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B C © 2008 f C [130]

齋藤竹堂 撰 鍼肓 訳註 - Ibarakilib.hum.ibaraki.ac.jp/kiyo/kiyo/humcom/humcom5/horiguchi.pdf齋藤竹堂 撰 鍼肓 B 訳注 C 四 なる 三 に 広狭八九丈 湾環有

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  • 齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�四�

    © 2008 茨城大学人文学部(人文学部紀要)

    �人文コミ�ニケ�シ�ン学科論集�五号�一�一三頁

    六�八月廿七日�承前�

    �語釈��承前�

    ○峻 

    けはしい�峻嶮�

    ○層起 

    重なつて盛り上がる�層状に積み重なつて隆起する�

    ○陽峯祠 

    陽峯は�男体峰�男体山��陽峯祠は�その頂上に鎮坐す

    る男体権現の社殿�現在は�筑波山神社の男体山本殿��筑波山名

    跡誌�に�男躰権現�として�此宮西の峯の絶頂に在り�伊弉諾尊

    鎮座し給ふ�宮居坤の方に向ひ  

    皇都 

    武城の鬼門を守まもり護給ふ�

    �○中略�此地西南北の眺望限りなし�下くだし窺みて髙鳥を指さし�俯ふして

    雷霆を聞きく�此峯に詣いたるものハ�仙境得通の人となり�雲に依よ�て遊ぶ

    かと訝いぶかる�とある�社殿に就ては��筑波山�男体山の条に�其

    社殿�桁けたゆき行六尺�梁はり間ま四尺八寸�向かう

    はい拜

    二尺二寸の小規模にて�亦毫

    も丹碧の目を驚かすべき粉飾なしと雖いへども

    �幾百歲の間�嚴として神靈

    を留め�風雪狂ひて之を搏うつも�端然として形を亂さず�强雨注ぎ

    て四圍を洗ふも�未だ容易に腐蝕せず�其その昔むかし�匠たくみ

    の苦心慘憺�一生

    の心血を傾注せるもの�今に至いたつ

    て始めて見るを得べし��とある�

    佐藤一齋�日光山行記���愛日楼文詩�巻第四所収�には��又進登二

    陽峰一

    �多二

    老樹一

    �可二

    攀援一

    �既極二

    最髙頂一

    �雲鳥皆在二

    眼下一

    �累レ

    石安二

    男體f現祠一

    ��とある�なほ�同記は�文政元年九月より十

    月にかけて�一齋が輪王寺法王に陪して江戸より日光に赴き�更に

    その帰途�下館�筑波山�霞�浦�鹿島�銚子�香取などを経て江

    戸に帰るまでを記した遊記であり�竹堂の行程と一部が重なる�一

    齋の筑波山登攀は九月廿四日で�西北方向の下館より椎尾を経て男

    体峰に登り�一旦�男女川の源泉まで下つてから�更に女体峰に登

    り�南麓に下つてゐる�男女川の源泉に就ては�稍南有二

    泉竅一

    �潺

    潺流注�即美那濃川發源處�淸冽可二

    掬飮一

    ��とある�

    ○絕頂 

    最上のいたゞき�山の最髙処�南朝�梁�沈約�早発二

    山一

    詩�に�傾壁忽斜竪�絶頂復孤円��とあり�北周�王襃�和二

    従弟祐山家一

    詩�に�山窓臨二

    絶頂一

    �檐溜俯二

    危松一

    ��とあり�唐�

    杜甫�望レ

    岳詩�に�会当下

    凌二

    絶頂一

    �一中

    覧衆山小上

    ��とある�前述

    ��筑波�の語釈�の如く�筑波山の最髙処は女体峰頂上であるが�

    �地名辞書�常陸�茨城�筑波郡�男体峰の条に�女体の西にし

    て�相去る十町許�標髙は女体より低下六米突といふ�而も西方一

    齋藤竹堂撰 �鍼肓錄�訳註C�四�

         

    堀  

    口    

    育  

    [130]

  • 堀口 

    育男

    [129]

