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俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめ
る。
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【注意事項】
このPDFファイルは「ハーメルン」で掲載中の作品を自動的にPDF化したもので
す。
小説の作者、「ハーメルン」の運営者に無断でPDFファイル及び作品を引用の範囲を
超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁じます。
【あらすじ】
仮想空間で俺ガイル勢が日常を過ごします。
他作品のキャラや特殊能力は登場しません。
バーチャルな世界ゆえの特殊な設定(例えば移動時間の短縮が可能)や能力(例えば
教室の内装を変換できる)があります。
基本シリアスですが、関係に決着をつけての大団円を目指しています。
現在、原作9巻を連載中です。
目 次
原作1巻
01.やはり彼はその部活へと導かれ
─────────────
る。
1
02.やはり彼女もその部室へと導か
────────────
れる。
13
03.いつだって彼女は生徒達の幸せ
────────
を願っている。
25
04.なんとか彼は状況を把握しよう
──────────
と努める。
36
05.こうして彼ら彼女らの夜は更け
───────────
て行く。
54
06.それでも彼女は希望の言葉を口
───────────
にする。
69
07.ついに彼女は決意を固める。
──────────────────────
80 08.ときには彼女らにもできない事
───────────
はある。
92
09.ゆっくりと三人の関係は変化し
───────────
始める。
107
10.ようやく彼と彼女の始まりが終
────────────
わる。
119
11.そして彼女らもそれぞれの動き
────────
を見せ始める。
138
12.やはり我の日頃の行いはまち
─────────
がっている。
151
13.もちろん我の依頼はすんなりと
───────
受け入れられる。
165
14.しかして我は新たな病を発症す
─────────────
る。
180
15.ついている彼にも思う事はあ
─────────────
る。
198
16.ひそかに彼女にも人に言えない
─────────
過去がある。
209
17.ついている彼には助けの手が多
──────
く差し伸べられる。
222
18.とにかく彼女らは思うがままに
──────────
行動する。
238
19.やはり俺たちのテニス勝負はま
────────
ちがっている。
258
20.やはり俺たちのテニス勝負はま
───────
ちがっている。続
275
21.俺の青春ラブコメはこの世界で
───────
変わりはじめる。
301
幕間
01.こうして初めての外出が行われ
─────────────
る。
322
02.そうして彼と彼女は再会を果た
─────────────
す。
335
ぼーなすとらっく! 「憂鬱のお出掛
─────────────
け」
348
原作との相違点および時系列(原作1
──────────
巻〜幕間)
362
原作2巻
01.そんなわけで彼は風に感謝を捧
────────────
げる。
369
02.こんなふうに彼らは日常を過ご
──────────
している。
381
03.あんまりな事に彼の企みは失敗
──────────
に終わる。
393
04.どんな世界でも彼らは同じ状況
───────────
に陥る。
406
05.ここにあざとほんわか天使が降
─────────
臨を果たす。
420
06.そこでは活発な議論が交わされ
─────────────
る。
434
07.あれほど怖い事は無かったと彼
────────
らは後に語る。
450
08.どんなに頑張っても彼はフラグ
───────
を避けられない。
462
09.ようやく彼と彼女の始まりも終
────────────
わる。
476
10.この世界でも兄妹姉弟は色々あ
─────────────
る。
488
11.その後で彼らは勉強会を行っ
─────────────
た。
500
12.あちらの世界の事を彼女は今も
───────
引き摺っている。
512
13.どんな世界でも彼女の意識は家
────────
族と共にある。
524
14.ここに彼女らの初対戦がはじま
─────────────
る。
535
15.その決断を彼女は決して迷わな
─────────────
い。
546
16.あれこれ考えた末に彼女は手掛
─────────
かりを得る。
557
17.どんな相手でも彼女はしっかり
──────────
報復する。
569
18.こうして彼女らは再戦に至る。
───────────────
582
19.そこには確かに家族の絆があ
─────────────
る。
598
20.彼女たちの青春ラブコメはこの
───────
世界ではじまる。
619
ぼーなすとらっく! 「打ち上げに行
───────────
こう!」
644
幕間:またしても彼は元来た道へ引き
────────────
返す。
659
原作3巻
01.ひたすらに彼女は2人を案じて
────────────
いる。
686
02.きっと彼は考え過ぎて失敗を招
─────────────
く。
698
03.がむしゃらに彼女は努力を積み
───────────
重ねる。
709
04.やむをえず彼女は状況を見守
─────────────
る。
724
05.はてしなく彼は思索の罠に嵌ま
─────────
りつづける。
735
06.ちゃんと彼女は日常に復帰す
─────────────
る。
748
07.まんざらでもなく彼女は笑顔を
──────────
浮かべる。
759
08.ゆるやかに彼の周囲が動きはじ
────────────
める。
770
09.きっと彼女は決意を果たすこと
───────────
になる。
781
10.のんべんだらりと彼は放課後を
──────────
満喫する。
792
11.したたかにあざとく彼女は接近
────────────
する。
807
12.たゆまぬ努力を彼女は結果に繋
────────────
げる。
819
13.ゆきゆきて彼女は兄の幸せを願
─────────────
う。
831
14.きのもちようだと天使は語る。
───────────────
843
15.のんけでも惑いそうな天使の魅
─────
力に彼は立ち向かう。
858
16.ゆくりなく彼は彼女と遭遇す
─────────────
る。
877
17.いじらしくも彼女は彼を思った
─────────
行動に出る。
893
18.がっちりと彼女は自分の気持ち
───────────
を知る。
912
19.はなやかに彼女はこの世界でも
─────────
輝きを放つ。
930
20.まっすぐに彼らは各々の趣味を
────────────
貫く。
947
21.ゆるぎなく彼は己の信念を叫
─────────────
ぶ。
962
22.いざ尋常に彼は勝ちを義務づけ
──────
られた勝負に挑む。
976
23.今ふたたび彼は元いた場所へ帰
───────────
り来る。
998
番外編:なぜか彼女は会議に追われる
─────────
日々を送る。
1018
ぼーなすとらっく! 「やはり今この
場の男女比率はまちがっている。」
──────────────────────
1038 原作との相違点および時系列(原作2
──────────
巻〜3巻)
1054
原作4巻
01.つまるところ彼は必然的に巻き
──────────
込まれる。
1063
02.るんるん気分には遠く彼はここ
───
でも苦い光景に遭遇する。
1080
03.みんなと違う行動をして彼女は
─────
