7
原著 抵抗さ -3- 序言 一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究 第一章緒言 第二章測定穏 項実験用皮膚通沼測定偲 第二項臨床用皮劇通憶測定穏 川良導点電流党測定装置 ω 良導絡探索装置 ω 良導点探索装館 第三輩メチレン背皮膚電流輸送法に関する研究 第四章自律神経剤注射白皮膚通電抵抗に及ぼす影響 第五章皮膚通電抵抗と圧術及び電流痛に関する研究 第六章描灸後十分時皮膚 O 諸点に於ける通常低抗の変化 第七草枕庄 D 変化 によ る皮府通電低流量 D 変化 第八章箇鍛 K よる皮府通電低抗の変化 第九箪不感蒸池と皮膚通電低抗 第十章総括と結論 第二編良導絡に関する研究 章緒宮 第ニ意向車明暗絡む形態に関する研究 其の - 良穂絡の形態 D ニ腰部、手掌及び顔面の通電抵抗 D 一例 其の=一 慕の四 其の五 其の六 第三章 第四章 第五章 第六章 第七草 第八章 第九章 第十章 第十一章 第十二率 第十三章 十四 第十五章 第十六章 第十七章 第十八章 一疹考 (ー〉 義。 叉神経痛の分析 背部の通電抵抗 良導絡に於けるプロカイン注射の影響 打撲による可。良瀞絡の変動 良導絡と内臓との関係 代表良導点に関する研究 皮膚通信¥通過電流量の比較に関する研究 日常生活が良導絡 及ぼす影響 - 良導絡上の各良導点刺激がその各々の 良導点に及ぼす出世田暗 由民導絡上の諸良導点 K 対する刺激が他 の良導絡に及ぼす影響諸 五伝導方向に関する研筑 五伝導労向と興務総抑制線に関する研究 六部定位の通信抵抗に関する研究 左右良導絡の相関関係 表前世良導絡の相関関係 良導絡の興在点及び抑制点の研究 刺激の種類及び企とその良潟絡への影響に関する研究 会良漕絡調盤とその分析伝聞する研究 反応良導点に関する研究 総括及び結論 文献

ωω川良導点電流党測定装置 原著原著 通 電 抵抗さ 皮 膚 ー-3-一一 序言 第 一 第二章測定穏第一章緒言一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

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Page 1: ωω川良導点電流党測定装置 原著原著 通 電 抵抗さ 皮 膚 ー-3-一一 序言 第 一 第二章測定穏第一章緒言一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

原著

ー- 3-一一

一一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

一項実験用皮膚通沼測定偲

第二項臨床用皮劇通憶測定穏

川良導点電流党測定装置

ω良導絡探索装置

ω良導点探索装館

第三輩メチレン背皮膚電流輸送法に関する研究

第四章自律神経剤注射白皮膚通電抵抗に及ぼす影響

第五章皮膚通電抵抗と圧術及び電流痛に関する研究

第六章描灸後十分時皮膚O諸点に於ける通常低抗の変化

D変化による皮府通電低流量D変化

Kよる皮府通電低抗の変化

第九箪不感蒸池と皮膚通電低抗

第二編良導絡に関する研究

一章

第ニ意向車明暗絡む形態に関する研究

其の

-

良穂絡の形態

其Dニ腰部、手掌及び顔面の通電抵抗D一例

良ー尽

生其の=一

慕の四

其の五

其の六

第十一章

第十二率

第十三章

第十四章

第十五章

第十六章

第十七章

第十八章

(ー〉

義。

三叉神経痛の分析

背部の通電抵抗

良導絡に於けるプロカイン注射の影響

打撲による可。良瀞絡の変動

良導絡と内臓との関係

代表良導点に関する研究

皮膚通信¥通過電流量の比較に関する研究

日常生活が良導絡に及ぼす影響

-良導絡上の各良導点刺激がその各々の

良導点に及ぼす出世田暗

一由民導絡上の諸良導点K対する刺激が他

の良導絡に及ぼす影響諸

五伝導方向に関する研筑

五伝導労向と興務総抑制線に関する研究

六部定位の通信抵抗に関する研究

左右良導絡の相関関係

表前世良導絡の相関関係

良導絡の興在点及び抑制点の研究

刺激の種類及び企とその良潟絡への影響に関する研究

会良漕絡調盤とその分析伝聞する研究

反応良導点に関する研究

総括及び結論

Page 2: ωω川良導点電流党測定装置 原著原著 通 電 抵抗さ 皮 膚 ー-3-一一 序言 第 一 第二章測定穏第一章緒言一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

