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187 須藤時一郎『萬寶珍書』と Colin Mackenzie『Mackenzie’ s Ten Thousand Receipts』 Sudo Tokiichiro’s Manpochinsho and Colin Mackenzie’s Mackenzie’s Ten Thousand Receipts Kazuyoshi HARADA Abstract Manp ō chinsho is a Japanese cookbook that was written by Tokiichirō Sudō and published in the 6th year of the Meiji era (CE 1873). Today this book is considered as one of the earliest Japanese cookbooks which introduced Western recipes to Japan. Since Sudō had the opportunity to visit France as a member of the Ikeda Mission in the 3rd year of the Bunkyū era (CE 1864), it is widely considered that the Western recipes in Manp ō chinsho were derived from French cuisine, especially French cakes, which were introduced by Sudō to Japan. However, in this paper we propose that Manp ō chinsho was a partial translation of Colin Mackenzie’ s Mackenzie’ s Ten Thousand Receipts , which, contrary to expectations, was not a French, but an English household encyclopedia. To show that Mackenzie’ s Ten Thousand Receipts was definitely the source of Manp ō chinsho , we compared the recipes in both these books and found that the measures of ingredients and the cooking times mentioned in both had sufficient similarities to prove our point. Colin Mackenzie, who is currently not well known in Japan, was a Scottish writer working in London. According to his manuscripts which are kept in the British Library as “Loan 96 RLF 1/911” file, he was poor so he received some financial support from the Royal Literary Fund. His interests and his publications covered various subjects, for example, chemistry, medical science, geography, history, religion, art, cooking and so on. He died in 1854 but Mackenzie’ s Ten Thousand Receipts was published by anonymous editors in 1865 keeping “Mackenzie’ s” as the title for a revised and rewritten version of Mackenzie’ s Five Thousand Receipts which had been published by Colin Mackenzie himself in 1823. Kazuyoshi HARADA 日本伝統文化学科(Department of Japanese Traditional Culture)非常勤講師

須藤時一郎『萬寶珍書』と Colin Mackenzie『Mackenzie’s ...According to his manuscripts which are kept in the British Library as “Loan 96 RLF 1/911” file, he was poor

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187

須藤時一郎『萬寶珍書』と

Colin Mackenzie 『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

原 田 一 義*

Sudo Tokiichiro’s Manpochinsho and

Colin Mackenzie’s Mackenzie’s Ten Thousand Receipts

Kazuyoshi HARADA

Abstract

Manpōchinsho is a Japanese cookbook that was written by Tokiichirō Sudō and published in the 6th year of the

Meiji era (CE 1873). Today this book is considered as one of the earliest Japanese cookbooks which introduced

Western recipes to Japan. Since Sudō had the opportunity to visit France as a member of the Ikeda Mission in

the 3rd year of the Bunkyū era (CE 1864), it is widely considered that the Western recipes in Manpōchinsho

were derived from French cuisine, especially French cakes, which were introduced by Sudō to Japan. However,

in this paper we propose that Manpōchinsho was a partial translation of Colin Mackenzie’s Mackenzie’s Ten

Thousand Receipts , which, contrary to expectations, was not a French, but an English household encyclopedia.

To show that Mackenzie’s Ten Thousand Receipts was definitely the source of Manpōchinsho, we compared

the recipes in both these books and found that the measures of ingredients and the cooking times mentioned in

both had sufficient similarities to prove our point. Colin Mackenzie, who is currently not well known in Japan,

was a Scottish writer working in London. According to his manuscripts which are kept in the British Library

as “Loan 96 RLF 1/911” file, he was poor so he received some financial support from the Royal Literary Fund.

His interests and his publications covered various subjects, for example, chemistry, medical science, geography,

history, religion, art, cooking and so on. He died in 1854 but Mackenzie’s Ten Thousand Receipts was

published by anonymous editors in 1865 keeping “Mackenzie’s” as the title for a revised and rewritten version

of Mackenzie’s Five Thousand Receipts which had been published by Colin Mackenzie himself in 1823.

* Kazuyoshi HARADA 日本伝統文化学科(Department of Japanese Traditional Culture)非常勤講師

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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第24号(2017)

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1.はじめに

 須藤時一郎著『萬寶珍書 食料之部 全』1)(以下『萬寳珍書』と略す)は、明治6年(1873年)

に文恭堂より刊行された日本語の西洋料理書である。文恭堂の所在地は不明だが、戊辰戦争の後、著

者の須藤は東京で活動していたので、おそらく東京の書肆であろう。『萬寶珍書』は明治年間に刊行

された西洋料理書としては早い時期のもので、とりわけ洋菓子のレシピを紹介したものとして夙に有

名である。

 須藤は、攘夷派の圧力に窮した徳川幕府が、横浜港の閉鎖を交渉するために文久3年から元治元年

(出港から帰港まで和暦では文久4年を含めて足掛け3年にまたがるが、西暦では1864年の1年間に

収まる)にかけて欧州に派遣したいわゆる池田使節団の一員として、フランス(マルセイユとパリ)

を訪れた経歴を持つ。そのため『萬寶珍書』で紹介されている料理や菓子のレシピは、須藤がフラン

スから持ち帰ったものであるかのように、これまで漠然と思いなされて来た。たとえば、江原絢子・

石川尚子・東四柳祥子著『日本食物史』2)(207頁)には「須藤時一郎編『万宝珍書 食料之部』は

フランス料理を紹介したもので」という記述がある。あるいはGoogleで「万宝珍書  フランス」と

いったキーワードで検索をおこなうと、2016年11月現在、ウェブページ等においても『萬寶珍書』の

レシピ、殊にその焼菓子のレシピを、フランス由来のものであるとする説が流布していることが確認

できる。この現在流布しているフランス由来説はおそらく、昭和35年(1960年)に刊行された池田文

痴菴編『日本洋菓子史』3)を根拠にしているのではないかと思われるが、文痴菴はその本の中で『萬

寶珍書』中の焼菓子のレシピを「フランス風ケーキ等九種」(347頁)と紹介し、「須藤が、『万宝珍書』

を編纂した動機は、この際に於ける、フランスの百科大辞典でも手にしたからでもあろうか。」(同頁、

文章ママ)と推測を述べている。ここで文痴菴が書籍の種類を「フランスの百科大辞典」と推測した

のは、『萬寳珍書』の題簽に「食料之部」という副題が記されているからであろう。『萬寳珍書』が料

理の専門書からの翻訳であればわざわざ「食料之部」と断るのは不自然であるが、百科事典などから

料理に関する記述を抄訳したものであってさらに他分野の抄訳も企図されていたとするならば、その

ような副題を付けることがむしろ自然だからである。

 本論文は、その現在半ば定説化しているフランス由来説に反して、『萬寶珍書』所収のレシピは須

藤の池田使節団での訪仏体験に直接由来したものではなく、使節団帰国の翌年の1865年に出版された

Colin Mackenzie著『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts, in All the Useful and Domestic Arts』4)(以下『Ten

Thousand』と略す)というイギリスの家政百科事典を抄訳したものであることを示す。同書を『萬寳

珍書』の原本と同定するにあたって、両者のレシピを詳細に比較したところ、レシピ中に記載され

た材料の分量と調理時間に、しばしば特徴的な同一性が見出された。また、『萬寳珍書』のレシピは、

それに対応するものが順不同ながらすべて『Ten Thousand』に掲載されていることが確認された。

2.おもな資料の底本

 本論文では、資料の底本として以下のものを用いた。

 まず、『萬寳珍書』1)は、国会図書館所蔵本を底本とした。『萬寳珍書』の所蔵は、太田泰弘編『食

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

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文化に関する文献目録:単行書/明治期/第9版 一部加筆』5)(2頁)と江原絢子・東四柳祥子著

『近代料理書の世界』6)(38-39,260頁)に徴した限りでは、現在、国会図書館のものしか知られてい

ないようである。

 『Ten Thousand』4)は、1865年刊行の初版本を見つけることができなかったので、ミシガン大学図

書館所蔵の1866年刊行の第2版を底本とした。序文によれば、1865年の初版はロンドンで出版された

ようだが出版社が不明である。今回使用した第2版はフィラデルフィアの出版社から刊行されたアメ

リカ版であるが、第2版の意味が、ロンドンでの初版から数えて通算での第2版なのか、アメリカ版

としての第2版なのか判然としない。ロンドン版とアメリカ版では内容や構成に違いがあるかどうか

も不明である。

 また、『Ten Thousand』には、同じ著者によって1823年に刊行された『Mackenzie’s Five Thousand

Receipts, in All the Useful and Domestic Arts』(以下『Five Thousand』と略す)という先行書籍がある。『Five

