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79 阿里山ツオウ族の戦前・戦後 -イウスム・ムキナナ氏のライフヒストリーを中心に一 松田吉郎* (平成11年9月20日受理) はじめに 私がイウスム・ムキナナさんに最初に会ったのは1996 年8月のことであった。所は台湾阿里山郷楽野(ララウ ヤ)村である。実はこの年, 6月から10月まで5ケ月間, 交流協会日台交流センターの歴史学研究者のフェローに 選ばれ,同センターより奨学金を戴いて台湾で在学研究 を行っていた。テーマは「日本統治時代台湾原住民教育 史研究」。台湾師範大学歴史学系教授呉文星先生のご指 導を受け,研究方法の基礎を教えて戴き,史料収集を行っ ていた。その時,私は出来れば文献史料だけでなく,聞 き取り調査によって日本統治時代の教育状況等を生に触 れたいと思っていた。友人の広橋賢蔵氏に仲介して戴い て,順益台湾原住民博物館館長土田滋先生にお会いでき, 土田先生から何人かの原住民の方を紹介して戴いた。そ のお一人に阿里山ツオウ族のヤパスヨング・ペヨンシ (日本名山中松夫,漠名江光輝,昭和6年く1931)生, 68歳)さんがいた。私が阿里山を訪問し,ヤパスヨング・ ペヨンシさんにお会いし,さらに同地のツオウ族の多く の方々よりお話をお伺いすることができた。そのお一人 がイウスム・ムキナナさん,日本名向野政一,漢名武義 徳さん,大正12年(1923)生, 76歳である。 本稿はイウスム・ムキナナ(向野政一)さんのお話を 中心に阿里山ツオウ族より聞き取りができた日本統治時 代及び戦後のツオウ族社会について論述しようとするも のである。本文中で特に註で断らない限り,資料的根拠 は向野政一さんの口述である(1) 言うまでもなく,本稿の基礎資料は聞き取り史料であ るが,可能な限り当時の文献史料を交えながら述べたい。 l阿里山ツオウ族 ツオウ族は台湾原住民九種族の一つである。日本統治 時代初期,阿里山ツオウ族はルフト(鹿株大社),イム ツ(全仔大社,泉仔大社),トフヤ(知母腰大社,株母 腸大社),タパン(連邦大社)の阿里山頂四杜(阿里山 上四社と呼ばれる)とタコプラン(勃仔大社),カナプ (干仔霧大社),サアロア(排勢大社),ビラガヌ(美確 大社)の阿里山下四社に分かれる(2) この内,阿里山上四社の明治28年(1895)当時戸口数 は株膳母杜が戸23,男226,女241,計467,達邦社が戸 5,男264,女241,計505,鹿株社が戸11,男67, 計129,泉仔社が戸10,男51,女53,計104であった。 に株母月労社の管下に属す大小11社,戸数91戸,人口,男 617人,女609人,計1,225人,連邦社の管下に属す大小 16杜,戸数89戸,人口,男661人,女604人,計1, で,これら阿里山上四杜全戸数249,男1,886人,女 1,810人,合計3,695人であった。 第1表より阿里山ツオウ族氏族系統の特にトフヤ,タ パン系を見ると,これらは父系である。ムキナナ家はイ シガナ(日本名:石河,以下同じ),ユルナナ(湯川), ヤシウグ(安井)の系統にあたる。この系統でヤシウグ (安井),ムキナナ(向野),ヤサキイ(矢崎),ティキアー ナ(手島)の4家は同系統で婚姻できなかった。特にヤ シウグはムキナナ等3家の本家であり,ムキナナはヤシ ウグに何十代も養われてきたから,両家は婚姻できなかっ た。このように4家の父系は婚姻できず,母方の家族と も日本統治時代前は結婚できなかったが,日本時代より これは許されるようになった。 頭目はペヨンシと呼ばれ,これは蜜蜂の王という意味 である。ペヨンシのもとの姓はヤバイナ,ソパパヤーナ であった。ペヨンシは日本時代は山中という姓をもらっ m 戦闘の時の大将をユオジョムといい,ニヤウヨガナ (西神),ヤシウグ(安井)の姓のものがなった。また補 佐をマオタヌといい,タッパン(田原),ウチナ(内野) 姓のものがなっていた。 IIイウスム・ムキナナ(向野政一)さんの戦前 (1)ムキナナ家について 向野政一さんの両親,兄弟の系図は第2表の通りであ る。 ムキナナ家は向野政一さんの何代か前にトフヤから, ララウヤに移住したOもともと,ムキナナ一族の故郷は トフヤのムキナナ家から分家したものである。このララ ウヤは山紅葉という意味だそうである。始めは耕作小屋 を置き,同地で開墾に成功したので移住してきた。この ララウヤへの最終的な移住は昭和3, 4年(1928, 29) ・兵庫教育大学第2部(社会系教育講座)

阿里山ツオウ族の戦前・戦後repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1172/1/...て,順益台湾原住民博物館館長土田滋先生にお会いでき, 土田先生から何人かの原住民の方を紹介して戴いた。そ

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Page 1: 阿里山ツオウ族の戦前・戦後repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1172/1/...て,順益台湾原住民博物館館長土田滋先生にお会いでき, 土田先生から何人かの原住民の方を紹介して戴いた。そ

79

阿里山ツオウ族の戦前・戦後

-イウスム・ムキナナ氏のライフヒストリーを中心に一

松田吉郎*(平成11年9月20日受理)

はじめに

私がイウスム・ムキナナさんに最初に会ったのは1996

年8月のことであった。所は台湾阿里山郷楽野(ララウ

ヤ)村である。実はこの年, 6月から10月まで5ケ月間,

交流協会日台交流センターの歴史学研究者のフェローに

選ばれ,同センターより奨学金を戴いて台湾で在学研究

を行っていた。テーマは「日本統治時代台湾原住民教育

史研究」。台湾師範大学歴史学系教授呉文星先生のご指

導を受け,研究方法の基礎を教えて戴き,史料収集を行っ

ていた。その時,私は出来れば文献史料だけでなく,聞

き取り調査によって日本統治時代の教育状況等を生に触

れたいと思っていた。友人の広橋賢蔵氏に仲介して戴い

て,順益台湾原住民博物館館長土田滋先生にお会いでき,

土田先生から何人かの原住民の方を紹介して戴いた。そ

のお一人に阿里山ツオウ族のヤパスヨング・ペヨンシ

(日本名山中松夫,漠名江光輝,昭和6年く1931)生,

68歳)さんがいた。私が阿里山を訪問し,ヤパスヨング・

ペヨンシさんにお会いし,さらに同地のツオウ族の多く

の方々よりお話をお伺いすることができた。そのお一人

がイウスム・ムキナナさん,日本名向野政一,漢名武義

徳さん,大正12年(1923)生, 76歳である。

本稿はイウスム・ムキナナ(向野政一)さんのお話を

中心に阿里山ツオウ族より聞き取りができた日本統治時

代及び戦後のツオウ族社会について論述しようとするも

のである。本文中で特に註で断らない限り,資料的根拠

は向野政一さんの口述である(1)

言うまでもなく,本稿の基礎資料は聞き取り史料であ

るが,可能な限り当時の文献史料を交えながら述べたい。

l阿里山ツオウ族

ツオウ族は台湾原住民九種族の一つである。日本統治

時代初期,阿里山ツオウ族はルフト(鹿株大社),イム

ツ(全仔大社,泉仔大社),トフヤ(知母腰大社,株母

腸大社),タパン(連邦大社)の阿里山頂四杜(阿里山

上四社と呼ばれる)とタコプラン(勃仔大社),カナプ

(干仔霧大社),サアロア(排勢大社),ビラガヌ(美確

大社)の阿里山下四社に分かれる(2)

この内,阿里山上四社の明治28年(1895)当時戸口数

は株膳母杜が戸23,男226,女241,計467,達邦社が戸2

5,男264,女241,計505,鹿株社が戸11,男67,女62,

計129,泉仔社が戸10,男51,女53,計104であった。外

に株母月労社の管下に属す大小11社,戸数91戸,人口,男

617人,女609人,計1,225人,連邦社の管下に属す大小

16杜,戸数89戸,人口,男661人,女604人,計1,265人

で,これら阿里山上四杜全戸数249,男1,886人,女

1,810人,合計3,695人であった。

第1表より阿里山ツオウ族氏族系統の特にトフヤ,タ

パン系を見ると,これらは父系である。ムキナナ家はイ

シガナ(日本名:石河,以下同じ),ユルナナ(湯川),

ヤシウグ(安井)の系統にあたる。この系統でヤシウグ

(安井),ムキナナ(向野),ヤサキイ(矢崎),ティキアー

ナ(手島)の4家は同系統で婚姻できなかった。特にヤ

シウグはムキナナ等3家の本家であり,ムキナナはヤシ

ウグに何十代も養われてきたから,両家は婚姻できなかっ

た。このように4家の父系は婚姻できず,母方の家族と

も日本統治時代前は結婚できなかったが,日本時代より

これは許されるようになった。

頭目はペヨンシと呼ばれ,これは蜜蜂の王という意味

である。ペヨンシのもとの姓はヤバイナ,ソパパヤーナ

であった。ペヨンシは日本時代は山中という姓をもらっ

m

戦闘の時の大将をユオジョムといい,ニヤウヨガナ

(西神),ヤシウグ(安井)の姓のものがなった。また補

佐をマオタヌといい,タッパン(田原),ウチナ(内野)

姓のものがなっていた。

IIイウスム・ムキナナ(向野政一)さんの戦前

(1)ムキナナ家について

向野政一さんの両親,兄弟の系図は第2表の通りであ

る。

ムキナナ家は向野政一さんの何代か前にトフヤから,

ララウヤに移住したOもともと,ムキナナ一族の故郷は

トフヤのムキナナ家から分家したものである。このララ

ウヤは山紅葉という意味だそうである。始めは耕作小屋

を置き,同地で開墾に成功したので移住してきた。この

ララウヤへの最終的な移住は昭和3, 4年(1928, 29)

・兵庫教育大学第2部(社会系教育講座)

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第1表阿里山ツオウ族氏族系統

ヤイシカナ

(石河)

タッパン(田原),

ユルナナ

(湯川) 1ニヤウヨガナ

(西神)

トシュク

ヤシウグ

(安井)

ルヤザナコポーユアナ

(石河)

ティアキアナ

(手島)ヤサキイ

(矢崎)

ムキナナ

(向野)

知母伊達邦系

(トフヤ,

タパン)

ヤタウユガナT(矢多)

ニヤホサ

(西村)=十

ポイツオヌ(細井),ウチナ(内野)

ノアザチアナ(野田)

アクワヤナ(阿波),ヤバイヤナ(矢場)

トトサナ(外山),サゴアナ

ペヨンシ(山中) -ヤブスヨガナ(矢吹)

全仔系アヌクナ(有村),フォザナ(阿波)

(イムツ)

頭目ペヨンシ(女王蜂),ペヨンシのもとの姓はヤバイナ,ソパパヤーナで,後にペヨンシ(蜜蜂の王)

