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Meiji University Title �7�IXAuthor(s) �,Citation �, 536: 169-242 URL http://hdl.handle.net/10291/19933 Rights Issue Date 2018-12-31 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

明治大学教養論集通巻536 号 (2018• 12) pp. 169-242 山口泰司訳明治大学教養論集通巻536 号 (2018• 12) pp. 169-242 サルヴェパリー・ラーダークリシュナン

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Meiji University

 

Titleサルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学

』(7)第IX章 バガヴァッド・ギーターの人格神論

Author(s) 山口,泰司

Citation 明治大学教養論集, 536: 169-242

URL http://hdl.handle.net/10291/19933

Rights

Issue Date 2018-12-31

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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明治大学教養論集通巻536号

(2018• 12) pp. 169-242

サルヴェパリー・ラーダークリシュナン

『インド哲学』 7

山口泰司訳

第IX章

バガヴァッド・ギーターの人格神論

バガヴァッド・ギーター

マハーバーラタのビーシュマ・パルヴァの部分を形成するバガヴァッド・

ギーターは,サンスクリット文学の中では,最も人気の高い宗教詩である。

それは,「実在するどんな既知の言語においてであれ,最も美しく,おそら

くは唯一の,真の哲学調詩である」I) と言われている。それは,哲学,宗教,

倫理の教訓を伝える書物であって, シュルティ,すなわち天啓聖典ではなく,

スムリティ,すなわち聖伝書とみなされている。けれども,ある作品が人間

の心に及ぽす影樗力の強さが,その書物の重要性をはかる鍵だとしたら,ギー

ターは,インド思想全体で最も重要な作品だと言ってよい。それの解放のメッ

セージは,単純である。金持ちだけが,供犠を営むことで,神々を眠らせる

ことができ,また教養のある者だけが,その教養によって,知識の道に従う

ことができるとされていたのに対して,ギーターは,万人の手の届く方法を,

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つまりはバクティ,神への全面帰依の方法を,教えているからだ。詩人は,

それ教える教師は,人類のもとに降った神御自身なのだとして,その神が,

生涯の大危難に立たされた人物の代表,アルジュナに語りかけるのである。

アルジュナは, 自分の目的の大義を確信し,敵と戦う決意を固めて戦場に赴

く。けれども,心理的なものが兆した途端,彼は, 自分の義務を前に, しり

込みしてしまう。彼の良心は,混乱し,彼のハートは,苦悩に引き裂かれ,

その心境は「あたかも小さな国に暴動でも起きているような感じ」だと言っ

たらよい。殺害することが罪であるのなら,愛と崇拝の対象を殺害すること

は, もっとひどい罪ではないか。アルジュナは,この世の重荷と悲惨を感じ

て,それと闘っている個人の,典型である。彼は, 自分の欲望や情熱のむな

しや, 自分に対立する世界の実相などを知ることのできる,揺るぎないスピ

リットの核心をまだ自分のうちに打ち立てていないのだ。アルジュナの意

気消沈は,気落ちした人間の一時の気分などではなく,物事の非現実感を刺

激するような空虚感でもあれば,心に感じられる一種の麻痺感でもある。ア

ルジュナは,必要なら,命さえ投げ出す覚悟も,できている。それなのに,

何をすることが正しいのか,それが分からないのだ。彼は,恐ろしい試練に

直面して,内なる苦悩を強烈に経験している。彼の叫びは,単純なものでも,

空恐ろしい叫びであって,現実の個々のドラマを超えたところを見る目を持っ

た人なら,誰でも認識することのできるような,人間の深刻な悲劇を意味し

ている。ギーターの第一章で見られるアルジュナの絶望的気分は,神秘主義

者が「魂の暗い夜」と呼んでいる,上昇への道には不可欠な一歩である。そ

の先の啓蒙と悟りの段階は,対話が進むにつれて見いだされていく。第二章

から先は,哲学的分析が続く。人間にとって不可欠なものは,体でも感覚で

もなく,恒常不変なスピリット,霊魂なのだ。アルジュナの心には,新しい

道へのスイッチが入る。魂の生命は,クルクシェートラの戦場によって象徴

されており,カウラヴァ族は,魂の進歩を妨げる敵なのだ。アルジュナは,

誘惑に抵抗し,激情をコントロールすることで,人間の王国を取り戻そうと

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 171

する。前進の道は,苦難と克己を辿る道である。アルジュナが,微妙な議論

や上辺ばかりの弁解によって,厳しい試練を逃れようとすると,クリシュナ

は,神の声を味方に,大音声で自分のメッセージを発して,アルジュナに意

気消沈は禁物だと警告するのである。最初の章は,人間のハートそのものへ'

の深い洞察をはじめ,様々な動機からくる心の葛藤や,利己心の力や,「悪

者」が発する微妙な囁きなどへの鋭い洞察を,示している。対話が進むにつ

れて,演劇的な要素はしだいに影を潜めていく。戦場のもろもろの反響が収

まると,あるのはただ,神と人の対話のみとなる C 戦車は,瞑想の独居房と

なり, この世の声が静まった戦場の一角は,至高者をめぐる思索にピッタリ

の場となる。

この教師は,人でもあれば,神でもあって,インドでは,最も人気のある

神である。彼は,善と美の神であり,信者たちは,彼を,鳥の翼や,花の花

弁や,地上の生き物のうち自分たちが一番歓びを感じるものに,祭り上げる。

詩人は,化身となった神なら,どのように自分に語りかけるのかを生き生

きと想像してみせる。クリシュナに我はブラフマンなりと言わせるのは, こ

の詩人の創意工夫のたけを示している。ヴェーダーンタ・スートラでも叫

インドラが「我はブラフマンなり」と宣言しているヴェーダの箇所は,人間

のアートマンは,至高のプラフマンと一つなのだという哲学的真理に言及し

ているだけだという前提で,説明されている。インドラが「私を崇拝しなさ

ぃ」と言うとき,彼は,私が崇拝する我が内なる神,アートマンを崇拝しな

さいと言っているのだ, と言うのである。 r我はマヌにしてスーリヤなり」

というヴァーマヴェーダ Vamadevaの宣言も,同様の原理に従って説明さ

れる。そのうえギーターは,浄化された個人は,叡智の火によって激情と恐

れから解放されて, 自ら,神の境地にまで逹するのだと,教えるのである。

ギーターのクリシュナは,有限者の内なる無限者を,つまりは人間のうちに

あって肉体の檻と感覚のパワーのうちに身を潜めている神を表しているの

である。

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ギーターのメッセージは,普遍的な広がりを持っていて,民間ヒンドゥ教

の哲学的基盤となっている。著者は,批判的というより,むしろ正統的な,

教養の深い人物である。彼は,宣教的動機に走ることはなく,どんなセクト

に向かって語りかけることも,どんな学派を打ち立てることもなく,吹く風

のすべてに,道を開く。彼は,あらゆる形態の信仰に共感を抱いているとこ

ろから,文化をバラバラな小口に分裂させてしまうことも, さまざまな思考

や習慣を,形が違うからと言って否認のスピリットをもって扱うことも, と

もに避けたいとする, ヒンドゥ教のスピリットを解釈する仕事には,まさに

ピッタリである悶ギーターは,その思考の力や,堂々たるヴィジョンによっ

てだけではなく,その燃えるような献身的信仰や,霊的情緒に満ちた香り高

さによっても,私たちに強く訴える。ギーターは,霊的信仰を発達させて,

非人間的慣習を突き崩すのに大いに貢献したが,批判を是としない態度のせ

いで,信仰の間違った様相をすっかり破壊するところまでは,行かなかった。

ギーターの調子は独断的であって,その著者は, 自分が誤りを犯すことが

あるなどとは,思ってもみない。自分の見届けた真理を人に授けるとき,彼

はその真理を,多面から漏れなく見届けているように思われ,またその真理

には,人を救う力があるのだと信じ切っているようにも思われる。―ギーター

には, 自分の知識と感情の丈を尽くして熱心に語る聖者かいるのであって,

自分の材料を解決済みの方法に合わせて分割しては,ひと纏まりの体系的観

念を助けに自分の教説を締めくくるといった,どこかの学派で育てられた哲

学者がいるのではない」鸞ギーターは,哲学の体系と詩的インスピレーショ

ンの中間に位置している。ここあるのは, ウパニシャッドの限りない含蓄の

代わりに,人生の問題をめぐる周到で知的な(実践的)解決なのである。

ギーターの中心的なスピリットは,ウパニシャッドのそれと同じであるが,

ただ宗教的側面に,一層大きな力点が置かれているのである。ウパニシャッ

ドを薄めて抽象化しても,魂の多面的な欲求を満たすことはできないが,人

生の秘密を解決しようという別の努力には,いっそう宗教的な趣が湛えられ

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 173

る。ギーターの著者は,ひとは,論理を愛するように仕向けることはできな

いことに気づいていたため,ウパニシャッドを足場にしながらも,そこから

宗教的含意を汲んで,それらを,民間神話や国民的イマジネーションと合体

させて活性化することで,一つの生きたシステムを仕立て上げたのである。

" 制作年代

バガヴァッド・ギーターの制作年代をめぐる問題は,簡単には解決できな

い。それは,マハーバーラタの一部にもなっているところから,テクストに

後から挿入された改鼠ではないのかと,疑われることもあるからだ。 トール

ボイズ・ホイーラー TalboysWheelerによれば,「こともあろうに,戦争

が始まる当 Hの朝,両軍が戦列に引き出されて戦闘がいまにも始まろうとす

るときに, クリシュナとアルジュナが,魂の解放に至る様々な献身形態をめ

ぐって長々とした哲学的対話に入っていくなどというのは」,不自然である。

テラング Telangは,一部この考えに同意して,バガヴァッド・ギーターは,

マハーバーラタの著者が自分の目的のために使用した,一個の独立した作品

なのだと,論じている 5)。だがしかし,戦いの始まりを前に,哲学的議論に

ふけるのは,「不適切で,的外れ」な行為だとしても,戦場といった由々し

い危難の場ほど, もの思う心を通して,究極の価値をめぐる思考を刺激して

くれるものはないというのも,確かである。霊的気質を持った心は,その時

にして初めて,感覚のバリケードを突破するのに必要な緊張を得て,内なる

実在に触れることになるからだ。アルジュナが友人のクリシュナからすでに

的確な助言を得ていて,詩人がそれを七百詩節の詩に仕立てあげたのではな

いかというのは,ありえない話ではない。マハーバーラタの著者は,機会あ

るごとにダルマの原理を練り上げることに熱心で,事実彼は, 目下の文脈で,

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まさにそのことを行っているのである。マハーバーラタには,マハーバーラ

タの制作の当初から,ギーターがそれの神聖な一部だと見なされてきたこと

をはっきり示すような,ギーターヘの内なる言及が,見られるのである鸞

ギーターとマハーバーラタの文体上の類似は,両者が,一つの全体に属して

いることを,示している匹哲学と宗教の他のシステムをめぐる主要な見解

においても,やはり意見は一致している。無為,アカルマよりも,行為,カ

ルマが好まれている 8)。ヴェーダの供犠に対する態度9)や,天地創造の順序

についての言説帆サーンキャのグナ理論や叫パタンジャリのヨーガ叫

さらには宇宙の形態ヴィシュヴァルーパの記述13)などをめぐる説明も,ほぽ

同じである。和解をめぐるもろもろの原理が,ギーターに固有なものだとも,

やはり言えない。

バガヴァッド・ギーターが,マハーバーラタの真正な一部だとしても,私

たちがその制作年代について確信を持ちえないのは,そこには,様々な時代

の作品が含まれているからだ。テラング Telangは,バガヴァッド・ギーター

への学究的な序文で,それの教え,それのアルカイックなスタイル,それの

詩作法,そして,それの内部参照など,その全般的な性格を取り上げて, こ

の作品は BC.3世紀よりも前の時代のものだとしている。 R.G.バンダルカ

ル SirR. G. Bhandarkar卿は,ギーターは,少なくとも BC.4世紀のもの

ではあると,考えている。ガルベ Garbeは,本来のギーターは BC.200年

のものであるが,現在の形は AD.200年のものだとしている。シャンカラ

Sarμkara (AD. 9世紀)は,それを注釈しており,カーリダーサ Kalidasa

も,その存在については承知している。彼のラグヴァンシャ 14)には,ギーター

の詩句とよく似た箇所が見いだされるからだ。バーナ Banaも,ギーターに

言及しているが, カーリダーサとバーナは,それぞれ, AD.5世紀と AD.6

世紀の人である。プラーナ聖典 (AD.2世紀)には,バガヴァッド・ギーター

風のギーターが,たくさん含まれている。バーサ Bhasaの『カルナバーラ』

には,ギーターから採った詩句の呼応15)のようにも読める箇所がある。バー

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 175

サは, AD.2世紀ないし 4世紀の人だとされることもあるが, BC.2世紀の

人だとされることもある。前者の見解に従っても,ギーターは,どうしても,

それ以前のものだということになる。ボーダヤーナ Bodhayanaのグリフヤ・

スートラは,ヴァースデーヴァ崇拝によく通じていて,主(バガヴァーン)

のものとされる所説を含んでいるが,これは,バガヴァッド・ギーターから

の引用だと思われる 16)。このことはまた,彼のピトリメーダ・スートラにも

当てはまる。アーパスタンバ Apastambaが, BC.3世紀に属しているのだ

とすれば汽ボーダヤーナは,それより 1から 2世紀前の人だということに

なる。したがって,ギーターを BC.5世紀のものとしても,そんなには間違っ

てはしヽ なしヽ だろう 18)。

他のシステムとの関係

当時広まっていたほとんど全ての見解が,ギーターの著者に影響を与えた

ため,著者は,自分の周りの世界に無造作に当てられているもろもろの宗教

的光線に,ひとつの焦点を結ぽうとしているのである。私たちたちとしては,

一方のギーターと,他方の,ヴェーダ,ウパニシャッド,仏教,バーガヴァ

タの宗教,サーンキャ及びヨーガのシステムなどとの厳密な関係に,注目す

る必要がある。

ギーターは,ヴェーダの正統性に,見限りをつけたりすることはない。ギー

ターは,ある特定の文化的立場の人間には,ヴェーダの訓令はまことに有効

だと考える。ギーターによれば,ひとは,ヴェーダの定めに従わなければ,

完全性に達することは不可能である。供犠の行為は,見返りをいささかも期

待しないで行われることが,求められる 19)。だがしかし,ある特定の段階を

超えると, ヴェーダの儀礼を行うことが,とかく,至高の完全性に達するこ

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とへの障害となる。ヴェーダの神々の仰々しい性格が,受け入れられなくな

るのである。ヴェーダを遵守することは,私たちに,力と富を確保してくれ

ても,私たちを自由へと,まっすぐ導いてくれるわけではない。解放は,真

実の自己を発見することによって,はじめて見出しうるものであるからだ。

解放の秘密が,私たちの手のうちにある限り,ヴェーダの業を踏み行うこと

も,無用の業となる叫

ギーターの哲学的背景は,ウパニシャッドから採られている。いくつかの

詩句は,ウパニシャッドとギーターに,共通である匹クシェートラ(場/

肉体)とクシェートラジュニャ(場の認識者/霊魂)の議論も, クシャラ

(可滅)とアクシャラ(不滅)の議論も,ウパニシャッドに基づいている。

至高の実在をめぐる説明も,同じソースから引かれている。バクティ(信愛)

は, ウパニシャッドのウパーサナ(信仰・祈り)の直々の展開である。至高

者への愛は,それ以外のものすべての放棄を含意している。「私たちがこの

(真実の)存在を, 自分の住むべき世界として得ているときに,子孫のこと

など, どうしろというのか」22)。至高者への献身, 自己の克服,平安と清ら

かさの状態の獲得といった観念は, この時代の雰囲気のうちに潜んでいる。

利害を超えた働きは, ウパニシャッドにおいても擁護されている 23)。ウパニ

シャッドでは,無執着は高められた心の状態から生ずるということが,強調

されている叫ウパニシャッドの,実生活上の傾向も,宗教的傾向も,それ

ほど進んだものとはなっていないため,それ以前の思想家たちの教えを凌ぐ

ところまではいっていない。欠点のない冷たい完全性というのは,確かに,

この世の壮大な説明とはなっても,生を変容させるだけの力となるのには,

まったくもって不向きである。バーガヴァタの宗教の流行は,ギーターの著

者をして,ウパニシャッドの絶対者に輝きと透徹した力を与えたいと思わせ

た。そこで彼は,その絶対者を, シヴァ, ヴィシュヌといった様々な名前で

呼ばれる一柱の人格神,イーシュヴァラヘと仕立て上げたのだ。だが,それ

でもやはり, この著者は, 自分は失われた過去をよみがえらせているだけで,

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 177

新しい理論を唱道しているわけではないことには,気づいていた。「私が,

この不朽のヨーガをヴィヴァスヴァットに宣言すると,彼は,それをマヌに

教え,マヌが,それをイクシュヴァークに教え,そしてこの秘密が,今度は,

クリシュナによって,アルジュナヘと顕らかにされるのである」25)。この箇

所は,ギーターのメッセージが,ガーヤトリーの預言者(見神者)ヴィシュ

ヴァーミトラ Visvamitraをはじめ, リグ・ヴェーダの第三サイクルのリシ

や,太陽神に連なるラーマ,クリシュナ,ゴータマ・プッダ等の教師たちに

よって教えられた,古代の叡智であることを示唆している。各章の終わりに

付された奥付からも明らかなように,ギーターのフル・ネームは,バガヴァッ

ド・ギーターという名前のウパニシャッドである。ギーターとウパニシャッ

ドの関係についての伝統的説明は,引用句として今では人口に膀炎している

と言ってもよい次の言葉に含まれている。「ウパニシャッドは牝牛で,クリ

シュナは乳しぽりで,アルジュナは子牛で,ネクターのように甘美なギーター

は,特上のミルクなのだ」。

バーガヴァタ派の宗教が,バガヴァッド・ギーターの綜合への直接の刺激

であった。ということは,つまり,ギーターの教えはバーガヴァタ派の教説

と同じであることが,事実上示唆されている。そこで,ギーターは,ハリギー

ター(ヴィシュヌのギーター)と呼ばれたりもするのである叫

仏教には何の言及もないが,ギーターの見解のいくつかは,仏教の見解と

似ている。どちらも,ヴェーダの絶対的正統性に抗議して,カーストをより

穏当な基盤に立たせることで,カーストの厳しさを和らげようとしている。

また,どちらも,儀礼的宗教を揺るがすような,同じ霊的激震であるが,ギー

ターのほうが,いっそう保守的であるため,より不徹底な抗議となっている。

プッダは,黄金の中庸を告知したが,彼自身の教えは,それにどこまでも忠

実であったわけではない。結婚より独身を好み,御馳走を食べるより断食を

好むことは,黄金の中庸を実践しているとは言えないからだ。ギーターは,

隠者の宗教的狂気や, 日光より暗黒を好み,喜びより悲しみを好む聖者の,

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178 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

