作業仮説にとどま

っていた。

しかも、この論点は、H・ソールズベリーが「前書き」で、「メドヴェージェフの判断が

正しければ、それが最後のものになることはあるまい」とその出現を期待していた、ロシ

ア革命再検討のための『10 月革命』の後継書のモチーフとも表裏一体をなす。ソールズベ

リーは、「普通は考えられない共同作業」の次の作品が以下のような包括的テーマに挑戦す

るよう檄を飛ばしていたことを確認しておこう。彼は「前書き」の末尾近くでこう述べて

いた。

メドヴェージェフが示唆していることは、当のレーニンからして吸収がかくも困難と

見なすに至ったあの最初の難しい教訓を、レーニンの後継者が、60 年を経てたあともま

だ学んでいないこと、すなわち、ソ連のような巨大な農業国の繁栄と豊かさの基礎は、

是非とも、農地と、農家と、そして創意を引き出す刺激や技術や豊かな生産とに据えな

ければならないということ、並びに、自国自身を養えない大陸国家は、必ずや経済的・

Page 43: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

40

政治的・社会学的敵な変則状態にとどまるため、それなくしてはたとえどんな工業化を

進めたとしても本当にうまくやっていくことはできないこと、これである(注 52)。

本論が強調しておきたいのは、ジョレスが当初から、ロイの作業仮説を、そしてソール

ズベリーの檄を、念頭においていたわけではなかったにも関わらず、ジョレス著『ソヴィ

エト農業』1987が、結果的に、まさに「普通は考えられない共同作業」に支えられながら、

ロイの仮説とソールズベリーの檄の両者にかかわる労作を成し遂げたことである。

第2節 『ソヴィエト農業』1987のロシア革命史再審とソ連崩壊の示唆

ジョレスは、ソ連農業に関し、戦前戦後のソ連生物学・農学論争で著名な『生物学と個

人崇拝』(注 1)や、ロイとのフルシチョフ農政研究の共著を公刊した実績もある。ところ

がジョレスは 1980年初に、アメリカのカーター大統領が、年末のソ連のアフガニスタン侵

攻に対する制裁として穀物輸出禁止 embargoを発動したその年、アイオワ州立大学など全

米各地の大学その他からの招聘による歴訪講演中、米国の学生・教職員に対し 1970年代に

世界最大の穀物輸入大国に転落したソ連農業とコルホーズ経営の苦境をどう説明すれば、

より理解を得られるものかという課題意識が芽生える機会があった(注2)。

しかも、その課題意識がちょうど、同年で 6度目の米国講演旅行の際の中西部コーンベ

ルトその他の農場視察の経験などから、ジョレス自身がかねて望んできたテーマ、すなわ

ち、「できれば国際比較が可能となるような方法で、ソ連農業の歴史を提示してみたい」と

いう希望の高まりと重なって訪れた(注3)。

本書は以来 7年を費やしたソ連農政史研究である。

しかし、本論が何よりも注目するのは、ジョレスに当初その意図があった訳でないが、

同書は共著 1976とロイ著 1979の成果を受け継ぎ、結果として、一連の画期的な「ロシア

革命史再審」を提示する労作となったことだ。ソールズベリーが、ロイ(1979)は「最後の

著作になることはあるまい」と期待していた、まさに「続編」が現われることにもなる。

ジョレスは、農業に規定された常民文化 folk cultureの歴史的伝統を共有するヨーロッ

パの中で、ソ連邦をして、西欧型の文明化の圏外における、特異な発展に導いた要因を歴

史的に考察する過程で、「ソ連の農学や農業経済学が農業の真相に目を向けなかったのは

1940年代や 50年代に限ったことでなく、1920年代や 30年代、さらには 70年代や 80年代

さえ変わらなかったこと」に気づき、「ごく自然に、研究対象を、自分の生涯の「伴侶」と

決め込んでいた自然科学から、ソヴィエト政治史へと移して」いき、ロシアを近代史の中

で特異な存在としているものは、「実はロシア革命とか、工業化や科学技術の進歩などでは

なく・・・端的にいえば、むしろロシアの農村で起こったもろもろの変化である」と狙い

をつけるようになる(注 4)。

Page 44: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

41

そこでまずジョレスが提起したのが「マルクス主義理論がプロレタリア革命と称してい

る 1917年革命は、根本的には土地革命・農業革命 agricultural revolutionだった。それ

は土地問題の解決、土地の再配分のために決起した農民の自然発生的な反乱である」とい

う所説であり、20 世紀初頭ロシアの主要な社会的抗争は資本家と工場労働者の階級闘争で

ないとして、むしろ、20 世紀初頭のロシア農村における絶望的な社会抗争と、その根底に

ある、20 世紀初頭のロシアにまだ全く手つかずに残っていた「地条農業 striped

agriculture」ともいうべき、伝統的な共同体農業と「地条圃場 striped fields」に着目す

るよう求めた(注 5)。

本論は、ジョレスのロシア革命史再審の一連の試みに、この「地条農業」の歴史的位置

づけとその考察結果を「導きの糸」として進められた面があることを重視する。

そこで、帝政ロシアの「地条農業」の考察からはじまり、往年の欧州の穀倉、ソ連が穀

物輸入大国に転落するまでのソ連農業史研究としての『ソヴィエト農業』全体像を鳥瞰す

るために、やや長いが、以下に「まえがき」の一部を引いておこう。

古い農民共同体 община オプシチーナと領主層 помещики との抗争は、古くからの絶望

的なもので、それは農村部の発展が長期にわたり立ち遅れた結果である。農業に規定さ

れた常民文化=農耕 народная культура/folk culture の伝統をロシアと共有する、その他

のヨーロッパでは、散在する小圃場の耕地整理や共有地の分割は主に 18 世紀と 19 世紀

に起った。個々の農民家族が村落の外部に 20筆から 100筆のごく細長い耕地片を保有す

るような、「地条農業」ともいうべき古い共同体制度を転換するには、100~200 年を要し

た。農民共同体はこの転換に抵抗してきた。だが、土地囲い込み立法、都市の発展、農

村地方の抗争が、次第に大多数の農民を、整理された耕地を所有ないし借入れをし、近

代農法の導入やその改善を自由にやれる家族農業に転換していった。彼らは競い合って

新品種、肥料、新機械を使用した(北米の自由な農業の登場は脈絡が異なる)。

共同体農業と「地条圃場」はロシアには 20世紀初頭になお全く手つかずに残っていた。

欧州に共通する形を模した最初の改革が導入されたのは 1906年である。諸改革は進歩的

ではあったが、多くの緊張と抗争を生みだした。とはいえ、これらの改革は農業生産を

刺激し、一次大戦勃発時までに、ロシアは良質の穀物、工芸作物、畜産物の輸出国にな

った。

農民共同体は生産単位としては後進的だが、それは古い伝統、純粋な社会主義的平等

原理、共通利害を反映していた。19 世紀のロシア社会主義運動の主要傾向はマルクス主

義よりも農村問題によって規定されていた。最強政党である社会革命党が農村共同体の

利益を代表した。彼らの考えでは、伝統的な共同体である農村共同体セリスカヤ・オプ

シチーナ сельская общинаこそ、将来の社会主義共和国の潜在的にごく自然な単位だった。

ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ派はしかし、この見地に精力的に対決した。ボ

リシェヴィキのこうした立場は、1918 年から 21 年にかけてのレーニンの誤謬と、「戦時

Page 45: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

42

共産主義」という全く取り返しのつかない政策に帰結したが、それは農民層を資本家階

級と同列に扱い、代償もないまま暴力による農村からの食糧調達を正当化した。

1921 年の新経済政策=ネップは伝統的形態の共同体を復興させるための退却である。

同時にそれは個人競争を通じた農業生産を奨励しようと共同体内の分解を促す試みでも

あった。その過程が 1930-34 年の強制的集団化によって突然、容赦なく中断された。自

生的な社会発展に対する唐突で破壊的な介入は、多くの課題を次から次に惹起した。か

つてヨーロッパの穀倉であり、最大の穀物輸出国であったソ連は今や、60 カ国余からの

買い付けのためはるか地球の裏側のオーストラリア、アルゼンチン、またニュージーラ

ンドまで貨物船を回して、穀物、食肉、バター、砂糖を持ち帰る、世界最大の穀物と畜

産物の輸入国に転落したのである。本書は、こうした一大変化の歴史的、政治的、経済

的、そして農学的な諸課題を考察する。

だが、本書は、単にソヴィエト農業の過ちを述べ、説明するだけではない。・・・ソヴ

ィエト農業史は、国の貧富にはかかわわりなく、全世界の人びとに大きな教訓をもたら

している。農業が人間生活の拠り所であるのは、今もなお、これからもずっと変わらな

い。Agriculture remains, and will always remain, the basis of human existence. (注

6)

地条圃場 полосатые поля / striped fields の地条 полоса とは、幅が極度に狭く細長い圃場の

こと。ロシアの伝統的な休閑三圃式輪作(注 7)の下での農民間の土地配分は、共同体の「社

会主義的平等原理」のため土地の散在化、混在化、地条の極小化を伴った。それは農民に

は正確な測量・分割の術がなく、定期的な土地割替(わりかえ)の際に村全体の一括評価

ができたいため、いったん数個の区画地に分解した耕地を、さらに個々の農戸ごとの地条

として細分化して、付与したことによる。隣接する狭小な播種地で人馬が行き交うことに

よる損傷を避けるのに農作業の同時性が求められ、また自家用家畜の地条放牧の困難から

休閑地や刈り入れ済み圃場での共同放牧も必然化された。ジョレスは 1861 年農奴解放以後

の出生率上昇に伴う定期的な土地割替の度ごとに、遠隔の地に散在する共同体農民の分与

地がますます狭小となり、このことが土地不足を解消するための共同体農民の土地革命に

賭けるマグマの温床になったとみる。ジョレスとロイのこの知見の一部は後述のように農

民史家ダニーロフなどによる(注 9)。

ジョレス『ソヴィエト農業』は 1900 年からフルシチョフ失脚の 1964 年までのソ連政治

史・農政史を考察する第一部「政治的転換、1900-64 年」と、1965 年のブレジネフ農政か

ら同書脱稿直前のゴルバチョフ農政開始までを考察した第二部「経済的解決、1965-86 年」

の全二部からなり、第二部は「食糧と工芸作物」、「家畜問題」、「機械化と化学化」、「組織

と経済」、「私的(個人)農業」のソ連農業を部門別に考察した各章、および最終章「問題

と展望」からなる。

Page 46: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

43

ジョレスが「まえがき」冒頭で、「本書は、私が半生をかけて格闘してきたソヴィエト農

業と農学の諸問題に関する研究と論議の集大成である」と述べるように、同書はまさに包

括的で体系的な書物ではあるが、本節は、しかし、あくまで、農業・農民史の視点から、

同書が、ロシア革命史再審に如何なる寄与をなしたのかに考察を限定する。

ここでは以下の四つの論点のみを取り上げる。

1.土地革命・農民革命としての 1917年革命と新経済政策=ネップの政治的限界

2.1929-33 年の集団化のほうが 1917年革命よりも根底的にソ連型社会主義に転換

3.ソ連の「アキレス腱=農業」の変容:「汲み移し」から「金食い虫」に

4.食糧を武器に使う米国と、逆石油危機による致命傷で崩壊する「産油国」ソ連

1.土地革命・農民革命としての 1917年革命と新経済政策=ネップの政治的限界

前節でみたようにロイは、ロシア革命は、1917年の時間枠から出て、1921年のネップ移

行のほか 1922年のソ連邦成立までを視野に収めないと理解できないと述べていた。

その視点から、本論が、ジョレスのロシア革命史再審で注目するのは、1917 年革命の根

本は土地革命・農業革命であると性格づけたこと、および、ネップ=新経済政策の政治的

限界を指摘したところにある。

第一に、ジョレスによれば、ロシア史の道筋を変えたのは 1917年 10月のボリシェヴィ

キの冬宮襲撃などではなく、同年春の播種期の始まりだった。

2月革命による帝政の瓦解、法と秩序の空白化に気が動転した領主層の大多数は、春播き

作物の耕作準備もせず、自らの農場を見捨て、都市に逃げ込んでしまった。播種を開始で

きない大地主層の無能さが、すでに深刻化していた都市の食糧不足を一段と悪化させた。

播種期が終わると、より深遠な革命が南から北に移動し始めた。農村共同体こそ、首都に

ある憲法制定議会に似て、農村地方で機能できそうな、帝政時代以来存在する唯一の組織

単位に見えた。ストルイピン改革で窮迫した農村共同体は、領主が見捨てた遊休地を見て

許し難いと考えた。広大な耕地を遊休のまま放置したのは、戦時の大規模な徴兵により低

賃金労働を奪われ、地主農場の採算が悪化したためでもあるが、領主が播種期を前に農場

を売却したことが、たえず追加的な土地を渇望してきた共同体農民に対し、地主農場の強

制収容という永年の思想を鼓舞した。共同体による未播種農地の占拠という報告が全土か

ら寄せられた。兵士の殆どは農民であり、地方守備隊も領主農場を警護しなかった。軍脱

走者は武器を携え、領主農場の私設警護隊に対処した。農民は地主の牧草地で草を刈り、

地主牧場に家畜を放った。突然の農村地方における農村共同体の権威確立は、クラーク層

をも驚かせ、彼らの多くが領主地の再配分に加わろうと、共同体に復帰した(注 8)。

第二に、臨時政府の脆さと 10月蜂起の容易さは 9~10月の農村の出来事による。ロシア

にマルクス主義のいうプロレタリア革命の条件は希薄だった。ボリシェヴィキは民衆革命

Page 47: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

44

より宮廷革命で実権を握った。新政府の土地国有令が農民に領主地を与えたというが、領

主地は 10月末までに存在を止めていた。土地布告も共同体で熱列に歓迎された訳でなく、

共同体保有地を国家に帰属する賃貸地に転換した。賃貸に期限はなく、農民が自身の労働

生産物の完全な所有権を確保しうる保証はなかった。だが法令は少なくとも領主が財産の

返還を要求出来ないと明示した。共同体は領主地の強制接収後、全体に社会的地位を改善

し、ロシア農村の暮らし向きも 1920 年代半ばと後半に土地革命以前よりずっと好転した。

もし社会主義革命の主眼が社会集団間の富の再配分にあるなら、確かに 1917年にロシア社

会主義革命が成功した。だが「プロレタリア革命」後 20年間に労働者の生活水準は下がり

続け、経済条件を改善した社会集団は共同体農民しかない。1.5億 haの可耕地、採草地、

森林が接収され、2.5千万戸の共同体農民に配分されたが、再配分を達成したのはレーニ

ンの土地布告でなく、発布以前に農民自身の手でなされていた(注 10)。

第三に、戦時共産主義の過った政策は、ソヴィエト政府の当事者能力の欠如の結果であ

り、政府はロシア農業問題を理解しなかった。

ボリシェヴィキ指導部の面々は知識人であり、鍛えられた革命家でもあったが、農民出

自は誰もいない(注 11)。レ―ニンも同僚も心底、農民層もまた、労働者や兵士たちと同様、

ボルシェヴィキの宣言や訴えを受け入れると確信しきっており、まさか労働者の革命と農

民の革命とが、別々の目標を掲げ進行中と気づいていなかった。農民はボルシェヴィキが

彼らの利益を代表するとは信じていなかったし、彼らはそれで正しかった(注 12)。

ジョレスは、臨時政府のもろさと 10月革命の容易さの例証として、1917年に「ロシアの

農民は、ボリシェヴィキがこの世に現れる何世紀も前に開始した事業を完成しつつあった」

というトロツキーの著名な『ロシア革命史』の一文を引用する(注 13)。

ボリシェヴィキ党は、明確な公式農業綱領をもたなかった。講和と領主地の即時強制収

用を約束すると、影響力が劇的に広がったが、農村共同体内では依然、殆ど基盤がなかっ

た。プロレタリアート党のイメージを変える気がなく、自党を独立自営農の利益と結合さ

せる意図もないため、労農同盟の約束の含意も曖昧なままだった。レーニンは農民共同体

を反動的な制度と信じ続けた。戦時共産主義期にボリシェヴィキは、農村半プロレタリア

たるバトラーク батрак=日雇極貧農と直にも大義を共有する用意があり、貧農委員会を立

ち上げた。この誤算は、バトラークが、レーニンの説く、領主地の最も生産的な活用法で

あるはずの、農業協同組合や国営農場よりも、土地再配分を求め、中農を志向したことだ

(注 14)。

戦時共産主義の割当穀物徴発は、農民の生産意欲と作付け増加を妨げた。内戦終了後も

続行した食糧強奪政策が、体制を崖っ淵に立たせた。半ば飢餓状態の住民が農村に流入し、

多くの都市で人口が半減。腸チフスやコレラ、赤痢、スペイン風邪その他の伝染病がが流

行り、内戦時以上の死者が出た(表 3-1bの戦時共産主義期の犠牲者を参照)。1920年と 21

年には工業都市のストライキとともに農村の叛乱が広がった。政府が撤退し、抜本的な政

策転換をしない限り、民衆革命が避けられなかったろう。重要なのが、ネップ方式が、少

Page 48: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

45

なくとも播種期一カ月前に導入されたことだ。1921 年は大凶作年だが、戦時共産主義が継

続していたら、より身の毛のよだつ悲劇をもたらしたはずだ。ネップは 1921年飢饉を防ぐ

には遅きに失したが、もしネップの自由主義的転換がなければ、ロシアの飢えた人びとに

寄せられた国際支援を得ることも極めて困難になっていた(注 15)。

本論は第四として、ジョレスが、1921年 3月に開会されたボリシェヴィキ党第 12回大会

が、初期ソヴィエト・ロシアの歴史的転換であるとしたなかで、同党の党内民主主義に言

及したことに注目する。ジョレスは、新経済政策=ネップの導入を決めた同党第 12回大会

についてこう述べる。

第 12回党大会は初期ソヴィエト・ロシアの歴史的転換点である。政権は今や、権力が

危機に瀕したことを思い知らされた。路線変更は、まさに死ぬか生きるかの問題であり、

単なる分別の問題ではなかった。だがこの大会が転換点だという第 2 の理由がある。つ

まり、大会が多少とも党内民主主義を発揚しうる場だとすれば、これが最後の党大会と

なった。大会最終日は、予告もなしにレーニンが準備した決議案「党の統一について」

を了承した。自身の政治綱領を有する党内のあらゆる分派や反対派集団が禁止され、中

央委員会とその政治局に党内問題を処理する専制的権限が付与されたのである(注 16)。

「(第 12回党)大会が多少とも党内民主主義を発揚しうる場だとすれば、これが最後の

党大会となった」という、ジョレスのこの指摘については、ロイも『社会主義的民主主義』

1972 第 3章の「「党の統一に関する決議」の意義」で同趣旨の所見を述べている(注 17)。

兄弟のこのスタンスは、共著 1976の「社会主義的民主主義の漸進的な復活が、たとえ当初

は党内だけであろうと、漸次わが国全体に広がっていけば展開は異なっていた」との提起

を受けたものでもあり、本論序章2「異論派兄弟のロシア革命史再審の概観」で紹介した、

⑥「巨大で多彩なモザイク状の旧ソ連は、唯一の政治組織=共産党が権力を独占し、強大

な保安機関たる KGBがタガを締める以外に、政治的統一を支える拠り所がなかった」にも

繋がっていく。ボリシェヴィキは、ネップで、農民に対し、経済的には譲歩したが、政治

的には妥協せず、ボリシェヴィキの一党独裁志向を崩さなかった。

本論は、兄弟のスタンスをそのように理解する。

上記の第一と第三による「ロシア革命史再審」は同書独自の貢献である。第二の指摘は、

ロイ(1979)にその萌芽が認められる。

第四の「新経済政策=ネップの政治的限界」について、ロイの十月革命 80周年記念『1917

年のロシア革命』最終章の一部を以下に引いておこう。

1920年、ラッセルは、ボリシェヴィズムの理論と実践の実態を調査するためにロシア

に長期滞在した。ラッセルは監察結果を総括し、こう書いている(1節でも引用)。「戦争、

とりわけ国内戦の欠点は疑う余地がなく・・・憎しみ、猜疑心、残酷さが人びとの相互

Page 49: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

46

関係で当たり前のようになる一方、どうやら、文明の遺産は失われる・・・権力の企て

が共産主義理論を作り変えるのは必至で・・・ボリシェヴィキが権力に留まるなら、彼

らの共産主義が色あせる懸念が多く存在することになる」。レーニンはラッセルのこの結

論を知っていたし、自分も同様な懸念を抱いていた(注 18)。

もちろん内戦の状況下では、国家と党のなかで民主主義を拡大することは困難だった。

しかし、すでに 20年代にあっては・・・ネップの枠内で経済活動の自由を徐々に拡大し

ていきながら、政治活動の自由も徐々に拡大すべきであった。1917年までは、ソヴィエ

トの枠内での自由な政治的競争を恐れていなかった・・・しかし数年後、同じボリシェ

ヴィキが党内部での民主主義の拡大さえ恐れるようになった。党内の討論や諸会派の活

動が禁じられた。もちろんレーニンは当時こうした措置が一時的なものであると大いに

語ったが、それらはその後、数十年にわたる党の掟としての力を得たのである。ネップ

導入を主張し、党にこの経済政策を「本腰を入れ、長期にわたり」実施すべきものと説

得しておきながら、レーニンは社会主義的民主主義を拡大する必要性には一言も言わな

かった。それどころか彼はテロルの維持、つまり法に規制されない暴力の維持を要求し

た。レーニン最大の功績がネップ導入にあったと同時に、レーニン最大の過ちは民主主

義の役割と重要性の軽視にあったと思う・・・いずれにせよ民主主義の軽視こそ基本理

念としてのレーニン主義の危機のみならず、ソ連社会主義のあらゆるモデルの危機にな

ったと断言してよい(注 19)。

2.1929-33 年の集団化のほうが 1917年革命よりも根底的にソ連型社会主義に転換

ジョレスがいうように、1929-32 年のソ連農業の集団化は、1917 年の二つの革命後のロ

シア社会における最も重要な新展開だった。農村共同体とこの国の生活の全分野に対する

その影響は根底的かつ恒久的なものとなった。10 月革命は、全人口のごく一握りに過ぎな

い資本家と農村の領主層からなる二つの上流階級を滅ぼした。これに対し、スターリンが

「上からの革命」と呼んだ集団化は、人口の 8 割以上を占めるロシアの多数派階級の生活

を一挙に転覆してしまった。1917 年の「プロレタリア革命」の場合は、労働者の生活はさ

して変わっていない。彼らは同じ生産手段と交換手段用い、同じ腕前で仕事をした。農業

集団化は生活のあり方を完全に一新した。変わったのは農民が数百年営んできた生活の仕

方ばかりでない。百万以上の農民家族が強制退去を強いられ、その過程はテロル、追放、

流刑さらには死刑など、ロシア史上に前例のない規模の作戦行動により強化された(注 20)。

ところがソ連公認の歴史書はこの時代の重要な史実を歪曲するか抹殺する。1965 年に実

証的な研究で知られるダニーロフ編著二巻本学術研究書が刊行禁止となった(注 21)。

西側にさえ 1975年版『新コロンビア・エンサイクロペディア』の項目 collective farms

のように、集団化が「農業の近代化、食糧の安定確保、工業生産への資本の解放、重工業

への労働力の提供等を助けた」とのソ連公認史学の立場に近い文献がある(注 22)。

Page 50: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

47

本論は、ジョレスが上記のソ連公認史学に対置した、以下のふたつの所説に注目する。

第一は、1922-26年に政府が、生産的社会層としての共同体農民がその重要性を認め、ボ

リシェヴィキが非難し続けたストルイピン改革の現代版を導入し、中農層と貧農層の多く

までが、散在する零細地条の耕地整理(交換分合)を通して経営改善をすすめた結果、共

同体農民が個人農として、土地への執着を強めつつあったと示唆する分析である。

第二は、集団化の結果として、農村住民の最も活動的な部分が、当初はクラーク絶滅に

より、のちには仕事のつまらなさ、個性の否定、責任の欠如、自由や起業心に対する夥し

い制限、農民の劣等な社会的地位、不人気な支払方法、などにより、損なわれてしまった

という考察である。

第一点で重要なのは、ジョレスが、ネップ期の 1922-26年にボリシェヴィキ政権が、根

本はストルイピン改革と同じ、その現代版を支持せざるをえなくなり、農民史家ダニーロ

フの実証研究資料にもとづき、クラーク層というより、むしろ、中農、貧農が、細分地条

の交換分合=耕地整理に熱心にとりくみ、その結果、1925年までに、ロシア中央部で、個

人の区画整理済み圃場での農業の割合が革命前の水準を回復したと分析していることだ。

抽出統計資料によれば、分合整理された区画耕作地の穀物単収は、細分地条のままの共

同体に属する分与地より 15-20%も高い。農業人民委員部専門家や党中央委員会農務部は、

クラーク=富農こそが、農村におけるもっとも実効的で専業的な経営階層であることを承

知していた。クラーク=富農育成を公式政策とするわけにはいかない。しかし 1922年成立

の土地法典によれば、農民は、農業の共同体形態と、耕地整理のなされた個人農業形態の

いずれかの選択ができるようになった。ボリシェヴィキは、単純な三圃制輪作に縛られて、

遠く散在する耕地片が機械化や集約化を阻むような共同体の地条農業の後進的で保守的な

性格を非難し続け、他方ストルイピン改革に対しても、それが農村資本家を鼓舞・奨励す

るものとみて、反対してきた。ところが皮肉にも 1922年の土地法典で、事実上、ストルイ

ピン改革と同類の農業・農民振興策をすすめることとなった(注 23)。

奇妙なことに、耕地整理の申込者の多くは富裕層よりずっと貧しい小農層だった。革命

前のストルイピン改革期に耕地整理に勤しんだクラーク層は、共同体からの離脱を望まな

かった。戦時共産主義期の 1918-21年に体験した当局側の敵対行為が脳裏に焼き付いてお

り、一時的傾向に終りかねないものに危険を冒すことには慎重だった。いまやクラークは

集落内に棲み、隣人より裕福だったが、彼らの相対的な富裕さは、共同体の秩序を侵した

り、他の成員と敵対したりするものではなかった。よりましな家をもち、より多くの家畜

を育て、近代的農機具をいくらか使用していた。裕福ゆえ普通、大家族を抱えており、そ

れゆえより広い地条圃場をもらえる権利もえていた。その結果、彼らはより優れた農業経

験をもとに、より多くの市場向け穀物や食肉を生産した。ほとんどの場合、彼らは自家労

働力だけに依拠したが、なかには農繁期とか牛の世話に他の農民を雇用する事例もあった。

だが強調すべきは、ネップは限定的な雇用労働を容認しており、クラークは共同体の規則

に従っていて、何ら違法を働いていなかったことだ(注 24)。

Page 51: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

48

党の公式教義や当時の農業問題の討議では、「農村独自の資本家階級」の語義を表す用語

=クラークが広範に使われたが、特定の資産形態や特権と結びつく何らの定義もなく、ク

ラークが現実に共同体のいかなる成員を指すかを知る歴史家もいない。1925-26年には以前

のクラークは農民階級全体と一体化した存在になっていた。共同体農民の 96%に関しては、

村内の経済的不釣り合いは今や、進取の気性、農業の心得、読み書き、機械の使用能力に

基づくもので、それに続くのが骨身を惜しまない勤勉さだった。働けば働くほど豊かにな

り、中農層と富裕層との境界も曖昧となった(注 25)。

このような、中農や貧農が目指す明日の農民像のモデルとなるようなジョレスが素描す

るクラーク像は、日本流にいえば守田志郎(1973)が規定する「篤農家」像にも通ずるもの

がある(注 26)。興味深いのは、亡命ロシア人の歴史家で宗教哲学者のG・P・フェドトゥ

フが、クラーク(富農)を発明家や科学者、そして行政官と並ぶ、エリートとして描いて

いたことである。著名なソ連経済史家アレック・ノーヴの場合は、クラークを「企業心が

あり商業感覚があった。彼らは時には嫉妬心をまねいたが、かれらはまたあらゆる野心的

農民がなりたいものであった」とのべている(注 27)。

本論がここで今ひとつ重視するのは、ジョレスが、1927年の第十五回党大会で主要な社

会主義的目標として農業集団化を盛り込んだことと、スターリンが 1925年の農村ソヴィエ

トの選挙結果に衝撃を受けたこととの関係に注目したことである。ジョレスは述べる。

1927年になって党中央委員会が同年に召集予定の第十五回党大会向け決議案の起草を

始めると、公的な姿勢に変化が見られた。起草された決議案は、農村地方における主要

な社会主義的目標として農業集団化を盛り込んでいた。1927年の通じ、以前の農民に対

する「宥和政策」は「右翼的偏向」と見なされ始めた。

スターリンその他の党中央委員会多数派は、1925年の地方ソヴィエトの選挙で共産党

の候補者が確保できなかったことに度肝を抜かれた。農村ソヴィエトの代表に共産党で

ない農民が選ばれれば、集団化の推進は難しくなるおそれがあった。こうしてソヴィエ

トの権限を縮小し、党機関の権限を増大させることが枢要となってきた。

1917年にできたソヴィエト制度はかなり民主主義の潜在能力を有していた。地域次元

で党機関が強大になる以前の 1920年代初頭には、地方ソヴィエトの執行委員会議長の地

位は、地方党委員会書記の地位より影響力が絶大で、権限も強く、傑出したボリシェヴ

ィキも、地方ソヴィエト議長に選出されるよう努めるのが当たり前だった。だが、いっ

たんスターリンが党の実権を握り、党機関および保安機関を拠り所にし始めるや、議長

の地位も様変わりした。第十五回党大会後には、ボリシェヴィキ幹部は地方ソヴィエト

から地方党委員会へと鞍替えした。こうなれば 10月革命のスローガンである「すべての

権力をソヴィエトへ」は如何なる意味も失ってしまう(注 28)。

Page 52: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

49

ここでの選挙とは、政権が、ジノヴィエフ提唱の「農村に面をむけよ」とスターリン提

唱の「ソヴィエト活発化」のスローガンをかかげ、「党とソヴィエト権力が新たな方法で農

民と農村を指導する関係をつくりだそう」と試みた時期に、その一環として実施した再選

挙=やり直し選挙のことである。スターリン自身 1924年 10月、「ソヴィエト活発化」のた

めにこう発言していた。

だが、どのようにしてそれを行うのか。私の考えでは、そのためには、何よりもまず

ソヴィエトを活気づけることが必要である。活気のある、誠実な創意に富んだ、意識の

高い人を、とくに農民のなかで最も意識が高く、最も創意に富む人びとである、以前赤

軍兵士であったものを、すべてソヴィエトの仕事に引き込むことが必要である。なぜソ

ヴィエトの〔仕事〕というのか。それは第一に、ソヴィエトが権力の機関であって、勤

労農民を国の行政の仕事に引き入れることが、党の当面の任務だからである。第二に、

ソヴィエトは労働者と農民との結合 смычка スムィチカの機関で、労働者が農民を指導す

る機関であるが、労働者が農民を指導することは、いまは、何時にもまして必要だから

である。第三に、ソヴィエトでは地方予算が編成されつつあるが、予算は農民にとって

緊急な問題だからである。最後に、ソヴィエトは農民の最も確実なバロメーターである

が、農民の声には必ず耳を傾けなければならないからである。農村には、例えば農民共

済委員会や協同組合や共産青年同盟などの重要な機関があるが、一定の条件のもとでは

これらの組織は、労働者から分離しかねない、純然たる農民団体に転化しうる危険があ

る。そういうことが起らないために、これらの組織の活動をソヴィエトとのなかで一つ

に結び付ける必要がある。なぜなら、ソヴィエトでは、ソヴィエトの構造そのものによ

って、労働者の側からする農民への指導が保障されているからである。だからこそ、ソ

ヴィエトを活気づけることは、雨後の筍のように農民の組織が増えている現在では、第

一級の重要性をもった任務なのである。(注 29)

本論は、ジョレスがここで、スターリンが「農村に面をむけよ」と「ソヴィエト活発化」

のためにやり直した 1925年の農村ソヴィト再選挙において、彼の予期に反し、共産党の候

補者たちが、最も「活気のある、誠実な創意に富んだ、意識の高い」非党員の農民に敗北

したことがひとつの重要な契機となり、以後、最も「活気のある、誠実な創意に富んだ、

意識の高い」、多くの農民のモデルともなっている勤勉なクラーク層の、そして、われわれ

がイメージする「篤農家」の絶滅なしに、スターリンが意図した集団化はありえないと判

断したものと示唆していると考える。

しかも、ジョレスはここで、さらにもうひとつ重要な指摘を付け加える。

(政権の土地法典下で奨励された)耕地整理と自由な農業が、クラークを特徴づけは

しないことも明白だった。それはむしろ貧農や中農層に普及しており。皮肉にもそれは、

Page 53: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

50

三圃制輪作の改善法をふくむ近代農法の積極的な宣伝や、簡易農機具の増産によって奨

励されたものである。集団農場に好意を寄せている人びとも、すでに耕地整理を済ませ

ており、次第に自身の土地への執着を強めてきた個人農に対して、集団化の理念を売り

込むのは至難の業であることが分かっていた。(注 30)

それではネップ最盛期に、成長しつつあったソ連農業の家族労働を基本とする独立自営

の勤労農民各層の運命は、集団化によってどのように変わったか。第二点に移ろう。

第二の、集団化の結果として、農村住民の最も活動的な部分が、最初はクラーク絶滅に

より、のちには仕事のつまらなさ、個性の否定、責任の欠如、自由や起業心に対する夥し

い制限、農民の劣等な社会的地位、不人気な支払方法、などにより、損なわれてしまった

という場合、本諭がここでとくに重視するのが、欧米との対比でみたソ連の家族労働を基

本とする独立自営農民の喪失という問題である。この点『ソヴィエト農業』第 12章「問題

と展望」の結論部分は、総括的にこう述べる。

集団化と、それを実施した酷いやり方は明らかに経済的かつ政治的な大惨事だった。

それはロシア農村が生まれ育ってきた本来的伝統を 10月革命がもたらしたよりもはるか

に根源的に変質させた。革命は封建的ないし封建制と資本制とが半ばする農業形態を終

わらせたが、それは家族を基盤とする農業を強化した。スターリン主義の粗野な宣伝は、

家族経営農業にはいかなる将来発展の可能性もないと断言した。だがソ連以外の世界の

多くの諸国では、家族経営農業が成功裏に発展し、高い生産性を実証した。ソ連でもス

トルイピン改革が示したように、ひとつのありえた道だった。

農村の人口減少は普遍的現象であり、それは合衆国やカナダや西欧では劇的な割合に

まで縮小した。それは矛盾おない過程ではない。資本主義諸国ではそれは経済競争の所

産であり、ダーウィン主義者の言う「適者生存」の生きた実例を提供している。最も生

産的で、最も勤勉で、最も新しい技術や農法に順応でき、最も大地に結びついている農

民が生き残って、土地を耕し続けている。こうした才覚をもつ農民の数は減りつつある

が、彼らの生産性は上昇しつつある。だがソ連邦では、集団化が反対の結果をもたらし

た。農村住民のなかの最も活動的な部分が、当初はクラークの清算によって、のちには

自発的に、損なわれてしまった。仕事のつまらなさ、個性の否定、責任の欠如、農民の

劣等な社会的地位、自由や起業心に対する夥しい制限、がんじがらめの規制、不人気な

支払方法、地方官僚への依存、孤立した農村生活をときに襲う極端な陰うつさなどなど、

これら一連の事情によって、最も有能で、若く、行動力のある人物が、あらゆる犠牲を

払ってまでコルホーズやソフホーズから足を洗おうとやっきになってきた。そうした彼

らの流失を阻む試みは全く実を結ばなかった。かくて合衆国や西欧で、最も活動的で、

有能で、しかも献身的な農民がその土地に踏みとどまる一方、ソ連で任意に残留するの

Page 54: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

51

は最も能力に恵まれない、受動的で、老齢化した人びとである。このほかには、あれこ

れの理由で離村できない人びととか、農繁期だけに動員されて援農を強制される人びと

しか、土地を耕す人びとはいない。

大地との有機的、個人的かつ感覚的な絆を保持している農民がほとんどいないのは、

この種の結びつきが私的所有と個人責任性によってしか鍛えられないからである。集団

化が農村住民を生まれ育った大地から引き剥がしてからというもの、日照り、食糧不足、

組織の失敗、あるいは再移住のキャンペーンなど、難題が襲うたびに数百万の村人を大

地からの退去に追いやってきた。大地への愛着と結びついた農民らしさの特性、心理、

そして伝統は壊滅してしまったが、それでいて、より都会的なセンスをもつ現代農民像

が現われて、かの農民性に取って代わったのかといえば、それもない。(注 31)

