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死絵における「情報」repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/37729/rsg089...305 死絵における「情報」 ―錦絵の報道性に対する一考察― 藤 川 智

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  • 305

    死絵における「情報」

    ―錦絵の報道性に対する一考察―

    藤  

    川  

    智  

    はじめに

     

    死絵は錦絵の一種であり、主に歌舞伎役者の「死」を題材とする。死絵には大きな特徴が三つある。①死去した歌舞伎

    役者等を追善目的で描く。②訃報伝達のために販売した浮世絵版画である。③「死」を直接的(死体等)ではなく、婉曲

    的な表現で描く。つまり、対象者の死後に描かれた全ての絵画ではなく、追善の意図や訃報伝達の目的を持った錦絵を指す。

    安永六年(一七七七)頃から昭和一〇年(一九三五)頃の間に制作され、江戸時代後期から明治時代を中心に作例を確認

    できる。現代の媒体と比べると、追善に用いられる遺影や、著名人の訃報伝達をする新聞記事に似た性質を持っていた。

     

    一方で死絵がこれらの媒体と決定的に異なる点は、肖像や文字情報といった事実に即した面だけでなく、その画中に「死」

    を想起させる婉曲表現が描かれていることである。死装束を思わせる裃姿や、あの世へ向かう旅人の姿、先に死去した役

    者との再会等、死者の死後に対する理想を含み、それが死絵最大の特徴であった。

     

    死絵に関する研究は林美一氏による「死絵考」に端を発し、特に一九九〇年代後半以降に研究論考や博物館・美術館の

    展示など様々な形で成果が発表されてきた。先行研究によって、死絵の内容や構図に関する理解には一定の蓄積がなされ

    (1)

    (2)

  • 駒沢史学89号(2017) 306

    てきた。研究の多くは画面構成を中心とした《美術史的》側面に着目し「死絵には『何が』『どのように』描かれている

    のか」を明らかにしてきたのである。

     

    画中に多彩な要素が込められている死絵にとって、その内容を解釈することは非常に重要である。だがこうした画面構

    成が考えられてきた一方、死絵の存在意義や出版事情についてはあまり目が向けられてこなかったように感じられる。例

    えば、著名人の「死」を人々がどのように受け止めたのか。なぜ「死」という題材が錦絵(商品)になりえたのか。また、

    近代に至る情報媒体の在り方、現代との「死(あの世)」の考え方の違い等、死絵を軸に様々な問題が見えてくる。

     

    そこで「死絵が受け入れられていた背景を明らかにすることで、死をめぐる文化の新たな側面を考えていく」ことを目

    標に、この研究に取り組んでいく。

     

    今回は、画中の文字情報に注目し、死絵に求められた訃報伝達媒体としての側面を考察する。文字情報は死に関する客

    観的な事実を書いている。それらが商品になり得た背景を考えていきたい。

    一 

    死絵を考える三つの視点

     

    今回は死絵の役割を基に、まず三つの視点を示す。〔参考資料1〕

     「姿」…生前の面影(肖像・似顔)を基本とした容姿と、その伝え方

     「姿」は死絵の対象者の容姿を描いた部分を指す。意味は「肖像」に近いが、「肖像」は上半身像を指すため「姿」とし

    た。死絵は全身を描いた場合の方が多い。

     「情報」…対象者の死に関する客観的な事実と、その伝え方

     「情報」は画面内の文字情報を指す。死絵は画面全体が肖像・死の伝達など様々な情報を有しているが、今回は客観的な

  • 藤川智子  死絵における「情報」307

    事実である文字情報のみを「情報」とした。多くの場合は名前(戒名・俗名)・没年月日・行年・墓所の四点で構成される。

     「死生観」…死をイメージさせる要素と、その伝え方

     「死生観」は画中から読み取れる「死」の要素を指す。「姿」「情報」と比べて客観性が少ない。また、独立した項目で

    はなく常に「姿」と「情報」の背景として存在する。

     

