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〔書評〕 弘前大学経済研究第 19 November1996 Etienne Balibar, The Philosophy of Marx, translated by Chris Turner Verso, London, 1995 139p. 鈴木和雄 I 本書は,ルイ・アノレチュセー/レの直弟子であ り協力者でもあったエティエンヌ・パリパール が,「マルクスの哲学J を提示し,その 21 世紀 への可能性をさぐった試みである。原著は La ρ hiloso ρ hiede Marx として 1993 年に LaDe- couverte 社から刊行されたが, 2 年後に,こ れの日本語訳何マルクスの哲学j ,杉山吉弘訳, 法政大学出版局)と同時に,英語訳である本書 が出た。日本語訳が存在するにもかかわらず英 語訳を書評の対象とするのは,著者の執筆動機 がのべられた「日本語版への序文J が付されて いるものの, 日本語訳には意味が不明瞭な箇所 がみうけられ,総じて翻訳書としては英語訳の ほうが出来がよいと判断できるからである。 さて,本書は 150 ページにみたない小著であ るが,おどろくべき豊かな内容をふくんでいる。 本書の構成は,以下のとおりである( o は原著 者の強調をしめす)。 第1章 マルクス主義哲学か,マルクスの哲 学か 2 章世界の変革:デ喜多予去から金量へ 3 イデオロギー,あるいはフェティシ ズム :権力と従属 4 章時間と進歩:もう 1 つの歴史哲学? 5 章科学と革命 本書は入門書の体裁をとっているにもかかわ らず,考察対象の複雑さのゆえに ,けっして 読 みやすい本とはいえない。そこで各章の紹介に はいる前に,本書のおおまかな構成をしめして おくほうが好都合であろう。まず第 1章で,本 書の目的とマルクスの哲学の全体的特徴づけが 提示される。著者がマルクスの哲学を転換させ た事件として重視するのは,① 1848 年の革命, 1871 年のパリ・コミューン,である。彼の 哲学は 2 つの事件をはさんで 3 つの時期に区分 される。 1)1848 年の 革命以前の革命的実践と イデオ ロギーの哲学, 2 )革命の挫折によって 形成されたフェティシズム論, 3)1871 年以後 の,社会構成体の移行理論の訂正によって成立 する時間の弁証法。 1 )が第 2 章で, 2 )が第 3 章で, 3 )が第 4 章であっかわれ,さいごに第 5 章で,総括と将来的展望があたえられる。以下, 各章の内容紹介を紙幅のゆるすかぎりで試みて みよう。 II 1 章では, 1 )本書の 目的, 2 )マル クスの 哲学の特徴, 3 )時期区分,が提示される。ま 1 )は,「過去の記念碑としてばかりでなく現 代の著者としても,なぜマルクスが 21 世紀に まだ読まれることになるのかを理解し,説明す ること J ,彼が哲学に提出している問題を「マ ルクスの諸著作のうちに発見する手段をあた え」,これが促進してきた「論争に読者を招待J することにある p .1) とさ れる。2 )では,「マ ルクス主義哲学は存在せずこれからも存在しな いだろう」が,哲学にとってのマルクスの意義 はこれまでよりも高まる,とのべられる。しか し彼の哲学をあっかうには困難がある。それは 「近代 の最大の反哲学J をなす(p. 2 )からで - 119

Etienne Balibar , The Philosophy of Marx, translated …human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/19/...〔書評〕 弘前大学経済研究第19 号 November 1996 Etienne

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〔書評〕 弘前大学経済研究第 19号 November 1996

Etienne Balibar, The Philosophy of Marx, translated by Chris Turnerう

Verso, London, 1995う 139p.

鈴木和 雄

I

本書は,ルイ・アノレチュセー/レの直弟子であ

り協力者でもあったエティエンヌ・パリパール

が,「マルクスの哲学Jを提示し,その 21世紀

への可能性をさぐった試みである。原著は La

ρhilosoρhie de Marxとして 1993年に LaDe-

couverte社から刊行されたが, 2年後に,こ

れの日本語訳何マルクスの哲学j,杉山吉弘訳,

法政大学出版局)と同時に,英語訳である本書

が出た。日本語訳が存在するにもかかわらず英

語訳を書評の対象とするのは,著者の執筆動機

がのべられた「日本語版への序文Jが付されて

いるものの, 日本語訳には意味が不明瞭な箇所

がみうけられ,総じて翻訳書としては英語訳の

ほうが出来がよいと判断できるからである。

さて,本書は 150ページにみたない小著であ

るが,おどろくべき豊かな内容をふくんでいる。

本書の構成は,以下のとおりである(oは原著

者の強調をしめす)。

第 1章 マルクス主義哲学か,マルクスの哲

学か

第2章世界の変革:デ喜多予去から金量へ

第3章 イデオロギー,あるいはフェティシ

ズム:権力と従属

第 4章時間と進歩:もう 1つの歴史哲学?

第 5章科学と革命

本書は入門書の体裁をとっているにもかかわ

らず,考察対象の複雑さのゆえに,けっして読

みやすい本とはいえない。そこで各章の紹介に

はいる前に,本書のおおまかな構成をしめして

おくほうが好都合であろう。まず第 1章で,本

書の目的とマルクスの哲学の全体的特徴づけが

提示される。著者がマルクスの哲学を転換させ

た事件として重視するのは,① 1848年の革命,

② 1871年のパリ・コミューン,である。彼の

哲学は 2つの事件をはさんで3つの時期に区分

される。 1)1848年の革命以前の革命的実践と

イデオ ロギーの哲学, 2)革命の挫折によって

形成されたフェティシズム論, 3)1871年以後

の,社会構成体の移行理論の訂正によって成立

する時間の弁証法。 1)が第 2章で, 2)が第 3

章で, 3)が第 4章であっかわれ,さいごに第5

章で,総括と将来的展望があたえられる。以下,

各章の内容紹介を紙幅のゆるすかぎりで試みて

みよう。

II

第 1章では, 1)本書の目的, 2)マルクスの

哲学の特徴, 3)時期区分,が提示される。ま

ず 1)は,「過去の記念碑としてばかりでなく現

代の著者としても,なぜマルクスが 21世紀に

まだ読まれることになるのかを理解し,説明す

ることJ,彼が哲学に提出している問題を「マ

ルクスの諸著作のうちに発見する手段をあた

え」,これが促進してきた「論争に読者を招待J

することにある (p.1) とされる。2)では,「マ

ルクス主義哲学は存在せずこれからも存在しな

いだろう」が,哲学にとってのマルクスの意義

はこれまでよりも高まる,とのべられる。しか

し彼の哲学をあっかうには困難がある。それは

「近代の最大の反哲学Jをなす(p.2)からで

- 119一

ある。マルクスはある形態の哲学と手を切った

のちに多元的言説をめざしたが,これは「前提

なき結論Jの提示と,階級闘争による哲学のの

りこえとのあいだの動揺に彼を導いた。しかし

この動揺は哲学の本質を問題視させるものだっ

たので,彼の反哲学は「哲学の位置,その問題

と目的の転換J(p. 5)を意味した。 3)では,

マルクスの哲学が追求されるべき場所が,彼の

諸著作の総体であり「そこだけである」とされ

る。これらのうちに,断絶をもっ彼の思想的発

展を追跡する必要がある。著者は, 1845年の

「理論的人間主義」との切断(アルチュセール)

