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連邦最高裁裁判官と法解釈 ―スカリア判事とブライヤー判事の法解釈観― 大 林 啓 吾 横大道 聡 はじめに Ⅰ スカリア判事の法解釈観 1 スカリア判事の問題意識――司法と民主主義 2 法解釈のあり方――人治か法治か 3 テクスト解釈の形式性 4 解釈方法 5 憲法解釈――原意主義の動態的憲法批判 6 原意主義の類型と原意の確定の問題 7 整理と問題点 Ⅱ ブライヤー判事の法解釈観 1 ブライヤー判事の問題意識――積極的自由の重要性 2 ブライヤー判事の議論の特徴 3 憲法の民主的性格と司法の謙抑 4 テクストと目的――制定法解釈を例に 5 解釈がもたらす結果の考慮――成文主義との比較 6 具体的適用 7 整理と問題点 Ⅲ 若干の考察 終わりに 連邦最高裁裁判官と法解釈 157

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連邦最高裁裁判官と法解釈―スカリア判事とブライヤー判事の法解釈観―

大 林 啓 吾横 大 道   聡

はじめに

Ⅰ スカリア判事の法解釈観

1 スカリア判事の問題意識――司法と民主主義

2 法解釈のあり方――人治か法治か

3 テクスト解釈の形式性

4 解釈方法

5 憲法解釈――原意主義の動態的憲法批判

6 原意主義の類型と原意の確定の問題

7 整理と問題点

Ⅱ ブライヤー判事の法解釈観

1 ブライヤー判事の問題意識――積極的自由の重要性

2 ブライヤー判事の議論の特徴

3 憲法の民主的性格と司法の謙抑

4 テクストと目的――制定法解釈を例に

5 解釈がもたらす結果の考慮――成文主義との比較

6 具体的適用

7 整理と問題点

Ⅲ 若干の考察

終わりに

連邦最高裁裁判官と法解釈 157

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はじめに

2005年、レーンキスト(William Rehnquist)長官の死去に伴い、1986

年以来19年続いたレーンキストコートが幕を閉じた(1)。レーンキストは、

1972年に陪席裁判官として連邦最高裁裁判官の一員となっているので、

この期間を含めると33年間連邦最高裁に在職したことになる。レーンキ

スト長官の死後、レーンキストコートを総括する論稿がいくつかアメリ

カで出されているが、レーンキストコートはどのようなコートだったの

だろうか(2)。

レーンキストコートは、しばしば保守的司法積極主義(conservative

judicial activism)と呼ばれてきた(3)。違憲判決を出すものの、それは保

守的な制度の維持のために違憲となったことが多いからである。もっと

も、必ずしもすべてが保守的判決ではない点に注意が必要である。これ

までのコートの例に漏れず、レーンキストコートも保守派とリベラル派

が均衡し、中道派と呼ばれる判事が何度かキャスティングボートを握っ

て、ときにはリベラルな判決も下してきた(4)。また、ときには保守派と

位置づけられている裁判官がリベラルな判決に加わったり、その逆も

あったりと、必ずしも保守やリベラルといったイデオロギー的対立だけ

で捉えきれない側面がある。このような場面において、きわめて重要な

158

(1)田島裕「レンキスト首席裁判官の訃報」法の支配139号105頁(2005年)。宮田

智之「連邦最高裁判所判事の人事をめぐって――ロバーツ判事の指名までの動き

――」外国の立法226号146頁(2005年)、宮田智之「連邦最高裁判所判事の人事

をめぐって――アリート判事の人事成立までの動きを中心に――」外国の立法

227号147頁(2006年)。(2)See, e.g., Symposium, Looking Backward, Looking Forward: The Legacy of Chief

Justice Rehnquist and Justice O’Connor, 58 STAN. L. REV. 1661(2006). なお、邦語文

献では、藤倉皓一郎・小杉丈夫編『衆議のかたち―アメリカ連邦最高裁判所判例

研究(1993~2005)―』(東京大学出版会、2007年)、宮下絋「レンキスト・コー

トの終焉とロバーツ・コートの幕開け」一橋研究第31巻第 3号19頁(2006年)。(3)Frank B. Cross and Stefanie A. Lindquist, The Scientific Study of Judicial Activism, 91

MINN. L. REV. 1752(2007).

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役割を果たすのが各裁判官の採用する法解釈観であるように思われる。

法解釈の方法がその裁判官のイデオロギーに関連していることは否定で

きないが、イデオロギーにより裁判官の法解釈方法が決定されるという

よりはむしろ、自身の採用する法解釈方法(特定のイデオロギーに親和

的であるにしろ、イデオロギーそのものとは異なる)に固執して法解釈

という実践を行っているといったほうが、必ずしも保守・リベラルと簡

単に区別することが困難な各裁判官の投票行動を正確にとらえることが

できるからである。そうだとすれば、裁判官の法解釈のあり方という問

題を考察することは、連邦最高裁判決を理解するうえで重要な意味を

持ってくる。しかも、裁判官の法解釈のあり方という問題は、あるべき

裁判官像、さらにはアメリカの立憲主義または民主主義の実現に深くコ

ミットしているがゆえに、検討を要する重要な問題となるはずである。

そこで本稿では、裁判官の法解釈観を、スカリア(Antonin Scalia)判

事とブライヤー(Stephen Breyer)判事の法解釈観に焦点を当ててみて

いくことにしたい。本稿がスカリア判事とブライヤー判事に注目するの

は、現職の最高裁裁判官として自己の採る法解釈観を鮮明に打ち出して

いるのは 9 人のなかでスカリア判事とブライヤー判事のみであること、

そしてその法解釈観が両極端のものであるように思えること、両者の最

高裁内部における影響力の大きさなどからである。両判事はそれぞれが

いかなる原理に基づき、どのような解釈方法をとっているのか。そして

それぞれの法解釈はいかなる問題を抱えているのか。両者の見解の相違

の根底には、どんな原理的根拠が潜んでいるのか。以上について若干の

分析を試みることが本稿の課題である。

連邦最高裁裁判官と法解釈 159

(4)レーンキスト長官は、2002年までは保守派の判事や中道派の判事を取り込み

ながら多数意見の形成に成功してきたものの、2002年以降の晩年は、リベラル派

の判事が中道派の判事の取り込みに成功してきたという指摘がある。Erwin

Chemerinsky, Keynote Addresses: Assessing Chief Justice William Rehnquist, 154 U. PA.

L. REV. 1331, 1342(2006).

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Ⅰ スカリア判事の法解釈観

「法解釈の方法に関する学問的議論は連邦裁判官の役割をめぐって

「忠実な代理人」(faithful agent)」と「共同経営者」(cooperative partner)

という見解が対立してきた(5)。」といわれる。本稿の関心に照らして言

えば、このうち、スカリア判事は前者で、ブライヤー判事は後者に位置

づけられる。まずは、スカリア判事の法解釈観をみていくことにしよ

う。

1 スカリア判事の問題意識――司法と民主主義

スカリア判事は、著書『解釈の問題』(A MATTER OF INTERPRETATION)(6)

をはじめとして、法解釈に関する論稿をいくつか執筆している(7)。ここ

では、『解釈の問題』を中心にしながら、スカリア判事の考える裁判官

のあるべき解釈手法を考察することにする。

スカリア判事は、ロースクールを例に出しながら、議論を展開していく(8)。

アメリカのロースクールでは、ケースメソッドを中心とした授業スタイ

ルがとられていることは周知のとおりである。ロースクールに入学した

学生は一年目から判例を基に法を学んでいくことになる。ここで、英米

法体系、すなわちコモンローの学び方を取得していくのである。もっと

も、コモンローのコモンは、真の意味でコモンではなく、裁判官がコモ

160

(5)William N. Eskridge, Jr., All About Words: Early Understandings of the ‘Judicial

Power’ in Statutory Interpretation, 1776-1806, 101 COLUM. L. REV. 990(2001).(6)ANTONIN SCALIA, A MATTER OF INTERPRETATION(1997).(7)スカリア判事の法解釈については、日本においても既にいくつかの論稿が存

在する。主なものとして、松井茂記「アントニン・スカリア裁判官の司法哲学・

憲法理論」アメリカ法[1994-2](263頁)。(8)Antonin Scalia, Common-Law Courts in a Civil-Law System: The Role of the United

States Federal Courts in Interpreting the Constitution and Laws, in A MATTER OF

INTERPRETATION 3(1997).

