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フィリピンにおける日本文化浸透と対日認識の変化 カール・イアン・ウイ・チェンチュア (Karl Ian Uy Cheng Chua) アテネオ・デ・マニラ大学日本研究科科長 [email protected] 清泉女子大学大学院地球市民学専攻創設10周年記念シンポジウム(2015年11月7日) 米国による「反日プロパガンダ」の漫画 日本による「反米プロパガンダ」の英文漫画

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フィリピンにおける日本文化浸透と対日認識の変化

カール・イアン・ウイ・チェンチュア(Karl Ian Uy Cheng Chua)アテネオ・デ・マニラ大学日本研究科科長[email protected]

清泉女子大学大学院地球市民学専攻創設10周年記念シンポジウム(2015年11月7日)

米国による「反日プロパガンダ」の漫画

日本による「反米プロパガンダ」の英文漫画

日比関係年表

朱印船貿易

( 安土桃山時代に開始、江戸時代に本格化)

高山右近の来比 (1614年)

•百人単位の日本人カトリック教徒が来比。マニラに日本人町を形成

フィリピン独立革命(1898年)

•布引丸事件(1899年)

からゆきさんの来比 (19世紀末)

ベンゲット道路工事に従事の日本人労働者来比(1903~1904年)

ダバオで日本人移民が激増。多くはマニラ麻栽培に従事(1904年以降)

太平洋戦争勃発(1941年12月8日)

•フィリピン第2共和国独立宣言(1943年10月14日)

•マニラ戦(1945年2月~3月)

•日本の正式降伏(1945年9月2日)

日比賠償協定調印(1956年)

日比友好通商航海条約の議定書署名(1960年)

• 日本の青年海外協力隊のフィリピン派遣開始(1966年2月)

日比経済連携協定署名(2006年)

フィリピンは日本占領時代以前にも日本人との間で交流があった。相互交流に基づく対日本人認識は肯定的なものと否定的なものの両方があった。(Prior to the Japanese Occupation period, the Philippines has interactions with the Japanese. The perceptions of Japanese based on their interactions were both positive and negative)

戦後フィリピンと日本の関係

2国間の関係の進展は、フィリピン人の対日認識を変えた

フィリピンの教科書における第2次世界大戦の語り①

History of the Filipino People, 8th Edition (Agoncillo, 1990)39 / 587 pages (6%)“The Liberation” (解放)

Philippine History and Government, 6th Edition (Zaide & Zaide, 2010)7/252 pages (2%)“The Worst War in our Country was World War II”(我が国における最悪の戦争は第2次世界大戦だった)

The Other Philippine History Textbook Book 2 (Diaz, 2009)11/184 pages (6%)Hitting Rock Bottom, Hard Times, Economic Disaster (どん底の時代、困難の時代、経済的災難)

日本人に対する見方の変化のもう一つの理由は、フィリピンの歴史教科書における第2次世界大戦関連の限定的記述(Another reason for the change in perspective of Japanese was due to the limited reportage of World War II in Philippine textbooks)

フィリピンの教科書における第2世界大戦の語り②

The Philippines: A Story of a Nation (De Viana, 2011)

37 / 382 pages (9%)

Battle for the Philippines

Our Beloved Country: A History of the Philippines (Habana, Galvez, Ariston, Correa, 2013)

25/380 pages (6%)

“Maria Rosa Henson”(マリア・ロサ・ヘンソン)[フィリピンで最初に慰安婦体験を公にした女性]

Philippine History (Agoncillo, Mangahas, 2010)

11/279 pages (4%)

The Commonwealth and World War II (Migration)

(コモンウェルスと第2次世界大戦)(戦前におけるフィリピンの日本人移民)

非公式教育の場で描かれる第2次世界大戦

児童文学の重要性児童文学の語りは、その時代の社会を描写する

将来の社会(子供たち)に影響する

受け入れ難いテーマも扱う(死、病気、戦争など)

児童文学独特の消費のされ方(好きなら受け入れ、嫌いなら受け入れない)

(出典) http://www.pbby.org.ph/links-2012.html

上は、フィリピンにおける「児童文学の日」のポスター

1947年に刊行の雑誌

1940年代後半に刊行された雑誌に掲載された漫画。

このころは、日本人を「敵」とするステレオタイプの表現が一般的だった。(As these were published in the 1940s, the stereotypical representation of Japanese as “the enemy” existed)

上は、1950年代に刊行された雑誌の漫画。「邪悪な日本人」というステレオタイプは依然、存在したが、高等教育を受けて英語も話せる「良い日本人」も描かれた(As this was published in the 1950s, the “evil Japanese” stereotype still exists, but introduces the “good Japanese” stereotype who is highly educated and can speak English)

