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2006 1 26 日提出 気象に関する論文 橋本紀子ゼミ 経02-69 井上裕一

気象に関する論文 - Kansai U · 測して伝えることである。ここで僕は気象学における『気象予報』に着目して卒論を書き 進めたい。 数値予報とは、大気の状態を数値モデル化し、スーパーコンピュータで演算を行い、こ

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2006 年 1 月 26 日提出

気象に関する論文

橋本紀子ゼミ 経02-69

井上裕一

目次

第1章 はじめに 第2章 気象学の歴史 第 3 章 統計学と気象学の関係 第 4 章 統計学と気象学の現況 第5章 統計学と気象学の関係に関する実例 第6章 終わりに 参考文献:http://www-aos.eps.s.u-tokyo.ac.jp/JointSeminarAbst/20041209.html http://ja.wikipedia.org/wiki/

http://homepage1.nifty.com/shincoo/m134kagaku4.html http://www.shinko-keirin.co.jp/kori/science/ayumi/ayumi24.html http://www.data.kishou.go.jp/ http://www.stat.go.jp/ http://www.tokiomarine-nichido.co.jp/j0412/html/weather.html/ 気象学百年史 高橋浩一郎 内田英治 著 東京堂出版 新田尚 数値予報―その理論と実際- 増田善信著 東京堂出版 コア・テキスト統計学 大屋幸輔著 新世社出版 初歩からの計量経済学 白砂堤津耶著 日本評論者出版 確率統計序論 氏家勝巳・道家映幸・土井誠・鳥越規央著 東海大学出版会

