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印融法印ゆかりの地川
緑区内における高野山真言宗の学僧印融法印ゆかりの地として、まず最初に恩田川のほとりにある観護寺(織区小山町)
を訪ねてみた。
書類従』第2 8輯下)に記すT文明六年十1月十八tfi武州小机保榎下観護
横} ヨ U %
やや縦長で、笠が部厚く'いう。この伝承について隅飾りは尖った形式をみは、船津富彦著「文筆問ることができる。また歴`〈答覚書」(『密教文化第1 4
観護寺は、印融法印を中戯開山を古寺である7しかし寺歴については\
寺」から確認でき亀岡代住職墓地の前には、云「号』昭和2 6年刊)の中で「同
印融法印が
いた室町時代
を含めてはっきりしていい。江戸時代後期の地.・ ・‥-・ヽ ・-/ 、、 ,-.1 r ・
史料によると、印融法印は文明6年JT473)、洞9年、同1 2牢に観護寺
)へ牡ナT(
で湧洋の有馨、融契、囲印、
f,f∫メ
長淳、嚢貝、聖囲、鎮清、
も樹勢が豊かな菩提樹の寺に墓地、アカ井、念儒古木が構えている.耶融橋等の遺跡あり」と、ま法印が高野山から持ち爆
「さとわたりの菩提
長
観護寺歴代住職の墓地中
I
あい旧記な央に3基の五輪塔が並ん
ヽIIV
登開基と開山
でいるo中央が印融法印の墓碑である。地輪に「永正十六己卯年印融法印
も不明で潜る。議蘭等漉八月十五日」(聖書)と
観護寺の菩提樹(平成3 0年6月5日撮影)
たことは、
刻む。五輪塔は、江戸時代初期に流行した地輪が
い道中、枯れないよう立ち寄り先で根付かせ、長年かけて運んできたと言い伝えられている。また
あかい
同寺には'かつて関伽井があった。関伽とは、仏様(御本尊)を供養するための水のことで、その水を汲む井戸を開伽井と
た戸倉英太郎著『都筑の丘に拾う』(昭和30年刊)に、「観護寺の背後に関伽井がある。深さ三間許り厚き陶製の丸枠を用いておる。此井の水は昔から眼病に効ありと云われ、(中略)民衆を救ったものと伝ふ」と、それぞれ確認できる。先学のお蔭で知り得た印融法印の遺跡のひとつである。