一-4一一

鍛灸医術の起元は確然とは判っていないが、鍛は石器時代から、灸は

火の発見後まもない乙とであろうと推定されてゐる。斯かる刺激療法が

如何にして発見されたかは詳かでないが、身体の客痛のある、場所を手で

沿さえてみたり-更に強・い圧迫乃至機披的刺激を得るために石や、竹木

等で突いたり押したりした事から始まったものと思われる。また燃焼物

を皮膚の上にのせたり、焼いた金属或は竹木を疹痛部にあてたりして‘

苦・痛をのがれる経験を積んで行くととはあった様でそのうちに、色々の

関連性を知

p、E乙え刺激を与えると、

E乙の部分が楽になるという様

な乙とを多くの経験から帰納的托知る様になったものと解するのが最も

妥当の様である。

仏典の「四吠陀論」の第一一編「寿陀吠」は養生継性医方の諸事を説い

てゐる。西方五明論には「鉱刺すわざもなしたり」とある。又医霊の渇回

婆は、生れながらにして‘鍛と薬袋をもっ

τいたと伝えられてゐる事等

から鍛灸の発祥地は恐らく印度であると脅えてゐる。

本朝ではご十九代欽明天皇の十三年十月百済聖明王は其臣怒卿斯波を

使とし仏像、仏具及び経倫を献じ、次で十四年六月には使を百済に遣し

医、暦、易の博士を来朝せんめた。間二十三年八月、呉人知聴は薬害と

明裳凶を持って来朝した。

ζ

れが銭の我国

κ入った最初であろう。

その後紀河辺幾男鹿が新羅に行って錫術を学んで帰り、皇極天皇の元

年に帰朝して鍛博士となった。

我国は先進国たる支那から其文物制度を直接得ゐと心て推古天皇の十

五年七月小野妹子を使とレ

τ派遣した白再度の派遣の際、我医士八人を

随員として留学せしめ同三十一年に彼等は帰朝した。使節の践々な派遣

により我国の文物は唐の制度を模範として、四十二代交武天皇の大宝元

年八月に大宝令が発布せられたことは歴史の示す通りであるが当時宮内

省の典薬寮に医師‘医博士、医生を置き、之に対して針師、針博士、針

生の制度が設けられた。かくて鋸灸科は平安朝に於ては医療道の重要部

分を占め平安朝の医遣には唐の陰陽五行設が行われていた

O心。随って

-

鍛灸刺激療法と陰陽五行説とは密接の関係をもっ

τ居り今日に及んで居

る。陰陽五行設とは支郊の哲学であっ

τ宇宙のすべてに徹する哲理法別で

あり、人体に治ける疾病治療などもとれにあてはまると考えた、乙れ

は二元論を根本理とし一切の如何なるものも陰と腸とのこつに分類しよ

うとするのであるが分類は更に進んで二元論から考えて少しをかしいと

思われる木火土金水の五つを持って来た。例えば湯を陰陽説で解するに

混は冷に対して対庶的でありその性格から腸であるとし五行は水に属す

ると云った具合であるめ。又人体にあっては臓は陰であり、脚は陽であ

るとし丈居る。そして‘肝、胆は木.心、小腸は火、牌、胃は土、姉、大

腸は金、思円、勝脱は水性に属せしめて居るo

それに木は火を生み火は土

を生み、土は金主主み、金は水を生み水は木を生むと調う。乙れは五行

の「母子関係」なる観かたであち柑生関係とよばれ℃ゐる。次に水は火

花勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は火に勝つ、

土は火に勝つ.、土は水に勝っと謂うので、乙の関係乞「相勉関係」と一謂

つ℃いる。以上のζ

とから先に述べた五臓六駒に就いて謂うと、腎は肝

を生み、腎は心に勝っと謂うことであるa

叉肝に異常があると、筋に変

化が起り怒りやすくなり・腕恥を好み、皮腐は背くなるo

として庭り・更

.K限に関係がある等と謂つでゐる、之は五臓の色体表でこんな乙とをそ

れん¥の臓器についてのべている。推論色々の意味で行主過ぎを生じた

り、制限設で絞り伝えられなEして現代医学からみれば馬鹿々々しい様な

乙とがま乙としやかに行われていた様である。

.