この総括的な指摘は、共著(1976)が、フルシチョフが最後まで理解できなかったとして、

「ことの本質は、強制的集団化以後、農民精神をもつ人びとや、真の農民的伝統が事実上

絶滅されたこと。つまり農業労働者を工業労働者の範型の変種とし、農民を、その基本的

権利は否定しつつ、工業労働者に転換していくという、乱暴な試みにより、真の純粋な農

民がいなくなったことだ」(注 32)と述べたことをさらに敷衍したものである。

この点ジョレスが、「農業の真相に目を向けなかったのは 1940年代や 50年代に限ったこ

とでなく、1920年代や 30年代、さらには 70年代や 70年代さえ変わらなかった」という場

合、「事の本質」を理解できなかったのは、すなわち家族労働を基本とする独立自営農民の

活力と、進取の気性と、勤勉性の価値を理解できなかったことは、フルシチョフのみなら

ず、レーニンからゴルバチョフの歴代為政者にも共通していることになる。

3.ソ連の「アキレス腱=農業」の変容:「汲み移し」から「金食い虫」に

ここで本論が問題とするのは次の二点である。

一つは、「ソ連のアキレス腱は農業にある」という場合、その含意は何かということ。

二つは、フルシチョフ期に「アキレス腱」疾患の症状はどう変わったかということ。

第一について。旧ソ連研究者にとり、「ソ連のアキレス腱は農業にある」との枕詞は、ま

さに言いえて妙な譬えであり、この意のタイトルやサブタイトルのついた論稿も少なくな

い。ただし、この譬えを最初に用いた論客の含意と、自説で使用する際の含意との関係を

論じた論稿に接したことはなかったように思う。

ソ連社会主義の致命的弱点が、集団農場=コルホーズの冷酷な「ただ働きの強制」、ある

いは農奴制的なコルホーズ農業の低生産性にあり、そのことを、スターリンの存命中に、

ソ連体制の「アキレス腱 Achilles’s tendon」ないし、「アキレスの踵 Achilles’s heel」

に譬えていたのが、亡命農業経済学者のナウム・ヤスニーNaum Jasny(1948)であり、著名

Page 55: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

52

外交官のジョージ・ケナンの Kennan(1951, 1952)であった。

ヤスニーは、ソ連の経済問題全体のアキレス腱 Achilles' tendon、すなわち致命的弱点

の核心は、コルホーズ農民に対する不適切極まる低報酬と、軍産上部構造

military-industrial superstructure の管理に報いる十全な褒章との全く両立不能な不和

合性 incompatibilityにあるとした(注 33)。

一方、駐ソ大使のケナンは、以下のように述べていた。

農業企業 agricultural enterpriseはソヴィエト体制の「アキレスの踵」である。そ

れが私人の手に委ねられるならば、人間の自由と個人の創意とに対する譲歩――本当のボ

リシェヴィキがひどく嫌がっている譲歩となる。強制的に集団化するならば、農民をその

土地にとどまらせ、生産するようにさせるために、厳重な拘束の機構を必要とする。農民

の強制的集団化は、これと密接に結びついている警察の行き過ぎた苛酷さを別として、お

そらく今日ソ連唯一最大の不満の原因であろう。 (注 34)。

本論は、スターリン死後のフルシチョフ時代以降でも、農業はソ連体制の「アキレス腱」

であり続けたが、しかし「アキレス腱」の疾患構造は、フルシチョフ時代を転機としてそ

の病相が大きく変わったと考える。

ジョレス自身も「アキレス腱」に言及したことがある。その際、「ソ連のアキレス腱は農

業にある」という場合、旧ソ連末期のソ連農業と関連産業における、「いくら近代化、機械

化を進めようと、農業も工業も、経営者はもちろん、現場の担い手たる農民と労働者の当

事者能力を欠いては立ち行かない」現実にあった事情を指していた(注 35)。

そででは第二に、フルシチョフ期にソ連の社会主義体制の「致命的欠陥が農業にある」

との「農業がアキレス腱」という含意は不変としても、その病相はどう変容したか。

共著で確認したように、スターリン時代のソ連農業の生産性の低さを規定するものは。

ロイもジョレスも、上記のヤスニーやケナン同様に、コルホーズ農民に対する半封建的・

農奴制的差別と強制的な土地緊縛であると見なしていた。工業化開始の 1928年からスター

リン死去前年の 1952年までの急激な工業化に伴う都市住民向け食糧の需要増大を支えたの

は、農業部門の食糧増産ではなく、農民の必要生産物にまで食い込む力ずくの食糧徴発で

あった。農民の必需消費分まで都市に「汲み移し」ていたのである。機械化や化学肥料の

投入にもかかわらず、一人当たりでは穀物生産は 40年間何ら成長せず(巻末統計の表 3-13a

を参照)、ひょっとして食うや食わずの農業危機が解消できそうな可能性があるとすれば、

それはただ一つ、スターリンの死をおいてなかったとジョレスはいう(注 36)。

フルシチョフの農業政策上の評価は論争の種だという。知識の欠如や性急さ、主意主義

などから馬鹿げた間違いが少なくない。しかし農業分野にはより公平な投資がなされ、処

女地開拓で播種面積が増加、集団農場とその成員の所得が向上し、年平均の穀物増産も人

Page 56: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

53

口増を上回った。だが農業部門は、急激な工業化と都市化に伴う労働力の農外流出と、都

市部の畜産・果樹・蔬菜の需要増大に対応できなかった。それでも国のどの地域であれ、

いかなる飢饉の兆候もなかった事実はひとつの歴史的到達を示した(注 37)。

否定面をいえば、パンはたやすく入手できるようになったが、西側に追いつき、追い越

すという口約のもとでは、この達成はまったく不十分でしかない。1960年代に入ると農業

諸指標の改善は減速しはじめた。穀物の増産が耕作圏の外延的拡大に依存したものであり、

新開地の地力枯渇が障害となるリスクを抱えていた。フルシチョフは需要の大きな食肉の

増産を図ろうと、全国を視察しては 3~4年中に食肉生産でアメリカ水準に到達することを

説いて回った。家畜頭数を増やせば赤字が増える集団農場が多く、農場は政府の増産要求

に対し、逆に国庫補助金を請求した。MTS機械・トラクター・ステーションの廃止は、長期

にわたり否定的影響を引きずることになった。コルホーズ成員が、年一度だけ、彼らが実

際に農場で作業した「作業日単位」に応じて、農場が全供出義務を済ませた後で、なお残

っている収穫物の現物で支払われるという、事前にはまったく予想がつかないコルホーズ

の支払い制度は、たえず大きな不満のもとになっていた。この問題はいくつかの試みがあ

ったがフルシチョフ在任中、解決できなかった。

だがジョレスは、彼の農政を全体的に評価すれば積極面が勝ると述べ、フルシチョフ農

政研究者 M・マコーレーの、「彼のほとんどの諸改革の背後にある考え方は根本的に正しか

った。フルシチョフが悪い所に行きついたのは何事も性急すぎたからだ・・・社会主義農

業の美徳の熱烈な信奉者としてフルシチョフは時折、片方の手で成し遂げた良いことを、

もう一方の手で取り消した(注 38)」との評価に賛意を示し、自身はこう述べる。

しかしながら、フルシチョフ時代の最重要の変化は、人間的要素に関係がある。フル

シチョフの歴史上の貢献は、スターリンのテロルを終わらせ、数百万のスターリンの犠

牲者の復権を回復したことにある。彼の農業への貢献も同様である。彼は、農民がプロ

レタリア国家の敵であり、嫌疑をもって対処しなければならないという観念を打ち砕い

た。彼は、食糧、すなわち社会で最も根源的に価値ある財を生産する人びとに対するレ

ーニンとスターリンが行った不当極まりない処遇を終わらせた。(注 39)

しからばヤスニーやケナンのいう「アキレス腱・踵」はどのように変容したか。

ジョレスは、スターリンが死んで政治的空気が緩みだし、またスターリン的な刑事罰が

なくなってみると、集団農場成員が、いくら働いてもその実質価値が分からなないような

「作業日単位」の総数にも自ずと減退がみられた(注 40)」という。つまり、コルホーズ員

が農場の圃場に出る作業日が減り、その分、馬も農業機械もなく、素手で営む副業の自家

菜園に勤しむようになったが、わずか四分の一ヘクタールの屋敷付属地の副業菜園にはも

ともと限界がある。これでは政府が食糧増産政策への貢献をコルホーズに期待しても、現

場の農民が「笛吹けど踊らず」の状況がひろまることになる。

Page 57: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

54

こうして、「アキレス腱」は、ソ連農業が、やがて自国民を養えなくねっていくほどに、

農業部門が、あたかも社会保障部門と同じ原理の扶助対象に転化・変容していく。

この点は、本論第 1章の共著の論点として基本線は確認済みであろう。

4.食糧を武器に使う米国と、逆石油危機による致命傷で崩壊する「産油国」ソ連

第 4点は、ジョレスが 1987年の時点で、ソ連経済の「アキレス腱」が、ソ連本体の致命

傷として顕在化し、体制自体を崩壊させてしまうと診断していたことである。

食糧作物の需要の急増には、畜産振興に必須の飼料作物の需要、増大する都市住民の穀

物需要のほか、穀作を綿作・果樹に転換した一部中央アジア地域の新規食糧需要もある。

一方では国民の不満を懸念し、国民にパンや畜産物の値上げなど応分の価格引上げを要

請できず、他方、調達価格を引上げて集団経営(コルホーズ/ソフホーズ)に増産を求め

る施策にも限界がある。1980年代後半には巻末表 3-16、表 3-17bのように価格差補給金の

国庫負担が国民経済の再生産に支障をきたすほど膨張してゆく。増産が困難であれば、輸

入に依存するほかない。こうしてソ連は 1970年代から穀物不足が、飼料不足をふくめソ連

農業の不治の慢性疾患となり、往年の穀物輸出国=ソ連が世界最大の穀物「輸入大国」に

転落する(注 41)。

ところがソ連には当時、「産金国」・「産油国」という世界経済の特権的地位によりこの慢

性疾患の根本的な治癒を、先送りするだけの僥倖があった。世界資本主義の循環的な経済

危機の表現=「石油危機」が「金価格」と「石油価格」を暴騰させたからだ。潤沢なハー

ドカレンシーが当てにできるかぎりは、海外の穀物を輸入する方が、国内農業を再建しよ

うと、管理体制が上から下まで弛緩してしまい、赤字経営が常態化している集団経営のた

めに莫大な財政負担を強いられるよりは、むしろずっと安上がりで、合理的ですらあると

正当化できた(注 42)。

他方、西側先進資本主義の側にも、「産油国」「資源国」でもあるソ連社会主義を世界市

場に構造的に組み込むことは、過剰生産気味の先端機械設備等の販売策確保と、世界的な

再生産過程の肥大化に伴う、鉱物性燃料や一次金属製品の追加的供給源の確保として歓迎

された。このことが東西デタントの背景でもある(注 43)。

しかも、農工兼備の強国アメリカは農産物輸出大国であり、1970年代初頭のソ連の大量

穀物輸入には、米穀物商社が積極的にかかわっていた(注 44)。

ところが 1979年末のソ連軍のアフガン侵攻に対抗し、1980年早々、アメリカのカーター

大統領が対ソ穀物禁輸を発動、穀物を「武器」に使った。ソ連はアルゼンチン、オースト

ラリア、カナダ等からの輸入を急増させる(注 45)。

先述のように、ジョレスが『ソヴィエト農業』の執筆を思い立ったのは、この embargo

対ソ穀物禁輸があり、また 6度目の全米各地歴訪のあった 1980年だった。農業不振を「産

Page 58: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

55

油国」の僥倖により弥縫してきた、ソ連のブレジネフが「正気」にもどり、大統領を糾弾

する一方、主要穀物等の増産と国民全体の食生活改善を提起した。

これが 1982-1990年『食糧要綱』に反映される。しかしジョレスの見るところ、ソ連政

府にはソ連農業の深刻な事態を分析し、それを農業危機と規定する当事者能力がなく、

1979-81年の惨めな収穫を依然、悪天候に帰し、増産対策の柱は、調達価格の引き上げ、集

団農場従事者の賃金引上げなど、旧態依然の弥縫策しか提示できなかった。新機軸として

農工統合管理委員会の設置があったが、これは膨大な官僚機構に屋上屋を重ねるだけのも

のに過ぎなかった(注 46)。

こうしてソ連農業経済の不条理が一段と甚だしくなっていき、しかもそれがソ連社会全

体の不条理の顕在化と連動していく。そうした事情の一端をジョレスはこう述べる。

食糧生産体制ないし「農工複合体」の全体が、教育とか国民医療サービス、あるいは

社会保障制度と同じ原理で働いている。もしこれが続けば、公平な分配を保証するため

に配給制度を採用しなければならない。すなわち、食料品をあたかも生活必需品のよう

に安く販売する一方で、全生産者側には価格差補給金を支給するような現行制度は長続

きしえない。しかも、消費者の貪欲がいつも思い知らされるのは、必需品の出回り以上

に欲しい気持ちが昂ずることである。欠乏がこうして生み出されるとすれば、食糧不足

とは、まさに社会的不条理を意味する場合もある。(注 47)

農業部門が、産業経済の部門から、日増しに社会保障部門と同じ原理で働くようになっ

ていくなかで、ゴルバチョフの新書記長就任の矢先に原油価格が暴落し、この衝撃が、「産

油国」の恩恵で弥縫してきたソ連経済の「アキレス腱」=ソ連農業の慢性的疾患を、まさ

に致命傷として顕在化させ、国家破産にまで導き、ソ連邦そのものを崩壊させてしまう。

西側で、石油高騰期に技術革新や代替エネルギー開発が進行した結果、一次産品市況が大

幅に軟化し、OPECが減産を解除すると原油が暴落した(注 48)。

ジョレスは、そうした「逆石油ショック」のもとで、集団農場・国営農場の生産と管理

の弛緩が進行するのをみて、自国民を養えなくなったソ連農業の脆弱さは、ソ連社会主義

の体制そのものかかわる問題であるとして、「ソ連農業のアキレス腱」が、ソ連体制そのも

のを崩壊させる致命傷となることを示唆した。

ジョレス『ソヴィエト農業』の最後はこう結ばれている。

それにしても、帝政ロシアの村々で起こった一連の変化が、今世紀(二〇世紀)とそ

れ以前を通じての多くの社会的、政治的な大変動に対する決定的に重要な原因だった。

この大変動は、最終的にあらゆる農村階級、すなわち、先ずは貴族地主=領主層を、次

いでクラーク(富農)層を、そして最後に、農民層全体を絶滅に導いた。国家が雇用す

る労働力によって土地生産力を高める試みは失敗に帰した。その結果として生じた農村

Page 59: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

56

と食糧の問題が、いまふたたびロシアの歴史を決定するとしても、それも十分に理のあ

ることである。(注 49)

ジョレスが 1987年の時点で、すなわち、ソ連崩壊の 4年前に、ソ連農業がすでに致命的

に脆弱化しており、それが原因で、ソ連社会主義はいつ崩壊してもおかしくない事態にな

りつつあると、診断していたとみてよい(注 50)。

本論執筆者は、この示唆をうけ、「産金・産油国としての旧ソ連体制の崩壊」を切り口に

ソ連崩壊の実際の展開過程を考察したことがある。以下はその論旨である(注 51)。

実際、1986年以降の逆石油ショックによる原油価暴落の打撃は深刻だった。ゴルバチョ

フ新書記長の節酒令も酒税を激減させ予期せぬ財政難を招いた。先述の価格差補給金を含

む国民経済費の増大のほか、「ベトナム化」したアフガン戦費の累増や、チェルノブイリ惨

事とアルメニア地震の被災対策も重なるなかで、穀物輸入代金を確保するには、ははり天

然資源輸出による財政収入増を図るほかない。

だが、ソ連が原油・ガス輸出収益の目減りをカバーしようと、輸出数量を増やせば、そ

の分 OPECの減産解除で軟化する市況をさらに圧し下げてしまう。

この間、企業の裁量権拡大の一環として、国家の貿易独占を緩和し、外国企業と直接に

契約できる権限が与えられた結果、政府の一元的な外国為替の管理が困難となり、このこ

とが国際収支の悪化と結びついて、対外債務の返済にも支障を生じ始めた。

こうした財政危機と国際収支の悪化に対し、1986年、87年、90年と新産金のみならず備蓄

金まで売却したが焼け石に水だった。アフガン介入後に 600ドルの大台を超えていたロン

ドン金相場は反落し、新産金も頭打ちだった。90年の金搬出は 478トンに及び、90年 11

月ロシア政府副首相兼経済財政相になったエゴール・ソ連崩壊後、92年にガイダールが継

いだ際、残金は 290トンしかなかったという(注 52)。

現実のソ連崩壊過程についてジョレスは 1997年に日本で開催された国際シンポジウムで

こう述べている。

凶作となった 1991年に、不足分の輸入資金を工面できず、しかも対外債務の累積から

新規借款も得られない。政府の穀物調達が 3千万トン台に落ち込み、頼みの綱の輸入が

減り、都市住民に食糧供給ができないばかりか、農村住民まで都市でパンの買い出しに

奔走する事態は、飢餓状態を意味する。・・・1991年初にウクライナがソ連邦を構成する

その他共和国に食糧を供給しない旨、政令を布告した。・・・ソ連経済はそれぞれの共和

国が特定産業を分担する分業体制になっていた。ウクライナにすれば、自国分さえ十分

な食糧を確保できないのに、まして他の共和国に回す余裕はないという訳だが、分業関

係を前提に穀物を産出してこなかった共和国にはたまったものでない。

Page 60: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

57

こういう形で旧ソ連体制は崩壊した。国民の胃袋を満たせず、飢餓の恐れさえ生じた

ことが旧ソ連の命取りになった。(注 53)

そこでソ連国民 1人当り穀物生産の推移を図 3-2(巻末統計集)を示しておこう。

ジョレスは同シンポジウムで「巨大で多彩なモザイク状の旧ソ連は、唯一の政治組織=

共産党の権力独占と、強大な保安機関 KGBの締めつけ以外に、政治的統一を支える拠り所

がなかった」とも指摘していた(注 54)。

本論は、農業・農民史の視点からみた『ソヴィエト農業』のロシア革命史再審の寄与を

めぐる考察の最後に、同書日本語版「まえがき」の以下の二つの文をそえておきたい。

1991年末にソ連が音もなく静かに崩れ去ったのは、根本的に見れば、農業危機という

不治の病いとして進行していた経済危機の行きつく果てといってもよい。この 1991年の

穀作は大凶作であった。・・・ソ連政府は、ペレストロイカを通じて財政が破綻を来たし

たうえ、国庫の非常用金塊まで使い果たし。あげくのはてに 1970年代に人気のあった「穀

物のための石油輸出」政策を再現しようにも、三年も続いた原油生産の落ち込みで、そ

れに必要な石油種さえ不可能になってしまった。こうしてモスクワが、寒さやひもじさ

でただ手をこまねいている実情を露呈したとき、各共和国は、初めて勝ち取った複数政

党制下の民主的空気のあふれる 1990年選挙によって民族主義議員や反共産党議員の堅固

な議会勢力を擁するにいたりや、ここそれぞれ独自の急進的な打開策を模索しはじめた。

バルト三国がソ連邦を離脱したいという願望だけなら、それは初めから予測のついた

自明の話である。ところが、1991年 12月 1日の国民投票でウクライナ国民が圧倒的多数

で完全独立を支持したとなると、ソ連邦の解体は不可避となった。ソヴィエトの「中心」

としてのモスクワにウクライナが反旗を翻したことは、広大なロシア東方をふくめた各

地の住民に対して、生活水準の向上も、地域の急速な発展の機会も、もはや独立なしに

ありえないと確信させるに十分であった。不幸にして、その後二年間の結果が示したよ

うに、公約するほうが実現するよりずっとやさしかったのだが。(注 55)

注記 第 2章

はじめに

注 1:Roy (1979)邦訳 19頁

注2:Roy (1985) p.xviii.(邦訳なし)

注 3:Рой Медведев (1998) c.8, 邦訳 18-19 頁

第 2章第 1節

注 4:Roy (1985) pp. xxiv-xxv.

注 5:Roy (1979)邦訳 232-233、237頁。ロイは貧農委員会の結成が、ボリシェヴィキの「プロレタリアー

Page 61: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

58

トと貧農の独裁」という考えに実質的な意味を与えたという。それは、農村にほとんど自らの基盤をもた

ないボリシェヴィキにとって、「農村を分裂させて」「自分のためのある種の社会的基盤を農村内部につく

りだし」「それ以前、中農やクラークが主要な役割を演じてきた農村ソヴィエトとを後景に押しやり」「貧

農委員会が一種の農村革命委員会になった」からである。同上 233-234頁。ロイはまた、英語版第二版序

文で、1980年代になっても、「余剰穀物の収奪」、貧農委員会の結成、食糧軍の編成等の政策は、「内戦の

結果であって、原因ではない」とするソヴィエト史学多数派の所説の一例として 1983年版『平和と社会主

義の諸問題』誌に寄稿したチェルシェフの論稿に言及している。Roy (1985) p.xxv.

注 6:梶川伸一 (1993), pp.20-22.を参照。

注 7:Правда, 1 июня, 1918.党機関誌『プラウダ』6 月 1 日掲載の人民委員会議宣言にはレーニン以下トロ

ツキー、ツルーパ、ルナチャルスキーなど各人民委員が署名する。Roy (1979)邦訳 224-225 頁も参照。同

年 8月にレーニンはこうも述べる。「クラーク(富農)はソヴィエト権力の仇敵である。クラークが数限り

なく労働者を殺すか、でなければ労働者が、金当社の権力にたいする。国民のなかでは少数の強盗的クラ

ークの暴動を、容赦なくふみつぶすかである。そこには中間の道はありえない」邦訳全集㉘47頁。

注 9:ロイは後述のように本論付属統計の農政家コンドラーチェフ作成の表 2-10fも、統計学者ネムチー

ノフ作成の表 3-3bもよく知っており、ロシア欧露部穀物市場における大戦前のクラーク経営の商品穀物供

給の比率の高さに通じていた。石堂訳『共産主義とは何か』上 127頁(Roy (1971),p.73)にネムチーノフ

作成の表 3-3bに関する言及がある。ネムチーノフは同表でネップ期と大戦前のロシア・ソ連穀物市場を比

較対照している。ネムチーノフの表 3-3bは邦訳スターリン全集⑪102頁にも登場する。

注 10:Roy (1979)邦訳 234-236頁。

注 11:同上。

注 12:レーニンは一方で「クラークに対する無慈悲な戦争」を呼び掛けながら、他方では、クラーク=富

農は「土地経営を行っていて、その一部分は彼自身の労働で蓄積されたもの」であるとも発言していた。

レーニンによればそれは「われわれは富農に対する暴力に賛成するが、しかし彼を完全に収奪することに

賛成しているわけでなく・・・そのような布告も出されてはいない」とのことだった。邦訳レーニン全集

㉙, 22-23頁。いずれにしろ、レーニンには、ロイの指摘する、クラーク収奪が農業生産力の低下と、都

市への食糧供給のさらなる困難を招くことへの思慮のないことが分かる。

注 13:同上のソールズベリー「前書き」邦訳 17頁。

注 14:Roy (1979)邦訳 239-240頁。

注 15:同上 236頁。

注 16:同上 212-213 頁。Спирин Л.М. (1968), c. 173-175.

注 17:同上 212-213 頁。Кондратьев Н. Д. (1991), c.159., Kondratiev, Nikolai D. (1998c), pp.161-162. ロイが閲

覧した露文原著『穀物市場』は入手困難のため、ここでは 1991 年刊行の再版本を示した。

注 18:同上 313 頁。

注 19:Russell (1962), The practice and theory of Bolshevism, pp.25-26.河合秀和訳(1990) 29-31 頁。当書は英国

労働党視察団の報告書でもある。ロイはラッセルのこの指摘を『歴史の審判に向けて』増補改訂版第 11 章

「スターリンの権力簒奪を容易にした諸条件」の考察の中で引用することになる。Рой (2002),c.497, 名越陽

Page 62: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

59

子訳『歴史の審判に向けて』下巻(2017) 174-175 頁。この引用は同書初版(石堂訳『共産主義とは何か』)

にはない。このことは、ロイが、『歴史の審判に向けて』の初版刊行時から増補改訂版刊行時にかけて、ロ

シア内戦の歴史的特性について認識を新たにしたことを意味すると本論は考える。

注 20:Roy (1979)邦訳 252-254頁。

注 21:同上 254頁。

注 22:同上 254-255頁。

注 23:同上 255、257-258頁。

注 24:同上 256頁。

注 25:同上。ネップ導入後半年たった 1921年 11月の、商業を「環」とするレーニンの論旨は邦訳全集㉝

掲載の論文「現在と社会主義の完全な勝利ののちの金の意義について」103-104頁を参照。

注 26:Roy (1979)邦訳 258頁。

注 27:同上 260頁。1979年時点の「1918年春のボリシェヴィキの過った政策に悪意は全くなか

った」というロイのレーニンへの好意的評価に、H.ソールズベリーは「前書き」で疑問を呈する。

注 28:同上 187-188頁。ルナチャルスキーの典拠は Отчет Наркомпроса IX с’езду Советов (第九回ソヴィエ

ト大会に対する人民委員会議の報告), 1921. с.4

注 29:同上 188-189頁。

注 30:同上 132頁。

注 31:邦訳レーニン全集㉖83頁。

注 32:Roy (1979)邦訳 142-143頁。

注 33:邦訳レーニン全集㉕374頁。

注 34:同上㉕508頁。

注 35:Roy (1979)邦訳 142-145頁。

注 36:邦訳レーニン全集㉕511-512頁。

注 37:Roy (1979)邦訳 136 頁。.

注 38:同上 138頁。邦訳マルクス&エンゲルス全集⑳292頁。

注 39:邦訳マルクス&エンゲルス全集⑲19頁。

注 40:Roy (1979)邦訳 140 頁。

注 41:同上 140頁。邦訳レーニン全集⑮121頁。

注 42:同上 141頁。松里公孝 (1988)は、帝政ロシアの戦時と革命時にブルジョアジーや銀行、商人、自治

体、官庁などが穀物専売をふくむ食糧事業にどうかかわったのかを考察している。

注 43:同上 134-135。

注 44:同上 135。

注 45:邦訳レーニン全集 25, 511-512頁。

注 46:邦訳マルクス&エンゲルス全集⑬7頁。

注 47:コンドラーチェフはバーネット Barnett(1998)邦訳 65-66頁。小島修一(2008)37—42頁を参照。

注 48:Roy (1979)邦訳 200-203、259-260頁。同上 140頁。

Page 63: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

60

注 49:イズゴーイェフ証言全体を引いておこう。「所有権の原理に対する社会主義者の闘争に対して、実

生活の方は、どう応戦したのか。それは、自然発生的で、不可抗力的で、ゆがんだ形ではあるが、数百万

人もの担ぎ屋の大軍という姿をとって、この原理を承認したのだ。もしも社会主義者の実験が、数百万人

ものロシア人の餓死という大惨事を引き起こさなかったとすれば、われわれは担ぎ屋に感謝しなければな

るまい。彼らはソヴィエト政権が全力を挙げて生産物の交易を止めさせていたその時期に、自分の命を賭

して、家族を扶養するため、その交易を支え続けてきたのである。強靭な筋肉と頑丈な足をもつ数百万も

のロシア人が、旅に出て、商いを始めた。通常の商業が禁止され、商業について何一つ知らない数十万も

の無知で、不誠実な高給とりの新官僚が商業にとって代わったのちは、ただ担ぎ屋のみがロシアの都市や

工場の人びとに、1918 年のぞっとする春と夏に生きのびる機会をあたえていたのである」。同上 259-260

頁。

注 50:Roy (1979)邦訳 264 頁。

注 51:邦訳レーニン全集㉝101-102頁。

注 52:Roy (1979)邦訳 18-19頁。

第 2章第2節

注1: 序章注 1を参照。

注2:大統領の対ソ穀物禁輸の理由は「外交上および国家安全保障上の理由」であり、これは戦略物資あ

るいは武器としての食糧が世界的に最も注目された瞬間であった。三石誠司(2014), 274-375 頁。

比較対象可能なソ連農業史研究への希望について『ソヴィエト農業』第 12 章はこう述べる。「ロシアと

ソ連の農業史はほぼ一世紀にも及ぶ壮大な規模の実験の歴史である。この歴史は、ロシアとソ連の両者の

内部の、また、ソ連型農業とその他の国々との間での、農業をめぐる異なる方法論、接近法、解決策、計

画事業の比較検討を可能としている。自らは比較対照しえないとしても、きれば比較が可能なとなるよう

な方法で、ソ連農業の歴史を提示してみたいと私はかねて望んできた。ソ連と米国の農業を対照するとい

う企てを鼓舞したのが 1970 年代のソ連の大量穀物輸入だった」。同書拙訳 316-317頁。

同書まえがきは「私は 1980 年にこの著作の筆をとり始めた」という。ジョレスは、少なくとも 8回、全

米各地の大学・研究機関への講演旅行に出かけた。全米各地への歴訪講演ノートがそのまま単行本の基礎

になったものに、Zhores (1978), Soviet Science, Norton 邦訳『ソ連における科学と政治』がある。

注 3:Zhores Medvedev (1987); 拙訳(1995)「まえがき」v-vii頁

注 4:ジョレスは、「ソ連農業史を国際比較が可能となる方法で提示してみたい」という希望と動機につい

て以下のように述べていた。「ソ連と米国の農業を対照しようとする重大な企てを鼓舞したのが 1970 年代

のソ連の大量穀物輸入であり、その関連もあってか西側の学究たちには、この問題を今世紀初めにまで遡

及するロシアとソ連の歴史過程と関連づけることもなく、もっぱら現在のソヴィエト制度にばかり集中す

るきらいがあった。同様にロシア革命とか、スターリンの集団化とか、戦後展開に関する西側の歴史家も

しばしば現在の問題や、それらと過去との関連性を考察しない。これに対してソ連の著作家や研究者のな

かに、当該の事態や問題についてより本質的で直接的な知識をもつ者がいたとしても、彼らは使用できる

叙述方法や接近方法のみならず、事実資料の取り扱いさえ厳しく制限されている」。同上 317 頁。

Page 64: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

61

注 5:同上 vii頁。

注 6:同上 vii-viii頁。

注 7:休閑三圃式輪作は耕地を冬穀(冬播きの小麦やライ麦)と夏穀(春播きの大麦や燕麦、豆など)、お

よび休耕地(放牧地)に区分する輪作農法のこと。

19世紀末と 20世紀初めの、帝政ロシア期の休閑三圃式農法の展開を、西欧農業史とを動態比較を試み

た研究として、青柳和身(1994)最終章「革命前ロシア農業」が示唆的である。同書 315-362 頁。

注 8:ここでジョレスとロイの知見と述べたが、ダニーロフの所説にかかわる膨大な文献その他資料を、

ロンドンのジョレスに、courier 便を通じて送り続けたのが、ダニーロフの所説の価値を熟知するロイであ

ることを考慮されたい。В・П・ダニーロフについては Данилов(1977, 1979). В.П.ダニーロフ/荒田洋・奥

田央訳 (1977)『ロシアにおける共同体と集団化』がある。ダニーロフはロイが日頃から本音で率直に意見

交換できる歴史家の一人だった。兄弟共著邦訳『回想 1925-2010』の第六章「仕事の方法」304-305 頁。

分与地の均等割替原理に基づく土地不足に共同体農民の革命性に注目したのがブリツクスである。ブリ

ツクスの所説は森岡真史 (2012)『ボリス・ブルツクスの生涯と思想』を参照。

注 9:Zhores (1987); 拙訳(1995)15、17-18頁。

注 10:同上 20-22 頁。

注 11:政治局員候補で国家元首の全ロシア中央執行委員会初代議長カリーニンだけが非知識人だった。

注 12:同上 28 頁。

注 13:ジョレスはトロツキーが 1917年のロシア農村地方の出来事の由来を歴史的理由に帰したやり方は

正確であるとして『ロシア革命史』から次の一文を引く。「ブルジョア歴史家は、農民が彼らの領主たちの

「教養」に片をつけたやり方の「蛮行」の責任を、ボリシェヴィキに帰そうとした。実際にはロシアの農

民=ムジークは、ボリシェヴィキがこの世に現れる何世紀も前に開始した事業を完成しつつあったのであ

る。彼は彼の自由になる唯一の手段をもって、彼の進歩的な歴史的任務を果たそうとしていた。革命的蛮

行をもって彼は中世的蛮行を一掃しつつあた。のみならず、彼自身も、彼の祖父も、曾祖父も、いかなる

慈悲や寛容をも、かつて一度たりと示されたことはなかったのである」。トロツキー/山西英一訳『ロシア

革命史(五)ソヴィエト権力の勝利』角川書店 45頁。

注 14:同上 18-19 頁。

注 15:同上 28-29、30-31 頁。

注 16:同上 29-30 頁。

注 17:ロイは要旨以下のように述べている。1920年代初めに採択された党内民主主義の発展に関する決議

の多くが 1970 年代初頭の今日、ほとんど忘れられている。これらの決議は一時的ではなく、長期にわた

る党生活の基礎として採択されたはずであるのに、そうなのである。それだのに、第 10 回大会で、例外

的措置として、党内民主主義の若干の重要原則の一時的違反として審議された「党の統一にかんする決

議」が、それを生みだした諸条件が消失して久しくなっているのに、依然として効力あるものと見なさ

れつづけてきたのである。Roy (1972),邦訳 70-71 頁。兄弟それぞれの発言は、前節2.の「ネップ以降の

生産性の高い個人農や職人の成長を、もし強制集団化や全私的部門の廃絶が中断しなかったなら、農業

もソ連経済全体も、もっと効率よく、成功したものになっていただろう。またもし、集権的で権威主義

Page 65: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

62

的方法でなく、社会主義的民主主義の漸進的な復活が、たとえ当初は党内だけであろうと、漸次わが国

全体に広がっていけば展開は異なったものになっていただろう」との主張に連なる。

注 18:Рой (1997) 邦訳 163-164頁。

注 19:同上 175-176頁。

注 20:Zhores (1987); 拙訳(1995)47 頁。

注 21:同上 47-48頁。

注 22:同上 24頁。»collective farms», The New Columbia Encyclopedia, Columbia UP, 1975, p.597.

注 23:同上 33-36頁。

注 24:同上 35頁。

注 25:同上 35-36頁。なお、ここで「1925-26年には、以前のクラークは農民階級全体と一体化した存在

になっていた In 1922-26, the former kulaks were an integral part of the peasants class as a whole.」

とした拙訳(1995)は、「1925-26 年には、クラークは農民階級全体の肝要な部分をなした」の誤訳である。

注 26:守田は、大意、篤農として名を残しているものには、理財能力を備えている例が多いのではないか

と思うことがある。みずからの生活技術、つまり家計のやりくり、食糧貯蔵の方法の考案など、また生産

のほうのやりくりでは格別の能力を発揮することはいうまでもない。かくて彼らは高利貸し的方法をとり

はしないが、それでいて農業以外の商売をやるわけでもなく農業を営むことによってのみその経済力を蓄

える、と述べている。守田志郎『小さい部落』(1973)115-118頁。

注 27:フェドトフは、「自己の課題を、抑制した、しかし緊張した情熱をもって遂行する、不患の産業心

をもつような」ロシア人は、「クラーク〈富農)、発明家、科学者、そして行政官」すなわち、エリート層

に見出されるのであり、「アモルフ〈無形の〉人民大衆は、容易にこの不屈のエリートの指導に服するの

である。」「この無慈悲なまでに強い意志をもったタイプなしに、ロシア帝国、モスクワ公国の創設は,

考ええないだろう」と述べていた。Fedotov(1954), p.7. 木村汎(1974)148頁も参照。

ノーヴは、自身のクラーク観はレヴィンによるという。Nove (1977), An Economic History of the USSR;邦

訳『ソ連経済史』120-121頁。レヴィンはLewin (1968);邦訳ロシア農民とソヴェト権力』。ノーヴは次のよ

うにクラーク像を概観する。

「クラークは農民層の5~7%ほどの数と一般的には思われていた。だが西欧の基準では、彼らの圧倒的

部分はは貧しかった。馬二頭、牝牛二頭、そして通年まともな食糧を確保し、さらに若干を販売するのに

十分な土地が、農民にクラークの名称を与えたかもしれない。だがレヴィン蒐集の資料によれば、農民経

営総数の1%だけが二人以上の労働者を雇っていた。

高利貸として活動しえたクラークもいた(クラーク、「拳骨」という言葉は元来、この特殊な役割に対す

る悪口だった)。しばしばあったことだが、春に貧しい隣人が食糧不足になったとき、彼らに穀物を貸し与

えることのできるのもいた。かれらはまた食糧を貯蔵して高価格になった時に利潤を得ることもできたが、

それほど富裕でない農民は収穫後直ちに、価格の低い時に販売しなければならなかった。クラークはしば

しば利用可能な機械をもっており、馬や牝牛その他の貴重な家畜を貸すばかりでなく、機械を貸してもう

けてうた。クラークには企業心があり商業感覚があった。彼らは時には嫉妬心をまねいたが、かれらはま

たあらゆる野心的農民がなりたいものであった。Nove (1977);邦訳121頁。

Page 66: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

63

注 28:Zhores (1987); 拙訳(1995)47 頁。1925年農村ソヴィエト再選挙については溪内譲 (1962)の第四章

「「ソビエト活発化」政策の導入」と第五章「体制と農民」を参照されたい。

注 29:邦訳スターリン全集⑥318-319頁。渓内譲は、1924年 10月という時期のスターリンのこの発言に

は、「トロツキーとの党内闘争の状況のなかでいくぶん誇張されているきらいがあるとしても、かれの見解

には、統治者のもつ現実主義が貫かれており、農民がそうした観点から重要視されていた(一国社会主義

に連なる)のであった」と述べる。渓内(1962)380 頁。

注 30:Zhores (1987); 拙訳(1995)36-37頁。

注 31:同上 317-318頁。

注 32:共著『フルシチョフ権力の時代』邦訳 199頁。

注 33:Jasny (1948) 30 (2) 303.