のほかにも 2つの切断があり,これらをうなが

した事件として,先の 2つの事件をあげる。

第 2•では, f フォ イエJレパツハにかんする

テーゼJ(以下 Iテーゼjと略記)と 『ドイツ ・

イデオロギーjの哲学が検討される。ここでの

展開を, 1)『テーゼjの一般的性格, 2)『テー

ゼjにふくまれる問題, 3)rドイツ ・イデオロ

ギ-Jの内容,に分けてみてみよう。 1)は,「革

命的活動(あるいは実践)にむかつての,理論

からの繰り返される脱出」(p.13)と特徴づけ

られる。著者は, 45年の人間主義との切断は

否定しがたいとしつつ,ジョノレジュ・ラピカの

解釈を支持して, 『テーゼjの目的が,実践的

唯物論による観念論と観照的唯物論との対立の

のりこえにあったとみる。青年へーゲJレ派はフ

ォイエjレバッハの疎外図式を人間の抽象化と所

有剥奪という現象に適用した。 『テーゼjはこ

の図式を批判して疎外の根拠を現実の社会的分

裂にもとめ,これを解消するのは哲学ではなく

革命であると主張する。だが哲学からのこの脱

出要求は苛酷であった。それは,哲学への後戻

りの禁止と世界変革の唯一の方法としての革命

とを要求し,哲学に自己の限界の承認か限界の

廃棄かの選択をせまるからである。

2) rテーゼjにふくまれる問題,は,①プラ

クシスと階級闘争との関係,②人間の本質の問

題,である。まず①であるが, 『テーゼ』は,

革命による哲学の実現と哲学の放棄を主張す

る。これは,観念論と(旧)唯物論とにたいす

る批判(ウェイトは前者の批判にある)と,そ

れらからの脱却の試みを表わす。観念論の普遍

性のカテゴリー(精神,理性,意識)は主体性

と表出という 2側面をもち,観念論は主体の表

出として世界を構成する。哲学者たちの世界の

「解釈」も表出のヴアリアントにすぎず,観念

論はこの解釈によって世界に秩序を押しつけ

る。だがこの点では,組織化原理として物質を

もってくる唯物論も仮装された観念論である。

マルクスは,主体性と表出とを分離して,実践

活動のカテゴリーそれ自体を出現させようと試

みた。この試みは成功したか。否である。主体

を実践的主体と規定することで,マルクスは主

体のカテゴリーを観念論から唯物論に移動させ

たものの,これによって「主体」としてのプロ

レタリアートの自己表出という構図が成立する

可能性もあたえたからである。②に移ろう。マ

ルクスは「人間の本質は社会関係の総体である」

と規定する。これは人間主義の拒否ではないが,

人間的本質の理解を転換させている。観念論は

人間的本質を,同じ類の諸個人に内在する普遍

的概念と考えた。だがマルクスは,実在論の立

場(本質は諸個人の存在に先行する)と,ノミ

ナリズムの立場(現実の諸個人から本質を抽象

する)をともに拒否し,有機体的観点と個人主

義的観点とをともに拒絶する。彼は人間的本質

を「詣晶λ品現実 transindividualreality J (p. 30) と考える立場にたつ。人間的本質は諸個人のな

かに存在するのでも,諸個人を分類するために

外部からあてがわれるのでもなく,彼らの相互

作用によって諸個人間に存在するものなのであ

る。ここでは,諸関係の存在論がかたちをとり

つつあった。

こうして著者は, fテーゼ』のマルクスの立

場を,①実践概念の導入によって観念論から脱

却をはかった,②実践概念には観念論の要素が

残存している,③だが諸関係の存在論の崩芽的

形成を認めうる,とおさえて, fドイツ・イデ

オロギーjの検討にすすむ。

3) rドイツ・イデオロギーjの内容,ではま

ず,この著作の第一目的がマックス・シュティ

- 12J一

Book Review: Etienne Bali bar, The Philosophy of Ma口

ルナー批判にあったとされる。彼は,共産主義

やプロレタリアートもふくむあらゆる普遍的概

念は諸制度がっくりあげた虚構であり,これら

が肉体・欲求・観念の「所有者」である諸個人

を抑圧している,と批判した。マルクスは,超

個人的活動としての生産が人間と歴史を構成し,

イデオロギ一生産を規定する,と主張する。中

心論点、が,普遍的概念による現実的諸個人のお

きかえではなく,超個人的活動による抽象物の

発生におかれたので,抽象物の承認か拒絶かと

いうシュテイノレナーの問題設定をさけて,現実

の知識を表わす抽象物と神秘化機能をもっ抽象

物との区別が可能になった。つづいてブルジョ

ア社会における階級的差異以外のすべての差異

の消滅,諸矛盾の発展と共産主義革命の切迫,

普通的階級としてのプロレタリアート,といっ

たこの著作の内容が紹介される。しかし著者は,

この著作が本質主義にむかう傾向があることを

指摘する。『ドイツ・イデオロギーjでは精神

的労働と物質的労働との,プラクシスとポイ

エーシスとの区別の廃絶が主張されるからであ

る。ギリシア人以来,プラクシスは人間の自己

実現的な自由な行為を意味し,ポイエーシスは

物の完成をめざす奴隷的で必然的な行為を意味

したが,マルクスは両者の一体化というテーゼ

をうちだす。『テーゼjは革命的実践を人間的

本質として提示するが, fドイツ・イデオロ

ギ-Jでは実践=生産が人間的本質とされるの

である。

I

I

I

第 3j障では,イデオロギー論からフェティシ

ズム論へのマルクスの問題関心の移動が論ぜら

れる。ここでの展開を, 1)イデオロギー論の

課題, 2)フェティシズム論の革新性, 3)フェ

ティシズム論の継承, 4)2つの理論の関係,に

分けてみてみよう。 1)イデオロギー論の課題,

は支配の問題にあった。シュテイルナーは,観

念による諸個人の抑圧を指摘しつつ,観念と権

力との関係の分析を要求した。マルクスはこれ

に,諸階級への社会の分裂という点から回答す

る必要があった。そこでイデオロギー論の中心

に支配の問題がくる。マルクスは,社会関係の

機能としての(超)個人性という新たな存在論

と,現実存在の分裂による意識の自律化という

フォイエルバッハの疎外論とを結合して,分業

のもとでの意識の自律化によるそれの権力への

転化を説明する。彼はさらに,特殊的利害が普

遍的利害に昇華されてイデオロギーとなる理由

を,肉体労働と精神労働との分割にもとめた。

著者はここで,労働と非労働の対立もふくむよ

うに,この分割を知的差異一般に拡大すること

を提案する。知的差異は, l階級に奉仕するイ

デオロギーという道具主義的な考えをこえて,

分業にもとづく意識の自律化によって支配を基

礎づける。

だがマルクスは 2つの理由でイデオロギー論