みんなから孤立する。
1095
04.るる綿々と彼らの話し合いは尽
───────────
きない。
1109
05.みごとに彼らは合宿らしい会話
───────────
をする。
1126
06.ひき下がることなく彼女は己の
─────────
意思を示す。
1143
07.きまぐれな散歩が彼を彼女の元
─────────
にいざなう。
1158
08.がっつりと彼らは本音で語り合
─────────────
う。
1174
09.やすんでしまう前に彼らはそれ
──────
ぞれ思考を巡らす。
1205
10.ここでようやく彼は同じ土俵に
──────────
上がった。
1220
11.まざまざと彼は彼女らを実感す
─────────────
る。
1233
12.ちいさくとも彼女は確かな手応
──────────
えを得た。
1245
13.はなばなしく彼らは議論を重ね
─────────────
る。
1267
14.やっとの思いで彼は何とか自説
───────────
を通す。
1284
15.まぎれもなく彼女は自らの手で
──────
進む道を選び取る。
1299
16.はっきりと彼らはお互いを視野
──────────
に入れた。
1325
17.やるべきことを終えて彼女らは
────
各々の課題と向き合う。
1342
18.とにもかくにも彼らは無事に合
─────────
宿を終える。
1366
原作5巻
01.さそわれて彼女らは彼の家を訪
─────────────
う。
1395
02.(ブラコンと)あざとさと切なさ
───────
ととつ可愛さと。
1413
03.レアな対応にも彼は自身の行動
─────────
を曲げない。
1440
幕間:限りなくリア充に近いぼっち。
───────────────
1463
原作との相違点および時系列(原作4
──────────
巻〜5巻)
1484
原作6巻
01.さまざまな思惑をよそに彼は逃
─────────
亡を試みる。
1494
02.がんばるよりも彼女は安易に見
────────
える道を選ぶ。
1513
03.みのがして今回だけは不問にし
────
ようと彼女は提案する。
1533
04.みた目は内気そうなのに彼女は
──────
意外に有能だった。
1553
05.なみなみならぬ注意を払い彼女
────
は何とか場を乗り切る。
1572
06.みんなの期待に応えられるよう
─
に彼は少しずつ決意を重ねる。
1587
07.しっかりと彼女らは己の意思を
─────
見込んだ者へと託す。
1605
08.ろくでもない案でも彼女なら大
──────
丈夫だと彼は語る。
1632
09.めざすべき方向を彼と彼女はそ
───────
れぞれ見据える。
1651
10.ぐるぐると色んな事が繋がって
────
いるのだと彼女は語る。
1675
11.りくつよりも感情で彼女は話を
───────────
動かす。
1703
12.めだちたくない彼が今日は違っ
────────
た姿を見せる。
1727
13.ぐだぐだした空気すらも彼女た
───────
ちは一変させる。
1754
14.リアルも含めた幅広い情報を彼
───────
女は持っている。
1795
15.とざされた世界でも彼らは存分
───────
に祭りを楽しむ。
1840
16.つまらない連中は相手をするだ
─────
け無駄だと彼は思う。
1873
17.かわいくともあざといのが厄介
────────
だと彼は思う。
1900
18.さっきまでの友人に彼女はとつ
──────
ぜん突き放される。
1951
19.いかなる言辞よりも雄弁に彼ら
───
はステージの上から語る。
2010
20.かくして彼らの祭りは終わりを
───────────
迎える。
2072
ぼーなすとらっく! 「そして文化祭
──────
の夜は更けて行く。」
2101
幕間:彼ら彼女らの行く末に幸多から
──────────
んことを。
2122
原作6.5巻
01.ざして待つよりも彼女は自ら責
──────
任を負うべく動く。
2140
02.いいようのない不安を抱きつつ
───
も彼女は将来を見据える。
2155
03.もれなく使える面々を集めて彼
──
女は成功に向けて邁進する。
2171
04.くれないと白に分かれて生徒た
──────
ちは優勝を目指す。
2199
05.ざつおんを気に留めず彼は彼な
─────
りの正々堂々を貫く。
2231
06.よして! るーるに違反しない
ように頑張ったのにと彼は命乞いをす
─────────────
る。
2256
幕間:よして! るーむ掃除は大変な
────
のよと彼女は釘を刺す。
2288
ここまでのあらすじ(原作1巻〜5巻)
───────────────
2309
ここまでのあらすじ、原作との相違点
および時系列(原作6巻〜6.5巻)
──────────────────────────────────────────
2337原作7巻
01.えがいていたのとは違う展開に
────────
彼は遭遇する。
2384
02.びっちとは聞き捨てならぬと彼
────────
女は宣言する。
2401
03.なまえを呼んではいけないと彼
──────
は彼女を警戒する。
2427
04.ひさしぶりの面々に見送られて
────────
彼は旅に出る。
2455
05.なつかしい再会から彼の修学旅
────────
行がはじまる。
2475
06.とざされた空間で彼女は彼に願
─────────
いを重ねる。
2498
07.べつに普通だと言いながら彼は
───────
特別な話を語る。
2529
08.かみ合わない想いを抱えつつ彼
─────
と彼女は旅を楽しむ。
2556
09.けんかするほど仲が良いと彼女
──────
らは身を以て示す。
2575
10.ルーツを辿りながら彼と彼女は
─────
夜の京都を訪ね歩く。
2601
11.かみさまに願を懸けて三人は洛
──────
中洛外を練り歩く。
2653
12.わすれることなどできない言葉
───────
を彼は耳にする。
2691
13.さまざまな想いが交錯する中で
─────
彼は決断を迫られる。
2728
14.きっかけが些細なものでも彼ら
────
は気持ちを持ち直せる。
2764
15.さし向かいで多くの感情を共有
────
して彼と彼女は別れる。
2799
16.きもちを確かめ合って彼と彼女
────────
は次へと進む。
2843
原作8巻
01.いがいな展開を彼女らはしたた
────────
かに利用する。
2898
02.ついえた思惑を胸に彼女らは決
────────
意を宣言する。
2920
03.しんしな想いを胸に彼女もまた
────────
決意を固める。
2946
04.きあいを込めて彼女らは成長の
─────────
決意を語る。
2970
05.いり乱れる思惑と行動に彼は翻
──────────
弄される。
2994
06.ろうを厭わぬ面々に向けて彼は
─────────
方針を語る。
3025
07.はらの底から笑い転げて彼女は
───────
ようやく気付く。
3056
08.すんだ話は気に留めず彼は特別
───────
と自由を求める。
3098
09.おたがいに思惑はあれど彼と彼
───────
女は必勝を期す。
3134
10.りふじんな頼みと判ってなお彼
──────
はそれを口にする。
3155
11.もう決意は変わらないと彼女ら
──────
は堂々と宣言する。
3205
12.とまらぬ想いを胸に彼女は敢え
────────
て行動に出る。
3251
13.かけがえのないひと時を彼はそ
──────
れと知らず過ごす。
3293
14.おのれの主張に全てをかけて彼
────
女らは堂々と渡り合う。
3329
15.りゆうを見付けた彼女と彼は前
─────
を向いて歩き始める。
3364
原作との相違点および時系列(原作7
──────────
巻〜8巻)
3402
原作9巻
01.ひきつった表情で彼は自身の言
────────
動を振り返る。