しかし之を荒唐無稽なりと一笑に附するに足るだけの科学的根拠がな

ければ一概に銭灸は迷信療法なりと排し去るととはまた科学的でないと

云い得ょう。曽って石川目出鶴丸めは一切の迷信治療は近代医学の立場

から之を努めて排すべきであると考え℃鍛余術なる東洋古医法の一刺激

療法を科学的検討の狙上にのせた。然るに自らの「屑の凝り」民鍛を試

みるに至って此の技術に肩凝・り消退の卓効ある事を認め、却って織灸術

を科学する為に新発足を為したと述べている。科学者窮理の正道を・とつ

-ー・圃圃司

Page 3: ωω川良導点電流党測定装置 原著原著 通 電 抵抗さ 皮 膚 ー-3-一一 序言 第 一 第二章測定穏第一章緒言一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

た真執の態度から「其」なるものを生じたと観るべきでみるう。然し近

代科学的に否定の根拠も得られないが背定の域に遥する業績

6石川初め

他の多〈の近代科学者陀よる研筑によっても未だしの状態である。

陰陽荒行説民附随して経絡なるものがゐる、代田仰によれば経絡は

陰陽元気の循行の経路であり、

人休に疾病あるとき、その反応は乙の径

絡の上に現われるという。病理的に経絡を解釈すれば「経絡とは疾病の

皮府及び皮下組設の如き休表面部に現われる反応一系である」と述べて

いるが、之だけでは不充分にして不正確な説述でゐる。モれは己のまム

ではへツド氏待も経絡だと詞い得るととになり、随って経絡と詞-フ一つ

のパターンがゐるのだから「経絡とは経絡的形態を示す皮膚及び皮下組

織に現われる反応の系統でゐり・一

般には疾病によってより者明氏表わ

れる」とした方が良いのではゐるまいか。

捕時英.経絡は如斯東洋的ではっきりしないものだが商洋の医替はは全

〈見当らない。

経絡と調3M悶は支那最古のほ替と云われる責務内経広由来する色ので

ある山川内経に於ける経絡(径脈)とは、身休を栄出世し保制限する気血の循出掛

する経路を調っている、無とは元来非常に広範に使われる言葉でゐつ

τ

一凡そ見えないもの、ものtA

働LC等を気と呼んでゐる、例えば天気、病気

低気・空気といった織なものである。り

とのととから経絡は血液の循環に関係する

bのという様な解釈も川米

その気と捌う何だか現代医学では分らないものに循環等が関係のゐると

とにも解される節が品る.Eれは叉自律神経の滋能を詞つ

τいると

b考

えられる節がゐる、経絡を気と連関して考えると機能と筋なちの

になっ

τ浮んで採る織でゐる。此の不可思箭な非科学的傾念ともいうべき経絡

は十四からなり.前後の正中級のうち前を任脈、後を督脈と名づけてい

る。残りの十二民対しては

手之太陰肺経

手之陽明大開制経

足之崎明開経

ー-5司一一

足之太陰脚経

乎之少陰心経

4T之大腸小四回経

足之大腸跨腕骨程

足之少陰腎経

手之阪険心包経

手之少腸=一位・径

足之少路題懇

足之原陰肝径

と名づけられている。

此処K現われた肺、大同閥、同と謂った様な名称を現代医学が受けつい

でいるのでゐるが果して疋磁民近代医学の意味する臓器名と

一敦してい

ないのも見交られる。又心包と三焦と調う名称は現代的に何を意味する

か不明とされてゐる様なのもゐる.之は対して心包は血管及び心裂。=一

焦は淋巴管及び乳際管と解され白節もないといった様なものでゐる。(

正括経絡の外K八寄径と調うのがゐるが、ゐまり霊前且視されていないの

で省略する)。

江戸時代京都の医師山脇東洋

(=8158)は同志と共に刑屍を宮に箭

うて洛酋の刑坊で解剖した。沢洋は日木最初の解剖にみたりかねてより

秘臓していた「銃入所作岡山川節刻例之官官」つまり一冊の西洋解剖容を刑坊

に持って行き、比綬対照し‘李朱医学が余りに空理空論的でゐるとして

排斥した。

η解剖の結果から、即ち形態的に経絡の形態が得られなかっ

たので経絡殺を笠現空論説と制ねれて排される節を生じて来た。程度や

事情の差と司令ゐれ、乙っ云う窃は現代の解剖学の織な形態学にも調える

ことであっ

て、肉眼で見えないと神怒の走行等は存在を肯定されない傾

きがゐる。皮膚には無数の自律神経が来ているが.

