60
( 》α望

(ノ 》α望 - amsstudio.jpsys.amsstudio.jp/region/baggage_ace/tokyo/0000006931/doc/...このお寺は、真言宗豊山派の寺で、山号を愛 本尊し』I〕ています。ぼんぞん染山と号し、弘法大師作といわれる薬師如来をぜんさんごうこうぼうだいしさくやくしにょらい

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(ノ》α望粥

片貝海岸~銚子…………

九十九里波のりライン

木更津~君津~房総スカイライン~

上総牛久~養老温泉~養老渓谷

(国道二九七号線)

鴨川有料道路

市原~鶴舞~大多喜~勝浦

大原~勝浦~鴨川~館山市

●●●●●

●●●●●●●●●●●●●

千葉市~千葉東金有料道路~東金~茂原~

●●

●●●●●●●●

●●●●

●●●●

●●●●●

85

7141129119 107

千葉市l千葉東金有料道路l東金l

茂原l大原I勝浦l鴨川l館山市

とうがねゆうりょうどうろ

鵜千葉東金有料道路

鵜千笹杢巾出発け

んちようしょざいち

せいじけい

千葉市は県庁の所在地として、県の政治・経

ざいぶんかちゅうしん

そうぶぼんせんうち

済・文化の中心であるとともに、総武本線や.内

蔵、蝿蔵織、磁呼線、刺戯識撫線など帆鱈輔い

かくちこうつうきてん

ており、県下各地への交通の起点ともなってい

るところです。

けいようこうぎようちたいちゅうかく

とし

また、京葉工業地帯の中核として、工業都市

かようそう

かまくらじだい

化の様相がいちじるしいのですが、鎌倉時代か

むろまちまつき

じようかまち

はつ一

ら室町末期にかけて、千葉氏の城下町として発司

てん

ふるれきし

せん

展してきたという、古い歴史を持つだけに、千

ようじちばじようあとだいがんじ

こさつきゅうせき

葉寺、千葉城跡、大巌寺といった古剰、旧跡が

かずおおのこ

数多く残されている歴史と文化の町でもあるの

です。

せいれいしてい

平成四年四月一日には政令指定都市になりま

した。(

くわしくは内房めぐり五○~五二頁参照)

ゆうりょうどうる

ちやつこうかんせい

この有料道路は、昭和四十六年着工-〕、完成

そうこうひ

おくよう

は同五十七年で、総工費一一九五億円を要Iした、

ほしぐきちようとうがねむす

千葉市星久喜町と、東金市山口を結ぶ十六・一

走りやすい道路のことですから、むしろこちら

しゆ

の道路のほうが主になっているようです.8

キロの道路です。

.ぼんらいてきごうせんこんざつ

本来的には国道一六一一号線の混雑がはげしい

つく

ため、バイパスとして造られたものですが、今

みちはばかたがわ

では道幅も十四メートルもあり、片側一一車線で

繋千笹黍宋I.C

千葉東I.Cです。け

いようせつぞく・

どのI.Cは、京葉道路と接続しており、京

いちはらしほうめん

とうがね

葉道路は市原市方面を走りますが、東金道路は

むす

ここからわかれて、東金方面を結んでおり、車

は有料道路を走ります。

下の左右の道路は国道一二六号線です。

繋印蝋ど淋則堀.