3417
02.ライバルと席を並べて一同は貴
──────
重な話を耳にする。
3428
03.つかの間の一時が彼に今後の指
─────────
針を与える。
3454
04.かりそめの一時が彼女に躁急な
───────
覚悟をもたらす。
3493
05.しずかに重々しくその言葉は語
───────────
られる。
3559
06.ずっと探していた何かに彼女は
─────
ようやく手を伸ばす。
3594
07.かつての記憶を胸に抱いて彼女
──
はしっかりと前を見据える。
3632
08.ゆらめく想いを外には出さず彼
────
は特別な相手を支える。
3658
原作1巻
01.やはり彼はその部活へと導かれる。
比企谷八幡
ひきがやはちまん
チャイムが鳴って午前最後の授業が終わり、
はふと窓越しに空を眺めた。
澄んだ青のところどころに白い雲が浮かんでいて、平和な気持ちにさせられる。
頬杖をついてその姿勢を維持する八幡をよそに、教室内は喧噪に包まれていた。
高二に進級して間もないこの時期、クラスメイトの多くは新たな知己を得ようと積極
的な行動に出ていた。しかし八幡はそんな事には興味がないのか。あるいは、どう行動
すれば良いのか分からず様子見に徹しているのか。席に座ったまま動かない。
そんな八幡の前に、先程まで教壇に立っていた国語教師が現れた。
「比企谷。話があるので職員室まで来てくれるかね」
「はあ。まあ、いいですけど」
「あまり時間は掛からないと思うが、弁当があれば持って来ても構わない。お茶ぐらい
なら出してやろう」
「うす」
平塚静
ひらつかしずか
鞄の中から弁当を取り出して、そのまま
教諭の後に従う。
1
比企谷小町
ひきがやこまち
普段の八幡はパン食だが、今日は例外だ。なぜか妹の
が朝からいそいそ
と、この弁当を用意してくれたのだ。何か思惑があったのか。それとも今日の夕方に体
ア・レ・
験する予定の
に向けて、兄に発破をかける為だったのか。
八幡を気遣うセリフをいたずらっぽく口にして、最後に照れ隠しなのか「今の小町的
にポイント高い!」と付け加える妹の姿を思い浮かべているうちに。
二人は職員室へと辿り着いた。
***
書類が散乱している机の前で立ち止まると、平塚はくるりと振り返った。動きなが
ら、紙の山で埋もれそうになっている付箋つきの原稿用紙をちらりと確認して。机に片
手をついた姿勢で、立ったまま生徒と向かい合った。
「さて、比企谷……の前に。君の目が濁っているのは元からだが、今浮かべているにやけ
顔も、他人にあまり良い印象を与えないと思うぞ」
いきなり本題に入る予定の平塚だったが。八幡の表情が目についたので、まずは指摘
を口にした。
平塚は生活指導の役職も兼ねている。本人曰く「若手の仕事だから。私はまだ若いか
2 01.やはり彼はその部活へと導かれる。
らな!」との事だが、体よく厄介事を押し付けられたのだろうと生徒たちは噂していた。
とはいえその親身な応対には、学生のみならず保護者からも評価が高い。
妹を思い出してにやけ顔だった八幡は、まじめな表情に戻してこくりと一つ頷いた。
内心では、またやらかしてしまったかと冷や汗が流れる思いがする。
口を開くと変な声が出そうだったので、無言を貫くことにして。じろりとした目を向
けて話を促すと、教師は机の上に手を伸ばしながら口を開いた。
「ふむ。で、本題なのだが。君が書いてきたこの作文は何かね?」
「えと、春休みの宿題でしたよね。『高校生活を振り返って』って、たしかに表現力が未
熟かもしれませんが」
「表現力以前の問題だよ。なぜ君の作文は『リア充爆発しろ』という結論になるんだ?」
鋭い眼光が八幡に向けられる。
生徒と同じ目線で向き合ってくれるので話しやすいと評判の平塚だが、やはり生徒と
は潜ってきた修羅場の数が違う。婚約者に家財道具を持ち逃げされても人前では決し
て涙を見せなかったという逸話は、伊達ではないのだ。
平塚の迫力を間近で受けて。さらには容姿の整った大人の女性からの視線を一身に
浴びるという状況ゆえに。八幡のコミュニケーション能力はあっさりと崩壊した。
「さ、最近の高校生なら、しょんなもんじゃないですかね?」
3
「最近の高校生か。ならば最近の高校生たる君は、友達はいるのかね?」
「あの、平等主義なので、親しい友人は作らにゃい事にしてるんですよ」
「君はたしか部活はやっていなかったな?」
「ひゃい」
どもりながらも何とか返事をする八幡とは対照的に、平塚は笑顔すら浮かべている。
一連のやり取りで機嫌を直しただけでは、ここまでしてやったりの表情にはならない
だろう。宿題を餌にまんまと話を誘導したのだなと、八幡が気付いた時には後の祭り
だった。
少しだけまじめな顔に戻って、教師は生徒に告げる。
「宿題は書き直しをしてもらう。が、君の抱える問題は耳障りの良い文章を書き並べて
も解決しないと私は考える」
「はあ。でもじゃあ、どうすればいいんですかね?」
「比企谷には奉仕活動をしてもらう。具体的には、君をある部活に入れようと思う」
「えっ。……部活?」
「弁当を持って、ついて来たまえ」
***
4 01.やはり彼はその部活へと導かれる。
渡り廊下の先にある特別棟。その中の何の変哲もない教室の前で立ち止まり、平塚は
からりと戸を開けた。
端のほうに無造作に積み上げられた机と椅子。入り口の近くには長机と、椅子がいく
つか置かれていた。そこに座って一人で本を読んでいる女子生徒の姿が、八幡の目を捉
えて離さない。
春の日差しを浴びながら読書しているその女子生徒は、たとえ世界が終わっても変わ
らぬものがあると主張しているかのように。はるか太古から永遠に存在し続けている
かのように、そこに佇んでいた。
偉大な絵画を前にした時のように、見る人の意識を有無を言わさず奪っていくだけの
存在感が彼女にはあった。平塚のような完成された大人の美とも違う。未完成で儚い
がゆえに目を逸らせない、そんな美を体現している怜悧な顔つきの女子生徒が、そこに
いた。
「平塚先生。ノックをお願いしたはずですが?」
「すまんな。入部希望者を連れていたのでつい忘れていたよ」
「お一人の時もノックをされた事はなかったと記憶していますが。それはそうと入部希
望者、ですか?」
5
「うむ。彼は比企谷八幡。君のところで、もう少し他人と関わって欲しいと思ってな」
「え、ちょっと待って。俺、入部する気はないですけど?」
当事者をよそに話が進みそうだったので、あわてて会話に参加したものの。八幡の意
識は女子生徒に向いている。
雪ノ下雪乃
ゆきのしたゆきの
。
ここ千葉市立総武高校には、普通科が九クラスと国際教養科が一クラスある。普通科
よりも偏差値が高い国際教養科においても、彼女の存在は飛び抜けていた。入学以来、
定期テストでも実力テストでも首位を明け渡した事のない才女。さらにはこの類い稀
なる容姿。
八幡とて才女や美女とお近付きになる事に否やはないが、いかんせん相手が凄すぎる
と尻込みするのが世の常だ。ゆえに八幡は呆れ顔の二人を尻目に、戦略的撤退を目的と
した行動に出る。
「それに見たところ女子一人みたいですが、男女一人ずつだと学校的にも問題じゃない
ですかね?」
「ふっ。貴方が私に指一本でも触れられると思わない事ね」
「そもそも君には女性を口説く為の度胸も技術も経験もないだろう。保身優先の君が暴
力に訴えるとも思えないしな」
6 01.やはり彼はその部活へと導かれる。
「なるほど」
「納得しちゃうのかよ……」
「分かりました。先生の依頼なら無下にはできませんし、入部を許可しましょう」
「うむ。では雪ノ下、後は頼む。君も頑張りたまえ」
***
一瞬で敗北が決まった八幡に素敵な笑顔を見せて、平塚は教室から去って行った。そ
の手にはしっかりと、生徒に書かせたばかりの入部届が握られている。
しばらくは弁当片手に、なすすべなく突っ立っていた八幡だが。勇気を出して、近く
の椅子にそっと腰を下ろした。幸いなことに今のところお咎めの言葉は飛んでこない。
はぁ、とため息をひとつ吐いて、頭を上げる。
ちょうど長机の長辺と等しい距離を置いて、八幡は雪ノ下と向き合った。
「あー、悪いけど昼飯がまだなんだわ。弁当を食わせてもらっていいか?」