注 34:ケナンの発言はスターリン晩年、朝鮮戦争の最中の 1951年初である。引用部分に以下が続く。「ロ

シアに将来出現する進歩的な政権がまず行わなければならない行動のひとつが、このように憎悪されてい

る農奴制を廃止し、私的所有の誇りと刺激を農民にとり戻し、農産品を自由に処分させることにあること

は当然であろう。集団農場は存続し得るだろうし、おそらく存続するだろう。なぜなら現制度でもっとも

憎まれているのは、生産協同組合という構想自体ではなく、それが現実に実施される場合基礎をなしてい

る拘束的要因なのであるから」。Kennan (1951) p. 355, Kennan (1952) p. 129;邦訳(1952)154-155 頁。ベスト

セラーになった駐モスクワ米国大使ケナンの発言を、フルシチョフが知らなかったはずはない。

注 32:1997年 11月の札幌学院大学創立 50周年記念国際シンポジウム「市場社会の警告」での基調報告が、

ジョレス・他(1999)『市場社会の警告』現代思潮社に収められている」。同書 17-18頁。

注 37:同上、155-156頁。

注 38:McCauley (1976) pp. 217-218.

注 39:Zhores (1987); 拙訳 158頁。

注 40:同上 144頁。

注 41:同上 298-299頁。ジョレス・他(1999)『市場社会の警告』46-49頁。

注 42:同上。ジョレス他(1999)『市場社会の警告』49 頁。

注 43:巻末統計の表 3-18「旧ソ連とロシアの西側工業国=OECD 諸国に対するモノカルチャー的貿易構造」

は、ソ連経済が、鉱物燃料という天賦資源の切り売りにより、先進技術の機械設備と穀物を先進資本主義

諸国に重度に依存するモノカルチャー構造という性格を強めていたことを示す。出典は拙稿 (2000)。大沼・

佐々木・山村 (2000)『ロシア極東の農業改革』第 3 章第 1 節「産金・産油国としての旧ソ連体制の崩壊」

97-106 頁を参照。

注 44:Trager (1975)邦訳『穀物戦争』第 3 章参照。

注 45:三石誠司(2014)375-380頁。

注 46:Zhores (1987); 拙訳 312-313頁。

注 47:同上 321-322頁。

注 48:拙稿 (2000)104 頁。

注 49:Zhores (1987); 拙訳 324頁。

Page 67: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

64

注 50:野部公一・崔在東編著 (2012)『20 世紀ロシアの農民世界』日本経済評論社の編者、崔在東(ちえ ぜ

どん)による編者序文も、ジョレス『ソヴィエト農業』の結びを、次のように、本論と同趣旨に理解して

いる。「こうして 1960 年代後半以降、農村と農業セクターは、従来のように蓄積の源泉ではなく、むしろ

積極的な援助と保護を必要とする存在へと完全に移行し、最終的にはソ連そのものの崩壊の遠因ともなる

ロシア経済の「アキレス腱」となったのである」同書序 v 頁。

注 51:拙稿 (2000) 「産金・産油国としての旧ソ連体制の崩壊」97-106 頁参照。

注 52:1990年 11月ロシア政府副首相兼経済財政相になったエゴール・ガーダルが国家破産に至る過程を

述べている。Gaidar (1996)邦訳『ロシアの選択』159-160 頁参照。ちなみにガイダールによれば、帝政ロシ

ア政府は二年半もの苦しい大戦のあとでも 1917 年 2 月に 1300 トンの金を臨時政府に引渡したという。

注 53:ジョレス(1999)『市場社会の警告』50-51 頁。

注 54:同上 202 頁。

注 55:Zhores (1987); 拙訳 i-ii頁。

第3章 メドヴェージェフ兄弟が「ロシア革命史再審」を成しえた五つの所以

1.内戦やネップを体験した「歴史の後知恵」を活かす「選択肢的方法」

第一は、ロイの「選択肢的方法」がソ連公認史学の決定論や目的論批判に有効であった

こと。より具体的にいえば、「1921年に導入を決断したネップを、同様の問題に直面してい

た 1918年春に、それを決断できなかったのはなぜか」という分析視角が、戦時共産主義期

のレーニンとボリシェヴィキの理論把握と歴史認識と現状分析=政策の過ちを、客観的に

浮き彫りにさせる切り口となったことにある。

ロイ『10月革命』1979が、ボリシェヴィキが 1918年にネップを採用せず、勤労小農民

から穀物を強奪したことが内戦を不可避なものとしたと述べ、あるいは、レーニンの戦時

共産主義の過ちの歴史的背景と、その理論的根源を考察したことが、ソールズベリーのい

うように、ソ連の内側からロシア革命史を再検討する下図となったのは確かである。

本論は、ロイがそれを成しえた所以として、政治史研究の彼の「選択肢的方法」に注目

する。「選択肢的方法」についてロイはこう述べる。

絶対的決定論という素朴な考え・・・は、決してマルクス主義の構成要素ではない。

特殊具体的な歴史的事件は、たとえ非常に重大な結果をもたらすものでも、必ず、必然

的過程と偶然的過程が複雑に絡み合った結果として生じたものである。それゆえ・・・

歴史的・社会的現実にあっては、如何なる情勢であれ、実行可能ないくつかの選択肢を

含んでいる。・・・歴史上の様々な事実は、もっともありそうに見えた歴史上の選択肢が、

必ずしも実現された選択肢になるとは限らないことを証明している。(注 1)

これはソ連公認史学の決定論、目的論に対する批判であるが、ロイはこの選択肢的方法

Page 68: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

65

を、「ボリシェヴィキは 1921年に採用したネップを、同じ状況にあった 1918年春になぜ採

用できなかったのか」という切り口の武器として用いた。ロイによれば、この切り口の発

想のよりどころは歴史の「後知恵」だったという。ロイは以下のようにいう。

(1918年春に-引用者)政府が取らなくてはいけない主要な決定とはいかなるのもの

であったのか。

恐るべき内戦の体験やネップを切り抜けてきた今日では、そして数十名の学者が行っ

た膨大な数の理論的作業も積み重ねられて(つまり、後知恵をもって)いる今日では、

その問題にこたえることは、実際にはそれほどひどく難しいことではない。(注 2)

本論は、ロイの選択肢的というのは、実証的な人文・社会科学研究の基本ともいえる、

理論把握と歴史認識と現状分析=政策というこの三者のフィードバック関係の確保という

課題から見て、戦時共産主義期のレーニンのこの三者の相互不可分な関係がいかに歪んで

いたかをクローズアップさせるのに有効であったと見る。歴史の「後知恵」からすれば、

レーニン自身もふくめ、1921年に決断したネップ導入を、1918年春に決断しなかったのは

明白な過ちだったことが衆知の事実である以上、1921 年と 1921年春の、それぞれの、理論・

歴史・現状分析=政策の三者のフィードバック関係の整合性が炙り出されてくる。

前章で、ロイの「1917年という時間枠から外に出ない限りロシア革命の運命と性格も理

解できない」「ロシア革命も 1917年 2月から、ネップ(新経済政策)への移行が完了し、

ソヴィエト連邦が成立した 1922年にかけてわが国でおきた全事件を含めるべきである」と

の認識を紹介したが(注 3)、先の「後知恵」とはまさに、1917年 2月から 1922年までの

ロシア革命研究の膨大な蓄積のことであろう。ロイはこの「後知恵」の膨大な積み上げの

うえに、ロシア革命史再検討の下図を提起したことになる(注 4)。

2.伝統的共同体の地条農業の特性と一次大戦前ロシアの穀物商品化構造の理解

第二は、ジョレス(1987)が、一次大戦前ロシアの共同体農業の穀物商品化の割合の低

さを、すなわち、ロシアの生産力の低い共同体の均等割替農業=地条農業を、農業が規定

する常民文化=農耕を共有する欧州型と同じ分割地農民の形成に向かう後進形態とみなす

見地から、ストルイピン改革、クラーク形成、1917-18年土地革命、ネップ期のストルイピ

ン改革に似た農業策をふくむ土地法典制定の流れを体系的に理解し、大戦・革命前後、集

団化前の穀物商品化の構造変化の特徴をも整合的に提示できたからであると考える。

これは、先にも引用した『ソヴィエト農業』「まえがき」の見地にかかわる。

農業に規定された常民文化=農耕 народная культура/folk cultureの伝統をロシアと共

有する、その他のヨーロッパでは、散在する小圃場の耕地整理や共有地の分割は主に 18

Page 69: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

66

世紀と 19 世紀に起った。個々の農民家族が村落の外部に 20 筆から 100 筆のごく細長い

耕地片を保有するような、「地条農業」ともいうべき古い共同体制度を転換するには、100

~200年を要した。農民共同体はこの転換に抵抗してきた。だが、土地囲い込み立法、都

市の発展、農村地方の抗争が、次第に大多数の農民を、整理された耕地を所有ないし借

入れをし、近代農法の導入やその改善を自由にやれる家族農業に転換していった。彼ら

は競い合って新品種、肥料、新機械を使用した(北米の自由な農業の登場は脈絡が異な

る)。

共同体農業と「地条圃場」はロシアには 20世紀初頭になお全く手つかずに残っていた。

欧州に共通する形を模した最初の改革が導入されたのは 1906年である。(注 5)

ロシア農業、そしてソ連農業の近現代史を、その他の国々の農業史と比較可能なかたち

で提示してみたいという場合の(注 6)、ジョレスの上記に再掲した見地は、共著 1976の場

合のスタンスとは明確に異なっている。

本論前章「2.米アイオワ自営農の進取の精神と、農民性を亡くしたコルホーズ農民と

の落差」では、米欧視察体験がフルシチョフ改革に与えた影響をとりあげるとともに、兄

弟が、帝政ロシアとソ連の農業・農民像を、欧米の家族労働に基づく独立自営農民像との

対比で考察する立場を重視するようになったと思われると述べた。

しかしながら、共著 1976の時点では、その比較可能な対照とは、欧米の活力ある家族労

働にもとづく独立自営農と、集団化の結果、農民精神を喪失したソ連の農業従事者との対

比という次元にとどまっていた。そこでは欧米は、一括りになっており、上記「まえがき」

の括弧書き、(北米の自由な農業の登場は脈絡が異なる)のような視点はなかった。

本論は、農業に規定された常民文化=農耕 народная культура/folk cultureの伝統をロシ

アと、ロシア以外のヨーロッパとが共有し、北米の自由な農業の登場は脈絡が異なること

を、ジョレスがはっきり自覚したのは、1980年 11 月の中西部アイオワ州立大学をふくむ、

全米各地歴訪講演の時点であると判断する。

この年正月早々に、カーター大統領が、前年末のソ連軍のアフガン侵攻に対する制裁と

して対ソ穀物禁輸 embargo を発動したことに関連して、西側専門家からジョレスにソ連農

業について問い合わせが寄せられていた(注 7)。この年ジョレスは 6度目の全米各大学等

の歴訪講演の折、コーンベルトにある著名なアイオワ州立大学でソ連農業問題に関する公

開講座を三つ引き受け、フルシチョフが 1959年に訪れたアイオワの友人ロスウェル・ガル

ストの農場視察を楽しみにしていた。

ジョレスは自分の講義に対する学生の反応および、視察したコーン単作巨大農場で進行

する土壌汚染の実状などから、「北米の自由な農業の登場は欧州のそれと脈絡が異なる」こ

とを是非、解明する必要があると考えるようになる。

最初の公開講義はソ連の集団農場の歴史であったが、ソ連のコルホーズ農民に対する強

制労働システムについて、学生諸君は南北戦争以前のアフリカから連行され黒人奴隷が使

Page 70: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

67

役される巨大プランテーションを想起することはできても、ソ連の集団農場の成員がなぜ

犂や馬やトラクターをもつことが許されないのか連想できなかったという(注 8)。

農場視察で判明したことに、アイオワ農業はトウモロコシと大豆の単作地帯となってお

り、野菜や馬鈴薯さえ栽培されず、その他の州から持ち込まれていた。牧草地や干し草が

不可欠な酪農もほとんど存在せず、豚や牛は狭い肥育施設に閉じ込められ、配合飼料だけ

与えられ、より早い成育のため成長ホルモンの類似化合物が注入されており、疾病のため、

飼料に抗生物質が添加されていた。各農場主は遺伝子組み換えがなされたトウモロコシの

ハイブリッド種子を毎年、種子メーカーから購入していた。化学肥料の投入も大規模で、

土壌の構造が破壊され、汚染された地下水が、河川や湖沼に湧き出すまでになっており、

子供たちが春に水道の水を飲むことはすすられていなかった。また巨大な養鶏場は、もは

や農場とはいえず、食品工業と化していた(注 9)。

ジョレスは、チミリャーゼフ農科大学土壌肥料学部でえた知識が、露・欧の農業経験の

組み合せを重視するアカデミー会員プリヤニシュニコフ学派に由来すること、そして、世

界農業史を受講した際、人類最初の農業革命が、農業と遊牧酪農との結合および、堆肥を

肥料に用いるノウハウにあったとこと、第二の革命が輪作の導入にあり、第三がマメ科と

クローバーの輪作導入と空中窒素の固定にあると学んだことを想起した(注 10)。

こうしてジョレスは、1980年のアイオワ州立大学の講義とその質疑、およびフルシチョ

フが、かつてソ連農業改革のモデルとまで惚れ込んだアイオワ農業の視察からえた印象を

改めて重く受けとめ、農業が規定する常民文化=農耕の伝統をロシアとヨーロッパとが共

有すること、北米農業は史脈が異なることを明確に自覚するようになる。

実際、散在する零細耕地の均等割り替えを特徴とする共同体の地条農業を、西欧の分割

地農の後進形態と位置づけ、巻末統計表 3-2、表 3-3a、表 3-3bにより 1905年、1913年、

1926-27年の 3時点を比較検討してみれば、この間の大戦期・革命期・戦時共産主義期とい

う政治的激動期に、遅ればせながら帝政ロシアでも、領主=地主にかわり、市場性穀物の

供給者としてのストルイピン改革型の自営農の形成が顕著となり、ソ連でもネップ期頂点

に、自給自足的な小農層(中農・貧農)が、商品穀物生産者の主体になりつつあったこと

が示される。ジョレスが『ソヴィエト農業』で用いた統計表の原資料作成者はアンフィモ

フとネムチーノフである。ジョレスは彼らの仕事を評価していた(注 11)。

3.クラークとは創意工夫に優れた家族経営の富裕農民=篤農家という歴史認識

第三は、ボリシェヴィキが農村資本家として敵視したクラーク(富裕農)について、兄

弟が、彼らは、実際には、共同体農民から成長した、進取の精神をもつ勤労農民であり、

なるほど、農繁期などに極貧農を雇用することもあるが、基本は家族労働の「篤農家」で

あるとする農民像を呈示しえたからである。

ボリシェヴィキは歴史上2度もクラーク清算 раскулачивание/de-kulakization を断行し

Page 71: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

68

た。

最初が 1918-21 年の戦時共産主義期であり、第二次清算が 1929-32 年の集団化の時期で

ある。ただし、最初の清算は重要な一点で 1929-32 年の集団化時とは異なっていた。元ク

ラークの家族には、自分の土地、自宅のほか屋敷付属地や所有物、農機具、役畜の一部の

保持を認められ、こうして 1917年革命前のクラークは中農に変身したものの、自分の生ま

れた村ら地方から強制的に追放されることはなかったからだ(注 12)。以後、革命前のクラ

ーク農場の多くは解体され、貧農の間で分割された。前述のように、ストルイピン改革期

の 1906-16 年に耕地整理に努めた以前のクラーク層は通常、共同体からの離脱を欲しなか

った。彼らは 1918-21 年に体験した当局側の敵意が脳裏に焼き付いていて、一時的傾向に

終わりかねないと感ずるものには危険を冒すことに慎重だった。ネップ期頂点に近い

1925-26年には、以前のクラークは農民階級全体と一体化した存在になっており、共同体農

民の大多数については、仲間内の暮らし向きの不釣り合いは、進取の気性、営農の心得、

読み書き、機械の使用能力に基づくもので、時折りそれに続くのが単なる重労働であった。

中農層と富裕層の境界もあいまいで、地域間でもことなっていた(注 13)。

本論前章第 2 節は、ジョレスのこうしたクラーク像を、日本で言えば「篤農家」といえ

るとしたが、この点はマックス・ウェーバー研究者の林道義も指摘していた(注 14)。

ロイもジョレスも、クラークを、農業生産力の担い手として、および国民経済の再生産

に不可欠な市場性穀物の安定的供給者として重視した。それは、ロイ(1971)もジョレス

(1987)も、クラークのソ連の国民経済上の地位に関する指標として、統計学者ネムチーノ

フによる、先の表 3-2bを重視していることからも分かる。

ネムチーノフによれば、ストルイピン改革の、活力ある自作農育成策に応えて、共同体

農民のなかの、零細・散在地条を少数の区画化耕地に統合したクラーク経営として成長し

た農民が、1913年時点で、ロシア欧州部全体の、生産額の 31%を、市場性穀物の出荷割合

で 50%を占めるようになっていたことを提示した。1913年時点のクラークの多くは、共同

体を離脱し、区画地経営に勤しみ、そこに住居も共同体の集落から移転するフートル農に

なるか、住居は共同体農民と同じ集落に留まっているオートルプ農になっていた。

これに対して、ネップ末期の 1926-27年時点では、ネップ期特有の中農標準化をうけ、

クラーク層の地位は、生産額で 13%に、市場性穀物の出荷割合でも 20%にとどまり、代わり

に、商品化率がわずか 11%と、1913年時点よりもさらに低下した、ロイの言う自給自足的

性格を強めた、中農・貧農層の地位が、生産額で 85%と圧倒的であるほか、市場性穀物の出

荷でも 74%という高い割合を示している。ただし、ジョレスが指摘した通り、ネップ期頂点

に近い 1925-26年には、以前のクラークは農民階級全体と一体化した存在になっており、

共同体農民の圧倒的多くの仲間内の経済的不釣り合いは、進取の気性、営農の心得、読み

書き、機械の使用能力に基づくものであり、時折りそれに次ぐものが、単なる重労働だっ

た。働けば働くほど富裕になった。中農層と富裕層の境界はあいまいで、それは地域間で

もことなる(注 15)。本論は、ネムチーノフが提示するネップ末期の穀物生産比および商品

Page 72: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

69

穀物の出荷比の指標とジョレスの指摘するネップ後期のクラーク層の行動様式とは平仄が

あうと判断する。

ここで問題としたいのは、ロイとジョレスの描くクラーク(富農ないし富裕農)像、す

なわち、「進取の気性、営農の心得、読み書き、機械の使用能力に基づくものであり、時折

りそれに次ぐものが、単なる重労働だった」というクラーク像が、どこから来たのかとい

うルーツである。本論は少なくともロイには次の三つのルーツがあると考える。

第一は、ロイには、農民史家ダニーロフとの交流があったこと。

第二は、元コサック軍人S・スタリコフとのロシア内戦史に関する共著があること。

第三は、ロイがミハイル・ショーロホフの文学歴研究者でもあること。

第一に、ロイは 1989 年に書いたエッセー「仕事の方法」で、『歴史の審判に向けて』な

ど、進行中の仕事について議論する相手が数十人を下らなかったといい、うち歴史家とし

てダニーロフをふくむ五名をあげる。彼は兄弟と同年生れで、ロイが 1971年に捏造された

貴重書窃盗事件なるもので裁判にかけられた際、ダニーロフも同類の捏造事件で起訴され

たこともある。本論は、ロイの言う「第一次クラーク清算」以後の、ネップ期のクラーク

は中農と「一体化」しており、「中農層と富裕層の境界はあいまい」という兄弟の理解は、

ロイとダニーロフとの意見交換が一つの拠り所になっていると想定する(注 16)。

第二は、ロイの内戦史研究である。ロイには、コサックの元第二騎兵軍政治委員セルゲ

イ・スタリコフとの英語版共著『フィリップ・ミローノフとロシア内戦』1978 がある。ス

タリコフの友人で大衆作家のユーリー・トリーフォノフは、全露中央執行委員会コサック

部が秘匿していた文書群や、その他ロシア内戦関係の膨大な史資料を所蔵しており、ロイ

は、トリーフォノフに懇請されスタリコフとの共同研究者・共著者を引き受けた。赤軍内

で粛清された「ロシア内戦の英雄」といわれたフィリップ・ミローノフ将軍は、フルンゼ

麾下の赤軍南部方面軍第 2騎兵軍団指令官として 1920 年白衛軍最後の総司令官ウランゲル

将軍の反革命軍を打ち破り、内戦を終結に導いた歴戦の勇士として知られ、ショーロホフ

著『静かなドン』の主人公グリゴーリー・メレホフのモデルの一人ともされてきた。

共著の基本的なモチーフは、戦時共産主義時代にボリシェヴィキが断行した残酷な赤色

テロを含む非コサック化=コサック清算 pасказачивание/de-cossackization、すなわち帝政ロ

シア時代の半農半武装集団であるコサック階級の廃絶を目指した政策には、上記の 1918-21

年における第一次クラーク清算に似て、基本的には勤勉かつ生産力の高い、市場性穀物の

安定的な供給者でもある独立自営の勤労農民のコサック全体を敵に回す破目になり、その

結果、内戦を本格化させる要因になった側面があるという歴史認識もある。

確かに自由なコサック農民は、その他のロシア全体の伝統的な共同体農民に比べれば破

格な特権を付与されていたが、ロシア農業の生産力構造からみれば、彼らは家族労働を基

本とする独立自営農であり、その多くがフートル農民のような区画地経営を営んでいた。

半農半武装集団としてのコサック兵の、平時におけるそうした独立自尊の勤勉な勤労農

Page 73: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

70

民としての特性をよく理解していたミローノフならではの、日頃の言動と作戦行動とが、

ミローノフ将軍の絶大な人気の背景であり、彼の多くの戦功の基礎になっていた。まさに

この点に光りをあてて、ミローノフ将軍の短い生涯の栄光と悲劇を活写したのがロイとス

タリコフの共著『フィリップ・ミローノフとロシア内戦』1978である。なおダニーロフも

内戦の英雄=ミローノフの研究家として知られる(注 17)。

第三は、ロイがショーロホフの文学歴研究者でもあること。

1974年にソルジェニーツィンの『『静かなドン』の急流』が出版され、これを契機に同書

のショーロフ剽窃説をめぐる世界的な論争がはじまると、ロイもこの国際諭議に加わり、

『ミハイル・ショーロホフの文学歴の諸問題』および『『静かなドン』:長編小説の謎と解

明』の二著を上梓している。ソルジェニーツィンが真の作者が別に存在すると示唆したの

に対して、文体や四季の豊かな情景描写、それにコサック特有の歴史や文化への造詣の深

さを考慮すれば、『静かなドン』の根幹は、ショーロホフ以外には書きえないというのがロ

イの所見である(注 18)。

本論がロイのショーロホフ研究に着目するのは、ショーロホフの『静かなドン』と『開

かれた処女地』の両著のモチーフには、1919年にショーロホフの郷里ドン河畔のコサック

村ヴョーシェンスカヤで始まり、ドン上流域全体に広がったコサック農民の叛乱が、ボリ

シェヴィキ残忍な赤色テロを含む非コサック化=コサック清算によって徹底的に弾圧され、

また、集団化に対する抵抗でも犠牲者を出している(注 19)ことへのレクイエムがあると

みなしていることである。

ショーロホフの郷里ヴョーシェンスカヤから約百キロ東にはフィリップ・ミローノフの

生地である、やはりドン河畔のウスチ・メドヴェージッツァーがあり、『静かなドン』の主

人公はグリゴーリー・メレホフのモデルはミローノフと目されている。このことは、ショ

ーロホフが描いた世界が、ドン河流域とクバン地方の、その多くがフートル農民たるコサ

ック農民の世界であることを意味している。ジョレスとロイの「進取の気性、営農の心得、

読み書き、機械の使用能力に基づくものであり、時折りそれに次ぐものが、単なる重労働

であった」とする家族労働を基本とするロシア独立自営農上層部の農民像には、一部、ロ

イのコサック農民研究の成果も反映されていると本論は考える。

4.ソ連にも欧米型の家族経営の独立自営農が存在したし、存在しえたとの歴史認識

第四に、兄弟が、ネップ期に当時のボリシェヴィキ政権が土地法典を制定、生産性の高

い農民層の振興策として共同体の耕地整理を奨励するなかで、兄弟は、この振興策に呼応

したのが、かつてのクラーク層ではなく、むしろ多くは中農・貧農層であり、そうしたあ

らたな区画地経営農民が、次第に自身の土地に執着を強めつつあったという史実を提起し

たことである。

本論がとくに重視したのが、スターリンその他の党指導部が、1925年地方ソヴィエト選

Page 74: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

71

挙の際、穀作地帯で党候補者が過半数割れしたことに度肝を抜かれ、農村ソヴィエトの代

表に共産党員でない農民が選ばれれば、集団化の推進は難しくなるのを危惧した、とのジ

ョレスの前述のような分析である(注 20)。ネップ最盛期に零細・散在地条の耕地整理を進

め、あらたな区画地で経営改善に努める個人農が、まさに家族労働を基本とする独立自営

農民として成長・形成されつつある証しだった。

この史実の確認とそれに基づく歴史認識の含意は、著名なソ連農業史家アレック・ノー

ヴの以下の所見と対照するとよくわかる。ノーヴは『ソ連の経済システム』1977最終章「評

価」でこう述べる。

たとえば市場志向の富裕な個人農を信頼するとか、他党派ならやれるはずの政策も、

ボリシェヴィキがボリシェヴィキである限り如何せん出来かねる代物があった。さらに

別の理由もあり、彼らはロシアの歴史と気候の影響から自由ではありえなかった。たと

え自ら望んでも、ロシアに日本の経済や社会に固有の特性を模倣できないし、ロシア農

民をアメリカの農場主に変えられるべくもなく、犠牲のない工業化もなしえない。以上

は何ごとも、一種の歴史必然か、不可避的に起こるべく起きたと言うつもりはない。選

択はあった。しかし多くの進展はソ連では起こりえなかった。そして、出来もしないこ

とをやらないからと言って、スターリンやブレジネフを「責める」のは的外れである。(注

21)

ジョレスは、ノーヴのこの見解には納得できないとして、こう述べる。

ソ連の経済制度に関する西側の分析はしばしば決定論であり、歴史的展開の多くが不

可避的に生じたと決めてかかる。ソ連経済に関する最も有能な西側専門家の一人である

アレック・ノーヴですら、第一にボリシェヴィキにはどうしても採用できない特定の政

策があった、第二に、彼らはロシア特定の歴史的因果や気候条件から逃れようがなかっ

た、というのだ・・・

1920年代初期の新経済政策=ネップは、市場志向型営農を含めて、一定の選択可能な

範囲があったことを示している。後世の展開が提示したものは、スターリンとフルシチ

ョフ、そしてブレジネフが、ありえた最良の代替策を選択しなかったことにある。ロシ

アの「歴史と気候」を責めるのは的外れである。(注 22)

ここでジョレスが、ネップ期には、「市場志向型の営農をふくめ、一定の選択可能な範囲

があった」ということのなかには、もちろん、ネップ期頂点においては、中農・貧農層の

多くまでが、耕地整理を通じて区画地経営主となり、次第に自身の土地に執着を強めつつ

あったこと。また、以前のクラークは農民階級全体と一体化し、農村内での経済的不釣り

合いは、進取の気性、営農の心得、読み書き、機械の使用能力に基づくものとなり、中農

Page 75: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

72

層と富裕層の境界はあいまいで、働けば働くほど富裕になりつつあったこと。さらには、

スターリンが度肝を抜いたという 1925年の農村ソヴィエト選挙結果も、次第に自分自身の

区画地に執着を強めつつあった穀作地帯の農民が、自らの意志で、党候補でなく自らの候

補を当選させたことの結果であること。そして、こうしたことは、まさに、ソ連において

も欧米型の家族経営の独立自営農が存在したし、存在しえたとの証しであり、この延長上

に、自営農民たちの真の自主的な協同組合的連携にもとづくソ連農業の発展はありえたと

いう主張と、その前提としての諸々の歴史認識が含まれることは言うまでもない。

ジョレスのノーヴ批判について確認しておきたいことがある。

共同体農民に耕地整理を奨励する 1922年制定「土地法典」の見地は、根本的にはストル

イピン改革の現代版という性格があり、ジョレスは、ボリシェヴィキ政権の土地法典所管

当局や党中央農務部の専門家も、スターリンの集団化開始時期にも、クラークの市場志向

型営農の重要性を主張していたことを示唆する(注 23)。ジョレスはこの点もふくめ、スタ

ーリンが、ありえて最良の代替策を選択しなかったと主張する。

もう一点、ジョレスはストルイピン改革期に成長・台頭したクラークと、ネップ期に「復

活」したクラークの違いを指摘する。ジョレスはこう述べる。

1906-16年に耕地整理に努めた以前のクラーク層は通常、共同体からの離脱を欲しなか

った。彼らは 1918-21 年に体験した当局側の敵意が脳裏に焼き付いていて、一時的傾向

に終わりかねないと感ずるものには危険を冒すことに慎重だった。クラークは集落の中

に住んでおり、隣人よりも裕福ではあったが、彼らの相対的な富裕さは、土地団体の秩

序を侵したり、共同体の他の成員と敵対したりするものではなかった。彼らはよりまし

な家をもち、より多くの家畜を増やし、近代的農機具もいくらか使用していた。裕福ゆ

えに彼らはふつう、大家族を抱えており、それゆえ、より広い地条圃場をもらえる権利

もえていた。その結果、彼らはより優れた農業経験をもとに、より多くの市場向け穀物

や食肉を生産した。ほとんどの場合、彼らは自家労働力だけに依拠したが、なかには農

繁期とか牛の世話とかに他の農民を雇用する事例もあった。だが、注意すべきは、ネッ

プは限定された雇用労働を認めていて、クラークが土地団体の規則に従っており、何ら

の違法も働かなかったことである。(注 24)

5.農政家コンドラーチェフや農民史家ダニーロフの実証文献に着目

第五に、兄弟によるロシア農業史・ロシア農民像が、農政家コンドラーチェフや農民史

家ダニーロフの農政史・農村史・農民史研究の実証資料を拠り所としていることだ。

ロイ『10月革命』第 11章は、コンドラーチェフ『穀物市場』が、「開戦時から 1918年末

までの穀物市場の状況を分析し、信頼のおける正確な数値を多数引用しており、その数値

Page 76: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

73

が、人民委員会議と食糧人民委員部の期待や、法令や、規則の多くが、根拠のない予測を

もとにした、ひどく非実際的なものである」と指摘する(注 25)。実際その通りである。

ロイと本論が注目するコンドラーチェフは、景気変動の長期循環で知られる前の、農政

家コンドラーチェフである。彼は、若干 25歳で、10 月革命で打倒されるケレンスキー政権

の食糧省次官を務めた有能な農政家であり、解任・逮捕・釈放後、請われてネップ期のボ

リシェヴィキの農業行政に協力したこともある(注 26)。

コンドラーチェフ著『戦時と革命時における穀物市場とその統計(通称「穀物市場」)』

は、戦時・革命時という非常時における穀物市場の統制と供給の責任者としての実務経験

をもとにした労作であり、彼は同書の草稿を 1918年末と 19年初めまでという、まさにレー

ニンの戦時共産主義の進行中に書いていたことになる。

ロイが『穀物市場』から直接引用しているのは主として、穀物の商取引を厳禁したボリ

シェヴィキ政権の食糧独裁下における「闇市場」と「担ぎ屋」の実態に関する実証資料(巻

末統計表 2-8a/b/c)であるが、本論は、それとは別に、コンドラーチェフが、一次大戦前

における、土地私有権を持つ土地所有者と、分与地を保有するだけの共同体農民との、穀

物の生産総量と、その市場出荷総額のそれぞれの割合を対比し、帝政ロシア欧州部の穀物

市場が、すなわち市場性穀物の需給関係が、大土地所有経営の市場化=穀物商品化に大き

く依存しており、もしも大土地所有に経営に基づく穀物生産が激しく落ち込むことがあれ

ば、それが穀物市場を危機に陥らせるもとになる(注 27)、と考察していることにも注目す

る。

なぜなら、ロイが『10発革命』で、旧領主経営に加え、生産性の高い大経営農場を接収・

解体し、極貧農バトラークたちの間に分割すれば、ロシア農業の生産力を破壊し、都市へ

の食糧供給をもさらに困難なものにすると指摘していた事実認識・歴史認識の、その典拠

の有力なひとつが、まさにコンドラーチェフの穀物市場研究にあったと考えるからである。

本論はまた、彼の『穀物市場』のこの分析視角が、のちのネムチーノフによるロシア・

ソ連の穀物市場構造をめぐる一覧表(巻末統計表 3-2a/b)に受け継がれたと考える。

前項の「4.ソ連にも欧米型の家族経営の独立自営農が存在したし、存在しえたとの歴

史認識」を支える実証的典拠は、農民史家ダニーロフに拠るところが大きい。

メドヴェージェフ兄弟が、如何にダニーロフの実証研究を重視していたかは、ジョレス

の以下のフレーズでもよくわかる。やや長いが引用しておこう。

ボリシェヴィキは、単純な三圃制輪作に縛られて、遠く散在する耕地片が機械化や集

約化を阻んでいるような共同体の地条農業の後進的で保守的な性格を非難し続けてきた。

だが彼らは、ストルイピン改革に対しても、それが農村的ロシアで資本主義的発展を鼓

舞するものと見なして反対した。ところが皮肉にも 1922年に彼らは、根本はストルイピ

ン改革と同じ、その現代版を支持せざるをえなくなった。もちろんこの新傾向は公式の

Page 77: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

74

政策を通じて採用されたものでなく、宣伝工作や地方のイニシアティヴを通じて鼓舞さ

れたものである。とはいえ、やがて、耕地整理の申し込み件数は急増し、ロシア中央部

には、1925 年までに、個人の耕地整理地での農業の割合が革命前の水準に達した地域も

ある。統計の抽出分析では、分合整理された耕地の反収は、土地団体に属する土地より

15~20%高いことを示している。奇妙なことに耕地整理を申し込んだのはクラーク層で

はなかった。ダニーロフによる集団化以前の農村の包括的な研究のなかで初めて陽の目

を見た、地方のアルヒーフや農村県の統計類の検討では、富農層よりもずっと貧しい農

民層からより頻繁に耕地整理の申し込みがあったことが明らかになった。(注 28)

なお、上記引用文中の、「分合整理耕地の反収が土地団体の散在耕地より 15~20%高い」

ことを立証するダニーロフ作成資料を本論巻末統計表 3-5,表 3-6として掲げてある。

ジョレスが『ソヴィエト農業』研究で参照したダニーロフ編集の基本文献は、Данилов

(1963)『連邦共和国における農業集団化の歴史概説』、Данилов (1977)『ソヴィエトのコルホ

ーズ以前の農村;人口・土地利用・経営』及び Данилов (1979)『ソヴィエトのコルホーズ以

前の農村;社会構造・社会関係』、の三著である。ジョレスは、「ダニーロフのような、よ

り客観的な歴史家」によって、あるいは、「ダニーロフによる集団化以前の農村の包括的な

研究で初めて陽の目をみた、地方の記録保管暑や農村県の統計書の検討」によって提供さ

れる実証的な研究資料を高く評価してしていた。ジョレスが展開した、ネップ期の小農層

の土地整理に基づく区画地経営の形成と、以前のクラーク層の共同体農民層との一体化傾

向の指摘の論拠は基本的にダニーロフおよび彼の研究チームの実証研究である。

ジョレスも言及しているが、ダニーロフには、1965 年に自身が編集した集団化の歴史に

関する学術書の組版を解版されたことがある。1964 年秋のフルシチョフ解任は、遺伝学や

自然科学分野の統制緩和には肯定的な効果があった反面、「灰色の枢機卿」ミハイル・スー

スロフが所管する分野では、彼の「われわれの傷口に塩をするこむことはない」「イデオロ

ギー面は容赦するな」という二つの定式もとに、数十、数百に及ぶ、既に印刷された作品、

刊行を認可されたもの、組版中のものなどが破壊され、廃棄処分となった。ダニーロフの

歴史研究は「ソヴィエト社会の歴史の修正」であるとして 1966 年 10 月の全連邦イデオロ

ギー会議において糾弾されたという(注 30)。

注記 第 3章

注 1:Roy (1979)邦訳 34-35頁。

注2:同上 181-182頁。

注3:Рой Медведев (1998) 邦訳 18-19 頁

Page 78: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

75

注 4:中野徹三は、レーニンが 1918年にネップを採用せず、小農から穀物を強奪したため内戦を不可避と

したこと、また、レーニンのこの過ちの理論的根源をマルクス&エンゲルスの見解の誤りのうちに認めこ

とを積極的に評価した。そのうえで、しかし 10月革命 60周年にあたる 1978-78年という時期に書かれた

所説のすべてをロイがなお固持しているとは思えないし、私見としても支持できない問題点、時代という

限界があると断ったうえで、ロイに対する「食糧独裁の実施と貧農委員会の設置が、危機を激化させる悲

劇的な誤りの「選択肢」だったことは確かであるが、その誤りはどこから来たのか」、その他ボリシェヴィ

キの思想構造にかかわる疑義と問題提起がなされていて興味深い。中野(1995)143-147頁。

注 5:Zhores (1987) 拙訳(1995)「まえがき」vii頁。

注 6:同上 316-317頁。

注 7:ジョレスは、1980年 1月の embargoを受け、英国の学者と米国のモスクワ特派員が「ソ連農業が自

国民への食糧供給に失敗した理由、ソ連が穀物大量輸入を不可欠とする理由」を訊ねてきたとき、「これは

是が非でも解明する必要がある」と痛感したことが、『ソヴィエト農業』執筆の重要な動機だったという。

ロンドンのジョレス宅での 1993年 9月 4日インタビューを参照。佐々木(1993) 「わが人生、わが研究-

ジョレス・メドヴェージェフ大いに語る」『季刊 窓』(18),123-124頁。

注 8:故ジョレスの新刊 Жорес (2019), Опасная профессия「危険な職業」の第 46 章「Айова - кукурузная

столица мира アイオワは世界のトウモロコシ中心地」c.631。

注 9:同上 c.631-632.

