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太宰治『津輕』論
-「表」與「裡」的作品構造-
賴雲莊
中國文化大學日本語文學系助理教授
摘要
太宰治『津輕』為 1944 年 11 月小山書店所發行的「新風
土記叢書」第七篇。這篇作品被稱為是作者的「回歸故鄉」之
創作,但是在這篇作品中所說的故鄉所指為何?本論首先要將
這一點釐清;此外,再將重點放在分析「昭和」以及「聖戰下」
的時代狀況是如何被表現出來,來明確本篇作品的特徵。太宰
治將『津輕』這篇作品和他的實際人生故事作連結,透過此方
法,錯開「新風土記叢書」原本設定的「故鄉」概念,進而完
成一冊小說。在這個作品中經常刻意地製造出「表」與「裡」
的關係,描繪出多層次的作品世界。這是在有檢閱制度的言語
統制時代下,作家的一種向限度挑戰的方式,我們可以從此看
出作者的創作態度。
關鍵字:新風土記叢書 『津輕』 太宰治 檢閱制度
1
“Tsugaru” of Dazaiosamu La i , Yun-chuang
Ass i s t an t Professor, Ch inese Cul tura l Univers i ty, Ta iwan
Abstract
“Tsugaru” of Daza iosamu was seven th book of Neo-Fudoki Se r i es , which was publ i shed by Oyama books tore in Ju ly, 1944 . They sa id “Tsugaru” was au thor ’s “homecoming work” , however, wha t does “home” mean in th i s work? Fi r s t o f a l l , t he impl ica t ion o f “home” wi l l be d i scussed c lear ly in th i s thes i s . Fur thermore , we wi l l ana lyze how the per iod s i tua t ion under “ the Showa e ra” and “ho ly war” was expressed in “Tsugaru” . Through connec t ing “Tsugaru” wi th h i s r ea l l i fe s to ry, Daza iosamu passed the o r ig ina l - se t t ing concept o f “home” in the Neo-Fudoki Ser ies and then comple ted the nove l - -Tsugaru . “ Impl ic i t ” and “expl ic i t ” wr i t ing s ty les were combined in “Tsugaru” and tha t usua l ly expressed purpose ly, and fu r ther i t depic ted a mul t i l eve l con tex t o f work . Th is i s the way Daza iosamu cha l l enged the l imi t under the governance o f the per iod of censorsh ip,and f rom th i s , we can rea l i ze the wr i t ing a t t i tude of the au thor.
Key words : Tsugaru , Neo-Fudoki Ser i es , Daza iosamu, censorsh ip
2
太宰治『津軽』論
-「表」と「裏」の作品構造について-
頼 雲荘
中国文化大学日本語文学系助理教授
要旨
太宰治『津軽』は 1944 年 11 月に小山書店の「新風土記叢
書」第七編として刊行されたものである。この作品は作者の
「故郷への回帰」と言われたが、この作品における「故郷」
とは、いなかるものか。本論では、まずそれを明らかにする。
またこの作品における「昭和」という時代あるいは、「聖戦
下」という時代背景がどのように作品に反映されたかに重点
を置き、『津軽』という作品の特徴を明らかにする。太宰治
は『津軽』という作品を自分のライフストーリーと絡むよう
に見せかけ、『津軽』を「新風土記叢書」の「故郷」の意味
をずらし、一冊の小説を創り上げた。この作品では常に「裏」
と「表」のあるものを意識的に作り、重層的な作品世界が描
かれる。これは検閲制度のある言語統制下の時代における作
家のぎりぎりまでの挑戦であり、作者の創作態度もそこから
うかがえる。
キーワード:新風土記叢書 『津軽』 太宰治 検閲制度
3
太宰治『津軽』論 1
-「表」と「裏」の作品構造について-
頼 雲荘
中国文化大学日本語文学系助理教授
1.はじめに
太宰治『津軽』は 1944 年 11 月に小山書店の「新風土記叢
書」第七編として刊行されたものである。同叢書の第五編中
村地平『日向』( 1944 年 6 月)の巻末広告には、「新風土記叢
書」についての広告が次のように印刷されている。
この叢書は、文壇を始め各界のすぐれた方々に、おの
が故郷を風韻豊かな風土記に再現して戴き、時代の痼疾
に蝕まれて故郷を失う近代人の胸にふたたび故郷への愛
着をよびさまし、なほ進んでは、神のみ手に生みなされ
た、うまし国たる日本を、あらためて見いださんがため
につくられた。 2
小山書店の「新風土記叢書」は 1940 年代前後、上記のよ
うな前提で次々に出版されたものと考えられる。当時出版さ
れたほかの叢書は、現在ではほとんど流通しなくなった 3 。