ζ

の走行が今もっ

分らない。顕微鏡で偶々をの片開闘を競・3耶が出来ても迎統切片ではその

神経織織がE

Eから、どEえ行っているのか知るζ

とは出来縫いといふ

織なEとがゐる。然し経絡は如時間単に形態的の検徒主要すベ吉ものでは

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一一6一一

なく・あるパターンは示し得る形態的のものであり乍ら多分に機能的の

本質をもったものと解さねばならぬ事柄と我々は考へて居る。此処に於

.て経絡の究明乙そ、銭灸なる刺激療法たる東洋医術をとく有力な鍵の一

つであるう。乙r

の検討研究に当っては先づ先決事項として経絡なるもの

が存・在するや否やの問題がある。長浜及び丸山川は銭の響によって経絡

の形援を認知.している。衣で山本川問は之を追試し、圧診並に打診によ

って・も経絡を観察しているといふ。果して彼等の研究を経絡の証明とい

ひ得るか否かは、学問の論理化といふ点から疑念は存すみが、俵りにそ

れを許容するとするならば、経絡は古人の架空的安説どとは調えないζ

とに友る。

哲学あって科学の無い古代東洋の俵設と近代医学的即科学的検索法を

以℃する研究のUZPとが偶々一致したからと

τ経.絡なる仮説が検証され

たといふ論理にはならないのであるが.然し近代科学刺激生理学的な実

験成績とよく似た理を発見する処に経絡なる東洋流の哲理は看過出来な

いものを感ぜしめずにはをかない。以上の様な陰陽五行訟の書かれた書

物としては索開がある。如斯注目すべき哲理の洞察成立・に就いては諸説

あり、或は賞帝時代とも調い・、或は周奏時代、また秦漢時代と謂はれて

いるが.今日では概ね繋漢時代の人民より撰せ・られ、名を黄帝及び岐伯

に俵りて述作せられたものと考へられている側。和漢医学の金科玉条と

せるものが実にニ千有蝕年前の古典であるが何時の頃に如斯思想が纏り

上ったかに就い

τは不明の点が多い様である。次で

mE権、及び難経等が

ある。皆同様の乙とが云へる様である。

鍛灸術は本邦では戦国時代に入って表へたが‘豊臣秀吉の.朝鮮征伐の

時に入江頼明が従軍して、明人の呉林遥から秘伝を受けて帰り、入江流

を聞き、出雲大神の神宮吉岡意休が永践の初年に明K行って刺鍛の法を

学んで帰り、吉田派を称した。乙の頃から銭灸術はまた復興しはじめた

それまでは鉄の銭であったが花園天皇の時代、御薗意思月は金と銀の銭を

作った。それから五十六年後に杉山和一が管誠を発明して鍛術の手技上

の困難は緩和された。徳川幕府は杉山に命じて鍛治講習所を諸州四十五

箇所に増設し杉山流は一.世を風際するに至った、銭灸重宝記によれば

誠に九銭あり「ざん録、同銭、提銭、鋒録、

MM鋭、員利鎖、落鎖、長銀

大銭」である、

ζれらは種類によって摩擦、圧迫、掻把、切湖、潟血、

排般、排波、刺入等の目的に使用された。川誠灸術手技上の発達はかな

り観るべきものはあったが‘その理論就中経絡に関する見解等の進歩は

みるべきもDがあまり無かった様である。

平安朝から鎌倉時代や室町時代に至るまでは主として盤症、斤筋、箔

疹を治療するに用いられた。後藤艮山爪高治二年生)が出るに及び灸法

を内科の治療に用い出した。「石病は一気の留滞に占る」と調う有名な

設を立てL灸道は俄然天下に興った。灸は鼠奨大を原則とした。

銭は古くから行わ.れていたが灸は大部遅れて内科にとり入れられた。

ωω比較的渡来の新しい灸が各種の支那灸から文による点火灸一遍倒に

進歩したのは現代支那灸界の驚嘆する処であるがやはり右述の如く乙の

手法の発達に過ぎなかった。江戸時代の中頃、延宝元年五月にオランダ

の一民使に従って、来朝した蘭医ウィリアム・ク1日は長崎に上陸し五代

徳川綱吉の病を診察し、オラアグに帰って著述した中に日本の鍛術と灸

法のととが書いてあり‘次で元勝三年五月に長崎へ来朝したドイツ人ケ

ンペルが著した有名な日本史や、アメ1・-アグテス・エキグチーの唱に灸

の図を挟んで説明しているのが、鍛灸術の西洋に紹介された始めとされ

ている。文政六年八月には蘭医ドクトン・ホンシ

lボルトは長崎の訳官

を通じて幕府の針医法眼J

石坂宗哲から灸の術書及び針七本を得た。

ω

明治維新後は西洋医学の輸入によって、科学的でなかった錫炎の如き東

洋医術は漢方医薬と具に一員鵡されその長所迄が短所と共に務り去られて

民間療法並の扱いを受け政治的事情も加つ

τ東洋医学及医術は全面的に

表制した。しかるに明治の末期に至

P次第に鍛灸医術の中に伏在する真

理が認織され.其の科学性に就いて検討される様になって来た。第一に

三浦謹む助問の鍛治について」(明治四十年)続いて後藤

ω「ヘッド民

帯と我邦古来の鍛灸術に就て」(明治四十五年)「灸の血液分布に及ぽ一

す影響等。殊じ後者の研究は京大仁於て故石川日出鶴丸名誉教授の指導-

Page 5: ωω川良導点電流党測定装置 原著原著 通 電 抵抗さ 皮 膚 ー-3-一一 序言 第 一 第二章測定穏第一章緒言一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