かいづか季だいひようかそりかいつか

貝塚といえば、千葉県を代表する加曽利貝塚

ゆうめいちけいてき

が有名ですが、地形的にいっても千葉県はいた

つきのき

るところに貝塚があって、この月之木貝塚JUそ

のうちのひとつですり

けいようこくさい

鵜一泉葉国際カントリークラブ

ぽうそうはんとう

千葉県のうち、走っております房総半島は、

きゅうりようちたいつら

大きくなだらかな丘陵地帯が連なり、-〕たがっ

じよう

てこごには、大小数々のゴルフ場があります。

その中でも、大きいのはこの京葉国際カントト

そでがうらぶタ

リークラブや袖ケ浦カントリーlクラブで、ごこ

じようめんせきやくf

のゴルフ場は面積約七五・九平方メートル、十

八ホール、六、六○○ヤードもある大きなゴル

おおみやだんちきゅうりようちつく

フ場で、大宮団地東側の丘陵地に造られていま

す。

どくとく

丘陵コーIス独特のアップダウン、うねぃソがあ

おおむづか

り、左右に曲がるホールも多く、難-〕いコーIス

もあるゴルフ場と・しても知られています。

そでがうら

紫袖ヶ浦カントリークラブ

鵜高田I。C

いずみしぜんこうえん

兼泉自自然公園

がわ

泉自然公園は、国道一一一六号線ぞいのへ南側

きゅうりようちきひら

つく

の丘陵地を切り開いて、昭和四十四年六月に造

どうろ

られた自然公園です。一」の道路からいえば北側

にある公園といえましょう。

めんせきたいへんひろ

この公園の面積は大変広/、、四十一一万七○○

○平方メートルもあり、その広さをたくみにい畑

ちけい

えんない

か-〕た自然の地形そのままに園内には、ヤマザ

びりんしばふ

み/ラ、スギの美林にかこまれて、大きな芝生の

ひろばけんぼく

広場や、花木の広場、県木の広場、お花見の広

ずいしょ

場などが随所にもうけ《つれています。

がわ

いけ

はす

また公園の北西側には、四つの池があって蓮

いけしょうぶ

池、下の池、中の池、菖蒲などと名づけ《つれ、

にしきごい

すいめんはくちよう

池には錦鯉がむれおよぎ、水面には白鳥やカモ

がゆったりと遊泳するなど、銭礁蝿にのびやか

ゆうえい

した。

がわちょくせんとうがねしん

寺の南西側を南東へ走る直線道路は、東金新

どう

えんちようふなばしかんやく

道といい、その延長は船橋、東金間約一二七キロ

むかしおおさかゆふじんぜんねんけい

におよぶ道路で、その昔、大阪冬の陣前年の慶

ちよう

さくらはんしゅばくふろうじゅう

長十八年(一六一一二)佐倉藩主で、幕府老中の

しょく

どいとしかつとくがわいえやすめいれい

職にあった土井利勝が、徳川家康の命令で、+

よくねん

一一月十一一日から翌年正月七日というわずか一一十

-11-

ふんいき

な雰囲気をただよわせています。

こんこういん

鵜金光院

めいさつ

道路の左手はるかに金光院し』いう名刺があり

ます。

てらしんどんしゅうぶざんは

さんごうあい

このお寺は、真言宗豊山派の寺で、山号を愛

ぜんさんごうこうぼうだいしさくやくしにょらい

染山と号し、弘法大師作といわれる薬師如来を

ぼんぞん

本尊し』I〕ています。

かまくらまつきしようおう

ていせいしようにん

鎌倉末期の正応一一年(一一一八九)貞成上人の

かいきつたてんぶんねんかんしっかしようしつ

開基と伝えられ、天文年間に失火で焼失しまし

のちおゆみじようしゆはらたねきよさいけん

たが、後、生実城主原胤清によって再建されま

どうろつくいちめい

五口〕間で、この道路を造ったといわれ、一名お

なりかいどういちやかいどう

成街道し」か一夜街道し』もよばれる鯉努のある道

路なのです。

へいじとうがねほうめんたかがつか

平時には、東金方面への鷹狩航ソに使われてい

ぐんどうしよう

ましたが、いざというときには軍道し」して使用

せつけいつた

するように設計したし』伝えられています。

かいどうふなばしとうがねしよしようぐんけ

街道には船橋、千葉、東金の一二ケ所に将軍家

かりごてんたてらもん

の仮御殿が建てられましたが、今でも、寺の門

ぜんちかしないごてんちよう

前近/、の市内御殿町に、そのうちの一つ、千葉旭

ちややごてんのこいえやすたか一

のお茶屋御殿が残されており、また家康は、鷹

がこんこういんしゆくはく

狩りのときしば1〕ば金光院に宿泊したといわれ、

ちやくよう

いふくじほう

金光院には、家康が着用I〕たという衣服が寺宝

として伝えられています。

のろ

兼野呂、‐。A

鵜中野I.C

こうそくどうろ

中野I.Cです。》」の高速道路下の左へ行く

ごうせんつづ

道は、国道一一一六号線に続いています。

鵜山田I。C

りょうそうだいち

両総台地のただ中を走って、ここは山田1.

とくはなしりょう

Cです。特にお話することもありませんが、両

とうがねしむか

東金市に向って走っています。

どうろ

こ一」からは見えませんが、この千葉東金道路

へいこう

にほぼ並行-〕て国道一一一六号線が、東金市に向

って走っています。

しんそでがうら

国道のはるか左に新袖ヶ浦カントリークラブ

があります。

たコースです。

-13

鵜新袖ケ浦カントリークラブや

ちまたまちきょうかいちか

このコースは、千葉市と八街町との境界に近

きゅうりようち

へんかとひろびろ

い丘陵地にあって、変化に富んだコースと広々

ないう

としたホールがひらけ、コース内に植えられた

どくとくすぎびりん

花木や、ここ独特の杉の美林が、プレーにおも

むきをそえています。

めんせきやく

面積は、約七五・九平方メートルの広々とし

てまいります。

鵜陛橘ぅ(JR散湘斜繍)

