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龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー No. 14-13 2015 3 31 日) 公募研究論文 敦煌における石窟の宗教的機能と図像表現 ―莫高窟第 323 窟を中心として― 濱田瑞美 (横浜美術大学准教授) 目次: はじめに 一,莫高窟第 323 窟周壁の概要 西壁 東壁 南壁 北壁 二,南北両壁の相関関係 三,東壁の禁戒図と南北壁の菩薩列像 おわりに 【キーワード】 禁戒図 金人 阿育王像 仏図澄 曇延 康僧会

敦煌における石窟の宗教的機能と図像表現 ―莫高窟第 323 窟 …323 窟道」(『寺院財富世俗供養』 2003 年 12 月)。 6 顔娟英「從涼州瑞像思考敦煌莫高窟

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  • 龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

    No. 14-13(2015 年 3 月 31 日)

    公募研究論文

    敦煌における石窟の宗教的機能と図像表現

    ―莫高窟第 323 窟を中心として―

    濱田瑞美

    (横浜美術大学准教授)

    目次:

    はじめに

    一,莫高窟第 323 窟周壁の概要

    西壁

    東壁

    南壁

    北壁

    二,南北両壁の相関関係

    三,東壁の禁戒図と南北壁の菩薩列像

    おわりに

    【キーワード】

    禁戒図 金人 阿育王像 仏図澄 曇延 康僧会

  • はじめに

    莫高窟に代表される敦煌地域の石窟の大半は,人が入って何らかの動作をすることので

    きる空間を具える。窟形式は,時代によって変容し,南北朝時代には窟内に方柱を設ける

    中心柱窟,隋唐時代では伏斗形方窟,帰義軍期には背屏式が为流となるが,これらの窟形

    式と壁面の図様の考察から,窟内における人々の宗教的な行為と図様とには密接な関わり

    があることが,次第に明らかになってきている。例えば,北魏時代の莫高窟第 254 窟(中

    心柱窟)では方柱を右繞する向きと合うように,過去世の千仏と未来世の千仏が周壁に配

    置されていることが挙げられる。また背屏式の石窟も,中央の壇上に置かれた本尊の後ろ

    を廻る構造となっており,窟内において,本尊を礼拝することのほかに,周壁の塑像や絵

    画を観ながら廻るという動作が想定される。加えて,背屏式が出てくる帰義軍期頃から,

    しばしば窟内の天五の下部四隅に四天王像が一体ずつ描かれるが,この配置には,『四天王

    經』に説かれる,人々が斎儀を正しく守っているかを天から降臨して監視するという四天

    王の役割が反映されているといえる。この時期,窟の为室や甬道に描かれる供養者像は等

    身を超えるが,こうした,石窟の造営に深く関わり,窟内で行われたであろう斎会などの

    儀式を为催あるいは参加する人々の姿が,ひときわ存在感を放ってくるのも興味深い。

    このように,窟内に描かれている壁画を,人々がどのように観ていたのかという視点で

    改めて観直すことによって,画題の問題だけでなく,画面の位置や他の壁画との関連性に

    考察が及ぶことになる。壁面の内容が複雑であればあるほど,それら一つ一つの画題が相

    互にどのように関連しており,窟内全体でどのような意味をあらわすのかという問題は,

    石窟の宗教的な機能を考える上でも大きな手がかりとなると思われる。

    以上のような観点のもと,本稿で取り上げてみたいのは,初唐期の制作と目されている

    敦煌莫高窟第 323 窟の壁画である。本窟の周壁は,西方浄土変などの変相図が一壁面を占

    めるといった同時期の石窟壁画の通例とは異なり,画面は上下二段に別れて,それぞれ異

    なる内容が描かれている。南北両壁の下段にはそれぞれ菩薩立像 7 体が並列し,上段には,

    仏教感応故事画あるいは仏教史迹故事画などと称される,为に中国における舎利感応・仏

    像出現の話,中国で神秘的な能力を発揮したという著名な僧にまつわる話,中国に初めて

    仏像が伝わったときの話などが絵画化されている。入口側の東壁は,下段が後世重修の壁

    画であるが,上段壁画はオリジナルで,そこには僧侶が諸々の禁戒を受持する図が描かれ

    る。これらの各画題には詳細な墨書題記があり,ポール・ペリオも本窟の題記を記録して

    350

  • いる。

    このように,他の石窟に例のない内容があらわされる第 323 窟は,そのユニークさゆえ

    に,夙に注目されてきた。画題についての初めての詳しい研究は,馬世長氏による「莫高

    窟第 323 窟佛教感応故事画」1で,題記と図様についての照合が行われて大きな成果を上げ,

    さらに南北壁の壁画に,初唐期における仏教宣揚の意図を見出した。その後,孫修身氏に

    よって「莫高窟佛教史迹故事画介紹」(1)~(9)が続々と上梓され2,その中で莫高窟第

    323 窟の壁画が多く取り上げられた。また,これらの壁画の中の「張騫出使西域図」と称さ

    れる画面についての個別の考察も,張振新氏3,孫修身氏4によって行われたが,当該図につ

    いては未だ解決されない図様上の課題も残る。

    近年は,巫鴻氏によって,本窟と道宣および律宗との関連が論じられる中で,本窟が授

    戒のための戒壇としての機能があった可能性が指摘され5,最近,顔娟英氏によって在家信

    者による礼懺が本窟の为題の一であったという見解や6,本窟で設斎が行われたとする田林

    啓氏の意見7が発表されるなど,窟内全体の構想について考察した研究が行われている。

    本稿においても,窟内全体の内容を俯瞰して確認していくことによって,各壁画に相互

    に関連があることを浮き彫りにしていきたい。またそうした関連性を踏まえた上で,壁画

    の図様における問題点について若干の私見を述べるとともに,本窟の宗教的な機能につい

    ても考えてみたいと思う。

    1 馬世長「莫高窟第 323 窟佛教感応故事画」(『敦煌研究』試刊第 1 期,1981 年)。 2 孫修身「莫高窟佛教史迹故事画介紹」(1~9)(『敦煌研究』等,1982 年~88 年)。

    3 張振新「談莫高窟初唐壁画《張騫出使西域》」(『中国歴史博物館館刊』第 3 期,1981 年)。

    4 孫修身「従《張騫出使西域図》談佛教的東漸」(『敦煌学集刊』第 2 集,1982 年)。

    5 巫鴻「敦煌 323 窟與道宣」(『寺院財富與世俗供養』2003 年 12 月)。

    6 顔娟英「從涼州瑞像思考敦煌莫高窟 323 窟,332 窟」(『東亞考古學的再思―張光直先生逝世十週年紀念

    論文集』台北・中央研究院歴史語言研究所,2013 年 10 月)。 7 田林啓「敦煌石窟における瑞像・神変表現の展開」(龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)2013年度 ユニット 2(中央アジア地域班)第 1 回ワークショップ 口頭発表,2013 年 11 月 23 日),その後,同内容は「敦煌石窟における特異な説話図をめぐって」(『仏教美術論集 3 図像―イメージの成立と伝承(浄土教・説話図)』竹林舎,2014 年 5 月刊行予定)に採録。

