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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository Essay on Hayagriva-avalokiteśvara Bodhisattva 干潟, 竜祥 https://doi.org/10.15017/2328848 出版情報:哲學年報. 10, pp.1-13, 1950-12-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン: 権利関係:

Essay on Hayagriva-avalokiteśvara Bodhisattva

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Page 1: Essay on Hayagriva-avalokiteśvara Bodhisattva

九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

Essay on Hayagriva-avalokiteśvara Bodhisattva

干潟, 竜祥

https://doi.org/10.15017/2328848

出版情報:哲學年報. 10, pp.1-13, 1950-12-25. Faculty of Literature, Kyushu Universityバージョン:権利関係:

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観音(梵には炉ぐ画き嵩国のご貝”〕後に観祉昔と訳す、更に後世の梵名はシぐ画き置蔚噂胃画観自在と訳す)は仏の大慈悲を体

して所有稚叛機根階層の衆生を救済するために所詔蒋門応現するのであるが、応現に当っては、随時必要に応じて変形

(ぐ⑦苗)する場合(即ち観音普門航中にある三十三身の如き)もあれば、叉特殊の身格に牛永久的に権化(捧自爵”)す

る場合もあるのであるが、その権化の全く・永久化したのが観晋の諏叛と見ればよかろう。馬頭観音もその一つで、所謂六

観音(聖、千手狗賜頭、如意輪、十一面、不室瀦宋)の中に入れられて居る。との六観音中では聖観音が観音プロ・ハーで、

他の五つがそれの権化の個定化したものと見て然る・へきであらう。而してこれら諸種の観音は夫共その本蒋に従って相応

の形相を示して居るが、馬頭を除いては他は何れも人間の相を出でない。然るに馬頭のみほその名の示す如く馬頭を徴相

とする特異のものである。かかるものが如何にして出現するに至ったのであらうか、これを考究しようとしたのがこの小

論である。

馬頭(国鼬冒偶『ご勢)は現存文献では七世紀中欧訳(六五三’四)の陀雑尼集経(大正賊、第十八、頁八一三一’八)に出て

馬頭観香考

馬頭観昔考

干潟

--

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〆 一

◆81

馬頭観香考二

来るのが岐初かと思ふ。此径は当時迄に存した密教的な諸尊の印、陀雑尼、供養法、像法、功徳等を摘記したものである

から、此経の出来るまでには、馬頭観音の信仰は浦当流行して居たと見て然るべきであらう。従ってとの観音の信仰そのD

ものは、少くとも七世紀初までにはあったと見なければなるまい。この後に漢訳にはとの観音の信仰に関するものが数種

伝えられるが、それら諸聖典の冊には形像、興言等に於ては差はあるが、根本の本秤等に於ては別に大した差はないよう

である。その本審としては衆生の悪、障碍、乃至業炊悩を嗽喰呑尽するにあるが、その密暑を迅疾金剛といふから、迅疾

に、脈の如き速さで、時を移さず、救護に赴く祁秘力を持つものともせられて居たのであらう。迅疾といふ点ではマハー

