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一般に「ことなる」、「ちがう」、「怪しい」などと訓じられる「異」字について、漢代の字書『説文解字』には、「分なり」とある。この意外な説解に対し、斯学の大家・清の段玉裁は「何かを分ければ、あちらとこちらでは異なることが有る」とやや苦しい注をして、整合的に理解しようと務めている。しかし、「異」は、古くは図1に示すような字形で表現され、「分」は明らかに後起の字義としなければならない。 その古い字形について、古文字研究者は通常、人間が頭上に田字形のものを掲げ持つ姿を象り、それは「戴(いただく)」を本義とし、その後、「つつしむ」、「たてまつる」、「たすける」、「うけたまわる」
といった字義が派生したとしている(ちなみに、これらの派生義は「翼」字によって表現されることが多い)。 しかし、この字形の解釈にあたっては、掲げ持つ動作より、掲げ持つ物が何物であるかを重視して理解すべきであると考える研究者もある。たとえば、田字形のものを、髑髏を仮面としてかぶり跪いている様を象っているとされる「鬼」字(図2)の髑髏と結びつけて、驚異すべき対象を意味するとし、この字の本義は「怪しい」であるとする説がある。 また田字形は、実際には「子」字の変化した形であり、この文字は本来、子供を頭上に掲げる様を象っているとする説もある。さらに、甲骨文の異字が「まつる」を意
味する場合があること(図3)と関連させ、掲げる子供は、祭祀において死者に為り替わって酒食の饗応を受ける「尸(多くの場合、死者の孫の世代がつとめる)」であるとし、「異」字は、祀の初形であると解釈する。しかも、『説文解字』に
「祀」の異体字として、「禩」字が挙げられていること(図4)が、こうした事情を反映するものであるとする。 異という文字に関しては、研究の余地がなお多く残されている。しかし、以上の甚だ簡単な紹介によっても、漢字わずか一字について多くの異説、怪説が存在しうることが確認できる。況や文化現象全体に関わる異文化研究に於いてをやである。
図3 甲骨卜辞における「異」字の用法 「異」字が見える卜辞は「王異
まつ
り、其れ田かり
するに、大いに雨ふること亡
な
からんか」と読み、その意味は、「殷王が祭祀を行って狩猟にでかければ、大雨が降ることはないか」と解釈する図1 甲骨金文の「異」字 図2 甲骨文の「鬼」字
図4 異の異体字(『説文解字』巻一) 「禩、祀なり。或いは異に从
したが
う」と読む
「異」字考
高 木 智 見(たかぎ さとみ)
111111号
2010
Cross-Cultural Interchanɡe & Research Institue Newsletter Vol.11 2010Yamaguchi University Faculty of Humanities
山口大学人文学部異文化交流研究施設ニューズレター
『異文化研究』は昨年度若干編集方針の見直しを行ない、第4号からは人文学部の研究活動についての事業報告を柱とすることになりました。研究論文だけでなく、研修や調査の報告、講演録、エッセイなどを中心とした幅広い内容を目指します。そういうこともあって、第4号には、これまでのような特集はありませんが、今後また事業報告に加えて、何らかの特集の企画を盛り込むことも考えていきたいと思います。 2010年3月発行の第4号には、二つの研究論文、一つの研究ノート、三つの報告、五つの講演録、さらに、人文学部のプロジェクト報告が掲載されました。二本の研究論文は、どちらも本格的な言語学研究の成果であります。太田教授の論文は、日本語の名詞─特に、地名として用いられた和語─のアクセントを決める法則には、ラテン語のアクセント規則と驚くべき共通点があるという、興味深いテーマが扱われています。武本准教授の英文論
文は、特にドイツ語とフランス語に焦点を当てて、物理的ではない概念的な動きの表現(「海岸に沿って道路が走っている」など)が主体化(subjectification)の作用という観点から分析されています。研究ノートとして掲載されたのは、大学院修士課程2年生の山根洋平君の修士論文の一部で、馬を中心とした動物供犠の宗教学的考察です。 田中講師の報告は、2009年の5月から6月にかけて「伝記」というテーマで開催されたウィーン芸術週間の演劇プログラムの一部についてのものです。橋本教授の報告は、2009年11月に悪天候の中、中国で行われた踏査についてのもので、前漢の皇帝陵の貴重な写真が付されています。藤永准教授の滞在記は、2008年9月から1年間のアメリカでの研究の報告で、最前線の歴史研究の現場が紹介されています。 講演録のうちの三つは、異文化交流研究施設の講演会の記録です。一つ目は、
2008年4月に行われたベルン大学のモルゲンタラー教授による講演(エ
