41
九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository 唯識の錯誤説に対するJayanta の批判 : Nyāyamañjarī「認識一元論批判」和訳(続) 片岡, 啓 九州大学大学院人文科学研究院哲学部門 : 准教授 http://hdl.handle.net/2324/2230535 出版情報:哲學年報. 78, pp.7-46, 2019-03-05. 九州大学大学院人文科学研究院 バージョン:published 権利関係:

唯識の錯誤説に対するJayanta の批判 : …kkataoka/Kataoka/Kataoka_Kei...唯識の錯誤説に対するJayantaの批判 -8- -9- クマーリラによるこの二派の区分基準は

  • Upload
    others

  • View
    3

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

唯識の錯誤説に対するJayanta の批判 :Nyāyamañjarī「認識一元論批判」和訳(続)

片岡, 啓九州大学大学院人文科学研究院哲学部門 : 准教授

http://hdl.handle.net/2324/2230535

出版情報:哲學年報. 78, pp.7-46, 2019-03-05. 九州大学大学院人文科学研究院バージョン:published権利関係:

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-7- -7-

唯識の錯誤説に対する Jayantaの批判― Nyāyamañjarī「認識一元論批判」和訳(続)―

片 岡  啓

はじめに本稿で訳出するのは,紀元後 9 世紀後半頃にカシミールで活躍したニヤーヤ

学派の学匠バ ッ タ・ ジ ャ ヤンタ(Bhaṭṭa Jayanta) の主著『 論理の花房 』(Nyāyamañjarī)で展開される唯識(認識一元論)批判の後半部である.後半部の原典校訂は Kataoka 2018b(“A Critical Edition of the Latter Half of the Vijñānā-

dvaitavāda Section of the Nyāyamañjarī: Bhaṭṭa Jayanta on Asatkhyāti and Ātmakhyāti”)として出版した.前半部については,原典校訂を Kataoka 2003(“Critical Edition

of the Vijñānādvaitavāda Section of Bhaṭṭa Jayanta’s Nyāyamañjarī”),和訳を片岡 2006

(「Jayanta の唯識批判:Nyāyamañjarī「認識一元論批判」和訳」),英訳を Alex

Watson & Kei Kataoka 2010(“Bhaṭṭa Jayanta’s Refutation of the Yogācāra Buddhist

Doctrine of Vijñānavāda: Annotated Translation and Analysis”)として既に出版している.本稿の位置づけは以下のように整理できる.

NM 唯識批判 原典校訂 和訳 英訳前半部 Kataoka 2003 片岡 2006 Watson & Kataoka 2010

後半部 Kataoka 2018b 本稿

本稿訳出部分は,ジャヤンタによる唯識批判の後半部というだけでなく,内容的に,もう一つの重要な役割をも担っている.それは,本稿訳出部分に含まれる錯誤論の考察にある.ジャヤンタは,ここで,仏教の唯識説が取りうる二つの錯誤説を順次批判する.すなわち,「非有の現れ」(asatkhyāti)説と「[認識]それ自体の現れ」(ātmakhyāti)説とである.マンダナ・ミシュラ(Maṇḍana

-8-

Miśra,紀元後660‒720頃)は,錯誤論の書である『錯誤の分析』(Vibhramaviveka)冒頭において四説を列挙している(VibhV 1ab).ātmakhyāti, asatkhyāti, akhyāti,

anyathākhyāti である.このうち,プラバーカラ派説の「現れの無」(akhyāti)説と,ニヤーヤとミーマーンサー学派の説である「別様の現れ」(anyathākhyāti)すなわち 「転倒した現れ」(viparītakhyāti)説については,Nyāyasūtra 1.1.7 の証言定義を取り上げる第 3 日課(āhnika)の中で議論される.いっぽう,残った仏教の二説を取り上げるのが本稿訳出部分である 1.広くは,Nyāyasūtra 1.1.22

の解脱定義を取り上げる文脈に属す.章それぞれの文脈上の位置付けは,錯誤論前半部(NM khyātiと略称)の原典校訂であるKataoka 2017a(“A Critical Edition

of the Khyāti Section of the Nyāyamañjarī: Bhaṭṭa Jayanta on Akhyāti and Viparī-

takhyāti”)および錯誤論後半部の原典校訂である Kataoka 2018b を参照されたい 2.この錯誤論前半部の対応和訳は片岡 2018a として既に出版した.これに対して本稿は,ジャヤンタの錯誤論後半部(Kataoka 2018b)も兼ねる箇所(広くは唯識批判に属す)の和訳にあたる.対応を整理すると次のようになる.

錯誤論 原典校訂 和訳 取り上げる錯誤説前半(NM khyāti) Kataoka 2017a 片岡 2018a akhyāti, viparītakhyāti

後半 Kataoka 2018b 本稿 asatkhyāti, ātmakhyāti

なお,asatkhyāti 説を中観派に帰する理解が Schmithausen 1965 も含めて従来一般的であるが 3,ジャヤンタが唯識批判の中で議論を展開していることから分かるように,瑜伽行派の説の一つとジャヤンタは理解している.また,マンダナに先行するミーマーンサー学派の学匠クマーリラ(Kumārila)によれば,所縁となる(外界)対象を欠いた認識について,対象の非存在を主張するが認識そのものについては存在すると認めるのが瑜伽行派であり,対象のみならず認識についても非存在だと主張するのが中観派だとされる 4.

対象 認識瑜伽行派 非存在 存在中観派 非存在 非存在

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-8- -9-

クマーリラによるこの二派の区分基準は 5,そのままマンダナにも継承されているはずである.マンダナに錯誤論の範をとるジャヤンタの学説解説からも分かるように,asatkhyāti 説は,青等が現れる(khyāti)すなわち認識させられる(vijñāpyate)際の認識の実在を基本的に前提とする理論である.したがって,認識そのものの非存在を主張する(とクマーリラおよびクマーリラに範をとるマンダナが理解している)中観派に asatkhyāti 説を直接に帰するのは理論的に不適切である 6.Kataoka 2018b: 383(6)‒378(11)で論じたように,まずは瑜伽行派の一説を主に念頭に置いた説と位置付けるべきである 7.

このことは,ジュニャーナシュリーミトラ(Jñānaśrīmitra)やラトナキールティ(Ratnakīrti)が,対立するラトナーカラシャーンティ(Ratnākaraśānti)の

「無相説=虚偽形象説」を asatkhyāti とラベル付けすることからも補足的に支持されよう 8.すなわち,古くはスティラマティ(Sthiramati,安慧)とダルマパーラ(Dharmapāla,護法)の間の無相・有相の対立にも見られる瑜伽行派内部の二説の対立を外部から捉えたものとして,マンダナの asatkhyāti と ātmakhyāti という整理法は位置付けられる 9.

ジャヤンタが,仏教内部のアポーハ論の二説を,khyāti の二説に絡めて整理していることも,筆者の捉え方を支持する.すなわち,ジャヤンタは,一方のアポーハ説(内容から明らかに Dharmottara 説)を asatkhyāti 説に由来するものとし,他方のアポーハ説(恐らく Śākyabuddhi 系統の解釈に沿った Dharmakīrti

説)を ātmakhyāti 説に由来するものとする 10.筆者の予想する対立図式の大枠を整理すると以下のようになる.

無相,asatkhyāti 有相,ātmakhyāti6 世紀 Sthiramati Dharmapāla7 世紀 Dharmakīrti

Śākyabuddhi Maṇḍana8 世紀 Dharmottara (Prajñākaragupta)

Jayanta10 ~ 11 世紀 Ratnākaraśānti Jñānaśrī, Ratnakīrti Vācaspati

-10-

シャーキャブッディとほぼ同時代と目されるマンダナ(紀元後 660‒720 年頃)は主に第一期の安慧・護法から第一期末のシャーキャブッディあたりまでの理論対立を捉え,ジャヤンタ(紀元後 9 世紀後半頃 11)は,ダルモッタラ説とシャーキャブッディ系統のダルマキールティ説との理論対立を念頭に置いていると予想される.本予想は,詳細な裏取りも含め,今後のシャーキャブッディとマンダナの比較研究進展を俟つところが多い.

なお,引用・相互参照・平行句等について,本稿で言及しなかったものについて詳しくは原典校訂の注記を参照されたい.

謝辞本稿の準備にあたり,Somdev Vasudeva,石村克,中須賀美幸,斉藤茜の助言

を受けた.本研究は JSPS 科研費 15K02043 の助成を受けたものである.

略号表と参照文献一次資料Abhidharmakośa(bhāṣya)AK(Bh) Abhidharmakośabhāṣya: Abhidharma Kośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan.

Patna: K.P. Jayaswal Research Institute, 1967. ĀlambanaparīkṣāĀP See Tola and Dragonetti 1982.KuṭṭanīmataKM See Dezső & Goodall 2012.JñānaśrīmitranibandhāvaliJNĀ Jñānaśrīmitranibandhāvali. Edited by Anantalal Thakur. Patna: Kashi Prasad

Jayaswal Research Institute, 1987.TattvopaplavasiṁhaTUS See Franco 1987.Nyāyabhāṣya NBh Gautamīyanyāyadarśana with Bhāṣya of Vātsyāyana. Ed. Anantalal Thakur. New

Delhi: Indian Council of Philosophical Research, 1997. NyāyamañjarīNM Nyāyamañjarī of Jayantabhaṭṭa with Ṭippaṇī – Nyāyasaurabha by the Editor. Ed.

K.S. Varadācārya. 2 vols. Mysore: Oriental Research Institute, 1969, 1983. NyāyavārttikatātparyaṭīkāNVTṬ Nyāyavārttikatātparyaṭīkā of Vācaspatimiśra. Ed. Anantalal Thakur. New Delhi:

Indian Council of Philosophical Research, 1996.

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-10- -11-

NyāyasūtraNS See Nyāyabhāṣya. Manusmṛti: Manu See Olivelle 2005.RatnakīrtinibandhāvalīRNĀ Ratnakīrtinibandhāvaliḥ. Ed. Anantalal Thakur. Patna: K.P. Jayaswal Research

Institute, 1975.Vibhramaviveka: VibhV See Schmithausen 1965.Viṁśikā(vṛtti)Viṁś(V) See Silk 2016. ŚlokavārttikaŚV Ślokavārttika of Śrī Kumārila Bhaṭṭa with the Commentary Nyāyaratnākara of Śrī

Pārthasārathi Miśra. Ed. Swāmī Dvārikadāsa Śāstrī. Varanasi: Tara Publications, 1978. (=D)

I1 A manuscript preserved in the British Library, London, San Ms I.O. 3739 (=No. 7976). Devanāgarī. Paper. 89 folios.

P Ślokavārtikam. The Pandit New Series, Vol. III (1878), 193‒215.Ślokavārttika-KāśikāŚVK Mīmāṁsāślokavārttikaṁ, Sucaritamiśrapraṇītayā Kāśikākhyayā Ṭīkayā sametam.

Ed. K. Sāmbaśiva Śāstrī. Part I (1926), Part II (1929). Trivandrum: University of Travancore. [Reprint: CBH Publications, 1990.]