Thousand』も初版がまずロンドンで刊行され、その後フィラデルフィアの出版社からアメリカ版が刊

行されたのであるが、今回、第6節で『Ten Thousand』、『萬寳珍書』との比較をおこなうにあたり、

ロンドン版については1823年刊行の初版本を見つけることができなかったので、リーズ大学図書館所

蔵の1830年刊行のもの7)を底本とした。アメリカ版は、アメリカ議会図書館所蔵のもの8)を底本と

した。このアメリカ議会図書館所蔵本は、書誌情報に1829年刊行とあり、その年は、扉の裏にある著

作権表示の中に見られる1829年という記述を根拠にして推定したものと思われるが、扉などに刊行年

の正式な記載が無い。その後1831年になるとアメリカ版は扉に刊行年を記載するようになるので、本

論文ではとりあえず、アメリカ議会図書館所蔵本を1829-1831年頃に刊行されたとものと推定してお

く。

 その他、論文中で引用・言及した資料の底本や出典については、論文末尾の文献リストに記した。

なお、資料を引用する際にコンピューターによる印字が困難な文字は断りなく平易な文字に置き換え

た。また、ルビは煩雑なのですべて省略した。それらのことが本論文での議論に本質的な影響を与え

ることは無いが、厳密を期す読者は原資料に当られたい。

3.『萬寳珍書』の著者須藤時一郎

 本論に入る前に、『萬寶珍書』の著者である須藤時一郎という人物を簡単に紹介したい。鈴木貞次

郎編『最新実業界の成功者』9)(199-203頁)、日外アソシエーツ(株)編『明治大正人物事典Ⅰ:政治・

軍事・産業篇』10)(342頁)、湯本豪一編『図説明治人物事典:政治家・軍人・言論人』11)(330-331頁)

から須藤時一郎に関する解説を抽出し、併合・要約すると以下のようになる。

 須藤時一郎は天保12年(1841年)9月江戸生まれ(ただし鈴木9)は、福島の川俣村生まれでや

や長ずるに及んで父と出府したとする)。父は幕臣高梨仙太夫。塩谷宕陰の学塾及び昌平黌で漢学

を修め、後に英学を学ぶ。17歳で須藤氏を嗣ぐ。評定所留役、外国奉行所入書物役などを務め、横

濱運上所に勤務した。文久2年に開拓の命を受けて小笠原島に赴く。文久3年(1864年)に池田筑

後守長発率いる遣欧使節団に乞うて随行し、訪仏を果たす。帰国後は幕府の歩兵指図役となり、開

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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第24号(2017)

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港派有力者の暗殺を企てるも謀が中途で露見し、弟の沼間守一と同志を率いて会津に身を寄せ、戊

辰戦争では幕府方として戦ったが、新政府軍に捕えられて江戸麻布の徳川邸に送致・拘留される。

争乱の鎮まった後は禁を解かれて、早くも明治3年には、尺振八他と東京本所に共立学舎という

英語学校を創立し英語教授を務めた。明治5年に大蔵省御用掛より紙幣寮紙幣助に進み、明治7年

(1874年)に大蔵省銀行課長となる。明治9年に嚶鳴社に入って民権活動をおこない、明治10年に

大蔵省を辞職。以後、銀行役員、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員などを歴任し、実業界

に大きな発言力を有した。明治18年(1885年)には澁澤榮一他と共に東京瓦斯を創業しその委員と

なる。明治36年(1903年)4月15日、63歳で死去。

 また、株式會社秀英舎編『株式會社秀英舎創業五十年誌』12)の「歴代役員一覧表」(33頁)によれば、

明治22年(1889年)に秀英舎(大日本印刷株式会社の前身企業)の委員にもなっている。以上の経歴

より、須藤は明治期の実業家として十分以上の成功を収めた人物だったことがわかる。

 池田使節団と『萬寳珍書』の関係は次節で詳しく述べるが、それ以外で興味深い事といえば、英語

の嗜みが有り、池田使節団に乞うて参加して訪仏まで果たした須藤が、帰国後すぐには西洋事情通の

開国論者としては活動せず、むしろ戊辰戦争に幕府方の武士として参戦していることである。池田使

節団の一員として直接見聞した西洋の文物に須藤がカルチャーショックを受けなかったはずは無い

が、彼は慎重な性格だったのか、帰国後当面は保守的な幕臣として身を処すことを選択したらしい。

上に要約した経歴中の「開港派有力者の暗殺を企て」たという一件は、石川安次郎著『沼間守一』13)

中の「逸話雑纂」によれば、戊辰戦争に際して主戦派の沼間守一が恭順派の勝安房守(海舟)を暗殺

すべしと主張したため、逆に沼間が恭順派に狙われることになり、沼間が江戸から会津に落ち延びる

際に兄の須藤を語らったということで、須藤が暗殺を企てた張本人ではないらしい(1- 2頁)。さ

らに同書「逸話雑纂」によれば、伝習隊(幕府方の西洋式陸軍)の一部隊を率いていたのは須藤では

なく弟の沼間で(4-14頁)、須藤はといえば、伝習生(隊員)たちの手本となるようにと沼間に言わ

れて荊棘で覆われた土堤を率先して登らされたり(4- 5頁)、沼間の部隊が会津から宇都宮に出兵

する際に沼間が会津方に長州の間諜ではないかと疑われたため人質として会津に置いて行かれたり

(5- 6頁)、鉄砲弾の飛び交う中、沼間と伝習隊隊長の大鳥圭介の間を使者として往復させられたり(7

- 9頁)で、沼間に良いように使われており、すこぶる精彩を欠いている。同書は沼間守一の伝記で

あるから、万事沼間を引き立てるように書かれていることを割り引いて考える必要があるが、しかし

これらのエピソードから察するに、須藤が戊辰戦争で幕府方に加わったのは、須藤本人の政治思想が

強く保守反動的であったためというよりは、良く言えば温厚円満、悪く言えば少しお人よしの兄須藤

が、才気煥発で激情家の弟沼間の言うことを聞いてやっているうちに、いつの間にかイニシアチブを

取られてしまって、柄でもない戦につき合わされてしまった、という側面がかなりあったのではない

かと思われる。

4.池田使節団での訪仏体験と『萬寳珍書』の関連性

 第1節で述べたように、『萬寶珍書』所収のレシピは、須藤が池田使節団の一員として訪仏した際

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に取材したものであるかのように、これまで漠然と考えられて来た。その考え方はおそらく暗黙のう

