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自分自身の眼球の後ろにいる観客 一一サミユエル・ベケットの『見ちがい言いちがい』一一 木戸好信 Lest it see rnore prevent i t. Out vile jelly Where is thy lustre now? 19 -WilliarnShakespeare King Le αr サミュエル・ベケット (SarnuelBeckett) の『見ちがい言いちがいj(M αl vu mal dit 1981/ III Seen III Said 1982) は眼の映画的欲望についてのテ クストである.なにもこのように早々に宣言したからといって, I 詩は絵の ごとく J (utpicturapoesis) といった姉妹芸術論を「映画と文学J におい てベケット晩年の散文作品をだしにここで再び繰り返してみようというので はない.そもそも,映画を映画たらしめているものが「映像」や「イメ」ジJ だけでないのと同じく,文学を文学たらしめているものが「言語」だけでは ない以上,これら二つの表現形式の類似点や相違点をあげつらってみただけ ではベケット作品の嬢小化以外に与する所は少ないであろう. 映画を発明したのはエジソンでもリュミエ}ル兄弟でもなくフロベールで あるというのはもちろん言い過ぎだが,少なくとも彼は映画の父グリアイス が完成させた並行モンタージ、ュという映画技法を自らの小説で、すでに自家薬 龍中の物としていたしあるいはエイゼンシュテインの古典的分析が証明し たように,デイケンズもまた自らの作品にクロース・アップや並行モンター ジ、ユを巧みに導入していた.いやむしろグリフイスのような映画の開拓者た ちに霊感を与えたのはこのフロベールやデイケンズのような精密なリアリズ

自分自身の眼球の後ろにいる観客 - Doshisha€¦ · 龍中の物としていたしあるいはエイゼンシュテインの古典的分析が証明し たように,デイケンズもまた自らの作品にクロース・アップや並行モンター

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Page 1: 自分自身の眼球の後ろにいる観客 - Doshisha€¦ · 龍中の物としていたしあるいはエイゼンシュテインの古典的分析が証明し たように,デイケンズもまた自らの作品にクロース・アップや並行モンター

自分自身の眼球の後ろにいる観客

一一サミユエル・ベケットの『見ちがい言いちがい』一一

木 戸 好 信

Lest it see rnore, prevent it. Out, vile jelly,

Where is thy lustre now?

19

一-WilliarnShakespeare, King Leαr

サミュエル・ベケット (SarnuelBeckett)の『見ちがい言いちがいj(Mαl

vu mal dit, 1981 / III Seen III Said, 1982)は眼の映画的欲望についてのテ

クストである.なにもこのように早々に宣言したからといって, I詩は絵の

ごとく J(ut pictura poesis) といった姉妹芸術論を「映画と文学Jにおい

てベケット晩年の散文作品をだしにここで再び繰り返してみようというので

はない.そもそも,映画を映画たらしめているものが「映像」や「イメ」ジJ

だけでないのと同じく,文学を文学たらしめているものが「言語」だけでは

ない以上,これら二つの表現形式の類似点や相違点をあげつらってみただけ

ではベケット作品の嬢小化以外に与する所は少ないであろう.

映画を発明したのはエジソンでもリュミエ}ル兄弟でもなくフロベールで

あるというのはもちろん言い過ぎだが,少なくとも彼は映画の父グリアイス

が完成させた並行モンタージ、ュという映画技法を自らの小説で、すでに自家薬

龍中の物としていたしあるいはエイゼンシュテインの古典的分析が証明し

たように,デイケンズもまた自らの作品にクロース・アップや並行モンター

ジ、ユを巧みに導入していた.いやむしろグリフイスのような映画の開拓者た

ちに霊感を与えたのはこのフロベールやデイケンズのような精密なリアリズ

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20 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの f見ちカtぃ言いちがしせ一一

ムの作家たちであり,事実グリフィスはロケーションの時,デイケンズの小

説を小脇にかかえて行ったように,映画の草創期,映画と文学は相互侵蝕を

繰り返しその境界線は限りなく暖昧であったのだ.

この事情はベケットの同時代,ヌーヴェル・ヴァーグによって,より明確

でより意識的な理論的基盤のもとに再び回帰する.エリック・ロメール,ク

ロード・シャフゃロル,ジャック・リヴェット,フランソア・トリュフォー,ジャ

ン=リュック・ゴダールといったこの映画の革新運動を先導した監督たち

はすべて批評家から映画作家になった映画狂たちだ.映画をあるいは映画を

撮るということ自体を徹底して凝視し続けた彼らにとって「書くこと」と「撮

ることjはもはや区別しがたい.中でもゴダールは批評を書くということは

映画をつくるということであり,この二つを区別したことは一度もないとこ

とあるごとに繰り返し強調していたではないか.

彼らが隆盛を極めた同じ六十年代にパスター・キ一トン主演の『フィルム』

(Film, 1964)という極めて自己言及的な映画の制作に自ら手を染めていた

ことも含めて鑑みれば,ベケットのテクストを以上の文脈に置いて再構築す

る批評的戦略にも少しは存在価値があるのではないだろうか.事実,ベケッ

トのテクストは映画のように読めるし映画のように振舞う. しかしそれは単

なるレトリックではない.それは本当に映画なのだ.すなわち,ベケットの

「眼球謹jとも言うべき『見ちがい言いちがい』は眼の映画的欲望を映画以

上に映画的,あまりに映画的に表象するテクストであるのだ.

確かに. r見ちがい言いちがい』において,ベケットは撮るように語る.