アランゲン大学のアッカーマン教授が通訳兼コメンテーター)、二つ目は、2009年10月に行われた北京大学の陳煕中教授による講演、三つ目は、2009年1月に行われたチューリヒ工科大学のホーレンシュタイン元教授の講演の記録です。この三つに加えて、第4号にはさらに二つの講演録が掲載されました。ひとつは、ベルリン自由大学研究員アイケルス氏が2009年12月に行なった講演です。もうひとつは、韓国昌原大学校から、ホン・ソングン人文大学学部長とイ・ユンサン慶南学研究所長をお招きして行われた2009年12月の講演会の記録で、軍の部隊での人文学講座など興味深い試みが紹介されています。 プロジェクト報告は、各分野の研究会、会誌刊行などを行なっている各グループの紹介を含めて、今年度の活動が報告されています。プロジェクトは、山口国文、英語と英米文学、独仏文学、山口地域社会研究、アジアの歴史と文化、〈教え、学び、分かること〉の基礎的研究の六つです。
『異文化研究』(第4号)の御案内脇 條 靖 弘
(わきじょう やすひろ)
『異文化研究』編集責任者
2010年 異文化交流研究施設ニューズレター� 第 11 号
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2010年 異文化交流研究施設ニューズレター� 第 11 号
“不到園林、怎知春色如許!”──湯顕祖と現代社会
根ヶ山 徹(ねがやま とおる)
人文学部教授
2010年4月23日から26日までの4日間、“湯顕祖与臨川四夢国際学術研討会”が、上海戯劇学院の主催、上海昆劇団、香港城市大学中国文化中心、香港中文大学明清研究中心、上海戯曲学会の共催,上海戯劇学院戯曲学研究中心の後援により、上海賓館を会場に開催され、筆者も招かれて出席した。この研討会は、中国の代表的な劇作家湯顕祖(1550-1616)の生誕460年を記念したもので、中国はもとより、香港、台湾、日本、韓国、アメリカから百名を超える参加者があり、
50余名による研究発表が行われた。 湯顕祖は劇作家として「臨川四夢」と総称される『紫釵記』、『牡丹亭』、『邯鄲夢』、『南柯夢』を遺しただけでなく、正統な学問を修めた読書人であり、約2200首の詩、約500篇の文章も伝えられている。また、科挙の試験に合格した官僚でもあることから、政治家としての側面も併せ持つ。ために、研討会では詩人、政治家としての活動から、劇作、その後代への影響、現代の演出にいたる幅広い内容について研究発表がおこなわれ、裨益するところ大なるものがあった。 折しも上海万博開幕直前であったことから、「迎世博」と銘打って上海昆劇団による「臨川四夢」及び名家名段演唱の鑑賞も併せて行われた。1916年開場で芥川龍之介も京劇を観た福州路の天蟾逸夫舞台、1866年に円明園路に開場し、1931年現在の茂名南路に新築された蘭心大戯院という上海屈指の由緒ある劇場で、蔡正仁、岳美緹、計鎮華、梁穀音、張静嫻、張洵澎といった当代の名優たちによる昆劇の実演を堪能できたことは、望外の幸せであった。この実演については研討会の総括も兼ねた「演劇評議」の場で、高い評価を得たものがある一方で、原作の重要な場面が省略され通俗に堕していると酷評されたものまで各種各様であった。研究者の援助なくして古典劇の内容を理解し、上演することは困難であると
する上海昆劇団団長郭宇氏の発言がある一方で、観客の審美眼に迎合するために原作を改編し、公演の成否と興業成績を重視するのは当然だという劇団所属の脚本家唐葆祥氏の見解は、現代社会における古典劇の在り方を如実に示している。 2008年3月、坂東玉三郎と蘇州昆劇院の役者が京都の南座で『牡丹亭』を共演し、好評を博したことは記憶に新しい。日本の歌舞伎界を代表する女形の演ずる昆劇は、2009年11月の上海での公演でも上海人の心をつかんだようで、博覧会期間中に上海昆劇団との再演が決まったと聞く。人口2000万人を擁し、国際空港までのアクセスにリニアモーターカーが敷設され、11路線もの地下鉄が縦横に張りめぐらされた経済都市上海の街に溶け込んだ中国の古典劇を目の当たりにしながら、原作者湯顕祖に思いを馳せた日々であった。
始皇帝が巡行した足跡を辿って
馬 彪(ま ひょう)人文学部教授
2009年3月~2010年1月の間に、私は山口大学から中国山東大学への派遣によって派遣研究者として山東大学文史哲研究院に滞在し、10ヶ月間「秦王(皇)朝の離宮・禁苑についての研究─「龍崗秦簡」に見える禁苑新史料との比較─」という研究を行った。 本研究は、1989年末、中国湖北省雲夢
縣の龍崗で発見された「龍崗秦簡」についての研究プロジェクトである。私はすでに2002年の夏から「龍崗秦簡」について研究している。本簡の主な内容は秦の始皇帝が当時、巡行した離宮・禁苑に関するものである。これまでは、始皇帝が当時「郡県を巡行し」(『史記』の語)た際に、どのような巡行経路を辿ったかという研究が多少あった(鶴間和幸『秦漢帝国へのアプローチ』1996;孟憲斌『秦始皇出巡記』2006)が、始皇帝が「郡県を巡行し」たとき、どんな場所に泊まったのか、どんな仕事をしたのかという研究は殆ど見られなかった。筆者を含む僅かな研究者の間で、始皇帝が巡行した雲夢楚王城遺跡は、一体、郡や県の政府所