    空�望見して最雄偉を覚ゆ�故に古来之を最頂と為し�男神に比せ

    り�峰頂に祠あり�即是なり��とある如く�かつては男体峰の方

    が絶頂と見られてゐたやうである�

    ○X木 

    むらがり生える樹木��毛詩�周南�葛覃に�黄鳥于飛�

    集二

    于X木一

    ��とあり��集伝�に�X木�叢木也��とある�中村

    惕齋�詩経示蒙句解�には�X木とは�むらがれる�小コ木ギを云�と

    ある��爾雅�釈木には�X木�叢木��とある�

    ○掩翳 

    おほひかくす�南宋�孟元老�東京夢華録�酒楼に�繡旆

    相招�掩二

    翳天日一

    ��とある�

    ○領 

    統べる�治める�支配下に置く�こゝでは�わがものとす

    る�程の意�視界に収める�といふこと�

    ○全勝 

    全てのすぐれた景色�

    ○陰峯 

    女体峰�女体山��頂上に女体権現の社殿�現在の筑波

    山神社の女体山本殿�

    がある��筑波山名跡誌�に�女躰権現�

    として��東の嶺の絶頂にあり�去い来ざC尊ミこと

    鎮座し給ふ�此社地

    常に湿しつ気きありて�自じ然ねんに陰徳を顕ハし�社し�ぼく木岩等に至るまで�

    皆ミな湿をん順じ�ん

    柔弱の模様なり��とある�その社殿に就ては��筑波

    山�女体山の条に�其の社殿の男体社に比して�大小堅脆�寸

    毫の差異なきを見るべし��とある�佐藤一齋�日光山行記�

    に�又登二

    陰峰一

    �亦累レ

    石安二

    女體f現祠一

    �眺\益豁�近則足

    尾�加波�皆可三

    俯撮二

    其髻一

    �遠則髙原�日光�秩父諸山�聯

    延綿亘�髙低起伏�而不二山獨巍巍然坐二

    於坤位一

    �太山�箱

    根�如下

    趨聽二

    使令一

    者上

    �當二

    不二之麓一

    �見三

    一泓如二

    盆池一

    �則浦

    賀内洋也�加納山�鋸山�亦如二

    培塿蟻垤一

    �而外洋一白曳練�

    摩二

    房總諸山頂一

    �東趨連二

    於注子水戸一

    �其間残山剰水�重抹

    輕掃�烟雲縹渺�丹碧點綴�可レ

    謂二

    關左八大州一幅活全圖一

    哉��とあり�以下の竹堂の記述は�これを意識してゐるものと思

    はれる�

    ○西望 

    西といふのは�明らかに誤りであり�方角としては�東南

    方向と言ふべきである�

    ○房總之海 

    房總は�安房�上総�下総�現在の千葉県と茨城県の一

    部��その海とは�房総半島�略N現在の千葉県�の外洋を言ふもの

    であらう�

    ○煙濤 

    もやのたちこめた水面�遠く�煙つたやうに見える水面�

    煙波�唐�李白�夢遊二

    天姥一

    吟留別�に�海客談二

    瀛洲一

    �煙濤微茫

    信難レ

    求��とあり�同�黄滔�送下

    人往二

    蘇州一

    覲中

    其兄上

    詩�に�闔

    閭城外越江頭�両地煙濤一葉舟��とある�

    ○縹渺 

    遠く微かなさま�また�遥かに広いさま�渺は�緲�眇に

    も作る�唐�李白�天門山詩�に�参差遠天際�縹緲晴霞外��と

    あり�同�白居易�長恨歌�に�忽聞海上有二

    仙山一

    �山在二

    虚無縹

    緲間一

    ��とある�

    ○粘空 

    空にねばりつく�粘は�ねばる�ねばりつく�黏に同じ�

    粘空の用例は未検であるが�粘天ならば�唐�韓愈�祭二

    河南張員

    外一

    文�に�洞庭漫汗�粘レ

    天無レ

    壁��とある�

    ○霞浦 

    霞�浦�

    ○灣環 

    水が円形に入江となつてゐる�唐�白居易�翫二

    止水一

    詩�

    �ママ�

    なミの

    �ママ�

  • 齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�四�

    に�広狭八九丈�湾環有二

    涯涘一

    ��とある�

    ○愈 

    いよ  

    �ます  

    ○Y木可數 

    生えてゐる草木を�一本々々�区別して数へることが

    出来さうな程�間近かにあり  

    と見える�といふこと�

    ○其北 

    素直に読めば�烽S山の北�の意に解せられるが�烽S山

    は筑波山の南方やゝ東寄りに位置するのに対し�以下に出る樺山�

    足尾山の二山は筑波山の北方やゝ東寄りであり�全く方向が異な

    る�

    ○相抗 

    互ひに張り合ふ�

    ○Z山 

    加波山�新治�真壁両郡の郡界�現在は�石岡�桜川両市の

    市界�にある山�標髙七百九米�

    ○足尾山 

    新治�真壁両郡の郡界�現在は�石岡�桜川両市の市界�

    にある山�北は加波山�南は筑波山に連なる�標髙六百二十七米

    五十糎��常陸国風土記�新治郡の条に�葦穂山�として見え��万

    葉集�第十四に�

      

    筑ツク波ハ禰ネ爾ニ 

    曾ソ我ガ比ヒ爾ニ美ミ由ユ流ル 

    安ア之シ保ホ夜ヤ麻マ

       

    安ア志シ可カ流ル登ト我ガ毛モ 

    左サ禰ネ見ミ延エ奈ナ久ク爾ニ

    と詠ぜられてゐる��五代集歌枕�や�八雲御抄�などにも�あし

    ほ�山��として見える歌枕�

    ○日光 

    日光山�下野国�栃木県�北西部�都賀郡�現在は日光市�

    にある山地�最髙峰は男体山�黒髪山�で�標髙二千四百八十四

    米�その東北に標髙二千四百八十三米の女峰山�女貌山�が聳え

    る�二荒山�筑波山からは�大よそ西北方向に当る�

    ○髙原 

    髙原山�下野国�栃木県�北部�塩谷郡�現在は矢板市と塩

    谷郡�にある山地�最髙峰は�標髙千七百九十五米の釈迦�岳であ

    るが�鶏頂山�標髙千七百六十六米��前黒山�標髙千六百七十八

    米�など�一帯の諸山を総称して言ふ�筑波山からは�大よそ北々

    西方向に当る�

    ○遙翠 

    遠くに見える�山などのみどり�唐�虞世南�琵琶賦�に

    �望二

    南山之遥翠一

    �見二

    西江之始緑一

    ����佩文韻府��とある�

    ○如髮 

    如髮�髪ノ如シ�といふ表現は��毛詩�小雅��都人士�に

    �彼君子女�綢直如レ

    髪��とあるが��集伝�は�これに就て�未レ

    詳二

    其義一

    ��とした上で�然以二

    四章五章一

    推レ

    之�亦言二

    其髪之美一

    耳��とする��漢書�匈奴伝には�匈奴乱十餘年�不レ

    絶如レ

    髪��

    とあり��晋書�礼志上には�元皇中興�事多二

    権道一

    �遺文旧典�

    不レ

    断如レ

    髪��とあつて�断絶しない喩とする�唐詩では�真直ぐ

    なさま�王翰�古蛾眉怨詩��儲光B�洛陽道五首献二

    呂四郎中一

    詩��其

    三��元稹�酬下

    楽天登二

    楽遊園一

    見上レ

    憶詩���散るさま�韋応物�椶櫚蠅拂

    歌���多いさま�韓愈�送二

    文暢師北遊一

    詩���痩せてゐるさま�孟郊�秋

    懐詩��其七���乱れてゐるさま�姚合�題二

    宣義池亭一

    詩��などの喩

    としても用ゐられてゐるが�こゝは��遙翠�とのつながりからし

    て�李白�経二

    乱離一

    後天恩流二

    夜郎一

    憶二

    旧遊一

    書レ

    懐贈二

    江夏韋太守良

    宰一

    詩�に�紗窓倚レ

    天開�水樹緑如レ

    髪��とあるのと同じく�山の

    みどりを色彩面で髪に喩へたものと解するのがよいであらう�

    ○歷歷 

    明らかなさま�はつきりとしたさま�くつきりと見える

    さま��古詩十九首��其七�に�玉衡指二

    孟冬一

    �衆星何歴歴��と

    [128]