なるとうおおあみむす

下の線路はJR東金線で、成東と大網を結び、

さきなまえか

せん

それから先は名前を変えて走っているJR線で

そうだいち

総台地といえば、まず第一にあげ《つれるのが、

めいさんらっかせい

ここの名産落花生でしょう。千葉県の名産でJU

やちまたまちだいひようてき

あり、八街町の代表的な名産で必Uある落花生は、

とくさんぶつめいじいらいぜんこく

県の特産物の一つとされており、明治以来全国

せいさんだか

一の生産高をほこっています。

落花生のほかには、ミカン、カキ、ナシ、ビ

かじゆさいばい

ワなどの果樹栽培も行われています。

へいごうてん

繋圃垂追の併合点

とうがねゆうりょうどうろ

千葉東金有料道路もここでおしまいで、一」ごM

むか

からは国道一一一六号線で東金に向います。

鎌分かれ道

なるとう

ここは国道の分かれ道で、左へ行く道は成東

ほうめんい

ちよくしん

方面へ行く一一一六号線、車は、この道を直進し

15

す。

じろ

鎌十字路

ごうせんごうさてん

ここは国道一一一六号線と一一一八号線の交差点

むか

で、車は一一一八号線に向って走ります。

とうがねし

鎌東金市

ちゅうとうぶ・でんえんと

東金市は、千葉県の中東部よりにある田園都

きんりん

市で、昭和一一十八年近隣町村をあわせて東金町

くわ

となり、同一一十九年四月近隣一一村を加えて東金

市になりました。人口およそ三万七○○○.

りょうそうだいち

市の北西部には、両総台地の南のふちにあた

かいばつしようきゅうりようきふく

る海抜三○~五○メートルの小丘陵が起伏し

くじゆうぐりへいやひよく

ていますが、南西部には九十九里平野の肥沃な

ちゆうせきていち

沖積低地がひらけています。

ちゆうせいしよりようせんごくじだい

市は中世、千葉氏が所領しており、戦国時代

さかいしじようしゅ

には酒井氏が五代にわたって東金城主として町

をおさめていました。

れきし

鵜東金市の歴史

ています。

かずさしちりほつけ

これが「上総の七里法華」なのです。

いごとうがねさかいしとしはるとしふさへまさたつ

以後東金酒井氏は、敏治、敏総を経て、政辰

てんしようおだわらほうじょうし

のときの天正十八年(一五九○)小田原北条氏

とともに、豊臣秀吉とたたかって磯れ、滅び饗

とよとみひでよし

ったのです。

きんせいはいしいきばくふちよっかつりょうはたもと

近世に入って、今の市域は幕府直轄領や旗本

りょう

けいちよう

領などと、こまかくわかれましたが、慶長十八

16

あわさとみしぞくさかいししそさだたか

安房里見氏に属していた、酒井氏の始祖定隆

ちようきょう

とけじよう

は、長享一一年(一四八八)土気城に入りました

のちさだはる・たかとし

が、後、長男定治に城をゆずり、三男隆敏とと

とうがねじよううつ

必。に東金城に移りました。

しろ

じようかまちせいびおこな

この時、城とともに城下町の整備が行われ、

しがいとしきげん

これが今の東金市街の、都市としての起源とさ

れています。

ぼんぎようじこうじゆつにつたいしようにんふかきえ

また、本行寺(後述)の日泰上人に深く帰依

さだたかりょうないじいん

ほつけしゅうあらた

-〕た定隆は、領内の寺院をすべて法華宗に改め

ふなばしむすちょくせんどうろ

年(一六一一二)には、船橋を結ぶ直線道路「お

なりかいどう

のうさんぶつかいさんぶつこう

成街道」がひ《つかれ、町は農産物と海産物の交

えきちゅうけい

はってん

易中継商業地として発展したのでIした。

ごうせんとうじとうがねかいどう

今の国道一一一六号線は、当時東金街道し』よば

ひくやなみ

れふ街道ぞいに低い家並をつらねる東金の町中

ふるどぞう・

には、今でもところどころに古い土蔵づくりの

しようてんのことうじおもかげつた

商店が残り、当時の面影を今に伝えます。

ぼんぎようじ

繋本行寺

しゆうはけんぼん一

前におはなししました本行寺は、宗派は顕本Ⅳ

ほつけしゆうさんごうによいさんぶんめい

法華宗、山号を如意山といい、文明一元年(一四

につたいしようにんひらほつけしゅうてらかずさ

六九)日泰上人が開いた法華宗のお寺で、上総

しちりほつけこんぼんどうじようのち

七里法華の根本道場になっておいソ、後、上人は

の感しゆぎようばんねんぼんぎようじ

京都に上って修行をし、晩年は本行寺にもどっ

ちな

てこの地で亡くなりま,した.