パーラタ(冒農弓冒国国)等で冨若この権化叉は一相としての餌吟湧‐曾儲(馬頭)、叉は国畠“‐鮮儲(馬頭)に等しい性

賃であり、名は観昔のは国畠画尚昌冒(馬頚、馬頭)であるから全く同じではないが、しかし一方が仏の権化の意味を持

つ点から考へて、仏教の国鱒曽‐四号“はマハ、’零ハーラタ等の影響を受けているのでないかとも思はれる。マハ、I。〈1ラタ

では、後に記す如く、国陣冒’胃弓鱒は爵潤一』の権化の意味のものでないし、プラーナ(胃H目”)では却って爵筥口に

殺されるものとして出ているが、後世の国鱒冒四コ四.冨凰曾阜巷営ぐ号冒号昌農自浄ご“冒騨d冒口曾岳等では国幽冒胃辱騨

が込割普厘の権化として出て来て居る。そこでは仏教の国昌画出同尋幽とは性賀、種字、興言等は異るが、然し恐らく仏数

の影響を受けて出来たものであらうと恩ふ。今ここでは、仏敏の函畠畠萬菖観音が如何なる経践を以て出て来たかを見

ろとととする。

馬の頭(履く鼠冒叩)が一睡の祁秘力を有つものであることはリグヴェーグ負鳴①骨)以来知られて居ることであ

I

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’1

可P

1

③る。如何なる理由で当時のアーリヤ人に馬の頭が特殊な紳秘力を有するものとせられるに至ったかは予にはわからない

が、馬の頭が秘密を教示するに用ひられたことは事実なのである。古ウパニシァット(q冒昌や胃)や梵書等では大体リグ

ヴェーダの話が伝はって居る程度のものと思はれる。而して何れの場合も名は鈩恥厨懲昌めである。然るにマハー華ハーラ

タになると衿野幽泳冒”と共に国画冒‘恥冒いなる語も出て、両者は同意に用ひられ、爵溜戸の表はれる時の一つの相、又

は劃箇巨の権化として出て来ることは上に挙げた通りであるo之に反して国畠四四号鱒なる名はぐ匡①冨の王名(言9.

弓・墓)、叉は勇敢で徳のあった古王とし(目9.雪・壁)、叉は艀肖幽の名とし(旨9.三.{g)て剛て来るが、ぐ賦曾の

権化の意味では出て来ない。プラーナでも大体同様で、ぐ厨冒匡弔日割曾自・画では国畠画,曾画のがく宮口の一つの相として

出て来るが、西幽冒四『鼠はぐ城曾に殺されるものとしてあり(三・g)、園闘噌冨薗田日割富(雪・濃関宮)でも同様である。

かくマハーパーラタやプラーナ等で国画冒,恥冨“又は溌冨’恥冒のがく一間口の一つの相叉は権化として出て来るのは恐

らくリグヴェーダ以来の蕨冒‐欝閉に祁秘的力があるものとせられて居た伝に由来するものと思はれる。国畠画腎『ぐ鱒の

方は、然し、まだこの時代ではシ吟釦‐嘗場と同じものとはなって居ない。

聯って仏教の方を見るに⑥パーリ本生経四一三の話の本となったと恩はれる賜頭人身夜叉女の物語が、既に西浬幽一世

紀中と忠はれる仏陀伽耶の古棚柵の浮彫にある。間よりその時は、その物語は仏教の物語となって居た渉、更に本生話に

なって居たか否かは明かにはなし得ないが、少くとも仏敏徒にもよく知られて居た物語であったとは云い得るであらう。

それが後にパーリ本生経四一三となったものと思ふ。との物語の要点は、昔毘沙門天に仕える一夜叉女があった。それは

馬頭観香老三

■■

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馬頭観香考.四

人身鳩首であって、自由に空中を迅述にかけ廻り行動することがⅢ来た。また他者の足跡を知る呪術を知って居た。彼女

と人朏の夫との柵に出来た子に、この呪術を授けてやった。この子はこの呪術によって人間の献会に帰って立身出祉した

というのであるoとの物語が本生話となったのはあまり古いこととはⅧ心はれないが(それは漢訳には伝って居ない)、然

し物語そのものは相当古くからあったに祁逃ないことは上述の辿りである。‐賜頭人身のものは〆甘口目色(女性〆甘口塾昌)