霊的自殺を非難している。偏狭と死のカルトに訴えなくとも,救済を手にす

ることは,可能だからだ。ニルヴァーナという言葉は,ギーターにも出てく

るが"¥だからと言って仏教から借りてきたことを示すわけではない。それ

は仏教に固有の言葉ではないからだ。理想的人間の記述では,ギーターと仏

教は一致している 28)。哲学的宗教としては,ギーターのほうが仏教より徹底

しているが,それは,仏教が否定的側面を強調しすぎているからだ。ギーター

は,仏教の倫理的原理を採用する一方で,仏教の否定的形而上学を,不信仰

と誤り一切の元凶として,暗に非難しているのである。ギーターは,過去と

一層多くつながっているところから,インドでは,仏教よりも恵まれた運命

に浴したのである。

ガルベによれば,「サーンキャーヨーガの教えは,バガヴァッド・ギー

ターの哲学的知見の基盤の,ほぼ全体を構成している。これらと比ぺたら,

ヴェーダーンタは,二番手にとどまる。サーンキャとヨーガは, しばしばそ

れと名指されているのに,ヴェーダーンタヘの言及はただ一度しかなく

(Vedantak1:t, XV. 15), しかも,それは, ウパニシャッドとか論文といっ

た意味でのことでしかない。したがって,現在私たちが手にしているような

ギーターのうちで哲学的システムが果たしている役割のことだけを考えるな

ら,また,サーンキャーヨーガとヴェーダーンタの間の,新旧の区別を慎重

につけることによってしか解消しえないような,相反する矛盾を考慮に入れ

るなら,バガヴァッド・ギーターのヴェーダーンタ的構成要素は,本来のギー

ターには属していないことが,はっきりする。ギーターを,宗教的側面から

探っても,哲学的側面から探っても,結論は同じになる」。ところが,サー

ンキャーヨーガという言葉が,ギーターに出てくるときは,古典的なサーン

キャ学派やヨーガ学派のことを表しているのではなく,救済を得るときの,

ただの反省の方法や瞑想の方法のことを表しているだけなのだ29)。しかも,

ギーターの時代には,一方のサーンキャーヨーガと,他方のヴェーダーンタ

の間には,はっきりした区別は何もなかったのだから,この事実だけが,ガ

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第JX章 179

ルベの解釈を正当化してくれるわけである。しかし,フィッツーエドワード・

ホールFits-EdwardHallの次の言葉は,いっそう正確である。「ウパニシャッ

ドや,バガヴァッド・ギーターや,その他の古代のヒンドウの書物などでは,

私たちは,いろいろな教説がたがいに結びついているのに出会うが,それら

の教説は,全体として相容れないものとなるような変容にさらされた後で,

いつとはなしに,長いことサーンキャやヴェーダーンタと称されてきたもの

へと,区分けされたのだ」30)。サーンキャの心理学と,同じくサーンキャの

創造の順序は,ギーターによって受け容れられているが,サーンキャの形而

上学的含意は,退けられている31)。カピラ Kapilaの名前には言及されても,

パタンジャリ Pataii.jaliの名前には言及されていない。ところが, このカピ

ラがサーンキャ体系の創始者であるかどうかは,不明である。仮に,その通

りだとしても,その体系が,そのころまでに,あらゆる細部にわたって仕上

げられていたとは,限らない。プッディすなわち知的理解力,アハンカーラ

すなわち自我感マナスすなわち心といった言葉が出てきても,それらは,

いつもサーンキャと同じ意味合いで用いられているわけではない。プラクリ

ティという言葉についても,同じことが言える 32)。サーンキャが,神の存在

という問題を慎重に避けているのに対して,ギーターは,神の存在を確定す

ることに,この上もなく熱心であるからだ。

プルシャとプラクリティの区別は認識されているが,二元論は克服されて

いる。プルシャというのは,一つの独立した要素であるのではなく,神の形

態という,一つのプラクリティでしかないからだ。(プルシャという)心霊

的知性も,より高次の自然(プラクリティ)なのだ。私たちがサーンキャの

体系を扱うときには,サーンキャの体系が,プラクリティもしくは自然の全

様態を,それが自分に対して現れたり自分にとって存在したりするときの恒

常的な主体を含んだものと見なす次第を,眺めることになる。プラクリティ,

すなわち自然は,無意識ではあるが,それの活動には,魂の自由に委ねられ

るとされる目的がある。自然の活動に備わる目的論的性格は,自然の無意識

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とされるものに一致しているわけではない。ギーターでは,この難問は,克

服されている。プラクリティ,すなわち自然の営みの背後には,霊的事実が

存在しているからだ。プルシャ,すなわち魂は,サーンキャの体系における

ように,独立した実在であるのではない。魂の本質は,ただの(個人的な)

気づきでもあれば,(より普遍的な)至福でもあるからで,所詮,個人の魂

たちは別々の存在なのだと,ギーターが認めることは,決してない33)。ギー

ターはまた,(サーンキャとは違って)ウッタマプルシャと言われる至高の

魂(主なる神)の存在を信じているが,個人の魂の性格や,自然に対する個

人の魂の関係を説明する段になると,サーンキャ理論の影響を示すことにな

る叫プルシャというのは,監視者のことであって,行為者のことではない。

プラクリティが,(プルシャの思惑に従って)一切のことを行うからだ。「私

が行為する_j と考える者は,間違っている。プルシャはプラクリティとは別

で,魂は自然とは別だと自覚する点に,人生の目的はある。グナ,すなわち

自然的性質についてのサーンキャの理論も,受け入れられている。「神々の

間には,地上においても,天にあっても,プラクリティから生まれる(タマ

ス,サットヴァ, ラジャスの)三つの性質と無縁なものは,何もない」35)。

グナは,三重の拘束紐を構成している 3 私たちは,それらに従属している限

り,実在回路のなかをさまようしかない。自由とは,グナからの解放のこと

である。ここでも,内的器官と感覚についての生理学的説明は,サーンキャ

の場合と同じである 36)。

ギーターは,ヨーガの実践についても言及している。アルジュナがクリシュ

ナに,正直なところ,気まぐれで騒がしい心は, どうすれば抑えることがで

きるのでしょうかと,尋ねると, クリシュナは,アビヤーサ,すなわちヨー

ガの一貫した実践と,ヴァイラーギャ,すなわち世俗の事柄への無関心とを,

我が物とすべしと,答えている 37)0

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン「インド哲学j第一部第IX章 181

IV

ギーターの教え

ギーターの時代には,究極の実在についても,人間の運命についても,多

くの異なる見解が幅を利かせていた。魂による直観をベースにしたウパニシャッ

ドの伝統もあれば, 自然との接触から身を引くことによって解放が得られる

のだとするサーンキャの教説もあり,私たちは義務を果たすことによって

完成に達するのであり,心の高揚によって自由の喜びが得られるのだとして,

献身的感情の道を説くカルマ・ミーマーンサーの見解もあれば,魂の静かな

生が, この世の色とりどりの光にとって代わるとき,人は,はじめて自由に

なるのだと宣言するヨーガの体系もある, といった具合であった。至高の霊

魂は,非人格的な絶対者であるか,人格的な主であるかの,いずれかだと見

られていた。ギーターは,異種混成の要素を総合して,それらを単一の全体

へと融合しようとしたのである。その結果,そこでは, 自由の目的や修行の

手段をめぐって,いかにも相容れない見解が,いろいろ見いだされることに

なる。さまざまな作者が,ギーターは一篇の一貰した教説ではないことに気

づいて,これを色々な仕方で説明しようとしている。ガルベとホプキンス

Hopkinsは,何人かの作者が,いくつかの世紀にまたがって,ギーターに

取り組んだのだと,想定している。ガルベによれば,オリジナルのギーター

は,紀元前 2世紀に,サーンキャーヨーガをベースにした人格神論の冊子と

して書かれたのだが,紀元 2世紀になると,それは,ウパニシャッドの一元

論の支持者たちによって,改作されたのだという。「人格神論と汎神論とい

う,これら二つの教説は,互いに混ぜ合わされて,時には全くつながらない

まま,また時には緩やかな繋がりを見せて,後先になって続いていく。しか

し,一方が,低次の通俗的な教説を表わし,他方が,高次の秘教的な教説を

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表わしている, というわけではない。人格神論は実在の知識に至る予備門な

のだとか,人格神論は実在の知識のシンボルなのだといったことは, どこに

も説かれておらず,ヴェーダーンタの汎神論こそが究極の実在そのものなの

だといったことも,どこにも説かれてはいない。それどころか,これら二つ

の信念は,言葉の上でも,実質の上でも,まるで何の違いもないもののよう

に,ほぽ一貫して扱われているのだ」38)。ホプキンスは,ギーターは,後期

ウパニシャッドに属するヴィシュヌ派の詩 poemが,クリシュナ派のヴァー

ジョンヘと改作されたものだとしている。キース Keithは,ギーターは,

元々シュヴェーターシュヴァタラ・タイプのウパニシャッドであったものが,

後に,改作されて, クリシュナ崇拝になったのだとしている。ホルツマン

Holtzmanは,汎神論的な詩が,ヴィシュヌ派的に作り変えられたのだと見

ている。バーネット Barnettは,伝統の様々な流れが,著者の頭の中で,

混ぜ合わされたのだと考えている。 ドイッセン Deussenは,ギーターは,

ウパニシャッドの人格神論的思考が後になって変質したもので,人格神論か

ら実在的無神論への移行期のものだとしている。

これらの憶測は,どれも受け容れるには及ばない。ギーターは,理想的な

ウパニシャッドを,マハーバーラタの時代に現れた新しい状況に,当てはめ

ようとするものであるからだ。ギーターは,ウパニシャッドの理想主義を,

人格神論的な心の人たちに応用しようとするにあたり, ウパニシャッドの哲

学から一つの宗教を引き出そうとしている。そのことは,ウパニシャッドの

思索的な霊的理想主義には,人格的帰依という温かい生きた宗教を受け人れ

るだけの余地があることを示している。ウパニシャッドの絶対者が,人間

性の思索的かつ情緒的要求を満たすものとして,顕かにされているのだ。後

期ウパニシャッドでは, このように,力点が,思索的なものから実践的なも

のへと,また,哲学的なものから宗教的なものへと移っていく様子が見られ,

そこでは,信仰の叫びに,救世主が応えているのである。ギーターは,ウパ

ニシャッドの真理に基づいて人生と行動を支えることのできるような,そし

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 183

てそれが,インド人の生きた血の中にウパニシャッドの真理をもたらしてく

れるような,そういう霊的綜合を試みているのである。

はたしてギーターが, さまざまな傾向の思考を,一つの真の全体にまで集

約することに成功しているかどうかは,私たちの研究の過程で答えていく必

要がある。インドの伝統は,ギーターでは,互いに不釣り合いな要素が一つ

に融合していると,常に感じてきたのに対して,西洋の学者たちは, もろも

ろの輝かしい断片たちは,著者の巧みな技をもってしても,融合することを

拒絶するのだと,言い張ってきた。けれども,議論の前提そのものに,独断

論を持ち込んでも,仕方がない39)。

ギーターは広く世間に知らされるべきだと言われるときの文脈が示してい

るのは,その中心的な目的は,いかにして人生の問題を解決して,正しい行

いへと導くかにある,ということである。これは,明らかに,倫理的なヨー

ガ聖典である。ギーターは,倫理的宗教の時代に定式化されたため,この時

代の感受性を分かち持っている。ギーターで, ヨーガという言葉が,どんな

に特異な敷術にさらされても, この言葉は,一貫して倫理的な言及を貫いて

いる 40)。ヨーガというのは,宇宙を支配する力能に自己を関係づけて, 自ら

絶対者に触れることによって,神に近づいていくことである。それは,魂の

あれこれの力能ばかりか,心情と心と意思のすべての力たちをも,輛のよう

に,神に繋いでしまう行為を意味している。自分を,より深い原理に結びつ

けるのは,他ならぬ人間の努力である。私たちは,魂の姿勢を,そっくり,

絶対的で妥協の余地のないものに変えて,この世の権力と快楽に抵抗する強

さを育てる必要がある。かくしてヨーガは,私たちの魂という中心的存在が

びくともしないよう, 自分を訓練して,この世のショックに自ら耐えられる

ような鍛錬を意味することになる。それは,それによって目標が達成される

方法,もしくは道具,ウパーヤである。パタンジャリのヨーガは,それによっ

て知性を浄化し,心をイリュージョンから解放し,実在の直々の認識を手に

人れる,サイキックな鍛錬システムである。私たちは, もろもろの情動を鍛

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184 明治大学教挫論集通巻536号 (2018• 12)

えて,魂を挙げて神に帰依することによって,至高の存在を悟ることができ

るのだ(バクティーヨーガ)。私たちは,自分の意志を訓練することによって,

自分の全生活を,途切れのない神への奉仕にすることができるのだ(カルマー

ヨーガ)。また,私たちが, 自分の存在の本質のうちに神的存在を認識して,

それを,熱烈な愛と憧れをもって,見つめるうちに,神の火花が永遠の光と

化していくことも,ありうるのだ(ジュニャーナーヨーガ)。これらはどれも,

互いに異なるヨーガもしくは方法ではあっても,帰するところはただ一つ,

神との至高の合ーもしくは繋がり,すなわち,ヨーガそのものなのだ。しか

し,それが一つの形而上学的主張に裏付けられていなければ,どんな倫理的

メッセージを主張することもかなわない。そこで,ギーターというヨーガ聖

典は,ブラフマ・ヴィドヤーに,すなわち霊魂の知識に根差すことになる。

ギーターは,生活の規則でもあれば,思索のシステムでもあり,人間の魂を

通して真理を力動的なものにしようとする試みでもあれば,真理の知的な探

求でもある。このことは,いつとも知れぬ時代から私たちのもとに伝わった,

各章の奥付からも,明らかである。日く。「これは, ヨーガ聖典,つまりは,

プラフマンをめぐる哲学の宗教的鍛錬の書〈ブラフマ・ヴィドヤーナーム

ヨーガシャーストレー brahmavidyanam yogasastre〉である」。

>

究極の実在

究極の実在という問題は, ここでは,ウパニシャッドの場合と同様,客観

的分析と主観的分析という二つの仕方で,取り組まれる。著者の形而上学的

傾向は,第二章で,はっきりと示されている。そこでは,「非実在的なもの

からは,いかなるものも存在せず,実在的なものからは,いかなる非存在も

存在しない」41) という,自分の根本計画を基礎づける原理が,述べられてい

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 185

るのである。客観的分析は,実体と影の,不死なる者と滅びゆくものの,ア

クシャラとクシャラの区別を基礎に,進められる。「この世には,変化変滅

するクシャラと,恒常不滅のアクシャラという,二つのものが存在していて,

不変なものはアクシャラなのだ。」42)。しかし,ここで言われている「不変な

もの」が,至高の実在を示しているわけではない。まさに次の詩句では,

「至高の存在は,最高の自己パラマートマンと呼ばれる今一つの存在で,こ

の方は,汲めども尽きせぬ豊かさを湛えた主として,三界に広がって,三界

を支えておられる」と,宣言されているからだ43)。まず初めに,著者は,こ

の世の恒常不変な背景を,それの束の間の顕現態から区別する。つまりプラ

クリティを,背景それ自身の変化から区別するのだ。この経験的世界「イマ

ウ ローケー」のうちには,変化変滅の相と,恒常不変の相の二つがある。

だがしかし,(この世の質料的原理)プラクリティは, この世のもろもろの

変化と比べたら,恒常的ではあるが,それ自体,絶対的実在ではない。それ

は,至高なる主に依存しているからだ44)。この至高なる霊魂こそが,真に不

滅な存在で,永遠なる者の住処なのだ45)。これに対して, ラーマーヌジャ

Ram釦 ujaは, 自分の説く特殊な理論を満足させるために, クシャラを,

プラクリティという(質料)原理を表すものとし,アクシャラを,個人の魂

を表すものとしたうえで,プルショーッタマ,すなわち至高の自己を,両者

に勝るものと見なしている。私たちは,プルショーッタマという考え方は,

無限者と有限者という間違った抽象に勝るような,具体的人格という考え方

を表しているのだと,解釈できる。ただ一つの難点は,ギーターでは,ブラ

フマンが,有限者の基盤だと宣言されているのだから, ブラフマンとても,

ただの抽象と見なすわけにはいかない, という点である。ギーターは,有限

者,すなわち一時的なものと,無限者,すなわち不変なものを区別する。何

であれ,有限で束の間のものは,実在ではない。全生成というのは,擁護不

能な矛盾である。生成するものは,存在ではないし,それが存在であれば,

それは生成ではないからだ。この世のもろもろのものは,何か自分とは別の

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186 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

ものに成ろうとしているのだから,それらは実在ではない。はかなさが,地

上の一切を印づけている。けれども,私たちの意識の背景には,過ぎ去るこ

とのないものが存在しているはずだという確信が,働いている。無からは,

いかなるものも生まれないからだ。実在という, この究極の存在は,絶えず

変化しているとされるプラクリティなどではない。その存在は,至高のプラ

フマンである。それは,永遠不動の存在,〈クータスタ・サッター〉である

のに対して, この世は,時間を超えて果てしなく続く存在,〈アナーディー

プラヴァーハ・サッター〉でしかない。「至高の主は,あらゆる存在のうち

に等しく住まわれており,あらゆる存在が破壊されても,それ自身,破壊さ

れることはないと見る者は,真に見る者である」46)。この永遠の霊魂は,あ

らゆるものに宿っているため,有限者に対しては,質的に際立った他者であ

るのではない。ギーターは,あらゆる有限な存在の根底にあって, これらを

活性化している,無限の存在の実在を信じているのである。

個人の自己は, 自らに満足することが決してないため,絶えず, 自分とは

別のものになろうと汲々としている。自分の抱く限界意識を通して,無限性

の感覚が生まれる。自分の哀れな有様を乗り越えようと常に努力している,

限界を持った有限な自己というのは,結局のところ,真実の実在であるので

はない。真実の自己には,不滅性という性格があるからだ。ギーターは,常

に主体としてあって,決して対象にはならないような,恒常性の要素を, 自

己のうちに見出だそうとしているのである。クシェートラというのは,場所

や対象のことで,クシェートラジュニャというのは,対象を知る者のこと,

すなわち主体のことである 47)。知られている物事は,主体の属性ではない。

人間の自己のうちには,あらゆる変化の背後に絶えず控えている,認識者と

いう要素がある。それは,永遠不変の,時間を超えた,独立自存の存在であ

る。ギーターは,個人の自己を,体,心,魂という構成要素に分解すること

で,常に〈存在している〉要素を,発見しようとしている。体は,恒常不変

な主体ではない。体には終わりがあるのだから,やがて消え去る炎でしかな

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 187

い18)。感覚の生命は,短くて,移ろいやすい49)。経験的な心もまた,絶えず

変化している。これらはすべて,主体にとっての対象でしかなく,魂がそれ

を通して働く道具でしかない。これら全てには,それ自身に固有などんな存

在もない。この,魂という内なる原理,あらゆる知識の源泉は,ギーターで

は,「感覚よりも,心よりも,理解力よりも,偉大である」50) と,言われてい

る。それは,(感覚と心と理解力を一つに)結び合わせる要素で,熟睡して

いる間も,一貫して存在し続けている。この結び合わせる機能は,感覚にも,

理解力にも, これら二つを合わせたものにも,婦することはできない51)。主

体の原理は,経験的自己を含んだ対象的世界全体が立脚する,不可欠な基盤

である。主体が抜け落ちたら,対象は消えてしまう。しかし主体は,対象が

消えても,消滅することはない。ギーターは,この根本要素を,雄弁に説明

している。「彼の者は,生まれることも,死ぬこともなく,あったことも,

もはや存在しなくなることもない。彼の者は,体が解体されても,滅びるこ

とはないのだ」52)。武器も,それには届かない。炎も,それを焼くことはで

きず,水も,それを濡らすことはできない。風も,それを乾かすことができ

ない。それは,突き通すことも,燃やすこともできない。…それは無限に

続き,一切に染みわたり,不変不動の存在で,太古より存在し続けているの

だ」53)0

至高の存在の本質をめぐるギーターの説明は,むしろ謎めいている。「こ

の,汲みつくすことのできない至高の自己は,体を住みかとしているのに,

始めもなければ,性質もなく,行為することもなければ,汚染されることも

ない」54)。つまりそれは.単なる監視者として,眺められているのた。自己

はア・カルトリ.すなわち非行為者であるのだ。進化のドラマは,そっくり,

対象の世界に属している。知性,心,感覚というのは,それ自体,霊魂の存

在のおかげで,進化という上昇を引き起こすことができるような無意識のプ

ラクリティが,展開したものでしかない。これに対して,主体としての自己

は,私たちの裡にあっては,沈黙の無差別者として.外的世界にとらわれる

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188 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