を展開しなかった。第 lに,革命の敗北がある。

革命前にはプロレタリアートは非階級であり,

幻想をもたずイデオロギーには無縁である,と

規定された。しかし 1848-50年の諸事件は,

プロレタリアートへのイデオロギーの浸透をい

やというほど暴露した。マルクスは,普遍的階

級としてのプロレタリアートという概念を放棄

し, 1846年以後はイデオロギーという言葉を

使わなくなる(それをほりおこすのはエンゲル

スである)。第2に,政治経済学をイデオロギー

と規定する困難があった。この言説は形態にお

いて「科学的」でありイデオロギーには属さな

かった。他方,ブルジョア的生産を永遠視する

点では,唯物論的な歴史のカテゴリーにも属さ

なかった。このジレンマ脱出の試みからフェテ

イシズム論がうまれる。

2)フェティシズム論の革新性,に移ろう。

まず f資本論jの商品のフェティシズム論とそ

の目的が説明されるが,これの紹介は割愛せざ

るをえない。つぎに著者はこの理論の哲学的意

義の検討にはいる。この理論の革新性は「主体」

概念の転換にある。カント以来のドイツ観念論

の伝統にあっては,客体性の構成は主体に依存

する。主体としての普遍的意識が特殊的諸個人

- 121一

の上に立ち,彼らのなかに存在するものと考え

られる。この主体=意識が,それ自身のカテゴ

リーや表出形態によって世界を理解できるもの

にする二世界を構成する。だがフェティシズム

論は逆の論理をすえる。それは,主体がかかわ

る客体的世界のなかで主体を構成する。客体性

の構成は主体には依存しない。「これらの主体

は構成的なのではなく J,反対に客体性によっ

て「構成される」(p.67)。主体性は超越的立

場から,社会的過程の結果の立場に移される。

だが主体は匿名の実践的主体である。それは生

産・交換・消費の活動の組み合わせ全体なので

あり,じっさいには非主体すなわち社会である。

世界の構成は,客体性の世界にふくまれる主体

性の発生史をなす。

3)フェティシズム論の継承。ここからは 2

系列の理論が発展した。物象化の理論と象徴的

構造の分析である。前者はルカーチ『歴史と階

級意識jが代表する。フェティシズム論のなか

に,/レカーチは総体性の哲学を読みとる。彼の

Verdinglichungは,マルクスとはちがって,

商品世界で主体自身が「物」に転化される事態

をさす。彼はここで,イ)市場の客観性がブル

ジョア科学(力学,物理学)の客観性のモデル

をなす,ロ)市場における客観化(計算と合理

化)があらゆる活動に拡大する,という 2つの

思想を結合する。こうして市場の合理性は経験

の客観的 ・主観的側面を分離させ,あらゆる主

観性を客観性に組みこむ(主観性の対象的地位

への還元)。これは資本主義が達成する疎外の

極端な状態である。そこでlレカーチはfドイツ・

イデオロギーjのマルクスと同じく,革命は切

迫しており,全面的に客体化されるプロレタリ

アートが「歴史の主体」となる,と論ずる。

ルカーチの議論は「見事でもあり重要でもあ

る」が,フェティシズム論を『資本論jの「理

論的文脈から全面的に切り離す」という欠陥を

もっ(p.71)。この文脈は第2系列が継承する。

これに属するのは,①ノfシュカーニス『法の一

般理論とマルクス主義j と,②ジャンージョゼ

フ・グーの仕事,である。①は,価値形態の分

析を法的主体の構成に適用する。商品が本来的

に価値の担い手にみえるのと同じく,交換に従

事する諸個人も本来的に意志と主体性の担い手

にみえる。諸物の経済的フェティシズムと同じ

く,諸人格の法的フェティシズムが存在する。

交換は契約をふくむので,価値表現の世界はじ

っさいには経済的ー法的世界なのである。②は,

2つのフェティシズムの関係をもっと明確にす

る。両者に共通な構造は一般的等価性であり,

これが特殊性をもっ諸個人を流通の形態(諸価

値の流通,諸義務の流通)に,抽象的かつ平等

に従属させる。この従属様式は象徴的秩序とか

かわっており,もっとひろい従属様式の分析の

ための基礎をあたえる。このような構造主義的

な読みは,歴史の主体の理論にはならないが,

人間的本質にたいする批判にルカーチよりも接

近する,と著者は主張する。

だがなぜこのように異なった解釈が生ずるの

か。ここでの議論は真意がつかみにくいのだが,

評者の「読み」をおりこんで紹介してみたい。

Jレカーチ的解釈では,諸人格は諸物との対立に

おいて現実的な諸個人となる。象徴構造的解釈

では,諸人格は諸物によって交換の担い手とな

る。「人格j と人権の基礎をなす平等・自由の

観念は,商品流通から演縛される(『経済学批

判要綱jを,また『資本論jでの「自由・平等・

所有・べンサム」の指摘を参照)。ここには人

権の解釈の問題があり,人権の観念がうみだす

矛盾に着目する必要がある。人権を前提とする

雇用契約につづく生産部面では,人権は権力関

係の表現となり,自動機械となった資本が個人

の活動と諸力を吸収する。ここでは人権は(ル

カーチ的に)被搾取者の階級闘争が表現をみい

だす言語としても,(象徴構造的に)搾取が仮

装される言語としてもみることができる。つま

り,フェティシズム論が定立する人格=人権概

念は,真理や仮象の問題ではない,現実的な両

義性をはらんでいるというのである。

4) 2つの理論の関係,では, 2つの理論が比

較される。両者の共通性は,①相互に分離され

た諸個人の社会関係と,労働 ・価値・所有・人

- 122一

Book Review: Etienne Balibar,苅ePhilosophy of Ma悶

格などの観念の普遍性との関連および矛盾の分

析,②個人と共同体の関係を「物Jにおきかえ

る疎外図式の採用,にある。相違は,①イデオ

ロギー論は権力構成の理論だが,フェティシズ

ム論は従属メカニズムの理論である,②前者の

対象は諸個人にとっての超越的価値だが,後者

のそれは功利主義である,③前者は国家の支配

様式の理論だが,後者は市場の従属様式の理論

である,にある。相違が生ずるのは,マルクス

が社会革命の切迫とプルジョア支配の打倒とい

う思想、から,資本主義の社会化様式に内在する

矛盾の解決という思想に移動したためであり,

源泉の点では,イデオロギー論はへーグル国家

論の継承であったが,フェティシズム論は政治

経済学批判からうまれた,という事情による。

IV

第4章では,マノレクスの歴史観の変化が検討

される。ここでの展開を, 1)課題設定, 2)弁

証法 I, 3)弁証法II,4)弁証法III,に分けて

