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73 寸草春暉 4

寸草春暉human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/student/pdf/i14/140307.pdf · 2018. 9. 14. · 73 寸草春暉 寸草春暉 物質生命科学科4年工学部 柏木 陽仁 と夫にとっても大きな存在だった事も。れだけ大切な存在だったのか伝わってくる。きっそんなやり取りの中で、遊子にとって実の母がど

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寸草春暉

寸草春暉

工学部

物質生命科学科4年 

柏木 

陽仁

そんなやり取りの中で、遊子にとって実の母がど

れだけ大切な存在だったのか伝わってくる。きっ

と夫にとっても大きな存在だった事も。

夫は私のことを好きだと言ってくれたけど、付

き合っていた時から時々心此処に在らずと云った

表情をする事があった。彼はまだ、失ってしまっ

た前の奥さんの事を引きずっている。それが羨ま

しくて、だけどもやもやとした思いもあった。私

が夫の一番に成れない事は分かっていても、でき

ればもっと私のことを見て欲しいって、もっと私

に触れて欲しいって心が訴えかけてくる。でも、

そんな彼に恋をしたのも私なのだ。前の奥さんの

事や、遊子の事を大事にしている彼に、私は心惹

かれたのだから。

「貴方、遊子。前のお母さんの事を話して欲しいの。

私は、大丈夫だから」

私は二人から前の奥さんの事を訊くことにした。

いつの頃からか、家族全員が互いに遠慮をしてい

たのだ。私は二人から前の奥さんの話を尋ねる事

を、二人は私の前で話す事を。遊子はやっぱり口

数が少なかったけれど、やっぱり彼女が亡くなっ

て寂しかったと私の前で泣いてくれた。そしてやっ

と、私達は家族になることができたのだ。

しかし、その数年後。夫が交通事故に巻き込ま

れて亡くなり、私達は二人になってしまった。

私達家族の中心に居たのはいつも夫だった。家

族の中の大事な歯車が失われて、私達は取り乱し

た。この頃の事はあまり覚えていない。その中で

確かに覚えているのは、遊子が登校拒否をしたこ

とと、私が彼女を施設に預ける事を頑なに拒否し

たこと。その時の私は、かなりみっともなかった

と思う。ヒステリックに噛み付きそうな位に回り

に敵意を振りまいて、遊子との繋がりを守り通そ

うとした。でも、夫の一周忌を終えた頃、少しだ

け冷静になった私は、今までの行動を振り返って

途端に恥ずかしくなり、遊子に話を持ち掛けた。

私には、血の繋がらない一人娘が居る。娘の遊

子は亡くなった夫の連れ子で、身寄りの無い彼女

を私が無理を言って引き取った。遊子と初めて出

会ったのは彼女が五歳の頃で、第一印象はあまり

好いものでは無かった。

「初めまして、私は三春って言います。貴女の名

前を教えて欲しいな」

「……遊子」

表情は固く、返事はそっけなくて、話しかける

時も夫や何かの物陰からだった。夫とは好き合っ

て結婚したけれど、この子と上手くやっていける

のかなと思った事を今でも覚えている。それでも、

遊子と心を通わせることを諦める事だけはしな

かった。

「ねえ、遊子。何を読んでいるの?」

「みはるも、読むの?」

短い時間を縫って、遊子に何度も話しかけた。

遊子の実の母から貰った絵本を大切にしているこ

とを知って、話題にできる様に私も手に取った。

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「遊子、大事な話があるの。これからの、貴女の事

について」

「何?」

「今まで話せなくてごめんなさい、遊子にはいくつ

かの選択肢があるの。例えば、今まで通りに私と一