ことはないが,それでいて,それは,外界の支えでもあれば,源泉でもあり,

その内なる証人でもあるのだ。

私たちは, この世の現実の個々人のうちに,主体と客体の結合を見る叫

経験的個人というのは,客体の文脈に制約された,主体という神的原理であ

る。この世にあって,主体と客体は,常に,相たずさえて見出される 56)。た

だ客体は,究極の超越的存在ではない。客体より優位にある主体は,客体の

ベースである。「人が,あらゆる多様な存在を,ーにして全なるものに発し,

ーにして全なるものに根差していると見るとき,その人は,至高の存在と一

つになる」57)。客体との混乱が終息すると,あらゆるもののうちに潜む主体

は同じ一つのものであることが,分かる。クリシュナがアルジュナに,死者

のことで嘆くでないと迫るときの言葉は,死は消滅ではない, という言葉で

ある。個人は,多くの変化を重ねても,本質が破壊されることはない。個人

性は,完全性に達するまで,存続する。死すべきものとしての枠組みが,繰

り返し何度破壊されても,内なる個人性は, 自らの同一性を保って,新しい

形態をとり続ける。ひとは, この信仰を浮き輪にして,自己の認識を目指し

て努めるべきである。私たちの不滅性は,永遠性か,完全性かの,いずれか

によって保障されている。それは,私たちの内なる無限性が展開することに,

他ならない。クリシュナがアルジュナの心を静めるのは,アートマン,すな

わち純粋なる主体は,私たちの体が「塵から生まれて,膜に帰っても」,そ

れによって影響をこうむることはないのだというウパニシャッドの直観を,

次のように擁護して,魂の存在を肯定することによってである。

霊魂が生まれたことは,絶えてなく,霊魂が死滅することも,決してない。

かつて時間が,時間として存在したためしもなく,

終わりも,始まりも,ただの夢にすぎない。

霊魂は,誕生とも,死とも,変化とも,永遠に無縁であり続ける。

霊魂は,その館が死に絶えても,死によって一指も触れられたことは,

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン「インド哲学」第一部第1X章 189

なし、58)。

ギーターは,ウパニシャッドのスピリットを通して,アートマンとブラフマ

ンという二つの原理を,同一のものだとする。束の間の感覚と体の背後には,

アートマンが存在している。この世の束の間の対象たちの背後には,ブラフ

マンが存在している。この二つは,同じ性質を持った,一つのものである。

この実態は,各自が経験によって, 自ら見届けるしかない。変化しないもの

を変化しているものから定義しようとすることは,誤りである。とは言え,

ギーターには,直観によって見届けられた絶対者が,この世の論理的基盤で

あることを証明しようとする試みは,皆無である。この世が,それ自体,そっ

くり一つの経験であって,なんら混乱した混沌などではないのであれば,無

条件的絶対者の存在が,要求される。とはいえ,私たちは無限者と有限者

を,互いに排除しあう領域として対立させたりしないよう,慎重を期さなけ

ればならない。ここからは,無限者についての誤った見方に,帰着してしま

うからだ。最初に私たちの心を引くのは,束の間の有限者と真の無限者の区

別である。しかし,ただこれだけであれば,無限者に対立して無限者から締

め出されたものが,無限者に限界を設けることになるのだから,無限者が有

限化されて,限界のあるものに転化されることになる。有限者を,無限者か

ら押し出されたものと見なすことは,間違いである。無限者というのは,自

らの実相のうちにある有限者そのもののことである。無限者とは,無限化さ

れた有限者のことであり,有限者の内なる実在のことであって,有限者と並

んで存在するもののことではない。有限者のうちなる無限者を望観すれば,

私たちは,有限性の世界に特有な,果てしのない前進を,すなわちサンサー

ラ,輪廻転生を得ることになる。この,果てしなさこそが,有限者の領域の

うちにある無限者の印である。有限者は,有限者となった無限者でしかない

ものとして,自己を明らかにするのだ。無限者と有限者を区別するのは,甘

い思考の特徴でしかない。本当は,無限者しか存在しないのであって,有限

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190 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

者というのは,無限者が有限化したもののことでしかない。ということは,

ここでは,超越と内在といった言葉も当てはまらない。これらは,絶対者に

対する明確な「他者」を前提にしているからだ。絶対者の目的を表すのには,

思考のどんなカテゴリーも,不十分である。絶対者は,存在とも非存在とも

説明されず,形あるものとも形なきものとも説明されない59)。ギーターは,

実在とは,宇宙的世界の背後にあって,自らに固有な空間と時間と因果律と

を持った,自立自存の,不変の存在なのだというウパニシャッドの原理を,

反復しているのである。

ギーターは,哲学では,アドヴァイタ,すなわち非二元論(不ニー元論)

の真理を主張する。至高のブラフマンは,自立自存の不変の存在で,「ヴェー

ダーンタ学者は,これについて語り,禁欲的生活の実践者は, これに至る」。

それは,時間のうちにおける魂の運動の,最高の地位であり,至高のゴール

であるが,それ自身には,いかなる運動もなく,ただ根源的にして永遠かつ

至高の状態があるばかりである。運動し進化するものは,すべて,ブラフマ

ンという不変の永遠者に基礎を置いている。それらは,プラフマンによって

存在しているのである。ブラフマンは,何も生み出さず,何も行わず,何も

決定しないのに,ブラフマンなくしては,それらは存在しえない。ブラフマ

ンとこの世の二つは,その特徴からして,対立しているように見える。サン

サーラ(有為転変を繰り返す現世)の実在を退けて,それをただの幻影と見

なそうとも,サンサーラがそれの幻影となっている当の基体は,存在してい

るのだ。サンサーラからなるこの世は, 自分自身を出し抜こうと絶えず悪戦

苦闘している事実によって, 自らの非実在性を示しているが,絶対的ブラフ

マンは, 自らがそれ自身の目標であるため, 自分を越えたどんな目標にも,

注意を向けたりすることはない。サンサーラからなるこの世は,絶対者に基

礎をおいているため,時として絶対者は,変化しないものでもあれば,変化

するものでもあると,言われたりする。サンサーラの果てしのない細部や対

立が存在するのは,すべての対立が克服されて,きりのない継続が継続なき

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 191

意識のうちに抱きとめられるような方向に,心を振り向けるためでしかない。

どんな可能的な近親者や対立者も,等しく絶対者に基礎をおいているのに,

絶対者は,それらの基体そのものであるのだから,それらに対立したりする

ことはない。サンサーラからなるこの世が,正確に言ってどのように絶対者

ブラフマンに基礎づけられているのかは,私たちには分からない。しかし,

絶対者が存在しなければ,サンサーラも存在しないことは,はっきりしてい

る。御身 theeは,沸き立つ海にして,物言わぬ眠り手なのだ。しかし, こ

の世とブラフマンが,正確に言って, どのように関係しているのかは,私た

ちには分からない。私たちは自分の無知を,マーヤー,すなわち幻という言

葉を使って,隠しているのだ。この二つは,一つであるのに,異なって見え

るところから,その見かけの異なった姿は,マーヤーのせいなのだ,と言わ

れるのである。哲学的観点からしたら,私たちは, ここで立ち止まるしかな

い。「この変化にとんだ万象世界が,いつ, どこで創造されたのかを,いっ

たい誰が直々に認識し,いったい誰がはっきり言明しうると言うのか」60)。

これと同じ問題を,個別的自己に当てはめると, 自由な主体と対象の関係

という問題になる。(主体の側の)目撃者としての不滅の自己と,(客体の側

の)沿々たる意識の変化が, どんな絆で結ばれているのかは,私たちにはわ

からない。シャンカラは, この難問を前に,アディヤーサ,すなわち―付託

(対象の上に,迷いゆえに別のものを見ること)」という仮説を採用する。主

体と客体は,サンヨーガすなわち接触によって関係づけることはできない。

主体は,部分をもたないからだ。またこの関係を,(実体と属性の関係のよ

うに)サマヴァーヤ,すなわち不可分の内属関係と見なすこともできない。

両者は,原因と結果の関係ではないからだ。シャンカラの結論によれば,

「その関係は,相互アディヤーサという本質を帯びているのに違いない。つ

まりその関係は,主体と客体が,それぞれの本質の間に, どんな区別も存在

しないために,たがいの属性もろとも,混同されてしまう点にあるのに迎い

ない。ちょうど,真珠雲母と銀が,あるいは縄と蛇が,たがいの区別が欠け

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192 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

ているばかりに,一方が他方と取り違えられて,一つになってしまったとき

のように。両者の統一も,それ自体,見かけの統一であるため,人が正しい

知識を得れば,おのずと消えてしまう」61)。だがしかし,ギーターにこの理

論がどれだけ含意されていても,これを,ギーターのうちに,はっきり見出

すことはできない。

ギーターでは, ウパニシャッドの形而上学的アイデアリズムが,愛と信仰

と祈りと献身に余地を与えるような,人格的有神論の宗教に変形されている。

私たちが,絶対者のヴィジョンを持たないまま経験的世界の側から働いてい

る限り,プルショーッタマという至高の神格をめぐる理論に基づかなければ,

絶対者の説明はできない。絶対者の非人格性というのは,人間にとって,絶

対者の意味の全体を尽くしているわけではない。ギーターは,ウパニシャッ

ドのアイデアリズムを人類の日常生活に活かすことを切に願って,神が自然

のうちで働き,神が自然に参与しているのだとする考えを,支持している。

それは,人間を丸ごと満足させる神を,言い換えれば,ただの無限者をも,

ただの有限者をも超えるような実在を,私たちに与えようとするのである。

至高の魂こそが,この世の源泉にして原因であり,分割不能のエネルギーが,

全生命に浸透しているのだ。道徳の属性と形而上学の属性が,一体化され

る冗ギーターは,分割を目指して区別するという誤りに反駁する。ギーター

は,あらゆる抽象的な対立を和解させるのだ。思考は,〈区別を創造して,

区別を和解させること〉なくしては,活動することができない。絶対者を考

えるとき,私たちは,直観にもとづく真理を,思考の用語に置き換える必要

がある。純粋[存在」は「無_に転じてしまうので,私たちは,存在と無の

統一を, 自分の手の内に置き忘れてしまう。この統一は,思考そのものと同

じように,実在的であるにもかかわらず,である。勿論,ギーターは,非人

格的な,行為することのない霊魂が,宇宙を創造して,これを維持するよう

な,行為する人格神となるときの仕方を,私たちに告げたりすることはない。

この問題は,知的に解決することはできないと,見なされているのである。

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン「インド哲学;第一部第1X章 193

この神秘が氷解するのは,私たちが,直観のレヴェルにまで高まった時でし

かない。絶対者が神に変容すること自体,マーヤーであり,一つの神秘であ

るが,それは,また,変容した世界が絶対者そのものほど実在的ではないと

いう意味でも,やはりマーヤーなのだ。

この世に対する絶対者の関係を,論理を通して理解しようとすれば,私た

ちは,絶対者をある種の力,シャクティに帰することになる。活動も性質

も欠いて,いかなる対象にもかかわらない絶対者が,論理によって,プラク

リティという名の自然に関わりのある力をもった,活動的で人格的な主へと

変換されてしまうのだ。私たちは,永遠の「私」である「ナーラーヤナ」が,

「海の上でじっと考え込んでよ永遠まがいの「私ならぬものーに向きあって

いる姿を知っている。この後者が,プラクリティ,すなわち自然とも呼ばれ

るのは,それがこの世を生み出すからである。しかし,その自然が思い違い

の源泉である。それは,はかない一時の視像から,実在の真の本質を隠して

しまうからだ。この世は,元々,プルショーッタマに結びついているのに,

である。プルショーッタマをはじめとして,一切万物は,存在と非存在の二

童性に与っている。否定の要素が絶対者のうちに導入されると,この統—ーは,

生成のプロセスを通して, 自分の内なる本質を外に向けて展開していくこと

を迫られる。「行動への古来の衝動」が,プルショーッタマのハートに陣取っ

ているからだ。この本来の統ーが,この世の全プロセスを卒んでいるのは,

それが,「至高の今」を通して,過去,現在,未来のすべてを含んでいるか

らだ。クリシュナは,巨大な姿をとって,アルジュナに,ヴィシュヴァルー

パ(この世の姿形の)全貌を示して見せる 63)。こんこんと溢れ出す滝のよう

に,空いっぱいに広がり,宇宙を満たし,様々な世界を充満させながら,ま

さに存在の限りを尽くして自らを吐き出すクリシュナの姿を,つまりは名も

なき多様なものどもを,永遠の輝きを通してアルジュナは眺める。矛盾対立

が,前進の源泉となっているのだ。神とても,否定性の,すなわちマーヤー

の要素と無縁ではないが,神はこれを, コントロールしているのである。至

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194 明治大学教養論集 通巻536号 (2018• 12)

高の神が,自分の能動的な本質,スヴァーム プラクリティムを押し立てて,

もろもろのジーヴァ,霊魂を創造すると,それぞれのジーヴァたちは, 自分

の本性が定めた路線に従って,それぞれの運命を成就していく。こうした事

柄すべてが,壊れやすい世界のうちにあって,至高者自身の本来の力を通し

て行われる一方で,至高者は,そのことによって少しも損なわれることのな

い別面を持っている。彼は,内在的な意志であると同時に,非人格的な絶対

者でもあるからだ。彼は,原因なき原因であり,不動の動者であるのだ。

彼は,万物の内にも,外にもあって,

不動でありながら,動き,

その動きは,存在の刹那の精妙さのゆえに,それと気づかれることは

なし'o

一切の間近に,また遥か彼方にあって,

生けるものすべてを通して,多岐にわたる姿をとりながら,

自分であることを失わない。

彼は,光あるものたちの光として,闇の核心にあって,永遠に輝き続

ける叫

至高者には,パラー,高次の本質と,アパラー,低次の本質があって,そ

れぞれが,宇宙の無意識の様相に応えているのだと,言われている。低次の

プラクリティは, 自然の世界,つまりは原因の世界に,結果と変容をもたら

す。高次のプラクリティは, 目的もしくは価値の世界で,プルシャという知

的な魂を生む。この二つは,たた一つの霊的全体に属している。マドヴァ

Madhvaは,次のような趣旨の詩を引用している。「神にとっては,ジャダ,

無意識のプラクリティと,アジャダ,意識あるプラクリティの二つがある。

前者は,未顕現のプラクリティで,後者は,シュリー Sri, すなわちナーラー

ヤナの神姫, ラクシュミー Lak~mi であって,後者が前者を支えているの

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン「インド哲学」第一部第1X章 195

だ。ハリ神 Hari, ヴィシュヌは, これら二つのプラクリティをもとに,こ

の世を創造するのである」65)。ギーターは,同質的で形の定まらない物質か

ら,霊魂もしくはプルシャの存在による決定で,多様なものが進化してくる

のだというサーンキャの説を,受け入れている。ただし,プラクリティを活

動に向けて刺激するのに必要なプルシャの存在は,真の実在でなければなら

ないのだから,すべての活動は,プルシャとプラクリティの共同作業による

のだと言ったほうが,正確である。主観的世界では,知性の要素が際立ち,

客観的世界では,物質の要素が際立っていても,である。知性も物質も,至

高の唯一者の本質を形成していて, どちらも,この世の構成要素となってい

る65)。そこで,主は,意識という一切を照らす光をも,この世をも,同じよ

うに支えているのだと, 言われるのである。ギーターの著者は,神の唯一の

本質が,ある段階では,己れを無意識の物質として顕らかにし,別の段階で

は,己れを意識ある知性として顕らかにする様子については,説明しておら

ず,また,ひとつの根本起源から生まれたこの二つが,世界進化のプロセス

の間中,互いに対立的なもののように見えるのは,なぜなのかについても,

説明していない"'o

至高者は,人と自然のうちに宿っている間は,その, どちらよりも偉大で

ある。無限の時間と空間のうちにある果てしない宇宙は,彼の者のうちに安

らっているのであって,その逆ではない。神という表現に変わっても,至高

者のうちには, 自己同一的な要素が,つまりは,現象の変容にとって永久に

固定した基盤が,存在するのである。多様な姿をとった存在も,至高者の同

一性を冒すことはない68)。「至る所で動き回っている力強い大気が,空間に

根差しているように,一切の物事も,私に根差しているのだJ69)。しかし,

「動き回っている大気」が存在しなくても,空間は空間である。主は,被造

物の性質によって汚されることはない。至高者の本質の表れであるこの世は,

神の自足を損なうことはないが,私たちは,この世の造りを離れては,神の

本質を知ることはできない。もしも,一切の内容から,つまりは知識や生命

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196 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