としても知ら伽て居るが、何れにしても脈性のものであることにはちがいはない。と恥はやはりリグヴェーダ以来の賜頭

に一種紳秘力ありとせられて居た所から来たものであらう。而して何時唖からかよくはわからぬが、賜頭人身夜叉女の・一

つが以上の如き物語の、王人公となって、それが仏教に入って一つの本生誌となって伝えられたのである。然しこれだけで

は馬頭のものが一種の祁秘力を有するといふリグヴェーダ以来の伝説と、その榊秘力の中に自由に空中をかけ廻り得るこ

とも含まれて居るといふことと、それが仏敦説話の中に取込まれて居るといふだけであって、未だこれだけでは衆生救済

といふ菩薩行には関係して居ない。故に以上の伝統からの.みでは賜頭(国畠”胃『蚤)なるものが観》曇口薩の一種となるに

は未だ総述いであらうo観音菩薩の一版として衆生救済の大慈悲活動をする者となるには勤他に何か賜頭又は鳩に関して

衆生救済者たるを連想せしめるに足る仏教的なものを要したであらう。而してその要求に恰も合致したものが何かあった

かといへば、予はそれは即ちパーリ本生経一九一ハ(ぐゅ崗冨的切皇。.)、{ハ度錐経五九(賜王駈耶本生)等の本となった祁秘的

馬王の救済物語の如きであらうと思蕊のであるoとの物語に至れば全面的に衆生救済の大慈悲願行という占號表はれて来

るのであるoとの物語の最初出て来るのは、中阿、一二一{ハの話であらう。詳しくは註に記すが、要するに或る商人の団体

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、 の

が大海に行き、破船して羅刹鬼女烏に漂着し、鬼女と知らずして悦樂合会し児を生んだ。一智人あって、彼女等は雑殺鬼

であって、向分等もやがて喰はれ一」しまうであろうことを知り、且つそこから逃れる方法としては、月十五日駝馬王来

り、「欲する着あらぱ彼岸に救い渡さん」と叫ばれる。その声に応じて。その馬王の身体の何処にでもつかみついて、鬼

女やその児等に心引かれない者は、皆救はれるといふのであった。而して果せるかな月十五日夜駝鳩王室中に表はれて呼

ばれた。智慧人の言に従った著等は皆帰国できた。従はなかった者は皆鬼女の食となったといふのである。

中阿含のものは未だ本生話となって居ない、軍に一物語であって、しかもそれを釈愈が「実有ならざるものを実有とし

てそれに執論する者は自ら破滅をまねく、須らく実有ならざるものに無執蒲であれ、然らば解脱し得ん」という教えの為

の密嚥として説かれたことになって居る。六度集経五九(馬駈耶本生)では話はよほど簡略になって居るが、然し勿論こ

こでは本生になって居り、しかも趣旨はよほど大乘的になって居て、馬王駈耶(炭鼠冒の一音写であらう)は仏の本生で、

最初から常に慈悲深い者であり、救済に赴く菩薩の徳を紋ぺるが主である。駈耶即ち炭吸旨(鼈あるもの)を仏本生とす

ることは旨露閣く易昌亭ワョのものや、本行蝶経(難涙)のものも同じである。故にとの物語の主人公を侭風旨とした

ことも、かなり古くからあったと恩はれる。民風冒はリグヴェーダでは胃身動やシ頤昌の乗る馬の名として田て居る

が、マハーパーラタ、第三、三三やここ三等では阿修雑(需胃巴の大將の名として出て居り、帝釈天P昌愚)に破ら

れるもの4である。マハーパーラタ、第十四、六九ではやはり阿修羅の名で、辱溜画に破られるものとなって居る。以上の

如く絞事詩では洲の敵の方になって居るが、仏敦では川の権化、則ち仏本生になって居る。何れにしても此等ではただ鳩

馬頭観一音考五

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I

ノ。

馬頭郷.吾老六

王の名が厨臥冒となって居るのみが異り、話の大要は中阿、二三ハのものや℃パーリ本生経一九六のものに等しいので

あるo後者では賜王の名は明かにぐ畠冨いい陣となって居る。ぐ騨罠到冨””沙又はぐ鱒声到冒冒は巴利相応部、鋪一三、九六、

では祁秘的な駿腸で、転輪聖玉の七宝の中の鳩宝の名とせら伽て居る。これに当る漢訳雑阿含、二六四では、婆雑訶と言

写してあり、中阿、六一、一三八、では駝と訳してある。階間那晩多訳起仙経巻二(大正減、第一、三一八瓦)では婆雑