  • 堀口 

    育男

    あり�唐�崔顥�黄鶴楼詩�に�晴川歴歴漢陽樹�春草萋萋鸚鵡

    洲��とある�

    ○露頂 

    冠などを著けず�頭をあらはにする��後漢書�西域伝�

    論に�露レ

    頂肘行�東向而朝二

    天子一

    ��とあり�唐�李頎�贈二

    張旭一

    詩�に�露レ

    頂拠二

    胡牀一

    �長叫三五声��とあり�同�李白�夏日

    山中詩�に�脱レ

    巾挂二

    石壁一

    �露レ

    頂洒二

    松風一

    ��とあり�同�杜甫

    �飲中八仙歌�に�張旭三杯草聖伝�脱レ

    帽露レ

    頂王公前��とある�

    こゝでは�如髮�髪ノ如シ��と言つたのを承けて�山の頂上附近を

    人間の頭部に喩へて言ふ�なほ�往昔�唐土では�露頂は寛いだ時

    に行ふものであり�改まつた場所でこれを行ふのは�礼を失するこ

    とゝせられてゐた��張旭の場合は�脱俗的性格を示すものである��但

    し�本作品のこの部分に関しては�そこまでの意を含めて読む必要

    はないであらう�

    ○[峯 

    富士山�山頂の八峰を蓮華の八葉に見立てゝ言ふ��東藻

    会彙地名箋�には�富士山の呼称として�冨士�冨山�冨嶽�冨

    岳�士峰�士嶺�不二�芙蓉峰�芙蓉山�芙蓉嶺�芙蓉�蓉嶽�蓮

    嶽�蓮峰を挙げ�蓮峰には�用例として�玉山飲管�ママ�

    夷長七律�を示

    す�これは�秋山玉山�飲二

    菅夷長懸壺亭一

    詩�に�芝海晴雲臨二

    檻一

    �蓮峰白雪落二

    鳴琴一

    ��とあるのを指す�

    ○聳其上 

    これを素直に解すると��日光髙原諸山�の上方に

    �[峯�が聳えてゐることになるが�実際には�勿論�そのやうな

    ことは有り得ない��而[峯�の前に�武州�相州方面の山などの

    描写があるべきであらう�

    ○爛然 

    あざやかなさま�明らかに麗しいさま��史記�三王世

    家�賛に�天子恭譲�羣臣守レ

    義�文辞爛然�甚可レ

    観也��とあ

    り��漢書�王莽伝に�功徳爛然��とある�

    ○插天 

    天空にさしはさむ�天高く浮んでゐる如くなのを言ふ�

    唐�李賀�巫山髙詩�に�碧叢叢�髙插レ

    天��とある�富士山に

    就て�この語を用ゐるものとして�柴野栗山�富士山詩�に�蟠レ

    地三州尽�插天八葉重��と言ふのが�人口に膾炙してをり�竹堂

    も�当然�これを意識してゐよう�

    ○壯\ 

    大きく立派な見もの�壮大な眺め�前漢�司馬相如�封禅

    文�に�皇皇哉�此天下之壮観�王者之卒業�不レ

    可レ

    貶也��とあ

    る�

    ○南下 

    大きく見れば�稻村祠�後出�までは�大よそ東南東の方

    向に下ることになる�その道沿いには�大仏石�屛風岩�北斗石�

    裏面大黒石�出船入船�国割石�陰陽石�宝剣石などゝ名づけられ

    たものを始め�多くの奇岩怪石がある�

    ○怪岩 

    奇怪な形をした岩石�唐�柳宗元�始得二

    西山一

    宴游記�に

    �入二

    深林一

    �窮二

    廻谿一

    �幽泉怪岩�無二

    遠不一レ到��とある�

    ○突石 

    突き出た形の石�

    ○倚疊 

    互ひに寄りかゝるやうにして積み重なる��宋志�河渠志

    七に�実二

    石於竹籠一

    �倚疊為レ

    岸�固以二

    樁木一

    �環亙可二

    七里一

    ��と

    ある�

    ○攢立 

    むらがり立つ�前漢�司馬相如�上林賦�に�攢立叢倚�

    連巻欐佹��とあり�後漢�張衡�南都賦�に�攢立叢騈�青冥D

    [127]

  • 齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�四�

    瞑��とある�

    ○屋 

    いへ�家屋�唐�陸亀蒙�峡客行�に�蛮渓雪壊蜀江傾�灎

    澦朝来大如レ

    屋��とあり�大きさを喩へるが�こゝでは�大きさ�

    形状を併せて喩へるものと思はれる�

    ○劍戟 

    つるぎとほこ�戟は�車上で用ゐる枝刄の出たほこ��国

    語�斉語に�美金以鑄二

    劍戟一

    �試二

    諸狗馬一

    ��とある�

    ○獅猊 

    この語�未検�獅は�獅子�猊は�麑�貎に同じ�狻猊

    は�獅子�獅猊も�獅子�又はその類と解すればよいであらう�

    ○困 

    苦しむ�疲れ苦しむ�

    ○喉閒生聲 

    のどのあたりから�声が出る�喉は�のど�咽喉�息

    を切らして�ぜい  

    �はあ  

    などゝ�喘ぎ声を出すのをいふ�

    ○奇哉石也 

    �石�奇ナル哉��といふのを倒置した表現で�強い感

    嘆を表す��論語�雍也に�賢哉回也��とあるのと同じ語法�

    ○初平 

    黄初平のこと�東晋�葛洪�神仙伝�巻二に�黄初平�

    として�黄初平者�丹渓人也�年十五�家使レ

    牧レ

    羊�有二

    道士一

    見二

    其良謹一

    �便将至二

    金華山石室中一

    �四十餘年不二

    復念一レ家�其兄初起

    行レ

    山尋二

    索初平一

    �歴レ

    年不レ

    得�後見三

    市中有二

    一道士一

    �初起召問レ

    之�曰�吾有レ

    弟名二

    初平一

    �因レ

    令レ

    牧レ

    羊失レ

    之四十餘年�莫レ

    知二

    死生

    所一レ在�願道君為占レ

    之�道士曰�金華山中有二

    一牧羊児一

    �姓黄字初

    平�是D弟非疑�初起聞レ

    之�即随二

    道士一

    去求レ

    弟�遂得二

    相見一

    �悲

    喜語畢�問二

    初平羊何在一

    �曰�近在二

    山東一

    耳�初起往視レ

    之不レ

    見�

    但見二

    白石一

    而還�謂二

    初平一

    曰�山東無レ

    羊也�初平曰�羊在耳�兄

    但自不レ

    見レ

    之�初平与二

    初起一

    倶往看レ

    之�初平乃叱曰�羊起�於レ

    是白石皆変為二

    羊数万頭一

    �初起曰�弟獨得二

    僊道一

    如レ

    此�吾可レ

    乎�初平曰�唯好レ

    道便可レ

    得レ

    之耳�初起便棄二

    妻子一

    �留住就二

    平一

    学�共服二

    松脂茯苓一

    �至二

    五百歳一

    �能坐在立亡�行二

    於日中一

    無レ

    影�而有二

    童子之色一

    �後乃俱還二

    郷里一

    �親族死終略尽�乃復還去�

    初平改レ

    字為二

    赤松子一

    �初起改レ

    字為二

    魯班一

    �其後服二

    此薬一

    得レ

    僊者数

    十人����漢魏叢書�本に拠る��とある�即ち�これに拠れば�黄

    初平は丹渓�谿�の人で�十五歳の時�家人に命ぜられて羊を牧し

    てゐたところ�その素質を見込んだ道士に連れられて金華山に至

    り�石室の中で道術を修め�四十年餘り�家のことを思はずに過ご

    した�兄の初起は�弟を搜してゐたが�ある時�市中の道士に占つ

    てもらつたところ�金華山で羊を牧してゐる子供が同姓同名なの

    で�それではないか�と言はれ�道士と共に金華山に行�て搜した

    ところ�果して弟に会ふことが出来た�初起が�羊は何処に居るの

    か�と尋ねたところ�初平は�近くの山の東に居る�と言ふので�

    行つてみたが�無数の白い石があるばかりであつた�初平のところ

    に戻つて�そのことを言ふと�初平は兄と共に行き�大声で�羊

    よ�起て��と命じたところ�白い石は皆立ち上がり�数万頭の羊

    になつた�兄は�弟が仙術を得たのを知り�以後�弟と共に仙術を

    学び�五百歳に至つた�後に�初平は赤松子�初起は魯班と�それ

      