第1章 はじめに

天気予報は、過去の天気や各地の現在の状況、天気、気圧、風向、気温、湿度など、大

気の状態に関する情報を集め、これをもとに特定の地域や広範囲な地域に対し、1日から

数ヶ月に及ぶ天気、風、気温などの大気の状態と、それに関係する水域や地面の状態を予

測して伝えることである。ここで僕は気象学における『気象予報』に着目して卒論を書き

進めたい。 数値予報とは、大気の状態を数値モデル化し、スーパーコンピュータで演算を行い、こ

れに予報者の経験を加えたものである。スーパーコンピュータによる数値予報は今日や明

日の天気予報を作るほかに、計算する時間をどんどん進め、1週間先までの天気や 近で

は1ヶ月予報も数値予報によって作られている。また、数値予報は逆に数時間という短い

予報期間についても行われている。その際、 も活用されているのが「降水短期予報」で

ある。これは、レーダーアメダス解析雨量をもとにして、数値予報の予想結果を組み合わ

せて降水域、雨の強さを予報している。 そういった現代の天気予報の始まりは17世紀初頭、E.トリチェリーが気圧計を発明し

たことに始まったといわれている。いろいろな地点での気圧観測から、気圧が急激に低下

すると暴風雨になることがわかり、天気の変化を科学的に予測できると考えた。世界中で

気圧の観測が始まり、集められた気圧データを地図に記入してみると、大気の様子が見え

てくることがわかり、天気図が作られるようになった。 現在ではテレビ、ラジオ、新聞、インターネットなど様々な媒体を通して、天気予報を

地球上どこでも、だれでも天気のことを知れるようになった。今日の天気のみならず、明

日、明後日強いては先ほど述べたように1ヵ月後の天気まで予測できるようになったので

ある。 この卒論では気象予報の歴史、仕組み、手法、現況などを研究したいと考えている。

第2章 気象学の歴史

2-1 気象学の原点

人類は誕生以来大気の中に住んでいる。ゆえに気象の変化が生活に大きな影響を与える

ので、気象に関心があったに違いない。そして、空模様を見て、天気の変わりを予想し、

日々の行動にも参考にしていただろう。しかし、初めは文字もなく、経験で得た知識も、

後には残らず消えていった。今から約 1 万年前、人類は家畜を行うようになり、また農耕

をするようになった。これにより生活が楽になり、文化が芽生え、文字を発明するように

なった。このため、経験で得た知識を文字にして後の時代に残せるようになり、知識の蓄

積が行われるようになった。それが気象学の芽生えとなっていった。 人類が農業を覚え、計画的に生活をするようになると、季節の移り変わりを知るように

なる。紀元前 3000 年頃、ナイル河流域にエジプト文明が生まれた。ナイル河は上流の降水

量の季節変化により、水位が規則正しく 365 日の周期で変化する。このことから、1年が

365 日であることをはっきりと知り、暦が生まれ、生活のひとつの基準となっていった。こ

れは気象というよりも天文学に近いが、気象学の第一歩である。 気象学(Meteorology)はギリシャ時代、アリストテレスに始まる。紀元前4世紀頃、古

代ギリシャの哲学者アリストテレスは「上空にあるものについての研究」を行った。その

多くは気候誌的な記載がおこなわれている。アリストテレスによれば、流星(meteor)、隕

石(meteorite)、彗星、さらには天の川までもが研究対象であった。アリストテレスの宇宙

論によれば宇宙は天上界と地上界(月下界)にわかれていた。その境は月であり、その月

より下の現象を気象論として扱って糧おり、天の川も彗星も月下界のものとして捉えてい

たのである。英語の Meteorology は、アリストテレスの本の題名に由来している。アリス

トテレスは風や雨を異なる実態から成るもの(四元素説)と考えており、地上には2つの

種類の蒸発物があって、1つは湿ったもの(水蒸気)、もう1つは乾いたもの(煙など)で

あるとし、それらが太陽の熱と地中の熱などによって運動するものであると論じた。アリ

ストテレスによれば、風は土から出た乾いた蒸発物が、ある大きさの塊となって大地の周

りを動くものとした。この他、アリストテレスは北風、南風が吹く理由、あるいは風の日

周変化などの理由も論じている。例えばエテシアと呼ばれる7月の終わりから吹く強い北

風が夏至や冬至、あるいは夜間に吹かない理由を以下のように説明している。 “このことの原因は、太陽が近くにあると蒸発物の生じるよりも先に(大地)を乾かすこと

にある。しかし、太陽がほんの少しでも退いていけば、蒸発と熱との釣り合いが回復さ

れるので、凍った水は溶かされ、また自分の熱と太陽の熱とによって乾き切った土はい

わば煙と香気を放つことになる。またこの風が夜に吹かないのは、夜の冷のために氷が

溶けるのが抑えられるからである”(『アリストテレス全集』第 5 巻、第 21 章「気象学」

岩波書店) 紀元前 300 年頃には、彼の弟子テオフラストス(Theophrastus)は、天気の前兆に関する

本を書いている。この中には、雨の前兆に関するものが 80、風に関するものが 45、暴風に

関するものが 50、晴れに関するものが 24、季節の前兆に関するものが7あり、今日知られ

ている天気の諺の大部分が含まれている。例えば、「朝焼けは雨」、「北東風は雲を集める」、

「霧が出ると雨は降らない」、「羊の毛のような雲が出ると雨」、「ランプの焔が揺れると風

または雨」、「大雪は豊年の兆し」などがある。 中国においても古くから気象に関心がむけられていたようである。中国にも天気の諺な

どを書いたものがある。たとえば、紀元前 90 年頃編集された「史書」の中には天官書があ

る。この中には望気について触れたものがある。また、天体の運行と気象との関係を述べ

たものもある。これには天文関係も含まれており、それは実測を基にして述べたものでお

おむね正確であるが、気象との関連は観念的であり、科学ではない。例えば銀河に星が多

ければ水害があり、少ないと干ばつになるなどがその例である。このような例はあるが、

すでに当時気象や気候について、かなりの知識を持っていたことは確かである。その頃の

孫子の兵法書にも天気のことが載せられているし、西暦 208 年の赤壁の戦の折、魏の曹操

は、孫権、劉備の連合軍に火攻めで敗れるが、彼は季節が冬なので、北東風が卓越し、火

攻めの危険はないと思っていたという話がある。戦いには気象条件が大きく影響する。ま

た、紀元前2世紀頃、中国の韓嬰は、肉眼で雪が六弁(六方結晶形)であることを指摘し

ている。 古代中国では自然現象が陰陽説に基づき説明されており、例えば、雷は陰と陽がお互い

に自らをぶつけ合うために生じるものであると考えられていた。風や雨については、“風は

天の気であり、雨は地の気である。風は季節に従って吹き、雨は風に応じて降る。天の気

は下降し、地の気は上昇する”(計倪子、B.C.4 世紀ごろ)との記述がある。太陰暦は太陽

の運行とは必ずしも一致せず、自然界の季節の変化との間には食い違いがあり、農業の計

画などには不便であった。そこで、太陽の運行によって一年を 24 の節気にわけ、さらにそ

れを3分して 72 候とし、その各々の候に対応する自然界の現象を示した 24 節気 72 候が生

まれた。今日の生物季節である。 これは、8世紀の奈良朝の頃の日本に伝来し、初めのうちはそのままで使われていたが、

対応する自然現象は必ずしも日本では対応しなかった。そこで江戸時代になると、日本の

風土に合うように改良され、明治の初期の頃まで、一年の生活設計の基準として広く使わ

れた。 一方、紀元前 100 年頃には季節風の現象が発見され、航海に利用されている。この頃、

中近東とインドは文明の発達した地域であり、交通路が開かれていた。海上航海は、初め

のうちは沿岸航路であったので、何十日というような長い日数が必要だったが、エジプト

の船乗りヒッパロス(Hipparos)は、季節風の現象に気付き、それを利用して外洋航海を

始め、所要日数を大幅短縮した。そのため季節風のうち夏の南西季節風のことを当時、ヒ

ッパロスと呼んだと言われる。 物理学や化学の法則の発見は、大気現象に対する興味がきっかけになっていることが少

なくない。人々は古くから天気予報を試みてきた。経験的な天気予報の知識は、天気俚諺

や天気暦としてまとめられ、後世に受け継がれてきた。天気俚諺とは「夕焼けは晴れ、朝

焼けは雨」というような天気についての経験的な言い習わしのことである。しかし、科学

的な天気予報の研究が始まったのは、19 世紀に熱力学や流体力学の基礎理論が確立したあ

とのことである。 2-2 大気科学の時代 第二次世界大戦以降、現在に至る気象学の歴史は学問的発展にすばらしい時代である。

それは気象学から大気科学へと成長をとげた。その背景には、電子工学を中心とする技術

革新とコンピュータの発明、進歩による世界的な工業化の促進と生活環境の変化がある。

しかも、そこに見られる大きな特徴は、観測、解析、実験、研究が相互に関連しあい、有

機的な結合をなしてきていることで、さらにそれが進展して国際協力による共同事業を生

み出している。その結果、一部の分野では巨大科学の様相を呈するようになった。 図1 大気科学の成立(参考文献「気象学百年史」著者・高橋浩一郎

内田英治 新田尚 東京堂出版)

気象業務と

応用技術の

開発と発展

観測

社会の工業化と高

度情報化

生活様式の近代化

解析 理論 実験

測定技術

の進歩

現象論・

診断技術

の発展

数値シミュ

レーション

の活用

野外実験

室内実験

数値実験

の進展 隣接学問分野との学際的交流

全球的規模での科学・技術の

展開

気象学の内容が豊富になり充実してくると、気象業務の技術面が改善、強化され、さら

に新しい応用気象技術が開発され発展する。特に数値予報の開発と発展による予報天気図

の質的向上や気象衛星などによる広範囲な気象監視体制の整備は特記に値する。それに伴

い、気象業務と社会活動、経済活動のかかわりが深まっている。また、異常気象、気候変

動が世界的な規模で関心を呼び始め、政治問題にもなっている。 一方、各種学問分野の進展とあいまって、気象学と隣接分野との間の学際的交流が進み、

専門分野の枠組みにとらわれない傾向が次第に強まっている。それは、地球物理学の中で

の気象学の位置づけについて再検討を求める結果となり、大気科学として再構築されるに

いたっている。すなわち図で表したような、伝統的な気象学の各領域が拡大するとともに、

大気科学や超高層大気物理学が加わって、大気科学の成立にいたる。そして学問的な一般

化、総合化、全球的規模への拡大化の波は、世界的に見たとき、まず先進国に始まり、そ

こで勢いよく進展した大気科学の地理的裾野を順次拡大する働きをすることとなり、やが

て技術移転などを経て開発途上国にも気象学、大気科学、ひいては気象事業を定着させる

ようになってきている。 2-3 物理的気象解析 気象の観測成果の情報処理は、基本的に限定された数の気象観測データを処理して、気

圧や気温など気象要素の空間分布を求めることで、それは一般的に気象場の解析と呼ばれ

ている。 も典型的なものが天気図解析で、これは前世紀に始まり、長い間、地上天気図

が総観気象学や天気予報作業の中で中心的存在として重きを成していた。第二次世界大戦

以後には気象観測網が三次元空間に増大し、高層天気図が発展し、しかも次第に超高度の

高層天気図が描かれるようになってきた。 近では、気象ロケットによる観測データなど

を用いた超高層天気図(成層圏天気図)も作成されるようになった。1950年代になる

と、コンピュータによる気象資料の自動処理(ADP)と客観的解析の手法が定着してきた。

これによって気象解析の方法に新しい展望がひらけ、データの管理、目的別処理、各種物

理量の算出など様々な応用が可能になった。 気象学の対象とする現象は、一般的に規模が大きいので、直接実験の対象とはなりにく

い。実験室内の実験としては、例えば雪の結晶に関する実験のようなものは考えられるが、

それですら自然界の条件をそのまま扱うことが出来ない。かなり思い切った簡素化が要求

される。ところが、近年かなり事情が変わってきた。まず、自然界の気象をそのまま直接

再現するのではなく、回転地球流体系の物理特性を解明しようとする回転水槽実験が盛ん

になり、それによって現象の原理的な理解に役立つようになってきた。 一方、コンピュータの進歩により、数値予報の技術を利用した実験手法、すなわち数値

実験が可能になった。この手法の特徴は、計算精度や大気中の物理過程のモデル化に限界

はあるものの、自然界の実際の現象にかなり近い形で気象を再現でき、すなわち、数値シ

ミュレーションが可能になり、それを用いた様々な実験の試みが出来るようになった点で

ある。したがって、例えば水蒸気の大気運動に対する影響といったことも調べることがで

きるようになった。以下に気象学におけるこうした実験手法の確立の歴史を紹介する。 (a)回転水槽実験 大気の運動を回転熱流体運動として捉え、それを模写するべく同軸二重円筒容器内に流

体をいれ、内側を冷やし外側を温めて内外壁間に水平温度勾配を与え、容器全体を地球自

転と同じ方向に回転させる水槽実験が、1950 年代から本格的に行われるようになった。当

初はもっと簡単な装置が使われ、デシュパン(dishpan)実験と呼ばれた。 初に結果を出

したのは 1947 年シカゴ大学フルツ(D.Fultz)のグループで、当初は大気中の物理量の混

合過程を調べるのが目的であった。1950 年代に入って、イギリス気象局のハイド(R.Hide)のグループも多くの業績をあげたし、その後も続いてアメリカのフロリダ州立大のフェッ