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  • 一,莫高窟第 323 窟周壁の概要

    西壁

    窟内正面の西壁は大龕を開き,壁面に後補の塑造山岳をあらわす(図 1)。中央に如来倚

    像,左右に仏弟子立像および菩薩立像をあらわすが,『敦煌石窟内容総録』には,本尊塑像

    のみ当初で,そのほかは塑壁も塑像も清朝の後補とされている。一方,龕内の塑壁および

    塑像が後補であると考えられることから,为尊もやはり後補で,もとは現状の倚像ではな

    く,初唐期の莫高窟第 203 窟(図 2)や第 300 窟にみられるような立像であった可能性が,

    巫鴻氏によって提示されている8。それらの仏像は,左手を胸前において衣端をとり,右手

    を垂下させて立っており,背後に山岳をあらわす特徴的な様相を示して,中国西北部の涼

    州番禾県の岩山が裂けて出現したという「涼州番禾県瑞像」をあらわすものである。この

    涼州番禾県瑞像に関する説話には,劉薩訶という神異僧の活躍が述べられているのである

    が,莫高窟第 323 窟の南壁にも彼の伝に話が出てくる阿育王出現の図が描かれていること

    と,同窟の西龕内に後補とはいえ山岳が塑壁であらわされていることから,現状後補の塑

    像も,涼州番禾県瑞像である可能性が高いと考えたのである。

    第 323 窟の本尊が,涼州番禾県瑞像であったとする巫鴻の見解は,その後とくに疑問が

    呈されることはなく,最近も顔娟英氏によって,本尊が涼州瑞像であることを踏まえた壁

    画の考察が進められた9。

    たしかに,龕口左右には唐代と思しき山岳文の壁画が看取できるから,たとえ現在の龕

    内の山岳塑壁それ自体が後世の作だとしても,当初より龕内に山岳が表現されていた可能

    性は高いといえよう。しかし,だからといって現状の倚像が本来立像であったと言い切る

    ことが果たして可能であろうか。第 203 窟や第 300 窟のように涼州番禾県瑞像を塑像であ

    らわす場合,かなり浅い龕となっている。それに比べ,第 323 窟の正面龕は奥行きがある。

    後補の段階で龕を彫り込んだ可能性も否定はできないが,本尊がもと涼州番禾県瑞像であ

    ったならば,そのような特徴的な立像の姿を全く変えて,わざわざ倚像に改造するような

    状況はしろ想定し難いと思われる。本尊は,敦煌研究院が当初とみるように,たとえ後補

    されていたとしても,本来の倚像の姿を壊すようなものではなかったと考えるのが自然な

    のではなかろうか。

    8 前掲注 5 巫鴻論文。 9 前掲注 6 顔娟英論文。

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  • 東壁

    東壁には,『大般涅槃經』巻一一「聖行品」所説の,諸々の禁戒の受持およびそのために

    発せられた誓願の内容をあらわした図が描かれている。同経文の簡略版が『經律異相』に

    みられることが馬世長氏によって既に示されている10。ちなみに,同内容の誓願は『梵網經』

    巻下にも説かれている11。

    各題記の位置と録文,および関連経文については,表 1 を参照されたい。本文中の題記

    や文献に付された番号は,表における番号に対応している。

    東壁南側(図 3)の画面右上には,女性二人と男性一人が立ち,その前に火が燃え盛って

    いる。火の傍には僧が蹲っているが,火の中にも一人いるように見える。この画面に付さ

    れた題記 es1「菩薩寧身投大火海中終不/破戒受女□□…」が,『大般涅槃經』「聖行品」の「善

    男子。菩薩摩訶薩受持如是諸禁戒已。作是願言。寧以此身投於熾然猛火深坑。終不毀犯過

    去未來現在諸佛所制禁戒。與刹利女婆羅門女居士女而行不淨。12」(経文①)に相当する。

    すなわち,「仏法に帰依した男子よ。悟りを求める修行者と偉大な衆生は,このような諸々

    の禁戒を受持し,誓願を作した。『むしろこの身体を,激しく燃えさかる猛火の深い坑に投

    じた方がよい。そうすれば結局,過去未来現在の諸々の仏の制した,クシャトリヤの女,

    バラモンの女,在家の女と不浄な行いをしてはいけないという禁戒を毀犯することはな

    い。』」とあるように,仏や菩薩の聖人としての持戒の厳しさを,誓願をたとえにして説く。

    画面には,たとえ火に身を投じるような厳しい状態に陥ったとしても,禁戒を破らない,

    という修行者の覚悟があらわされているといえよう。なお経文において,菩薩摩訶薩が禁

    戒を受持するために発された計 12 の誓願は,この内容から始まっているため,東壁の壁画

    も,南側の上段に描かれた当該画面から開始するものと考えて大過なかろう。

    その隣には,僧侶と俗人男性二人が対面しており,俗人は手に何か持って僧侶に手渡そ

    うとしているようである。題記 es2 および経文③から,手渡されるものが飲食物であると推

    測される。上段左端の画面には,僧侶が俗人から衣服を布施されている場面が描かれるが

    (題記 es3),この部分の内容は経文②に相当し,経文と画面の順序が代わっている。

    経文の順序に従えば,下の段では,画面の左側から右側へという順で描かれている。す

    なわち,左側にはベッドに横たわりながら片手を伸ばす僧侶と,何かを手に持って差し出

    10 前掲注 1 馬世長論文。 11 『大正蔵』巻二四,pp.1007c-1008a 12 『大正蔵』巻一二,p.433a

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  • す俗人男性や,合掌する俗人男性が描かれ(題記 es4),寧ろ大熱鉄上にこの身を横たえた

    方がよい,そうしたら檀越から寝具の布施を受けるような破戒をしなくてすむ,との誓願

    の内容をあらわす(経文④)。次の画面では僧侶の背後から俗人が襲い掛かっており,僧侶

    の前には鉢状のものを持って傅く俗人男性,合掌する俗人男性,何かを盛って棒状のもの

    を振り上げている人物が描かれ(題記 es5),寧ろこの身に三百鉾を受けた方がよい,そう

    すれば檀越から医薬を受けるような破戒をしなくてすむ,との内容(経文⑤)に相応し,

    鉢を持つ男性は薬を供養しているものと解される。その右側には,建物と,僧侶および合

    掌する俗人男性が描かれており(題記 es6),房舎の供養を受けまい,との内容(経文⑥)

    をあらわす。さらに下部にも壁画が続いていたようであるが,現状では,題記枠と,列を

    成して歩みを進める人物数名とが確認できるものの,後世の壁画が重ねられていて詳細は

    不明である。

    東壁の北側(図 4)にも,南側に続いて禁戒図が描かれている。こちらの題記は,画面の

    左上とその下の二件のみ判読される。左上には,僧侶の背後から手を振り上げて襲い掛か

    る俗人男性と,僧侶の前に跪いたり合掌したりする俗人男性が描かれ(題記 en1),寧ろこ

    の身が砕かれた方がよい,そうすれば信者からの礼拝を受けなくてすむ,との内容(経文

    ⑦)があらわされる。その下の画面は,壁画の一部が現在アメリカのハーバード大学付属

    フォッグ美術館に所蔵されており,それを合わせると,女性と侍者とに対面する僧侶と,

    その背後から俗人男性が椎状のものを振り上げて襲い掛かろうとする場面が描かれていた

    ことが分かる。題記には「菩薩寧………………其身□/染心受女□□女死女□」(en2)とあ

    り,女性の存在が強調されているため,経文の「寧以熱鐵挑其兩目。不以染心視他好色。」

    (経文⑦)をあらわすものとされる。

    続いて,東壁北側の上段中央には,僧侶と俗人男性三人とが対面して立っている。俗人

    男性のうち一人は袖を長く伸ばしており,その横の男性は踊っているような仕草で,僧侶

    に一番近い男性は縦笛を吹いている。題記(en3)の文字は判明しないが,その図様から,

    良い音や声を聴くという禁戒(経文⑨)をあらわす場面とされる。

    上段右側には,袈裟を頭から纏って端坐する僧が,何かいびつな形のものの中にあらわ

    されているが(題記 en4),これがどのような場面をあらわすかは不明である。その下の画

    面は,僧侶の前に,下が平らで上部が丸いものが置かれた台があり,台の傍らには俗人の

    男女が立っている(題記 en5)。さらに下方には,僧侶の前に二人の人物があらわされ,細

    長いものを持って攻撃する数人があらわされる(題記 en6)。下段の中央には,僧侶の左右

    354

  • に,それぞれ手を僧侶の方に伸ばしている俗人男性をあらわす(題記 en7)。下段左側には,

    僧侶の前に,両手で何か持物を捧げ持つ人物があらわされている(題記 en8)。これらの画

    面は経文の内容にも合致せず,どのような場面なのかは明らかにし難い。

    ちなみに,東壁北側には,尐なくとも 8 場面盛り込まれている。東壁南側と北側に描か

    れた場面数の合計は,経文に列記される 12 の誓願とは,数的な合致をみない。ただし,そ

    れぞれの図は,僧侶と俗人とが相対する様子,あるいは僧侶の身に危険が迫っている様子

    が描かれており,悟りを求める修行者の受持すべき禁戒およびその持戒の誓願についてあ

    らわしたものと考えてよかろう。

    以上,東壁の図様と題記および関連経文を確認してきたが,こうした禁戒図を,わざわ

    ざ石窟壁画にあらわした目的は何だったのだろうか。この点については,他の壁面の内容

    を確認した上で改めて後述したいと思う。

    南壁

    第 323 窟の南壁上段(図 5,表 2)は,縦方向に連なる山並みなどによって,凡そ三画面

    に区分される。すなわち,画面向かって右の西端(S-1)には西晋時代(4 世紀前半)に呉

    郡の松江に二石像が浮かんで現れたという場面,中央(S-2)には東晋時代(4 世紀後半)