Ślokavārttika-TātparyaṭīkāŚVTṬ Ślokavārttikavyākhyā Tātparyaṭīkā of Uṃveka Bhaṭṭa. Ed. S.K. Rāmanātha Śāstrī.

Rev. K. Kunjuni Raja & R. Thangaswamy. Madras: University of Madras, 21971. (=ed.)

ms. A manuscript preserved in the Sarasvatī Bhavan Library, Sampurnananda Sanskrit University, No. 29323. Devanāgarī. Paper. Incomplete. 206 folios.

二次文献Franco, Eli1987 Perception, Knowledge and Disbelief. A Study of Jayarāśi’s Scepticism. Stuttgart:

Franz Steiner Verlag Wiesbaden Gmbh. Dezső, Csaba & Dominic Goodall2012 Dāmodaraguptaviracitaṃ Kuṭṭanīmatam: The Bawd’s Counsel, Being an Eighth-

century Verse Novel in Sanskrit by Dāmodaragupta. Newly edited and translated into English by Csaba Dezső & Dominic Goodall. Groningen: Egbert Forsten.

Jha, Ganganatha1983 Slokavartika Translated from the Original Sanskrit with Extracts from the

Commentaries “Kasika” of Sucarita Misra and “Nyayaratnakara” of Partha Sarthi Misra. Delhi: Sri Satguru Publications.

-12-

Kajiyama, Yūichi(梶山 雄一)1967 「二十詩篇の唯識論(唯識二十論)」,長尾雅人(編)『世界の名著 2』,中央

公論社,427‒445.Kataoka, Kei(片岡 啓)2003 “Critical Edition of the Vijñānādvaitavāda Section of Bhaṭṭa Jayanta’s Nyāya-

mañjarī.” 『東洋文化研究所紀要』144, 318(115)‒278(155). (NM vijñānādvaitaと略称する改訂版は以下でネット公開している:http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/NMvijR.pdf)

2004 “Critical Edition of the Āgamaprāmāṇya Section of Bhaṭṭa Jayanta’s Nyā-yamañjarī.” 『東洋文化研究所紀要』146, 222(131)‒178(175). (=NM āgamaprāmāṇya)

2006 「Jayanta の唯識批判:Nyāyamañjarī「認識一元論批判」和訳」,『哲学年報』(九州大学文学部)65, 39‒85.

2007 「正しい宗教とは何か── Bhaṭṭa Jayanta 作 Nyāyamañjarī「聖典権威章」和訳──」,『哲学年報』(九州大学文学部)66, 39‒84.

2009 “A Critical Edition of Bhaṭṭa Jayanta’s Nyāyamañjarī: The Buddhist Refutation of Kumārila’s Criticism of Apoha.” 『東洋文化研究所紀要』156, 498(1)‒458(41).

(=NM apoha III)2010 “A Critical Edition of Bhaṭṭa Jayanta’s Nyāyamañjarī: Jayanta’s View on jāti and

apoha.” 『東洋文化研究所紀要』158, 220(61)‒168(113). (=NM apoha IV)2011 Kumārila on Truth, Omniscience, and Killing. 2 parts. Verlag der Österreichischen

Akademie der Wissenschaften.2013 「『ニヤーヤ・マンジャリー』「仏教のアポーハ論」章和訳」,『哲学年報』

(九州大学文学部)72, 1‒45.2014 「ジャヤンタの普遍論 ― Nyāyamañjarī 和訳 ― 」,『哲学年報』(九州大

学文学部)73, 37‒93.2015 「仏教の普遍批判 ― Nyāyamañjarī 和訳 ― 」,『哲学年報』(九州大学文

学部)74, 49‒117.2017a “A Critical Edition of the Khyāti Section of the Nyāyamañjarī: Bhaṭṭa Jayanta on

Akhyāti and Viparītakhyāti. 『東洋文化研究所紀要』171, 476(1)‒401(76). (= NM khyāti)

2017b 「パラフレーズによる abhūtaparikalpa の構造分析」,『インド論理学研究』10, 25‒41.

2018a 「ジャヤンタの錯誤論 ― Nyāyamañjarī 和訳 ― 」,『哲学年報』77, 1‒69.2018b “A Critical Edition of the Latter Half of the Vijñānādvaitavāda Section of the

Nyāyamañjarī: Bhaṭṭa Jayanta on Asatkhyāti and Ātmakhyāti.” 『東洋文化研究所紀要』173, 388(1)‒332(57).

Katsura, Shōryū(桂 紹隆)1976 “A Synopsis of the Prajñāpāramitopadeśa of Ratnākaraśānti.”『印度学仏教学研

究』25-1, 487(38)‒484(41). Olivelle, Patrick 2005 Manu’s Code of Law: A Critical Edition and Translation of the Mānava-

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-12- -13-

Dharmaśāstra. New York: Oxford University Press.Schmithausen, Lambert 1965 Maṇḍanamiśra’s Vibhramavivekaḥ. Wien: Hermann Böhlaus Nachf.Silk, Jonathan 2016 Materials Toward the Study of Vasubandhu’s Viṁśikā (I): Sanskrit and Tibetan

Critical Editions of the Verses and Autocommentary; An English Translation and Annotations. Cambridge MA: Harvard University Press.

Teraishi, Yoshiaki(寺石 悦章)1994 「Ślokavārttika における外界の問題」,『印度学仏教学研究』42-2, 1001(82)

‒996(87).1998 「『シュローカヴァールティカ』シューニヤヴァーダ章の研究(2)― 和訳

と解説 ― 」,『九州龍谷短期大学紀要』44,89‒111.2001 「『シュローカヴァールティカ』ニラーランバナヴァーダ章の研究(4)―

和訳と解説 ― 」,『仏教文化』11,37‒65.2003 「『シュローカヴァールティカ』シューニヤヴァーダ章の研究(8)― 和訳

と解説 ― 」,『四日市大学総合政策学部論集』3, 31‒39.2007a 「『シュローカヴァールティカ』ニラーランバナヴァーダ章の研究(8)―

和訳と解説 ― 」,『四日市大学総合政策学部論集』6, 49‒61.2007b 「『シュローカヴァールティカ』シューニヤヴァーダ章の研究(9)― 和訳

と解説 ― 」,『四日市大学総合政策学部論集』6, 63‒75.Tola, Fernando and Carmen Dragonetti 1982 “Dignāga’s Ālambanaparīkṣāvṛtti.” Journal of Indian Philosophy, 10, 105‒134. Watase, Nobuyuki(渡瀬 信之)1991 『マヌ法典』,中央公論社.Watson, Alex and Kei Kataoka 2010 “Bhaṭṭa Jayanta’s Refutation of the Yogācāra Buddhist Doctrine of Vijñānavāda:

Annotated Translation and Analysis.” 『南アジア古典学』5,285‒352.

科文(synopsis)議論の対応を示すため前半部(§1 ~ 4.9.3)の科文も併せて示す.ただし,

前半部については,Kataoka 2003 および片岡 2006 の科文ではなく,英訳であるWatson & Kataoka 2010 およびそれに合わせて改定した revised version の edition

(ネット公開)で示した科文に準拠する.したがって片岡 2006 の和訳で示した科文とは一部ずれている.またタイトル和文も改訂版に合わせる形で適宜訂正している.

-14-

1 前章との関係2 疑惑:一形象が属すのは対象か認識か 2.1 考察の余地なし 2.2 考察の余地あり  2.2.2 二形象が現れているわけではない  2.2.3 一形象の基体は対象か認識か3 前主張(唯識説):形象は認識に属す 3.1 想定が少ないので(→ 4.7)  3.1.1 対象形象説では対象と認識の二つの想定  3.1.2 対象一元論と認識一元論との実質的な無差異  3.1.3 認識は両者が認めている 3.2 認識は先に把握される(→ 4.2)  3.2.1 輝き出させるものであるから(→ 4.3, 4.4)  3.2.2 生起した認識は必ず把握される(→ 4.5)  3.2.3 反省的認識が見られるので(→ 4.6)  3.2.4 結論   3.2.4.1 把握される認識は有形象   3.2.4.2 外界対象の不要 3.3 無形象では認識を対象毎に区分設定できないので(→ 4.8)  3.3.1 特定のものを対象とすることは有形象認識でのみ説明可能  3.3.2 対象と認識の因果関係による特定化は逸脱する  3.3.3 青の形象を持つことが青を対象とすること  3.3.4 pramāṇa の語源解釈の正当化可能  3.3.5 有形象認識の世間周知  3.3.6 まとめ:対象毎の区分設定のために有形象必要 3.4 経量部説批判  3.4.1 経量部説紹介  3.4.2 水晶の実例批判:認識との非平行性  3.4.3 二形象批判

  3.4.4 外界対象推論批判

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-14- -15-

   3.4.4.1 名称が異なるだけ   3.4.4.2 無知の潜在印象による説明可能(→ 4.12.2) 3.5 対象と対象認識は常に一緒に見られる(→ 4.9)  3.5.1 認識と形象の肯定的随伴・否定的随伴(→ 4.10)  3.5.2 対象と認識は非別 3.6 「形象=接触の属性」説批判 3.7 矛盾属性の同居  3.7.1 同一対象においては不可能(→ 4.11, 4.11.5)  3.7.2 認識は個々別々なので無矛盾 3.8 前主張のまとめ4 定説 4.1 把握主体と把握対象とは同一ではない(→ 3.7)  4.1.1 矛盾する二属性は同居しない  4.1.2 唯識学派も認識と対象の区別を認めている  4.1.3 形象は輝き出させられるものとしてのみ現れる 4.2 認識と対象の把握形態の違い(→ 3.2)  4.2.1 問:自己認識しかありえない  4.2.2 答:目と同様,自ら輝くことはない  4.2.3 問:目は光を本質としないので認識とは非相似  4.2.4 答:光(認識)は対象を輝き出させるのであって自身ではない  4.2.5 問:認識把握なしに対象認識はない  4.2.6 答:認識把握なしに対象認識がある  4.2.7 問:認識の有無が(認識の点から)区別されないことになる  4.2.8 答:存在の点から区別される 4.3 認識の手段性への回答(→ 3.2.1) 4.4 輝き出させるものであること(→ 3.2.1)  4.4.1 prakāśatvāt の解釈   4.4.1.1 使役解釈:輝き出させるものであること(目により不定)   4.4.1.2 能動解釈:輝き出すこと(認識に不成立)   4.4.1.3 同義解釈:認識であること(灯明に当てはまらない)

-16-

  4.4.2 自ら輝き出すものはない   4.4.2.1 問:三つの自ら輝き出すもの

   4.4.2.2 答:三つは他を必要とする   4.4.2.3 まとめ  4.4.3 アートマンの知覚においても主体・客体の区別あり 4.5 輝き出しを本質とすること・障害を持たないことへの回答(→ 3.2.2)  4.5.1 別個に先行認識把握手段が必要  4.5.2 ミーマーンサーとニヤーヤの認識把握形態の違い 4.6 反省的認識(→ 3.2.3) 4.7 想定の簡潔さへの回答(→ 3.1)  4.7.1 想定はない  4.7.2 両者に認められていることへの回答 4.8 対象毎に区分設定(→ 3.3)  4.8.1 青等という行為対象から生じたことにより青等だけを対象とする  4.8.2 行為対象だけを認識対象とする制限は実在の本性に基づいている  4.8.3 対象と認識の因果関係  4.8.4 原因総体が sādhakatama