ちに、池田使節団における須藤の訪仏体験と『萬寳珍書』との関連性について、

(イ)須藤がフランスで見聞きした料理の製法を記録して、帰朝後に整理して『萬寳珍書』とした

(ロ)第1節で紹介した池田文痴菴の推測のように、須藤が訪仏の際にフランスの書籍(たとえば百

科事典のようなもの)を入手して、帰朝後に翻訳して『萬寳珍書』とした

という二つの可能性のいずれかを仮定していると思われるので、本節では順に検討を加えたい。

 池田使節団に関する文献のうち一次資料と言えるものには、外交文書・事務文書の類を除くと、使

節団のメンバーが残した日記や回顧録などがあり、たとえば岩松太郎の「航海日記」14)、三浦義彰著

『文久航海記』15)に収録されている三宅復一(秀)の「航海日誌」と回顧録(三宅は使節団の一員で、

三浦は三宅の孫)、杉浦愛藏(譲)の「奉使日記」16)などが該当する。それらの一次資料を用いた二

次資料としては、尾佐竹猛著『夷狄の國へ:幕末遣外使節物語』17)、高橋邦太郎著「悲劇の大使:池

田筑後守事蹟考」18)、岸加四郎著『鶴遺老:池田筑後守長発伝』19)などがあり、これらもしばしば論文・

書籍等で資料として引用されるものである。ちなみに「航海日記」を記した岩松太郎は、姓を岩松、

名を太郎とした文献もあるが、『鶴遺老』(173頁)によれば、池田長発の子孫古田家に所蔵されてい

る使節一行の写真に貼付された名札から、姓が岩、名が松太郎と確認されたとの事である。また、尾

佐竹の『夷狄の國へ』では、使節団一員の青木梅蔵の手になるという『青木梅蔵日記』が一次資料と

してしばしば引用されているが、『鶴遺老』(174頁)によれば『青木梅蔵日記』は尾佐竹の手元にあっ

た時に戦災で失われたそうである。したがって、他書で引用されている『青木梅蔵日記』は、ほとん

どが『夷狄の國へ』からの孫引きである。尾佐竹の引用にかかる『青木梅蔵日記』はゴシップに富ん

でいて面白いのであるが、いささか小説的に筆が走り過ぎているきらいがあり、おそらくは外訪当時

の日記そのままの記述ではなくて、幕府や武家に対する憚りが無くなった明治以降に文章を大幅に書

き改めたものではないかと思われる。また、尾佐竹が『夷狄の國へ』で同様に引用している『欧行記』

は出典がわからない。

 これらの資料を元にして、池田使節団の行程を手短に述べると以下のようになる。

 文久3年12月29日(1864年2月6日)、池田筑後守長発を正使とした総勢35名(通訳のオランダ

生まれのフランス人ブレッキマンを含む)の遣欧使節団が横浜港より旅立った。この使節団は、フ

ランスを初めとするヨーロッパ列強国政府を歴訪して横浜の鎖港を認めさせることを目的として徳

川幕府が派遣したものだったが、これは当時、朝廷が攘夷論を強硬に主張し、また世論においても

攘夷論が喧しかったため、幕府としてもおよそ成功の見込みが無い交渉であることを承知の上で、

やむを得ず送り出したものである。横浜港を出発した使節一行は、上海、サイゴン、セイロン、ア

デンを経由して紅海に入り、スエズに上陸し、スエズ運河がまだ開通していない時代のことなので

陸路で地中海側のアレクサンドリアまで行く途中、カイロに寄り道をしてスフィンクスの前で記念

写真を撮影し、地中海に出てからは再び船で進んで元治元年3月10日(1864年4月9日)にマルセ

イユに上陸した。その後、使節一行はパリに進んでナポレオン3世に謁見し、並々ならぬ歓待を受

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けたが、主題たる横浜鎖港の申し入れは断固拒否されてしまった。少壮の正使池田は、フランスと

の交渉が決裂した上は他国を歴訪する益無しと判断し、また外国の先進的な文物を目の当たりにし

て攘夷・鎖港よりもむしろ開国の必要性を痛感したため、フランスを訪問したのみで急遽予定を切

り上げて帰国することに決定した。一行は元治元年5月17日(1864年6月20日)にパリを発ち、同

年7月18日(8月19日)に横浜に帰港した。池田は切腹を覚悟の上で幕府に攘夷・鎖港の無益と開

国の必要性を建白したが容れられず、幸い切腹は免れたが、減禄・蟄居を命ぜられた。

 尾佐竹の『夷狄の國へ』17)(282-285頁)には、使節一行の氏名・役職と、横浜出港時すなわち文久

3年12月(1864年2月)時点での年齢が掲載されているが、鈴木明著『維新前夜』20)(12-15頁)の指

摘によれば、尾佐竹が示した年齢はずいぶん間違っているそうである。また三浦の『文久航海記』15)

(174-176頁)にも同様の名簿があるが、氏名・役職・年齢・序列が尾佐竹のものと異なっている箇所

がある。尾佐竹が示した情報の出典は不明だが、三浦は「官職氏名は欧行日記の附録により、年齢は

維新史料編纂會より贈られたる一向の寫眞帳の中にありたる書類より採」ったとしている15)(176頁)。

今、須藤の年齢についてのみ言えば、尾佐竹も三浦も32歳としているが、前節で述べたように天保12

年(1841年)9月生まれであるとするならば、横浜を出港した文久3年12月29日(1864年2月6日)

には数え年で23歳、2日後には年が明けて24歳(いずれも満22歳)ということになる。図1は東京大

学史料編纂所の「古写真データベース」所蔵の須藤の写真で、データベースの解説には、撮影場所は

パリ、撮影者はルイ・ルソー、須藤の年齢は32歳とあるが、須藤がパリに居た時は数え年で24歳(満

22歳)である。

 さて、須藤の訪仏体験と『萬寳珍書』の成立との関連

性について(イ)、(ロ)の可能性を論じるために、まず、

池田使節団における須藤の行動や言説を(須藤自身の

日記は伝わっていないため)他の随員の日記等から拾っ

て、須藤と西洋料理の接点を洗い出すことから始めたい

のだが、使節団メンバーの日記などには残念ながら須藤

の名前がほとんど見出されない。

 維新史學會編『幕末維新外交史料集成 第六卷』21)

(71-72頁)には使節一行の名簿があり、正使池田筑後守

を筆頭に、須藤は「拜謁以上」の「外国奉行支配 調役

並」として7番目に名前が挙げられている。同様に、岩

の「航海日記」14)(344-347頁)にも名簿があり、須藤は

「御勘定格 調役並」として6番目、三浦の『文久航海記』

15)(174-176頁)の名簿では「第三セクレタリー」として

8番目に名前が挙げられている。調役並は表向きの役職

名であって第三セクレタリーの方が実際の職務をより的

確に表現しているのではないかと思われるが、いずれにしても須藤は使節一行の中での序列が上位の

方であり、青木梅蔵や岩松太郎のようにいくらか気楽な物見遊山的な気分でいられた序列下位者とは

東京大学史料編纂所「古写真データベース」所蔵

1864年パリにて数え年24歳(満22歳)

図1.須藤時一郎

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

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違って職務上の責任も重く、日々緊張を強いられる立場にあった。須藤も仲間と連れ立って外国の街

で散歩や買い物くらいはすることがあっただろうが、軽はずみな行動は慎む必要があったし、好奇心

のおもむくままにゴシップを面白おかしく書き付けた『青木梅蔵日記』のようなものは残しづらい立

場にいた。もし須藤がフランス料理のことを日記に書き残していれば、(イ)の可能性が高くもなっ

たのであるが、残念ながら須藤の日記は今日伝わっていない。また仮に須藤が日記を書き残したとし

ても、当時の事として、士分の身にありながら公務旅程中の食事に必要以上の関心を寄せて克明にメ

モを取るようなことは、食い意地の汚い卑しげな振る舞いとして暗に憚られるような雰囲気があった

かもしれず、結局食べ物にはほとんど無関心な日記になったのではないだろうか。

 加えて、池田使節団の役職付の者は、特にパリでは会議と翻訳と書類作成とフランス側からの接待

に追われて多忙だった。池田使節団が残した外交文書や事務文書は『幕末維新外交史料集成 第六卷』

21)に収録されているものだけでも相当な量があり、第三セクレタリーの須藤も数多くの文書を書か

されたに違いなく、そのような状況を考えれば、(イ)のように、本務とはまったく関係の無い西洋

料理の製法について『萬寳珍書』の下書きとして十分なほどの大量の記録を取る余裕は精神的にも時

間的にも無かっただろうと思われる。また、訪仏時に須藤がフランス語に明るかったという記録が見

当たらないので、そもそも大量のフランス語のレシピを聞き書きあるいは筆写することは、英語の素

養があったとしても技術的に困難だったのではないだろうか。

 なお、岩の「航海日記」15)で須藤の行動が記されているのは、使節一員の横山敬一が往路のマル

セイユで病に伏してしまったので、横山に山内六三郎と乙骨亘(上田敏の父)を付き添わせてマルセ

イユに残したまま一行はやむなくパリへ向かった(413頁)のだが、横山危篤の報を受けて元治元年

3月22日(1864年4月27日)に須藤・谷津勘四郎・松浪權之丞と従者1名の計4名がパリからマルセ

イユに派遣され(419頁)、薬石効無く没した横山をかの地に埋葬後、同4月3日(5月8日)にパリ

に戻った(428頁)という一件に関してのみである。また、杉浦の「奉使日記」16)でも須藤の行動に

関しては同様の記述があるのみである(151-154頁)。須藤が選ばれて派遣されたのは、無役の者だけ

をマルセイユに派遣するわけにはいかないので役職付の者を最低1名は派遣するとして、組頭の田邊

太一や通辞の西吉十郎、鹽田三郎などはフランス政府との談判のためにパリに残しておく必要がある

が、第三セクレタリーの須藤ならば行かせてもあまり差し支えない、ということだったのであろう。

同時に、須藤ならば英語の嗜みが有るのでパリ・マルセイユ間を迷わず往復できるだろうし、現地で

山内と諮って葬儀万端を滞りなく執行できるだろう、と信頼されてもいたのだろう。ともあれ、今私

たちが食文化史の観点から知りたいと思っている、須藤がどんな外国料理を食べてどう感じたか、と

いうような事については残念ながらほとんど何もわからない。

 もう一つの(ロ)の可能性については、『萬寳珍書』の中にフランスの書籍からの翻訳であると認

められる痕跡を見つけ出すことができれば良いのだが、しかしこれに関しても、むしろ否定的な痕跡

の方が見出されるのである。図2は『萬寳珍書』1)の目次(3丁表・裏)から9種の焼菓子に関す

る部分を引用したものである。この9種の焼菓子を池田文痴菴は『日本洋菓子史』3)(347頁)で「フ

ランス風ケーキ等九種」と紹介したのだが、東四柳祥子・江原絢子著「解題 近代日本の料理書(1861

~1930)」22)(237頁)がすでに指摘しているように、9種の焼菓子の名前はフランス語ではなく英語

で書かれている。その点に関して東四柳・江原の論文22)はそれ以上の調査や考察をおこなっていな

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いが、これは重要な指摘で、もし『萬寳珍書』がフランスの書籍からの翻訳だとすれば、それらの焼