』 ........:7一一『

によって行われた。樫田

ω、原田

ωの「灸治に就て」越智

ωの「灸治が

腎臓機能特に利尿に及ぼす影響に就て」時枝

ωの「灸の実験的研気」原

ωの「灸の血色素量並に赤血球数に及ぽす影響」青地

ωの「灸の血球並

に血清に,及ぼす影響」藤井

ωの「小児織に関する研・究」太田

ωの.「灸の

皮下組織球性細胞に及ぽす影響に就

τ」駒井・

ωの「灸の生理学的研究」

滝野

ωの「火傷の血清カリウム及びカルチウム含有量に及ぼす影響に関

する実験的研究」水野

ωの「錨術の生物学的研究」長谷川

ωの「灸の局

所温度に及ぽす影響」山下

ωの「灸の白血球機能並に核型に及ぼす影響

」大沢

ωの「灸の薬理とその治療的意義い石川

ωの「鍛灸術に就て」等

特に京都大学生理学教室に於て石川教授指導のもとに大

E初期より二十

数年に一且り銭灸治効原理の基礎理論的研賓が行われ、自律神経に関する

求心性二重法則が樹立される迄に至ったJ

一、ヘッド氏帯の追試と実験的詮明

二、内臓

l皮膚反射及び聯関の研究

一ニ、皮膚

i内臓反射及び聯関の研究

四、内臓

l内臓反射及び聯関の研究

五、皮膚!皮膚聯関の研究

六、求心性自律神経二重支配法則の建設

八、自律神経高位中植及び低次中枢と鍛灸刺激との関係

ζ

の研究に従業したものは川上、久保、浅井、増王、春問、岡本、森

井、小屋、神山、北問、内問、生沢、河野、山崎'林、末岡、駒井等

ω

の業績のあげられたのは本邦に於ける錫灸刺激療法に対する科学的裏付

け業績として注目に値すると云い得ょう。然し乙れ等の基礎的研筑業績

.から経穴経絡の如き科学的裏付けの牙織に迫り得なかった。

次で長浜

ωの「銭の臨床的応用」「新経絡に就て」・

槍物

ωの「超短波による灸療法」秦の

ω「無痕灸刺激作用機序の本質に関

.する研究」寺本仰の有痕灸の研究」等がある。命右生理学教室・では笹川

教授の指導によっ尤、問中、寺本、高島、近藤、高橋.藤井、稲垣等が

研究を進め、その科学的裏付け研究の内特に経穴経絡自律神経の綜合中

桓機能の研究等神経性調整機転の研究に漸く着手が進んで来たが更に赤

血球、白血球、菟疫鑓の増加とか血液凝国速進.血液のアルカロ

1ジス

化の如き液性調整機転と鍛灸刺激療法との関係にち其の研究は進んで来

た。斯くて神経性調整機転と液性調整機転との相関をEC10の∞ご

g学訟

に依って説明せんとする研究に進むに及んで経絡なる東洋医学が見産さ

れて来る訳である。代田同は「経穴とは経絡上に於ける反応点」と謂っ

ている。反応点にもなり治療点ともなり得る部位を経穴と呼んでいる。

一般には壷と謂われているとし「鉱のヒピキ」等に注目し出じて居るの