ファー(R.Pfeffer)や R.クリシュムルチ(R.krishnamurti)のグループ、日本の九州大学

の沢田竜吉、瓜生道也や東京大学海洋研究所の木村竜治のグループも独自の仕事を発表し

ている。また、中国の科学院大気物理研究所の葉篤正(T.C.Yer)のグループは、ヒマラヤ

山塊のような大規模な障害物が回転流体の軸対称流に及ぼす影響を中心とした実験を行っ

ている。 一方、1960 年代に入って、回転水槽実験の結果を理論的に説明しようとしたのがロレン

ツ(E.N.Lorenz)であり、数値予報に端を発した数値シミュレーションの手法で追跡して

水槽実験の測定の欠を補ったのがウイリアムス(G.P.Williams)である。 回転水槽実験の結果は、地球大気のみならず、惑星大気に共通する回転熱流体の物理的

性質の本質を理解する上で重要である。回転水槽内の自由振動には大別して軸対称運動と

軸非対称運動とがあること、それらは水平の温度傾度と回転率の組み合わせで決まること

であり、流体の運動形態との関係がはっきりとした形で示された。 (b)風洞実験 実験室内の実験には、この他風洞実験がある。これを気象の研究に 初に利用したのは

1929 年に阿部正直という人で、富士山の雲の発生と形状を調べるため、富士山の周りの気

流の風洞内で実験が行われた。1940 年に入ってシャーロックほか(R.H.Sherlock et al, 1941)が、煙突からの雲の流れの拡散実験に利用し、1960 年代になると風洞による大気汚

染や気流の研究が始められ、1970 年代には大気境界層内の風を室内で再現しようとする試

みが行われるようになった。 (c)対流実験 1901 年、フランスのベナール(H.Benard)は熱対流の実験を行い、いわゆるベナール・

セル、細胞状の渦を発見している。1929 年には、寺田寅彦が同じ様な実験を行い、斑雲の

成因などを論じている。近年は、降水現象の室内実験へと発展し、積雲モデルの研究、水

滴の分裂・併合などの実験も行われるようになった。

(d)雪結晶の実験 実験室内で雪の結晶を作ることは、1936 年に中谷宇吉郎が始めたが、対流霜箱であり、

近年は拡散式霜箱へと進展してきている。 (e)数値実験と数値シミュレーション 数値予報の手法の糸口が定まった頃、同じ方法を用いてコンピュータの内部で人工的に

気象を再現させ、パラメータや境界条件を変えることによる数値解に違いから、大気運動

の性質の理解や気象に関する機構の解明を行う試みがなされるようになったのは自然の成

り行きである。これを数値実験(numerical experiment)といい、また現象の模写による

再現ということで数値シミュレーション(numerical simulation)ともいう。前者の場合、

より多くの実験の試みが行われている。 数値実験が、1956 年のフィリップス(N.A.Phillips)による大気循環の数値実験が始ま

りと考えられる。そしてその後、アメリカをはじめ世界各国で大気循環の数値実験、数値

シミュレーションが飛躍的に実施されている。また、数値実験の対象も広がり、延長予報

(たとえば1ヶ月予報)の実験予報、中小規模じょう乱の発生・発達過程の追及、台風発

達過程の解明、大気境界層内の気流や熱交換過程の追及、対流現象や雷雲内の気流や大気

熱潮汐の解明、大規模拡散過程の追及、大気敏感度実験、先に述べた回転水槽実験の数値

シミュレーション等々、実に広範囲にわたるテーマが数値実験の対象になっている。そし

て、今日の気性学研究のひとつの有力な手段としての地位を確立した。 2-4 数値予報の実現 ノルウェーの気象学者、V.ビヤークネス(V.F.K.Bjerknes)と彼の息子 J.ビヤークネス

(J.A.B.Bjerknes)は気象学研究の革命を起こし、彼らのところには、多くの優秀な気象学

者が集まり、ノルウェー学派と呼ばれるに至った。そのノルウェー学派が今世紀初頭に打

ち出したふたつの大きな研究方針は、総観気象学(アメリカのジェイコブスによる天気図

型別に天気の分布を調べた気象学)の建設と流体力学方程式に基づく近代気象学の発展で

あった。後者はビヤークネスの循環定理を生み出し、さらに 1922 年のリチャードソンの数

値予報に試みにつながる。当時の科学技術の環境下では失敗に帰した。このリチャードソ

ンの夢が実現したのは、第二次世界大戦後のことである。アメリカのチャーニーとソ連の

オブコフは、全く独立にスケールの理論に基づいて長波(大規模じょう乱)を支配する準

地衡流近似方程式を導いた。そして も簡単化した順圧モデルからはじめて、順次複雑な

傾圧モデルへと進展させていった。この過程を振り返ってみると、三つの決定的段階画あ

った。第一はロスビーが示した球面上の非発散水平斉一波を解とするモデルが、実況を第

1近似的によく説明したこと、第二にチャーニーとオブコフによる準地衡流近似の支配方

程式(準地衡流システム)が、リチャードソンの失敗を回避できたこと、第三にチャーニ

ーとイーディーによる傾圧不安定波が、中緯度で観測される移動性の高・低気圧の性質や

発達過程をよく説明したことがあげられる。こうした理論的な進展と期を一にして、第二

次世界大戦の三次元的気象観測網の充実とコンピュータの発明があり、それによって支配

方程式を数値的に積分する考え、すなわち数値予報の実験が提案された。フォン・ノイマ

ンとロスビーの指導の下に、チャーニーが研究主任となってプリンストン大学高等学術研

究所に数値予報の実験のためのプリンストングループが組織された。このグループには、

ノルウェーのフィヨルトフトらが加わり、後に岸保勘三郎(当時東大)も参加した。そし

て彼らは、1949 年コンピュータENIACを用いて 初の数値予報を実現した。それは準

地衡流システムとロスビーの二次元水平非発散水(順圧)モデルに基づき、北半球の 1/8 の

領域に対して 24 時間と 48 時間の 500mb面高度の予報計算を行ったもので成功といえた

が、24 時間予報の数値計算にENIACで約 24 時間要した。 その後の発展は目覚しく、準地衡流多層モデル(傾圧モデル)、バランス・モデルを経て

支配方程式のより一般的なプリミティブ方程式(primitive equation)モデルとなって今日

にいたる。 第二次世界大戦中、北半球の高層気象観測網が一段と拡張されたが、その結果スタール

(V.P.Starr)らの MIT グループによる大気大循環の解析的研究が可能となったが、

UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス分校)の J.ビヤークネスもミンツ(Y.Mintz)と共