テクストと余白が交互に入れ代わる構造はまさに映画の「まばたきの構造」

(Connor 96) と化しその六十一の断章に分割された語りは編集台でモン

タージ、ュされるフィルムの断片となってわれわれ観客=読者に送り届けられ

る.このフィルムのーコマ(あるいはショット)目に注意深く眼を凝らすと

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj一一 21

浮かび、上がってくるのは,映画観客としてのひとりの老婆の姿である.この

老婆が映画観客であると断定できるのは,彼女が金星,月,輝く星といった

光源を見世物として見とれている主体であるからだけではなく,彼女がまた

暗闇での身体の運動不能,あるいは視(聴)覚機能の極端な増進といった映

画装置の働きによってとらえられた観客主体の条件をすべて備えているから

に他ならない.前者の例はこの老婆が寝床から あるいは椅子に座り,光源

を見ている状態,すなわち. Iまっすぐに,硬直し彼女はそこ,深まる閣

のなかにいる.身動き出来ず,彼女はどうすることも出来ないJ(7) 2とい

う状態に明らかであるし後者は各断章において過剰に繰り返し挿入される

「注意.J3という警告や「クロース・アップJ4という映画用語によくあらわ

れている.

二つの窓の間を行ったり来たりする老婆.その窓、を通して彼女は外の世界

を見る. I金星が沈むのを見たばかりの老婆は,もう一つの窓のもう一つの

見物を急いでながめる.月は上がりながらますます白くなり,砂利もますま

す白くなる. ぎこちなく立ち,顔と手を窓に押しつけ,長いこと彼女は見と

れているJ(9). 老婆の視覚と部屋の窓からの眺めが一致しこの窓がスク

リーンとして,さらには彼女の小屋そのものが眼あるいは暗室として機

能する.つまり,彼女はデカルトが『屈折光学』の第五議「眼底で形づくら

れる形像についてJに挿入した版画の真っ暗な部屋にいる男と同じ位置を占

めているのだ.すなわち,完全に閉め切った部屋で,一つだけ穴を残しそ

こに死んだばかりの人聞の眼(無理な場合は牛かなにか他の大型動物の眼)

をはめ込み,その眼球の裏側に浮かび上がる像を観察している男の位置であ

る. IさてそうしてJ.とデカルトは続ける. I白い物体RSTの上を見ると,

おそらく驚嘆と喜悦を禁じえぬことだが,そこにはしごくありのままに透視

画法的に外部の VXYの方にあるすべての対象を表現する絵を見ることであ

ろう J(138-9). まずこの挿絵が余すところなく表象しているのは光学装置

の内側の暗闇に身体を消去した観察者が外の世界を単眼で超越的な位置から

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22 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの f見ちがい言いちがいj一一

デカルト『屈折光学jより

見ることを可能にする「デカルト的

遠近法主義J(Jay)である 5そして

さらにこの挿絵は,われわれがつね

にこの挿絵の男がいるような暗い部

屋にいるということ,すなわち,わ

れわれ自身の眼そのものが暗室であ

るということも示している.われわ

れは永久に部屋の中に閉じ込められ

ており,絶対に外に出ることはでき

ず,われわれに扱えるのは網膜上の

イメージだけであって, ものそれ自

体を扱うことは決してできないのだ¥6

老婆が閉じ込められ,抜け出せない

でいる小屋は,このデカルトの挿絵

の男がいる部屋,暗室としての眼で

ある.老婆はこの巨大な眼の後ろに

いてそこに映るイメージを眺めてい

るのだ.自分自身の網膜の後ろで暮

らしている映画観客としての老婆が

唯一自由に扱えるものといえば模造やコピーを体現する「アルバムJ(14)

だけであったことも思い出そう.いやそればかりか,そもそも映画というも

のが,その芸術性カf徹頭徹尾複製可能性によって規定される芸術であること

(Benjamin) ,すなわち模造とコピーをその本質としていることも忘れては

ならない.スペクタクル

老婆の窓の外の世界で展開することがすべて見世物であることは,窓、の

カーテンがまぶたやまばたき,あるいは劇場の幕として機能していることか

らも明らかとなる.r彼女はカーテンを聞けて,空を見ょうとする, しかし

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミユエル・ベケットの『見ちがい言いちがいJ一一 23

そうでなくても,彼女はそこにいる.再びそこに.カーテンは聞かないのに.

突然聞く.パッと.まったく唐突 lJ(19). そして実際,テクストの最後の

断章では見世物が終わった後,劇場の慕が閉じるようにまぶたが徐々に閉

まっていく. I最後の最後を閉じるために,どう言いまちがえるか? とに

かく取消される.いやカーテンが閉じる時の最後の残光のように,少しほん

の少しゆっくりと散ってしまう.そっと静かに,ひとりでに,幽霊の手に

動かされ,一ミリずつ閉じていく.さらばさらば.J (59) しかも. Iもちろ

ん動かずに.椅子の上で.見世物の後.徐々に呪縛が解けるJ(32) と,見

世物の後,観客主体が暗闇での身体の運動不能の状態から解放される様まで

がもれなく言及されているのだ.

では,この暗室としての小屋の外で繰り広げられる見世物とは一体どのよ

うなものであろうか.まず肝心なのは光は映画の生命そのものであることだ.

映像をフィルムに定着させるには光が必要であるしフィルムを上映するに

あたってもやはり光が必要である.光がなければ映像は存在しない.その点,

老婆の小屋の外の世界は光に満ち溢れている.例えば,金星,月,太陽,白

い羊,雪,白い壁,肱しい霧,等々.特に小屋の周りを取り囲む白亜の砂利

は映写されているスクリーンのように光を放ちその輝きを増していく.

白い砂利が毎年増えていく.ほとんど一刻一刻.この調子で増え続けれ

ば,みんな埋まってしまう.一目だけでろくに見もしなかったときより

は, もうずいぶん広くなった最初の地帯,それが毎年少しずつ増えてい

る.月の下の目をヲlく光景,一つ一つがユニークな,この無数のちっぽ

けな墓. しかし彼女の不在は癒されない.だからやはり白亜質というま

ずい名前をつけた場所に移ろう.白っぽい斑点をちりばめ白化した牧草

地,白亜質の土から草は消えてしまった.露出する石灰岩を見ていると,

眼は苦しみを忘れる.いたるところ石だらけ.白.毎年増え続ける,ほ

とんど一刻一刻.いたるところに,たえまなく白が広がる. (26)

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24 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケァトの[見ちがい言いちがいj一一

もちろん,光(白)あるところに影(黒)がある.例えば,黒い夜,黒いカー

テン,黒檀,黒いスカート, r注意.それも黒? それも黒.そして屋根.