    多くの死絵は、「姿」を中心に「情報」を載せ、その社会で広く受け止められていた「死生観」を反映させた形式をとっ

    ていた。死絵は、追善草双紙等の影響を受けて成立し、他の錦絵同様に、写真技術の発達によって役割を奪われたとされ

    る。しかし、この三視点を当てはめると、死絵は「姿」「情報」「死生観」を持って成立していながら、写真に「姿」のみ

    を引き継ぐことになる。なぜなら、死絵は画中に「情報」を持つが、写真それ自体には「情報」が無いからである。写真

    が普及し「情報」が求められなくなったとは考えられない。「姿」が写真に移ったのと同様に、「情報」を引き継いだ媒体

    があると考えるべきであろう。また「死生観」の面においても、生前の真実のみを伝える写真が、死絵の役割を全て担っ

    たとはいいがたい。つまり「写真によって役割を奪われた」というのは死絵衰退のある一面でしかないといえる。三視点

    に限って言えば、それは「姿」であり、「情報」と「死生観」のその後について考察の余地がある。今回は「情報」を中

    心に、死絵の存在意義を考える。

    二 

    役者の訃報と死絵

     

    死絵の多くには名前・没年月日・行年・墓所の四点を中心とした「情報」が記載された。そこで、社会が求めた役者訃

    報のあり方から死絵の存在意義を考える。第一節は、役者の死後の世間の様子から、訃報が社会に与えた影響を見ていく。

    第二節では、死絵の報道性に着目し、社会に求められた訃報の「情報」を考える。

  • 駒沢史学89号(2017) 308

    (一)役者の訃報は手に入れる価値があったのか

     

    1 

    安永六年―二代目市川八百蔵の死

     

    まず、死絵が制作され始めた時期について見ていく。二代目市川八百蔵は享保二〇年(一七三五)生まれの立役で、時

    代物・世話物に適し、また荒事・和事に通じた役者であった。八百蔵は、安永六年七月に舞台の予定があったが、同三日

    に四三歳で死去した。死因は不明で、突然死だったとされる。

    〔史料1〕柳沢信鴻『宴遊日記』(安永六年七月五日)

     「仲車寉乱にて此頃失せし由

    去三日咄合の日坐席にて即死」

     

    この死に対し、人々はどのような反応を示したのか。

    〔史料2〕山東京山『蜘蛛の糸巻』「十一 

    中車死亡」

     「

    此八百蔵、其頃役者中の美男にて、婦女としてひゐきせざるはなく、中車うせたる初七日、婦女の参詣多く、浅草近

    辺のしきみの花、売切れしと、京山母の物語りきゝぬ。墓前に中車が紋所をつけし銀のかんざし、参詣の婦女手向の

    心にて、地上にあまたさしおきしとぞ。又戒名一枚百疋づゝにて寺より与へしとぞ。近来婦女たちのひゐきありし役

    者のうせたる多かりしに、さる事のおろかなるふるまひありしを聞かず」

     〔史料2〕によれば、生前には「其頃役者中の美男にて、婦女としてひゐきせざるはなく」といわれるほどの人気があっ

    た。この人気は死去の直後も続いていたようで、生前贔屓にしていた婦女が墓所に多く参詣した様子がうかがえる。

    〔史料3〕『半日閑話 

    巻一』「◆市川中車の死」

     「

    安永六年丁酉七月三日、優人市川八百蔵中車死す。都の者会葬する輩数十(〈千〉)人。古来俳優の者死してよりかゝ

    る盛なる事をきかず。冶遊の少年、淫蕩の婦女、孝妣を失へるがごとし。法号、実応中車真解浄土と云。」

    〔史料4〕『半日閑話 

    巻二四』

    (3)

    (4)

    (5)

    (5)

  • 藤川智子  死絵における「情報」309 「  

    ○八百蔵死去

     

    二代目八百蔵、安永六丁酉死す。老若男女おしなめて墓参りすと云々。」

     〔史料3〕〔史料4〕では、八百蔵の死がそれ以前の役者に比べて重大な事態であったうえ、墓所への参詣者が老若男女

    に及んだとしている。墓所に多くの人々が押し寄せるほど「八百蔵の死」は注目されていたのである。

    〔史料5〕「燕雀論」(『歌舞伎年表』より)