内容をみてみよう。 1)では,マルクスと進歩

思想、の関連が問題になる理由がしめされる。ま

ず彼の思想発展の面からは,イデオロギー論も

フェティシズム論も,歴史的時間の否定による

虚構構築を批判対象にするので社会関係の歴史

性が焦点となり,進歩思想との関係が問題にな

る。マルクスは,共産主義との関連で資本主義

の進歩性を認めた点で進歩思想にくみしていた

が,ことは単純ではない,と指摘される。つぎ

にマルクス主義の歴史の面からは, 20世紀に

大衆による進歩の達成という思想をひろめたマ

ルクス主義の役割の点で,進歩思想との関係が

問題になるとされる。さらに著者は,議論の前

提として進歩思想の 4つの要素をしめしたうえ

で,社会構成体の移行の弁証法の検討にとりか

かる。

2)弁証法 I。移行の弁証法の第 l局面(弁

証法 I)をなすのは, 1859年の序言の歴史的

因果性の図式である。著者は 『資本論jでもこ

の図式が採用され,より具体的になる 3つのレ

ペルで移行が論ぜられると主張する。第 1のレ

ベルは,継起的な生産諸様式(アジア的,奴隷

制的,封建的,資本主義的,共産主義的)の進

歩系列である。これはへーグルの歴史区分の唯

物論的改作をなす目的論的なものであり,また

その線型性においても労働の生産性にもとづく

不可逆的歴史時間をしめす点でも,決定論的で

ある。このレベルでは,階級闘争は説明原理と

というよりは全体的な結果としての役割を演ず

る。第2のレベ/レは,生産力と生産関係の資本

主義的矛盾であり,生産の社会化傾向と労働力

の断片化 ・超搾取・ 労働者の不安定化の傾向と

の矛盾である。矛盾の解決として,階級闘争が

決定的に介入し「否定の否定Jに導く。第3の

レベルは蓄積過程である。ここでは階級闘争は

一度に両側で介入する。資本家の側での剰余価

値の生産が必要労働と労働者の自律性を圧迫

し,労働者の側で抵抗をひきおこして,資本に

剰余価値の新たな生産方法をもとめさせる(労

働日の制限による絶対的剰余価値から相対的剰

余価値への移行)。階級闘争は蓄積の l要素と

なる。

これらの議論をみると,①マルクスの歴史哲

学は,一般的宣言ではなく概念が明確になる分

析のレベルで検討すべきこと,②3つの分析レ

ベJレの結合が説明の合理性を形成しているこ

と,③マルクスは既存の説明モデルに頼らなく

なり,階級闘争の役割を強調するようになった

こと,がわかる。諸状況は既存の弁証法の例証

をなすのではなしそれ自身が弁証法的発展の

諸タイプをなすのである。しかし弁証法 Iは,

歴史は「悪い面にむかつて前進する」というテー

ゼも可能にする。マルクスは,プルードンを批

判して「歴史はその悪い面によって前進する」

という定式を使ったが,この定式はなおへーゲ

ル弁証法の目的論的性格をのこしている。歴史

発展の合理的目的は非理性(利害対立や暴力)

をつうじて実現されるが,総合においては非理

性は吸収されるからである。マルクスはこの弁

証法を変容させたが,この変容を徹底すれば「歴

史は悪い面によって前進する」ばかりでなく,

- 123一

悪い面に(支配と破滅に)むかつて前進しもす

る,という理解になる。ぺンヤミンはへーゲル

をここまで読みこんだが,へーゲJレとべンヤミ

ンとの中間点は,マルクスの他の定式にもとめ

られなければならない。

3)弁証法II,が現われるのは,発展傾向に

お砂る反対傾向の確認によって矛盾の解決がは

かられるときである。『資本論jの関心は進歩

ではなく過程にある。過程の焦点は,どの瞬間

にも働いて前進方向を決定する諸カの関係にあ

る。具体的には,労働力が商品の立場に抵抗し

これをのがれる仕方にある。労働力の現実的包

摂の終点は,完全に資本の意のままになる労働

者である。しかしこの限界は歴史的には達成で

きない。マルクスは,資本主義的生産様式が還

元できない最小限にぶつかり,そこから集団的

労働者の革命的実践がはじまること(傾向の反

転)をあかるみにだす。それでは資本主義的生

産様式はどんな方向に変化するのか。この運動

は無限に異なる不可能性(還元できない最小限

の存在)であり,これが「現実的矛盾」をなす。

しかし現実的矛盾を中心とする弁証法IIが,進

化論的な弁証法 Iといかに両立できるかの問題

は,マルクスでは結局未解決にとどまった。「結

論はないことになるJ(p.103)。けれども 1971

年以後の 2つの訂正は,因果的図式を疑問視さ

せはしなかったが,時間の問題にゆらぎをひき

おこした。これが弁証法IIIをなす。

4)弁証法III,は, 2つの訂正がもたらした。

第 lの訂正は 『ゴータ綱領批判jである。それ

は,これまでの定式を訂正してプロレタリア独

裁(期)と共産主義の 2つの段階に言及する。

正統派マルクス主義は前者を,無階級社会への

移行の諸段階(共産主義とは区別される社会主

義)と解釈したが,この進化論的解釈はマルク

スの真意ではない。プロレタリア独裁期は,暫

定的画像としてであるが,歴史的時間の「非同

時代性」を表わしている(p.106)。第 2の訂

正は,ロシアの農村共同体論争にたいする回答

であって,『資本論jの記述はロ シアには妥当

せず,同時代的な資本主義の技術があたえられ

るなら,革命は共同体の非資本主義的発展を可

能にする,とのべる。これは,異なった社会構

成体には多様な「時間Jが存在し,このそれぞ

れが同時代的に存在するので,発展経路は多様

となることを意味する。あるものは持続的に進

歩するが,別のものは古代的なものや最近のも

のとの短絡をうむ。単一の「現在」のなかの独

自の歴史的一政治的諸単位が生産様式の傾向に

反作用するため,歴史の特個性は「重層的決定Jの形態をとる。

以上の訂正が反進化論的な弁証法IIIをうみだ

す。弁証法IIIは弁証法IIとは矛盾しないとして

も,普遍的歴史の因果的図式(弁証法 I) とは

矛盾する。マルクスはいまや,異なった歴史環

境で生ずる事件は「一般的な歴史的一哲学的理

論jの「万能の定式jでは理解できないと考え

る。「資本主義「一般」が存在するのではなく,

多くの諸資本主義の出会いーーとそれらの対立

ーーをふ くむ 「歴史的資本主義」だけが存在す

るのとまったく同じように,普遍的歴史などは

存在せず特個的な諸歴史性だけが存在するので

ある。」(p.110)この訂正は 1859年の定式に

影響せざるをえない。しかしマルクスは新たな

知見を練りなおすことができなかった。これは

エンゲルスの仕事になる。

第5章では, 1)マルクスの哲学の総括と,2)