  4.8.5 世間的言語表現 4.9 一緒に把捉されることの制限の否定(→ 3.5)  4.9.1 非別なら「一緒」にはならない  4.9.2 同じ認識により(同時に)把捉されることもない  4.9.3 唯識学派も青と青の認識の区別を認めている   ―― (以下本稿訳出部分) ――

 4.10 夢等の認識の正当化(→ 3.5.1)  4.10.1 「現れの無」説の否定  4.10.2 「非有の現れ」説の否定   4.10.2.1 絶対無が現れることはない    4.10.2.1.1 外的感官によって生じる錯誤     4.10.2.1.1.1 対象の欠陥に基づく場合     4.10.2.1.1.2 感官の欠陥に基づく場合

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-16- -17-

    4.10.2.1.2 意官によって生じる錯誤     4.10.2.1.2.1 同種のものを必要とする場合     4.10.2.1.2.2 同種のものを必要としない場合     4.10.2.1.2.3 夢      4.10.2.1.2.4 燃え上がる水等    4.10.2.1.3 まとめ   4.10.2.2 二種の非有性の違い    4.10.2.2.1 前主張

    4.10.2.2.2 後主張     4.10.2.2.2.1 その場だけに無い     4.10.2.2.2.2 残らず全所に無い     4.10.2.2.2.3 場所・時への応用     4.10.2.2.2.4 まとめ  4.10.3 「それ自体の現れ」説の排斥   4.10.3.1 認識それ自体を把握することはない   4.10.3.2 切り離されたものが認識であることはない    4.10.3.2.1 前主張    4.10.3.2.2 後主張     4.10.3.2.2.1 把握対象・把握主体の関係はありえない     4.10.3.2.2.2 把握対象・把握主体に認識性は現れていない     4.10.3.2.2.3 まとめ   4.10.3.3 形象は接触の属性ではない(→ 3.6)   4.10.3.4 まとめ 4.11 相互に矛盾した形象の同居(→ 3.7.1)  4.11.1 現に見られるものに不可能はない  4.11.2 全ての場合に同様に当てはまるわけではない  4.11.3 言葉の適用の正しさ  4.11.4 外界対象に触れていないことはない  4.11.5 外界対象は複数の能力を持つ(→ 3.7.1)  4.11.6 個々の潜在印象への依存

-18-

 4.12 潜在印象  4.12.1 外界対象は想定対象ではない  4.12.2 潜在印象は認識と非別なのか別なのか(→ 3.4.4.2)  4.12.3 潜在印象は新得経験されたものの想起を生み出す原因である  4.12.4 薫り付けられるものと薫り付けるものの関係はありえない  4.12.5 潜在印象の特定性  4.12.6 潜在印象は潜在印象の相続を作り出す原因である  4.12.7 潜在印象の基体  4.12.8 アーラヤ識の否定  4.12.9 まとめ 4.13 形象は認識に属すものではない(→ 3.8)5 全体への批判の排斥 5.1 前主張  5.1.1 部分とは別に把捉されないから(→ 5.2.2)  5.1.2 諸部分を把握しない場合には,全体の把握はないから(→ 5.2.2)  5.1.3 部分の把握はありえないから(→ 5.2.3)  5.1.4 心によって分割されると把捉されないから(→ 5.2.4)  5.1.5 帰属がありえないから(→ 5.2.5)   5.1.5.1 その全体をもって帰属することはない   5.1.5.2 その一部分をもって帰属することはない   5.1.5.3 まとめ  5.1.6 不定(NS 2.1.35)  5.1.7 軍隊・森のように(NS 2.1.36)(→ 5.2.7)  5.1.8 集積の考察(→ 5.2.8)  5.1.9 原子の否定(→ 5.2.9)  5.1.10 まとめ 5.2 後主張  5.2.1 全体は知覚により成立している  5.2.2 部分に依拠していること(→ 5.1.1, 5.1.2)  5.2.3 全部分を把握する必要はない(→ 5.1.3)

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-18- -19-

  5.2.4 部分を分けると全体がなくなる(→ 5.1.4)  5.2.5 帰属は知覚により把捉される(→ 5.1.5)  5.2.6 知覚は誤りではない  5.2.7 実例はパラレルではない(→ 5.1.7)  5.2.8 知覚により把握される全体が存在する(→ 5.1.8)  5.2.9 原子は存在する(→ 5.1.9)  5.2.10 まとめ6 空の理論の排斥 6.1 外界の証明 6.2 信頼の緩みを生じさせるために空の理論等を説くのは回り道である 6.3 まとめ

和訳4.10 夢等の認識の正当化

また[次のように仏教徒により]言われていた(§3.5.1).「外界対象が存在しないにもかかわらず,夢・蜃気楼(ガンダルヴァ天楽人の街)・幻等の場合に,認識が形象を持つことが見られるので,この形象はそれ(認識)のみに属すというのが正しい」と.そのことも空しい期待に過ぎない.[夢等の]いずれの場合も,認識とは切り離された〈把握対象の形象〉が立ち現れているからである.

すなわち錯誤認識には四通りがある.(1)[認識]それ自体の現れ,(2)非有の現れ,(3)現れの無,(4)転倒した現れである.

4.10.1 「現れの無」説の否定それらのうち,

(1)「これは銀」と,同一の指示対象を持つものとして一つの対象が立ち現れてきているので 12(NM khyāti §2.1.1),

(2)また,彼ら(プラバーカラ派)の見解では意識は現前している(知覚対象である)ので 13(NM khyāti §2.1.2),

(3)[また]銀を認識していると思い込んでそれ(銀)を求める人がそれ(真

-20-

珠母貝)に向かって行動を起こすので 14(NM khyāti §2.1.5),(4)また,打ち消す認識がそのような認識(「これ=銀」とする認識)の否定

を主眼とするものとして登場するので 15(NM khyāti §2.1.8.1),まず第一に,現れの無ではないということは,既に前に[NM khyāti §2.1 以下の諸章で]論証した.

4.10.2 「非有の現れ」説の否定4.10.2.1 絶対無が現れることはない

非有の現れ(NM khyāti §1.4.2)でもない.全くの非有である空華等が立ち現れることはありえないからである(NM khyāti §1.4.2.1.2)16.たとえ錯誤しているとはいえ,生類に生じる認識は,場所的・時間的に離れたもので以前に経験したことのあるものを必ず対象とするのであって,全くの非有を対象とするわけではない.

すなわち錯誤は二通りである.外的感官 17 によって生じるものと,意官によって生じるものとである 18.

4.10.2.1.1 外的感官によって生じる錯誤両者のうち,外的感官によって生じる錯誤認識においては,それが対象にあ

る損傷要因に基づいて生じてこようが,或いは,感官にある損傷要因に基づいて生じてこようが,所縁を持たないということは全く見られない.

4.10.2.1.1.1 対象の欠陥に基づく場合なぜなら ―

(1)〈きらきら光る色〉なる相似性という対象上の損傷要因によって,真珠母貝は「銀」として現れる(NM khyāti §2.2.1.2.3, (1-1)).

(2)また砂漠に落ち広がった太陽光は,たゆたう波という相似性により「水」として現れる(NM khyāti §2.2.1.2.3, (1-2)).

4.10.2.1.1.2 感官の欠陥に基づく場合また感官上の損傷要因に基づいて,

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-20- -21-

(1)ピッタに味覚器官がやられた人には,砂糖が苦いものとして現れてくる(NM khyāti §1.5.7.2, §2.1.10, §2.2.1.2.3, (2-2)).

(2)ティミラに視覚機能が分けられた人には,月輪が[実際には]一つであるにもかかわらず,二様に立ち現れてくる(NM khyāti §1.5.7.1, §2.2.1.2.3, (2-1)).

(3)また,ティミラのつぶつぶ群に形作られた隙間から前進した眼光線が,太陽光と混ざり合うと,細かく,髪束の形象をもって立ち現れる(NM khyāti

§2.2.1.2.3 (2-3), §2.2.1.3.2).

4.10.2.1.2 意官によって生じる錯誤4.10.2.1.2.1 同種のものを必要とする場合

 いっぽう,女等がいないにもかかわらず,我を失った男達には,花に対して内官上の損傷要因によって[女だとする]錯誤が生じるが,

それも 19,一部は,対象上の損傷要因に補助されて生じてくるが,やはり,有を所縁とする.

 例えば,柔らかい風の波に少し揺らされた若芽を「彼女の手」とする認識が生じることがあるように.

4.10.2.1.2.2 同種のものを必要としない場合

 いっぽう当のものと似た物に依拠しないまま,その人に,意官によって生じる〈女の認識〉が,愛欲(カーマ)の狂気の偉大さによって[生じる場合],

その[認識]においても,愛欲等の[残した]潜在印象のせいで迷乱している想起等によって思い浮かべられた,空間的・時間的に離れた,以前に知覚した女の姿等を表象しているのであって,〈ろばの角〉等のような全く存在しないものを[表象しているわけ]ではない.

-22-

4.10.2.1.2.3 夢閃き・眠気等という意官上の損傷要因から生じる夢においても,必ず見られ

たことのあるあれこれの形象を表象している.

4.10.2.1.2.4 燃え上がる水等

 燃え上がる水・滴る火・流れる山等を見る場合,或るものにある相を,[それとは]別のものの上に認識しているのであって,それは全くの非有ではない.

4.10.2.1.3 まとめ

 それゆえ以上のように,錯誤した認識において,全くの非有が展開することはない.そうではなく,実在の場所・時間が別様に[誤って]現れるだけである 20.

4.10.2.2 二種の非有性の違い4.10.2.2.1 前主張

【問】そこに無い対象が立ち現れるのに,別の場所等に有ることが何の役に立つのか.というのも,別の場所に有ろうが無かろうが,そこには少なくともその対象は全く無いのだから.また,二つの非有性(別の場所に有るものがそこに無いこと・別の場所に無いものがそこに無いこと)には何の違いもない.場所・時も,いったい,存在するものとして立ち現れているのか,或いは,存在しないものが立ち現れているのかと選択肢を立てたなら(cf. NM khyāti

§1.4.1.1.3),両者についても[上と]同じ問題がある.

4.10.2.2.2 後主張【答】そうではない.非有の現れ論者である貴方にとっても,当の対象の非有性は,残らず全所において認められているか,或いは,その場においてのみか,いずれかである.

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-22- -23-

4.10.2.2.2.1 その場だけに無い両者のうち,まず第一に,単なる非近在性(その場にないこと)は,君自身

の目的に何の役に立つのか(NM khyāti §1.4.2.1.1).

4.10.2.2.2.2 残らず全所に無いいっぽう,全所に無いものが立ち現れるとすると(NM khyāti §1.4.2.1.2),こ

の特定性 ― 非有であることに変わりはないにもかかわらず,銀等[だけ]が非有として立ち現れ,ろばの角等が[立ち現れることは]ない,というもの― は何に基づくのか(NM khyāti §1.4.2.3).また,次のものが二つの非有性の違いである ― すなわち,別の場所等に有る対象は,想起等に昇ってくることで立ち現されるのが見られるが,全くの非有はそうではない(NM khyāti

§1.4.2.4),と.