という姓をもらった。

大将ユオジョム

補佐マヲタヌ

ニヤウヨガナ(西神),ヤシウグ(安井)

クッパン(田原),ウチナ(内野)(3)

頃であった。また,日本時代に他の原住民は強制移住さ

れていたが(4)阿里山では本格的なものは無かったと言

われる。向野さんの子供時代の大正末から昭和初期

(1920-30年代)にはララウヤには7軒あった。その7

軒とは山中(当時の家長は山中寅夫くモオ・ペヨンシ),

第2表向野政一さんの家系

父 :向野栄太郎 ツオウ族

I (パス- ヤ . ムキナナ)

I

母 :西村衣子 ツオウ族

(クワ トウ . ニヤホサ)

以下同じ),向野(ポユ・ムキナナ),西村(ウオグ・ニ

ヤホサ),湯川(アバイ・ユルナナ),矢場(パスヤ・ヤ

バイヤナ),安井(パスヤ・ヤシウの,矢津(ヤパスヨ

グ・ルヤザナ)であった。

(柄)ハイツ・ムキナナ

向野スミ子(モトオユ・ムキナナ)

向野政一(イウスム・ムキナナ)

ll

西村義子(イムユ・ニヤホサ)

ツオウ族

向野愛佳(ポイム・ムキナナ)

向野実(ヤパショヌ・ムキナナ)

ll

山中安子(ハイチュ・ペヨンシ)

ツオウ族

向野義友(モオ・ムキナナ)

向野良子(ヤムイ・ムキナナ)

向野絹子(サユダ・ムキナナ)

(2)ララウヤ教育所時代

向野政一さんは大正12年(1923) 10月10日生まれと戸

籍上にはなっでいるが,実際は同年11月13日'そあった。

名前はイウスム・ムキナナと付けられた。ララウヤでは

一般的に母方の伯父が名付親になっていた.それと握別

に,父の向野栄太郎(パスーヤ・ムキナナ)さんから組

大正6年生亡

大正8年生

大正12年10月10日生

昭和2年生

昭和2年生台中師範学校出身昭和5年11月15日生

昭和4年5月生

昭和7年生亡

昭和9年生

昭和15年生

長(自助会の下部組織の長:後述)を通じて駐在所に日

本名「向野政一」と届けられた。当時,このような改姓

名は父親時代から行われ,阿里山全体で行われていた。

ちなみに私が阿里山でお会いした60歳以上の方20人前後

ゐ皆さんは全て改姓名されていたo

昭和8年(1933) 8歳の時,弟の向野愛佳(ポイム・

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阿里山ツオウ族の戦前・戦後

ムキナナ,昭和2年(1927)坐(5))さんと一緒にララウ

ヤ教育所に第一期生として入所した。同期の者は30数名

で,当初は女子が教育所に入ると仕事をしなくなるとい

う理由から女子の入所が少なかったが,昭和11年(1936)

以後は女子も入るようになった。当時の学齢児童の教育

所入所に際しては駐在所が名簿によって「強制的」に入

所を指示していたォ)この年に同教育所が出発したの

であるが,それまではタッパン教育所(明治37年(1907)

開所(7))に皆通っていた。第一期生は7歳から10数歳

の子供が入り,厳密な就学年齢は適用されなかったォ)

向野政一さんは昭和12年(1937)まで4年間在学した。

当時は4年制であったが, 1930年代後半から6年制に変

わる.(9)

この4年間に教わった教員は安井猛(モオ・ヤシウグ,

ツオウ族)さん,宮内明(日本人)さんの二名に,助教

の西村房吉(ニヤホサ・ヤブスヨグ,ツオウ族)さんの

合計三名であった。安井猛さんはララウヤ村出身,タッ

パン教育所卒業後,嘉義農林学校に進み,そこを卒業後,

ララウヤ駐在所巡査となり,教育所の全授業を担当した。

日本文がうまく『警察の友』という雑誌に文章を載せて

いた(10)。宮内明さんは宮崎県都城出身で小学校出の元

大工。渡台後,同駐在所巡査となり,教育所で特に国語

(日本語)を担当した。昭和19年(1944)に第四回高砂

義勇隊長として出征し,神経病にかかり,その後病死し

た。この方は元大工であったから,教育所でも「校務且」

のする大工仕事もやり,村の衛生所(保健所),交易所

(物産売買所)をも担当するなど何でもこなしていたと

いう。西村房吉さんもララウヤ出身のツオウ族でクッパ

ン教育所卒業後,ララウヤ教育所助教となり,国語,農

業指導を行った。助教は一般教員の補助を行ったようで

ある。

当時の教科は国語が中心でこれは,午前・午後合わせ

て毎日5時間あり,他に歴史,地理,修身,算術,唱歌,

農業実習があった。国語等は教科書が用いられていた。

手島年子(タニププ・ティアキ7-チ,明治40年(1907)

7月10日生, 92歳)さんの口述によるとタッパン教育所

では女子には裁縫の時間もあったというから,ララウヤ

教育所でも裁縫の時間があったと思われる。

国語は読み方,書き方(平仮名,片仮名,漢字),綴

り方(手島義矩さん(アバイ・ティアキ7-ナ,昭和2

年く1927) 1月20日生, 72歳)の口述)があった。歴史

は簡単な内容,地理も同様でチェコスログァキアなどの

地名を習ったと言われる。農業では教育所附属の実習園

で蕃藷(サツマイモ),粟,_白菜,花の作り方を習い,

耕作,堆肥の作り方を習づた。実習園にはまた堆肥舎が

あった。実習園でできた作物はお客が訪問した時に会さ

れた。さらに美化作業として帯の作り方も教わった。算

術では足し算,引き算,掛け算,割り算,九九を習った。

81

ある時,安井猛先生が生徒に「一番良い石は何ですか」

と質問されたら,生徒は「宝石」と答え,さらに「二番

目に良い石は何ですか」と質問すると, 「大理石」と答

えた。最後に「一番悪い石は何ですか」と質問すると,

誰も答えられなかった。 「それは蒋介石」ですとおっしゃ

た。日中戦争(1937-45)時期に日本が中国大陸で戦っ

ていた中国国民党主席蒋介石の事であるが,当時,向野

さんを含めララウヤ村の子供達は大陸のことは何も知ら

なかったという。

その他,皇民化教育に関して, 「三種の神器」の「ヤ

クノカガミ,クサナギノツルギ(アメノムラクモノツル

ギ),ヤサカニノマガタマ」を習い,教育勅語は暗記さ

せられた。勅語は教育所の壁に貼ってあり,日常は布で

覆われていたが,祝日になると開けられ,警察部長が朗

読した。さらに昭和天皇の写真も飾ってあった。

また学芸会があり,遊戯,唱歌,国語などを暗唱して

演じられた。嘉義郡守,理蕃課長,理蕃係長が来賓とし

て出席し,教育状況を視察した。賞品として鉛筆,帳面

を貰ったと言われる。

当時,学費の負担はなく,また弁当持参で登校した。

遠足はあったが近くに行っただけである。ただ卒業時に

優等生三名が選ばれて台中,基隆観光にでかけた。その

三名とは湯川一丸(ヤパスヨグ・ユルナナ(ID)さん,

向野和子(ヤグイ・ムキナナ,向野政一さんの従姉,後

に湯川一丸さんの妻となる)さん,向野政一さんであっ

た。

(3)農業講習所

向野政一さんは教育所卒業後,阿里山測候所に赴任し

たが,弟の向野実(ヤパショヌ・ムキナナ,昭和5年(

1930)生, 69歳,第19期講習生(12))さん,及び古くは

向野義男(アバイ・ムキナナ,第3期講習生)さん,辛

島秀年(ユウスグ・ティアキ7-チ,大正11年く1922)

生, 77歳,第3期講習生)さんはララウヤ農業講習所に

通っていた。

『台湾日日新報』昭和10年(1935) 8月4日「阿里山の

ララウヤに農業講習所建設蕃地の中堅人物を養成」に

よると,

重商州下海抜四千二百尺の蕃地に高く押し建てら

れる本島統治の誇り。・-・州下の蕃杜は全十社,人

口千六百四十人,五駐在所に分って撫育に努めっつ

あるが,そのうち嘉義郡の略中央蕃界線に沿ふララ

ウヤ,チョクチョクヌ,メヨイナ,チプウ四社を統

轄するララウヤ駐在所管内に,蕃地中堅人物養成の

薦めの農業講習所(総経費約六千囲)が愈々十一年

度から開設されることになり∴既に荒地の開拓,水

田の開墾を見今は講習所の建築が急がれてゐる。

開所の暁には専任産業技手一名,駐在巡査警手が毎

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年各蕃杜から選抜される十数名の青年と-ケ年間起

床を共にして,實際的な農業上の指導,或は家畜の

飼育法の教授をなすと同時に精神的な教化感化をも

施さうと云ふ州警務課の意向で,最初は畑四甲,水

田四分の農場に過ぎないが,将来は之を十二,三甲

にまで摸張,収容人員の増加を計って本島理蕃史上

輝ける-頁を加へたい計毒である。

即ち,昭和11年(1936)に開所し,ララウヤ,チョク

チョクヌ,メヨイナ,チプウ四社の青年を集め,中堅人

物養成のために,農業講習を行った。 -年制の全員寄宿

舎生活であった。向野実さんの口述によると,校長は福

島警部,寄宿舎は講習所内にあり,前述の社以外にもタッ

パン,トフヤ,サビキ,ララチからも生徒が集まり,大

凡学生数は20名であったという。

この点は,筆者がララチ村を訪問した際,手島秀年

(ユウスグ・ティアキア-チ,鄭秀年,大正11年(1922)

10月9日生まれ,現在77歳)さんがタッパン教育所で1

年間勉強後, 12歳から16歳までララチ教育所で6年間勉

強し,その後ララウヤ農業講習所の第3期生となり,ま

た向野義夫(アバイ・ムキナナ)と同期であった。講習

所時代に優等賞をとり, 1匹の豚をもらったと言われた

ことからも確認できた。さらに同講習所生にはトフヤ村

の手島ヤスオ(ポユ・ティキアーナ,大正12年く1923)

