6
116 〔日 412 号〕  (2019UDC 621 . 785 . 532 : 669 . 14 . 018 . 26 技術論文 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 Development of Nitriding Technology by Optimizing Steel Composition and Process Conditions 祐 谷 将 人 江 頭   誠 梅 原 崇 秀 Masato YUYA Makoto EGASHIRA Takahide UMEHARA 軟窒化前の工程が軟窒化特性に影響を及ぼすメカニズムを明らかにすべく,軟窒化前の熱処理条件を 種々に変化させた S40C と SCr420 の拡散層の硬さ測定を行った。焼ならしを施すことで,軟窒化後の S40C の拡散層の硬さは低下したが,SCr420 の硬化量は変化しなかった。透過型電子顕微鏡を用いた観 察によると,S40C における焼ならしによる硬化量の低下には,拡散層中のα”-Fe 16 N 2 のクラスター化が 寄与していることが示唆された。SCr420 に焼入れ焼戻し,または低温焼なましを施すと,軟窒化時の硬 化量は低下した。この理由は,軟窒化前の熱処理によるに固溶 Cr 量の減少であると考えられる。 Abstract Hardness of nitrocarburized S40C and SCr420 was measured to investigate the effects of pre- treatments on hardening ability of nitrocarburizing. The hardness of the diffusion layer in S40C with normalizing was lower than that without normalizing. In the case of SCr420, normalizing did not affect hardness of the diffusion layer. The observation with transmission electron microscopy suggested clustering of α”-Fe 16 N 2 contributes to lower hardness of the diffusion layer in normalized S40C. Quenching-and-tempering and low-temperature annealing caused a decrease in hardness of diffusion layer in SCr420. This decrease in hardness was caused by a decrease in amount of Cr dissolved into matrix. 1. 緒   言 自動車,産業機械および建設機械などに用いられる機械 部品には,疲労強度を向上させる目的で,種々の表面硬化 熱処理が施されることがある。表面硬化熱処理は,浸炭, 高周波焼入れ,(軟)窒化の三種類に大別される。これらの 内,浸炭,高周波焼入れは,高温からの焼入れによるマル テンサイト変態を活用しており,容易に深い硬化層が得ら れる反面,変態時のひずみが大きい。軟窒化処理は, 600℃以下の低温で行われるため,他の熱処理と比べると ひずみが極めて小さいという特徴がある。 近年の内燃機関の EVHV 化の促進に伴い,部品には 低騒音,低振動といった従来と異なる特性が要求され始め ている 1) HV 車用のエンジンやトランスミッションにおい て,これらの特性を向上させるためには,部品寸法の高精 度化が有効であり,ひずみの小さい軟窒化処理はこのニー ズに適している 2) 。低ひずみであるという軟窒化処理の特 徴を生かしその適用範囲を拡大するためには,疲労強度や 耐摩耗性の面においてさらなる向上が必要となる。 日本製鉄(株)では,素材メーカーの強みを生かして,合 金成分の最適化により優れた軟窒化特性を有する鋼材の開 発を進めている。しかし,鋼の軟窒化特性は,鋼材成分だ けでなく,微細組織や前処理などの種々の影響を受けて変 化し得る。したがって,軟窒化用鋼の実力を最大限に発揮 するためには,各種のパラメーターが窒化特性に影響を及 ぼすメカニズムを明確化し,ユーザーに “ 最適な使い方 ” を含めて提案する必要がある。 2. 軟窒化前の前処理と軟窒化特性の関係 鋼を軟窒化すると,最表面には,厚さ数 μ m から 30 μ m 程度の,鉄窒化物を主体とする化合物層と呼ばれる層が生 じる。化合物層の直下の母相は,侵入してきた窒素との相 互作用によって硬化し,拡散層と呼ばれる。軟窒化時の拡 散層の硬化特性に合金元素が影響を及ぼすことは広く知ら れている。特に,鋼中で窒素との化合物を作りやすい Cr 等の合金元素が含まれている場合は,その含有量が増える * 鉄鋼研究所 棒線研究部 主幹研究員  千葉県富津市新富 20-1 293-8511

鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 - Nippon Steel117 日本製鉄技報第 412 号 (2019) 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 - Nippon Steel117 日本製鉄技報第 412 号 (2019) 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる

─ 116 ─

〔日 本 製 鉄 技 報  第 412号〕  (2019)

UDC 621 . 785 . 532 : 669 . 14 . 018 . 26技術論文

鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発Development of Nitriding Technology by Optimizing Steel Composition and Process Conditions

祐 谷 将 人* 江 頭   誠 梅 原 崇 秀 MasatoYUYA MakotoEGASHIRA TakahideUMEHARA

抄 録軟窒化前の工程が軟窒化特性に影響を及ぼすメカニズムを明らかにすべく,軟窒化前の熱処理条件を

種々に変化させたS40CとSCr420の拡散層の硬さ測定を行った。焼ならしを施すことで,軟窒化後のS40Cの拡散層の硬さは低下したが,SCr420の硬化量は変化しなかった。透過型電子顕微鏡を用いた観察によると,S40Cにおける焼ならしによる硬化量の低下には,拡散層中のα”-Fe16N2 のクラスター化が寄与していることが示唆された。SCr420に焼入れ焼戻し,または低温焼なましを施すと,軟窒化時の硬化量は低下した。この理由は,軟窒化前の熱処理によるに固溶Cr 量の減少であると考えられる。

AbstractHardness of nitrocarburized S40C and SCr420 was measured to investigate the effects of pre-

treatments on hardening ability of nitrocarburizing. The hardness of the diffusion layer in S40C with normalizing was lower than that without normalizing. In the case of SCr420, normalizing did not affect hardness of the diffusion layer. The observation with transmission electron microscopy suggested clustering of α”-Fe16N2 contributes to lower hardness of the diffusion layer in normalized S40C. Quenching-and-tempering and low-temperature annealing caused a decrease in hardness of diffusion layer in SCr420. This decrease in hardness was caused by a decrease in amount of Cr dissolved into matrix.

1. 緒   言

自動車,産業機械および建設機械などに用いられる機械部品には,疲労強度を向上させる目的で,種々の表面硬化熱処理が施されることがある。表面硬化熱処理は,浸炭,高周波焼入れ,(軟)窒化の三種類に大別される。これらの内,浸炭,高周波焼入れは,高温からの焼入れによるマルテンサイト変態を活用しており,容易に深い硬化層が得られる反面,変態時のひずみが大きい。軟窒化処理は,600℃以下の低温で行われるため,他の熱処理と比べるとひずみが極めて小さいという特徴がある。近年の内燃機関の EV・HV化の促進に伴い,部品には低騒音,低振動といった従来と異なる特性が要求され始めている 1)。HV車用のエンジンやトランスミッションにおいて,これらの特性を向上させるためには,部品寸法の高精度化が有効であり,ひずみの小さい軟窒化処理はこのニーズに適している 2)。低ひずみであるという軟窒化処理の特徴を生かしその適用範囲を拡大するためには,疲労強度や

耐摩耗性の面においてさらなる向上が必要となる。日本製鉄(株)では,素材メーカーの強みを生かして,合金成分の最適化により優れた軟窒化特性を有する鋼材の開発を進めている。しかし,鋼の軟窒化特性は,鋼材成分だけでなく,微細組織や前処理などの種々の影響を受けて変化し得る。したがって,軟窒化用鋼の実力を最大限に発揮するためには,各種のパラメーターが窒化特性に影響を及ぼすメカニズムを明確化し,ユーザーに “最適な使い方 ”を含めて提案する必要がある。

2. 軟窒化前の前処理と軟窒化特性の関係

鋼を軟窒化すると,最表面には,厚さ数 μmから 30 μm程度の,鉄窒化物を主体とする化合物層と呼ばれる層が生じる。化合物層の直下の母相は,侵入してきた窒素との相互作用によって硬化し,拡散層と呼ばれる。軟窒化時の拡散層の硬化特性に合金元素が影響を及ぼすことは広く知られている。特に,鋼中で窒素との化合物を作りやすい Cr等の合金元素が含まれている場合は,その含有量が増える