しちりほつけ

しようにんふかきえと

七里法華というのは、上人に深く帰依I〕た土

けじようしゆさかいさだたかりょうないじいんごうそん

気城主酒井定隆が、領内七里四方の寺院、郷村

じゆうみん

かいしゆう

住民のすべてをP法華宗に改宗させたというJU

ている町です。

とうがねしくじゅうぐりまち

北は東金市と九十九里町、西は千葉市、南は

もばらししらこまちせつ

茂原市と白子町にそれぞれ接しており、昭和一一

じんこう

人口およそ一一万七○○○人のここ大網[ロ里町

はまめん

は、県の中部東端にあって、九十九里浜に面し

ほつけしゆうてらおお

ので、今望。このあたりには、法華宗のお寺が多

いといわれます・

ぼんぎようじじいきやく

本行寺の寺域は、約一万一二○○○平方メート

どうう

たいせんせんかうしょうしつ

ルあり、堂宇は第一一次大戦の戦火を受けて焼失

のちさいけんぼんどうくりそな

しましたが、後再建され、本堂、庫裏などを備

けいだいじどうゆうえんちじ

えており、境内には児童遊園地必。あり、また寺

ほう

さとみおだわらほうじようしかんけいぶん

宝し』しては千葉、里見、小田原北条氏関係の文

しよにちれんしゅうこもんじょしょぞう

書、日蓮宗の古文書が所蔵されています。

紫一二八号線のバイパス入口8勺L

どうろ

走っております道路は国道一一一八号線のバノイ

ヘいこう

パスで、本道は右手に並行-〕て走っています。

撚一綴聯副竪雌

きんりんがっぺい

十六年と同一一十九年十一一月に近隣町村を合併し

おおあみまちしらさとまち

て、大網町から大網白里町にな両ソました。

ほそなが

・りょうそうだいちなんたん

町は東西に細長く、北西部に両総台地南端の

きゅうりよう

へいやへいたん

小さな丘陵があり、東には九十九里平野の平坦

ち地がひ《つけています。

ちめみさき

もし』もと大網白里町という地名は、先に大網

町があって、前におはなしした昭和二十九年十

しらさとまちをすぼへんにゅうげんざい

一一月、近くの白里町と増穂村を編入して、現在

ちめいしゆおおあみ

の地名になったのですが、主になる大網は、大岨

ぶん色てんむんせいりょうそうだいち一

かいどうちょうし

網街道し』銚子街道の分岐点で、近世、両総台地

へいやはまさんぶつこうえきいちば

と九十九里の平野や浜の産物を交易する、市場

さか穂

きんこうのうそん

町として栄えたところなので、今で必⑧近郊農村

あむな

かいどう

あいての商いの町し』なっておいソ、街道ぞいにそ

しようてんがいはったつ

れぞれの商店街が発達しています.

