29
- 23 - 中近世移行期近江村落の役負担と階層 深 谷 幸 治 はじめに 戦国後期から織豊政権期、そして江戸時代初期・前期へと連なる移行期の村落研究において、追求されていく べき重要な課題として、当時の村落内での諸役の負担がどのような形で行われ、それがいつの時点で、またどの ような契機や過程で近世的な負担分担形態(庄屋給の規定や、小百姓の闘争を通じた家割と高割両立体制への変 化など)へと変質していったのか、という問題がある。 これらについては、江戸前期の畿内村落の村役史料を検討し、その各種役負担の内容や家格による区別、その 起源の中世への遡及などについて整理し言及した水本邦彦氏の研究 1 、また江戸時代的村入用負担制度の成立 や、その割付方法を河内村落の事例をもとに詳細な分析を加えた菅原憲二氏の研究などが 2 、既に一つの到達 点としてよく知られている。さらに中世・戦国史の側からのアプローチとして、藤木久志氏による一連の研究や、

中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

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Page 1: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 23 -

近世

移行

期近

江村

落の

役負

担と

階層

じめ

国後

期か

ら織

豊政

権期

、そ

して

江戸

時代

初期

・前

期へ

と連

なる

移行

期の

村落

研究

にお

いて

、追

求さ

れて

いく

べき

重要

な課

題と

して

、当

時の

村落

内で

の諸

役の

負担

がど

のよ

うな

形で

行わ

れ、

それ

がい

つの

時点

で、

また

どの

よう

な契

機や

過程

で近

世的

な負

担分

担形

態(

庄屋

給の

規定

や、

小百

姓の

闘争

を通

じた

家割

と高

割両

立体

制へ

の変

化な

ど)