* 鉄鋼研究所 棒線研究部 主幹研究員  千葉県富津市新富 20-1 〒 293-8511

Page 2: 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 - Nippon Steel117 日本製鉄技報第 412 号 (2019) 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる

─ 117 ─ 日 本 製 鉄 技 報 第 412号 (2019)

鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発

にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる 3-5)。鋼材成分以外の因子も軟窒化特性に影響を及ぼす。軟窒

化処理が用いられる部品は,軟窒化処理の前に,鍛造,熱処理,機械加工等の種々の工程を通して製造される。これらの前工程が軟窒化特性に影響を及ぼすことが報告されている。江頭らは,軟窒化前に焼ならしを施すことで,軟窒化後の硬さが低下することを報告している 6)。三輪らは,熱処理で鋼の前組織を作り分けた鋼を軟窒化し,ベイナイト組織は,フェライト・パーライトやマルテンサイトよりも表層硬さが高く,硬化深さも深いことを報告している 7)。高瀬らは鋼に冷間加工を施すと,拡散深さが浅くなることを報告しており,その理由は転位による窒素のトラップであると推定している 8)。これらの報告により,前工程が軟窒化特性に及ぼす影響は定性的に明らかになりつつある。一方,これらの前工程がどのようなメカニズムで軟窒化特性に影響しているかについては,十分に調査されているとは言い難い。そのため,これらの知見を,幅広い成分範囲の鋼に対して汎用的に応用することが困難な場合がある。本稿では,軟窒化前の熱処理,および鍛造条件が軟窒化層の硬さに及ぼす影響とそのメカニズムについての研究事例を紹介する。

3. 焼ならしが軟窒化特性に及ぼす影響

軟窒化の前に組織の均質化等を目的として焼ならしが施されることがある。すでに述べたように焼ならしによって拡散層の硬さが低下することが報告されており,その影響は焼ならし温度が低くなるほど大きい 9)。本章では,焼ならしが拡散層の硬さに影響を及ぼすメカニズムを調査するとともに,焼ならしによる硬さ低下挙動に及ぼす鋼種の影響について調査した結果について述べる。

3.1 焼ならしによる硬さ低下挙動に及ぼす鋼種の影響供試鋼は,S40C(0.4C-0.2Si-0.8Mn)と,窒化物形成元素

である Crを含む SCr420(0.2C-0.2Si-0.8Mn-1.0Cr)の二種類を用いた。真空溶解でこれらの鋼のインゴットを作製し,50 mm径の丸棒に熱間鍛造した。鍛造後の丸棒に対して,S40Cは 850℃で,SCr420は 900℃でそれぞれ 1 h保持後に

大気中で冷却する焼ならし処理を施した。焼ならし後の各丸棒から,10 mm × 10 mm × 80 mmの角棒状の試験片を作成し,580℃で 2 h保持後に油冷する軟窒化処理を施した。軟窒化後の試験片に対して表面近傍の断面の組織観察と硬さ測定を行った。図1に,各鋼種の軟窒化後の表層の光学顕微鏡写真を示す。S40Cの非調質材はフェライト・パーライト組織である。焼ならしを施したものでは,初析フェライトの体積率が増加し,初析フェライト粒,およびパーライトのサイズが微細化しているが,組織構成の観点からは,フェライト・パーライトであり非調質材と定性的には同じと言える。SCr420の非調質材の組織は,フェライト・パーライトに加えてベイナイトが混在した組織であった。焼ならししたものでは,組織が微細化するとともに,ベイナイトの体積率が非調質材よりも低下しているように見える。図 2に,S40Cの軟窒化後の表層近傍の硬さプロファイ

