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大量生産技術とトヨタ生産方式 大量生産技術とトヨタ生産方式 昭和30年代から昭和50年代の20年間、モータリーゼーションの進展とともに自動車の生産量は 著しく増加した。この時代に要求された生産技術は、自動化・高速化を中心とした大量生産の技術 である。また、生産管理システムでは、ジャスト・イン・ タイム、かんばん方式で知られるトヨタ生産システム が確立された。 ■部品生産の自動化・高速化 当時、乗用車1台の総部品点数は、約3万点である。 この膨大な種類の部品をいかに高速に量産するのか、 生産技術高度化の過程を自動車のボディー加工工程 とエンジン部品の加工工程の例で見て見よう。 ボディーのプレス工程では、型内への加工物の搬入 はん にゆう ・搬出の自動化により量産性が著しく向上した。1960年 はん しゆつ 代半ばより各種自動化装置とプレス4~6台を組み合 わせ、2次加工品の搬出のみを人手で行うセミオート メーションラインが導入され、1960年代後半には搬出 も自動化されてフルオートメーションラインとなった。 エンジン部品の量産技術では、鋳造ラインの自動化 と工作機械の自動化が生産技術高度化の要である。 シリンダーブロックの鋳造は、従来鋳型は生砂型で なま すな がた 作られていたが、この生砂型の高圧造型法が1960 年頃から導入され、注湯(溶けた金属(湯)を型に注 ちゆう とう ぐこと)の自動化も推進されて、鋳造ラインの自動 化は飛躍的に向上した。エンジン部品の機械加工 は、旋盤、フライス盤、ボール盤など汎用工作機械 によって加工されていた。これらの個々の工作機 械の自動化は1950年代より進められ、専用機とし て使われていたが、1955年頃から各工程の専用工 作機械を連結して自動化したトランスファーマシン が導入され始めた。1960年代になると機械加工で 重要な工程の大半はトランスファーマシンが使用さ れるようになり、大量生産に大きく寄与した。 中部における国産車のあゆみ 戦後中部のモータリーゼーション(4) 元町工場の全自動プレスライン (出典:『わ・わざ・わだち』1978) ■トヨタ生産方式の確立 効率的な生産は、大量生産を旨とする自動車産業が常に抱える大きな技 術課題である。トヨタ自動車のトヨタ生産方式は、創業者・豊田喜一郎が提唱 した「ジャスト・イン・タイム」と豊田佐吉の自働織機の開発から生まれた「自 働化」の考え方を柱とする生産管理法である。1963(昭和38)年には、トヨタ の全工場でトヨタ生産方式が採用され、作業標準化や運搬管理などの問題 が解決し、生産工程のスムーズな流れが作られるようになった。 ジャスト・イン・タイムを具体化する道具が「かんばん」と呼ばれるもので、 前工程と後工程を無駄なく連動させる為の仕掛けである。また、人偏のつい た「自働化」とは、機械を工夫し作業者の負担を軽減し、無理と無駄を排除し 効率化を目指すことである。また、不良品を出さないために異常を発見した 場合は、作業者が生産ラインを止められる装置「あんどん(どの工程が異常 かを示す電気掲示版)」も自働化の一部である。 かんばん (出典:『トヨタ自動車75年史』) クランクシャフトのトランスファーマシン (出典:『トヨタ自動車30年史』)

中部における国産車のあゆみⅣ 戦後中部のモータリーゼーション(4) 生生産産技技術術 …csih.sakura.ne.jp/panerutenn/panerutenn2017_p4_4.pdf · 化は飛躍的に向上した。エンジン部品の機械加工

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Page 1: 中部における国産車のあゆみⅣ 戦後中部のモータリーゼーション(4) 生生産産技技術術 …csih.sakura.ne.jp/panerutenn/panerutenn2017_p4_4.pdf · 化は飛躍的に向上した。エンジン部品の機械加工

生 産 技 術 の 高 度 化生 産 技 術 の 高 度 化大量生産技術とトヨタ生産方式大量生産技術とトヨタ生産方式

昭 和 30年 代 か ら 昭 和 50年 代 の 20年 間 、 モ ー タ リ ー ゼ ー シ ョ ン の 進 展 と と も に 自 動 車 の 生 産 量 は

著 し く 増 加 し た 。 こ の 時 代 に 要 求 さ れ た 生 産 技 術 は 、 自 動 化 ・ 高 速 化 を 中 心 と し た 大 量 生 産 の 技 術