    字を改めた�といふものである�この故事は�初平起石�とし

    て�蒙求�の標題にもなつてをり�よく知られてゐるものである�

    彌八は�これを踏まへ�浪漫的な想像力を働かせた軽口を言つたの

    である�

    [126]

  • 堀口 

    育男

    ○叱 

    大きな厳しい声で命令を出したり�しかつたりする��神仙

    伝�に�初平乃叱曰�羊起��とあつた�なほ�蒙求�徐子光註に

    引く�神仙伝�では�この部分は�初平言�叱叱羊起��となつて

    ゐる�叱叱は�畜類を働かせるときなどにかける声�南宋�陸游

    �岳池農家詩�に�春深農家耕未レ

    足�原頭叱叱両黄犢��とある�

    ○未也 

    こゝの未は�不を婉曲に言つたものと解すればよいであら

    う�未に就て�荻生徂徠�訓訳示蒙�には�処ニヨリ�只��不�

    ノ字ノ婉ナル気味アヒニ用フルナリ��とあり�釈顕常�文語解�

    には�不ト同意ナル所アリ�詩ニテハ殊ニオヽシ�不ヨリハ婉ナ

    リ�寛ナリ��とある�

    ○遊客 

    旅人�竹堂自身を指すと解してよい�

    ○疲困 

    疲れ苦しむ�疲労困憊��後漢書�龐萌伝に�萌等乃悉レ

    攻レ

    城二十餘日�衆疲困而不レ

    能レ

    下��とあり�晋書�蘇峻伝に�道

    遠行速�軍人疲困��とある�

    ○喘月之牛 

    �呉牛喘月�呉牛月ニ喘アヘグ��の成語に拠る��世説新

    語�言語に�満奮畏レ

    風�在ニ

    晋武帝坐一

    �北窓作二

    琉璃屛一

    �実密似レ

    疎�奮有二

    難色一

    �帝笑レ

    之�奮答曰�臣猶二

    呉牛見レ

    月而喘一

    ��とあ

    り�劉孝標の註に�今之水牛�唯生二

    江淮間一

    �故謂二

    之呉牛一

    也�

    南土多暑�而此牛畏レ

    熱�見レ

    月疑二

    是日一

    �所二

    以見レ

    月則喘一

    ��とあ

    る�即ち�呉は南方の酷暑の地なので�その地の水牛�呉牛�は炎

    熱を恐れること甚しく�その餘り�月を見ても太陽かと思つて喘い

    でしまふ�といふもの�一般には�畏懼することの甚しい喩や取越

    し苦労をする喩などゝして用ゐられる�こゝは�険しい山道に息を

    切らせてひどく喘ぐ餘り�暑さを恐れて月を見ても喘ぐといふ�彼

    の呉牛になつてしまひさうだ�といふ軽口で�彌八の�羊�に対

    し��牛�で応じたのである�羊も牛も�共に牧畜の対象となる動

    物であり��毛詩��王風��君子于役�に�日之夕矣�牛羊下来��

    とある如く�古くより並称せられてゐる�当意即妙の応酬と言ふべ

    きであらう�

    ○石門 

    石の門�岩石が門の形となつてゐるもの�筑波山で�石

    門�と言へば�通常�鬼神返し�辨慶七戻り�などゝ言はれてゐ

    る場所を指すが��筑波山名跡誌�石門の条��筑波山�辨慶七戾の条�

    �筑波誌�石門の条��下山の道筋では�それは稻村祠の後になる�経

    過の順序からしても�また��暗如穿洞�暗キコト洞ヲ穿ツガ如シ��

    といふ形状描写からしても�こゝで言ふのは��胎内潜�のことで

    あらう��筑波山名跡誌�に�胎たい

    ない内

    潜くゞり�

    として�方十間余あま

    りの石の下

    に�人の往来する道あり�伊弉C尊神じん力をもつて�人の胎内の出入

    を示し給ふと��とある��筑波山�には�体�ママ�内潜�として�崎嶇羊

    腸或は迷はんと欲するの嶝道を辿り�斷巖絕壁或は墜ちんとするの

    險�鐵鎻に縋りて僅に難を免れ�戰々として下り來れば�喬樹起伏

    して或は雲を凌ぎ�或は地を拂ふの處身を屈して通行すべきの岩窟

    拾間餘なるものあり�自然の奇工に驚くべし��とあり��筑波誌�

    には�胎たいない内潜くゞり�として�嶮峻なる磴道を步して�出舟入舟の東に

    下れば�十間餘りの岩窟の上に一枚石の天井あり�參詣の諸人皆

    匍匐逡巡して此を過く�ママ���とある�なほ�一般に言ふ�石門�は�

    �筑波山名跡誌�に�岩山ひらけて門のごとく�上へ

    に大石渡りて蓋かさ

    [125]