4.10.2.2.2.3 場所・時への応用同様にして,場所・時についても,有・非有の選択肢を立てた論難は排斥可

能である.

4.10.2.2.2.4 まとめまた以上から,全く非有なる対象を把握する認識は何もないので,いかなる

実例によって〈全所に対象がないこと〉を想定するのか.それゆえ,非有の現れではない(cf. NM khyāti §1.4.2.5).

4.10.3 「それ自体の現れ」説の排斥いっぽう,それ自体の現れを排斥するために,まさに現下の[§2 以下の]

これだけの論争がある 21.

4.10.3.1 認識それ自体を把握することはないそして,それについて,何度も既に[§4.1.3, §4.10 で]言われた ― 「こ

れは青」というように,把握主体とは切り離されたものとしてのみ把握対象が現れているのであって,「私は青」というように,それ(把握主体)と区別さ

-24-

れない形で[ 把握対象が現れてきているわけでは ] ない(cf. NM khyāti

§1.4.3.2.1).錯誤認識においては,それ(錯誤認識)の対象が近くにないことから錯誤しているとすべきであって,[認識]自体をそれ(錯誤認識の対象)として把握している[ことから錯誤している]わけではない(cf. NM khyāti

§1.4.3.2.2) ― と.また,

 内にある認識される形象が外のように現れる(ĀP 6ab).

と[『観所縁論』でディグナーガにより]言われているが,それは,この〈転倒した現れ〉に他ならないものを認めていることになるだろう(cf. NM khyāti

§1.4.3.2.2).それゆえ,そのみじめな[転倒した現れ]のほうだけが正しいとするほうが,ましだ.

4.10.3.2 切り離されたものが認識であることはない4.10.3.2.1 前主張

もし,[次のように]言われるならば ―

【問】確かに把握主体と切り離されたものとして把握対象がある.しかし,それは,認識に他ならないのだ ― と.

4.10.3.2.2 後主張【答】そこで,「切り離されている」というのは好都合なことが示された.いっぽう,それ(把握対象)が認識であることに,いかなる裏付けがあるのか.

4.10.3.2.2.1 把握対象・把握主体の関係はありえないまた,同時に生じた二つの認識の間に,或いは,継起的に生じた[二つの認

識の間に],把握対象・把握主体の関係はありえない.(1)というのも,同時の場合には,左右の牛角のように,[どちらが]把握対

象で[どちらが]把握主体となるのか決まらないからである.(2)継起的とする場合も,(2-1) 前のものが後のものを把握するならば,後者が生起し後者が把握される

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-24- -25-

時まで待たないといけないので,[前者は]刹那滅性を捨てることになるだろう.

(2-2) もし前のものを把握するのが後のものだとしても,同じことになる.というのも,それだけの間存続することなしには,前のものが把握対象となることはありえないからである.

4.10.3.2.2.2 把握対象・把握主体に認識性は現れていないまた,シャーバレーヤ等に,牛性[という共通性]が[随伴したものとして

現れる]ようには,認識性という共通性が,把握対象・把握主体の間に随伴したものとして現れている,ということはない.

4.10.3.2.2.3 まとめ以上から,もしも,把握される部分が把握主体から切り離されているならば,

それは,[外界]対象に他ならないはずなので,これ(把握される部分)は認識の形象ではない.

4.10.3.3 形象は接触の属性ではないいっぽう,形象は接触の属性ではない,と[§3.6 で]言われていたが 22,そ

れは全く正しい.

 瓶とヨーグルトの場合とは違って,[外界]対象と認識との間にはいかなる接触も存在しない.以前に無形象であった両者が,それ(接触)によって作られた形象を持つこともない.

4.10.3.4 まとめそれゆえ以上のように,

(1)仏教徒が述べた僅かの論理は弱いので,(2)また全所において[把握主体から把握対象は]切り離された形で立ち現れ

ているから,(3)また,透明な本性を持つ認識が[他に依存することなく]それ自身で多様

-26-

となることはありえないから,この形象は[外界]対象に属する,ということが成立した.

4.11 相互に矛盾した形象の同居いっぽう,[外界]対象の形象だとする立場にたいして,[次の]批判があっ

た(§3.7.1) ― 同一対象[である星]の上に,nakṣatram,tārakā,tiṣyaḥ という,相互に矛盾した形象(中性性・女性性・男性性)が同居することはありえない ― と 23.それに答える.

4.11.1 現に見られるものに不可能はない「ありえない」という我々の認識は,何についてあるのか.

【問】正しい認識の手段によって理解されていないものについて[「ありえない」という認識があるのだ].

【答】たとえ矛盾したものであっても,それを我々は[現に]理解している.【問】同一場に入り込むのが見られないものについて[「ありえない」という認識があるのだ].

【答】ここで,もし,打ち消されてない[正しい]認識によって,明瞭に,三つの形象が同一場の上に把握されるならば,それ(三つの形象)が,どうして,ありえないことがあろうか.或いは,どうして,矛盾するだろうか.

4.11.2 全ての場合に同様に当てはまるわけではないもし,「一方は正しい認識手段によって確定された相として,他方は分別さ

れた[誤った相]として理解される」というならば,そうだとするがよい.何の問題があろうか.また,現に,絵等においては,多数の色の同居が見られる.また,一箇所で矛盾或いは無矛盾を見たからといって,全ての所で,それ(矛盾・無矛盾)を想定するのは適切ではない.というのも,実在のあり方というのは,打ち消されてない理解に基づくものであって,[自分勝手な]分別によって作られたものではないからである.

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-26- -27-

4.11.3 言葉の適用の正しさ

 或いはまた,実在がそれを本質とするか否かに左右されることなく,言葉の適用の正しさは単に説明されるべきである.

dārāḥ(妻)という時,単数の〈女性という個物〉には,男性性も複数性も存在しない.しかし,この言葉が,それ(単数の女性個物)に対して適用されるのは正しい 24.

4.11.4 外界対象に触れていないことはない

 また,[単に]それだけの理由で,これ(言葉)が[外界]対象に触れていないことが確立することはない.それを本質とする実在をその通りに,これ(言葉)は語りうる.

4.11.5 外界対象は複数の能力を持つ

 また,遊行者等が持つ,死体等の理解(§3.7.1)は 25,対象が複数の能力を持つことに基づくのであって,[認識が]対象を欠いていることを導くことはない. どうして,その女が,犬に食われ得ないであろうか.或いは,どうして,この女が,恋する男の愛欲の炎を鎮めないであろうか. 或いは,その女が,ヨーギンにとり,死体と如何なる形で異なることがあろうか.しかし,いずれの者も,三つの認識[全部]を持つことはない.協働因を欠くからである.

4.11.6 個々の潜在印象への依存なぜなら,生類毎に定まった,多様な個々の潜在印象という協働因を前提と

して,それぞれの認識が生起するので,全ての者に全側面での認識があることはないからである 26.

-28-

4.12 潜在印象【問】もしそうならば,個々別々の潜在印象だけが,多様な閃きの生起の原因とすればよい.[外界]対象の想定が何になろうか.

4.12.1 外界対象は想定対象ではない【答】おい,正しい者よ,何とお前は,長い間繰り返された「想定」という言葉遣いを今日に至っても捨てないのか.というのも,対象というのは[そもそも]想定されるものではなく,立ち現れてくるものに他ならないからである.いっぽう,多くの相を持つそれ(外界対象)について,いずれか一つの相[だけ]を画定する,その特定化に対しては,潜在印象を始めとする何らかの原因が,或る場合には想定される.それだけの理由で[外界]対象を否定する余地がどうしてあるだろうか.

4.12.2 潜在印象は認識と非別なのか別なのかまた,

(1)個々別々の潜在印象だけが認識の多様性の原因である.(2)また,種と芽の場合と同様,相互的な因果関係の無始なる連続が,認識と

潜在印象にはある.と述べられていた(§3.4.4.2)が,それもおかしい.この潜在印象なるものは何なのか 27.

(1)もしも認識と異ならないのならば,それ(潜在印象)も,[認識と同様]透明な本質を持つので,認識の汚れ(多様性)の原因とはならないはずである.

(2)もしも,潜在印象が,認識とは別のものであり,かつ,それ(認識)の多様性の原因であるならば,まさにその外界対象が[「潜在印象」という]同義語で言われていることになる.

4.12.3 潜在印象は新得経験されたものの想起を生み出す原因であるさらにまた,潜在印象とは,対象の新得経験によって置かれた潜在余力のこ

とだと世間では周知されている.そして,Xの新得経験から起こった潜在余力は,何らかの機会に,そのXのみの想起を生み出すのであって,[実際には]非

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-28- -29-

有に他ならない[とあなたが考える]このようなこの多様性をもたらすことはない.

4.12.4 薫り付けられるものと薫り付けるものの関係はありえないさらにまた,仏教徒の立場では,認識は刹那的なので,把握対象・把握主体

の関係と同様に,薫り付けられるもの(後続認識)・薫り付けるもの(先行認識)の関係も,排斥されるべきである 28.というのも,ごまを始めとする存続する存在は,同じく存続するキンコウボク等によって薫り付けられるが 29,生じてその場ですぐに滅してしまう認識によって,全く同様の認識が[薫り付けられる]ことはないからである 30.

 また,[認識は]残存することなく消滅するので,それ(認識)の一部が残存することはない.もしそうであれば,何らかの仕方で,先行認識によって,後続[認識]が薫り付けられるであろうが.

4.12.5 潜在印象の特定性さらにまた,デーヴァダッタの[心]相続という一つのものの上に,認識の

多様性を為す幾百千もの潜在印象があることになってしまう.なぜなら,牛[の新得経験が残した]潜在印象から象の認識は生起しないからである 31.

 これら(潜在印象)が無数だとしても,周知のように,[どの潜在印象が自らの結果をいつ]作り出すかの特定性は何に基づくのか.無秩序に作り出すとする場合には,日常活動は無茶苦茶となる. 煙の認識の発生が,煙の潜在印象によって作られたとするなら,その時,どうして,水の認識を,水の潜在印象が生み出しえないであろうか.

4.12.6 潜在印象は潜在印象の相続を作り出す原因であるまた,潜在印象は,必ず,自分と似た[潜在印象の]相続を作り出す原因と

なるはずであって,新得経験である認識を付与しようとはしないはずである.なぜなら,「似たものから似たものが生じる」というのが,あなた方(仏教徒)の見解だからである 32.

-30-

4.12.7 潜在印象の基体さらにまた,基体を持たずに潜在印象が存続することはない.そして,あな

た方の立場では,それ(潜在印象)の基体は何もありえない.というのも認識は刹那滅なので,それ(潜在印象)の基体たりえないからである.

(1)全ての潜在印象が[もし]一つの認識に依拠しているならば,それ(一つの認識)が滅した時に,[全ての潜在印象が]滅することになってしまう 33.