在地なのか、それとも、禁苑なのかと争論があったが、まだ定論がない。私は龍崗秦簡によって、始皇帝の巡行場所は各郡や県の政府所在地ではなく、むしろ各地方にあった旧六国に残された禁苑だろうという私見を提出したが、残念ながら日常教学の仕事は煩雑であって、この課題に本格的に取り組むことが出来なかった。ゆえに、今回の山口大学から山東大学への研究者派遣を機会に、10ヶ月間、山東大学歴史学系を研究拠点として大学の文献資料を利用し、秦の始皇帝が当時巡行した離宮・禁苑の実地踏査を行い、歴史学系の研究者と交流することで、本研究を進めていきたいと計画した。その計画は大筋、三部構造であり、第1に、
海 外 講 演 報 告
海 外 研 修 フ ァ イ ル
上海戯劇学院校内にて(中山大学康保成教授と筆者)
開演前の天蟾逸夫舞台
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3Cross Cultural Interchanɡe and Research Institue Newsletter Vol.11 2010
山東大学の中国古文字・古代史・簡牘学資料などを利用し、「龍崗秦簡」における秦代禁苑の新たな出土史料との比較を行う。第2に、山東省を主として、秦の始皇帝が当時巡行した離宮・禁苑の遺跡現場を踏査し、「龍崗秦簡」の禁苑内容に基づいて、秦朝の離宮・禁苑の分布と構造を調査する。第3に、山東大学文史哲研究院の孟祥才教授をはじめ、中国における他大学の秦漢史研究分野の専門家と討論し、本格的な国際学術交流を果たす。 幸いに、山東大学の文史哲研究院の孟祥才教授及び国際交流部の事務係の方々から多大な応援をいただいて、本研究プロジェクトは当初の計画の通りうまく進んでいった。その研究の成果が主に3つあり、1つ目は「龍崗秦簡」にみる禁苑に関する新史料をめぐって、秦王(皇)朝の禁苑に関する制度についての研究論文は4篇である。2つ目は、山東半島と近隣である江蘇省・河北省において見つけた秦の始皇帝が巡行した遺跡の踏査を行った。3つ目は、秦漢史関係の国際シンポジウムに2回出席して発表を行い、その他に山東大学と山東師範大学の歴史学専門分野の著名学者の丁冠之・孟祥才・張富祥・王鈞林教授たちと何度か討論会を行った。 山東大学は中国山東省の省都済南市
(人口590万)にある総合大学。1901年に創設され、「百年名校」と呼ばれ、現在約42の学院(学部)を擁している。教員数は3700人、学生数は6万余人、「培養一流本科生(一流の学部生を養成しよう)」というスローガンを掲げている。国家教育部(文科省)が指定する「211重点工程(21世紀100重点校)」の1つで、教官・学生が優秀であり、常に中国の大学全体の10何番以内に入る優秀な大学である。昭和58年6月に山口大学と大学間学術協定を締結しました。私の今回
の研究派遣も、その学術協定の一環です。 私は「訪問学者」という研究者の身分であって、各国からの外国人教師と一緒に「専家楼」に住んでいた。宿舎から図書館へ歩いて5分くらいなので、図書館で資料を調べるのはとても便利であるが、大学はいくつかのキャンパス(済南市内少なくとも4つ)があるので、自分が絶対必要な本と雑誌を調べるために、私が住んでいる「新校」(大学の本部所在地)から、大学の「班車」(通勤バス)で「老校」の図書館へいつも通った。図書館の書庫と閲覧室によく通う生活をしていた。古い大学であるから私が探していたものが大体あるが、1人1回20冊までという限りがあり、よく係員から「いっぱい借りているね」と声をかけられる。30日の期限があって、1度期限を超え、罰金された経験がある。「教員閲覧室」が設けられ、工具書が多く並んで、非常に便利であるから、よくそちらも利用していた。ある日、閲覧室に異変があって、いつも使っている本が全部なくなって、おもての本棚にたくさんの日本語の書物を並べている。聞いてみたら、それらはすべて東京大学文学部の池田知久(ともひさ)氏からの贈書であって、まもなく贈書式を行うとわかった。近年、よく韓国・台湾・日本・アメリカのシノロジー研究者は中国の大学図書館へ贈書することを耳にしたが、自ら感じたのはこれが初めてのことでした。 そうと言っても、やはり山東大学の図書館では私の必要である本、特に日本語版の木簡学専門のものや日本で出版する学術雑誌が殆どない。したがって、よく済南から「和諧号」(準新幹線)に乗って3時間半をかけて北京へ行き、その国家図書館で資料を収集した。つまり、私は中国史研究をしている人間として、中国に住んだら必ず史料がよく手に入るとは言えないことを痛感した。しかし、実地調査というと、まったく別の話になるだろう。 今回、山東大学へ派遣研究を希望した1つの重要な理由は、山東半島と近隣地域にある秦の始皇帝が巡行した遺跡の踏査をすることである。始皇帝は、全国を統一したあとの翌年の前220年から死ぬ前210年までの10年間に、5回も(平均2年に1回のペース)中国全土を巡行した。そのために、当時の秦王朝は左右2つの丞相を置き、都は留守を右丞相に任