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ンとみなすコモンである。つまり、コモンローとは、人々のプラクティ

スではなく、裁判官が社会の一般的プラクティスを反映させていくもの

であり、裁判官によって発展させられた法なのである。

ここでスカリア判事は疑念を抱く(9)。このようなコモンローシステム

と民主主義システムは合致するのだろうか、と。アメリカはコモンロー

体系に属するとはいえ、基本的には制定法を基盤とする民主主義の国で

ある。民主主義国家においては、法律が社会を規律するのであって、裁

判官の見解がコモンとなるわけではない。裁判官はコモンローと民主主

義という 2つのシステムを調和させるような形で職務を果たすことが要

請される。そうなると、コモンロー的裁判官の態度が両者の調整に最も

適しているとは思えない、とスカリア判事は考えるのである。

2 法解釈のあり方――人治か法治か

スカリア判事はこうした問題意識を持ちながら法解釈の問題へと移っ

ていく(10)。スカリア判事によると、我々が現在生きている社会は、法

律を中心としていることから、このような社会で裁判官が解決すべき法

の問題は、テクスト(憲法、法律、規則)の解釈となるという。そのた

め、法解釈の問題を検討することが重要となってくるのである。

これについて、コモンロー的なアプローチをすると、個別具体的な事

件ごとに、裁判官が最良と考える解釈手法によって解決することになる。

しかし、スカリア判事は、個別具体的な事件ごとに対応していくアプ

ローチではなく、「広範に適用可能な一般原理の創設が裁判過程の本質

的要素であると信じる……(11)」。なぜなら、裁判官の出す回答がつねに

連邦最高裁裁判官と法解釈 161

(9)Antonin Scalia, The Rule of Law as a Law of Rules, 56 U. CHI. L. REV. 1175, 1178

(1989). なお、スカリア判事自身も、ロースクール学生のとき、当初このやり方

の熱心な信奉者だったが、徐々に懐疑的になっていったと吐露している。(10)Scalia, supra note 8, at 14-18.(11)Scalia, supra note 9, at 1185.

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絶対的に正しいというわけではないからである(12)。また、一般原理に

基づいて判断しなければ、予測可能性を担保できず、コモンロー的アプ

ローチはこの点においても欠点がある。

それでは、我々は法を解釈するとき、何を探ればよいのだろうか。ス

カリア判事の答えは、条文である。スカリア判事は、条文だけに基づい

て、法を解釈すべきであるというのである。一方、裁判官の法解釈の対

象は、立法者意図(legislative intent)であるといわれることがある。し

かしながら、スカリア判事にとって、それは法構造の具体的なルールと

して受け入れられない(13)。なぜなら、我々は法の主観的立法者意図を

探すのではなく、客観的意図を模索すべきだからである。つまり、法律

の条文から客観的意図を探るのである。我々がこのような手法を用いる

のは、それが民主的政府に基づく法治国家に調和するからである。立法

者意図に基づく法解釈は、法に明言されていない立法者の意図によって

支配されることになり、さらに、明言されてない立法者意図を変形させ

ることで、裁判官は自らの望みを達成させることができるようになって

しまう。これはまさに人治である。しかし、我々の統治体制は、人治で

はなく、法治なのである。

3 テクスト解釈の形式性

このような理由から、スカリア判事は、法解釈において立法者意図で

はなく、テクスト解釈をとる(14)。もっとも、スカリア判事は条文主

義/正文主義(textualism)(以下、本稿では「条文主義」という)の明

162

(12)Id. at 1178-1179.(13)スカリア判事にとって、立法者意図のみならず、立法経過(legislative history)

も受け入れがたいものである。もっとも、スカリア判事によれば、最近の連邦最

高裁は立法経過を用いることが多く、「法律の条文を検討すべきだよ。もし、立

法経過が曖昧ならね。……」のような状況に陥ってしまっているとして、皮肉っ

ている。Scalia, supra note 8, at 31.

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確な定義をしておらず(15)、形式主義との異同に触れながら、その内実

を明らかにしようとしている。スカリア判事によると、条文主義はしば

しば形式主義に陥ってしまい(16)、柔軟性に欠けることがある。スカリ

ア判事はそうした例として、1892年のChurch of the Holy Trinity v. United

States連邦最高裁判決(17)を挙げる(18)。この事件は、聖トリニティ教会

が、司祭および牧師に関する契約をイギリス人と交わしたことを発端と

する。当時、アメリカは、「何人も契約によりアメリカに入ってくる外

国人の流入を促進するやり方で、そのような外国人にアメリカの労働ま

たはサービスを供与してはならない」とする連邦法が存在していたため、

当該法律違反が問われることとなった。本件では、教会の契約が「労働

またはサービス」(labor and service)の供与に該当するか否かが争点と

なった。これについて連邦最高裁は、立法者意図を考慮して、当時、そ

の法律は肉体労働にのみ適用することを意図していたとし、本件のよう

な契約は該当しないと判断した。

かかる判断は立法者意図を基に法解釈を行ったわけであるが、おそら

く当時の法律が対象としていたのは経済活動に関係する労働やサービス

であって、教会等の非営利目的の職種は対象外であったはずであること

を考慮すると、ある程度合理的であったように思える。しかしながら、

連邦最高裁裁判官と法解釈 163

(14)Donald J. Kochan, The Other Side of the Coin: Implications for Policy Formation in

the Law of Judicial Interpretation, 6 CORNELL J. L. & PUB. POL’Y 463, 471-473(1997)

(book review). また、立法者は、法律の規定を曖昧にして裁判官に立法者経過を

参照させることで、個別の立法者が利益集団にメッセージを伝えることができる

というインセンティブが働くことがあるため、スカリア判事の解釈方法はこうし

たインセンティブを減殺するメリットがあるという指摘がある。(15)Charles R. Priest, A Matter of Interpretation: Federal Courts and the Law by Antonin

Scalia, 50ME. L. REV. 185, 190(1998)(book review).(16)なお、スカリア判事は、条文主義は形式主義ではないかという批判に対して

「もちろん、形式主義さ!」と、やや開き直り気味の回答をしている。Id. at 25.(17)Church of the Holy Trinity v. United States, 143 U.S. 457(1897).(18)Scalia, supra note 8, at 18-25.

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スカリア判事はこうした判断に異議を唱える。スカリア判事によると、

立法府は賢い法律も作るが、そうでない法律も作ることがある。だが、

裁判所はその法律がどちらの法律であるのかを判断すべきでない。裁判

所が法律の内容の是非を判断すると、それは司法が立法することになっ

てしまい、民主主義と調和しない。たとえ形式主義のようにみえても、

裁判所はテクスト解釈に従事しなければならないのである(19)。

4 解釈方法

もっとも、スカリア判事は、条文主義が形式主義であるとしても、い

わゆる厳格構造主義(strict constructionism)とは異なる点に、注意を喚

起する(20)。スカリア判事によると、条文は厳格にも緩やかにも解釈し

てはならず、公平なやり方で合理的に解釈しなければならないという。

スカリア判事が条文主義と厳格構造主義が異なる例として挙げるの

が、Smith v. United States連邦最高裁判決(21)における「麻薬と銃器使用

による加重刑罰」に関する法解釈である。本件は、麻薬取引犯罪を行っ

た際に銃器を使用した場合、法律により刑罰が増やされることになって

いたのだが、銃器と交換に麻薬を得た場合でも、本法が適用されるか否

かについて争われた。この場合、両者では解釈のコロラリーが異なる。

厳格構造主義者は麻薬と銃器の関連性に着目して刑の加重を認めること

になる。しかし、条文主義は、「銃器の使用」(use firearm)は「武器と

して」(as weapon)の銃器の使用であると解釈し、本件における刑の加

164

(19)スカリア判事によると、法の支配とは形式である。たとえば、ある者が外国

に技術を売ったとき、その売買を禁止する法案が両院を通過していたとする。だ

が、まだ大統領の署名を得ていなかったので、当然、その売買は合法的である。

このとき、両院のみならず、大統領もそのような売買に反対の立場をとっていた

ことが周知であったからといって、結果は変わらない。これが、人治ではなく、

法治なのである。Id. at 25.(20)Id. at 23-25.(21)Smith v. United States, 508 U.S. 223(1993).

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重を認めない。なぜなら、通常、銃器は武器として使用されるからであ

る。条文主義は、テクストに沿って解釈するものの、合理的な判断に

よってその意味を導き出すのであって、本件の場合には「銃器の使用」

を「武器としての使用」と解釈するのが正しい方法なのである。

その一方で、条文主義は、条文を緩やかに解することもしない。たと

えば、デュープロセス条項について、それを緩やかに解釈して言論や宗

教等の権利を実体的に保障するものとは考えない。デュープロセスは、

あくまで「適正な手続」(due process)を指すのであって、それ以上の

ことを意味するわけではないのである。

このように、テクスト解釈は形式主義的性格を有するものの、厳格ま

たは緩やかな解釈をとるわけではなく、公平かつ合理的な判断手法であ

ると、スカリア判事は説くのである。

5 憲法解釈――原意主義の動態的憲法批判

それではつぎに憲法解釈に移ることにしよう(22)。スカリア判事は、

法律の解釈と憲法の解釈を分けて考えている。スカリア判事によると、

憲法は「特別な条文」(an unusual text)である。法律の解釈では条文の

中身がすべてであるが、憲法の中身はしらみを取るような細かいもので

はなく、広範なフレーズとなっている。そのため、憲法解釈においては、

制憲者の原意を探るという作業が必要になってくる。つまり、スカリア

判事は、憲法解釈については、その抽象的内容という特殊性から、原意

主義(originalism)をとるというのである。

もっとも、憲法解釈にといて探求すべき対象も、法律と同様、条文の

原意であることに注意しなければならない。ところが、憲法解釈につい

連邦最高裁裁判官と法解釈 165

(22)Scalia, supra note 8, at 37-47. なお、スカリア判事は、連邦最高裁の中でスカリ

ア判事のような憲法解釈方法をとる立場は依然として少数派にとどまっているこ

とを嘆いている。See Antonin Scalia, Foreword, in ORIGINALISM: A QUARTER-CENTURY

OF DEBATE 43, 45(Steven G. Calabresi ed., 2007).