坐, 77歳)さんもいたことからも,さらに碓認できる。

また,向野政一さんの口述によると,農業講習所では

水田・畑の耕作,種蒔き,田植え,刈り取り法,炭焼き,

農具(鋤,鍬等)の使用法,堆肥,養鶏,牛・馬の飼育

法を習った。各村で選ばれた者が講習所で勉強した。農

業技師が教えたが,技師は警察官ではなかった。優秀な

者は講習所卒業後,内地観光に出かけたと言われる。

(4)阿里山測候所時代

向野政一さんは教育所卒業後,昭和13年から16年

(1938-41)に阿里山測候所に勤務した。当初半年間は

台北気象台で訓練を受けたあとに阿里山測候所の勤務に

ついた。最初は給仕,後に雇となり,気象観測の仕事を

していた。給仕時代の月給は本給18円,当直費2円程度

の合計20円程であった。当時の巡査の給料は15円で,そ

れより良かった。雇になってからの月給は28円であった。

測候所所長は一人で那須常三郎,後に岩井肇。外に判任

官二人,雇二人,給仕一人という人員で,向野さん以外

は日本人。この測候所勤務のお蔭で日本語が本格的に話

せるようになったと言われる。

測候所では昼間の勤務以外にも当直があり,ない時は

独身寮で寝泊まりしていた。独身寮には日本人のおじい

さん,おばんさん夫婦が賄いをやっており, 1ケ月5円

の寮費を支払って,食事等いっさいのめんどうをみても

らっていた。寮には向野さん以外に未婚の営林署職員,

阿里山小学校教員も住んでいた。

昭和15年(1940)に「紀元2 6 0 0年」を記念して高

松宮が阿里山を訪れたが,所員一同, 「最敬礼,直れ」

という号令の下に動作したために顔を見ることができな

かったと言われる。

向野政一さんは19歳の時(昭和16年(1941)頃)に国

語章を貰ったO国語章とは日本語能力優秀者に対する表

彰である。

昭和16年に測候所を退職し,その後任には従弟の向野

義男(アバイ・ムキナナ)さんがついだ。向野義男さん

は昭和17年(1942)の第二回高砂義勇隊に参加し,ニュー

ギニアのパルマへラ島で戦死した。

(5)高砂族青年団時代

同16年向野政一さんは,志願兵試験を受けたが,身体

が小さかったために不合格になった。ニヤウチナ村出身

の向野さんより3歳年長の矢崎誠(モオ・ヤサヰイ)さ

んは合格し,歩兵隊に所属した。矢崎誠さんは戦後ニヤ

ウチナ村長となり, 2 - 28事件(後述)に一緒に参加

した。この当時,向野さんをはじめ高砂族青年は高砂族

青年団に所属した(13)向野政一さんは同年,台北新公

園で開催された第二回各州代表の相撲大会に出場した。

アミ族が一位,向野さんは二位となり,賞品としてツル

ハシを貰った。一位のアミ族代表は日本の関取の指導を

受けており,またアミ族,タイヤル族は体格が良かった

と言われる。向野さんは警察官の大内さんから相撲を教

わっていた。昭和18年(1943)に同じく台北新公園で開

催された相撲大会にも参加し,また二位になった。

高砂族青年団は昭和8年(1933)頃から各地で形成さ

れ(14) 「蕃人らの生活改善を目的に青年団」が組織され

た(15)。各村で結成され, 15-30歳の男女で構成された。

高砂青年歌を習ったが,その歌詞の一部を向野政一さん

が覚えておられた。 「ああ新高の空晴れて雲にそびゆ

る神木の気高き姿仰ぎっっ雄々しくともに進まなん」

と。

阿里山青年団の団長は山中猛吾(モオ・ペヨンシ,昭

和8年~12年く1933-37) )さん。その後,安井智有

(モオ・ヤシウグ,昭和13-17年(1938-42) )さん,

向野政一(昭和18-20年く1943-45) )さんであったO

青年団は分隊に分かれ,向野政一さんも一時,分隊長と

なっていた。青年団はまた山地服務隊とも呼ばれ,戦後

も暫く続いた。阿里山全体の青年団には中尉の肩書きの

軍官,在郷軍人会会長がおり,またその下部組織のララ

ウヤ青年団には駐在所所長の管轄下, E]本人の元下士官

(軍曹或は伍長),在郷軍人がおり,彼等が青年団の指導

にあたっていたが,高砂族青年をよく殴ったという。一

ケ月に二回ララウヤ教育所或はララウヤ農業講習所で召

集され,身体鍛錬,軍事教練(銃剣術)が行われた。相

Page 5: 阿里山ツオウ族の戦前・戦後repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1172/1/...て,順益台湾原住民博物館館長土田滋先生にお会いでき, 土田先生から何人かの原住民の方を紹介して戴いた。そ

阿里山ツオウ族の戦前・戦後

撲,野球などもなされた。部落毎の田植え,稲刈りの手

伝いもした。阿里山郷で各村代表からなる野球大会も行

われた。 2-3ケ月に一回,タッパンで阿里山郷全体の

数百人の青年が集まり,訓練が行われた。その時に総指

揮をとったのが阿里山郷在郷軍人であった。

(6)共同会について

共同会は青年団が結成されていた頃に組織されていた。

1組10名で,青年だけでなく,老人も入る。ララウヤ村

では男女合わせて60名近くいた。家を建てたり,藤蔓を

割ったり,水田耕作などやりにくい仕事を行った。隣組

のようなものであった。

(7)高砂義勇隊時代

昭和17年(1942) 3月,向野政一さんが20歳の時に第

一回高砂義勇隊に参加した。義勇隊の入隊条件は日本語

ができ,健康であるということであったが,向野さんは

阿里山測候所に勤めていたおかげで日本語ができ,入隊

できた。入隊試験には三種の神器,軍人勅語,教育勅語

の暗記の有無が問われた。同義勇隊にはララウヤ村から

安井健次(ユスグ・ヤシウグ(17))さんと2名参加し,

阿里山郷全体では10名,台湾全島から800名の高砂族が

参加した。本間雅晴中将(18)の下.小隊長以上は日本人

で,総勢1000名程であった。

向野さんは第三大隊に所属し,大隊長は小野であった。

フィリピンに行き,バタン半島の作戦に加わった。アメ

リカのマッカーサー司令官の一個師団と戦ったが,向野

さんの所属部隊は迂回ルートを作る任務にあたった。ア

メリカ軍に勝利し,米兵2万人近くを捕虜としたが,当

時の日本人指揮官はその内, 1万人前後を歩いてマニラ

に行進させた。向野さんらはその護送を担当した。指揮

官は歩けない捕虜を銃剣で刺し殺すか,首を別ねよと命

令した。義勇隊のタイヤル族,プヌン族は目的地に着く

と好んで首を別ねており,彼等の性格がわかったという。

義勇隊には3名に1丁騎兵銃が渡され,車,局,兵隊

が銃,弾薬を運んだ。この作戦では日本軍も相当多数の

犠牲者がでたようで,負傷した日本側将兵2000名もマニ

ラに護送された。同年10月或は11月に任務が完了し,帰

国した。第-回義勇隊でもコレヒドール行ったアミ族は

多数犠牲になった。

義勇隊の服装は一般の軍服と比べると星が付いていな

いことだけが違いで.ほかは同じであった。

第一回義勇隊は勝利したが,第二回以降は放れた。第

二回義勇隊に参加した向野義男(アバイ・ムキナナ,向

野政一さんの従兄)さんはニューギニアで戦死し,安井

健次(ユスグ・ヤシウグ)さんはモロタイ島で戦死した。

安井登(1999年時で79歳)さんも参加し,ソロモン群島

に行った。

83

トフヤ村在住の石河留吉(ボユ・ヤイシカナ,大正13

年(1924) 9月10日生, 75歳)さんの口述によると,石

河さんは昭和18年(或は19年)に第三回義勇隊に参加し

た。ホ-ゲンビル,ラバウル,ガタルカナル,ソロモン

に行ったが,米軍に敗れ,終戦後帰国した。この第三回

義勇隊に参加した安井五郎(分隊長)さん,熊野タケ彦

(パス-ヤ・ヤクマガナ)さん,熊野タケオさん,手島

タツジ(ヤパスヨグ・ティアキアーナ)さんが戦死し,

石河留吉さん及び烏宿エイゾウ(ヤパスヨグ・トシュク)

さん,石河ヒトシ(ユウスグ・ヤイシカナ)さん,安井

信夫(ユウスグ・ヤシウグ)さんが帰国したという(19).

昭和19年(1944)に向野政一さんは第四回高砂義勇隊

に参加し,台湾南部の栃妻に行った。これは米軍が台湾

南部に上陸するという日本軍の誤報で行った。毎日,ゲ

リラ戦の準備をしてたが,米軍が沖縄に上陸したために,

戦争することなく終戦を迎えた。妨秦にいた時期に正規

の日本軍人となり,終戦時上等兵になった。南方戦線で

活躍したから昇進が早かったと言われる。

この第四回義勇隊にはトフヤ村の湯川孝二(イウスグ・

ユルナナ,大正10年(1921) 4月3E]生, 78歳)さんも参

加した。ニューギニアのワタン島ウイアクに上陸し,そ

こで3年いた。戦況は日本側にたいへん厳しかったよう

で, 「死んだ方がよいと思うぐらい苦しかった」という。

食物がなく,毎日米軍の爆撃を受けていたためであった。

昭和22年(1947)に帰国し,基隆に到着後,日本人兵隊

と別れ,故郷の阿男山に帰った(20)

川戦前の阿里山郷

(1)阿里山郷

(D阿里山

阿里山の官公署には営林署,測候所,小学校,購買部,

貴賓館(皇族用のホテル),阿望山ホテル,阿里山鉄道

の駅,郵便局,駐在所等があった。営林署署長が阿里山

地域では地位が一等上であり,動三等の高等官であった。

測候所所長は前述の通りである。

その他,製材所があった。阿里山は桧が有名で,同桧

を平地に運び,日本へ運送するために阿里山鉄道が作ら

れた(21)この桧は靖国神社の鳥居等に用いられた。桧

を伐採した後は杉の造林が行われた。造林人夫には日本

人だけでなく漠族も用いられていた。

また,ビリヤード,卓球場,テニスコ-ト,寺,公医,

旅館,写真館,生菓子屋,みやげ物屋があった。さらに

武徳臭とよばれる柔道,剣道の武道場があり,そこはま

た在郷軍人の分会場でもあった。会長は現役軍人の太尉

がつとめていた。

(参タッパン社

タッパン駐在所,タッパン教育所,警察宿舎,自助会

衛生所,修練所,青年道場等があり,同社には警部がい

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m

修練所では陸軍中尉(1人),軍曹(2人),上等兵

(数人)が15-17歳のツオウ族青年を集めて修練生とし,

軍事教練を行った。修練生は卒業後,予備役となった。

また青年道場では在郷軍人の中尉.軍曹,上等兵が17

-19歳のツオウ族青年30名程を集め,同道場で1年間,

柔道,剣道等の武術教練を行った(22)