緒に暮らすという選択肢。元の親族の人に預かって

貰うという選択肢。そして、施設に預かって貰うと

いう選択肢。私が勝手に選んではいけないから、遊

子に決めて欲しい。私は遊子がどの選択をしても、

応援、する、から……」

「みはる」

説明が途中で嗚咽に変わっていく私を、遊子が呼

ぶ。相変わらず無表情に見えるけど、彼女が心配の

雰囲気を纏っていることを感じ取れた。伊達に数年

間、家族として積極的に関わってない。

「少し考えさせて」

「うん、分かった」

私もこんな選択肢を、まだ八歳の幼い少女に突き

つけるのは酷だと思う。それでも、つい咄嗟に奪っ

てしまった彼女の選択する権利を返すには、この様

な方法しか思いつかなかった。

そして、私よりも聡い彼女はたった数日で、自分

の答えを私に伝えてきた。

「私は、みはると一緒がいいっ……!」

それは、今の遊子にとっての精一杯の答えだった。

私なら長い時間迷い続けて、答えを先延ばしにして

しまうだろう。でも遊子は、今の私達が互いを失え

ば、生きてはいけない事を分かっていたのだ。

「私も、遊子と一緒にいていいのね……?」

私が涙と共に出した言葉に、彼女は首を縦に振っ

て応えた。私は思わず彼女を抱きしめて、少しの間

二人で一緒に泣いた。もう一度、この子の為にここ

からやり直そう。彼女が出した答えに誇りを持てる

ように、彼女の母親代わりに成れる様に。私は遊子

を養子として引き取り、改めて二人の生活を始めた。

それは簡単な事では無かった。まず、遊子が自ら学

校に行けるようになるまで、かなりの時間を必要と

した。それに、時折投げかけられる心無い言葉から

遊子を守る為に奮闘したり、取り乱した時に会社を

辞めてしまったので復職に努めたりと、やらなけれ

ばならない事はいくらでもあった。忙しくても、で

きる限り遊子との時間を大切にした。私と離れても

大丈夫な様に、習い事にも連れて行った。いくつか

は、私の方が嵌ってしまったのだけれど。

そうした中で、遊子も少しずつ変わっていった。

僅かに口数が増えて、私に話しかける事も多くなり、

自分から進んで行動する事も増えていった。自分が

いじめられそうになった時に、自力で解決してし

まった事は少し驚いたけど。そうして八年が過ぎ、

遊子がぎこちなくも笑顔を見せる様になった頃、彼

女は高校生になった。

私も朝早くに家を出る為、二人の朝は比較的早い。

それでも、しっかり目覚めて朝ごはんを食べていく

遊子は、当時の私と比べてもしっかりしていると思

う。

「お弁当は持ったかしら? 

忘れ物は無い? 

何か

あったら連絡するのよ」

「大丈夫だよ。じゃあ、三春。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

夫が亡くなった時は外に出るのも怖がったのに、

今では自分から家のドアを開けて学校へ向かう遊子

に感慨を覚える。キッチンに立てかけた、昔三人で

撮った写真に触れて、思わず独り言が零れる。

「ねえ、貴方。色々あったけれど、遊子は元気にやっ

ていますよ」

愛する夫と、まだ見た事の無い奥さんへ。私の思

いが伝わるかは分からないけれど、感謝の言葉を口

にした。

「さて、私も行かないと。仕事に遅れてしまうわ」

晴れ晴れしい気持ちで、私も身支度を始めた。

子の心親知らず、親の心子知らず、とは言うけれ

ど。結局の所、私は何一つ遊子の事を分かってあげ

られなかったんだと思う。私も遊子も、同じ心の傷

を持つ者同士。でも、傷の深さやその傷に対する感

情は、全く異なっていた。私は間もなく、その違い

● 小説

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寸草春暉

に気付かされる事となる。

前兆は確かにあった。それはある時を境に増えて

いた口数がぐんと減り、物思いに耽ることが多く

なった事だった。

「遊子。どうしたの? 