へと

変質

して

いっ

たの

か、

とい

う問

題が

ある

れら

につ

いて

は、

江戸

前期

の畿

内村

落の

村役

史料

を検

討し

、そ

の各

種役

負担

の内

容や

家格

によ

る区

別、

その

起源

の中

世へ

の遡

及な

どに

つい

て整

理し

言及

した

水本

邦彦

氏の

研究

1)、ま

た江

戸時

代的

村入

用負

担制

度の

成立

や、

その

割付

方法

を河

内村

落の

事例

をも

とに

詳細

な分

析を

加え

た菅

原憲

二氏

の研

究な

どが

2)、既

に一

つの

到達

点と

して

よく

知ら

れて

いる

。さ

らに

中世

・戦

国史

の側

から

のア

プロ

ーチ

とし

て、

藤木

久志

氏に

よる

一連

の研

究や

Page 2: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 24 -

宮島

敬一

氏に

よる

近江

の事

例検

討が

存在

する

3)。

うし

た先

行研

究の

蓄積

によ

って

、村

落内

での

負担

の高

割化

への

過程

や、

江戸

時代

にお

ける

夫役

台帳

・村

入用

帳な

どの

成立

、負

担方

式再

編の

実態

など

が明

らか

にさ

れて

きた

。一

方で

、特

に戦

国末

期や

織豊

政権

期な

ど、

村落

内各

階層

の分

化が

不明

瞭で

あっ

た時

期の

、そ

れぞ

れの

分担

関係

や、

それ

が江

戸期

の役

負担

秩序

のど

の部

分に

反映

し、

ある

いは

反映

され

ず変

質し

たの

かと

いう

問題

に関

して

は、

いま

だ検

討の

余地

が少

なか

らず

存在

して

いる

もの

と考

える

のた

め本

論で

は、

以上

のよ

うな

問題

認識

の上

に立

ち、

こう

した

各種

の役

負担

の分

配に

関し

て、

該当

時期

の村

落が

それ

をど

のよ

うに

処理

して

いる

か、

また

役の

種類

によ

って

、村

内の

どの

階層

が主

体と

なっ

てそ

れを

負っ

てい

るの

かと

いっ

た部

分を

、具

体的

なそ

の時

代の

在地

村落

史料

から

明ら

かに

して

いく

こと

とし

たい

。こ

の分

析に

より

特に

この

時期

の村

落に

存在

した

侍分

クラ

スや

惣代

クラ

スな

どの

村落

上層

階層

、ま

た江

戸期

に至

り村

役人

とし

ての

庄屋

・年

寄な

どに

なる

それ

ら階

層の

一部

と、

同時

に一

種の

在地

特殊

身分

とし

て残

存す

る地

侍(

もち

ろん

それ

ら旧

侍分

が、

江戸

期村

落の

中で

庄屋

らと

共通

する

とい

うこ

とも

あり

得る

)と

の関

係、

また

それ

ぞれ

の立

場を

解明

し、

さら

にそ

れら

階層

の動

きに

対す

る、

小百

姓側

によ

る同

調あ

るい

は対

立の

動き

など

を通

じて

、村

落内

各階

層の

関係

やそ

の立

場・

地位

が、

いつ

の時

期ま

でに

どう

変化

して

いっ

たの

かと

いう

こと

の具

体相

を、

可能

な限

り明

らか

にし

てい

きた

い。

在地

侍分

と百

姓そ

れぞ

れの

負担

のあ

り方

や、

その

分担

をめ

ぐる

関係

を切

り口

とす

る理

由は

、「

役の

問題

は身

分の

問題

の一

側面

」と

する

とら

え方

に、

賛同

でき

ると

考え

るか

らで

ある

4)。

た村

落の

構成員

にか

かる

負担

とし

て、

村の借財返済

の際

の負

担分

配や

、諸

行事

・普請

・村

(惣

)有財産管

Page 3: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 25 -

など

村落自

体の必

要性

から生

じる

役負

担、

つま

り村

役と

、上級

権力

側か

ら賦

課さ

れる

諸役

、例

えば公

事徴収

の際

の労

役や陣

夫役

など

、い

わば公

役と

いえ

るも

のの

両方

が存

在す

る。

この

いず

れも

が、

当然

村の

構成員

にと

って

は、

金銭

的・物

質的

また肉

体的

負担

とな

るも

ので

ある

5)。前者

の負

担は

、正

式な

村落

構成員

とし

ての資

格を

もた

し、

後者

のそ

れに

は公

事負

担に

よる

一定

地域

の利

用権

、あ

るい

は自然材

の用益

権な

どの

一種

の見返

りが

期待

でき

たと

いう

、各

構成員個

人ま

た村

落全

体に

とっ

ての何

らか

のプ

ラス

面が

存在

した

かし

そう

した性

格の如何

を問

わず

、そ

れら

の役

が、

村の

構成員

にと

って

の負

担で

あっ

たこ

とは間違

いな

い。

よっ

て本

論で

は負

担を

その

二種

に分

け、

それ

ぞれ

の場合

につ

いて

村落

上層

、特

に在

地侍衆

がそ

の処

理に

どう

関与

して

いる

か、

それ

が村

落内

の階

層間

の関

係に

どの

よう

に影響

し、

また

村落

側や

権力

側か

らの

諸規

制・

規定

にど

反映

され

てい

るか

とい

った

こと

を考察

する

。以下

の二

つの節

は村

役・公

役そ

れぞ

れに

対応

して

いる

もの

であ

る。

り扱

う対象

地域

とし

ては

、戦

国後

期か

ら江

戸初

期に

かけ

ての

村落

史料

が、

惣村組

織の発

達の

ため比較

的多

残存

して

いる

、近

江の琵琶湖南

部の

事例

を主

に見

てい

くこ

とと

した

い。

役負

本節

では

まず

、村

落自

体の

要請

によ

って生

じる

、そ

の村

落構

成員

各人

の負

担、

すな

わち

村役

の負

担関

係と

、そ

こに介

在す

る侍

分と

の関

係に

つい

ての

分析

を行

う。

近江

では

惣村組

織の発

達に

よっ

て、

残存状況

にや

や地域

的な

偏り

はあ

るも

のの

6)、戦

国時

代以

前か

らか

なり

豊富

に村

落史

料が見

られ

る。

そう

した

史料

が集

中的

に伝

存す

Page 4: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 26 -

近江

の地域

・村

落の

中で

、特

に戦

国末

期か

ら織

豊政

権期

にか

けて

の村

落文書

が比較

的多

く残

る、野洲郡兵

主郷

の安治

あわ

村(現野洲市安治

)の

「安治

区有文書

」と

いう

一連

の文書群

があ

る(

7)。

村の属

する兵

主郷

とは

、そ

の地

理上

のほぼ

中心

的部

分に

位置

する五条

村(現

同市五条

)に

存在

する

、兵

主神

社の信仰圏

をそ

う呼称

する

よう

にな

った

もの

と思

われ

る。

同郷

の正確

な範囲

は確

定で

きな

いが

、「安治

区有文

書」

中に

ある

明応六

(一四九七

)年

成立

の「

いろ

いろ

帳」

と題

され

る帳

面に

よる

と(

8)、「兵

主十八

かう

」と

いう

記載

があ

る。

以下

、同

区有文書

を主

とし

て使

用し

、安治

村の状況

を中心

に、周辺

地域

の事

例も適宜参

考に

しな

がら

、当

時の

村落

内部

での

役負

担と

村内

部の

階層

との

関係

につ

いて

検討

して

いく

こと

とす

る。

の史

料一

は、「安治

村惣之

帳」

と題

され

るも

のの

一部

で、

織田

政権

期か

ら豊臣

政権

期に

かけ

ての天正九~十

一(

一五八

一~三

)年

に、

同村

の蘆公

事負

担の際

の隣

村と

の相

論や

、同

時期

の諸

方面

への借米返済

など

を記録

た帳

面の抜粋

であ

る(

9)。

史料

一】

午三月七日ニ堤

にて

かる

、五石之

内、

り四

わり之

定、壱石ハ

よし

の夫遣

、孫衛門渡

、残四石ハ

夫衆之

中へ遣

候、

惣か

りニ借状

し候ハね者

、米御

かし

なく候

由、皆々被申候

、侍衆

もは

んの次申候

、米返弁之

時ハ

、夫

衆の

なミハ米

はい

とう申間敷之

由候間

、さ

て〱

同心申候

、何

も少ハ

侍衆

も合力

可申候之

由候

、但此借状ハ

り并

加七石之

分、預

り状仕候

て来九月十日

の状ニ

し候

て堤

へ遣申候

Page 5: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 27 -

の内

容は

、安治

村が

権力

側か

ら何

らか

の夫

役を

課さ

れ、

その費

用に宛

てる

ため

の米

を隣

の堤

村(現

同市堤

から借

りた際

、「

惣か

り」

の形

でな

いと貸

さな

いと

、堤

側の

「皆々

」が

言う

ので

、安治

村の

侍衆

も「

はん

の次

」、

つま

り署判

をし

て、

惣村

とし

ての借

用状

を作

成し

たと記

して

いる

ので

ある

10)。当

時の

在地社会

にお

いて

は、

分も合

わせ

て惣

村が

形成

され

ると

認識

され

てい

たこ

とが

明ら

かで

あろ

う(

11)。

うし

た侍衆

の惣

への所属性

は、元亀

年間

に、

近江南

部の

一向

一揆

に荷

担し

ない旨

を琵琶湖南

部地域

の諸

村に

書かせ

、織田

政権

側が徴収

した

一連

の起請文群

「元亀

の起請文

」中

に、

明ら

かに

在地

侍分

であ

る惣

代と

、同様

百姓

であ

る惣

代と

が並列

で現

れて

くる

事例

から

も指摘

でき

る(

12)。

えば元亀三

(一五七

二)

年三月

付の富田

とだ

村(現守山市

立田町

)「

起請文

前書之

事」

では

、ま

ず「富田

惣代

とい

う肩書

きで富田

河内守則綱

・同大学介則

高の

二人

が署判

し、

その

後に

一段下げ

て「富田

・立花

惣百

姓惣

代」

と書

かれ

、略押

があ

る(

13)。名字

・官途

・実名

を記

す富田

河内守

らは

明ら

かに

「惣

百姓

」と

は異

なり

14)、侍

分と

見ら

れる

が、

同時

に「富田

惣代

」と

して

在地

村落

代表

とし

ての

立場

も持

つ。

一方

で、

百姓

側の

代表

であ

る「

惣百

姓惣

代」

も、

侍分

惣代

とは

別個

・同

時に

存在

する

ので

ある

。こ

の場合

は、

その

両惣

代が

村落

を代表

して

、一揆

の村

落構

成員

の参

加禁止

とい

う、

在地

へ課せ

られ

た行

動規

制を遵守

する

こと

の保証

を行

って

いる

もの

で、

先の安

治村

の事

例のご

とく

在地

村落間

での交渉

のみ

なら

ず、

権力

側に

対す

る場合

にも

、二

つの

階層

の惣

代の並

立と

いう

状況

が、

実効

的に

存在

し機

能し

てい

る実

例を示

すも

ので

ある

の史

料一

の内

容に見

られ

るご

とく

、侍

分惣

代は

村落

構成員

の役

負担

分(「

夫衆

のなミ

」)