の進歩を構成するものすべてから,同一性の原理が抜き去られたなら, 自己

同一的な神さえ,知られえぬものとなってしまう。また,私たちが, この世

に埋没して自己を失ってしまえば,真の実在も,本当に,私たちの視界から

姿を消してしまう。したかって私たちは,対象へのあらゆる関係を離れて,

神の何たるかを知る必要があるばかりか,神が, 自らのもたらす一切の変化

の至る所で,どのように自己を維持しているのかを知る必要もあるのだ。だ

が, このとき,対象への関係性を排除することはできないという理由だけで,

主体にはどんな自己同一性もないと考えたりする必要はない。この自己同一

性という表現が,そっくり(超越も差別もない)霊魂と混同されれば,ギー

ターの理論は,宇宙神論となるだろう。しかし,ギーターの著者は,そのよ

うなことは,おくびにも出していない。全世界は,「エーカ・アムシェーナ」

は即ち,神の一部によって,支えられているのだと,言われているからだ70)0

第十章で,至高者は,自らの果てしない栄光のわずか一部を顕現しているだ

けだと,クリシュナは言明している。絶対者の不変性と,イーシヴァラの活

動性は, どちらも,プルショーッタマという考え方に採り入れられているの

である。

人格的なプルショーッタマは,宗教的観点からしたら,宇宙の主観的な姿

にも客観的な姿にも動ずることのない, 自立自存の不動者より,一段上であ

る。彼は,困っている人たちを助けようといつも待ち構えている,公平な統

治者と見なされているからだ。時として彼が罰を与えるからと言って,それ

だけで,彼を不公平だとか,優しくないなどと決めつけることはできない。

シュリーダラ Sridharaは,「母親が,子供を抱きしめても,たたいても,

優しいことに変わりはないように,イーシュヴァラも,善と悪の決定者だか

らと言って,優しくないわけではない」71) と記している。非人格的絶対者が,

宗教的目的のために,プルショーッタマとして思い描かれているのである。

プルショーッタマという観念は,人間の弱い心が受け入れる,わがままで自

己欺睛的な観念などではない。理性の乾いた光が,特徴を欠いた実在を提供

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 197

するのに対して,霊的直観は,人格的でもあれば非人格的でもあるような神

を,顕らかにしてくれるからだ。こうした和解の原理は,ウパニシャッドに

も含まれていて,イーシャ・ウパニシャッドは,実在を,動くものでもあれ

ば,動かぬものでもあると見なしている。この一方に立てこもれば,知識と

いう闇と,無知という闇の,どちらかに帰着することになる。ギーターもま

た,不滅の自己と,変化していく経験とを総合しようとしているのだ。至

高の霊的存在がエネルギーを持てば,プルショーッタマ(神様)となり,同

じ存在が永遠の安息状態にあれば,プラフマン(カミ)となるのである。シャ

ンカラーナンダ Sa~karananda は,次の詩句を引用している。「ヴァース

デーヴァには,顕現した形態と未顕現の形態の二つがあって,パラ・プラフ

マン(至高のブラフマン)は,未顕現の形態(カミ)であるが,動くものと

動かぬものから成る,束の間のこの世は,顕現した形態(神様)である」72)。

至高者には,顕現した様相と未顕現の様相の,二つがあって,プラクリティ

が至高者の本質だとされて, ジーヴァがその本質の一部だと言われるときは,

前者,至高者の顕現した様相が強調されているのである73)。また,「栄光あ

るもの,善きもの,美しきもの,力強きもの,そのいずれのものも,わが光

輝の断片より生れ出たものであることを,理解せよ」74; とクリシュナが言う

ときも,さらに, クリシュナが,私たちに,彼自身の帰依者になるよう呼び

掛けるときも,そしてまた,彼自ら,ヴィシュヴァルーパ,すなわち全世界

の形態を示すときも,同じく彼が,たびたび一人称を用いるときも,至高者

の顕現された様相に,等しく言及しているのである 75)。神的本質のこの側面

は,時の継起と生成の波に自らを失っていく,創造の営みに従事している。

だか, これを超えたところでは,一切がガラッと変わって,不動の静けさが

支配しており,これより高いものはない。本質的には,動と静の,この二つ

の側面が,プルショーッタマを形成しているのである。人格的な主こそが最

高の形而上学的実在なのだと言ったりしたら,かえって紛らわしいことにな

る。「私は,はっきり言う。人が,それを知ることで,不死に逹するところ

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198 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

の,知識の対象。それは無始無終の至高のプラフマンで,それは,存在する

とも,存在しないとも,言われない,と」冗ギーターの著者は,顕現され

た様相というのは,パラ・ブラフマン自身の神秘的力,すなわちヨーガ・マー

ヤーが創造したものだということを,私たちに繰り返し思い起こさせる叫

「知識の乏しい者たちは,私の本質が,超越的で,汲みつくしえないもので

あるうえ,これ以上高いものもないことを知らぬため,姿かたちのない未顕

現の私が,顕現して姿かたちをとったのだと考える」78)。結局,絶対者がプ

ルショーッタマという形をとるのだとする仮説は,十分真実を尽くしていな

いことになる。ギーターが,宗教的目的のためには,人格神という考え方の

方が役に立つと考えているのは,確かでも,ギーターによれば,非人格的自

己は,実在性という点では,人格神イーシュヴァラより下なのだと論じるこ

とも,やはり間違いとなるからだ。

ギーターの宇宙論に進む前に,プルショーッタマという考え方とクリシュ

ナの関係に注目して,アヴァターラ,すなわち化身という問題を取り上けて

おくのが,よいであろう c

はたしてクリシュナは,プルショーッタマと同じであるのか,それとも,

プルショーッタマの限定的な一部が顕現したものであるのかという問題には,

意見の違いがある。ギーターでは,アヴァターラをめぐる理論に言及されて

いる。「私は,その本性においては,不生にして無尽蔵であり,一切万物の

主であるが,それでも私は,自分のプラクリティを制御して,自らのマーヤー

(幻力)によって,この世に生まれる ~79)C 一般に,アヴァターラ,化身とい

うのは,至高者の限定的な顕現のことであるが,バーガヴァタ・プラーナは,

クリシュナに有利な例外を立てて,彼を,至高者の全面的顕現だとしている。

~K'.~nas tu bhagavan svayam」。彼に与えられている形態は,彼の全き包

括性を示している。頭につけたクジャクの羽根は, 目に押し寄せる多様な色

彩を表し,顔の色つやは,空のそれであり,野草の花飾りは,太陽のシステ

ムと星のシステムの偉大さを象徴している。彼の吹く笛は,メッセージを伝

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 199

える笛である。体を覆う黄色の衣は,宇宙空間に染み渡る光の輪であり,胸

の印は,人間への愛から誇りをもって着けている,帰依者の帰依を表す紋章

である。彼は,帰依者のハートのうちに立つ。人間への彼の恩寵は,実に偉

大であるため,それを象徴する足は,十全の効果を狙って,一方が他方より

高くあげられている。シャンカラとアーナンダギリ Anandagiriは,クリシュ

ナを,至高の神格の部分的な顕現に過ぎないと見ているがsoi, ギーターの著

者の意見では, クリシュナは,プルショーッタマそのものである。「愚かな

者は,一切万物の偉大なる主という私の至高の本質を知らないため,人間の

形をとった私を,誤解する巳。

アヴァターラの理論は,人類に新しい霊的メッセージをもたらす。アヴァ

ターラは,罪と悪,死と破壊を相手に戦う神である。「正義が衰え,悪がは

びこるたびに,私は自らを創造する。私は,善人を守り,悪人を滅ぼし,法

を確立するために,時代を追って生まれる」82)。これは,霊的世界の法則を,

雄弁に表している。神が人間の救い主だと見なされるならば,悪の力が人間

の諸価値を破壊する恐れがある時は,神は,自らを顕現する必要がある。ヒ

ンドゥの神話によれば,ラーヴァナやカンサなどの,悪と不品行の力が優勢

になると,インドラやブラフマーなど,道徳的秩序の代弁者たちは,最も多

く苦しむ者だとされる大地とともに,そのたびに天の宮殿に出かけていって,

救世主を求めて大声で泣き叫ぶのだという。しかし,救済の業は,時に臨ん

で強調されることもあるが, じつは,絶え間なく行われているのだ。この世

の秩序が悪に傾くと,神の通常の自己顕現が強調されるのである。アヴァター

ラというのは,神が降下して,人間の姿をとった者のことである。意識ある

存在は, どんなものも,そのように降下した者であるのに,ただその姿に,

ヴェールがかかっているのだ。神であるという自覚を持った者と,無知とい

う経帷子をまとった者には,迎いがある。人間は,この世のマーヤーを渡っ

て, 自らの不完全を乗り越えたならば,ほとんどアヴァターラだと言っても

よい。創造主プルショーッタマは,その被造物から切り離されているわけで

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200 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

はないからだ。両者は,別々に存在しているのではない。創造主は,常に,

この世を通して,自己実現を図っているうえ,人間も, 自らの潜在能力を発

揮することで,+全な意識に達するからである。したがって,神が人間とい

う形を通して自らを限定しているのだと言っても,人間が自らの本性を通し

て働くことで,神にまで高まっていくのだと言っても,変わりはないことに

なる。とは言え,一般的には,アヴァターラというのは,ある目的のために,

自らを地上に限定する神のことであって,その限定された形を通してでも,

十全な知識を備えているのだと,されているのである。

哲学的知性は,完全性の理想態であるアヴァターラを,この世の偉大な前

進の歩みに関係づけようとする。それぞれの自己を通して様々な代表的時代

に焦点を定めた至高の魂たちが,ある特別の意味で,神の化身になったのだ

という。人間の本性を超える至高な状態を確立して, 自分の外向きの物質に

内なる神を顕現させた,こうした人間の例は,悪戦苦闘している個人たちに

とっては,いっそう感銘が深い。ひとは,彼らから勇気をもらって,彼らの

身丈にまで成長しようとすることができるからだ。彼らは,道を求める魂た

ちが,神に向かって成長できるように願って,そこに身を投じようとすると

きの,鋳型なのだ。キリストやブッダのような人物によって成就されたこと

が,他の人間たちの生活を通して繰り返されることもできるのである。地上

における進化のいくつかの段階では,地上を聖なるものにしたり,理想の神

を顕現したりしようとする苦闘が,重ねられてきたのだ。ヴィシュヌの十人

の化身が,その中心的な歩みを示している。魚,亀,猪といった化身を通し

て,人間以下の,動物レヴェルでの成長が,強調されている。次に,人獅子

を通して,動物界から人間界への移行が示される。小人に至っても,発逹は,

まだ十分には遂げられていない。人間の最初の段階は,獣的で,乱暴で,文

明化されていない,斧を持ったラーマであって,彼は残りの人類を打ちのめ

すc そのあとにやってくるのが,家族の暮らしと愛情を聖なるものにする,

霊的かつ神的なラーマと, この世の戦いに加わるよう強く勧めるクリシュナ

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 201

であり,そのあとに登場するのが,生きとし生けるものへの溢れるほどの慈

悲を抱えて,人類救済のためにはたらくブッダである。まだ現れてはいない

が,最後に登場するのが,剣を携えて悪と不正を相手に戦う,戦いの神,カ

ルキである。アヴァターラの出現によって,人類の進歩を通じて発せられた

大きな叫びが,際立ったものにされているのである。

VI

変化の世界

ギーターにおけるマーヤー理論の正確な位置を知るためには,この言葉が

用いられるときの様々な意味と,ギーターがそれらすべてに与えている意味

合いの違いを区別することが必要である。 (1) 至高の実在が,この世の出

来事による影響を受けないのだとしたら,そうした出来事自体が,説明不能

の神秘になってしまう。ギーターの著者は,彼の見解にそうした意味あいが

どれだけ含まれていようと,マーヤーという言葉を,こうした説明不能の神

秘という意味に用いることはない。始まりもなければ実在もしていないアヴィ

ドゥヤー,すなわち無知が, この世のイリュージョンを引き起こすのだとい

う考え方は,著者にとっては論外である。 (2) 人格神イーシュヴァラは,

自らのうちにおいて,サット(存在)とアサット(非存在)を結び合わせ,

プラフマンの不動性と,生成という名の突然変異を,結び合わせるのだと言

われる叫マーヤーとは,イーシュヴァラに,変化する自然を生み出させる

カのことである。それは,イーシュヴァラのエネルギー,すなわちアートマ・

ヴィブーティ,つまりは自己生成の力である。この意味で,イーシュヴァラ

とマーヤーは,たがいに依存しあっていて, どちらにも,始まりがない叫

ギーターでは,至高者のこの力が,マーヤーと呼ばれているのである 85)。

(3) 主は,自身の二つの存在要素,プラクリティとプルシャ,物質と意識

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202 明治大学教挫論集通巻536号 (2018• 12)

によって,宇宙を生み出すことができることから,この二つが,神のマーヤー

(低次のマーヤーと高次のマーヤー)と言われる 86)。(4) マーヤーは,次第

に低次のマーヤーを意味するようになるが,それは,主が,宇宙を生み出す

ために,プラクリティという子宮に投げ人れた種子は,(より低次の)プル

シャなのだと言われるからである。 (5) 顕現された世界は,死すべきもの

たちの視界から実在を隠してしまうために,実在は,それ自身の性格のうち

に,惑わしを秘めていると言われる叫だがしかし,この世を,神とは無関

係な自然の,単なる機械的な決定の所産だとみなすことで,私たちが,この

世が秘めている神的本質を見損なうことになったとしても,だからと言って,

この世自体が,ただのイリュージョンになるわけではない。神のマーヤーが,

アヴィドゥヤーマーヤー,無知のマーヤーになるから,だ。しかしそれは,

真理から遮断された,私たち死すべき者たちにとってのことでしかなく,真

理をどこまでも知って,これをコントロールしている神にとっては,それは,

どこまでも,ヴィドゥヤーマーヤー,知識のマーヤーなのである。人間にとっ

て,マーヤーが混乱と悲惨の元となるのは,それが,実在を十全に把握しそ

こなって,ひとを当惑させてしまうような,部分的意識を育ててしまうから

である。そうなると,神さえも,マーヤーという計り知れない衣に包まれて

いるように,見えてくるのだ88)。(6) この世は,原因である神の結果でし

かないのだから,また,どこにあっても,原因は,結果よりいっそう実在的

であるのだから,結果としてのこの世は,原因である神ほど実在的ではない

と,言われる。この世の, こうした相対的な非実在性は,生成のプロセスが

帯びている自己矛盾的な本質によって,確証される。たしかに,経験的世界

には,(マーヤーとも受け取られる)対立物同士の戦いがあるが,実在は,

それにもかかわらず,そうした対立物すべてを超えているのである 89)0

それにしても,この世のもろもろの変化は,ただの想像上のものでしかな

いのだという指摘は,どこにも見当たらない90)。シャンカラの不ニ一元論で

さえ,この世の現実の変化は,認めている。ただ,彼によれば,プラフマン

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 203

がこの世となる最初の変化は,ヴィヴァルタ,すなわち変転という,見かけ

の現象なのである。この世は,至高のプルショーッタマからの現実の流出で

あるが, t:だ,究極の視点からしたら, この世は,いつも自分と戦っている

のだから,真の実在ではないことになる。とは言え,ギーターは,「この世

は, どんな固定した甚盤もなく,いかなる統治者をも欠き,ただ欲望から生

まれた結合がもたらしたものでしかないのだから,真の存在ではない」91) と

いった見解は退けている。だとしたら,私たちは,この世では,イーシュヴァ

ラによって統括される現実の進展を持っていることになる。ギーターは,こ

の世が現実のものであるのは,私たちがそこで生きている間のことでしかな

いと,見ているわけではない。この世は,無限者の胸のうちでみられた,騒

然たる夢のようなものだといった指摘は,どこにも見当たらない。ギーター

によれば,生成の世界に生きている間に,時間を超えた自己の存在という,

不死性を我がものとすることは,立派に可能である。私たちには,プルショーッ

タマという最高の例があって,彼は,生成の世界に欺かれることなしに,そ

の世界を活かしているのである。私たちがマーヤーを超越したら,時間と空

間と原因が,私たちからごっそり剥がれ落ちるわけではない。この世は消え

てなくなるのではなく,ただその意味を変えるだけであるからだ。

プルショーッタマというのは,私たち全員を超えて,何か至高の状態のう

ちにあるような,遠く離れた現象などではない。彼が,あらゆる存在の相互

関係を,維持しているからだ。魂と物質からなるこの世は,彼の本質から生

まれ出たものである。神はこの世を,無もしくは空虚から創造したのではな

く, 自分の存在から創造したのだ。プララヤの帰滅状態のもとでは,ジーヴァ

たちを含む全世界が,精妙な状態の神的存在のうちに収まっている。けれど

も,顕現された状態のもとでは, ジーヴァたちは,お互いに切り離されて,

自分たちの起源が同じであることを忘れている。だがしかし,まさに,この

一切こそが,神自身の絶対的なヨーガ(統一・結合)でなくして,何であろ

う。この世は,「根が上にあって,枝が下にある」逆立ちした樹木になぞら

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204 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

えられている叫ここでは,プラクリティが,この世の総体的な特徴を形成

している。尽きることのない二律背反,様々な生存形態同士による食うか食

われるかの闘い,進化と分化と組織化と活性化を続ける物質,これらはすぺ

て,プラクリティ,物質的自然に由来する。「地,水,火,風,空(<う),

心,ブッディ(知性),アハンカーラ(自我意識)。これらは,私のプラクリ

ティが八重に分裂したものである」。こうした分裂的様相は,神の低次の本

質であるが,これに対して,これらを活性化して,この世を維持しているも

のが,神の高次の本質である93)。ラーマーヌジャ Ramanujaは,次のよう

に記している。「宇宙の物質的な本質をなすプラクリティは,それ自体,(神

的)享受の対象であるが, これとはまた別の感覚なき享受の対象は,生命原

理としてのジーヴァであって,(神的享受の対象とは)また別の序列に属し

ている。ジーヴァは,低次の序列を享受する享受者であって,知的な魂とい

う形で存在している」。私たちが,実在についての絶対論的背景を度外視し

て,意識と物質という二重の本質を持ったプルショーッタマという観念を強

調すれば,ギーターは,実在についてのラーマーヌジャの次のような見解を,

支持していることになる。ラーマーヌジャによれば, ビーズと紐のたとえが

示しているのは,「私の体を形成している知性たちゃ,非知性的なものたち

は,どれもこれも,その原因から見ても,その結果から見ても,アートマン

を本質とする私の下げた紐に連なる,多くの宝石たちのようなもの,ばかり

なのだ」ということだからである叫

個人の魂は,主の分け御霊(一部),ママイヴァ・アムシャだと言われる

が%),戸アムシャ~. 一部というのは,ただ想像上の一部だとか,見かけ上の

一部のことを指しているだけだとシャンカラが言うとき,彼は,ギーターの

著者の意図から外れている。一部というのは,プルショーッタマ自身の現実

の形態であるからだ。その言及が,部分を持たない,分割不能のブラフマン

を指しているのであれば, シャンカラの立場が正しいことになるが,そうな

ると,プルショーッタマでさえ,想像上のものになってしまう。プルショーッ

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 205

タマのうちには,(その現実の形態として)非自己の要素があるからだ。と

ころで,実際の個人は,カルトリ,行為者であるのだから,不死の純粋霊魂

ではなく,神の限定的顕現としての人格的自己である。神の,この一部は,

自らが自分に引き寄せる形態としての,諸々の感覚と心という点では,明確

さを失うことはない。プラクリティに,一定の大きさと,持続と,振動があ

るように,プルシャにも,一定の意識の広がりと到達範囲が,同じように与

えられるからである。普遍的なものが,心的・生気的・物理的な鞘という限

定的な文脈を通して,具体化されているのである。「プラクリティと結合し

たプルシャが, 自然から生ずる諸性質を享受するのだから,プルシャが諸性

質と結合することが,プルシャが善悪の誕生を迎えることの原因となるの

だ」96)0

VII

個人の自己

個人は,外面の見かけの姿に編されて,マーヤーに,つまりは錯覚に支配

されている叫サンサーラ,輪廻の世界に生まれるのは, 自らの不完全性の

結果である。私たちが,真実に対して盲目である限り,輪廻の輪をめぐるこ

とは,避けられない。私たちは,マーヤーを超越して, 自分の真の身分に気

付いた時,個人性を脱するのである。個人は,どんな姿をとろうと,それを

乗り越えるよう運命づけられている。個人は,いつも,何か別のものになろ

うと努めている。しかし,無限の性格が,何であれ有限の生存を通して顕現

されることは,ない。有限の生存は,生成の営みが,それ自身の存在の終点

に到達して,有限者が無限者のうちに引き継がれるまで, 自分の有限性を超

え続けなければならない。有限の世界は,それ自体,果てしなき前進の道で

あり,完全性を目指す無限の道のりであり,ますます増大する欲望対象への,

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206 明治大学教養論集通巻536 号 (2018• 12)