1 本 論 文 は 、 2007 年 度 行 政 院 国 家 科 学 委 員 会 研 究 計 画 (NSC96-2411-H-
034-010-)に よ る 成 果 の 一 部 で あ る 。 2 中 村 地 平 『 日 向 』 ( 1944 年 6 月 小 山 書 店 ) の 巻 末 広 告 3 そ れ に つ い て 、 紅 野 敏 郎 「 太 宰 治 の 本 ― 「 新 風 土 記 叢 書 」 を め ぐ っ
て ― 」『 国 文 学 解 釈 と 教 材 の 研 究 』 1979 年 7 月 学 燈 社 に 詳 し い 論 及 が
さ れ て い る 。ま た 、管 見 に よ れ ば 、中 村 地 平『 日 向 』は 1944 年 6 月 に
出 版 さ れ た あ と 、1957 年 7 月 に 再 版 さ れ 、角 川 文 庫 の 一 冊 と し て 出 版
さ れ た 。 そ の 際 「 こ れ を 機 に 原 本 に 加 筆 さ れ 、 章 節 も 改 め て 整 え ら れ
て い る 」( 小 野 和 道「 解 説 」『 宮 崎 21 世 紀 文 庫 1 日 向 』1996 年 8 月
鉱 脈 社 p.246) 戦 時 中 と 戦 後 を ま た が り 、 13 年 も の 歳 月 を 渡 っ て 、 加
筆 ・ 再 版 と い う こ と は 元 来 の 「 新 風 土 記 叢 書 」 の 一 冊 と し て の 性 格 か
ら 多 少 改 変 さ れ た 点 が あ る と 思 わ れ る 。
4
しかしながら、『津軽』は文庫本としても出版され、学校の
教科書に取り上げられたこともあった。『日向』の巻末広告
に示されたように明確な目的を持った「新風土記叢書」の一
冊として、1944 年戦争のまっただなか、太宰治『津軽』が出
版された。そして、作中でも言及されたように作者は『津軽』
が「昭和の津軽風土記」であり、または「聖戦下の新津軽風
土記」であることを意識して、それを明言した。よって、『津
軽』は、単なる津軽という地域の「風土記」と作者の「故郷」
とに対する述懐だけではなく、その時代状況をも意識的に反
映したものであるはずであると推測できる。
さらに、この作品は作者の「故郷への回帰」 4 と言われた
が、この作品における「故郷」とは、いかなるものか。本論
では、まずそれを明らかにしたい。またこの作品における「昭
和」という時代あるいは、「聖戦下」という時代背景がどの
ように作品に反映されたかに重点を置き、検閲制度 5 が存在
した言語統制下の時代で出版された『津軽』という作品の特
徴を明らかにしたいと思う。
2.先行研究
佐藤泰正は、『津軽』の旅が「単なる風土記の記述ならぬ、
求心の系譜につながるもの」 6 であり、「作者の志向する処」
4 佐 藤 泰 正 「 太 宰 治 『 津 軽 』 故 郷 へ の 回 帰 」 『 国 文 学 解 釈 と 教 材 研
究 』 18 巻 9 号 学 灯 社 1973 年 7 月 p .148 5 『 津 軽 』初 版 の 奥 付 に「 出 版 會 承 認 う 二 二 〇 〇 〇 四 號 三 〇 〇 〇 部 」
と あ る 。 こ の 「 出 版 会 」 に つ い て 小 田 切 秀 雄 『 現 代 文 学 史 』( 1983 年
6 月 集 英 社 ) に 次 の よ う に 述 べ て い る 。 「 昭 和 一 五 年 一 二 月 に は 日 本
出 版 文 化 協 会 ( 一 八 年 三 月 か ら 日 本 出 版 会 と な る ) が つ く ら れ 、 出 版
統 制 を 全 面 化 し た 。 ( 中 略 ) 全 体 と し て は 、 事 前 届 出 ・ 許 可 制 に よ っ
て 出 版 物 の 一 つ 一 つ が こ ま か く 規 制 さ れ 、 さ ら に 、 戦 争 の 進 行 と と も
に 乏 し く な っ て ゆ く 用 紙 を ど の よ う に 割 り 当 て る か を と お し て 、 軍 国
主 義 的 な 方 向 づ け が さ ら に 強 化 さ れ た 。 批 判 的 な 書 、 等 は 刊 行 そ れ じ
た い が し だ い に 不 可 能 に な っ て き た 。 」 p. 523 6 佐 藤 泰 正 前 掲 書 p.148
5
は、「己れの生まれ育った風土を、より広い外延のなかで確
認するとともに、自己をより広い他者の世界に虚飾なく投げ
出し、相対化し、対象化してみようという―二重の自己確認
(あるいは自己発見)の試みである」 7 と指摘した。それを
踏まえ、大久保典夫は「この小説は、最後にたけとの血縁を
自覚するところに象徴されているように『津軽の百姓』とし
ての自己確認の書であり、奴婢系を軸とした小説なのだ」 8
と『津軽』の特色を指摘した。さらに「戦時下の太宰治のイ
デオロギーを問題にするなら、彼の民衆的視点の奴婢性につ
いて触れねばなるまいが、『津軽』の文学的安定がまたそこ
か ら も た さ れ て い る こ と も 同 時 に 考 慮 に お か ね ば な る ま
い。」 9 と太宰治の戦時下のイデオロギーをも論じた。
それに対して、東郷克美は佐藤と大久保の「自己確認」論
から一歩進んで、津軽の旅は「文化的中心(反自然・人工)
から周縁(自然・混沌)への回帰の旅は、同時に作られ装わ
れた表層としての自己から、深層としての本質的な自己(内
なる辺境)への旅で」 10 あることを論じ、そしてこの作品で
は「『中央』を価値や秩序の基準とする考え方」があり、「『反
骨』精神や民衆志向の中途半端さないしは二重性を指摘する
こともできる」 11 と述べている。鶴谷憲三は東郷の論を踏ま
え、「判然と作品の要素をこれこれと決定しきれない曖昧さ
を『津軽』が宿していることは確か」であると論じ、さらに
一歩進んで、「〈私〉の心情の揺れが重層的になっている点に