は賦

課さ

れな

いの

が、

しぶ

しぶ

同意

して署判

した

にも

関わ

らず

、少

しは返済

に合力

する

と侍衆

側か

ら申

し出

てい

る。

この

場合

、村

Page 6: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 28 -

落の必

要経費

を同

村内

で分

担し

て返済

する

わけ

であ

るか

ら、

その

負担

は村

役の

一種

であ

り、

侍分

には

その

負担

させ

ない

とい

う約束

をし

たと

いう

こと

なの

で、

その

点か

らす

ると

、在

地侍

分は

村落

の正

規構

成員

には

当た

らな

と考

える

こと

もで

きよ

う。安治

村の周辺

村落

に居住

して

いた

侍分

が、

当時

の指出

史料

に給

人と

して現

れて

いる

と同様

15)、安治

村の

侍分

も、

在村

して

いな

がら

も、

身分

的に

は百

姓と

分離

し、

既に

給人

化し

てい

るこ

とも

考え

られ

る。

だが

それ

で村

役負

担と

の関

わり

が一

切な

いか

とい

うと

、侍

分自

身も必

ずし

もそ

う割

り切

るこ

とが

でき

ず、

多少

は百

姓側

に合力

して

負担

する

と申

し出

ては

いる

ので

ある

。こ

れは

給人

とし

て百

姓か

ら分離

する

方向

をた

どり

つつ

も、

村落

への義

理が

残り

、一

部な

りと

も負

担せざ

るを

得な

いと

いう

、当

時の

侍分

の権力

側と

在地

側へ

の両属

性を示

す事

実と取

れる

かし

一方

で、「

惣か

り」

の状

に署判

を求

めら

れた

事実

のよ

うに

、他

村か

ら見

た場合

には

、侍

分も

その居住

る場所

の惣組

織に所属

する

とい

う、

在地

での自

明の

認識

が存

在し

、直接

の村

落構

成員

とい

うよ

りは

、借

分返済

際の

、一

種の

連帯保証

人と

して

の役

割を

期待

され

る場合

もあ

る。

さら

にま

た安治

村と他

村と

の相

論の際

に、周辺

諸村

の侍

分が仲

人を勤

めて

いる

事例

など

に見

られ

るご

とく

16)、こ

うし

た侍

分の

関与

によ

り、

在地

での

問題

処理

を悪

化の

方向

に向

わせ

ず、

地域

内で

より円滑

に処

理さ

れる

とい

うこ

とも

あっ

たの

であ

る。

れら

の事

実は

、在

地す

る侍

分が

、村

落と

の共

存的

関係

、ま

た在

地有力者

とし

て百

姓側

から

期待

され

る裁

定機

能な

どと

いっ

たも

のに

、ま

だあ

る程

度の拘束

を受

けて

いた

と共

に、

侍分自

身の

方で

も、

その

在地

での影響力

及び

利権

を維持

する

ため

、あ

る部

分で

在地

村落

にお

いて生

じる

諸問

題に

関与

し続

けて

いた

こと

を示

して

いる

もの

と考

える

。史

料一

で村

役の

一部

負担

を侍

分側

から申

し出

てい

るこ

とも

、そ

うし

た関与

の一環

を成

すも

ので

あろ

う。

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- 29 -

役を

負担

する

こと

と、

在地

階層

の一

つで

ある

侍分

との

関係

は、

一種

の利益集団

とし

て、自

らの

在地

での利

権を補

完す

る手段

の一

部と

して

の意味

があ

った

もの

と考

えら

れる

うし

た村

落の出費

は、

村自

体の必

要性

に応

じて発生

した

ものば

かり

では

なく

、史

料一

の事

例の

よう

に湖岸

蘆刈

り夫

役用経費

など

(「壱石ハ

よし

の夫遣

」)、

その

原因

が公

役の賦

課に

ある

場合

もあ

るの

で、

一種

の公

役付随

役と

言う

こと

も可

能で

、現

に同

村の指出

史料

を見

ると

17)、一筆毎

の給

人の

部分

に「御蔵

入・

夫給

」「

夫給

・山岡

分」

など

と「

夫給

」が含

まれ

てい

る箇所

があ

って

、あ

らか

じめ

年貢

分内

に夫

給分

が組み

入れ

られ

てい

たこ

とが

かる

。そ

のた

め最終

的に

は前出

史料

一の

夫衆渡

分も

、年

貢収納

の際

に差

し引

かれ

るこ

とに

なる

ので

あろ

うが

、こ

こで

は臨

時の

負担

分と

して

、村自

身が

近隣他

村か

ら借米

とい

う形

で調

達し

てお

り、

その

負担

を村

構成員

で配

分し

てい

るの

で、

やは

り村

役の

一部

を成

すも

のと

して扱

って

おく

もの

であ

る。

に安治

村が

、実際

に村

役負

担を

構成員

各人

にど

う割

り付

けて

いる

かを見

るこ

とに

する

。同

村に

は、

役銭

や神

事に使

用す

る餅

など現物

の負

担割

付を示

す史

料が数

点、

いか

なる

理由

から

か天正十六

(一五八八

)年

のも

のに集

中し

て残

存し

てい

る(

18)。こ

のう

ち公

役割

付に

関す

るも

のに

つい

ては

後述

する

こで

はま

ず「

かき

とり

すし日記

」と

題さ

れる記録

から見

てい

く。

これ

は記載

分が全

部で三十

一筆

あり

、内

人の名

が重複

して

いる

ため

、人数

は三十

人で

ある

。「

すし日記

」と

題さ

れつ

つも

、内

容は神

事餅

の負

担を

配分

たも

ので

、二個

配分

され

てい

る者

が最

も多

く、

二十

人を占

める

。一

方で太郎衛門

とい

う人物

が一

人で

二十三個

担し

てい

る。

この太郎衛門

は、天正九

年か

ら十

年の三

つの

史料

に惣

代と

して現

れる太郎衛門

と同

一人

と思

われ

頻繁

に交替

する

惣代

(後述

)の

中で

も、

この

人物

はあ

る程

度の経済力

を持

って

いた

こと

を示

して

いる

。だ

が同

Page 8: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 30 -

は指出

史料

には

その名

が見

えず

、そ

の田畠作経営

規模等

に関

して

は判然

とし

ない

種の

史料

であ

る「

かき取

すし日記之

事」

は、

前述

の「

かき

とり~

」と

同日

の、天正十六

年閏五月八日

の日

があ

り、

二十四筆

・二十五

人の名

があ

る(

二人

重複

、一筆

二人

分割

)。

こち

らで

も二個

負担

が多

いが

、や

はり

通し

て現

れる太郎衛門

が四十六個

負担

して

いる

。さ

らに

その翌日

付で

、「

すし

たち

ん」

なる記録

があ

り、

こち

は神

事用鮨

(鮒鮨

か)

の費

用割

当で

ある

。二十

二筆

で二十四

人の名

があ

り、太郎衛門

は二十文

負担

で、

ここ

では

二十五文

負担

の源介

につぎ

二番目

の分

担量

であ

る。

源介

も天正八

年・

同九

年の

一時

期に

惣代

を勤

めて

いる

人物

ある

各個

人に

よっ

て負

担分

がか

なり大

きく異

なっ

てい

るこ

とは

、こ

の負

担割

付が

、明

らか

に高

割で

行わ

れた

こと

意味

して

いる

。同

村は

惣代

の交替

が頻繁

で固

定化

して

いな

いこ

とか

ら、

村落

構成員

の経営

の平均

化が

かな

り進

でい

たと思

われ

るが

、や

はり

一部

惣代経験者

の中

には

、村

役負

担の大

きな

部分

を占

める

特定

の家

が存

在し

てい

ので

ある

方で

こう

した

史料

の中

には

、先

の「元亀

の起請文

」に見

られ

るよ

うな

、名字

や官途

を持

った名

前が全

く見

れず

、よ

って

侍分

は基

本的

にこ

れら

村役

の割

付を受

けて

はい

ない

。史

料一

で侍

分側

から

一部

負担

を申

し入

れて

た理

由は

、そ

れが

この

「~日記

」の

場合

の村祭祀

など

との

関わ

りで徴収

され

るも

ので

はな

く、

惣全

体の維持

・存

続に

関わ

るも

のと判断

した

ため

であ

ろう

か。

前述

「元亀

の起請文

」の

事例

を考慮

する

と、

百姓

の構

成す

る惣組

の上

に、

各村

に在

地す

る侍

分の

惣組

織あ

るい

は集団

が存

在し

、村祭祀

に関

係す

る問

題処

理は

百姓

の惣

の方

でのみ

決定

され

てい

たも

のと

考え

るこ

とも

可能

だが

、そ

の機

能的

な分

担関

係は

、こ

こで

は明確

にで

きな

い。

Page 9: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 31 -

た安治

村の

例で

はな

いが

、村

役負

担と

在地

の特

定階

層と

の関

係を示

す、次

のよ

うな文書

があ

る(

19)。

史料

二】

誓文状之

伊勢大照皇大神

宮(

以下神名省略

)、御

しや

うら

ん被

成候

へ、只今談合申候議

、余所

へも

、又女房子

ニも

、他

言申間敷候

、又此十五

人衆

内ハ

、い

かや

うに

も多

分ニ

付キニ談合

可仕候

事、

一、

入め

ん・

しつ

つい参候

共、互

かり

やい出シ

可申候

、是又

しつ

つい

の儀ハ

、惣

中へ

さは

かセ

可申候

事、我

人か

たや

をひ

き、

い儀申間敷候

事、

慶長十

乙巳六月廿

二日

宇治

河原

久左衛門

(花押

十五

人衆

以下計

二〇

人署名

、一

部略押有

の史

料二

は、甲賀郡宇治

河原

村(現甲賀市宇川

)に伝

存す

る、宇川

共有文書

の一

部で

ある

。同

村は慶長十

(一六〇五

)年

以降

、江

戸中

期に

かけ

て、周辺

村落

と野洲川

の河

原論

や山

論を繰

り広げ

た際

の一

連の

史料

を残

てい

るが

20)、そ

の中

でこ

こに引

用し

た誓文

は、

同村

の指導

階層

の存

在と

、そ

の内

部で

の役

負担

の取

り決

めを示

した興味深

いも

ので

ある

こで

は同

村内

に「十五

人衆

」(

実際

には

二〇

人署名

して

いる

が)

とし

て括

られ

る特

定の集団

が存

在し

、そ

Page 10: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 32 -

がお

そら

く相

論に伴

う諸費

用と

して

の入目

、及び

同様

に支出

され

る村財

政の損失

部分

を、

まず

この集団

内で

「か

りや

い」

つま

り融

通し合

って

処理

し、

それ

によ

って

も補填

しき

れな

い損失

が出

た場合

には

「惣

中へ

さは

かせ

」る

とし

てい

る。

村は

家数改等

の史

料が

ない

ので

、こ

の時

点で

どの

程度

の戸数

・村

落構

成員数

があ

った

もの

か確

認は

でき

ない

ので

ある

が、比較

的近

い時

期の元和元

(一六

一五

)年

に同

村が作

成し

た相

論関

係史

料に

よる

と「宇治

河原

村よ

得道

具を持

、百

二三十

人罷出候

と被申

上候

へ共

、宇治

河原

地下

中、門

なミ

に壱間

も不違罷出候

ても六拾

一人

なら

てハ無御座候

」と

の既述

があ

り(

21)、こ

の村

には

当時

少な

くと

も六十

一人

の「

一軒

前」

の村

落構

成員

がい

たこ

がわ

かる

。一軒

を一

人が

代表

する

とは

限ら

ない

もの

の、

先の

史料

二に署名

した

二十

人は

その約三

分の

一で

あり

十五

人な

らば四

分の

一と

なる

れが

同村

の上

層階

層を

構成

する

人数

と考

える

に、多

い数字

か否

かは見

方に

よっ

て異

なる

であ

ろう

が、

ここ

書か

れた文

言か

らす

れば

、明

らか

に村

落内

の一

部のグル

ープ

が、

村財

政の損失

分等

につ

き自

分達

内部

での

負担

秘密裏

に取

り決

め、

さら

にそ

れが困難

な場合

に至

って

惣の

負担

と成

す、

つま

り他

の構

成員

にも

負担

分担

をさせ

と約

して

いる

ので

あり

、村

落内

で一

定の

負担

を担

い得

る経済力

を持

ち、他

の百

姓と

立場

・利害

の異

なる

特定

階層

の集団

が存

在し

てい

たこ

とは確

実で

ある

。そ

の損失

分等

の率

先負

担の約

定は

、当然自

らが

一定

の損失

を負

うこ

とな

って

も、

村落

内部

で自

分達

の地

位・

権威

を維持

する

ため

に、

それ

が必

要で

ある

と考

えて

いた

から

に他

なら

ず、

この

点で

先の

史料

一に見

ると

ころ

の、

侍分

によ

る自

主的

な負

担申

し出

と共

通す

るも

のが

ある

。こ

こで署判

して

る人物

に名字等

は見

られ

ない

ため

、直

ちに

先の

侍分

と同

じ状況

と見

なす

こと

はで

きな

いが

、慶長

期と

いう

時期

Page 11: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 33 -

な状況

もあ

り、

以前

から

この

村落

に在

地し

てい

た侍

分の

一部

また

は全

部が

、こ

こで誓約

して

いる

村落

上層

と重複

するグル

ープ

に転

化し

てい

ると

いう

こと

は十

分に

考え

られ

る。

役の

負担

関係

、特

にそ

の量

の多寡

や、

ある

いは

特別

な状況下

(惣

の財

政的逼迫

や、

在地

相論

解決

の必

要性

ど)