     「

    八百藏死せしと聞えしかば、早くも彼がかたちを畫かき、版におろし、其様水上下を着し、手に筆と短册をもち、柳

    をかき、傍に「秋風や土となり行露の玉」といへる一句をしるし、其うれたること日々千萬の數を以てし……又かれ

    の髪の毛に法名をそへて金百疋つゝに賣たり。墓所にも散銭の箱を出し、日々の參詣引も切らず。或ハ手向る水を呑

    ものもあり。また彼が墓所にて髪を切り尼となりたるもの三四人ありしとかや。(中略)八百藏か世にありし時、髪甚

    だうすく、至て少なかりしか、死後にあまたの髪の毛を賣りしハ、何人の髪の毛にやあらん。されば初の程ハ金百疋

    なりしを、後には買手もなく、依て銭百文にて賣りしとかや。」

     

    ここでは、八百蔵の死に伴い絵が制作されたことが分かる。〔図2〕とは異なるようであり、これは〔図2〕のみが突

    発的に現れたのではなく、死者を描く絵が複数存在した可能性を考えさせるものである。

     

    また、墓所への参詣に多くの人々が訪れていたことは確認したが、一部の人々は「八百蔵の死」を様々な方法で受け入

    れようとしていた。一つは自らが出家すること。もう一点は、八百蔵の遺品を手に入れる方法である。ここでは、八百蔵

    の法名に髪の毛を添えて金百疋で売ったとしている。同様の事が〔史料2〕でも「戒名一枚百疋づゝにて寺より与へしと

    ぞ」とある。墓所となった寺にとって、訃報は一つのビジネスチャンスと捉えられていたのではないか。役者の死は人々

    の注目を集める話題であり、それが商品となりえた。戒名を売ったとすれば、江戸の人々にとって訃報の「情報」は手に

    入れる価値があったといえる。

    (6)

  • 駒沢史学89号(2017) 310 

    2 

    天保三年―三代目坂東三津五郎・五代目瀬川菊之丞の死

     

    三代目坂東三津五郎は安永七年(一七七五)生まれで、時代物・世話物を得意とし、立役を本領としつつ、女形も演じ

    る役者であった。天保二年(一八三一)一二月二七日に病気のため死去、享年は五七歳。五代目瀬川菊之丞は、享和二年

    (一八〇二)の生まれで、娘形・若女形に通達し、贔屓の者も多かった。天保三年(一八三二)一月七日、病気で死去、

    享年は三一歳であった。三津五郎と菊之丞は、揃って人気が高く、生前にたびたび共演して親交も深かった。そんな二人

    がわずか十日の間に続けて死去したため、その死は大きな話題となった。では、二人の死はどのように記録されたのか。

    〔史料6〕『曲亭馬琴日記』(天保三年 

    正月九日)

     「

    一俳優坂東三津五郎六十余才・瀬川菊之丞三十余才、旧冬十二月中死ス。今日三津五郎送葬、芝増上寺地中某院のよし、

    見物群集ス。菊之丞ハ、明十日深川の菩提所へ送葬のよし、風聞あり。」

     〔史料6〕では前年一二月に死去した三津五郎の葬送が一月九日に行なわれ「見物」が「群集」した。そして七日に死

    去した菊之丞の葬送が翌一〇日行なわれることも「風聞」があったという。注目すべきは、三津五郎の葬送へ人が集まっ

    たこと、翌日に予定されている菊之丞の葬送について馬琴が情報を入手していたことである。特に後者は気になるところ

    で、二日前に亡くなった菊之丞の情報がすでに広まっていたことを意味する。次の史料でこの葬送の様子を見るが、そこ

    には多くの人々が集う。こうした情報は、馬琴個人が得たというよりは、江戸の広い範囲で話題になっていたと見て良い

    だろう。

    〔史料7〕『歌舞妓年代記續編卷の五』(天保二年 

    三代目坂東三津五郎の項)