訶附言長毛とあり、康煕字典では暁は賜長毛也とあるから、中阿含等で暁といふはく画』劉冨又はぐp]割冨冨の訳であるこ

とが知られる。然しぐ幽旨勤冨又はの〆・冨一到冨には長毛などいふ意味はありそうにない。思ふにこれは冒珂富(尾毛)か

ら来たものと見てかかる訳をしたのであらうか、予にはまだ疑問である。中阿含、六七℃には転輪聖王七宝中の馬宝の名

として毫賜王とあり、且つ勺「以毛厳身名」とあるが、鼈は康煕字典には胃也、覆胃頭頚也とあるから、〃これは〆2口の

訳の如くにも見えるが、しかし転輪聖王の馬宝の名であるから、やはりこれもぐ画一目Pの訳と見なければなるまい。兎に

角この物語の馬王の名は中阿のものも巴利本生のものもぐぬ胃鼻画であることに於ては一致して居るといふぺきであらう。

ぐ画崗冨命属・冨蜀富)は普通名詞としては雲叉は雷雲の意であるが、仏典では早くから仏が転輪王であった時の馬宝の名

として居るo恐らく髄雲の如く迅速であるといふ所から名づけられたものであらう。この語はヴェーダ時代にはないと思

ふ。マハーマハーラ夕では冨胃豐僅富として雲の意味で出て来る。此の語の語源となったと思は肌る所の冨胃夢画目雲(破軍)

さえぐ①烏にはなく、欽事詩になって初めて出て来るのであるが、棚梵語巻七では馬の名婆雑訶叉は婆雑醗を破敵、破

軍として居るのは、この語源的意味から訳したのであらう。これを馬王の名として使ったのは恐らく仏敦が始めてであら

■も口

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う。然るに上の物語ではぐ畠到冒に当るものを〆2口としたのも早くからあることも既述の通りであり、何れが早いか

は容易に決せられない。然しぐ画国富の方がより仏教的であり、且つここの物語の、主人公としてはよりふさはしいといふ

ととはⅢ来るであらう、何となればこの馬は衆を乘せて空中を飛んで行くのであるから。〃

さて、かかる馬形をしたもので祁秘力を持ち空中を迅疾に飛翔して衆を救う者を主人公にした本生話が出来たが、.その

馬形のものは、印度敏の方でいえば、爵筥巨の権化叉は一相としての馬頭(瞭苫幽目“ゞ国畠“‐腎儲)に雀だ近いものであ

る。而して印度教の胃週巨の権化叉は一相に当るものは仏教の方でいえば、仏叉は菩薩の権化叉は・一相、又は一種の観

香菩薩に当る。そこで静』劉冨馬王本生のぐ“一目閤馬王が、農ご駄目の叉は畠畠乱冨めに置きかえられて、その名の観

香が出来て然るぺき筈であったのである。然るに意味は殆ど同じであって、ただ語のみの異る函画冒‘噌尋画(馬の頚の脊

部の処であるが、漢訳では常に馬頭と訳して居る)が世きかへられて、ここに一種の観音が凪来たのである。国騨旨胃尋画

は先にも言った如く、マハー今ハーラタでは古王の名であり、プラーナでは冨菖属に殺されるものであって、爵想巨の権

化の意味にはなって居ない。仏教に取入れる時に溌三鼠冒の叉は国畠駄富めと殆ど同意であって、しかも印度激では

当時亜んぜられて居なかった国畠画胃弓画の方を故意に採ったのか、それとも馬頭観晉の出来る甑には印度教の方でも

国幽冒胃司蔚なる名が重んぜられるに至って居たものか、その点現在迄の材料では予には何とも言ひ得ない。兎も角リグヴ

ェーグ以来の険ぐぃ欝画の叉は国畠画冒い、更に仏陀伽耶古棚柵の彫刻にある人身馬首夜叉女の物語や、パーリ本生経、四

三二、となる物語の主人公になる人身鳩首のものなどが、仏教のぐ画蜀冨閉p本生を介して、且つ富名匡の権化又は一

賜頭観香考七

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馬頭縄香老八

相なる沙野鼠冒酌叉は国騨冒欝畠の意味を持ちつつ名を異にする国凹旨頤昌虜なる名の観音として表はれたと見る今へきで

あらう。リグヴェーグ以来の馬頭の祁秘力なるものがなければ、,ぐ画蜀冨の闘本生も田来たかどうかわからぬし、ぐ昌鼻儲いぃ

本生や、爵君屋の権化又は一相としての馬頭なるものがなければ、馬頭観苦は起らなかったであらう。馬頭観薔なるもの

の成立には以上の如き経路が老へられる。

馬頭観音は以上の如くして成立したとして、現存作例等から見る時は,種盈なるものがあり、其中には上の要素のみで”