での

負担

関係

は、

こう

した

村落

内の

侍分

、ま

たそ

の系統

を引

く可

能性

のあ

る特

定階

層グル

ープ

が、自

らの

立基盤

を維持

する

ための

重要な拠

り所

であり

、その

立場を示

す指標

とし

てとら

えるこ

とがで

きるも

のなの

である。

役負

上級

権力

が在

地村

落に賦

課す

る諸

役を

、こ

こで

は公

役と

して

一括

して

おく

。そ

の中

で権力

側・

在地

側双

方に

って最

も重

要で

あり

、村

の主

要な

負担

とな

るも

のは

、言

うま

でも

なく

年貢

であ

るが

、こ

れに

関し

ては

、戦

国大名

段階

から

各地

で指出

形式

を主

とし

た村毎

、あ

るい

はそ

の中

で、

さら

に田畑

一反毎

のレベル

で高

(収穫

高・

年貢

高)

や名請

人・

給人

の把握

と確

定の作業

が見

られ

る(

22)。同

時に

、こ

れは

村役

・公

役に

共通

して

言え

るこ

とだ

が、

役賦

課の

主体

が上級

権力

側で

あっ

ても

、ま

た村

落自

体で

あっ

ても

、そ

の賦

課に際

して

は村

落を

構成

する

家の数

と、

その

それ

ぞれ

がど

の程

度の

負担

を担

い得

るか

とい

う実状

を調査確

認す

るこ

とが

、賦

課の

前提作業

とし

て必

要と

る。

村役

の場合

は、賦

課の際

に当然

そう

した

村落

内各

戸の状況

を村

の構

成員全

体が承

知し

てい

るの

で、

明確

な文

書の

形で

家数等

につ

いて記録

を成

すこ

とも

ない

と思

われ

るが

、公

役賦

課の

場合

は、

権力

側が

それ

を知

って

いる

とが

、各

村落

に賦

課す

る役

の量

を算出

する

前提

とな

る。

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- 34 -

天正九

(一五八

一)

年正月

に前出

の安治

村が

織田

政権

側に提出

した

、こ

の時

期の安治

村周辺

地域

の指出作

成と

その徴収

に伴

う誓文

に、「

検地之外

、指出其外浦

役・郷

役少之

上り物

、此外無御座候

、斗

代付

・年

貢之

入方

少も

相違候ハ

、何様ニ

も被

成御糾

明候

」と

あり

23)、「浦

役・郷

役」

とし

ての公

役賦

課の

対象

がこ

の村

に設

定さ

れ、

の分

も「此外無御座

」と

あっ

て、田畑

屋敷

地等

の指出

と共

に何

らか

の形

で申告

され

てい

るこ

とが判

明す

る。

方で兵

主郷

内に

おい

ては

、そ

の鎮守社

とし

ての

存在

であ

る兵

主神社

の神官

一族

が、

戦国

期か

ら織

豊期

にか

て、

同郷

を貫流

する野洲川

に漁業

用の簗

を設置

し運

用す

る権

限を持

って

いた

こと

が、

同社文書

によ

って

知ら

れ(

24)、そ

の簗

の実際

の運

用に

当た

って

は、

同郷

内村

落の住民

が関与

して

いた

可能性

も指摘

でき

る。

これ

につ

き、

やや

時代

は遡

るが

、次

の史

料三

を提示

して

おき

たい

史料三】

主郷

内吉川簗之

事、

当庄神領者

、彼簗衆指持

人之

事候之間

、要脚等令免除者也

、仍状如件

明応弐

出羽守

(花押写

後四月十六日

当庄

簗衆

れは

戦国

時代

前中

期と

も言

える

明応

二(

一四九三

)年四月

に作

成さ

れた

、兵

主郷

の簗衆

中宛

て出羽守

(六角

氏被官伊庭貞隆

)の判物

写で

あり

25)、内

容は

同郷

内の吉川

(現野洲市吉川

)地域

内の野洲川

に存

在す

る簗

は、

Page 13: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 35 -

兵主神社

の「神領

」で

あっ

て、簗衆

はそ

の「指持

人」

であ

るか

ら、

要脚銭

など

の賦

課を免除

する

とい

うこ

とを

達し

たも

ので

ある

。「神領

」と

は、

この簗

の権利

・利益

が兵

主神社

の所持

とな

って

いる

こと

を意味

して

いる

もの

であ

ろう

。ま

た「指持

人」

とは

、『日葡辞書』

など

にも見

当た

らな

い表現

であ

るが

、内

容か

ら判断

して

、簗

の管

理・運

用者

とい

う意味

とし

か思

えな

い。

つま

り同郷

の住民

で、兵

主神社利

権と

なっ

てい

る簗

の維持管

理に

関わ

てい

る者

は、六角

氏側

から賦

課さ

れる

要脚銭

を免除

され

る特

権を持

って

いる

ので

あり

、こ

れに

同郷

内の複数

村落

の住民

が関

わっ

てい

た可

能性

を指摘

でき

る。兵

主神社

の神供

に関

係す

るこ

とに

より

、在

地村

落(

の一

部住民

か)

側が公

役負

担の

一部

を免

れて

いた

こと

にな

る。

らに

同社文書

の、天文十五

(一五四六

)年八月

の同社社

家中

に宛

てた六角

氏側

の奉

行人

連署奉書写

を見

と(

26)、「社領簗衆

」の

事は

、野洲川

の流

れに打簗御供

を付

ける

こと

が先

例と

なっ

てい

るの

で、「雖為何之

在所

新儀

の輩

が簗

を設置

する

こと

は固

く停止

する

とあ

る。野洲川

の簗漁業

権を

同社

とそ

れに

関わ

る簗衆

のみ

に認

めた

もの

で、新儀

の設置

を禁止

して

いる

もの

だが

、他郷

に限

らず

、同郷

内で

も簗衆

とし

て特

定の

地位

を所持

して

いる

者、

ある

いは

村落

にし

か認

めら

れて

いな

いも

ので

あろ

うか

。安治

村の

場合

はそ

の関与

や利害

の度合

いが

明確

では

ない

が、

地域

の漁業

権と

の絡み

で、

この

よう

な状況

も同

一の郷

内に

存在

して

いた

ので

ある

は安治

村の

具体

的な利

権と

して

の、

地域

にお

ける漁業経営

に関

わる

「浦

役」

を示

す文書

とし

ては

どの

よう

もの

があ

るか

。こ

れは

前節

で言

及し

た天正十六

(一五八八

)年

の一

連の

「~日記

」と

題さ

れる

史料

のう

ちに

「魞 え

せん

あつ

め日記

」と

いう

もの

が見

られ

る(

27)。こ

れは全

二十八筆

で、

一人

重複

して

いる

ため

人数

は二十七

人で

ある

。こ

の数

は後述

する天正七

年の

家数改

めに記載

され

てい

る、

本家

の数

二十六軒

に、完全

では

ない

がほぼ

一致

Page 14: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 36 -

する

。「

魞せ

ん」

とは湖岸集

落で

ある安治

村が

、漁業

用に湖

中に仕掛

けて

おく

定置網

の一

種、

魞に

よる漁獲

高に

賦課

され

る税

分と

考え

られ

28)、当

時既

に公

役負

担分

とし

て年

貢化

され

てい

たら

しく

、こ

れと

同年

同月

の史

料に

「魞

年貢

」の皆済状

も存

在す

る(

29)。そ

こで

は「

魞年

貢」

とし

て同

村か

ら計

一石

が納

入さ

れて

おり

、日

付が

前出

「魞せ

んあ

つめ日記

」と

同月

の二十日

であ

るこ

とか

ら、

この

とき

の魞銭集

めに

対応

した

もの

とし

か考

えら

れな

い。

「日記

」で

は銭

で集

め、

その総計

は八四九文

であ

る。米価

変動

もあ

ろう

が、五月

とい

う端境

期で

ある

こと

を考慮

する

と、ほぼ

一石

に相

当す

る値段

と見

てよ

いの

では

ない

かと思

われ

る。安治

村は漁業

への賦

課役

を銭

で構

成員

ら徴収

し、

それ

を米

に替

えて

、夏

に年

貢の

一部

とし

て納

入し

てい

たの

であ

る。

らに

関連

して

、安治

村に

おけ

る役

家把握

につ

いて見

ると

、公

事賦

課の

ため

織田

政権

の時

期に

実施

され

てい

例が何

点か

の文書

に見

られ

、そ

の具

体的

な数字

もあげ

られ

てい

る。

まず元亀

二(

一五七

一)