    に楊都の水中から阿育王像が現れた場面,東端(S-3)には隋時代(6 世紀末)の曇延の事

    跡をあらわしている。

    ところで,この三つの内容があらわされる横長の画面を観る方向としては,入口のある

    東側からなのか,窟奥の西側からなのかについて議論が分かれるところである。馬世長氏

    は,画面に表現される時代が西側の方が早いため,おおよそ西から東へという順序を想定

    している13。その一方で,窟内の壁画を右繞する方向で観ると東側からとなる。ポール・ペ

    リオもこの方向で題記を録しており,東側の入口から奥に向かって観ていく方向も自然な

    動作に沿っているように思われるが,筆者は,図様および題記の内容や順序から,西から

    東へと目線を移しながら観ていく方向が想定できると考える。以下,各画面の概要を西側

    から確認していきたい。

    西端の画面 S-1(図 6)には,まず画面の右側中上部に二体の仏像が認められる。足元に

    は水面が表現されており,そこが海あるいは川であることがわかる。仏像は左斜め半身を

    あらわし,画面向かって左の方を向く。各仏像には題記がそれぞれあり,向かって右側は

    13 前掲注 1 馬世長論文。

    355

  • 「維衛佛」(題記 s3),左側は「迦葉佛」(題記 s2)とある。すなわち過去の二仏である。二

    仏像の前には比較的大きめの題記 s1 がある。「此西晋時…」と始まるその題記は,西晋時代

    に二石仏が呉の松江(題記では「江松」)に浮かんであらわれた。波濤が激しかったが,飄々

    と水に反して流れており,船人が近づいていくと,その仏の裙の上に「維衛佛」,もう一つ

    の仏には「迦葉佛」と名記されてあるのが分かった。その像はたしかに呉の都にあって供

    養されている,と記す。

    この内容は,『集神州三寶感通録』(以下,『感通録』)巻中に録される「西晉呉郡石像浮

    江縁」14と一致する。その概略は,西晋の愍帝の健興元年(313),呉郡松江で,漁師が海中

    から二人が水中に浮かんでくるのを見て,海神かと思った。巫女が犠牲を引き連れて,二

    人を迎えようとすると,風波が激しくなり恐れて返ってしまった。次に道教の徒が「これ

    は天師である」といって迎えに行ったが,風波はやはり激しいままである。そのとき,朱

    膺という居士が,「これは世尊の降臨である」といい,潔斎して東雲寺の僧尼および仏教信

    徒数人とともに迎えに行った。すると,風波は静まり,松江に浮かんだ二人は浦に入って

    きて,近づくとその二人が石像であると分かった。二石像を通玄寺に運び,像の背の銘を

    みると,一つは「維衛」,もう一つは「迦葉」とあった,というものである。

    松江に現れた二像の下方に,風になびく幡を立てた方形の壇があらわされ,その傍に三

    名の人物が手を合わせて坐っている。題記 s5 には,これ(仏像)を迎えに来たが数十日経

    っても獲ることができずに帰った,とある。画面にみられる人物は男性とみられるととも

    に,犠牲を引き連れた巫女のような人物はさらに左下に描きこまれているため,方形檀の

    傍らに坐る人物は,仏像を迎えることができない道教徒であると考えられる。

    画面中央には,舟の上に二像が乗せられ,舟先には僧侶が立ち,船頭に指示を出してい

    る様子が描かれている。岸には礼拝する僧侶,俗人たちが描かれる。題記 s6 には,仏法を

    信じるものが「仏の降臨」とすると,風波は静まり,仏像を迎えて通玄寺に送った,とあ

    る。また最後に「供養迄至于今」とあり,「今」すなわち壁画が制作された当時に至るまで,

    供養され続けていることが強調される。

    この舟で運ばれる二像の上方に,南壁中央の画面 S-2 の一部が描かれている。右上端に小

    さく城壁があらわされており,題記 s8 に「交州」すなわちベトナムとある。その左側には

    題記 s9「合浦水」とあり,人々が指差す先に,放光する宝珠形の頭光があらわされる。頭

    光の下に「東晋時…」と始まる題記 s7 がある。すなわちこの題記には,東晋時代に交州の

    14 『感通録』巻中「西晉呉郡石像浮江縁三」(『大正蔵』巻亓二,pp.413c-414a)

    356

  • 合浦水の中に亓色の光があった。如来の亓色の光が現応したとき得た仏の光艶も亓色であ

    ったのを見た。勘ずるに,これは楊都(現在の南京)の育王像の光背である,という。

    さらに左側に目を移すと,そこには放光する蓮華座が描かれている。題記 s10 には,東晋

    時代,海中に一金銅仏の台座が浮いて光っていた。舟人がそれを取り,楊都へ送ったとこ

    ろ,育王像の台座としてぴったりと符合した。その仏像は楊都の西霊寺で供養されている,

    という。題記にいう「育王像」とはインドの阿育王が作らせた仏像(阿育王像)のことで

    ある。

    さらに左側に,放光する仏像と,舟に乗り合掌している人々があらわされている(図 7)。

    題記 s11 には,東晋の揚都の水中から昼夜常に亓色の光明が水上に出現し,これを尋ねたと

    ころ,金銅丈六の育王像を得た。ほどなくして,光背と台座も届けられた,とある。

    この下方に,仏像が,舟に乗せられ運ばれている場面が三景続いている。その内,ひと

    際大きく描かれているのが一番下側の画面であるが,この部分の壁画は,現在アメリカの

    ハーバード大学付属フォッグ美術館に所蔵されている。

    楊都の水中から発見された阿育王像については,『感通録』巻中「東晉楊都金像出渚縁亓」

    に録されている15。当該文献では阿育王像が咸和中(326~334 年)に丹陽の尹高悝によって

    発見され,楊都の長干寺に運ばれたことになっている。また,頭光は咸安元年(371)に見

    つかったといい,さらには蓮華座には梵文で「是阿育王第四女所造」との銘文があったと

    いう。

    画面の阿育王像は舟に乗り,画面の上方より,川のうねりに沿って舟先の方向を変えな

    がら下方に向っているが,最後の比較的大きな画面では,舟と像の進行方向は画面向かっ

    て左方に向く。この方向は,西側 S-1 の二像と同じ方向,すなわち西側から東側へと画面が

    移っていることを,視覚的にもあらわすものと考えられよう。また,題記の文も,各画面

    の最も西側にある場面の題記にのみ「此西晋時」「東晋時」と,説話の冒頭部の書式となっ

    ている点にも注意される。

    なお,画面 S-1 と画面 S-2 は,仏像が中国の長江流域および南海から発見され,舟によっ

    て南朝の都にもたらされたという内容的・図様的な共通点が認められよう。また,この過

    去二仏像と阿育王像の出現の話が,『高僧傳』巻一三の劉薩訶の伝16の中にも挿入されてい

    15 『感通録』巻中「東晉楊都金像出渚縁亓」(『大正蔵』巻亓二,p.414ab) 16 『高僧傳』巻一三「慧達傳」(『大正蔵』巻亓〇,p.409c)