7 佐 藤 泰 正 前 掲 書 p.151 8 大 久 保 典 夫 「 『 津 軽 』 論 ノ オ ト 」 『 作 品 論 太 宰 治 』 東 郷 克 美 ・ 渡 部
芳 紀 編 双 文 社 1 974 年 6 月 20 日 p.247 9 大 久 保 典 夫 前 掲 論 文 p.247 1 0 東 郷 克 美 「 『 津 軽 』 論 ― 周 縁 的 世 界 へ の 帰 還 ― 」 『 一 冊 の 講 座 太 宰
治 』 有 精 堂 1983 年 3 月 p.98 1 1 東 郷 克 美 前 掲 論 文 p.100
6
こそ特徴がある」12 としたが、その「〈私〉の心情の揺れ」は、
太宰治の実生活の体験を重ねたものであり、独立とした作品
世界の「〈私〉の心情」ではない。
このように『津軽』という作品は、作者自身の実生活と結
ばれ、作者創作の内面の動機が論じられてきた。このような
傾向の論説に対して、山口浩行は『津軽』を他の「新風土記
叢書」と比較しながら、「『津軽』の『私』はノスタルジアの
封印や〈旅人の目〉、〈末期の目〉など、眼差しの機能に自覚
的であった。本来、故郷が実体的な存在ではなく、ノスタル
ジアなどの眼差しによって構成される時空間である以上、見
るという行為が選択する方法によって、立ち上げられる故郷
像も変わってくる」 13 と『津軽』では「眼差しの機能」が意
識され、駆使されたことが特徴であると山口が論じた。そし
て、「故郷を語る文学者の言説を、故郷を語る小説と化して
いく『私』の戦略は、対象である故郷の呪縛から文学を奪還
する試みとして理解できよう 14 」という結論に辿り着いた。
なるほど語り手の眼差しの方法で、『津軽』はこの叢書の
中で異色の存在になる。おそらく、これも他の「新風土記叢
書」がほとんど流通しなくなっても、『津軽』だけが読み続
けられた理由だと思われる。しかしながら、「眼差しの方法」
あるいは語り手の方法が明らかになっただけでは、小説とし
ての『津軽』という作品の構造がまだ十分に論じられたとは
言えないように思われる。本論では、この作品の構造を明ら
かにすることを目指し、それによって、その創作特徴を明瞭
にし、また同時に太宰治の戦時下の創作態度の理解にもつな 1 2 鶴 谷 憲 三 「 『 津 軽 』 ― 〈 つ た な さ 〉 の 自 覚 ― 」 初 出 『 昭 和 の 長 編 小
説 』 至 文 堂 1992 年 7 月 『 太 宰 治 論 ― 充 溢 と 欠 如 』 有 精 堂 1 995 年 8
月 1 日 所 収 p.184 1 3 山 口 浩 行 「 旅 人 が 見 る 故 郷 ― 風 土 記 と し て の 『 津 軽 』 ― 」 『 日 本 近
代 文 学 』 67 巻 日 本 近 代 文 学 会 2002 年 10 月 p.138 1 4 山 口 浩 行 前 掲 論 文 p.139
7
げたいと考える。
3.「私」の「故郷」
(1)「故郷」の意味
まず、『津軽』における「故郷」という言葉の意味を確認
したい。その前に、『津軽』の執筆背景について見てみよう。
作 者 は 創 作 取 材 の た め に 出 か け た こ の 津 軽 旅 行 に つ い て 、
「十五年間」で次のように書いてある。
私は或る出版社から旅費をもらひ、津軽旅行を企てた。
(「十五年間」『太宰治全集 9』 p.216)
作者は出版社から旅費をもらい、「新風土記叢書」の一冊
としての『津軽』の創作取材のために旅に出たと述べている。
つまり、小説を書くために仕事で津軽へ行ったのである。こ
れは作家としての営みであり、その裏に出版社が出資したと
いう商業的な目的があることが明らかである。しかし、『津
軽』本編では、次のように書いてある。
「ね、なぜ旅に出るの?」/「苦しいからさ。」 /「あ
なたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できま
せん。」/(中略)/ 津軽の事を書いてみないか、と或る
出版社の親しい編集者に前から言はれてゐたし、私も生
きてゐるうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで
見て置きたくて、或る年の春、乞食のやうな姿で東京を
出発した 。(/は行変え、 p.26~ 27)
上述の引用から、作者が旅の目的を意図的に自身の人生問
題と絡ませようとする姿勢がうかがえる。さらに当時の状況
8
は 、『 昭 和 家 庭 史 年 表 1926-1989』 15 を 開 い て み れ ば 、 1944
年の「社会・交通・一般」の項目では、「 3.14 旅客運輸制
限のため、片道 100kmを超える旅行には旅行証明書が必要と
なる。また、寝台車・食堂車が廃止に。 4.1 実施。 10.11 特
急も廃止。また、「文化・レジャー」の項目では、「3.―不急
の旅行客が急増。 4 月 1 日から旅行が制限されるため、今の
うちに出かけようという人が増えたもので、東京の主な駅で
は連日、切符を買い求める人の行列ができる」とある。こう
してみると、当時、作者太宰治が 5 月から 6 月にかけて、津
軽へ旅行に出かけたことは、一般人にとって容易に出来たこ
とではないはずである。おそらく『津軽』は、戦火の中で簡
単 に 旅 行 が で き な く な っ た 時 代 の 旅 行 記 で も あ る と い う 特
殊な性格をも持った作品ではないかと考えられる。
こうしてみると、この津軽の旅は、単純に、作中の「私」
が語っている「苦しいから」出かけた旅なのではなく、今回
の旅行は、当時の状況下で出版社の執筆依頼があったから、
旅費、また旅行証明書などの手配が出来、出かけられたもの
と推測できる。したがって、最初から作者は客観的に旅行の
見聞をもとに『津軽』を書くつもりだけではなく、そこには
当 時 の 状 況 下 で 自 身 の 身 上 の こ と と 絡 ま せ て 書 く と い う 戦
略があったことは明らかである。