菓子の名前を日本語に直さずに書く場合、フランス語のままで引用するのが自然である。フランス語

で書かれた菓子の名を英語に翻訳してから載せるというのは、そうする必然性がよくわからないし、

また明治6年当時、フランス語の菓子の名前を的確に英語に翻訳すること自体がまずあまり簡単では

なかっただろう。つまり、9種の焼菓子の名前が英語で書かれているということは、『萬寳珍書』の

元になった情報が英語で書かれていたことを示唆するものである。

 以上の考察をまとめると、『萬寳珍書』の成立由来としては、従来暗黙のうちに仮定されていた(イ)、

(ロ)よりも

(ハ)須藤が欧行の際か帰国後かに英語の書籍(料理書あるいは百科事典のようなもの)を入手して、

翻訳して『萬寳珍書』とした

である可能性が高いと言える。ただし、パリやマルセイユで英語の書籍を入手したとはやや考えにく

いので、入手の時期は「欧行の際か帰国後に」と広めに考えるのが妥当だろう。

 そこで(ハ)に矛盾しない、明治6年(1873年)までに刊行された英語の料理書または百科事典を

探したところ、『Ten Thousand』4)が『萬寳珍書』に酷似した内容を含んでいることがわかった。もし『Ten

Thousand』が『萬寳珍書』の原本であるならば、池田使節団の帰国が1864年、『Ten Thousand』の刊

行が翌1865年なので、須藤は帰国後に日本で『Ten Thousand』を入手したことになり、使節団での訪

仏体験と『萬寳珍書』とは直接の関係が無いことになる。『Ten Thousand』と『萬寳珍書』の内容は

第6節で比較する。

国会図書館所蔵本1)より引用(左:3丁裏、右:3丁表)

図2.『萬寳珍書』目次「甘菓之製法」の9種の焼菓子

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

195

5.スコットランド生まれの作家Colin Mackenzie

 『Ten Thousand』と『萬寳珍書』の内容の類似性を論じる前に、本節では、『Ten Thousand』の著者

とされているColin Mackenzieについて現在わかっていることを述べたい。

 私の当初の調査では、Colin Mackenzieに関して人名事典等に情報を発見できず、何もわからない

状態が続いていたのだが、2014年3月にWikipedia(英語版)で「Colin Mackenzie(Scottish writer)」23)

という解説が公開された。Wikipediaの記述は不特定多数のユーザーが自由に編集できるものであ

り、情報の信頼性が乏しいため、学術論文の資料としてWikipediaの記述を直接は引用できないが、

Wikipediaに参考資料として挙げられている文献のうち、信頼できるものを選択的に参照して学術論

文の資料として用いることは許されるであろう。

 そこでWikipediaの解説23)を読んでみると、Colin Mackenzieの自筆書類が大英図書館に『Loan 96

RLF 1/911』24)(以下『RLF 1/911』と略す)という分類名でいくつか保管されていることがわかった。

RLFというのは、裕福でない文筆家を金銭的に支援するイギリスの慈善団体Royal Literary Fundのこと

で、生活に困窮したMackenzieが金銭的な支援を受けるためにRLFに提出した申請書や、給付金を受

け取った時に書いた領収書の類が保管されているのである。現在、『RLF 1/911』はインターネット上

で公開されていないので、大英図書館からコピーを取り寄せたところ、ほとんどがペンによる手書き

書類であるため判読できない箇所が多々あったが、Mackenzieに関してわかったことを以下に書き留

めたい。

 まず、Mackenzieが1843年4月5日付でRLFに提出した自筆申請書『RLF 1/911』8aを見ると

専攻・大学等:外科医専攻。アバディーン大学及びロンドンのガイ病院及びセント・トーマス

病院。

年齢:45歳。1798年エディンバラ生まれ。

結婚・家族:寡夫。子供が5人いてそのうち3人を直接養育している。

現在の収入:無し。

困窮の原因:書店との仕事。11月から病気でほとんど自宅に引きこもり。

とある。同申請書にはその時までに刊行された著作物12件がリストアップされており、『Five

Thousand』の書名も見出される。Mackenzieの著作物の内容は、化学、医学、農業、政治、経済、地理、

歴史、宗教、芸術、料理、翻訳小説といった広範な分野に及んでおり、まさに手あたり次第という趣

で、良く言えば博覧強記であるが、悪く言えば器用貧乏に近い。MackenzieはRLFから、記録にある

だけでも1838年に10ポンド(『RLF 1/911』1- 3)、1840年に20ポンド(『RLF 1/911』4- 7)、1843年

に20ポンド(『RLF 1/911』8a-12)、1849年に30ポンド(『RLF 1/911』13a-20b)、1853年に25ポンド(『RLF

1/911』22a-27a)の計5回の金銭給付を受けており、この間Mackenzieは大変に貧窮していたようで、

たとえば『RLF 1/911』1, 2,13aには、『A Key to Both Houses of Parliament』(1832年)、『The Young

Muscovite, or the Poles in Russia』(1834年)という2冊の本を匿名で出版したが出版者のCochrane氏が

破産したため489ポンドの損失を被った、というような陳情が見られる。ちなみに後者の『The Young

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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第24号(2017)

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Muscovite』25)は、ロシアの作家Mikhail Nikolaevich Zagoskin(Михаил Николаевич Загоскин)の

歴史小説『Yury Miloslavsky(Юрий Милославский)』(1829年)の英訳で、英訳本の扉には編集者

のFrederic Chamierの名前があり、序文には上流のロシア人女性とその2人の娘が英訳したとある。

Mackenzieがロシア語に堪能だったという情報は『RLF 1/911』には見つからないので、実際にロシア

人などに下訳をさせてその英語を修正するなどの作業をしたものかもしれない。その後、1849年3月

7日付の自筆申請書『RLF 1/911』13aには、再婚しNational Philanthropic Associationより週21シリング

から2ポンドの収入を得ている、とあるのでここから暮らし向きが少しは好転するかと思えば、1853

年5月1日付の自筆申請書『RLF 1/911』22aには、妻が出て行った、最近18ヶ月は給料をもらえる仕

事をしていない、特にこの1ヶ月は大病のため寝込んでいて自宅からほとんど出られなかった、とあ

り、再び状況が悪化している。このような困窮の中でMackenzieは翌1854年に56才で死去した(『RLF

1/911』28a)。この『RLF 1/911』28aは新聞の切り抜きのように見えるが、日付が無く、保管用の台紙

の余白に鉛筆で「1854」と書いてあるだけである。そこで当時のイギリスの新聞を調査したところ、

1854年4月19日水曜日の『Morning Post』紙8面の訃報欄26)に『RLF 1/911』28aと同じ内容の文言が

見つかった。両者とも「14日聖金曜日、Colin Mackenzie氏、住所はJudd-place East、享年56才。」とい

う内容である。

 ここでMackenzieの没年と、今我々が関心を持っている『Ten Thousand』の関係について一言述べ

ると、『Ten Thousand』が刊行されたのはMackenzieの死後11年目にあたる1865年であり、したがって、

Colin Mackenzieを『Ten Thousand』の著者として良いかという問題がある。今回、『Ten Thousand』の

1865年刊行のロンドンでの初版本を見つけられなかったので、初版本の扉や序文などに著者名がど

のように書かれているかは不明だが、ミシガン大学図書館所蔵本4)などのアメリカ版では、書名に

「Mackenzie’s」と冠してあるものの、本の扉などにはColin Mackenzieが著者だとは書かれておらず、

Mackenzieに関する言及は、「初期アメリカ版へ」と題した序文の冒頭に「Mackenzieの価値ある著作(原

田注:『Five Thousand』を指す)の増補改訂版を準備するという仕事において、編集者は前書が備え

ていた汎用的な実用性というはっきりとした目的をいつも念頭に置いていた」とあるだけである。つ

まり、『Ten Thousand』は、編集者・出版社が1823年刊の『Five Thousand』を土台としておそらくは

勝手に増補改訂して、かつての中堅作家Mackenzieの名前を書名に冠したまま出版したものであろう。

このような行為は今日では盗作として指弾されずには済まないが、著作権関連の制度・商習慣が確立

していなかった当時の出版業界ではよくある事だった。ともあれ『Ten Thousand』に関しては、著名

な図書館等の書誌情報が軒並み著者をColin Mackenzieとしているので、便宜上、本論文での表記もそ

の慣習に従ったが、実際にはMackenzieの死後にゴーストライターの手によって増補改訂がなされた

上で出版されたものであるらしいことを断っておく。

6.『Ten Thousand』と『萬寳珍書』のレシピ項目の対応

 本節では『Ten Thousand』と『萬寳珍書』のレシピを比較して、『萬寳珍書』が『Ten Thousand』の

抄訳であることを明らかにする。

 『萬寳珍書』の原本を探すにあたっては、『萬寳珍書』とその原本だけに特有な記述を見つけ出して

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

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同定の根拠としたい。そこで、まず『萬寳珍書』のレシピの品目を見渡すと、19世紀の英米の料理書