    357

  • ることから,史葦湘氏や顔娟英氏によって当該画面と劉薩訶との関係が指摘されてきた17。

    しかし,これらの仏像の出現そのものに劉薩訶自身が関わっている訳ではなく,詳しい題

    記の記述の中にも劉薩訶の名は登場しない。ここではむしろ,過去仏および現在仏の阿育

    王像の江南地域から出現し,それらが今(唐代)も供養され続けられているという事をあ

    らわすことが重要であったとみられる。

    さて,南壁東側(画面 S-3)には,隋時代の曇延(516~588)の事跡があらわされている

    (図 8)。画面下方の右側には合掌する僧侶と,侍者を連れた貴人が対面して描かれている。

    両者の間には「隋開皇六年…」から始まる題記 s13 がある。題記には,開皇六年(586)の

    旱のとき,文帝(541~604)が法師に「この国に何か善くないことがあるために天下が旱

    となっているのだろうか」と問うたところ,延法師は大興殿において文帝に「八戒」を受

    けさせ,その結果雤が降った,とある。この場面の左側に,輿に乗って行く曇延の姿が描

    かれる。題記 s14 には「帝迎法師入朝時」とある。

    その上方には,城内の建物内の高座に僧侶が坐し,建物の前には地面に直接敷いた敷物

    に,きじんや侍者たちが合掌して坐っている。題記 s15 には,延法師が大興殿において皇帝

    に八戒を受けさせた。皇帝は殿の下で蓆をしき,そこで受戒したところ,ついに雲雤が降

    り至り,天下が潤った,とある。画面上方には雲がたちこめ,雤が降っていることに改め

    て気づかされる。さらに,その右側には,舎利塔が大きく描かれる。塔中の舎利が放光し

    ているが,本窟の壁画の中に描かれた放光表現の中で最も大きく目立っている。その放光

    する舎利塔を指さす人々の上部に,高座に坐る僧侶と,侍者を伴って坐る貴人とが描かれ

    ているが,塔の傍らに位置する題記 s16 に,曇延が塔の前で隋の文帝に涅槃経を講じ,並び

    に疏論を造りおわると,舎利塔が三日間放光した,とあり,その様子が描かれているので

    ある。

    周知のとおり,曇延の著書には『涅槃經義疏』一亓巻があり,隋文帝に厚遇されたこと

    でも有名である。『續高僧傳』巻八「曇延傳」18には,蒲州(山西省)の仁寿寺の舎利塔の

    前に『涅槃經』と『疏』をおき,焼香して誓願すると,涅槃の巻軸および塔中の舎利が三

    日三晩光明を放った,という。しかしそれは北周時代よりも前,すなわち北斉もしくは東

    魏の事柄として記されており,隋文帝に講説したために舎利が放光したという当該画面の

    17 史葦湘「劉薩訶与敦煌莫高窟」(『文物』1983-6),前掲注 6 顔娟英論文。

    18 『續高僧傳』巻八(『大正蔵』巻亓〇,p.498ab)

    358

  • 題記 s16 とは齟齬している。ちなみに,『感通録』巻下「曇延傳」19には,ごく端的に彼の

    伝記がまとめられているが,そこには,放光の事跡の噂をきいた隋文帝が彼を戒師として

    重んじて入京させた,とある。当該画面は,曇延による塔中舎利の放光の話が隋文帝と結

    び付けられて表現されているといえよう。あるいはそこには「仁寿寺の舎利塔の霊験」と

    いうのが,仁寿舎利塔を各地に立てた隋文帝との関係性をより密接に連想させた可能性も

    あろう。

    伝による時系列でいえば,舎利が三日三晩放光することの方が,八戒受持による降雤の

    事跡よりも早いため,舎利塔の場面から観始めると解釈する向きもあるが20,画面では右下

    の画面の題記 s13 の冒頭に「隋開皇六年…」とあること,そして舎利放光の場面が隋文帝と

    関係する内容として描かれていることから,右下の曇延法師招請の場面から観ていく順序

    と考えられる。

    北壁

    北壁は,内容から亓画面に分けられる(図 9,表 3)。向って右すなわち東側から,呉(3

    世紀半ば)の康僧会の事跡(N-1),阿育王(前 3 世紀)が外道の塔を礼拝してその塔が崩

    壊する場面(N-2),後趙(4 世紀前半)の仏図澄の事跡(N-3),釈迦の聖蹟(N-4),前漢(前

    2 世紀)の漢武帝の甘泉宮での金人礼拝および張騫が西域に出使する場面(N-5)が描かれ

    ている。

    北壁を観ていく順序については,馬世長氏は,表現される年代が比較的早い西端の図 N-5

    から観ることを想定している21。しかしながら,北壁西端の張騫西域出使をあらわす画面の

    導線が,西端上方で終わっていることや,その他の人物像の向きや全体的な画面構成から,

    筆者は,東側から西側に観すすめていくものと考える。

    以下,東側の画面 N-1(図 10)から確認していきたい。

    画面の中央の幕屋内に,蓮華座が描かれ,座の上面から多色の光が大きく放たれている。

    その様子を見て合掌する人々の中に,僧侶と貴人が含まれている。題記 n2 には,康僧会と

    仏との感通を,呉王(孫権)は信じなかったが,康僧会が設斎し行道すると,それに応じ

    て舎利を感得し,呉王は初めて建初寺を造った,とある。幕屋の上方には雲があらわされ,

    19

    『感通録』巻下(『大正蔵』巻亓二,p.428c) 20 前掲注 1 馬世長論文。 21

    前掲注 1 馬世長論文。

    359

  • 雲を辿って画面右上をみると,そこには寺院を建築している様子が描かれている。建初寺

    であろう。その左側には,人物を乗せた小舟があらわされている。康僧会が呉の地に到着

    した時をあらわしているのであろう。

    康僧会(?~280)は,先祖は康居(中央アジア・カザフスタン南部)の人,父が商人で,

    インドから交阯(ベトナム・ハノイ)に移住し,海路にて江南の地に仏教を伝えた僧とし

    て著名である。歴史的には江南の呉の地に初めて仏教を伝えたのは支謙であるが,『續集古

    今佛道論衡』に「從永平十年(67)至呉赤烏四年(241)。合一百七十年。康會是呉地僧之

    始。」22と記されるように,呉の地の初めての僧として位置づけられている。

    画面下部には,僧侶の前に,傘蓋をさしかけられた貴人が坐って合掌している。双方の

    間にある題記 n4 には,孫皓は仏法を疑っていたが,車馬で康僧会を迎え,因果を説いても

    らうと,たちまち仏を信じるようになった,とある。康僧会と孫皓とのやりとりで思い起

    こされるのは,阿育王像が地中より発見されたことと,その像にまつわる以下の説話であ

    る。『感通録』巻中「南呉建鄴金像從地出縁二」23には,仏を信じていなかった孫皓が四月

    八日の灌仏の際,件の阿育王像に尿をかけ,陰部が腫れてしまったが,仏教に帰依する一

    人の妓女が仏像を洗うと,孫皓の痛みも和らいだ。そこで車馬で康僧会を迎えに行き,宮

    中に上がらせ,熱心な仏教信者となった,と記されている。ちなみに,『出三蔵記集』巻十

    三「康僧會傳」24には,孫皓が馬車で康僧会を迎えにいき,そこで儒教よりも仏教の深遠な

    る所以が康僧会によって説かれる。その後に孫皓は阿育王像を得て,上記のような惨事に

    なるが,康僧会によって罪福の因果について説かれ,また亓戒を受けることによって,孫

    皓の疾が癒えた,とある。当該画面には康僧会を迎える孫皓という図様のみではあるが,

    その歴史的背景として,呉の地において阿育王像が地中からあらわれたこと,そして暴君

    であった孫皓が亓戒を受けて仏法を信じるようになったことなどが想起される。

    次に画面 N-2(図 11)には,崩れ落ちる塔と,それを礼拝する人物たちが描かれている。

    題記 n5 には,これが外道の尼乾子(ジャイナ教)等の塔で,育王(阿育王)が礼拝すると,

    塔は崩れ壊れてしまった,これも育王の感徳である,とある。阿育王のこうした事跡は文

    献にはみられないが,顔娟英氏は,鳩摩羅什訳『大莊嚴論經』等に,カニシカ王の事跡と

    22 『集古今佛道論衡』巻一「前魏時呉为崇重釋門為佛立塔寺因問三教優务事二」(『大正蔵』巻亓二,p.365a) 23 『感通録』巻中「南呉建鄴金像從地出縁二」(『大正蔵』巻亓二,p.413c) 24 『出三藏記集』巻十三(『大正蔵』巻亓亓,pp.96c-97a)