タッパン教育所(23)は4年制であったが,後に6年制

になり,さらにこれに2年制の初等科(高等科ともよば

れる)が附属し,矢多一生さん(24)信夫美恵子さんが

教員をっとめていた。信夫美恵子さんの父はクッパンで

公医をしており,ツオウ族女性と結婚して,その間に彼

女は生まれた。信夫美恵子さん,矢多一生さんは阿里山

地域の教育所における最初の師範学校出身の教員であっ

た。この初等科の生徒には向野実さん,矢津久義(ボユ・

ルヤザナ,昭和5年生)さん,向野仁(アバイ・ムキナ

チ,昭和6年生(25))さん,熊野十郎さん等がいたO

③ララウヤ社

ララウヤ駐在所には巡査部長1人,取締1人,甲種撃

察(安井猛さんなど3人),乙種警察(宮内明さんなど

3人),警丁(西村房吉さんなど2人)がいた。乙種警

察の月給が15円であった。同駐在所には寄宿舎があり,

また購買部があった。警察官はここで酒,味噌,醤油な

どを買った。一般商店よりも安く買え,購入費は毎月の

給料から天引きされた。

さらに交易所があり,ツオウ族は狩猟の獲物や農産物

をここで売り,塩,酒,魚等を買った。また,衛生所が

あり,安井猛さん,島形さん(巡査部長)等が簡単な治

療を行った。クッパン杜には公医がおり,診療・治療が

行われたが,手術等を要する大病は嘉義の病院(現在の

台湾省立嘉義病院)まで行った。歯医者も嘉義にしかい

なかった。

(2)自助会

阿里山郷ではいくつかの社(村)に分かれ,各々,旧

来の頭目と日本の行政組織下の自助会があった。各社の

頑目名,自助会長名,大凡の人口については第3表の通

りである。

第3表

ララウヤ社(トフヤ系統) :頭目モオ・ペヨンシ(山

中寅男(山中猛吾の叔父) ),自助会長山中猛吾

(モオ・ペヨンシ),安井智有(モオ・ヤシウグ),

人口約1000名

タパン杜(タパン系統) :タパン族頭目ウォング・ペ

ヨンシ(山中勇一),トフヤ族頭目ボユ・ペヨンシ

(山中?),自助会長手島敏郎(ヤブスヨグ・ティア

キアーナ),湯川瀧夫(モオ・ユルナナ,副会長に

もなった。第1回高砂義勇隊の分隊長),人口約2000名

サビキ杜(タパン系統) :頭目?・ペヨンシ,自助会

長矢多正義(アバイ・ヤクウユガナ),野田四郎

(アタイ・ノアザチアナ,第1回高砂義勇隊参加),

人口約1000名

ニヤウチナ社(タパン系統) :頭目野田? (パスヤ・

ノアザチアナ),自助会長山中勇吉(ボユ・ペヨン

シ),田原太郎(パス-ヤ・タパン,嘉義農林卒),

人口1000名弱。

ララチ杜(トフヤ系統) :頭目山中? (パスヤ・ペヨ

ンシ),自助会長手島次郎(モオ・ティアキアーナ),

向野太郎(ポユ・ムキナナ),人口1000名弱。

自助会については『台湾総督府公文類纂』昭和13年永

久保存第5巻16-20の「高砂族自助会合則標準二関スル

件」 (下線は松田による)に記されている。

全島高砂族ノ現況-其ノ種族又-居住地域ノ懐件ヲ

異ニスルニ依り,進化二着シキ差異了ルモ,之ヲ就

撫ノ当時二比スレバ全ク面E]ヲ一新シ,其ノ最モ進

歩セルモノニ在リテ-遠隔街庄部落民卜殆ンド遜色

ナキ程度二至レリo正ヲ以テ其ノ進化二照鷹シテ漸

次公民的訓練ヲ加へ以テ国家生活並二公共園髄生活

ニ慣熟セシメ,他日普通行政治下二編入セシムル素

地ヲ作ランガ扇,別紙要綱ノ自助合ヲ設立セシメン

トス。而シテ特二此ノ機会二於テ之が實現ヲ期セル

理由ノモノ二アリ。 --近来高砂族ノ進化向上二伴

ヒ,官費ノミニ期待シテ-到底地方二適臆セル特殊

ノ施設ヲ烏スコト頗ル困難ニシテ彼等ノ要望二添ヒ

難キモノ在り。従テ先進地方二於テ-其ノ實際的必

要二臆ジ,各種園髄ノ自然的菅生ヲ見ツツアル状況

ナレバ之二一定ノ準縄ヲ輿へテ其ノ進ムベキ方向ヲ

指示セントスルニ存シ,他-現時局菅生以来,高砂

族問二於ケル時局認識ノ徹底卜共二着シク国民的意

識ノ昂揚ヲ見,其ノ結果国防献金,他岳金等ノ出指

ヲ自苛的二申出ゾル者相当数二達シタル賓情ナルヲ

以テ,此ノ際之ヲ善導シ,公課的負捨ノ訓練ヲ馬セ

ントスルニ在り,而シテ禽則規約ハ理蕃ノ實情二鑑

ミ,努メテ簡易ナラシメ,其ノ實効バーニ指導者ノ

運用二期待スルモノナルヲ以テ局こ当ル者克ク本台

ノ趣旨ヲ体シ,封象部落ノ進化ノ程度二鷹ジ貴地二

即シタル指導ヲ行ヒ,以テ所期ノ効果ヲ収ムル様,

指導監督上万遺漏ナキヲ期セラレ皮。

右依命通達ス。

とあり,高砂族に「公民的訓練」を加え,将来, 「普通

行政」下に組み込むための措置として高砂族自助会が組

織された。さらに, 「先進的」な高砂族は日中戦争下,

「匡I防献金」等の寄付活動が行われており,これらの先

進例をのばして「公課的負担」の訓練をさせることにあっ

た(26)

同史料の続きに「高砂族何々自助合々則標準」が記載

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阿里山ツオウ族の戦前・戦後

されている(27)筆者は同資料を及び向野政一さん,山

中松夫(ヤパスヨング・ペヨンシ,昭和6年(1931) 6月

21日生, 68歳)さん,手島義矩(昭和2年(1927) 2月2

日生, 72歳)さんより行った聞き取り調査をもとに,ラ

ラウヤ村における自助会を次のように考証した。

ララウヤ村の自助会は昭和13年頃からあった。会長に

は山中猛吾(モオ・ペヨンシ)さん,安井智有(モオ・

ヤシウグ)さん,山中達-(パスーヤ・ペヨンシ)さん

がなった。戦後1年くらいは継続していた。自助会長と

は当時の村長のことであり,部落民の推薦によって決まっ

たが,一応,自助会長は駐在所が指名した。副会長,組

長は自助会長によって指名された。副会長についてはタッ

パン杜,ララウヤ杜には存在したが,他社については聞

き取りできなかった。この自助会には全員入った。日本

の駐在所が命令して組織させた。自助会長,副会長,組

長には給料は無かった。自助会の会議は各教育所で行わ

mm

自助会は出生・死亡届,義務労働(出役)の手配を行っ

た。自助会長の下に6組があり,各組に組長がいた。組

ば戦後,隣と称された。 1組はおおよそ10軒ぐらいの家

で構成されていた。日本人の命令を部落民に伝達したり,

義務労働が割り当てられた。義務労働というのは組ごと

に仕事が割り当てられ,例えば家を建てる時,竹をかつ

いできて割って節とりをやってかぶせたりした。また,

高砂義勇隊に男手が取られて,田の耕作ができずに困っ

ている家を組ごとに人員を組織して援助した。さらに,

ララウヤからタパンへ行く道を作ったり,駐在所裏の石

垣造りをしたり,電話線の設置,吊橋の建設などを行っ

た。

駐在所からでる出役命令に対して,何でも服従したの

ではなく,時には日本人が押しつける仕事をボイコット

したこともあった。例えば,駐在所裏の石垣造りの時,

日本式の四角の石を積むことを強制されたが,何日たっ

てもできなかったので,ツオウ族式に三角形に積んでい

くことに変更させた。こうした義務労働が多かった。 1

年間に7 - 8ケ月なら生業の農作業や狩猟に影響が無かっ

たが,しかし10ケ月にも及ぶと影響があり, -ツオウ族も

さわざたてたりして反抗した。当然,この義務労働は無

報酬であった。

ツオウ族は日本官憲に税を納めなくてよかったが,自

助会には少しお金を納めた。この金は御客が来た時の接

待費として備蓄された。その金額は各戸の1級から3級

の経済等級に応じて差があった。また,共同作業で得た

収入も自助会費に組み込まれた。

各戸の経済的等級は警察官が交易所で原住民が売る生

産物の内容を判断して1-3級に区分した。 1級は財嵐

俸給,収入があり,水田,杉がある家で,矢津(モオ・

ルヤザナ)さん,安井運造(ウオグ・ヤシウグ,安井猛

85

の叔父)さん,向野勝一(ポユ・ムキナナ,政一の従兄

弟)さんなど5軒あった。 2級には向野栄太郎(パスー

ヤ・ムキナナ,政一さんの父)さんの家など10軒あった.

3級はその他の家であった。結婚式の時の結納金は1級

の家は50円, 2級の家は20-30円, 3級の家が15円であっ

た。尚,頭目は経済的等級で決まるものではなかったO

以上からわかるように,昭和13年(1938)以後,ララ

ウヤ村を含め阿里山ツオウ族に従来の指導者である頭目

以外に自助会長を選び,この自助会を行政の末端に組み

込んでいたのであった。しかも,自助会長には嘉義農林

出身の田原太郎(ニヤウチナ杜)さん,国語家庭で表彰

され,国語章ももらった山中猛吾(警丁,ララウヤ社)