「ええ、構わないわ。……良かったらお茶でも淹れましょうか?」
「あ、もらえるなら助かる。てか平塚先生、お茶ぐらい出すって言ってたのに他人任せか
よ」
7
「あの先生らしいわね。申し訳ないのだけれど、紅茶と違って煎茶はTea bagし
かなくて」
「淹れてもらえるだけで充分だから、まあ、なんだ、頼む」
予想外に会話が滑らかに進むので、八幡は内心で首を傾げていた。他の生徒とは違っ
て雪ノ下からは、こちらを見下すような気配を感じない。先ほど口にしたように、先生
からの依頼なので無下にはできないという事だろうか。
依頼という言葉からクライアントという単語を連想して、ひとまず八幡はこの距離感
に納得した。そしてカタカナ語を思い浮かべたせいで、ティーバッグの発音がとても綺
麗だったなと思い出す。
しばらく無言で弁当をかき込んでいると。
紙コップのお茶を置きに、すぐ近くまで来てくれた。
髪や制服が触れないようにと気をつけている雪ノ下の姿と、無防備に漂ってくる甘い
香りに接して。頬が急激に熱を帯びていく。
自分の顔を弁当箱で隠すようにして、残りを一気に口に入れた。余計なことを考えな
いように、必死でもぐもぐと咀嚼する。
弁当箱を机に置くと、雪ノ下はもとの席に戻っていた。その姿を見て再び湧き上がり
8 01.やはり彼はその部活へと導かれる。
そうになる羞恥心をごまかすように、八幡はあわてて口を開く。
「そういや、ここって何部なんだ?」
「あら、平塚先生から聞いていなかったのかしら?」
「なんか上手い具合に丸め込まれて有無を言わさず連れて来られた」
「そう。なら教えてあげましょう。ようこそ奉仕部へ」
「えっ。……奉仕、部?」
「ええ。助けを求める人に結果ではなく手段を提示する事。それが奉仕部の理念よ」
「はあ、面倒なこって」
「それは聞き捨てならないわね」
急激に室温が下がった気がして、八幡は思わず身震いする。
何が逆鱗に触れたのだろうか。決まっている。「面倒なこって」という発言だ。
では何故。
奉仕部の理念とやらを、つまり手段重視を否定したと思われたのか。あるいは、助け
を求める人に奉仕する行為を否定したと受け取られたか。
つい先程まではビジネスライクな関係だった二人の間には、冷たい空気が充満してい
た。
9
八幡には人間関係がわからぬ。八幡は、一介の高校生である。同級生に疎まれ、一人
でぼっちとして暮らして来た。けれども自分を見下す目には、人一倍に敏感だった。
被害を少しでも抑えるために身につけたその感覚は、逃げる目的でみがいたものだ。
反撃をしたり、状況を根本的に解決する術を、八幡は持たない。
そもそも、他人から侮られる原因が自身の言動にあるのは分かっても。八幡にしてみ
ればなぜ彼らが「俺に対してだけ」豹変するのか分からないのだ。
いくら小説を読んだところで、そうした他人の感情は理解できなかった。分かるの
は、自分が理不尽な目に遭いやすいという現実のみ。ゆえに八幡はこの歳にして人間関
係を諦め、ぼっちとして過ごすと決めたのだった。
逃げることの叶わない、まるで魔王と遭遇したかのような現状を八幡は俯瞰した。単
に現実逃避をしただけとも言うが、こちらを睨みつける女子生徒を当事者ではなく傍観
者のような感覚で眺めていると。その怒りが純粋だからこそ、雪ノ下の至らぬ部分が見
えてきた。
たしかに威圧感は凄まじい。資質もあるのだろうし、数年後には魔王の域に到達して
いても不思議ではない。
しかし、今はまだ……。
10 01.やはり彼はその部活へと導かれる。
「どこまで感謝されるかも怪しいのに、人助け、ねぇ」
極寒の中で見つけた一筋の光を、八幡は信じることにした。雪ノ下から感じる魔王の
片鱗と、一般的な奉仕の精神との間に違和感を覚えたのだ。
両者の溝を埋めるための理念なのだろうが、どうにもしっくり来なかった。むしろ傍
若無人に結果を提示するほうが、雪ノ下らしいとすら思えてしまう。
だから八幡は、外れて元々という気持ちで「人助け」という部分に賭けた。雪ノ下を
怒らせた原因はそれだと決め打ちして、あえて挑発的な言葉を口にした。
頭ごなしに怒気を向けられて、いらだつ気持ちも確かにある。それでも今までなら、
罵倒が済むまで黙って大人しく耐えていたはずだ。けれど今は、雪ノ下の真意をもう少
しだけ知りたいと思った。
わざわざお茶を淹れてくれたからか。こちらを見下すことなく普通に接してくれた
からか。あるいは全く別の理由なのか。いずれにせよ、なぜか八幡は、雪ノ下の真意を
もう少しだけ知りたいと思ってしまった。
原因と思しきものを列挙するのが精一杯で、それ以上はどうやっても他人の感情を理
解できなかった八幡が。今は自身の感情に身を委ねて、感覚的に言葉を紡ぐ。意外な反
論に驚いている雪ノ下が何かを言う前に、言葉を繋ぐ。
11
「そりゃ、お前みたいな黒髪美人が手助けしてくれたら、大抵の奴らは感謝するだろう
よ。けどな、そいつらの大半はお前の姿を見て感謝してるだけだ。考えてみろ。もし俺
がお前と全く同じことをしたとして、お前に向けるのと同じ目を俺に向けると思うか。
ありえねーよ。お前と同じことをしても俺は罵倒される。良くて嘲りの目を向けられ
るのが関の山だ。なら、人助けの内実に何の意味がある?」
「……貴方が言いたいことは解ったわ。確かに一理あるのは認めてあげましょう。で
救・わ・れ・な・い・
も。でもそれじゃあ、誰も
じゃない」
意外な返答に、今度は八幡が驚いた。相手は学年一位の才女だ。完膚なきまでに論破
され罵倒されて話が終わるのだろうと身構えていたのに、見えたのは雪ノ下の違った一
面だった。
人助けの話をしていたはずなのに、どうして受動態で話すんだ?
そんな疑問を抱く八幡と、言いたいことを口にし終えた雪ノ下が、身じろぎもせずに
お互いを見据えていると。
唐突に、ノックもなく、教室のドアが開かれた。
12 01.やはり彼はその部活へと導かれる。
02.やはり彼女もその部室へと導かれる。
由比ヶ浜結衣
ゆ
い
が
は
ま
ゆ
い
国語担当の平塚静に連れられて教室から出て行く比企谷八幡を、
は横目
でちらちらと見ていた。
新学期早々の呼び出しなので、他の生徒ならもっと騒がれそうなものなのに。二人の
動きが終始静かだったせいか、ほとんど認識されていない。
八幡が後手にドアを閉めたのを確認して、由比ヶ浜は友人二人に意識を戻した。
「んーと、結衣。先生に何か質問でもあるんだし?」
「聞きに行くならお昼を食べずに待ってるし、遠慮なく行って来なよ」
二年になって新しくできた友人二人には、しっかり見られていたみたいで。気を使う
ような言い回しをさせてしまった。
高校生になって随分マシになったとはいえ、もともと引っ込み思案の由比ヶ浜は他人
に配慮されるのがあまり得意ではない。だから少しだけ慌てながら答える。
「ううんっ。なんだか大人の女性って感じでかっこいいなぁって思って」
「あーしらも何年か後にはあんな感じになるし」
13
「優美子はスタイルも良いし綺麗な感じになるんだろうけど、あたしはどうだろ?」
「結衣は……愚腐腐腐、TSしたシズカくんがユイくんに無理矢理、キマシタワー!」
新しくできた友人の片割れ、赤いフレームの眼鏡をかけ肩まで黒い艶やかな髪を伸ば
海老名姫菜
え
び
な
ひ
な
している
が、何やら妙な言葉を小声でつぶやいて。
その直後に、鼻血がたらりと流れ出した。
「えっ?」
「動かないでじっとしてるし」
三浦優美子
み
う
ら
ゆ
み
こ
予想外の展開に慌てる由比ヶ浜とは違って、手早くハンドタオルを出した
は驚いた表情とは裏腹の落ち着いた動作で海老名を後ろから抱き留め、ためらいなく鼻
にタオルを当てる。
ギャル風の外見に金髪縦ロールがよく似合っている三浦だが、意外と他人の世話には
慣れているようだ。
「ごめん、優美子。ありがとね」
「これくらい気にすんなし。でも、体調が悪いなら保健室にでも行くし」
「そうだよ姫菜。何か悪い病気とか……じゃないよね?」
「うん、大丈夫。後で二人には説明するね」
「じゃ、さっさとお昼を済ますし。その前に手を洗いに行くし」
14 02.やはり彼女もその部室へと導かれる。