おおあみえきそとぽうせんとうがねれんらくしゅうへん

大網駅は、外房線と東金線の連絡駅で、周辺

ちいき

こうつうちゅうしん

地域のバス交通の中心となっています。

しゆさんぎようのうざようせんい

主産業は農業で、そのほかに繊維工業などの

らけたところです。

じんこう

人口およそ七万一二○○○人。

ごうせんもばらせんぶんきてん

国道一一一八号線と、県道千葉茂原線の分岐点

ふきんけいせいはましお

付近に形成される茂原の町は、九十九里浜の塩

20

こうじようたなら

きんねんそとぽうせんむす

工場塾⑧立ち並んでおり、近年、外房線で結ばれ

ほうめんつうきんしや

る千葉市方面への通勤者もふえ、ごたぶんに必匂

たくちかおこな

れず宅地化が行われていますも

しゅうてん

鵜バイパス終点

おわ

おはなしをしている間にバイパス必⑧終って、

はい

国道一一一八号線に入ります。

へいこうせんろそとぼうせん

左に並行する線路はTJR外房線です。

鵜静厩卦叩

にのみやぼん

茂原市は昭和一一十七年四月、茂原町、一一宮本

どう

がっぺい

郷村やその他四つの村々、一町五村が合併I〕て

ちようなんまち

茂原市し」なり、同一一一十四年四月に長南町の一部

きようかいへんこうおこなぼんのうまち

と境界変更を行い、同四十七年五月に本納町を

へんにゅうこんにちこうぎようでんえんとし

編入して今日におよぶ工業、田園都市し」してひ

かいさんぶつへいやぶのうさんぶつこうえきじようせい

や海産物と、平野部の農産物の交易場として成

りつ.とし

きげん

立した農村市場が、都市し』しての起源とされて

います。

とうじとんやせいかないこうぎようかずさもめんせい

当時は、問屋制家内工業による上総木綿が生

さんえどおく

産され、さかんに江戸へ送られたといわれます。

ちゅうしんちもばらえき

今も県東部における一商業中心地で、茂原駅

まえふきん

・しよう

前付近から、その西方の国道ぞいにかけて、商

てんがいはったつ

店街が発達しています。

もばらしてんねん

茂原市は「天然ガスの茂原」とよばれるよう別

けい

ほうふ

に、メタン系天然ガスの豊富なところで、》」れ

ねつげんひたちせいさくじよみついとうあつかがく

を熱源として日立製作所や、一二井東圧化学とい

せいみつきかいしよくりょうひんせんい

った大工場をはじめ、精密機械、食料品、繊維

しがいきんこう

など、大小一一○○あまりの工場が、市街近郊に

あつ集

まっています。

さんさろ

兼一二差路

ごうせんそとぼうぼうめんすす

車は国道一一一八号線を走り、外房方面に進み

おおたき

ますが、この一二差路を南に走る道路は大多喜方

あれさきぼうめんむす

面、西への道は姉崎方面を結んでいます。この

せんろそとぼうせん

国道につかずはなれず走る線路は、TJR外房線

おなほうこう

で、国道し』同じ方向に走ります。

兼儲堀一榊ら

きんりんがっ

この村は昭和一一十八年十一月近隣一二ケ村を合

ぺいへいや

併Iして長生村となり、九十九里平野の南部にあ

のうぎょそんぎよぎようきんねんふりょうつた

る農漁村ですが公漁業は近年不漁を伝え《つれ、

やさいえんげいうえきさいばいのうか

しかI〕、野菜園芸がさかんで、植木栽培や農家

ふく怠ようむしかごせいぞうふるおこな

の副業としての虫篭製造が、古くか《っ行われて皿

とくぺつ一

いるところです。小さな村のこととて、特別な

いちまつかいがんかい

見どころはありませんが、東部の一松海岸の海

すいよくしおひがりかんこうじびぎあみ凡.、こうらくぎやく

水浴、潮干狩、観光地引網などが行楽客の目を

たの楽

しませています。

樵一謹雌。

じんこうやくJかずさ

人口約一万八○○○の一宮は、上総の国の一

たまさきじんじゃもんぜんまち、はってん

宮の玉前神社の門前町とI〕て発展したところで、

えどじだいちゅうきかんせいかのう

江戸時代中期の寛政十年(一七九八)には加納

ひさのりみえけんいせはっだ.・いちのみや

久周が、一一一重県伊勢八田から一宮に、一万一二○

ごくにゆうふういごばくまつ

○○石で入封-〕、以後、:町は幕末まで八代、一

ねんかんかのうしじようかまち

きんこうのう

六○年間、加納氏の城下町し』して、また近郊農

そんあいていちばまちはんえい

村相手の市場町と‐して繁栄したところです。

たまさきじんじゃ

鵜玉前神社.