具合でも悪い?」

「……何でもない」

私の問いかけにも曖昧な返事を返して、心此処に

在らずと云った様子だった。でも私は、思春期なの

だからとそのまま放っておいた。

そしてある日、偶然遊子よりも早く帰って来たの

で夕飯の支度をしている時、乱暴に家のドアを開け

て遊子が帰って来た。彼女の様子は明らかにおかし

かった。遊子は顔を真っ赤にして俯いたまま、私の

前を通り過ぎようとする。

「お帰りなさい、遊子。夕飯はどうする?」

「要らない」

短く告げられた言葉に、私は暫しの間呆然として

いた。今までも何度か夕飯はいらないと言われたこ

とはあっても、今の様に冷たく突っぱねられた事は

一度も無かった。学校で何かあったのかもしれない。

「ねえ、遊子。学校で何かあったの?」

「三春には関係ない!」

遊子は私に怒鳴った後、ハッとした表情を浮かべ

て自室へと入っていった。がちゃりと部屋の鍵が掛

かる音がする。仕方なく一人で夕食を済ませた後、

もう一度遊子の部屋の前に行くと、鼻をすする様な

音が聞こえてきた。

「誰かに振られた、のかしら」

私は遊子の様子がおかしい原因をそう考えた。で

もそれは、それは彼女の問題なのだろう。彼女から

言い出すまでは積極的に関わらない方がいいと結論

付けて、この時も放っておくことにしたのだ。

それからの私達は互いに口数が更に減り、家の中

はギスギスとした雰囲気が漂うようになった。遊子

の表情に陰りが見えて、私は逃げる様に仕事に打ち

込んだ。職場の同僚にも相談してみたけど、概ね私

と同じ意見で、課永訣せず、些細な事での喧嘩が増

えていった。

その日も遊子とほんの些細な事で口喧嘩に発展

た。

「もう少し私の言う事も聞きなさい!」

「三春には関係ないでしょ! 

黙っててよ!」

「この……!」

私は思わず振り上げようとした手を見て、背筋が

凍える。遊子を叩こうとした私と、わずかに怯えた

表情の遊子が居た。

「ごめん」

一言遊子に謝って、自分の部屋へと戻る。今のは

私が悪かった。しかし、このままだと私と遊子の間

に決定的な溝が出来てしまう。私は何日も悩んだ後、

昔やったように互いに全てを打ち明ける事に決め

た。相

変わらず必要な時以外自室に引き籠る遊子に、

ドア越しに話しかける。

「遊子。今貴女が抱えている悩みを、打ち明けて欲

しいの。私も夫と結婚するまで悩んでいたを話すか

ら、きっと貴女の役に立つはず。リビングで待って

る」リ

ビングでコーヒーを一人分淹れ、遊子が出てく

るのをソファで待った。その時のカップは、昔遊子

とおそろいで使っていたものだ。

「三春」

数時間後、ゆっくりと遊子が自分の部屋から出て

きた。私は目の前の椅子を勧めて、遊子の分のコー

ヒーを淹れる

「遊子の分のコーヒーも用意するわね」

「砂糖とミルク」

「分かっているわよ」

遊子は砂糖とミルクの両方を入れないとコー

ヒーが飲めない。少し子供っぽい所があることも思

い出しながら、それらを遊子の目の前に置いた。

「遊子、貴女が何を考えて何を悩んでいるのか、私

には分からない。だから、先に私の事を話そうと思

うの。いい?」

話を切り出した私に、遊子が無言で首を縦に振る。

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昔、彼女がよくやっていた所作だった。

「私と遊子のお父さんとは好き合って結婚したこと

は何度か話したと思うけど。最初あの人は、私と結

婚する気なんて無かったの」

短い時間とはいえ、仲の良い夫婦だった私と夫の

姿を見ていた遊子は目を見開いた。その反応は予想

していたので、私はそのまま話を続けていく。

「お父さんはね、ずっと遊子のお母さんの事を想っ

ていた。私と付きあっていた時でさえ、時折前の奥

さんの事を思い出して心此処に在らず、って事が

あったの」

「嫌じゃなかった?」

遊子の口から出た言葉は彼女自身にとっても思

わず飛び出したものの様で、遊子は慌てて自分の口

を押さえた、そんな彼女の行動に少しだけ苦笑しな

がら応える。

「嫌か嫌じゃないかと聞かれたら、多分嫌だったん

だと思うの。あの頃はずっとモヤモヤとしていたし

ね。でも私は、あの人のことを嫌いにはなれなかっ

た。私の前でも、前の奥さんの事を想う様なあの人

に、私は恋してしまったんだから」

「へぇ……」

「欲を言ってしまえば、もっと私のことを見て欲し

かったし、触って欲しかったし、……もっと一緒に

居たかった。こんな気持ちを、あの人はずっと抱え

て生きてきたのかな? 