は石川(日出鶴丸)等の先進に負ふ処大とせねばなるまい。中間はζ

鍛の査とパレツクス世間とが殆ど一致する。そして今日の科学から言うと

不合理な点も少くないがι

叉甚だよく出来たとこるもある。吾々はピタ

カインの注射部位を定め

τいるが、大体に於て日本の鍛灸の「蜜」に一

致するのは甚だ興味ある事実であると述べている。鍛灸D科学的裏付け

の研究は斯くするうちに本邦では油然として勃興し経絡の如き東洋哲理

C上に立つ事柄と別箇む見地から即ち右述神経性並に液性調整機転D相

関moqoの田門司

g学論等の如き近代医学C原理に立脚した研究の蔚芽が石

~川研究室に現わね出した。笹川は仰は鍛灸の近代科学的原理として次む

ものをあげている。

一、キツケンジl原理(内臓体表面部反射)

一一、・同逆原理(体表面部内臓反射〉及び体内諸部相関反射(内臓間反射

等)

三、ヘッド氏帯

四、自律神経二重支配法則

A、遠心性二重支配法則。ヌング

vl〉

B、求心性二重支配法則(石川)

五、汎適応症候群反射機転(セ

pエのストレス学説)

本研究は如斯諸反射に対する鍛灸刺激効果に関するものであって其の結

果は哲理はもって居クたるうが、非科学的所産と目せねばならぬ東洋医

Page 6: ωω川良導点電流党測定装置 原著原著 通 電 抵抗さ 皮 膚 ー-3-一一 序言 第 一 第二章測定穏第一章緒言一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

ー一-8-一ー

学の経絡なるものを重視せねばならぬ様な事になりつLある。所で現在

銭灸ぱ知何なる理論によって施術しているか翻って考え

τみると一般に

は疹痛部直接民施術する.或はその疾患に依って現われた反応点(圧痛

点〉或はそD疾患に経験上良いとされた経穴に対して施術している。こ

れは一つの対症療法であり、古典では標治法と呼んでいる戸その外に一

部の人達によって木治法が行われている。本治法と調うのは金経絡を調

整する方法で、脈診によってその経絡の虚実を知り五行理論によって虚

している経絡は補い、実し

τいる経絡は潟す、所調、全体治療であるo

,脈診は現代医師が行う様な・ものではなく、

.左右の携骨動脈に就いてその

脈腐の性状を

-m指、中指、薬指の三本の指を当てL診る。強く圧し、或

は弱く圧して、左右の六部位で陰陽虚実を知り、その六部位の位置によ

って肺の実で腎の虚等と診ている。この脈診が充分出来るには三十年か

L

ると謂はれている。

・本間

ωによれば虚とは足気の欠領、気の弱ったこと、機能。減退、実

とは邪気の充実、働き盛んなζ

と、補とは正気を補う、生活力を補う.