次第に接近していく道程である。したがって,生成と,プラクリティとの結

びつきとに基づく,どんな明確な区別も, 一時的なものに過きないことにな

る。ギーターでは,その思考がプルショーッタマのレヴェルにとどまってい

るあいだは,プルシャの永遠性と複数性か受け入れられている。それゆえ,

もろもろのジーヴァは,個別化されたプルショーッタマの,明確な断片でし

かないことになる。絶対的真理という観点からしたら,ジーヴァの個別性は,

対象の要素(プラクリティ)に依存している。この世にあって,バラバラな

個別性を指し示す行為は,不死なる不動の霊魂によるものではなく,プラク

リティの力から引き出されたものである。 Iプラクリティから生まれた諸々

の性質は,あらゆる人を,何らかの行為に駆り立てる」98)。だがしかし,諸々

のプルシャが永遠のものであるのなら,永遠のプルシャこそが互いに異なる

行為の行為者なのだと考えても,おかしくはないはずだ。ギーターは言って

いる。―その心が自我意識によって曇らされている人は, 自分のことを,プ

ラクリティの諸性質からくる行為の,行為者なのだと思い込む」。(そこでは)

「様々な性質か,様々な性質の間を,動きまわっている _J (だけなのに)99) C

個別性についての間違った見方を生んでしまうのは,他でもなく,(自己と)

対象との混同である。したがって,―犬であれ,犬喰いであれ_100)'(個別的)

自己は,すべてにわたって同一であるのに対して,区別の基盤は,非自己,

プラクリティにあることになる。シャンカラにとっては, こうした件(くだ

り)が,すぺて,自分の主張する不ニー元論を支持しているのだとするのは,

造作ない。彼は言っている。「いくつかの体に関して,(自己自体の)究極の

差異を立証するとんな証拠も,提出することはできないのだから,究極の差

異,アンティヤ・ヴィシェーシャ antyavishesyasなるものが,個々人の

区別の基盤として,自己のうちに存在しているわけではないことになる。そ

こで, ブラフマンは,同質的にして,一つであるといわれるのである」JOI)。

だがしかし,私たちは,この世の区別を説明するために,個別的同一性とい

う定義不能の徴表などを受け人れるには及ばない。個々人が違っているのは,

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン「インド哲学」第一部第1X章 207

それぞれがとった具体的姿かたちのゆえであるからだ。マハーバーラタが言っ

ているように,「グナと結びついた人間が, ジーヴァ・アートマ,すなわち

個別的な魂てあって,グナから解放された人間が,パラマ・アートマ,すな

わち至高の魂なのだ」L02)。個人と至高者の同一性を宣言している件は,ラー

マーヌジャによって,また別様に解釈されている。例えば,「各人の内なる

ブラフマンは,いたるところで,手と足を持ちながら,万人を一つに包み込

んでいる」という宣言は,ラーマーヌジャによって,「アートマンの浄化さ

れた本質は,体やその他の対象から来る限界を一切欠いているため,一切万

物に染み渡っているのだ」L03) という意味に受け取られている。しかも,ギー

ターが「各人の内なるプルシャは,証人にして黙認者,支え手にして享受者,

大いなる主にして至高の自己なのた」と述べるとき,ラーマーヌジャは困惑

して,次のように言っている。「そのようなプルシャは,プラクリティによっ

て生み出されたグナと自ら結びつくからこそ,この体に対してのみ,偉大な

支配者となるのであり,この体に対してのみ,アートマンとなるのだ」L04) と。

時折,単数で用いられたり,複数で用いられたりしているからと言って,

魂の究極の本質については, どんな推理を引き出すことも,許されない。経

験的な側面が強調されるときには,複数が用いられている。「私も,君も,

これら人間の支配者たちも,存在しなかったことは,絶えてない。私たちの

うち, この先,存在しなくなる者は,一人もいないだろう」LOS)。魂は永遠に

複数存在するのだというという教説を,ここから推断するのは,造作ない。

ラーマーヌジャは,述ぺている。「自己が,他の自己たちからはっきり区別

されるように,神からもはっきり区別されることは,最高の真実なのだと,

主ご自身が宣言している」と。これに対してシャンカラは,「私たちは,自

己として,アートマンとして,時の二つの期間(過去,現在,未来)のすべ

てを通して,永遠の存在なのだ」と,力説している。生まれ変わりに関する

次の詩からも明らかなように,複数が用いられるのは,自己に対してではな

く,互いに異なる肉体に対してなのだと,彼は信じているのだ。形而上学的

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208 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

には,ただ一つの魂しか存在しない, というのである 106)0

ギーターは,究極の状態に達するまでは,生まれ変わりが続くのだと信し

ている。不完全性の結果として生ずる誕生は,必ず死を迎えるしかなく,不

完全のままに死ぬものは,必ず誕生を迎えるしかない。幼年期と青年期と老

年期が,人間の(有限な)枠組みに生ずるように,誕生と死も,人間の(有

限な)枠組みに生ずるのだ。

いやむしろ,ひとが

着古した衣を脱ぎ捨てて

新しい衣を着るときに

「今日,私はこの衣を身に着けるのだ」

と言うように,

霊魂もまた,新たな住まいを受け継ぐために,

肉の衣をそっと纏って

進み出るのだ107)C

死は,ただの場面転換にすぎない。演じ手が自己を表現する道具は,無傷

のままでなくてはいけない。年をとって力が衰えたり,病気になって一時的

に力が衰えたりすれば,物理的なこととはいえ,心の核心にも,作用を及ぼ

すことになる。肉体が死を迎えると,新しい道具が与えられる。私たちの生

は,私たちとともに死ぬことはない。私たちの生は,一つの肉体を着古した

ら,別の肉体を受け取ることになるからだ。誕生の種類は, 自分が開発した

性格の如何によっている。自分の育てた性格では,サットヴァとラジャスと

タマスのどれが支配的であるかに従って,私たちは,天界に生まれたり,人

界に生まれたり,動物界に生まれたりすることになる。私たちが達成した歩

みは,どんなものもすべて,自分のために保存される。アルジュナがクリシュ

ナに,完全性に達することのできない者たちの運命は,破滅しかないのかと

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン rィンド哲学』第一部第1X章 209

尋ねると, クリシュナは答えて言う。善をなすものは決して破滅することは

なく,「前世の性格を取り戻して,それをもって,完成を目指した前向きの

努力をするとき」108), また別の誕生を迎えるのだ, と。あらゆる価値が保存

される。本人のハートが至高者に向けられていれば,誰も至高者の道を見失

うはずはない。生まれ変わりは,ゴールに達するまで続く 109)。感覚と心から

なるスークシュマ・シャリーラ,すなわち精妙身は,肉体の死後も生き続け

て,性格の担い手となる 110)。生まれ変わりは,それによって自分を完成させ

ることのできる,試練であるため,輪廻を続ける者が辿る神々の道にも'"l,

罪ある者たちの辿る第三の道にも1121, 生まれ変わりということが,同じよう

に言及されるのである。

Vlll

倫理

特定の人物たちが,それぞれ有限で,個別的で,たがいに区別されるのは,

ただ偶然のことに過ぎず,根底に横たわる真理を表すものではない。個人は,

見かけの自己完結性と独立性を打ち壊さない限り,平安と安定と安全の奥義

を手にすることはない。真の自由とは,自己超出,すなわち論理と愛と命を

傾けて到達する至高者との合一のことである。私たちが求める目標は,自ら

神になること,あるいは永遠者に触れること〈ブラフマ・サムスパルシャム〉

である。これよりほかに,絶対的価値はない113)0

悪を滅ぽし,肉体の腐敗を取り除き,低次の本質を修復し,感覚を情熱の

絆から解放することは,万人の力のうちにある。苦闘を続ける各人は, 自分

の目で真理を見抜き, 自分の理性で判断し, 自分のハートで愛するという,

持続的な努力が必要となる。自分の力で獲得した半真理は,他人から学んだ

全真理よりも,価値がある。

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210 明治大学教簑論集通巻536号 (2018• 12)

人は,理性と意志と感情の複合体であるため,これら全体を傾けて,自分

の存在の真の喜びを求めることになる。人は,至高の実在についての知識や,

至高の人物への愛と憧れや,神的目的への自発的な服従などによって,この

目標に達することができる。人のうちには,互いに異なるこうした方向にむ

かって, 自分の小さな自己を超えさせようとする衝動が働いている。私たち

がどんな視点を採ろうと, 目指すところは一つである。それは,それによっ

て真理が達成され,美が創造され,行いが完全なものとされるような,私た

ちの生のいくつかの側面が,効率的に調和した状態である。ギーターは,意

識生活のどんな側面も排除することはできないと,強調する。いくつかの側

面全てが,統合的な神的生活を通じて,それぞれの充足を見る。神ご自身は,

サットにしてチット,チットにしてアーナンダ,すなわち実在にして真理,

真理にして至福,つまりは,サッチダーナンダである。絶対者は,知識を求

める者に対しては,一点の暴りもない真昼の太陽のように,すっきりと輝く

永遠の光として自らを明らかにする。徳を一心に求めるものに対しては,揺

るぎも偏りもない永遠の正義として,また,情緒的傾きの強い者に対しては,

永遠の愛と,聖なる美として, 自らを明らかにする。神でさえ, 自らのうち

に,叡智と善と聖性を併せ持っているのだから,人もまた,統合的な霊的生

活を目指すべきである。終点に達したら,道をふさぐものは,何もない。個

人の有限な生活では,沈思黙考と行為の間に,ある種の二律背反があるのは,

確かだが,それは,私たち自身が不完全だということの証拠でしかない。ク

リシュナは,どんな方法を採用したらよいのかと尋ねられて,そのことで心

配するには及ばないと,はっきり答えている。互いに異なる道も,最後まで

別々ではなく,結局は同じゴールに帰着するからで,途中では互いに交差を

重ねても,ついには,一つになることが分かるからだと。人は,断片を通し

て働く者ではない。進歩とは,互いに関連しあって行われる発展のことで,

バラバラな発展のことではない。知識と感情と意志は,唯一の魂の,互いに

異なる側面なのだ。

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 211

ギーターは,その時どきの理想をすべて調和させて,その行き過ぎを正そ

うとしている。知的な探求,厳しい克己,神への熱烈な献身,祭式の遵守,

ョーガの訓練などは, どれも,神的存在への手ごろな接近法だと見なされて

いたが叫ギーターは,これらすべてを統合して,それぞれの正確な位置と

価値を示すのである。ギーターは,集中攻撃の有効性を信じているのだ。こ

うした異なる方法をすべて念頭に置いた調停的理想は,個人と,プルショーッ

タマの統括する宇宙の結束を,強化してくれる。

ギーターは,ウパニシャッドで示されているカルマ,すなわち行為と,ウ

パーサナ,すなわち信仰と,ジュニャーナ,すなわち叡智の,三つの方法を

採用し,それらを六つの章を割いて順に論じているのだと,マドゥスーダナ・

サラスヴァティー MadhusudanaSarasvatlは見なしている c その真偽は

ともかく,ギーターが,意識生活の三つの大きな区別を強調していることは,

確かである。ある者は道徳生活の困惑から,ある者は知的な疑問から,また

ある者ば清緒的要求からといった具合に,様々な人たちが,様々なアプロー

チに従って霊的ヴィジョンに導かれていることを,認めているのである。

IX

ジュニャーナ・マールガ,叡智の道

論理的な心は,部分的なものに甘んじることができないため,物事の全体

を把握しようとして,真理に錨を下すまでは,安息を覚えることがない。自

分は至高の真理を獲得すぺき定めにあるのだという揺るぎない信仰に鼓舞さ

れているのだ115)。ギーターは二種類の知識を認めていて,実在の現象を知性

によって外から理解しようとするものと,一連の見かけの現象の背後にある

究極の原理を,直観の力によって把握するものとが,それである。人間のス

ピリットは,論理的知性に従えば,とかく自然の中に自らを失って, 自分と

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212 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

自分の活動を,同じものだと見なすことになる。実在の真理を,その源泉と

内なる実態を通して把握するためには,人間のスピリットは,間違った同一

化の罠から自分を解放する必要がある。実在の詳細を知的に把握する行為は,

実在全体の共通基盤についての知識を指すジュニャーナとは区別して,ヴィ

ジュニャーナと呼ばれる。この二つは,一つの追求の,互いに異なる側面で

しかない。あらゆる知識は,神の知識であるからだ。科学も哲学も,物事は,

永遠の霊魂のうちでは一つなのだという真理を,悟ろうとする試みである。

霊的知識には,サットヴァの性質が染み渡っているのに対して,科学の知識

は,ラジャスに支配されていると言われる。科学による部分的真理を,霊魂

による全体的真理と取り違えれば,タマスという最低の性質が支配するよう

なさらに劣った知識を手にすることになるい6)。魂に基づく真理というのは,

私たちが科学のレヴェルに留まっている限り,一つの仮説である。果てしの

ない生成が,存在を覆っている。科学は,心を押さえつけている闇を払いの

けて, 自分の世界の不完全さを暴くことで,心に,それを超えたものへの覚

悟を迫る。科学は,自ら、の手段では,一切を知ることはできないため,おの

ずから謙遜の態度を刺激する。私たちは,過去についての忘れやすさと,未

来の不確かさとに取り巻かれている。けれども,物事の最初の原因と人類の

運命に通じたいという間違った願望にふけるのは,実りのない無駄ごとだと,

科学は思いこんでいる。究極の真理を,本当に知りたければ,科学は,また

別の修行によって,みずからの穴埋めをする必要がある。ギーターは,探求,

パリプラシュナは,すべからく奉仕,セーヴァーと合体すべしと説いてい

る117)。直観力をはぐくむためには,心の方向転換,すなわち魂の目覚めが必

要である。アルジュナは,自分の肉眼では,真理を悟ることができなかった

ために,神的視力を,つまりは霊的ヴィジョンを求めたのであったIISl。ヴィ

シュヴァルーパというのは,神に憑依された個人が,神を通して,一切を見

通してしまうという直観的経験を,詩的に誇張したものである。ギーターの

信じるところによれば, こうした霊的ヴィジョンを得るためには,個人は内

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第lX章 213

面に生きて,心を最高の実在に固定するすべを身につけなければならないと

いう。私たちの視界から真理を隠しているのは,知性の欠如ばかりではなく,

利己心という情熱も手伝っている。アジュニャーナ,無知というのは,知的

な誤りのことではなく,霊的盲目状態のことを言う。これを取り除くために

は,魂から,肉体と感覚の陰路を洗い清めて,物事を新しい角度から眺める

霊的ヴィジョンに火をともすことが,必要である。情熱の炎も,欲望の喧騒

も,これを鎮める必要がある JJ9)。そわそわと落ち着きを欠いた心は,上から

の叡智を映し出すためには,波一つない湖のように,鎮められなければなら

ない。理解と識別の力能であるプッディにも,訓練が必要だ120)。ブッディが

機能する仕方は,私たちの過去の習慣に左右されるため,それを,宇宙につ

いての霊的な見方と折り合いがつくよう,訓練しなくてはいけないからだ。

ギーターがヨーガのシステムを受け入れるのは,知的訓練の一手段として

である。ヨーガの修練は,私たちを,ふらふらと変わりやすい自分の人格か

ら,常識を超えた態度にまで引き上げることができるような指針を,与えて

くれる。私たちは,そうした態度を通して,関係の営み全体の秘密に迫るカ

ギを,手にすることになる。ヨーガの修練の本質的なステップは,次のステッ

プからなっている。 (1) 心と,体と,感覚を浄化して,それらに対する神

的なものの支配を促す。 (2) 感覚の後ばかり追う思考の散漫な動きから,

意識を集中もしくは撤退させることよって,意識を至高の存在に固定する。

(3) 私たちが実在に達したら,実在と同一化すること。ギーターは,パタ

ンジャリのヨーガ・スートラほど系統だってはいないが,様々な修行法に言

及している 121)。

ギーターは,あらゆる色合いの意見を持った思想家たちにも受け入れられ

るような,若干の一般的原理を提供してくれる。私たちは,信仰, シュラッ

ダーを抱いて,反逆的な衝動を抑え,思考をピッタリ神に合わせるよう,求

められる ,_22)。霊的ヴィジョンを得るためには,静かで蕗ち着いた雰囲気が,

必要である。心を固くコントロールすることからくる静けさを通して,魂の

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214 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

声が聴こえるようになる。真のヨーガは,霊的な偏りのなさ,サマトヴァを

もたらしてくれるヨーガである 123)。「心が,覆いをかけた壺のなかの灯火の

ように,揺れ動くことのないところ,真実の自己が,真実の自己を眺めてい

るところ,そこでは,人は自らに満足している。人が,真理から脱線しない

ところに立って,ただ悟性しか知らないような,感覚を超えた絶対的至福を

経験するところ,これ以上大きな利得は考えられず,最大の苦痛にさらされ

ても,心一つ動かされぬようなところー一悲惨から解放された,まさにこの

ような状態こそが,ヨーガなのだー1124)。霊的洞察が得られるよう,万人がヨー

ガを実践しなければいけないわけではない。マドゥスーダナ・サラスヴァティ

は, ヴァシシュタから詩を一つ引用している。「ヨーガも, ジュニャーナも,

心を,己のエゴイズムもろとも鎮圧するための,異なる手段であるが, ヨー

ガが,心的活動を鎮圧 vritti-nirodaするのに対して, ジュニャーナは,真

の包括的理解力なのだ。ヨーガが不可能な者たちもいれば, ジュニャーナが

不可能な者たちもいる」125)。霊的直観もまた,神の掟にかなった行為と崇拝

によって,助長されるであろう 126)0

ギーターは, ヨーガの修練が霊的訓練に相応しい場合もあると認めている

が,その危険性については, 自覚していないわけではない127;。ただの断食や

その種の方法などでは,感覚的対象への欲求はそのままに,ただ感覚の力だ

けを弱める結果に終わってしまいかねない。必要なのは,感覚をコントロー

ルして,物質的対象が持つ牽引力に無関心でいることである。これを可能に

するためには,知的レヴェルを高めるしかない。

認識的性格にかけては一段上の霊的直観128) は,無批判的確信とは別であ

る。それは科学的判断を支えにしているからだ。そこでは,知識が厳しい情

熱と一体化していて,おそらく私たちに可能な最も複雑な経験となっている

のに, もはや心の混乱を覚えることもなく,ただ霊的平安が芯から享受され

るばかりなのだ129)0

ひとたび認識体験が最高の充実に達すると,情緒や意志といったその他の

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学」第一部第IX章 215

意識面も,おのずから深く感得されるようになり,喜びに満ちた雰囲気の中

で,霊的照明を通して神のヴィジョンが得られるようになる。生の憧れ全体

が無限者に対する一つの一貫した熱愛と化するのである。認識者が,同時

に,最も優れた献身者にもなるのだ130)。「私を知る者は,私を崇拝する者で

もある」13¥)。真理を認識するとは, 自分のハートを至高者の域にまで高め,

至高者に触れ,至高者を熱愛することにほかならない 132)。そこでは,また,

実践面での影轡力も生まれてくる。自分の本質を深く自覚すればするほど,

他人が本当に必要としていることへの洞察も,それだけ深くなるからだ。善

が「知識の要になるだけではなく,行動の道しるべにもなる」のだ。私たち

には最大の認識者にして最大の洞察者でもあったプッダという実例がある。

人類へのプッダの愛は,四十年間にわたる人類への奉仕となったのである。

知識や知性は,道徳とは別てはないかと,論じられることもある。知性は,

性格の本質的な部分を形成していると,言われている。私たちは,知的には,

判断ミスをしたり,間違った判断をしたりするが,道徳的には,悪いことを

してしまう。知性が,それ自体,良くも悪くもないのは,知性は,ただ,よ

い牛活を促進したり,損なったりするだけであるからだ。このことは,私た

ちの分析的判断,ヴィジュニャーナにも,そっくり当てはまる。これに対し

て,ギーターで言うジュニャーナ,すなわち叡智は,「私たちに,包括的な

真理に対する一面的な見方や狭い視点を超えさせてくれるので,私たちは,

人間同士の違いなど,究極的なものではないのだから,間違った差別に基づ

くどんな行いも,良い行いとは言えないのだ」と,おのずから感じるように

なる。人間の命には,ただ一つの共通のルーツがあって,どんな個人の命の

うちでも,一個の独立自尊の霊魂が生き生きと働いていることに,気づくの

である。こういう真理が感得されると,感覚と自己は,おのずと力を失って

しまう 133)0

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216 明治大学教養論集 通巻536号 (2018• 12)