せながら、自ら左丞相を連れて巡行先で仕事を行った。始皇帝は5回の巡行のうち3回も山東半島に行って、なぜそんなに執拗に山東を訪れていたのだろうかと歴代の学者はよく質問してきたが、今日主流な見解は「新しく征服した旧六国の民に皇帝の威厳を誇示す」(松丸道雄・永田英正『中国文明の成立』、鶴間和幸
『始皇帝の遺産─秦漢帝国』を参照)というものである。そのような考えは主に当時秦皇帝と秦二世が建てた顕彰碑の碑文(『史記』に載せている)によって提出されたものだと考えられる。しかし、近年、考古学発掘によって山東半島だけではなく、渤海湾や長江流域にも当時の始皇帝の巡行現場だと推定されるいくつかの場所が発見されたので、新しい史料によって改めて始皇帝の巡行について検討できる可能性がでてきた。今回、私は
『史記』秦始皇本紀や封禅書によって「按図索驥」(駿馬の図を頼りに良馬を探し求める)して、以下のように山東半島とその周辺にある9ヶ所の遺跡を訪ねた。それは始皇帝の泰山で「望祭山川」という場所の踏査・煙台莱州市三山島陰主祠・廟周家月主祠始皇帝行幸地踏査・芝罘島における陽主廟の踏査・成山頭日主祠始皇廟遺址・四時主琅琊台遺址・徐州秦梁洪・天齊淵の天神祭祀址・邢台沙丘平台遺址などである。 以上の踏査結果から、いくつかの今後の研究課題を提出したい。その1つ目は、始皇帝が当時泊まった場所はやはり郡県治署の所在地というよりは離宮であろう。2つ目は今日本に研究成績としてみられる秦の始皇帝の巡行経路図には訂正を加えるべき点が少なくないと思う。3つ目は始皇帝が巡行した目的はこれまでの定説たる「威厳を誇示す」という論だけだろうかという疑問を提出したい。また、現場調査への感想と反省をまとめていうといくつかある。 1沿海地域であり、海軍基地にある遺跡の踏査は大変である。例えば、煙台芝罘島に陽主廟があり、1回目:私は列車で煙台について、すぐタクシーで芝罘島に行って陽主廟を見つけたが、遺跡は隣の海軍基地にもあると言われ、急いで基地の方へ行ったが、交渉した結果、2日後の月曜日にもう一度来て、上司と相談したら入れるかもと衛兵から提案を受けた。月曜日に再度行って、交渉したがやはり駄目だとし、基地に入って踏査する山東大学キャンパスに立つ孔子像
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ことを断念した。しかし、基地の衛兵が指さした範囲で、むしろ基地内の遺跡(元代のもの)は基地外における陽主廟敷地の一部とも考えられる。また、基地内の遺跡は今年修繕したばかりと教えてもらった。仕方がなく、一般人に開放されている陽主廟に入って考察した。 2経済発展開発による遺跡破壊を痛感した。例えば、「八神」祭祀場の1つとなる陰主廟遺跡は、現場の一部は金鉱の工場となっていて、島の湾岸には現代的な荷物港がある。山東省は今日中国第二位納税省であり、しかもその金産量は全国ナンバーワンの位置を占める。三山島の住民はその改革開放という恵みを受けたとき、同時に、祖先らによって残された遺跡のなき声が聞こえるだろうか。この遺跡の未来にあまり期待できないと思う。金鉱の工場として地表に遺跡があると考えても、大分破壊されたのだろう。 3観光地となったところは修繕され過ぎている。例えば成山頭遺跡と琅琊台遺跡とも重要な遺跡であるが、地方観光局に管理され、立派な始皇帝と大臣たちの銅像が立っているのは、遺跡の考察に邪魔になるのではないかという気がする。逆に、本当の遺跡とみられるところは最低の保存さえしていない場所もある。例えば、琅琊台遺跡はおそらく面積が広すぎるのだろう、指定された観光地域のそばにある琅琊台の版築台が殆ど放棄されている状態を村民の案内によって現場を見つけ確認した。 山東大学を拠点として生の国際学術交流を目指すことは、今回派遣研究の一大目的であった。文史哲研究院の孟祥才教授をはじめ、中国における他大学の秦漢史研究分野の専門家と討論したことはもちろんであるが、シンポジウムにも参加できた。最初は自ら自分の興味があるものを探そうと思ったが、実際に出席くだ
さいという要請が殺到したので、控えめに対応したようになった。考えれば、山東大学は斉魯文化・儒教の故郷という学術位置にあり、全国各地方で開催される文史哲関係のシンポジウムは、よく山東大学の学者を招待する現状であることは、この10カ月間でもよくわかった。私自身に依頼されたシンポジウムは少なくとも5つあったが、都合によってそのなかの2つしか選ばなかった。選んだ理由は自分が発表したいだけではなく、今回の始皇帝が巡行した遺跡がある場所に限定した。例えば、2009年4月に徐州師範大学(中国・徐州)が主催する「首届孟学高層論壇」(シンポジウム)の招待状を得て、すぐ承諾した。それは私を招待する教員の孟祥才先生は孟子の70何代目のお孫様であり、その御方のお招きだからという理由があり、一方徐州近郊に位置する秦梁洪という始皇帝が周鼎を自ら引き出そうとした場所があるからである。また、2009年11月の「記念董仲舒誕辰2200年暨董仲舒思想国際研討会」(中国・衡水)に出席した理由をいうと、もちろん私がやっている漢代士大夫の代表人物の董仲舒を尊敬する気持ちがあるが、董仲舒の故郷の衡水からわずか90キロ離れたところに始皇帝が巡行途中で急死した沙丘があり、その踏査を実現したかった気持ちもあった。 つまり、山東大学に滞在した機会に、いろいろ本格的な国際学術交流を果たして、今回の派遣研究は本当にためになったことを一層感じたのは間違いないと思う。
