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辿Thelonious Monk, "Functional", Thelonious Himself , Riverside Records, 1957 第Ⅰ部 はじまりの場所 17 16

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Page 1: へと生まれ出ようとするその音を弾いた。 その セロニアス ...repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/94690/1/pieria2020...セロニアス・モンクはその時、一つの音が扉を開けて外

 

セロニアス・モンクはその時、一つの音が扉を開けて外

へと生まれ出ようとするその音を弾いた。

 

中国語とはいったい誰なのだ。文字(絵画)と音という

しかも無限の双方が刻跡し残響していく曠野へ、さらに双

方の協働の地平線を曳くべく、永遠に作業を重ねる物神的

愉悦と音声的挑戦の銀河である。長く交流する中国の友人

の子供に、聴覚障害を持つ若者がいる。生まれ育ったのは

中国東北、北方系の漢語と共に異民族言語との接点も多く、

また漢語共通語の歴史地理を汲む場所だ。生まれてすぐ、

病気の投薬によって聴力を失った。母語である「中国語」

の音を聴き取るに多大な壁を強いられ、話すさいの母語が

持つ音の高低と破裂という曲折の銀河を旅するにも多大な

挑戦を迫られる。しかし美しき中国語ネイティヴなのだ。

「多言語・多文化」なる超越集合だけが〈多様〉を担保す

るのではない。もっと具体的で微細でそれゆえ不可視化さ

れる高き蒼きパッセージの中にこそ、多様な人間は生きて

いる。

 

その彼がうちに来た時のこと。彼は日本の大学を受験す

るための自習、僕は自分の仕事の作業、と部屋のあちらと

こちらで別々に集中していた。ふと気づく、彼が短く鋭い

声を挙げて、僕に向かって怪訝な表情をし、手で何かを伝

える。まず自分の耳を指さし、彼だけが気づいた振動する

空気の方角を名指そうと思案している。自習している内容

について質問でもあるのかなと僕は彼に近づく。しかしそ

うではない。彼は不思議そうな眼をしてしきりと自分の耳

を指さす。さして広くない部屋の空中を指さす。

 

部屋にはセロニアス・モンクのピアノの音が響いていた。

 

なんと彼の耳は、ポツンポツンと弾かれるセロニアスの

音をかすかにキャッチしたのだ。世界史上、彼だけが聴い

たセロニアス・モンクである。しかもそれはソロ・ピアノ

集。他のピアニストやジャズ・コンボのもっと音数も音量

も大きいレコードを、彼が来た時にも偶然いろいろ掛けて

いたが、ついぞ彼が反応したことはなかった。あとにもさ

きにもあの日のセロニアスのあの音だけだ(僕は僕で、あの

時のセロニアスの音を自分のこの耳だけで聴いた音で彼が聴いた音

と想像一致させるしか無いのだが)。宇宙という名の紺色の空

に自転し公転する光が色と傾きを少し変えるように、かん

高く強くクリアに同時に並べてどこかに差し出すひと。セ

ロニアス・モンク。その音は友人の耳へと向かうべく世界

のたくさんの扉のうちのたった一つを推し開けた。その日

それを聴いた者は自分の仕方でそれを手に入れた。

  

心同野鶴與塵遠,詩似冰壺見底清

  

上陽秋晚蕭蕭雨,洛水寒來夜夜聲

韋応物(唐)《贈王侍御》部分

 

友人がいま居座しているだろう場所にやさしい雨が降り、

それが集まって河を伝い、同じ町の自分が居座する別のゾ

ーンで音となる。と読みたい。韋応物は友人との心の連帯

を歌った。雨の音はそれを聴く自分によって〈声〉となり、

その自分の耳の行動がそれを響かせる。《列子》は言う“声

不生声而生响”(声が生まれるともはや声は響きとなる)。世

界では日本では今日から今後、恥知らずな政治屋たちが自

分のアレと「名誉」を求め、他者と地球を無視して楽しそ

うに飛び交う荒野が極まるだろう。だが地球の曠野はそこ

ではない、必ず日本現憲法の声が大切にされる〈どこか〉

だけだ。耳をだ。澄ませたい。僕の友人のように、韋応物

のように。沖縄辺野古の人が聴く歴史のニンゲンの声を。

ジュゴンの声を。

 

君よ、君が聴く音は君にしか聴こえていないのだ。その

音が果てしなき遥かな道へと始めに旅立ち、君の耳のほう

へと彷徨い辿り着こうとした。一羽の鶴が飛び立ち、一匹

の猫が走り出す。それはとってもたいへんなことだ。その

高き蒼き音に促され、今度は君が果てしなき旅をする番だ。

 

まさにその時、セロニアスはたったひとつの音がまこと

に重き扉を推し開けて外へと生まれ出て行こうとするその

音を弾いた。

はしもと・ゆういち 

総合国際学研究院准教授 

中国文学・植民地社会事情

〈はじまりの場所〉……………………………… 曠

セロニアス・モンクは一つの音が

重い扉を開けて外へ生まれ出ようとする

その音を弾いた。

橋本

雄一

曲案内

Thelonious Monk, "Functional", Thelonious Him

self , Riverside Records, 1957

第Ⅰ部 はじまりの場所

17 16