注 10:同上 c.631.

注 11:巻末統計表 3-2、表 3-3a、表 3-3b はジョレスが『ソヴィエト農業』で引用し(拙訳 9,13 頁)、ロ

イ『歴史の審判に向けて』の石堂版で言及しているのを(上巻 127-128頁)、本論が補強したものだが、原

資料の作成者は農業史家A.M.アンフィモフと統計学者 B.C.ネムチーノフである。ジョレスは、農業史家

として戦後はじめて、帝政ロシア時代の地方自治機関たるゼムストヴォの原資料を活用したアンフィモフ

を評価していた。ジョレスはまた、自身がチミリャーゼフ農科大学の大学院生当時の同大学学長であり、

似非科学者ルイセンコと論戦を交えたネムチーノフを高く評価していた。ネムチーノフは、スターリンが

直接介入し、ルイセンコによる生物学・農学支配を権威づけた 1948年農業アカデミー8月総会の直後、同

農科大学学長を解任され、後任に遺伝子の存在を認めないルイセンコ派の生物学者В.Н.ストレトフが選

任された。ストレトフ編集の学生用教科書は 1970年代にも版を重ねた。アンフィモフについては日南田静

眞(1961, 1963)を、ネムチーノフについては Немчинов (1945), 邦訳(1959)『統計学入門』、メドヴェージェフ

兄弟共著邦訳『回想 1925-2010』の第二章七「変わり果てたわが農科大学」55-57 頁、岩崎俊夫 (2015)100-105

頁を参照されたい。

注 12:Roy (1979)邦訳 234-235頁。

注 13:Zhores (1987) 拙訳(1995)35 頁。

注 14:林道義も、クラークはとして絶滅の対対象となった農民こそ、「つい 2-3年前まで当の権力者によ

り創意に富んだ進歩的勢力と呼ばれていた農民であり」「日本語になおせば富農というより、むしろ篤農と

いうに相応しい」とみていた。林道義(1971)31 頁。

注 15:Zhores (1987) 拙訳(1995)35 頁。

Page 79: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

76

注 16:ロイとダニーロフとの交流は、ロイ(2012)「仕事の方法」共著『回想 1925-2010』304-305 頁。K

GBによる捏造事件でっちあげとロイ逮捕の決定、裁判の経過、ロイ著公刊までの逃避行などについては

Жорес (2019), Опасная профессия「危険な職業」の第 14 章の「Публикация книг в Англии и в США.英・米

での本の出版(Let History Judge 公刊のこと)」と「Рой скрывается от ареста.ロイが逃避行(英米での公刊

まで逮捕を避けるためのソ連各地逃避行のこと)」の 196-197 頁。ほぼ同時に画策されたロイとダニーロフ

に対する同類の捏造事件については奥田央(1999)100-101 頁をそれぞれ参照。

注 17:同上 96-99、106-107頁。スタリコフとの共著は Medvedev, Roy & Starikov, Sergei (1978), Philip Mironov

and the Russian Civil War, Knopf.

注 18:同上 175-195 頁。ロイのショーロホフ研究は、Roy (1977), Problems in the literary biography of Mikhail

Sholokhov と Рой (2010), «Тихий Дон». Загадки и открытия великого романа『『静かなドン』:長編小説の謎と

解明』。

注 19:アレック・ノーヴも紹介するようにショーロホフ 1933 年 4 月にドンの郷里でなされた大量逮捕、

不法な押収、多すぎる穀物調達などに抗議の手紙を書いている。スターリンは、「サボタージュが静かで一

見穏やかだ(無血)」からといって、光栄ある農夫たちが実際にソヴィエト権力に対する「静かな」戦争を

しかけているという事実に変わりはない。兵糧攻めによる戦争ですぞ、わが親愛なる同志ショーロホフ」

と返事を書き『プラウダ』に載せた。Nove(1969)邦訳 201-202 頁。

注 20:Zhores (1987) 拙訳(1995)36頁。

注 21:Nove (1977), The Soviet Economic System, p.362.大野他訳(1986)『ソ連の経済システム』327頁。邦

訳該当箇所はわかりにくいので、ここでは意訳している。

注 22:Zhores (1987) 拙訳(1995)297-298頁。

注 23:同上 33-37,57頁。

注 24:同上 35頁。

注 25:Roy (1979)邦訳 200 頁。

注 26:50-60年周期の長期循環の提唱者ではなく、農政家としてのコンドラーチェフの業績等については

Barnett (1998) 、小島修一 (1987)を参照。

注 27:Кондратьев (1991), Рынок хлебов и его регулирование во время войны и револ, Наука[1922]c.98-100。『コ

ンドラチェフの経済発展の動学』の著者バーネットも、『穀物市場』の考察のこの部分に注目する。Barnett

(1998)邦訳 84-85 頁。『穀物市場』の原著刊行年は 1922 年刊行だが、わが国大学図書館等で所蔵するのは殆

ど 1991 年再版版であるため、本論でのページ表示は 1991 年再版版による。

注 28:Zhores (1987) 拙訳(1995)34-35頁。

注 29:同上 35、39頁。

注 30:同上 47-48頁。スースロフの定式 формула とは「われわれの傷口に塩をするこむことはない Не будем

сыпать соль на наши раны.」「イデオロギー面は容赦するな На идеологии не экономят.」。Жорес (2019),

Опасная профессия『危険な職業』第 14 章の「К суду истории 歴史の審判に向けて」110 頁。1920 年代ロシ

ア農民史研究におけるダニーロフの意義を取り上げた奥田央(1999)も、このダニーロフ編の集団化史研究の

権力による抹殺の経緯を述べている。同論稿 92-96 頁。

Page 80: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

77

第4章 ソ連農業失敗の経験から学ぶ世界史的教訓と持続可能な農業展望

本章は、ジョレスの『ソヴィエト農業』が、帝政ロシア・ソ連の百年余にわたる農業史

研究の結果、ソ連崩壊前の 1987年の時点で、往年の農業大国=ソ連が、不治の農業危機か

ら体制の崩壊にさえ直面していると診断し、ソ連農業の失敗の原因と、ありえたもう一つ

の選択肢を提示したうえ、ソ連の農業体験から学ぶべき世界史的教訓と、「持続可能な農業

展望」について、21世紀の人間社会にも示唆の多い試論を展開していたことに注目する。

1.ソ連社会主義の農業実験の失敗と、ソ連農業にありえたもう一つの選択肢。

『ソヴィエト農業』第 12 章(最終章)で、ソ連農業の失敗とは、「国家が雇用する労働

力によって土地生産性を高める試みの失敗」であり、それは、集団化という諸々の大変動

ないし激変 upheavalsの過程で「最終的にあらゆる農村階級が、すなわち、まず領主層を、

次いでクラーク層を、そして最後に農民層全体を絶滅に導いた」からであると述べる一方、

ソ連農業史にありえたもう一つの選択肢として「スターリン主義の粗野な宣伝は、家族経

営農業にはいかなる将来発展の可能性もないと断言した。ところがソ連以外の世界の多く

の諸国では、家族経営農業が成功裏に発展し、高い生産性を実証した。ソ連でもストルイ

ピン改革が示したように、それは一つのありえた道だった」と主張する。そのうえ、先の

アレック・ノーヴの「決定論」に対する批判にもあるように、ソ連農業の失敗は、「スター

リンとフルシチョフ、そしてブレジネフが、ありえた最良の代替策を選択しなかったこと

にある。ロシアの「歴史と気候」を責めるのは的外れである」とも指摘する(注 1)。

このスタンスは共著 1976における以下の指摘から一貫していると確認しておう。

ことの本質は、強制的集団化以後、農民の精神をもつ人びとや、真の農民的伝統が事

Page 81: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

78

実上絶滅されたことにある。つまり農業労働者を工業労働者の範型の変種とし、農民を、

その基本的権利は否定しつつ、工業労働者に転換していくという、乱暴な試みにより、

真の純粋な農民がいなくなったことにある。農場の労働者は土地に緊縛され、官僚主義

的規律の対象となり、政府、官僚制の無神経さの犠牲となった。もし彼が独立農民とし

て自由な労働を許されるか、仕事にかなりの経済的利害を有する、真の協同組合の成員

であったとしたら、実際事情はかなり異なるものになっていたはずである。とりわけ農

業においてこそ、個人のイニシアティヴと個人の自由な仕事とが鼓舞されるべきであっ

た。(注 2)

ジョレスとロイが、「国家が雇用する労働力によって土地生産性を高める試み」、あるい

は、「農業労働者を工業労働者の範型の変種とし、農民を、その基本的権利は否定しつつ、

工業労働者に転換していくという、乱暴な試み」という場合、スターリンが 10 月革命 12

周年記念日(1929 年 11 月)によせた、「偉大な転換の年」と題する『プラウダ』記事に踊

っている、「穀物大工場としての集団農場=コルホーズ工場構想」や「金属の国、自動車の

国、トラクターの国としてのソ連」、あるいは、内戦時にレーニンが言ったという「農民に

明日にも第一級のトラクター10万台を与える」という構想(注 3)を念頭においている。

スターリンは同記事で、昨年 1928年は「社会主義建設の全戦線で偉大な転換が起った年」

であり「この転換は都市と農村の資本主義的要素に対する社会主義の断固たる攻勢のもと

に行われた」と述べた。ジョレスは「これがネップ終焉の合図となった」という(注 4)。

スターリンは、農業建設の分野でも「小規模の遅れた個人農経営から、大規模な、先進

的な集団農業へ、土地の共同耕作への」根本的転換が起ったと、集団化の加速化を豪語し、

ジョレスによれば、「これ以降は滅多にやらなかった」という、予言までしている(注 5)。

もしもコルホーズとソフホーズとの発展が、加速度的テンポで進めば、わが国が、か

れこれ三年もたてば、たとえ世界最大の穀産国とまではいかないまでも、最大の穀産国

の一つになることを、うたがう根拠はない。(注 6)

1929年の荒々しい非常措置の発動後、コルホーズに加入する農戸数はたしかに増えたが、

クラークに対するテロ攻撃を考慮すれば、これは純粋な社会運動の広がりというよりむし

ろ、農民層の自己防衛を反映したものである。スターリンはおそらく、それを意図的に誤

って解釈し、次のような大言壮語まで発していた(注7)。

今日のコルホーズ運動にある新しいものは、どういう点にあるか。新しい決定的なも

のは、以前にみられたように、農民が個々のグループとしてコルホーズに入ってくるの

でなく、全村、全郷、全地区、ときとして全管区をあげて、入ってくることだ。

これはコルホーズに中農が入ってことを意味する。ここに昨年一年を通したソヴィエ

Page 82: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

79

ト政権の最も重要な成果を成すところの、農業発展の急激な変化の基礎がある。(注 8)

スターリンこの大言壮語の基本にあったのが、一方では、恐ろしく短絡的な農民層の資

本主義的両極分解のドグマであり、他方では、巨大穀物工場への最新トラクター大量投入

で穀物問題を一挙に解決するという、いわば超ギガントマニア(巨大さ好みの病的性癖)

の農業版だった。

そこで十月革命記念論文の粗野な「農民層の資本主義的両極分解論」と「社会主義的な

ギガントマニア」の対置を見てみよう。スターリンは 1928年が「偉大な転換の年」になっ

た農業建設の成果をこう自賛する。

この古い資本主義的発展の道でもうけるのは、一握りの金持ち、資本家だけで、農民

の大多数は破滅し、窮乏のうちに酷い生活をおくることを余儀なくされる。そして、こ

の新しい社会主義的発展の道は、金持ちと資本家を追い出し、中農と貧農を新しく再装

備し、新しい用具で装備し、トラクターや農機具で装備し、こうして窮乏と富農への借

金奴隷とをふりきって、協調的、集団的土地耕作の大道へすすませる。

党の成果は、信じられないくらいの困難にもかかわらず、また富農と坊主から、俗物

と右翼日和見主義者にいたるまでの、ありとあらゆる暗黒勢力の死にもの狂いの反抗に

もかかわらず、農民そのものの内部でこの根本的な転換を組織し、貧農と中農の広範な

大衆を、うしろについてこさせることができた点にある・・・。

ソヴィエト権力が、新農具・新技術の農民の必要を考慮し、農具賃貸所、トラクター

縦隊、機械トラクターステーションの形で適時、農民に与える援助を組織したこと・・・

勤労農民大衆に、系統的・持続的な生産上の援助を与える用意と能力を、事実において

示した権力、ソヴィエト権力が、人類史上はじめて世界にあらわれた。(注 9)

他方、スターリンの、生産性の低いソ連農業を、コルホーズの「穀物工場」へと改造す

る構想は、私有財産の原則に縛られた資本主義諸国には不可能な、社会主義ソ連にしかで

きないという、農業面で劇的な一発大逆転をはかる、まさに超ギガントマニアの賭けだっ

た。

この大逆転構想のボリシェヴィキ的原点には、内戦時 1919年 3月に「ボリシェヴィキに

顔を背けた」の中農層の支持を回復したいレーニンが提起した「明日にもトラクター10 万

台を」という悲願がある。スターリンも以下のレーニンの悲願を引用する(注 10)。

共産主義社会の中農は、われわれが彼らの生活条件を楽にし、改善するときに、初め

てわれわれの味方になるだろう。われわれが明日 10 万台の第一級のトラクターを与え、

ガソリンと運転手を供給できるようになれば(周知のように今は空想だが)、中農は「コ

ンムニアに賛成だ」(すなわち共産主義に賛成だ)と言うだろう。だが、これをやり遂げ

Page 83: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

80

るには、まず国際ブルジョアジーに勝利し、ブルジョアジーにこのトラクターをわれわ

れに引きわたさせるか、自分でこれを供給できるまで生産性を高めなければならない。

まず援助して、それから信頼をうるよう努力するがよい。この仕事がただしくやられ

るならば、また、郡や郷や食糧徴発隊や任務の組織にいるわれわれの各グループの措置

が一つ一つ正しくとられるならば、また、われわれの措置の一つ一つがこの見地から注

意深く検討されるならば、われわれは農民の信頼をうるだろう。(注 11)

では、コルホーズの大穀物工場はどうか。スターリンはこう述べる。

5~10万 haの大穀物工場を設立する可能性と合目的性に反対する「科学」は崩れ落

ち、粉々に消え失せた。実践は科学から学ぶべきであるばかりか、「科学」も実践に学ぶ

べきだということを、今いちど実践にはっきり示し、「科学」の反対を覆した。

資本主義諸国では、大規模な巨大穀物工場は根を張らない。だが、わが国は社会主義

国である。この「小さな」区別を忘れてはならない。

資本主義国では、土地を買い上げるか、絶対地代を払わなければ(そうすれば莫大な

支出のため、生産を圧迫せざるをえない)大穀物工場を設立できない。土地の私有があ

るからだ。逆にわが国には、絶対地代も土地売買もない(これは大穀物経営に有利な条

件を作り出さずにはおかない)。わが国に土地の私有がないからだ。(注 12)

本論が、スターリンの大穀物工場構想を、超ギガントマニア的な発想だというのは、と

くに、スターリンの以下の「金属の国、自動車の国、トラクターの国」宣言である。

われわれは、われわれの永年の「ロシア」的立ち遅れを置き去りにしながら、工業化

の道を、社会主義にむかって、全速力ですすみつつある。

われわれは、金属の国、自動車の国、トラクターの国になりつつある。われわれがソ

同盟を自動車に乗せ、農夫をトラクターに乗せる時、彼らの「文明」を自慢している、

尊敬すべき資本家たちは、われわれに追いつこうとしてみるがよい。われわれは、その

時、どの国が遅れており、どの国が進んでいるかを「決める」ことができるか、拝見し

よう。

(注 13)

しかしながら、スターリン主義の粗野な宣伝と構想とは反対に、米国コーンベルトのア

イオワ州でも、フランスやドイツの混合農業地域でも、大地を耕す主人公は、進取の精神

に富む家族労働を基本とする独立自営農民だった。土地所有者から借地して、農業労働者

を大量に雇用するタイプの農業資本家は、いずれの資本主義国でも、当該諸国の支配的な

農業企業にはなりえなかった。資本制企業の農業生産が、家族労働を基本とする、大地に

Page 84: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

81

根づき、生産と生活とが一体化した小農経営の生命力を、容易に駆逐できなかったからで

ある。

しかも、帝政ロシアのストルイピン改革期のみならず、ソ連時代のネップ後半期におい

ても、散在地条の割替を繰り返してきた共同体農民のなかから、耕地整理を通じて、次第

に自身の土地への執着を強めた個人農が形成されつつあった。この個人農たちこそ、先述

のアレック・ノーヴがいう「市場志向の富裕な個人農 prosperous market oriented private

peasantry」にほかならず、彼らは働けば働くほど、豊かになりつつあった。彼らは、ボリ

シェヴィキ党が「農村に面を向けよ」のスローガンを掲げ、「ソヴィエトの農民化」を目指

していた時期の、1925年上半期の農村ソヴィエト再選挙で、「農民経営をよく知る」非党員

農民代表をたて、主要穀作地域の村々で、党とコムソモールの推薦候補を次々と落選させ

た。渓内譲も指摘するように、「ソヴィエトの農民化」を目指す「農村に面を向けよ」とい

うスローガンは、スターリンが、「一国的観点からする統治のための国民的統合に必要」と

みて、彼自身、積極的に容認していたものである(注 14)。そのうえ党書記長スターリンは、

1925 年 3 月、『貧農』・『農民新聞』両誌代表団との記者会見で、「土地整理の必要、土地利

用の安定性の必要性」を力説していたアクチーフ(熱心な活動家)の要望に対して、自身

の口から、「土地の「永久的利用」の可能性について」前向きな発言をしていたという(注

15)。

ところが実際、スターリンが 1929年〜1933年に強行した農業集団化とその結果は、往年

の最大穀物輸出国=ソ連農業の国際的地位の回復につながるどころか、ソ連農業は全体と

して、スターリンが死去する 1953年まで、一人当たりの生産指標から見て、革命前の 1913

年の水準を回復できなかったばかりではない。農業集団化を「階級としてのクラークの絶

滅・清算」政策とし強行し、さらに、世界恐慌のさなかに政府調達穀物の「飢餓輸出」を

敢行したため、クラークとその家族百万人が北方の僻遠の地に追放されたほか、800万もの

犠牲者をだす大飢饉を招いた。強制集団化がもたらした悲劇的結末に関しては、巻末に、

飢餓輸出-飼料不足―大量家畜処分―餓死の連鎖をふくむ統計表 3-1b、3-4a/b/c、

3-12a/b/c/d, 3-13を掲げてある(注 16)。

本論は、メドヴェージェフ兄弟の所説がすべて正しいとは判断していない。試みに、『ソ

ヴィエト農業』第 3 章「集団化」の「結論」の一文「工業に投資するための、また輸入を

相殺するための資金が、集団化によって村々から引き出されたという見解は一種の幻覚 an

illusion というものである。1929-33 年の大恐慌期は穀物の世界市場価格は極端に低迷し

ていた」という指摘のなかの「幻覚というものである」という箇所は、ソ連崩壊後に公開

された機密資料のひとつにより、今日、正しくないことが判明している。表 3-4cの注で指

摘したように、世界穀物市場価格の暴落にもかかわらず、スターリンは 1930年 8月の穀物

価格の暴落のなかで穀物調達増加の強制にもとづく穀物の輸出継続を指示している。価格

暴落の中でのソ連の穀物輸出増加は一層の価格暴落を促し、それがゆえに外資・外国技術・

Page 85: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

82

外国人専門家によるトラクター工場の建設・稼働の必須要件であるハードカレンシー確保

のために不可欠な穀物輸出規模が一層増加するという、大不況深化・穀価暴落・飢餓輸出

強行・餓死の進行という悪魔の循環に組み込まれていたことを、スターリンのモロトフ宛

書簡は雄弁に物語っていた。書簡はまた、かつての農政家コンドラーチェフを、スターリ

ンの集団化と飢餓輸出との「誤算」の生贄にしたことも示唆している(注 17)。

ジョレスが「一種の幻覚というもの」とした指摘は正しくなかった。大不況下の穀価暴

落が、「幻覚」ではなく、さらなる酷い飢餓輸出を迫る対外的経済強制になっていた。

だが、この点を別として、以上のようにみてくるならば、ロイとジョレスが、ソ連農業

の失敗とは、「国家が雇用する労働力によって土地生産性を高める試み」すなわち「農業労

働者を工業労働者の変種とし、農民をその基本的権利は否定しつつ、工業労働者に転換し

ていくという、乱暴な試み」の失敗であったということ、そして何よりも、集団化が、真

っ先にクラーク層=農村資本家層を、すなわち最も生産的で有能な《篤農家層》を抹殺し、

次いで農民層全体をも絶滅したことにあるとみるのは、まったく正しい。

本論はもうひとつ、ジョレスが、スターリンを、彼にできもしないことを出来ないから

といって咎めるのは的外れであるというアレック・ノーヴについて、彼は一種の「決定論」

に陥っており、同意できないということにも賛意を表明したい。本論が、ノーヴの決定論

に関心をもつのは、ジョレスが提起するソ連農業の失敗から学ぶ世界史的教訓には、多分

にノーヴの決定論に対する批判的検討を媒介しつつ導き出した一面があることにもよる。

2.ソ連農業の失敗から学ぶ五つの世界史的教訓と持続可能な農業展望

本論のみるところ、ジョレスの呈示する教訓には、おおむね次の五つがある。

そこには、ソ連のような往年の農業大国が、殆ど慢性的な農業危機に陥っており、それ

が原因でソ連社会の存亡さえ脅かされる至っているとすれば、それは一地域の問題ではす

まされず、世界の問題でもあるという判断もある(注 18)。

① 集団化が、クラーク層=篤農層を、ついで農民精神をもつ農民層全体を絶滅したこと。

② 農業は、それぞれの地域の、気候と自然環境と人間社会との、三者の間の理にかなう

関係性 the natural link between climate, environment, and human society である

(注 19)。

③ 表土 top soilこそ、人類が培った最も根源的な価値ある遺産である。それは生き物か

らなる組成物であり、死んで生殖力を失った心土を覆う生命の絨毯 It is a biological

formation, a carpet of life above the dead and infertile subsoil.である(注 20)。

④ 大地との有機的、個人的かつ感覚的な絆を保持している農民がほとんどいないのは、

この種の結びつきが私的所有と個人責任性によってしか鍛えられないからであること。

Page 86: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

83

Few people have an organic, personal, material link with the land, because that

kind of link can be forged only by private ownership and personal responsibility.

(注 21)

⑤ 農業は、貧富を問わず、あらゆる国々で、百年前か二百年前に、さらには三百年前で

さえ生産していたのと、基本的には同じ産物を生産し続け、そして今後数世紀もまた、

同じ営みを続けるであろう、ただひとつの経済部門であること。そして、農業が人間

存在の拠り所であるのは、今もなお、これからもずっと変わらない Agriculture remains,

and will always remain, the basis of human existence.こと。(注 22)。

この五点は、ジョレスの 1987年時点の所見であるが、いずれも、21世紀の現在、人類が

問われている持続可能な農業展望とそれを担う農民像・農業協同組合像・農村社会像につ

いて、あるいは、持続可能な人間社会の展望および農業者および農業関係者以外の多くの

人びとと連携・協力のあり方についての論議に一石を投じている。本論はそう考える。

第一は、集団化が、クラーク層=篤農層を、ついで農民精神をもつ農民層全体を絶滅し

てしまったこと。本論が、クラークの訳語候補にいわゆる「篤農」をあてるのは、メドヴ

ェージェフ兄弟の描くクラーク像が、日本農業史にでてくる「篤農」ないし「老農」のイ

メージに通ずると考えたからでもある。

集団化直前のクラーク像について、ジョレスは、「以前のクラークは農民階級全体と一体

化した存在になっていた。共同体農民の 96%について村内での経済的不釣り合いは、今や、

進取の気性、営農の心得、読み書き、機械の使用能力に基づくものであり、時折りそれに

次ぐものが、単なる重労働だった」と述べていた(注 23)。

スターリン主義の粗野な宣伝は、家族経営農業にはいかなる将来発展の可能性もないと

断言した。だがソ連以外の世界の多くの諸国では、家族経営農業が成功裏に発展し、高い

生産性を実証した。ソ連でもストルイピン改革が示したように、ひとつのありえた道だっ

た。

西側では、最も生産的で、最も勤勉で、最も新しい技術や農法に順応でき、最も大地に

結びついている農民が生き残って、土地を耕し続けている。こうした才覚をもつ農民の数

は減りつつあるが、彼らの生産性は上昇しつつある。だがソ連では、集団化が反対の結果

をもたらした。農村住民のなかの最も活動的な部分が、当初はクラークの清算によって、

のちには自発的に、損なわれてしまった。仕事のつまらなさ、個性の否定、責任の欠如、

農民の劣等な社会的地位、自由や起業心に対する夥しい制限、がんじがらめの規制、不人

気な支払方法、地方官僚への依存、孤立した農村生活をときに襲う極端な陰うつさなどな

ど、これら一連の事情によって、最も有能で、若く、行動力のある人物が、あらゆる犠牲

を払ってまでコルホーズやソフホーズから足を洗おうとやっきになってきた。

こうして西側で、最も活動的で、有能で、しかも献身的な農民がその土地に踏みとどま

Page 87: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

84

る一方、ソ連で任意に残留するのは最も能力に恵まれない、受動的で、老齢化した人びと

である。このほかには、あれこれの理由で離村できない人びととか、農繁期だけに動員さ

れて援農を強制される人びとしか、土地を耕す人びとはいない(注 23)。

以上のように、ソ連農業の失敗から学ぶ第一の教訓は、集団化が、クラーク層=篤農層

を、ついで農民精神をもつ農民層全体を絶滅してしまったことにある。

第二は、「農業とは、それぞれの地域の、気候と自然環境と人間社会との、三者の間の理

にかなう関係性のことである」というもの。これは、以下のフレーズからとった。

ソ連の経済制度に関する西側の分析はしばしば決定論で、歴史的展開の多くが不可避

的に生じたと決めてかかる。ソ連経済に関する最も有能な西側専門家の一人であるアレ

ック・ノーヴですら、第一にボリシェヴィキにはどうしても採用できない特定の政策が

あった、第二に、彼らはロシア特定の歴史的因果や気候条件から逃れようがなかった、

というのだ・・・

1920年代初期の新経済政策=ネップは、市場志向型営農を含めて、一定の選択可能な

範囲があったことを示している。後世の展開が提示したものは、スターリンとフルシチ

ョフ、そしてブレジネフが、ありえた最良の代替策を選択しなかったことにある。彼ら

を批判するなかでこそ、彼の失敗や誤算が明らかになる。

ロシアの「歴史と気候」を攻めるのは的外れである。ひとつに二十世紀のロシアとソ

連の歴史は人間的要素に強力な影響を受けてきた。もうひとつは農業が、気候と自然環

境、それに人間社会との、三者のあいだの理にかなった連関であるからだ。もし農業が、

自然と社会との生態系上のバランスにそぐわないとしたら、われわれは自然ではなく、

人びとを責めなければならない。自然環境との抗争は、人間の誤りに帰着する。この抗

争は、まかり間違えば、優に地球的破局にまで導きかねない・・・(注 24)

ジョレスは英国のソ連経済史家、ノーヴの仕事を高く評価してきた(注 25)。だが、ノー

ヴの所説の背景にあると思われるソ連の歴史と気候と集団化の三者の関係性についての

「決定論」的なスタンスにはどうしても同意できなかった。

第三の教訓は、「表土 top soil(作物栽培に不可欠な土壌の最上層部分で、風化に進展に

よる有機物も含む)こそ、人類が培った最も根源的な価値ある遺産である。それは生き物

からなる組成物であり、死んで生殖力を失った心土(表土の下層にあたる土壌で、耕耘さ

れず、風化が不十分なため有機物を含まない)を覆う生命の絨毯である」というもの(注 26)。

ジョレスはチミリャーゼフ農科大学土壌肥料学部の卒業生でもある。

そして「もしも浸食の早さが土壌形成の自然の歩みを追い越すことになれば、表土は薄

くなって最終的には消えてなくなる。この過程が合衆国とソ連の両国で始まっている。そ

れは合衆国では穀物の輸出需要と世界的な高騰への農民の対応の結果であり、ソ連では輸

入を削減して家畜頭数を増やすために行った過剰な耕作の結果として生じた」ともいう(注

27)。

Page 88: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

85

ジョレスはワールドウォッチ研究所のレスター・ブラウンと長年交流があり、ブラウン

の以下の所説を自著で紹介する。「ブラウンは、アメリカの過剰生産が土壌を破壊したこと

を認める。しかし彼は、ソ連農業もまた自然環境をより壊れやすいものにしたこと、さら

には巨大で重い耕耘収穫設備や広大な圃場が、風雨による土壌浸食に対抗する天然の抑制

力を、そのギリギリまで奪いさっているとも警告している。ブラウンはソ連の生産割当制

度は、すくなくとも米国の利潤動機と同じように土壌に対して破壊的になることがある」

と(注 28)。

ジョレス自身の考えともいってよい。ジョレスが、米・ソ農業がそれぞれ土壌破壊・表

土創出の最悪の展開を示していることについての認識を明確に自覚した一契機が、1980 年

のアイオワ州立大学を含む全米各地歴訪の際のセミナーと農場見学だったと思われる。

ジョレスは関連して、ソ連農業の失敗から学ぶべき教訓として、カスピ海に注ぐクラ河

やヴォルガ河、アラル海に注ぐアム・ダリアとシル・ダリア両河川からの取水利用が深刻

な環境破壊および内陸海の干上がりの原因になってきたことなど、世界最大級の環境破壊

を伴った灌漑と河川転換の長期計画をとり上げている(注 29)。

第四は、「大地との有機的、個人的かつ感覚的な絆を保持している農民がほとんどいない

のは、この種の結びつきが私的所有と個人責任性によってしか鍛えられないからである」

というもの。それに続けてジョレスは言う「集団化が農村住民を、生まれ育った大地から

引き剥がしてからというもの、日照り、食糧不足、組織の失敗、あるいは再移住のキャン

ペーンなど、難題が襲うたびに数百万の村人を大地からの退去に追いやってきた。大地へ

の愛着と結びついた農民らしさの特性、心理、そして伝統は壊滅してしまったが、それで

いて、より都会的なセンスをもつ現代農民像が現われて、かの農民性に取って代わったの

かといえば、それもない」。こうしたジョレスの現状認識は、集団化前の、とくにネップ後

半期には、ソ連の農業にも、共同体農民が個人農として、「次第に自らの土地への執着を強

め」つつあり、あるいは「大地との有機的、個人的かつ感覚的な絆を保持する農民」が広

範に形成されつつあったという歴史認識と表裏をなしている(注 30)。

ここで付言しておかなければならないのは、「次第に自らの土地への執着を強め」つつあ

り、あるいは、「大地との有機的、個人的かつ感覚的な絆を保持する農民」という場合、生

活と生産が一体化した、家族労働を基本とする独立自営農民を想定していることである。

そうでなければ、「大地への愛着と結びついた農民らしさの特性、心理、そして伝統の継承」

はありえないからだ。資本制農業企業における資本=賃労働関係の再生産過程では、この

心理や伝統は保持できない。

第五は、⑤の繰り返しになるが、「農業は、貧富を問わず、あらゆる国々で、百年前か二

百年前に、さらには三百年前でさえ生産していたのと、基本的には同じ産物を生産し続け、

そして今後数世紀もまた、同じ営みを続けるであろう、ただひとつの経済部門であること。

そして、農業が人間存在の拠り所であるのは、今もなお、これからもずっと変わらない

Agriculture remains, and will always remain, the basis of human existence」という

Page 89: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

86

ことだ。

このうち、「農業が人間存在の拠り所であるのは、今もなお、これからもずっと変わらな

い」の部分は、『ソヴィエト農業』「まえがき」のむすび近くにある一文であり、これは、「ソ

連専門家ばかりか、より一般の読者 大地との絆を断つことなく、自然への愛情を育み続

けている読者(注 31)」に向けてのメッセージにもなっている。

以上、ソ連農業の失敗から学ぶ教訓として呈示された①から⑤は、それぞれが、興味深

い論点となっている。本論は、これらは、1987 年時点で提示された試論ではあるが、全体

として 21世紀の現在、求められいる農業展望の論議、さらには「持続可能な人間社会」の

議論に資するものがあると考える。

ソ連崩壊後の 1997年にジョレスは「農業の掟と工業の原理=20世紀の教訓」と題しこう

述べていた。

20 世紀初頭の最大産業は、英国を除けば農業だった。現在では新興工業国や旧社会主

義圏もふくめ、鉱工業とそれに関連する第三次産業が圧倒的である。つまり、今世紀は

世界的な工業化の世紀だった。しかも、合成化学をふくむ重化学工業化の過程は、綿花

のようなかつて農業に仰いだ原材料を化学繊維のように工業内部で賄うようになったこ

ともあり、農業は、ますますマイナーな存在になってきた。

しかし、人間社会存立の前提である、食糧供給としての農業までを完全に工業化する

わけにはいかない。工業製品なら、誰が、いつ、どこで製造しようと、品質と価格が適

当であれば、さして問題はない。ところが、気象と環境と社会のハーモニーを擁する農

業ないし食糧供給はどこまで工業原理で割り切れるのかが問題である。

20 世紀はまた、壮大な社会主義の実験がおこなわれ、対応して資本主義の側も大きく

変容を迫られた百年だった。したがって、現存した社会主義と、現代の資本主義が、「農

業の掟と工業の原理」に相まみえてきた、その実践的な教訓が問われている。(注 32)

ジョレスの上記①~⑤の教訓と展望は、「ソヴィエト農業」を、農業が規定する常民文化

=農耕 народная культура/folk cultureを共有する欧米農業史のなかで包括的に考察した結

果えられた試論であるが、これは彼のライフワークともかかわる。ジョレスの加齢・老化

aging研究には食文化 пищевая культура/food culture の米欧比較研究もあるからだ。

加齢と老いがライフワークのジョレスの絶筆は 2011年版『栄養と長寿』改訂版の第 15

章「遺伝子組換え作物:将来性ある食品か、健康リススクのある食品か?」の書き換え草

稿だった(注 33)。草稿には「欧州が GMO遺伝子組換え作物を禁止するのは何故か?」とい

う、以下のような米・欧の食文化 пищевая культура/food culture 比較所見がある。

現在(2018 年 11 月に執筆)、欧州は遺伝的組み換え作物を禁ずる。製品の組成物中に

Page 90: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

87

その成分が存在すると包装に示す必要がある。アメリカの販売規制はこれを要しない。

欧州とロシアの GMOへの否定的態度の理由について私見を述べたい。

欧州の、遺伝的組換え作物の導入と GMO 製品消費への抵抗は、米国よりも、農業や畜

産業の構造のほかに、料理の歴史的な伝統の違いに規定される。 米国は穀類の種子を標

準化した。 遺伝子組換玉蜀黍が登場する以前から、農家は毎年「交配種」玉蜀黍の種子

を購入した。米国の農場では玉蜀黍、小麦、馬鈴薯、トマトのどの作物をとってもこれ

ら品種と変種にまったく多様性がない。

北米料理史に関する調査は、1950年以降の期間に、食品の「標準化」と味の「均質化」

過程が米・加で進んだ。北米大陸では 全国的なレストラン、スペイン料理、イタリア料

理、フランス料理、日本料理などが、安いファーストフード店やサンドイッチの出来合

いの食事の発展に取って代わられ、廃れて消え去った。 運転手には便利なことだが。

欧州で農産物の「アメリカ化」が観察されるのは地場で

「イングリッシュ」料理が発展していない英国だけだ。遺伝子組換え作物は、欧州や

ロシアでは今も商業的利点を有しない。しかし、現代世界の大半の諸国は食糧輸入国で

ある。食糧輸入は、日本、インドネシア、エジプト、ナイジェリア、ベトナム、その他

多くのアジアおよびアフリカ諸国が自国の国内生産を上回る。彼らは、遺伝子組換え製

品の輸入を禁じていない。(注 33)

ジョレスにとって、ソ連農業の教訓と今後の農業展望は、国の貧富にかかわりなく、世

界各国の、それぞれの地域における農耕 культура/culture の、そして食の文化 пищевая

культура/food cultureを含めての、気候と環境と人間社会の理にかなう関係性にかかわる

教訓であり、「持続可能な農業展望」であり「持続可能な人間社会像の試論」でもあったと

いえよう。

注記 第 4章

注 1:Zhores (1987) 拙訳(1995)297-298、317、324頁。Nove (1977) p.362.邦訳(1986)327頁。

注 2:Roy & Zhores (1976)邦訳(1980)199 頁。

注 3:邦訳スターリン全集⑫139-156頁。レーニンの第 8回党大会での「第一級のトラクター10万台」の

発言は邦訳レーニン全集㉙206頁。

注 4:邦訳スターリン全集⑫139頁。Zhores (1987) 拙訳(1995)55頁。

注 5:邦訳スターリン全集⑫146頁。Zhores (1987) 拙訳(1995)56頁。

注 6:邦訳スターリン全集⑫152頁。Zhores (1987) 拙訳(1995)56頁。

注 7:Zhores (1987) 拙訳(1995)56頁。

注 8:邦訳スターリン全集⑫153頁。.