同で同様の仕事を行った。フローン(H.Flohn,1950)やパールメンも総観解析的な大気大

循環モデルを提唱した。これらの研究によって、対流圏を中心とする顕熱・潜熱、角運動

量、そして 終的には水蒸気の緯度鉛直フラックスの断面図が作成された。スタールらの

グループの仕事は、さらにエネルギーボックスの作成へと発展した。この流れは、アメリ

カでは GFDL(地球流体力学研究所、NOAA―プリンストン大学)のオールトら、日本で

は村上多喜雄、戸松喜一(1979)らによって受け継がれ発展させられた。 大気大循環の数値シミュレーションおよび数値実験は、フィリップス(1956)の第 1 回

ナピア・ショー記念賞に輝く研究が 初で、発表当時学会にひとつのショックを与えた。

準地衡流、2層モデルという簡単なモデルによる1ヶ月あまりの長期間の数値積分の結果が、

当時の観測結果をかなりよく再現していたからである。またこの頃、ハイドやフルツが回

転水槽を用いた室内実験で、偏西風波動に類似した波形パターンを作り出していたので、

ここに実験室とコンピュータの両方での大循環の実験が進行することになった。 フィリップスの数値実験によって、初めて気象力学、熱力学、放射の三者が総合的に扱

われるようになり、力学的大循環像を作り上げる上での強力な武器となった。そしてその

影響は大循環にとどまらず、台風、局地風など数多くの気象の数値シミュレーションにお

よび、また敏感度実験などの実験的手法の発展をもたらした。

第3章 統計学と気象学の関係

3-1 統計的な翻訳 統計的に天気に翻訳する方法とは、気圧、気温、風、水蒸気量など大規模場の気象要素

を予測因子とし、降水量、雲量、 高・ 低気温など天気に対応する要素またはその生起

確率を予測量として、予測因子と予測量の間の統計的な関係を利用して天気を定量的に予

測しようとするものである。この方法には類似法、重相関分析法などがある。 類似法は古くから使われている方法で、ある特定の地域の特定の天気に対応して大規模

場を分類し、それぞれに対応する統計値を作成しておき、与えられた大規模場の予測図と

比較し、それぞれに対応する天気を予測しようとするものである。類似をとる際、主観的

になるのを防ぐため、 近は類似の度合いをあらわすある種のインデックスをとり、電子

計算機を用いて も類似の度合いの高いものを見つけ出す方法も考えられている。

図2 500mb 面の高度(実線)と高度の平均偏差(点線)の平均図

(a)山雪時 (b)里雪時 (参考文献「数値予報-その理論と実際-」著者・増田善信 東京堂出版)

図2は類似法の一例として、北陸地方の山雪時と里雪時に 500mb 面の高度とその平均偏

差がどのように変化するかを示したものである。(藤田、1966)これは新潟県の豪雪を山雪

と里雪に分類し、それぞれ 17例の平均の 500mb面の高度とその平均偏差を求めたもので、

山雪時と里雪時で 500mb 面に顕著な差があることがわかる。もし 500mb 面の予想高度が

与えられるならば、それをこの図と比較することによって、新潟の豪雪量をある程度の精

度で予測することはできるだろう。

重相関分析法または多重回帰法は、 近の電子計算機の発達によって急速に発展した統

計的な解析の方法で、次の二通りの方法が用いられている。一つは予測因子と予測量の同

時的関係式を過去の観測値または解析値を用いて統計的に作成しておき、数値予報によっ

て得られた予測値を予測因子に代入して将来の予測量を求めるもので、PPM(Perfect Progno Method)と呼ばれている。他の一つは、PPM 法の予測因子に数値予報で得られる

予測値を直接とったものである。すなわち、予測因子には数値予報の予報値を、予測量に

はその時刻の実測値をとり、予測因子と予測量の間の関係式を統計的に作成しておき、数

値予報の結果を直接予測因子にインプットして天気に翻訳するもので MOS(Model Output Statistics)と呼ばれる。これらはいずれの方法も、予測因子は重相関分析法あるいはスク

リーニング法によって予測量との間の相関関係の高いものから順次選ばれる。 PPM 法は予報モデルの予測誤差が直接天気に影響するという欠点があるが、予報モデル

が変更されても予測式を変える必要はないという利点がある。一方、MOS 方式は予測誤差

に影響まで含めて予測式が作られているので、予測モデルに特有な誤差のクセ、例えば、

じょう乱の移動速度が小さくですぎるとか、じょう乱の発達が出ない、などの影響は予測

式を作る際に統計的に消されているので、一般には PPM 法より精度が高い。しかし、予報

モデルが改変される度に予測式を作りなおす必要がある。しかも統計的に意味のある予測

式を得るためにはかなりな資料数が必要であるので、数年間新しいモデルが走った後でな

ければ実用化できないという弱点をもっている。この意味では MOS 方式はモデルの改良に

保守的に作用する傾向にある。 しかし、MOS 方式は PPM 法と違って、直接観測されない大規模場の鉛直流をはじめ、

うず度、発散など数値モデルの中で得られる他の物理量を予測因子として採用できること

など利点も多く、予報モデルの精度向上とあいまって PPM 法に比較して精度が高いので、

近の統計的翻訳法はほとんど MOS 方式になってきている。

図3 アメリカにおける 高・ 低気温の予報検証結果 縦軸は 高・ 低気温の予報誤差の年平均値でアメリカ内の126都市で

平均したもの(クライン)

(参考文献「数値予報-その理論と実際-」著者・増田善信 東京堂出版) 図 3 は MOS 方式によるアメリカにおける 高・ 低気温の予測誤差の平均値の年変化を示

したものである。(クライン<W.H.Klein,1976>)1968 年から 1975 年までの8年間に、

高・ 低気温の 24 時間予報に対する平均の絶対誤差は 4.5°F(約 2.5℃)から 3.5°F(約1.9℃)へ、48 時間予報では 5.7°F(約 3.2℃)から 4.1°F(約 2.3℃)へ下がっている。す

なわち、現在の 48 時間予報の精度は8年前の 24 時間予報の精度まで上がってきているこ

とが分かる。 わが国においても、MOS 方式による降水確率(PoP)、大雨確率(PoHP)がルーチン的

に計算され、予報現場に提供されている。さらに飛行機のシーリングや視程などの予測に

MOS 方式を適用する試みも進められている。また、航空気象用の悪天予想図も統計的、経

験的にあらかじめ設定しておいた悪天の規準値に MOS 方式を適用したものである。 このように MOS 方式は鉛直流などの観測にかからない予測因子を採用でき、しかも一般

に PPM 法より精度が高いので、数値予報モデルおよび電子計算機の進歩とあいまって、今

後発展するであろう。アメリカやイギリスではすでに計算機を用いて予報文を作ることま

で MOS 方式で試みられている。しかし、用いる予報因子が同じならば、予報誤差が完全に

なくなったときに、MOS 方式による予測値は PPM 法による予測値に収れんするはずであ

るから、精度の高い PPM 法を作る努力を忘れてはならないと思う。このことは計算機をも

たない地方の現場では特に重要であるが、MOS を作成している中枢でも必要で、数値モデ

ルの改良で MOS が使用できないときにそれに代わる PPM 法を準備しておくことが、モデ

ルの改変に消極的な MOS の弱点を補う道である。 3-2 確率予報 1980 年6月1日から東京地方に限って雨の確率予報がテスト的に発表され、さらに 1981年 6 月 1 日より全国主要都市 10 ヶ所で実施されるようになった。これは朝予報の際、当日