さて、「私」の語る対象『津軽』について見てみよう。序
編では「金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐」の六つ
の町について次のように書いてある。
この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私
の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、か
へつて私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも
15 家 庭 総 合 研 究 會 編 『 昭 和 家 庭 史 年 表 1926-1989』 河 出 書 房 新 社 1990
年 7 月 p.149~ p.151
9
知れない。これらの町を語るに当つて、私は決して適任
者ではなかつたといふ事を、いま、はつきり自覚した。
(p.23)
つまり、この六つの町は、「私」がかつて暮らし、また何
らかの関連性を持っていたところで、いわゆる「故郷」にな
る町である。『津軽』という作品では、「私」の「故郷」にな
る土地への言及を避け、その代わりに、今回の津軽旅行まで
未知だった土地を語るという「私」の決意をここで示した。
その理由は、その六つの町は「私」の自己形成にあまりにも
緊密な関係があるから、語ると「盲目的」になると述べられ
ている。しかし、それに対して、その六つの町以外の未知な
る土地を語るには「私」が果たして、適任者であるかどうか
ということに疑問が持たれる。
前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽
に育ちながら、ほとんど津軽の土地を知つてゐなかつた。
(五、p.130)
「私」は、津軽の出身者ではあるが、津軽の土地の大部分
を知らないという設定になる。それにもかかわらず、未知な
る土地をも含み、「津軽」を語る特権が与えられた。さて、「私」
にとって「故郷」とはなにか。
数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求め
られて、その返答に曰く、
汝を愛し、汝を憎む。(p.20)
ここでは「故郷」が「汝」という代名詞で言い換えられて
いる。しかし、この「汝」は具体的にどういう意味かは明示
10
されていない。次の引用では、「故郷」について触れている。
そこから「故郷」とはどういうものかその意味が少し明らか
になる。
四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を
依頼されて、その時、あの「思ひ出」の中のたけの箇所
を朗読した。 故郷といへば、たけを思ひ出すのである 。
( p.150)
この引用で、「私」にとって「故郷」の意味は、特定の土
地ではなく、特定された人間であることが分かる。ここでい
う「故郷」とは、一つの空間というより、人と人の関係によ
って構築されたもののことと考えられる。その「未知なる土
地」がなぜ故郷として語られたか。それはそこに旧知がいた
から、その土地が「故郷」である、という設定があるからで
ある。語り手の「私」にとって、「故郷」とは、人に対する
思い出であり、とくに「たけ」に対する思い出である。そこ
からは同時にまた、「私」は津軽で追求しようとするものが、
人と人の触れ合いであることも設定されていると言えよう。
私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、天文、財
政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知
つたかぶりの意見は避けたいと思ふ。(中略)私には、ま
た別の専門科目があるのだ。 世人は仮りにその科目を愛
と呼んでゐる 。 人の心と人の心の触れ合ひを研究する科
目である 。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの
一科目を追求した。(p.24)
たしかに、旅行中友人たちとの触れ合いやエピソードなど
が『津軽』を支える大きな軸となった。それに対して、次の
11
引用では、友人のいない未知なる土地では深く入りこんだ旅
行見聞の叙述が出来ないことが述懐されている。
かう書きながら、私は幽かに苦笑してゐるのであるが、
深浦といひ鯵ヶ沢といひ、これでも私の好きな友人なん
かがゐて、ああよく来てくれた、と言つてよろこんで迎
へてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、
私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鯵ヶ
沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもつて書きか
ねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあ
てにならないものである。(p.143~ 144)
友人がそこにいたから、「私」という旅行者にとって、未
知なる土地でも親切感が湧き、「故郷」として語っていける。
友人のいない土地ではうまく行かないところがある。ここに
は友人との交遊を通して、いわば知己のネットワークという
目をとおして「故郷」としての津軽像を描き出そうとする、
「私」の戦略がある。それと同時に、その描き方は友人との
交 遊 に よ る 知 己 の ネ ッ ト ワ ー ク と い う 目 を と お し た 主 観 的
なものである。この点から見れば、この小説での津軽像は旅
行者の知己の目というフィルターを通したものであり、個人
的な感情に影響され、あくまで主観的なものである。旅行者
としての「私」にとり、ほとんどの津軽の土地は、今まで未
知なる土地であり、旅行者の知己の目というフィルターを通