注 9:同上 146、149頁。.

注 10:同上 154-155頁。

Page 91: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

88

注 11:邦訳レーニン全集㉙206頁。ただしスターリンは、レーニンのいう「まず援助して」以下は引用し

ていない。

注 12:邦訳スターリン全集⑫150頁。.

注 13:同上 156頁。

注 14:溪内譲 (1962)『ソビエト政治史』356 頁。渓内は、スターリンがこの時期、「農村と農民に対する大

胆な妥協と協調の政策」を説明した際の感覚について、それは「いかにしたらこの農業国を統治すること

ができるかを思いわずらう統治者のそれであり、今後の建設のために一日も早く統治体制を整備しなけれ

ばならないという実務的な必要が、革命的理想主義を押しのけている」とも述べている。同 344-345、350

頁。

注 15:浅岡善治(2012)「ネップ農村における社会的活動性の諸類型」野部・崔編著『20世紀ロシアの農民

世界』164-167、153-189。浅岡によれば、会見に居合わせた、このアクチーフとは異なる見解の持主数人が、

スターリンの発言から、「新たな所有者=クラーク」が生まれてくる、と不安を表明したところ、スターリ

ンは、「土地の売買が出来ない以上、これは所有ではないと反論した」ことを紹介する。このスターリン会

見記が『貧農』誌に報じられ、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフの「新反対派」が密かに配布した

資料で同誌記事が引用すると、スターリンはこの「でたらめな報道」につき、『貧農』誌編集部に反駁文を

送付したと、党第十四回大会で言明した。邦訳スターリン全集⑦366-368頁。

注 16:ノーヴ (1969), An Economic History of the USSR,石井他訳(1982)『ソ連経済史』が早くから「飢餓輸出

に」ついて、指摘していた。同書 205-206 頁。

注 17:飢餓輸出については、とくにコンドラーシン(2012)「1930 年代初めのソ連における飢餓発生のメカ

ニズム」野部・崔編著『20 世紀ロシアの農民世界』243-257、および、Lih, Lars T. et al. (ed) (1995), Stalin's

letters to Molotov, 1925-1936, New Haven 岡田他訳 (1996);『スターリン極秘書簡: モロトフあて 1925

年-1936 年』220,229,263-264,269-270、277 頁を参照。ジョレスも、ハリコフ、チェリアビンスク、ロストフ

でのトラクター製作工場、コンバイン製作工場の建設・稼働と、強制集団化への批判を鎮静化させるため

に、テロルのキャンペーンが農村から都市に移されたことの関係をふくめ、コンドラーチェフらを生贄と

した捏造事件=勤労農民党事件との関連に言及している。Zhores (1987) 拙訳(1995)64-65頁。

注 18:Zhores (1987) p.viii, 拙訳(1995)viii頁。

注 19:Zhores (1987) p.389, 拙訳(1995)298頁。

注 20:Zhores (1987) p.396, 拙訳(1995)303頁。

注 21:Zhores (1987) p.414, 拙訳(1995)318頁。

注 22:Zhores (1987) p.viii, 315, 拙訳(1995)viii, 243 頁。

注 23:同上 317-318頁。

注 24:同上 298頁。

注 25:ジョレス『ソヴィエト農業』「まえがき」が謝辞を捧げるなかにレスター・ブラウンらとともに、

ノーヴも含まれる。同上 ix頁。

注 26:同上 303頁。ジョレス他(1999)『市場社会の警告』21-22頁。

注 27:ジョレス『ソヴィエト農業』303頁。

Page 92: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

89

注 28:同上 305-306頁。Brown (1982), U.S. and Soviet Agriculture: The Shifting Balance of Power, World Watch

Paper 51, Worldwatch Institute, p.23

注 29:同上 314-316頁。

注 30:同上 34-35、37、317-318頁。

注 31:同上 ix頁。

注 32:ジョレス基調報告「農業の掟と工業の原理=20 世紀の教訓」(1999)『市場社会の警告』16-17 頁。

注 33:Жорес (2011), Питание и долголетие『栄養と長寿』第 15 章「遺伝子組換え作物:将来性ある食品か、

健康リススクのある食品か?」c.331-350.

注 34:上記改訂版刊行予定の情報はまだない。

終 章 要約と結論

要 約

序章は、兄弟のロシア革命史再審を一〇例、概観したほか、国外に追放された自由なジ

ョレスと、ソ連の検閲・監視下にあるモスクワのロイとの、米紙等モスクワ特派員たちが

媒介した「普通は考えられない共同作業」の内実を紹介した。

第 1章ではとくに、共著 1976が、以後のロシア革命史再審に活かされいく分析視角=着

眼点をとり上げた。第一は、兄弟が、フルシチョフ政権下で、穀物の輸入急増を金塊売却

や原油輸出でもって糊塗する対応に着目していること。この視点が 1970年代以降のジョレ

ス『ソヴィエト農業』の考察でさらに展開されることである。第二に、共著には、フルシ

チョフによるソ連農業への米アイオワ自営農の活力導入の試みとその挫折の指摘したこと。

すなわちソ連農民を米ソ対比で見る国際視点があり、他方、1964年に失脚したフルシチョ

フが、「集団化以後、農民の精神をもつ人びとや、真の農民的伝統が事実上絶滅した」とい

Page 93: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

90

う「ことの本質」を理解しなかったという指摘があり、ここには、ソ連の農業集団化にと

もなう農民像変化という歴史的視点がある。このソ連の農民像考察の国際・歴史視点が兄

弟のロシア革命史の再審全体にスタンスに貫かれることを述べた。

第2章第1節は、『10月革命』の課題が、ことに戦時共産主義の過ちと、その歴史的背景

と理論的根源の考察に中心があると指摘した。そのなかでとくに注目したのが、ボリシェ

ヴィキの強制的な穀物徴発に抵抗したところの、「土地革命で土地を入手した穀作地帯の中

農層は、穀物無償譲渡に納得せず、彼らの穀物自由取引と現物税導入を求めた。政権が 1918

年にネップを導入していれば、反革命勢力との内戦も最小限に留まった」とのロイの分析

である。本論は、ロイはここで、共著 1976が、集団化以降に喪失したと述べていた、その

農民的伝統の体現者こそ、まさに戦時共産主義期のボリシェヴィキに抵抗して中農層であ

ったことを提示していると評価した。

第2節は、ジョレス『ソヴィエト農業』で、一次大戦と革命前に穀物輸出大国であった

ロシア・ソ連が、1970年代以降、慢性的な穀物輸入大国へと転落する過程を鳥瞰するソ連

農業史研究であると位置づけるとともに、ゴルバチョフ就任の矢先に国際原油市場が暴落

し、この衝撃が「産油国」としての恩恵で弥縫してきたソ連の「アキレス腱」を、すなわ

ちソ連農業の慢性疾患を、致命傷として顕在化させ、ソ連そのものを崩壊させてしまうと

診断した現代農業史研究でもあるとした。

しかし、本論が、何より注目したのは、ジョレスに当初からその意図があった訳ではな

いとしても、元来、生物学者であったジョレスが、米国カーター大統領による対ソ穀物禁

輸のあった 1980年以降、次第にソ連農業史・農政史に研究対象を移していき、帝政期から

現代ソ連までの農業史を跡づける過程で、共著『フルシチョフ権力の時代』およびロイ『10

月革命』の成果を活用し、敷衍することによって、一連の「ロシア革命史再審」を試みる

労作となったことにあった。

本論が、ジョレスのロシア革命史再審で最も重要なひとつと見たのが、ロシア革命の根

本を土地革命・農民革命とみる所説である。ずばり十月革命前の 1917年播種期がロシア史

の道筋を変えたという理解にほかならない。2月革命に動転した大土地所有の貴族領主が、

播種期に春耕せず、農耕期前に農場から逃亡、それを許しがたいと見た共同体農民が、領

主の遊休地を強制収容する形で、労働者の 10月革命より先に土地革命を展開したと理解し

た。しかもソヴィエト政府が、都市のプロレタリア革命とは別の異なる目標を掲げて進行

中であった農民自身による土地革命=農村革命を理解せず、さらには 1918年春以降、戦時

共産主義期の穀物強奪により共同体の農民大衆を離反させ、それが内戦の本格化につなが

ったと判断する。本論はかかる見地を、ソールズベリーもいうように、ソ連内部からでた

初めての、公認ソヴィエト史学とは別の、新たな革命観でありロシア革命史の再審である

と述べた。さらには、スターリンの「上からの革命」、すなわち 1929-33年の農業集団化の

ほうが、1917年ロシア革命よりも根底的にソ連社会を構造的に大変貌させたというジョレ

スの指摘も上記に劣らずロシア革命史再審の重要なひとつと評価した。

Page 94: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

91

もう一点、ジョレスが、農民への経済的譲歩に転じた新経済政策=ネップの、政治的限

界の重要性を指摘しているところに注目した。すなわち、第十回党大会が党内民主主義を

発露する最後の大会となり、以後一党独裁体制が常態化・強化されていったことの歴史的

重要性に関してである。この点はロイもかねて指摘してきたところである。

付言すれば、本節では、「ソ連は農業がアキレス腱 Achilles’ tendon(heel 踵)」の譬

えの起源と思われるヤスニーJasnyとケナン Kennan の、スターリン存命中の論稿に就いて

関して言及している。これに関しては別稿を用意しなければならない。

第3章の、兄弟がロシア革命史再審を成しえた五つの所以の第一は、ロイの「選択肢的

方法」が、ソ連公認史学の目的論、決定論の克服に有効であった理由を述べた。

第二は、ロシアの割替共同体を欧州型分割地農民の過渡的形態であると判断し、ストル

イピン改革期及びネップ期に登場した独立自営農もその流れのなかに位置づけたこと。

第三は、クラークとは、家族労働を基本とする富裕農民、篤農家であると認識した点。

第四は、ネップ期に中農・貧農の分割地農民としての形成がみられたという認識。

第五は、コンドラーチェフやダニーロフなどの優れた実証文献に着目したこと。

このうち、本論は、第二点の理解が、1917年革命の性格規定、あるいは農業集団化の歴

史的評価などにおける新機軸の呈示にとって全体の環をなしたもとみた。

第 4章「ソ連社会主義の農業経験からまなぶ世界史的教訓と農業展望」では、ジョレス

が提示したソ連農業の失敗と、そこからの世界史的教訓をとり上げた。失敗の原因は、集

団化が最も生産的で有能な「篤農家層」を抹殺し、次いで農民層全体をも絶滅したことにあ

るとする。これは共著『フルシチョフ権力の時代』での指摘の再確認でもある。

また、本論は、メドヴェージェフ兄弟の所説のすべてが正しいと判断しているわけでは

ないとして、ソ連崩壊後の機密解除で判明した、ジョレスの指摘にある不正確な個所につ

いてもコメントしている。

本論で紹介する、ジョレスが提示したソ連農業の失敗から学ぶ五つの教訓のなかには、

「農業とは、その地域、地域の気候・自然環境・人間社会の三者の理に叶う関係性である」

のほか「農民と大地との絆は、個人所有と個人責任性によってしか」、そして「独立自営農

民の家族労働経営によってしか鍛えられない」などがある。これらの教訓は 1980 年代末に

提示されたものだが、これは現在、人類が問われている「持続可能な人間社会」の農業展

望ともいえると述べた。

結 論

1.本論は、兄弟による一連の「ロシア革命史再審」は、共著 1976の成果をロイ(1976)と

ジョレス(1987)が活用し、敷衍する形で進めてきたことを立証した。1917年革命の根本は

土地革命であるとの見地のように、ロイ(1976)の成果を、ジョレス(1987)がさらに展開し

た再審もある。

Page 95: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

92

2.本論の終章にあたりいま改めて兄弟によるロシア革命史再審の基本は何かを問えば、

次の五つあると考える。

第一は、ボリシェヴィキが、1917年ロシア革命の根本が土地革命にあること。それをボ

リシェヴィキが理解できず、「戦時共産主義」を強行し、内戦激化を招いたこと、さらに激

化する内戦が、のちにスターリン専制体制が形成される歴史的温床にもなったという理解

にあることにある。ロイはバートランド・ラッセルが 1920年にロシア内戦時を視察した際

の印象記を、自著『歴史の審判に向けて』1989年増補改訂版に取り入れている。

第二は、農業集団化の結果、まずは篤農層=クラーク層とその家族全体が失われ、つい

で家族労働にもとづく自営農経営がすべて自発的な破滅 spontaneous destruction をもた

らしたことが、ソ連社会主義のアキレス腱であるソ連農業の極度の脆弱化の原因であり、

慢性化したソ連農業の疾患は、最終的にいつソ連体制を崩壊させてもおかしくないほど危

篤の状態にあるという判断を下していたことである。しかもこの判断をソ連が崩壊する 4

年前もまえの、1987年時点に提示していた。

ジョレスによれば、離村する機会に恵まれずなくやむなく残った「社会的弱者」しか従

事しないソ連の農業部門は、「社会保障部門」と同一の原理でしか機能していなかった。

第三は、公認ソヴィエト史学のみならず、米国の 1975年版新エンサイクロペディアのよ

うな、コルホーズには種々の欠陥があるがソ連農業には集団化が不可欠だった、という理

解は間違っており、ソ連農業にも、強制的集団化とは別の、家族労働を基本とする独立自

営農型の農民的経営の発展という道がありえたし、実際、集団化まえのネップ後半期には、

生産性の低い共同体の狭隘な地条農業から、耕地整理を済ませた区画地経営に移行しつつ

ある農民層が広範に形成されつつあったという歴史認識を提示した。兄弟は、スターリン

が、ありえたベターなソ連農業の選択肢、これを拒否して集団化を強行したと見る。これ

に対し、公認ソ連史学とかなりの欧米史学も、ソ連の歴史と冷涼で日照り常襲地帯の気候

のもとでは、集団化はやむを得なかったという「決定論」に立っている。これに同意でき

ないし、集団化とは別の、独立自営農民たちによる真に自発的な協同組合的な連携をもと

にする、農業発展の道筋がありえた。これがロシア革命史再審の不可欠の要素となってい

る。この見地、このスタンスを確立する契機が、ソ連農業研究の分析視角の新展開だった。

共著 1976まではまだ、フルシチョフ農政の見地に似て、ソ連農業を米・ソ対比の枠組みて

考察する観点があったが、1980年のアイオワ州立大学講演がひとつの機縁となり、ジョレ

スは、ソ連農業を、農業に規定された常民文化=農耕の伝統をロシアと共有する、その他

のヨーロッパ諸国をふくめた欧州農業の発展史のなかに位置づけ、考察するようになる。

このことが、マルクスの予想とはことなり、現実の世界史では、先進資本主義諸国におい

ても、家族労働を基本とする独立自営農が、農業の主たる担い手になっており、百年、あ

るいはそれ以上のタイムラグはあるものの、帝政ロシアでも、1917年ロシア革命のあとの

ソ連でも、それに類する確かな農民的な農業発展の可能性を示し始めていたのではないか。

この発想が、ジョレスのコーンベルトの学生・教職員との質疑で芽生えてきた。本論執筆

Page 96: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

93

者はそう推理する。集団化の失敗に関するジョレスの講演を聴いた学生が、コルホーズ農

民の虐げられた状況を理解できず、プランテーションの黒人農業労働者を連想したと分か

って、ジョレスは米ソ対比という自身の従来の枠組みの狭さを感じた。

そのように考えると、ジョレスの 1980年のアイオワ講演は、兄弟のロシア革命史再審に

とっても、重要な一里塚になったといえよう。

第四は、ネップの政治的限界の指摘である。

ジョレスは、1917年にできたソヴィエト制度にはかなり民主主義の潜在能力を有してい

たと考えており、以下のようにものべていた。

地域次元で党機関が強大になる前の 1920年代初頭には、地方ソヴィエトの執行委員会

議長の地位は、地方党委員会書記の地位より影響力が絶大で、権限も強く、傑出したボ

リシェヴィキも地方ソヴィエト議長に選出されるよう努めるのが当たり前だった。だが、

(反トロツキー闘争を制した)スターリンが党の実権を握り、党機関および保安機関を

拠り所としはじめるや、議長の地位も様変わりした。第十五回大会後には、ボリシャヴ

ィキ幹部は地方ソヴィエトから、地方党委員会に鞍替えした。こうなれば 10 月革命のス

ローガンである「すべての権力をソヴィエトに」はいかなる意味も失ってしまう。

結局、地域次元でも、農村でも、党機関が強大になると、「すべての権力をソヴィエトに」

はいかなる意味も失ってしまう。

1921年にネップを導入した第十回党大会が、それなりの民主主義的な議論を可能とした

最後の大会となった。以後、一党独裁体制が常態化していく。

そうだとすれば、ソ連農業に、集団化とは異なるベターな選択肢を許さなかったのは、

スターリンの粗野な農業・農民観のほかに、農民に対する一定の経済的譲歩を決断したも

のの、政治的譲歩については頑ななスタンスを堅持し続けたというレーニンとその後継者

たちの民主主義観にもあったということ。兄弟のロシア革命史再審にはこの点も含まれて

いることを確認しておこう。

序章で指摘したことだが、兄弟のロシア革命史再審には、以下の一つも含まれる。

巨大で多彩なモザイク状の旧ソ連は、唯一の政治組織=共産党が権力を独占し、強大

な保安機関たる KGBがタガを締める以外に、政治的統一を支える拠り所がなかった。

これは、集団化にともなう政治的代償でもあった。数百万におよぶ篤農層とその家族、

その他の農民層にたいするテロルの行使と、1932-33 年の悲劇的大飢饉とが、政権と人民大

衆との関係に深刻な裂け目をつくりだし、1932年暮れには党全体の公的な粛清がはじまっ

た。このときまでには最も有能で、穏健なる指導者はすべて追放、一掃されてしまってい

Page 97: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

94

た。こうしてスターリンの崇拝と、彼の究極の独裁体制の基盤がつくりだされていく。

最後に、ひとこと述べておきたいことがある。

兄ジョレスと弟ロイとが、ジョレスの単著ではあるが、ロイの「普通は考えられない共

同作業」なしには公刊しえなかった『ソヴィエト農業』を通じて、その読者各位、「とくに

大地との絆を断つことなく、自然への愛情を育み続けている読者」の各位にたいし、もっ

とも分かってもらいたいと望んでいたのは、次のふたつの農業展望であろう。

ソヴィエト農業の歴史は国の貧富にはかかわりなく、全世界の国々に対して大きな教

訓をもたらしている。農業が人間生活の拠り所であるのは、今もなお、これからもずっ

と変わらない Agriculture remains, and will always remain, the basis of human

existence。

農業は、それぞれの地域の、気候と自然環境と人間社会との、三者の間の理にかなう

関係性 the natural link between climate, environment, and human society である。

本論筆者も原著を某大学書房で立ち読みし、この農業展望に眼をとめたひとりである。

Page 98: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

95

引用・参考文献一覧

邦文文献・欧文文献・露文文献の順に示す

【邦語文献】

1. 青柳和身 (1994)『ロシア農業発展史研究』御茶ノ水書房

2. 浅岡善治(2012)「ネップ農村における社会的活動性の諸類型」野部・崔編著『20世紀ロ

シアの農民世界』153-189

3. ――・中嶋剛編(2017)『人間と文化の革新(ロシア革命とソ連の世紀 第 4 巻)』岩波書

4. 池田嘉郎(2017)『ロシア革命:破局の 8カ月』岩波書店

5. ――編(2017)『世界戦争から革命へ(ロシア革命とソ連の世紀 第 1 巻)』岩波書店

6. 石井規衛 (1981)「国家と農民―食糧独裁から貧農委員会の改造まで―」『土地制度史學』

90,21-42

7. ―― (1989)「訳者解説」ロイ『10 月革命』所収.309-318

8. 石堂清倫 (2001)『20 世紀の意味』平凡社

9. 市川浩(1996)『科学技術大国ソ連の興亡 : 環境破壊・経済停滞と技術展開』勁草書房

10.――編著(2016)『科学の参謀本部: ロシア/ソ連邦科学アカデミーに関する国際共同研究』

北海道大学出版会

11. 宇佐美繁 (1999)「アジア農業に不向きな欧米規準」、国際学術シンポジウムの記録編集

委員会編『市場社会の警告』現代思潮社、pp.128-135, 187-192

12. 宇山智彦編 (2017)『越境する革命と民族(ロシア革命とソ連の世紀 第 5 巻)』岩波書店

13. 大崎平八郎(1960)『ソヴィエト農業政策史』有斐閣

14. ――編 (1981)『現代社会主義の諸問題』ミネルヴァ書房

15. 大沼盛男・佐々木洋・山村理人編 (2000)『ロシア極東の農業改革』御茶ノ水書房

16. 岡田与好編 (1991)『政治経済改革への途 : ヨーロッパにおける若干の歴史的経験』木

鐸社

17. 奥田央 (1979)『ソヴェト経済政策史――市場と営業』東京大学出版会

18. ―― (1990)『コルホーズの成立過程――ロシアにおける共同体の終焉』岩波書店

19. ―― (1996)『ヴォルガの革命:スターリン統治下の農村』東京大学出版会

20. ―― (1999, 2000)「ダニーロフ ヴェ・ペー――1920 年代ロシア農民史のために――(1)

(2)」『経済学論集』64(4),87-112、66(1),41-67

21. ――編 (2006)『20世紀ロシア農民史』社会評論社

22. ―― (2007)「1920年代のソヴェトの農村のコムニスト」『経済学論集』73(1), 2-47

23. ―― (2012)「「犂ソハー

から鞄へ」――脱農民化過程における農村のコムニストとコムソモー

ル員(1920 年代から 1930 年代初頭)」野部・崔編著『20 世紀ロシアの農民世界』193-241.

Page 99: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

96

24. 梶川伸一 (1993) 「食糧人民委員部――「幻想」の社会主義革命」ソビエト史研究会『ロ

シア農村の革命』木鐸社、15-48

25. ―― (1997) 『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』名古屋大学出版会

26. ―― (1998)『ボリシェヴィキ権力とロシア農民;戦時共産主義下の農村』ミネルヴァ書

27. ―― (2004)『幻想の革命』京都大学出版会

28. 門脇彰・荒田洋編 (1975)『過渡期経済の研究』日本評論社

29. 上島武(1977)『ソビエト経済史序説 : ネップをめぐる党内論争』青木書店

30. ――・村岡到編(2005)『レーニン:革命ロシア光と影』社会評論社

31. 菊池昌典(1966)『歴史としてのスターリン時代』盛田書店

32. 木村 英亮(1993)『スターリン民族政策の研究』有信堂高文社

33. 木村汎(1969)「ソ連邦における個人的所有権とその将来性一公共フォンドとの関連に

おいて」『法学論叢』84(6) 44-83

34. ――(1973)「ソ連邦における個人的副業経営――とくに社会的経営との関係において」

北海道大学スラブ研究センター『スラブ研究』(18),97-115

35. ――(1974)「ソ連邦における個人的副業経営――社会主義社会における“個人的なるも

の”の比重と歴史的展望」猪木正道・市村真一編『共産圏諸国の政治経済の動向』創文社、

pp.128-164.

36. ――(1976)「物質的インセンティブの限界 :フルシチョフ主義の挫折 (その一)」『ス

ラブ研究』(21),83-156

37. 久保庭真彰・田畑伸一郎編著(1999)『転換期のロシア経済』青木書店

38. 小島修一 (1987)『ロシア農業思想史の研究』ミネルヴァ書房

39. ―― (2002)「コンドラーチェフとロシアの農業発展」『甲南経済学論集』42(4),481-514

40. ―― (2008)『二十世紀初頭ロシアの経済学者群像』ミネルヴァ書房

41. ゴールド・フィールズ・ミネラル・サービス社 Gold Fields Mineral Services Ltd[編]; 田中

貴金属工業株式会社地金部訳(1978-1997)『Gold』田中貴金属工業地金部

42. ヴィクトル・コンドラーシン(2012)「1930 年代初めのソ連における飢餓発生のメカニズ

ム」野部・崔編著『20 世紀ロシアの農民世界』243-257

43. 坂下明彦 (1996)「《書評》Z.A.メドヴェーヂェフ著/佐々木洋訳『ソヴィエト農業

1917-1991―集団化と農工複合の帰結―』」農林統計協会『農林水産図書資料月報』(3),10

44. 佐々木洋 (1977)「スターリン主義と「トロツキイ問題」」中野徹三・高岡健次郎・藤井

一行編著『スターリン問題研究序説』大月書店 129-165

45. ―― (1993)「わが人生、わが研究-ジョレス・メドヴェージェフ大いに語る」『季刊 窓』

(18),118-143

46. ―― (1995)「ロシアの農民経営(フェルメル)の実態調査」1995~1996 年度科学研究費

補助金(国際学術研究=研究代表者 大沼盛男)研究成果報告書(課題番号 07041067)『ロ

Page 100: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

97

シア極東における農村社会の変貌に関する調査研究』2-51

47. ―― (1999)「ロシア農業党 1994 年綱領について」日ロ北海道極東研究学会『北海道極東

研究』(2),70-80

48. ―― (2000) 「ロシア急進経済改革と極東経済」大沼・佐々木・山村編 (2000)『ロシア

極東の農業改革』御茶ノ水書房 97-132

49. ―― (2002) 「極東ロシアにおける軍民転換の挫折とプーチン政権のアジア武器商戦」『札

幌学院商経論集』18(3),1-24

50. ―― (2003) 「メドヴェージェフ双生児『知られざるスターリン』の重版によせて」『ア

ソシエ 21 ニューズレター』(56), 5-7

51. ―― (2005a)「「20 世紀末大不況」脱却とコンドラーチェフ長期循環」『アソシエ 21 ニュ

ーズレター』(78),5-7

52. ―― (2005b) 解題論文「メドヴェージェフ兄弟のソルジェニーツィンおよびサハロフと

のトリプルな関係」ロイ・メドヴェージェフ、ジョレス・メドヴェージェフ共著/大月晶

子訳『ソルジェニーツィンとサハロフ』現代思潮新社 415-538

53. ―― (2005c)「ロシア資本主義の原始的蓄積」『北海道極東研究学会』(80), 11-14

54. ―― (2006) 「戦後日本資本主義の設備投資循環(予備的考察)―20 世紀大不況の深化と収

束を媒介した日本資本主義―」北海道大学『経済学研究』56(2),1-17.

55. ―― (2012a) 「日本人はなぜ、地震常襲列島の海辺に「原発銀座」を設営したのか?-

3.11 原発震災に至る原子力開発の内外略史試作年表」『札幌学院大学経済論集』(5),161-198

56. ―― (2012b) 「『収容所群島=原子力収容所 Atomic Gulag』を炙り出した一卵性双生児の

人間形成」、ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ共著/天野尚樹訳『回想 1925-2010』現代

思潮新社.325-436

57. ―― (2013a)「大地との絆を保持するクラーク(篤農家)を撲滅したスターリン」、藤岡

惇退職記念論文集編集委員会編『私と世界とアッチャン先生』文理閣.252-254

58. ―― (2013b) 「『スターリン問題研究序説』をめぐる経緯」、加藤哲郎・小島亮その他『エ

ピローグとなった『序説』への研究序説―『スターリン問題研究序説』と 70 年代後期の思

潮―』中部大学紀要『アリーナ』(16),67-83

59. ―― (2013c) 「メドヴェージェフ兄弟による『原子力収容所 Atomic Gulag』認識の舞台

裏」『藤女子大学人間生活学部紀要』(50),11-24

60. ―― (2014) 「広島、長崎、ウラル、チェルノブイリ、福島―歴史に刻まれた国際原子力

村の相互支援―」中部大学紀要『アリーナ』(17),411-451

61. ―― (2015) 「ロシア革命一世紀を生き抜く視角―『ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ

選集』日本語版刊行によせて」中部大学紀要『アリーナ』(18),309-335

62. ―― (2016) 「チェルノブイリ 30 年、福島 5 年、ウラルの核惨事 59 年によせて-ロシア

放射線防護の権威レオニード・イリイン著『チェルノブイリ:虚偽と真実』-」NPO法

人ロシア極東研機関誌『ボストーク』(25),25-28

Page 101: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

98

63. ―― (2017a) 解題論文「スターリン主義批判の記念碑的労作」、ジョレス・メドヴェージ

ェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集1、ロイ・メドヴェージェフ著/名越陽子訳『歴史の

審判に向けて;スターリンとスターリン主義について』現代思潮新社 417-428

64. ―― (2017b) 解題論文「スターリン主義体制下で核事故の実像を解明」ジョレス・メド

ヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集2、ジョレス・メドヴェージェフ著/名越陽

子訳『ウラルの核惨事』現代思潮新社 365-375

65. ―― (2018a) 解題論文「ルイセンコ興亡のドキュメンタリー『生物学と個人崇拝』 そ

の完訳日本語版」ジョレス・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集3、ジョレ

ス・メドヴェージェフ著/名越陽子訳『生物学と個人崇拝;ルイセンコの興亡』現代思潮

新社 365-375

66. ―― (2018b)「ウラジーミル・レーニンからウラジーミル・プーチンまで─―異論派 R&

Zh・メドヴェージェフ兄弟のロシア革命百年観」『社会主義理論学会会報』(74),21-23

67. 佐藤正人 (1973)「ミール共同体と農業集団化:B.П.ダニーロフの見解によせて」北大『經

濟學研究』23(2), 171-196

68. 塩川伸明 (1994)『終焉の中のソ連史』朝日選書

69. ――『ソ連とは何だったか』勁草書房

70. ―― (1999)『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房

71. ―― (2004)『《20 世紀史》》を考える』勁草書房

72. 重光晶 (1979)『ソ連農業の統計的研究』日本国際問題研究所

73. 下斗米伸夫(1980)「解説・フルシチョフ再考」フルシチョフ著/下斗米伸夫訳『フルシ

チョフ権力の時代』御茶ノ水書房 205-235.

74. ―― (2002)『ソ連=党が所有した国家 1917-1991』講談社選書メチェ

75. 小規模・家族農業ネットワーク・ジャパン編(2019)『よくわかる国連「家族農業の 10

年」と「小農 6 権利宣言」』農文協ブックレット

76. ミロバン・ジラス著/新庄哲夫訳(1968)『スターリンとの対話』雪華社

77. 白井久也 (1988)「ぺロストロイカのソ連――永遠のアキレス腱=農業は再生できるか?

(ダニーロフとの会見を含む)」『朝日ジャーナル』30(3), 26-30.

78. ソビエト史研究会編 (1989)『ソ連農業の歴史と現在』木鐸社

79. ―― (1993)『ロシア農村の革命―幻想と現実―』木鐸社

80. タイムス出版社國際パンフレット通信部[編](1931)「勞農ロシア電化計畫の十周年 : 本

社特輯」 タイムス出版社國際パンフレット通信部

81. 高岡健次郎 (1965)「20 世紀初頭ロシア農業制度に関する若干の問題点――ドゥブロフ

スキー「ストルイピン改革」によせて」『土地制度史学』(26),61-69

82. 田代洋一 (1983)『農業問題入門(新版)』大月書店

83. 田中寿雄 (1978)「ソ連邦の金政策」『貿易と関税』78(9). 30-35

84. 田中陽児・倉持俊一・和田春樹編 (1997)『世界歴史体系 ロシア史』3―20 世紀』山川

Page 102: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

99

出版社

85. 溪内譲 (1962)『ソビエト政治史』勁草書房

86. ―― (1970) 『スターリン政治体制の成立』第一部、岩波書店

87. ―― (1972) 『スターリン政治体制の成立』第二部、岩波書店

88. ―― (1980) 『スターリン政治体制の成立』第三部、岩波書店

89. ―― (1986) 『スターリン政治体制の成立』第四部、岩波書店

90. ―― (1978)『現代社会主義の省察』岩波現代新書

91. ―― (2004)『上からの革命』岩波書店

92. В.П.ダニーロフ/荒田洋・奥田央訳 (1977)『ロシアにおける共同体と集団化』御茶の水

書房

93. 田畑伸一郎(1992)「1980 年代後半のソ連経済――産業連関表に基づく分析――」『スラ

ブ研究』(39), 1-38

94. ―― (1995) 「経済」木村汎編『もっと知りたいロシア』弘文堂

95. 崔在東 (2007)『近代ロシア農村の社会経済史――ストルイピン農業改革期の土地利用・

土地所有・協同組合』日本経済評論社

96. 地田徹朗 (2009)「戦後スターリン期トルクメニスタンにおける運河建設計画

とアラル海問題」『スラブ研究』 (56),1-36

97. チャヤーノフ編/南満洲鐡道株式会社總務部調査課訳 (1930)『ソヴェート聯

邦國勢統計十年史』大阪毎日新聞社

98. 蔦谷栄一 (2009)「農業技術低下から教育を考える―循環型社会形成をめざし

て―」『農林金融』72(3),20-33

99. 寺山恭輔 (2008)「《書評》ロイ・メドヴェージェフ著(佐々木洋【対談・評注】、海野幸

雄【訳】)『スターリンと日本』(現代思潮新社」『ロシア・ユーラシア経済―研究と資料―』

(915), 44-48

100. ―― (2017)『スターリンとモンゴル』みすず書房

101. 東京大学社会科学研究所編 (1977)『現代社会主義:その多元的諸相』東大

出版会

102. 暉峻衆三編 (2003)『日本の農業 150 年』有斐閣ブックス

103 徳永昌弘 (2013)『20 世紀ロシアの開発と環境』北海道大学出版会

104. ガリーナ・ドブロノージェンコ (2012)「権力による名称付与の帰結としての「クラー

ク」」野部公一・崔在東編著『20 世紀ロシアの農民世界』日本経済評論社、pp.259-290.

105. 富田武 (2014)「【最終講義】日本のソ連史研究と私」『成蹊法学』(80),13-46.

106. 中野徹三 (1995)『社会主義像の転回』三一書房

107. ―― (2012)「メドヴェージェフ兄弟初の人間的記録として」『労働運動研究』復刊(30),

23-30

108. 中山弘正 (1976)『現代ソヴェト農業』東京大学出版会

Page 103: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

100

109. ――編著 (1980)『ネップ経済の研究』御茶ノ水書房

110. ―― (1981)『ソビエト農業事情』NHKブックス

111. 農政研究センター編 (1977)『ソ連の農業・食糧問題』御茶ノ水書房

112. 野々村一雄 (1982)「ソ連のアキレス腱 農産物・食糧--その不足は重大な政治的結果を

もたらす」『世界週報』63(48),18-24

113. 野部公一 (2003)『CIS 農業改革研究序説』:旧ソ連における体制移行下の農業』農文協

114. ――(2010)「「戦時共産主義」下のソフホーズ--ソフホーズ建設の理論と実態 1917~

1921年」『農業総合研究』47(2), 1-47

115. ――・崔在東編著 (2012)『20 世紀ロシアの農民世界』日本経済評論社

116. ―― (2013)『旧ソ連中央アジア長期農業統計――1920 年代からの動向分析』一橋大学

経済研究所ロシア研究センターRRC Working Paper Series No. 38

117. ―― (2017) 「農村の近代化と生活水準の向上」『ロシア革命とソ連の世紀 第 3 巻・冷

戦と平和共存』岩波書店、pp.37-60.

118. ―― (2018)「処女地開拓の再検討ーロシア:1954~1963 年ー」『専修経済学論集』

53(3),1-20

119. 林道義(1971)『スターリニズムの歴史的根源』御茶の水書房

120. 原暉之(1989)『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』筑摩書房

121. ――(1993)『インディギルカ号の悲劇 1930 年代のロシア極東』筑摩書房

122. 日臺健雄(2017)「農業集団化――コルホーズ体制下の農民と市場」『ロシア革命とソ連

の世紀 第2巻・スターリニズムという文明』岩波書店、pp.65-90.