で あ る 。 ま た 、 生 産 管 理 シ ス テ ム で は 、 ジ ャ ス ト ・ イ ン ・

タ イ ム 、 か ん ば ん 方 式 で 知 ら れ る ト ヨ タ 生 産 シ ス テ ム

が確立 さ れ た 。

■ 部 品 生 産 の 自 動 化 ・ 高 速 化

当 時 、 乗 用 車 1 台 の 総 部 品 点 数 は 、 約 3 万 点 で あ る 。

こ の 膨 大 な 種 類 の 部 品 を い か に 高 速 に 量 産 す る の か 、

生 産 技 術 高 度 化 の 過 程 を 自 動 車 の ボ デ ィ ー 加 工 工 程

と エ ン ジ ン 部 品 の 加 工 工 程 の 例 で 見 て 見 よ う 。

ボ デ ィ ー の プ レ ス 工 程 で は 、 型 内 へ の 加 工 物 の 搬 入は ん に ゆ う

・ 搬 出 の 自 動 化 に よ り 量 産 性 が 著 し く 向 上 し た 。 1 960年は ん しゆつ

代 半 ば よ り 各 種 自 動 化 装 置 と プ レ ス 4 ~ 6 台 を 組 み 合

わ せ 、 2 次 加 工 品 の 搬 出 の み を 人 手 で 行 う セ ミ オ ー ト

メ ー シ ョ ン ラ イ ン が 導 入 さ れ 、 1 9 6 0年 代 後 半 に は 搬 出

も 自 動 化 さ れて フ ル オ ー ト メ ー シ ョ ン ラ イ ン と な っ た 。

エ ン ジ ン 部 品 の 量 産 技 術 で は 、 鋳 造 ラ イ ン の 自 動 化

と 工 作 機 械 の 自 動 化 が 生 産 技 術 高 度 化 の 要 で あ る 。

シ リ ン ダ ー ブ ロ ッ ク の 鋳 造 は 、 従 来 鋳 型 は 生 砂 型 でな ま す な が た

作 ら れ て い た が 、 こ の 生 砂 型 の 高 圧 造 型 法 が 19 6 0

年 頃 か ら 導 入 さ れ 、 注 湯 (溶 け た 金 属 (湯 )を 型 に 注ちゆう と う ゆ

ぐ こ と )の 自 動 化 も 推 進 さ れ て 、 鋳 造 ラ イ ン の 自 動

化 は 飛 躍 的 に 向 上 し た 。 エ ン ジ ン 部 品 の 機 械 加 工

は 、 旋 盤 、 フ ラ イ ス 盤 、 ボ ー ル 盤 な ど 汎 用 工 作 機 械

に よ っ て 加 工 さ れ て い た 。 こ れ ら の 個 々 の 工 作 機

械 の 自 動 化 は 1 9 5 0年 代 よ り 進 め ら れ 、 専 用 機 と し

て 使 わ れ て い た が 、 1 9 5 5年 頃 か ら 各 工 程 の 専 用 工

作 機 械 を 連 結 し て 自 動 化 し た ト ラ ン ス フ ァ ー マ シ ン

が 導 入 さ れ 始 め た 。 1 9 6 0年 代 に な る と 機 械 加 工 で

重 要 な 工 程 の 大 半 は ト ラ ン ス フ ァ ー マ シ ン が 使 用 さ

れ る よ う に な り 、 大 量 生 産 に 大 き く 寄 与 し た 。

中部における国産車のあゆみ Ⅳ 戦後中部のモータリーゼーション(4)

元町工場の全自動プレスライン(出典:『わ・わざ・わだち』1978)

■トヨタ生産方式の確立

効率的な生産は、大量生産を旨とする自動車産業が常に抱える大きな技

術課題である。トヨタ自動車のトヨタ生産方式は、創業者・豊田喜一郎が提唱

した「ジャスト・イン・タイム」と豊田佐吉の自働織機の開発から生まれた「自

働化」の考え方を柱とする生産管理法である。1963(昭和38)年には、トヨタ

の全工場でトヨタ生産方式が採用され、作業標準化や運搬管理などの問題

が解決し、生産工程のスムーズな流れが作られるようになった。

ジャスト・イン・タイムを具体化する道具が「かんばん」と呼ばれるもので、

前工程と後工程を無駄なく連動させる為の仕掛けである。また、人偏のつい

た「自働化」とは、機械を工夫し作業者の負担を軽減し、無理と無駄を排除し

効率化を目指すことである。また、不良品を出さないために異常を発見した

場合は、作業者が生産ラインを止められる装置「あんどん(どの工程が異常

かを示す電気掲示版)」も自働化の一部である。かんばん (出典: 『トヨタ自動車75年史』 )

クランクシャフトのトランスファーマシン

(出典:『トヨタ自動車30年史』)