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て、いわゆる動態的憲法(Living Constitution)の存在を主張する立場が

ある。それは、社会のニーズに合わせるために、憲法が時代とともに変

遷するというものである。しかしながら、それはコモンローのリターン

となり、民主的に採用された条文の解釈方法としてふさわしくない。

スカリア判事によると、動態的憲法観は、そもそも社会のニーズに合

わせてさえいないという。スカリア判事はその証左として、Mapp v.

Ohio連邦最高裁判決(23)を挙げる。本件において連邦最高裁は、州が違

法収集証拠を採用してはならないこととした。このため、スカリア判事

によれば、動態的憲法観は社会状況の変化に合わせて政府の権限行使を

認めるどころか、逆に狭めている側面があるというのである。

また、動態的憲法観は、民主主義という点でも、個人の自由の保障と

いう点でも、いずれにおいても失敗している。動態的憲法観によれば、

裁判所が憲法を動態的に捉え解釈によって適宜変更していくとする。そ

の場合、もし、人民が憲法解釈のあり方について、そのような解釈が

誤っていると気付くのであれば、かれらはその見解に合った判事を求め

るだろう。その結果、裁判所が憲法を自由に改正できるのであれば、裁

判所は多数派の望むようにそれを改正することになるはずである。しか

しながら、その反面、それは個人の権利保障の終焉となってしまう。そ

のため、社会が変動しても、我々裁判官は何もすべきではないとスカリ

ア判事は主張するのである。

6 原意主義の類型と原意の確定の問題

もっとも、ドゥオーキン(Ronald Dworkin)は、スカリア判事のよう

な原意主義をとるとしても、意味論的原意主義(semantic originalism)

と期待原意主義(expectation originalism)とを区別した上で議論しなけ

ればならないとする(24)。すなわち、原意主義には、制憲者が言おうと

166

(23)Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643(1961).(24)Ronald Dworkin, Comment, in A MATTER OF INTERPRETATION 115, 119-127(1997).

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したことを解釈する意味論的原意主義と、制憲者が期待したであろうこ

とを解釈する期待原意主義という、2 つの類型があるというのである。

例えば、Brown v. Board of Education連邦最高裁判決(25)を例にとると、

修正14条の制憲者らが人種別学までをも禁止することを考えていなかっ

たことは明白であることから、期待原意主義に従えば修正14条は人種別

学の禁止を考えていなかったことになり、Brown判決は許容されないこ

とになる。一方、意味論的原意主義からすれば、政治道徳の一般原理か

らBrown判決は擁護されることになる。

スカリア判事は、Church of the Holy Trinity判決の事例において、立法

者は司祭や牧師を含むとは考えていなかったであろうという解釈を批判

している。このことからすれば、スカリア判事は、意味論的原意主義を

とるはずであり、自身も意味論的原意主義をとっていると述べている

(26)。

しかしながら、スカリア判事の修正8条の「残虐な刑罰」に関する解

釈は、意味論的原意主義となっていない。スカリア判事によると、「残

虐な刑罰」の意味は制憲者が当時残虐と考えていたかどうかを基にして

判断するとしていることから、期待原意主義をとっているといえる。ま

た、スカリア判事によれば、一般的道徳原理を読み込む意味論的原意主

義は、判事に広範な裁量を与えることとなり、その結果連邦最高裁の人

事を政治化させ、多数派の意思によって形成されがちになり、人民に大

きな力をもたせすぎることになり、その結果個人の権利が危険になると

して、必ずしも意味論的原意主義を貫徹していない。

これについてトライブ(Laurence H. Tribe)も、スカリア判事が期待

原意解釈をとっていることを批判する(27)。トライブによると、制定者

連邦最高裁裁判官と法解釈 167

(25)Brown v. Board of Education, 347 U.S. 483(1954).(26)Antonin Scalia, Response, in A MATTER OF INTERPRETATION 129, 144(1997).(27)Laurence H. Tribe, Comment, in A MATTER OF INTERPRETATION 65(1997).

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は、限定的かつ一時的なものではなく、広範かつ抽象的な原理を意図し

ているのであり、ドゥオーキン同様、抽象的な原理と、具体的な準則と

いう方法を用いて憲法を解釈することになるという。しかしながら、ト

ライブは、抽象的または一般的解釈に該当する憲法条文が明らかでない

点や、実際に特定の集団の意図が通時的に固定されているようには考え

られないとし、ドゥオーキンの議論にも疑問を呈する。そもそも憲法規

定が何を要請しているのかをどうやって判断するのか不明であり、さら

にいえば、憲法規定に存在しないルールをどのように説明するかも困難

な作業である。こうした問題は、次節で述べるような疑問とつながって

いく。

7 整理と問題点

ここまで、スカリア判事の法解釈観を述べてきたわけであるが、最後

にスカリア判事の法解釈観を簡潔にまとめ、問題点を挙げてみることに

しよう。

スカリア判事によると、アメリカのように、制定法システムとコモン

ローが混在する国においては、両者を調和させる必要がある。その場合、

法律の解釈が重要な局面となり、民主主義に合致するような裁判官の法

解釈方法を模索しなければならない。そうなると、裁判官が自身の判断

を押し付けるコモンロー的な裁判官像では民主主義と調和できないた

め、法律の条文に忠実な解釈が最も適切な方法となる。もっとも、スカ

リア判事の唱える条文主義は、単に条文を字義通り(plain meaning)解

釈すればよいというものではなく、条文の文脈から客観的意味を導き出

すという方法である(28)。一方、憲法については抽象的規定という特殊

性から原意主義が最も適切な方法となる。時代の変化に合わせて憲法を

対応させていくのではなく、憲法の原意に則って解釈することが民主的

な憲法解釈となるのである。

こうしたスカリア判事の見解は、憲法起草者の1人であるハミルトン

168

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(Alexander Hamilton)の考え方に類似していると指摘される(29)。とりわ

け、裁判官の法解釈について、ハミルトンはフェデラリスト第78編にお

いて「それが、もし裁判所が判断のかわりに意思を行使するとなると、

結果において、立法機関の選択にかえて自己の選択を行うことになる

(30)。」と述べ、裁判官が自らの意思によって都合のいいように法律を解

釈することに警鐘を鳴らしているからである。

それでは、憲法起草者の原意にも適っているようにみえるスカリア判

事の法解釈観には問題がないかというと、そうではなく、むしろ様々な

疑問が浮かぶ。以下、前提的問題から内容やロジックに関する問題まで

取り上げてみることにしよう。

まず、条文主義および原意主義の前提を問う問題がある。条文主義に

ついては、解釈という作業自体、解釈者の主観的意図が作用してこそ成

り立つものであることから、そもそも条文解釈という方法自体困難なの

ではないかという疑問である。人の判断は、ほとんど経験則に基づいて

なされるのであって、条文に忠実に解釈しているつもりであっても、結

果としてそうなっていないことがありうる。つまり、実際問題として、

条文主義という方法は完全な形で存在しえないのではないかという疑問

が浮かぶのである。これに対して、条文主義は文脈に照らした合理的判

断に基づくものであるから、そこまで条文への忠実性を求めるものでは

連邦最高裁裁判官と法解釈 169

(28)William N. Eskridge, The New Textualism, 37 UCLA L. REV. 621(1990). エスク

リッジ(William N. Eskridge)は、このようなスカリア判事の条文主義を従来の

条文主義と異なるとした上で、「新条文主義」とみなしている。エスクリッジに

よると、条文主義は当初文字通りの解釈という意味合いを持っていたが、それが

あまりに硬直すぎて柔軟な対応に欠けるという問題から、「緩やかな字義主義」

(soft plain meaning)に転換し、それが立法者意図を考慮するようになってきたこ

とを批判する流れの中で、スカリア判事の新条文主義が登場したという。(29)JAMES B. STAAB, THE POLITICAL THOUGHT OF JUSTICE ANTONIN SCALIA: A

HAMILTONIAN ON THE SUPREME COURT xxiv-xxxi(2006).(30)斎藤眞・中野勝郎『ザ・フェデラリスト』346頁(岩波書店、1999年)。

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ないという反論が考えられる(31)。

原意主義については、そもそも原意を確定すること自体困難なのでは

ないかという問題がある(32)。すなわち、①憲法制定者とは誰なのか、

②起草者意図とは集団か個人か、③集団の意図を確定できるか、④抽象

的な条文であれば裁判官の裁量を拘束しないのではないか、などの問題

が存在するのである(33)。これに対しては、原意確定への技術上の問題

であることから修正可能であり、原意を確定できなくてもその場合は民

主的決定を尊重すれば解決する話であるというような回答が考えられる

(34)。

では、仮にこういった前提問題をクリアできるとした上で、つぎに内

容面の問題に入っていこう。

まず、スカリア判事の議論は、民主主義を中心とした原理面との調和

に重点を置いているため、現実面の問題が十分考慮されていないという

欠点が目につく。つまり、条文だけでは現実の問題を解決できない場面

への対応策がみえてこないのである(35)。これに対するスカリア判事の

回答は、原意主義と非原意主義の欠点を比べた場合、「原意主義の方が

まし」(lesser evil)だからである(36)。憲法は、現在の価値の反映を保障

したわけではなく、憲法の保障する基本的価値(original value)が変更

170

(31)Tom Levinson, Confrontation, Fidelity, Transformation: “Fundamentalist” Judicial

Persona of Justice Antonin Scalia, 26 PACE L. REV. 445, 448(2006). 「スカリアはテ

クスト絶対主義者ではない」。(32)阪口正二郎『立憲主義と民主主義』33-70頁(日本評論社、2001年)。なお、

原意主義については、猪股弘貴『憲法論の再構築』(信山社、2000年)参照。(33)大河内美紀「憲法解釈における「原意主義」――合衆国憲法修正九条解釈を

素材として――(一)」法政論集189号218-219頁(2001年)参照。(34)野坂泰司「憲法解釈における原意主義(下)」ジュリスト927号83頁(1989

年)。(35)David Sosa, The Unintentional Fallacy A Matter of Interpretation, 86 CALIF. L. REV.