123. 日南田静眞(1966)『ロシア農政史研究:: 雇役制的農業構造の論理と実証』御茶ノ水書

124. 藤井一行 (1976)『社会主義と自由』青木書店

125. 平田清明(1969)『市民革命と社会主義』岩波書店

126. 福富正美(1972)「《個人的所有の再建》論争をどうみるか」京都大学『経済論叢』

109(3),314-331

127. 藤岡惇(2012)「大地・生産手段への高次回復と自由時間の拡大」村岡到編『歴史の教

訓と社会主義』ロゴス、pp. 256-280

128. 藤田整(1971)「ソヴエト経済における個人副業経営」大阪市立大学『経済学雑誌』

65(1),36-91

129. 藤本和貴夫(1987)『ソヴェト国家形成期の研究:1917-1921』ミネルヴァ書房

130. ウラジーミル・ブルダコーフ(2017)「赤い動乱――十月革命とは何だったか」松戸他編

『ロシア革命とソ連の世紀1 世界戦争から革命へ』pp.143-171

131. E・A・プレオブラジェンスキー著/救仁郷繁訳(1976)『新しい経済 : ソビエト経済

に関する理論的分析の試み』現代思潮社

132. 松井憲明 (1989)「ソ連農業史の再評価――チャヤーノフと集団化」『社会主義圏におけ

Page 104: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

101

る改革と変動I』(スラブ研究センター研究報告シリーズ N0.29)pp.30-40

133. ―― (1999)「旧ソ連のコルホーズと農家付属地」北海道大学『經濟学研究』48(3), 24-41

134. ―― (2006)「コルホーズ制度の変化の過程 1952-1956 年」奥田央編『20 世紀ロシア農

民史』社会評論社、pp.567-596

135. 松井康浩・中嶋毅編 (2017) 『スターリニズムという文明(ロシア革命とソ連の世紀

第 2 巻)』岩波書店

136. 松里公孝 (1988)「総力戦と体制崩壊――第一次世界大戦期の食糧事情を素材として」

『ロシア史研究』(46),26-64

137. ―― (2017)「総力戦社会再訪――第一次世界大戦とロシア帝政の崩壊」『ロシア革命と

ソ連の世紀(世界戦争から革命へ 第 3 巻』岩波書店、pp.87-112.

138. 松戸清裕 (2011) 『ソ連史』筑摩書房

139. ――[他]編(2017)『冷戦と平和共存』(ロシア革命とソ連の世紀 ; 3)

140. ――[他]編(2017)『人間と文化の革新』(ロシア革命とソ連の世紀 ; 4)

141. 的場徳三 (1980)『ソ連邦の都市と農村』御茶ノ水書房

142. 丸毛忍(1958)「コルホーズ農家とコルホーズ商業について――コルホーズ農業にお

ける私経済部分の検討」『農業総合研究』第 12巻第 2号、pp.167-202

143. 三石誠司(2014)「アメリカの穀物輸出制限」『フードシステム研究』20(4),372-385

144. 南滿洲鐵道株式會社庶務部調査課編(1925)『露國工業經濟に關する指導的意見』大連:

南滿洲鐵道株式會社庶務部調査課

145. 嶺野修(1999)「シンポジウム「市場経済と共生の原理」における解題と展望」国際学術

シンポジウムの記録編集委員会編『市場経済の警告』現代思潮社

146. 宮下柾次(1980)『社会主義と個人的所有』青木書店

147. 村岡到・下斗米伸夫・他編著(2017)『ロシア革命の再審と社会主義』ロゴス

148. アー・メドヴェージエフ、エム・シヴィント編/木村賢吉訳(1932)『史的唯物論』改訂

版、共生閣(編者のひとり、哲学者アレクサンドル・メドヴェージェフはメドヴェージェ

フ兄弟の父。スターリン大粛清で逮捕、極東マガダンの銅鉱山収容所で病死した)

149. ジョレス・メドヴェージェフ、奥村宏、佐々木洋(基調報告者)/国際学術シンポジ

ウムの記録編集委員会編(1999)『市場社会の警告』現代思潮社

150. ジョレス・メドヴェーヂェフ (1995)「日本語版への補章 1990-93 年のロシア農業改

革」 ジョレス・メドヴェーヂェフ著・佐々木洋訳『ソヴィエト農業』北海道大学図書刊行

会、pp.325-347

151. ロイ・メドヴェージェフ、佐々木洋/海野幸男訳 (2007)『スターリンと日本』現代思

潮新社

152. 森岡真史 (2012)『ボリス・ブルツクスの生涯と思想――民衆の自由主義を求めて』成

文社

153. 守田志郎 (1973)『小さい部落』朝日新聞社

Page 105: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

102

154. ―― (1975)『小農はなぜ強いか』農山漁村文化協会

155. 保田孝一 (1971)『ロシア革命とミール共同体』御茶ノ水書房

156. 山村理人 (1990)『現代ソ連の国家と農村』御茶ノ水書房

157. ―― (1997)『ロシアの土地改革:1989~1906 年』多賀出版

158. 吉田靖彦(1980)「ソ連農業における私的部門」『ソ連・東欧学会年報』(9),113-132

159. 横手慎二(2014)『スターリン』中央公論社

160. 米原万里(2006)『打ちのめされるようなすごい本』文芸春秋社

161. 涌井秀行 (2012)「20 世紀社会主義・ソ連崩壊の歴史的意味――冷戦構造の溶解と市場

原理主義の全面展開」明治学院大学『国際学研究』第 42 号、pp.1-19

162. 和田春樹(1973)「ロシア革命における農民革命」岡田与好編『近代革命の研究』東京大

学出版会、100-200 頁

163. ―― (1975)『マルクス・エンゲルスと革命ロシア』勁草書房

164. ―― (1978)『農民革命の世界:エセ―ニンとマフノ』東京大学出版会

165. ―― (1992)『歴史としての社会主義』岩波新書

166. ―― (2016)『スターリン批判 1953-56 年』作品社

167. 渡辺寛 (1963)『レーニンの農業理論』御茶ノ水書房

【欧語文献】

168. A Student of the USSR, (1952) “The Soviet Union’s ‘Achilles Heel’” in Monthly Review, 4(1)

12-20

169. Applebaum, Anne (2003), GULAG: A History, Allen Lane 川上洸訳(2006)『グラーグ:ソ

連集中収容所の歴史』白水社

170. Barnett, Vincent (1998), Kondratiev and the Dynamics of Economic Development] Long Cycles

and Industrial Growth in Historical Context, Macmillan 岡田光正訳(2002)『コンドラチェフと経

済発展の動学:コンドラチェフの生涯と経済思想』世界書院

171. Birstein, Vadim J. (2001), The Perversion of Knowledge: The True Story of Soviet Science,

Westview

172. Braudel, Fernand (1979-1992), Civilisation matérielle, économie et capitalisme, XVe -XVIIIe

siècle 邦訳(1985-1999)『物質文明・経済・資本主義 15-18 世紀.』みすず書房

173. Brown, Lester R. (1982), U.S. and Soviet Agriculture: The Shifting Balance of Power, World

Watch Paper 51, Worldwatch Institute

174. Brutsukus, Boris (1925), Agrarentwicklung und agrarrevolution in rußland, Verlag Hermann.

175. Carrère d'Encausse, Hélène (1981), Le pouvoir confisqué, gouvernants et gouvernés en URSS.,

Flammarion.カレール・ダンコース著/尾崎浩(1982)『奪われた権力 : ソ連における統治者

と被統治者』新評論

176. ―― (1998), Lénine, Fayard. 石崎晴己・東松秀雄訳.(2006)『レーニンとは何だったか』 藤

Page 106: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

103

原書店

177. Carr, E.H. (1950-1953), A History of Soviet Russia; The Bolshevik Revolution, MacMillan 原田

三郎・田中菊次・服部文男訳(1967-1971)『ボリシェヴィキ革命 1917-1923』第一巻、第二巻、

第三巻、みすず書房

178. ―― (1959), A History of Soviet Russia; Socialism in One Country 南塚信吾訳(1974)『一国社

会主義 1924-1926―政治―』みすず書房

179. ―― (1959b), A History of Soviet Russia; Socialism in One Country 南塚信吾訳(1977)『一国

社会主義 1924-1926―経済―』みすず書房

180. Clarke, Roger A., Matko, Dubravko J. (1983), Societ Econominc Facts 1917-81, Macmillan

181. Cohen, Stephen (1973), Bukharin and the Bolshevik Revolution : a political biography,

1888-1938, Norton 塩川伸明訳『ブハーリンとボリシェヴィキ革命: 政治的伝記 1988-1938 年』

未来社

182. ―― (1978), “Foreword,” in Khrushchev: the years in power, by Roy A. Medvedev & Zhores

A. Medvedev, Norton, pp. v-viii.

183. ―― (1985), Rethinking the Soviet experience: politics and history since 1917, Oxford

University Press

184. Conquest, Robert (1973), The great terror: Stalin's purge of the thirties, Macmillan,片山さと

し訳 (1976)『スターリンの恐怖政治(上・下)』三一書房

185. ―― (1986), The harvest of sorrow: Soviet collectivization and the terror-famine, Oxford

University Press. 白石治朗訳(2007)『悲しみの収穫 : ウクライナ大飢饉 : スターリンの農

業集団化と飢饉テロ』恵雅堂出版

186. Courtois, Stéphane; Werth, Nicolas, et al (1997), Le livre noir du communisme: crimes, terreur

et répression , Robert Laffont. ステファヌ・クルトワ, ニコラ・ヴェルト著/外川継男訳(2001)

『共産主義黒書 : 犯罪・テロル・抑圧――ソ連篇』恵雅堂出版

187. Davies, R.W. (ed), (1991) From Tsarism to the New Economic Policy; Continuity and Change

in the Economy of the USSR, Cornell University Press

188. Danilov, V.P. (1988), Rural Russia under the New Regime, Indiana University Press

189. Dilas, Milovan (1957), The New Class, Praeger;原子林二郎訳(1957)『新しい階級』時事通

信社

190. ―― (1962), Conversations with Stalin, Rupert Hart=Davis; 新庄哲夫訳(1968)『スターリン

との対話』雪華社

191. Fedotov, G.P. (1954) “The Russian,” The Russian Review, 13 (1).

192. Gaidar, Egor T. (1996) Days of Defeats and Victories, University of Washington Press, 中澤孝

之訳 (1998)『ロシアの選択』ジャパンタイムズ

193. Gerhards, Agnes (1986), La société médiévale , avec la collaboration de Marcel Mazoyer 池田

健二訳(1991)『ヨーロッパ中世社会史事典』藤原書店

Page 107: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

104

194. Gerster, George (1990) Amber waves of grain: America's farmlands from above, Harper Weldon

Owen in association with the American Farmland Trust

195. Getzler, Israel (1983), Kronstadt 1917-1921; The fate of Soviet democracy, Cambridge

University Press

196. Graham, Loren R. (1972), Science and philosophy in the Soviet Union, Knopf

197. Gregory, Paul R. & Stuart, Robert C. (1986), Soviet economic structure and performance,

Harper & Row 吉田靖彦訳 (1987)『ソ連経済:構造と展望』教育社

198. Hobsbawm, Eric (1994), Age of Extremes;: the Short Twentieth Century 1914-1991, Michael

Joseph 河合秀和訳(1996)『20 世紀の時代極端な時代』(上・下)三省堂

199. Jasny, Naum (1948) “The Plight on the Collective Farms” in Journal of Farm

Economics, .30(2),304-321.

200. ―― (1949), The Socialized Agriculture of the USSR, Stanford University Press

201. ―― (1950), “Soviet Statistics,” in The Review of Economics and Statistics, 32(1), 92-99.

202. ―― (1951a), “Kolkhozy, the Achilles’ Heel of the Soviet Regime” in Soviet Studies,

3( 2),150-163.

203. ―― (1951b), The Soviet Economy during the Plan Era , Stanford UP.

204. ―― (1953), “The New Economics Course on the USSR” in Problem of Communism, 3(1), 1-7.

205. ―― (1960), Soviet Industrialization 1928-1952, University of Chicago Press

206. ―― (1972), Soviet Economist of the Twenties. Names to be Remembered, Cambridge UP

207. Joravsky, David (1970), The Lysenko Affair, Harvard University Press

208. Kennan, George F. (1951), “America and the Russian Future” in Foreign Affairs, 29 (3),

351-370.

209. ――. (1952), American Diplomacy 1900-1950, Secker & Warburg 近藤晋一・飯田藤次訳

(1952) 『アメリカ外交 50 年』岩波書店

210. Khrushchev, N.S. (1971), Khrushchev Remember, Andre Deutsch タイムライフブックス編

集部訳(1972)『フルシチョフ回想録』タイムライフ・インターナショナル

211. Kondratiev, Nikolai D. (1998a), Economic statics, dynamics and conjuncture (The Pickering

masters; The works of Nikolai D. Kondratiev, vol. 1), Pickering & Chatto

212. ――. (1998b), Basic problems of economic statics and dynamics (The Pickering masters; The

works of Nikolai D. Kondratiev, vol. 2), Pickering & Chatto

213. ―― (1998c), Writings on agriculture (The Pickering masters; The works of Nikolai D.

Kondratiev, vol. 3), Pickering & Chatto

214. ―― (1998d), Further writings on agriculture, speeches, letters (The Pickering masters; The

works of Nikolai D. Kondratiev, vol. 4), Pickering & Chatto

215. Kornai, János (1980), Economics of shortage, North-Holland コルナイ著/盛田常夫編(1984)

『「不足」の政治経済学』岩波現代選書 Gold

Page 108: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

105

216. Lewin, M. (1968), Russian Peasants and Soviet Power, Allen & Unwin, 荒田洋訳(1972)『ロシ

ア農民とソヴェト権力』未来社

217. Lih, Lars T. et al. (ed) (1995), Stalin's letters to Molotov, 1925-1936, New Haven 岡田良之

助・萩原直共訳 (1996) 『スターリン極秘書簡: モロトフあて 1925 年-1936 年』大月書店

218. Maddison, Angus (1989), The world economy in the 20th century, OECD 政治経済研究所訳

(1990)『20 世紀の世界経済』東洋経済新報社

219. ―― (1995), Monitoring the World Economy 1820-1992, OECD 政治経済研究所訳(2000)『世

界経済の成長史 1820〜1992 年:199 カ国を対象とする分析と推計』東洋経済新報社

220. McCauley, Martin (1976), Khrushchev and the Development of the Soviet Agriculture,

MacMillan

221. Meadows, Donella H. et al (1972), The limits to Growth: a Report for the Club of Rome's

Project on the Predicament of Mankind, Universe Books 大来佐武郎監訳『成長の限界: ローマ・

クラブ「人類の危機」レポート』ダイヤモンド社

222. Medvedev, Roy (1971), Let History Judge 石堂清倫訳(1973-1974)『共産主義とは何か』三

一書房

223. Medvedev, Roy (1972), De la Démocratie socialiste, Grasset 石堂清倫訳(1974)『社会主義的

民主主義』三一書房

224. ――(1977), Problems in the literary biography of Mikhail Sholokhov, Cambridge University

Press

225. ―― (1979), The October Revolution, Colombia University Press 石井規衛訳(1989)『10 月革

命』未来社

226. ―― (1985), The October Revolution, 2nd

version, Colombia University Press. 英語版第二版

に初版とは異なる重要な序文 Author’s Preface to the 1985 Edition が収められている。

227. Medvedev, Zhores (1969), The Rise and Fall of T. D. Lysenko, Columbia University Press 金光

不二夫訳(1971)『ルイセンコ学説の興亡』河出書房新社

228. ―― (1970),The Medvedev Papers; the Plight of Soviet Science Today, 170)Macmillan 金光

不二夫訳(1972)『ソビエト科学と自由』タイムライフ・インターナショナル

229. ―― (1974), Ten Years after Ivan Denisovich 安井侑子訳(1974)『ソルジェニーツィンの闘

い : 『イワン・デニーソヴィチの一日』から十年』新潮社

230. ―― (1978), Soviet Science, Norton 熊井譲治訳(1980)『ソ連における科学と政治』みすず

書房

231. ―― (1979), Nuclear Disaster in the Urals, Norton 梅林宏道訳(1982)『ウラルの核惨事』技

術と人間

232. ―― (1983), Andropov, Norton 毎日新聞外信部訳(1983)『アンドロポフ』毎日新聞社

233. ―― (1986), Gorbachev, Norton 毎日新聞外信部訳(1987)『ゴルバチョフ:若き書記長は

ソ連を変えられるか』毎日新聞社

Page 109: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

106

234. ――(1987), Soviet Agriculture, Norton 佐々木洋訳(1995)『ソヴィエト農業 1917-1991:集

団化と農工複合の帰結』北海道大学図書刊行会

235. ―― (1990), The Legacy of Chernobyl, Norton, 吉本晋一郎訳(1992)『チェルノブイリの

遺産』みすず書房

236. Medvedev, Roy & Medvedev, Zhores (1976), Khrushchev; the Years in Power, Oxford

University Press 下斗米伸夫訳(1980)『フルシチョフ権力の時代』御茶ノ水書房

237. ―― (2003), Unknown Stalin, Tauris.久保英雄訳(2005)『知られざるスターリン』現代思潮

新社

238. Medvedev, Roy & Starikov, Sergei (1978), Philip Mironov and the Russian Civil War, Knopf

239. Nordlander, David J. (1989), "Origins of a Gulag Capital: Magadan and Stalinist Control in the

Early 1930s," Slavic Review, 57( 4), 791-812

240. Nove, Alec (1952), “The Kolkhoz: Some Comments on Dr. Schlesinger’s Article” in Soviet

Studies, 3(2), 163-172.

241. ―― (1953), “The Kolkhoz: a Rejoinder” in Soviet Studies, 3(4), 48-52.

242. ―― (1969), An Economic History of the USSR, Penguin Books 石井規衛・奥田央・村上範明

ほか訳(1982)『ソ連経済史』岩波書店

243. ―― (1975), Stalinism and after, Allen & Unwin 和田春樹・中井和夫訳(1983)『スターリン

からブレジネフまで : ソヴェト現代史』刀水書房」

244. ―― (1977), The Soviet Economic System, George Allen & Unwin 大野喜久之輔・家本博

一・吉井昌彦訳(1986)『ソ連の経済システム』晃洋書房

245. OECD (1981-1999), Foreign trade by commodities [Series C], Paris

246. Orlov, Alexander (1953), The secret history of Stalin's crimes, Random House

247. Plekhanov, Georgi (1974), Selected philosophical works, Progress Publishers.

248. Pringle, Peter (2008), The Murder of Nikolai Vavilov, Simon & Schuster

249. ―― & Spigelman, James (1981), The Nuclear Barons, Holt, Rinehart and Winston 浦田誠親

監訳(1982)『核の栄光と挫折:巨大科学の支配者たち』時事通信社

250. Rostow, W.W. (1981), The World Economy: History and Prospect, University of Texas Press 坂

本二郎他訳(1982)『大転換の時代:世界経済 21 世紀への展望(上・下)』ダイヤモンド社

251. Russell, Bertrand (1962), The practice and theory of Bolshevism, George Allen & Unwin 河合

秀和(1990)『ロシア共産主義』みすず書房

252. Salisbury, Harrison (1978), Black Night, White Snow: Russia's Revolutions 1905-1917 後藤洋

一訳(1983)『黒い夜、白い雪:ロシアの革命 1905-1917』時事通信社

253. ――. (1978), Russian in Revolution, 1900-1930, Andre Deutsch

254. Schlesinger, R. (1951), “Some Problems of Present Kolkhoz Organization” in Soviet Studies,

1950-1951, vol. II, pp.325-356.

255. Shepherd, G.S. (1947), Agricultural Price Policy, Iowa State University Press.

Page 110: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

107

256. Suhara, Manabu (2017), “Russian Agricultural Statistics”, in Hermes-IR, Hitotsubashi

University Repository, pp. 1-50.

257. Trager, James (1975), The Great Grain Robbery, Ballantine Books, 坂下昇訳「アメリカの「食

糧の傘」の内幕」東洋経済新報社

258. Trotsky, Leon (1967), History of the Russian Revolution (translated by Max Eastman), vol 3,

Sph5re Books) 山西英一訳『ロシア革命史(5)ソヴィエトの勝利(上)』角川文庫、44-45 頁。

259. Tucker, Robert C. (1970), The Marxian revolutionary idea, Norton

260. Voslensky, Michael (1984), Nomenklatura: the Soviet ruling class; preface by Milovan Djilas,

Bodley Head 佐久間穆訳(1988)『ノーメンクラツーラ : ソヴィエトの支配階級』

261. Westoby, J. C. (1989), Introduction to world forestry: peoples and their trees, Blackwell 熊崎実

訳(1990)『森と人間の歴史』築地書館

262. Zaslavskaya, Tatyana (1990), The Second Socialist Revolution; an Alternative Soviet Strategy,

I.B. Tauris

【露語文献】

263. Андреенков, С.Н. (2016), Колхозно-совхозная система в Сибири в 1946-1964 гг.:

функционирование и реформирование. Новосибирск: Сибпринт

264. Анфимов А.М. (1969), Крупное помещичье хозяйство европейской России : конец

XIX-начало XX века, Наука

265. ――(1980), Крестьянское хозяйство Европейской России, 1881-1904, Наука

266. Булдаков, В. (1997), "Имперство и российская революцинност," в Отечественная

история., №2, с.20-47.

267. Волкогонов Д.А. (1989), Триумф и трагедия : политический портрет И.В. Сталина, 2 v.

in 4, Новости ヴォルコゴーノフ著/生田真司訳(1992)『勝利と悲劇 : スターリンの政治的肖

像』上・下、朝日新聞社

268. Гайдар, Егор (1996), Дни поражений и побед, Вагриус ガイダル著/中沢孝之訳(1998)『ロ

シアの選択:市場経済導入の賭けに勝ったのは誰か』ジャパンタイムズ

269. Гусев К.В. (1963), Крах партии левых эсеров, Изд-во социалино-экономической лит-рыグ

ーセフ著/高岡健次郎訳(1978)『左翼エスエル党の崩壊』白馬書房

270. Данилов В.П. (1963), Очерки истории коллективизации сельского хозяйства в союзных

республиках, Гос. Изд-во полит. лит-ры.

271. ―― (1977), Советская доколхозная деревня: население, землепользование, хозяйство(ソ

ヴィエトのコルホーズ以前の農村;人口・土地利用・経営), Наука

272. ――(1979), Советская доколхозная деревня: социальная структура, социальные

отношения(ソヴィエトのコルホーズ以前の農村;社会構造・社会関係), Наука

273. ――. (1999), “Падение советского общества:коллапс, институциональный кризис

Page 111: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

108

илитермидорианский переворот?” в Кризис институциональных систем: Век, десятилетие,

год / под ред. Т.И. Заславской: «МВШСЭН», с. 11-28.

274. Дубровский С.М. (1963), Столыпинская земельная реформа : из истории сельского

хозяйства и крестьянства России в начале XX века, Академии наук СССР ドゥブロフスキー

著/有馬達郎訳(1971)『革命前ロシアの農業問題:ストルィピン土地改革の研究』東京大学出

版会

275. Емельянов, А.М.-ред.(1980), Комплексная программа развития сельского хозяйства в

действии, Экономика

276. Кабанов, В.В. (1988), Крестьянское хозяйство в условиях "военного коммунизма" Наука

277. Кондратьев Н. Д. (1923), Мировой хлебный рынок, в Экономическое обозрение, №11. с.

1-20.

278. ―― (1924), "К Вопросу о понятиях экономической статики, динамики и конъюнктуры",

Социалистическое хозяйство Кн. 2 中村丈夫編(1978)『コンドラチェフ景気波動諭』亜紀書

279. ―― (1989), Проблемы экономической динамики, ЭкономикаСоциалистическое хозяйство

Кн. 2

280. ―― (1991) Рынок хлебов и его регулирование во время войны и револ, Наука,[1922]

281. Кондрашин, В.В. (2008), Голод 1932-1933 годов : трагедия российской деревни,

РОССПЭН

282. ――(2009), Крестьянство России в Гражданской войне: к вопросу об истоках

сталинизма, РОССПЭН

283. Кривошеева,Г.Ф. (2001),Россия и СССР в войнах XX века: потери вооруженных сил:

статистическое исследование, "Олма-Пресс".

284. Крохалев, Ф.С. (1960), О системах земледелия : исторический очерк, Гос. изд-воm 的場徳

三訳(1965)『農耕方式について』刀江書院

285. Кузнецов, Н.Г. (1987), Курсом к победе, Воен. изд-во

286. Малафеев, А.Н. (1964), История ценообразования в СССР : 1917-1963 гг. Изд-во

"Мысль"

287. Медведев, Жорес (2011), Питание и долголетие『栄養と長寿』, Время

288. ―― (2019), Опасная профессия, Время

289. Медведев, Рой [под ред] (1972-1975), Политическии дневник(『政治日誌』), Амстердам :

Фонд им. Герцена.

290. Медведев, Рой (1979), Ещё раз о Сталине и Сталинизме (самиздат サムイズダート=地

下出版)石堂清倫訳(1980)『スターリンとスターリン主義』三一書房

291. ―― (1997), 1917: Русская революция : победа и поражение большевиков, Права человека

北川和美・横山陽子訳(1998)『1917 年のロシア革命』現代思潮社.

Page 112: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

109

292. ―― (1998), Капитализм в России?, Изд-во Права человека,加藤志津子・蓮見雄訳 (1999)

『ロシアは資本主義になれるか?』現代思潮社

293. ―― (2000), Загадка Путина, Права человека,海野幸雄訳(2000)『プーチンの謎』現代思

潮新社

294. ―― (2011), «Тихий Дон». Загадки и открытия великого романа, АИРО-XXI

295. Медведев, Жорес и Медведев, Рой (1971), Кто сумасшедший? , Macmillan 石堂清倫訳

(1977)『告発する!狂人は誰か:顛狂院の内と外から』三一書房

296. ―― (1975), Н.С.Хрущев. Годы у власти, Xerox University Microfilms (Sponsored for

publication as a significant work in progress by Colombia University Press=限定出版)、下斗米伸

夫訳(1980)『フルシチョフ権力の時代』御茶ノ水書房

297. ―― (2001), Неизвестный Сталин, Права Человека 久保英雄訳 (2005)『知られざるスタ

ーリン』現代思潮新社

298. ―― (2002), ИЗБРАННЫЕ ПРОИЗВЕДЕНИЯ, К СУДУ ИСТОРИИ - О Сталин и

сталинизме, Права Человека ジョレス・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集1、

ロイ・メドヴェージェフ著/名越陽子訳・佐々木洋解題(2017)『歴史の審判に向けて;スタ

ーリンとスターリン主義について』現代思潮新社

299. ――(2004a), ИЗБРАННЫЕ ПРОИЗВЕДЕНИЯ, АТОМИНАЯ КАТАСТРОФАНА УРАЛЕ,

Права Человека ジョレス・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集2、ジョレス・

メドヴェージェフ著/名越陽子訳・佐々木洋解題 (2017)『ウラルの核惨事』現代思潮新社

300. ―― (2004b), ИЗБРАННЫЕ ПРОИЗВЕДЕНИЯ, БИОЛОГИЧЕСКАЯ НАУКА И КУЛЬТ

ЛИЧНОСТИ - ВЗЛЕТ И ПАДЕНИЕ Т. Д. ЛЫСЕНКО, Права Человека ジョレス・メドヴェージ

ェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集3、ジョレス・メドヴェージェフ著/名越陽子訳・佐々

木洋解題 (2018) 『生物学と個人崇拝:ルイセンコの興亡』現代思潮新社

301. ―― (2004c), Солженицын и Сахаров: два пророка, Время 大月晶子訳・佐々木洋解題『ソ

ルジェニーツィンとサハロフ』現代思潮新社

302. ―― (2010), 1925-2010: ИЗ ВРСПОМИНАНИЙ, Права человека 天野尚樹訳・佐々木洋解

題『回想 1925-2010』現代思潮新社

303. ―― (2017), От Ленина к Путину, "2000".ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ共著論文

/佐々木洋訳・注釈(2017)「『10 月革命』はロシアの人々に幸福をもたらさなかった-「異

論派」兄弟が見たレーニンからプーチンまで」『週刊金曜日』1159 号、1161 号、1162 号、1163

号 、 2017 年 11 月 ~ 12 月 ) 。 露 文 テ ク ス ト は See

https://www.2000.ua/v-nomere/aspekty/istorija/ot-lenina-k-putinu.htm. (キエフ週刊誌「2000」電

子版)

304. Немчинов В.С.(1945), Сельскохозяйственная статистика с основами общей теории,

СЕЛЬХОЗГИЗ ネムチノフ著/野村良樹訳(1959)『統計学入門』東洋経済新報社

305. ―― (1967 上記再刊) Сельскохозяйственная статистика с основами общей теории [отв.

Page 113: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

110

редактор тома, Ф.Д. Лившиц ; редактор-составитель, М.Б. Немчинова] (Избранные

произведения / В.С. Немчинов ; т. 2)

306. Сасаки, Йо 佐々木洋 (2000), “Роль Государства в накоплении капитала в Японии

напримере регулирования морского транспорта, судостроения и металлургии” в Яоссия и

Япония: потенциал регионального сотрудничества, Хабаровск, с.58-70.

307. Спирин Л.М. (1968), Классы и партии в гражданской войне в России (1917-1920 гг.),

Мысль

308. Тургенев, И. С. (1961), Записки охотника, Гос. изд-во худож. лит-ры ツルゲネフ著/米川

正夫訳(1969)『猟人日記』、平凡社『ロシア・ソビエト文学全集』第三巻所収

309. Хлевнюк, Олег (2010), Сталин и утверждение cталинской диктатуры, РОССПЭН

310. Хрущев, Н.С. (1962-1964), Строительство коммунизма в СССР и развитие сельского

хозяйства, Госполитиздат.

311. Центральная Управление Народнохозяйственого Учета 中央国民経済計算局 (1932),

Социалистистическое Переустроиство сельского хозяйства СССР между XV и XVI съездами,

ЦУНХУ Госплана СССР

312. Шолохов, М. (1958), Поднятая целина, министерства просвещения РСФСР 米川正夫訳

(1965)『開かれた処女地』平凡社

313. ―― (1949), Тихий Дон : роман-- кн. 1-2 ; кн. 3-4. Гос. изд-во худож. лит-ры ,横田瑞穂訳

(1965)『静かなドン(上・中・下)』平凡社

314. Эрлихман, Вадим (2004), Потери народонаселения в ХХ веке: справочник, Русская

панорама. авочник, Русская панорама.

Page 114: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

111

別表

    ( Zhは、Zhoresジョレスの略、 Rは、Royロイの略、 ZhRは、共著をさす)

1925 グルジア(ジョージア)のチフリス(現トビリシ)で双子兄弟が誕生

1938 スターリン大粛清の頂点。父の、赤軍軍政大学・レニングラード大学兼任哲学講師アレクサンドルが逮捕

1941 禁固10年の父アレクサンドル、極東マガダン地方コリマの銅鉱山ラーゲリで強制労働のため負傷、死亡

1943 経 「人民の敵」の息子兄弟、17歳で「大祖国戦争」従軍。ジョレスは独ソ戦激戦地前線で負傷。傷痍軍人として退役

1950 ジョレス、チミリャーゼフ名称モスクワ農科大学農芸化学・土壌学部卒業。同年、学位(博士候補)を取得

1951 ロイ、レニングラード大学哲学・歴史学部卒業。のち、通信教育制の教育学大学で、学位(博士候補)取得

1953 歴 3月、スターリン死。9月、フルシチョフが党第一書記に

1956 フルシチョフが第20回党大会でスターリン批判。ロイ入党。ジョレスは「百害あって一利なし」と、入党せず

分子生物学専攻のジョレスが、放射性同位体研究のユネスコ・パリ会議出席。海外研究者との交流広がる

9月27日にチェルノブイリ級「ウラルの核惨事(核廃棄物の爆発事故)」。人工衛星=スプートニク成功の5日前

61-66 Zh 62年に初版『遺伝学・農業生物学論争史;生物学と個人崇拝』、64、66年に改訂。異論派や核物理学者に拡散

62-68 R 62年末から『歴史の審判に向けて』の執筆開始。半年ごとに改訂。異論派作家やサハロフらも注目

1962 ジョレス、チミリャーゼフ農科大学を退職、科学都市オブニンスクの放射線医学研究所に赴任

63- 第 ZhR 兄弟が、時の政権、フルシチョフ政権の農政に関する共同研究を進める。1976年に共著を刊行

64-70 R ジョレスの補佐で『政治日誌』という名の文書を毎月5部刊行。定期読者は約40名

1968 R Let History Judge 歴史の審判に向けて(旧邦訳名「共産主義とは何か」)の露文原稿完成

Zh The Rise and Fall of T.D. Lysenko 英語版出版(旧邦訳名は「ルイセンコ学説の興亡」)

ジョレス、オブニンスク放射線医学研究所を解雇される

I ジョレス、精神病院監禁。ソ連内外の科学者や作家の抗議で釈放。「朝日」や「毎日」など、日本でも報道

Zh The Medvedev papers: fruitful meetings between scientists of the world (邦訳名「ソビエト科学と自由」)

ZhR 最初の共著A Question of Madness (邦訳名「告発する!狂人は誰か 顚狂院の内と外から」)

KGBがロイ著Let History Judge の英語版刊行を知り、ロイ逮捕決定、ロイ宅家宅捜査、原稿没収し、ロイ召還

R Let History Judge 英語版(旧邦訳名「共産主義とは何か」)を米国で出版

   期 ロイは逃避行。KGBは著名人になったロイを逮捕できず。出版社はロイを解雇。以後18年間、失業者の身に

1972 R De lla demoncratie SOCIAISTE (邦訳名「社会主義的民主主義」)、パリで刊行

1973 ジョレスが英国出張中にソ連市民権を剥奪される。以後、ロンドンを拠点に執筆継続、米国など各国で講演

ZhR 二回目の共著Khrushchev : The Years i n Power (邦訳名「フルシチョフ権力の時代」)

Zh 英誌『New Scientist』に寄稿Two Decades of Dissidence。1957年の「ウラルの核惨事」の事実を暴露

1977 R Problems into the Literary Biography of Mikhail Sholokhov (ミハイル・ショーロフの文学歴問題)

第 Zh Soviet Science (邦訳名「ソ連における科学と政治」) 。全米各地での歴訪講演を編集した著作

R Philip Mironov and the Russian Civil War フィリップ・ミローノフとロシア内戦 (戦史家スタリコフと共著)

Zh Nuclear Disaster in the Urals (邦訳名「ウラルの核惨事」)

R The October Revolution (邦訳名「10月革命」)

R On Stalin and Stalinism (邦訳名「スターリンとスターリン主義」)

1980 ジョレス、ソ連軍のアフガン侵攻に対するカーター大統領の対ソ穀物禁輸を契機に、『ソヴィエト農業』の執筆開始

1982 Zh Andropov (邦訳名「アンドロポフ」)

チェルノブイリ核事故発生。

Zh Gorbachev (邦訳名「ゴルバチョフ」)。

Zh Soviet Arri cul ture (拙訳「ソヴィエト農業」1995年北海道大学図書刊行会から刊行)

ジョレスが、日本外務省の招へいで、来日。ゴルバチョフ情報が乏しい外務省当局者に東京でレクチャー

1988 ロイが、ソ連最高会議人民代議員のひとりに当選。サハロフ、シチェルバク、アラ・ヤロシンスカヤらも当選

R 増補改訂英語版Let History Judge (邦訳名「歴史の審判に向けて」)刊行。初版の多くの改訂ふくむ

期 ロイが復党。ソ連最高会議が1957年のウラルの核惨事の議会審議のために英国籍のジョレスを招へい

ゴルバチョフ政府がジョレスのソ連市民権を回復

Zh Legacy of Chernobyl (邦訳名「チェルノブイリの遺産」)

1991 ソ連邦崩壊。ソ連共産党解体

1997 R Russian Revolution in 1917 (邦訳名「1917年のロシア革命」)(in Rusian)

1998 R Capitalism in Russia? (邦訳名「ロシアは資本主義になれるか?」) (in Russian)

1999 Zh 基調報告「農業の掟と工業の原理:20世紀の教訓」『市場社会の警告』(国際シンポジウムの記録)

2000 第 R Putin's Enigna (邦訳名「プーチンの謎」)

2002 ZhR 兄弟共著Unknown Stalin (邦訳名「知られざるスターリン」)

02-04 ZhR 兄弟著作集全4巻Selected Works, I -IV (邦訳版が2016-2018年に刊行)

2004 ZhR 兄弟共著Solzhenitsyn and Sakharov: Two Prophets (in Russian邦訳名「ソルジェニーツィンとサハロフ」)

2010 ZhR 兄弟共著Memouirs 1925-2010 (in Russian)(邦訳名「回想 1925-2010」)

Zh 3・11福島事故をうけ、「キシュチュム、チェルノブイリ、そしてフクシマ」を『週刊金曜日』847号に寄稿

R "Quiet Don". Riddles and discoveries of a great novel .長編『静かなドン』の謎とその解明 (in Russian)

期 Zh Nutrition and Longevity 栄養と長寿 (in Russian)

2015 R Soviet Union; last years of the life ソ連;その最後の時代(in Rusian)

2017 ZhR From Lenin to Putin (in Russian)(異論派兄弟が見たレーニンからプーチンまで)「週刊金曜日」連載

2018 ジョレス急逝(満93歳)。 絶筆は「遺伝子組み換え食品」『栄養と長寿(ライフワーク)』改訂版の第15章)(露文)

2019 Zh Dangerous Occupation 危ない仕事(in Russian, 生誕90歳記念エッセー集全115章)が刊行

備考:本研究と直接関連のない著作は省略されている。 (in Russian)は欧文版の刊行がない著作を示す。

2011

1979

1986

1987

1989

1990

ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ兄弟の経歴と著作歴(I期・II期・III期) 2020年佐々木洋 作成        

1978

1957

1969

1970

1971

1976

著者

Page 115: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

112

付属統計等資料

第 1章関係

表1-1b フルシチョフ政権期の人口増と農業生産の増加(1953年=100)

人口 食糧

全体 都市 農村 穀物 馬鈴薯 野菜 食肉 牛乳

1953(スターリン死) 100 100 100 100 100 100 100 100

1963 119 143 101 130 99 132 176 167

1964(フルシチョフ失脚) 121 147 101 184 129 170 143 187

1963-64年平均 120 145 101 158 113 148 156 167

資料:ソ連国民経済統計. 出典:Zhores M edvedev (1987), p.199. 拙訳(1995)、156頁の表15

表1-1a フルシチョフ政権期(1953-64年)の穀類の作付、収穫、反収、輸出入

(単位:百万ヘクタール、百万トン)

作付面積 生産高 国家調達 平均反収 穀物輸入 穀物輸出

100万ha 100万トン 100万トン トン/ha 100万トン 100万トン

1913 104.6 86.0 n.a. 0.82 - -

1940 110.5 95.6 36.4 0.86 - -

1950 102.9 81.2 - 0.79 0.2 2.9

1951 - 78.7 33.6 - 0.2 4.1

1952 - 92.2 34.7 - 0.2 4.5

1953 106.7 82.5 31.1 0.77 0.1 3.1

1954 108.4 85.6 34.6 0.82 0.2 3.9

1955 126.4 103.7 36.9 0.84 0.3 3.7

1956 128.3 125.0 54.1 1.11 0.5 3.2

1957 124.6 102.6 35.4 0.82 0.2 7.4

1958 121.4 134.7 56.6 1.11 0.8 5.1

1959 119.7 119.5 46.6 1.00 0.3 7.0

1960 115.5 125.5 46.7 1.09 0.2 6.8

1961 128.2 130.8 52.1 1.02 0.7 7.5

1962 128.7 140.2 56.6 1.09 0.0 7.8

1963 130.0 107.5 44.8 0.83 3.1 6.3

1964 133.8 152.1 68.3 1.14 7.3 3.5

1965 128.0 121.1 36.3 0.95 6.4 4.2

1966 124.8 171.2 75.0 1.37 7.7 3.6

1967 122.2 147.9 57.2 1.21 2.2 6.3

備考:1953年3月にスターリンが死去。1964年10月にフルシチョフが失脚。

   1940年は豊作年

資料:ソ連国民経済統計年鑑、ソ連農業統計年鑑、ソ連貿易統計年鑑.