スレート.やはり.小さなスレートもやはり黒J(43), I突然,彼女は一気

にマントをはらいのけ,そしてそれと同じほど黒い空をマントでまた蔽って

しまうJ(47), r透明な天窓から注いでいたのは,暗い夜あるいは単に黒だっ

たのに.ほんとうの黒, しまいにはもう何も見るものはないJ(58) といっ

た具合に.

しかし重要なのは光(白)だけでも影(黒)だけでもなく,むしろ, r雪の上に落ちた彼女に同伴する長い影J(15), I自分の長い黒い影を昇る月の

方へ投げるJ(24), I黒いレースの襟の下のうなじ髪にできた白い光の輸

の半円J(29), I遠くで彼女が白くなっている間,小屋の中は深い閤, J(34),

「まだ残っている最後の光を斜めに受け,石は平行した長い影を東北東に落

とす, J(44), r分刻みになった白い円盤.秒刻みでないとして.黒い六十の

点, J(45),といった光と影のドラマである.かくして,絡み合い巻きつき

合いながら白が黒をそして黒が白を侵蝕しさらにフランス語版では,この

白と黒の相互侵蝕,相互反転が「勝つては負ける終わりのないゲームJ(Partie

sans fin gagnee perdue) (49)に轍えられる.老婆が見ている小屋の外の

見世物とは,これら「黒と白の対立J(Clash of black and white) (36),す

なわち,光と影のスベクタクル以外のなにものでもないのだ.

これまで観客主体としての老婆と暗室あるいは眼としての彼女の小屋,そ

してその小屋の外で繰り広げられる光と影のスペクタクルについて確認して

きたが,次は『見ちがい言いちがい』という光学空間を漂う一つの眼に焦点

をあててみよう.老婆にまとわりつくこの眼は語り手と出来事の聞にたえず

漂っている.この神出鬼没で非人格的な眼は一体誰の眼なのか.それは人間

の眼ほどに限定されてはいないし,昆虫や烏やその他の動物の眼とも無縁で

ある.それはテクストのいたるところに偏在し空虚を恐れる語り手一一「空

虚がこわい, J(31)一一ーを安心させるがごとく「ガス状の知覚J(Deleuze

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの f見ちがい言いちがいj一一 25

80) 7となって空間を充満させるかのようだ.事実, r見ちがい言いちがいj

に漂う眼はフゲスならぬ霧になる.眼が露であり,そして言うまでもなく需が

視覚を遮るヴェールであるならば,限という器官そのものが眼差しを遮る

ヴェールであることは明らかであろう.

需だけが確か.野原のむこうの寵.需はすで、に野原にかかっている.砂

利士にもとどくだろう.それから小屋の隙間という隙聞に.眼を閉じて

も.眼にはもう霧しか見えないだろう.いや需さえ見えない.眼そのも

のが需でしかない. (48)

さらに注目すべきは,このテクストを漂う神出鬼没な眼の身体性である.

まさにそれは「身体的な欲望する眼J(Connor 93)であり,実際,この眼

は「肉の眼J(the eye of flesh) (17), r汚れた肉眼J(五lthyeye of flesh) (30),

さらには,rうすよごれたゼリー(クラゲ)J (the vile jelly) (52)と呼ばれる.

そしてなによりも,このテクストの海をクラゲの様に浮遊する眼の身体性が

強調されるのは,この眼が頻繁に涙を流すという事実である(17目8,27). こ

の涙を流す眼は同じ単眼であっても遠近法において想定されている単眼とは

まったく違う.それはあくまで一つの眼が一つの覗き穴を通し,固定された

ままただ前景だけをとらえ, しかもこの単眼によって切り取られた景色は

たった一つだけの視点に還元され脱身体化されるのだ.もちろんこの単眼は

運動せず,まばたきもしない,まして涙など流すはずもない. r見ちがい言

いちがい』の中を浮遊し涙する眼とは,ベケットがこの脱身体化された身体

から挟り出し受肉させたものに他ならない.

しかも,この眼はあたかも一匹の生物であるかのように,r息をつきJ(22),

「むさぼり食いJ(23), r消化するJ(24). かくして,眼という器官と視覚と

いう感覚は,鼻や肺といった呼吸器系あるいは口や胃腸といった消化器系の

身体器官へとその感覚が転移されるのだが,それはまた視覚という感覚に与

えられた特権的地位とそれに付随する認識の光学モデルに真っ向から対立す

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26 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミユエル・ベケットの[見ちがい言いちがいj一一

る反視覚中心主義的な身体表象でもある.マーティン・ジェイは視覚文化論

の古典となった『うつむいた眼』においてパタイユ,サルトル,メルロ=

ボシティ,ラカン,アルチユセール,フーコー, ドゥボール,バルト,デリ

ダ,レヴイナス,といった二十世紀のフランスの思想家,哲学者,文学者た

ちによる反視覚中心主義的言説を概観した.ジェイは同書の中でベケットに

ついては言及していないが,同時代人たるベケットもこの系譜に加えること

ができるのは間違いないだろう.例えば,メルロ=ポンテイの視覚論,感

覚論と『見ちがい言いちがい』におけるべケットの視覚論との類似性は注目

に値する.