ルに及ぼす焼ならしの影響を示す。焼ならし材の表層硬さは,非調質材のものと比べて約 40 HV低い。図 3に,SCr420の軟窒化後の拡散層の硬さプロファイルに及ぼす焼ならしの影響を示す。SCr420の場合は,焼ならし材と非調質材で表層の硬さに差は認められない。

3.2 焼ならしが拡散層の硬さに影響を及ぼすメカニズム

前節で述べたように,鋼種によって焼ならしが硬さプロファイルに及ぼす影響は異なる。この理由を明らかにすべく,両鋼種における拡散層の硬化の支配因子に着目し,Transmission Electron Microscopy(TEM)観察を行った。硬さ測定を行った軟窒化後の棒状の試験片に対して,表面から 75 μm深さ位置が観察部となるように薄片試料を作成し,観察に供した。図4は S40Cの拡散層で観察された析出物の TEM像で

ある。S40Cの非調質材で観察されているこの析出物は,準安定な鉄窒化物の α”-Fe16N2であり 10),軟窒化温度からの冷却の過程で析出したものである 11)。α” 相は母相と類似の結晶構造を持つため,ミスフィットは小さく,厚さも数 nmであることから,析出強化に寄与し得る 12, 13)。α” のサイズ

図1 軟窒化後の表層の断面組織写真(a)S40C非調質,(b)S40C焼ならし,(c)SCr420非調質,(d)SCr420焼ならし

Opticalmicrographsofthecrosssectionsofthenitrocarburizedsurfacein(a)Non-pretreatedS40C,(b)S40Cnormalizedat1373K,(c)Non-pretreatedSCr420and(d)SCr420normalizedat1123K

Page 3: 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 - Nippon Steel117 日本製鉄技報第 412 号 (2019) 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる

─ 118 ─日 本 製 鉄 技 報 第 412号 (2019)

鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発

に着目すると,非調質材中の α” の長さは,数十 nmであるのに対して,焼ならし材中の α” は長さ 200 nm幅 10 nmを超えているように見える。この塊は,クラスター状に凝集した α” であり 14),個々の α” のサイズは非調質材のものと大きくは変わらない。α” の数密度を比較すると,焼ならし材の密度は明らかに非調質材よりも低い。したがって,α”による析出強化量については,非調質材の方が焼ならし材よりも大きいと考えられる。すなわち,焼ならしによって拡散層の硬さが低下する原因の一つは,この α” のクラスター化による数密度の低下であると考えられる。図5はSCr420の拡散層のTEM像である。この析出物は,

B1型の結晶構造を持っておりCrNであると考えられる 5)。CrNと思われる析出物は長さ 10 nm以下と微細であり,

S40Cで見られた長さ 100 nm以上の α” は見られない。CrNのサイズ,および数密度は,焼ならしの有無によって変わっておらず,硬さプロファイルが焼ならしの有無によって変化しなかったことと対応している。

3.3 α”-Fe16N2 の分散状態の変化S40Cの拡散層において α” の分散状態が変化した原因を調査すべく,軟窒化後のブロック試験片の芯部に Coの Kα

線を照射し,フェライトの {211}面の半価幅を測定した。非調質材と焼ならし材の {211}面の半価幅はそれぞれ,0.200°,0.180°であった。すなわち非調質材のフェライトは,焼ならし材のフェライトよりも多くの格子欠陥,または弾性ひずみを内包していると言える。欠陥やひずみ場は,軟窒

図2 拡散層の硬さ分布に及ぼす焼ならしの影響(S40C)Effect of normalizing followed by nitrocarburizing on ahardnessprofileofthediffusionlayers(S40C)

図 3 拡散層の硬さ分布に及ぼす焼ならしの影響(SCr420)Effect of normalizing followed by nitrocarburizing on ahardnessprofileofthediffusionlayer(SCr420)