年の安治

村後

家の書

出し

によ

ると

30)、同

村に

はこ

のと

きに十

一軒

の後

家が居住

して

おり

、そ

の構

成は

「う

は」七軒

に「ハ

ちひ

らき

「こ

ちき

」「

しやミ

」「

うせ

人」

とな

って

いて

、老婆

や在

村出

家者

など

であ

る。

同史

料の

末尾

には

「此外

後家御座

候ハ

、少

つゝ

成共懸米

可申

付候

」と記

され

、こ

の史

料が

上級

権力

側に提出

され

たこ

とを示

す記述

が見

られ

る。

こで

少し

でも懸米

を申

し付

ける

と言

って

いる

のは

、こ

の書出

しに名

のあ

る後

家に

は懸米

は成

され

ない

が、

れ以外

に後

家が

存在

した

場合

に、申告

に虚偽

があ

った

もの

と見

なさ

れて何

らか

の名目

の米等

の賦

課が

かけ

られ

とい

うこ

とを意味

する

のか

、あ

るい

はこ

こに出

てい

る後

家に

も既

に一

定の

役米

は課

され

てい

て、

その他

の後

家が

出来

した

場合

にも

同様

に課

され

るこ

とを指

して

いる

のか

明確

でな

いが

、次

の史

料四

を見

ると

、後

家で

あっ

ても

る程

度の公

役を

負担

させ

られ

てい

るこ

とが確

認さ

れる

31)。

Page 15: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 37 -

史料四】

(前欠

か)

安治

わら

三つ

ミニ

十は

ゆい十六束

ほそ

なわ

四十

たく

十は

ゆい

四束

二巴

、明

後日新

宮へ持参

可相渡

相議候

て請取出候者也

天正七

木村

一月廿

二日

新七

本家数廿六間

内、六間

さし

おき

、残廿間

なわ

わらかゝ

り申候間

、進候

後家十六間ニ

わひ申候

、な

又わ

らかゝ

り候

へ共

、わ

らま

てに

て候

の史

料に登

場す

る奉

行木

村・柴

両名

は、天正七

年当

時野洲郡

地域

を管轄

して

いた信長

重臣

の一

人佐

久間信盛

の被官

と見

られ

る。

また

この

史料

は、文章

のは

じめ

の部

分が

用紙

の最

前部

の縁

に非常

に近

く書

かれ

てい

るた

め、

その

前に何

らか

の内

容が書

かれ

てい

た文書

の前欠断簡

の可

能性

があ

る。日

付以

前と

その

後と

で筆跡

は同

一で

あり

また

その字

は同

時期

に他

の安治

村内

部文書

を書

いて

いる

人物

のも

のとほぼ

一致

する

ので

、こ

の史

料四

は奉

行か

の指示書

を村

で書

き写

し、

その

後に

「本

家数~

」以下

の部

分を参

考と

して書

き加

えた

もの

と推

定さ

れる

こで

村に

は藁縄

の供出

が課

され

、そ

の量

も指

定さ

れて

いる

わけ

であ

るが

、日

付以

後の

部分

によ

り、

この

時点

で同

村に

は公

役を

負担

可能

な本

家が

二十六軒

存在

し、

その

内六間

が「

さし

おき

」つ

まり

負担

を免除

され

、ま

た何

Page 16: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 38 -

らか

の理

由で

通常

の役

負担

がで

きな

い後

家(読み

は「ほ

んや

」に

対す

る「

うし

ろや

」か

)が十六間

ある

もの

の、

それ

らも

役の

一部

は負

担し

てい

るこ

とが

わか

る。

同村

の総

家数

は計四十

二軒

とい

うこ

とに

なり

、役

負担

を差

し置

かれ

てい

る六軒

はお

そら

く惣

代で

ある

。天正五

年か

ら文禄

二(

一五九三

)年

の同

村史

料に現

れる

惣代

の人数

は三

人か

ら六

人ま

でで

あり

、か

なり頻繁

に交替

が行

われ

てい

る上

、人数

の変

動も

ある

が、六

人と

いう

事例

が最

も多

(十

二例

中七

例)、

かつ六

人が

上限

でそ

れ以

上の

例は

ない

32)。公

事役

負担

の免除

は、

惣代

の特

権、

ある

いは

役料

の一

形態

とし

て捉

えら

れて

いる

もの

と思

われ

る。

方こ

れよ

りや

や以

前、天正五

(一五七七

)年

に、

やは

り織田

政権

側の公

事役賦

課を

前提

にし

て作

成さ

れた

考え

られ

る「

定安治

村家

やく

おき

めの

事」

と題

する

史料

では

33)、家作

に関

する

規定

(二間

の家

屋を合

一し

た場

合に

は一間文

の役

負担

を行

うこ

と)等

を定

めて

いる他

、「若

在所

へ不慮之礼米

・懸ヶ物候ハヽ

、ま

へ〱

のこ

く、

ろく

可不出

事」

とい

う記述

があ

り、

惣代六

人が署判

して

いる

。こ

の内

容に従

えば

、臨

時の

課役

が村

に賦

課さ

れた

場合

には

、惣

代の

役料

はカット

され

るこ

とに

なっ

てい

るの

だが

、こ

れは

史料三

の内

容と

反す

る。

こう

した

定が

存在

して

いた

にも

関わ

らず

、あ

る程

度惣

代の恣意

的に自

らに

対す

る負

担免除

が行

えた

とす

れば

、惣

代の

権限

が他

の小

百姓

に比

して大

きか

った

こと

にな

るが

、前述

のご

とく安治

村で

は惣

代の交替

が頻繁

であ

り、

その

理由

村内

の百

姓の経営

面な

どで

の平均

化が進展

して

いた

ため

と考

えら

れる

ので

、そ

うし

た環境下

では

、惣

代に就任

たと

いっ

ても

、そ

れは

あく

まで

一時

的な

もの

で、他

の村

落構

成員

に対

して

、そ

れほ

ど隔絶

した

、あ

るい

は特

権的

な地

位に

あっ

たと

は思

われ

ない

34)。公

事負

担は

ここ

で言

う「

不慮之礼米

・懸ヶ物

」に

該当

しな

いと見

なさ

れて

いた

もの

であ

ろう

Page 17: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 39 -

負担

の分

担状況

につ

いて

なお

考察

した

い。次

の史

料五

は、天正九

年の安治

村で

の蘆公

事徴収

のと

きに作

成さ

れた証文

であ

る(

35)。

史料五】

度よ

し公

事之儀

付而

、樽銭之儀

惣中次之

こと

く馳走

可仕候

、若無沙汰候ハ

、林与左衛門

方彦四郎ニ御催促

候て御取

可有候

、我等何

方へ参候

共、其子

細申間敷候

、仍

一筆如件候

天正九

年已

亥卯月十八日

左衛門四郎儀

左衛門四郎

安治

惣中

林与左衛門

(花押

いる

同請

彦四郎

(花押

の証文

は、文

中に

もあ

るご

とく

、天正九

(一五八

一)

年に安治

村に

織田

政権

側か

ら琵琶湖岸

の蘆公

事が賦

され

た際

に、

村側

から公

事奉

行ら

への礼銭

ある

いは工作資金

とし

て供与

され

たと見

られ

る樽銭

を(

36)、「

惣中次之

こと

く」

に負

担す

るこ

とを左衛門四郎

なる

人物

が惣

中に申

し入

れた

もの

で、無沙汰

のと

きに

は「請

人」

の二

人の

方か

ら受取

るこ

とが

でき

ると

の保証

も付

いて

いる

。こ

の場合

、林

ら二

人は

「請

人」

と書

かれ

るも

のの

、左衛門四

郎の保証

人と

して

の立

場に

ある

と考

えら

れる

。左衛門四郎

は、

おそ

らく

同村

構成員

の一

人と思

われ

るが

、指出

など

を含

めた他

の同

村関

係史

料に

その名

が見

えて

いな

い。林与左衛門

は、

同村

惣代

とし

て天正五~十

一年

の史

四点

に名

の見

える

「与左衛門

」と

同一

人の

可能性

が高

いと

考え

られ

、同

村の指導

階層

の一

人で

あっ

て、

なお

かつ

Page 18: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 40 -

名字

が付

され

てお

り、

侍分

であ

った

可能性

が高

い。

の史

料五

は、樽銭

の負

担分

を、左衛門四郎

が、何

らか

の事情

によ

り他

の村

構成員

と同

時に支払

えな

かっ

たた

め、

後日

の支払

いを

惣中

に約

して

一筆

入れ

てい

るも

のだ

が、「

惣中次之

こと

く馳走

」「我等何

方へ参候

共」

と、

来惣次

に負

担す

る必

要が

ない

か、

ある

いは

同村

から

の移転

が予測

され

てい

るか

のよ

うな文

言を含

んで

おり

、さ

に保証

人と

して

侍分

らし

き人物

が立

って

いる

。こ

れら

のこ

とは

、左衛門四郎

が在

地に居住

して

いな

がら

も、

百姓

身分

とは異

なる

階層

、つ

まり

侍分

や武

家被官

人な

どで

あっ

た可

能性

を示唆

して

いる

。そ

うし

た階

層が

、百

姓中

みに

村役

負担

の一

部を受

け持

つこ

とも

、先

の「

惣之

帳」

の記述

と合

わせ

て考

えれば

、こ

の当

時は状況

によ

って

あり

得た

こと

なの

であ

る。

役の

うち

、金銭

また

は米等

の形

で拠出

され

る以外

の役

、つ

まり労働

役に

つい

ては

、安治

村で

は陣

夫役九

人が

定め

られ

てい

たこ

と(

37)、ま

た前述

の蘆公

事の際

に、蘆刈

り夫

とし

ての

実動労働力

とし

て、奉

行・下

代な

どの監

督の下

で百

姓が

動員

され

たこ

とな

どの

事実

が見

られ

る(

38)。

の蘆公

事に

つい

ては

、そ

の用益

権の絡み

で、安治

村と

近隣

の須

原村

(現野洲市須

原)