見るものは見られるものから隔離されている, と伝統的な視覚論は口をそ

ろえて述べる.視覚というものがこれまで特権的地位を得てきたのも,視覚

が対象から距離を置いた知覚であるという理由ゆえであるが,メルロ=ポ

ンテイは視覚に関するこの自明の大前提を否定する.彼にとって視覚はもの

に密着,すなわち,見えるものはわれわれの視線に巻きっき,べっとりとは

りついているのだが,まさにそれは『見ちがい言いちがい』のあの眼を想起

きせずにはいられないだろう.その限は距離を置いた監視や観察をするので

はなく,実際,老婆にまとわりっき,巻きっき,癒着していたしあるいは

文字通り窓に「はりついてJ(12)いた.さらに注目すべきは,この身体的

な眼が呼吸し,食べ,消化するといった具合に, I感覚の転移」が起こって

いることだ.このいわゆる「共感覚」についてベケット自身エイゼンシュテ

イン経由で大いに関心を示していたが 8メ]レロ=ポンテイもまたこの感覚

の転移及び共感覚について例をあげながらことあるごとに言及している 9

物と交わる視覚,あるいは諸感覚の相互感覚的構造たる共感覚は彼の晩年の

テクストでは「転換可能性J(尚versibilite)という言葉に包括されるのだが,

それは身体と世界が〈肉〉として編みあわされ,縫合されているという出来

事の中じ存在の生成過程をとらえようとするものである.注意しなければな

らないのはこの〈肉〉とは質料的なものではないということだ, I肉は,物

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj一一 27

質ではない.それは,見えるものの見る身体への,触れられるものの触れる

身体への巻きっきJ(~見えるものと見えないものJ 202)である, と述べら

れているとおり,この〈肉〉とは転換可能性そのもののことである.そこで

は触れるものが触れられるものへ,見るものは見えるものへと裏返る.メル

ロ=ポンテイはこの巻きっき絡み合う相互侵蝕的関係を手袋を例に説明し 10

さらには,転換可能的な出来事としてとらえられた視覚について, r森のな

かで,私は幾度も私が森を見ているのではないと感じた樹が私を見つめ,

私に語りかけているように感じた日もある…….J (~眼と精神J 266) という

画家アンドレ・マルシャンの言葉を引き,能動性と受動性,主観と客観が互

いに侵蝕し,自分の身体が内と外とにたえず反転し二重化される経験につい

てEftっている.

かくして,われわれの視覚というものがこのようにく肉〉の中に縫合され,

織地の表裏が互いに反転するかのように表現されるのだが, ~見ちがい言い

ちがい』においてもこの転換可能性が,光(白)と影(黒)の相互侵蝕,相

互反転といった形で示されていた 11さらには, r両手は,布の下の肉を感じ

ているか.布の下の肉は,両手を感じているか.J (32) と感じるものが感じ

られるものへと反転する様が言及され,なによりも,織地の表裏が互いに反

転する様子は「肉屋の牛のように裏返しに広げてあるJ(47)マントによっ

て象徴的に示されることになるのだ.

しかも,見るものが同時に見えるものであるということは老婆の置かれた

状況からも明らかとなる.確かに,暗室であり巨大な眼である小屋の中から

外の世界のスベクタクルを見ている間の老婆はただの観客のままであった.

しかしいったんこの小屋の外に出てしまった途端に,眼差しの主体であっ

た老婆は眼差しの対象へ すなわち,観客から見世物自体へと変容してしま

う.なぜなら小屋の外に出る行為とは,映画の中へ,スクリーンの中へ入り

込む行為に他ならないからだ.小屋の外の世界はこのスクリーンには事欠か

ない.降り積もった雪,白い壁,需,薄い氷の膜,そしてなにより小屋の周

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28 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj一一

りに広がる砂利土.そのスクリーンの中に老婆の姿がぼんやりと浮かび上が

る.rまるで魔法のように姿をみせるだけ.しかし少しずつ姿を見せ始めた.

砂利土の上に.はじめはおぼろげに.そしてだんだんはっきりと.J (13).

しかも彼女は十二人の男たち,すなわち二十四個の眼一一ちなみに映写機内

でのフィルムの走行速度は毎秒二十四コマである一一ーに囲まれ,分割され,

さらには魔術師メリエスのトリック撮影のようにスクリーンから忽然と姿を

消す.老婆はその幻影としての地位をたった一瞬で現前を不在に,不在を現

前に置き換える映画技法そのものに負っているのだ.r彼らは彼女を中央に

とらえ続ける.ほほ真ん中に.こうして彼らは,彼女以外の何を取り囲むこ

とができょう.彼らの取り囲む輪から,難なく彼女は消える.彼らは,彼女

をそこから消えさせてやるJ(23).

かくして,キートンが『キ一トンの探偵学入門1rキ一トンのカメラマン』

において,そしてジガ・ヴ、エルトフが『カメラを持った男』において映画の

中に映画を最初に導入したように,ベケットも『見ちがい言いちがい』にお

いて映画の中の映画を巧みに描き出す.映画館であり暗室であり頭蓋骨

でありそして眼である小屋から,観客主体である老婆が外で繰り広げられる

光と影のスベクタクルを見るだけでなく自らがその見世物の一部となる. し

かもそのスクリーンの内側の世界は.r月はなく,星で穴の聞いた空が,薄

い氷の膜でおおわれた窪みに映るJ(Moonless star-studded sky reflected

in the erosions filmed with ice.) (42) 12といった具合に,小屋の外の世界に

おいても暗室と眼の構造が執劫に反復されることによって,老婆が決してこ

の暗室と眼から抜け出せないことが強調される.かくして内と外,能動性と

受動性が相互反転,相互侵蝕した構造によって,老婆の身体,そしてなによ

りも老婆の眼差しが二重化されるのだ¥

観客主体としての老婆と彼女を窃視している眼は,映画の基本構造たる「視

姦的体制J(Metz) 13を暴露し,さらには,この内と外に二重化され相互反

転した暗室の構造によって,老婆が見ていると同時に見られている観客であ

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj- 29

ること,すなわち窃視される窃視者であることを露呈させる.この相互反転

した暗室の構造が象徴的に示しているのは,観客自体がすでに見世物の中に

いること,すなわち老婆が自分自身の眼差しに魅了されているということで

ある.彼女が見ていたのは,窃視している自分自身の姿であり,まさにこれ

こそが彼女が見たいと欲望したものなのだ.