した主観的な語りによって、いわば新たに構築された「故郷」
像が作り上げられたといえるのであろう。
(2)自己への探究
次は、旅行に潜在する意図である。「私」はこの『津軽』
の旅で、ある計画を企んでいる。それは、「津軽人」として
12
の自分をつかもうとする企みである。
こんどの旅に依つて、私をもういちど、その津島のオズ
カスに還元させようといふ企画も、私に無いわけではな
かつたのである。都会人としての私に不安を感じて、津
軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかた
を変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それ
を見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とす
べ き 純 粋 の 津 軽 人 を 捜 し 当 て た く て 津 軽 へ 来 た の だ 。
(p.39)
「私」は「津軽人」としての「私」をつかもうとして津軽
に来た。そして、津軽人との触れ合いを通して、自分と津軽
人の性格の共通性を発見する。たとえば、Sさんを描写した
部分はその例である。
その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現である。
しかも、生粋の津軽人がそれである。これは私に於いて
も、Sさんと全く同様な事がしばしばある ので、遠慮な
く言ふ事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合
には、どうしたらいいかわからなくなつてしまふのであ
る。( p.57)
Sさんは「生粋の津軽人」で、私とSさんには同じような
ところがあり、つまり、これはSさんを通して、間接的に私
が「津軽人」であることを証明したという図式である。
これと同じ発見が、たけとの会話のあとに、「私はたけの、
そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、
私は、たけに似てゐるのだと思つた」( p.166)と書かれてい
る。ここでも、たけとの性格上の共通性を見つけている。つ
13
まり、これらの人々との触れ合いを通して、知己のネットワ
ークという目により新たに構築された「故郷」空間で、「私」
自身の主観的な判断で、自己確認または自己形成の根源の確
認をしたということである。
確かに、この作品は、「津軽」という土地で「人の心と人
の心の触れ合ひ」を追求しようとする小説として作中に綴ら
れた。『津軽』は、人と人との触れ合いの出来事を主軸とし
て主観的な視点で構成された小説である。しかし、見逃すこ
とのできないのは、それと同時に、もう一つのフィルターが
かけられているということである。「 聖戦下の新津軽風土記
も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて
大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれと
あつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気 は、以上でだいたい
語り尽したやうに思はれる」( p.167)とあるように、津軽と
いう地方を紹介する専門書の引用や、『津軽』の戦時下の現
状の叙述など、いわゆる客観的な要素もこのなかに織り込ま
れてあるということである。「主観」にそった知己のネット
ワークという目に重なる形で、いわば客観に即した叙事的眼
差しもこの作品には込められているのである。
4.叙事的眼差しの「表」と「裏」
以上の「故郷」の意味を踏まえながら、今度は叙事的眼差
しが捉えた「故郷」を見ていきたい。
(1)津軽の「雪」と「春の花」
そこで注目されるのは、『津軽』の序編に入る前に、次の
ように、「津軽の雪」の名称が並べて書かれていることであ
る。
津軽の雪/こな雪/つぶ雪/わた雪/みづ雪/ざらめ雪
/こほり雪/(東奥年鑑より)(/は行変え、 p. 4)
14
そして、それから序編に入り、冒頭では、次のように書か
れている。
或るとしの春、私は、生まれはじめて本州北端、津軽
半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、そ
れは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件
の一つであつた。( p.5)
上述したように序編の前に、「津軽の雪」の名称がずらり
と挙げられている。いうまでもなく雪は「冬」の象徴であり、
雪の名称を並べたすぐ後に、「或るとしの春」と本編が書き
始められている。「私」は三週間ほど津軽を旅行し、主に「春」
の津軽での見聞や景色などを綴った。無論、そこでは春の津
軽を書いているが、忘れてはならないのは、津軽という地方
では麗らかな「春」だけではなく、当然のことに厳しい「冬」
もあるという点である。序編でも本編でも主題として扱われ
ていないその「冬」は、たくさんの雪の名称がつけられるほ
ど、雪の多き「冬」である。津軽地方の「春」ばかりを見て
いる『津軽』の旅であるが、この「東奥年鑑」からの引用は、
津軽地方では厳しい「冬」もあることを想起させる装置だと
思われる。正面から「冬」のことを語っていないということ
は、それが存在していないということではなく、この装置を
通して、その背後に厳しい風土のある地方であることを暗示
する意図が読み取れる。本編に入るに先立ち序編の前にわざ
わ ざ 雪 の 名 称 を 並 べ て い る こ と の 意 味 は そ こ に あ る と 思 わ
れる。
津軽では春も冬の厳しさを経てあるように、物事は常に違
った面相を持っている。『津軽』はこのような前提を持つ作
品だと思われる。直接に語られているものの背後に、つまり、