マルクスの哲学の展望,がしめされる。 1)で

は,本書は,問題の「アング/レを移動させる」

(p .114)理論的衝動のなかからマルクスの哲

学的経路をとりあげたので,学説の説明はなお

ざりにされた,と弁明される。 3つの経路が総

括される。第 1の経路は,「人間の本質」から

社会関係の問題構制 problematicにむかう。

ここでは,否定的な行動主義的観点と,分業 ・

交通を軸にする肯定的で建設的な観点とのあい

だのいちじるしい振動が現われる。共産主義は

一方では旧世界の全面的撤退によって,他方で

は既存新世界の充実によってうまれる。革命的

実践は,一方ではあらゆる思想に優先され,他

方では思想のなかで歴史の科学によってしめさ

れる。革命と科学の観点は,マルクスでは融和

- 124 -

Book Review: Etienne Balibar,η日 Philosophyof Ma市

されなかった。第2の経路は,イデオロギー批

判から疎外の諸形懸(経済的および法的フェテ

イシズム)における主体の構成という問題構制

にむかう。この経路はイデオロギーの用語を放

棄して,意識の社会的地平(超個人的関係),

知的差異(支配),象徴的構造,の分析に分岐

する。第3の経路は,因果的図式から時間の弁

証法にむかう。『資本論jの時間の弁証法は,

社会化にむかう傾向と反対に作用する傾向とい

う現実的矛盾のかたちをとる。共産主義への移

行と反進化論的な特個的発展という思想も重要

である。だが困難は,時間の弁証法が,マルク

スにおいて優勢な進化論的な因果的図式とは正

反対である点にある。

本書がマルクス学説の説明を行なわず解釈に

終始した点については,マルクスの学説は存在

しない,と弁明される。要約,諸宣言,結論の

ない未公刊の梗概しかない。「学説などまった

くない。諸断片が…あるだけであるJ(p.117)。

自説訂正の過程が急速であったため,また知的

執着のゆえに,マルクスには学説を構築する時

聞がなかった。だとすれば「われわれは,マル

クスが書いたものの合意を解釈する権利があ

る」(ibid.)。彼の諸哲学のなかに手がかりを

得て,彼の言説の諸断片を結論にまで押しだす

ために,である。

2)マルクスの哲学の展望,では著者は,マ

ルクスの哲学の今日的課題として,イデオロ

ギー的利用の障害克服と,正統化機能批判をあ

げたうえで, 5つの仮説を「マルクスのために,

またマルクスに反して」前進させることを主張

する。それは「特殊な諸点について,彼が提出

する議論とは反対の見方を採用することによっ

てだけしか展開できない問題を,彼の仕事から

引き出すことによってJ(p.119)彼に反対す

ることである。

第 lは,マルクスの哲学に完成はないことで

ある。マルクスによる弁証法の転換は哲学を再

建するが,しかしその対象はたえず変化する歴

史であるため,徹底されたばあいにも転換は完

全ではありえない。第2は,傾向とその内的矛

盾の現代的意義である。現代では,社会関係の

普遍化(テクノロジーと政治,コミュニケーシ

ョン,権力関係)が既成事実をなすが,これは

人間化でもなければ合理化でもなく,暴力的な

排除と分裂である。歴史哲学はこの状況に直面

して,外的制約を必要とする「万人にたいする

各人の戦争」という思想に復帰するか,歴史性

を自然の領分に投げこむ(生気論的哲学)しか,

途がない。だがマルクスが素描した第3の可能

性がある。歴史的諸制度の変化を諸制度に内在

する力関係にもとづいて考察するという,傾向

とその内的矛盾の方法である。第 3は,イデオ

ロギーにたいする両面戦略である。イデオロ

ギーは,哲学から排除される点でも,社会的利

害と知的差異とにたいする関係の点でも,哲学

自体の領分を指示する。だが青年マルクスのイ

デオロギー否認のために,マルクス主義は自分

のイデオロギー機能に無自覚だった。そこで哲

学は,普遍性の虚構をあっかうかぎり「マルク

ス主義的Jでなければならないが,彼のイデオ

ロギー否認をさいしょに批判する点でマルクス

に反して「マルクス主義的Jでなければならな

い,という両面戦略をとる必要がある。第 4は,

諸関係(超個人性)の存在論の意義である。そ

れは,個人主義と有機体論の立場をのりこえ,

それらのイデオロギー性を証明できる。現代哲

学では諸関係の存在論は問主体性か複合性の

テーマをとるが,マルクスは超個人性を階級闘

争と関連づけるので,どちらの立場にも還元で

きない。この点でマルクスに賛成すると同時に

反対することは,「階級闘争の終駕」を意味す

るのではなく ,階級闘争と交差するがそれには

還元できない超個人性を問題にすることを意味

する。第5は,理論と実践の関係である。マル

クスは,社会関係の理論化に革命的実践と同じ

優先権をあたえる。マルクスをたんに反乱の思

想家としたのでは,彼のユートピア主義反対の

意味は理解できない。この反ユートピア主義は

プラクシスと弁証法をふくむ。反逆の科学への

還元と,科学の反逆への還元とを指示してきた

弁証法は,いまやそれらの結合という問題を指

- 125 -

示している。このためにマルクスは,長期にわ

たって哲学と政治の「あいだを行く」役割を演

じなければならない。

以上の展望をもって本書は閉じられる。

v

やや内容紹介に手間どったが,さいしょに本

書の全体的特徴からみよう。第 lに,本書がマ

ノレクスの哲学の変遷を, 1845年から晩年にい

たるまでの彼の政治的経験にそくして具体的・

包括的に追跡し,彼の哲学の全体像を追求して

いる点である。著者はマルクスの哲学を,初期

マルクスの哲学的諸著作や『資本論jだけでは

なく,マルクスの全著作にもとめることを要求

する。このために 『ゴータ綱領批判jや『ザスー

リッチあての手紙jも考察の射程にはいってく

る。 1848年の革命と 71年のコミューンという