の 15 時から 21 時までの時間帯にその地方に 1 ㎜以上の降水が生起する確率を発表するも

ので、前日の 21 時の初期値から出発した6L-FLMの 18-24 時間予報値から MOS 方

式で、各格子点で計算された降雨確率(PoP)を予報官が他の気象資料を参考にして補正し

たものである。 予測の元になる降雨確率は、各地点の降水のあった日を1、そうでない日を0年、数値

予報から得られる物理量を予測因子としてその間の関係をスクリーニングあるいは重相関

分析法で求めてあらかじめ作ってある予測式に、当日の数値予報結果を代入して求めたも

のである。しかし実際には、地点ごとに予測式を作るには標本数が少ないので、全国を8

地域に分け、それぞれの地域内の格子点上の降雨確率を求めるようになっている。 そもそもある現象の確率とはその現象の発生する相対頻度である。したがって、降雨の

確率予報 30%とは、30%という予報が例えば 10 回なされた場合、3回は降雨があるが7

回は降雨がないということが も確からしいということである。したがって、確率予報

100%、0%以外は、予報対象時間に雨があったからといって予報が当たったとはいえない

のである。確率予報があたったかどうかは、十分長い期間をとってその間に出された確率

予報を0%、10%、20%、・・・、100%のように層別化し、それぞれの予報に対応した日

を選び出しその現象の起こった比率を取り、それがどの程度予報の確率に合致していたか

どうかを調べることである。したがって、予報精度というよりは予報方式の信頼度が検証

されるのである。 しかし、この方式では気候学的降雨確率を予報値として毎日発表しておけば、統計的に

は信頼度が も高くなるという矛盾があり、なおかつ毎日の予報精度という観点から検証

する方法としては不便であるのでブライヤー・スコアーが考え出された。これは実況値を

雨が降った場合を1、雨がなかった場合を0とし、予報確率と実況との差の2乗平均をと

ったものである。しかし、この方式も予報方式の統計的な検証の一つの方法であるが、確

率の性格からしてある日のブライヤー・スコアーが大きかったからといってその日の予報

の精度が悪かったとはいえないという問題がある。すなわち降雨確率 70%と予報して雨が

なければブライヤー・スコアーは 0.49 と大きな値になるが、70%と予報した日の全体の中

でその日がたまたま雨のない 30%の日に含まれていたとすればこの予報は的中していたこ

とになるからである。 このように確率予報はまだ理論的には検討すべき多くの問題が残されている。一方、一

般の国民は確率予報の確率をある現象の発生に関する予報官の信念の程度、すなわち予報

の確度として受け取っている面もある。事実、予報官自身雨と予報しても、もしかすると

雨にならないかもしれない、その割合は7対3だと思うようなことがある。このような考

え方が全く性質の異なる降雨確率を補正するときに働かないという保証はない。また、降

雨確率をある地域の降雨のあった面積比率と同意義だとするような解説もなされたことが

あり、混乱があるようである。理論的にも矛盾せず、しかも一般国民に利用されやすいも

のに統一されることが望まれている。

第4章 統計学と気象学の現況

4-1 進む気象の利用 気象の変化が人間の生活に影響を与えるので、それへの対策が必要である。気象学発展

の背景にはそれがあった。たとえば、総観気象の成立には暴風による船舶の遭難があり、

農業に対する気候の影響は、気候学発達の原動力となった。また、水資源との関係から水

文学が生まれ、人間の健康に対する気象の影響から生気象学が生まれた。また、近年の人

間活動の巨大化は、大気汚染の問題が生じ、公害気象学の開拓が必要となってくる。

このようなことになると、単に気象学の発展だけではどうにもならず、いろいろの分野

との間の学際的な研究が必要になる。そして、それに応じ、農業気象学会とか生気象学会

とか海洋気象学会といった、学際的な学会も生まれてくる。また、第二次世界大戦後は、

社会の発展とともに、気象の利用も拡大かつ多用化していった。このため、それまで政府

の仕事として行われてきた気象業務では不十分となり、民間の気象会社が生まれるように

なった。第二次世界大戦の後、アメリカではまず映画のロケーションのときの天気の状況

を予測する必要から天気予報の会社が生まれ、日本では、1949 年には始めて日本気象協会

が生まれ、気象の解説、調査、波浪予報などの仕事を行うようになり、その後次第に多く

なっていった。これには、戦時中、航空戦のため多くの気象要員が養成され、戦後、その

職場が減り新しい職場を開拓していったという事情もあった。 さらに、気象情報のデータベースの問題も生まれてきた。それまでは、気象観測の結果

は、人手で整理され気象月報とか年表と行った印刷物で保管され、利用されていたが、統

計処理機器、コンピュータの発達により、カードや磁気テープの形で保存することも行わ

れるようになった。また新しい観測技術の発達によりその量はおびただしいものになり、

1970 年頃にはアメリカのアッシュビル(Asheville,NC)に世界的な資料センターが作られ

るなど、組織化している。日本でも遅まきながら、近年その方に少しずつ動いている。 農業気象の研究はいろいろの形で古くから行われ、特に日本では 1934 年の東北地方の凶

冷のあと、大きな問題となった。1942 年には、安藤広太郎、岡田武松などを中心として日

本農業気象学会が生まれた。1940 年には、大後美保は『日本作物気象の研究』を刊行して

いる。終戦後は、豊作が続き農業気象の進歩が遅くなったが、1960 年頃から後になると、

異常気象の頻発とも関連し、三原義秋、内嶋善兵衛などの農業者たちにより世界的な視野

に立った研究が行われるようになった。 日本の冬の日本海側は世界でも有数の多雪地帯であり、雪に対する、関心は昔から深く、

いろいろな対策がたてられた。1939 年には平田徳太郎、黒田正夫、畠山久尚などにより日

本雪氷協会が設立され、その後日本雪氷学会に変わった。そして雪の力学的性質、着氷、

流氷、雪崩などの研究が進められた。また、1957 年には世界の 12 カ国が参加した国際地

球観測特別委員会が設けられ、南極観測が始まった。1957 年には日本の南極観測も始まり、

南極の気象、雪や氷に関する知見も増していった。 日本は風水害の多い国であり、建造物の設計などの際には、暴風雨に関する情報が重要

である。河川工学者のためには、降水や洪水に関する知識が必要であり、1930 年代、アメ

リカのハーズン(A.Hazen)などにより再現期間の概念が生まれ、第二次世界大戦後には建

築関係にも浸透していった。そして 1949 年には、リンスレー(R.K.Linsley)らが、『応用 水文学(Applied Hydrology)』を出している。また、四国、中国の間の送電線長大吊橋の

建設と関連し、暴風の強さ、構造などが重要になり、それに関する研究も進められた。1979年には光田寧などにより超音波風速計が実用化された。そして 1976 年には学際的な日本風

工学研究会が発足している。

また、戦後のカスリン台風(昭和 22 年 9 月 12 日から雨が降り出し、14 日に豪雨となり、

16 日まで降り続いた。この雨で磐井川が増水し堤防を破り、両岸の住家 131 戸が流失、200戸が全壊、719 戸が半壊、死者・行方不明者 101 人の被害を受けた)、アイオン台風(昭和

23 年 9 月 15 日夜半から岩手県に台風が接近、16 日は一関市に猛烈な豪雨が降り続いた。

カスリン台風のときは磐井川の水位が 6 メートルになったころ、北上川の水位が 10 メート

ルに達し、北上川から磐井川に逆流してゆるやかに氾濫した。アイオン台風の場合、北上

川の水位は前年より低く、磐井川が先に増水した。磐井川は一気に土砂・流木を押し流し

て鉄砲水となって一関市街を襲った。さらに地主町商店街では火災が発生して15戸が焼

失、市街は水魔と炎につつまれた。アイオン台風の被害はカスリン台風を上回り、流失・

全焼・全壊住家 817 戸、半壊 895 戸、死者・行方不明者は 473 人に達した)などによる洪

水から、河川の洪水予報が大きな問題となり、指定河川については建設省、それ以外の河

川については地方公共団体との協力業務で気象庁が行うようになった。また、1953 年の北

九州、和歌山の水害をきっかけとして、レーダーによる降水の監視体制が始まり進んでい

った。 生気象学もさかのぼれば、紀元前のヒポクラテスになるが、1930 年にはドイツで生気象

学の雑誌が出されるようになり、日本では増山元三郎、神山恵三が、先駆的研究をおこな

っている。そして 1955 年に第1回の国際生気象学会がパリで開かれ、1962 年には日本気

象学会が発足した。 公害の問題もかなり古くからあり、1930 年代、大阪市では煤煙による大気汚染が伊東氏

などにより研究されている。1960 年代になると、生産活動の巨大化により、大気汚染のみ

ならず水質汚染も含めた公害が深刻となり、1971 年、日本では環境庁が発足し、翌 1972年にはストックホルムで人間環境会議が開かれるようになった。そして、二酸化硫黄、窒