「あ、ごめん、血が付いちゃったね。タオルは洗って返すから」
「だから気にすんなし。どうせ毎日洗うんだし」
「姫菜。優美子がいいって言ってくれてるから、今回は甘えとこ?」
「うん。じゃあ改めて、優美子も結衣もありがとね」
話が一段落して、三人は手を洗いに教室を出た。
素早い対処のおかげか、海老名の鼻血もさほど注目を浴びずに済んでいる。他の同級
生が新しいクラスに適応しようと必死で、自分のことで精一杯なのも幸いした形だ。
始業式に向かうまでのわずかな時間であっさりとグループを結成した彼女ら三人が
例外なだけで、教室内の人間関係は未だ定まってはいない。これから一年を共に過ごす
ことになる同級生との関係構築に、ひいては二年F組で安定した立場を得る為に、誰も
が真剣に取り組んでいた。
教師に呼び出された一人の男子生徒を除いて。
***
三人が手とタオルを洗い終えて廊下を歩いていると、先程の国語教師が生徒を一人従
えて特別棟へと向かっていた。
15
雑談に意識を向けていた二人はそれに気付かなかったが、顔を上げた時に件の男子生
徒を目にした由比ヶ浜は、湧き立つ感情を抑えられなかった。
「ごめんっ。あたし、トイレに行きたくなっちゃって。先に行っててくれない、かな?」
「そういうことは早めに言うし。遠慮すんなし」
「うん、先に教室に戻ってるから。ゆっくりで良いからね」
二人の了解を取り付けて、由比ヶ浜はトイレの方へといったん戻った。そこから少し
遠回りをして、特別棟に足を進める。
音楽室や生物室に来たことはあるものの、ほとんどの教室はなじみがない。最初のう
ちは、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていたものの。あの男子生徒がどこに
行ったのか全く予想がつかなくて、すぐに由比ヶ浜は途方に暮れる。
さすがに涙が出るほどではないが、「あたし、何してんだろ?」と疑問が浮かぶのは避
けられず。いつしか俯きがちになり、歩みもとぼとぼとしたものになっていた。
その時、廊下の向こうで突然ドアが開いて、一人の女教師が姿を現した。これが八幡
女教師
オンナキョウシ
女教師
ジョキョウシ
なら「
よりも
とルビを振った方がエロいな」などとくだらない事を考える
のだろうが、由比ヶ浜にとっては文字通り地獄に仏だ。
急に安心したせいか完全に足を止めて、由比ヶ浜は教師に大きく手を振った。教室に
16 02.やはり彼女もその部室へと導かれる。
いるかもしれない男子生徒に気兼ねして、声に出して呼びかけることはしない。
廊下に出てドアを閉めた後は一歩も動かず、何やら考え事をしていた平塚だったが。
自分に向かって手を振る生徒にようやく気付いて、ゆっくりと由比ヶ浜の許へと歩み
寄った。
「由比ヶ浜か。こんな場所でどうしたのかね?」
「あ、えっと、先生たちが特別棟に歩いて行くのが見えたので」
「どこに行くのか興味がわいた、か?」
「あー、そんな感じだったと言いますか」
「そう恐縮しなくても大丈夫だよ。私と比企谷がどこに行くのか気になったんだろう
?」
いたずらっぽい顔でそう問いかける平塚と、顔を真っ赤にしながらあわてて否定する
由比ヶ浜。そんな二人の対比は絵になる光景だったが、残念ながらそれを目撃した人は
いなかった。きっと海老名が知ったら悔しがるだろうから、二人にとっては僥倖と言う
べきなのだろう。
由比ヶ浜が八幡を気にかける理由を、平塚は知っている。だから手に持った入部届を
ひらひらさせて、少し落ち着きを取り戻した生徒に向けて提案を行う。
17
「由比ヶ浜、良かったら君も来るかね。先ほど比企谷をとある部活に放り込んできたの
だが、またすぐに様子を見に戻ろうと思っていたのだよ。二人で連れ立って驚かせるの
も一興だ」
「あの、行きたいのはマウンテンなのですが、優美子たちにお昼を待ってもらってるので
……」
「魔雲天……ああ、山々か。最近の女子高生はそんな使い方をするんだな」
心の中で「私も使わなければ。若いんだから!」と繰り返している平塚の勘違いはさ
ておいて、由比ヶ浜の心配ももっともだ。トイレに行くと言って別れてから、結構な時
間が過ぎてしまった。
まだ少し遠慮が残っているとはいえ、新たに仲良くなった二人を由比ヶ浜は既に親し
い友人として受け入れていた。できれば仲違いという事態は避けたい。
悩ましげな様子の由比ヶ浜を見て、教師はその職務を果たすべく話しかけた。
「由比ヶ浜、彼女らにメッセージを送ることはできるかね?」
「えと、メールでもL○NEでも送れますけど?」
「では、私が言う通りに送ってくれたまえ。『国語担当の平塚です。手伝って欲しいこと
があったので由比ヶ浜を借りています。先にごはんを食べて欲しいと言っているので、
手を離せない由比ヶ浜に代わってメッセージを送りました』……その変な顔文字は入れ
18 02.やはり彼女もその部室へと導かれる。
なくていいぞ。文章だけで送ってくれ」
「送信、っと。平塚先生、ありがとうございます!」
「なに、この程度ならお安い御用だ。では教室に戻ろうか」
***
前回と同様に、平塚はノックもせずにいきなりドアを開けた。
教室内に漂う重くて冷たい空気に即座に気付いた平塚は、平然と後ろを向いて由比ヶ
浜を部室に招き入れた。言葉を発することなく、ただ右手を肩に回して。生徒を守るよ
うに、かつ逃さないように。この教師の思惑を、生徒三人は誰も知らない。
突然の闖入者をじっと眺めている雪ノ下雪乃の表情から、平塚が戻って来たのだろう
と推測して。教師の顔でも見るかと考えて、八幡が体を反転させると。
「んっ?」
振り向いた八幡の視界に最初に飛び込んできたのは、見慣れた教師の姿ではなかっ
た。スーツの上に白衣をまとった黒髪ロングの巨乳美女に庇護されるようにして立つ、
一人の女子生徒。平塚が長身なので低く見えるが、身長は女子の平均かやや下ぐらいだ
19
ろう。
そのまま視線を下に向けると、童顔で可愛らしい顔立ちが確認できた。目が合ったの
で、内心では焦りながらもできるだけ自然な動きで目線を少し横に動かす。
緩くウェーブのかかった茶髪は肩まで伸び、着崩した制服へと続いている。胸元のリ
ボンが赤なので同学年だろう。その下には、男の目を惹きつけて離さない豊かな双丘を
備えていた。
教師の顔の高さに視点を合わせていなければ、まっさきにそれが目に入ったに違いな
い。そのまま頭を動かせなくなるか、それとも今のように即座に視線を逸らしていた
か。いずれにせよ、彼女の印象はそれ以外に全く得られなかっただろう。
けれども頭の先から胸の位置までゆっくりと視線を移動させて確認できたおかげで、
八幡は彼女の印象を深く心に刻みつける事ができた。
彼女が身にまとう雰囲気からは健康的で素直な育ち方をして来たことが伝わってく
る。人懐こい顔立ちの影に潜むどこか自信なさげな眼差しも、その魅力を損なうには至
らない。むしろ庇護意欲を駆り立てられる紳士諸君が大勢いることだろう。
だが、それらは彼女の魅力のほんの一部分に過ぎない。
八幡は目を逸らした先にあった天井のシミを数えながら、先ほど思わず凝視しかけた
20 02.やはり彼女もその部室へと導かれる。
彼女の顔を思い出す。その顔立ちは学内でも屈指の可愛らしさだったが、惹き込まれそ
うになったのは顔の造作が原因ではない。
ほんの僅かに見え隠れするおどおどとした目線の更に奥、自身にとって親しき者への
み向けるのであろう強く優しげな眼差しを、なぜか八幡は感じ取ることができた。そこ
から目を離せなくなりそうで、あわてて視線を動かしたものの。その一瞬だけで充分
だった。
あの時に八幡は、温かく包み込まれたまま心まで満たされていくような感覚を抱い
た。
彼女の存在感は、強さという点では雪ノ下が発するそれにまるで及ばないが、広さと
いう点では圧倒しているようにも思えた。
「平塚先生、ノックを」
「すまんな。見学者を連れていたので忘れていたよ」
雪ノ下が口を開いたことで、教室内の重苦しい空気は解消される。
そして他人から見れば一瞬、当人達にとっては随分と長い時間、お互いを確かめ合っ
ていた気がする男女二人も気恥ずかしさをリセットできたようで、その会話に加わる。
「えっ。見学者って、あたし?」