との間

でしば

しば

相論

が発生

して

いた

らし

く、

以下

の史

料六

も、

そう

した状況

の中

で作

成さ

れた

もの

であ

る(

39)。

史料六】

天正拾

年午三月八日ニ

、安治浦之

夫蘆

、御

上様

へ被差

上候

付而

、か

のす

原村

より何

もの

かけ

くミ

、新四郎様

へ申

上、

おき候

処、我々之領

ない

おき候ハ

んと申

入候

へ共

、此

方之領之

内ニ

おき候間

、自然

重而之公

事有

Page 19: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 41 -

□□

にも

(候

時ヵ

にも申候ハ

んか

と存候

にて

、在所之物

共皆々

まい

り、御下

代衆井

口清六

方処ニ御

入候間

、此

理申

入候

へハ

、其

方之領之

内ニ

て候ハヽ

、す

原村

へ其

分御申候ハ

んと御請取

、後日

おほ

えの

ため

に此如候

れは

前出

「~

惣之

帳」

の一

部で

、天正十

(一五八

二)

年三月

に、

織田

政権

側の奉

行(

当時

この

地域

は信長直

領)

が公

事の

一部

とし

て、現

地百

姓を

動員

して安治

村の蘆

を刈

らせ

た際

、隣

村の須

原村

がそ

の蘆

の一

時保管

場所

に関

して自

村内

に置

くべ

きと

主張

し、奉

行と思

われ

る新四郎

とい

う人物

にそ

の旨申

し入

れを

して

いる

ので

ある

この

動き

には湖岸

の蘆

の用益

権が

関係

して

いる

と見

られ

る。

それ

に対

し、安治

村側

はや

はり隣

村の

一つ

、井

口村

(現野洲市井

口)

の在

地侍

分と見

られ

る井

口清六

の家

に詰

めて

いた

「御下

代衆

」の

とこ

ろに談判

に行

き、今回

蘆は安治

村の領

内で

ある

から

、須

原村

の方

にそ

の旨

言い伝

える

とい

う趣旨

の言

質を取

って

いる

ので

ある

こで見

られ

る「御下

代衆

」は

、こ

の公

事蘆徴収

に関

連し

て、奉

行の下

で百

姓の

動員

や監督

に当

たる

もの

であ

ろう

。そ

の出

身は

、他

の安治

村の文書

に「下

代八

夫や

の少将

」「堤

の下

代衆

」と

いっ

た表現

が散見

され

るた

め(

40)、

安治

村周辺

の兵

主郷

内村

落に居住

して

いる

在地

の侍

分ク

ラス

であ

る可

能性

が高

い。

また

この

一件

に伴

って

、村

部で

も蘆刈

りに

関す

る規

定を

行っ

てお

く必

要が生

じた

と思

われ

、こ

の時

期蘆

に関

する

村掟

が制

定さ

れて

いる

41)。

さら

に須

原村

との間

でも

、蘆

や湖岸

の網使

用に

関わ

る証文

類が作

成さ

れ(

42)、村

内外

で一

種の

在地

の法

によ

る規

制と

も言

うべ

き環境

が形

成さ

れて

いく

ち江

戸前

期に

至り

、近

江に

限ら

ず各

地の

村落

にお

いて

、旧

侍分

クラ

スと

その他

の小

百姓

との間

で役

負担

の公

平化

を求

める

村方騒

動・

相論

が発生

した際

にも

、こ

の織

豊期

から

江戸

初期

の諸

規定

が論拠

とな

り、

それ

が侍

分や

Page 20: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 42 -

上層

百姓

(侍

分と

共通

する

場合

が少

なか

らず

あっ

たも

のと思

われ

る)

の村

落内

部で

の地

位・

特権

を維持

する手段

とな

った

とも

考え

られ

る。

行期

の諸

役負

担関

係の

内容

や、

その

及ぶ範囲

を規

定し

たこ

の時

期の

村掟

・定書

や、他

村と

の約

定、

そう

した

もの

の成

立過

程を記

した

諸記録

類は

、後

世そ

うし

た方向

で村

落の

構成員

を規

制す

るこ

とに

なる

ので

ある

わり

上、

移行

期の

近江

村落

の村

役及び公

役負

担の

実態

を在

地史

料か

ら抽出

し、

当時

既に

村内

に存

在し

、ま

た新

に構築

され

たと思

われ

る負

担に

関わ

るシ

ステム

を見

てき

た。

そこ

では

村役

及び公

役の

負担

関係

が、

村落

内各

階層

特に指導

的階

層に

とっ

ての自

らの

村政

との

関わ

り、

また

権威

・地

位を維持

する

上で

の重

要なファ

クタ

ーと

なっ

いる

こと

が、

部分

的な

がら

も明

らか

にな

った

と考

える

して

その

変更

は、

村落指導

層の

戦国

期以来

の地

位に

変質

をも

たら

すも

ので

あり

、侍

分な

り上

層百

姓に

とっ

は他

の小

百姓

との

相対

化を迫

るも

のと

なっ

た。

その

ため慶長

期頃

以降

に、

そう

した

階層

が内

部で

諸役

負担

に関

る取決

めを新

たに

実施

し、

役規

定の確

認あ

るい

は新

規に

一定

の部

分で固

定化

を図

るこ

とに

よっ

てそ

の立

場の保持

を目指

した

ので

ある

。こ

の動

きは

移行

期の

政権交

代ま

た収奪

体制

の変

化に伴

って

、以

後頻発

する

こと

とな

る在

村落間

相論

や村

落の

負担増大

とい

った流

れの

中で

行わ

れた

ため

、各

種村掟

など

の村

法や

相論記録

・起請文

・誓約

書な

どい

ろい

ろな

形態

を持

つ史

料の

内側

に現

れて

いる

Page 21: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 43 -

なわ

ち村掟

・定書

など

とい

う形

で、

村の

構成員

にと

って

の村

を、

一種

の法

人組

織化

して擬似

的な

「公

」に転

ずる

こと

によ

り、

近世

的な

役負

担体系

への

変質

が成

され

てい

った

もの

と考

える

。ま

たそ

うし

た規

定に

よっ

て、

落上

層た

る惣

代・

庄屋

ら、

また

特殊

身分

百姓

たる

侍分

クラ

スは

、役

負担

に関

して

一定

の譲歩

を小

百姓

側に示

しつ

つも

、そ

れを

あるレベル

まで

で押

さえ

るこ

とで

、戦

国期

ある

いは

それ

以前

から

の既

得権

や既

成の

村落

内部

での

位を維持

すべ

く尽力

して

いた

もの

であ

ろう

同様

に前述

の「安治

村惣之

帳」

など

に存

在し

た役

負担

分担

の内

容や

在地

村落間

相論

の記録

が具

体的

かつ多数

され

るよ

うに

なっ

たこ

とも

、や

はり

村掟

の制

定と

類似

の性

格を持

つも

のと見

るこ

とが

でき

る。

これ

は一

種の判

であ

り、

先例

を重視

する

当時

の、

ある

いは

江戸

時代

の在

地社会

にあ

って

は、

以後予想

され

る再

相論

なり

役負

担の

再考

を求

める

小百

姓側

ら村

落構

成員

の闘

争に備

えた

、既

成事

実の

積み

重ね

の一

部と

なる

もの

であ

るか

らで

ある

その意味

で、

この

村の記録

や村掟

は組

織体

とし

ての

村落

にと

って

先々有利

な状況

を作

り出

す論拠

とな

るも

ので

ると

同時

に、

近世

初期

から

前期

にか

けて

(43)、

諸役

負担

の平準

化や

割付

方式

の変更

を目指

し庄

屋・

侍分

らと

争う

小百

姓ら

に不利

な状況

をも

たら

す可

能性

があ

り、

村構

成員

の大

部分

を占

める

人々

にと

って

は諸刃

の剣

とも

言え

もの

であ

った

たそ

うし

た社会

変化

の中

で、

この

織豊

政権

期頃

から

近江

諸村

で各

種村

内規

定た

る村掟

の制

定が頻繁

に行

われ

るよ

うに

なる

こと

も注目

すべ

き重

要な現象

の一

つで

あろ

う。

もち

ろん

それ

以前

にも

、こ

の地域

で地下掟

や惣

定と

いっ

た形

で村

落構

成員

の行

動や

負担

を規

定す

る定書

は当然

存在

して

いた

44)。し

かし

既に見

てき

たご

とく

、上級

権力

側に

よる新

たな陣

夫役

・公

事役等

の賦

課が

なさ

れ、

給人

別・出

入作

別な

ど細

部に

わた

る指出

の徴収

、そ

れを

Page 22: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 44 -

監督

する

在地下

代制

度の設

定な

どに

よっ

て年

貢収奪

が強

化さ

れ、

村切

・身

分統

制等

の実施

が成

され

たこ

とで

45)、

従来

の村

落内

部の

諸階

層間

関係

に少

なか

らぬ

変質

が生

じた

もの

と考

えら

れる

。ま

た量

的・

質的

に変

化し

た公

役の

分担

と、

それ

に伴

った経済状

態の逼迫

や、周辺

村落

また

上級

権力

側と

の交渉経費

など

の必

要に

より

、村

が村

落構

成員

各人

に課

す村

役も増大

して

いっ

たこ

とは確

かで

あろ

う。

うし

た事

態に

対応

する

ため

、同

時に

村落

の各

階層

(特

に上

層百

姓ク

ラス

及び

在地

侍分

)が

既存

の地

位・

限・

権威等

、自

らの

存立基盤

の重

要部

分を

成す

もの

の維持

を図

り、他

の階

層(

前述

二階

層間

の相互

関係

をも含

む)