さん,安井智有(ララウヤ社)さん,高砂義勇隊に参加

した野田四郎(サビキ社)さんなどがなり,当時の阿里

山ツオウ族の知識人・指導層からなっていた。

(3)家長会

さらに,総督府は頭目等家長に対しては家長会を開い

て彼等の要望を聴取するとともに,官憲側からの指導も

行った。

この家長会は各家族の家長から構成されていたが,女

性も参加し,また自助会長,青年団長も出席した。副会

長の参加は自由であり,組長は参加しなかった。最初は

阿里山郷全体でタッパン社の教育所で行われた。 1年に

1回か2回集まり,嘉義郡の「理蕃課長」が来て年寄り

(家長)の意見を聞いた。阿里山全体で家長会には5 0

名弱集まった。

しかし,ツオウ族社会は日本官憲の指導によって昭和

7, 8年(1932, 33)頃から大家族制から分戸制(核家

族)へ変化したために,家長数が増え,タッパンだけで

なく,各社でも家長会が開かれるようになった。その際

にはタッパンから各社に警察官が派遣され,各社でも年

に1 ・ 2回,各教育所において家長会が開かれるように

gsia

台湾総督府が家長会を設けた理由・目的は霧社事件

(1930)以後,政策が変わり原住民の意見をよく聞くよ

うになったことと,さらにこの家長会に参加するかどう

かが,原住民の警察への服従度を示す試金石とされたこ

とであると言われる。

家長会には駐在所の日本人警官がやって来るのである

が,披等は矢多一生さん,安井猛さんなど原住民警丁を

通訳として家長会の意見を聴取した。しかし,実際は日

本人警官は原住民の言葉を話せたので陰口は言えなかっ

たという。

この家長会においてツオウ族側は猟銃の借用,猟銃の

弾の給付増,道の開発,吊り橋を架けること,漢人の侵

墾を防ぐこと,保留地以外の開墾を緩めること,山で植

える杉の苗の提供,山における愛玉子採集の許可,祭祀

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時の粟酒醸造の制限撤廃,デタラメな巡査の交替,義務

労働の軽減化などの要求を出した。

一方,日本側は農業方面の指導を行った。生産方面で

は水田の開墾指導(安井猛さんくモオ・ヤシウグ,ララ

ウヤ教育所教諭)も指導にあたった),その結果山手の

水田耕作が始まり,さらに杉の造林指導も行われた。そ

して教育所建智における義務労働提供,日本語使用の奨

励,生活改善,衛生思想の向上,子供に和服着用.教育

所通学に際しての弁当持参の奨励を訓示した。

(4)国語家庭・国語章

日本官憲により国語普及が推進され,年寄りでも交易

所では「酒一本ください」とか何か一言E]本譜で言わな

ければならなかった。現在の6 0歳以上のものは日本語

が言える。国語家庭として表彰されるには祖父母,父亀

本人,子供も日本語が言えることが必要で,駐在所によっ

て決められた。

この国語家庭として表彰されたのは山中猛吾(モオ・

ペヨンシ,自助会長,警丁,後に警察員)さん,安井猛

(モオ・ヤシウグ,警察員,ララウヤ教育所教諭)さん,

安井智有(モオ・ヤシウグ,自助会長)さんであった。。

国語章については向野政一さんは阿男山測候所に居た

19歳の時にもらったO他に国語章をもら.i,たのは向野達

那(ヤパスヨグ・ムキナナ,政一さんの叔父)さん,山

中猛吾(モオ・ペヨンシ)さん,西神一郎(アバイ・ウ

ヨガナ)さん,安井智有(モオ・ヤシウグ)さん,西村

房吉(ヤパスヨグ・ニヤホサ,ララウヤ教育所助教)さ

ん,安井角次(ボユ・ヤシウのさん,向野和子(ヤグ

イ・ムキナナ)さん,安井清子(イグユ・ヤシウグ)さ

んであった。この国語章授与者は村の全体集会,青年会,

家長会議で発表され,徽章,万年筆をもらった。

(5)夜学会(補習科)

夜学会とは原住民で特に教育所を卒業していない人達

に毎晩7時から9時までの2時間,ララウヤ教育所等各

教育所で開かれた日本語講習会のことであったO日本語

を使わせるために,半ば強制されて行かされており,教

育所の教諭,助教(警察官)が教えた。これによって向

野さんの父親は簡単な日本語はできるようになった。教

育所に入るようになった向野政一さん,山中松夫さん

(ヤパスヨング・ペヨンシ)の時代から皆日本語が出来

たO年寄りでも日本語の一つぐらいは言えるようにさせ

たのであるが,頭目のモオ・ペヨンシさんは日本語が話

せなかったという。ヽ

(6)内地観光

阿里山原住民の中で最初に内地観光に出かけたのは,

明治30年(1897)のトフヤ杜の宇旺(ウォン,当時の阿

里山上四杜の総土日)さん,毛藤(モール,総副土日)

さん(28)であった。その次には明治33年(1900)にクッ

パン社のアパリ(アバイ)さんが出かけた(29)

大正時代末には,全島の原住民の代表が参加し,霧社

のモナ・ルダオさん(霧杜事件の首謀者の一人(30))t阿

里山からは山中四郎(イウスグ・ペヨンシ,山中松夫の

父)さん,向野杉栄さんらが参加した。

昭和になり,紀元2600年(昭和15年)に青年団か

ら一人50円を出資して日本観光に出かけた。内地で農業

先進地を見学し,農業技術を教わった。 1週間ほど,秦

良など農村を訪問した。水田耕作の仕方を実地見聞した。

阿里山から10数名行き,矢多一生(ウオグ・ヤタウユガ

ナ)さん,安井猛(モオ・ヤシウグ)さん,向野政一さ

んが参加した。日本家屋の藁葺屋根を見たり,蓬莱米

(台湾で栽培されたジャポニカ米)の植え方を教わった。

(7)昭和10年(1935)の台湾博覧会

山中猛吾(モオ・ペヨンシ)さん,手島年子(タニプ

プ・ティアキアーナ,山中松夫さんの母)さんが参加し

た。彼等は農産物博覧会に出たり,原住民の踊りを披露

した。

(8)土地所有権

ツオウ族は伝統的には土地私有権という概念は無く,

狩猟と農業が行われていた。耕作は切り替え畑というや

り方で行われていた。 1年目に粟, 2年目に芋, 3年目

に陸稲, 4年目に豆を植えた。その後は別の場所を開墾

耕作し, 4, 5年たってまた,同じ場所に戻り,粟を植

えるという方式で,ツオウ族は食べるために農業を行っ

ていたのであり,売るためではなかった。この農業地,

狩猟場は,清朝時代の漢族による侵墾で,奪われたり,

日本時代に阿里山などを国有林地として指定され営林署

が管理することになり,狩猟場が徐々に奪われていっ

た.(31)