(2)潜在印象毎に基体が異なるならば,それ(基体となる認識)は無数となり,また[各認識の順序の]不特定性(不規則性)が何百通りとなる 34.

4.12.8 アーラヤ識の否定また,アーラヤ識(蔵識)なるものは何も存在しない.たとえ何千もの潜在

印象全ての拠り所として,それが存在するとしても,それ(アーラヤ識)は刹那的であるので,たった一度で,潜在印象の倉庫となるそのような認識は消滅してしまうことになる 35.或いは[アーラヤ識が]再び生じるなら,前と全く同じ(潜在印象の倉庫となる)その[アーラヤ]識が生じるはずであって,牛・馬等の認識の順序の特定性(特定の順序で認識が生じてくること)はありえない.というわけで,いずれにしても,この道は狭隘である.

4.12.9 まとめしたがって,「潜在印象のみに基づいて,世間の営為は成立するので,外界

対象が何になろうか」というこれは,哀れな者達の幻影 36 である.

4.13 形象は認識に属すものではない

 [君の]お喋り好きはもう沢山.これゆえ,実に長い間,巧みな者達によって確定されている青等という形象は,外界対象のみに属すものとして成立しているのであって,認識に属すものとしてではない. また,一つの認識が,どうして,認識結果・認識手段・認識対象の相を持つだろうか.既に以前に,知覚考察の際に,結果は認識手段とは別だと述べられた(NM I 188.12‒13).

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-30- -31-

5 全体への批判の排斥5.1 前主張

いっぽう,[次のように]言う者達がいる.【仏教徒】まず,認識手段の道は措いておこう.認識対象のみを選択肢を立てて検討すると,いかなる外界対象をも我々は打ち消されることなく理解することはない.すなわち,まず第一に,壺を始めとするこの全体はありえない 37.

5.1.1 部分とは別に把捉されないからなぜなら部分とは別に全体は把捉されないからである 38.というのも,X が

Y とは別のものである場合,その X は,Y の位置する場所とは別の場所に位置するものとして把捉されるからである.ちょうど,壺とは[別のものである]布がそうであるように.しかし,全体は,そのように,諸部分とは別の場所にあるものとして見られることはない 39.

5.1.2 諸部分を把握しない場合には,全体の把握はないからまた,それ(諸部分)を把握しない場合には,それ(全体)の認識はないか

らである.壺を把握せずとも布は把握される.しかし部分を把捉しない場合には全体が[把握されることは]ない.したがって,どうして,それ(全体)が,それら(諸部分)と別であろうか 40.

5.1.3 部分の把握はありえないからまた,部分の把握はありえないからである.というのも,それ(全体)の部

分の全てが把握されうるわけではないからである.こちら側にある[部分]だけが把握されうるのであって,中や向こう側にある[部分]は[把握されえ]ない,と[いうわけで]41.

5.1.4 心によって分割されると把捉されないからまた,心によって分割されると把捉されないからである 42.というのも,[或

る人が]布を手にとって,「これは糸」「これは糸」と心で分割する時,右の縁(へり)から左の縁までを分割すると,彼は,ただ糸の連続体のみを把捉する

-32-

のであって,それとは別に布なる全体を[把捉することは]ないからである.

5.1.5 帰属がありえないからまた,帰属がありえないからである 43.

5.1.5.1 その全体をもって帰属することはない一つの部分に,全体が,その全体をもって帰属することはない.それ以外の

[諸部分]には帰属してないことになってしまうからである.

5.1.5.2 その一部分をもって帰属することはないその一部分をもって[全体が一部分に]帰属すること[も]ない.なぜなら,

自らを形作る部分とは別なる一部分はないからである.或いは,[そのような別なる一部分を]認めるならば,無限後退となってしまうからである.それ(全体)が,一部分 X をもって,部分に帰属する場合に,その X にもどのようにして帰属するというのか.さらに別の一部分 Y でもって[帰属する],その Y にも更に別の[一部分]Z でもって[帰属する],というように終わりがない.しかし,全体は,一部分とは無関係である以上,どうして,それ(一部分)を通じて,自らを形作る[部分]とも関係するだろうか.

5.1.5.3 まとめしたがって,これ(全体)の部分への帰属は,両者いずれの場合もない.

5.1.6 不定いっぽう,[全体が部分とは別に存在することの証拠としてニヤーヤが提示

する]支えること・引っ張ること等は 44,未だ結果(最終的な全体)を形成していない木片・根っこ・綿花等にも見られるので,不定[因]である.

5.1.7 軍隊・森のようにいっぽう,一つの形象を持つ認識は分別に過ぎない.同一場所にあること等

という要因のせいで,

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-32- -33-

(1)象・馬・歩兵等を「軍隊」とするように,(2)ダヴァ(Grislea Tomentosa)・カディラ(アセンヤクノキ)・パラーシャ(ハ

ナモツヤクノキ)等を「森」とするように 45,集積した諸部分のみに対して,「壺」等という認識が生じるとすればよい 46.とこのように全体の部分の部分を[次々と]求めていくと,原子の単なる集積のみが後に残るのであって,他には[何も残ら]ない.

5.1.8 集積の考察また集積も,[諸原子と]別か非別かと考察されることで,決して存在しな

いことになるので,諸原子のみが残る.

5.1.9 原子の否定諸原子も,

 六つと同時に結合するので,[一つの]原子は六つの部分を持つことになる(Viṁś 12ab).

というように選択肢を立てて検討されると必ず雲散霧消する.また[知覚不可能な]非常に微細なそれら(諸原子)によって,この日常活動が実現されることはない,と.

5.1.10 まとめしたがって,外界の認識対象は,確定しようとするとありえないので,この

一切は単なる認識に過ぎない,と認めるべきである.

5.2 後主張【ニヤーヤ】このように主張している彼等も,先ほどの仏教徒達よりも,さらに惨めに思われる.以上の思弁の道は珍奇なものである,そこでは,[我々が持つ]実際の理解を捨てて,指を鳴らして 47,[勝手に]実在の設定が為されている.

-34-

 それ自体が打ち消されること等のない堅固な認識手段によって,全体が現に把握されているのならば,この幼児の跳躍 48 が何になろうか. もしも,いかなる認識手段によっても,それ(全体)の把握がないのならば,まさにそのことを[君は]指摘するべきである.帰属の選択肢をあれこれ立てて検討することに何の用があろうか.

また,我々は,いちいち,この仏教徒の輩 ― 新しい何かを僅かたりとも見ようとせず,同じ事を何度も[自説として]打ち出してくる ― と長々と喧嘩することはできない.

5.2.1 全体は知覚により成立している有分別の知覚が正しい認識の手段であることは既に[NM I 224.21‒22 で]論

証した.無分別の[知覚]によっても,有分別が捉えるのと同じ実在が言葉の描出のみを欠いて把握されている,と既に[NM I 256.6‒7 で]示した.一つの形象を持つ対象なしに,それ(全体)の認識が,同一の結果を持つことや同一場にあること等を根拠として誤って成立するということも,決して言うことはできない,と既に[NM apoha IV §3.4.5.4 で]説明した.或いは,軍隊を始めとする一部に関して,打ち消し[の認識]が降りかかってくることから,一つだとする認識が誤っていることを根拠に,[他の]全てに関しても[一つだとする認識が]誤っていると想定することは不合理である,ということも[NM

apoha IV §3.4.4 で]述べた.或いは,共通性(普遍)を正当化する際(NM

apoha IV)に述べられなかった何があろうか.(全て述べた.)したがって,[共通性で述べたのと]同じ論理によって,全体も既に確立されている.それ(全体)を把握する知覚が,打ち消されることがないからである.

5.2.2 部分に依拠していることいっぽう,「場所を別にして把握されることがないから」「それ(部分)を把

握しないと,それ(全体)の認識がないから」と[§5.1.1 と §5.1.2 で述べられていたが],[全体が]部分に依拠していることこそが,それの原因なのであって,[全体が]存在しないことが[原因なの]ではない 49.

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-34- -35-

 というのも,同じ場所にあるものが,場所を異にして認識されることが,どうしてあるだろうか.なぜなら,いかなるものも独立自存のものではないからである.で,それ(全体)もまた,部分に依拠したものである.

5.2.3 全部分を把握する必要はない また,一定範囲を把握する時にこれ(全体)の認識が生じる場合,その同じ範囲の把握を,それ(全体の認識)は必要とするのであって,全範囲の[把握を必要とするわけ]ではない,と定まっている 50.

5.2.4 部分を分けると全体がなくなる

 諸部分が[ばらばらに]分けて考えられると,それ(全体)が把握されなくなる(§5.1.4)のは理に適っている.なぜなら,その時には,全体の消滅が認識上に浮かんでいるからである.

なぜなら,諸部分を分割することは,全体の分割の原因だからである.それ(部分分割)が心によって描き出される時,全体消滅が描き出されてないことはありえないので,どうして全体がその時理解されるだろうか.

5.2.5 帰属は知覚により把捉される

 また,これ(全体)の諸部分への帰属(§5.1.5)は,その一部一部をもってのみであると理解される.個物[一つ一つ]に普遍が[全体をもって完結している]ように,部分一つ一つに,それ(全体)が[その全体をもって]完結しているわけではない 51. というのも,一部一部をもって[部分に]帰属しているとしても[全体]は,周知のように,さらに別の部分を通して帰属しているわけではないからである.そのようなものは認識されていないからである.しかし,それ

(一部一部をもって部分に帰属している全体)が,帰属していることに変わりはない.

-36-

また同様に[彼等は]言っている ― 帰属していると我々は主張する.依拠していないようなものは見られないからである.

 「このような帰属が,余所の何処で見られたのだ」と[君によって]言われているが,知覚で現に見られた対象に,実例を求めて何になろう 52.

したがって,全体の部分への帰属は,他ならぬ知覚によって把捉されているのだから,それ(部分)への帰属に関して選択肢による検討の出る幕はない.また,花輪の糸等の帰属も 53,現にそのように見られることから認められているのだ.それゆえ,全体のこの帰属も,このようなものとして現に見られている以上,どうして否定されようか.

5.2.6 知覚は誤りではないまた,全体を把握する知覚には,いかなる打ち消しもない.

 損傷要因の無い原因から生起しており,それを打ち消す[認識]が未だ現れておらず,疑わしくもない認識が,どうして,誤りと言われようか 54.

5.2.7 実例はパラレルではないまた,全体の把握を軍隊等と同様に語る(§5.1.7)のは適切ではない.なぜ

ならば[全体の把握は]未だ打ち消されていないからであり,また,軍隊等の場合は,打ち消す[認識]がありうるからである.

5.2.8 知覚により把握される全体が存在するさらにまた,象・馬・歩兵,ピール(Careya Arborea)・パラーシャ(ハナモ

ツヤクノキ)・シンシャパー(シッソノキ)等の視覚[認識]は,それらに対して現に起こっているのだから,それらの集積(§5.1.8)を軍隊・森とする認識は起こりもするだろう.いっぽう,今の場合,布の認識が何の集積を対象としているのか,検討される必要がある.

【問】[布の認識は]糸の集積を所縁としている.