きゅうかずさのくにいちのみやえんぎしきじんみようちょう

玉前神社は旧上総国一宮で、延喜式神名帳に

のこ

も織榊対枇蝿蝉緋蚕呼の一つとして名を残I〕て

かくしきやしろふるこうしつぶけそんすう

いる格式高い社で、古くから皇室や武家の尊崇

あつ

きんこう

うじがみ

厚く、また、近郊一一一十数ケ村の氏神と-〕てまつ鯛

られてきました。

みなもとのよりともつままさこ

あんざん

そのむかし源頼朝JU、妻政子のために安産

き.がん

・てんしよう

祈願をI〕たといわれ、天正十年(一五八一一)に

あわさとみしよしよりしやりょう

は安房里見氏八代義頼が社領をよせ、同十九年

とくがわいえやすしんでんごくきしん

Ⅷ徳川家康も神田十五石を寄進-〕たといわれます。

えどちゆうきいごりょうしゅかのうしすうけいしゃ

江戸中期以後は、領主加納氏の崇敬社と‐して

さかめいじはいごくへいちゆうしやれっかくしき

栄え、明治に入って国幣中社に列せられた格式

やしる

高いお社です。

けいだい

しんぼく

境内には、神木のカシワをはじめ、マツ、ス

きょぽくおしげ

ギ、イチョウなどの巨木がうっそうと生い茂り、

しゃれきふるものがた,いちぐう

社歴の古さを物語っています。境内の一隅には

でんせつはくちようい

オトタチバナヒメの伝説にまつわる「白鳥の井

ど戸」があります。

しやほう

じゆうようぶんかざいしてい

社宝し』I〕て国の重要文化財に指定されている

ぱいじゅそうじゃくむよう

梅樹双雀鏡があります。

とらみじ

兼東浪見寺

かいばつやくぐんだりさん一

東浪見寺は、海抜約四○メートルの軍茶利山叫

しゆうは・てんだいしゆうさんごうぐんだり一

の山中にあって、宗派は天台宗、山号を軍茶利

さんごうえどじだいめいじ.とら

山と号I〕、江戸時代から明治にかけては、東浪

みちゅうしんおこなじびきあみ

見を中心に、坐ごかんに行われた地引網、アグリ

あみぎよぎようぼんぞんぐんだりみようおうりつぞう

網漁業とあいまって、本尊の軍茶利明王立像が

うみしゅ一』しんぎよみんしんこうあつおお

海の守護神レ』-〕て、漁民たちの信仰を集め、多

さんけいしやつた

くの参詣者でにぎわったと伝え《つれます。

ざいいちぽくづく

軍茶利明王立像はヒーノキ材の一木造りで、高

そぼくりつぞうふじわら

さ一一・○四メートルの素朴な立像は、藤原時代

-25-

ぶんかざいしてい

の作といわれ、県の文化財に指定されています。

てらけいだいぐんだりさんいったいやく

寺の境内の軍茶利山一帯の約四万平方メート

さんりんしよくぶつぐんらくち

ルの山林は、軍茶利山植物群落地とI〕て、これ

てんねんきねんぶつ

JU県の天然記念物に指定されています。

繋僻》脇緋

かずさいちのみやえきやくいけ

上総一宮駅南約二キロほどのところにある池

えどこうきぶんせいれんかんはん

で、江戸後期の文政年間(一八一八~一二○)藩

しゆかのうひさともちくぞうかんがいよう

主加納久傭が築造!〕た潅概用の池をいい、次代

ひさよし

けいかんどうていこみた

久徴が中国の景観「洞庭湖」に見立て、この池

を洞庭湖と名づけました。

しゆういひく

この池は、周囲を低い山々にかこまれ、シー

さくら

さんさいが

こうよう

ズンには桜の花や、山菜狩り、秋の紅葉がすば

かぞくづこうらくち

らしく、家族連れの行楽地になります。

けんりつしぜんこうえん

兼九十九里県立自然公園

たまさきじんじゃとらみ

おはなしI〕てまいりました玉前神社、東浪見

じどうていご

かんこうちけいしようちふく

寺、洞庭湖などの観光地、景勝地を含めたこの

あたりは、九十九里県立自然公園になっていま

す。

なみのいりぐち〕

兼波乗りライン入口‐

かくしきいちのみやまち‐みさきまち

格式高い一宮町をひた走ってここは岬町との

きょうかいがわゆうりょうどうろ