出典: Zhores M edvedev (1987)p.198. 中山(1981)p.244-245, 重光(1979)巻末付表.

Page 116: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

113

表1-2a フルシチョフ政権期のコルホーズ農民への譲歩:国家調達価格の引上げ 

生産物 1950-52 1954-58 1962-63 1964 1966-69 1971-75 1976-77

穀物 8.8 62 83 86 104 101 102

馬鈴薯 5.3 41 49 67 66 75 77

ひまわり種子 19.2 148 181 175 206 195 176

甜菜 10.5 22.5 24.3 27 26 30 32

綿花(原料) 319 340 341 391 453 566 609

牛(生体) 50 589 764 805 1244 1612 1712

牛乳 28 113 122 121 151 199 232

備考:原表の係数を1960年の通貨デノミネーションで調整済み

参照:Хрущев (1964) c.467., Zhores M edvedev (1987) p.166., 中山(1976)pp, 84, 108, 151.

出典:Емельянов(1980)c.159..の第15表。

表1-2b 弱小な集団農場=コルホーズの合併と赤字コルホーズの国営農場=ソフホーズ化

1940 1950 1953 1956 1960 1965 1970 1980 1984

コルホーズ農場実数 235.5 121.4 91.2 83.0 44.0 36.9 33.0 25.9 26.2

その成員(百万人) 28.5 26.9 24.4 22.3 18.6 17.0 13.5 12.6

ソフホーズ農場実数 4.2 5.0 4.9 5.1 7.4 11.7 15.0 21.1 22.5

その労働者(百万人) 1.8 2.4 2.6 6.8 8.2 10.0 12.0 11.9

備考:集団農場が1960年に5,068件破産。61年2,906件、65年1,865件、69年1,192件。1970年以降は年間300-400件に減少。

資料:ソ連国民経済統計

出典:Zhores M edvedev (1987) p.319., 拙訳、pp.246-247

表1-3 フルシチョフによる処女地開発の「奇跡」の概要 (単位:面積は百万ヘクタール。生産量と調達量は百万トン)

1949 1954 1959 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964

-53年 -58年 -63年   フルシチョフ政権前半   フルシチョフ政権後半

播種面積計 a 187 208 157 166 186 195 194 196 196 203 205 216 219 213

旧開地州 113 121 109 111 114 115 113 114 116 119 121 125 125 124

処女地州 b 74 87 49 55 72 80 80 81 81 84 84 91 93 89

b/a % 39 42 31 33 39 41 42 42 41 42 41 42 43 42

穀物生産量計 c 81 122 125 82 86 104 125 103 194 120 125 131 140 107 152

旧開地州 58 77 73 55 48 76 61 64 135 65 67 80 84 70 86

処女地州 d 23 45 52 27 38 28 63 38 59 55 59 51 56 38 66

d/c % 28 37 41 33 44 27 51 37 30 46 47 39 40 35 44

国家調達量計 e 33 44 49 31 35 37 54 35 57 47 47 52 57 45 68

旧開地州 23 20 25 20 17 26 17 18 24 19 18 28 30 29 31

処女地州 f 10 23 25 11 18 11 37 17 33 28 29 24 27 16 38

f/e % 30 53 50 35 52 31 68 48 58 60 62 46 48 36 55

備考:本表の処女地州はロシア共和国のヴォルガ、ウラル、東西シベリア、極東の各地方とカザフスタン共和国を含めている。

豊凶の差異の大きさに注目されたい。1955年、1957年、1963年は不作年。資料:ソ連国民経済統計年鑑

出典:M cC auley, M artin (1976), pp. 87, 88, 99. マーチン・マコーリー『フルシチョフとソヴィエト農業の発展』

Page 117: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

114

表1-4 穀作以外の農業諸部門の私的副業菜園への依存状況

畜産・馬鈴薯・野菜等の私的副業菜園の全国生産比(%)

1950 1953 1956 1960 1965 1970 1975 1980 1985

穀類 7 2 2 2 2 1 1 1 1

馬鈴薯 73 72 67 63 63 65 59 64 60

野菜 44 48 42 44 41 38 34 33 29

食肉 67 52 55 41 40 35 31 31 28

牛乳 75 67 57 47 39 38 31 30 29

鶏卵 89 86 87 80 67 53 39 32 28

羊毛 21 21 21 21 20 19 20 22 26

備考:カフカース地方の玉蜀黍栽培のほか、私的副業菜園での穀類生産は存在せず。

資料:ソ連国民経済統計年鑑

出典:Zhores M edvedev(1987)p.366, 中山(1976), p.182, 吉田(1980),p.119

表1-5a 可耕地の帰属割合(100万ha)

    集団経営の可耕地と私的菜園向け貸与地の比重(%)

1965 1975 1985

コルホーズ= 集団農場 228.6 189.0 173.9

同成員とその他村民の私的小菜園向け貸与地 5.0 4.4 4.2

ソフホーズ=国営農場 311.6 356.2 378.7

同労働者と都市世帯の私的小菜園向け貸与地 2.6 3.6 3.9

資料:ソ連国民経済統計年鑑

出典:Zhores M edvedev(1987)p.364,拙訳279頁。

表1-5b 社会主義部門と私的副業の生産額比較

(1973年価格換算/百分比)

コルホーズ 個人農戸

ソフホーズ の

農場間企業体 副業

1960 64.4 35.6

1965 67.5 32.5

1970 70.3 29.7

1975 71.7 28.3

1979 73.5 26.5

1982 71.2 28.8

備考:比較規準は1973年の国家買付価格。実際には品質の良さ、多様性

 より高く売れる市場での販売等の理由から、私的部門の生産高は表示金額よりも

 大きい。また公式統計はイチゴや花卉など一部の農産物を除外し、伝統的

 農産物のみを表示している。

資料:ソ連国民経済統計。Shem lev (1983)

出典:Zhores M edvedev(1987)p.370,拙訳283頁。

Page 118: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

115

表1-6 主要国の実質GDP推計値の歴史的動向

1820 1870 1900 1913 1919 1929 1939 1944 1947 1955 1970 1978 1990 2000 2006

 国民一人当たり実質GDP(1990年基準Geary-Khamis $)日本 669 737 1,180 1,387 1,827 2,026 2,816 2,659 1,541 2,771 9,714 12,585 18,789 20,738 22,462

米国 1,257 2,445 4,091 5,301 5,680 6,899 6,561 12,333 8,886 10,897 15,030 18,373 23,201 28,467 31,049

英国 1,706 3,190 4,492 4,921 4,870 5,503 6,262 7,405 6,604 7,868 10,767 12,828 16,430 20,353 23,013

独国 1,077 1,839 2,985 3,648 2,586 4,051 5,406 6,084 2,436 5,797 10,839 13,455 15,929 18,944 19,993

旧ソ連・ロシア 688 943 1,237 1,488 n.a . 1,386 2,237 n.a. 2,126 3,313 5,575 6,559 7,779 5,277 7,831

中国 600 530 545 552 n.a. 562 n.a. n.a. n.a. 577 778 978 1,871 3,421 6,048

インド 533 533 599 673 690 728 674 683 618 676 868 966 1,309 1,892 2,598

備考: ゲアリー=ケイミス・ドル(Geary-Khamis $)とは各国通貨を購買力平価で共通のドルに換算したもの。 

     旧ソ連・ロシア欄の1913年までは帝政ロシアの、1990年以降は現ロシア連邦の係数。

資料:Angus Maddison(1995)., .Angus Maddison(2001)

Angus Maddison, Historical Statistics for the World Wconomy: www.ggdc.net/maddison/Historical_Statistics/horizontal_file03-2007exls.

表1-7 資本主義圏の新産金量と旧ソ連圏(旧ソ連)の金売却量(年平均ベース/単位はトン)

総供給 金相場

年平均 南ア 米国 加国 壕国 計 (a) (a+ b) 売却(b) 新産金 U S$/oz

1951-1955 393 59 136 32 775 815 40 147 35

1956-1960 572 54 140 34 952 1,144 192 167 35

1961-1965 843 48 125 30 1,194 1,542 348 230 35

1966-1970 970 52 87 21 1,261 1,266 5 297 37.13

1971-1975 843 39 60 19 1,093 1,278 186 307 103.32

1976-1980 700 31 53 18 964 1,267 302 250 276.06

1981-1985 671 60 74 35 1,110 1,308 198 267 423.93

1986-1990 616 207 137 158 1,534 1,858 324 277 403.24

1991-1994 605 321 159 246 1,866 2,020 154 244 366.85

備考:ソ連の係数は推計値。1974年以降の売却bは共産圏計。95年以降は表示法の変更で省略。

金相場はロンドン金自由市場値。ozは貴金属計量単位トロイオンスtroy ounce=金衡オンスの略(31.103g)

資料:ゴールド・フィールズ・ミネラル・サービシズ社G old Fields M ineral Services Ltd(1978-1995)

出典:佐々木洋(2000)101頁の表3-1

非社会主義圏全体の新産金量の内訳 旧ソ連

Page 119: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

116

第2章第 1 節関係図表

表2-1a 帝政ロシア軍の動員兵力数

(単位:千人)

内訳

1,370

1914 6,485

1915 11,695

1916 14,440

1917 15,070

備考:戦時動員兵員数には常備定数を含む。

資料:Н.Д.Кондратьев, Рынок Хлеб и его регулирование во время войны и революции, "Наука", 1991. с. 158

同書は1922年に農業人民委員部出版局が刊行した原著の改訂版。表示ページが同原著と異なるため留意されたい。

   V.B arnett et al(ed.), The W orks of N ikolai D . K ondratiev, Vol. 4, P ickering & C hatto, p.103.

   上記バーネット他編『コンドラーチェフ著作集(英語版)』第4巻が『穀物市場』の主要部分の要約を収めている。

出典:Рынок Хлеб. с. 158., The W orks., p.103.

出典:Кондратьев (1991再版年) с.158., K ondratiev (1998d)p.103.

戦時動員

された

兵員数

(年末)

区分

平時の常備編制定員

表2-1b 兵士たちこそ「革命の牽引車」(ロイ著)

軍が巨大な社会集団を形成(V・ブルダコーフ)

年度 区分 内訳

 前線にいるロシア軍将兵の合計 9,620

1917年  前線隣接地帯の後方従事者 2,715

 後方軍管区の制服組の予備部隊 1,500

1818年に大部分が祖国に帰還するロシア兵捕虜 3,000

16,835

備考:1914年当時の帝政ロシア人口は1.7億人。

   大戦への参戦が、ロシア農民を組織し、武装させた。

   帝政ロシア陸軍の兵士は80%は農民出身だった。

   後方従事者には建設労働者や赤十字の職員を含む。

出典: Медведев, Рой (1997) с.14-15,, 邦訳(1998)27-28頁。

   Булдаков, В. (1997) с.20.

総計(単位は千人)

Page 120: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

117

Page 121: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

118

表2-2 第1次大戦下のロシア主要穀物市況:価格変動・為替相場・備蓄変動

四穀物 ライ麦 小麦

1 2 3 4 5 6

1914年7月 108 84 107 2,321.1 - 29.2 6.1 15.8

8月 108 87 93 2,557.6 - 27.0 6.3 15.2

9月 109 91 102 2,697.5 80.4 36.3 5.3 21.4

10月 108 88 107 2,791.0 84.3 42.3 6.0 23.9

11月 111 93 117 2,846.0 80.6 54.3 7.7 30.7

12月 120 106 125 2,946.6 80.6 48.7 6.4 25.8

1915年1月 137 120 144 3,059.1 82.6 49.5 6.0 22.5

2月 144 121 158 3,151.5 83.3 41.6 4.8 17,3

3月 149 121 152 3,312.7 92.9 30.7 4.6 13.7

4月 156 132 158 3,361.8 81.4 28.2 3.4 10.5

5月 161 139 159 3,477.3 76.9 27.1 2.8 14.2

6月 157 126 154 3,755.6 74.3 36.7 6.8 17.9

7月 137 110 126 3,962.5 66.1 44.3 5.5 20.4

8月 140 110 121 4,210.8 70.0 30.4 4.3 14.9

9月 145 103 120 4,898.2 68.6 49.8 3.6 21.2

10月 152 108 128 5,040.5 66.8 58.1 3.8 27.8

11月 163 127 146 5,201.3 64.6 65.2 5.6 36.5

12月 174 129 158 5,616.8 61.2 47.2 4.4 28.8

1916年1月 177 124 163 5,709.5 58.9 42.0 3.4 26.2

2月 179 120 168 5,899.1 62.7 36.5 3.2 21.9

3月 183 151 169 6,078.3 62.1 29.0 2.6 16.4

4月 187 152 179 6,213.0 61.3 21.7 2.1 12.1

5月 187 152 168 6,379.5 60.7 19.3 1.9 10.4

6月 189 155 165 6,628.3 60.9 29.2 3.2 9.2

7月 (197) (151) 172 6,876.2 60.4 28.6 3.8 19.1

8月 205 145 187 7,122.3 62.9 21.6 4.1 14.4

9月 227 167 230 7,587.1 63.1 19.1 3.7 12.2

10月 n.a. (173) n.a. 8,083.4 60.6 15.5 2.7 9.5

11月 n.a. 180 n.a. 8,383.5 59.4 15.0 2.0 8.6

注:主要穀物の価格は1913-14年の平均を100としたものからの割合である。

出典:Кондратьев (1991) c.150. , 松里公孝(1988)p.30.も参照。

備考:別掲の図1のグラフを見よ。1~6の番号ごとの折れ線グラフを表示している。

年月

(単位:%、1プード当たりコペイカ、百万ルーブリ、百万プード)

主要四穀物お

よび小麦粉・

ライ麦粉の

価格

ライ麦価格

(イエレツ, 120Ф)

小麦

価格

(キエフ,130-133)

紙幣

発行

残高

ルーブリ

相場

把握備蓄量

Page 122: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

119

表2-3abc 戦時における政府の食糧調達任務表2-3a 住民向け調達任務の年次別推移

調達年次

1916-1917 420,000 100 320,000 100 40,000 100 60,000 100

1917-1918 400,000 95 300,000 94 25,000 63 75,000 125

1918-1919 195,000 46 150,000 47 2,429 6.1 42,828 71.4

注:副次穀類には玉蜀黍や各種豆類、ひきわり麦などを含む。

出典:Кондратьев (1991) c.163.の表2。

調達任務総量 主要穀物 副次穀類 糧秣(まぐさ)

(単位:千プードпуд,пуд=16.38kg)

表2-3b 軍向け調達任務の年次別推移(b)

調達年次

1914-1915 231,490 100 63,286 100 10,890 100 157,314 100

1915-1916 343,156 148 92,510 146 13,646 125 237,000 151

1916-1917 686,000 296 246,000 389 48,000 441 392,000 249

1917-1918 720,000 311 275,000 435 32,000 294 413,000 263

1918-1919 64,833 28.0 18,977 30.0 3,943 36.2 41,913 26.6

出典:K ondratiev (1998d)p.105.

注:下記係数から上記係数を差し引きした係数。

(単位:千プードпуд,пуд=16.38kg、%)

調達任務総量 主要穀物 副次穀類 糧秣(まぐさ)

表2-3c 軍・民向け調達任務総体の年次別推移( c )

調達年次 割合

1914-1915 231,490 100 63,286 100 10,890 100 157,314 100 100

1915-1916 343,156 148 92,510 146 13,646 125 237,000 151 100

1916-1917 1,106,000 478 566,000 894 88,000 808 452,000 287 62.0

1917-1918 1,120,000 484 575,000 909 57,000 523 488,000 310 64.3

1918-1919 260,100 112 168,987 267 6,372 58.5 84,741 53.9 24.9

注:割合は軍・民向け調達任務総体に占める軍向け比率である。

出典:Кондратьев (1991) c.163.の表3。

調達任務総量 主要穀物 副次穀類 糧秣(まぐさ)

(単位:千プードпуд,пуд=16.38kg、%)

Page 123: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

120

表2-4a 穀物生産県の市場向け穀物と政府の供出割当指示

穀物生産県市場向け

穀物

供出割当

指示

市場向け

穀物

供出割当

指示

ポルタワ県 10,580 24,435 20,785 13,463

ドン・コサック州 10,113 18,080 65,751 16,605

サラトフ県 13,404 26,807 29,502 3,779

出典:Кондратьев (1991) c.203., K ondratiev (1998d)p.145.

ライ麦 小麦

(単位:千プード)

表2-4b 穀物生産30県の市場向け穀物と政府の供出割当指示

  生産県ごとの供出指示の違い 供出指示量実際供出の

過不足

指示量が1千万ブードまでの9県 337.0 -76.9

1千万~2千5百万プードの6県 114.9 + 24.4

2千5百万~4千万プートの9県 273.6 + 194.6

指示量が4千万プード以上の6県 321.0 + 317.2

出典:Кондратьев (1991) c.203., K ondratiev (1998d)p.145.

(単位:百万プード)

表2-5a 農村に提供すべき工業製品の不足(1918年)

工業品 供給資材 最小需要 不足量 不足率

鉄製金属 25.0 210.0 185.0 88.1

衣服 1,450.0 2,835.0 1,385.0 48.9

皮革 9.0 12.0 3.0 25.0

砂糖 5.3 64.8 59.5 91.8

茶 0.6 2.0 1.4 69.5

マッチ 590.0 2,820.0 2,230.0 79.1

注:アルシンは長さの単位。1アルシンは71cm 。

出典:Кондратьев (1991) c.225., K ondratiev (1998d)p.163.

(単位:百万プード、百万アルシン、千箱、%)

表2-5b 農村が政府から受領する農業機械と交換に提供した穀物量

1916-17年1918年

1月1日ー8月15日

乾草刈り機 24,300 2,777

馬曳きレーキ(乾草搔き集め機) 16,800 6,126

とうみ(穀物を風選する農具) 約20,000 1,440

プラウ=犂 約246,000 27,269

包装用細引きひも 約900,000 22,480

出典:Кондратьев (1991) c.226., K ondratiev (1998d)p.164.

注1)原書者の説明が誤解を招くので補正を加えてある。

注2)農村民が政府から受領した農用具と交換に提供した穀物量

農用具・農業機械の種類

農用具と交換した穀物量

(単位:プード)

Page 124: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

121

表2-6 戦時下と革命期の穀物調達政策の変化と穀物調達の実際

時期 年月 穀物調達量当月任務

達成率時期 年月 穀物調達量

当月任務

達成率時期 年月 穀物調達量

当月任務

達成率

1914年8月 20,431 85.2 5月 54,713 201.5 2月 2,510 (3.8)

9月 29,938 97.6 6月 34,519 200.7 Ⅷ 3月 2,881 (4.1)

10月 20,313 68.8 1916年8月 6,407 5.6 4月 2,338 (2.9)

11月 11,275 53.2 Ⅴ 9月 19,444 13.2 5月 220 (0.2)

12月 5,850 23.4 10月 48,955 34.6 6月 91 (0.1)

1915年1月 8,347 53.9 11月 39,000 38.4 7月 430 (0.8)

1915年2月 37,637 270.9 1916年12月 63,000 52.7 1918年8月 1,599 5.9

3月 51,773 353.0 Ⅵ 1917年1月 57,000 77.0 9月 7,674 22.3

Ⅱ 4月 53,590 328.9 2月 41,000 61.5 10月 23,273 69.9

5月 36,682 201.0 1917年3月 69,000 98.2 11月 14,875 62.2

6月 22,307 192.6 4月 30,000 38.3 12月 14,933 53.2

1915年8月 37,837 106.4 5月 77,000 87.8 IX 1919年1月 13,112 75.2

9月 38,199 83.9 Ⅶ 6月 62,000 111.6 2月 7,676 49.2

10月 32,831 74.8 7月 28,000 56.7 3月 12,580 81.6

11月 22,205 124.6 8月 19,759 16.9 4月 4,291 28.2

1915年12月 28,328 76.3 9月 46,730 31.3 5月 1,386 6.7

1916年1月 55,792 243.1 10月 27,381 19.0 6月 2,292 17.6

2月 67,078 324.5 1917年11月 39,125 37.5 7月 5,529 47.2

Ⅳ 3月 62,790 287.9 12月 8,329 6.9

4月 35,741 147.6 1918年1月 2,801 (3.7)

IX期:恐るべき内戦と階級闘争激化の時期であり、穀物調達に広範に強制手段が行使された。

   ただし当月目標量は、年間目標量に季節要因を加味し、調整を施した係数である。

参照:松里公孝(1988)pp.29, 31.も参照。

出典:Кондратьев (1991) c.229-232., K ondratiev (1998d)p.169.

(単位:1,000プード、%)

注1)本表のI ~ IXの9期に及ぶ時期区分は、帝政・臨時政府・ボリシェヴィキ政府の時代において、食糧調達政策の性格が変化した

   ことに伴なう時期区分である。

注2)Ⅰ期:自由市場における穀物調達。II 期:穀物輸出禁止。価格統制の恐れが生じた時期。III期:再び自由市場による穀物調達。

   IV期:公定価格の設定で二重価格制になった時期。V期:全般的公定価格制下の調達。

   VI期:駅渡し価格から納屋渡し価格への転換。食糧割当徴発制の優遇条件の確立期。

   VII期:2月革命後の臨時政府による「穀物専売制」公布にもとづく調達期。

   VIII期:旧食糧機関と政府機構全体の解体および内乱の始まりによる混乱期。ただし、この期に軍は食糧調達から撤退。

   食糧調達は専ら国内穀物消費圏向けに変わった。

III

Page 125: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

122

表2-7 調達穀物の輸送事情 

計画量 積載量 実現比 計画量 積載量 実現比

1月 27,083 5,469 20.2 22,700 1,864 8.2

2月 28,534 8,458 29.6

3月 18,601 7,696 41.4

4月 17,996 4,444 24.7 28,967 1,524 5.3

5月 16,152 9,188 56.9 19,780 1,622 8.2

6月 18,562 6,370 34.3 18,127 786 4.3

7月 19,740 4,401 22.3 17,370 973 5.6

8月 15,290 4,845 31.7 17,770 297 1.7

9月 15,070 5,216 34.6 4,667 795 17.0

10月 17,630 7,180 40.7 6,217 1,968 31.7

11月 19,088 5,478 28.7 3,459 867 25.1

12月 16,680 1,462 8.8 4,552 4,375 96.1

備考:1918年9月以降の積載量減と実現比増は、調達の改善というより

   調達目標の変化、すなわち軍向けがなくなったことによるもの。

出典:Кондратьев (1991) c.288-289., K ondratiev (1998d)p.228.

(単位:千プード、%)

30,320 3,345 11.0

1917年 1918年

表2-8a 政府食糧機関従業員の闇市場=担ぎ屋依存

項目 対象者 割合

非合法の闇市場で穀物を 労働者 85

購入したことのある 非労働者 77

勤務員の占める割合 全体 80

出典:Кондратьев (1991) c.307

(単位:%)

注1)下記出典本文のデータをもとに佐々木が作成注2)全ロシア食糧供給機関勤務員のアンケート

   調査結果より(モスクワ、1918年1月~5月)

表2-8b 代表的な穀物消費県における闇商人=担ぎ屋のシェア(コンドラーチェフの概算)

闇市場の大きさ

a/b a/(a+b)

627村落 187.50 93.74 9.9 928.0 %

全県(推計) 623.75 309.63 9.9 3,065.4 (a) 265.2 72.6

1,156.0 (b) 100.0 27.4

注1)下記出典本文のデータをもとに佐々木が作成

資料:原資料は、ロシツキーЛосицкий, А.Е.らのアンケート調査

出典:Кондратьев (1991) c.308-309.

(単位:千人、プード、千プード)

注2)カルーガ県(モスクワ南西約200㌔の穀物消費県)のアンケート調査結果

  (1917年8月1日~1918年1月1日)

担ぎ屋の半数が一人9.9プード運ぶ担ぎ屋 搬入総量

カルーガ県食糧機関が確保した穀物供給量

Page 126: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

123

表2-8c 食糧人民委員部の調達規模をしのぐ闇市場=担ぎ屋

食糧人民 闇市場 食糧人民 闇市場

委員部 (担ぎ屋) 委員部 (担ぎ屋)

穀物生産県(12県)

都市住民 - - 22.3 25.9

農村住民 75.3 78.2 -

75.3 78.2 22.3 25.9

穀物消費圏(14県)

都市住民 - - 18.1 30

農村住民 2.5 - 14.0 26.3

2.5 - 32.1 56.3

77.8 78.2 54.4 82.2

26県のシェア(%) 49.9 50.1 39.8 60.2

備考:行政区の県=グベリヤгуберияは1929年まで存続。

   県=グベリヤは、現在の州と地方に相当する。

 「担ぎ屋」「闇商人」の存在なしに住民は生きのびることができなかった。

  コンドラーチェフは、本表を、戦時共産主事下で禁止された「自由商業」が、

 1918-1919年に非合法に実在した史実であると示唆している。

出典:Кондратьев (1991) c.309の第22表。K ondratiev (1998d)p.250.

合計

(1918-1919年農業年度/単位は百万プード)

県と 穀物の供出先 穀物の獲得先

住民の

合計

総計(26県)

区分

(1918-1919年農業年度/単位は百万プード)

表2-8d レーニンが引用する1917-1918年穀物年度のロシア26県の穀物市場動向

(単位:百万人、百万プード、プード)

食糧人民

委員部担ぎ屋

住民の穀物

消費総量

一人当たり

穀物消費量

都市 4.4 ‐ 20.9 20.6 41.5 9.5

農村 28.6 625.4 ‐ ‐ 481.8 16.9

都市 5.9 ‐ 20.0 20.0 40.0 6.8

農村 13.8 114.0 12.1 27.8 151.4 11.0

計(26県) 52.7 53.0 68.4 714.7 13.6

注2)生産量は種子と飼料をのぞく。

資料:中央統計局のデータ。

出典:レーニン(30/98)

穀物の生産・供給・消費

区分 人口生産量

注1)レーニンは、労働者が国家に支払う穀物公定価格は、担ぎ屋に払う闇市場の投機価格

   よりも、9分の1も安いと、政府の正当性を主張している。

消費県

生産県

供給量 消費量

Page 127: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

124

Page 128: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

125

表2-9a 穀物自由価格の上昇傾向

公定価格1914年の

自由価格対比公定価格

1914年の

自由価格対比公定価格

1914年の

自由価格対比公定価格

1914年の

自由価格対比

1914/1915年 93 100.0 80 100.0 81 100.0 75 100.0

1915/1916年 117 125.8 104 138.0 109 134.6 99 132.0

1916/1917年 223 239.8 167 208.8 189 233.3 170 226.7

1917/1918年 1,093 1,174.6 848 1060.0 858 1,059.3 827 1,101.3

備考:データは黒土地帯全県の平均値。

出典:Кондратьев (1991) c.265の第10表。K ondratiev (1998d)pp.203-204..

(単位:プード当たりコペイカ)

農業年度

春小麦 ライ麦 オート麦 大麦

表2-9b 穀物公定価格の改訂と自由価格との乖離傾向

区分

農業年度内の公定価

格改定時期

改定時の

公定価格

1914年秋の

自由価格対比

改定時の

公定価格

1914年秋の

自由価格対比

改定時の

公定価格

1914年秋の

自由価格対比

改定時の

公定価格

1914年秋の

自由価格対比

1914/1915年 2月 129.2 139.0 113.6 142.0 113.3 140.0 86.8 116.0

1915/1916年秋-冬 158.0 170.0 119.8 150.0 110.9 137.0 140.7 139.0

1916/1917年 9月 190.9 205.0 149.8 187.0 159.7 197.0 131.1 175.0

1916/1917年 2月 315.9 339.0 248.7 302.0 243.0 300.0 209.7 279.0

1917/1918年 8月 642.4 691.0 485.7 607.0 486.0 600.0 419.0 559.0

1918/1919年 8月 2004.8 2,153.0 1483.0 1,855.0 1488.8 1,834.0 1394.1 1,860.0

備考:データは黒土地帯全県の平均値。

出典:Кондратьев (1991) c.265の第9表。K ondratiev (1998d)pp.202-203.

小麦 ライ麦 オート麦 大麦

(単位:プード当たりコペイカ)

表2-10a 小麦の反収の欧州各国比較

区分 反収

英国 2.07

独国 1.21

仏国 1.29

露国 0.62

出典:K ondratiev (1998d), p.47.

(単位:トン/ha)

注:原著値の重量と面積の単位を

  メートル法に換算、表示した。

表2-10b ロシア欧露部国民の必需品年消費の欧米対比(1904年)

区分 パン 砂糖 茶 綿花 銑鉄

英国 28.99 90.50 6.60 41.20 11.30

独国 28.06 42.00 0.12 15.30 10.00

仏国 23.24 36.10 0.06 12.50 4.10

米国 53.34 78.00 1.40 20.40 14.40

露国 18.34 13.20 1.03 5.30 1.60

出典:Кондратьев (1991) с.468-469.

(単位:プード)

備考:пудプードは16.38kg、фунтフントは409,5kg(メートル採用前)。コンドラーチェフは戦前の消費低位を貧困と経済的・精神的後進性によるとみた。

Page 129: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

126

表2-10c 農奴解放後の共同体農民と領主(世襲貴族)の穀物反収(t/ha)推移

年代 反収 % 反収 %

1861-1870 0.48 100 0.54 100

1871-1880 0.51 107 0.61 112

1881-1991 0.56 117 0.69 127

1891-1900 0.64 134 0.77 142

1901-1910 0.70 148 0.88 164

備考:原数はデシャチーナあたりプードの数値をt/haに換算した。

出典:Кондратьев (1991) c.89.

共同体農民 領主(世襲貴族地主)

表2-10d 1905年の穀物不足県と穀物余剰県(%)

不足県 不足の程度 余剰県 余剰の程度

ペトログラード県 -21.43 タブリア県(クリミア) 36.72

モスクワ県 -18.94 クバーン県 30.55

アルハンゲリスク県 -10.93 ヘルソン県 30.46

ウラジミール県 -9.92 ドン州 27.52

シベリア東部 -9.79 サマル県 25.1

備考:県губернияグベルニヤは1929年まで存在した行政区

   原著者は不足県30、余剰県34をリストアップしている。

出典:Кондратьев (1991) c.95.

表2-10e 主要四穀物など農産物の市場化達成度(1909-1913年)

(市場性農産物)

農産物 水運・鉄道輸送量

百万トン a 百万トン b % (b/a)

主要四穀物 72.4 15.9 21.9

ライ麦 23.4 2.3 9.6

小麦 22.2 7.4 33.5

燕麦 15.8 3.1 19.7

大麦 11.0 3.1 28.0

主要四穀外 42.1 2.1 5.1

玉蜀黍 2.2 0.8 36.8

馬鈴薯 35.0 0.8 2.3

全   体 114.4 18.0 15.7

出典:Кондратьев (1991) c.97.

総収穫高 市場化達成率

表2-10f 穀物生産と出荷に占める共同体農民の比率(単位は百万トンと%) 

小麦 ライ麦 大麦と燕麦 合計

農民の出荷量 a 7.6 3.0 4.6 15.2

領主の出荷量 b 1.9 0.6 1.7 4.2

出荷総量 c 9.5 3.5 6.3 19.3

農民の出荷比 (% a/c) 79.9 83.9 73.1 78.4

領主の出荷比 (% b/c) 20.1 16.1 26.9 21.6

農民の生産比率 % 86.4 91.2 86.3 87.9

領主の生産比率 % 13.6 8.8 13.7 12.1

備考:生産総量比12.1%の領主が市場性穀物出荷比では21.6%を占める。生産総量比87.9%の農民は、

   穀物出荷比では78.4%とシェアが低い。これは穀物市場の領主経営への依存度の高さを示唆する  

   指標である。農民主体の生産と出荷に移行すれば生産力は低下、商品穀物も減る。

出典:Кондратьев (1991) c.99.の第6表関連統計表を佐々木が一部補強。

Page 130: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

127

表2-11a 1918年春と夏の第4回・第5回全露ソヴィエト大会の党派別構成

代議員数 割合 代議員数 割合

コムニスト 814 69.8 773 66.4

左翼エスエル 238 20.4 353 30.3

右翼エスエル 15 1.3 1 0.1

マクシマリスト 24 2.1 17 1.5

メンシェヴィキ 27 2.3 - 0.0

メンシェヴィキ国際派 16 1.4 4 0.3

アナキスト 14 1.2 4 0.3

その他 - 0.0 2 0.2

無党派 18 1.5 10 0.9

計 1,166 100.0 1,164 100.0

備考:ロイはスピーリン(1968)をもとにボリシェヴィキ代議員40名の減少を指摘した。

出典:Л.М.Спирин (1968) с.163..