中東レバノンに古代都市遺跡を求めて
橋本 義則(はしもと よしのり)
人文学部教授
私は、今年2月23日から9日間、科学研究費補助金(研究代表:三重大学山中章)による調査のため、中東のレバノンに出張した。これまで、科研費などによって中国・韓国・越南など東アジア各国の都城遺跡やイギリスのローマ時代の長城・城砦などの遺跡を踏査してきたが、今回もその一環としての調査で、私が研究の対象としている日本の古代宮都をよ
りよく理解するためには、東アジアの都城、さらに世界の都市遺跡を踏査・実見し、それらと比較する必要があるからである。今回の目的は、中東レバノンに遺るフェニキア・ギリシャ・ローマ・ビザンチン、そしてイスラム中世の都市遺跡を実際に歩き、そこに遺る建物跡などから古代などの都市を考えるだけでなく、周囲の環境や地形についても知見を得ることにあった。 今回、レバノンで踏査した都市遺跡は、ティール、サイダ、ベイルートに加え、ビブロス、バールベック、アンジャルの六箇所である。このうちティール、ビブロス、バールベック、アンジャルはいずれも世界遺産、しかも早期に危機遺産に指定されている。世界遺産の四都市で観光地化されているのはビブロスとバールベックだけで、アンジャルでは訪れる人が少ないのか、周辺に土産物を売る店さえなかった。 我々が特に丹念に踏査したのは長期滞在した南レバノン南部の中心都市ティールである。ティールではギリシャ、ローマ、そしてそれを継いだビザンチンの都市の遺構がよく遺っていた。映画のベンハーで、チャールトン・ヘストンが操ったと同じような戦車が走ったヒッポドローム、凱旋門、水道橋、石敷の道路や柱廊、そして都市と接して死者たちのためのネクロポリスが広がる。ビブロスはフェニキア・ギリシャ・ローマ・ビザンチンと継承された都市遺跡で、それらを利用した十字軍の城塞が今日も中心部に遺り、博物館とされていた。また、バールベックはローマ最大のアポロン神殿が築かれた聖地である。巨大な切石を多数用いた壮大な神殿の下には幻想的な照明を施した博物館が設けられていた。アンジャルはローマの都市を使って造られたイスラムの都市で、シリアに抜ける道沿いの要地にある交易都市で、王の離宮や寺院・教会はもちろん、商店の遺構がよく遺っているのに驚かされた。 これらの都市遺跡、特に長期間断続的に使用されたティール、ビブロスはたいへん残念な状況であった。それは、いくつもの時代の遺構が重複する遺跡を層位的に発掘せず、遺物の掘り出しを重視したため、現状で地表に現れている多数の遺構の関係を理解することがきわめて困難な、いわば掘り散らかしたままの状態であった。このような杜撰な発掘調査を
始皇帝が死んだ場所の沙丘禁苑遺跡を訪ねた。筆者(中)と村民の李新利夫婦
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5Cross Cultural Interchanɡe and Research Institue Newsletter Vol.11 2010
指揮したのが実はかつて考古庁長官で、著名な考古学者であったというから呆れてものも言えない。 ティールでは古代都市遺跡に接して有刺鉄線などで囲われたパレスチナ難民キャンプが広がっていたが、それは私たちがキャンプという外来語によってイメージするものと大きく異なり、その中に建てられていた建物はコンクリートで立てられた半恒久的なものであった。私たちの車を運転してくれた運転手もパレスチナ人で、彼はレバノン人と結婚しているよしであった。パレスチナ難民の中にはレバノン人と婚姻関係を結び、それを使ってレバノンで地道に働き、逞くレバノンの地に根をはっている人びともいるようであった。 さて、中東への出張がはじめてであった私は、本などで得た、中東=砂漠=イスラムという紋切り型のイメージしか抱いていなかったが、実際にレバノンの首都ベイルートの空港に降り立つと、それは一掃された。まず、この国では私たちがイメージする姿のイスラム教徒を殆ど見かけることはなく、多くの女性は素顔を見せていることである。また、これも認識不足を痛感したが、レバノンにはキリスト教徒もおり、教会がモスクと併存する光景が普通に見かけられるだけでなく、キリスト教徒だけが住む村も多く見受けた。そしてもう一つ、レバノンは中東諸国では唯一国内に砂漠を持たない緑