台湾総督府は大正末・昭和初期に原住民の土地を「蕃

界」として設定し,漢族が無断で侵入開墾することを禁

止した。この「蕃界」は保留地と呼ばれる原住民の耕作

地と林班地と呼ばれる嘉義営林署が管理した造林地に分

かれていた。林班地では原住民の耕作はできず,営林署

員によって造林が行われ,桧を伐採し,杉が植えられた。

この保留地内で竹類など永久物を地上に植えてから所

有権が発生し,さらに水田の普及がこの土地私有観念を

拡大した。この所有地は縁故地と呼ばれた。従来行われ

ていた切り替え佃もできなくなり,ツオウ族内にも土地

争いが起こるようになり,ツオウ族の助け合い精神が薄

らぎ,人情味がなくなってきた。

向野さんが教育所にいた頃(1933-37),嘉義農林出

身で教諭の安井猛さんが水田を測量し登記した。さらに

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阿里山ツオウ族の戦前・戦後

向野さんが教育所を卒業し青年団に入る頃(1941)に,

原住民を1, 2, 3級の経済等級に区分した。原住民は

山を開墾したり,耕作するようになり,それによってで

きた保留地を各家に分配するようになった。

このような土地私有権の発生は前述したように,家族

制度の大家族制から分戸制(核家族)への変化につなが

り,家長会もクッパンだけで開かれていたものが,各社

で開かなくてはならなくなった。この分戸制は総督府に

よって強制されたもので,夫婦を中心とした-世帯毎に

一家を構える核家族化を推進したのであるが,これは従

来の大家族制では各家の長老の発言権が大きくものをい

い,総督府の命令がなかなか各個人に浸透しないために,

分戸して大家族的結束性を分散解消しようとしたもので

ある。向野政一さんの説によると,霧社事件の反省にた

ち,抗日を未然に防ぐ手段であったという。

lV戦後の阿里山

(1)ララウヤ村長

戦後阿里山郷は呉鳳郷となり,ララウヤは楽野札タッ

パンは連邦村,トフヤは特富野村,ララチは来吉村,サ

ビキが山美村,ニヤウチナは里佳村という名称になった。

ララウヤ杜(楽野村)の戦後村長は1945-46年は湯川一

丸(ヤブスヨグ・ユルナナ)さん, 1947-52年は向野政

一さんであった。

戦後,村(戦前の自助会)は8隣に分かれた。隣は戦

前の組であった。 1-6隣はツオウ族, 7, 8隣は漠族。

2 0 0名はどの漠族が造林の人夫として村に来て,行政

編成時に村に入った。彼等は元々海軍就業農場の労働者

であった。

戦前,漠族は蕃界に入って来なかったが,戦後,保留

地内に入り,居住するようになったので, 7,隣を作っ

た。阿里山郷長の選挙では漢族も投票できるが,立候補

できない。議員には漢族の議員を選挙したと言われる。

向野政一さんが村長をしていた時の一番大きな問題は

やはり漠族の土地侵害であった。元々ツオウ族には土地

私有観念がなく,共同利用していたが,日本時代(特に

昭和時代)から私有地ができ,また共同利用地は保留地

として認定され,漢族の侵害から守られていたことは前

述した。しかし,戦後この保留地等への漢族の侵墾が激

しく,この対応に追われていた。漢族の侵墾は今でも続

いている。元々土地には蕃藷,疏菜,竹林(竹の子),

愛玉子を植えていたが,日本時代には杉の造林が行われ,

戦後は馬鈴薯,豆,わさび,そしてお茶の生産が行われ

た。お茶の生産が始まってからは生活は安定した。

(2)2・2事件

阿里山では2 - 28事件当時, 7隣の福山(タノポバ

チ,扶蓉山)に訓練所を作り,平地から持ってきた武器

87

を隠した。ここには阿里山の地下組織の一部があった。

この地下組織が場川一丸さんと連絡をとりあったO林

(竹崎郷の医者)が2 8事件後,共産党のよびかけ

に応じて, 3月2日までに2回来た。ララウヤにら来て

湯川さんと連絡をとった。湯川さんは共産党員ではなかっ

たが,国民党よりも共産党の方に将来性があると思って

いた。向野政一さんは当時,ララウヤ村長をしていたが,

湯川一丸さんから共産党と台湾の義勇隊がはさみうちす

るといううわさを聞いた。湯川一丸さんは薬孝乾(33)か

らこの情報を聞いた。

阿里山の原住民は1947年3月2日に2・2事件に参

加した。阿里山ッオウ族100数名が決起し,そのうち100

名足らずのものが攻撃に出かけた。 3月2日の夜明けに,

嘉義県紅毛坤にある弾薬庫(日本軍が残していた弾薬・

武器があり,国民党が管轄)を攻撃して焼き,国民党軍

を追い払った。日本時代の騎兵銃,村田銃を各派出所か

ら集めて使った。紅毛埠から嘉義飛行場(水上機場)に

行き,そこには高雄県岡山からきた国民党軍が集中して

いたので,彼等を包囲した。

2 Qo事件参加の動機は漢人(Eg民党・軍の腐敗堕

落)に対する怨みから起こった。国民党軍はわらじばき

の兵隊で質が悪く,このような連中の支配を受けるのが

嫌であったからという。

この阿里山ツオウ族の決起部隊等を指揮していたのは

「指揮部」という組織であった。 「指揮部」の指導の下,

台中から漢族100名,原住民が100名,嘉義から漢族等青

年隊,学生隊,合計400名が囲んだ。その内200名の原住

民は日本の軍事訓練を受け南方戦線に参加した者たちで

あった。 「指揮部」は現在の嘉義市警察局の近くにあり,

嘉義市地方人士,金持ちからなっていた。しかし,彼等

が崩れた。特に,劉伝来(山に反物や塩を売る商売人兼

土匪の頭目で反日分子である劉問の息子(34))が国民党

との談判を主張した。彼は日本で勉強して医者になった

人物で,現在国民党の終身国民代表である。 「指揮部」

の他の9名は嘉義駅で銃殺された。 「指揮部」の劉伝来

等お金持ち連中は義勇軍が勢力を増してくると困り,国

民党との談判を主張した。 「指揮部」の残りの9人はあ

くまで戦いを主張したが,結局は「指揮郡」は崩れ,刺

伝来のみ生き残り,あとは銃殺された。嘉義の「指揮部」

と共産党との関係は不明である。ただし,台中の「指揮

部」は共産党の謝雪紅(35)と関係があった。

ツオウ族の義勇隊は3 ・ 4日,嘉義にいた。湯川一丸

さんが隊長で, 「指揮部」の所へ行って連絡をとった。

しかし, 「指揮部」へ行って,もつれていることがわか

り,失望して帰ってきた。郷長の矢多一生(当時40歳前

後)さんは山に居た。矢多さんはこういう状況なら「指

揮部」の犠牲となり,危ないから,また売られるから山

に帰れと最終的判断をくだし,指示した(36)ッオウ族

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88

の義勇隊は阿里山鉄道の運材車に乗って奮起湖でおりて,

そこから徒歩で, 3月6日か7日に村に帰ってきた。

武器を分散して奮起湖の手前に隠した。 15歳以上の女

が集まってララウヤ国民学校で毎日訓練した。 15歳以上

の男は福山訓練所で訓練し,湯川さん,向野政一さんが

指揮し警備にあたらせていたO機関銃の打ち方,相撲,

幅跳び,高飛び,棒倒しなどの訓練を行った。ここの倉

庫には武器を隠してあり,時々戦争訓練を行った。

(3)共産党の特務及び左傾分子

意図欽という人物は早稲田大学出身で,大陸で台湾語

を習い,漸江省長になり,その後,台湾に来てから台両

県政府で勤め県長をしていた。同政府には山地科科長の

劉という人物がおり,彼は左傾思想をもっておった。劉

はときどき,阿里山に来て,前述した福山訓練所での訓

練の様子を見たり,赤旗を歌ったりしていた。

ララウヤ国民学校(戦前の教育所)の校長花丁南は左

傾思想をもっていたが,共産党員かどうかはわからない。

中華人民共和国の国歌を歌っていた。

花丁南は元々,台湾出身であったが.日本時代大陸に

逃げ,度門に住んでいた。戦後度門師範学校を卒業し,

台湾にやって来た。台南で日本語を勉強したので日本語,

北京語ができた。妻も日本語ができた。その後,阿里山

に来てララウヤ国民学校の校長となり,同じく阿里山に

やって来ていた東北出身の流亡学生から情報を得た。民

数社(夜学)で北京語を人々に講習するとともに,大陸

の国歌を歌っていた。向野政一さんもこの民教班に参加

していたが,ある時,花丁南から共産党と国民党のどち

らがよいかと聞かれたが,どちらも見ていないので分か

らないと答えたという。彼は2・2事件後牢獄に入り,

出獄後死亡した。

その他,葉孝乾(前述),リマトウという人物がいた。

(4)国民党の特務

1948, 49年に中国東北地方の流亡学生が国民党特務と

して使われ,代用教員として阿里山にやってきた。披等

は原住民の「手先」を使い,どのような人間がかくれ,

どのような武器が隠されているかを調査した。

国民党国防部が特務機関の治安指揮処を組織し,そこ

の人員として東北流亡学生を派遣した。この治安指揮処

は阿里山の青年を「国民党よりに」訓練する目的をもっ

ていた。この特務且の東北流亡学生は共産党側の流亡学

生と同じく,日本語ができ,ララウヤ国民学校にも来て

教員となった。 4名いて,その中に魏遠山(男性),局

ウンクイ(女性)がいた。

(5)国民党による2 Qo事件参加者の逮捕

1950年に国民党による2 8事件関係者への追及が

始まり,決起軍所有の武器を没収し始めた。

同年に嘉義県長の林金生(日本語ができる)が矢多一

生さんに武器を出せと言った。矢多さんは「無い。もし

あればもっと早く改造して農業工具に使ってしまってい

る。首にかけて責任をもつ」と言ったが,林は信じなかっ

た。林は流亡学生とタパン,ララウヤに居た原住民の師

範学校出身者を使って調査した。

結局,武器を渡さなければならなくなったが,嘉義警

察局は湯川一丸さんを同署で軟禁し,呉鳳郷公所の矢多

一生さんと連絡させなかった。矢多さんは当時,郷長兼

分駐所主任,巡官であった。ララウヤ派出所では左傾分

子を逮捕した。黄父子,大学生の劉,大陸から来た軍人

出身者,葉孝乾が捕まった。矢多さんが人間とか武器を

しゃべったため,隠れていた人々があばきだされた。あ

る時,ララウヤ派出所で湯川一丸さんが矢多一生さんに

原住民の言葉で「くいあってはいけない(裏切ってはい

けない)」と言ったという。

薬孝乾は共産党且であったが国民党に降参し,組織右

売ったたために, 「左傾分子」や2 Qo事件参加者が

逮捕された,向野政一さんもその時に逮捕された。蕪孝

乾は日本語が出来たので阿里山に来てその共産党の同地

責任者になった。国民党に自分で降参したか,捕まって

降参したのであるが,後に国民党が彼に地位を与え,覗

荏,国防部か何かの名誉職となっている。

国民党保安司令部は国民学校へスパイを送り込むだけ

でなく,ララウヤ山地青年服務隊(戦前の青年団)を再

組織して,原住民の掌趣をはかっていた。団長には湯川

一丸さん,山中猛吾さんがなり,副隊長は派出所主官が

担当した。 2人の後に向野政一さんが団長となった.こ

の服務隊は15歳から35歳の男女が加入した。

保安司令部は満州人女性を使い,湯川さんに近づけ,

また向野さんにも国民党と共産党のどちらがいいか尋ね

たりして,原住民の思想調査を行っていた。

このようなスパイによる調査をもとに,嘉義県政府の

林金生が2・2事件関係者の向野政一さん,湯川-丸

さん,矢多一生さんなど5, 6名に嘉義県政府会議があ

るから阿里山を下りろと命令した。向野さんらが県政府

衛生処に行ったところ,省主席の李国鼎が用事があるか

ら台北へ行くようにと指示したので,そこに行った。

山中猛吾さんと田原義仲さんは2, 3日遅れて嘉義か

ら台北へ行った。

嘉義から向野政一さんは台北軍法処へ,矢多一生さん,

山中猛吾さん,田原義仲さん,湯川一丸さん,日野三郎

さんは調査局へ行ったO

向野政一さんは村でスパイ(共産党員)を隠したとい

う「包庇匪牒」案件で1953年に軍事裁判が行われ,反乱

分子として無期徒刑を宣告された。

矢多一生さん,湯川一丸さんは転覆政府罪で死刑となっ

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阿里山ツオウ族の戦前・戦後

た。矢多一生さん及び日野三郎(桃園,タイヤル族,公

医)さんは反乱,公金桟領罪で合併執行され死刑となっ

た。田原義仲(タッノヾン村長)さんも死刑。山中猛吾

(嘉義警察局巡官。 2・28に参加していない)さんは

ララウヤ派出所主官であった時,隠れていた左傾分子ス

パイの身分護に判を押したことから,転覆政府罪で死刑

となった。

これ以外に死刑となったのは高沢照(タイヤル族,日

本名大沢照,巡官)さん,安井猛(嘉義農林出身,ララ

ウヤ教育所教諭)さんであった。

このように向野さん以外は皆死刑となったが,死刑と

無期徒刑の差は罪の内容よりも,学歴差で決まり, 「高

中生」 (戦前の中学生)以上のものは皆死刑となったの

mma

2 8事件後,国民党は戒厳令を敷き,台湾に恐怖

政治を行ったが,向野政一さんはツオウ族は表面的には

国民党支持しているが,今でも恐怖心理を持っていると

昌つo

(6)牢獄生活

向野政-さんは「無期徒刑」 (無期懲役)を受け入獄

したが, 1975年に仮出所した。その牢獄生活は5期に分

かれ,合計23年間であった。

第1期は台北刑務所時代(1952-53年4月)であり,

同刑務所は台北軍法処とも呼ばれた。

第2期は新店刑務所時代(1953-59年)であり,同刑

務所は軍人監獄とも呼ばれた。

同刑務所では朝10時に食事で鰻頭を食べ,午後の食事

には米がでた。しかしここでの食事は良くなく栄養不良

になったそうである。囲碁や台湾将棋をやったことが思

い出として残っている。

第3期は火焼島時代(1959-65年)であり,この刑務