919, 920(1998)(book review).(36)Antonin Scalia, Originalism: The Lesser Evil, 57 CHI. L. REV. 849, 862-863(1989).

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されないようにしたものである。原意主義はまさにこうした憲法価値の

実現を目指すものであり、たとえ現実に対応していないとしても、これ

を変えてしまう非原意主義より害が少ないというのである。

しかしながら、エスクリッジは、スカリア判事が民主政との調和に重

点を置いているものの、その結果は、必ずしも民主的対応を行っている

ことになっていないのではないかという疑義を呈する(37)。裁判官が法

解釈を行うにあたって民主的な調和を目指すのであれば、立法府と協力

関係を結ぶことで本人たる立法者の意思を反映し、より民主的となるの

ではないだろうかというのである。たとえば、ホテルの支配人が従業員

に、「ホテル内のパブリックスペースにある灰皿を全部回収してきなさ

い」と命令したとする。そのとき、エレベーターの前に、金具で取り付

けてある金属製の灰皿があったとしたら、それをも回収してこなければ

ならないだろうか。プラグマティックな判断のできる従業員であれば、

この命令には取り外し可能な灰皿を対象としていると判断してこれを回

収しようとはしないだろうし、支配人もそう考えているはずである。だ

が、Church of the Holy Trinity判決の解釈方法を見る限り、スカリアン的

解釈者はこれをも回収する可能性がある。果たして、このようなやり方

が本人たる立法者の意思を反映し、民主的方法となっているといえるだ

ろうかと疑問を抱くのである。

また、サンスティン(Cass R. Sunstein)も、こうしたスカリアン解釈の非

現実性を指摘する。サンスティンは、解釈方法の選択の問題は政治的理

論の一種であるとし、その理論がもたらす結果を考慮した上で、より適

切な解釈手法を模索すべきであるとする(38)。スカリア判事は憲法典か

ら原意主義という解釈手法を導き出すが、憲法典自体は原意主義どころ

連邦最高裁裁判官と法解釈 171

(37)William N. Eskridge, Jr., Textualism, the Unknown Ideal? A Matter of Interpretation:

Federal Courts and the Law, 96MICH. L. REV. 1509, 1548-1550(1998)(book review).(38)Cass R. Sunstein, Justice Scalia’s Democratic Formalism, 107 YALE L.J. 529, 563-

564(1997)(book review).

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か、いかなる解釈方法をとるべきかについて何も規定していない(39)。

解釈方法は憲法典から導出されるものではなく、政治理論の一種である。

これを踏まえた上で、原意主義を説くのであれば、それはそれで 1つの

議論として成り立ちうる。しかし、原意主義の難点として、それがもた

らす帰結がこれまで司法の築き上げてきた伝統と調和しないという問題

がある。とくに、人権保障においてそれが多く、Brown判決も否定され

ることになってしまう。スカリア判事は、解釈手法の問題は中立的なも

のであり、その結果まで含意するものではないというが、解釈方法とそ

の結果得られるものとの関連性は看過できない。というのも、裁判官の

恣意性を排除しつつも、立憲主義の伝統と調和しうる解釈手法があるか

もしれないからである。

さらに、こうした原意主義に対する批判に加えて、そもそもスカリア

判事は原意主義者を名のるのにふさわしくないという批判もある。たし

かに、スカリア判事は、自らを「臆病者の原意主義者」(faint-hearted

originalist)と呼び、時として原意主義の仮面を脱ぎ捨てて、やや都合の

良い解釈手法を用いることがある(40)。バーネット(Randy E. Barnett)

によれば、スカリア判事は、①法の支配に合致しない原意を無視するこ

と、②原意主義によって好ましくない結果が生じる場合に非原意主義者

の設定した先例を利用すること、③先例を利用できない場合に原意主義

を放棄すること、があるとする(41)。そして、そのような態度は原意主

義者として認めることはできないというのである。

172

(39)David M. Zlotnick, Justice Scalia and His Crisis: An Exploration of Scalia’s Fidelity

to His Constitutional Methodology, 48 EMORY L.J. 1377, 1382-1383(1999). このため、

スカリア判事の解釈論自体、憲法典の外(outside the Constitution)にあると指摘

される。(40)Scalia, supra note 36, at 864.(41)Randy E. Barnett, Scalia’s Infidelity: A Critique of “Faint-Hearted” Originalism”,

75 U. CHI. L. REV. 7, 13(2006).

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このように、スカリアン解釈については、原意の確定という前提的問

題、現実性の問題等の原意主義に内在する諸問題、原意主義の問題より

もスカリア自身の解釈手法の問題、など様々な課題が山積しているとい

える。それでもなお、スカリア判事が条文に忠実であろうとする姿勢を

崩さないのはなぜだろうか。それには、スカリア判事が繰り返し強調し

てきた立憲主義または民主主義の堅持という信念が深く根をはっている

からであるように思われる。これについては、次のブライヤー判事の考

察を踏まえた上で、Ⅲで検討することにしよう。

Ⅱ ブライヤー判事の法解釈観

以上、スカリア判事の法解釈・憲法解釈観の整理し、その問題点につ

いて簡単に指摘した。次にブライヤー判事の法解釈観、とりわけ憲法解

釈観についてみていくことにしよう。

ブライヤー判事の憲法解釈観は、2005年の著書『積極的自由――我ら

の民主的憲法の解釈』(ACTIVE LIBERTY: INTERPRETING OUR DEMOCRATIC

CONSTITUTION)において示されている(42)。同書は、三部構成となってお

り、第一部ではブライヤーの解釈の基本姿勢を提示し、第二部では、そ

れを様々な分野(表現の自由、連邦主義、プライバシー、アファーマ

ティブアクション、制定法解釈、行政法)に適用してみせている。そし

て第三部では、スカリア判事の法解釈を念頭に置きながら、原意主義、

条文主義批判を展開している。以下では『積極的自由』を中心にブライ

ヤー判事の憲法解釈手法をみていくことにしたい。

連邦最高裁裁判官と法解釈 173

(42)STEPHEN BREYER, ACTIVE LIBERTY: INTERPRETING OUR DEMOCRATIC CONSTITUTION

(2005).

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1 ブライヤー判事の問題意識――積極的自由の重要性

かつてフランスの政治哲学者で作家でもあるコンスタン(Benjamin

Constant)は、公権力・集合的決定への参加の自由を意味する「古代人

の自由(the liberty of the ancients)」と、公権力からの介入を受けずに私

益を追求する自由を意味する「近代人の自由(the liberty of the moderns)」

を区別し、両者の適切な調和の必要性を説いた(43)。

ブライヤー判事は、コンスタンのこの区別を前提に、「近代人の自由」

の重要性を十分に認識しつつも、近年の最高裁で過小評価されている(44)

「古代人の自由」-ブライヤー判事の言葉を借りれば「積極的自由

(active liberty)」-の重要性を強調する。ブライヤー判事のいう「積極

的自由」とは、人々が主権を有し、そしてその主権が政府の諸活動に正

統性を与えることによって、人々と正統性の間に結びつきを生じさせる

ような自由を指す(45)。ブライヤー判事は、「憲法は積極的自由、民主的

な自己統治へ個人が参加する権利を中心に焦点を当てるものである(46)」

ととらえ、「裁判所が憲法や法律のテクストを解釈する際には、憲法の

民主的性格をより考慮に入れるべきである(47)」とし、そうすることが

174

(43)バンジャミン・コンスタン(大石明夫訳)「近代人の自由と比較された古代

人の自由について――1819年、パリ王立アテネ学院における講演」中京法学第33

巻第 3・ 4 号合併号167頁(1999年)。もっともコンスタンは、現代の自由と古代

の自由が衝突する場合、究極的には現代の自由が優位するとしている点に注意が

必要である。(44)BREYER, supra note 42, at 10.(45)この積極的自由は、人々の統治への参加とそれに必要となる情報や教育を有

すべきことを含意する。Id. at 15-16. また、コンスタンが「古代人の自由」とい

うとき、それはルソー(Jean-Jacques Rousseau)らフランス革命期の理論を念頭

に置いているのであり、バーリン(Isaiah Berlin)のいうところの「積極的自由

(positive Liberty)」とは異なるとして、ブライヤー判事によるコンスタンの「古

代人の自由」理解を批判するものとして、see Richard A. Posner, Justice Breyer

Throws Down the Gauntlet, 115 YALE L.J. 1699, 1700-1702(2006)(book review).(46)Id. at 21.(47)Id. at 5.