は解決のつかぬものがあるように思はれる。先づ、古くは胎砿図像(円珍諦来)のものは馬頭人身で、これではさきの仏

陀伽耶古欄楯の夜叉女の像と殆ど変りがなく、ただこれは観音菩薩であるだけに、蓮花上に半珈坐して居ること、特殊の

持物(斧と蓮花)を持つこととが異るのみである。覚祁(Pロー念I両一ご紗には、中天竺那蘭陀寺三藏善無畏於大唐

東都河南府大聖善寺図像書本云交として、上の胎賊図像のものに似たものを挙げて居る。ただこれには頭上に蓮花あり、

その上に化仏があって観喬なるを明示して居る点が異って居る。.しかしこれら馬頭人身のもの(何れも蕃無畏三減系統の〃

もの)を除いては他は何れも人面人身で、頂上に馬首をおくのを原則とする。これにも幾種類かある。陀羅尼集経第六の

馬頭の條の面作法では、四個歓喜面二勝のものを出して居るが勘とれは馬首のことは明かでない。しかし更有画作法とし

て出して居るのでは、四面二臂、中央は菩薩面極端正、作慈悲誠、顔色赤白……左辺一面作大賑怒黒色面……火焔色,右

辺一面作大笑甑、赤白端正、似菩薩面・・恥・中面頂上一碧馬頭としてある。恐らくこの陀羅尼集経の説によって居ると思は

れる党祁紗の今一つのものは.面相は犬体以上の如くであって、中央頭上に馬首がある州。これらは少くとも中央の面は慈

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悲顔である。馬首は不明なのもあるが穆明かに碧馬頭として居るのがある。然るに以下のものは面相何れも恋怒形であ

る。則ち、摂征擬径(不室訳)のもの住一両四臂で、賑怒柑であり、聖奨野絶哩縛恢軌法品(不筌訳)下のものは四面八

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儲梼恋怒相、頂上碧鳩頭である。八字丈殊俵軌(不室訳)では二面八特恋怒相、別奪雑記には、これによれるものがある

が、鳩首の色は明かでない。胎赦現図坐茶雑のもの陸一而二件で頂上白賜頭である。ここで問題になるのは、錐一に、四

面、或は少くも中央の而相が慈悲端正のものと念怒相であるのとである。前科は比較的古い伝にあるもので、そこでは観

一音菩薩の性磁そのままを表はしたまでで、従って密教の敢令輪身乃至明王とはなって居ないのである。然るに正統密教に

なってからのもの、特に不室訳系統のものは、面相恋怒形であり、教令輪身で、明王と称せられるにふさはしくなって居

る。観音には種類は多いが、何れも密教では慈悲乗軟を表とする蓮花部に風するのである。馬頭観一日のみは蓮花部に属し

つつ明王とせられるのであるo然し上記の円相発進過程を兇れぱ、明王とせられるに至ったのはやや後になってからであ

ろO

さてさきに述べた馬頭観音成立史のみでは、かく明王となり恋怒形となる。へき理由は見出されないであらう。そこで、

これが明王となり恋怒形となるには、上述の馬頭観季皿成立史上の要素以外に、何か一つ馬に関するもので、勇猛性、従っ

て面相では怒形で表はすに通はしいような素因が捜入されねばなるまい。しかもその素因は、これを捜入した人が平生見

て居り知って居るもので、特に感動さされて居るものである場合が、蛾も捜入され易いであらう。然らばそれは何であっ

たであらうか、恩ふにそれは、日本には奈良帆時代林邑の仏徹が伝へて、今も残って「祓頭の舞」の如きものの、印匪に

馬頭観一音考九

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馬頭観一音考一○/

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於て行はれて居たものではなからうか。祓頭の舞は故尚柚敬授が早く既に指摘されたが如く、リグヴェーダに出て来るベ