     「

    葬禮正月九日和泉町より二丁町よし町より

    通町木挽町表裏五丁目橋より

    尾張丁通り此日堺町より芝迄

    見物の群集神

    事祭禮の如し」

    〔史料8〕『歌舞妓年代記續編卷の五』(天保三年 

    五代目瀬川菊之丞の項)

    (7)

    (8)

    (8)

  • 藤川智子  死絵における「情報」311 「

    贔屓連中も多くありしが命數の限り是非もなき次第なり葬禮正月十日新乘物町より二丁目富澤町村松町藥硏掘兩國橋

    へかヽり龜澤町通り昨日は秀佳今日は路考と見物道路に滿々て其數夥敷事筆紙に盡しがたし秀佳路考の葬禮を見て贔

    屓連中は勿論芝居好の者又は戯場ぎらいの野暮介迄も後世に至りてはかヽる名人出來まじと皆々歎きしとなん」

     〔史料7〕は〔史料6〕同様、三津五郎の葬礼に訪れた人々が多く「神事祭禮の如し」であったとしている。菊之丞の

    葬礼は、馬琴が受けた風聞通り翌一〇日に行なわれた。その様子について〔史料8〕は「昨日は秀佳今日は路考と見物道

    路に滿々て其數夥敷事筆紙に盡しがたし」としている。死去から三日ほどではあるが、人々は手に入れた情報をもとに集

    まった。その方法が単純に「風聞」であったとしても、「菊之丞の死」は広く回るほど江戸では関心の高い出来事であり、

    多くの人々が手に入れるに足る情報だったと言える。次の史料は、その情報伝播に死絵が関わっていた可能性を推察させ

    る。

     〔史料9〕は、馬琴が篠斎に宛てて出した書簡である。篠斎は馬琴読本の愛読者で、交友の深い間柄であった。三津五郎・

    菊之丞の死絵に関する記述は末尾に雑談として添えられている。

    〔史料9〕『曲亭馬琴書翰』(天保三年七月朔日 

    篠斎宛)

     「

    一、こゝにひとつの雑談あり。①去冬より当春ハ、小まへのさうし問屋にて、合巻ハ例より捌ケあしく、本残り候も

    有之よしニ御座候。その故ハ、②俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。③この肖面の追善

    にしき画、旧冬大晦日前より早春、以之外流行いたし、処々ニて追々出版、正月夷講前迄ニ八十番余出版いたし、毎

    日二三万づゝうれ捌ケ、凡惣板ニて三十五六万枚うれ候。(中略)このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六

    等、一向ニうれず候よし。ケ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候版元ハ、末ニ至り、二万三万づゝ

    うれ遺り候ニ付、多く䦟ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大問屋にてハ、ケ様之にしき画ハほり

    不申、うけうりいたし候へ共、末ニ至り、いづれもニ三百づゝ残り候を、反故同様に田舎得意へうり候よしニ御座候。

    (9)

  • 駒沢史学89号(2017) 312

    一、④右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日此までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし。左候へバ、

    これをかひ候ものニ、限りありし事と被存候。」

     〔史料9〕の内容を整理すると、次の通りである。

     

    ①去冬から当春に小規模な草紙問屋で合巻や本が売れ残った

     

    ②①の理由は旧冬に坂東三津五郎、初春に瀬川菊之丞が死去したため

     

    二人の「肖面の追善にしき画」が大晦日前から早春にかけてことのほか流行し、所々で次から次へと出版された錦絵

    は、正月夷講前までに約八〇種を出し、毎日二・三万枚、全部で三十五・六万枚売れた

     

    この錦絵は昨年の大晦日から売れ出し、正月二〇日ごろを過ぎて一枚も売れていないようだったので買おうとするも、

    限りがあるものと知った

     

    馬琴は①~③を版元の山口屋藤兵衛から聞いた話としている。まず検討するのは、死絵の販売期間である。③では大晦

    日前から正月夷講前(二〇日ごろ)にかけてと記されている。大晦日前というのは、三津五郎が死去した二七日から大晦

    日までで、そこから正月二〇日までとすると、二〇日程度である。役者の死去から二・三日で多くの枚数を売り出したと

    いうのは、どこまでが事実であるか注意が必要だが、そう捉えられるだけの速さで出版の動きがあったとみられる。

     