との

関係

を新

たに設

定し

、も

しく

はそ

れを

、村

落を取

り巻

く状況

変化

に適応

した

形に

再構築

しよ

うと意図

し、

各部

分を

規定

する

村掟

・村極等

を作

成し

てい

く作業

を試

行錯誤

的に繰

り返

した結果

とし

て、

この

時期

の村掟多数

が残

され

るこ

とに

なっ

たの

では

ない

か。

本論

は村掟

論の展開

を主眼

とし

ては

いな

いが

、こ

の問

題も

該当

時期

の村

落を

知る

上で

、重

要な指標

とな

るも

のの

一つ

であ

り、今

後な

お検

討を

要す

る課

題と

して

あげ

てお

く。

うし

た移

行期

村落

の役

負担

体系

にお

ける

村掟

・村極等

の重視

への傾向

が、

近世

に入

って

上級

権力

、す

なわ

幕府

・藩

法の

村と

して

の受

容と

、そ

の従来

から

の村掟

に明確

に対

立し

ない

限り

の利

用、

一方

で公

的権力

への依

とい

った状況

を招来

する

こと

とな

るの

であ

る。

その

過程

で、

侍分

の百

姓身

分へ

の固

定化

など

の村

落内

諸階

層間

立場

の変

化に伴

って

負担

分配

への

小百

姓ら

の不満

が増大

して

いく

のはむ

しろ

当然

であ

り、

それ

に関

わる

闘争

から

横田冬

彦氏

の言

う「

法の

村請

」と

いっ

た事

態も生

じて

くる

もの

と考

えら

れ(

46)、そ

うし

たこ

とな

どを

通じ

ての

の公

的権力

への依

存、

同時

にあ

る部

分で

は従来

の中

世的

村落指導

階層

によ

る自

身の

地位

・既

得権維持

を目指

す方

向と

の相克

が発生

した

もの

であ

ろう

47)。

Page 23: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 45 -

上の

史料

分析

と考察

によ

り、

移行

期村

落内

の役

負担

関係

と、

そこ

から発生

した

村落

規程

など

を検

討す

るこ

で、

当時

の村

落の

おか

れた状況

、村

落内

部の

階層

相互

の相克

、そ

の変

質の

あり

よう

の一

部な

りと

も解

明す

るこ

に寄与

でき

たと

考え

る。

さら

に近

江以外

の村

落に

も考察

の範囲

を拡大

し、

村掟

論の

検討

とも合

わせ

てな

おこ

れら

の問

題を

追及

して

いく

考え

であ

る。

1)水

本邦

彦『

近世

の村社会

と国

家』(東京大学出版会

、一九八七

年)第

二部第三章

2)菅

原憲

二「

近世

村落

と村

入用

」(『日

本史

研究』

一九九号

、一九七九

年)。

3)藤

木久

志『

村と領

主の

戦国

世界』(東京大学出版会

、一九九七

年)

各章

、及び

宮島

敬一『

戦国

期社会

の形

成と展開』(吉川弘文館

、一九九六

年)第

二・三

など

4)横田冬

彦「

近世

村落

にお

ける

法と掟

」(『文

化学

年報』五号

、一九八六

年)。

5)村

役の肉

体的

負担

部分

つま

り労働提供

に関

して

は、岩城卓

二「

近世

村落

と村

役労働

」(『日

本史

研究』三

二四号

、一九八九

年)

に詳

しい

6)以下紹介

する安治

村の他

、既

に仲

村研『

中世

惣村

史の

研究』(

法政大学出版局

、一九八四

年)

など

の惣

村・

村落商業

研究

で有名

な今堀郷

各村

や、

同様

に湖北

の菅浦

村な

どに集

中的

に村

落史

料が

残存

して

いる

いう状況

が見

られ

る。

7)安治

区有文書

。以下

特に

こと

わり

のな

い場合

には

同区有文書

。現

在野洲市安治

(旧

中主町安治

)地

区の

Page 24: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 46 -

区有文書

とし

て伝来

して

おり

、旧

中主町教育委員会

が写真版

を作

成し

てい

る。

本論

で使

用し

てい

る同文書

は、

原本

・写真版

と照合

し確

認し

てい

る。

これ

を分

類整

理し

た目録

とし

て『安治

区有文書目録』(駒沢大学

織田信長

研究会

編、

一九八〇

年)、

及び『

近江

国野洲郡安治

区有文書目録

国・

近世

の湖

の村

の素顔』

( 中

主町教育委員会

編、

一九九五

年) が

ある

。以下

の注

に記載

した

同文書

の目録番号

は、

後者

の目録

に基づ

く。

同村

に関

する

研究

とし

ては

、そ

の史

料を

もと

に織田

政権指出徴収

・家数把握等

によ

る在

地把握

の実状

、借

材増大

によ

る村

の財

政逼迫等

を明

らか

にし

た脇田修『

織田

政権

の基礎

構造

織豊

政権

の分

析Ⅰ』(東京大学出

版会

、一九七五

年)第五章

が最

も詳

細で

ある

8)「

いろ

いろ

帳」。目録

一号

。な

おこ

の帳

は、

同区有文書

中最

も古

いも

ので

ある

9)「安治

村惣之

帳」。

同前七〇号

10)こ

の史

料一

の件

も含

め、

当時

の在

地村

落で

の侍

分の

立場

や活

動に

関し

ては

、拙著『

戦国

織豊

期の

在地支

配と

村落』(校倉書房

、二〇〇三

年)第

一部第三章

・第

二部第三章

で詳

しく

検討

した

。ま

た吉田ゆ

り子『兵

農分離

と地域社会』(校倉書房

、二〇〇〇

年)、西

村幸信『

中世

・近

世の

村と

在地社会』(思文閣出版

、二〇

〇七

年)第

一部第四章

を参照

11)こ

こで

言う

「惣

かり

」と

は、

惣村組

織と

して

では

なく

「総借

り」

つま

り村全

体と

して

とい

う程

度の意味

で使

用さ

れて

いる

とも取

れる

が、

どち

らにせ

よ在

地侍

分が

、惣

もし

くは

村落

また

はそ

の両

方に帰属

する

のと見

られ

てい

たこ

とは確

かで

あろ

う。

12)こ

の起請文

の分

析に

関し

ては

、高牧實

「湖東

の門徒

と元亀

の起請文

」(『徳川林

制史

研究所

研究紀

要』昭

Page 25: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 47 -

和五十

一年

度、

一九七七

年)、

藤田恒春

「元亀

の起請文

につ

いて

」(『

史林』六九―

一、

一九八六

年)、

「信長侵攻

期近

江南

部の

村と『元亀

の起請文』」(『

国立歴

史民俗博物館

研究報告』七〇

、一九九七

年)

に詳

しい

。な

お前掲拙著第

二部第

二章参照

13)蓮井

家文書

、『

近江栗太郡

志』(

同郡

編、

一九

二六

年)

一所収

。富田

・立花

両村

は、

当時

から

既に

連合

落的

な形

態を取

って

いた

らし

く、

ここ

で「

惣百所

惣代

」が

両村名

を共

に書

いて

いる

こと

も、

そう

した

理由

によ

る。

明治

に至

り合併

して

立田

村。

侍分

惣代富田

らは

、必

ずし

も百

姓惣

代の

よう

に隣

村と

連合

する

とい

う意図

を持

って

いな

かっ

たも

のか

14)も

ちろ

ん名字

や官途

の有無

のみ

で、

この

当時

の在

地に

おけ

る侍

分と

百姓

の身

分的

区分

を断

定的

に論

じる

こと

はで

きな

い。

しか

し一

方、

後世

の史

料に

なる

が、元禄九

(一六九六

)年三月

付の神崎郡

種村

(現東

江市

種)

の「覚

」で

は、「

種村者

、従往古名字

をな

のり候

百姓者

侍方

と申

、文使

役相勤来候

、名字無之

百姓

方者仲間

方と申

、棒

役相勤来申候

」と

あり

、名字

の有無

が、

在地

にお

いて

侍分

と百

姓を

区別

する

重要

な要

素に

なっ

てい

たこ

とを示

す史

料も

存在

する

。同文書

は大橋

家文書

、『

近江神崎郡

志稿』(

同郡教育会

編、

九二八

年)