図 4 S40Cの拡散層のTEM像(a)非調質材の明視野像,(b)非調質材の暗視野像,(c)焼ならし材の明視野像,(d)焼ならし材の暗視野像

TEMimagestakenindiffusionlayerofthenitrocarburizedS40C(a)Bright field imageof thenon-pretreatedspecimen, (b)Darkfield imageof thenon-pretreatedspecimen, (c)Bright fieldimageofthenormalizedspecimen,(d)Darkfieldimageofthenormalizedspecimen

図 5 SCr420の拡散層のTEM像(a)非調質材の明視野像,(b)非調質材の暗視野像,(c)焼ならし材の明視野像,(d)焼ならし材の暗視野像

TEMimagestakenindiffusionlayerofthenitrocarburizedSCr420(a)Bright field imageof thenon-pretreatedspecimen, (b)Darkfield imageof thenon-pretreatedspecimen, (c)Bright fieldimageofthenormalizedspecimen,(d)Darkfieldimageofthenormalizedspecimen

Page 4: 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 - Nippon Steel117 日本製鉄技報第 412 号 (2019) 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる

─ 119 ─ 日 本 製 鉄 技 報 第 412号 (2019)

鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発

化温度からの冷却中の α” の核生成サイトになると考えることができる。これらの欠陥やひずみの多い非調質材では,マトリックス全体に α” が均一に析出できる。一方,欠陥やひずみの少ない焼ならし材では,析出の後期に十分な核生成サイトがなくなり,早期に析出した α” によって生じるひずみ場を新たな核生成サイトとして析出するため,クラスター化が進んだと解釈できる。図6に α” の析出挙動に及ぼす欠陥,ひずみ場の影響を模式的に示す。以上の結果から,焼ならしによって拡散層の硬さが低下

する原因は,α” の数密度の低下であり,拡散層が主として合金窒化物により硬化している場合は,焼ならしは硬さに影響しないと考えられる。

4. 焼入れ焼戻し,低温焼なましが軟窒化特性に及ぼす影響

前章では焼ならしの影響について述べた。軟窒化用部品には,焼ならし以外にも低温焼なましや,焼入れ焼戻しを施して使用される部品がある。そこで,それらの熱処理の影響についても調査した。

4.1 焼入れ焼戻し,低温焼なましが拡散層の硬さに及ぼす影響

S40Cと SCr420の 50 mm径丸棒の一部に対して,650℃で 2 h保持する低温焼なましを施した。また,他の一部には,860℃から水冷したのちに,620℃で 1 h保持する焼入れ焼戻しを施した。これらの丸棒からブロック状の試験片を作成し,前章で述べた条件で軟窒化した。図7に S40Cの硬さプロファイルに及ぼす低温焼なまし

と焼入れ焼戻しの影響を示す。いずれの熱処理も拡散層の硬さを低下させていることがわかる。低温焼なまし後に軟窒化処理を行うと,焼ならしと同様に,α” がクラスター化し,

数密度が低下するため 14),軟窒化層の硬さが低下する理由は,焼ならし材における理由と同じであると考えられる。図8に SCr420の硬さプロファイルに及ぼす低温焼なま

しと焼入れ焼戻しの影響を示す。SCr420は焼ならしでは硬さが変化しなかったが,低温焼なましや焼入れ焼戻しによっては硬さが低下していることがわかる。

4.2 焼入れ焼戻し,低温焼なましが拡散層の硬さに影響を及ぼすメカニズム

SCr420の拡散層は,主として微細な CrNの析出強化によって強化されていた。低温焼なまし材や焼入れ焼戻し材で,析出強化に寄与する Cr量が低下していれば,硬化量が低下した理由を説明できる。そこで,析出強化に寄与する有効な Cr量の変化の有無を確認すべく,追加試験を行った。軟窒化前の非調質材,低温焼なまし材,および焼入れ焼戻し材の丸棒から 10 mm径 × 50 mm長さの試験片を作成した。試験片の表面を電解し,その後,0.2 μmのフィルター

図6 非調質材と焼ならし材における油冷中のα”の析出挙動の模式図

Schematics of behavior ofα” precipitation during oilquenching in the non-pretreated specimen and thenormalizedspecimen