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「よりよい法をもたらす(48)」とする。この点こそがブライヤー判事の議

論の出発点であり大前提である。

さて、ブライヤー判事は、この前提を擁護するにあたり、規範的議論

や哲学的根拠づけではなく、歴史に依拠した正当化を試みている(49)。

歴史家であるウッド(Gordon Wood)やバーリン(Bernard Bailyn)らの

議論を参照しつつ、憲法制定史、権限の集中を避けようとする憲法の構

造を簡単に概観したうえでブライヤー判事は、「もともとの憲法の主張

な目的」は、「積極的自由を促進させること」、そして「すべての市民が

政府の権限を共有し、公共政策の決定に参加するような形態の政府を創

設する」ことにあるとするのである(50)。

2 ブライヤー判事の議論の特徴

ここで、ブライヤー判事が『積極的自由』において、憲法解釈の「一

般理論(general theory)」の提示を試みようとしているのではない..点に

留意が必要である(51)。ブライヤー判事によれば、法解釈という作業に

従事するに当たり、多くの裁判官は「似たような道具(similar basic

tools)」―テクストや歴史、伝統、先例、目的や結果―を利用しており、

これらの諸要素が法解釈にとって有益であることについては多くの裁判

官が同意する。しかし、これらの諸要素のうち、何をどの程度強調して

連邦最高裁裁判官と法解釈 175

(48)Id. at 6.(49)「歴史的観点から見て、憲法を積極的自由、そして民主的な自己統治に参加す

る個人の権利を中心に焦点を当てるものと捉えることは筋が通っているだろう

か。私はそう信じる」Id. at 21. See also Michael W. McConnell, Active Liberty: A

Progressive Alternative to Textualism and Originalism? 119 HARV. L. REV. 2387, 2390-

2392(2006)(book review).(50)BREYER, supra note 42, at 32-33. (51)ブライヤー判事は、自身の議論は「理論( theory)」ではなく、「強調

(emphasis)」、「態度(attitude)」、「接近方法(approach)」について論じるもので

あると述べている。Id. at 7, 110.

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法解釈を行うのかという点については激しい対立が存する。そうした理

解を前提にしてブライヤー判事は、「積極的自由」という憲法の目的に

照らして憲法を解釈するということがいかなる作業であるのかというこ

と、換言すれば、「民主的なテーマ、すなわち、積極的自由を憲法全体

に共鳴させること」を目的としているのである(52)。

それでは、憲法解釈において憲法の目的である「積極的自由」を強調

するというブライヤー判事の憲法解釈とはいかなるものなのだろうか。

3 憲法の民主的性格と司法の謙抑

まず、憲法の民主的性格を強調するということは、司法の謙抑を意味

する(53)。ブライヤー判事は、司法の謙抑の根拠として、議会に比べて

裁判所は、どのような法律が望ましいかにつき調査する能力に欠けると

いう技術的事情と、市民が自分たちの見解を法として実現する権利とい

う民主的事情の 2 つを挙げ、「積極的自由の原理――民主的自己決定の

余地を残す必要――は、憲法判断についての司法の謙抑(54)」を要請す

るというのである(55)。

さて、このようなブライヤー判事の司法謙抑の主張は、司法消極主義

を強力に主張したフランクファータ(Felix Frankfurter)やロバート・

ボーク(Robert Bork)の議論に通じる一面がある。しかし、「積極的自

由」を憲法解釈の際に強調するということは、司法の謙抑を意味するだ

けにとどまらない(56)。「積極的自由」は、ときに憲法解釈における裁判

官の積極的介入を要請するからである。そしてこの点こそが、ブライ

ヤー判事の議論と、フランクファータやボークのような司法消極主義者

176

(52)Id. at 6-8.(53)Id. at 5-6, 17.(54)Id. at 37.(55)Id. at 17.(56)Id. at 6, 37.

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の議論との分岐点がある。ボークらは、司法の民主的正統性の欠如とい

う制度的欠陥から、司法審査に対する制度的拘束をかけようとするのに

対して、ブライヤー判事の議論は、司法が介入することが民主的な自己

統治を促進させるか否かという観点から、「民主的自己決定の余地」を

残すために、司法消極主義を説いているのであり、場合によっては司法

の積極的介入を要請するからである(57)。

4 テクストと目的――制定法解釈を例に

第 2 に、「積極的自由」を強調するという憲法解釈手法は、テクスト

そのものを重視するのではなく、その「目的(purpose)」を重要視する

ことを意味する(58)。この点につきブライヤー判事は、制定法解釈を例

に説明している(59)。

法解釈上の対立は、条文のテクストから一義的な回答を導き出すこと

ができない場合に生じる。裁判官は、法解釈を行う際には、まずテクス

ト、構造、歴史から法の目的を決定し、そのうえで法解釈を行うのが通

常であるが、ハードケースの場合、テクスト、構造、歴史、目的という

要素のうち、いずれを重視するかで対立する(60)。

有力な解釈アプローチである条文主義は、テクストを最重要視するこ

とで裁判官の見解が議会の見解にとってかわる危険を防ごうとする解釈

手法である(61)。これに対して、「合理的な議会・立法者であれば、どの

ように考えたか」を問い、それを実現するような形での法解釈を行うと

いう目的的解釈手法がある(62)。そこで法解釈においてどちらの解釈が

連邦最高裁裁判官と法解釈 177

(57)Paul Gewirtz, The Pragmatic Passion of Stephen Breyer, 115 YALE L. J. 1675, 1679-

1681(2006)(book review).(58)BREYER, supra note 42, at 17.(59)Id. at 85-101.(60)Id. at 86.(61)Id. at 86-87.(62)Id. at 87-88. この目的を明らかにするために、「論理的に関連するものは考慮

から除かれるべきではない」。

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望ましいものであるかが問題となるが、ブライヤー判事は、両アプロー

チを具体的事例に当てはめてみると、条文主義解釈の場合、立法者が予

期しない結論を強いることになるとして、後者のアプローチのほうが望

ましいとする(63)。ブライヤー判事によれば、代表民主制のもとで制定

される法律は、直接にしろ間接にしろ、人々の意思を体現するものであ

るから、法解釈の際に議会の意思、すなわち法制定の目的を重視すると

いうことは、ひいては人々の意思を重視することを意味し....................

、憲法の民主

的目的に奉仕する。それゆえ、憲法の民主的な目的を達成するためには、

「合理的な立法者」を想定した目的的アプローチのほうが望ましいアプ

ローチである(64)。

そしてこの目的に焦点を当てるという解釈は、法解釈だけでなく、憲

法においても妥当な解釈手法である。ブライヤー判事いわく、「目的に

焦点を当てるということは、制定法と同様に憲法においても、人々の意

思と一致する解釈を主張することによって、積極的自由の促進を得よう

とするものである(65)」。

5 解釈がもたらす結果の考慮――成文主義との比較

第 3に、憲法の民主的目的を強調する憲法解釈は、その解釈によって

生じる「結果(consequences)」に敏感であることを要請する(66)。解釈

が民主的目的にどの程度仕えるものであったかを図る物差しとして、

「結果」は重要となるからである(67)。

このように、結果に配慮して妥当な結論を導こうとするブライヤー判

178

(63)具体例については、Id. at 88-98. (64)Id. at 85, 98-101.(65)Id. at 115. このようにブライヤー判事は、スカリア判事と異なり、法解釈と憲

法解釈を連続したものとしてとらえていることがわかる。(66)Id. at 18.(67)Id. at 115.

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事の解釈は、「プラグマティスト」としてのブライヤー判事らしい解釈

であるといえる。しかし同時に、プラグマティックな解釈に対して寄せ

られる批判に答えなければならない。その批判とは、「裁判官が自分の

望む結論を押しつけることとなり、ひいては法の不安定状態を招来する」

という、主として条文主義、原意主義の立場(ブライヤー判事は両者を

合わせて「成文主義(literalism)としているので、以下ではその用法に

従う。)から寄せられる批判である(68)。この予想される批判に対するブ

ライヤー判事の反論は次のとおりである。

まず第 1に、成文主義の方法論そのものに対する批判である。憲法制

定者、あるいは法律制定者自身、どのような要素をもとに法を解釈すべ

きかについてなにも述べていない。むしろ修正 9条を見ると、解釈者の

解釈の余地を認めているように読める(69)。そうすると、成文主義を貫

くためには、司法の独善を防ぐというプラグマティックな帰結主義的正

当化をしなければならないが、帰結主義的正当化自体、成文主義が批判

する立場のはずである(70)。

第 2に、成文主義解釈を採用しないことがただちに裁判官の主観的判

断に陥る、ということにはならない。ブライヤー判事の解釈態度は「結

果」を重視するものであるが、あまりにも先例とかけ離れた判決を頻発

したり、先例に対する配慮を欠いた判決を下したりした場合、「結果と

連邦最高裁裁判官と法解釈 179

(68)これは、明らかにスカリア判事の法解釈を念頭においている。Cass R.