素酸化物だけでなく、1950 年頃には、ロサンゼルスでは光化学スモッグが現れ、日本でも

1970 年代には同じ問題が起きている。このため汚染物質の拡散の問題が大きく研究される

ようになり、また、大気化学の重要性が認識されるようになった。日本では、1930 年代三

宅泰雄が研究を始めている。1970 年代になるとヨーロッパやアメリカでは化石燃料の消費

増加にともなう酸性雨の被害が大きくなっている。 さらに、化石燃料の消費の著しい増加により、大気中の二酸化炭素の濃度が増し、その

温室効果による気候変化が現実味をおびてきた。この問題もさかのぼれば前世紀に指摘さ

れたことであり、1956 年には、プラス(G.N.Plass)などの研究があったが、1980 年頃か

ら精力的な研究がすすめられている。たとえば、1985 年頃から、アメリカのエネルギー局

から、次々とこの問題に関する報告書が発表されている。またわが国でも、1987 年1月1

日から気象庁が岩手県綾里で定常的な二酸化炭素の観測を開始し、全球二酸化炭素観測網

上の一点として世界気象機関(WMO)に登録されている。現在、気象庁では、二酸化炭素

の振る舞いをスーパーコンピュータの中で再現する化学輸送モデルの開発が進められてい

る。このモデルは、これまでに様々な研究機関によって導き出された地球表面における二

酸化炭素の放出吸収量のデータと気象庁が解析している気象データを用いて二酸化炭素の

大気中での振る舞いを計算する。このモデルは過去の全球的な二酸化炭素分布の状況を推

定するだけでなく、モデルと実際の観測データの相違を統計的に処理することによって、

地表面における二酸化炭素の放出吸収量の評価やより正確な二酸化炭素分布の解析にも利

用することができる。 またもうひとつに原子力関係のことがある。放射能は生物の遺伝に大きく影響を与え、

多量になると死に至る。そこで、大気中の拡散の問題が大きく、その関係もあって拡散の

問題の研究がすすんだ。また水爆実験に際しては、気圧波が何千 km も遠くまで伝わり、そ

れについては 1956 年山元龍三郎などの研究にある。また、大規模な核戦争は気候を変える

恐れがあり、1984 年にはドイツのクルッツェン(P.J.Crutzen)が核の冬の起こる恐れを指

摘し、環境化学委員会(SCOPE)などでその研究がすすめられている。他の兵器では引き

起こすことのできない環境に及ぼす危険の範囲は、1987 年、世界環境開発委員会によって

次のように要約されている。 「起こりうる核戦争の影響は、環境領域への他の脅威を取るに足りないもとにするほど

である。核兵器は交戦行為の発展のなかに質的に新しい段階がおとずれたことを象徴して

いる。一個の水爆は火薬の発明以来あまたの戦争で使われた爆発物の総量よりもさらに大

きな爆発力をもつことができる。爆発と熱の破壊的影響を巨大なものに拡大させたことに

加え、核兵器は、新たな致死性のある作用である電離放射線をもたらした。それは、空間

と時間の両方をこえて、致死的影響を拡大するものである」 核兵器は、地球の生態系全体を破壊する潜在的力を持っている。すでに世界各国が保有

している核兵器は、地上の生命を幾度にもわたって破壊する潜在力をもっている。 核兵器のもう一つの特徴は、審理の中でも述べられたように、針葉樹林、穀物、食物連鎖、

家畜、海洋生態系などにたいして電離放射線が引き起こす被害である。 生態系への影響は、実際的には見通しうる限りの歴史的将来にわたって広がる。核爆発の

副産物の一つ、プルトニウム 239 の半減期は2万年をこえる。本格的な核兵器の応酬がお

こなわれれば、残留放射能が 小値にいたるまでには、いくつもの「半減期」が必要とな

ろう。半減期とは、「純粋なサンプルによる放射の割合が半分に減るまでの期間である。知

られている放射性同位体の半減期は、およそ 10-7 秒から 1016 年にわたっている。 次の表は、核実験から生じる基本的な放射性物質の半減期を示している。 核種 半減期 セシウム 137 30.2 年 ストロンチウム 90 28.6 年 プルトニウム 239 24,100 年 プルトニウム 240 6,570 年 プルトニウム 241 14.4 年

アメリシウム 241 432 年 理論的には、これは数万年も続くことになる。どのような目的があるとしても、次に続

く世代にこのような被害を及ぼす権利は、どの世代も持っていない。どんなレベルの話で

あれ、こう断言しても問題はないであろう。 4-2 気候と人間 気候学はもともと地理学から分科したものであり、その背景に人間がある点が、純粋の

気象学と違う点のひとつである。気候と人間との関連が二つの面がある。気候が人間の社

会を左右する面と、反対に人間活動が気候を変え、それが人間に跳ね返ってくる面である。

これらのことは、もちろん古くから知られており、いろいろ対策もとられてきている。冷

害や干ばつは凶作をもたらし、ときには飢饉となって社会に大きなインパクトを与える。

また 1960 年頃からは公害や二酸化炭素の濃度の増加が気候を変え、社会に大きな影響を与

える恐れが大きくなってきた。 この種の問題が大きく取り上げられ、研究されるようになったのは、今世紀の初めであ

る。アメリカの地理学者ハンチントン(E.Huntington)は 1914 年に『文明と気候』とい

う著書を出し、文明は気候のよいところに生まれ、気候の変動は文明の盛衰を支配すると

いう意味のことを地理学的手法で論じた。この説に対しては、文明は人間が創るもので、

気候ではないという批評もあり、確かにそれも一面の真理であるが、気候が人間活動に大

きな影響を与えていることは事実である。そして、気候は国民性にも反映していることを

和辻哲郎が 1935 年その著書『風土』で述べている。また、1949 年には、西岡秀雄がハン

チントンの説に共鳴し、『寒暖の歴史』という著書を出している。 人間活動が気候を変えるという面では、人が多く集まる都市で大きく現れる。この都市

気候については、すでに 19 世紀の終わりの頃から注目されており、都心のほうがまわりよ

り高温になることが指摘されている。これは、都市の規模が大きくなるほど顕著になり、

また、都市気候の質も変化してくる。都市ではただ気温が上がるだけでなく、風は弱くな

り、湿度は下がり、大気汚染がひどくなるなどいろいろの面が出てくる。1940 年には伊東

氏が大阪の煤煙の調査をおこなっており、1948 年にはロサンゼルスで著しい光化学スモッ

グがあり、1959 年にはカリフォルニア州でその防止に関する条例が作られている。 吉野正敏は 1977 年に都市気候の研究の展望をおこない、都市気候変化の時代変化を図4

に示すような三つの時代に区分している。これは、都市の発展の時期によって生ずるもの

であり、第二次世界大戦の頃は、都市活動が減少したので、一時気温も下がり、霧日数も

減少している。また、図には示してないが、大気汚染も、経済成長により増加したが、大

気汚染対策の進行により、1965 年頃を 高期として、次第に減少している。

要 素 初 期 中 期 後 期

気温 上昇 上昇 上昇

水蒸気圧 やや降下 やや降下 降下

相対湿度 減少 減少 著しく減少

霧日数 増加 減少 著しく減少

微雨日数 増加 増加 変化なし

強雨日数 変化なし 変化なし 増加

降下煤塵 増加 やや増加 減少

東京の

場合 1920 年以前

1920 年~1940

年 1960 年以降

図6 都市気候変化の三時期 (参考文献「気象学百年史」著者・高橋浩一郎 内田英治 新田尚 東京堂出版)