21
「貴女は……由比ヶ浜結衣さんね」
「あ、あたしのこと知ってるんだ。雪ノ下雪乃さん、だよね?」
「すげーな。全校生徒の顔と名前を覚えてたりすんのか?」
ほ・と・ん・ど・
「そんなことはないわ。貴方のことなんて
知らなかったもの」
「ぼっちを極めた俺のステルス能力が相手じゃ仕方ないだろ」
「何を言っているのかしら。貴方の名など覚える必要はないと、目を逸らしてしまった
私の心の弱さが悪いのよ」
「んじゃ、せいぜい反省してくれ」
「でもそうね、やはり名前を覚える価値は無さそうだし、市蔵と呼んで良いかしら?」
「改名披露をしろってか。『よだかの星』とかマニアック過ぎるだろ」
先程の二人きりのやり取りでお互いに遠慮がなくなったのか、椅子に座る二人の生徒
は滑らかに会話を進めていきます。言葉の端々に厳しい表現は見受けられるものの、八
幡と雪ノ下の口調にはさほどの険悪さはありません。
八幡にしてみれば、あれだけのことを言ったのだから今さら取り繕っても手遅れだと
開き直った気持ちでしたし、雪ノ下も八幡のことを思ったままをぶつけて良い相手だと
判断したようでした。
22 02.やはり彼女もその部室へと導かれる。
それに八幡には、するどい爪もするどいくちばしもありませんでしたから、どんなに
弱い女子生徒でも、八幡をこわがる筈はなかったのです。
彼はいまだ自分が持つ武器に気づいていないのでした。
「意外ね。どうせ宮沢賢治なんて『銀河鉄道の夜』しか読んでいないと思っていたわ」
「あー、去年の今頃ちょっと暇しててな。その時に読み返した新潮文庫版に入ってたん
だわ」
「……そう」
「……」
何でもないはずの返答なのに、なぜか女子生徒二人が口ごもる。
先程とはまた違った重い空気が漂い始めたところで、無言で成り行きを観察していた
平塚がどこか楽しげに口を開いた。
「しかし、わずかな時間でずいぶんと打ち解けたものだな」
「これって打ち解けたって言うんですかね?」
「私の目には、君たちは仲良く喧嘩しているように見えるが?」
「たしかにヒッキーとゆきのん、息が合ってる感じがするかも」
少し寂しそうに小声でつぶやいた由比ヶ浜に向けて、二人は同時に反論を述べる。
23
そして憮然とした表情でお互いにじろりと睨み合った後で、再び同じタイミングで呼
び方についての文句を述べる。
「ほら、やっぱり息ぴったりだし」
そう口にした由比ヶ浜は先程とは違って、寂しさなどみじんも感じさせない溌剌とし
た笑顔を浮かべていた。
まるでコントだと、そんな自覚がある二人は。笑顔の由比ヶ浜にこれ以上の文句を言
うのは気が引けたのか、仕方なく矛を収める。
「何だか楽しい部活だね。……また、見学に来てもいい、かな?」
「いつでも来たまえ」
「平塚先生。断る気はなかったのですが、部長の私の意思を確認していただければと」
「断る気がないのなら問題ないだろう。では、我々は教室に戻る。君達は十四時半まで
ここで部活を続けても良いし、教室に帰って自習してくれても構わない。十五時に現地
集合を忘れないように」
そう言って平塚は由比ヶ浜を連れて、部室から出て行った。
24 02.やはり彼女もその部室へと導かれる。
03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。
リノリウムの床に足音を響かせながら、由比ヶ浜結衣は平塚静と並んで廊下を歩いて
いた。
足を動かしながら、先程の教室での一時を思い出す。
この一年というもの、比企谷八幡に話しかけようとしては果たせず失敗を重ねた日々
のことも、今となってはさほど心の重荷になっていない。
事故があったのは、ちょうど一年前の今日だった。あの瞬間の光景だけは、何があっ
ても何年経とうとも、決して忘れることはないだろう。
意を決して二度ほど病室を訪れたものの、八幡が眠っていたので話はできなかった。
三度目の来院では、折悪しく時間がかかる検査に行っていると、妹の比企谷小町に申し
訳なさそうに教えられた。
ならばと度胸を振りしぼって、退院してすぐに菓子折を持って自宅を訪れると。妹と
買い物に出掛けたばかりで、いつ帰ってくるか判らないとのこと。ご両親に何度も何度
も頭を下げて、菓子折をなかば押し付けるようにして退散するしかできなかった。
25
間が悪いにも程があるが、ここまで続くと「もしかして、あたしに会いたくないのか
な」と考えてしまう。そう思われても仕方がないと、諦めの感情が湧き上がってくる。
それでも、たとえ面と向かって罵倒されても、ちゃんと謝ってお礼を伝えたいという
気持ちと。そもそも関わりを持とうとする時点で、かえって迷惑なのかもしれないと苦
悩する気持ちとがせめぎ合って。
その後も高校で、何とか話ができないものかとこっそり機会を窺いながらも。由比ヶ
浜はそれを実行できずにいたのだった。
そして、一年が過ぎた。
二年生で同じクラスになれたと知って、由比ヶ浜は改めて自分に向けて活を入れた。
何を今更と言われるかもしれない。お前の顔など見たくもないと言われるかもしれ
ない。それでも、愛犬のサブレを救ってくれた八幡に直接、一言でもいいからお礼が言
いたい。
今日の部活見学では、直接のやり取りはなかった。
だが、あの雪ノ下雪乃と話をしている八幡は、とても楽しそうに見えた。聞きように
よっては侮蔑表現と受け取れる発言にも気を悪くする素振りを見せず、むしろテンポの
良い会話を楽しんでいるようにすら見えた。
26 03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。
ならば自分とだって。少なくとも、話すことすら嫌だと思われることはないのではな
いか。そしていつか、きちんとお礼を言える日が来るのではないか。
前途が一気に拓かれた気がして、顔をほころばせる由比ヶ浜に。つられて笑顔を浮か
べながら、平塚はゆっくりと話しかけた。
「由比ヶ浜、先程の部活はどうだったかね?」
「何だか、楽しそうな部活でしたね。ゆきのんって、あんな風に喋るんだ、って」
顔・を・合・わ・せ・た・こ・と・
「ふむ。君は雪ノ下と
はなかったのかね?」
「噂では聞いてたんですが、今日が初めてです。ヒッキーもよく喋ってたし」
「そうだな。比企谷は口を開くとよく喋るのだが、教室では……」
「ずっと一人で、誰とも喋らないですよね……」
「クラスで無理に話しかけてくれとは言わないが、部室に時々遊びに行って二人の話し
相手になってくれると、教師としてはありがたいな」
少し冗談っぽい表情を浮かべながら、平塚は本心からの、しかしその真剣さを悟られ
ない口調でお願いをする。
奉仕部という名の部活のこと。その活動の理念や依頼の仕組みなどを説明している
うちに、彼女ら二人は二年F組の教室へと辿り着いた。
27
***
教室では、二人が無言で向き合ったまま視線を手元に落としている。
雪ノ下は本の続きを。八幡はスマホで青空文庫を読んでいた。弁当の他は手ぶらで
来たので、それぐらいしか読むものがなかったのだ。
依頼人が来るまでは各自が自由に過ごすという話だったので、自然とこの形に落ち着
いたのだった。
部室内には先程の会話の余韻が今も残っている。
だから二人は、読み物に集中しきれていなかった。
正直なところ、二人は先程のやり取りを、他の同級生とでは交わせない楽しいもの
だったと思っている。しかし、それを素直に認めるかといえば話は別だ。
雪ノ下は対面の男子生徒に悟られないように、そっと溜息を吐く。
自分には友達がいないわけではない。しかしそれは広く友人・知人という意味での友
達であって、深い付き合いのある友達は皆無だった。
その才能や容姿に加え帰国子女という事情も手伝って、今のJ組では同級生の憧れの
28 03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。
対象として扱われている。対等の立場で物を言ってくる生徒はいなかったし、思ったま
まの感情を誰かにぶつけることもなかった。
雪ノ下は同級生が求めるような完璧な存在であろうとして、実際にそれを遂行してい
た。しかし。私が本当になりたかったのは、こんな存在だっただろうか?