明 確 に 語 ら れ て い な い と こ ろ に 重 要 な ポ イ ン ト が 潜 ん で い
15
ると思われる。春の津軽にもそれに先だって冬が存在するの
と同様に、直接に語られていないがその背後に大事なもの、
すなわち違った面目の津軽が存在している。このように作者
は、この作品中で、何かを思い起こさせるような書き方をよ
く使っている。たとえば、本編では津軽の春の景色の一部と
して、よく「花」が描かれている。
津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこ
の頃、花が咲くのである。( p.117)
鶯が鳴いてゐる。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、
白ウツギ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路
の両側の芝生に明るく咲いてゐる。( p.122)
ここで描写の主眼は「春の花」であるが、その春爛漫を描
写するときにも、忘れずに冬になると「雪」が花のかわりに
大地を覆うことを提起する。
「これはいい。僕だつたら、ここへお城を築いて、」と言
ひかけたら、
「冬はどうします?」と陽子につつ込まれて、ぐつとつ
まつた。
「これで、 雪 が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂
鬱を感じて嘆息した。( p.123)
「雪」こそが津軽の風土に決定的、絶対的なものであるこ
とを見逃すことができない。これは『津軽』の作品の特色と
いえよう。つまり、『津軽』という作品は意識的に、「表」と
「裏」が同時に存在している小説として作り上げられている
ことがここから明らかになる。春を叙述しながら、常に冬の
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存在を読者の意識に喚起しようとする仕掛けをしている。こ
のような仕掛けを叙事的眼差しと呼ぶことにすれば、これも
先に述べた「主観」にそった知己のネットワークという目に
重なる形で『津軽』全編を貫くものと思われる。次の「今回
の旅の見聞」でも、同じような傾向が見られる。
(2)戦時下の旅の見聞
「表」と「裏」が同時に存在している小説として戦時下に
書かれた『津軽』では、地理環境を説明するときに、「国防
上の用心」への気配りをはっきり明言する箇所がたくさんあ
る。以下はその例である。
①津軽図(国防上、略図ヲ更二大略ス)(p.25)
②この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるか
ら、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさ
い避けなければならぬ。(p.34)
③この蟹田あたりの海は、(中略)深さなどに就いては、
国防上、言はぬはうがいいかも知れないが、浪は優しく
砂浜を嬲つてゐる。(p.42)
④(竜飛)もうそろそろ要塞地帯に近づいてゐるのだか
ら、そのN君の親切な説明をここにいちいち書き記すの
は慎しむべきであらう。(p.72)
⑤現在のこの辺の風景に就いては、この際、あまり具体
的に書かぬはうがよいと思はれるし、(後略)(p.74)
⑥けれども、ここは国防上、ずゐぶん重要な土地である。
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私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければ
ならぬ。(p.94)
⑦ し か し 、 こ の 辺 か ら 、 国 防 上 重 要 な 地 域 に は ひ る 。
( p.123)
⑧この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、
れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。(p.154)
このように「国防上」云々の叙述は、短いながら作品中に
繰り返して述べられている。実際、これらの「国防上重要な」
ところを、一つ一つ地図と照らして見ると、津軽半島のほと
んどの海岸線がそれに当たる。このように時代的な要素を取
り入れる、それを用心深い描き方で書くことによって、この
地域に緊張した雰囲気を持たせたと考えられる。たとえば②
のように、普通、海などを紹介するとき、海の深さなどは滅
多に説明されないものであろう。ここでは、わざわざ「深さ」
までに言及し、さらに、「言はぬはうがいい」という。本当
に軍事上重要な地域であれば、むしろ何も言及せずに、触れ
ることまでなるべく避けるのが普通かもしれないが、ここで
は、わざとこの地域の敏感な部分を再三、提起し、そして何
かをはばかるように、詳細な叙述をあえて回避している。こ
のような書き方によって、読者の好奇心を引き寄せるのであ
る。積極的に戦時下の時代状況、時代の雰囲気などを取り入
れたことで、『津軽』の持つ時代性が一層リアルのものにな
る。
このように、叙事的眼差しは積極的に時代状況を取り入れ
たことによって、作品の雰囲気を生き生きさせている。津軽
の現状にさりげなく言及しながら、そのさりげなく言及した
物事の背後に、大きな物語の存在をも同時に提示しているよ
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うに思われる。
その端的な例として、具体的に、『津軽』で言及された食
糧の問題について見てみたいと思う。「私」は青森県郷土史
研究会の会員のN君から郷土史の文献「津軽凶作年表」を見
せられ、津軽が「約三百三十年の間に、約六十回の凶作があ
つた」( p.67)ことがわかった。毎年の天候によって、津軽
の農作の出来上がりは大きく左右される。そして、次のよう