  • 齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�四�

    木の如し�仍て鳥居岩とも石門ともいふ�上へ

    にわたる石の大サ

    ハ�

    竪二十間ほど經わたリ

    八九間計ばかり

    �其石三方放はなれて�既に墜をつべきもよふ�ママ�な

    れバ�諸人此石を通り過るに�十に八九急がざるハなし 

    仍て俗に

    鬼神返し辨慶戻しなどゝいふ��と言ふ如き形状であり��暗如レ

    穿レ

    洞��といふのにはそぐはないと思はれる�

    ○穿洞 

    洞窟の中をくゞり抜ける�

    ○稻村祠 

    �筑波山名跡誌�に�稲いなむらのやしろ

    村社�として�天照太神の御宮

    なり�岩山の形いきほい勢稲を積たるが如し�仍て稲いなむら村の嶽だけと号す�或ハ伝

    へいふ神代神ミ田たの稲を積たる所也と��とあり��筑波誌�に�稻村

    神社�として�攝社にして祭神は不詳なり�O記に日神を祀りしな

    りと鷲わしが

    嶽たけにあり��とある�

    ○奇巖 

    �髙天原�のことを指すものと思はれる��筑波山�に�髙

    天原�として�稻村神社の傍�兀として聳ゆる巨巖二あり�髙さ十

    丈に及ぶ�其そのいたゞき巓平坦にして廣し�踞して雌峯を仰ぐも快絕�起たちて

    白雲を踏み�眼界限りなきの眺望を縱ほしいまゝ

    にするも亦また壯絕なり��とあ

    り��筑波誌�に同じく�髙たか天まが原はら�として�胎たいない内潜くゞり

    の東部に聳立す

    る奇巖にして�髙さ大おほよそ約十丈許ばかり�峯角を攀ぢ�始めて一の髙所に

    逹す之を髙天原といふは�諸神の集會せし天上の髙天原に擬したる

    ものなるべし�臨眺極の�ママ�て絕佳なり��とある�

    ○孤聳 

    孤立して聳え立つ�唐�韓愈�髙君仙硯銘序�に�獲二

    石一

    �似二

    馬蹄状一

    �外稜孤聳��とある�

    ○廈屋 

    大きな家屋�西晋�左思�魏都賦�に�廈屋一レ

    揆�華屛

    齊レ

    栄��とあり�唐�白居易�有レ

    木詩八首��其八�に�匠人愛二

    直一

    �裁截為二

    廈屋一

    ��とある�

    ○\ 

    眺望�

    ○數州之土壤 

    数箇国の土地�唐�柳宗元�始得二

    西山一

    宴游記�に

    �攀援而登�箕踞而遨�則凡数州之土壌�皆在二

    袵席之下一

    ��とあ

    る�袵席は�敷物�

    ○攅蹙 

    集まり縮まる�唐�柳宗元�始得二

    西山一

    宴游記�の右に引

    いた部分に続けて��其髙下之勢�岈然洼然�若レ

    垤若レ

    穴�尺寸千

    里�攅蹙累積�莫レ

    得二

    遯隠一

    ��とある�

    ○亦 

    峯頂には及ばないが�此処もまたそれなりに�の意�

    ○佳眺 

    よい眺め�

    ○石頭 

    石頭で単に石の意にもなるが�こゝは岩石の上部を言ふの

    であらう�

    ○劍背 

    刀の峰�刄の背部�を言ふものと思はれる�剣は両刄なの

    で�刀のやうな峰は無い�

    ○俯瞰 

    髙い処から見おろす�下瞰�唐�元稹�松鶴詩�に�俯

    瞰二

    九江水一

    �旁瞻二

    万里壑一

    ��とある�

    ○無底 

    底が無い�谷の深い喩�西晋�陸機��従軍行�に�深谷

    邈無レ

    底�崇山鬱嵯峨��とある�

    ○心骨 

    心と骨�精神と身体�唐�元稹�連昌宮詞�に�我聞二

    語一

    心骨悲�太平誰致乱者誰��とある�なほ�心骨は�一般的に

    は�単に�心�乃至�精神の意にも解せられるかも知れないが�

    こゝは�下に�俱�俱トモニ��と言つてゐるので�心と体との二つも

    のを言ふと解さなくてはならない�

    [124]

          �ママ�

  • 堀口 

    育男

    ○悚 

    おそれる�おそれてすくむ�悚懼�

    ○兩石對峙 

    二つの岩石が向ひ合つて髙くそばだつ�以下の記述は

    �跂はね禪ぜん定ぢ�う�のことを言ふのであらう��筑波山名跡誌�に�跂はね禪ゼん定ぢ�う�

    として�稲村の社地に髙サ

    八九丈の奇峰あり�其その嶮岨の岩いハかど角を攀よぢのぼ陟

    り�又一段髙き向むかふ

    の岩山へ飛とびうつ移る�此間五六尺深サ

    はかりがたし�

    目を閉とぢて無念に飛移る�移り得れバ矌�ママ�々たる岩山にて四よ方もの眺望か

    ぎりなし�土ど人じん是をはね禅ゼんぢ�う定と名づけ�貴賎老若ミな行信しんする事

    也�予も安永巳の春爰こゝにのぼる�別に子細もなけれども�惟たゝ世界を

    離はなれ

    たる心地して�何なにとなく楽しく帰る事を忘るゝ也��とある�

    ○閒絕不屬 

    石と石との間が断絶してをり�繫がつてゐる部分がな

    い�深い裂目になつてゐるのである�屬は�つく�接着する�連な

    る�続く�

    ○顧 

    かへりみる�あたりを見廻す�

    ○循 

    したがふ�沿つて行く�

    ○躍而踰之 

    跳躍して�石と石との間を飛び越える�躍は�とび跳

    ねる�跳躍�踰は�越える�

    ○一蹶 

    一たびつまづく�前漢�劉向�説苑�談叢に�一噎之故�

    絶レ

    穀不レ

    食�一蹶之故�卻レ

    足不レ

    行��とあり�東晋�葛洪�抱朴

    子�詰鮑に�豈可下

    以二

    一蹶之故一

    �而終身不上レ行��とあり�唐�李

    白�天馬歌�に�騰二

    崑崙一

    歴二

    西極一

    �四足無二

    一蹶一

    ��とある�こゝ

    は�少しでもつまづけば�の意�

    ○卽 

    直ちに�すぐさま�取りも直さず�

    ○]粉 

    粉微塵になる�粉骨砕身�即ち�身を粉にして働く�の意

    に用ゐられることも多いが�こゝは文字通りの意である��陳書�

    傅縡伝に�猶有下

    忘レ

    愛レ

    軀�冒二

    峻制一

    �蹈二

    湯炭一

    �甘二

    ]粉一

    �必行而

    不上レ

    顧也��とあり�唐�杜甫�青糸詩�に�殿前兵馬破レ

    汝時�十

    月即為二

    ]粉期一

    ��とある�

    ○善應寺僧 

    良哉�八月廿五日の条参照�

    ○嘗 

    かつて�二日前に聞いた話に就て言ふものとしては�聊かそ

    ぐはない語のやうに思はれる�

    ○千金之子 

    千金を蓄へる富豪の家の子�こゝは�千金之子�坐

    不レ

    垂レ

    堂���千金ノ子ハ坐スルニ堂ニ垂セズ��などの成語を踏まへた

    ものであらう�垂は端の意で�千金を蓄へるやうな富家の子は�墜

    落することを恐れて�一説に�屋根瓦が落ちるのを警戒して��座敷の

    端には坐らない�といふことから�枢要な地位に在つたり�大望

    を抱いたりして�わが身を重んずる者は�危険なことから未然に身

    を遠ざけるやうに心がけるべきである�との意��史記�袁盎伝に

    �臣聞�千金之子�坐不レ

    垂レ

    堂�百金之子�不レ

    騎レ

    衡��とあり�

    �三国志�呉書�薛綜伝に�諺曰�千金之子�坐不レ

    垂レ

    堂�況万乗

    之尊乎��とある�なほ��千金之子�に就ては��千金之子�不レ

    於市一

    ���千金之子ハ市ニ死セズ����史記�越世家���千金之子�不レ

    死二

    於盗賊一

    ���千金ノ子ハ盗賊ニ死セズ���宋�蘇軾�留侯論��などの

    語もあり�前者は�富家の子は罪を犯すやうなことをしないから�

    とも�金の力で刑罰を免れるから�とも解せられるが�後者は�続

    いて�何者�其身之可レ

    愛�而盗賊之不レ

    足二

    以死一

    也��とあり�身

    を重んじて自重するため�と明示してゐる�

    [123]