豊かな国で、海岸からシリアとの国境をなす山地までは青々とし、我々日本人にはなじみやすい景観が広がっていた。 私たちは踏査の第一目的地で滞在地でもあったティールまで、空港からベイルート市街を通り抜けサイダを経て南下した。その途次、丘の上に立派な家が競うように立ち並んでいることに気づいた。案内していただいたレバノン考古庁
(日本で言えば文化庁)の研究者の説明では、レバノン人はお金ができると高所に家を買い求めるのを理想としている、と。しかしその家は鉄骨・鉄筋を使っているが、その量のきわめて少ないこと、日本だと建築基準法で違法とされるものばかりと思われた。くだんの考古庁氏曰く、地震が何千年か前にあっただけでそれ以来ないからだ、と。しかしそれだけではあるまい。口に出して言うのははばかれたが、何千年に一度の地震より、南のイスラエルの攻撃があれば、家を放りだして逃げねばならないからではないか、と。 ところで、古い地図ではレバノンの南北に長い国土を走る鉄道が描かれているが、イスラエルの空爆によって破壊されたのか、その痕跡は全く見あたらず、ほかに公共交通機関もなさそうであった。つまり、レバノン人の交通手段は車だけなのであり、それゆえに人びとは皆車をもち、それにお金をかけているようであった。これもレバノンのイメージを打
ち砕いた一つであるが、空港から南下する途次、そしてレバノンを離れるまでずっと見かけた車の洪水とその車種に驚いた。車の大半が日本では大型車とされるドイツ製、しかもベンツである。マニアには垂涎ものと思われる年代物も走っており、きっと中古車も多いのだろうが、新車が多数走っていた。くだんの考古庁氏も新車のベンツであった。竊に聞き出した彼の給料では何十年かかっても到底購入できないと思われたが、彼によるとレバノンはいまでも出稼ぎ仕送り国家で、彼の親戚も地中海を挟んでイタリアからエジプトにまで広がっているとのことであった。しかしドイツ車にまけず日本車、しかも新車がレバノンの国土を走っていることに驚いた。自家用車ではトヨタとホンダ・日産が殆どを占めていたが、マイクロバスは三菱ばかりであった。およそドイツ車が5割強、日本車が3割弱であろうか。私は車に乗らないが、レバノンのような中東の小さな国で、元気に日本車が走っていることを誇らしくも、頼もしくも思い、日本もまだまだやれるとの思いを強くした。
One World One Dreamの世界を創りたい!
翟 金永(たく きんえい)
山口大学独立大学院東アジア研究科2年
2006年4月1日朝、エイプリルフールのせいで、友達に電話して「今から日本に行く」と伝えても信じてもらえませんでした。 その日の夕方、山口の湯田温泉駅に私は姿を現した。 山口は、気持ちがおだやかになれる町ですし、山口大学も豊かな自然に恵まれ、勉学・研究に創造性や想像力を働かせるための最適な環境もととのっています。最初の人文学部研究生としての一年は、日本語の補習や、専門知識の復習、日本留学試験、大学院受験に追われ、大変だと感じましたが、幸いにチューターの五十嵐さんが学習面・生活面を支援してくれて、いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。人文科学研究科の修士課程を終え、東アジア研究科の博士課程に上がっ
て2年目を迎えた私は、現在、農村高齢者の扶養を研究しています。 21世紀は世界的に高齢化社会が進む傾向の中、各国にとって、高齢者問題が緊急の問題になりつつあります。日本はアジアの高齢化の先陣を走っており、ことに30年前から高齢化率日本一の記録を更新し続けた東和町(現在は周防大島町)は山口県にあります。それだけに、山口大学には高齢化問題を扱う優れた研究者が多数おられますし、研究蓄積も厚いのです。これから日本を上回る世界最速ペースで進展する中国高齢化にどのように対応していくかに関しては、多大の示唆を得られると思っています。 山口大学は、「発見し・はぐくみ・かたちにする 知の広場」を理念として、チャレンジ精神に富む人間力のあふれる
留 学 の 現 場 か らバールベックの神殿群
研究室にて
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教員と学生が、共に育つ「共育できる大学」を目指しています。その中、学科の枠を越えて個性的研究、新たな知の創造に挑戦する試みが多数あります。時間学の研究はその一例です。現代人の誰もが時間に追われて生きている中、今日を豊かに生きるためのヒントを探り、新しい時間学という学問を切り開いているところです。研究分野が文理協奏で、多岐にわたり、けっこう面白そうです。草創期にあって問題と困難が大きいと思いますが、それだけの喜びも秘められているのです。興味があったら、是非(山口大学時間学研究所に)のぞいてみてください。 授業・研究以外では、私は積極的に地域行事に参加しています。幼稚園、小学校の運動会は、地域こぞって参加し、紅白だけに分けることに驚きました。その合間に町内会や高齢者などの世話役が地域社会のまとめ役を果たしていることを発見できました。このように、大学構内の日本人学生だけでなく、地域住民とのふれあいを通じて交流の輪をひろげています。 また、山口大学には、世界各地から留学生が来ています。中には、バングラデシュ、マレーシア、インドネシア、エジプト等からのイスラム教を信仰する人も少なくはありません。すれ違うときの微笑みで“as-salāmuʻalay-kum”って祝福を送ると、親近感を生み出す妙なる力を体験したことは、本来の人間性のすばらしさを省みるきっかけともなります。いつか、見知らぬ人々同士が異文化理解と相互尊重の態度を持ち、One World One Dreamの世界が構築できると信じています。