で一般的によく見かけるありふれた品目が多いのであるが、その中で、黒胡椒で蝿を追い払うという

「避蠅の法」(15丁表)と、エーテルの気化熱を用いて氷を作る「製氷の法」(25丁表)が料理書とし

ては珍しい解説で目を引く。しかしその2点だけでは原本同定のための特徴としてはまだ十分ではな

いので、さらに多くの特徴を抽出するために『萬寳珍書』の個々のレシピの記述を精査したところ、

材料の分量と調理時間に、原本同定の手がかりとできそうな特徴が複数箇所見つかった。

 材料の分量における特徴というのは、ごく単純な話であるが、一般の家庭向けにしては量が多過ぎ

たり、半端だったりする箇所が、『萬寳珍書』にはまま見かけられるということである。量が多過ぎ

るものとしては、たとえば「ルートビール」に水を25ガロン(27丁表)、「桃酒」に桃を60~80個(28

丁裏)使うというような箇所が挙げられる。これは、その場で飲む分だけのカクテルを作るとか、現

代の日本の家庭で初夏に4, 5Lの梅酒を漬け込むといった場合とは規模が違っていて、小規模な業務用

並みの仕込み量である(液量の1ガロンはイギリスで約4.5L、アメリカで約3.8L)。また、「ライスケー

キ」で卵黄を15個(20丁裏)使うというのもかなり多い部類である。量が半端なものとしては、たと

えば「羊肉」の調理時間について解説した箇所(15丁裏)で、用いる羊の背肉を10~11斤、肩肉を7

斤としていることなどが挙げられる。材料の体積や重量は、単位を換算したために小数点以下の端数

を含んだ数になってしまって見かけ上半端な数値に見える場合もあるが、明治期の料理書では、ポン

ドをそのまま斤と表記していることが多いので、この場合は原本の方でも10~11ポンド、7ポンドと

なっていることが期待できる。また、「スポンジビスキット」で小麦粉を14オンス(23丁裏)使うの

も特徴的である。このレシピでは小麦粉が15オンスでも成立するに違いないし、12オンスでも成立す

るかもしれないが、そこをあえて14オンスと指定しているレシピは比較的少ないのではないかという

ことである。

 調理時間に関しても、やはり半端な時間を指定している箇所がある。たとえば、「野獣肉」の調理

時間について解説した箇所(17丁表)では12~18斤の腰肉を炙るのに3時間15分を要すとしている。

その解説では肉の量に12~18斤と幅を持たせてあるので、端数の15分を0分としても30分としても誤

差の範囲である。したがって、自分でレシピを書く場合には、15分という端数は切り良く丸めて3時

間にするか、少し延ばして3時間半にするのが通常の感覚ではないだろうか。そこを、あえて15分と

いう端数を付けるのはどういう場合かと想像すると、一つ考えられるのは、須藤自身が調理法に精通

していて、この15分はどうあってもゆるがせにはできないという調理上の強い主張を持っている、と

いう場合である。しかし、元が侍の須藤にそれほどの調理の知識があったとは思えないので、したがっ

て、調理時間や材料の分量に見られる端数は、むしろ須藤に料理の心得がまったく無いだけに原本に

書いてあった数値を忠実に引き写している可能性が高い、と考えられるのである。

 そこで、第4節の(ハ)に矛盾しない範囲で、『萬寳珍書』と同じレシピをできるだけ多く含み、かつ、

レシピに以上のような数値上の特徴をできるだけ多く備えた洋書を探したところ、条件によく合致

する書籍として件の英書『Ten Thousand』が見つかった。また、『Five Thousand』も『Ten Thousand』

の元になった本だけに、『萬寳珍書』とよく似た内容を持っていることがわかった。表1は『Five

Thousand』と『Ten Thousand』と『萬寳珍書』のレシピ項目の対応を調べたものである。比較のため

に用いた底本は第2節で述べたものであるが、『Five Thousand』は、ロンドン版とアメリカ版で頁数

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表1.『Five Thousand』, 『Ten Thousand』, 『萬寳珍書』のレシピ項目の対応

FiveTen Thousand

(アメリカ版第2版, 1866)萬寳珍書

(初版, 1873)備     考

※1 ※2 ※3 頁 項目名 ※4 項目名 丁

日用食物の稟質 1表

533 402 = 248 Beef = 牛肉 1表

533 402 ≒ 248 Veal = 幼牛肉 1裏 『Five』: 病人に適する食物とする。『Ten』と『萬寳』: 逆に病人には適さない食物とする。

533 402 = 248 Mutton = 羊肉 2表

534 402 = 249 Lamb = 羊子の肉 2裏

534 402 > 249 Pork = 豚肉 2裏 『Ten』: 『Five』の末尾の消化が悪いという1文を省略。

534 402 = 249 Goat's Flesh = 野羊の肉 3表

534 402 = 249 Venison = 野獸の肉 3表

534 402 ≒ 249 Milk > 牛乳 3裏 『萬寳』: 羊やヤギの乳などとの比較を省略。『Five』と『Ten』で語句の異同がある。

534 402 = 249 Cream = 乳脂 4表

535 402 > 249 Butter = 牛酪 4裏 『Ten』: 『Five』のパンと一緒に食べると唾液の分泌を妨げるという解説を省略。

535 402 = 249 Cheese = 乾酪 5表

535 403 = 249 Fowls = 鳥 5裏

535 403 = 249 Turkeys, etc. = 七面鳥 6表

535 403 = 249 Wild Fowls = 野鳥 6裏

535 403 = 249 Eggs > 鳥卵 6裏 『萬寳』: 『Ten』の2項目の内容を合成し、卵白の解説を省略。

― ― ≠ 457 To Tell Good Eggs

730 360 = 95 To Preserve Eggs = 貯雞卵之法 7裏 『Five』ロンドン版の793頁、アメリカ版の394頁、『Ten』の457頁にも内容が異なる鶏卵の保存法有

り。

535 403 ≒ 249 Fish > 魚 7裏 『萬寳』: タラやカレイはもっとも消化が良い、という1文省略。

「魚類を食したる後に」は誤訳。『Five』のみ、魚は野菜よりも滋養が少ない、とある。

536 403 > 249 Oysters and Cockles = 牡蠣 8裏 『Ten』: 『Five』の後半の生食の勧めを省略し、滋養に富み消化が良いと要約している。

536 403 > 250 Bread > 蒸餅 8裏 『Ten』: 『Five』の一部を省略。『萬寳』: 『Ten』の後ろ約2/3を省略。

料理之辨 9表

303 163 = 188 To Boil Meats, etc. > 烹煑之方 9表 『萬寳』: 冒頭1文省略。1クォートを5合と換算。「リースペン」はソースペン(saucepan)の誤植。

303 163 = 188 To Bake Meats, etc. > 蒸焼之方 12裏 『萬寳』: 『Ten』の前1/5ほどを訳し、後ろ約4/5を省略。

304 164 < 189 To Roast Meats, etc. > 炙焼の方 12裏 『萬寳』: 油や肉汁でと書いていないため、肉を水で湿らせて焼くと誤解しそう。末尾の「泡沫を除く為にその肉を湿し」は油や肉汁をかけながら焼くことを誤訳したもの。『Ten』の中ほどの「A good screen ~ correct.」と後ろ1/3強を省略。『Ten』: 家禽の解説(『萬寳』では省略されている部分)に加筆有り。

732 361 = 96 To Remove Fliesfrom Rooms

= 避蠅の法 15表 『萬寳』: ティースプーン1杯とテーブルスプーン1杯をどちらも1匕とする。「ブレッキペッパル」は黒胡椒。

料理之時間 15表

305 164 = 189 Mutton ≒ 羊肉 15裏 11ポンドの背肉、7ポンドの肩肉・腰肉という分量が特徴的。

『萬寳』: 肩肉の1時間45分は誤り。『Ten』では1時間半。

305 164 = 189 Beef ≒ 牛肉 15裏 『萬寳』: 腰部の肉の3~4時間は誤り。『Ten』では3時間45分から4時間。

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

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FiveTen Thousand

(アメリカ版第2版, 1866)萬寳珍書

(初版, 1873)備     考

※1 ※2 ※3 頁 項目名 ※4 項目名 丁

305 164 = 189 Veal > 幼牛肉 16表 『萬寳』: 腰肉と頸肉の解説省略。

305 164 = 189 Lamb = 羊児の肉 16表 『萬寳』: 「躰尾の一節」は後肢を含む体1/4(hind quarter)、「前躰の一節」は前肢を含む体1/4(fore quarter)。