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-36- -37-

【答】というならば,では,糸の認識は,何を所縁としているのか.【問】それ(糸の認識)もまた,[糸]それ自体の部分を所縁としている.【答】というように,部分の[さらなる]部分を[次々に]確定していく場合には,諸原子が,歩兵・馬,シャミー(ケジリ)・シンシャパー等に相当すると述べねばならなくなる.また,それら(諸原子)が,それら(歩兵等)と同様に,把握されることはありえない.というのも,[諸原子は]超感覚的だからである.したがって,全体の認識が,それら(諸原子)を所縁とすることはない.したがって,知覚により把握される全体は存在する,ということが確立した.

5.2.9 子は存在する諸原子 ― その常住かつ無部分の自体が,結果に基づく推論によって確定さ

れたもの ― も存在すると,既に前に[NM II 419.18‒420.11 で]裏付けた.これゆえ,六つ[の部分]との結合等を根拠に,これら(諸原子)が部分を有すると証明することはできない.[諸原子の]有形体性(物質性)もまた,無常性を引き起こすもの(推論させるもの)ではないということは,後から[NM

II 625.19‒626.1 で]示されよう.

5.2.10 まとめ以上から,認識対象探求の道によっても,空(くう)の理論を正当化するの

は容易ではない.というのも,認識対象の検討においては,[結局]認識手段の同じ問題が記述されることになるからである.そしてそれゆえ,認識手段の議論を怖れて逃亡してから,認識対象の議論の道に仏教徒は頼ろうとしたが,そこ(道)でも,前と同じ,恐ろしい顔をした,認識手段の同じ議論が降りかかってきた[ことになる].

6 空の理論の排斥6.1 外界の証明

 諸困難の[中を切り抜ける]道を示そうとして,[結局]運命がどうし

-38-

ようもなくなったとき,全てから逃げ出して,どこに[君は]行くというのか. したがって,認識手段によって,実在の確定が不可能にせよ可能にせよ,君がこのようにクシャ草に頼るのは 55(藁をも掴もうとするのは)不合理である. それゆえ,無益な,空(くう)の理論という鷺の誓戒(偽善)56 を捨てて,外界[実在]に他ならない対象群によって,日常活動を[君は]行うべきである.

6.2 信頼の緩みを生じさせるために空の理論等を説くのは回り道であるもし,[アートマン等への]信頼の緩みを生じさせるために,「一切は空(く

う)である,一切は刹那的である,無我である」と教示されているならば 57,この嘘が何になろうか 58.アートマンが存在するとしても,持続する諸事物が存在するとしても,対象の過失を見ることを通して,思慮ある人達には,離欲が生じないことはないので,それ(信頼の緩み)を生み出すために,空の理論等を説くのは回り道である.むしろ,解脱を求める賢明な人は,刹那滅論・無我論・空論等の説明を,論理によって否定されたものと理解しているので,それ(空の理論等)の教示を,詐欺に満ちているかのように思う.

6.3 まとめ このように空(くう)の理論を受け入れるのは,脳みそが空っぽの人達か,[他人を]担ごうとしている人達か,いずれかであって,真実の対象を見る人達ではない. したがって,言葉等の一元論と同様に,この認識一元論も,吟味検討されると,蜃気楼のようになる.

1 ジャヤンタ自身が錯誤論の前半・後半の役割分担を意識していることについては,Kataoka 2018b: 384(5), nn. 5‒6 を参照.2 なお,Watson & Kataoka 2010: 286 および Kataoka 2018b: 387(2)の表中の 1.1.10 ātman の開始箇所は II 278 ではなく II 267 に訂正する.

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-38- -39-

3 Schmithausen 1965: 160‒161. 4 ŚV nirālambana 14: tatrārthaśūnyaṁ vijñānaṁ yogācārāḥ samāśritāḥ/ tasyāpy abhāvam icchanti ye mādhyamikavādinaḥ//「そこで[外界]対象を欠いた認識に瑜伽行派は依拠している.[いっぽう]それ(認識)をも非存在だと中観派は主張する.」英訳は Kataoka 2018b: 382(7)を参照.5 Cf. 寺石 1994: 1001(82):「まず両章の構成の大枠について見ていくことにする。クマーリラの説明は次の通りである(N 章 vv. 14‒19ab)。両章において考察の対象となっているのは,仏教徒の唱える外界非実在論と知識非実在論である。このうち後者は前者に基づくため,前者が考察の対象となる。その前者(外界非実在論)はさらに認識手段による外界非実在論と認識対象による外界非実在論に分けられる。このうち後者は前者に基づくため,前者が考察の対象となる。その前者(認識手段による外界非実在論)は,さらに推理による外界非実在論と直接知覚による外界非実在論に分けられる。」6 asatkhyāti は言うまでもなく tatpuruṣa(「非有の現れ」=「非有が現れている」)で解釈され,karmadhāraya(「非有である現れ」)で解釈されるわけではない.7 もちろん,その延長線上に,一派生形として,現れているものについては同じく asat とするが,認識そのものについては否定するという形で,中観派の一説を位置付けることは可能である.実際,ラトナーカラシャーンティは,中観派の一説を,虚偽形象説を自説と共有するものとして記述する.彼の両派の区分基準の発想はクマーリラと同じである.Katsura 1976: 486(39): “3.5. “The Yogācāras & the Mādhyamikas have the same doctrine.” ... Difference between the two schools: The Yogācāras maintain that all but svasaṃvedana are unreal, while the Mādhyamikas regard even svasaṃvedana as unreal.”8 例えば,JNĀ 426.16, RNĀ 136.23. 9 仏教が前提とするモデルについて詳しくは片岡 2017b で論じた.10 Nyāyamañjarī 該当箇所の原典は Kataoka 2009: 465(34)‒464(35),和訳は片岡 2013: 30 を参照.11 仏教の論師との関係で言えば,ジャヤンタは,刹那滅論に関して Ravigupta の名前に言及する(NM II 337.9‒10).12 プラバーカラ派の akhyāti 説では,目の前の真珠母貝の欠片を捉える知覚と,昔に見た銀の想起との二つの認識があると考える.13 想起は想起として隠すところなく現れ来るはずなので,想起の忘失(smṛtipramoṣa)はありえない.14 非存在である akhyāti (=khyātyabhāva)は行動を起こす原因とはなりえない.15 打ち消す認識がある,ということは,それによって打ち消される錯誤があるということである.したがって,錯誤がないというプラバーカラ派の主張は成り立たない.16 全くの無が現れるというのは不合理である.17 bāhyendriya は,外的感官というように karmadhāraya とも,或いは,外界のもの・感官というように,dvandva でも解釈できる.平行句として viṣayendriya という明らかに dvandva の表現(NM khyāti §2.2.1.2.3)が同じことを論じる議論において見られる.しかし,ここでは,外的感官と内的感官の二通りに分かれると解釈した.18 NM khyāti §2.2.1.2.3 を参照すると,次のような錯誤の分類となる.

-40-

  1. bāhyendriyajā   1.1. viṣayadoṣeṇa   1.2. indriyadoṣeṇa  2. mānasī19 韻文中の yaḥ を散文中の saḥ が受ける形は,直後の韻文・散文における yā ... tasyām でも繰り返されている.20 deśakālānyathātvaṁ ... bhāti vastunaḥ の直訳は「実在の〈場所・時間に関する別様性〉が現れる」となる.deśakālābhyām anyathātvam と解釈した.Cf. ŚV nirālambana 107cd‒109ab: svapnā-dipratyaye bāhyaṁ sarvathā na hi neṣyate// sarvatrālambanaṁ bāhyaṁ deśakālānyathātmakam/ janmany ekatra bhinne vā tathā kālāntare ’pi vā// taddeśo vānyadeśo vā svapnajñānasya gocaraḥ/「夢眠等の認識において,外界[対象]が全面的に認められない,ということはないからである.いずれの場合も所縁は外界[対象]である.[ただし]場所・時を異にする.同じ生において,或いは,別の生において,同様に,[同じ生であっても]別の時においてであっても,同じ場所にあるものが, 或いは, 別の場所にあるものが, 夢眠の認識の対象である.」 ここでもdeśakālānyathātmakam は,「 場所・ 時に関して別様の自体を持つもの 」(deśakālābhyām anyathātmakam)と解釈した.Cf. ŚVK ad 107cd: svapnādijñānānām api sarvathā nirālambanatvābhāvāt sādhyahīno dṛṣṭāntaḥ.「夢眠等の認識も,全面的に所縁を欠いているわけではないので,実例は論証対象を欠いている.」なお,次の先行和訳は(いちいちの間違いの指摘は控えるが)誤訳に満ちており,全く信頼できないものである.寺石 2001: 46‒47:「夢眠時等の知識において,

〔所縁が〕外界ではないことは,いかにしても認められない。いかなる〔知識〕においても,場所的〔もしくは〕時間的に〔実際とは〕別様の外界のものが所縁である。同一の場所或るいは区別された〔場所〕で生じ,また同様に〔同一の時間或いは〕別の時間に〔生じる〕。夢眠時の知識の領域はその(同一の)場所或いは別の場所である。」 いっぽう Jha 英訳の解釈は

(anyathā を diverse と訳出するニュアンスの細かい違いや不要な補足は気になるものの)大きな問題はない.Jha 1983: 136‒137: “Even in dream-cognition the external substratum is not altogether absent. In all cases there is a real substratum, though (in dreams) appearing under diverse conditions of place and time. As a matter of fact too, what is comprehended by dream-cognition is (some real external object that has been perceived) either during the present life, or in some past life, or at any other time, and which comes to be cognised in dreams, either in connection with the same time and place, or under differ-ent circumstances.” ŚV śūnya 201: arthākārasya yo ’py ukto mithyājñāneṣv asaṁbhavaḥ/ deśa-kālānyathāmātrāt (-mātrāt] I1; -mātra- ed.) saṁbhavaḥ keṣucit kṛtaḥ//「また,[幻等を見る]誤った認識においては,[外界]対象の形象がありえないことが述べられていたが,場所・時間が異なるだけで,一部[の誤った認識]については可能であると[ŚV nirālambana 108ab で]された.」 先行和訳は次の通り.寺石 2003: 33:「また「知識が虚偽である場合、事物が形象を持つことはあり得ない」と、ある人々(唯識派)は述べた。〔それに対し〕場所的〔もしくは〕時間的に別様なだけという場合があり得ることが〔Nir 章で〕述べられた。」yaḥ ... uktaḥ を「ある人々は述べた」と解釈するのは不可能である.21 形象が認識に属すのか外界対象に属すのかという,いわゆる形象論のことを指している.22 Cf. ŚV śūnya 42: saṁsargadharma ākāras tasmād eva na yujyate/ deśabhedād asaṁsargo