    360

  • して記述されていることを指摘する25。

    続いて,中央の画面 N-3(図 12)には,後趙の仏図澄の事跡について描かれている。中

    央に,傘蓋をあらわし机につく貴人と,右手を伸ばして雲を湧出しているような姿の僧と

    があらわされる。僧の湧出する雲は,画面左上に斜めに伸び,城郭の上で雤を降らしてい

    る。題記 n7 には,幽州の四城門を焼く大火事が起こった,そして仏図澄法師が石〔虎〕に

    説法し,遂に酒を散らしたところ,東方において,その酒が大雤に変わり,幽州の火事が

    消えた。その雤には酒気があった,とある。『高僧傳』巻九「佛圖澄傳」には,幽州の火事

    を仏図澄が遠方から察知したことが記される26。幽州は東北地方,現在の河北省北部に位

    置し,嘉平四年(314)に石勒が落とした。当該画面には,神通力を使いこなす仏図澄の神

    異僧ぶりがあらわされるが,この画面の右上にも,塔の鐸鈴の鳴る音を聴いて物事の吉凶

    をみる彼の姿が描かれている。また下方には,仏図澄が腸を腹から出して洗う場面が描か

    れる。題記 n9 は,欠字が多いが,澄法師の乳のところに孔があり,光明が出ている,とあ

    る。『高僧傳』「佛圖澄傳」には,仏図澄の左乳の傍らには孔があり,あるときは腸を腹の

    中から出す。普段は綿で孔を塞いでいた。夜に読書したいときには,綿を抜くと,孔から

    光が出て部屋が明るくなった。また,斎日には水辺に至り,腸を引き出して洗い,また腹

    の中に収める,とある27。

    画面 N-4(図 13)には,釈迦の聖蹟が描かれている。画面右側に仏立像があり,右手を

    下して袈裟を執っている。その前には天人が雲に乗って飛来し,地面には蓮華があらわさ

    れる。題記 n10 には「大夏波羅奈國佛初成覺時…」とある。波羅奈国とは初転法輪の地と

    して有名なインドのバラナシであるから,中央アジアの「大夏」とは符合しない。また,

    バナラシで「佛初成覺時」とあるのもおかしい。題記 n11 には,忉利天で仏が衣を洗いたが

    っているのを見て,便ち来て,地を池に化作した。供養をもって今に至っている。池は大

    夏にある,といい,ここでもやはり「大夏」の地に,釈迦の聖蹟が今(唐代当時)ものこ

    されていることが強調されている。ちなみに,『大唐西域記』巻八「摩揭陀國」には,南の

    池は,昔如来が初めて正覚を成し,衣を洗おうとしたとき,帝釈天が仏のために化作した

    池で,西にある大石は,仏の洗った衣を乾かすために,帝釈天が大雪山から持って来たも

    のである,とある28。

    25

    前掲注 6 顔娟英論文。 26 『高僧傳』巻九(『大正蔵』巻亓〇,p.386b) 27 『高僧傳』巻九(『大正蔵』巻亓〇,pp.386b-387a) 28 『大唐西域記』巻八「摩揭陀國」(『大正蔵』巻亓一,p.917b)

    361

  • 左の画面には,方形の大きな台と,その上に登ろうとする人物,台の手前に仰向けに倒

    れている人物,その傍らにもう一人,台に向って合掌する二天人,そして台の上に雷神が

    描かれている。題記 n12 には,この仏の脱いだ衣を,外道が踏んだところ,龍が風雤霹靂

    を起こして,外道は死んだこと,題記 n13 には,この方形の石は天が化作したもので,仏

    が衣を干した,石の上には十三條の文様が今も残っている。龍もまたこれを護り,時おり

    菩薩が来て洗うのである。天人の敬うところ今に至り,大夏にある,という。『大唐西域記』

    巻七「婆羅痆斯國」には,如来がかつて衣を洗った池があり,その池の側にある大きな方

    形の石の上には,如来の袈裟の跡がある。信者が来て供養しているが,もし外道の者がこ

    の石を踏んだならば,池の中の龍王が風雤を起こす,と記録されており29,バナラシでのこ

    の話が基になっているものと考えられるが,題記で繰り返されるのは,それが「大夏」で

    の出来事であり,石や池が今も大夏に残っていると強調される。なお,『大唐西域記』巻三

    「烏仗那國」にも,仏足石の近くに,仏が袈裟を乾かした石があり,石には袈裟の文様が

    残っていたとある30から,南アジアのウジャーナの聖蹟と混同し,西域の地で有名な「大夏」

    に読み替えられることになった可能性が示唆される。というのも,「大夏」はかの有名な張

    騫ゆかりの地であるからである。

    西端の画面 N-5(図 14)の向って右上に,二体の仏像がまつられる仏殿と,その前に柄

    香炉をもって坐る貴人および笏をもって立つ人物たちが描かれている。仏殿の題額部分の

    題記 n16 には「甘泉宮」とあり,下方の題記 n14 には,漢の武帝が匈奴を討伐して二金を

    得て,それらを甘泉宮に列置し,大神として常に行幸し拝謁していた時,とある。『史記』

    巻一〇〇「匈奴列伝」には,漢は驃騎將軍の霍去病をつかわして匈奴を撃ち,胡の首虜一

    万八千余級を得て,休屠王の祭天の金人を得た,とある。この時の「金人」が後世「仏像」

    に読み替えられた。『魏書』巻一一四「釋老志」には,休屠王を殺して獲た金人を,武帝が

    大神として甘泉宮に列したと記す。さらに,武帝は焼香礼拝するのみであったが,これが

    則ち仏道流通の漸である,とする31。この休屠王の祭天の金人は本来仏像ではなかったと考

    えられるが32,塚本善隆氏の研究において,これを仏像と解する説が三国時代から存在して

    29 『大唐西域記』巻七「婆羅痆斯國」(『大正蔵』巻亓一,pp.905c-906a) 30 『大唐西域記』巻三「烏仗那國」(『大正蔵』巻亓一,p.882c) 31

    「案漢武元狩中,遣霍去病討匈奴,至臯蘭,過居延,斬首大獲。昆邪王殺休屠王,將其衆亓萬來降。獲其金人,帝以為大神,列於甘泉宮。金人率長丈餘,不祭祀,但燒香禮拜而已。此則佛道流通之漸也。」(『魏