  • 齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�四�

    ○鐘 

    汐呼鐘のこと�聖天宮の社地にあつた��筑波山名跡誌�に

    �汐しほよびがね

    呼鐘�として�此この社地�聖天宮�に在リ

    �昔むかし

    龍宮より山上の六社

    へ献ずといふ�実まこと

    に此土どの鋳じゆざう造とハ見へ�ママ�がたし�囲めぐり

    に六軀の形ぎやうぞう像あ

    り�菩薩の如く天人の如し�伝へいふ是これ山上六社の本地六観音の形

    像なるべしと�往むかし古此鐘の響に応じ�鹿か島しま浦うらより海水激さか上のぼリ

    �多く

    人じんぶつ物を溺おぼら

    すことありて�爾そのゝち後禁じて撞つくくことを許さず�風ふ土ど記きに所

    謂汲くミあげ上の浦うらとハ�此ノ

    時海水ののぼれる所なりと�この鐘当山の名

    物となり�暁あかつき

    の鐘の響もつくば山とも�鐘ハつくばのねにたちてと

    もよめるなり��とある�佐藤一齋�日光山行記�には�山腹有二

    鐘一

    �不レ

    知何世鑄造�何人移置��とある�

    ○委地 

    地に棄てる�地面に置く��荘子�養生主に�動レ

    刀甚微�

    謋然已解�如二

    土委一レ地��とあり��後漢書�鍾離意伝に�意得二

    璣一

    �悉以委レ

    地而不レ

    拝レ

    賜��とある�

    ○質 

    鐘の材質�

    ○款 

    鐘鼎などに刻んである文字�陰字�凹字�を款と言ひ�陽字

    �凸字�を識と言ふ��史記�孝武紀に�鼎大異二

    於衆鼎一

    �文鏤毌二

    識一

    �怪レ

    之��とある�

    溢 

    水がわきあふれる�涌溢に同じ��後漢書�陳忠伝に�霜

    雨積レ

    時�河水涌溢�百姓騒動��とあり��呉志�呉主孫権伝に

    �江海涌溢�地深八尺��とある�

    ○排E 

    草むらや藪を押し分ける�排は�両手で開くやうに押し分

    ける�Eは�草むら�やぶ�こゝで�大御堂へ戻る一般の下山道か

    ら外れ�脇道を白瀧の方へ向つたものと思はれる�

    ○_ ̀

    この語�未検�_は�屛に同じ�おほひ�また�おほふ�

    `も�おほひ�また�おほふ�或は�帲`のことか�帲`は�とば

    り�おほひ�前漢�揚雄�法言�吾子に�震風凌雨�然後知三

    夏屋

    之為二

    帲`一

    也��とある�何れにせよ�こゝは�蔽ひ障つてゐる�

    の意であらう�

    ○水聲 

    水の音�以下の記述は�白瀧のことを言ふのであらう�白

    瀧に就ては��筑波山名跡誌�に�此瀧たきいハヤま

    岩山のそがひをつたへ�或

    ハ玉を飛すが如く或ハ糸を懸かくる

    が如く�岩のふし  

    に随ひ�落る�

    もよふ種さま  

    に変る�白きねり糸を散ちらし巌いハほ

    の上に掛かくるに似たれバ�

    土と人じん白瀧と名付る也又邂たま逅来り眺る人ハ此風景に帰るを忘る�仍よつて

    日ひ暮ぐらし

    の瀧ともいふ��とある�なほ��筑波山�に�白瀧�として�

    �筑波誌�に�白しらたき瀧神社�として�記述がある�

    ○鏘然 

    金石の音や玉の鳴る音の形容�こゝでは�水の音が美しく

    聞えるのを言ふ�唐�柳宗元�游黄渓記�に�樹益壮�石益痩�水

    鳴皆鏘然��とある�

    ○森竪 

    多数のものが立つ�林立�森豎に同じ�明�姚士粦�見只

    編�巻上に�夾レ

    陛皆題詠�石碣森竪千百�第不レ

    知下

    誰為中

    第一手上

    耳����漢語��とある�

    ○流泉 

    流れる泉�瀧�瀑布�も�瀑泉�飛泉などゝいふ如く�泉

    の類とせられる�

    ○瀉 

    そゝぐ�水が流れ注ぐ�唐�杜甫�玉華宮詩�に�陰房鬼火

    青�壊道哀湍瀉��とある�

    ○晶然 

    きら  

    と輝くさま�明るく光るさま�唐�欧陽詹�賦二

    [122]