貴重な日本留学体験
黄 潔(こう けつ)
山口大学人文科学研究科1年 日本への留学は2回目である。1回目は中国貴州大学に在籍していた2008年の4月から、交換留学生として、山口大学人文学部で10ヶ月ぐらい留学していた。それから、貴州大学を卒業して、2009年の10月、山口大学人文科学研究科に進学するため、再度来日した。日本での留学はつらいこともあるが、楽しいことも多くある。留学生活を通して、日本の様々
なことを学び、様々な人と出会い、私の人生にとっては非常に貴重な経験である。 まず言いたいのは、山口大学を留学先に選んだことを一度も後悔したことがないということである。大都市に比べ、山口は確かに田舎であるかもしれないが、静かで勉強するための施設も整っているので、いい留学生活ができる。 その上、山口大学に留学生支援システムがあって、私たち留学生が日本で勉強や生活するための様々なことを助けている。例えば、2009年10月から2010年2月まで、外国人留学生のための特別支援プログラムが実施された。このプログラムで論文を書く方法を教える授業や大学院の受験を指導する授業などが設けられた。そのほか大学の留学生センターは毎年、日本人と留学生の懇談会を開いたり、留学生が日本文化を体験できるように、京都や熊本城、阿蘇山などの名所の見学を計画したりしてくれている。そのおかげで、私たちの留学生活がとても充実している。それに私をはじめ、ほとんどの留学生は授業料が全額或いは半額免除され、経済的負担が減って、本当に助かっている。 次に言いたいのはアルバイトのことである。多数の留学生にとって、アルバイトは留学生活に不可欠な一部である。なぜかというと、アルバイトは生活費を稼ぐ手段としてだけではなく、日本の社会に溶け込む道でもあるからである。 私のアルバイト先はコンビニである。仕事をし始めた時、日本語を言い間違えたり、来店するお客様の言うことが分からなかったりして、非常に困った。だが、バイト先の日本人の仲間が親切に助けてくれたおかげで、仕事がだんだん順調にこなせるようになってきた。しかも、仕事のことに限らず、日本語教材や辞書には載っていない日本語をバイト先の日本人の友達が教えてくれて、本当に嬉しかった。 また、コンビニでのバイトは接客の場
面が多く、親切な客もいるし、態度が悪い客もいる。ある日、1人のおばあさんが私が中国人だと知って、いろいろ話しかけ、笑顔で「頑張ってね!」と励ましてくれたことがある。その時の暖かい感じは今も覚えているし、一番印象に残っている。 これから日本にいる時間は1年半ぐらいしかないため、日本にいるうちに、学業のことはもちろんのことだが、日本人の友達を多く作り、日本料理や祭りなど、日本の伝統的な文化を多く体験し、充実した留学生活を過ごしたい。
オクラホマでの留学生活を終えて
永久 真衣(ながひさ まい)
人文学部言語文化学科ヨーロッパ言語・文学コース3年
国際線の飛行機を利用したこともなければ独り暮らしをしたこともなかった自分にとって、この留学の第一歩は重くて恐ろしいものでした。着いてしまえばどうにかなる、なるようになる、と散々言い聞かせても中々その重さは変わらず、飛行機も恐ろしいし、英語もそんなに出来るわけでもないのに、どうして留学したいなんて思ったのだろうと後悔したこともありました。 着いてからまず他の交換留学生仲間と会いました。日本人は驚くほど少なかったけれど、韓国人や中国人はたくさんいました。それから毎週日曜日に開かれたChopsticks Partyでよく会うようになりました。一回しか会えなかった人もいたけれど、そこでたくさんの人と知り合え、東アジアの文化の近さや、それぞれの雰囲気や考え方の違いに気付きました。遠いアメリカに来てまで、日本に近い国の人たちとたくさん話すことに違和感があったこともありましたが、日本にずっといたら会うはずのなかった人たちなので、今はこうして過ごせたことはよかったと思っています。 それから、日本語クラブが立ち上げられました。これは新しく今年の交換留学生の一人が日本語の先生と相談して作ったもので、そこでたくさんの日本語を学習しているアメリカ人にあうことが出来ました。サブカルチャーにしかほとんど興味のなさそうな人もいれば、日本の伝
東大寺での見学