    死絵の販売は、役者の死去直後に発生するという極めて限定的な事象ながら、ある程度の規模の市場だったのである。

    それだけに版元は多く売ろうとしていた様子が、③から窺える。③では販売期間に出たものが約八〇種で、毎日二・三万枚、

    全部で三十五・六万枚売れたとしている。数字の信憑性は疑う必要があるが、この通りであれば、一種あたり平均約

    四千三百枚生産された計算になる。当時よく売れる錦絵が二千枚ほどで販売を終了したという。馬琴が事細かに記録し、

    それを伝えようとしたことから見て、死絵の流行とは同時代においても目を見張るものだったのではないか。

     

    人々が役者の死に関心を持ち、版元にとってその情報は「売れる」見込みのあるものだった。次節では、死絵の「情報」

    (10)

  • 藤川智子  死絵における「情報」313

    がどのようなもので、変化があったのかをみていく。

    (二)死絵の報道性と「情報」

     

    1 

    死絵の「情報」

     

    死絵の「情報」は名前・没年月日・行年・墓所の四点が基本であった。〔参考資料2〕はその記載状況を示したもので

    ある。「情報」は名前を中心に多くの死絵に書かれてきた。まず、「情報」の登場順を時系列に追っていく。

     

    安永六年の〔図2〕には「市川八百像」の名前のみが入っている。寛政一一年(一七九九)の〔図3〕には行年・戒名

    を確認できる。没年月日や墓所が確認できるのは文化九年(一八一二)に死去した四代目中村宗十郎の死絵である〔図4〕。

    以降、死絵に「情報」が書かれる場合には四点がほとんどであり、その形式は終焉に至るまで変化しなかった。

     

    名前のみ(特に俗名)の場合、他の錦絵と変わらないともいえるが、死絵の「情報」は名前・行年・没年月日・墓所の

    四点を揃えたもの、もしくは墓所を除いた三点を書き添えている例が多い。「情報」は必要であるが、訃報伝達の媒体と

    して求められていたのは四点のみであった。

     

    2 

    役者の訃報と死絵・瓦版

     

    第一節で見たように、役者の訃報は人々にとって手に入れたいもの、商品として扱うに足るものであった。しかし、同

    時代には情報媒体として瓦版がある。ここでは死絵と瓦版について確認し、存在意義がどこにあったのか考える。

     

    先行研究において「瓦版」を取り上げた例に原氏の研究がある。原氏は瓦版について「人気役者の死を契機に売り出さ

    れたものも少なくない」として、次のように述べた。

     「

    こうして比べて見ると、簡便で粗末なaのかわら版に対して、この「死絵」の方がやはり売るための絵として手の込

    んだ作られ方がなされているさまをうかがうことが出来るだろう」

    (11)

    (12)

  • 駒沢史学89号(2017) 314 

    原氏は、死絵が「売るための絵」であり、瓦版は「簡便で粗末」とした。また瓦版の絵や文字について次の記述もある。

    〔史料10〕『本邦新聞史』「石版、瓦版」

     「 之を瓦版といふは、最初の讀賣は石版即瓦版なりしに起因せしものと見るべし木版となりて後も尚瓦版と稱するは、

    讀賣の印刷物の多くは、彫刻粗惡にして一見瓦版に類似せるによれり、其彫刻の粗惡なるは、珍事ある毎にいち早く

    印刷して、互に利を占めんと競争せしがためにして、其文字及繪畫は醜汚を極めしなり、」

     〔史料10〕は原氏が指摘したように、瓦版は精緻な彫でなかったとしている。瓦版と並行して死絵が存在できた背景には、

    「情報」だけではなく「姿」が重視されていたことが考えられるだろう。死絵は役者の「姿」を伝える錦絵であることに

    存在意義があった。

     

    3 

    死絵と新聞訃報記事

     