1960年代までには、フィリピンの雑誌の漫画は、日本軍占領時代の敵として日本人だけではなくてフィリピン人の観念を広めた。(Filipino suffering during the Japanese Occupation period was also caused by fellow Filipinos)

1970年代までに、それまでのような日本人の描写は次第に消え、第2次世界大戦の状況を考慮して日本に

情けをかける話が紹介されるようになる。この理由は、フィリピン全土に戒厳令が出されて「新たな敵」が生まれたことである(By the 1970s, the representations of Japanese slowly disappear, or would tell a story which humanizes Japan in the context of World War II. The reason for this is that Martial Law was declared in the Philippines, hence a “new enemy” )

マルコス大統領(当時)による戒厳令布告(1972年9月23日)を1面で大きく報じる英字新聞

広島への原爆投下を描く漫画

1990年代から2000年代初めにかけて青少年ら対象の刊行書物の中では、ステレオタイプ(邪悪な者と良き者)の日本人と「邪悪なフィリピン人」の両方が表現された。このため、日本人に対する認識は複雑なものになった(Stereotyped Japanese [evil, good], as well as evil Filipinos are reiterated in children’s literature in the 1990s. Hence, the perceptions of Japanese become confused)(注)ここでいう「邪悪なフィリピン人」とは、日本軍協力者だけでなく、自己利益のために日本軍や日本人を利用した者を指す。

過酷な日本軍占領を体験した中流家庭の女性の実録(1999年刊行)

日本軍占領によって家族の移転を強いたれた少年の物語(2001年刊行)

日本軍政時代を描く様々な書籍①

筆者の戦争体験をもとに、修道院に住み込みがら生き抜いた少女が主人公の小説(2002年刊行)

年老いた男性が幼いころの戦争体験を回顧する小説(2004年刊行)

日本軍政時代を描く様々な書籍②

フィリピンにおける対日認識の変化(「ボルテスV事件」の例)

・1978年5月、日本アニメ「超電磁マシーンボルテスV」がフィリピンで放送開始

・1979年、その表現を問題視した政府が放送禁止措置をとる。

・アキノ政権に移行した1986年と1989年、その後の政権の1994年、1999年、2004年にも再放送された。

左派政党「アクバヤン(Akbayan)

市民行動党のポスター。「市民の反乱助長」を理由に「ボルテスV」

の番組を放送禁止にしたマルコス元大統領の独裁ぶりを訴えている。

フィリピンの著名な芸術家、トイム・イマオ(Toym Leon Imao)が、ボルテスVをもとに創作した立体彫刻。彼は戒厳令布告時に11歳だった。戒厳令時代の

表現への検閲を市民に思い起こすために創作した。

日本のバブル経済時代、フィリピンにおける日本企業の投資増のほか、レジャー費も潤沢だった事情がフィリピン人エンタテナー(フィリピンでは「ジャパユキ」との呼称がある)多数の訪日現象をもたらした(With the economic bubble in Japan, aside from overseas investments in the Philippines, Japanese spending on leisure increased which allowed for the increase of migration of “Japayuki” or Filipina entertainers to Japan)

日本がバブル景気のころに刊行された有力英字誌、TIMEの表紙

日本で変死したフィリピン人エンタテナーの実話をもとに製作・上映された映画「Maricris Sioson: JAPAYUKI」のポスター

ルソン島中部のパンパンガ州マバラカット町に建つ神風特別攻撃隊隊員の像。隊員の記録の本(右の写真はその一つ)を読んだ地元のアーティストが1974年に建て、2005年に新たな像を建立した。(A local Filipino artist, after reading the biography of kamikaze, built a statue in the town of Mabalacat in 1974., which was rededicated in 2005)

東日本大震災の被災者への寄付を募るため、フィリピン大学ディリマン校の学生たちが作成したロゴ

フィリピンを襲った巨大台風「ハイヤン」の被災者支援のため、ダウンロードしての売上げが義援金となったLINEのステッカー

在日フィリピン大使館の職員にハイヤン被災者への義援金を手渡す日本の6歳児童(写真出典)在日フィリピン大使館のホームページ

巨大自然災害に際して相互の助け合い

強化されるフィリピン・日本関係

マラカニアン宮殿で、公式訪問した安倍首相と握手するアキノ大統領(2013年7月27日、フィリピン大統領府撮影)

ベニグノ・アキノ三世・大統領は、日本で賛否が分かれた安全保障関連法の成立(2015年9月19日)について歓迎するコメントを発表した。

巨大自然災害(東日本大震災、巨大台風ハイヤンなど)被災者への相互支援などを通しても、比日関係はさらに良好なものになった。そのことが、市民の相互認識の改善にもつながっている。