決定的事件に触発されるマルクスの哲学的発展

にたいする本書の追跡それ自体も興味深いが,

とくに 48年以前の革命的実践の哲学とイデオ

ロギーの理論, 1848年の革命の挫折がうみだ

すこれらの哲学の放棄と政治経済学批判からう

まれてくるフェティシズムの理論,社会構成体

の移行理論における訂正からうまれてくる歴史

の特個性にもとづく時間の弁証法の提示は,彼

の哲学にたいするきわめて包括的な解釈である

と思える。マルクスが社会理論家であると同時

になによりも革命家でもあった点を考えれば,

著者のこの考察方法は,ごく自然である。しか

し,わが国でマルクスの哲学が論ぜられるばあ

い,たとえば上記2著作が参照されるといった

ことはめったになかった。こうした観点、をささ

える著者の立脚点は,著者が「マルクスの哲学

など存在しないj という立場にたって, ドク。マ

テイズムを徹底的に排除しつつ,マルクスがお

かれていた政治的状況との具体的関連のなかで

彼の著作の哲学的構造を客観的に追求するとい

う点にある。マノレクスほどいろいろの政治的状

況に革命家として関与しつつ急激な知的発展を

とげた学者はまれであり,広範囲の,一見相互

に関連しないようにみえる断片的著作のなかに

その思想を提示した著述家もまれである。こう

した人物の思想の全体像を描こうとするばあ

い,本書のような考察方法は不可欠であろう。

第2に,本書には構造的マルクス主義 Struc-

tural Marxismの立場からのマルクス解釈が

つらぬかれている点である。構造的マルクス主

義の魅力は,まず第ーにマルクス主義からあい

まいな点を一掃し,社会構成体の研究にさいし

具体的で厳密な考察の方法と指針とを確立しよ

うとする点にあると思われるが,本書では,マ

ルクスの具体的な思想の発展過程にそくして構

造的マルクス主義の方法的視点が提示されるた

めに,その発想,立脚点,対象設定の仕方など

がきわめてわかりやすく解説されることになっ

ている。たとえば,理論的人間主義や,普遍的

な因果的図式による歴史解釈はなぜ拒絶されな

ければならないのか,あるいは構造的マルクス

主義のキイ概念をなす「現実的矛盾」や,歴史

的に多様な時間の同時代的共存から生ずる矛盾

の「重層的決定」などの概念がなぜ採用されな

ければならないのかが,構造的マルクス主義に

不案内な者にとっても説得的に説明されてい

る。この点では,本書はマルクスの哲学的発展

の解説というかたちをとった,構造的マルクス

主義への恰好の入門書たりえているといえるで

あろう。

そればかりではない。本書では,構造的マル

クス主義によるマルクス解釈が, fマルクスの

ためにjや『資本論を読む』などの展開にくら

べて,体系的な一貫性をみせるかたちで提示さ

れ,著者独自の解釈も明確にうちだされている。

これはアルチュセールの仕事はもちろん,彼と

ともに仕事をしていた当時の著者の知見をこえ

るものである。たとえば 1840年代の著作では,

認識論的切断の「前の時期に接する最先端」<rマ

ルクスのためにj,河野健二他訳,平凡社, 1994

年, 48頁)をなす fテーゼjにおけるプラク

シスの哲学の意義と限界にかんする説明, 『ド

イツ・イデオロギー』におりるイデオロギ一発

生の基礎としての知的差異の分析と,イデオロ

- 126一

Book Review: Etienne Balibar. The Philosophy of Ma悶

ギー理論に由来する革命切迫の認識の説明,あ

るいは社会構成体の移行にかんする 3つの弁証

法の説明などは,本書における著者のオリジナ

ルな功績をなすといえる。

第 3に,本書の紹介からも理解できると思わ

れるが,本書ではかならずしも,構造的マルク

ス主義の立場から一方的にマルクスを裁断する

という姿勢はとられていない。そうではなし

マルクスの知的,哲学的発展過程に忠実にそう

かたちで,マルクスの哲学の動揺と変容の軌跡

がたどられている。『テーゼjの実践の哲学や

『ドイツ・イデオロギーjのイデオロギー論,

あるいはルカーチ的な物象化論や,歴史的移行

における因果性の図式などは,著者の立場から

すれば本来はしりぞけられるべき思想をなすで

あろう。しかし結論部分のマルクスの哲学の 3

つの経路の提示のさいにも,著者はこれらをけ

っして単純に切り捨ててはいない。マルクスの

哲学的思想の要素として,あるいはそれの 1つ

の発展経路の可能性をしめすものとして,十分

な権利をあたえている。これは,マルクスの哲

学を聞かれたものとして提示しておくという著

者の配慮にもとづくものであろう。構造的マル

クス主義の立場にたちつつも,マルクスの哲学

の全体像とありうべき発展経路を率直に提示す

る本書のこうした方法は,マルクスの可能性に

ついて,否定的なものをふくむ多面性の提示の

なかで,かえって構造的マルクス主義のメリッ

トを逆説的に強調する結果になっている。

第 4に,本書が提唱する「マルクスのために,

またマルクスに反してjマルクスを解読すると

いう姿勢である。これが,アルチュセールの「徴

候的読み」の適用であることは明白である。す

なわち「同ーの運動によって,読んでいるテキ

スト内部に隠されていたものを暴き出し,それ。。。。。。

を別のテキスト・・に結びつけるJ(『資本論を読

むj,権寧・神戸仁彦訳,合同出版, 1974年,

33頁)読み方である。いやむしろ,この姿勢

が「徴候的読みJをうんだといえよう。じじっ

著者は別のところで,アルチュセールの「徴候

的読み」が,マルクスにおける矛盾を解決する

ために,非マルクス的概念を史的唯物論と両立

する唯一のマルクス主義的概念として提示する

ことで「マルクスをマルクスに対抗させるJ戦略

からうまれた,とのべている(EtienneBalibar,

“The Non-Contemporaneity of Althusser,”