    死絵は写真によって役割を奪われたとされてきた。しかし、死絵が一貫して「情報」を載せていた以上、それが求めら

    れなくなったとは考えにくい。そこで、新しい情報媒体として新聞を採り上げる。新聞は死絵のような公開・速報性のあ

    る訃報伝達機能も備えていた。死絵と新聞における「情報」の違いは次のように指摘されている。

    〔史料11〕宮武外骨「死絵考」

     

    「死絵といふのは、現今の新聞紙が、著名者の死去を報道する際に、其生前の肖像を寫眞版にして出すのと同じやうな

    事である。さりながら、死絵は其身分職業の如何を問はずに、死んだ著名者は誰でもといふのでなく、役者がオモであ

    つて、次には浮世繪師とか戯作者とかに限られたものである。そして現今の新聞のやうに、其人の履歴を記入したのも

    あるが、それは稀で、多くは歿時享年法號墓所位の略記に過ぎない」

     

    新聞が「其人の履歴」まで記載するのに対し、死絵は多くが「歿時享年法號墓所」を略記したという。では、新聞の訃

    報記事とは具体的にどのようなものだったのか。

    (13)

    (14)

  • 藤川智子  死絵における「情報」315〔史料12〕「坂東彦三郎ハ…」一八七七年一〇月一六日(読売新聞)

     

    「○坂東彦三郎ハ先頃より大坂へ下ッて狂言として居たうち病氣となり養生が叶はず今月十三日の午後五時に死去いた

    しました」

     

    五代目坂東彦三郎は、死絵と新聞の訃報記事両方が確認できる初期の例である。新聞では、名前・死去した場所・死因・

    年月日・時間が確認できる。一方死絵〔図5〕では没年月日・名前・行年を確認できる。この時点では両者に大きな違い

    はなく、「情報」の差は見られない。

    〔史料13〕一九〇三年九月一五日「●噫團十郎逝く」(読売新聞)

     

    「嗚呼梨園寂寞たり菊五郎既に逝きて今又團十郎を亡ふ嗚呼何をか言はんや(中略:團十郎の病状の経過の詳細)團十

    郎はハ同日午後三時四十五分と云ふに六十六歳を一期として遂に黄泉不歸の客となりぬ(中略:死後の家族の様子)

     

    ▲故市川團十郎の畧歴(省略:生い立ち・経歴の詳細)」

     

    次は、〔史料11〕に近い時期のものである。この時期なると死絵の制作例はほとんどなく、九代目市川団十郎が最後のピー

    クであった。〔図6〕はこれまでの「情報」と変わらないが、新聞は情報量が増えている。新しい情報としては「病状の

    経過」「役者を取り巻く家族の様子」「生い立ちと経歴」の詳細である。これは単純な情報量の問題ではなく、明治以降の

    役者・著名人に対する認識を考慮する必要があるだろう。つまり、役者の私生活に対する関心が広がり、それに関する情

    報が求められたといえる。

     

    このように、新聞によって対象者の「死」という事実のみならず、そこに至るまでの過程、対象者を取り巻く環境など、

    「死」を超えたあらゆる「情報」が公開・伝達されていた。この点、現在の訃報伝達にも引き継がれていることは、容易

    に理解されるだろう。

     

    また、こうした新聞の変化には、明治二〇年代から大正時代にかけて新聞が「音読」するものから「黙読」するものに

    (15)

    (15)

  • 駒沢史学89号(2017) 316

    なったという背景もあるだろう。黙読する(見ることに特化する)ようになったことで、細かい「情報」を載せたのでは

    ないか。一方で死絵の「情報」は変わらなかった。新聞が変化していても、それをまねて細かい「情報」にすることはな

    かった。この点、やはり死絵の存在意義が「姿」を中心としていたことが分かる。

     「情報」は死絵を構成する要素の一つであり、役者の死を「事実」とするための表現だった。また、明治時代以降の死

    絵はほぼ例外なく「情報」が載っていた。特に明治時代以降の「情報」は死絵であることの証明でもあったのかもしれな

    い。死絵が形を変えずに「情報」を載せ続けていたということは、形式的なものになっていたといえる。

    まとめ

     