上所収

。な

お同

時期

の近

江な

どの

在地

村落

にお

ける名字

のあ

り方

に関

して

は、坂田聡『苗字

名前

の歴

史』

( 吉川弘文館

、二〇〇六

年) を参照

15)同

村指出

の各

史料

(断簡含む

)に

よる

と、

給人

の部

分に蔵

入(安土城蔵

入分

)や寺領

分と

共に

「井

口清

六」「神館

」「(八

夫)

少将

」な

どの

人物名

が現

れる

。こ

れら

は安治

村近隣

の井

口村

・八

夫村

など

に居住

して

いた

在地

侍衆

クラ

スと思

われ

、「神館

」は

本文

中で

も言

及し

てい

る兵

主神社

の神官

で、

侍分

化し

てい

た者

Page 26: 中近世移行期近江村落の役負担と階層 · をして、惣村としての 借 用 状 を 作 成したと 記 しているのである ( 10 ) 。当時の在地 社会

- 48 -

指す

。安治

村自

体に居住

する

侍分

が含

まれ

てい

るか

は不

詳。

(16)

天正九

年三月

に安治

村で蘆公

事が徴収

され

た際

に、隣

村須

原村

とそ

の保管

場所

など

の件

をめ

ぐり

相論

なり

、周辺

の堤

村侍

分と思

われ

る六条正次

ら六

人が

、仲

人と

して

両村

の和

解を斡旋

して

いる

。「六条正次等

連署書状

」、目録五九号

17)「安治

村屋敷指出断簡

」、

同前七八―

一号

など

18)「

かき取~

」同

前一〇九号

、「

すし~

」一

一〇号

。別

の「

かき取

すし日記

」が

一一三号

。い

ずれ

も天正十

六年閏五月八日

の日

付が

ある

19)宇川

共有文書

。『宇川

共有文書

調査報告書』下巻

(水

口町

立歴

史民俗資

料館

編、

一九九六

年)所収

20)相

論・

村政等

の史

料を合

わせ

、同

前報告書

上巻

(同

前資

料館

編、

一九九七

年)

と下巻

に共有文書

の一

が分載所収

され

てい

る。

21)「岩坂長左衛門目安ニ被

上候偽之覚

」。

同前報告書下巻所収

。ほぼ

一致

する

内容

を持

つも

のが三

通存

在す

る。

22)織田

政権

期の

この

地域

の指出

検地

に関

して

は、脇田

前掲書第四章

に詳

しい

23)「安治

村検

地申状案

」、目録五八号

24)兵

主神社文書

、旧

中主町教育委員会所蔵写真版

。東京大学

史料

編纂所所蔵影写

本と照合

。両者

には文書

の全

体数

など

、若干

の異

同が

ある

25)同

前文書

、明応

二(

一四九三

)年閏四月十六日

付兵

主郷簗衆

中宛出羽守

(伊庭貞隆

)判物

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26)同

前文書

、天文十五

(一五四六

)年八月

二十七日

付兵

主宮社

家中宛六角

氏奉

行人

連署奉書

。署判

して

る六角

氏奉

行人

は、

宮木賢祐

と後

藤高雄

の二

人で

ある

27)「

魞せ

んあ

つめ日記

」、目録

一〇八号

28)魞

につ

いて

は、

高橋昌

明『湖

の国

の中

世史』(平凡社

、一九八七

年)

を参照

29)「納

魞年

貢米之

事」、目録

一〇七号

30)「安治

村家数之

内後

家共之

事」、

同前九〇号

31)「安治

村諸

役割覚

」、

同前

二三号

32)こ

の惣

代の異

動はほぼ全

ての

惣代登

場史

料に

及び

、中

には

同年

同月

中で

も異

なる

惣代

が現

れて

いる

例も

ある

。基

本的

に月番

で勤

めて

いた

もの

と思

われ

るの

だが

(「

当行

事」

と書

かれ

てい

る人物

も見

られ

る)、交

替のル

ール

やそ

の時

期が

明確

では

ない

。な

お拙稿

「織

豊期

の村

の運営―

近江

の安治

村―

」( 藤

木久

志・荒野

泰典

編『荘園

と村

を歩

く』所収

、校倉書房

、一九九七

年) を参照

33)こ

の家

役置目

は、

同時

期に作

成さ

れた三

通の

類似

史料

の内

の一

つで

ある

。ま

ず天正五

年十

一月十五日

で「

定安治

村家之

事」(目録

一五号

)と

いう

定書

があ

り、

これ

には

家屋合

一や

家破却

・再建

の際

の規

定が

在す

る。次

に翌月十五日

に作

成さ

れて

いる

もの

が、

ここ

で紹介

した

「家

やく

おき

め事

」(

同 *

(目

録マ

マ)

)で

ある

さら

に日

付が

ない

が内

容的

に同

時期

に作

成さ

れた

と断

定し

てよ

い「

定安治

村家

やく

おき

め事

」(

同一六号

があ

り、

これ

も家

屋合

一へ

の対応等

の条項

を規

定し

てい

る。

それ

ぞれ罰則

規定

のあ

るな

しな

ど、文

言に若

干相違

があ

るが

、同

村家

役規

定作

成の

一連

の作業

の中

で 試

行的

に作

られ

てい

った

と考

えら

れる

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- 50 -

34)既述

のご

とく

、安治

村の

家数

は天正七

年の

史料

で本

家・

後家合

わせ

て四

二軒

であ

った

が、天正五

年か

文禄

二年

の史

料に現

れる

惣代

の人数

は、三

二人

であ

る(延

べ人数

では

ない

)。

世代交

代し

てい

る家

もあ

る可

能性

はあ

るが

、一軒

から

一人

が惣

代と

して出

てい

ると

する

と、単純

に計算

して

村全

体の四

分の三

の家

から

惣代

が出

てい

るこ

とに

なる

。こ

れは

この

村に

おい

て、

惣代

が村

構成員

の持

ち回

り的

な役

であ

った

こと

を示

して

いる

もの

と考

えら

れよ

う。

35)「

よし公

事樽銭之儀

に付誓文

」、目録六

二号

36)こ

の「樽銭

」は

、前述

「安治

村惣之

帳」

の記述

の一

部に

、天正十

年指出

の際

「御奉

行衆四

人迄ニ

あさ

しお申

入候

」と

ある

ので

、そ

の食費等

に使

用さ

れた

、文字

通り

の「樽銭

」で

あっ

た可

能性

もあ

る。

37)「佐

久間

定栄書状

」、目録

一八号

。「安治

村陣

夫指出状

」同

前二四号

では六

人。

38)前出注

35)誓文

。「

上様之御

用与被仰候

て安治

村よ

し御

からせ候

」。

39)前出注

9)「安治

村惣之

帳」。

40)在

地侍

分の

「下

代」

の立

場・

地位

に関

して

は、

前掲拙著第

一部第

二章

を参照

41)「

定安治

村よ

しの掟之

事」、目録六三号

42)「安治浦蘆出

入ニ

付一札

」、

同前八

二号

。ま

た須

原村

に「安治

村年

貢地

」の湖岸利

用を禁

じた

一札

を取

てお

り、

これ

は同

前八三号

43)こ

こで

近世

初期

と言

って

いる

のは

、近

世権力

によ

る一応

の村

落支

配制

度が

定ま

った

と考

えら

れる寛永

間頃

まで

を目安

とし

てい

る。

また

前期

とは

、畿

内近

国の

村落

で一

部富農

によ

る土

地集

積と

地主

化が進展

し、

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村落

内諸

階層

の相互

関係

が大

きく

変質

し始

める元禄

期頃

まで

とし

たい

。幕藩

体制

の基盤

整備

がほぼ終結

見た

とい

う観

点か

ら、

その間

の寛文

・延宝

期に

近世

前期

の画

期を

求め

る考

え方

も有力

であ

るが

、こ

こで

あく

まで

村落

内階

層の

質的

変化

とい

う点

を主

に時

期区

分を

行っ

てい

る。

44)例

えば今堀

では

、惣

中の衆議

定書

と思

われ

る神

事関

連の

規定書

が応仁四

(一四七○

)年

に出

され

てお

り、

また

「今堀

地下掟之

事」

と題

する

二十条

から

成る

定書

が延徳元

(一四九

一)

年に作

成さ

れて

いる

(仲

村研

編『今堀日吉神社文書集

成』所収三八九号

・三七号

)。

45)有光友学

「近

世畿

内村

落の

成立

をめ

ぐっ

て──

とく

に『

村切』

と分

村の

問題──

」(静岡大学

人文学

部人

文学科

研究報告『

人文

論集』

二〇号

、一九六九

年)。

46)横田

前掲

論文

47)水

本邦

彦『

近世

の郷

村自治

と行

政』(東京大学出版会

、一九九三

年)第

二部第六章

など

を参照