な会話が記されている。
「いや、技師たちもいろいろ研究はしてゐるのだ。冷害
に堪へるやうに品種が改良されてもゐるし、植付けの時
期にも工夫が加へられて、今では、昔のやうに徹底した
不作など無くなつたけれども、でも、それでも、やつぱ
り 、 四 、 五 年 に 一 度 は 、 い け な い 時 が あ る ん だ ね え 。」
(p.68)
この引用から、津軽旅行の現在の時点では、技術によって、
農業の不作の改善は多少出来たけれども、実際には完全に克
服されていないことが分かる。現在の津軽は、何年かに一度
の「凶作」から逃れられない地域であることが分かる。しか
し、自然環境に止まることなく、さらに、食糧不足の状況を
匂 わ せ る よ う な 叙 述 も さ り げ な く 作 中 人 物 の 会 話 で 出 て い
る。
「林檎はもう、間伐といふのか、少しづつ伐つて、伐つ
たあとに馬鈴薯だか何だか植ゑるつて話を聞いたけど。」
「土地によるのぢやないんですか。この邊では、まだ、
そんな話は。」( p.147)
な ぜ 馬 鈴 薯 に 植 え 替 え る こ と に つ い て は 説 明 さ れ な か っ
たが、このような植え替えということは、当時の食糧不足の
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解決策としてみてもよいのではないか。そして、生家で「私」
は長兄の婿との会話で、天候と食糧との問題についてもふれ
ている。「私」は今回の旅で汽車から見た農作の風景では、
昔と違い、耕作のための動物が馬から牛に替えられたことに
触れた。そして、婿は次のように答えた。
「さうでせう。馬 はめつきり少くなりました。たいてい、
出征 したのです。それから、牛は飼養するのに手数がか
からないといふ関係もあるでせうね。でも、 仕事の能率
の点では、牛は馬の半分、いや、もつともつと駄目かも
知れません 。」( p.114)
馬の出征によって、牛を使うことによって農耕の効率が悪
くなった事情がこの会話から読み取れる。当時の津軽地方で
は も は や 自 然 の 天 候 要 素 が 農 作 物 の 収 穫 を 左 右 し て い る だ
けではなく、戦争という要素もが間接的に多かれ少なかれそ
こに大きな影響をもたらしていることがここから分かる。こ
のように『津軽』では、牛を使った農耕の叙述をさりげなく
書き、それについて一歩踏み込んだ説明はないけれども、そ
こには示唆的なメッセージが込められていると考えられる。
さらに、津軽の馬が戦争のために徴集され、出征したこと
から、一歩進んで考えてみれば、当然なことに、津軽の青年
も徴集されて出征したことが推測できる。実際、五所川原で
の 中 畑 さ ん の 娘 と の 会 話 か ら は 出 征 し た 人 々 の 事 情 に つ い
ての一端がうかがえる。
「あれが、こんど出来た 招魂堂 です。」けいちやんは、
川の上流のはうを指差して教へ、「父の自慢の 招魂堂 。」
と笑ひながら小声で言ひ添へた。
なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは 在
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郷軍人の幹部 なのである。この 招魂堂改築 に就いても、
れ い の 侠 気 を 発 揮 し て 大 い に 奔 走 し た に 違 ひ な い 。
( p.147)
ここでは、作中人物の会話で「招魂堂」という場所の名称
が出た。風景描写の一部のように書かれた「招魂堂」のこと
であるが、これがなんのための「招魂堂」かについては説明
されていない。しかし、この文脈からみれば、おそらく「軍
人」と何らかの関係があるものと考えられる。つまり、この
地方の戦死した軍人のための「招魂堂」が改築されたという
ことであろう。もし、需要があるから供給があるという法則
から考えてみれば、この地方では、次々と戦争で命を犠牲に
した人が出てきたから、それがこの招魂堂の改築につながっ
たのではないかと考えられる。このように、『津軽』におい
ては、風景を淡々と叙述しているようだが、一歩踏み込んで
考えて見れば、その叙述には、常になんらかの深いメッセー
ジが込められていることが分かる。
このように、さりげない会話の中で、示唆的なメッセージ
を込めた物事に触れながらも、それについての深入りした詳
し い 説 明 を 付 け 加 え な い と い う 書 き 方 は よ く 作 中 に 見 ら れ
る。そこにも「津軽の雪」と「春の花」でも述べてきたよう
に、意識的に「表」と「裏」を作るという『津軽』の創作特
色が見られる。実際「食糧不足」や「戦死」など、「聖戦下」
という時代では、あってもおかしくないような日常の言葉が、
『津軽』では、出てこないのである。しかしながら、風景描
写などを通して、それらの一端を匂わせるように、それらは
巧みに配置され表現されている。
上述したように、『津軽』では今回の旅行で見聞したもの
について「国防上」云々のように時代的な雰囲気を感じさせ
るように叙述した津軽の風景もあれば、「食糧不足」や「戦
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死」などのようにわざとその戦争中のマイナス面を直接見さ
せないように仕掛けて書いた淡々とした風景描写もある。こ
れらからみると、手帳に記さた次の言葉の意味が分かってく
る。
私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、
ひどく 主観的 なものなのである。(中略)とにかく、現
実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はある