1960 年代に入ると、生産活動の巨大化に伴い、人間活動の気候への影響が大きくなり、

広域化してくる。1967 年には、アメリカのジョンソン大統領は年頭教書で公害問題の重要

性を強調し、1972 年には、ストックホルムで国連による人間環境会議が開かれるなど、世

界的な問題に発展する。 1970 年代になると、異常気象の問題が世界的になる。1972 年には、ソ連、インド、北ア

フリカなどで干ばつが起こり、世界の食糧需給に大きな影響を与える。また、この頃、第

一次石油ショックが起こり、1974 年には気象庁から「世界の異常気象の実態調査とその長

期見通しについて」が発表される。1978 年には、アメリカで「国家気候計画法」という法

律ができ、気候変動の問題を大きく取り上げるようになる。そして、その翌年2月、ジュ

ネーブで世界気象機関の主催により、世界気候会議が開かれた。 この会議で特に強調されたことは、大気中の二酸化炭素の濃度増加による気候変化であ

る。この問題はすでに 1901 年にデンマークのアーレニウス(S.Arrhenius)はその温室作

用により地質時代の気候変動が説明できるのではないかとしているが、1940 年になってイ

ギリスのカレンダー(G.S.Callendar)は化石燃料消費の増加によって二酸化炭素の濃度が

増し、気候が変わる可能性を示唆した。その後、二酸化炭素の濃度測定の技術も進み、ま

た、近年増加していることがはっきりした。そして、1980 年には真鍋淑郎などによる数値

実験により、二酸化炭素の濃度増加による気候変動のおおよその模様が浮かびあがってき

た。そして、21 世紀に入ると、その影響が顕在化してくることが予想され、この問題を巡

る問題が大きくなってきている。 1980 年からは、世界気象機関(WMO)を中心とした国際的な気候変動とそれが社会に

及ぼす影響に関する研究、世界気候計画(World Climate Programm,WCP)が発足した。

本計画は資料(WCDP)、利用(WCAP)、影響調査(WCIP)、研究(WCRP)の四つの副

計画から成り立ち、WCIP は UNEP を中心に WMO 等が協力し、WCRP は WMO と国際

学術連合会議(ICSU)の共催、その他は WMO を中心に進められている。わが国では、こ

れを受けて気象庁に気候変動低策業務が導入され、大学・研究機関の研究者により気候変

動国際共同研究計画が推進されており、また、気候利用・影響研究会がつくられた。また、

1983 年には国際学術会議連合の特別委員会の環境科学委員会(Scientific Committee on Problems on the Enviroment,SCOPE)では、“核の冬”の問題が取り上げられ、その研究

が進められている。これは、全面核戦争が起きると、そのために多量の土砂や煙が成層圏

に舞い上がり、日射をさえぎるので、地表付近が数十度も気温が下がり、生態系を破壊し、

人類の全滅ともなりかねないという問題がある。これには、多くの不確定なところがある

が、定性的にはおそらく正しいだろう。 このように、人間活動が気候に及ぼす影響、また、それが人間社会へ及ぼす影響は今後

ますます増加することが予想され、それを巡る調査、研究の比重は大きくなっている。

第5章 統計学と気象学の関係に関する実例

5-1 ビールの購入頻度と気象の関係の有無 1世帯あたりの年間(平成 14 年~平成 16 年)のビールの購入頻度と気象に関連がある

のかを回帰分析で考察してみる。

平成14年 平成15年 平成16年1月 2.02 1.95 2.052月 2.10 1.96 2.073月 2.79 2.41 2.364月 2.81 2.82 2.555月 3.26 2.84 3.046月 3.62 3.22 3.397月 4.97 4.30 4.598月 4.74 4.49 4.099月 3.10 2.70 2.7610月 2.82 2.48 2.5311月 2.56 2.41 2.5712月 4.60 4.27 4.23

図7 100 世帯あたりのビール購入頻度 (参考文献 総務省『家計調査』全国全世帯)

平成14年 平成15年 平成16年1月 7.2 5.1 5.82月 7.3 6.8 7.93月 11.6 8.4 10.24月 16.6 15.9 16.45月 20.0 20.2 21.16月 23.6 23.7 24.87月 29.0 25.3 29.58月 29.0 28.3 28.49月 25.1 25.9 26.210月 18.9 18.1 19.011月 11.1 15.5 15.212月 8.2 9.1 10.2

図8 平成 14 年~平成 16 年の平均気温(℃) (参考文献 http://www.data.kishou.go.jp/etrn/index.html)

それぞれの年のビール購入頻度と平均気温について考察する。

221 iii XXY ββα ++= =i 1,2,・・・,12

平均気温 X の変化によって、ビールの購入頻度Y と因果関係があるのかをモデルを使って

調べる。 小2乗法(OLS)を用いて推定した推定回帰線を

iii XXY 221

ˆˆˆˆ ββα ++= とする。

平成 14 年~平成 16 年の各データをひとまとめにして散布図に表すと

1

1.5

2

2.5

3

3.5

4

4.5

5

5 10 15 20 25 30

平均気温

ビー

ル購入頻度

図9 ビール購入頻度と平均気温(℃)の散布図

となり正の相関が考えられる。そのうえ、散布図から二次関数の放物線が見られる。9月、

12 月のビールの購入数量のデータが外れているように思われるので、ダミー変数を使って

考える。あと平成 14 年を基準にして平成 15 年、平成 16 年がどのくらい違うのかも分析に

加える。 図 10 の表中の語句の意味は D9=9 月のダミー D12=12 月のダミー D15=平成 15 年のダミー D16=平成 16 年のダミー 気温 2=気温の 2 乗 とする。

月 ビール 気温 気温2 D12 D9 D15 D161 2.02 7.2 51.84 0 0 0 02 2.10 7.3 53.29 0 0 0 03 2.79 11.6 134.56 0 0 0 04 2.81 16.6 275.56 0 0 0 05 3.26 20.0 400.00 0 0 0 0

平成14年 6 3.62 23.6 556.96 0 0 0 07 4.97 29.0 841.00 0 0 0 08 4.74 29.0 841.00 0 0 0 09 3.10 25.1 630.01 0 1 0 0

10 2.82 18.9 357.21 0 0 0 011 2.56 11.1 123.21 0 0 0 012 4.60 8.2 67.24 1 0 0 01 1.95 5.1 26.01 0 0 1 02 1.96 6.8 46.24 0 0 1 03 2.41 8.4 70.56 0 0 1 04 2.82 15.9 252.81 0 0 1 05 2.84 20.2 408.04 0 0 1 0

平成15年 6 3.22 23.7 561.69 0 0 1 07 4.30 25.3 640.09 0 0 1 08 4.49 28.3 800.89 0 0 1 09 2.70 25.9 670.81 0 1 1 0

10 2.48 18.1 327.61 0 0 1 011 2.41 15.5 240.25 0 0 1 012 4.27 9.1 82.81 1 0 1 01 2.05 5.8 33.64 0 0 0 12 2.07 7.9 62.41 0 0 0 13 2.36 10.2 104.04 0 0 0 14 2.55 16.4 268.96 0 0 0 15 3.04 21.1 445.21 0 0 0 1

平成16年 6 3.39 24.8 615.04 0 0 0 17 4.59 29.5 870.25 0 0 0 18 4.09 28.4 806.56 0 0 0 19 2.76 26.2 686.44 0 1 0 1

10 2.53 19.0 361.00 0 0 0 111 2.57 15.2 231.04 0 0 0 112 4.23 10.2 104.04 1 0 0 1 図 10 平成 14,15,16 年のそれぞれのデータ