    死絵における「情報」は形式的なものであり、「死」という事実を伝えていた。これは訃報の詳細な報道・伝達という

    よりは最小限の情報を端的に示す表現であった。死絵がもっていた報道性には、大きく二面性がある。一つは事実として

    の「情報」。もう一つは今回触れられなかった、死後の理想としての「姿」と「死生観」である。役者の死はゆるぎない

    事実であるが、そこに虚実の入り混じった表現をしたものが死絵であった。それが受け入れられていた社会にこそ存在意

    義があったのだ。今後は「姿」「死生観」の面からも報道性について考えていきたい。

    (1) 

    林美一「死絵考―その上―死絵の発生期とその展開」「死絵考―その下―八代目市川団十郎切腹事件」(『浮世絵芸術』上四五号・

    下四六号 

    日本浮世絵協会 

    一九七五年)。

    (2) 

    先行研究は、原道生「「死絵」について―基礎的事項の確認―」(『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文

    (16)

  • 藤川智子  死絵における「情報」317

    堂 

    二〇〇三年)や藤澤茜「死絵―追悼を表現するメディア」(『浮世絵が創った江戸文化』(笠間書院 

    二〇一三年)等。また、

    国立歴史民俗博物館、国立劇場等が図録で成果を発表している。

    (3) 

    柳沢信鴻『宴遊日記 

    巻五下』(藝能史料研究會編『日本庶民文化史料集成

    第十三巻

    芸能記録(二)』(三一書房 

    一九七七年)。

    (4) 

    日本随筆大成編輯部『日本随筆大成〈第二期〉7』(吉川弘文館 

    一九七四年)。

    (5) 

    濱田義一郎編『大田南畝全集 

    第十一巻』(岩波書店 

    一九八八年)。

    (6) 

    伊原敏郎著、河竹繁俊、吉田暎二編『歌舞伎年表

    第四巻』(岩波書店

    一九五九年)。

    (7) 

    柴田光彦新訂増補『曲亭馬琴日記 

    第三巻』(中央公論社 

    二〇〇九年)。

    (8) 

    市川謙吉編『新群書類従

    第四

    演劇』(一九〇七年)。

    (9) 

    柴田光彦、神田正行編『馬琴書翰集成 

    第二巻』(八木書店 

    二〇〇二年)。

    (10) 

    錦絵の枚数については大久保純一氏の研究が詳しい。天保一二年(一八四一)の例を挙げ、「よく売れる錦絵であっても二〇〇〇枚、

    そうでないものは一〇〇〇枚か一五〇〇枚で売留」となっていたことを指摘した。大久保純一『浮世絵出版論 

    大量生産・消費

    される〈美術〉』(吉川弘文館 

    二〇一三年)。

    (11) 

    浅野秀剛氏は「八百像」の表記について「八百蔵の蔵に肖像をかけたもの」としている。楢崎宗重編著『秘蔵浮世絵大観 

    別巻

     

    チェスター・ビーティー/

    ケルン/

    アムステルダム

    ヨーロッパ浮世絵蒐集ガイド』(講談社 

    一九九〇年)。

    (12) 

    原道生「「死絵」について―基礎的事項の確認―」(『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂 

    二〇〇三年)。

    (13) 

    朝倉龜三著『本邦新聞史』(雅俗文庫 

    一九一一年)。

    (14) 

    谷沢永一、吉野孝雄編『宮武外骨著作集 

    第7巻』(河出書房新社 

    一九九〇年)。

    (15) 

    ヨミダス歴史館(読売新聞H

    P

    )。

    (16) 

    森洋久「明治の声の文化」(木下直行、吉見俊哉編『東京大学コレクションⅨ 

    ニュースの誕生 

    かわら版と新聞錦絵の情報世界』

    (東京大学総合研究博物館 

    一九九九年)。

  • 駒沢史学89号(2017) 318〔参考図版〕

    〔図1〕

    「八代目市川団十郎死絵」

    嘉永七年(一八五四)

    (国立歴史民俗博物館)

    〔図3〕初代歌川国政

    「六代目市川団十郎追善絵」

    寛政一一年(一七九九)