所は新生訓導処とも呼ばれていた。軍人のような生活で

あり, 2段ベッドで寝ていた。監獄内に店があり,食物,

酒,日用品が買えた。本は宣伝用にくれた。区居館があ

り,本も借りることができた。

この刑務所では北京語の勉強会が行われた。初級,中

級,高級に分かれ,高級は大学教員で構成されていた。

もちろん,向野さんは初級から出発した。

小組討論会が行われ,国語(北京語)で話さなければ

ならなかった。台湾独立分子は北京語を練習しないで関

南語を使っていたが,強制的に思想改造させられていっ

た。

向野さんらは最初,ゆっ.くりと北京語の文章を読んだ。順番に話して読めるようになった。ここで三民主義,孫

文・蒋介石の思想・政策を学び,毛沢東批判を勉強させ

られた。しかし向野さんは監獄の公教育以外に個人的に

マルクス主義,日本貧乏論を学んでいた。それは新店や

89

この火焼島では左傾思想者が同房囚人の「人となり」や

出身を見きわめた上で,裏切らないとわかればマルク主

義等を教えてくれた(37).夕方寝る前に教えてもらった。

重要点を書いてもらい読んでいた。

獄舎1部屋には囚人30名くらいいたが,その中にはス

パイも1-2名いた2 00事件で捕まったものは少

なく,むしろ1949年に捕まった左傾分子が多かった。

第4期は泰源監獄時代(1965-69年)であり,泰源は

台東の東河県にあり,島流しを受けたような遠卑な所で

fJB&完

泰源監獄においては塀が二重になっていたが,囚人の

外役(獄舎外の労働)は門を出て野菜を植えるものと内

門の中で耕作するものがいた。向野さんは炊事場で豚の

屠殺をやったり,また時々,外で豚を捕まえたりした。

第5期は火焼島時代(1969-75年)であり,再度,火

焼島に戻った時は監獄の状態であった。そこではまた炊

事を担当した。 「米指」 (アメリカの援助)を受けていた

ので食事は悪くはなかった。また,畑でさつまいもを植

えて,豚の餌にした。さらに野山で鹿,きょんを捕まえ

たりした。囲碁や台湾将棋もやった。

夜に点呼を受けて門を締め,朝また点呼を受けて朝食

をとる。食事後,囚人は事務をする者,山で生産(野菜,

芋植え)をする者(生産班)。七面鳥,豚を飼育するも

のなどに分かれた。彼等は給料をもらった。

農民の家を建てると毎日手当をもらえた。また, 1ケ

月に3回,ごちそうがあった。 6名1卓であり,糧食管

理員が料理を手配してくれた。日本の酒,野菜も出るこ

とがあった。さらに毎月,誕生日会があり, 10月生まれ

は得であった。何故なら10月には国慶節,国父誕生日が

あったから。

月,水,金に勉強させられた。洗脳のために国民党の

宣伝,蒋介石が持ち上げられ,国民党の革命宣伝が行わ

れ,毛沢東の一部の論文を取りあげて批判された。

この監獄には5名の台湾独立分子がいた。彼等は国民

党陸戦隊出身の20歳代で,陸戦隊で独立運動を行ったた

めに,処刑された。

また,現在民進党の施明徳が一緒であった。彼は国民

党の軍官で2回無期徒刑の判決を受けた。美麗島事件で

もつかまり, 2回日の無期徒刑を受けた。

当初は朝日科学,婦人倶楽部など日本の書物も読めた

が,日本が大陸を承認して(1972)から何年かは日本の

書物は全く読めなかった。監獄で日本語を言ったら処罰

された。台湾人の多くは日本の大陸承認に失望していた。

向野さんは蒋介石が亡くなって,政治犯に対する規制

が弱くなってきた1975年に仮釈放で出所した。しかし,

5年間は常に当局に監視され,毎日,ララウヤ派出所へ

報告書を書きに行った。酒も5年間は飲めなかった。 5

年後に監視はなくなったが,暫くは公民権も無かったが,

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漸く1997年に回復した。

おわりに

阿男山ツオウ族の戦前・戦後を向野政一さんのライフ

ヒストリーを中心に考察してみた。その結果,ツオウ族

の伝統的な頭目・家長制度,切り替え畑,狩猟等の生産

形態が日本統治によって,自助会組織,水田耕作,土地

私有,狩猟場の制限等大きな変化を受けた。

特に,ツオウ族の指導層が頭目から自助会長,青年団

良,ツオウ族巡査に変わった。その学歴を見ると,士官

学校,師範学校,嘉義農林学校,農業講習所等であり,

日本が中堅幹部養成を目的とした教育機関卒業者であり,

村の知識人であった。これらの知識人は日本統治にただ

単に順応していたのではなく,矢多一生さんの例から明

らかにように霧社事件に共同決起する意図さえも持って

いる者もいた。霧杜事件では花岡一郎さんなどが参加し

たが,日本が中等教育を受けさせ,村の幹部として養成

しようと考えていた人物が反抗した。従って,同事件後,

台湾総督府はツオウ族等原住民の中等教育等への進学を

大きく制限した.向野政一さんも教育所卒業で終わった

のである。

矢多一生さん,湯川一丸さん,向野政一さんなど戦前

のツオウ族指導層は戦後においても村長,警察官等とな

り,村を指導した。彼等は国民党の支配に対抗して2 ・

2 8事件に参加した。そして,その多くは国民党によっ

て殺害された。

戦前・戦後の指導者の数少ない生き残りが向野政一さ

んであった。生き残れた理由は学歴が教育所出身という

偶然条件であった。国民党にとっては日本時代に中堅幹

部として期待され,中等教育程度を修得させられた知識

人は不必要であったのである。

日本の教育が戦前の日本への抵抗,戦後の国民党支配

への抵抗だけでなく,近代的視野の形成,自立心形成の

一つの根拠となったと考えられる。

(1)向野政一(イウスム・ムキナナ,武義徳)さんには,既

に彼の2・2事件との関わりについては聞き取り調査

が行われている。例えば, 「武義徳先生口述」 (『二二八

事件文献輯録』台湾省文献委員会, 1991年11月)及び「武義徳先生訪問記録」 (訪問/許雪姫,江淑玲、1991年7

月6日『口述歴史第3期二二八事件尊号』中央研究

院近代史研究所, 1992年2月)があり,本稿ではこれら

を参考にした。

(2) 『番族慣習調査報告書』 (臨時台湾旧慣調査会第一部,

大正7年(1918)第4巻,第6編,そう族)0

(3) 『臨時台湾旧慣調査会第一部蕃族調査報告書』 「曹族阿

里山蕃」 (台湾総督府蕃族調査会,大正10年く1921) 1

月) 10貢「社会組織」をもとに向野政一さんの口述

(1999年3月下旬)により訂正。

(4) B本時代の原住民強制移住は柑或首」等の習俗を無くし,

日本統治への反抗を押しとどめ,山地より平地に移住さ

せ,定地耕作させるものであったが,その有名な例は

「霧社事件」 (1930)以後,覇杜原住民(アタヤル族)の

川中島(現在の台中県国姓爺村)への移住である。

(5)向野愛佳(政一さんの弟)さんは台中師範出身であるが,

卒業後,平地の学校及び楽野(ララウヤ)国民小学校で

教えていた。しかし向野政一さんの刑がもとで, 「知情

不報」という案件でつかまり,裁判にかけられた。無罪

判決がでたが, 「洗脳」のため,軍法処で2年(1952),

板橋感訓所で5年間思想訓練を受け, 1958年に出所した。

その後,山美(サビキ),新美,里佳(ニヤウチナ)の

国民学校の教員となった。

( 6 )漢族子弟の公学校就学率と原住民子弟の教育所就学率は

後者の方が一般的に高かった言われるが(『台湾日日新

報』大正11年(1922) 10月21日「蕃人の就学率が本島人

のそれよりも高い」など),公学校が台湾総督府学務部

が管理する普通教育であるが,教育所は同府警察局が管

理する巡査による教育であり,後者の方が就学強制力が

大きかったようである。

(7) 『台湾教育沿革誌』 (台湾教育会, 1939年12月, 1982年

に青史杜より復刻) 484貢。

(8) 「蕃童教育所」児童の就学年齢については明治41年

(1908)制定の「蕃童教育標準」及び昭和3年改定の新

「蕃童教育標準」にはその規定はなく,おそらくは,平

地の「善人公学校」規則(大正3年く1914) )の「八年

以上」という規定を準用していたものと考えられる。

(『理蕃誌稿』第3編上巻,大正3年「蕃人公学校規則の

発布」及び拙稿「く蕃人)公学校について一明治38年か

ら大正6年まで-」姫路淘協大学教職課程研究室編『教

職課程研究』第9集, 1999年3月,同「日本統治時代台

湾の(蕃童教育所)について-く蕃童教育標準)制定期

を中心に-」 『兵庫教育大学研究紀要』第19巻第2分冊,

1999年2月,同「斯く蕃童教育標準)制定の意義につい

て」 『学校教育学研究』第12巻,2000年3月刊行予定を参

照されたい)0

(9)昭和2年(1927)にタッパンで生まれた手島義矩さんは

昭和10年(1935)頃にタッパン教育所に入学し,昭和13

午(1938)頃にララウヤに引越し,同年からララウヤ教

育所4年, 5年, 6年と在学したと言われ(1996年8月口述),

昭和5年ララウヤで生まれた矢津久義さん(ポユ・ルヤ

ザナ)さんは昭和13年頃から6年間ララウヤ教育所に通

い,その後,昭和19, 20年(194小45)に2年間タッパ

ン教育所に附設された初等科で信夫美恵子先生(現在,

熊本市在住)に教わったと言われる(1996年8月口述)

ことから,昭和13年(1938)頃にララウヤ教育所は4年

制から6年制に変わったものと考えられる。

(10)安井猛(モオ・ヤシウグ)さんはララウヤ村出身,タッ

パン教育所では矢多一生さんと同期,卒業後,嘉義農林

学校に進み,そこを卒業後,ララウヤ駐在所巡査となり,

教育所の全授業を担当した。国語家庭として表彰され,

昭和15年には向野政一さん等と内地観光にでかけた。 2 ・

2 8事件に関係し,死刑となる。

(ll)湯川一丸(原住民名ヤブスヨグ・ユルナナ,漢名湯守仁)

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阿里山ツオウ族の戦前・戦後

さんは戦前,ララウヤ教育所,厚木士官学校出身で戦後

ララウヤ杜の村長を1945-46年の2年間勤め,その後阿

里山ホテルで勤務した2・28事件に参加し,銃殺さ

れた。妻は向野和子(原住民名ヤグイ・ムキナナ,漢名

湯淑貞)さん,子の湯進賢さんは現在,嘉義県会議員で

あるO尚,湯川一丸さんの2・2事件との関わりにつ

いては「高一生(矢多一生)」 (張炎意地採訪・記録『諸

羅山城二二八』呉三連基金会出版, 1995年2月)にも記

されている。

(12)向野実(ヤパショヌ・ムキナナ,武義伝)さんは向野政

一さんの弟で,昭和5年(1930) 11月5日生.昭和13年

(1938)にララウヤ教育所入所,同19年(1944)卒業後,

20年(1945)までタッパン教育所の初等科(高等科)にに

在学し,信夫美恵子先生,矢多一生先生に教わった。

年,ララウヤ農業講習所に19期講習生として入学し,

戦で終了した。戦後,嘉義省立病院で医学を勉強し,

た1954年に花蓮港神学院歯学系で歯科の勉強をした後,

1954年から91年までクッパン衛生所の事務員として勤務

した。歯の治療は出来たが,戦後は大学の医学部を出な

いと,歯科医師になれなかったからである。

(13)原住民の呼称は清朝時代,漠化しない「生番」と漢化し

た「熟番」に分かれていたが,日本統治時期もこの名称

が継承され, 「生蕃」 「熟蕃」とされた。しかし,大正12

年(1923)の「東宮(昭和天皇)行啓」,同14年の秩父

宮の「御成」など皇族の渡台により, 「蕃人事屋と呼び

たくない」 (『台湾日日新報』大正14年6月5日), 「人とし

て蕃人に接せよ」 (同大正14年6月14日)という発言を受

け,呼称変更の検討がされはじめ,昭和5年の「霧社事

件」の事後処理から本格的に検討された.台湾総督府は

台北帝大に委嘱して原住民の科学的研究が実施され,そ

の成果が昭和10年の『蕃語台湾伝説集』及び『系図を中

心とせる高砂族の研究』の二者にまとめられ, 「高砂族」

という呼称が確立し,また同年,台北で台湾博覧会が開

催され,原住民も高砂族として参加することによってそ

の呼称が確定した。

(14) 『台湾日日新報』昭和8年5月23日「高雄州初ての蕃

人青年団検閲」。

(15) 『台湾日日新報』昭和9年4月1 8日「蕃人らの生活改

善を目的に青年団を組織」。

(16)山中猛吾(モオ・ペヨンシ)さんは戦前,タパン教育所

を卒業後,ララウヤ青年団長(昭和8-12年く1933-37

) ),ララウヤ自助会長(昭和13年(1938) ),警丁,響

察員となった。国語家庭として表彰され,国語章ももら

い,また昭和10 (1935)年には台湾博覧会にも出場した。

戦後,ララウヤ派出所主官,嘉義警察局巡官となった。

2 - 28事件に参加していないが,ララウヤ派出所主官

時代に,隠れていた左傾分子スパイの身分謹に判を押し

たことから,転覆政府罪とされ,死刑となった。

(17)安井健次(ユスグ・ヤシウグ)さんは安井猛さん(註

(10)参照)の末弟で,罪-回,第二回高砂義勇隊に参加

し,モロタイ島で戦死した。

(18)本間雅晴(1887-1946)は昭和15年(1940)に台湾軍司

令官となり.フィリピン攻略作戦を指揮した。バターン・

コレヒドールの攻略に手間どり,作戦失敗の責任を負わ

されて,昭和17年(1942) 8月に予備役に編入された。

91

戦後, 「バタ-ン死の行進」の責任者としてマニラの戦

犯裁判で死刑判決をうけ,昭和21年(1946) 4月3日に刑

死したO角田房子『いっさい夢にござ候一本問雅晴中将

伝-』 (中公文庫, 1975年)がある。 (藤原彰「本間雅晴」

『国史大事典』吉川弘文館, 1991年)