305 164 = 189 Pork > 豚肉 16裏 『萬寳』: スペアリブと乳飲み子豚の解説省略。

305 164 = 189 Poultry > 家畜 16裏 『萬寳』: 中サイズの鶏の1時間25分は誤り。『Ten』では1時間15分なので誤植か。若い雌鶏、ガチョウ(goose)に関する解説省略。鳫の40分、鶩の1時間15分~1時間45分が特徴的。

305 164 = 190 Venison = 野獣肉 17表 12~18ポンドなら3時間15分、という分量・調理時間が特徴的。

魚類の割烹 17表

306 164 = 190 To Fry Meats, etc. > 炙魚の法 17表 『萬寳』: フライパンのメッキの確認、ステーキや骨付肉、ソーセージの焼き方に関する解説省略。

― ― ≠ 191 Oysters Roasted: = 牡蛎を焼く法 18表

Another Mode

― ― ≠ 191 To Boil Lobsters > 海蝦を烹る法 18表 『萬寳』: 中サイズが一番良い、という1文省略。

― ― ≠ 192 Another Soup Maigre = スープメーグル 19表 『萬寳』: テーブルスプーン2杯を2匕、1/2パイントを1合3勺、1/4パイントを6勺5才とする。

― ― ≠ 193 Oyster Soup = ヲイスタルスープ 19表 『萬寳』: 1クォートを5合、1/2パイントを1合3勺。

― ― ≠ 199 Fritters ≒ フリッタルス 19裏 『萬寳』: 3/2パイントを4合。「Nun’s butter」を添えて食べる旨省略。Nun’s butterのレシピは『Ten』194頁。

― ― ≠ 200 Egg and Wine = 雞卵酒 20表 『萬寳』: テーブルスプーン1,2杯を1,2匕とする。

甘菓の製法 20裏

326 180 = 202 Rice Cheesecakes ≒ ライスチースケーキ 20裏 いずれのレシピもチーズを使用しない。『萬寳』: 「ratafia water」と外側のクラスト生地を省略。1/2

パイントを1合3勺とする。「火酒」はブランデー。

322 178 = 200 Rice Cakes ≒ ライスケーキ 20裏 『Five』と『Ten』: 卵黄15個、卵白7個が特徴的。『萬寳』: 卵白の個数を省略。「火酒」はブランデー。

― ― ≠ 201 Flannel Cakes = フランネルケーキ 21表 『萬寳』: ティースプーン1杯を1匕、2ジル(1/2パイント)を7勺とする。

― ― ≠ 201 Buckwheat Cakes = ボックホウヰートケーキ 21裏 『萬寳』: ティーカップ1/2杯を茶碗半盃とする。「清淡なる水汁」は粉を薄めに溶いた生地のこと。

― ― ≠ 201 Sugar Biscuit = シッガルビスキット 22表 『萬寳』: 「銀ドルラル」は1ドル銀貨のこと。生地の厚さ4分と間隔4分は『Ten』では1/2インチと1インチ。

― ― ≠ 202 Dried Rusks = ヅライトラスクス 23表

325 180 = 202 Sponge Biscuits = スポンジビスキット 23裏 卵黄12個、小麦粉14オンスが特徴的。

― ― ≠ 202 Waffles = ウヲッフルス 24表 『萬寳』: 卵白を「柔靭(たわやか)」(stiff)に泡立てる、は「固く」くらいが妥当。『Ten』228頁と『Five』 ロ ン ド ン 版413頁 に も 別 の「Waffles」のレシピ有り。

― ― ≠ 202 Common Jumbles ≒ コムモンジャンブルス 24裏 『萬寳』: 「其後に肉荳蔲薔薇酒を注ぎ入れ」を補足。

729 360 = 95 To Make Ice > 製氷の法 25表 エーテルの気化熱を用いる方法。『萬寳』: 冒頭1文を省略。「桃氣鍾」は「排氣鍾」の誤植。

飲料の製法 25裏

494 253 = 176 Syrup of Ginger > 生姜の糖蜜 25裏 『萬寳』: 『Ten』の後ろ約2/3を省略。

385 238 = 160 Gentian Wine ≒ 健胃酒 25裏 『萬寳』: 「ジェンシャン」はリンドウの根、「ロングペッパル」はヒハツのこと。「最上の火酒」はライトワイン(軽いワイン)のことなので誤訳。火酒の分量(2パイント)を省略。

386 238 = 160 For Debility of theStomach

≒ 健胃浸劑 26表 「カミルレ」はカモミール。「生姜の糖蜜」4ダラクマは6ダラクマの誤り。

― ― ≠ 257 Root Beer > ルートビール 26裏 「鹿蹄草」はwintergreenのこと。水25ガロンが特徴的。

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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第24号(2017)

200

が異なるので、両者の該当頁を調べて記載した。また、『Ten Thousand』はロンドン版を閲覧できなかっ

たので、アメリカ版の頁のみを記載した。『Ten Thousand』と『萬寳珍書』で相違が見られる部分は

備考欄に記した。各書籍とも、本文中の見出し語と目次の表記が異なっている場合は、本文中の見出

し語の表記を採用した。

 『Five Thousand』、『Ten Thousand』とも通常の料理書ではなく家政百科事典であるだけに、『萬寳珍書』

の「避蠅の法」(15丁表)、「製氷の法」(25丁表)という通常の料理のレシピではないものも含んでい

るが、表1の示すように、『Ten Thousand』が『萬寳珍書』のレシピに対応するレシピを順不同なが

らすべて含んでいるのに対し、『Five Thousand』の方はいくつかのレシピを欠いている。個々のレシ

ピの内容を比較しても、『Ten Thousand』と『萬寳珍書』のレシピは偶然とは思えないほどよく似て

おり、現在までに『Ten Thousand』以上に『萬寳珍書』と酷似した内容を持つ書籍は見つかっていな

いので、本論文では『Ten Thousand』が『萬寳珍書』の原本であると結論したい。

FiveTen Thousand

(アメリカ版第2版, 1866)萬寳珍書

(初版, 1873)備     考

※1 ※2 ※3 頁 項目名 ※4 項目名 丁

― 114 = 257 Cheap and AgreeableTable Beer

> チープエンドエグリエーブルテーブルビール

27表 『萬寳』: 1ガロンを2升1合とする。『Five』ロンドン版にはこのレシピが無い。

― ― ≠ 258 Mead = ミード 27裏 テーブルスプーン1杯を食匕1杯とする。

232 127 = 269 Cherry Wine = 櫻酒 28表 『萬寳』: 「柔軟なる冷水」は冷たい軟水、「火酒」はブランデー、「狭」と「狭仁」は種のこと。「ヨールト」は「コールト」(quart)の誤植。

233 127 = 270 To make Peach Wine > 桃酒 28表 『萬寳』: 「柔軟なる冷水」は冷たい軟水、「火酒」はブランデー、「狭」と「狭仁」は種のこと。桃を60~80個も使うのは特徴的。『Ten』の中ほどの

「This will make 18 galls.」を省略。

233 128 = 270 Lemon Wine ≒ 香櫞酒 28裏 『萬寳』: 「火酒」はブランデー、「フラソコ」は瓶のこと。「スプリングウワータル」12コールトは2コールトの誤り。

234 128 = 270 Apple Red Wine > 紅林檎酒 29裏 リンゴ3ブッシェルが特徴的。『萬寳』: 「火焔菜」はビート、「迷迭香」はローズマリー、「ラウエンダル」はラベンダー、「フヰスキー」はウィスキー

(酒)のこと。『Ten』の末尾の「This will make 18 galls.」を省略。

233 128 = 270 Apple White Wine > 白林檎酒 29裏 『萬寳』: 『Ten』の末尾の「This will make 18 galls.」を省略。