でもね、私もあの人も相手

と同じかそれ以上に、遊子の事が大切だったんだよ。

多分、遊子のお母さんだって同じだと思う。遊子は

まだお母さんから貰った絵本を大切にしているんだ

よね?」

「うん」

「お母さんがその絵本に、精一杯の愛情を貴女に託

したこと、それだけは絶対に忘れちゃだめだよ」

「うん。……ねえ、三春」

遊子が私の目をじっと見つめてくる。その表情か

らは真剣さが感じ取れて、その上で彼女の頬は少し

だけ朱に染まっているように見えた。

「私ね、三春に話したい事がある。まだ、誰にも言っ

てないこと」

「遊子、聞かせて。貴女の思っていること」

「私、好きな人ができたの」

彼女の告白に今度は私が驚愕する番だった。遊子

が誰かを好きになったのは分かっていたけど、私の

予想では、もう振られたものだと思っていたから。

「私、遊子が振られて苛立っていたんだと思ってた」

「振られてない。告白なんて、できない」

「どうして?」

告白はできない、という言葉に引っかかり思わず

聞き返した。

「怖い、怖いの。お父さんもお母さんも死んじゃっ

たから。告白したら、その人も死んでしまうんじゃ

ないかって、そんな訳無いって、分かっていても思っ

てしまうの」

「そっか……」

遊子が見せた心の傷跡は、私の物より遥かに根深

かった。当たり前だ、大人になってから夫だけを失っ

た私よりも、子供の頃に愛する両親を失った遊子の

方が明らかに影響は大きい。それでも今まで、その

事を一度も話さなかった、話せなかった遊子はどれ

だけ辛かったのだろうか。

「それに、選べないの」

「え?」

続けて口にしたことは私にとって、とても意外な

ものだった。

「私はそれでも、怖い気持ちに負けない位に彼が好

き。でも、好きの形は違うけれど三春……お母さん

の事も大切なの。私はまだ、三春お母さんに何も返

せてない!  

色々な事が私の中でぐちゃぐちゃし

てて、どうすればいいか分からないよ!」

「……そっか」

私は取り乱した彼女を抱きしめ、頭を撫でる。

今まで口数が少なかったのは口下手な所もある

けど、自分の想いをずっと胸の奥深くに溜め込んで

いたからだった。そういう所は、夫にとてもよく似

ている。それとは別に、遊子は私の事を実の両親と

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寸草春暉

同じ位に大切にしている事を知って、私は舞い踊り

たくなる程に嬉しくなった。

でも、甘やかすだけじゃ駄目な事も私は知ってい

る。遊子が迷い、立ち止まってしまった原因が私な

ら、私が背中を押して突き放してあげないといけな

い。本来、その役を担う夫は此処にはいないのだか

ら。遊

子の肩を掴んで、私は彼女と目線を合わせる。

遊子の潤んだ瞳が、私がこれからする事に罪悪感を

与えてきた、それでも、彼女の為には此処でやめる

わけにはいかない。

「優しい子に育ってくれて、ありがとう」

「三春お母さん?」

「でも、甘ったれないで」

「え……」

「遊子、貴女は私に何も返せてないって言ったけれ

ど。私は貴女から、これ以上ない程たくさんのもの

を貰っているわ。だって、遊子がいなければ私は立

ち直れなかったんだもの。逆に、私が貴女にちゃん

と返せていないんじゃないかしら」

「そんなことない!」

「なら、良かった」

私の心配を否定する遊子に、少しだけ心がほっと

した。でも、本題は此処からだ。

「貴女は私の娘だけど、遊子自身でもあるの。私へ

の未練が遊子の障害になるのなら、その時はあなた

自身を優先させなさい! 