さらに,内と外に二重化された暗室の構造は映画装置がイリュージョンを

生じさせると同時に,そのイリュージョンを作り出す仕掛けを露呈させてい

ること,すなわち映画という光学装置自体が一つの見世物になるということ

を喚起させずにはおかない.観客はイリュージョンを経験すると同時にその

経験を外から見るという二重化された眼差しによって,イリュージョン自体

を構成するとともにそれを解体する,すなわち,能動的な見るものとして見

世物の中に自らを位置づけると同時に 受動的な目撃者となることが可能と

なる 14

かくして. r見ちがい言いちがいJは観客主体の窃視症的欲望及び映画自

体に内在する視姦的な構造さらには映画装置そのものに対する欲望といった

映画的欲望を前景化する.その一方で,テクストには,映画というものが一

体どのようなものかを明らかにするように見えながら見事に覆い隠そうとす

る隠蔽の働きも伴っている.その要因は何かと言えば,それは「語り手Jで

ある.いや,実際のところ,はじめからこの語り手はわれわれの前につねに

露出しすぎていたと言ってもよいのだが,テクストを浮遊する眼の方にわれ

われ読者は注意を奪われていたのだ.この浮遊する眼の偏在性はすでに述べ

たが,本当はこの眼はわれわれを騎す単なる疑似餌あるいはおとりに過ぎな

い.rこうして眼はあざむく J(23). むしろ. r見ちがい言いちがいj という

光学空間に偏在している神出鬼没な眼とは,実は,このテクストの語り手に

他ならないのだ.

この語り手こそがわれわれ観客=読者の眼差しを覆う需であり,眼球であ

り,ヴ、エールである.そして,テクストにはイ也にも,カーテン,窓,スカー

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30 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj一一

ト,仕切り壁,上げ蓋,まぶた,涙,というように事物に覆いをかける実に

様々な視界を遮るヴェールが存在している.映画理論家ベラ・パラージュは

クロース・アップは「事物の上にかぶさっているヴェールを剥ぎ取る」とそ

の効果を指摘しさらにはクロース・アップによってもたらされた映画にお

ける「人間の顔の発見」について,すなわち,クロース・アップの徽視的観

相が可能にした表情の演技について述べていた (Balazs60). そして,語り

手も「釘」ゃ「文字盤」を,さらには,次のように老婆の顔をクロース・アッ

プでとらえようとする.

細い唇は,もう決して聞くことがないらしい.ほんのわずかな肉が唇の

問から覗いている.昔与えたり受けたりしたキスの,好きになれない場

所.または与えただけ.または受けただけ.何をおいても印象的なのは,

わずかに上向いた口の隅.微笑? そんなことが可能か? 昔の最後の

微笑の影.こんな口が,突然消えてしまう最期の光でほんの少し見える.

むしろ消えてしまうのは口の方だ.また聞に戻り,そこであいかわらず

微笑する.それが微笑とよべるなら. (48θ)

一見,この顔のクロース・アップについても徹底的にヴェールを剥ぎ取ろう

とするその手つきは変わりないように見える,顔を覆うマスクを剥ぎ取り素

顔を暴きだすだけでは満足せず,レントゲンの眼差しのようにその顔の下の

「頭蓋骨の気違い病院J(the madhouse of the skull) (20)まで,さらには

その下の「模造の脳J(mock brain) (54)に到達するまで剥ぎ取るかのよ

うだ.ベケットはかつて言語について.rその背後にあるもの(あるいは無)

に到達するために破らねばならないヴ、エールJ(Disjectα171)であると語っ

ていたが,一方で,そのヴ、エー1レを剥ぎ取ること,すなわち「言語を一挙に

なくすことjはできないので「言語に次々と穴を聞けて,その背後に潜むも

の一一何かであれ無であれ一一ーがしみ出てくるようにすることJ(Disjectα

172)が必要だと述べていたことを思い出そう.ただヴェールを剥ぎ取るの

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミユエル・ベケットの[見ちがい言いちがいj一一 31

ではなくその表面に穴を聞けるというベケットの戦略はこの顔のクロース・

アップに対しでも有効である.拡大され,光を受けスクリーンとなった顔.

そこに浮かび上がる細い唇.その唇の聞から肉が「覗いているJ(peeping)

ことからもわかるように,まさにスクリーンに穴が穿たれるのだ. しかもそ

れが覗き穴であるという事実は,再び窃視的構造という眼の映画的欲望を浮

かび上がらせる.すなわち,クロース・アップによって覗き見するものが逆

に覗かれているのだ.

さらに注目すべきは,こののっべらぼうの顔というスクリーンの上では眼

と口が交換可能となっていることだ.あたかもそれはバラバラのパーツを組

み合わせて一つの顔を構成するモンタージュ写真,あるいは福笑いのようで

もある.もちろん顔の輪郭,眼,唇,脳みそ,頭蓋骨, といった各パーツを

断章の中から寄せ集め縫合しなければならないのはわれわれ観客=読者であ

るのは言うまでもない.語り手は口の隅の微笑をクロース・アップし注目さ

せるのだが,口が消え去った後,チェシャ猫のニヤニヤ笑いのように微笑だ

けが暗閣の中に残る.あるいは別のシーンでは「眼を大きく聞けたときのい

つもの微笑は,眼を閉じた時はもう同じ微笑ではない.観察する都度,口は

少しも動いていなかったがJ(50) と,まぶたの開聞の間にある微笑につい

て語られる.これらは見ることのできないものを見ること,すなわち,人の

顔の行聞を読むこと(あるいは唇と唇の聞を,まばたきとまばたきの聞を読

むこと)であり,それはまさにモンタージュという映画技法の本質でもある.

こうして観客=読者はつねに自らの読みのプロセスに巻き込まれる.語り

手は. I彼女がもう死んでしまっても,別に驚くことではない.彼女はもち

ろん死んだのだ. しかしさしあたってそれでは都合が悪い.だからまだ彼女

は毛布の下で生きながらえているJ(41)と自らが物語を担造していること

を自白する. しかしながら,物語を裡造したのはむしろわれわれの方である

ことにすぐに気づかされるだろう.なぜなら,語り手というヴェールを通し

示されるのは,老婆,金星,小屋,砂利,野原,石,十二人の男, といった

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32 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの f見ちがい言いちがいj一一

ように限りなく脆弱な素材をもとにした追憶とも幻想ともはっきりしない唆

昧なイメージのモンタージュでしかないにもかかわらず,われわれはこれら

の六十ーの断章を再モンタージュして一つの物語を編集してきたのだから.