    書』巻一一四「釋老志」) 32 白鳥庫吉「匈奴の休屠王の領域とその祭天の金人とに就いて」(『三宅博士古稀祝賀記念論文集』岡書院,1929 年)等参考。

    362

  • いることから,『魏書』を著した魏収の頃には一般の説であった可能性の高いことが述べら

    れる33。また,『漢書』九四上「匈奴伝」の顔師古の注にも,休屠王の金人が「即今仏像」

    とあり,漢武帝の金人拝謁の記事をもって仏教初伝とする考えが,初唐期においても一般

    的であったことを窺わせる。なお,これらの文献にはただ「金人」とあるのみで,それが

    二体あったことを窺わせる記述は管見の限りみあたらない。

    画面の下方には,馬に乗る貴人と,それに対面して坐る人物,およびそれぞれの侍者た

    ちが描かれている。一方,坐る人物の後方(画面では左方)には,二人の侍者が背丈を超

    すほど長い持物をそれぞれ執り,さらに後方には数匹の馬および御者と思しき人物が描か

    れている。題記 n17 には,前漢の中宗が金人の名号を知らなかったので,張騫を西の大夏

    に行かせて,名号を問わせた時,とある。この題記によると,画面の馬上の皇帝は前漢中

    宗,坐っている人物は張騫となる。周知のとおり,張騫は匈奴との同盟を結ぶため武帝に

    よって西域に遣わされた人物で,没年は紀元前 114 年である。一方,中宗すなわち宣帝は武

    帝の曾孫で,在位は紀元前 73 年から前 49 年であるから,中宗と張騫が実際には対面する

    ことはあり得ない。張騫については,『四十二章經』等に,後漢明帝の求法の使者として登

    場する34など,実際に生きた時代と合わない記述はまま見られるのであるが,そうとしても,

    なぜ「前漢中宗」と書されたのか。単なる誤記とは考え難い。そこに漢の勢力を対匈奴的

    にも盛り返した中宗の功績を讃える意味を見出す余地も皆無ではないかもしれない。ある

    いは,中宗は石渠閣会議を開いて前漢の儒教思想を確立したことでも有名であるが,その

    中宗によって仏像の名号が中国に伝わったと示すことで仏教の権威と伝統性を高める意図

    があった,とも推測されるが,張騫に西域行きを命じた皇帝を武帝ではなくわざわざ中宗

    とした確たる理由については,今後の検討課題としたい。

    さてこの題記には,金人の名号を知るために,張騫を大夏に遣わせたとある。彦悰著『集

    沙門不應拜俗等事』巻三「西明寺僧道宣等序佛教隆替事簡諸宰輔等状一首」には,張騫が

    大夏に往き,身毒国すなわちインドの存在を知り,浮図というのは即ち仏陀のことで,「此

    れ初めて仏の名相を知る也」と記されており35,張騫によって仏陀の名が中国に知られるよ

    うになった,との説が初唐期にあったことが窺える。そして,画面の左上の隅には,城壁

    と仏塔等が描かれ,題記 n19 から,そこが大夏であると知られる。張騫と長い持物を執る

    33 塚本善隆訳注『魏書釈老志』(平凡社,1990 年) 34 『大正蔵』巻一七,p.722a 35

    『大正蔵』巻亓二,p.456b

    363

  • 人物二人が馬に乗り,遠方の大夏に向かう様子が,画面左に数景にわたって描かれている。

    この画面 N-5 は,漢武帝の甘泉宮による二金人拝謁と,張騫が大夏まで金人の名号を問

    いに赴いた,という場面とに内容的には別れるが,ともに仏教(仏像)の中国初伝に関わ

    る内容をあらわしている。

    以上,第 323 窟の周壁の図様および題記,そして関連文献から,それらの内容について

    確認した。東壁については禁戒図として一貫した内容を示していたが,南壁と北壁につい

    ては,さまざまな内容が混在しており,一見非常に複雑な壁画に感じられる。これらの中

    国への仏教伝来,三人の高僧の神異・感応の事跡,仏像の霊異の事跡,皇帝の崇仏等につ

    いて描かれる南北壁の壁画については,馬世長氏によって既にそれが初唐期における道教

    との宗教抗争を背景とし,仏教の優位を宣揚する意味があったことが指摘されている36。筆

    者はその見解に異論はない。ただ,南北壁および東壁にあらわされた各画面は,相互に何

    らかの関連性をもっており,その関連を踏まえることで,窟内壁画の理解がさらに深めら

    れるものと考えている。次章でそのことについて述べてみたい。

    二,南北両壁の相関関係

    南壁には,過去仏の維衛と迦葉の二像,そして現在仏の阿育王像の出現,そして曇延に

    よる『涅槃經』講説があらわされており,過去から現在,そして未来へという時間軸が意

    識された可能性が示唆されよう。

    一方,北壁には,甘泉宮の金人による中原への仏教初伝と,中央アジア出身の康僧会に

    よる江南への仏教流伝とが,左右端に配され,またインド出身の仏図澄の鄴での事跡を中

    央におくとともに,阿育王の事跡や大夏の釈迦の聖蹟を盛り込むなど,西方から中国への

    仏教伝来およびその地域的な拟がりが表現されている。

    ところで,北壁西端に描かれる画面 N-5 において二点ほど疑問が残る。まず一つめは,

    甘泉宮に置かれた金人はなぜ二体なのかとうこと,そしてもう一つめは,結局,金人の名

    号は何なのかということである。金人の名号を問うために張騫はわざわざ大夏に遣わされ

    たが,北壁の画面ではそれが明かされていない。

    36 前掲注 1 馬世長論文。

    364

  • この画面は,張騫が大夏に到着したところで終了するが,その導線と,その後の展開に

    改めて考えを及ぼすとき,本画面と対面する南壁西端の壁画 S-1 がこれに呼応するものでは

    ないかと推測される。すなわち南壁西端の画面は右上から始まるが,この場面を北壁で終

    了した場面の続きとしてみることはできないだろうか。そこに描かれるのは二体の仏像で

    あり,しかも,各像の名号が題記でわざわざ表記され強調されている。つまり,甘泉宮の

    二体の金人の名号が,それと対面する南壁の画面によって明かされているのではないかと

    いう考えが浮上する。

    すなわち,両壁画を組み合わせてみることで,そこに仏教初伝を象徴する甘泉宮の休屠

    王祭天の金人二体が,実は後に松江に出現する過去二仏の「維衛佛」「迦葉佛」であったと

    の文脈を読み取ることも,一つの可能性として挙げられよう。想像を逞しくするならば,

    甘泉宮の休屠王の金人の名号が,大夏から還った張騫により過去仏の「維衛佛」「迦葉佛」

    であることが伝えられ,仏像に名号が刻まれたが,それらの仏像が何らかの理由により所

    在不明となり,時を経て,地域を隔て,江南の松江に再び自ら現れた,という飛躍あるも

    興味深いストーリーが本窟において構築されたと推測することもできるかもしれない37。そ

    こには,松江に自ら現れた「維衛佛」「迦葉佛」の仏像の由緒を暗示する意図が,壁画の制

    作者側にあり,ゆえに金人がわざわざ二体描かれたのではなかろうか。「其像見在呉都供養」

    と題記に記されるように,今も呉都で供養されているそれらの仏像が,実は仏教初伝を象

    徴する甘泉宮の休屠王祭天の金人で,漢武帝も拝謁していたという由緒をもつことで,中

    国における仏教信仰の歴史とその継続性を強調する効果が期待されたともみられよう。だ

    からこそ,北壁には,二金人の名号を問わせるために,わざわざ張騫を大夏に遣わす画面

    が描かれたとも考えられよう。

    ちなみに,長安郊外の離宮である甘泉宮の二仏像が後に呉松江に現れた,ということは,

    仏像が黄河を経由し,江南に往きついたということになる。しかし,そのような状況を想

    定することは果たして可能なのだろうか。この点については南壁中央の阿育王像出現の画

    面が参考になる。楊都の阿育王像出現の内容は『集神州三寶感通録』巻中「東晉楊都金像

    出渚縁亓」に記載されているが,そのなかに,以下のような内容が盛り込まれている。す

    なわち,阿育王像を見つけた高悝のところに,西域の亓人の僧侶が訪ねてきて,「昔,イン

    37 金人が石仏であったと解されるか否かは問題となろうが,仏像が素材は何であれ表面を金色に荘厳する

    ことが一般的にみられることを考えると,金人が実は鍍金の石仏であったと解釈することにさして無理は

    生じないように思われる。もとより,「金人」を「二金」として二体の仏像を描いてしまうほど改作されて

    いる状況においては,そうした疑問ももはや大きいものではなかったかもしれない。

    365

  • ドに行ったときに阿育王の像を得たが,鄴に赴いたときに,乱に遭ったために阿育王像を

    河浜に隠した。しかしその行方は分からなくなっていた。近ごろその像が夢に出てきて,『吾,

    江東に出でて高悝の得るところとなった。』というので,遠くから参ったのだ。どうか礼拝

    させてくださらぬか。」と言った,とある38。つまり,河浜すなわち黄河(あるいは鄴の漳

    河)の浜に隠した阿育王像が,江東すなわち長江の東から出現したということであり,華

    北で行方の分からなくなった仏像が,長江流域で出現するという例が隣の画面に示されて

    いるのである。このことは先の甘泉宮の金人と松江の過去仏の関係性についての推測を補

    強するものといえよう。

    さらに興味深いのは,画面 S-2 に対応する位置に,まさに鄴の石勒・石虎の時代の内容が

    描かれていることである。すなわち,ここでもやはり南北の画面での対応関係が認められ

    るであろう。また,西域から伝わった仏像が,華北から江南そして交州(ベトナム)に移

    動され自ら出現したことを,南北両壁の画面によって暗示することにより,中国における

    仏教興隆の地域的な拟がりとともに,それが仏像を介して成立するということが効果的に

    あらわされているともみられよう。あたかも,仏教の聖地理が,西域から中国全土に拟張

    し浸透してきたという空間軸が,歴史的な時間軸とともに,窟内の図様表現において意識

    されていると考えられる。

    このように,南北両壁が内容・図様的に対応していることを念頭においてみるならば,

    東端の両画面にもまた関連性を見出すことができる。すなわち,北壁の康僧会の舎利感得

    の画面における舎利の放光と,南壁の舎利塔の放光とには,舎利の放光という共通性があ

    ることが,視覚的にも明らかである。さらに,南壁の曇延の事跡では,隋文帝が亓戒を受

    持することが一つの大きな为題であるが,北壁の画面でも,素行の悪かった孫皓が亓戒を

    受けることによって疾が癒え,仏教に帰依したことなどが示唆されており,両壁で皇帝の

    受戒をあらわすという共通点を挙げることができよう39。

    その他,南壁では曇延にしたがって隋文帝が受戒したことよって,降雤となり,旱の危

    機が解消されるが,北壁では石勒と行動を共にする仏図澄が神通力で遠く離れた幽州に雤

    を降らせ,火事を消す。すなわち降雤の場面が南北壁の双方にあらわすことにより,皇帝

    38 『集神州三寶感通録』巻中「東晉楊都金像出渚縁亓」(『大正蔵』巻亓二,p.414b)「久之有西域亓僧振錫詣悝云。昔遊天竺。得阿育王像。至鄴遭亂藏于河濱。王路既通尋覓失所。近感夢云。吾出江東為高悝所得。

    在阿育王寺。故遠來相投。欲一禮拜。」 39 なお,北壁に,斎日に水辺で腸を引き出して洗う仏図澄の姿が描かれているが,それも,仏図澄の神異性とともに,彼が戒の受持者であることを示唆しているともみられる。