2010年 異文化交流研究施設ニューズレター� 第 11 号2010年 異文化交流研究施設ニューズレター� 第 11 号
7Cross Cultural Interchanɡe and Research Institue Newsletter Vol.11 2010
統文化もサブカルチャーも両方興味のある人もいました。日本人でも全員が日本のゲームやマンガやアニメといったものが大好きというわけではないので、向こうの会話によくついていけなくなることがありました。不思議なことに、時々日本の伝統や文化や歴史を知らないのと同じくらい恥ずかしいと感じたりもしました。 日本語クラブの活動は毎回面白いものでした。ただの雑談に終わることもあったけれど、テーマを決めて話したこともありました。テーマは早口言葉だったり、映画のことだったり、色々でした。また、
みんなでご飯を食べに行ったり、日本語のテスト対策の手伝いをしたこともありました。このような会への参加はたいへ
ん勉強になり、かつとても楽しい思い出となりました。クラブのメンバーとは本当に仲良くなれたと思います。 他にも色々な出会いがありました。様々な世代の人が大学生として在籍しているので、日本ではあまり直接関わる機会のない30代40代の人ともたくさん話せました。一昔前の話や彼らの研究への熱意は、とても刺激になりました。 この9カ月は本当に濃くて有意義な時間でした。オクラホマでの様々な出会いを大切にし、留学生として過ごした日々を今後に活かしていきたいです。
第18回講演会『紅楼夢』と『源氏物語』の異同
異文化交流研究施設では平成21年10月23日(金)に中国の北京大学元教授・紅楼夢学会常務理事の陳熙中(ちん・きちゅう)氏を講師として、『紅楼夢』と『源氏物語』の異同について講演会を行いました。講演は、中国語と日本語の逐次通訳で行われ、特に男性主人公賈宝玉と光源氏、女性主人公薛宝釵と紫の比較、更にこれらの作品に反映された時代、文化の差異について、興味深く語られました。聴講した中国人留学生も、これまで自国の著名な文学作品を手に取る機会に恵まれなかったようで、この講演会をとおして、古典文学に対する興味や関心を
喚起されたようです。講演後に行なわれたディスカッションでは、古典で取り扱われた題材が、現代の男女関係におけるアクチュアルな問題にも関連していることが明らかになりました。 (報告者:エムデ・フランツ)
第19回講演会ヨーロッパ哲学者の誕生
-哲学の世界地図の由縁について
異文化交流研究施設では平成22年1月29日(金)にスイスのチューリッヒ工科大学元教授のエルマール・ホーレンシュタイン氏の講演会を開催しました。内容は、世界各地の哲学・思想の発祥地や思想のマッピング、すなわち哲学の地理学でした。スライドを使いながら、世界における思想の関連性が提示されました。講演は天気予報の話から始まりました。スイスを例にとって、一国の予報天気図が示されました。隣国や大陸、あるいは太平洋との関係を度外視して、天気を一国に限って紹介するか、それともよ
り広い範囲をも含めて紹介するかによって、気候の考え方が大きく変わります。思想史においては従来、限られた地域、つまり中央ヨーロッパのみを視野に入れて、西欧の思想が考えられてきました。しかし哲学の地図をアフリカやアジア大陸にまで拡大して見てみますと、思想の流れや影響力、または概念の起源がはるかに広い範囲に渡ることが分ります。中世ヨーロッパの限られた哲学地図が現代まで有力であることも明らかになりましたが、西洋思想と思われている哲学に全世界からの普遍的な観念や課題が含まれていることも分かりました。グローバル化の時代と呼ばれる今日、古来からのグローバルな思想に注目すべきであるという結論が説得力を持つ講演でした。 (報告者:エムデ・フランツ)
連絡・問合せ755-8540 山口市吉田 1677-1TEL 083-933-5200(代)FAX 083-933-5273http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/̃hmt/kenkyu/ibun.htm
平成22年度異文化交流研究施設湯川 洋司(人文学部長・異文化交流施設長)根ヶ山 徹(副学部長) 高木 智見(評議員)橋本 義則(研究部長・異文化交流施設副施設長)脇條 靖弘(研究部門長) 馬 彪(教授)武本 雅嗣(准教授)
目 次「異」字考 ―――――――――――― 高木智見 ―1
『異文化研究』(第4号)の御案内 ―― 脇條靖弘 ―2
海外講演報告 ―――――――――― 根ヶ山徹 ―3
海外研修ファイル ――――― 馬彪/橋本義則 ―3
留学の現場から ―― 翟金永/黄潔/永久真衣 ―5
異文化講演会報告 ―――― エムデ・フランツ ―8ティールのヒッポドローム
異 文 化 講 演 会 報 告
ハロウィンにて(筆者後列右から一番目)
2010年 異文化交流研究施設ニューズレター� 第 11 号
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