その物語とは自らの眼球の後ろにいる老婆の姿,窃視してる自分を窃視する

という映画的欲望にとらわれた観客主体の姿であった.そしてまた,この自

らの眼球の後ろにいるひとりの老婆の物語は,決して事物を直義に見ること

はできない,すなわち自らの視線を遮る眼球を通してしか見ることができな

い人間の姿でもあった.語り手という眼球を通してのみわれわれは以上のこ

れまで述べてきた物語に到達することができたという点において,この語り

手とはわれわれの視線を遮る自分自身の眼球そのものであるのだ.この眼を

通しわれわれ観客=読者は実際には見てはいない物語=映画を見たと思い込

んでいるだけに違いない.われわれは「見ちがい言いちがい」を繰り返す.

そういえば, I注意 J,I注意.J, I注意.J. I注意.J, I注意.J……と幾度と

なくテクストにおいて警告を受けていたではなかったか.われわれはこの老

婆と同じ位置にいる観客=読者であり, I自分自身の眼球の後ろにいる観客」

とは,実は,読者であるわれわれのことに他ならないのだ.

『見ちがい言いちがい』の執筆時期,ベケットはちょうどシェイクスピア

の『リア王』を読み直していたのだが(Knowlson589),その中で,両目を

扶り出されたグロスターが, I眼が見えていたときは,蹟いたものだ.J (第

四幕第一場)と言っていたように,われわれもまたよく見るためには盲目に

ならなければならない. r見ちがい言いちがい』はわれわれに能動的な盲目

になること,すなわち,“EyesWide Shut"することを要求する. Iすっかり

眼を閉じて,彼女を見るだけ.彼女とその他すべて.眼をすっかり閉じ,彼

女を死ぬほど見ること.J(30). 求められているのは眼が閉じられていてか

っ同時に開いたままでいることである.かくして,映画的欲望にとらわれた

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自分自身の眼球の後ろにいる観客 サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj一一 33

眼はまぶたの内と外で相互反転する.

『見ちがい言いちがいj という光学的テクスト空間を自在に浮遊している

語り手の眼差しは,観客=読者を不可視で実体のない目撃者に還元し,あた

かも自分の眼差しがそこにあることとは関係なしにいかなる欲望にも左右さ

れることなく,老婆と眼に起きている出来事を見ているかのようだ.観客は

映画の登場人物に同一化する前に純粋な眼差しとしての自分自身,すなわち

スクリーンを見つめる抽象的な点たる一種の超越的主体に同一化し (Metz

49),そして,映画の観客が視線としての自己に同一化する以上,撮影機に

同一化する以外にどうすることもできないのと同じように,われわれ読者も

またこの撮影機と同じ位置を占めるテクストの語り手への同一化を余儀なく

される. しかしながら,デカルトの暗室にいる男の挿絵が身体を消去した観

察者が外の世界を単眼で超越的な位置から見ることを可能にする「デカルト

的遠近法主義」の完全なる表象であると同時にそれを暴露していたように,

『見ちがい言いちがい』の語りの構造はこの同一化の作用に揺さぶりをかけ

ることにより自らの眼差しのイデオロギーを露呈させる.語り手という眼球

を通したわれわれ観客の眼差しは純粋無垢な公平なものではないこと,そし

て,われわれの欲望は自分自身の眼差しを欲望していた老婆のそれと同じで

あることが明らかとなる.いやそればかりか,自分自身の眼球の後ろにいる

観客としての老婆の物語はわれわれ自身の眼のために上映されていること,

われわれ自身の眼差しすなわちわれわれの映画的欲望は最初からテクスト

に取り込まれていたことが露呈する.これこそベケットが,語り手が,そし

てテクストそのものがわれわれ観客=読者のために仕掛けた毘であり見世物

である.

そして忘れてはならないのは,ベケットにとって言語がヴェールであった

のと同じように眼球もまたヴェールであったということだ.ここにおいても

また言語と視覚,書くことと見ることとの境界が侵蝕し合う.だからこそつ

ねに問題となるのは,単に「見ちがい」だけでも「言いちがい」だけでもな

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34 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの f見ちがい言いちがいJ一一

く「見ちがい言いちがいJであるのだ.そしてわれわれがこのテクストによっ

て直面させられるのは9 われわれがヴェールの外,すなわち言語と眼球の外

には決して出られないということである. i見ちがい言いちがいjを繰り返

すべく運命付けられているにもかかわらず,欲望に突き動かされたわれわれ

は語ることを見ることをやめない.この点において, r見ちがい言いちがい』ブロジェクション

というテクストはまさにわれわれにとってのスクリーンとなる.上映=投影

こそがその本質である映画と同じくわれわれ観客は自らの欲望,すなわち眼

の映画的欲望をこのスクリーンに投影=上映する.このヴ、エールであるスク

リーンにベケットは穴を穿とうとするのだ. しかしすでに見たように,そこ

から惨み出るのは「模造の脳J,あるいは「頭蓋骨の気違い病院Jが作り出

した「影J(figment) (20) でしかない.いやそれどころか,ベケット自身

が早々に看破していたようにヴ、エールの背後には「無」しかない.