潟とは奪い取る、即ち機能を抑える、害になるものを取り去ると述べて

いる。斯るものにも科学的検討が可能であろうか。我々は須く科学的研

究方法の磁石に立って‘近代医学的の方法で研究した結果を先哲の命題

に比較検討してみるべきである。然し五行設的治療は如何にも非科学的

であって、哲学的治療とも称すべきで、一見荒唐無稽にも見えるが経絡

のあ勤の或る型に於℃札、一般治療法則に当てはまらないもの炉ある。

乙れは難経の七十五難聞に変則として述べられている。乙のととからし

て、全てを無理に五行に当てはめたとは考えられない処がある。経絡治療

上恵はしくないものは.その五行的形態からはずして変則として扱って

いるζ

とは如何に、その治療面に真理があるかをうか

rうことが出来る

恒に経.絡は科学的検討の好参考であり、或る意味に於ては研究進捗の為

のガイドとも看倣し得ょう。

気血を支配すると謂う経絡を研究するには先づ気血が現在医学の何に

当るかを知らねばならない。著者は之を自律神経機能と解して皮膚に於

ける自律神経の機能の変化に就いて着目した。自律神経が皮膚にその反

応を現すものとしては、毛細血管の拡張収縮、皮膚湿の変化、体表の

可・回の変化.発汗、立毛等の生理現象が考えられるが、皮膚腺と皮膚

通電抵抗との関係をとりあげて、自律神経機能と斯る生理現象との関聯

を求めると経絡なる哲理にあまり無関係にはり三zが出て来ない。久野川

は発汗時に於ける皮虜通電抵抗の変化について述べている、しかし乙の

発汗と経絡的形態は全く関係がないので非発汗時に於ける通電抵抗につ

いて研究する必要が生じて来たυ

後述する探索装置で全身の皮膚通電抵

抗を測定すると内臓疾患を有するものでは経絡と相似形の皮府通電抵抗

の低い絡状のものを発見した。やはり経絡と同じ様じ十二本ある乙とが

わかった。それで乙の経絡と相似形の皮膚通電抵抗の低い絡状のパター

ンを本研究の指導者笹川は良導絡と名附けた。学問の論理化.自然科学

窮理の立前からは緩絡の立証ではなく、経絡によく似たバグ1ンが得ら

れるというのである。その良導絡上の特に鍛抗の低い部位を良導点と名

附けた。ツポと言えば言えぬ乙ともなかろうが科学(刺戟生理学〉研究

の結果認撤された事実である。部川絡の形態を最初に硲認したのは長浜附

であるが、乙の鍛の響は数字に現わすζ

とが出来ないので、比較をする

事が出来なかった。処が良導絡に於

τは、良導絡上にその良導絡と皮膚

通電抵抗とが五比例する良導点のある乙とが解った。そして、通過電流

量はメーターに数字として現われると共に刺戟によってその通過電流量

は変動し、叉反応した電流量を比較することが出来るので良導絡や良導

点の身体局部興奮性標識は科学的正確となり機能と形態との相関は明確

にしてかなり鰭細に分明し検索は急速に進歩した。かくて古典五行説と

相似的な結果を得るに至ったが‘目的は古典五行説が正しいと調う乙と

を証明せんとしたものでもなく‘叉真理表現の命題を得る構えは陰陽五

行式のものでもなく、新しい皮膚刺激療法の原理建設が、認識事実の上

に立って出来たと言う訳である。古典の絡絡のるつ命題とよく似、一致

する処の多い命題を持ち得たと云ム事になる。石川刊は従来の鍛灸術は-

一掃されねばならない。支那医学は自家陸着説であって、沢山の不合理一

Page 7: ωω川良導点電流党測定装置 原著原著 通 電 抵抗さ 皮 膚 ー-3-一一 序言 第 一 第二章測定穏第一章緒言一編皮膚遜電抵抗就中英の基本的研究