(19) 1999年3月下旬に,筆者が阿里山郷トフヤ村の石河留吉

さんを訪問し,聞き取り調査を行った。

(20) 1999年3月下旬に,筆者が阿里山郷トフヤ村の湯川孝二

さんを訪問し,聞き取り調査を行った。

(21)阿里山鉄道は明治44年(1911) 2月8日に開通した(台湾

経世新報社編『台湾大年表』明治30年一昭和13年,緑蔭

書房より復刻)0

(22)阿里山青年道場については『台湾日日新報』昭和15年5

月29日「阿里山に道場高砂族青年の修練所として台南

州で新設準備中」,同9月6日「阿里山著に道場」という

記事があり,昭和15年(1940)に阿里山のタッパン社に

青年道場が建設され「高砂族青年社衆の質的向上を園る

と共に皇国精神滴養の修練所たらしめる篤め経費約三千

園を投じ」られたという。また,同9月7日「高砂族青年

の大道場」には台東における青年道場の記事が掲載され

ており,阿里山以外にも同目的の道場がこの時期に建設

されたことがわかる。

(23)クッパン教育所は明治37年(1904)に開所した。詳細は

拙稿「日本統治時代台湾のく蕃童教育所)について-く

蕃童教育標準)制定期を中心に-」 (『兵庫教育大学研究

紀要』第19巻第2分冊, 1999年2月)を参照されたい。

(24)矢多一生(ウオグ・ヤタウユガナ)さんは台南師範学校

出身で,向野さん等ツオウ族の人々はいづれも後に霧杜

事件を起こした花岡一郎さんと同期であったという。し

かし,註(21)前掲『台湾大年表』によると花岡一郎さ

んは大正14年(1925)に台中師範学校に入学とあるから,

矢多さんとは同期では無いかも知れない。花岡一郎さん

は事件当時,矢多一生さんに手紙をだし,共同して日本

に「ぶつかろう」と「指示」した。しかし湯川孝二(イ

ウスグ・ユルナナ,註(20)参照)さん及び向野政一さん

の口述によると,矢多一生さんは日本に反抗する意志が

あったが,一般民が反対したために参加しなかったと言

われる。また,タッパン教育所初等科の教員も勤め,戟

級,呉鳳(阿里山)郷長となり, 2・28事件に関わり

転覆政府罪,公金横領罪とされ死刑となった。尚,註

(ll)前掲「高一生(矢多一生)」 (『諸羅山城二二八』)

があるので参照されたい。

(25)筆者が1999年3月下旬に向野仁(アバイ・ムキナナ,向

野政一さんの叔父)さんに聞き取り調査をしたところ,

向野仁さんは昭和6年(1931) 11月15日生,ララチ教育

所卒業後,クッパン教育所初等科で信夫美恵子先生,矢

多一生先生に教わった。昭和19-20年(1944・45)に阿

里山西小学校及び東小学校の給仕となり, 1949年に嘉義

農林初級科に進学, 51年に台東農商に進学し, 53年に卒

業した。その後,阿里山郷長,県会議員を勤め, 85年に

退職したと言われる。

(26) 『台湾EZ日新報』昭和15年(1940) 6月23Bに「阿里山

蕃社に愛国貯金熟瀧る」とあるように,阿里山において

も「国民的意識の昂揚」が報じられた。

(27) 『台湾総督府公文類纂』昭和13年(1938)永久保存第5

Page 14: 阿里山ツオウ族の戦前・戦後repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1172/1/...て,順益台湾原住民博物館館長土田滋先生にお会いでき, 土田先生から何人かの原住民の方を紹介して戴いた。そ

92

巻「高砂族自助会会則に関する件」。

(28) 『台湾総督府公文類纂』明治31年(1898)乙種永久第13

巻,台北外五県及台東外-庁撫墾暑事務成績, 「蕃人教

育二関スル件(嘉義県)」。尚,芋旺に関しては拙稿「構

末日本統治初期く阿里山蕃粗)関係について」 (中央研

究院台湾史研究所等傭処編『契約文書与社会生活-台湾

与華南社会(1600-1900)研討会論文集』 2000年3月刊行

予定)を参照されたい。尚, 1999年3月に筆者が向野政

一さんより聞き取り調査を行った所では字旺はウォング・

コエイヤノ・プ-トゥの事であり,清朝時代から阿男山

を代表して清朝官憲と折衝していた人物で,山中松夫さ

んの祖父であるという。

(29) 『台湾総督府公文類纂』明治34年(1901) 15年保存第15

巻。尚,拙稿「撫墾署・耕務署時代の原住民教育につい

て」 (『アジアの歴史と経済』中国書店, 2000年3月刊行

予定)を参照されたい1999年3月に筆者が向野政-さ

んより聞き取り調査を行った所ではアパリとはアパイ巡

査の事で,矢多一生さんの父であろうと言われる。

(30)向野政一さんの話によると,モナ・ルダオさんは日本に

行って,兵器工場を参観し,薬英が生産されるの見て,

日本と衝突しても勝ち目がないとわかった。しかし,日

本の強圧に堪えきれず,霧杜事件を起こしたと言われる。

(31)註(21)前掲『台湾大年表』によると明治33年(1900)

6月12日総督府殖産課小笠原技師によって阿里山大森林

が発見され,同43年(1910) 5月15日に阿里山作業所が

嘉義に設置され,さらに同44年(1911) 2月8日に阿里

山鉄道が開通した。以上の経過を通して,阿里山が国有

化していったことが理解できよう。

(32)向野政一さんの口述によると,湯川一丸さんがララウヤ

村長であった当時は,県政府から手当として米をもらっ

ていたが,村長は名義上の役人であり,この手当以外に

は俸給は無かった。村長は県政府に指名されて決まった。

向野政一さんは村幹事(副村長)の一人で事務をとり,

給料は相当大きかった。但し,当時はインフレで物価の

高騰がひどくて物はたいして買えなかった。村幹事は公

務員であったo後に向野政一さんが村長になった時には,

矢場さんが村幹事となっていたと言われる。

(33)向野政一さんの口述によると,蕪孝乾は共産党員であっ

たが国民党に降参し,組織を売った。彼が売ったために

左傾分子や2 8事件参加者が捕まった。向野政一さ

んもその一人であった。日本語が出来たので嘉義県阿里

山に来てその負責者になった。自分で降参したか,捕まっ

て降参した。後に,国民党が彼に地位を与え,現在,国

防部か何かの名誉職になっていると言われる。

(34)向野政一さんの口述によると,ウォング・ペヨンシ(山

中猛吾さんの祖父)は頭目ではなかったが,漢人からウ

ォング・コエイヤーノ・ブートウ(漢人が尊敬したウォ

ング,前述の字旺)と呼ばれ,また清朝から龍の刺繍の

入った服をもらっていた。彼は日本人に劉閲の首を切る

必要はないと主張したので,劉閲は死刑にならなかった。

従って,劉伝来の所にツオウ族のものが薬をもらいに行っ

たら半頓にしてくれた。尚,宇旺については註(28)前

描,拙稿「清未日本統治初期く阿里山蕃粗)関係につい

て」を参照されたい。

(35)謝雪紅(1901-70)は本名謝儀女,或は謝阿女,別名謝

飛英,山根美子といい,台湾彰化の人である。日本統治

時代に台湾共産党を創立した。戦後, 2・2事件後,

台中地区で活動し,全台湾「抗暴」女性英雄となった。

「抗暴」失敗後,中国大陸へ亡命した1968年文革で紅

衛兵の暴力で傷つき, 1970年11月5日に肺癌で死去した。

(謝徳明「革命女豪傑一謝雪紅」張炎憲等編『台湾近代

名人誌』自立晩報, 1990年10月,第5冊)0

(36)読(ll)前掲「高一生(矢多一生)」 (『諸羅山城』)に収

録されている1993年11月7日に張炎憲氏等が高菊花(高

一生さんの長女)さんより聞き散り調査を行ったところ

によると, 2- 2事件に関する矢多一生さんと湯川一

丸さん,向野政一さんとの関係について口述されているo

それによると高菊花さんは「湯川さん(湯守仁)が部隊

を率いて下山し二二八に参加した事は聞いたことがあり

ます。湯川さんは日本時代,日本軍少尉でした。その当

時,彼等は湯川さんにジープを与えていた.後に私(高

菊花)は国民党軍の将軍から湯川さんは少尉ではなく,

また軍官でもなかった。もともと日本には行っていない。

戦争終結時.東北(満洲)におり,共産党に洗脳された

後,自分は少尉軍官だと言っているにすぎない,と聞き

ました。これは国民党軍人の言うことで本当かどうか分

かりません。後に湯川さんがララウヤにいた時,日本軍

服を着て,青年を訓練していました。指揮所(指揮部?)

の人は私にくもし共産党が彼を支持していたら,このよ

うな制服を着るのは簡単である。あなたの父(矢多一生

さん)は不運であるOなぜなら湯川さんはもともとあな

たの父の言うことを聞かない,あなたの父は彼等のよう

な事は決してしない。彼等は意地で(2・28事件参加

杏)行ったのである)と言った。湯守仁(湯川一丸さん)

は私の母の従弟であったが,彼は常に父とロげんかして

いました。また,武義徳(向野政一さん)も同じでしたo

彼等は父の言う事を聞きません。しかし(阿里山の)他

の人々は決して父と口げんかはしなかった。」と言われ

る。高菊花さんの口述によると, 2-2事件において

は湯川一丸さん,向野政一さんが横極的であり,矢多一

生さんは彼等とは意見が違っていたと言われている。こ

の点は向野政一さんの口述とは若干異なっているように

思えるが,矢多さんは現在,亡くなられており,事の仔

細についてはこれ以上確認する方法がない。

(37)監獄時代,向野政一さんがマルクス主義などを教わった

方は台車の郭さん,台南の王さん,外省人の林さん(中

央日報の主筆),台南の林書揚さん(大学出身, 36年間

牢獄生活)であった。彼等は何年かして向野さんの人間

的本質を理解してから漸く教えてくれるようになった。

向野さんに生産関係,階級闘争,階級対立,剥奪(搾取)

とかを教えてくれた。向野さんは農民出身だからこれら

の事をよく理解できたと言われる。

Page 15: 阿里山ツオウ族の戦前・戦後repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1172/1/...て,順益台湾原住民博物館館長土田滋先生にお会いでき, 土田先生から何人かの原住民の方を紹介して戴いた。そ

阿里山ツオウ族の戦前・戦後

(内政部地政司聯勤総部測量署『中華民国台湾区地図集』幼新文化事業股扮有限公司1981年)

(左:向野政一(イウスム・ムキナナ)さん、右:ララウヤ教育所)