235 128 = 271 Orange Wine -Another

= 橙酒 30表 『萬寳』: 「レーン酒」はドイツ・ライン川地方のワイン(Rhenish wine)のこと。

貯菓實法 30裏

338 186 = 240 To Preserve Grapes = 貯葡萄法 30裏

339 187 ≒ 240 Fruits in Brandyor other Spirits

≒ 諸種の菓実を漬る法 31表 『Ten』: 『Five』のミョウバン水を省略。『萬寳』: 「巴旦杏」はアンズ、「火酒」はブランデー等の強

い酒のこと。洋糖25ヲンスは5ヲンスの誤り。

※1 『Mackenzie’s Five Thousand Receipts』(ロンドン版, 1830)の該当頁。※2 『Mackenzie’s Five Thousand Receipts』(アメリカ版, 1829-1831?)の該当頁。※3 『Five Thousand』(アメリカ版, 1829-1831?)と『Ten Thousand』(アメリカ第2版, 1866)の類似度合。   = 句読点など文字レベルでの相違を除き同一。   ≒ ほぼ同一であるが語句レベルでの相違がある。   > 『Five』から『Ten』にかけて1文以上の省略がある。   < 『Five』から『Ten』にかけて1文以上の加筆がある。   ≠ 対応するレシピが『Five』に存在しない。※4 『Ten Thousand』と『萬寳珍書』での類似度合。   = ほぼ同一。   ≒ ほぼ同一であるが語句レベルでの相違がある。   > 『Ten』から『萬寳』にかけて1文以上の省略がある。

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

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 『Ten Thousand』と『萬寳珍書』の個々のレシピを詳細に比較すると、後者は多少の誤訳・誤植と

省略があるものの概ね直訳的で、特に須藤が自分の見解を加えた部分はほとんど無いと言ってよい。

材料の分量に関しては多少の誤訳・誤植があるが概ね正確である。ただし、ティースプーン1杯、テー

ブルスプーン1杯をどちらも匕1杯としているのでその点はやや不正確であるが、誤差の範囲と言え

なくもない。材料の分量に関して、味を著しく損なうほどの致命的な誤りは、「香櫞酒」でスプリン

グウォーターを本来2クォートのところを12クォートとしたこと(29丁表)と、「諸種の菓実を漬る法」

で洋糖を本来5オンスのところを25オンスとしたこと(31丁裏)の2ヶ所だけである。調理時間に関

しては、15丁表から17丁表にかけての「料理之時間」で誤訳・誤植が目立ったが、どの誤りも実際の

調理においては誤差の範囲と言える程度のもので、料理が成り立たなくなるような致命的な誤りは無

いようである。

 『萬寳珍書』の構成を見ると、1丁表から17丁表途中までの前半を「日用食物の稟質」、「料理之辨」、

「料理之時間」という概論が占め、17丁表途中から31丁裏までの後半に料理・飲料の具体的な作り方

を掲載している。その後半部のレシピは、甘い糖蜜を添えるとする「フリッタルス」を菓子に分類す

ると、いわゆるおかずになるような品目は「炙魚の法」、「牡蛎を焼く法」、「海蝦を烹る法」、「スープメー

グル」、「ヲイスタルスープ」の5種類しかなく、菓子が10種類、酒等の飲料が12種類、その他として

「製氷の法」、「貯葡萄法」、「諸種の菓実を漬る法」の3種類、とかなり偏った選択がなされている。『萬

寳珍書』の中でとりわけ有名な菓子のレシピについて述べると、果物のゼリーのようなものは選ばれ

ておらず、「フリッタルス」も含めて、小麦・卵・バターが主体の比較的地味で家庭的な焼菓子・揚

菓子ばかりが選択されている。そのうちの「ライスチースケーキ」(20丁裏)は『Ten Thousand』の

「Rice Cheesecakes」(202頁)であるが、実は両者とも、チーズを使用せずに米・卵・バター・クリー

ム・砂糖を用いてチーズのような食感の具を作る「チーズ風ライスケーキ」のレシピである。2016年

11月現在、Googleで「万宝珍書 チーズケーキ」というキーワードで検索をおこなうと、『萬寳珍書』

が日本に初めてチーズケーキを紹介したと述べているウェブページがいくつも見つかるが、それらの

ウェブページには、『萬寳珍書』が紹介した「ライスチースケーキ」はチーズを用いないレシピだった、

という断り書きが一言添えられるべきである。

 江原・東四柳『近代料理書の世界』6)は、『萬寳珍書』の前半の概論中に見られる牛肉に関する記

述と目次の項目とを引用して、「当時の日本の常食にはほとんどみられなかった動物性食品、なかで

も獣肉、乳・乳製品に中心がおかれていることから、須藤が「身体の強壮」に必要な食品としたものは、

主として動物性食品であったことがうかがえる」(39頁)と考察しているが、それらの動物性食品を

別格とすれば、『萬寳珍書』に多く採用されているパンや焼菓子のような小麦粉食品と洋酒も、須藤

にとっては何かフランスの思い出などに結び付くところがあって、「身体の強壮」に大きく寄与する

西洋料理の「滋養」の象徴のように思われていたのかもしれない。『萬寳珍書』の自序には「僻地陋

郷の愚夫頑婆米麥而已を以て最上の常食なりと硬執する朦昧」とあり、麦一般を批判しているようだ

が、これは麦飯や味噌に使う大麦、あるいは「米麥」という言葉で象徴される日本食を批判している

のであろう。「蒸餅」の解説(8丁裏)ではむしろ「小麦の粉は各種の穀粉中におゐて最も滋養の功

ある物なり」と滋養の面で小麦を高く評価している。「蒸餅」の解説は『Ten Thousand』の解説をそ

のまま翻訳したものであるが、個々のレシピには極力自説を交えずに『Ten Thousand』をできるだけ

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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第24号(2017)

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忠実に訳すとしても、どのレシピを選択するかは完全に須藤の任意である。また、『萬寳珍書』で材

料としてしばしば用いられる「火酒」は、原本の『Ten Thousand』を参照するとブランデーやワイン

のことだとわかるが、もしかすると、西洋の火酒には日本の酒に無い滋養強壮効果があると考えて火

酒を用いるレシピを多く採ったのかもしれない。

 なお、『萬寳珍書』には、明治期の日本の料理書の中で異彩を放っている特色が一つある。それは

『食文化に関する文献目録』5)あるいは『近代料理書の世界』6)の文献リストを通覧するとわかるこ

とであるが、一目見て料理書だと見当が付かないような書名が付いているのは『萬寳珍書』くらいの

もので、他の料理書はほぼすべて『西洋料理通』、『くりやのこころえ』、『素人庖丁』、『日本料理法大

全』といったような一目で料理書だとわかる書名が付いている、ということである。この『萬寳珍

書』というやや大仰にも見える料理書らしくない書名は、『萬寳全書』、『萬寳新書』といった先行書

籍(ただしどちらも料理書ではない)の書名を真似たものでもあろうが、おそらくは『Mackenzie’s

Ten Thousand Receipts』の「Ten Thousand Receipts」の部分を意訳したものに違いない。

 また、題簽にある「食料之部」という副題は、家政百科事典である『Ten Thousand』から料理に

関する解説を抄訳したことを暗に示したものであるが、さらに他分野の抄訳も企図していた可能性

を示すものでもある。須藤が『萬寳珍書』を刊行した明治6年(1873年)は折しも、文部省が一大

国家プロジェクトとしてChambers兄弟編『Chambers’s Information for the People』を全91編の『百科

全書』として翻訳・刊行し始めた年である27),28)。そこで須藤が『Ten Thousand』の料理以外の部分も続々

と翻訳して『萬寳珍書』を分冊式の百科事典として刊行したならば、原本が家政百科事典であり個人

の訳業であるため規模が小さいという憾みはあるが、文部省の国家プロジェクトと軌を同じくする画

期的な業績となり得たところだけに、「食料之部」以外の巻が刊行されなかったことは少し惜しまれる。

7.まとめ

 以上で述べたように、『萬寳珍書』はイギリスの家政百科事典『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

を抄訳したものである。『萬寳珍書』の序文は『Ten Thousand』からの翻訳ではなく、須藤が執筆し

たものである。短いので以下に引用する(句読点は原田、下線付きの文字は蔵書印のかぶりのため読

み間違えているかもしれない)。

 夫れ人生缺くべからざるものは衣食住の三にして、何れも偏廃すべからずと雖ども、穴居野處に

て樹皮草葉を着し以て衣住に充る徒なりとも、食に換るに物なかるべし。然れば飲食を以て生命を

保續する第一具と稱して可ならん。抑歐亞各國人の、心魂を凝して新奇を發明し手足を勞して難業

に従事し毫厘も屈撓する色を徴さゞる原由は、身躰の強壮なるによるべし。蓋し強壮を致すは則ち

人生を保續する飲食の至良なるに基くこと疑ひを容るべからず。故に今その食料の稟質及び調理の

如何を辨明し、僻地陋郷の愚夫頑婆米麥而已を以て最上の常食なりと硬執する朦昧を開き、人生の

至重なることを解悟せしめば、此小冊子といへども亦國家に益なしと謂ふべからず。因て譯成り梓

に上す。

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

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 富国強兵が国家的な喫緊の課題であった明治期には、米や魚を中心とする旧来の日本料理を廃して、