in Kaplan, E. Ann, and Michael Sprinker

(eds.), The Althusserian Legacy, Verso,

London, 1993, p.8,「いまを共有しない人J,エティエンヌ・ ノTリノマール f;レイ・アルチュ

セーlレj,福井和美編訳,藤原書店, 1994年,

所収, 221-222頁,ただしこれは,この論文の

仏語版からの邦訳である)。『資本論を読むjは

こうした戦略につらぬかれた試みであるが,本

書でもこうしたマルクスの読みが一貫してい

る。たとえば,マルクスの歴史的移行論の多面

性の提示や,マルクスの哲学的に多様な諸経路

の提示などにそれがみられる。マルクスにおけ

る矛盾や,マルクスにたいする批判に一定の正

当な根拠が認められるとき,そしてそれにもか

かわらずマルクスの復権をはかろうとすると

き,こうしたかたちでのマルクス解釈の姿勢は

さけられないし,それはじじつ有効であろう。

第5に,本書において,マルクスが現代思想

との関連においてあっかわれる脈絡の広さは驚

嘆すべきものがある。この点は上の紹介では十

分にしめせなかったけれども, 12のコラムで

あっかわれている人物には,エンゲルス,レー

ニンはともかくと しても,ルカーチ,アノレチュ

セール,グラムシ,べンヤミンがあげられ,本

文でもフロイト,ヴィトゲンシュタイン,アレ

ント,ゾーンーレーテル,デュルケーム,フッ

サール,ジンメル,レヴイーストロース,ラカ

ン,ハイデッガー,プルデュー,フラ ンクフル

ト学派,ルフェープル,ゴドリエ,カスト リア

ディス,へラー,ボードリヤール,カンギレー

ム,ニーチェなど,著者の深い学殖に裏打ちさ

れて,じつに多彩な人物に言及される。

VI

本書について感じた不満をあげよう。まず,

- 1Z7一

展開が暗示的にとどまっている論点や,展開不

足の論点が多すぎるという印象をうける。この

点では,多くの重要な内容をもりこむという本

書のねらいが裏目にでた感がなくもない。たと

えば,イデオロギー論における知的差異の問題

や諸関係の存在論,あるいはフェティシズム論

における象徴構造論的な主体の従属理論など

は,社会科学的にいかなる具体的内容をもち,

どのような方向に具体的に展開されるのかは,

かならずしも判然としない。また,それらの哲

学的意義の原理的な基礎づけについても,決定

的に考察が不十分であるといわざるをえない。

最終章における 5つの仮説にいたると,現代的

状況との関連におげるマルクスの哲学の将来的

展望の提示は,説明が不十分であるために,著

者が現代的状況をいかに把握し,そこにおいて

マルクスの哲学がいかなる役割をはたしうるか

が,見通しがたくなっている。たとえば仮説2

における歴史哲学の閉塞状況におけるマルクス

の「現実的矛盾」の弁証法の現代的意義の提示

には,著者の把握する社会関係の普遍化の具体

的位相の説明が必要であると思えるし,また仮

説 4では,諸関係の存在論の内容と,それがい

かに個人主義と社会有機体論をのりこえ,かっ

階級闘争といかに関連づけられるのかが展開不

足であるといわざるをえない。入門的な小著と

いう本書の限界は十分に了解できるとしても,

著者はもうすこし踏みこんだ展開をしてよかっ

たのではないかと思う。

この点を指摘しておき,本書についての疑問

点を,イデオロギー論,フェティ シズム論,社

会構成体の移行論,の 3つにしぼって,順に論

じてみたい。

まずイデオロギー論であるが,第 lに,著者

のイデオロギー論の構想、が不明確である点であ

る。著者は,イデオロギーが支配的思想となる

根拠として,物質的生産のための諸手段を白由

にできる階級は精神的生産のための諸手段をも

自由にするという Iドイツ・イデオロギーjの

主張を,「支配の問題にたいするマルクスの解

決ではな く,問題それ自体の彼による再定式化

であるJ(p.45)としつつ結局はこれをしりぞ

けて,支配の原理を肉体労働と精神労働との分

裂に,あるいは知的差異にもとめる。以前の著

書でも,著者は階級分裂の基礎をこの点にもと

めていたが(『プロレタリア独裁とはなにかJ,加藤晴久訳,新評論, 1978年, 131頁),そし

てこれは,イデオロギー支配の基礎を,知的差

異という,より実体的な基礎にもとめようとす

る著者の考えかたによるものといえようが,こ

の知的差異によって意識が自律化され,さらに

それが支配の根拠に転じていくメカニズムの説

明が明確ではない。またこれと関連してアルチ

ュセーlレのイデオロギー論(「イデオロギーと

国家のイデオロギー装置J,柳内陸 ・山本哲士

IアJレチュセールのくイデオロギー〉論j,三

交社, 1993年,所収)との理論的位置関係も

はっきりしない。

第2は, fテーゼjとfドイツ・イデオロギーj

の関連である。著者はマルクスの哲学の第 lの

経路では,根底的に否定的な行動主義的観点と,

生産力発展の形態をなす分業・交通を軸にする

肯定的で建設的な観点との動揺が現われるとい

う。 『テーゼjと『ドイツ・イデオロギ-Jが

比較されるばあいにこの動揺が現われる,とい

う主張そのものは説得的である。じじつアルチ

ュセールが回顧的にのべるところによれば,フ

ランスのマルクス主義者は戦後の一時期に,哲

学の実現による哲学の終鷲の立場(『テーゼj

の立場)と,科学による哲学の死の立場(『ド

イツ・イデオロギーjの立場)とのあいだで動

揺をみせたのである(『マルクスのためにj,前

掲, 39-41頁,参照)。著者の第 1の経路にか

んする把握はこうした事情を反映しているのか

もしれない。しかしこれは, fテーゼj と 『ド

イツ・ イデオロギーjを一体化しすぎた観点で

はないだろうか。というのはわが国ではよ く知

られているように, 『ドイツ ・イデオロギーj

には例の持分問題があり, 『ドイツ・イデオロ

ギーjはエングルス主導のもとに執筆されたと

する康松渉氏による有力な説がうちだされてい

るからである。もしもこの説がただしいとする

- 12B -

Book Review: Etienne Balibar, The Philosophy of Marx

なら, fドイツ・イデオロギーjの観点はエン

ゲルスの「哲学」であって,マルクスの「哲学」

には属さない(それをマルクスがいかにうけと

め,または吸収したかは別問題である)。した

がって第 1の経路を著者のようにまとめること

はできなくなると思われる。

フェティシズム論に移ろう。ここではまず第

1に,フェティシズム論にたいする著者の評価

が問題になろう。著者はフェティシズム論の特

徴を客体による主体の権成の点にみる。経済的

主体とは生産関係の構造が規定する場所や機能

であることは,むろんアノレチュセールが主張し

ていた点であった(『資本論を読むj,前掲, 260

頁)。人聞は構造の担い手であり,その実践は

構造に規定されることがあきらかになるとき,

古典派経済学がそれによって経済的事実を測量

可能な等質的空間に仕立てあげるホモ・ヱコノ

ミクスのイデオロギー的人間学も消失するので

ある(向上, 236-237' 259-260頁)。著者は本

書でこの議論を,フェティシズム論として定式

化したといえる。ところが著者は, 70年代の

著作である『史的唯物論研究J(今村仁司訳,

新評論, 1979年)では,フェティ シズム論を,

いまだ人間主義的なイデオロギー的問題構制の

枠内にあるものとして明白に拒絶していた。拒

絶の理由は 2つある。 1つは,フェティ シズム

論がイデオロギー効果を問題にできない抽象段

階の論理であるにもかかわらず,イデオロギー

批判を倦称している点にある。イデオロギー効

果は,階級闘争のなかの現実の(法的・道徳的・

宗教的・政治的な)社会諸関係のなかで問題に

できる(向上, 246頁)。商品交換にそくしてい

えば,平等で合法的な法的人格としての商品所

有者間の契約(イデオロギー的表象)がなけれ

ば等価交換は説明できないにもかかわらず,マ

ルクスはイデオロギー批判を企てている点で,

史的唯物論の問題構制とは両立できない(向上,

241, 244 245頁)。そればかりではない。フェ

ティ シズム論は,他の生産様式のもとではイデ

オロギーが異なった審級(たとえば宗教)でう

みだされるという事実を無視し,商品交換がな

くなればイデオロギーもなくなるといった認識

論的障害をうむ。そこで,フェティシズム論は

本来のイデオロギー論が不在のために成立した

にすぎない議論であると断ぜられる(同上, 247,

249頁)。第 2は,フェティシズム論がいまだ