図 7 S40Cの拡散層の硬さ分布に及ぼす焼入れ焼戻しと低温焼なましの影響

Effects of quenching-and-tempering and low-temperatureannealingfollowedbynitrocarburizingonhardnessprofilesofthediffusionlayersinS40C

図 8 SCr420の拡散層の硬さ分布に及ぼす焼入れ焼戻しと低温焼なましの影響

Effects of quenching-and-tempering and low-temperatureannealingfollowedbynitrocarburizingonhardnessprofilesofthediffusionlayersinSCr420

Page 5: 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 - Nippon Steel117 日本製鉄技報第 412 号 (2019) 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる

─ 120 ─日 本 製 鉄 技 報 第 412号 (2019)

鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発

でろ過し,得られた残さ中の Cr量を ICP発光分析で測定した。軟窒化前の状態において析出状態の Crはすべてセメン

タイトの Feを置換した状態で存在していると仮定すると,残さ分析によって得られた値は,セメンタイト中の Cr濃度と言える。一度セメンタイトへ Crが濃化すると,軟窒化中に仮にセメンタイトが溶解したとしても,軟窒化温度でのCrの拡散速度は遅いため,セメンタイト中に存在していた時の分散状態を引きずることになる。そのような分散状態にある Crが CrNとして析出したとしても,その大きさは粗大で,数密度も低くなると考えられる。すなわち,軟窒化前にセメンタイト中に存在していた Crは,軟窒化時にはほとんど硬化に寄与しないと考えられる。図9に各熱処理が軟窒化前の状態におけるセメンタイト

中の Cr濃度に及ぼす熱処理の影響を示す。非調質材では,セメンタイトへの Crの濃化量は 0.05%と少ないのに対して,焼入れ焼戻し,および低温焼なましを行ったものでは,0.2%以上の Crがセメンタイト中に存在していることがわかる。軟窒化時の硬化に寄与する固溶 Cr量を,全 Cr含有量とセメンタイト中の Cr量との差であるとみなすと,焼入れ焼戻しや低温焼なましを行った鋼中では,固溶 Cr量が少ないと言える。したがって,SCr420に焼入れ焼戻しや低温焼なましを施すことで軟窒化時の硬化量が低下した理由は,固溶 Cr量の減少であると言える。

5. 鍛造温度が軟窒化特性に及ぼす影響

前章までにおいて,軟窒化前の熱処理で組織が変化すると,同一の化学成分の鋼であっても軟窒化特性が変化することを示した。鋼の組織,および軟窒化特性は,熱処理だけでなく,鍛造条件によっても変化し得る 15)。本章では,鍛造温度を制御して組織を変化させた鋼を用いて,鍛造温度が軟窒化特性に及ぼす影響を調査した結果について述べる。供試鋼としては S40Cを用いた。真空溶解したインゴッ

トを,一辺が 75 mmの角棒に鍛伸した後,再度,1 523 Kで 30 min加熱し,ハンマー鍛造により 50 mm径の丸棒に鍛伸した。このとき,一部の角棒は,炉から取り出して即,鍛造を開始した。角棒の他の一部は,放射温度計で測定した表面温度が 1 413 K,または 1 293 Kに低下するのを待ってから鍛造を開始した。これらの素材からブロック状の試験片を作成し,853 Kで軟窒化し,組織と硬さを調査した。鍛造後の組織の光学顕微鏡写真を図10に示す。鍛造開

始温度が低下するほど,組織は細かく,フェライト分率が増加していることが確認できる。鍛造開始温度が硬さプロファイルに及ぼす影響を図11

に示す。鍛造温度が低下するほど,軟窒化時の硬化量が低下していることがわかる。鍛造温度が低下するほど,その後の冷却時の変態温度が高くなるため,組織中の転位密度は低下すると思われる。したがって,拡散層の硬さが低い低温鍛造材では,焼ならし材と同様,α” のクラスター化が生じていると推定できる。