ダミー変数を 4 個使用しているので推定回帰線は次のようになります。

16ˆ15ˆ12ˆ9ˆˆˆˆˆ6543

221 DDDDXXY iii ββββββα ++++++=

となり、回帰分析の結果は

16328.015241.01218.29063.100472.00599.052.2ˆ 2 DDDDXXY iii −−+−+−=

)6.11( )21.2(− )201.6( )52.7(− )5.15( )66.2(− )63.3(−

相関係数 974.0=R 、決定係数 950.02 =R t 値は X の係数のみ有意でないが、その他の係数は全て 5%で有意である。モデルの説明力

も 95%と高い。 この結果から、9 月、12 月はビールの購入頻度が回帰線上からずれてくるが、平均気温

の変化によりビールの購入頻度が増減するのは明らかである。

第6章 終わりに 気象と人間の関係は、人間が誕生したその瞬間から深く関わっている。人間が行動する

前には必ず天気が気になるものである。「明日は狩りがあるが雨は降らないだろうか」「

近日照り続きで雨が降らないのだろうか」こういった天気への関心が現代の気象学の源に

なっている。しかし、気象学というものが戦争によって飛躍的に進歩した歴史は悲しいも

のがある。敵国の上空を観察するために衛星が打ち上げられ、天気によって爆撃しやすい

かに気象学が暗躍したのである。現在では気象学のほとんどは未来の天気を予報すること

に利用され、その効果は身近な天気予報を見てみれば一目瞭然である。日本などの台風の

通り道にあたるところでは気象予報は生命線である。海外ではここ 近のニュースでハリ

ケーンなどの自然災害があり、突発的自然災害はまだ今の気象学では予報しきれない。突

発的自然災害が予報できればあんなに甚大な被害は免れたであろう。これは異常気象のも

たらすことなのだろうか。「異常気象」とは、どのような気象のことを指すのか。気象庁の

定めた定義では、「1ヶ月の気温や雨量が過去30年の間、またはそれ以上の期間に渡って

観測されたことがないような現象」としている。では、それら観測されたことがない現象

がいかにして起きるのか。雨や雪が降ったり、暑くなったり、寒くなったりといった気温

の変化、また雷などの天気の変化は、地上から10~15キロ程度の「対流圏」といわれ

るところで起きている。地球は赤道付近と極地方で太陽から受ける熱エネルギーに大きな

差があるために気温の南北の差が大きくなるが、地球を取り巻く大気はその温度差をなく

すため、この対流圏で常に流動している。赤道付近の海では水が蒸発することによって海

面が冷やされ、水蒸気は北上して雲になるときに熱を放出して北の空気を暖める。極から

南下した寒気は日本付近で南からの暖気とぶつかって低気圧や前線をつくって熱の入れ替

えや放出を行う。この流動こそが日々の気象の変化であり、日本独特の四季をつくる。こ

の流動の速度が緩やかであれば気象の変化も非常に緩やかであり、反対に激しければ異常

気象へと結びつくのである。化石燃料の大量消費、オゾン層の破壊、化学物質の大気中へ

の放出などによる温暖化はこの大気の流れを急速化し、異常気象の一因となっている。地

球が温暖化することにより地球を取り巻く大規模な空気の流れが変わり、気圧配置の変化

をもたらして異常の幅を大きくし、異常の程度を大きくする。換言すれば、温暖化が進む

ことにより南北間の気温差が大きくなって激しい熱の交換が発生したり、逆に急激に気温

差が小さくなって気圧配置に異常をきたすのである。 人為的要因のみならず、自然的要因も大きく関与している。自然的要因の代表的なもの

は「エルニーニョ」である。周知の通り、エルニーニョとは南米ペルーの沖合いから中部

太平洋の赤道付近の海水温度が平年より高くなることである。一般に、暖かい海では海面

から大量の水蒸気が蒸発して雲を作り、その周辺は低気圧の場になる。例年の夏ならば海

水の温度の高いフィリピンの東海上に大きな低気圧ができ、この北側に高気圧が発達する。

これが夏の小笠原高気圧である。この高気圧に覆われて日本列島は暑い夏になるのだが、

エルニーニョが発生すると暖かい海水が例年より東に移動するために、まず低気圧の発生

する場所が東に移動し、その北側にできる高気圧もずっと東に移動する。高気圧の勢力は

日本列島までとどかず、梅雨前線がいつまでも北上しなかったり、夏にも関わらず北から

寒気が南下したりという現象が起きる。つまりエルニーニョが発生すると、日本は冷夏に

なる確立が高くなるのである。 もう1つの代表的な要因として「ラニーニャ」が挙げられる。これはエルニーニョと全

く反対のものであり、ラニーニャが発生すると日本列島は猛暑に見舞われる。その他にも

土壌中の水分量の変化やジェット気流の蛇行、モンスーンなども挙げられる。あまりに異

常気象が続くと、私たちの感覚は麻痺してしまう。近年取り立たされるものは、被害が大

きく目に見えるものである。異常気象といっても様々であり、その中にはもはや異常とさ

え取られなくなってしまったものもある。梅雨になってもほとんど雨が降らない「空梅雨」

はすぐに異常と気付くが、逆に毎日雨が降っている場合には「梅雨時に雨が降るのは当た

り前」と思ってしまい、誰も異常とは感じない。しかし、梅雨時に雨が降るのは平均60%

程であり、毎日のように雨が降るのは珍しいことである。また、太平洋側の冬の晴天も同

様である。冬の太平洋側の地方がカラカラした天気が続くのは当たり前であるが、全く雨

が降らない日が1ヶ月も続くのは、やはり異常なことである。天気予報でしばしば「平年

並み」「平年よりも3度高い」などと言われるが、その際使われる「平年」の値とは、過去

30年間の平均である。これは10年ごとに更新される。平年値に近ければ正常とされる

が、その平年値自体が毎年異常に近づいていれば、結果として地球の気象は確実に異常化

してきたといえる。異常気象を異常気象としてとらえられなくなっている。 また、異常気象の影響は、地域によって異なるといえる。例えば、温帯地方では雨量が

減り、逆に乾燥地帯では降水量が増加すると言われる。一見大きな問題はなさそうに見え

るが、雨量の減少により温帯地方では農作物が育たず、乾燥地帯(砂漠)が農作物の収穫

に適した土地になるまで時間がかかるため、各地で食糧不足が起きる。日本でも、各地の

気温に影響が出る。東京は沖縄ほど、北海道は仙台ほどにまで気温は上昇し得るといわれ

ている。このままで行くと、平均気温が40度になる日もそう遠くはない。熱帯地方の病

原菌が今の温帯地方で増殖することも考えられる。京都会議で二酸化炭素の削減が打ち出

されたが、そのことによって異常気象がなくなるということはない。進行に歯止めを利か

す程度になるかさえ疑問である。少しの変化で大きな天災を起こす気象であるからこそ、

それに備えた災害対策、また温暖化防止策に真剣に取り組む必要があるといえる。実感は

いまいち湧かないかもしれないが、日々着々とその様な状況に進んでいることは確かなの

である。これから近い将来にはそういった異常気象から発生する自然災害も未然に予報で

きるようになっているに違いない。変わったところでは、異常気象保険なるものが東京海

上日動から出ているのを発見した。「お客様が実際に被られた損害が保険金お支払いの上限

となります」と書いてある。これらは法人向けであり、被害を受ければ保険金は莫大であ

る。近年の異常気象による損害を経験して、保険会社は目を丸くしただろう。 このような学問的気象が人間の行動の事前情報の意味合いで活躍している半面で、気象

が人間自身に影響を与えているのではないかと考える。暖かい国に住んでいる人は陽気で

おしゃべりであり、寒い国に住んでいる人は寡黙で我慢強いなどである。これは明らかに

全ての人に当てはまることではなく偏見であるといわれればそれまでであるが、少なから

ず気象が人格に影響するのではないかと考えてしまう色々な情報がある。これらのことを

考えるとやはり人間と気象の関係は切っても切れない関係であり、これから未来永劫付き

合っていかなければならない相手(気象)であることは間違いない。