x

バクティ・マールガ,すなわち信愛の道

バクティ・マールガ,すなわち信愛の道は,人間の情緒面での正しい活動

の法則を示してくれる。バクティとは,知識や行為とは別の,情緒的愛着の

ことである )34)。私たちは,これを通して,神的存在に自分の情緒的可能性を

捧げるのである。情緒は,個人同士の生きた関係を表わすが,これが神と人

を結びつけると,宗教感情の力をもった本能となる。私たちは,愛すること

も,崇拝することもなければ,自分のエゴイズムという牢獄に閉じ込められ

てしまう。この道は,正しく調整されれば,私たちを至高者の認識に導いて

くれる。それは,弱い者にも劣った者にも,文字の読めない者にも無知な者

にも,等しく全員に開かれているうえL'5J' 最も易しい道でもある。愛をささ

げることは,意志を,神的目的や,禁欲的鍛錬や,骨の折れる思考の努力な

どに同調させることに比べたら,さほど難しいことではない。それは,実に,

他のどんな道にも劣らず効果的であるが,それ以上だとさえ言われることも

ある。そのわけは,他の道が,何かそれ自身よりほかのものへの手段である

のに対して,信愛の道は,既にそれ自身が, 自らの実りとなっているからだ。

バクティ・マールガの起源は,遥か昔の霧の中に隠されている。ウパニシャッ

ドのウパーサナの理論や,バーガヴァタの献身の道などが.ギーターの著者

に影欝を与えている。著者は,自由ですっきりした発言を与えるところまで

はいかなかったウパニシャッドの宗教レヴェルに属する観念たちに,秩序を

育てようと苦心している。ギーターでは,絶対者が,,夏理解者たちの理解」

ともなれば,「栄光ある者の栄光」虞ともなり,神々と人間たちの最初の存

在にもなれば,リシたちの頭(かしら)にも,一切を強奪する死にも,なる

のである 137)。クリシュナは,未顕現の絶対者についての瞑想が.ゴールにつ

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 217

ながるのだとしながらも,それは容易な技ではないと,強く説いているが138¥

それは,有限な人間にとって,足場とすることができるようなものは,何一

つ与えてくれないからだ。どんな対象に対して私たちが感じる愛にも,分離

の要素が含まれている。愛によってどんなに緊密に結ばれようと,愛する者

と愛されるものは,別々である。私たちは,思考の世界でそうしているよう

に,二元論(主客による二元対立)の世界に満足するしかない。けれども,

二元論を超越する一元論を,低次の世界への転落と説明するのは,間違いで

ある。至高者への献身は,至福と美しさに輝く具体的個別者としての人格神

を相手にしてしか,成り立たない。私たちは, 自分の心から生まれた影を愛

するわけには,いかない。人格性には,仲間となったり,交流したり,共感

したりするゆとりが,含まれている。人格的な救済者にたいしては,人格的

要求が生まれるのである。愛の心が浸みこんでいく神というのは,流血行為

に耽ったり,重い心が助けを求めて泣き叫んでいても,平気で眠ったりして

いるような神ではない。神は,愛であるからだ139)。自分を丸ごと神に捧げて,

神の足もとに身を投げ出す者は,霊魂の門は開いたままであることに気づく。

「私は約束する。私を愛する者は,滅びることがない」140)。神の声が,そう宣

言しているからだ。

神をこの世に結びつけているのは,厳しい返報の法ではない。行いの結果

も,神への献身によって変わることがあるからだ。これは,カルマの法の蹂

躙ではない。カルマの法は,献身にさえ報いが与えられるよう,求めている

からだ。「たとえ悪人でも,心からなる愛をもって,一途に私に向き直れば,

その人は,聖者と見なされるべきである」。なぜなら,その人は,覚悟を決

めて神に向き直ったことで,義の魂となったからだ。主は, ご自身で罪を受

け入れたり,美点を受け入れたりすることは,決してない141)。だがその代わ

り,いかなることも,それに相応しい結果をもたらさずに起こることがない

よう,物事の経綸を整えられたのだ。神は,どんな捧げものでも,どんな悔

悟でも,等しく嘉し給うというのは,ある意味では本当である。「私には,

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218 明治大学教養論集 通巻536号 (2018• 12)

憎むべき者も,いとしい者も,一人もいない」が,「私に帰依する者は,み

んな可愛いのだ」i,2) といった箇所に見られるような,一見矛盾している見方

も,まさしく,このような仕方で,両立させたらよい。人は,神の変わるこ

となき気遣いの,対象であるのだから。

神に対する愛の本質,すなわちバクティの本質には,「物言えぬ者にとっ

ての味わい」にも似て,日く言い難いものがある 1'3)。とは言え,こういう情

緒的愛着の本質的特徴は,絶対に完全だと思われるものへの敬慕の情にある

と言ってよい。その対象は完全なのだから,考えられる最高より以下のどん

なものも,失格である。ナーラダ Naradaは,みずからのスートラで,人間

の愛を例に引いている田)が, ここでも,有限な個人が, 自分を超えて,一

つの理想に手を伸ばすのである。ただし,その理想が,自身の純然たる本質

をあらわにするのは,ごくまれのことでしかない。献身を寄せる対象は,あ

くまでも最高の存在,すなわちプルショーッタマである。彼は, この世を活

性化させると同時に,魂を照らすものでもある。神を,低次のレヴェルで究

極の存在と思われるような要素たちと同一視するのは,御法度であるが,さ

りとて神は, ミーマーンサー学者の思い描くような「厳各な」供犠の主であ

るわけでもない。彼はまた,人間の心が自然の諸力に掃するような」(雷神,

風神といった)人格的行為主体たちとも,混同されてはならず,サーンキャ

学派の説くプルシャとも,別である。彼は,これらすべてであって, しかも,

それ以上である 145)。ギーターの著者は,神が各人のうちに住んでいる様子を

強調する。もしも至高者が,個人の意識とは全く無縁であれば,彼が崇拝の

対象になることなど,ありえない。もしも彼が,個人と完全に同一であれば,

やはり,崇拝など成り立たない。彼は,個人とは一部同じで,一部別な存在

なのだ。彼は,神姫ラクシュミーという名の物質的自然,プラクリティと結

合した主なる神であって,願いの丈を評価する尺度は,ラクシュミーの手に

握られている。神と合ーできるのだという想いが,歓びのヴィジョンとなる。

「汝の心を,我がうちに定め,汝の理解を,我がうちに入れるがよい。さす

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 219

れば,汝は,以後,ただ我のみを相手に暮らすことになるであろう」146)。そ

の他の愛は,すべて,この至高の愛の不完全な顕れでしかない。私たちが,

他のものを愛するのは,それらのうちに宿る永遠なるもののゆえである。帰

依者は,全き謙遜の感受性に包まれている。理想を前に彼が感じるのは,自

分など,いかなる者でもないのだという思いであって,このように, 自己を

どこまでも低きものとする態度が,真の宗教的献身に不可欠な要件なのだ。

「神は,柔和なことを愛し給う」147)。個人は,神から離れたら,自分など何の

価値もないのだと,感じる。彼の献身は,神への愛,プリーティとなるか,

神なきゆえの惨めさ,ヴィラハとなるかの, どちらかだ。自己は, 自分が愛

着する対象の至高の価値を発見すると,自らを無価値な屑のような存在だ思

い定めて, これを捨てないわけにはいかなくなる。帰依者は,自分を神の慈

悲に,すっかり委ねる。ひとり,絶対帰依の道しか,なくなるからだ。「私

を想い,私に帰依し,私を礼拝しなさい。そうすれば,君は必ず私のところ

に来られる。君は私の親愛の友なのだから,そのことを君に約束する。あら

ゆる宗教の形式を退け,ただひたすら私に頼り,私に従いなさい。悲しむこ

とはない。そうすれば,私がすべての罪から救ってあげるのだから」148)。神

は,私たちに,二心なき献身を強く求めたうえで,約束する。私たちの知識

と誤りのすべてを取り上げ,その不十分な形の一切を投げ捨てて,それらを,

神ご自身の永遠の光と,普遍的な善の穣れなさへと,すっかり変えてくださ

るのだ,と。しかも,帰依者には,理想的なものに仕えたいという願いが,

一貫して働いている。帰依者は「自分が帰依する対象である神のことしか眺

めず,神のことしか語らず,神のことしか考えない」149)。彼の行うことは,

すべて,神の栄光を讃えるためでしかない。彼の働きに,どこまでも私心が

ないのは,元々その実りなどに関心がないからだ。その態度は,超越者への

心からなる自己放棄の態度に他ならない150)。帰依者が,このように, 自分を

理想の存在に委ねきっても,感情が盲目的高まりを見せているわけではない。

感情は,歓びに満ちた,心からなる自己放棄を通して,むしろ生命そのもの

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220 明治大学教挫論集 通巻536号 (2018• 12)

となっているからだ。つまり神が,心の支配的情熱と化しているのである。

帰依者は,こうして自分の目的に達し,不死の身となって,自らに満足を覚

える。もはや彼には,願うことも,悲しむこともない。喜びと平安に満たさ

れるなか,霊魂に魂を奪われているからた:151)。ギーターによれば,バクティ,

すなわち真の献身とは,神を信じ,神を愛し,神に帰依し,神のうちに帰入

することにほかならず,そうした献身の行為は,既にそれ自体で, 自らの実

りとなっているのである。

真のバクティに最初に求められるのは, シュラッダー,すなわち信仰であ

る。最高の実在は,帰依者の意識にはっきりと姿を顕わすまでは,信仰にも

とづいて仮定されたり,受け取られたりするしかない 152)。信仰というのは,

極めて重大な要素であるため,人々が信仰する神なら,どんな神でも,許容

される。人間の習慣や心の無限の多様性にかんがみて,個人には,思考や信

仰の自由が許されている。どんな愛でも,ないよりは,ましだからだ。愛す

ることがなければ,私たちは, 自分のうちに閉じこもってしまう。ところが,

無限者は,私たちの魂に,多様な様相を通して自らを露わにするのである。

低次の神々も,唯一の至高者の,それなりの形態や様相である。ギーターで

は,神的存在の化身を,プルショーッタマより下に位置付けており, プラフ

マーやヴィシュヌやシヴァも,それぞれ創造神,維持神,破壊神の名を表わ

していないときは,プルショーッタマに従属する神とされる 153)。ヴェーダの

神々への信仰も認められている 154)。ギーターは,憐みの情から,庶民がクシュ

ドラ・デーヴァタ,すなわち卑小な神格たちを自由に崇拝するのを認める

のである。崇拝が帰依心をもって行われる限り,それは,ハートを清めて,

心かより高い意識へと向かう準備となるからだ園)。

こうした寛大な態度への哲学的正統づけは,十分ではないにしても,それ

なりに示されている。人は,何を考えようと, 自分の考える通りのものにな

り,人は,何を信仰しようと,そこに到達するのだ, というのである。この

世は, 目的を持った一つの道徳的秩序であるため,個人は, 自分の願うもの

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 221

を,そこで手に入れる。「神々を拝む者は,神々のもとに行き,祖霊を拝む

者は,祖霊のもとに行く」156)。「いかなる崇拝者が,信仰心をもって,いかな

る形を崇拝したいと願おうと,私は,その人の,その形への信仰を,揺るぎ

ないものにする。その人は,その信仰にとりつかれて,その神格の機嫌を取

ろうとするうちに,そこから,私が与える当の恩恵を得ることになるから

だ」157)。ラーマーヌジャは,次のように述ぺている。「プラフマーから一茎の

薗に至るまで,この世に生きているものは,すぺて,カルマが引き起こす生

と死に縛られているのだから,瞑想の役には立たない」。ただ一人,まこと

の主であられるプルショーッタマのみが,献身の対象となるのであって,低

次の形体は,そこに至る踏み石にすぎないのだ, と。ギーターの第 10章で

は,力と偉大さを並外れて示している特定の対象や人物に,心を定めるよう

求められる。これは,プラティーカ・ウパーサナと呼ばれる。第 11章では,

全宇宙が神の形をとる。第 12章では,宇宙を統括する神について,詳しく

述ぺられる。一人,最高の存在のみか,私たちに自由を与えてくれるのだ。

他の帰依者が有限の目的にたどり着くのに対して,至高者に帰依する者は,

無限の至福に達するのだ, というのである 158)O

バクティの採るに形は,神の力と叡智と良さについて静かに思い続けるこ

と,敬虔なハートで絶えず神を思い起こすこと,神の性質について他人と話

し合うこと,仲間と共に神への讃歌を歌うこと,あらゆる行為を神への奉仕

として行うこと,などがある 159)。どんな固定した規則も定めることはできな

い。人間の魂は, こうした様々な営みによって,神的存在に近づいていくか

らだ。心を神の方向に振り向けるために,若干のシンボルや規律が案出され

る。感覚的対象への欲望を捨てないかぎり,神への絶対的な帰依は成り立た

ない。そこで,時としてヨーガが,採用されることになる 160)。衝動は,外面

的なものへの崇拝から,私たちを生活上のこだわりから定期的に解放してく

れるような思い出に至るまで, どんな形の愛慕の情となっても,不思議はな

い。これに対してギーターは,時に,他の一切の対象を排除して神について

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222 明治大学教養論梨通巻536号 (2018• 12)

考えるよう,私たちに求める。しかし, これは否定的な方法である 161)。ギー

ターは,私たちに,全ilt界を神の至高の顕現と見なすようにとも,求めてい

るからだ152)。私たちは, 自然と自己双方の内なる神を実感することによって,

自分の振る舞いが人間の内なる神の表現となるよう,己を律する必要がある。

至高の献身と完整な自己放棄は,即ちバクティとプラパッティは,ただ一つ

の事実の,表裏の二面である c ギーターは.唯一なる永遠の神には,神自身

のどんな様相からも,近づいたり,崇拝したりすることができることを,認

めている。まさしく, この寛容のスピリットこそ, ヒンドゥ教をして,様々

な種類の崇拝と経験の綜合にさせたり,多くのカルトや信仰箇条を統一する

雰囲気を醸成させたり,唯一の真理には多面があるのだという事実に基づく

思考体系や霊的文化を形成させたりしてきた,当のものに他ならない。

献身が最高の成就を見ると,献身の対象を揺るぎないものとして確信でき

るようになる。この経験は, 自己確証的な性格を帯びている。その経験それ

自体が, 自己証明, スヴァヤム・プラマーナムとなっているからだ。ここで

論理的議論をしても,あまり役に立たない。真の婦依者は,神についての空

しい論理的議論のことなど,気にもかけていないからだ163。これは,バクティ

の最高のタイプで, もうそこからは,他のいかなるものにも,ぶれることは

ないこれは,途切れなく続いて(ニル・アンタラ nirantara), これといっ

た動機も欠いた(ニル・ヘートゥカ nirhetuka)献身なのだ叫ギーターに

は,愛のためには知識も意志も否定するといった,情緒的宗教の弱さがない。

主にとって,献身者は,誰も可愛い存在であるが,分けても最も可愛い存在

は,叡智を備えた者たと,されている三苦しみを抱えた者知識を求める

者,利己的な者という,その他三つのクラスの献身者の場合には,その目的

が細やかなものであるところから,願いか叶うと神への愛が尽きてしまうこ

ともあるが,(叡智を備えた)見神者の場合には,澄み切った霊魂で,神を

常に崇拝し続けるのである属)。その時,神への熱烈な愛,バクティは,燃え

盛る炎と化して,個人性の限界を焼き尽くし,燃やし尽くし,消尽し尽くし

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サルヴェバリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 223

てしま土真理のヴィジョンが,こうして開示されるのである。霊的真理の,

(自己愛とは無縁な)このような嗜みを欠けば,ギーターの宗教も,ただの

情緒主義に陥って,献身も,単なる感情のカーニヴァルと化してしまわない

とも,かぎらない。

静かな祈りとして始まり,慕わしいもの見たいという憧れとして始まるも

のか,愛と歓びに満ちた,抗しがたい洸惚境となって終わるのである。崇拝

者は,神の存在と合体してしまう。彼は,神はーなりという全ー的真理のカ

を自然のうちに感じる。「ヴァースデーヴァ・サルヴァム・イティ」。彼は,

生の孤独と,自分がただの特殊な存在でしかなかった世界の無意味さとを逃

れて,今では,「大霊」の道具と化した世界に,立っている 16')。人間の最大

の人格も,「大霊」の,部分的表現でしかない。各人の純粋な本質は,時間

と空間を通して自らを顕現している永遠の霊魂なのだ。ここでは,知識と献

身が,互いに互いを支えあっている 168)。真の献身は,私心なき振る舞いとし

て終わる。献身者は, 自分への見返りをも,その他の見返りをも求めること

のない,一切を抱きとめる情け深い愛に,呑みつくされている。それは,宇

宙を誕生させる神の愛にも似て,宇宙を, 自分に向けて養い, 自分に向けて

引き上げているのだ。彼のうちでは,献身者自身ではなく,霊魂の力か,神

的自由を通して働いているのである。絶対的な自己放棄と,一切の営みを神

にささげることが,貞の帰依者の行いを特徴づけている。かくして,彼のう

ちには,最高の哲学に支えられた満足と,完陸な人間に固有なエネルギーと

が,祇っている。私たちは, この世の出来事などには目もくれないといった

情熱的な魂に,そこかしこで出会うが,ギーターの理想的な献身者のうちで

は,愛が,知識によって高められて,人類のために苦しもうという激しい願

望となって,噴き出しているのである。ティラク Tilakは,ヴィシュヌ・

プラーナから,次のようなシュローカを引用している。「自分の義務も忘れ

て,クリシュナ, クリシュナと唱えながら座っているだけの人たちは,実は,

神の敵で,罪びとなのだ。主ご自身でさえ,義のために, この世にお生まれ

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224 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