大丈夫。遊子の幸せは、

私の幸せでもあるんだから」

「でも、三春お母さんはずっと私の為に……」

その先の言葉は分かっている。私は遊子が言い切

る前に首を横に振って否定した。

「いいえ。私は昔から今までずっと、私の為に生き

てきたわ。それが、私独りで歩いていくよりも夫や

遊子と一緒に歩いていく事の方が、私にとってずっ

と良かったというだけ。遊子は遠慮しないで、もっ

と我侭になっていいの。それがいい事なら、好きな

ものを好きなだけ選んで、嫌な事は誰かと一緒に考

えたっていい。寧ろ、私はその方が嬉しい」

そう考えられるようになったのも、遊子と一緒に

生きてきたからなのよ。とは流石に口に出来ず、胸

の中で留めた。でも遊子が笑顔に、幸せになってく

れるのなら、それは私にとってこの上なく嬉しいの

は偽りのない私の気持ちだ。

「私、彼を好きになっていい?」

「ええ」

「私、もっと我侭になっていい?」

「もちろん」

「じゃあ。私、三春お母さんの本当の娘になりたい。

これからも、お母さんって呼んでいい?」

「そうね、とっても嬉しいわ。……ちょっと、ほん

のちょっぴりだけむず痒いけど」

雰囲気を霧散させた私の一言に、遊子は笑いを堪

えられなかった。私も遊子につられて一緒に笑った。

その日から、彼女は憑き物が取れたかの様に自然

に笑顔を作れるようになった。まだ、表情を変える

こと自体は難しい様で能面だと言われる事が多

かった。それに、奮闘の末に意中の人と両思いに成

ることができたようだ。その日の彼女は纏っている

雰囲気がとても幸せそうで、夫との日々を思い出し

て私も幸せな気分になれた。その彼との事で、遊子

は親友と大喧嘩して学校に呼び出された時は、私が

慌てて着いた頃には既に仲直りしていて、こちらが

拍子抜けしてしまったということもあった。彼と同

じ大学に通う為に苦手だった勉強を頑張り始めたの

で、参考書をさり気なく渡して支援したりもした。

そして月日は流れ。

私の目の前には、花嫁姿になった遊子がいる。あ

の後、二人は目出度く結婚する事となった。その経

緯を私は知らない、それは二人が知っていればいい

ことだから。私はある意味では普通の恋愛が出来な

かったから、二人の関係が眩しく思える。

「お母さん、今までありがとう。そしてこれからも

ずっと宜しくね」

「遊子の事は僕が幸せにします」

「ええ、遊子を泣かせたら絶対に許さないんだから」

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お決まりの冗談を言って、娘夫婦と一緒に苦笑す

る。

「幸せになってくれてありがとう。二人にはもっと

幸せになって欲しいわ。正式な言葉はこの後ちゃん

と言うから、今は二人とも早く行ってらっしゃい」

「うん。お母さん、行ってきます」

私は二人を祝福して、娘夫婦は部屋から式場へと

向かった。二人の後姿を見ながら、私はこれまでの

事を思い返す。

……いつだったか、夫に遊子の名前の意味を聞い

た事がある。

「遊子って名前は、ある詩の一部から名付けたんだ。

その詩は四文字熟語にもなっていてね、母を想う子

の愛情と子を想う母の愛情を詠んだものなんだよ。

遊子には、母親思いの娘になって欲しかったんだ。

その時の妻は、病気で亡くなってしまったけれど」

「そう、とても良い名前だったのね」

「そういえば、三春の名前もその詩には含まれてい

るんだ。そういう意味では、僕と君が出会ったのは、

運命だったのかも知れない」

「運命かどうかは分からないけど、貴方と居れて私

は幸せよ。ねえ、その四字熟語を教えてくれない?」

「それはね……」

式場に向かう中で、夫が話してくれた四字熟語を

口にする。

「寸草春暉、か。ねえ、貴方。私は遊子の母親にな

れたかしら?」

私の言葉に応えられる人は誰もいない。今までも、

きっとこれからも。

春の風が式場を吹き抜ける。受け継がれた母の愛

は、きっと次の寸草を育てるのだろう。

● 小説