Sunstein, Justice Breyer’s Democratic Pragmatism, 115 YALE L.J. 1719, 1732-1736

(2006)(book review). なお、原意主義はスカリア判事の専売特許ではなく、さま

ざまなヴァリエーションが存在しているにも関わらず、ブライヤー判事はスカリ

アン的解釈のみを対象にしているという指摘について、see, James E. Ryan, Does

It Take a Theory? Originalism, Active Liberty, and Minimalism, 58 STAN. L. REV. 1623

(2006)(book review), McConnell, supra note 49, at 2412-2413.(69)修正 9 条を、いわゆる新しい権利の根拠とすべきであるとする議論として、see, e.g., DANIEL A. FARBER, RETAINED BY THE PEOPLE: THE “SILENT” NINTH AMENDMENT

AND THE CONSTITUTIONAL RIGHTS AMERICANS DON’T KNOW THEY HAVE(2007).(70)BREYER, supra note 42, at 117-118.

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して」法的安定性や予測可能性、法に対する信頼性といった価値を損な

わせる危険性があるので、そうした事態を避けることが「結果から見て」

要請される。また、「結果」といっても、それは「憲法の目的」、すわな

ち、積極的自由の促進という視点から見た「結果」であり、裁判官の主

観から見て望ましい結果とは異なるが故に、主観的判断の余地も減少さ

れる。つまり、「結果」に焦点を当てること自体が、裁判官の主観的判

断に対する制約になる(71)。

第 3 に、成文主義もまた主観的であるという批判を免れない。歴史、

伝統、文言等、どれに重点を置いて解釈するか、またどの歴史、文言を

重視するかで判断の結果が変化するという意味で、成文主義に対しても

「主観的」という批判が妥当する。これに対しブライヤー判事の解釈態

度は、「憲法の民主的目的」に奉仕するものであるか否かという、明確

な観点から結果を判断するのであるから、その判断の是非について公衆

の批判が喚起され、それが司法の独善を防ぐ安全弁となる。

第 4に、成文主義的解釈が、ブライヤー判事の解釈手法に比べて、よ

り明確な法的ルールを提供するものであるとは言えないし、仮に提供す

るものであるとしても、その効用は誇張されすぎている(72)。

第 5に、成文主義の解釈は、解釈の主観性や法の不安定といった問題

よりも、より困難な問題を生じさせる。その問題とは、詳しくは後述す

るが、簡単にいえば、成文主義解釈の「結果」が、憲法の民主的目的を

損なわせるという問題である(73)。成文主義的解釈が憲法の目的を損な

180

(71)Id. at 118-124.(72)Id. at 127-129.(73)「『主観を制限する』という利点を成文主義、文言主義、原意主義が有してい

るとしても(私はそうした利点は少ないと考えるが)、それらの解釈は、結果と

して生じる重大な害を伴うものである」。Id. at 29-131. サンスティンも、原意主

義に依拠する場合には、州は避妊具の販売の禁止、公的な教会の設立、プライバ

シー権の否定などが論理的には帰結されると指摘している。Sunstein, supra note

38. see also CASS R. SUNSTEIN, RADICALS IN ROBES; WHY EXTREME RIGHT-WING COURTS

ARE WRONG FOR AMERICA(2005).

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わせるとすれば、その解釈手法は、最も根本的な制定者の「原意」と矛

盾する(74)。

6 具体的適用

以上みたように、「積極的自由」を強調した憲法解釈というブライ

ヤー判事の解釈は、①司法の謙抑、②法解釈は当該法の「目的」を中心

に解釈されるべき、③法解釈は解釈がもたらす結果に配慮したものであ

るべき、という 3つの主張をその内容としているのであるが、これら 3

つの主張がどのようにかかわりあい、解釈がなされるのだろうか。この

点、上述した通り、ブライヤー判事の議論は憲法解釈の「一般理論」を

提示するものではない。そこでブライヤー判事は、「積極的自由」を強

調するという解釈態度がいかなるものであるかを、具体的な問題に適用

することを通じて提示して見せている。

例えば表現の自由についてブライヤー判事は、民主的決定の余地の確

保と健全な民主主義の保障とのバランスを図るにあたって、「積極的自

由」を参照することが重要となるという。すなわち、「積極的自由」は、

問題となる法律が、公共討論の形成に直接関係する言論を制約する場合

に危険にさらされることから、そうした法律に対しては厳格な審査が要

求される一方で、商業的、経済的表現の規制は、積極的自由に対するリ

スクは生じない。むしろ、それら表現に保護の推定や厳格審査を適用す

ることは、民主的決定であるところの立法の幅を狭めることになるので、

厳格審査は要求されない。つまり、「積極的自由」の観点から修正1条を

解釈するということは、カテゴリカルな審査を正当化するだけでなく、

領域、文脈、言論の仕方に応じた審査基準を採用することを要請するの

である(75)。

プライバシーについても、積極的自由という参加民主主義(paticipatory

連邦最高裁裁判官と法解釈 181

(74)Id. at 132.

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democracy)的観点からの考察すると、司法の介入により全国民的な対

話の機会が奪われることのないようにとの配慮、司法が判断を行う際に

も、技術革新によって生じる将来の法的状況の不確定さを踏まえ、裁判

所の法的判断が広い射程を有し、後の全国民的な対話、議会の判断を拘

束することのないよう配慮が要請される(76)。

また、アファーマティブ・アクションを積極的自由の観点から見た場

合、憲法上許容される場合がある。このことは、この領域のリーディン

グケースであるミシガン大学ロースクールにおける人種をもとにしたクォー

タ制の合憲性が問題となったGrutter v. Bollinger連邦最高裁判決(77)で示

されている。Grutter判決は、ミシガン大学の入学方針を「厳格に」審査

し、それが「どうしても必要である(compelling)」であると判示したが、

それは、法廷意見を執筆したオコナー(Sandra Day O’Conner)判事が、

グローバル化する社会環境において参加民主主義をよりよく機能させる

ためには、アファーマティブ・アクションが有益であると考えたからで

ある(78)。

積極的自由を強調するということは行政法にも関係してくる。政府を

民主的に統制することは重要であるが、現代国家においては、行政の迅

速な行動、専門的・技術的判断も求められている。この点について重要

な判決が、Chevron USA v. Natural Resources Defense Council連邦最高裁

182

(75)BREYER, supra note 42, at 39-43, 55. なお、このことを政治資金規制の文脈に当

てはめると次のようになる。「積極的自由」の観点から見た修正 1 条は、公共討

論を維持・促進し、すべての市民がその過程に参加することを要請する。この観

点から政治資金規制を考えると、規制が存在しない場合、資力のある者のみの政

治的影響力、発言力が増大する。そうすると、公衆の政治システムに対する信頼

が損なわれ、政治過程への参加に消極的になる。それゆえ、政治資金規制は、こ

の可能性を減少させ、「積極的自由」の目的を促進させるものとして、肯定的に

評価することができる。Id. at 43-50.(76)Id. at 66-74.(77)Grutter v. Bollinger, 539 U.S. 306(2006).(78)BREYER, supra note 42, at 75-84.

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判決(79)である。Chevron判決は、法律があいまいな場合、その法律を解

釈する裁判所は、執行府の解釈が合理的であればその解釈を尊重すると

いう法理を確立させた重要判決であり、①実際的理由として、行政のほ

うが、専門的知識、法執行能力に長けており、議会の法制定目的に合致

したかたちでよりよく法を解釈できる立場にあること、②民主的理由と

して、合理的な議会ならば、行政側のほうが関連する専門知識を有して

いることを認識しているので、行政の解釈への敬譲を司法に要求するは

ずであるという 2つの根拠を提示している。この根拠からすれば、合理

的な議会であれば議会が議会自身で決定したいと欲するような問題につ

いては、執行府の解釈に敬譲すべきではないということになる。そして

このようにChevron法理を理解することで、法律をより民主的な仕方で

解釈することが可能となる(80)。

7 整理と問題点

以上みてきたように、「積極的自由」を強調して憲法を解釈するとい

うブライヤー判事の解釈は、①司法の謙抑が要請されるという主張、②

法解釈は、当該法の「目的」を中心に解釈されるべきであるという主張、

③法解釈は、解釈がもたらす結果に配慮したものであるべきという主張

を、その内容としている。そしてブライヤー判事の主張は、この相互に

独立、対立しているかのようにも思える 3つの主張を統合しようとする

点で、―成功しているか否かは別として―野心的な試みであると評され

ている(81)。

さて、このブライヤー判事の憲法解釈に対する姿勢が、――その具体

的適用の帰結が示しているように――リベラルなものであることは明ら

連邦最高裁裁判官と法解釈 183

(79)Chevron USA v. Natural Resources Defense Council, Inc., 467 U.S. 837(1984).(80)BREYER, supra note 42, at 102-108.(81)Sunstein, supra note 68, at 1721.