    (神奈川県立博物館)

    〔図4〕

    「善覚院達誉了玄居士こと

    四代目沢村宗十郎死絵」

    文化九年(一八一二)

    (国立歴史民俗博物館)

    〔図3〕部分

    〔図4〕部分

    〔図2〕勝川春童

    「二代目市川八百蔵の死絵」

    安永六年(一七七七)

    (チェスター・ビーティー図書館)

  • 藤川智子  死絵における「情報」319〔図5〕部分

    〔図6〕部分

    〔図5〕

    「五代目坂東彦三郎死絵」

    明治一〇年(一八七七)

    (国立歴史民俗博物館)

    〔史料〕(翻刻)

     「

    明治十年十月十三日午後五時没ス

    鶴伸院浄譽樂善信士

       

    俗名 

    五代目 

    坂東彦三郎

                 

    行年四十六才」

    〔図6〕

    「九代目市川団十郎死絵」

    明治三六年(一九〇三)

    (国立歴史民俗博物館)

    〔史料〕(翻刻)

     「明治丗六年九月十三日 

    行年六十六才

      

    堀越秀      

    青山

      

    藝名          

    墓地

      

    市川

      

    團十

       

    郎             

    《図版出典》

    〔図1〕〔図4〕〔図5〕〔図6〕

    『国立歴史民俗博物館資料図録7 

    死絵』

    (国立歴史民俗博物館 

    二〇一〇年)

    〔図2〕

    楢崎宗重編著『秘蔵浮世絵大観

    別巻

    チェス

    ター・ビーティー/

    ケルン/

    アムステルダム

    ヨーロッパ浮世絵蒐集ガイド』

    (講談社 

    一九九〇年)

    〔図3〕

    『神奈川芸術祭 

    浮世絵名品五〇〇選

    ―春信・清長・歌麿・北斎・広重―』

    (神奈川県立博物館 

    一九九一年)

  • 駒沢史学89号(2017) 320

    〔参考資料1〕死絵を考える3つの視点

    例:〔図1〕「八代目市川団十郎死絵」(国立歴史民俗博物館)  〔図1〕における3つの視点とは  「姿」…八代目市川団十郎の肖像(似顔)を描いている。  「情報」…名前・行年・墓所を次のように書き添えている。

      「死生観」…旅姿の団十郎と「是より極楽道 極楽のちか道」と書いた道標によって、団十郎が死後の世界に旅立つという、「死」に対する一つの考え方を示している。

    多くの死絵は、「姿」を中心に「情報」を載せ、その社会で広く受け止められていた「死生観」を取り入れたスタイルをとっている

    八代目

      

    市川團十郎

       

    行年三十二才

      

    大阪天王寺村

        

    一心寺に葬

         

    江戸菩提寺

           

    芝塔中

          

    あかん堂

  • 藤川智子  死絵における「情報」321

    〔参考資料2〕「情報」の記載状況

    「情報」 全体 江戸時代(1777-1867)明治以降

    (1868-1935)名前・没年月日・行年・墓所 246 159 87名前・没年月日・行年 148 124 24名前・没年月日・墓所 6 4 2名前・行年・墓所 15 15 0名前・没年月日 19 16 3名前・行年 24 21 3名前・墓所 0 0 0没年月日・行年 2 2 0没年月日・墓所 0 0 0没年月日・行年・墓所 0 0 0行年・墓所 1 1 0名前のみ 51 48 3没年月日のみ 7 7 0行年のみ 0 0 0墓所のみ 0 0 0

    「情報」記載無し 62 60 2合計 581 457 124

    〔表〕「情報」の有無

    なお、上記の作成に際し参照した死絵の点数は以下の通りである。*2017年8月時点・国立歴史民俗博物館所蔵錦絵…433点・早稲田大学演劇博物館所蔵錦絵…257点(うち構図重複のない96点)・国立劇場所蔵錦絵…99点(うち構図重複のない39点)・その他博物館・美術館等施設所蔵錦絵…13点総数802点(うち581点を反映。残り221点は構図重複のため除く)