6. 結   言

軟窒化前の鍛造,および熱処理条件が軟窒化特性に影響を及ぼすことをいくつかの研究事例により紹介した。(1) 軟窒化前に焼ならしを施すと,S40Cでは軟窒化時の硬

化量が低下するが,SCr420では低下しない。S40Cの硬化量が減少する理由の一つは,α” のクラスター化で

図9 セメンタイトの一部として析出しているCr 量に及ぼす前熱処理の影響

Effects of the pre-heat treatments on amount ofCrprecipitatedasapartofcementite

図 10 軟窒化後の芯部の断面組織写真(a)1523K 鍛造,(b)1413K 鍛造,(c)1293K 鍛造Opticalmicrographsofcrosssectionsofthecorematrix(a)Forgedat1523K,(b)Forgedat1413K,(c)Forgedat1293K

図11 拡散層の硬さ分布に及ぼす鍛造温度の影響Effect of forging temperature on hardness profiles of thediffusionlayers

Page 6: 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 - Nippon Steel117 日本製鉄技報第 412 号 (2019) 鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発 にしたがって,軟窒化層の硬化量も大きくなる

─ 121 ─ 日 本 製 鉄 技 報 第 412号 (2019)

鋼材と工法を組み合わせた窒化技術の開発

あると考えられる。(2) 軟窒化前に焼入れ焼戻し,または低温焼なましを施すと,S40C,SCr420のいずれも軟窒化時の硬化量が減少する。SCr420の硬化量が減少する理由は,析出強化に寄与し得る固溶 Cr量の減少であると考えられる。

(3) 鍛造温度を低温化させることでも,S40Cの軟窒化時の硬化量が低下する。鋼材と工法の組合せに関するこれらの知見を深め,高強

度窒化部品の開発に貢献していきたい。

参照文献 1) 柳瀬吉言,薄出淳二,石津和幸,菊池寿真,越智政志:三菱

重工技報.55 (3),1 (2018)

2) 小林一博,細田賢一,坪田一一,有見幸夫,山岡孝:Sanyo

Technical Report.1 (1),19 (1994)

3) Jack, D. H.: Acta Metall. 24, 137 (1976)

4) Hosmani, S. S., Schacherl, R. E., Mittemeijer, E. J.: Acta Mater. 53,

2069 (2005)

5) Miyamoto, G., Tomio, Y., Oh-ishi, K., Hono, K., Furuhara, T.:

Mater. Sci. Technol. 27, 742 (2011)

6) 江頭誠,祐谷将人,佐野直幸:CAMP-ISIJ.20,479 (2007)

7) 三輪能久,柴田伸也,花川勝則,生野祐治,三原孝司,迫誠

夫:マツダ技報.(8),130 (1990)

8) 高瀬孝夫,中村康彦,牧野正保:熱処理.17 (6),346 (1977)

9) 祐谷将人:CAMP-ISIJ.25,300 (2012)

10) Tanaka, H., Nagakura, S., Nakamura, Y., Hirotsu, Y.: Acta Mater.

45, 1401 (1997)

11) Mittemeijer, E. J., Vogels, A. B. P., Van Der Schaaf, P. J.: J. Mater.

Sci. 15, 3129 (1980)

12) Dahmen, U., Ferguson, P., Westmacott, K. H.: Acta Metall. 35,

1037 (1987)

13) Hinojosa, G., Oseguera, J., Schabes-Retchkiman, P. S.: Thin Solid

Films. 349, 171 (1999)

14) Yuya, M., Sano, N., Tahira, H., Egashira, M., Nishitani, S.: ISIJ

Int. 56, 1241 (2016)

15) 祐谷将人,江頭誠,佐野直幸:CAMP-ISIJ.20,480 (2007)

祐谷将人 Masato YUYA鉄鋼研究所 棒線研究部 主幹研究員千葉県富津市新富20-1 〒293-8511

梅原崇秀 Takahide UMEHARA鉄鋼研究所 棒線研究部 主任研究員

江頭 誠 Makoto EGASHIRA室蘭技術研究部 主幹研究員博士(工学)