になられた, というのに」169)0

献身を霊的生活の究極の本質だと主張する人たちにとっては, 目指すとこ

ろが,永遠の非人格体への没入にあるのではなく,プルショーッタマという

人格体との合ーにあることは,明らかである。ところがギーターは,ニルグ

ナ・バクティヘの,すなわち性質なきものへの献身こそが,他のいかなるバ

クティにも勝ることをも,認めているのである。ここでは,絶対者が,究極

のカテゴリーとなるのだ170)。献身が完璧なものになると,個人とその神は,

一つの霊的洸惚境の中に溶け込んで,それぞれは,一つの生命の他面として

浮上するのである。したがって,絶対的一元論こそが,献身的意識とともに

始まった二元論の,完成体なのだ,ということになる。

XI

カルマ・マールガ,行為による神への奉仕の道

私たちは,行為による神への奉仕,すなわちカルマによっても,最高の境

地に達することかできる。カルマとは,本来,行為もしくは行いのことであ

るが,匿名の存在,絶対者が,それによって人格的存在,プルショーッタマ

となるような行いのことをも,指している 171)。カルマ,宇宙の働きには始ま

りがないと言われているため, カルマが世界プロセスの営みを支えている仕

方を厳密に理解することは,難しい172)。創造の終わりの段階では,全世界は,たね

カルマの精妙な種という形をとって逼塞し,次の出発のときに再び芽を出す

備えをしているのだという 173)。世界プロセスは「主」に依存しているため,

私たちは「主」のことをカルマの「主」とも呼ぶのである 174)。私たちは,

何らかの行動にかかわりを持っている。そこでは, 自分の振る舞いが,正義

の利益を推し進めると同時に,霊的安息と満足にも落ち着くよう,気を付け

ることが必要になる。カルマ・マールガは,神への奉仕をもとめる個人の渇

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 225

望を, ゴールに導いてくれるような振る舞いの道なのである。

ギーターの時代には,正しい振る舞いをめぐっては,多くのさまざまな見

解が広まっていた。儀礼と祝いを遵守するヴェーダの理論。真理を探究する

ウパニシャッドの理論。すべての行動とならんで,神崇拝という有神論の見

解をも捨ててしまう,仏教徒の観念などが,それである。これに対してギー

ターは,これらの見解を一巡して,そこから一貫した総合システムを打ち出

そうとするのである。ギーターは,私たちが, 自分とは別の世界に関係をも

つことになるのは,他でもなく,働きによるのだと,認めている。道徳性の

問題は,人間の世界でしか意味を持たない。この世の対象については,人間

の自己のみが,責任の感受性を持っている。個人は霊的な幸せを切に願うが,

それを, この世の物質的要素から引き出すのは,不可能である。個人の追い

求める快楽は, ピンからキリまで揃っている。失意や間違った願いから引き

出されるのものには, とかくタマスが含まれ,感覚から引き出されるものに

は,とかくラジャスが含まれ, 自己の認識から引き出されるものには, とか

くサットヴァが含まれている 175)。最高の満足が訪れるのは,個人が, 自分を

独立した行為主体とみなさなくなって,代わりに神ご自身が,永遠の恩寵を

通してこの世を導いておられるのだと,痛感したときでしかありえない176)0

善き業とは,私たちを,個人性の束縛から解放して,霊魂の完成へと導いて

くれるような業のことを言う。

正しい振る舞いというのは,神と人間と自然の,真の統一を表現している

もの一切のことである。悪しき振る舞いとは,実在の, この本質的構造を引

き出すことのない,一切のことである。宇宙の統一こそが,根本原理である。

善とは,完全性に向かうもの一切のことであり,悪とはこれに一致しないも

の一切のことである。これが,仏教とギーターの本質的な違いである。たし

かに仏教は,道徳性を善き生活の中心に据えはしたが,道徳的生活の,霊的

完成や宇宙の目的などに対する関係という点まで,十分に強調することはな

かった。ギーターを通して私たちが確信するのは,たとえ私たちの努力が実

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226 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

らなくても,それで神の根本目的が台無しになるようなことは,決してない,

ということである。ギーターが指摘しているのは, この世に遍満する魂自体

は, どんなにその反対に見えようと,正義であることを失わない,というこ

とである。個人は,(正義自体であられる)神の,増大していく目的の道具

となった時自らの運命を成就するのである。

有限の中心たちは, 自らを一つの有機体のメンバーと見なして,全体のた

めに働くのでなければならない。自らの絶対性を求める間違った主張や, 自

分の独立性が他人の独立性によって制限されているのだといった誤った見解

は,断固,捨て去る必要がある。真の理想は,ローカサングラハ,すなわち

この世の連帯である。全一者の霊魂か, この世を通して働いているのだ。善

き人は,これと一緒になって,この世の福祉を目指さなければいけない177)。

ギーターは,個人の権利主張という観念を退ける。最善の人たちは,最大の

重荷を引き受ける。有限な存在の思惑には,克服すべき悪しき点が含まれて

いる。私たちは,罪と戦い,不正義と戦うことを,ためらうわけにはいかな

い。ためらっているアルジュナは, クリシュナに戦えと説得される。栄光へ

の愛や,王国への渇望などのためではなく,正義の法を護るために。だがし

かし,私たちが不正義と戦うときは,嘆きや動揺をもたらすような激情や無

知を通して戦うのではなく,あくまでも知識を通して, しかも全体への愛を

通して,戦うのでなければならない178)。

感覚を抑えることが,善き人の特徴となる。激情は,私たちの霊的本性を

閉じ込めてしまう。激情は,分別を失わせ,理性を無力化するからだ。野生

の衝動を野放しにすれば,肉体に宿る魂を奴隷にしてしまう 179)。ギーターは,

私たちに,行動の結果には超然として無関心でいるよう,求める。つまり,

ヨーガのスピリットは,公明正大のスピリット,浩然の気を求めるのであ

る180)。真の放撼ティヤーガの本質は,この点にある。無知に発する行為の

放棄には, タマスが混入しており,肉体の苦痛といった結果への恐れに発す

る行為の放棄には,ラジャスが働いている。結果を恐れず,超然と無執着の

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 227

スピリットで仕事をするのが,最善の形であって,そこでは,サットヴァが,

より多く働いている凡

カルマ,行為という問題についてギーターが実際にはがどんな態度をとっ

ているのか,これを理解しておくことが,必要である。ギーターは,禁欲主

義的倫理を支持しない。ここでは,無為という仏教の理論が,より肯定的な

仕方に理解される。真の無為とは,見返りを一切望むことのない行動のこと

である。ギーターは,カルマという行為の本質を分析することで,外面的な

行いと心的素性を区別して,(心的素性のうちに潜む)利己心のすべてを抑

えて, これをコントロールするよう,求めている 1821。ナイシュカルミヤ,す

なわち行動を慎むことではなく,ニシュカーマター,すなわち(行動の結果

への)無関心こそが,真の道徳法則なのだ, というのである 183)。激情,怒り,

強欲は,三つの地獄道として,克服しなければならない!訊)。欲望がすべて悪

いわけではない。正義を求める欲望は,神的欲望であるからだ185)。ギーター

は私たちの情熱全てを根絶やしにするのではなく,それらを純化せよと求め

るのである。すべからく,物理的ー生気的な本質は洗い落とし,心的ー知的な

本質は純化して,やっと霊的本質が,満足を見るのである 186)。ギーターは,

惰性と自由は別ものだと確信している。[実に,肉体をまとった者が,すっ

かり活動をやめてしまうことも,やはり,ありえない」187)。

眼は,見ること以外を,選ぶことができない。

耳に, じっとしていろと命じても,始まらない。

私たちの体は, どこに身を置こうと,

自分の意志に反するか,自分の意志に従うかの, どちらかなのだ188)。

地上に休息はない。永久に, これ,命あるばかりである。働きが,この世

の循環を保っているのだから,各人は,力の限り, この世を進ませ続けなけ

ればならない189・。ギーターが,その道具吃ての全てを通して指摘しているの

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228 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

は,行動の勧めである。私たちは, 自由を得るまで,働くことは避けられな

い。私たちは,自由を得るために,働かなければならず,自由を手に入れた

ら,今度は神の道具として働かねばならない。そうなれば,勿論,心を整え

たり,ハートを純化したりするために働く必要は, もうない。自由を得た魂

には,従うべき規則など,ないからだ。彼らは, 自分の好きなように行うの

であるか,決定的なのは, 自由を得た魂でも,何かを行う, という点であ

る190)

゜ギーターが私たちに求めているのは,行動することによって,かえって拘

束されてしまうことのないような仕方で,行為せよ, ということである。主

ご自身は,人類のために行為される。絶対的な視点からしたら,主は,欲望

とは無縁なところで,自足しておられるのに,この世にあっては,常に,何

かを完成させ続けている。あたかも主ご自身にも似て,アルジュナもまた戦っ

て,己の務めを果たすよう,求められる。さらにまた, 自由な魂は,他人が

自分のうちに潜む内なる神を発見できるよう,手を貸す義務をも負うている。

人類に奉仕することが,すなわち,神を崇拝することに他ならない191)。欲望

も私心も捨てて, この世と神のために働くことが,私たちを拘束することは

ない。「こうした働きが,高きに列せられて行動とは無縁になった私を,拘

束することも,やはりない」19凡ギーターは,サンニヤーサとティヤーガを

区別する。万サンニャーサとは,利害の絡む働きは,一切これをきっぱり捨

てることであり,ティヤーガとは,あらゆる働きの実りを放棄することであ

る」193)。後者のほうが,包括的である。ギーターは,生の共通の営みを嫌悪

せよと求めるのではなく,利己的な欲望はすべてこれを抑えるよう,要求す

るのである。ギーターが擁護するのは,プラヴリッティ,すなわち働き(促

進)と,ニヴリッティ,すなわち引きこもり(退縮)の,合体なのだ。ただ

の引きこもりでは,真の放榔にはならない。手は休めていても,願いば忙し

く働いていることも,あるからだ。自由を拘束するのは,働きそのものでは

なく,働きが行われるときのスピリットである。「無知な者たちによるカル

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン「インド哲学」第一部第1X章 229

マの放棄は,実は,(結果を求める)積極的な行為であって,賢い者たちに

よる働きは,実は,(結果にこだわらない)無為であるのだ~194)。内なる霊的

生活は,(一般的には)この世のうちでの積極的生活とは,相容れないとさ

れる。ところが,ギーターは, ウパニシャッドのスピリットを通して, この

二つを和解させるのである。ギーターが示唆しているような行動は,熟練を

要する行動である。「ヨーガハ カルマス カウシャラム」,あくまでもヨー

ガは,巧みな行いの技術なのだ195)0

何につけても,私たちは,外面的な法に従属するのではなく,魂の自由に

基づく内なる決定にしたがって,行動しなければならない。これが,最高の

タイプの行動である。アリストテレスも言っている。「自分の確信に基づいて

行為する人がベストで,他人の勧告に従って行為する人は,その次である」⑯

と。頑な者たちにとっては,聖典が権威である。私たちは,最高の状態に達

したら,おのずと霊魂の法則に従って行為することになるのに,彼らの場合

には,ヴェーダを注人されても,上辺にしか届かないため,私たちを結び合

わせることもない。

どんな営みも,純粋な動機から行われなければならない。私たちは,自分

の心から,利己心や,特別な形の営みへの偏愛や,好意や喝采への願望といっ

た微妙な影は,一切これを締め出さなくてはいけない。善きカルマが,心を

純化して,私たちを叡智にまで導いてくれるのなら,それは, こうした私心

のないスピリットを通して遂行されるはずである。自分を地上の神と見立て

て,感覚の満足ばかりを求める利己的エゴイストは,形而上学では唯物論を

採用し,倫理学においては感覚主義を採用するといった,デーモンのような

輩なのだ191)0

ギーター倫理学では,グナ,すなわち性質の理論が,亜要な役割を果たし

ている 198)。グナヘの絆は,被制約感のもとになる。心に属する諸々の絆は,

間違って,自己に発するものだと思われている。サットヴァの浸み込んだ行

動こそが,最良のタイプの行動だとされているが園),サットヴァでさえ,拘

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230 明治大学教養論集 通巻536号 (2018• 12)

束力をもつと論じられることもある。より高貴な願いは,より純粋な自我を

もたらすからだ。余すところのない自由のためには,エゴイズムはすっかり

止滅するしかない。自我は,どんなに純粋であっても,ある種の障碍のヴェー

ルとなって,自らをただの知識や至福に結びつけてしまう。サットヴァとい

う性質をも含む,あらゆる性質を乗り越えて,斯私の宇宙的な見方に立つこ

とが,理想の状態を形成するのである 2CO)C

ギーターは, ヴェーダにおける供犠の理論を変容させて,それを,真の霊

的認識と和解させてしまう 201)。外面的な贈り物が,内なる霊魂のシンボルと

なるのである。供犠とは,自ら自己抑制と自己放棄を育てようとする,試み

のことである。真の供犠は,感覚的歓びを神に捧げる供犠である。私たちが

仕える神は,偉大なる至高者,すなわち,供犠の主,ヤジュニャ・プルシャ

である 202)。私たちは,あらゆる対象が,最高の目的を成就するための,神に

遣わされた手段なのだと感じて,働きをそっくり神に委ねなから,働きにい

そしむことが,必要なのだ。何を食べ,何を飲み,何をしようと,一切を神

の栄光に捧げるのでなければならない。ヨーギン,すなわち, ヨーガ行者た

るものは,神を通して常に行為するところから,その振る舞いが,それをま

ねようとする他人たちの,手本となるのである 203)0

ギーターは,人間の振る舞いを規制するための一般原則を,いくつか策定

する。いくつかの個所では,黄金の中庸が勧められる 204)。ギーターは,四住

期という人生の四つの区別と同様,カーストの区別をも,承認する。感情も

思考も低次元にある人たちを,いきなりより高いステージに引き上げるのに

は,無理がある。人間化のプロセスには,長い時間がかかり,時には,何世

代もの期間が必要となるからだ。ギーターは,上昇に向かう四つのステージ

に合わせて,個人を大まかに四つの根本タイプに分けている。カーストを互

いに異なる性質のうえに基礎づけることによって205), 各人に, 自分のカース

トに課せられた義務を果たすよう,求めるのである ,05)。スヴァダルマ,すな

わち「自己法」とは, 自分の使命に一致した働きのことである。私たちは,

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 231

自分に授けられた義務を通して,神を崇拝するのだ207)。神の意図は,誰もが,

社会とのつながりを通して何らかの働きをするように, という点にある。プ

ラトン Platoも,これとよく似た教説を支持している。「宇宙の支配者は,

全体の卓越と保存を目指すよう,万物に命じられたのだから,果てしなく広

がる宇宙のどんな部分にも,それにふさわしい行為と情熱があるわけだ。い

かなる医者も,いかなる工芸家も,全体のために一切のことがらを行って,

この努力を共通の福祉に振り向けているのであって,部分のために全体を行

使するのではなく,全体のために部分を行使しているのた―'2'8)。元々は,性

質をベースに枠組みが与えられたのに,カーストは,すぐに生得的事実となっ

てしまった。誰がどんな性質を持っているのかを見分けるのは,難しい。唯

ー,当てにできるのは,生まれであった。そこで,生まれと性質の混同が,

カーストの霊的基盤を掘り崩すところとなったのだ。けれども,特定の生ま

れの人間が,期待通りの性格を常に備えているという,必然的理由はない。

生の事実は,生まれと性質の一致という論理的理想に応えるわけではないの

だから,本来のカーストという制度全体が,崩壊しつつあることになる。私

たちの今日の知識からこの制度を非難するのはた易いが,それが,相互的な

善意と協調をベースに社会を成り立たせて,競争的社会観の危険性を補正し

ようとしてきた事実をも,公平に認識する必要がある。それは,富の優位で

はなく,智慧の優位を認めたのだから,その本来の価値判断に,誤りはなかっ

たことになる。

四住期,すなわち四つの人生段階の最後は,サンニャーサの段階で,そこ

では,個人は引退生活をするよう求められる 209)。この段階は,肉体が萎縮し

て,当人が仕事には向かないと感じるときに始まるのだと,言われることも

ある 210)。しかし,真のサンニャーサは,利己的な欲望を捨てることであるの

だから,私たちが家長として暮らしていても,立派に成り立つわけである 211)0

ギーターの見方からしたら,サンニヤーサという最後の段階に訴えない限り,

モークシャ,すなわち解脱を手に入れることはできないと言うのは,間違い

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232 明治大学教挫論集通巻536号 (2018• 12)

になる。

ギーターが示しているようなスピリットで行われる行動は,叡智を通して

その完成を見る 212)。エゴイズムが排除されて,神的存在感に火がともされる

のだ。そして神意を行えば,神の教えに通じていることになる。この段階で

は,神的存在への心からなる献身が,生まれるのだ。かくして,カルマ・マー

ルガ,奉仕の道は,情緒と知識と意志のすべてがそろった状態(と,その結

果である解脱)に,私たちを導いてくれるのである。

私たちの説明からしたら,奉仕の道が,モークシャ,すなわち解脱に帰着

するのは,明らかであるが,ただし,その奉仕は,祭事哲学を説くプールヴァ・

ミーマーンサーで言われるカルマとは別である。ヴェーダの供犠が私たちを

自由へと導いてくれることはないからだ。それらは,一つの道具的用途を持

つだけで,心をより高い叡智に向けて準備させてくれるにすぎない。とこ

ろが,神への供犠として行われ,利害とは無縁な,私心のないスピリットで

行われる奉仕,真のカルマは,他のどんな方法にも劣らず有効で, シャンカ

ラの説く叡智の道にも,ラーマーヌジャの信じる献身の道にも,従属させる

必要はない。クリシュナが,神への奉仕の道こそ,より優れた道なのだと宣

言するのは,ただアルジュナをおだてて,行動させようとしただけなのだと,

二人は,それぞれの思惑から主張しているが213¥アルジュナが,己の魂に背

いてまで行為するよう求められたとは,思われない。またアルジュナは,

(あくまでも武人であって,)己の心とハートを浄化するために働かねばなら

ないような,アジュニャーニン,無智の徒であるわけでもない。私たちは,

ジャナカ Janakaやクリシュナのような人物を,不完全な叡智しか身に着け

ていないために,いたずらな営みにふけるような人物なのだと,見なすこと

もできない。また,叡智を手に人れた後では, もうどんな営みも成り立たな

いのだと,考える必要もない。それどころか,ジャナカによれば,叡智によっ

て利己的な欲望を殺したら,さあ,次はカルマ,行為による神への奉仕を行

うのだという教えが,アルジュナに宣言されたのだという。シャンカラでさ

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 233

え,叡智に到逹しても,体を保っためには,いささかのカルマは,必要だと

認めている 214)。このように,いやしくも,いささかの行為が許されるのだと

したら,自由を得た魂がどこまで行うのかは,あくまでも程度の問題でしか

ないことになる。個人が,また,元のようなカルマに従属することを恐れる

なら,その人の克己心は完全ではないことになる 215)。プラフマンがこの世と

は別であるように,アートマンも体とは別なのだと信じても,体が行為を行

うことを妨げるものは,何もない216)。しかし,また一方では,ギーターは,

人間には様々な気質があって,隠棲に傾く者もいれば,奉仕に傾く者もいる

のだから,人間は,それぞれの存在法則に従って,行為するしかないのだと,

認めてもいるのである 217)0

次節に移る前に,人間の自由という問題についてのギーターの見解に,注

目しておく必要がある。人間の意志は,過去(世で)の自然的傾向,遺伝,

訓練環境などによって決定されるものと,思われる。全世界が,個人の自

然的傾向へと収敏するのだと言ってもよい。だがしかし,間接的にそう呼ぶ

のならば,ともかくも,自然による決定を,神の定めと呼ぶことはできない。

「すべての存在が, 自分の本性に従っているとき,あえてその本性に強制を

加えたところで,何の益があるだろうか」218)。神が物事の中心に立って,あ

らゆる個人を「機械にでもかけたように」219) ぐるぐる振り回しているのだと

したら,人間は,努力などしても,仕方がないように思われる。また,自然

によって決定される意志がすべてであったならば,人間には自由など存在し

ないことになる。仏教徒は,自己など存在しない,ただカルマ,因果歴々の

法が働いているだけだと,宣言する。これに対してギーターは,機械的に決

定される意志に対する,魂の優位を認めるのである。魂の究極の状態がどん

なであろうと,魂は,自然に対する絆から解放されれば,こと道徳レヴェル

では,一個独立した存在を持つことになる。ギーターは,人間には自由があ

ると,信じているのだ。クリシュナは,人生哲学をすっかり説明し終えると,

アルジュナに「自分の選ぶ通りに行うがよい」と勧める 220)。人間の魂に対し

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234 明治大学教強論集通巻536 号 (2018• 12)