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-40- -41-

mūrtāmūrtatayā tathā//「同じ理由で,形象を,[対象と認識の]接触の属性とするのは正しくない.[すなわち対象と認識は]場所が違うから,また,有形体・無形体なので,接触はない.」ここでターゲットとなる説として考えられるものに世親の説がある.すなわち世親は,形象(行相)を存在論的に(すなわちダルマの分類の中で)位置付けるにあたって,認識(細かく言えば相応する心所の一つである慧 prajñā)そのものと単純に同一視する(AK 7.13b: prajñākāraḥ)のではなく,間に成立するものとすることで,存在論的に形象を外か内かのいずれかに帰属させることを回避している.すなわち彼によれば,「形象とは全ての心・心所の所縁の把握の様相」(AKBh ad 7.13b: sarveṣāṁ cittacaittānām ālambanagrahaṇaprakāra ākāraḥ)である.ここに見られるように,所縁でもなく認識でもなく,その間に成立する把握の属性として形象(様相)を位置付けている.なお,ŚV śūnya 42 の先行和訳は以下の通りである.寺石 1998: 97:「形象が〔事物と知識の〕結合に属するということは,まさに次のことにより理にかなっていない。〔事物と知識は〕場所が区別されるため結合しない。〔事物と知識はそれぞれ〕物質的・非物質的であるから同様である(結合しない)。」23 Cf. ŚV śūnya 58: nakṣatraṁ tārakā tiṣyo dārā ity evamādiṣu/ naikatrārthe viruddhatvāl liṅgā-nekatvasaṁbhavaḥ//「nakṣatram(「星宿」中性形), tārakā(「星」女性形), tiṣyaḥ(「ティシヤ星宿」男性形), [および]dārāḥ(「(単数の)妻」男性・複数形)等の場合,矛盾するので,同一の対象にたいして,性が複数ありうることはない.」 なお先行和訳は以下の通りである.寺石 1998: 108:「〔いずれも星を意味する〕nakṣatra, tārakā, tiṣya, dārā 等〔の語〕の場合〔も事物に基づくものではない〕。〔語の性・数等が〕矛盾しているから,同一の事物に多くの特徴が存在することはありえない。」言うまでもないが,ここでの liṅga は性であって単なる特徴ではない.また dārāḥ の引例は星とは別の例である.24 dārāḥ は音声形としては男性主格・複数形であるが,意味は単数の妻である.25 ŚV śūnya 59ab: parivrāṭkāmukaśunāṁ kuṇapādimatis tathā/「同様に,[同一対象にたいしてであっても,相対的な基準によって(apekṣayā)],遊行者・情夫・犬にとっては[同じ女が],死体[・情婦・食い物]と認識される.」 先行和訳は以下の通り.寺石 1998: 108:「苦行者・恋する男・犬等が〔同一の女性に対して〕もつ死体〔・恋する女・食物〕等の知識も同様である。」26 Cf. ŚV śūnya 215‒216: kuṇapādimatau caivaṁ, sārvarūpye vyavasthite/ vāsanāḥ sahakāriṇyo vyavasthākāradarśane// svapratyayānukāro hi bahvākāreṣu vastuṣu/ nirdhāraṇe bhaved dhetur nāpūrvākārakalpane//「また,[同じ女性を]死体等と[見なす]認識についても同様である.全側面を持つことが定まっている場合に,潜在印象が,形象を個々別々に見る際の協働因となる.なぜなら,[潜在印象]自身の[かつての]認識との相似性が,多くの形象を持つ実在のなかから,[いずれかの形象を]引き出してくるのに原因となるのであって,[全く]未知の形象を作り上げるのに[原因となる]わけではないからである.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007b: 66:「また死体等の知識について〔も〕同様である。〔同一の女性に〕これらすべての形象が存在し、〔苦行者等がもつ各々の〕熏習が共働して特定の形象が見られるのである。なぜなら〔熏習は〕自らの〔原因である〕知識に従う。〔熏習は〕多様な形象を持つ実在に対して〔以前に経験されたある特定の形象を〕特定するだけであって、以前に〔認識され〕ない形象を想定する原因にはならないであろう。」

-42-

27 Cf. ŚV nirālambana 178‒179: na cāsti vāsanābhedo nimittāsaṁbhavāt tava/ jñānabhedo nimittaṁ cet tasya bhedaḥ kathaṁ punaḥ// vāsanābhedataś cet syāt prāptam anyonyasaṁśrayam/ svacchasya jñānarūpasya na hi bhedaḥ svato ’sti te//「また,君にとり,契機がありえないので,潜在印象の区別はない.【問】認識の違いが契機だ.【答】というならば,では,それ(認識)の違いはどうしてあるのか.【問】潜在印象の違いによる.【答】というならば,相互依存となる.君にとり,認識を本質とする透明のものに,それ自身では,違いは存在しないからである.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 49‒50:「熏習の区別は存在しない。君達(唯識派)にとって

〔熏習の区別の〕原因は存在しないから。もしも〔熏習の区別の〕原因が知識の区別であるならば、さらにそれ(知識)の区別はどうして〔存在するの〕か。もしも熏習の区別によって

〔知識の区別が存在するの〕であれば相互依存に陥るであろう。君達(唯識派)にとって、純粋な知識の本性はそれ自体として区別はない。」28 Cf. ŚV nirālambana 181cd‒182ab: kṣaṇikeṣu ca citteṣu vināśe ca niranvaye// vāsyavāsakayoś caivam asāhityān na vāsanā/「また,[一つ一つの]心が刹那的であり,かつ,残存することなく消滅する場合,薫り付けられるものと薫り付けるものとは次のように共在しないので,[先行認識による後続認識の]薫り付け(すなわち潜在印象)はない.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 51:「心が瞬間的存在(刹那滅)である場合、また残らず消滅する場合、次のように所熏・能熏は共存しないから熏習は〔存在し〕ない。」29 Cf. ŚV nirālambana 185ab: avasthitā hi vāsyante bhāvā bhāvair avasthitaiḥ/「なぜならば,存続する存在が,存続する存在により薫り付けられるからである.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 52:「というのは、存在しているものは存在しているものによって〔のみ〕熏習されるから。」30 Cf. ŚV nirālambana 182cd‒184: pūrvakṣaṇair anutpanno vāsyate nottaraḥ kṣaṇaḥ// uttareṇa vinaṣṭatvān na ca pūrvasya vāsanā/ sāhitye ca tayor naiva saṁbandho ’stīty avāsanā// kṣaṇikatvād dvayasyāpi vyāpāro na parasparam/ vinaśyac ca kathaṁ vastu vāsyate ’nyena naśyatā//「未生起の後続刹那が,先行刹那群により薫り付けられることはない.また,先行[刹那]は既滅なので,後続[刹那]により薫り付けられることはない.また,両者が共在するとしても[両者の間に]関係は全くない.したがって,薫り付け(潜在印象)はない.刹那的である以上,両者いずれにも,相互的な働きはない.また,向消滅状態の実在が,どうして,消滅しつつある他のものにより薫り付けられようか.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 51‒52:「前の瞬間のものは、まだ生じていない後の瞬間のものを熏習しない。また後〔の瞬間〕のものは前〔の瞬間〕のものにとって熏習ではない。〔前の瞬間のものは〕消滅しているから。2つのものが共存したとしても、〔両者は〕決して関係しないから熏習ではない。両者とも瞬間的存在(刹那滅)であるから、相互に作用はない。また消滅しつつあるものが、どうして他の消滅しつつあるものによって熏習されるのか。」uttareṇa ... pūrvasya vāsanā を「後のものは前のものにとって熏習ではない」とする解釈は構文的に不可能であるばかりか,日本語としても意味不明である.31 Cf. ŚV nirālambana 190cd‒192ab: yadi syād ānurūpyāc ca vāsanā, godhiyo yadā// hastibuddhir bhavet, tatra vailakṣaṇyān na vāsanā/ tataḥ paraṁ ca gojñānaṁ nirmūlatvān na saṁbhavet// sarvaṁ vilakṣaṇaṁ jñānaṁ na syād eva vilakṣaṇāt/「もしも,[先行認識に]従った形を[後続認識が]持

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-42- -43-

つことによって[先行認識が後続認識を]薫り付ける,というのならば,牛認識から[直後に]象認識が生じる場合に,[象認識は牛認識とは]異なる相を持つので,薫り付けはない.また,その後で,牛認識は,[潜在印象を欠き]無根拠なので,ありえなくなる.全ての異なる認識は,異なる[認識]からは決してないことになる.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 54:「また牛の知識の後に象の知識が生じる場合、もしも類似によって熏習〔が存在する〕ならば、その場合に熏習〔は存在し〕ない。〔牛の知識と象の知識は〕性質が異なるから。従ってまた〔牛の知識の〕後に牛の知識〔が生じること〕はあり得ない。〔知識を生じる〕原因

(熏習)がないから。性質の異なるいかなる知識も、性質の異なるものから〔生じることは〕決してない。」32 ŚV nirālambana 196cd‒197: vāsanānāṁ pravāho ’pi yadi jñānapravāhavat// vāsanātas tato jñānaṁ na syāt tasmāc ca vāsanā/ kuryātāṁ tulyam evaite, nānyonyaṁ tu kadācana//「もしも,潜在印象の流れも,認識の流れのようであるのならば,その潜在印象から認識はないことになる.また,それ(認識)から潜在印象はないことになる.両者は,[自分に似た]同じものだけを作ることになるのであって,相互に[作ることは]決してない.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 56:「もしも知識の流れと同様に〔独立した〕熏習の流れもあるならば〔知識が消滅しても熏習が消滅することはない。しかし〕その熏習から〔生じる〕知識は存在しないであろう。そしてそれにより〔知識から生じる〕熏習〔も存在しないであろう〕。それら(知識或いは熏習)は〔それぞれ自らと〕全く同じものを生じるであろう。しかしいかなる場合も、相互に〔他方を生じることは〕ない。」33 ŚV nirālambana 194‒196ab: tatraiva jñānanāśena vinaṣṭāḥ sarvavāsanāḥ/ tena sarvābhya etābhyaḥ sarvākāraṁ yad utthitam// jñānam ekakṣaṇenaiva vināśaṁ gantum arhati/ yady āśrayavināśe ’pi śaktyanāśo ’bhyupeyate// kṣaṇikatvaṁ ca hīyeta, na cārambho ’nyathā bhavet/「まさにそこで,認識の滅により,全ての潜在印象は滅してしまっている.それゆえ,これら全て[の潜在印象]から,全ての形象を持つ認識が生じた場合,その認識は,一刹那のみで消滅しうる.また,もしも,基体が消滅しても能力(潜在印象)は消滅しないと認めるのならば,[自身が定説とする]刹那滅性を捨てることになろう.また,[結果の]新造は,これ以外の仕方ではありえない.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 55‒56:「その場合にこそ〔唯識派にとっては1つの〕知識が消滅することにより、〔その知識から順番に作られた〕あらゆる熏習が消滅する。従ってすべてのそれら(熏習)によってすべての形象〔をもつ知識〕が生じるとしても、知識はまさに一瞬で消滅することを理解しなければならない。もしも依処が消滅しても消滅しない能力が認められるならば、〔すべては〕瞬間的存在(刹那滅)だ〔とする唯識派の定説〕は放棄されるであろう。また〔瞬間的存在とは〕別様に〔結果が〕成立することはあり得ないであろう。」vināśaṁ gantum arhati を「消滅することを理解しなければならない」と解釈するのは誤りである.34 一つの現起認識(pravṛttijñāna)の上に全ての潜在印象を想定するモデルでは,現起認識の消滅により全ての潜在印象が滅するという全滅の怖れがある.では,その危険を回避するために,一個一個の潜在印象毎に異なる現起認識を立てるモデルの場合はどうなるのか.その場合,現起認識が同時に無数あることになる.また,青の認識の後に黄の認識,そして,牛の認識の後に馬の認識というような認識順序の特定性が失われてしまう.というのも全て同