小麦粉や肉を中心とする「滋養」に富んだ西洋料理に切り替えれば身体・精神が壮健になり、国民の

健康が向上すればひいては国力が高まるのだ、といった類の、食生活においても西洋化を推進すべし

という主張が社会の様々な方面から声高に唱えられることになるのだが、明治6年(1873年)という

早い時期に刊行された『萬寳珍書』の序文は、そのような主張の先駆けとも言うべき内容になってい

る。この須藤の『萬寳珍書』の序文も、西洋化という新時代の潮流にいち早く迎合してその種の紋切

型の序文を書いたものだと言えばそれまでであるが、池田使節団の一員として洋行経験がある須藤の

場合には、西洋人の体格・体力と本場の食事とを実際に知っているだけに、その主張には強い実感の

裏打ちがあったに違いない。

 もっとも、『萬寳珍書』は、現存部数の少なさから見て、そもそも刊行部数が少なかったのではな

いかと推測されるので、そのレシピに基づいた西洋風の料理や菓子・飲料が明治期前半の一般家庭で

作られることは滅多に無かったかと思われる。したがって、『萬寳珍書』を単純に料理書として、同

時代の日本人の食生活に対して与えた直接の影響という観点で評価するならば、その影響力は恐らく

微々たるものでしかなかったと言わざるを得ないだろう。しかし、実用的な料理書としての影響力は

乏しかったとしても、知識人向けに西洋事情を伝えた速報という意味では、『萬寳珍書』は、日本と

は日常の食べ物からして大きく異なる西洋という別世界が海の向こうに存在するのだ、ということを

実感させ読者の好奇心を刺激せずにはいない、時宜に適った好著として、今日十分に評価されるべき

ものであろう。ただし、なまじ速報的なものとして受け取られた分だけ、より新しく詳しい情報を求

める読者に過渡期の情報として読み捨てられるのもまた早かった、ということはあったかもしれない。

 『Ten Thousand』は、第2節で述べたように1865年にロンドンで初版が刊行され、翌1866年にはア

メリカ版が刊行されている。須藤がいつどちらの版を入手したかは不明だが、ちょうど自分が洋行し

た頃に書かれた本であるから、手にした時の感慨もひとしおであっただろうし、ほんの数年前に刊行

された英書から当時のほぼ最新と言える知識を得る喜びも大きかったと思われる。ところが、第5,

6節で述べたように『Ten Thousand』には1823年刊の『Five Thousand』という原本があり、表1に示

したように『萬寳珍書』で翻訳された『Ten Thousand』のレシピの大半は古い『Five Thousand』に由

来するものだった。その『Five Thousand』のレシピも、著者のColin Mackenzieがさらに何か別の本な

どから借用してきたものに違いなく、だとすると、須藤が同時代の最新情報だと思って勇んで翻訳し

たレシピのうちには、本国イギリスではすでに時代遅れになっていたレシピや、あるいは『萬寳珍書』

よりも70年以上前の18世紀の書物に由来する古いレシピなども混じっていたかもしれない。したがっ

て、洋行経験のある西洋通の著者が、明治初年の生き馬の目を抜くような社会変革の中で西洋化の時

流に機敏に乗じて同時代の西洋料理事情をいち早く翻訳・出版したかのように見える『萬寳珍書』は、

図らずも、遠い星から何十億年も前に放たれた光を望遠鏡で今覗き見たような、時勢に超然たるまこ

とにおっとりとした一面を有しているのである。なお、『Five Thousand』、『Ten Thousand』とも序文に、

情報の出典として28種の文献を挙げてあるが、料理のレシピの原本がどの文献であるかは特定されて

おらず(その28種の文献以外にも情報の出典がありそうである)、その調査は今後の課題である。

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参考文献

 読者の便宜のため、インターネットで閲覧可能な資料についてはアドレスを付記した。インターネッ

ト上の資料の最終閲覧日は、すべて2016年11月15日である。

1)須藤時一郎:『萬寳珍書 食料之部 全』,文恭堂,東京,(1873)

※国会図書館所蔵(1873),

(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849135)

2)江原絢子・石川尚子・東四柳祥子:『日本食物史』,吉川弘文館,東京,(2009)

3)池田文痴菴編:『日本洋菓子史』,日本洋菓子協会,東京,(1960)

4) Colin Mackenzie:『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts, in All the Useful and Domestic Arts』,出版社

不明,London,(1865)

※ミシガン大学図書館所蔵(第2版,T. Ellwood Zell,Philadelphia,1866),

(http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015093181082)

5)太田泰弘編:『食文化に関する文献目録:単行書/明治期/第9版 一部加筆』,著者個人頒布,東京,

(2012)

6)江原絢子・東四柳祥子:『近代料理書の世界』,ドメス出版,東京,(2008)

7) Colin Mackenzie:『Mackenzie’s Five Thousand Receipts, in All the Useful and Domestic Arts』,Sir

Richard Phillips and Co.,London,(1823)

※リーズ大学図書館所蔵(1830),

(https://archive.org/details/b21530518)

8)前掲書7)の出版社がJ. Kay, Jun. and Brother,出版地がPhiladelphiaに変更され,内容も更新された

※アメリカ議会図書館所蔵(1829-1831?),

(https://archive.org/details/mackenziesfiveth02mack)

9)鈴木貞次郎編:『最新実業界の成功者』,精華堂,東京,(1908)

10)日外アソシエーツ(株)編:『明治大正人物事典I:政治・軍事・産業篇』,日外アソシエーツ,東京,

(2011)

11)湯本豪一編:『図説明治人物事典:政治家・軍人・言論人』,日外アソシエーツ,東京,(2000)

12)株式會社秀英舎編:『株式會社秀英舎創業五十年誌』,秀英舎,東京,(1927)

※国会図書館所蔵(1927),

(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464094)

13)石川安次郎:『沼間守一』,毎日新聞社,東京,(1901)

※国会図書館所蔵(1901),

(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881360)

14)岩松太郎:「航海日記」,大塚武松編:『遣外使節日記纂輯 第三』,日本史籍協會,東京,(1930),

339-480頁

※国会図書館所蔵(1930),

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須藤時一郎『萬寶珍書』とColin Mackenzie『Mackenzie’s Ten Thousand Receipts』

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(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920519)

15)三浦義彰:『文久航海記』,冬至書林,東京,(1942)

16)杉浦譲:「奉使日記」,『杉浦譲全集 第一巻』,杉浦譲全集刊行会,東京,(1978),123-180頁

17)尾佐竹猛:『夷狄の國へ:幕末遣外使節物語』,萬里閣書房,東京,(1929)

※国会図書館所蔵(1929),

(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186710)

18)高橋邦太郎:「悲劇の大使:池田筑後守事蹟考」,明治文化研究会編:『明治文化研究 第二集』,

日本評論社,東京,(1968),1-38頁

19)岸加四郎:『鶴遺老:池田筑後守長発伝』,井原市明治百年記念刊行委員会,岡山,(1969)

20)鈴木明:『維新前夜:スフィンクスと34人のサムライ』,小学館,東京,(1988)

21)維新史學會編:『幕末維新外交史料集成 第六卷』,財政經濟學會,東京,(1944)

※国会図書館所蔵(1944),

(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920551)

22)東四柳祥子・江原絢子:「解題 近代日本の料理書(1861~1930)」,『東京家政学院大学紀要』,

43,225-240頁,(2003)

※東京家政学院大学紀要 第43号,

(https://www.kasei-gakuin.ac.jp/library/kiyou/mokuji/kiyou43.htm)

23)「Colin Mackenzie(Scottish writer)」,Wikipedia

(https://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Mackenzie_%28Scottish_writer%29)

24)「Mr Colin Mackenzie(15 Jan 1838-14 Apr 1854)」,『Loan 96 RLF 1/911』,Western Manuscripts,大英

図書館

25) Frederic Chamier編:『The Young Muscovite, or the Poles in Russia』,Cochrane and M’Crone,London,

(1834)

※ハーバード大学図書館所蔵(1834),

(http://id.lib.harvard.edu/aleph/001452270/catalog)

26)『Morning Post』,1854年4月19日,8面,訃報欄

27)長沼美香子:「開化啓蒙期の翻訳行為:文部省『百科全書』をめぐって」,『翻訳研究への招待』,7,

13-40頁,(2014)

※『翻訳研究への招待』アーカイブ,

(http://honyakukenkyu.sakura.ne.jp/archive.html)

28)石川禎浩:「近代日中の翻訳百科事典について」,石川禎浩・狭間直樹編:『近代東アジアにおけ

る翻訳概念の展開』,京都大学人文科学研究所,277-307頁,(2013)

※京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター,

(http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/h10-ishikawa.pdf)

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