   L.M .スピ-リン著『ロシア内戦における階級と政党』1968年、163頁。

(単位:人、%)

区分第4回1918年3月14日 第5回1918年7月4-8日

表2-11b 1918年春と夏の郡ソヴィエト(右の5地域圏100郡)代表の党派構成

代議員数 割合 代議員数 割合 3月 4-8月 3月 4-8月 3月 4-8月 3月 4-8月 3月 4-8月

ボリシェヴィキ 7,171 65.9 4,962 45.0 ボリシェヴィキ 62.4 42.0 65.1 43.4 70.1 43.9 67.7 50.4 - 43.2

左翼エスエル 2,054 18.9 2,564 23.3 左翼エスエル 18.1 23.4 19.0 20.3 22.5 28.9 17.8 23.1 - 40.6

右翼エスエル 132 1.2 301 2.7 右翼エスエル 2.0 7.2 0.7 0.8 0.2 0.5 1.8 3.0 - 14.4

メンシェヴィキ 381 3.5 140 1.3 メンシェヴィキ 6.3 0.4 2.3 1.6 1.7 0.1 4.0 1.9 - 1.8

マクシマリスト&アナキスト 140 1.3 53 0.5 マクシマリスト&アナキスト 1.9 0.2 1.2 0.6 1.2 0.8 1.1 0.4 - 0.0

無党派 1,008 9.3 3,001 27.2 無党派 9.3 26.9 11.8 33.3 4.4 25.9 7.6 21.2 - 0.0

計 10,886 100.0 11,021 100.0 計 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 - 100.0

備考:ロイは『10月革命』の212-312頁で、この表に言及している。ここでは表そのものを紹介する。

出典: Л.М.Спирин (1968). с.174-175..L.M.スピ-リン著『ロシア内戦における階級と政党』1968年、174-175頁。

(単位:人、%)

南東部

集 計 表

党派1918年3月14日 1918年4月~8月 北部圏 中央工業圏 ヴォルガ中流 中央黒土

各地域の占拠率

左の各地の内訳(党派別占拠率)

Page 131: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

128

第2章第 2節関係

表3-1a 第一次世界大戦欧州主要参戦国の兵力喪失(千人/%)

総兵力 兵力喪失率 総兵力 兵力喪失率

合計 (千人) A/B 合計 (千人) A/B

A B (%) A B (%)

ロシア 2,254 3,749 3,344 9,347 15,500 60.3 独    国 2350 4,510 1,000 7,860 13,251 59.3

*セルビア 40 152 200 392 800 49.0 *墺 ・ 洪 1100 1,980 1,800 4,880 9,000 54.2

英 国 908 2,036 359 3,303 9,500 34.8 トルコ 250 764 480 1,493 2,800 53.3

仏 国 1,398 2,800 504 4,702 8,407 55.9 ブルガリア 33 92 78 203 450 45.2

伊 国 381 800 500 1,681 5,600 30.0

ベルギー 38 150 70 258 500 51.6

備考:セルビアは当時「セルビア-モンテネグロ」。「墺・洪」はオーストリー・ハンガリー二重帝国。

出典:Кривошеева (2001), c。17、18、19、20.,

協商国Entanteアンタンテ=連合国 中央同盟国

兵力喪失(千人) 兵力喪失(千人)

戦死 戦傷 捕虜 戦死 戦傷 捕虜

表3-1b ロシア・ソ連の両大戦・内戦・集団化・テロル・飢饉による犠牲者概観(千人)該当人数 死者数 該当人数 死者数

3,070 26,500

兵士戦死戦傷死 1,810 兵士戦死戦傷死 7,600

戦傷 4,200 戦傷 22,500

捕虜 3,450 捕虜 5,200

その死者 190 その死者 2,600

民間人戦死 340 民間人戦死 1,500

民間人餓死・病死 730 民間人のテロル死 7,700

ドイツで強制労働 5,200

うち病死 1,200

10,500 民間人餓死・病死 6,700

兵士戦死戦傷死 2,500 移民 600

労農赤軍 950 1,200

白衛軍・義勇軍 650 死刑・殺害 200

ゲリラ集団 900 監獄・収容所拘禁者 10,500

兵士テロル死 2,000 その獄死者 1,000

労農赤軍 1,200 3,800

白衛軍 300 死刑・殺害 1,000

ゲリラ集団 500 監獄・収容所拘禁者 5,500

餓死・伝染病死 6,000 その死者 2,500

移民 2,000 追放者 1,500

8,000 その死者 350

集団化運動の死者 50 1,700

富農=クラーク撲滅対象者 9,500 死刑・殺害 200

集団化による追放者 2,500 監獄・収容所拘禁者 4,500

上記の死亡者 950 その死者 1,200

餓死(1932-33年) 7,000 追放者 2,200

移民 600 その死者 300

備考:①第一次大戦の死者には1918年の伝染病死者を含まない。

   ②第二次大戦の犠牲者は1945年5月9日までの係数であり、同年8-9月の日ソ戦争の犠牲を含まない。

③旧ソ連では1946-1947年にも大量の餓死があった。

エルリフマン著『20世紀の各国人口損失』は上記示データのロシア内外典拠文献175点を紹介する。

出典:Эрлихман(2004), c.17-21, 132-133.

ソ連テロル②(1935-1941年)

ソ連農業集団化(1929-1933年)

ソ連テロル③(1941-1945年)

第一次世界大戦(1914-18年) 第二次世界大戦(1941-45年)

伝染病死(1918年) 2,000

ロシア内戦期(1917-1922年)

ソ連テロル➀(1923-1934年)

表3-1c 各年元旦のソ連収容所の推定囚人数の推移(万人)1930年* 17.9 1945年 146.1

1935年 96.6 1950年 256.1

1940年 166.0 1953年** 246.9

備考:*集団化が本格化。**スターリンの死亡年

    推定の一例。他の推定もある。

出典:アン・アプルボーム『グラーグ』白水社、638頁

Page 132: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

129

表3-2 ロシア欧州部の農民と地主の土地の配分(1905年)保有者数 面積

千戸 割合(%) 百万ヘクタール 割合(%)

50dec以上 134 1.1 86.5 36.2

大地主 (500dec以上) 28 0.2 64.5 27.0

(1000dec以上) 14 0.1 56.9 23.8

分与地 11,909 98.9 135.2 56.6

売買登記地 17.0 7.1

12,043 100.0 152.3 100.0

備考:原典の面積単位dec.はデシャチーナをヘクタールに換算(1dec= 1.09ヘクタール)

参照: Zhores Medvedev (1987) p.12 拙訳9頁。出典:Анфимов(1969) c.23-27. (A.M . アンフィモフ『欧露部の大地主経営』)

総計

農戸

表3-3a 各社会集団の穀物の生産・消費と市場向け剰余とその割合(1913年)

生産 消費 市場向け剰余 生産 消費 市場向け剰余

単位:百万プード(1pud=16.38kg) 生産(a)を100とする百分比(%)

中農と貧農 2500 2131 369 50.0 42.6 (57.4) 7.4 (28.5)

クラーク層 1900 1250 650 38.0 25.0 (33.8) 13.0 (50.0)

地 主 層 600 318 282 12.0* 6.4 (8.6) 5.6 (21.5)

合    計 5000(a) 3699 1301 100.0 74.0 (100.0) 26.0 (100.0)

備考:19世紀対比で地主層の比率が減少したのは、1906-13年に彼らが、相当量の土地をクラーク層に

   請負いに出すか、もしくは売却したことによる。

参照: Zhores Medvedev (1987), p.17。拙訳13頁。

出典:Немчинов (1967), c.72-74. 左の原著がНемчинов (1945)野村訳『統計学入門』(1959) pp.103-105

表3-3b スターリンと農業統計学者ネムチーノフによる市場性穀物の生産構造認識

(単位:百万トン、%)商品化率

地主 9.8 12.0 4.6 21.6 47.0

第一次大戦前 クラーク層 31.1 38.0 10.6 50.0 34.0

1906-1913年 中農と貧農 41.0 50.0 6.0 28.4 14.7

計 81.9 100.0 21.3 100.0 26.0

地主 1.3 1.7 0.6 6.0 47.2

ネップ末期 クラーク層 10.1 13.0 2.1 20.0 20.0

1926-1927年 中農と貧農 66.4 85.3 7.6 74.0 11.2

計 77.8 100.0 10.3 100.0 13.3

備考:ネムチーノフがスターリンの依頼により作成した統計表。この統計資料をスターリンが

   1928年5月28日にウラル地方スヴェルドロフ大学の学生たちとの会見の席上で用いた。

ロイ著『歴史に審判に向けて』の石堂訳(1974)がこの表に言及している(上巻邦訳127-128頁)。

同著名越訳(2017)の上記該当箇所(同邦訳書上巻208頁)の引用数値の典拠もやはり本表である。

出典:スターリン(11/102)。ここでは重量表示をプードからトンに換算している。

   ネムチーノフ著/野村良樹訳(1969), pp.103-105.Немчинов (1967), c-72-74, 107.

穀物総生産高 商品穀物(農村外への)区  分

Page 133: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

130

表3-4a ネップ期頂点の1926年の穀物生産高とその配分

100万トン % 100万トン %

穀物総生産高 86.3 100.0 77.8 100

22.4 26.0 11.9 15.3

輸出向け 10.5 11.4 2.6 3.3

都市への販売(国営商業経路*) 6.2 8.0

都市への販売(私的経路) 0.9 1.1

北部と中部農村部への供給と販売 2.2 2.7

備考:*国営商業経路には国家備蓄および軍向けを含む。

資料:中央国民経済計算局(1932)『全連邦共産党(ボ)15-16回大会期のソ連農業の社会的再建』ゴスプラン局、31頁。

   Центральная Управление Народнохозяйственого Учета (1932) c.31.

出典:Zhores M edvedev (1987)p. 50.拙訳38頁。Немчинов (1945)、野部公一 (2003)

1913年 1926年

配分形態

市場向け穀物生産量

表3-4b 一次大戦前の穀物輸出大国=ロシア(単位:百万キンタール、%)

ロシア(ソ連) 41.17 28.4 1.79 1.1 4.52 2.4

アルゼンチン 24.25 16.8 33.18 20.7 45.42 23.7

カナダ 20.15 13.9 56.33 35.1 73.58 38.3

アメリカ 14.27 9.9 38.23 23.8 33.54 17.5

ルーマニア 13.31 9.2 0.5 0.3 1.29 0.7

インド 13.18 9.1 4.38 2.7 1.56 0.8

オーストラリア 11.43 7.9 12.6 7.8 18.18 9.5

世界計 144.76 100.0 160.51 100.0 191.91 100.0

出典:League of N ations, Agricultural Problem s, International Yearbllk of Agricultural

Statistics, 1926/27, 30/31.

1926-29年平均1909-13年平均 1921-25年平均

表3-4c 世界大恐慌下のソ連政府の穀物調達と飢餓輸出、シカゴ市場の小麦価格の動向

(単位:百万トン、価格はcent/bushel、指数)

1928 1929 1930 1931 1932 1933

穀物調達 10.80 16.10 22.10 22.80 18.50 22.60

穀物輸出 0.03 0.18 4.76 5.06 1.73 1.69

小麦市場価格 117 130 84 53 53 94

(小麦価格指数) 100 111 72 45 45 80

注:N ove (1969) 邦訳(1982)206も参照。

出典:Малафеев (1964), c.175, 177, ソ連貿易統計、Shepherd(1947),p.70.

小麦市場価格はU SD A (1940), Agricultural Statistics, p.10.

Page 134: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

131

表3-5 共同体農民の散在する零細な地条農業の弊害   (ダニーロフ①)

スモレンスク県とトヴェル県の亜麻生産向け農場の場合(1926年)

生産費 反収 原価 市場価格プラスマイナス

(rb/ha) (q/ha) (rb/q) (45 rb/q) m inus cost price

I 1-10筆 136.9 3.3 29.1 +15.9

II 11-25筆 164.9 2.6 41.6 + 3,6

III 35筆以上 198.0 2.7 49.0 - 4.0

160.8 2.8 37.7 + 7.3

備考;rbはルーブリ、haはヘクタール、 qはツェントネルの略

   多数の零細地条がそれぞれ遠隔に散在すれば、それだけ非効率な営農となる。

農民間の均等原則により定期割替を実行すれば一層、分与地が散在・零細化する。

散在地条を農民相互の区画整理で「区画圃場」に纏めれば経営改善が可能となる。

ストルイピン改革は、共同体を解体し、区画整理された富裕農経営の育成を目指した。

資料:ソ連中執委『農業経済1925-1928年』1929年、454頁

出典: D anilov (1988), p.132. Данилов(1977), с. 128.

地条数の過多

による区分

地域全体

表3-6 土地利用形態が生産性に与える影響    (ダニーロフ②)

  スモレンスク県とトヴェル県の亜麻生産向け農場の場合(1925/1926年)

土地利用形態 生産費 反収 原価 市場価格プラスマイナス

による区分 (rb/ha) (q/ha) (rb/q) (45 rb/q) m inus cost price

共同体 169.9 2.5 45.4 - 0.4

オートルプ 176.3 2.8 43.1 + 1.9

フートル 107.2 3.0 25.2 + 19.8

地域全体 160.4 2.7 41.2 + 3.8

備考;オートルプとフートルは、共同体から離脱し、区画整理された圃場で営農する。

   オートルプは、共同体から分離して営農するが、集落内に居住する家族農場。

   フートルは、耕作地も、宅地付属地も、共同体から分離して営農する家族農場。

   rbはルーブリ、haはヘクタール、 qはツェントネルの略。

資料:ソ連中執委『農業経済1925-1928年』1929年、455頁

出典:Данилов (1977), с. 141., Данилов (1979), с. 156-178.

Page 135: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

132

表3-7 ソ連の穀物収穫高と反収(1939年9月現在の国境内) (ダニーロフ③)

年次 反収 総収穫量 前年比

(年平均) (q/ha) (百万q) (%)

1913 8.1 765.0 -

(1909-13) 6.9 651.8 -

1917 6.4 545.6 -

1918 6.0 495.3 -9.2

1919 6.2 504.5 1.9

1920 5.7 451.9 -10.4

1921 5.0 362.6 -19.8

1922 7.6 503.1 38.7

1923 7.2 565.9 12.5

1924 6.2 514.0 -9.2

1925 8.3 724.6 41.0

1926 8.2 768.3 6.0

1927 7.6 723.0 -5.9

1928 7.9 733.2 1.4

1929 7.5 717.4 -2.2

備考:qはツェントネル、haはヘクタール。

   1921-1922年は未曾有の飢餓の時期。

出典:Данилов(1977), с. 284.

表3-8 土地団体(革命後復活した共同体)の農民経営における賃労働者数と総人口比。1926年~1929年

    (各年8月実施のアンケート調査結果。千人と百分比) (ダニーロフ④)

1926 1927 1928 1929

期間雇用 a 2,275.3 2,382.2 2,321.7 1,933.8

個人雇用 1,635.0 1631,8 1,491.1 1,118.6

集団雇用 640.3 750.4 830.6 815.2

日雇い b n.a. 2,850.0 2,969.0 3,034.0

小計    a + b = c - 5,232.2 5,290.7 4,967.8

ソ連総人口比 (%) - 3,55 3.52 3.17

ソ連農村人口比 (%) - 4.33 4.3 3.98

備考:ヤクーチャを含まないソ連領内の係数。

   農村地方のクスータリ(手工業企業)の雇用労働者は含まない。

   ネップ期には、富農層(クラーク)や中農による農業労働者の賃労働雇用は、合法的だった。

資料:ソ連中央統計局『ソ連の日雇い労働者と牧夫』1929年、122-123頁、その他統計資料。

出典:Данилов (1979), с. 131. ,Данилов(1977), c.21.

表3-9 ソ連の農業生産における各社会集団ごとの地位:階層分化の状況

(1927年「国勢調査」による。全体に占める%) (ダニーロフ⑤)

賃労働者 半賃労働者 小商品生産者 小資本主義的農業経営

農場数 9.6 22.6 64.0 3.8

住民数 6.9 18.3 70.1 4.7

農業固定資産額 1.6 7.4 78.3 12.7

作付面積 3.2 12.7 76.1 8.0

農産物売上高 1.8 8.3 71.0 18.9

畜産物売上高 2.0 10.4 76.4 11.2

現金支出 6.9 13.9 68.6 10.6

備考:クラーク(富農)は小資本主義的農業経営にあたる。1927年で僅か3.8%の存在でしかない。

   ダニーロフは、本資料が悉皆調査でなく25% の抽出調査によるものと補足説明している。

資料:ЦУНХУ СССР(ソ連ゴスプラン中央国民経済計算局)『党15回大会~16回大会期間の農業再編』第2版、1932年、64頁。

出典:Данилов (1979), с. 331.

Page 136: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

133

表3-10 農民経営各層の農業生産手段の賃貸状況;国勢調査の抽出資料に基づく

(ソ連各地域ごとの貧農層・中農層・富裕層の比較。単位はルーブル) (ダニーロフ⑥)

生産手段支出額の区分 生産手段賃貸 機械設備賃貸 経営受取額 生産手段賃貸 機械設備賃貸 経営受取額

ソ連邦全体 北カフカ―ス

100以下 1.0 0.1 15.0 0.7 0.2 30.2

101~200 5.1 0.3 14.7 3.1 0.4 20.4

201~400 13.1 1.1 16.4 10.2 2.6 20.8

中農層 401~800 22.1 4.8 21.1 21.6 8.5 28.5

801~1600 31.3 14.6 33.6 34.5 17.8 38.3

富裕層 1600以上 37.4 22.6 70.9 40.2 26.7 164.0

16.1 4.5 26.7 15.9 7.2 51.6

中央黒土地帯 中流ヴォルガ

100以下 1.0 0.1 16.3 0.9 0.0 14.3

101~200 5.8 0.4 15.4 7.0 0.3 14.7

201~400 19.1 1.0 18.8 22.3 1.3 16.8

中農層 401~800 27.9 4.2 22.2 29.8 6.6 21.8

801~1600 37.3 15.2 29.9 44.6 25.4 39.9

富裕層 1600以上 46.9 30.8 51.1 58.4 48.1 114.8

20.0 4.1 24.1 22.6 6.4 29.7

シベリア ウクライナ

100以下 1.6 0.4 5.2 1.0 0.1 9.0

101~200 5.3 1.1 9.2 4.9 0.5 10.3

201~400 14.7 5.6 9.7 14.0 1.4 12.7

中農層 401~800 31.5 21.2 17.9 26.0 5.3 17.3

801~1600 55.9 47.3 32.0 36.6 15.2 33.4

富裕層 1600以上 73.5 69.3 58.7 44.3 27.8 86.1

25.5 17.7 24.8 20.5 5.9 28.4

備考:経営受取額には賃金、農業機械や馬の賃貸料、貸付金利子などを含む。

   ダニーロフは、本表は生産手段を賃貸に供さない「生産手段なし」の農民層を除外していると説明する。

   年投資額1600r以上のクラーク層は貧農から馬や農機具の賃貸料を得ていたが、70㍔は控え目な額である。

   農業人民委員部と党中央委農務部は、クラーク層こそ農村共同体の最も実効的な専業的階層と見ていた。  

資料:『ソ連農業1925年~1928年』110-117頁。

参照:Zhores M edvedev (1987), pp.74-75,拙訳55-59頁。

出典:Данилов (1979), с. 69-71.

全 体

貧農層

全 体

貧農層

全 体

貧農層

Page 137: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

134

表3-11「ソヴィエト活発化」政策の導入と1925年上半期の改選=再選挙の結果(ゴシックは引用者)

労働者 知的労働 共青同員

バトラーク (教師等) コムソモール員

村ソヴィエト代議員

1924年選挙 92.4 2.6 3.0 2.0 7.1 4.2 88.7

1925年上半期再選挙 93.7 2.0 2.5 1.8 3.6 2.3 94.1

村ソヴィエト議長

1924年選挙 95.9 2.2 1.7 0.2 21.9 4.3 73.8

1925年上半期再選挙 96.7 1.5 1.6 0.2 11.4 3.4 85.2

郷ソヴィエト大会

1924年選挙 82.2 5.3 8.9 3.6 19.5 7.3 73.2

1925年上半期再選挙 84.4 3.9 8.0 3.7 13,4 4.4 82.2

郷執行委員会

1924年選挙 73.4 9.0 14.8 4.2 55.5 5.2 39.4

1925年上半期再選挙 74.9 5.5 21.5 4.8 38.5 3.8 57.7

郷執行委員長

1924年選挙 53.1 13.3 32.8 8.0 94.3 0.2 5.5

1925年上半期再選挙 53.0 10.8 35.1 1.1 85.9 0.7 13.4

備考:本表の「1925年上半期選挙」とは、1924年に実施された選挙の改選=再選挙のこと。

    ただし、村ソヴィエト有権者である農民が直接選出するのは村ソヴィエト代議員のみ。

    ジョレス『ソヴィエト農業』は、1925年選挙結果に党最高幹部が「度肝を抜かれた」という。邦訳36頁。

    再選挙に関するスターリンの党大会発言も参照。邦訳『スターリン全集』⑦334-336頁(原著331-332頁)。

参照:渓内譲『ソビエト政治史』勁草書房、1962年、511頁のより詳細な第15表を参照されたい。

   渓内譲『上からの革命』岩波書店、2004年、178-181頁、も参照。 

出典:Советское строительство .No.1, 1926, c-16.

被選出者の社会的状態 (%) 党 派 別 (%)

ソヴィエト農村代議機関 農民 職員 党員・候補 非党員

表3-12a コルホーズ作付面積とM TSサービスを受ける面積の割合 ヤスニー①

M TSサービス

年 計 M TSサービス 寄与率(%)

1929 4.2 0 0.0

1930 38.1 10.4 27.4

1931 79 25.3 37.1

1932 91.5 45.1 49.3

1933 93.6 55 58.8

1934 98.6 63 63.9

1935 104.5 75.7 72.4

1936 110.5 91.8 82.8

1937 116 105.8 91.2

1938 117.2 109.3 93.3

1939 114.9 108 94.0

1940 117.6 111.1 94.5

資料:シェピーロフ(1941)「ソ連のコルホーズ制度」『経済学の諸問題』1月号、p.35

出典:Jasny (1946), p.788.

作付面積(百万ヘクタール)

Page 138: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

135

表3-12b 集団化による共同体個人農戸の減少とたそがれ ヤスニー②

(単位:百万戸、百万ha、百万頭)

馬 牛 豚 羊/山羊

1928 24 108.7 32.9 69.4 25.6 144.8

1932 9.4 27.1 6.8 15.4 2.2 17.7

1933 8 19.6 4.4 9.6 2.2 12.3

1934 6.3 14.6 3.4 9.3 2.7 10.5

1935 3.5 6.8 2.1 5.5 1.5 6.3

1938 1.3 0.86 0.5 1.5 0.6 2.4

注;1928~1934年は6月~7月算定値、1935年~1938年は1月算定値

出典:Jasny (1946), p.788.

家畜頭数農戸数 作付面積

表3-12c 集団化時代のソ連邦の家畜頭数の変化(百万頭) ヤスニー③

馬 牛 豚 羊/ヤギ

1916 34.2 51.7 17.3 88.7

1926 28.4 63.3 21.1 123.5

1928 33.2 66.8 22.0 107.0

1929 32.6 58.2 19.4 97.4

1930 30.2 50.6 14.2 93.3

1931 * 42.5 11.7 68.1

1932 * 38.3 10.9 47.6

1933 17.3 33.5 9.9 37.3

1935Jan.1 14.9 38.9 17.1 40.8

1938Jan.1 16.2 50.9 25.7 66.6

1939Jan.1 17.1 47.9 20.5 67.5

1940jan.1 17.8 48.4 22.9 74.0

1941jan.1 17.6 47.4 22.3 85.5

備考:* 1931, 1932年には信頼できる指標がない。下段イタリックはヤスニーの推計値。

馬は集団化後、農場に没収、個人の所有を許さなかった。

   牛、豚、羊ヤギは、集団化後、コルホーズ員の副業菜園での飼育に多く依存した。

資料:ソ連国民経済統計。1935年と1938年の係数はゴスプラン資料。 

出典:Zhores M edvedev (1987), p. 85. Jasny (1949), pp.634, 764.

Page 139: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

136

表3-12d スターリン時代の穀作の作付面積・反収・生産額の推移と訂正値 ヤスニー④

作付面積

百万ha 公式発表 訂正値 公式発表 訂正値

1925 87.3 8.3 72.7

1926 93.7 8.2 … 72.4 …

1927 94.7 7.5 … 71.7 …

1928 92.2 7.9 … 73.3 …

1929 96.0 7.5 … 71.7 …

1930 101.8 8.5 … 83.5 …

1931 104.4 6.7 6.4 69.5 66.0

1932 99.7 7.0 6.6 69.9 66.4

1933 101.6 8.8 6.9 89.8 70.1

1934 104.7 8.5 6.9 89.4 72.2

1935 103.4 8.7 7.4 90.1 76.6

1936 102.4 8.1 6.2 83.0 63.6

1937 104.4 11.5 9.2 120.3 96.0

1938 102.4 9.3 7.4 94.9 75.9

1939 99.7 10.7 8.3 106.5 82.9

備考:訂正値は、実際値もしくは訂正値(Actual or corrected.)

   キンタールquintarは100キログラム

   亡命農業経済学者ヤスニーはソ連公式統計の「誤植」に通じていた。

出典:Jasny (1946), p.793.

反収(キンタール/ha) 生産額(百万トン)

Page 140: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

137

表3-13a 全国1人あたり農業生産高 (単位:100万人とキログラム)

全人口 都市 農村 ( % ) 穀物 馬鈴薯 食肉 牛乳

1913* 159.2 28.5 130.7 ( 82 ) 540 200 31 184

1917 143.5 25.8 117.7 ( 82 ) n.a n.a n.a n.a

1922 136.1 22.0 114.1 ( 84 ) 370 255 16 180

1926 147.1 26.4 120.7 ( 82 ) 522 291 29 207

1928** 151.0 - - ( ) 474 308 27 208

1940 194.1 63.1 131.0 ( 67 ) 492 392 24 173

1952 184.8 80.2 104.6 ( 57 ) 498 374 28 193

1953 188.0 80.2 107.8 ( 57 ) 439 386 31 194

1954 191.0 83.6 107.4 ( 56 ) 448 393 33 200

1955 194.4 86.3 108.1 ( 56 ) 533 399 34 221

1956 197.9 88.2 109.7 ( 55 ) 632 485 37 248

1957 201.4 91.4 110.0 ( 55 ) 509 436 38 272

1958 204.9 95.6 109.3 ( 53 ) 657 422 43 286

1959 208.8 100.0 108.8 ( 52 ) 572 415 42 295

1960 212.4 103.6 108.8 ( 51 ) 591 397 41 290

1961 216.3 107.9 108.4 ( 50 ) 605 390 44 289

1962 220.0 111.2 108.8 ( 49 ) 637 317 46 287

1963 223.5 114.4 109.1 ( 49 ) 489 321 37 274

1964 226.7 117.7 109.0 ( 48 ) 681 413 44 279

1965 229.6 120.7 108.9 ( 47 ) 535 386 44 316

*1913年は帝政ロシア時代の領域。**1928年の全人口は当時の領土内の推定値

備考:穀物の数値には輸出用・飼料・種子用をふくむ。ソ連では酪農製品すべて牛乳に換算され、

   鶏のほかラードのいうな副産物をも含むことに留意されたい。

   1922年は飢饉の最中の年である。

資料:ソ連国民経済統計。ただし1922-28年の総産物生産額は野部公一(2013)の推計値を使用した。

出典:Zhores M devedev (1987) p.160.拙訳125頁。野部公一(2013) 

人口( )内は農村人口比率 1人あたり生産高 (キログラム)

表3-14 農業用トラクター(全機種)とコンバインの稼働台数(単位:千台)

1953 1958 1960 1962 1963 1965 1970 1975 1980 1985

トラクター 744 1,001 1,122 1,329 1,442 1,613 1,977 2,334 2,562 2,798

コンバイン 317 502 497 520 517 520 623 680 722 832

備考:1958年と1962年のコンバイン台数の減少、その後の伸び低迷がフルシチョフのM TS機械・

   トラクター・ステーション廃止の伝統的穀作地帯への否定的影響を示す。

   処女地を有し、M TSに依存しないソフホーズが大半の地域を耕すカザフスタンでは、若干、

   その光景が異なる。

資料:ソ連国民経済統計

出典:Zhores M edvedev (1987), pp.201, 284,292.拙訳157、219、225頁。中山(1976), p.229.

Page 141: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

138

表3-15 化学肥料の農業向け出荷量(有効成分:百万トン)

1950 1960 1965 1970 1975 1980 1982 1985

全肥料 1.3 2.6 6.3 10.3 17.2 18.8 20.1 25.4

窒素 0.3 0.8 2.3 4.6 7.3 8.3 9.0 10.9

リン 0.5 1.1 1.5 2.1 3.8 4.8 5.3 6.8

カリ 0.4 0.8 1.9 2.6 5.2 4.9 5.0 6.8

備考:ジョレスはチミリャーゼフ農科大学土壌肥料学部を卒業した。ジョレスによれば

  ソ連農業の施肥には肥料成分の不均衡の問題もあった。科学的には窒素N2の燐P2O2

  に対する最適比は1対1に近い。1960年以前はそれに近かったが、以後1980年代まで

  0.6程度に過ぎず、これでは施肥の効果をそいでしまうとみていた。

資料:ソ連国民経済統計

出典:Zhores M edvedev (1987), pp.200, 303. 拙訳157、234頁。

表3-16  コルホーズの農産物の生産費と食料品のkgあたりの(国庫)価格差補給金額

(ソ連邦ロシア共和国の場合/鶏卵以外は重量あたり)

生産費

1965年 1983年

(ルーブル/t)

肉畜(生体〔体重増分〕換算)  食肉  食肉

肉牛 1,010 2,468 牛肉 1.9 牛肉 2.99

豚 1,183 2,393 豚肉 2.1 豚肉 1.55

羊 741 1,736 羊肉 2 羊肉 2.77

牛乳 163 340  牛乳 0.36  牛乳 0.17

バター n.a. 4,800  バター 0.25  バター 4.36

穀物 53 86  パン 0.1  パン n.a.

馬鈴薯 45 144  馬鈴薯 0.1  馬鈴薯 0.3

鶏卵1,000個 75 116  鶏卵10個  鶏卵10個 0.15

出典:Zhores M edvedev (1987)p.341、拙訳、261頁。

小売価格 左のうち価格差補給額

1963-83年平均 1983年

(ルーブル/kg) (ルーブル/kg)

表3-17a ソ連産業連関表:国民経済バランスにおける価格差補給金(単位:10億ルーブル)

1980 1985 1986 1987 1988 1989

①価格差補給金総額 25.8 58.0 65.6 69.7 89.8 101.0

②うち農業への価格差補給金 ・・・ ・・・ ・・・ 56.8 78.1 88.9

③うち工業への価格差補給金 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 11.7 ・・・

⑨価格差補給金推計値 25.8 57.9 65.6 69.8 89.8 ・・・

⑩物的生産企業純生産高 349.5 475.0 502.8 519.7 567.8 ・・・

⑪生産国民所得 462.2 578.5 587.4 599.6 630.8 673.7

⑫取引税 94.1 97.7 91.5 94.4 101.0 111.1

⑬特別貿易収入 44.4 63.7 58.7 55.3 51.8 57.2

⑰価格差補給金公表値a 29.9 66.4 ・・・ 75.7 86.3 100.0

⑱価格差補給金公表値b 26.1 59.9 63.2 64.9 89.9 ・・・

備考:工業内各部門①~④、推計値⑭、⑮と⑯の工業生産高は省略。

出典:田畑伸一郎(1992)、21頁。

Page 142: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

139

表3-17b ソ連生産国民所得の労働支払いと剰余生産物への分割と価格差補給金の割合

(単位 上段:10億ルーブル、下段:構成比、%)

1980 1985 1986 1987 1988 1989

①生産国民所得(国民所得バランス) 462.2 578.5 587.4 599.6 630.8 673/7

②労働支払 225.2 271.4 282.2 289.8 304.6 332.8

③労働者・職員賃金、コルホーズ員労働支払 171.9 202.9 211.9 220.6 229.4 251.7

⑦剰余生産物 327 307.1 305.2 309.8 326.2 340.9

⑩価格差補給金 25.8 58 65.6 69.7 89.8 101

①生産国民所得(国民所得バランス) 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

②労働支払 48.7 46.9 48.0 48.3 48.3 49.4

③労働者・職員賃金、コルホーズ員労働支払 37.2 36.1 36.1 36.8 36.4 37.4

⑤個人副業経営の純生産高 7.8 8.0 8.1 8.0 8.1 8.4

⑦剰余生産物 51.3 53.1 52.0 51.7 51.7 50.6

⑧利潤 20.1 24.2 27.1 28.5 31.9 31.0

⑨取引税 20.4 16.9 15.6 15.7 16.0 16.5

⑩価格差補給金 5.6 10.0 11.2 11.6 14.2 15.0

⑬特別貿易収入 9.6 11.0 10.0 9.2 8.2 8.5

備考:④と⑤のボーナス、貨幣収入、⑪と⑫の社会保険控除は省略。

出典:田畑伸一郎(1992)、27頁。

表3-18 旧ソ連とロシアの西側工業国=OECD諸国に対するモノカルチャー的貿易構造(単位:百万US$/%)

1970 1980 1984 1985 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997

(A) 輸出総額 2,564 23,789 25,893 21,144 30,005 30,177 17,712 30,953 37,693 45,879 45,633 46,512

03-魚介類 33 120 175 173 527 711 849 1,277 1,832 2,291 2,313 2,134

24-木材 474 1,653 963 873 1,819 1,412 924 1,314 1,479 1,833 1,588 1,746

b 3- 鉱物燃料 853 16,869 20,266 16,329 17,273 16,242 9,345 14,936 15,261 15,987 20,552 19,262

b/A(%) 33 .3 70 .9 78 .3 77 .2 57 .6 53 .8 52 .8 48 .3 40 .5 34 .8 45 .0 41 .4

c 67-鉄鋼製品 98 163 122 123 521 685 611 1,124 2,514 3,646 2,652 3,095

d 68-非鉄金属 292 816 805 561 1,501 2,020 1,887 3,897 6,604 9,821 7,204 8,586

(c+d)/A(%) 15 .2 4 .1 3 .6 3 .2 6 .7 9 .0 14 .1 16 .2 24 .2 29 .4 21 .6 25 .1

e 7- 機械設備 92 730 451 420 1,037 1,156 638 1,682 959 939 939 831

e/A(%) 3 .6 3 .1 1 .7 2 .0 3 .5 3 .8 3 .6 5 .4 2 .5 2 .0 2 .1 1 .8

(F) 輸入総額 2,644 21,587 21,888 20,589 25,902 28,210 13,177 23,362 25,055 30,485 35,317 41,477

g 0- 食糧品 208 4,971 6,183 2,830 5,191 6,264 2,797 5,006 4,530 5,919 7,519 9,032

g/F(%) 7 .9 23 .0 28 .2 13 .7 20 .0 22 .2 21 .2 21 .4 18 .1 19 .4 21 .3 21 .8

01-食肉類 43 450 154 183 665 862 343 845 1,167 1,920 2,591 2,902

02-酪農品 15 408 187 153 532 786 202 444 437 642 811 1,217

04-穀類 87 3,221 5,456 2,187 3,279 3,767 1,416 1,667 421 594 845 953

08-飼料類 6 118 7 77 383 505 197 189 79 66 67 148

h 7- 機械設備 995 5,388 5,458 6,537 10,475 11,469 5,547 9,682 9,771 11,202 11,887 13,930

h/F(%) 37 .6 25 .0 24 .9 31 .7 40 .4 40 .7 42 .1 41 .4 39 .0 36 .7 33 .7 33 .6

8- 他加工品 61 1,089 1,126 1,486 2,239 2,249 1,376 2,888 4,020 5,252 6,091 7,009

表注:本表では1992年からロシアの貿易相手国チェコ、ハンガリー、ポーランドをOECD加盟国としている。

備考:1.1970年代の原油暴騰で膨張した輸出収入が、1985年には原油暴落で目減りした。

    2.旧ソ連と現ロシアは、農工両面で深まる対外依存体質を、原油・鉄・非鉄・水産物等の天然資源関係産品の切り売りで弥縫してきた。

    3.原油や穀物への依存度の高い旧ソ連・ロシアの貿易構造は1970年以来、ドル表示の貿易動向が、現物量の動向と乖離する場合がある。

資料:OECD (1981-1999), International Trade by Commodity Statistics , various series.

出典:佐々木洋 (2000) 103頁の表3-2.

旧ソ連 ロシア

Page 143: 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフによ …File Information Yo_sasaki.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 異論派兄弟ジョレス&ロイ・メドヴェージェフの

140

表3-19 主要国西側工業国の一次エネルギー構成の推移

(石油換算百万トン/%)

1973 1979 1985 1990 1973 1979 1985 1990

総熱源 347 369 370 435 100.0 100.0 100.0 100.0

日 石炭 54 50 74 76 15.5 13.7 19.9 17.5

石油 269 265 206 248 77.5 71.9 55.7 56.9

ガス 5 19 36 45 1.5 5.2 9.6 10.3

本 原発 2 14 34 44 0.6 3.8 9.3 10.2

水力 17 19 20 21 4.9 5.1 5.3 4.9

総熱源 1,788 1,886 1,767 1,966 100.0 100.0 100.0 100.0

米 石炭 324 376 441 484 18.1 19.9 24.9 24.6

石油 818 868 720 782 45.8 46.0 40.8 39.8

ガス 563 517 449 497 31.5 27.4 25.4 25.3

国 原発 20 61 91 137 1.1 3.2 5.2 7.0

水力 63 65 65 67 3.5 3.4 3.7 3.4

総熱源 340 371 359 350 100.0 100.0 100.0 100.0

独 石炭 141 140 148 130 41.6 37.6 41.1 37.0

石油 162 163 126 127 47.7 44.0 35.2 36.4

ガス 30 52 49 54 8.8 14.1 13.7 15.4

国 原発 3 12 31 35 0.8 3.2 8.7 9.9

水力 4 5 4 5 1.1 1.2 1.2 1.3

総熱源 187 194 196 219 100.0 100.0 100.0 100.0

仏 石炭 30 29 23 19 15.8 14.7 11.7 8.7

石油 127 118 84 89 68.2 60.9 43.1 40.8

ガス 16 23 23 26 8.4 12.0 11.9 12.1

国 原発 3 9 51 71 1.8 4.6 25.9 32.5

水力 11 15 15 13 5.8 7.8 7.4 5.9

備考:1)すべて石油換算による係数。 2)ガスは天然ガス。

資料: BP, Statistical Review - dow nloads. http://w w w .bp.com   佐々木洋作成