ヴェールの背後には真理が隠されているのだという錯覚をヴェールそのも

のが担造する.語る主体がその発話行為の中心ではないのと同じく,窃視す

る主体もその視覚経験の中心ではない.ベケットが穴を穿ったスクリーンか

ら覗いているのは脱中心化されたわれわれとわれわれの視覚である.デカル

トの挿絵の眼球の後ろにいる窃視する男は,観察主体であるとともに,その

埋め込まれた眼球の網膜を通し,眼底である暗室と化した部屋の壁に映し出

された幻影でもあったのだ.かくして,映像と言語,映画と文学の境界を侵

犯するベケットの「眼球語」であり「新リア王Jたる『見ちがい言いちがいj

は,われわれ読者の眼の映画的欲望を巧みに取り込み,その欲望を映画以上

に映画的に表象し続ける.またそれゆえに,言語と映像の臨界点を見極めそ

の強度を測ろうとするものにとって決して避けては通ることのできないテク

ストであり続けるのだ.

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj一一 35

1 Steven Connorはベケットの晩年のすべての散文作品を特徴付けているテクストと

余白を交代させるまばたきの構造を指摘しさらにはヴァルター・べンヤミンに言

及し次のように述べている・“ForWalter Benjamin it is precisely the blinking

structure of the cinema, with its co-ordination of multiple images, which gives it

its power both to captu1'e and dissect the world of appea1'ance, and even, with

、hedynamite of the tenth of a second', to blow apart the ideal 01' fetishised

structu1'es of looking." (98).

2 f見ちがい言いちがいJからの引用は SamuelBeckett, III Seen fll Said. (London:

John Calde1', 1997)に拠るものとし引用箇所のカッコ内にページ数を記すこと

とする.尚, 日本語での引用は宇野邦一訳を用いたが英語版にあわせ変更した箇所

もある.

3英語版では "Careful."フランス語版では“Attention."と表記される. r注意」とい

うキータームはこれまでにも様々な映画理論家たちの注意を引いてきた 例えば,

映画の再現的イリュージョンと観客のフィルム受容を論じる HugoMunsterbergは

映画を心的過程としてとらえ,注意の芸術であると指摘しさらに,われわれの知

覚世界において,クロース・アップが注意という心的な作用を対象化しそしてそ

の対象化によって,いかなる舞台の力をもはるかに超越する一つの手段を芸術にも

たらしたと主張する (Munste1'be1'g87) また JonathanCra1'yはSuspensionsof

Perception: Attention, Spectαcle,αnd Modern Cultureにおいて近代的主体が「注

意jをめぐる様々な言説のもとで構成され,そしてその主体が変容していくさまを

活写している

4 r晴れた日の夕方には,銀色の照り返しこのときクロース・アップ.どうしても

釘が目立つ.長い間このイメージ.突然それがぼやけてしまうまで.J (19) ; r文字

盤のクロース・アップ.他でもない.分刻みになった白い円盤.秒、刻みでないとして.

黒い六十の点.数字はない.針は一つだけ 細い黒の矢.J (45) 5 “Cartesian Perspectivalism"の象徴的光学装置としてのカメラ・オブスキユラに

ついては JonathanCra1'y, Techniques of the Observer: On Visionαnd Modernity

仇 theNineteenth Centuryの第二章を参照のこと.

6 眼差しがそれ自身の器官,すなわち眼によって覆い隠されているという自己二重化

についてはスラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留l 12沼2、9弘,及びび、

MiranBo 量おov吋icι,

7 この干神申出鬼没な眼はジガガ、.ヴエルトフの「映画眼」をわれわれに想起させずず、にはお

かないだろう.確かに,ヴエルトフの映画眼といえば,まず何よりも, rカメラを持っ

た男Jでの術搬撮影,ロール(カメラの横倒し),二重焼付けF 合成,画面分割,

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36 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいj一一

移動撮影,スローモーション,そしてこれらの映画技術を総合するモンタージュを

駆使したコラージュ的な現実の再構成が強調されるが,今ここでわれわれが注目す

べきは,ヴェルトフの「映画眼」の偏在性である. Seymour Chatmanの次の指摘

も参照のこと:“Deleuzereminds us that Dziga Vertov's‘kino-eye' is not limited

as a human eye is; it is ubiquitous, the product as much of montage as of

cinematography. And its powers are, to use Banfield's terms,‘private and

subjective,' yet ‘impersonal.' Deleuze would argue that it is precisely the

objectivity of the cinematic narrator that requires us to 'construct,' rather than

just to‘see,' since what the kino-eye presents us with is a construction of views

that no human eye could see" (138).

ちなみに,パスター・キ」トン主演のベケットの映画作品『フィルム』の撮影監

督はボリス・カウフマンであったが,彼がヴ、エルトフの実弟であったことも記憶に

とどめておいても無駄ではないだろう. また,ベケットとヴェルトフの映画眼につ

いては拙論「ベケットの映画術一-rフィルム』のフィルム体験一一」を参照lのこと.

8 エイゼ、ンシュテインの共感覚とベケットとの関係についてはM位、ikoHori,“Elements

。fHaiku in Beckett: The Influence of Eisenstein and Arnheim's Film Theories" を参照のこと.

9 ["われわれは,対象の奥行や,ビロードのような感触や,やわらかさや,固さなどを,

見るのであり一一それどころか,セザンヌに言わせれば,対象の匂いまでも見るの

である.J (W意味と無意味J19) ; ["シルダーの観察によれば,鏡に向ってパイプを

ふかしていると,パイプの材質の滑らかな熱い表面が,実際に自分の指のあるとこ

ろにだけではなく,肉体を離れた指にも,つまり鏡の奥にあってただ見えるという

だけの指にも感じられるということである.JU眼と精神J267) ; ["諸感官は,物の

構造にみずからを開くことによって,たがいに交流しあう.われわれはガラスの硬

さともろさを見るのであり,それが透明な音とともに割れるときには,この音も日

に見えるガラスによって担われるのだ.われわれには,はがねの弾性や灼熱したは

がねの可延性,鈎の刃の堅さ,鈎くずの柔かさが見えるのである.さらに,対象の

形はその幾何学的輪郭ではない.つまり,形は対象の固有の本性と或る関係をもち,

視覚にだけでなくわれわれのすべての感官に語りかける.亜麻や綿の織物のひだの

形はわれわれに繊維のしなやかさや乾燥のぐあい,織物の冷たさなりなまあたたか

さなりを目に見せる.最後に,可視的対象の動きは,視野のなかでその対象に相当

する色の斑点が単に位置を変えるということではない 烏が飛び立ったばかりの枝

の動きのなかに,われわれはそのしなやかさや弾性を読みとるしまたこのように

してりんごの木の枝と白樺の枝は即座に区別される.われわれには砂地に打ち込ま

れる一塊の鋳鉄の重み,水の流動性,シロップの粘着性が見える 同様に,私の耳

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自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの f見ちがい言いちがいJ- 37