-44-

時に現起することになるからである.35 ŚVTṬ ad nirālambana 193cd‒195ab: kāraṇavināśānantaraṁ kāryam (kāryam] ms.; ca sarvaṁ kāryam ed.) udetīti vo (vo] ms.; bauddha- ed.) darśanam, anyathā kramayaugapadyābhyām arthakriyāvirodhāt. ālayavijñānavināśe ca tadādhārā vāsanā vinaśyanti. tataś ca “etāḥ (etāḥ] ms.; tāḥ ed.) svānurūpāṇi vijñānāni vicitrāṇi janayanti, ekasmin kāla utpadyamānāni bhinnāny api” iti na śakyaṁ (śakyaṁ] ms.; śakyate ed.) vaktum. ekam eva hi (eva hi] ms.; eva ed.) tad vicitraṁ prāpnoti citrabuddhivat.「原因の消滅の直後に結果は生起する,というのが,あなたの見解である.さもないと(消滅の直後に原因が結果を生み出さないならば),継起的に或いは一度に効果を為すこと(結果を生み出すこと)が矛盾を来すからである.また,アーラヤ識が消滅すると,それを拠り所とする諸潜在印象は消滅する.そして,そうすると,「これら(諸々の潜在印象)は,それぞれの形に応じた(似た)様々な認識を,同時に生起する別々の[認識]も含めて,生み出す」と言うことはできない.なぜなら,唯一のそれ(認識)が,絵の認識のように,多様となってしまうからである.」36 直訳は「逃げ水」.37 ジャヤンタ自身が後から(§5.2.1)言及するように,以下の「全体」に関する議論は,普遍に関する議論とパラレルである.NM 中の仏教の普遍批判,および,ジャヤンタの普遍論については,片岡 2015, 2014 を参照.38 ViṁśV ad 11: na tāvad ekaṁ viṣayo bhavati, avayavebhyo ’nyasyāvayavirūpasya kvacid apy agrahaṇāt. 梶山 1967: 437「そのうち、単一なものは(認識の)対象とならない。というのは、

(対象の)諸部分と別に、単一な全体性などどこにも認識されはしないからである。」39 普遍についての対応する議論は,片岡 2015: 83, §3.1.40 普遍に関する対応議論は,片岡 2015: 84, §3.3.41 ViṁśV ad 15: arvāgbhāgasya ca grahaṇaṁ parabhāgasya cāgrahaṇaṁ yugapan na syāt. 梶山 1967: 440:「また、(ものの)こちら側の部分をつかみ、あちら側の部分はつかんでいないという事態は、同時には起こらないであろう。」Silk 2016: 105: “And the apprehension of a facing portion and the non-apprehension of the non-facing portion would not be simultaneous.” なお,ジャヤンタは物理的な把握ではなく,認識の意味での把握を意図している.42 校訂本の注記を参照.NBh ad 4.2.26: yathā “ayaṁ tantur ayaṁ tantuḥ” iti pratyekaṁ tantubuddhyā vivicyamāneṣu nārthāntaraṁ kiṁcid upalabhyate yat paṭabuddher viṣayaḥ syāt, yāthātmyānupalabdher asati viṣaye paṭabuddhir bhavantī mithyābuddhir bhavati, evaṁ sarvatreti.「「これは糸,これは糸」と,一本ずつ糸の認識によって分析されると,布の認識の対象となるような,[糸とは]別の対象は何も把捉されることがない.[対象の]自体の通りに把捉されていないので,[布という]対象が存在しないのに布の認識が生じていることになるので,それは,錯誤知である.ちょうどそれと同様に,あらゆる場合に[対象の認識は錯誤知である].」AKBh ad 6.4 (334.3‒4): yasminn avayavaśo bhinne na tadbuddhir bhavati, tat saṁvṛtisat, tad yathā ghaṭaḥ. tatra hi kapālaśo bhinne ghaṭabuddhir na bhavati.「Xが諸部分に分けられると,そのXの認識が生じない場合,そのXは世俗有である.たとえば壺である.なぜなら,そこでは,陶片に分けられると,壺の認識は生じないからである.」43 普遍に関する対応議論は,片岡 2015: 84, §4.1.

唯識の錯誤説に対する Jayanta の批判

-44- -45-

44 NS 2.1.35 に対する NBh と NVTṬ の説明に従うと以下のように理解できる.諸部分とは別に全体は存在する.部分部分が集結して全体を新たに形成することで,例えば壺という全体に,水を支えることという結果が可能となる.また牛という全体に引っ張ることという結果が可能となる.もし部分とは別に全体が存在せず,諸部分がこれらの結果を担うのであらば,諸部分である粉の集合にもこれらの結果が見られてもいいはずであるが,そのようなことはない.したがって全体は部分とは別に存在する. 45 NS 2.1.36: senāvanavad grahaṇam iti cen nātīndriyatvād aṇūnām.「軍隊や森のように把握がある.というならば,そうではない.諸原子は超感覚的対象なので.」46 NBh ad 2.1.36 (76.14‒15): yathā senāṅgeṣu vanāṅgeṣu cārādagṛhyamāṇapṛthaktveṣu “ekam idam” ity utpadyate buddhiḥ, evam aṇuṣu saṁciteṣv agṛhyamāṇapṛthaktveṣu “ekam idam” ity upapadyate buddhir iti. 「ちょうど,軍隊の一部や森の一部に対して,遠くから個別性が把握されない場合には,「これは一つだ」という認識が生じるのと同様に,個別性が把握されない集積した諸原子に対して,「これは一つだ」という認識は可能である,と.」47 Kuṭṭanīmata に類似表現が見られる.KM 692cd: gūḍhasthānaprakaṭanam aṅgulivisphoṭanaṁ smitaṁ subhagam// Dezső & Goodall 2012: 263: “Flashing your hidden body parts; Snapping your fingers; pleasing smiles.” 48 同一表現がTattvopaplavasiṁhaに見られる.TUP 160.20‒22: evaṁ ca sati yad uktam idānīntanam astitvaṁ na hi pūrvadhiyā gatam iti tad bālavalgitam. Franco 1987: 161: “And thus, what has been said, [namely] “for the present existence is not apprehended by a previous cognition,” is the skipping of a child.”49 普遍に関する対応議論は,片岡 2014: 52, §3.2.2 参照.50 §5.1.3 への回答.51 普遍に関する対応議論は,片岡 2014: 53, §3.2.3 参照.52 同様の趣旨の詩節が対応する普遍議論に見られる.片岡 2014: 53, §3.2.3 参照.53 花輪の糸等の帰属については,原典校訂に引用の箇所(Kataoka 2010: 188(93).6‒7)および対応する和訳の脚注である片岡 2014: 80, n. 83 を参照.54 apramāṇa(Kataoka 2011: II 261, n. 222 参照)の三種(認識の無,疑惑,錯誤)のうち,錯誤の下位分類二種と疑惑とを排除している.55 この表現については NM khyāti §2.1.11.1 の注記を参照.56 Manu 4.196: adhodṛṣṭir naikṛtikaḥ svārthasādhanatatparaḥ/ śaṭho mithyāvinītaś ca bakavratacaro dvijaḥ// 渡瀬信之 1991: 151:「目を伏せ、性格が残酷で、自分の目的の成功しか頭になく、不誠実で、偽りの謙譲を示すブラーフマナは「鷺のように振舞う者」である。」57 NM āgamaprāmāṇya §6.1.1.2(Kataoka 2004: 191(162).6)に「いっぽう無我論者達は,アートマン[への執着]の緩みが生じるよう,[無我を]そのように教示している」(nairātmyavādinas tv ātmaśaithilyajananāya tathopadiśanti)という表現が見られる(和訳は片岡 2007: 66).58 Cf. ŚV nirālambana 201: yuktyānupetām asatīṁ prakalpya yad vāsanām arthanirākriyeyam/āsthānivṛttyartham avādi buddhair (buddhair] PI1; bauddhair D), grāhaṁ gatās tatra kathaṁcid anye//

「裏付けを欠いた〈非有の潜在印象〉を想定してから,[外界]対象のこのような排斥を仏陀がお説きになったのは[外界対象への]信頼をなくすためである.それに,他の者達は,どうか

-46-

すると執着してしまっている.」 先行和訳は次の通り.寺石 2007a: 58:「仏教徒は〔外界の事物についての〕配慮を否定するために、道理を備えず存在しない熏習を考えて、このような事物の否定を述べる。他〔学派〕の人々はそれに関する認識をどうして理解できようか。」 Jha 英訳は,Chowkhamba 本の脚注異読にも挙げられている Pandit 版の読みを前提としている.Jha 1983: 148: “As a matter of fact, this denial of (the reality of external) objects, ― following upon the assumption of such an “Impression-theory,” which is incorrect and devoid of reason, ― was declared by the Buddha, with the sole object of alienating the affections (of men from such worldly objects); and somehow or other, some people (the socalled followers Bauddha) fell into a mistake (and accepted it to its utmost extent, as the denial of all external substratum of cognitions).” ŚVTṬ ad nirālambana 201: bauddhadarśanam api (bauddhadarśanam api] ms.; bauddham api darśanaṁ ed.) tātparyato (tātparyato] ms.; tātparyeṇa ed.) naivāvagatam (naivāvagatam] ms.; nāvagatam ed.) ity āha ― yuktyānupetām iti

(yuktyānupetām iti] ed.; yuktyānupatām asatīṁ prakalpyeti ms.). sa hi buddhas tattvadarśī katham iva (katham iva] ms.; nāma kathamapi ed.) yuktyānupetām ata (-tām ata] ms.; -tāṁ tata ed.) evāsatīṁ (-satīṁ]

ms.; -satīṁ vāsanāṁ ed.) prakalpya lokayātrāsiddhiṁ kuryāt (-siddhiṁ kuryāt] ms.; -siddhyaṅgatayāyatata ed.). lokaviṣayāt saṅgād vyāvarttayituṁ (lokaviṣayāt saṅgād vyāvarttayituṁ] ms.; tasmād yathā kathaṁcid rāgaparo lokaḥ saṁgrāhya iti ed.) yad buddhenoktaṁ tatrānyathaivātattvadarśino ’bhiniviṣṭā iti (yad buddhenoktaṁ tatrānyathaivātattvadarśino ’bhiniviṣṭā iti] ms.; buddhenokte tatrānyathaivātattvadarśino mābhiniviṣṭā bhūteti ed.).「仏教説も,真意に沿っては,全く理解されていない,ということを述べて ― 「裏付けを欠いた」と.というのも,真実を見るかの仏陀が,いったいどうして,裏付けを欠いた,それゆえに,非有なるものを,[わざわざ]想定してから,世間の営為の証明をするだろうか.世俗への執着を取り除くために仏陀が述べたことに,真実を見ない者達は,完全に誤って執着してしまっているのだ,と.」