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かであろう。このことは、ブライヤー判事がウォーレン長官(Earl

Warren)率いるウォーレンコートを、「南北戦争の結果である憲法修正

(修正14条のこと――引用者)を、その基本的目的に照らして解釈する

ことで、アフリカ系アメリカ人が自己統治の主体であるところの市民の

コミュニティ……の正規メンバーと位置付けることを直接手助け」する

ことで、「積極的自由」を強調した時期であると評価する一方で、レー

ンキストコートについては、積極的自由の重要性を過小評価していると

の感想を漏らしていることからも伺える(82)。

それではブライヤー判事の憲法解釈手法は、従来さかんに議論されて

きた憲法解釈理論との関係、とりわけリベラルな憲法解釈理論との関係

で、どのように位置づけることができるだろうか。

この点、上述したように、憲法が実現を図ろうとしている「積極的自

由」を強調するというブライヤー判事の憲法解釈手法は、①司法謙抑、

②法の「目的」の重視、③法の目的を達成する「結果」の達成、という

3つの主張が含まれるが、マッコネル(Michael W. McConnell)によれば、

①司法の謙抑の要請は、ブライヤー判事の憲法解釈と、ドゥオーキンに

代表されるような「動態的憲法」的な解釈とを区別する指標となり、②

と③の主張は、ブライヤー判事の憲法解釈と文言主義、原意主義とを区

別する指標となるという(83)。ブライヤー判事の解釈は、ウォーレン

コート期のリベラルな諸判決にシンパシーを感じながらも、それが裁判

官の価値判断によって創造されたものと理解するのではなく、「積極的

自由」を媒介とさせることで、司法の謙抑という伝統的司法像を維持し

ながらも正当化可能であることを示す試みであるともいえよう(84)。

他方、ブライヤー判事の解釈は、司法審査の役割を民主過程の維持に

184

(82)Id. at 11-12.(83)McConnell, supra note 49, at 2397-2398. (84)BREYER, supra note 42, at 19-20.

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限定した「代表補強(representation-reinforcing)理論」ないし「プロセ

ス理論」の提唱者であるイリィ(John H. Ely)の議論(85)と類似すると

指摘されている(86)。もっともイリィとは異なり、ブライヤー判事は民

主過程における政治参加のプロセスが機能不全を起こしている場合のみ

ならず、政治参加そのものを促進させるための司法の介入(「目的」や

「結果」に基づく介入)を広く容認していること、換言すれば、手続き

だけでなく実体に着目した司法の介入を認めている点で、イリィとは異

なるように思われる。

こうしてみると、ブライヤー判事の解釈は、さまざまな憲法解釈理論

の欠点を踏まえたうえで「いいとこどり」をしているようにも見えてく

るのであるが(87)、問題は、それが成功しているか否かである。そこで

次にこの点について検討することにしよう。

ブライヤー判事の議論に対する批判としては、まず、憲法は「積極的

自由」の体現を目的とした文書であるという、ブライヤー判事の議論の

出発点となる前提に向けられる。上述したようにブライヤー判事は、規

範的にではなく歴史的観点からこの前提の正当化を図っているが、歴史

を重視する原意主義を批判する議論を原意主義的に正当化しようとする

連邦最高裁裁判官と法解釈 185

(85)JOHN HART ELY, DEMOCRACY AND DISTRUST: A THEORY OF JUDICIAL REVIEW(1980).

邦訳として、ジョン・H・イリィ(佐藤幸治・松井茂記訳)『民主主義と司法審

査』(成文堂、1990年)。イリィのプロセス理論の批判・問題点については、阪

口・前掲注(32)132‐145頁等を参照。(86)See, e.g., Posner, supra note 45, at 1702; MoConnell, supra note 49, at 2413; Book

Note, Conversation, Representation, and Allocation: Justice Breyer’s Active Liberty, 81

N.Y.U.L. REV. 1505, 1511(2006). なお『積極的自由』では、イリィに言及するの

は脚注で一度のみであり(BREYER, supra note 42, at 146 n. 14.)、サンスティンは

「ブライヤー判事の著作における困惑的な欠陥は、明らかに類似した議論を展開し

ているイリィの議論を省略している点である」と述べている。Sunstein, supra note

68, at 1739, Cass R. Sunstein, The Philosopher-Justice, New Republic, Sep. 12, 2005.(87)ポズナーは、ブライヤーをbricoleurと呼んでいる。Posner, supra note 45, at

1715-1716.

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論法そのものに対する批判(88)に加え、その歴史理解にも向けられる。

例えば、合衆国憲法の制定はイギリスからの独立後に生じた、「邦」憲

法のもとでの行き過ぎた民主主義による弊害、連合規約(Articles of

Confederation)のもとでの連合会議の弱い権限による弊害に対処すること

を目的としていたことからすれば(89)、必ずしも憲法が市民の政治参加する

「自由」を最重要視していたとはいえないこと、憲法上も、制定当時に

おいては、市民によって直接選出されるのは下院議員(90)のみであった

ことなどからすれば、妥当な理解とはいえないと批判されている(91)。

これら「議論の前提」に対する批判を置いておくにしても、その前提

から導かれる解釈方法に対する批判も寄せられている。まず①司法謙抑

の主張に対する批判から見てみよう。マッコネルが指摘するように、積

極的自由の価値を重視すること、すわわち、民主的決定を尊重すること

と司法謙抑主義とは直接に結びつくものであり説得力があるが、ブライ

ヤー判事の議論においては、いかなる場合に、そしてどの程度司法の謙

抑が求められるのかはっきりしない(92)。確かにブライヤー判事の司法

謙抑主義は、具体的なデータとしても現われており、ある調査によれば、

186

(88)Id. at 1703.(89)合衆国憲法の制定事情と経過については、有賀貞『アメリカ政治史』(福村

出版、1985年)第 2章、M.L.ベネディクト(常本照樹訳)『アメリカ憲法史』(北

海道大学図書刊行会、1994年)第 3章等を参照。(90)憲法 1 条 2 節 2 項。上院議員を直接選出できるようになったのは、1913年の

憲法修正(修正17条)からである。(91)Michael B. Rappaport, Justice Breyer’s Active Liberty(Dec. 19, 2005), available at

<http://www.tcsdaily.com /article.aspx?id =121605G>.(92)McConnell, supra note 49, at 2399-2403. なおこの点について、ブライヤー判事

はある講演で、「憲法は基本となる究極的な基本ルールを提供」するものであり、

最高裁は、民主的決定がこの枠内のものか否かを判断し、その枠内を超えない限

り、民主的決定を尊重するとしているが、問題はその「枠」の設定であろう。Dwight D. Opperman, Remarks of the Honorable Stephen G. Breyer, Associate Justice,

Supreme Court of the United States: Reflections of A Junior Justce, 54 DRAKE L. REV. 7,

12-13(2005).

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ブライヤー判事は議会の制定した法を支持する確率が全判事のなかで最

も高いという(93)。しかし他方で、州が制定した州法については、違憲判

決を下すことに躊躇しないとも指摘されており、はたして連邦法と州法

との区別が妥当なのか、妥当なのだとすればいかなる根拠に基づくもの

なのか、司法の謙抑が要請されるのはいったいいかなる場面なのかにつ

いて、疑問が提起されている(94)。

また、②「目的」を重視するという点についても、批判が寄せられる。

例えば、憲法全体としての目的である積極的自由と、個々の条文に化体

された目的との関係があいまいであるという批判がある(95)。また、実

際の法の制定者の考える目的や意図を重視する(これは原意主義の立場

である)のではなく、想定上の「合理的立法者」の目的や意図を重視す

るという手法についても、何を「合理的」と考えるかについての見解の

一致は存在しないのであるから、結局のところ、とりわけ憲法解釈にお

いては、裁判官が正しいと考える価値を押しつけることと同じではない

かという疑問が生じる(96)。この点についてブライヤー判事は、「関連す

る憲法の価値や目的というレンズを通して」、「結果」としての妥当性を

判断するよう要請するのであるから、裁判官の主観的判断を押しつける

ことにはならないとしているが、その「関連する憲法の価値や目的」自

体が論争的であるのに、その設定を裁判官が行うのであれば、それは裁

連邦最高裁裁判官と法解釈 187

(93)See Jeffrey Toobin, Breyer’s Big Idea: The Justice’s Vision for a Progressive Revival

on the Supreme Court, The New Yorker, Oct. 31, 2005, available at <http://www.

newyorker.com /fact/content/articles/051031fa_fact>; Paul Gewirtz & Chad Golder, So

Who Are the Activist?, N.Y. TIMES, July 6, 2005.(94)See, e.g., Max Huffman, Using All Available Information, 25 Rev. Litig. 501, 509-

510(2006)(book review).(95)Ryan, supra note 68, at 1643-1644.(96)McConnell, supra note 49, at 2403-2408. Sunstein, supra note 68, at 1731-1736,

1739. 制定法に焦点を当てて同旨の批判を展開するものとして、Damien M. Schiff,

Purposivism and The “Reasonable Legislator”: A Review Essay of Justice Stephen

Breyer’s Active Liberty, 33WM. MITCHELL L. REV. 1081(2007)(book review).