には,車の騒音のなかで舗石の堅さや凹凸が聞こえるしまたくやわらかい〉音とか,

〈つやのない〉音とか,くかわいた〉音といった言い方にも理由がある.聴覚がわれ

われに本当の〈物〉をあたえるかどうか疑う人があるとしても,聴覚が〈音をたてる〉

なにかを空間のなかで音の向こうに呈示しまたそれをとおしてほかの感官と交流

するということは少なくとも確かで、ある.最後に,もし私が,眼を閉じて,はがね

の棒と菩提樹の枝をたわめれば,私は両手のなかで金属と樹木のもっとも内奥の組

織を知覚する したがって,比類のない性質とみなされるく異なる感官の与件〉は

同じ数だけの別別の世界に属するとしても,それぞれが,その特殊な本質において,

事物を転調するひとつの仕方である以上,それらはすべてその意味の核によってた

がいに交流するのである.J (r知覚の現象学2j40-1).

10 r転換可能性一一裏返しになった手袋の指一一ひとりの目撃者が表裏両方のがわに

まわって見る必要はない.私が一方のがわで手袋の裏が表に密着しているのを見る

だけで,私が一方を通して他方に触れるだけで十分である(領野の一点ないし一面

の二重の「表現J).交叉配列とは,この転換可能性のことなのである ……〈対自〉

とく対他〉とがあるわけで、はない.それらはたがいに他方の裏面なのである だか

らこそ,この両者はたがいに合体するのである:投射取り込み.ー~ー私の前にい

くらかの距離をおいて,私一他者,他者一私の振替えがおこなわれる線があり,境界

面があるのである.一一与えられたただ一つの軸一一手袋の指の先は無である.

ーーしかしそれはひとが裏返すことのできる無であり,そのひとがそこにもろも

ろの物を見ることになる無なのである.一一否定的なものが真に存在するただ一つ

の「場Jは援であり,つまり内と外とがたがいに密着しているところ,裏返し点で

ある.一一Ja見えるものと見えないものj388θ) .

11あるいは,フランス語版では,消えていく老婆の様子が天体が他の天体を隠してし

まう現象である「蝕J(ses eclipses) (20)に喰えられることによっても,この白と

累,光と影の侵蝕と反転が前景化される.

12“star-studded sky" (星でいっぱいの空)とあるが,もとのフランス語版では“Ciel

sans lune crible d'astres que reflechit du fond des creux denudes une mince

pellicule de glace." (52) と表現されていることからもわかるように,明らかにこ

こで強調されているのは単に闇夜に星がいっぱい出ているということではなく,星

という鋲で穴の開けられた夜空の様子である.また注目すべきは老婆の小屋と外と

の二重化した暗室の構造だけでなく.r星で穴の開いた空が,薄い氷の膜でおおわ

れた窪みに映る」ということからもわかるように,互いに映し鏡となった空と野原

の表面の相互反転する構造が示されていることである.

13映画には視姦的な構造が組み込まれていることを指摘したのは ChristianMetzで

ある. MetzはThelmaginαrySignifier: Psychoαnαlysisαnd the Cinemαの中で,

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38 自分自身の眼球の後ろにいる観客一一サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがいJ一一

映画の構造とその観客の関係を次のようにとらえられている.映画は知覚への情熱,

視姦的欲動,すなわち見ょうとする欲望があってはじめて成り立つ.窃視者は対象

と践の聞の,つまり対象と自分の身体との聞に十分な距離を設けることに一番気を

配る.それはちょうど,映画の観客がスクリーンから近すぎも遠すぎもしないとこ

ろに座るのと同じである.観客がいる暗闇とスクリーンという一種の壁の穴は,鍵

穴を連想させずにはおかない.また,上映されている映画を見ている観客は劇場の

場合と違い一時的に一体となった集団としての観衆を形づくることはない.それは

個々の人間の寄せ集めであり,その見かけとは反対に小説の読者に似ている.さら

に彼の指摘によれば,この映画に固有の視姦的体制を定義づけるのは見つめられる

対象の不在である 一般的な窃視においては見つめられる対象が存在しているがゆ

えに窃視症患者と露出症患者は共犯関係にある.一方,映画的な窃視症においては,

撮影時という俳優が現実に存在していた時には観客はまだ現実に存在せず,逆に上

映時,観客が現実に存在しているときには,俳優はもはや存在していない.窃視症

患者と露出症患者はすれ違いにおわる.このように映画は露出狂にして隠蔽者とい

う一人二役を見事に演じる.そしてこの映画というものが規定する観客とは, じっ

と動かす、に黙ったままで,たえず運動機能低下,感覚機能増進の状況に置かれ,こっ

そりと画面をうかがっている観客である.彼は視線という不可視の糸で自分自身を

つなぎとめ,最後の瞬間に純粋な視線だけでいることに飽きた自己自身へ逆説的な

形で同一化することによって,ょうやく主体としての自己を取り戻す.そして,映

画を理解するためにこの観客に求められるのは,映写された対象を不在のものとし

て,またその映写像を現存のものとして,そしてその不在の現存をシニフィアンと

して知覚することである.

14 Metzは欲望の対象となる肉体に関してフェティッシュが占めている同じ位置を映

画の技術的な装置は総体としての映画に関して占めていること指摘している (74

6). また,イリュージョンを体験すると同時に,そのイリュージョンを生じさせる

光学装置そのものを外側から見るという原一映画装置の観客が占めた二重の立場に

ついては RosalindKrauss,‘'The In/pulse to See"を参照のこと.

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