古典哲学のイデオロギー的問題構制にとどまっ

ていることである。フェティシズム論は,商品

を主体として展開される論理である。すなわち

商品は即自的に社会的労働と同一であり,つぎ

にこの本質を対自的に交換において表出し,さ

いごに即かつ対自的に貨幣形成において表出す

る。しかしフェティシズム論は,商品形態の否

認/承認を,交換構造が交換のなかで個人が占

める位置にあたえる効果とするのだから,同時

に,へーゲル的疎外のなかにフォイエルバッハ

的疎外を結合するという, 1844-46年のマルク

スの論理と同ーの構造をもっ,疎外された主体

の生成の論理をなす(向上, 247-249頁)。以

上の理由で,著者は, f史的唯物論研究jでは

「フェティシズムかイデオロギーかJの二者択

ーをせまったのである。

ところが本書では,フェティシズム論は,客

体が主体を構成する論理として高く評価され

る。へーゲル・フォイエルバッハと同ーの問題....... 構制における疎外された主体の生成論であると

いう,上の第2の批判点は影をひそめている。

また第 1の批判点も本書では積極的にうちださ

れていない。ここに,著者のフェティシズム論

の評価が変更されたかいなか,という疑問が生

ずる。アルチュセールも,生産関係は上部構造

を前提するので,たとえば労働力の売買は法関

係なしには存立できないと主張する(『資本論

を読むj,前掲, 257頁)が,労働力の売買につ

いてあてはまることは,商品交換にもあてはま

る。このゆえに上の第 lの批判では,平等な法

的人格としての商品所有者の契約関係がなけれ

ば等価交換は説明できない,とされたのである。

ここで考えられるのは,もし象徴構造的な交換

の論理の方向でフェティシズム論を完成させ,

それが現実の法的イデオロギーを問題にできる

地点まで具体化されるならば,イデオロギー批

- 129 -

判の理論となりうるというように考えなおされ

たという解釈である。だがそのばあいにも,フ

ェティシズム論はへーゲル・フォイエノレバッハ

的な本質の表出の論理にもとづく主体の構成の

論理であるという問題はのこる。いずれにして

も,著者のフェティシズム論理解のスタンスは

微妙であるといわざるをえない。

第2に,フェティシズム論とイデオロギー論

とが,外在的で対立的な関係におかれすぎてい

ないかという点も気になる。 2つの理論の相違

点として,著者は,①イデオロギー論は権力構

成の理論だが,フェティシズム論は従属メカニ

ズムの理論である,②前者の対象は諸個人にと

っての超越的価値だが,後者のそれは功利主義

である,③前者は国家の支配様式の理論だが,

後者は市場の従属様式の理論である,をあげた。

しかしこれらは,かならずしも,両者のあいだ

の決定的な差異をなす論理の質としてしめされ

ているわけではない。ここではむしろ,著者が

あげる 2つの理論の共通性のほうが目につくと

いわざるをえない。だとすれば,両者を対立的

関係においてではなく,発展的関係においてみ

ることもできるのではないだろうか。

さいごに,移行の弁証法の問題がある。これ

にかんする本書の主張はそうとう複雑である。

第 1に,移行の 3つの大きな弁証法的局面の相

互関係の問題がある。これは,進化論的な因果

図式である弁証法 I,現実的矛盾を中心に構成

される弁証法II,異なった社会構成体には多様

な「時間」が同時代的に存在することから,歴

史的発展経路の多様性を説明する,反進化論的

な弁証法III,からなっている。問題になるのは,

弁証法 I・II• IIIの相互の関係である。著者がい

うように,弁証法IIIは弁証法IIとは矛盾しない

としても,弁証法Iとは「暗黙に矛盾するJ(p.110)。

これはひとまず承認できるであろう。しかしそ

のばあい,弁証法IIは弁証法 Iとは矛盾しない

のか,またとくに弁証法IIと弁証法IIIとの関係

がどうなるのか,が問われるであろう。アルチ

ュセールが矛盾の「重層的決定Jという概念を

提起したのは,社会構成体は異質の諸構造の複

合体をなすのだから,矛盾をへーゲルのように

単一の内的原理に遺元することはできず,社会

構成体の異なった諸水準と諸審級の諸効果から

説明せざるをえないことに起因していた。もし

弁証法IIにおいて,無限に異なる不可能性をう

みだす,発展傾向とそれへの反対傾向との現実

的矛盾がこうした性格をもっとすれば,あきら

かに,分割ラインがひかれるべきなのは,たん

に弁証法 Iと弁証法凹のあいだではなく,弁証

法 Iと弁証法II• IIIのあいだではないだろう

か。論理の質からいえば,弁証法IIとIIIのあい

だには区別はないというべきではないだろう

か。著者が,弁証法IIはあくまで同ーの社会構

成体に妥当するのであって,特個的諸資本主義

をふくむ,別々の社会構成体の共存,競合,移

行の過程を問題にするばあいには弁証法IIIをた

てざるをえないと考えるとしても,やはり論理

的問題として,以上の疑問は払拭できない。

第2に,しかしさらに問題なのは,著者が『資

本論jにおける弁証法Iの3つのレベルを区別

する点である。これは,すでにみたように,継

起的な生産諸様式の進歩系列,生産関係と生産

力の矛盾の資本主義的形態,蓄積過程の矛盾,

というレベJレであるが,第 1レベルが例のアジ

ア的,奴隷制的,封建的,資本主義的,共産主

義的生産様式の進歩系列であり,これが著者の

いうように,進歩史観的な単線的歴史発展図式

であり,目的論的なものであることはすぐにわ

かる。しかしあとの 2つのレベルの内容がまず,

わかりにくい。第2レベルは,生産力の社会化

傾向と労働力の断片化・超搾取・労働者階級の

不安定化の増加傾向との矛盾といわれ,これが

「収奪者を収奪しJ「否定の否定」に導くとい

われる。第3レベルは蓄積過程であり,必要労

働と労働者の自律性の圧迫が労働日をめぐる労

資の闘争,搾取への抵抗をひきおこし,それが

資本に新たな剰余価値の生産方法をもとめさせ

る,と主張される。第 lレベルと比べたぱあい

の第2レベルと第 3レベルの特徴は,階級闘争

の介入が生産様式の移行をうながす点にあると

いわれるが,それはそのとおりだとしても,ま

- 130 -

Book Review: Etienne Balibar,ηほ Philosophyof Ma悶

た第 1レベルの移行の弁証法は第2レベルと第

3レベルとして具体化されると解釈されるとし

ても,そもそも第2レベルと第3レベルの内容

上の区別がはっきりしない。

第 3に,弁証法 Iの第2レベルと第3レベル

とは,ほんとうに現実的矛盾を中心に考察され

る弁証法IIとは区別できるのかも判然としな

い。弁証法IIは,発展傾向とこれに反対する傾

向の対抗による矛盾の解決であり,資本による

労働力の包摂傾向とこれに対抗する労働者の抵

抗による矛盾の解決である。資本主義の矛盾と

その解決を,このように資本の傾向とそれに内

在する,労働力に視軸をすえた対抗的傾向とに

みる立場は,相対的剰余価値論にポジ・ネガ・

ポジの弁証法をみた内田義彦氏(『資本論の世

界j,岩波新書,1966年)や,矛盾面だけであ

ればc.カストリアディス(『社会主義か野蛮

かj,法政大学出版局, 1990年)にもつうずる

立場ではあるが,この矛盾がじっさいに,弁証

法 Iの第2レベルおよび第3レベ/レと関連しな

いとはいえないのではないか。著者が,第2レ

ベルと第3レベノレの内容をさして,マルクスは

ますます既存の弁証法モデルに頼らなくなり諸

状況それ自体が弁証法的発展の諸タイプをなす

と考えるようになったという評価をあたえてい

るだけに,いっそうその感をふかくする。だと

すれば,これらと弁証法IIとはどのように関連

するのだろうか,この点は不明確であるといわ

ざるをえない。

VD

しかし,以上のような疑問点が生じてくるの

は,本書の入門的性格から生じた制約にも,お

おきく起因していると考えられる。本格的な研

究書によって著者がこれらの問題を論じるとす

れば,以上にあげた評者の疑問点のいくつかは

氷解することもありうるであろうし,あるいは

そうでないとしても,問題点がいっそう鮮明に

なり,ある lつの問題の検討が別の新たな問題

を触発していくようになることは,ほぽ疑いの

ないところであろう。いわゆるマルクス主義だ

けではなく,マルクス思想それ自体が大きくゆ

れ動いているこんにち,著者のように力量のあ

る構造的マルクス主義者によってマルクス思想

の全体像が追求される,本格的な著書の出現が

のぞまれてならない。

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