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判官の主観的判断を拘束することはならないように思われる(97)。いい

かえると、ブライヤー判事の解釈手法を他の裁判官が採用した場合でも、

全く異なる結論が導かれる可能性が高い(98)。

こうしてみると、ブライヤー判事の議論は、「裁判官の主観性」とい

う問題をクリアしきれていないようにも思われる(99)。しかしブライ

ヤー判事が強調したように、成文主義もまた「裁判官の主観性」の問題

を抱えている。また、成文主義は解釈の対象となる法の意味をその制定

者や文言それ自体に求めるが故に、成文主義的解釈の「結果」に対する

批判を――方法論そのものに対する批判はともかく――封殺することが

できるのに対し、ブライヤー流の解釈の結果の是非は常に公衆に対して

開かれている。すなわち、積極的自由のもとでの解釈が、積極的自由の

行使や公衆の熟議への参加のインセンティブを与えるという正の循環関

係が成り立つのである(100)。このことは、『積極的自由』のエピローグ―

―「積極的自由」を強調し、そうしたかたちで憲法を解釈・適用するこ

とによってもたらされる公共心の涵養、公共討論への積極的参加を強調

している――にも示されている(101)。そうだとすると、ブライヤー判事

188

(97)Posner, supra note 45, at 1706, 1711. この点に関連して、ブライヤー判事と同じ

く、憲法=自己統治の促進を目指す文書と捉えながらも、裁判官が論争的な問題

について道徳的価値判断を行っていることを率直に認め、裁判所の制度的な位置

(テニュアの存在、意見公表のシステム、任命手続き)から、裁判官こそがアメ

リカ人の正義を道徳的理由に基づいて採用し、その正義を実現させるために法理

を創出するという役割をもっともよく果たす制度的位置にあると理解し、条文や

歴史は、その道徳的理由を正当化するためにプラグマティックに利用すべきであ

るとするアイスグルーバー(Christopher L. Eisgruber)の議論が興味深い。

CHRISTOPHER L. EISGRUBER, CONSTITUTIONAL SELF-GOVERNMENT(2001).(98)Gewirtz, supra, note 57, at 1691. また、その判断をなぜ司法が担うべきなのか

についても説得的に論じられていないと指摘するものとして、see, Sanford Levinson,

Trial by Breyer, Austin American-Stateman Sep. 4, 2005.(99)Huffman, supra note 94, at 511.(100)Gewirtz, supra note 57, at 1691-1692. (101)BREYER, supra note 42, at 133-135.

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は次のように答えるかもしれない。――スカリア判事とは逆に――「原

意主義よりはまし」だと。あるいは、『積極的自由』を巡って公的な討

論が誘発されること、それこそがブライヤー判事が望むことなのかもし

れない(102)。

Ⅲ 若干の考察

以上、スカリア判事とブライヤー判事の法解釈、憲法解釈の手法とそ

の問題点を見てきた。再び両者の議論の概要を整理すると、スカリア判

事は、民主主義と調和的な法解釈の方法は、法律の条文を手掛かりにし

て条文から客観的な意味を導き出すという方法であるとし、憲法の解釈

についても、時代の変化に憲法を対応させるのではなく、憲法の原意に

則って解釈することが民主的な憲法解釈であるととらえる。これに対し

ブライヤー判事は、法律や憲法の解釈は、結果的に法律の目的や憲法の

目的を促進させるような仕方で行われるべきであって、そうすることこ

そ憲法の究極的な目的――積極的自由――に合致するととらえている。

アカデミックな領域における憲法解釈方法論は、まさに百花繚乱の様相

を呈しているといえるが、具体的に事件を扱い裁定する裁判官の法解釈、

憲法解釈方法を分析することは、判決の予測可能性を高めるとともに法

的安定性にも仕えるものであるから、その意味で、スカリア判事とブラ

イヤー判事の議論が果たす現実的、実践的な役割は非常に大きいといえ

る。

連邦最高裁裁判官と法解釈 189

(102)『積極的自由』がそうであるように、ブライヤー判事の執筆する判決は、簡

潔かつ法的素養のない素人でも理解できるかたちで書かれている点に特徴がある

(脚注を使用しないのは有名な話である)。また、ブライヤー判事は積極的にテレ

ビ、ラジオに出演したり、様々な講演会に参加し、政治参加の必要性と公衆の政

治的責任を論じているが、これは公的な討論の重要性をブライヤー判事が重く受

け止めており、その責任を果たしているのだという指摘するものとして、see

Gewirtz, supra note 57, at 1693-1698.

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さて、両者の立場に対して、それぞれ様々な角度から様々な批判が寄

せられているということは上述したとおりであるが、ここでは、より根

本的な点、すなわち、以上のような両判事の見解の相違は、何に起因し

たものであるかについて、簡単にではあるが考えてみたい。

この点について、それは憲法忠誠(constitutional fidelity)の問題であ

るという指摘がある(103)。上述したように、スカリア判事が憲法典とい

うテクストに忠誠を誓うのに対し、ブライヤー判事は憲法典の目的に忠

誠を誓っている。つまり、憲法に忠誠を誓おうという点において両者は

変わらないのであるが、その方法が異なっているのである。それではこ

の違いの理由はどこに存するのだろうか。

それは、民主主義の実現という共通のテーマに対する両者の理解の相

違に起因しているように思われる。スカリア判事は、憲法典を遵守し、

条文または原意に忠実であることこそが民主主義を実現することである

と考える。他方、ブライヤー判事は、憲法典の条文や原意ではなく、そ

の目的に忠実であることこそが民主主義を実現できると考える。つまり、

両者は民主主義という同じ原理を達成しようとする点では軌を一にしな

がらも、その方法が異なっているということになる。スカリア判事が民

主主義国家における法の支配が重要であると考えるのに対し、ブライ

ヤー判事は市民の民主的な自己統治のために司法が介入することが必要

であると考えているのである。

このとき、裁判官の果たすべき役割にも違いが生じてくる。スカリア

判事は条文に重きを置いて裁判官が法を忠実に解釈することこそが民主

政における裁判官のあるべき姿であるとする一方、ブライヤー判事は積

極的自由に重きを置いて裁判官が法を合目的的に解釈することこそが裁

判官の求められる姿であるとするのである。換言すると、スカリア判事は、

190

(103)「座談会―合衆国最高裁判所2004-2005年開廷期重要判例概観」アメリカ法

[2005-2](250頁)。

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裁判官の裁量をなるべく統制することが民主政にとって必要であると考

えているのに対し、ブライヤー判事は、裁判官の能力を信頼し民主政の確

保のための介入の役割を積極的に担うことを裁判官に求めるのである。

こうしてみると、その民主主義の実現方法、そこにおいて裁判官が果

たすべき役割についての見解の相違のみならず、そもそも両者の考える

民主主義の概念自体に見解の相違があるといえるだろう。そうであると

すれば、「民主主義とは何か」という大きな問題が横たわっていること

になってくることになる。人民の自己統治に強烈なコミットメントを示

すアメリカにおいて、民主主義という概念自体が正統性の証明を要求さ

れることのない議論の出発点を構成しているとすれば、両判事が同じ概

念を出発点として解釈方法を展開することもうなずけるのであるが、問

題は、民主主義という概念に何を読み込むかということになろう(104)。

終わりに

レーンキスト長官の死去とオコナー判事の退官に伴い、新しい長官と

してロバーツ(John G. Roberts)が、オコナー判事の後任としてアリー

ト(Samuel A. Alito)が最高裁入りした(105)。ロバーツ長官は穏健な保

守派とみなされており、アリート判事もスカリア判事と見解が似ている

ということで「スカリート」などと揶揄されているように保守派に位置

づけられている。ロバーツ長官が50歳という若さで最高裁長官となった

こと、中道派とされていたオコナー判事のかわりに保守派のアリート判

連邦最高裁裁判官と法解釈 191

(104)この点、民主主義の普遍性はすでに世界レベルで広がっており、とくに民

主主義という制度..を司法府が維持する役割を担うようになってきているという指

摘がある。Richard H. Pildes, The Constitutionalization of Democratic Politics, 118

HARV. L. REV. 28(2004).(105)宮田・前掲注( 1 )田島・前掲注( 1 )、浅香吉幹「合衆国最高裁判所2004

年開延期後の最高裁裁判官承認問題」アメリカ法[2005-2](300頁)以下。

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事が最高裁入りしたことで、今後数十年は保守的なコートが続くだろう

といわれている。

もっとも、連邦最高裁の行方は、かかるイデオロギーの問題だけでな

く、連邦最高裁の判事自身の法解釈観に基づいているところが大きい

(106)。本稿で検討したスカリア判事とブライヤー判事は、9 人の判事の

中でも特に法解釈および憲法解釈に重点を置く判事であり、かれらの法

解釈観が今後の連邦最高裁の行方に大きな影響を及ぼすことが予想され

る。しかも、両者は異なる解釈観を抱いているにもかかわらず、その根

底には民主主義という共通の原理を念頭に解釈論を展開している。この

点、民主的正統性に疑いの眼差しが向けられている裁判官が、内的な視

点から自己の法解釈、憲法解釈の正統性、あるべき裁判官像を示すにあ

たって民主主義との調和関係を示そうとしているのは注目に値する。裁

判官自身が考えるあるべき法解釈および憲法解釈のあり方の問題は、憲

法学の永遠のテーマたる立憲主義と民主主義という問題に密接に関連し

ているのである。ただ、この問題についてはこの 2人が突出して固執し

ているともいえるところであり、すべての裁判官がそうだとは断定でき

ない。今後は、他の裁判官についてもこうした視点から考察していくこ

とが必要となってこよう。

192

(106)Frank B. Cross, The Significance of Statutory Interpretive Methodologies, 82

NOTRE. DAME L. REV. 1971(2007).

※註記 なお、本稿は、大林・横大道の共同執筆であるが、主な執筆分担として、

大林がⅠを担当し、横大道がⅡを担当した。