境界であり、そして左側を走る有料道路は九十

あいしょうなみの

九里有料道路、愛称を「波乗りライン」という

かいてき

快適な道路です。

のち

有料道路については、後ほどおはなしするこ

おおはらまちむかすす

とにして、車は岬町から大原町へ向って進みま

す。62

みさきまち

兼岬町

いちのみやまちりんせつ

一宮町に隣接する岬町は、人口一万四○○○

じゃく

ちゅうおうぶながいすみ

弱の小さな町ですが、中央部を東へ流れる夷隅

がわひよくていちのうさん

川が町をうるおし、肥沃な低地がひらけ、農産

ぶつせいさん

物などの生産がさかんなところです。

しめとくゆうめい

岬町という名の示すように特に有名なのが、

つでたいとうみさきだいひょう

太平洋上に突き出た太東岬がこの町を代表して

たいとうかいひんしよくぶつぐんらくきよ

います。そのほかには、太東海浜植物群落、清

みずでらけいしようこさついずみてんだい

水寺といった、景勝の古剃があり、和泉の天台

しゆうはんじょうじむろまちじだいさくみよう

宗飯縄寺には、室町時代の作といわれる五代明

おうぞうえどちようこくしたけしいはちろうたいさく

王像や、江戸時代の彫刻師武志伊八郎の大作、

うしわかまるくらまやまだいてんぐづしょぞう

「牛若丸鞍馬山大天狗の図」が所蔵されてあり

ます。

ぽうしゅうずな

町の南部は「房州砂」「みがき砂」し』よばれ

さんち

せいまいようせいびんようけんまょう

る白土の産地で、精米用、製瓶用、研磨用とI〕

かくちいしゆっ

て各地に移出されています。

たいとうみさき

局j

雑太東岬2

たいへいようあらなみう

太平洋の荒波をJUろに受ける岬が太東岬で、

はま

くぎ

ここは九十九里浜の南のふちを区切り、荒波に

あら

だんがいぜっぺき

洗われて、断崖絶壁になっており、岬の上から

は北にえんえんとつらなる九十九里浜のありさ

いちぽう

まが、一望のもとにおさまり、また、岬をめ〈、

とったん

るハイキングコース山⑧あって、岬の突端には昭

た‐

和一一十七年に建て《つれ、同四十七年に建てかえ

はくあたいとうざきとうだい

られた白亜の太東崎灯台がそびえたち、太平洋

ものがあります。

撫赫織潤剛獄悩桝鮎蹴溌く

たいとうざきせんたんかいがん

この群落は、太東崎の先端から南方海岸ぞい

ちいき

一二万平方メートルほどの地域で、日本中部海岸

だいひようてき

における代表的な、海浜植物群落地域として、

てんねんきねんぶつしてい

大正九年七月に天然記念物に指定されました。

ごかいしよく

そんしようしてい

その後、海食などによる損傷もあって、指定

とうじ

ようそう

された当時とはだいぶ様相も変っていますが、

今でもトベラ、ヤブッバキ、タブノキ、ヤツデ、

ふれみまも

上を行/、船を見守っています。

おきあいすう

がんしょうちたいつづ

この沖合は、数キロにわたって岩礁地帯が続

りょうし

うみなんしよおそ

き、漁師たちに海の難所として恐れ《つれている

やくわり

ところから当U、この灯台のはたす役割は大きい

28

オニヤブソテッ、ハマボックス、ハマエンドウ、

やくしゆぐん

チガヤ、スカシュリなど約五十種の草や木の群

らく落

が見られます。

兼瀞牌川

知られています。

いすみがわこうとうばしわた

夷隅川にかかる江東橋を渡ります。

この川は、フナ、ウナギ、ハゼなどの釣り場

かこうたいとう

し』して知られております。また、河口から太東

かいがん

海岸にかけては、タコがた/、さんとれます。

おお

きせつちゅうじゅん

タコの一番多/、とれる季節は、四月中旬から

五月中旬で、この海岸でとれるタコは、やわら

あじよ

かくて味の良いこし』で知られております。

兼赫厩雌

ぽうそうはんとうたいぺつうちぽうそとぼうわ

房総半島は大別して、内房と外房に分けられ”