の で あ つ て 、 現 実 は 決 し て 人 を 信 じ さ せ る 事 が 出 来 な
い。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返
して書いてゐた。(p.40)
つまり、「私」の眼中に現実がないために、語っているも
のは「現実」というものではなく、「私」が発見したものは
すべて「主観的」なものであるから、語るものも「主観的」
なものである。しかし、その「主観的」な描写は、選ばれた
ことによって「現実」をほのめかす機能も果たしている。そ
して、語られているものと語られていないものは表裏一体の
関係である。
本編の最終段落に「私は虚飾を行はなかつた。読者をだま
しはしなかつた」と書かれている。津軽の語り手の「私」は、
「虚飾」し「だまし」はしなかったかもしれないが、語ろう
とするものだけを拾い上げ、語っていくという傾向がある。
であるから、このような選択的な語り方を通して、以上のよ
うな言葉が成立できたのだと思われる。ここからは、「主観」
にそった知己のネットワークという目に重なる形で、客観に
即 し た い わ ば 叙 事 的 眼 差 し も こ の 作 品 に は 込 め ら れ て い る
のである。『津軽』の「故郷」は、こうした二重の眼差しが
焦点をもったところに像を結んで現れたものなのである。
もちろん、これは検閲制度が存在した言語統制下の時代背
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景と無縁ではない関係にあると考えられる。しかし、出版会
の事前審査に引っかからないように、「主観的」に津軽につ
い て の マ イ ナ ス の 叙 述 を 書 い て い な い よ う に 見 せ な が ら 書
きこみ、「聖戦下」の津軽の現在を描き出そうとする叙事的
な眼差しがそこには明らかに存在する。
5.まとめ
太宰治は『津軽』という作品を自分のライフストーリーと
絡むように見せかけ、『津軽』を「新風土記叢書」の「故郷」
の意味をずらし、一冊の小説を創り上げた。「主観」にそっ
た 知 己 の ネ ッ ト ワ ー ク と い う 目 に 重 な る 形 で 未 知 な る 土 地
を「故郷」として語り、友人とのかかわりによって新たに構
築された「故郷」空間―津軽が形成された。その新たに構築
された故郷空間は主観的に作られたものである。『津軽』は
「新風土記叢書」の一冊として出版されたが、それは「うま
し国たる日本」の一角という考え方とは違った次元のものよ
うに思われる。それは「新風土記叢書」の「故郷」のイメー
ジから「主観」にそってずらした津軽像である。
また、そのネットワークは、作中の「私」の自己確認の方
法には、ある津軽人にはある性格の特徴があって、「私」自
身 も そ れ と 似 た 性 格 を 持 つ こ と を 自 覚 し た こ と に よ っ て 、
「私」に津軽人であるという自己確認の図式を与えている。
同時に『津軽』には「主観」に重なるもう一つの眼差しも
存在する。「津軽の雪」と「春の花」を例に述べたように、
とりあつかった主題は「春」ではあるが、津軽では「雪」の
降る冬の一面も存在していることを暗示する。したがって、
語り手の語った方法によって、違った作品世界が形成される。
つまり、「だまし」とか「虚飾」とかはこの作品にはない。
あるのは物事を見る角度の違いだけである。『津軽』の基本
構造はそこにある。
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そして、この叙事的眼差しは『津軽』で積極的に時代の雰
囲気を使う部分もあれば、淡々とマイナス面の時代状況にふ
れ、そして大きな時代的なメッセージを込めているような部
分もある。この作品では常に「表」と「裏」のあるものを意
識的に作り、重層的な作品世界が描かれる。しかし、こうし
た二重の眼差しは、このような戦略を通して、はっきりした
立場を表わしていない。これは先行論文で言った、作者心情
の揺れの表現というより、極めて意識的に作った作品の特徴
と思われる。これは検閲制度のある言語統制下の時代におけ
る作家のぎりぎりでの挑戦ではないか。
このように、二重の眼差しという特別な構造を持ち、ずら
した「故郷」の概念から出発し、常に「表」と「裏」のある
世界を意識的に創出することによって、『津軽』という作品
はもはや 1944 年に出版された『日向』の巻末広告に書かれ
た紹介のように、時代状況に属しそこに一義的に帰属する作
品を超え、時を超えて読まれる作品に脱皮したのである。
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テキスト 『太宰治全集8』( 1998) 筑摩書房
ただし旧漢字をすべて当用漢字に直した。下線はすべて引用
者によるものである。
参考文献
大久保典夫( 1974)「『津軽』論ノオト」東郷克美・渡部芳紀
編『作品論太宰治』双文社
小野和道( 1996)「解説」『宮崎 21 世紀文庫 1 日向』鉱脈社
家庭総合研究會編( 1990)『昭和家庭史年表 1926-1989』河出
書房新社
紅野敏郎( 1979)「太宰治の本―「新風土記叢書」をめぐっ
て―」『国文学解釈と教材の研究』学灯社
佐藤泰正( 1973)「太宰治『津軽』故郷への回帰」『国文学 解
釈と教材研究』 18 巻 9 号学灯社
鶴谷憲三( 1992)「『津軽』―〈つたなさ〉の自覚―」初出『昭
和の長編小説』至文堂 1995 年 8 月 1 日『太宰治
論―充溢と欠如』有精堂所収
東郷克美( 1983)「『津軽』論―周縁的世界への帰還―」『一
冊の講座太宰治』有精堂
山口浩行( 2002)「旅人が見る故郷―風土記としての『津軽』
―」『日本近代文学』 67 巻日本近代文学会
20080909_99B01Rai-Un-Sou(Bunka)20080909_10020080909_98