    366

  • の受戒と僧の神通力によって天の気をも左右できることが観者に印象付けられたと想像さ

    れる。

    ところで,南北の両壁とも,東側に,皇帝による亓戒の受持についてあらわされている

    が,顔娟英氏や田林氏も言及するように40,これらと東壁の禁戒図とにも受戒という共通項

    がある。

    三,東壁の禁戒図と南北壁の菩薩列像

    先に確認したように,東壁には,『大般涅槃經』「聖行品」所説の諸々の禁戒をあらわす。

    他に例をみない本窟特有の禁戒図であるが,本窟内においては,南壁東端の画面に,曇延

    が『涅槃經』を講じ疏論を造ったことがあらわされているため,皇帝の亓戒受持に加え,『涅

    槃經』という結びつきが両画面にあることを指摘することもできよう。

    この禁戒図は,窟内においてどのような意味をもって描かれたのであろうか。この問題

    に関し,巫鴻氏は,戒律を強調する姿勢があらわれているものとし,道宣派の律宗の僧侶

    が造営に深く関与したとみるとともに,南北壁の下段の菩薩列像の存在をも考慮し,本窟

    が菩薩戒を授ける戒壇としての機能を持っていた可能性を示唆する。戒壇としての機能が

    本窟にあったかについては,更なる考察を要しようが,極めて珍しいこの禁戒図の存在は,

    戒の受持が本窟の大きな为題であったことを想定させよう。

    一方,顔娟英氏は莫高窟第 332 窟(初唐)の西壁の涅槃像下方の菩薩並列像 14 体のなか

    で,題記の判読できる 7 体のうち 6 体が,『大通方廣經』に説かれる仏名に一致するという

    趙曉星の報告41から,第 323 窟の南北壁の 14 体の並列する菩薩像についても,同経の影響

    が大きいとする42。そして『大通方廣經』が在家菩薩による礼仏・懺悔を説くことから,第

    323 窟の为題の一つが,大乗仏教徒の礼懺信仰であると論じている。しかし,本窟の菩薩列

    像には題記はない。それらが『大通方廣經』に依拞する図であるという可能性は皆無では

    ないものの,その根拞は乏しく,第 323 窟に『大通方廣經』の影響を積極的に想定するこ

    とには無理があろう。ただし,それまで踏み込んだ具体的な解釈がなされてこなかった第

    40 前掲注 6 顔娟英論文,前掲注 7 田林論文。

    41 趙曉星「莫高窟第 401 窟初唐菩薩立像与『大通方広経』」(『敦煌研究』2010-5) 42 前掲注 6 顔娟英論文。

    367

  • 323 窟南北壁の 14 体の菩薩列像について,それが礼懺信仰と関わりのある尊像として位置

    づけた顔娟英氏の見解は興味深い。禁戒図をあらわす第 323 窟で,受戒の前提となる礼懺

    が行われた可能性は高いと思われるとともに,菩薩列像が本窟南北壁の下部に,人と同じ

    目線上にかなりの存在感をもって描かれていることの理由の一つとして,それらが礼懺の

    ために勧請された存在である可能性を考える余地は大いにあるものと思われる。

    ところで,最近,本窟の壁画に関する新しい文献史料が,田林啓氏によって報告された43。

    大東急記念文庫および白鶴美術館所蔵の『畫圖讃文』である。本史料は,本来は画と讃が

    セットになっていたと思われるが,現在,讃のみの第二十六巻(大東急本)と,第二十七

    巻(白鶴本)が残る。その書体から初唐あるいは盛唐期に書写されたと考えられている。

    本史料のうち,白鶴本の「第二十二図讃聖迹住法相此神州感通育王瑞像」に,第 323 窟南

    壁の S-1,S-2 の内容が含まれている。そのほか,孫皓が阿育王像に帰依する話や,仏図澄

    が阿育王塔の下から露盤と仏像を得た話(第二十三図)も掲載されるなど,第 323 窟の壁

    画に登場する人物の話もみられる。加えて,本史料には,こうした仏塔や瑞像の由来や霊

    験譚に続き,南斉・䔥子良撰『淨住子淨行法』の各章が挿入されている。『淨住子淨行法』

    は在家信者の布薩の方法を記すもので,田林氏は第 323 窟の南北壁上部の画面と東壁の禁

    戒図の組み合わせが,『畫圖讃文』の内容すなわち説話図と『淨住子淨行法』の組み合わせ

    に共通するとし,第 323 窟が在家信者をも対象とした斎の設けられる窟であった可能性が

    強く,本窟の説話図は,ある程度知られていた説話を示すことで仏菩薩の応現や守戒実践

    者による効験を人々の現前にあらわす役割をもっていたと解した。説話的な内容をあらわ

    す同窟南北壁の図が,懺悔や禁戒の受持などの布薩のテキストとセットとなって,在家信

    者の信仰の実践に用いられていた可能性が本史料の存在によって呈示されたといえよう。

    ちなみに,『畫圖讃文』大東急本の第二十六巻には第十八図から第二十図,白鶴本は第二

    十一図から第二十三図の讃文が記され,それぞれの讃文に『淨住子淨行法』の第十八門か

    ら第二十三門の各門が対応する形となっている。ただし,各図讃と『淨住子淨行法』の各

    門とは,内容的には特に対応していないようである。このうち第 323 窟の壁画に描かれる

    内容は,尐なくとも二十三図(しかも各図に複数の内容が盛り込まれる)あるなかの,ほ

    んの一部に過ぎない。なぜそれらの限られた画題が選択されたのであろうか。本窟におい

    て,在家信者による懺悔や受戒の実践が行われたとするならば,南北壁上段の説話図の内

    容とそうした実践とは,守戒実践者による効験を現前にあらわすという以外に,具体的に

    43 前掲注 7 田林報告ならびに論文。

    368

  • どのような関係性を持ち得るのであろうか。

    ここで確認しておきたいのは,第 323 窟東壁の禁戒図が,いわゆる亓戒や八斎戒などの

    在家信者の受持する禁戒をあらわすものではないという点である。第一章で述べたように,

    第 323 窟の禁戒図には,僧侶が諸々の禁戒を受持する様子,そしてそのため発せられた誓

    願の内容があらわされていた。つまり,自身が傷つこうとも禁戒を受持するという厳しい

    覚悟をもち「聖行」を実践する僧の姿である。それは実際の修行僧のあるべき姿ともいえ

    るであろう。この禁戒図を目の前にする僧たちにとって,それは自身の持戒において見習

    うべき手本としての意味も持ち得たとも考えられる。しかし,在家信者にとっては,自身

    の持戒の見本ということではなく,「聖行」を正しく実践している僧の存在をそこで確認す

    るということではなかったか。

    そうとみるとき,南北壁上部の壁画についても別の捉え方ができそうである。すなわち,

    漢武帝の金人拝謁および過去仏像や阿育王像の出現,あるいは神異をあらわす高僧や奉仏

    者となった皇帝の説話,舎利の出現および放光などは,それぞれ個別の霊験説話的な内容

    を示してはいるが,全体でみればそれは,西方由来の仏・法(舎利)・僧の三宝が,東の辺

    土である中国において歴史的に確かに存在したことをあらわしているとも考えられる。西

    方から伝来した仏像や舎利が,中国の地中や水中から再出現するといったことは,仏・法

    が,中国においてあらためて蘇ることを示唆しよう。そしてそれらの蘇生は僧侶によって

    成されるのである。加えて,題記には,仏像や聖蹟が今もまだ存在し,供養されているこ

    とが繰り返し記されていたが,それは中国において仏・法がずっと存在し続けていること

    をあらわす。また,西方から来た僧は中国に戒を伝え,皇帝の受戒により国土が潤った歴

    史と,今もなお禁戒を厳格に受持する模範とすべき僧が中国に存在していることをあらわ

    す図によって,中国における僧および戒の確固とした存在感を示しているとも考えられる。

    言うまでもなく,三宝への帰依こそ,出家在家を問わず,仏教信仰の基本である。それ