  • 堀口 

    育男

    一〇

    得秋河耿耿一

    送二

    郭秀才応一レ挙詩�に�蕩蕩漫漫皆晶然�実類三

    平蕪

    流二

    大川一

    ��とある�

    ○水精簾 

    水精は�水晶�無色透明の石英�水精簾は�水晶で作つ

    たすだれ�水晶簾�唐�宋之問�明河篇�に�雲母帳前初泛濫�水

    精簾外転逶迤��とある�

    ○掬飮 

    両手ですくひ飲む�元�王惲�詩�に�掬飲清二

    臆塵一

    �坐

    睨巨石怪����佩文韻府��とある�佐藤一齋�日光山行記�では�

    男女川の源泉に就て�清冽可二

    掬飲一

    ��と言つてゐた�

    ○神魂 

    たましひ�霊魂�唐�韓愈�岳陽楼別二

    竇司直一

    詩�に�滌

    濯神魂醒�幽懐舒以暢��とある�

    ○頓 

    とみに�にはかに�急に�

    ○爽 

    さはやか�すが  

    しい�爽快�

    ○世傳 

    筑波山を�わが国開闢の二神と結びつけて説くものとして

    は�例えば�簠簋内伝金烏玉兔集�巻第三�神上吉日に�壬申�

    二柱神自二

    髙天原一

    天逆鉾差下�自日本

    凝嶋造得築�ママ�波山落下�顯二

    男體女

    體一

    �現二

    鹿嶋香取大明神一

    日也����続群書類従�本に拠る��といふも

    のなどがあり��筑波山名跡誌�男躰権現の条にも�これを引いて

    ゐる�なほ��開闢�との関はりで言へば�前述��筑波驛�の語釈�

    の如く�筑波の町の入口に立つ一の鳥居には�天地開闢筑波神社�

    と書した額が掲げられてゐた他��天地開闢筑波山�と題した木版

    刷の筑波山図が流布してゐた��東京都立中央図書館加賀文庫�茨城県

    立図書館等に蔵せられる��

    ○開闢之始 

    天地のひらけたはじめ�この世の始まりの時�天地開

    闢の時��日本書紀�神代上に�開闢之初�洲壌浮漂�譬猶三

    游魚之

    浮二

    水上一

    也��とある�

    ○b册二神 

    伊イ弉ザ諾ナキノ

    尊ミコト

    と伊イ弉ザ冉ナミノ

    尊ミコト

    との二柱の神��日本書紀�の用

    字に拠るもの��古事記�では�伊邪那岐神�伊邪那美神と表記す

    る�なほ�册は�冉の誤である�

    ○降臨 

    天より下り臨む�天アマクダ降る�

    ○此地 

    筑波山を指す�

    ○今祠 

    現在の社殿�

    ○廟 

    みたまや�霊廟�祖先などのたましひを祀る建物�

    ○延喜式 

    �弘仁式���貞観式�の後を承けて編修せられた�律令

    の施行細則�五十巻�延喜五年�藤原時平�紀長谷雄�三善清行

    等が勅を奉じて編纂を開始�時平A後�弟忠平が業を継ぎ�延長

    五年�完成�奏上�康保四年施行�本書の内�巻九�十の�神名

    式�は�毎年�祈年祭の幣帛にあづかる宮中�京中�五畿七道の神

    社三千百三十二座を国別に登載したもので��神名帳�とも称せら

    れ�巻八の�祝詞式�と共に�神道界で殊に尊重せられた�

    ○但稱陽神陰神 

    陽神は男神�陰神は女神��延喜式�では�巻

    三�臨時祭��名神祭二百八十五座�の内に�筑波山神社一座�と

    あり�巻九�神名上��常陸国廿八座�の内に�筑波郡二座�大一

    座�小一座��として�筑波山神社二座�一名神大�一小��とある

    が�何れも�祭神の男女の別に就ては記載してゐない��六国史�

    では�続日本後紀�承和九年十月壬戌の条に�奉授�○中略�常陸

    國无位筑波女大神並從五位下��とあり��三代実録�貞観十二年八

    [121]

  • 齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�四�

    一一

    月廿三日の条に�授�○中略�常陸國從四位上筑波男神正四位下�

    從四位下筑波女神從四位上��とあり�同�同十三年二月廿六日の

    条に�授二

    常陸國正四位下筑波男神從三位一

    ��とあり�同�同十六

    年十一月廿六日の条に�授二

    常陸國從四位下筑波女神從四位上一

    ��

    とあつて�筑波山の神が�男神と女神の二柱なることを明らかに示

    してゐる��なほ�文徳実録�天安二年五月壬戌の条に�常陸國筑波山神

    二柱授二

    四位一

    ��とある��或いは�これと混同したものか�

    ○不詳爲何神 

    具体的な神名を記してゐない�といふこと�

    ○考其名 

    �延喜式���六国史��に見える�筑波男神��筑波女

    �大�神�といふ呼称から考へると�の意であらう�或いは�筑波

    山に祀る神の名に就て考へるに�の意とも解せられる�

    ○特 

    たゞ�限定の辞�

    ○二山之靈 

    男体峰と女体峰との�二つの山の神�靈は�山にやど

    る神霊を言ふ�山の神�

    ○附託 

    こゝでは�附会の意�こじつけ�

    ○辨 

    わける�わかつ�区別する�辨別�或いは�こゝは�辯の意

    に通用せしめてゐると解すべきか�辯は�明らかにする�説く�筋

    道を立てゝ説き明かす�辯説�辯論�

    ○有理 

    筋道が通つてゐる�尉信の推論に対し�竹堂が�合理的で

    あるとして�賛意を表してゐるのである�

    ○山中生c 

    cは�めどはぎ�めどぎ�まめ科はぎ属の多年草で�

    一根から数十の茎を出す�夏�黄白色の蝶形の小花をつける�茎

    は�籬や箒を製するのに用ゐられるが�古くは占ひに用ゐた��後

    には�cに代へて多く竹を用ゐるやうになり�筮竹と言はれる��筑波山

    の山麓部の亀�岳�亀�岡�亀之丘とも�は�丹波の亀山と共に�

    蓍の名産地であ�たといふ��筑波山名跡誌�に�亀かめ之が岳をか�として

    �夫ぶ女ぢよが原の東の方にあり�山の形かたち

    亀の甲に肖にたるゆへに�亀が岳をか

    と名づく�此岳蓍めどぎ

    の名産にて�一株ちう百莖きやう

    の下にハ�必ず亀ありて負おふ

    と�依よつて亀が岳と号すと�一株百莖ハ稀にして得がたし�丹波の亀

    山と此山とハ日本蓍の名めいぶつ産にて�易家者流の信用するもの也�土人

    毎年七月七日の夜是を採り夫女石の上に晒さらしもちゆる也�とある�

    なほ��筑波山�龜之丘の条��筑波誌�裳も萩はぎ津つの条に記述がある�

    ○丹之龜山 

    丹波国の亀山�現在の京都府亀岡市�

    ○諦視 

    よく見る�注意深く見る�唐�韓愈�落歯詩�に�人言歯

    之豁�左右驚諦視��とある�

    ○未必然也 

    必ずしも全てが一根百茎になつてゐるのではない�と

    いふこと�但し��筑波山名跡誌�の記述も�亀�岳の蓍が全て一

    根百茎であるとは言つてゐない�

    ○倒捻子 

    都念子�衝ツク羽バ根ネ�植物名�の漢名として用ゐたものであ

    るが�正しくこれに当るかは�疑問とせられる��本草綱目�果部

    第三十一巻�都念子�の釈名に�倒捻子�とあり�小野蘭山�本草

    綱目啓蒙�巻之二十七�都念子�に�古ヘヨリ�ツクバネニ充ル説

    アレドモ穏ナラズ�ツクバネハ一名コギノコ�タカラマン�天台

    山�コギノキ�ハゴノキ�仙臺�諸州髙山ニ多シ�葉ハ水イ蠟ボ樹タノ葉ニ

    似テ�末尖リ両対ス�夏月枝梢ニ花ヲ開ク�四瓣大サ三分許�淡緑

    色�後�実ヲ結ブ�黄シロ

    マメ豆

    ノ大サノ如シ�上ニ四ツノ細長葉ツキテ�

    [120]

                   

    かぶ 

    ほん

  • 堀口 

    育男

    一二

    正月女児玩ブ所ノハゴノ形ノ如シ�故ニツクバネト名ク�塩蔵シ貯

    テ食用トス�味榧カヤ実ノ如シ�常州筑波山ノ名産ナリ�北国ニハ肥長

    ニシテ榧実ノ如キ者アリ�漢名詳ナラズ��とある��筑波山名跡

    誌�には�古こ岐ぎ乃の子こ�として�図を載せ�斯かくの如く実の三角ハ天地

    人に象かたど

    り�葉の四ツなるハ�四季を顕あらハ

    す�形かたち

    餘木とかハリ�実より

    葉を出いだす也�或ハ羽は子ごの実�児こ喜ぎ之子�胡こ気ぎのこ子�波は期ごの実�書かきやうさま

    様種

      