雪ノ下は時々、自分が一体何者なのかが分からなくなる。周囲の期待に応えるのは嫌
ではない。だが、他人が求める偶像を取り去った時に、それでも己の中に残る確とした
ものが本当にあるのだろうかと考えてしまうのだ。
先程のやり取りは、確かに悪くはなかった。家族相手を除くと、思ったままの辛辣な
言葉を口にしたのは本当に久しぶりだ。
もちろん完璧に計算された辛辣な言葉を、無遠慮に交際を申し込んで来た男子に対し
て遺憾なく発揮してきたのは確かだ。だがそれは思惑あってのこと。心を折られた被
害者たちが必死に忠告して回った結果、最近ではその手の煩わしいことは起きていな
い。
平然とこちらに向かって厳しい意見を主張してきた対面の男子生徒にちらりと視線
今・ま・で・よ・り・
を投げて。雪ノ下は八幡の評価を
少しだけ上方修正した。
29
八幡は平然としたふうを装っていたが、内心は後悔の念で溢れていた。何しろ学年一
の有名人たる雪ノ下に向かって、くり返し挑発的な言葉を投げかけたのだ。週明けには
全校生徒から罵声を浴びていても不思議ではない。
八幡は先程の言動に加え、過去の自分を悔やみはじめる。
親譲りの捻くれた思考で子供の時から損ばかりしている。高校に入る時分、学校の前
で車道に飛び込んで二週間ほど入院した事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人が
あるかも知れぬ。別段深い理由でもない。黒塗りの車の前に犬がいきなり飛び出した
からである。
反射的に身体が動いただけだが、他人はそれを額面通りに受け取ってはくれぬ。何か
思惑があったのだ。あの目を見れば判る。
久しぶりに登校した教室で周囲からの視線に晒された八幡は身体をこわばらせて、席
に着いたまま誰とも話さず突っ伏してその場をやり過ごした。しばらくすると、クラス
ではいないものとして扱われるようになり。その目はますます暗く濁っていった。
俺のこの体たらくは、捻くれた性格が原因なのだろうかと自問する。しかし八幡とて
最初から捻くれていたわけではない。父親の英才教育があったにせよ、小学校に入りた
30 03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。
ての頃は目も濁っていなかったし、他人との会話もそれなりにできていた。
だが、いつの頃からか。八幡は周囲から疎まれるようになり、それと比例して捻くれ
た性格が肥大していった。
あくまでも環境が先に立っていて、この性格は結果であるはずだ。他人と同じことを
しても違ったふうに受け取られる。そのくり返しの末のこの性格であり、自分にできる
ことなど何もなかったではないかと八幡は思う。
しかし八幡は、自分が目を逸らしている事があると気付いていた。
なにかと話しかけてくれる生活指導の教師に底意は感じられなかったし、自分に向け
られる視線の中には侮蔑や警戒とは違った同情的なものも含まれていた。この部長様
のように中立的な立場の人もいたのだろう。
問題は、と八幡は思う。そうした他人からの好意をどう扱えば良いのか、自分にはも
う分からなくなってしまったのだ。
でも、仕方がないじゃないか。誰であっても、この長机の向こうで読書をしている女
子生徒でさえも、いつ豹変して俺に罵声を浴びせるかもしれないのだ。好意を信じてみ
ようと一歩前に出て、そこで裏切られると深刻なダメージを受けてしまう。そんな惨め
な目にはもう遭いたくない。
31
八幡は結局この日も、踏み出さないという結論を選ぶ。将来それを後悔することにな
るか否かは、現時点では誰にも分からない。
「少し早いけれど、今日はこれで終わりにしましょう。教室の鍵を返してくるので、先に
出てくれて構わないわ」
「ん、了解。んじゃ鞄を取って来て、ぼちぼち行くとしますかね」
二人には「一緒に集合場所に向かう」という発想は思い浮かばなかった。
こうして八幡にとっては初めての、雪ノ下にとっても誰かと過ごすのは初めてだった
奉仕部での時間は、終わりを告げた。
***
二年F組の教室まで由比ヶ浜を送り届けると、そこでは三浦優美子と海老名姫菜がご
はんを食べずに帰りを待っていた。
思わず笑みを浮かべながら、平塚は彼女ら二人に事情を説明する。
特別棟で少し作業があって、移動中に見かけた由比ヶ浜に助けを求めたこと。
強制したわけではないという弁明の背後には、由比ヶ浜は教師の頼みも友人のことも
32 03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。
蔑ろにする性格ではないというニュアンスを添えて。
ぶつぶつと文句を言いながらも、三浦は納得してくれた。苦笑とともに「結衣だから
仕方ないし」と口にする姿からは、友人に対する親しみの感情が伝わって来た。
少し具合が悪いのか、何かを堪えるように軽く身震いしている海老名も、由比ヶ浜に
悪い感情を抱いているようには見えない。ぞくぞくと寒気を感じたのは、おそらく気の
せいだろう。体調に問題があればこの二人が放っておかないだろうと考えて、平塚はそ
れ以上の深入りを避けた。
せっかくだから外でピクニック気分で食事をして、そのまま時間までお喋りしようと
提案する三浦に苦笑しながら、教師は廊下へと足を進める。
建前としては自習もしくは部活の時間なのだが、皆が落ち着かないのも仕方がないだ
ろうと平塚は思う。今の時期なら部活の見学とでも言い訳ができるだろうし、実際に教
室に残っている生徒は数えるほどだ。
生徒らの話を聞かなかったことにして教室を出ると、平塚は廊下の少し奥まった場所
で立ち止まった。
「……もしもし。ああ、私だ」
「……ああ、顔合わせは終わったよ。思ったよりも仲良く喋っていたので一安心だ」
33
「……今後のことは分からないが、一つの転機になればいいな」
「……君とは違って、私は比企谷に対しても責任があるのでな」
「……あまり構い過ぎるとそっぽを向かれるぞ」
ア・レ・
「……それはそうと、君も
に参加するんだろう?」
「……なるほど。君の立場としては慎重を期すのは当然だろうな。私としては考えたく
もないが」
「……うむ。ではあちらで会えるのを楽しみにしているよ」
電話を終えた平塚は職員室へと向かった。現地に行くまでに片付けておくべき業務
は山のようにあるが、やはり自分も興奮しているようだ。電話の相手と約束をしたこと
で、気分が更に高揚している。
そういえば、と平塚は思う。自分たちのように「あちらで会おう」と約束している生
徒もいるのだろうなと考えて、ふと八幡に妹がいたのを思い出したのだ。
ア・レ・
病室に見舞った時に会った八幡の妹は溌剌とした性格だった。もし彼女も
に参
加するのであれば、二人は約束を交わしていることだろう。いや。案外あの少女のこと
だから、内緒にしていて兄を驚かそうと企んでいるかもしれない。
ア・
その場面を想像して、歩きながら忍び笑いを漏らしつつ。進級による環境の変化と
レ・を体験することが、生徒に良い影響を及ぼしてくれることを平塚は願った。
34 03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。
総武高校の生徒をはじめとした多くの未成年が、人質という立場に陥るなどとは。こ
の時点では誰一人として予測しえない事だった。
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04.なんとか彼は状況を把握しようと努める。
もしも意識や感覚を保持したまま、現実そっくりのバーチャルな世界にログインでき
るなら。肉体は現実世界にとどめたまま、あらゆる情報を脳に直結させて仮想空間で
日々を送ることができるなら。どんなにか楽しいことだろうか。
その想いに取り憑かれて、ついに革新的な技術を可能にした一人の男がいた。
彼はこの技術を世間に知らしめ、同時に独占するために、仮想空間に二つ世界を作っ
た。
ひとつは現実そっくりの世界。
もうひとつは空想上の世界。
前者は教育・学術関係者を、後者は一般のゲーマーを対象としたものだ。つまり後者
はゲームの世界と呼ぶべきだろう。
今はまだ、二つの世界はともに小さい。当たり前だ。現実そっくりの世界を丸ごと作
ろうと思えば、労力も資金もべらぼうに掛かる。
だが、それらが調うのを待っていては、ライバル企業に先を越されてしまう。男はこ
の技術に関連した特許を数多く取得していたが、特許とはそれほど万能ではない。
36 04.なんとか彼は状況を把握しようと努める。
だからこそ彼とその仲間たちは、多くの者が仮想空間を体験することを望んだ。
彼らが真に作りたかったのは現実そっくりの世界だったが、世に周知するという理由
からゲームの世界を欲したのだ。