ードゥ亀①号)王に司賜双榊(震ぐ旨)が与へた白賜パイドゥヴ(國昼ぐ画)が悪龍を殺した敵を征伏する勇猛振りを舞楽

にしたもので.(祓頭は恩号の吾写とも国拭冒の青写ともとれるが)、仏徹は林邑から日本へ伝へたのであるが、林

邑に伝はったのは当時の東南亜交通の舷勢から推定せぱ瓜唾を経て来たものであり、その本は印度東南海岸であることは

云ふまでもない。しかもこれはヴェーダに於ける祁話を材料としたものであるだけに、当時印度全般に知られて居たも

のであらうし、当時(七世紀末八世紀初)の印度正統密教者も勿論知って居たもので、駿馬パイドェヴ亀昌号画)に扮

する者(少くも日本に伝へられて居るのでは蝿の議髪を被るのであるが)の勇武なる舞とその一音樂の勇壯なるに感嘆して

居たものが、馬頭観晉の像を画く時に、これにヒントを得て恋怒勇猛相にしたことが、この観吾が恋怒形となり、従って

明王と称せられ教令輪身とせられるに至ったのであらう。この観音の像の中で、比較的おそいものが盆怒形になって居る

ことも、との理由によるものであらう。間より大慈悲心の表れとしての教令の為の恋怒形と、単に勇武を表はすのとで

は、内面的に大きな差があることは云ふまでもないが、しかし外面に表はれた所では或程度似かよった点があるから、勇

武の舞の相からヒントを得て、菩薩の恋怒形を作ることもあり易いことであらう。第二の問題は頂上の馬頭が碧賜なると

白馬なるとがあることである。パィドゥヴはリグヴューダでは白馬であって碧馬でほない。もし祓頭の舞からのみヒント

・を得て作ったの葱らぱ、皆白馬でなければならない。然し実際には白いのはむしろ少くして碧の方が多い。とれは最一初に・

馬頭観音なるものは最初から祓頭の舞からヒントを得たのではない証拠であるが、然らば碧にするのは如何なる根拠によ

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〆つたのか。思ふにこれは白は平常息災を示し、青聖朧調伏の時に用ひるのを韮脚述とするが、この観音は悪障碍乃至業煩悩

を嗽食呑尽するといふのであるから、何れかといへぱ荒い方であり、.特に怨敵を降伏せんとの意図のあるような場合に作

られれぱ青聖お碧馬にするが当然であらうし。又先に示した如く愈との観音はぐ画蜀冒の笛本生話を除いては出て来得な

かったと老へられるならば、そのぐ“罰盲目(m〆・冒罰冨旨)は破軍、破敵の意味があるのであるから、そこから見れば、

/むしろ調伏を表はす青黒色を用ひるのが至当とも●いへるであらう。頂上の賜頭に白と碧と両犠あろは右の理由によるもの

31 J

であらう。(一九五○、七、三○、稲岡、侭空庵にて)、

謹仰何耶掲卿婆像法(大正蔵、第二十、頁、一七○-ご

何耶掲剛婆観世香菩薩受法型(同右、頁、一七一-二)、

以上一ろば陀羅尼集経のものの抄出に過ぎない。

大日経雀一、(大正藏、第十八、頁、七)、善無畏(さ一石l迄一芸)、一行(さ一三-七一毛)共訳

大日経疏巻五(大正藏、第三十九、頁、さ三一)一行記(七二五’七)

菩提場所説一宇頂輪壬経巻二(大正減、第十九、頁、一九九)、不室訳(七○五’七七四)

聖蛮野紡哩縛大威怒王立成大祁醗供誰念訓儀軌法品(大正蔵、第二十、頁、三舎一’一七○)、不室訳、

撰無綴経(大正減、第二十、頁、二元)不室訳、・

八字女殊儀軌(同右、頁、七八五)淨智金剛訳(八二四)‐

②国画冒響.易を割君・Pの一つの相として居るもの、冒臣・ぐ.g》減員届“》“ち霞乞食②台.

際ぐ鼠冑画叩をぐ扇呂なりとして居るもの、旨呂白目.曾興減員.届愚窃.