    あり�正しやうじ字詳ならず��とある�

    ○瓣i四折 

    やゝ解しにくいが�衝羽根の果実に追羽根の羽子に似

    た四片の苞がつくことを言ふものであらう�

    ○與日光山所產自別 

    筑波山の倒捻子�衝羽根�は�日光山に生ず

    るものとは相違がある�といふことであるが�日光山の倒捻子�衝

    羽根�に就ては�未詳�

    �試訳�

     

    廿七日�裕�祐�卿は�息子の弥八を筑波山の道案内としてつけ

    てくれた�裕�祐�卿の屋敷の直ぐ後ろに一つの山が聳え立ち�な

    か  

    秀でた姿である�山の名を烽S山といふ�恐らく�小田氏が

    烽火台を置いてゐた場所であらう�今�宝筺�篋�山と言つてゐる

    のは�烽Sが転訛したものである�北条村には城跡がある�北条時

    家が根拠地として居た場所である�神郡村�碓井�臼井�村を通り

    過ぎた�路は次第に険しくなつて来た�筑波の町は�筑波山の中

    腹に在る�大御堂は大変大きく立派で美麗である�少し登つて行く

    と�髙い樹木が天をさへぎり�まるで緑色の垂幕の中を行くかのや

    うである�水が石の間から滴り落ちてゐるところがあつた�碑を建

    てゝ�男女川�と示してゐる��廻国雑記�に拠れば�男女川は筑

    波山の山麓をめぐつて流れてゐるといふ�しかし�これはさうでは

    ない�路はます  

    峻嶮になつた�大きな石が重なり合つて聳え立

    つてゐる�男体権現の社殿があつた�こゝが頂上である�しかし�

    樹木がむらがり生えてゐて�下界の全てを見渡すことが出来ない�

    女体峰に登つた�西方に房総の海を望み見ると�大海原には靄が遥

    かに広く立ちこめ�それが空に粘りついてゐるやうに見える�それ

    より近いところに視線を向けると�霞�浦の湖岸線が円を描き�鏡

    のやうである�更に近くを見ると�烽S山が�生えてゐる草木の数

    が数へられさうな程�間近かに見える�その北方に�二つの山が互

    ひに張り合つてゐるやうに見える�樺�加波�山と足尾山である�

    ずつと遠くに視線を移すと�日光や髙原の山々の遥かな翠

    みどり

    が髪のや

    うで�かぶりものを脱いだ人のやうに�くつきりと山頂部を見せて

    ゐる�そして�富士山がその上に聳え�輝きを放ちながら天空に浮

    んでゐる�まことに壮大な素晴らしい眺めである�南の方へと山を

    下る�奇怪な形の岩や突き出た石などが�寄りかゝるやうに重なつ

    たり�むらがり立つたりして�その様子は�或ものは家のやうであ

    り�或ものは壁のやうであり�或ものは剣や戟ほこのやうであり�或も

    のは獅子のやうである�私は石を攀ぢ登り�大変に疲れた�息が切

    れて�咽のどのあたりから�はあ  

    ぜい  

    と喘ぎ声が出た�弥八

    は��不思議な形をした石だなあ�初平がこれに命令の声をかけた

    なら�一体�何頭の羊になるだらうか��と言つた�私はそれに対

    [119]

  • 齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�四�

    一三

    して�まさか石が羊になることもあるまい�それよりも�登山者

    �私�が疲労困憊して息を切らし�月に喘ぐ牛になるばかりだよ��

    とまぜ返した�このやりとりで�一笑ひした�門の形をしてゐる石

    を通り過ぎた�暗くて�洞穴の中をくゞり抜けるかのやうであつ

    た�稲村神社に着いた�不思議な形の巌石が孤立して十丈程の髙さ

    に聳えてをり�まるで大きな建物のやうである�そこで�これに登

    つた�その上部は�十数人が入れる程の広さである�そこからの眺

    望は�山頂からのものには及ばないが�数�国の土地が足の下に縮

    まり集まつたかのやうに感ぜられた�こゝも�また�それなりによ

    い眺めである�そこから下ると�石の上部がそばだつて狭くなつて

    ゐる�まるで刀の峰を渡つて行くかのやうである�俯いて下を窺く

    と�底が見えない程の深い谷である�体が震へ�心の底からぞつと

    した�ある場所では�二つの岩石が向ひ合つてそばだち�その間が

    途切れて続いてゐなかつた�あたりを見回しても�そこ以外には�

    行ける道がない�跳びはねて�その石と石との間を飛び越えた�一

    寸でもつまづいたなら�忽ち粉微塵になつてしまふことであらう�

    善応寺の僧�良哉�は�以前��千金の蓄へのあるやうな富家の子

    �身を大切にする者�は�この巌に登つてはいけない��と言つてゐた

    が�全くその通りである�梵鐘が地面に置き放しにしてあつた�鐘

    の材質は大変古いものであるが�文字が刻まれてをらず�何千年前

    の物か分らない�言ひ伝へによれば�この鐘を撞くと海の水が涌き

    溢れるので�放置して撞かないのだ�とのことである�路を左に折

    れ�草むら�藪�を押し分けて下る�杉の老木が蔽ひさへぎつてゐ

    る彼方から�さら  

    といふ美しい水の音が聞えて来た�着いてみ

    ると�渓谷の石が林立し�瀧の水がそこに流れ注いでゐるのであつ

    た�きら  

    ときらめいて�まるで水晶の簾のやうであつた�日が

    暮れて�小田に帰つた�裕�祐�卿が言ふには��世間では�天地

    開闢の時�伊イ弉ザ諾ナキノ

    尊ミコト

    と伊イ弉ザ冉ナミノ

    尊ミコト

    との二神が�この筑波山に天降り

    なされた�と言ひ�今有る神社は�その二神を祀るみたまやであ

    る�と言ひ伝へてゐる�しかし�延喜式�には�筑波山の神に就

    て�たゞ�男神��女神�と言ふだけで�神の御名を記してゐない�

    その�男神��女神�といふ呼び名から考へるに�たゞ男体峰と女

    体峰との二つの山の神霊をさう呼んだゞけのことであらう�伊弉諾

    尊�伊弉冉尊の二神だといふのは�後世の人間が附会したのに相違

    ない��と言ふ�その説くところは�大変筋が通つてゐる�山の中

    には蓍が生えてゐる�世間では�一つの根に百本の茎があるのは�

    この筑波山と丹波の亀山にしか生えてゐない�と言つてゐるが�実

    際によく観察してみると�必ずしも全てがさうなつてゐるのではな

    い�また�筑波山には�倒捻子�衝ツク羽バ根ネ�が生えてゐる�実には苞

    が四片ついてをり�日光山に生えてゐるものとは相違してゐる�

    [118]