事前の予想を大きく超えて、ゲームの反応は上々だった。予約初日の時点で予定して
いた販売数を上回ったほどだ。
一方で、教育・学術関係者は最低限しか確保できなかった。
千葉県下のいくつかの高校や大学、そして付近の学習塾。当初設定していた対象年齢
を引き下げてまで、何とか数だけは揃えたものの。
彼が欲したのは、肉体に付随する限界を取っ払うことだった。物理的な制限に悩まさ
れることなく、勉強や研究や芸術に没頭できる環境を整えること。その想いは、教育・学
術関係者なら容易に理解してくれるだろうと、そう思っていたのに。
残念ながら、天才の想いに共鳴する者は少なかった。
参加を表明した高校や大学の職員ですら、生徒に悪影響を及ぼすのではないかと反対
する声が大きかったし、当の生徒たちはゲーム気分だった。ゲームソフトがなくても仮
想世界を体験できるという、その程度の認識でしかなかった。
今やゲームマスターを名乗ることになった彼が、こうした状況をどう見ていたのか。
それは、この世界へのログインが始まってほどなくして、明らかになった。
37
***
集合場所に指定された海岸沿いの病院でも、比企谷八幡は誰とも喋らず孤高を貫いて
いた。同級生が順番にログインする段になってもそれは変わらない。
だが、その内面は常とは違っていた。
幸運にもゲームを入手できた数少ないゲーマーを除けば、自分たちを始めとした限ら
れた学生や教職員だけがバーチャルな世界を体験できるのだ。世界で初めて、誰よりも
早く。
この状況で興奮しないようでは、男子高校生たる資格はないだろう。中二病に罹患し
た過去を持つ者ならばなおさらだ。
八幡は沸き立つような想いを抑えきれないまま順番を待っていた。
もうすぐだ。あと数人で俺の番になる。仮想空間にログインしたら、最初に何をしよ
うか。
事前に説明されたあちらの世界で可能なあれこれを思い出しながら、八幡は焦がれる
ような想いで順番を待つ。高一の間は味気ない毎日だったが、今となってはそんな過去
コ・レ・
など些細なことだ。何と言っても
を体験できるのだから。
38 04.なんとか彼は状況を把握しようと努める。
だが、たった一つだけ。先程の部室で過ごした時間だけが、八幡に異を唱えていた。
現実の世界でだって、楽しいことがあるのではないか。面白い体験ができるのではな
いかと。
とはいえ、踏み込まなかった者にはその仮定は意味をなさない。
八幡は、現世のしがらみをほぼ全て。妹や家族以外の関係を全て捨てるような気持ち
で、仮想世界へとログインした。
まさか現実世界に戻って来られない事態になるとは、思ってもいなかった。
***
仮想空間の総武高校に集合した生徒たちは、それぞれ自分のクラスへと移動した。今
日はこの世界で授業を二つ受ける予定だが、その前にバーチャルな環境に慣れておく必
要がある。
喋る相手がいなくても普段ならぼーっと過ごせばそれで済んだのに。今は何でもい
いから身体を動かしたいと思ってしまう。わくわくする気持ちを持て余した八幡が、次
の授業で使う教科書などを机の中に入れていると。
「じゃあ最初に、隣のクラスと合同教室を作ってみるからな」
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担任の教師がそう言って、手元で何やら操作を始めた。するとたちまち部屋の容積が
広がって、二つのクラスの生徒たちが一堂に会した。廊下側の壁が遠のいて、そこに隣
の教室が横並びになるようにして、すぽんと入り込んだ形だ。
声にならない驚きを示す者、「おおっ」と感動している者、「やべーっしょ」と騒いで
いる者など反応は様々だが、誰もが興奮している様子が伝わって来る。それは八幡も例
外ではなかった。
「では、解除はこちらでやりますね。F組の皆さん、さようなら」
隣のクラスの担任が合同教室を解除して、クラスは再び見慣れた姿に戻る。またもや
声を上げる生徒たちを手振りで抑えて、担任が次に試したのは。
「今度は離れた教室と合体させてみるな。そうだな……体育館にするか」
程なくして、今度は窓側の壁が遠のいたかと思えばすぐに姿を消して。教室からその
まま繋がるように板張りの床が続いていた。
バスケットのリングやバレーのネット、さらに奥には観客席も確認できる。体育館の
壁の一部が教室の側面とくっついて、両者を隔てる障壁が取り払われた後のような光景
だ。
教師の声を待つことなく、境目にいた生徒数人が我慢できずに立ち上がって「やべー、
本物だ」と走り回っている。体育館の入り口に向かった生徒は「ここから外に出られる
40 04.なんとか彼は状況を把握しようと努める。
ぞ」と興奮気味だ。
普段ならイラッとするところだが、ぼっちを気取る八幡ですらも、彼らの気持ちが分
かるなと思ってしまった。教室側のドアからは廊下に、体育館側からは外に移動できる
のは、仮想空間ならではだろう。
「教室の合体は教師じゃないとできないけどな。教室の内装は、クラスなら委員長の、部
室なら部長の権限で変更が可能だったな。ちょっと試してみるか?」
合体を解除した担任の言葉に従って、委員長が席を立った。
「そうですね。では生物室にしてみます」
どうせならお菓子の家がいいとか、竜宮城を再現しろといった軽口が叩かれている
が、やはり八幡は気にならなかった。それよりも早く変化が見たい。
生真面目な顔をした委員長が操作を行うと、見慣れた机がたちまち姿を消して、黒を
基調とした横長の机に四人から六人ずつが座っている光景に切り替わった。
生物室に移動したとしか思えないが、机の中を見ると教科書がある。八幡がついさっ
き入れておいたものだ。つまり見た目は違えども、これは自分の机で間違いないのだろ
う。合体でも移動でもなく換装だと、そう説明された意味が実感できた。
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「この世界だと、移動教室に怯える必要はないってことだよな。連結するにせよ内装を
置き換えるにせよ、クラスに行けば済むってのは、ぼっち的には助かるな」
移動教室とは知らないまま独り途方に暮れていた過去を思い出して、思わず呟きが漏
れる。あわてて八幡は、声が外部に聞こえない設定に切り替えた。
自分の言葉が周囲に伝わらないだけで、周りの声は先程までと変わらない。委員長が
教室を元に戻す声もちゃんと聞こえている。
ないしょ話をする相手は残念ながらいないが、ぞんぶんに独り言を口にできるのは少
し嬉しい。ぼっちではあるけれども、八幡は決して無口な性格ではないからだ。むしろ
妹に対してなら饒舌になるまである。
「えーと。ついでだし、音声入力でメモを取ってみるか」
この世界では手書きももちろん可能だが、手元にキーボードなどを表示することで
ローマ字入力やフリック入力もできる。事前の説明で八幡が心を惹かれたのは音声入
力だった。
「周りの連中が馬鹿騒ぎをして鬱陶しい、って言ってもあいつらには聞こえないし、自動
的に文章ができるし楽だなこれ。漢字の変換も句読点も問題ないし、ここの入力システ
ムはかなり優秀みたいだな。余は満足じゃ、マル。実験終了!」
喋ったとおりのメモを眺めて、笑いが込み上げてくるのを必死で堪えた。これならL
42 04.なんとか彼は状況を把握しようと努める。
○NEが捗ることだろう。この世界では純正のメッセージアプリで同様のやり取りが
できると聞いたが、相手がいないのが残念なほどだ。
ぼっちの自分でもそうなのだから、他の連中ははしゃいでいるだろうなと八幡は思っ
た。
「授業中に音声入力ができるってのも楽だよな。現実の世界に帰ったら手書きでノート
を取るのが嫌になりそうだわ」
そう呟きながら、机の中から教科書を取りだした。この世界特有の仕組みをざっと確
認し終えた担任が、生徒たちにそう命じたからだ。
教師も生徒も浮ついた気分のままで、見慣れた教室で慣れない環境下での授業が始
まった。
だがそれは、不意の中断を余儀なくされる。
***
半時間ほど経った頃に、奇妙な違和感が八幡を包んだ。
気付けば目の前には教科書もノートも机すらもなく。まるで入学式のように隙間な
く並べられたパイプ椅子に腰を下ろしていた。
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ちらちらと目だけを左右に動かすと、付近には同じクラスの連中が集まっている。す
ぐ前も、そして後ろもおそらくF組の生徒だろう。周囲のざわめきが次第に大きくなっ
て来た。
思い切って首を大きく動かすと、人数からして全校生徒が集められているようだ。場
所は体育館で間違いない。同時に、教室を合体したわけでも内部を換装したわけでもな
く、強制的に移動させられたのだと理解する。はっきり言って嫌な予感しかしない。
「諸君、この世界に