    は「三帰戒」として,受戒の根本にも位置づけられる。第 323 窟の周壁の壁画は,そうし

    た三宝の,中国における実在を,さまざまに工夫しながら表現したものではなかろうか。

    そしてそれは,中国仏教徒の信仰において重要な,戒の受持のよりどころとなったと考え

    られよう。

    369

  • おわりに

    敦煌地域の石窟は内部空間が広く,窟内において何らかの宗教的な行為や斎会などの儀

    式が行われたことを推測させる。このことを踏まえ,本稿では,極めてユニークな壁画内

    容をあらわす莫高窟第 323 窟の宗教的機能と図像表現について考察した。禁戒図が描かれ

    ることから,戒の受持をキーワードに他の壁画を見渡すとき,中国における三宝の実在が

    そこに为張されていることに改めて気付かされる。単に三宝を視覚的にあらわすというだ

    けでなく,三宝の感応が中国でおこっていることを明示することで,中国で蘇った三宝へ

    の帰依―受戒の根本に繋がるものであったのではなかろうか。

    ところで,東壁の禁戒図は,出家者と在家者とでは,それぞれの立場で異なる捉え方が

    できると述べたが,他の壁画についても同様のことがいえる。同じ壁画をみても,立場が

    違えば,意味も違ってくる。すなわち一つの画面があらわすことは一つには限らず,そこ

    には重層的にさまざまな意味が含まれており,観る者の立場の違いによって読み取る内容

    も差異が生じてくる。

    馬世長氏は,初唐期における仏教界が道教界との優位争いの中で,第 323 窟の南北壁上

    部の壁画に仏教宣揚の意図があったことを指摘した44が,これもまた同壁画の重要な一面で

    あろう。本窟のような他に例のない特異な作例をなぜ造ったのか。単に,僧侶や信徒の受

    戒のためだけではなかろう。唐朝の道先仏後という宗教政策のもと,仏教は自らの権威を

    高める必要があったに違いない。すなわち,西方由来の仏像・舎利・僧が中国の地で感応

    現象をみせる諸々の事例を示すことで,西方由来の正統的な仏教が中国の地に非常に早い

    段階から深く根を下ろし,今もなお正しい仏教信仰が継続されている,と視覚に訴えるこ

    とによって,唐代の仏教の正統性を政治的に为張したとも考えられる。このような文脈で

    みるならば,東壁の禁戒図もまた戒律を厳格に守る清廉な仏教界の存在意義をあらわすも

    のとしても捉えられよう。あるいは,南北壁の画面に展開した,降雤によって国を旱から

    守り,幽州などの遠隔地も神通力で守護するという場面も,護国思想が反映している可能

    性もあるだろう。唐前期,周辺地域に対して勢力を大きく拟大する唐王朝に,鎮護国家的

    な仏教の性格をアピールすることも,仏教側にとって大きなねらいであったとも思われる。

    こうした当時の仏教界の動向と本窟壁画の制作とを合わせて考えるとき,その制作時期45等

    44 前掲注 1 馬世長論文。 45

    制作年代に言及する大方の研究では,初唐期(7 世紀末)との見解を示すが,史葦湘氏は盛唐期の制作

    370

  • についても更なる検討が必要であると思われるが,紙数の関係もあり,それについては別

    稿に譲りたいと思う。

    なお,本稿では,窟内の壁画の全体を見渡すことによって,相互に密接な関係性がある

    ことを明らかにし得たが,その過程で,壁画を見る順序として,東壁は南側から北側の方

    向,北壁は東側から西側の方向,そして南壁は西側から東側の方向を推定できることが明

    らかとなった。この方向は,いわゆる右繞と反対となる。しかしながら,初唐期の莫高窟

    第 431 窟の十六観図においてもやはり,北壁から西壁そして南壁という順序となっている。

    したがって,唐代前期においては左繞の動作に沿って周壁をあらわし,それを左繞しなが

    ら観ることは,決して特別なことではなかったと考えられよう。

    窟の内部に入り,まず目に飛び込んでくるのは本尊の塑像であろう。本尊が当初の姿を

    さほど改作しておらず,現状の倚像と考えられるとすると,その尊格は弥勒仏と考えるの

    が穏当であろう46。南壁には過去二仏と釈迦仏(阿育王像),そして『涅槃経』を講説し涅

    槃経疏を造る曇延と,それに感応する舎利が描かれていた。すなわち,過去から現在,そ

    して未来へと,仏法が永劫に継承されていくことが,壁画と本尊塑像によって構成されて

    いるといえよう。本窟には,三宝とともに,三世の仏教世界観をもって,中国の地に仏法

    が深く浸透していること,およびその由来があらわされていると考えられよう。

    とする。史葦湘「劉薩訶与敦煌莫高窟」(『文物』1983-6)。

    46 莫高窟第 323 窟の西龕内には塑壁で山岳があらわされており,当初も同様の形式であったと考えられるが,本尊弥勒仏が山中にあらわされることについても更なる考察が必要である。

    371

  • 図 1 莫高窟第 323 窟内景

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画巻』より転載)

    図 2 莫高窟第 203 窟西龕

    (Les grottes de Touen-Houang, Vol.2)

    図 4 第 323 窟東壁北側

    (『中国石窟 敦煌莫高窟』三より転載)

    図 3 第 323 窟東壁南側

    (『中国石窟 敦煌莫高窟』三より転載)

    372

  • 図 5 第 323 窟南壁

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画巻』より転載)

    図 6 第 323 窟南壁 画面 S-1

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画巻』より転載)

    図 7 第 323 窟南壁 画面 S-2 部分

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画巻』より転載)

    図 8 第 323 窟南壁 画面 S-3

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画巻』より転載)

    373

  • 図 9 第 323 窟北壁

    (『中国石窟 敦煌莫高窟』三より転載)

    図 10 第 323 窟北壁 画面 N-1

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画

    巻』より転載)

    図 11 第 323 窟北壁 画面 N-2

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画

    巻』より転載)

    374

  • 図 12 第 323 窟北壁 画面 N-3

    (『中国石窟 敦煌莫高窟』三より転載)

    図 13 第 323 窟北壁 画面 N-4

    (『中国石窟 敦煌莫高窟』三より転載)

    図 14 第 323 窟北壁 画面 N-5

    (『敦煌石窟全集 12 佛教東伝故事画巻』より転載)

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  • 376

  • 377

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    wp.pdfから挿入したしおり2014年度:研究報告書.pdfから挿入したしおり報告書③(空白ページ空白ページ空白ページ

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