脇.頭観香考一一

~

I、

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馬頭郷香老二一

⑥”ぐ白.旨い》届.ロ且ご息冒冒口日艮冒際冒興酋同Oぐ陰口昌塑ぐ儲冒の』晶督己昌冒旦計】巨動8.(アタル索ワの子ダドヤンチ

は汝(際ぐ旨を指す)に馬の頭を以て、かのもの、即ちかの蜜を示した。)

”ぐ.閂.』員陪.シ忌胃ぐぃ昌冒」騒ぐ冒劉口勉巳寓8ゞ雪冒冒’四国一己国ご昌国冒菌包閻ぐ員三目且言担胃ぬぐ○8且罵畠到冒口

弓く瀞胃画日冒旦烏の国ぐ鯉巨富庶冒8ぐ割3.(主馬雛祁よ、アタル毛ウの子蕊トャンチに馬の頭が斑かれた。被れは忠実に汝に

.ト・ワシュトリの蜜を示した。そは、威力あるものよ、汝には隙くされてあったものである。)

倒辱言自国葛鳥”‐qや胃・興添》弓.

の画冨冒吾画国吋。周ぐ.鈩皿一辞関門ぐ.ご警扇.

⑤仏陀伽古棚楯の浮彫には、この人身馬首の夜叉女が岩窟の前に立って人間の夫をその中に引入れようとして居る場面である。

⑥中阿、三一六、の物語の要点は、

1、昔多くの商人の一団が財宝を求めて船で大海に出た。

2、大海中摩喝魚の為に破船し一島(それは羅刹鬼女の島)に漂着した。

3、その海浜に多くの美女(実は羅刹鬼女)出で、誘惑し、各々その家居に連れ行き、そこで悦樂合会して児を生んだ。

4、たr彼女らが家に行く途中云った言葉の中に、gの島の南の方へは決して行くな」といふことがあった。

5、一人の智懲ある商人、その言葉を恩ひ出していぶかり、一夜ひそかに南行して行くほどに、衆人の啼突叫喚の声を聞いた。

彼れ進み見るに、そこには一大鉄城があって、声はその中からのものであった。

6、その智慧人は城壁の大樹に上り城内を見るに、啼尖して居た衆人の曰く、「自分等は商人で、宝を求めに海に出て、破船し

て此の島に茜いた。美人共の誘惑のまLに、共に陵み児を生んだが、然し他の破船漂着者が来たらば、それらを引入れ、新

夫として、自分等を此城中に入れておいて唯ふのである。既に二百五十人は喰はれてしまった。彼女等は皆羅刹鬼であるぞ」

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(13) (12) (11) (10) P) (8) (7)

馬頭槻香考

しGO

1△ノ

7、その智慧人曰く、「これより逃れる方法なきや」と、彼等教へて曰く、「我等嘗て天の声を聞いた。即ち月十五日夜、駝馬壬

(ぐ画冑盲路目且画の訳であらう)が表はれ、彼岸に渡らんと欲する者あらぱ我れ安穏に渡さん、と再三唱へられた。汝等との

暁馬王の声を聞いたならば、直ちに出で行き救を求められよ」と。その智悪人以上の一切を翌朝他の友人に告げた。

8、後に月十五日夜、果せる哉一駝馬王来り呼んだ。彼等商人達は直ちに行き馬壬に乞ふた。馬壬曰く、「我汝等を救はん、但、“

かの婦人等は児女を抱き来り、汝等に留まれといふであらう。汝等もし彼等姉人児女に心ひかれたならば、我が脊中に乘っ

て居ても、落ちて鬼女等の食とならん。もし心引かれないならば、我が一毛を持って居ても、必ず彼岸に逹し得る」と。

9、果せる哉その通りになった。と。

善無畏三蔵が大日経訳時自ら画くもの、円珍墓写、大正藏、図像部第二経、頁、一三五。

大正減、図像部第四図像一喜一、(頁、八三○,八三一)

以下女献は本論女の初の註仰を見よ。

心党(P.ロ.]巨べl崖g)抄、大正織勺図像部、第三頁、一八二。

同右、図像部、第一、頁、六五三。

史学雑誌、第十八、6.7、印匪古聖歌、頁、一七七以下。

本稲を終って後、d園.閃.国.く釣目Q巳丙の↑国勇曽唄尋画】目言旨騨貝昌く騨日。“めむの。貢。南国o日。1.厘岸旨○ず旨四四a]§画口

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幸にして予はまだこれを手にしない。

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