一一-9一一ー

を持っている。故に科学としては全然成立しない。従って銭灸医学は歴

史(医学史〉として研託すべ言と述べている。

割問って近代科学の仕方を吾人の先進に教えた海外の医界に於ける叙灸

研究最近の務状を一瞥するに

gg年ドイツ人ヘリベルト

・シュミットが

鍛灸研抗の訴約一年間本邦に間在した。続いて包uu年仏人アンドレ

iピ

ユホールが研究の為来日した。次で鍛灸術の紹介と指導主禁ねて坂口川

柳谷

ω藤田

ωは赦洲へ渡った。

現在フランス

にはこつの鍛灸研筑間体がゐ

b、

一つは‘スリエ

・ド

モランを会長とするもの、他の一つはド・ラ

・フイを会長とするもので

ある。ドイツ民於ては、ミュンヘンのパツハマンと、ヘルベルト・シュ

ミットとが前後してド

・ラ

・フイの門に入り‘鍛術を学んた。そしてド

イツ鍛術協会主国際銭術協会の支部として創立した。川実際に鍍主使用

している医師はフラ

ンスでは三千人.ド有ツでは千人位いると羽はれて

いる倒。

昭和廿九年九月Kはドイツで剣学会の総会が開削附された。ドイツでは

数年の中K

7クフンクツールに現在の数倍のメンバーを持ち、モの中そ

れを学ぶのに日本からドイツへ来なければなら白線に巡すると来館して

いる問。

尤も一見野般に見える鍛灸を全面的に認められると調・3わけではない

大戦後の欧洲診療界民向か目新らしい僚術でも行はないと衆医を越して

患者にアッピールし得ない処からホメオパシ

iにゐ吉たらぬ白人に何か

アッピールするものがゐるのかも知れない。針学会にミュンヘン大学の

有名な学者が自分の考え主講演しようとした時.大学当局から針の如き

ものについて大学教授が話をするめは好ましくないと矧つ

τ禁止したと

もきわれている。しかしとの数回立は学問の自由主主張し

τ大学が研一筑の

自由主束縛するととは出来ない。都笑その効田市のゐる治療を明か

Kする

己とζ

モ大学の使命であると調っ

て締淡したと抑われている.側叉中闘

では波方の国立研気所が出来、

特に科学的立場より検討されている。我

国では決方医と西洋医とでは相入れないが毛沢東の主一猿で昭和三十年十

一一月から漢方医を諮問として講義主うけ.両者の技術提携を行つ

τ双方

の医学的水準を揚げるととになっている。関

香港から出版されている現代中医撲をみると隙居震帥は二日穴傑禁怒

在臨床上的応用に著者の迎筒抵抗制定について述べ

τいる。

総困にゐつては近年決方大学

一つ専門学院三っと専門教育機関の誕生

をみ、基礎学部に現代医学の全課主務殺傍ら抽出方医学主教授する様Kな

ったω闘

との

K海外では鋭灸の科学的研究に乗り出して来た。省みて

我国の現状はどうか。故石川〈日出向同丸)同一門の京都大学医学部生理

学教室では笹川教授・議芥博士等主指導として石川の三十年K一且る研究

主続行し右記の如き成績を挙げつi

るある。他には近代医学的研究を系統

立って進めている処は無いが、近来科学的装付けの気辺は溺く勃らんと

して居る。殊に石川、笹川学派の鍛灸科学的裂附の研気団体は注目すべ

き-bのでゐろF30

との額の

システムでは昭和品川年四月には経絡の国際名

決定の委員会主閃いたり本邦K於ける版界全能力を集中して西政研究と

併進せんとする終になって来た。

-般の鍛灸界主見ると哲学的市占禁主合んだ古典派と現代科学派、或は

出血治法主主として行う者、ポ治法主主として行う者等と色々に分類され

ているが、

学倒的民は‘殆統一されていない、しかし右述の如く研す熱

は漸く奥らんとしている。最も古い学問でゐ

p、最も新しい新興的な要

素を持っている。笹川は本邦の銭灸は単K科学的の根健在有していると

謂うだけで諮足すべ吉でなく、其の科学的枝問問なる原理が鍛灸術の実際

と緊密め述絡ゐるものでなければならぬと、録灸桁の科学的説明の可能

性と共に之によって担楽されるべき鍛灸術の進歩発達が今後孫々要望せ

らるベ

Sだとしている、斯くて銭灸医学なるものが休系づげられ、そと

に発達した鍛灸術は近代医学の治療法の

一つとして近代医学が欽迎して

阿部択一するとと、恰もレントゲン学や

νントゲン技術の医界に於ける如く

ならねばなるまいと述べ

τい

A

民捕時給の研筑はとうした芯昧から鍛灸の科学的袈附けでもあり、新しい

科学的皮脂刺激務法の分野の開拓の需に行はれるものでゐる。治療一聞か

らみれば科学に立脚しなければならない立前から銭安刺激捺法は良導絡

的治波でなければならない。哲学的治的問は骨強的参考品として尊霊する

のみでゐるコ。