ては, 自然も全能ではない。私たちは,自然の指図に,従わずにはいられな

いわけではない。それどころか,私たちは,:魂の道に付きまとう」自分の

好き嫌いには,抵抗するよう警告されている。自然の造りにおいては,避け

ては通れないため,抑圧することもできないものと,取り除くことのできる

脱線や混乱は,冗いに区別される。その魂が,まだ表面にまで苦労して進め

ないでいる存在たちは, 自然の流れに振り回されている。これに対して,知

性が支配的となっている人間の個人は,自然のプロセスを自らチェックするc

彼らは,すべての活動を知的な意志の手に委ねるのである。彼らは,激情

にかられないかぎり,むき出しの動物的生活を送ることはない。「一見その

意志に反して,また,何か秘密の力に拘束されでもしているかのように,人

間をしばしば罪に駆り立てるのは,いったい何なのだろうか」。答えは,次

の通りである。「人間をそそのかすのは,煩悩である。…煩悩こそが,地上

における人間の敵なのだ」四l。個人は自分の激情をコントロールして,理性

によって自分の行いを統制する力を持っている。シャンカラも,次のように

記している 0~あらゆる感覚対象について言えば, どの感覚においても,音

響の場合におけるように,好ましい対象への愛と,好ましくない対象への嫌

悪か, どうしても牛まれてしまう。では,人間の努力やシャーストラの教え

などが人り込む余地は,いったいどこにあるのか, これを聞かせて進ぜよう。

シャーストラの教えに従いたい者は,すべからく,愛着と嫌悪の荒波を,真っ

先に乗り越えねばならないのだ,と竺2)。因果歴々の法,カルマというのは,

一つの条件でしかなく,宿命であるのではない。宿命は五つの要素の一つで

しかないと説くギーターの行為分析からも,同じことが言える。どんな行為

を遂行するのにも,五つの要素が必要である。つまり,アディシュターナ,

すなわち,そこから行為を遂行すべき中心となる基盤と,カルトリ,すなわ

ち行為者と,カラナ,すなわち自然の道具立てと,チェーシュター,すなわ

ち努力と,ダイヴァ,すなわち宿命とが,それである。この最後の宿命とい

うのは,人間とは別の力もしくは力たちのことであって,人間の背後で,行

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 235

為を変容させたり,行いや,その報いの形を通して,行為の実りを整えたり

している,宇宙原理のことに,他ならない。

XI[

モークシャ,すなわち解脱

叡智,愛,奉仕など,どんな道を追求しようと,最高の存在との魂の合一

という目標は,変わらない。心が純化されて,エゴイズムが破壊されれば,

個人は,単に行為や意識の点でばかりか,生命や存在の点でも,至高者と一

つになってしまう。愛が高められて,奉仕の1光惚境に達すると,魂と神が一

つになるのだ。どんなルートをたどろうと,最後には,神の命を自ら見届け,

体験し,生きることになる。これが,宗教もしくは霊的生活の最高の形態で,

広義のジュニャーナ,叡智と呼ばれるものに他ならない。

霊的実在に到達する方法としてのジュニャーナと,理想そのものでもある

霊的直観としてのジュニャーナは,たがいに区別される。いみじくもシャン

カラは,神を直々に知覚することでもあるモークシャ,解脱というのは,そ

れ自体,それらによってどんなに後押しされようと,奉仕の行為でも,献身

の行為でも, さらに言えば,認識の行為でさえもないのだとまで,言ってい

る。それは,一つの体験,すなわち真理への直々の洞察に他ならないからだ。

さまざまな道が試みているのは,ズバリ,神に到達することに,他ならない。

ギーターは,実在への異なった道を評価する点で,完全に一貫しているわけ

ではない。「私を知ろうと努めなさい。私を黙想することができなければ,

ヨーガを実践しなさい。これに向いていなければ,あなたの行いを丸ごと私

に捧げて,私に仕えようとしてみなさい。それさえ難しいと感じたら,実り

への欲望はすっかり捨てて,結果については考えないで,ただ自分の義務だ

けを果たしなさい」223)。更にこうも言っている。「実に,一貫した実践よりも,

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236 明治大学教養論集通巻536号 (2018• 12)

叡智のほうが優れている。叡智よりも,瞑想のほうが優れている。瞑想より

も,行為の実りを放棄するほうが優れている。この放棄に続いて,平安がやっ

てくるのだ」と 224)。どの方法も,その時々で,いっそう好まれることもあれ

ば,好まれないこともある 225)。著者の心では, どの方法も同じように役に立

つのだから,どの方法をとるのかは,個人の選択に任されている。「人それ

ぞれに,瞑想反省,行為崇拝などに訴えて,•••死を乗り越えていけばよ

しヽ」226)

゜至高の経験は自由であり, ジュニャーナという言葉は, この冒険のゴール

を指すのにも,そこに到る道を指すのにも,同じように使われる。そこで,

これを混同することで,一つの道としてのジュニャーナは,(その結果であ

るゴール,解脱そのものと同じなのだから)その他の道より優れているので

あって, この至高の状態では,認識作用だけか残って,情緒や意志といった

他の要素は脱落してしまうのだと考える者も,出てきてしまった。だがしか

し,こういう意見に正当な根拠があるとは,思われない。

自由,すなわちモークシャ,解脱とは,至高の自己と一つになることであ

る。それは,さまざまな名前で呼ばれている。ムクティ,解放。ブラーフミー・

スティティ,ブラフマンのうちにいること。ナイシュカルミヤ,無為。ニス

トライグニャ,三つの性質が存在しないこと。カイヴァリヤ,(物質の拘束

から解放されて)それ自体で存在する救い。ブラフマ・バーヴァ,プラフマ

ン的存在性,等々である。この絶対体験のうちでは,一切は一つなのだとい

う感じが働いている。「アートマンが,一切のうちに存在し,一切が,アー

トマンのうちに存在する一1氾7)。この完全状態は, ヴェーダの儀礼を遵守した

り,供犠を執り行ったり,その他すぺての方法に訴えたりすることからくる,

もろもろの,いわゆる正義の実りを超えている 228)。

すでに述べたとおり,究極状態のうちで占める働きの立場については,さ

まざまな解釈がある。最終状態は,「シッディ」,完成とか,「パラーシッディ」,

至高の完成とか,―パラーンガティム」,至高のゴールとか,「パダムアナー

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 237

マヤム」,至福の座とか,「シャーンティ」,平安とか,「シャーシュヴァタム

パダムアヴィヤヤム」,名状しがたき永遠の住処などと,呼ばれている 229)0

これらの表現には色彩が欠けているので,自由の状態には引きつづき個別性

が働いているのかどうかも,わからない。解放されたものたちが, この世の

関心事に悩まされることはないと主張する文献もある。彼らには個別性がな

いのだから,行動甚盤もなく,主客の二元対立が消失するのだから,働きも

成り立たない, というのである。自由を得た人は, どんな性質もなくなって,

永遠の自己と一つになるというのだ230)。プラクリティが活動しても,永遠の

存在がプラクリティの営みのどんな様態からも影響を受けないのならば,モー

クシャの状態には,エゴも,意志も,欲望も存在しないことになる。シャン

カラによれば,それは,あらゆる様態と性質を超えた状態であり,無感覚で,

自由で,平和な状態である。だが,それは,単なる死後の生存というような

ものではなく,かえって至高の存在状態に達した状態なのであって,そこで

は,霊魂が自らを,誕生にも死にも勝る存在でもあれば, さまざまな顕現に

よって条件づけられることのない無限で永遠の存在でもあることを,自覚し

ているのだという。シャンカラは,これらを論じた箇所では,自分の立場に

立って,ギーターで言われる自由を,サーンキャ学派の説くカイヴァリヤ

(神が物質に束縛されずに一人存在すること)の意味に解釈している。しか

し, もしも私たちに, 自分に執着している体があれば,その体が,脱ぎ捨て

られた殻のように振り捨てられるまでは,自然は,体を通して活動し続ける

はずである。非人称の霊魂は,体の営みからは分離しているが, シャンカラ

でさえ,体が存在している限り,生命活動も存在するはずだと認めたうえで,

ジーヴァンムクタ,すなわち体を持ったまま自由を得た魂,生前解脱の魂は,

外界の出来事に反応しても,それらに巻き込まれることはないのだとしてい

るのである。ところが,(体のうちで働いている)全自然が,不死のダルマ

に,すなわち神の無限の力を示す法則に,変容するのだとまでは,示唆され

ていない。だとすれば,霊魂と肉体は調停されることのない二元対立なのだ

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238 明治大学教養論集 通巻536号 (2018• 12)

から,霊魂が自らの完成を見るのは,肉体の実在感が払いのけられた時でし

かないことになる e この見方に立てば,そこでは,あらゆる活動墓盤も,無

限者の懐のうちでジッとしていることを知らない形成体も,生まれては消え

る一時の現象も,すっかり解体しているのだから,至高のブラフマンの活動

について考えることも,不可能になってしまう。(このように)視点という

ものをそっくり捨ててしまえば,進歩もすっかり終わってしまうように思わ

れるのに, シャンカラは,(自ら,無視点の収場に立って,)無限者について

の私たちの(相対的な)見解は,無限者についての真の見解にはなっていな

いのだと,強調する。無限者の生命を,私たち人間の立場から十全に了解す

ることなど,不可能なはずだ, というのである。彼はこの見方から,魂の複

数性を含意しているギーターの詩句は,究極の状態に言及しているのではな

く,ただ相対的な状態に言及しているだけなのだと,強く説くのである。

しかし,(ギーターの)また別の詩句では,解脱した魂にとっても,活動

は可能なのだと,示唆されている。一—洞察力と叡智に満ちた人たちは,至

高の主に倣って, この世で活動する 231)。最高の状態は,至高者のうちに帰滅

したり消滅したりすることではなく,それ自体,立派な個別性の状態なのたc

解脱した霊魂は,非人称性を中心にしてはいても,それ自身の個別性を神

の一部として持っているのだ, というのである。解脱した個人は,全宇宙に

遍満しているプルショーッタマでありなからも,活動しなければならない。

最高の状態とは,プルショーッタマを棲み処とする状態に他ならないから

だJi。この状態に逹した人は,生まれ変わりから解放されて,神の状態を我

がものとする 233)。解脱というのは,永遠性そのものと引き換えに,個人性が

消去されることではなく,神の威光を通して紛れもない生存を示すような,

魂の,至福に満ちた自由の状態のことである。 r私に帰依する者は,私のも

とにやってくる9悶ギーターの著者は,意識を湛えた個別性は,自由のう

ちにあっても持続するのだと,信じているようである。実際,いくつかの箇

所では,自由を得たものは,神になるわけではなく,ただ,神の本質と同じ

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第IX章 239

状態を獲得するのだと,示唆されている 235)。自由とは,神との純粋な同一性

のことではなく,神との質的同一性のことであって,魂が神のごとき生存状

態へと高まることなのである。そこでは,つまらぬ欲望は, もはや動く力を

持たない。不死の状態になるというのは,永遠の光のうちに生きることであ

る。私たちは, 自己であることをやめるのではなく, 自らの自己性を深め,

罪の汚れをすっかり拭い去って, こぶのようになった疑いをバラバラに切断

し, 自分を自在に支配して,牛きとし生けるものへの善行に従事し続けるの

である。私たちは,あらゆる性質から自分を解放するのではなく,サットヴァ

の性質を身に着けて,ラジャスの性質を抑えるのだ236)。ラーマーヌジャは,

この見解を強く説いて,解脱した魂は,神との変わらぬ合ー状態(ニトヤ・

ユクタ)のうちにあって, 自分の全生命と全存在をもって,そのことを顕か

にしているのだと,主張している。自分が身を置く光から知識が流れ出すな

か,解脱した魂は,事実上,自らの,神への愛のうちに,我を失っているの

である。ここでは, 自然を全面的に排除するのではなく,かえって自然をよ

り高い霊的充足状態に保つことによって,至高の生存が達成されているのだ

と言ってよい。この見方に立てば,私たちは,神のうちに生き,神のうちで

活動することになる。ただ活動の中心が,人間の自己から,神的存在へと移

るだけなのだ。そこでは,神のエネルギーが,様々な物事を通して様々な形

をとりながら,全世界を通して脈動しているように,感じられるのであるが,

それは,どの魂も, 自分の中心と周辺を,神のうちに持っているからに,他

ならない。ラーマーヌジャの見解は,最高の体験においてさえ,霊的人格が

ー要素として働いているのだという真実を,掴んで放さないのである。

したがって,ギーターには,究極の状態をめぐって,二つの対立的な見解

があることになる。一つは,解放された魂を, ブラフマンの非人称性の中に

解消させて,魂に, この世の争い事を超えた平安を得させてしまう, といっ

た(シャンカラ的)見解で,今一つは,私たちが,従属のしるしでしかない

ような,あらゆる苦難や苦しみも,つまらぬ欲望の激しさも,すっかり超え

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たところに,;Iき上げられて,神を我が物として享受する,といった(ラーマー

ヌジャ的)見解である c ギーターは,宗教作品であるところから,人格神の

究極性を強調し,神的存在が人間を通して存分に花開いて,自身の叡智と力,

愛と普遍性を, Uいっぱい押し広げてくれることを求めているのである。

たがしかし,だからと言ってギーターの見解が, ウパニシャッドの見解と対

立しているのだと,結論づけるわけにはいかない。論点は,ただ,最高の実

在は,絶対的なブラフマンにあるのか,それとも人格的なプルショーッタマ

にあるのかという一般的な問題を,特殊な場面に当てはめようとする点にし

かないからだ。ギーター形而上学の議論で,すでに述へたように,ギーター

は,絶対的プラフマンの究極の実在性を否認しているのではなく,私たち人

間の視点からしたら,ブラフマンという絶対者は,自らを人格的な主として

顕現することになるのだと,'示唆しているのである。今あるままの有限な人

間としては,最高の実在を思い描こうにも,他に考えようがない。これと同

じ立場から, 自由という究極の状態をめぐる二つの見解は,ただ・・つの状態

を,直観的に表現するか,知的に表現するかの違いでしかないのだと,言う

こともできる。私たち人間の立場からしたら,絶対者は,実際にはそうでな

いのに,一切の活動を成り立たせなくしてしまうような,消極的で,関係性

を欠いた同一者のように思われてしまう。これに対して,絶対者について積

極的な記述をしようとしたら,ラーマーヌジャの説明が,唯一可能な説明に

なる。ところが,絶対的な神と人格的な神の二つは,実は一つなのだと主張

しようとして,ギーターは,最高の実在においては,非人格性と人格性が,

私たちには了解できないような仕方で, 一つに結びついているのだと,述べ

る一方で,解脱した霊魂たちには,個別性そのものはないにしても,自己限

定による個別性なら,あるかも知れないではないか,とも言うのてある。ギー

ターは, このようにして,無時間的な自己の永遠不動の静寂主義と,自然的

エネルギーの永遠の戯れとを調和させているのである。

死後の自由の状態に関する実情がどんなであれ,自由を得た人でも, この

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サルヴェパリー・ラーダークリシュナン『インド哲学』第一部第1X章 241

世に生きている限り,何らかの活動に関わらないわけにはいかない。シャン

カラが,自分の行動を通して,自然の営みの諸様態を眺めるのに対して,ラー

マーヌジャは.~高者の振る舞いの方を眺めるのだ。これらは,活動^般の

非人称性を表現する相異なるてつの仕方である。自由を得た人の倒きは,そ

の源泉と継続には外部の存在に頼ることのないような,内なる歓ひと平安と

ともに.魂の自由を通して行われる。自由を得た魂たちは,懐疑論の冷淡さ

を投げ捨てる。彼らの容貌からは、暗い影は,すっかり拭い去られている。

彼らは,活気に満ちた外観と断固たる声を通して, 自分たちが,疑うに疑え

ない淑的説得}]を備えていることをありありと示すのである。彼らか,肉

体の支配に屈したり,欲~の魅力に従ったりすることはないc 彼らは,逆境

にあって落胆することも,殉教にあって有殷天になることも,ない。彼らは,

ィ召安にも,恐れにも,怒りにも,無縁である。彼らは,穏やかな心と,十供

のように祓れのない無邪気さを,湛えているのだ237)0

自由を得た魂は,善悪をすっかり超えている。徳自体が, 自己完成を通し

て,乗り越えられてしまっているのだc ムクタ,すなわち解脱した人は,た

たの倫理的な生活規則を超えたところ,霊的牛命の光と大きさと)Jにまで,

高まっているのである。解脱した人は, 普通ならば,地上にもう一度生まれ

直さなければならないような悪しき行為をHすしかなかったとしても,また

生まれ直したりする必要は,ないっ彼は,普通の規則や定めからは,解放さ

れているからだ。こと目的に関する限り.ギーターの見解は,絶対的個人主

義である。自由を得た人たちが,ニーチェ Kietzcheの超人をまねたりした

ら,その絶対的個人主義は,危険な教理と化してしまう。ニーチェの超人は,

弱者にも不適格者にも辛抱かならず,蹄碍者にも義務不履行者にも,情け容

赦はないからだ。一方, 自巾を得た人たちは,社会的責務から解放されては

いるが,ギーターの自由なスピリットは,彼らの存在を自由に是認するので

ある。解脱した人たちは, 自らどんな奇ヽ ・,:ちをこうむることもないし,人に

どんな苛立ちを与えることもない1:¥8)。このtitの福祉のために働くことか,彼

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らの第二の天性となっている。彼らの高貴な魂は,地上のあらゆる物事を,

差別なき心をもって眺める。彼らは,力強くて創造的な霊的生活に味方して,

社会的規制か人間生活のいっそう十全な霊的展開や表現となるよう,留意す

る。彼らは, 自らのうちで働く神意に従って,己の天命を果たすのである。

ギーターは,社会的義務を大いに強調する一方で,超社会的な状態をも認

めている。ギーターは,人間社会から離れた個人の,永遠の宿命を信じてい

るのである。サンニャーシン,すなわち遍歴遊行者は,あらゆる規則をも,

カーストをも,社会をも,超えている。これは,妻をも子供をも含めて外的

なもの一切を脱ぎ捨てて,一人荒野の孤独に自足することのできる,人間の

無限の葬厳を象徴している。サンニャーシンか採用するのは,禁欲的理想主

義ではない。彼は,社会から超然としていることはできても,万物に対して

は,憐れみを抱いているからた。理想的苦行者であるシヴァ神,マハーデー

ヴァは, ヒマーラヤの雪に座して,人類救済のためには,進んで毒をあおる

のである。

この章終わり

(やまくち・やすじ 元文学部教授)