いちのみやまちないりくぶ

ます。一宮町までは内陸部を走っておりました

みさきまちかいがんせん

ので、岬町からこの大原町にかけての海岸線を

しやそう

ながきゅうあか

走っておりますと、車窓からの眺めが急に明る

かん

くなり、いかに望⑥外房を走っているという感じ

がいたします。

むかかつうらおんじゅく

この大原町は、これから向います勝浦や御宿

まち

とくなみあら

町とともに、外房の中でも特に波の荒いこし」で

おおはらまちそとぽうひかくてき

大原町は外房のうちでJU、比較的大きな町で、

じんこうやくぎよぎよう

人口も約一一万一一○○○人の漁業のさかんな町で

みさきまちいすみまちかつうらし

す。町の北は岬町、西に夷隅町と勝浦市、南は

おんじゆくまちせつたいへいようめん

御宿町にそれぞれ接I〕、東は太平洋に面I〕てい

30

ます・

きんりんがっぺい

昭和一一一十年一一一月旧大原町と、近隣四村を合併

せいりつちよういきないかいばつ

して成立した町で、町域内には海抜五○,一五

きゅうりようせいさんちしおた

○メートルの丘陵性山地があり、北東部の塩田

がわえんがん

おちあいがわ

川沿岸と、西部を北へ流れる落合川ぞいには、

へいたんちゆうせきていち

平坦な沖積低地がひらけています。

かいがんせんはんぶんかいしよくがけはったつがんしょう

海岸線は、南半分が海食崖の発達した岩礁海

ひありうらすなはま

岸で、北半分には日在浦の砂浜海岸がつづいて

なんたんかこうおおはらぎよこう

おり、その南端塩田川の河口南岸に、大原漁港

はいご

しがい

があって、漁港の背後に大原市街がかたちづく

られています。

かいすい

ここはまた水のきれいなことで知られる海水

よくじよう

浴場がありますが、太平洋上にふくらむように

なみあら

して出ているところなので、波の荒いこし」でも

知られています。

れきしふるへいあんじだいまつきかまくら

》」の町の歴史は古く、平安時代末期から鎌倉

しよき

かずさのすけひろつねあたりいったい

時代初期にかけて、上総介広常がこの辺一帯に

いは

やかた

威を張っており、広常の館があったところとさ

れています。

ひろつれさがみみうらだいすけよしあきなすの

広常は相模の一二浦大介義明とともに、那須野

がはらとちぎけんなすぐんきゅうびきつねたいじ

ケ原(栃木県那須郡)の、「九尾の狐」退治の

でんせつちゆうけんびもうしようどうほう一

伝説でもよく知られ、智勇兼備の猛将で、豪放別

やじんみなもとのよりともへいけつい一

な野人でもあったといわれ、源頼朝の平家追

とうたたか

ちばのすけつれたねふんせんぐんこう

討の戦いでは、千葉介常胤と奮戦し、軍功をた

やじんたいどよりとも

てましたが、野人としてのその態度が、頼朝に

ごかいじゆえいかまくら

誤解され、寿永一一年(一一八一二)十一一月鎌倉の

じんえいあんさつ

陣営の中で暗殺されてしまいました。

かんこうめんだいしょうじしょうがんじはちまんざき

観光面としては、大聖寺、照願寺、八幡岬、

いわふねじぞうそんめいしようふるでらおんだん

岩船地蔵尊などの名勝や古寺があり、また温暖

つばきおおぞく

な地であるところから椿が多く、俗に「つばき

じゅれいすうろうじゅ

の村」し』よばれ、樹齢数百年におよぶ老樹など、

つばきはなどきべに

五○○○本望bの椿があって、花時には、紅、白、

しゆうらくいえいえにわさきいるど

ピン々〆の花が、集落の家々の庭先を彩ります。

繋雌幡峨

たいへいようつでみさきすい

八幡岬は太平洋に突き出た岬で、ほし』んど垂

ちよくちかだんがいうみ

直に近い断崖が海にのぞんでいます。

かたちとびに

岬の形が鳶に似ているし』ころから「トビ岬」

ともよばれています。

ばんかいばつ

岬の一番高いところ、海抜一二十五メートルあM

さんじようはちまんじんじゃ.けいだい

まりの山上に八幡神社があり、この境内からは

がんかおおはらしがいゆうだい

眼下に大原市街、東方には雄大なひろがりを見

たいへいよううなばらいちぽうじんじゃみさき

せる太平洋の海原が一望にみわたせ、神社と岬

せんたんむすゆうほどう

の先端を結ぶ遊歩道もひらかれています。

せんごく

まきじようしゆとき

神社のあるあたりは戦国時代、万喜城主土岐

しぶしようやりたみののかみよこじようあと

氏の武将鑓田美濃守が拠った、古城跡ともいわ

れています。

繋芯聖荊

てらてんだいしゆうさんごうみようおうさんごうけい

このお寺は天台宗、山号を明王山と号し、境

だいふどうどうじゅうようぶんかざいしてい

内の不動堂は国の重要文化財に指定されていま

去り◎

かまくらじだいちゆうきごふかくさてんのうと

これは鎌倉時代中期の後深草天皇のころ、土

ちりょうしつまうみべふどうみようおうぞう

地の漁師の妻が、海辺で不動明王像をひろい、

あんちどうこんりゅう

これを安置してお堂を建立したのがはじまりと

いつばんなみきりふどう“よなした

され、一般には「浪切不動」の呼び名で親しま

ふるたいりようきがんかいなんれいけん

れ、古くから大漁祈願、海難よけに霊験あらた

しんこうあつ一

かとされ、人々の信仰を集めています。3m○

けいだいおおはらこうえん

境内は大原公園になっており、「不動池」と

さくらめいしょ

よばれる池など望Uあって、桜の名所として知ら

しよか

ふじいけほとりうつくいろど

れ、初夏には、藤が池の畔を美しく彩ります。

てらうしろたかだい

きようしゆつ

また寺の後の高台には、第一一次大戦中に供出

かねへんかんへいわ

した鐘が、アメⅡハカから返還され「平和の鐘」

かんしん

し』名づけられて、人々の関心をよんでいます.

たいへいよう

ここか《っの太平洋や、大原の町のながめはす

ばらしいことでも知られています。

がわなみはなえき

道路右側に浪花駅があります。ちょうどその

はんたいがわ

ぎょこうちかうみつ

反対側左の岩船漁港近/、の海くいソに、海に突き

いわばじぞうどう

出た岩場に岩船地蔵尊をまつる地蔵堂があり、

いったいけいだい

岩場一帯が境内になっています。

ぼんぞんぢぞうそんぞうけんじねんかん

本尊の地蔵尊像は、建治年間(一一一七五~七

しちじゅうござかみがみうらなが

八)、七五座の神々ととJUに、この浦に流れつ

でんせつ

いたし」いう伝説があります。

じでん

かまくらめいこううんけいさくつた

寺伝では、鎌倉の名工運慶の作し』伝え《つれ、

こうかいあんぜんたいりようきがんりやく

航海安全、大漁祈願にたいそう》」利益があると

とち

たちしんこうあつ

-〕て、土地の人達の信仰を集めています。

鵜緋酔獄耶ち

じんこうやくぎよぎよう

御宿町は人口約八七○○の漁業の町です。

ちゅうおうながしみずがわかこうふきん

町の中央を流れる清水川の河口付近に御宿町

あじろわんたいへいよう

があって、清水川は網代湾で太平洋にそそいで

います。

ちほうおき

網代湾の西岸にある御宿港は、この地方の沖

34

兼割職出蹴轍

あいぎよぎようちゅうしんち

合漁業の中心地とされ、イワシ、ブリ、イカ、

みずあおおないちょうしかつ

メダイの水揚げが多く、千葉県内では銚子、勝

うら

ぎよかくりょうほこ

浦につぐ漁獲量を誇っています。

おんじゆくまちそとぼうたいへいよう

御宿町は外房のうちでも、とくに太平洋にふ

とち

くらんでいる土地なので、今走ってまいりまし

みさきまちおおはらまちむかどう

た岬町や大原町、これから向います勝浦市と同

よう

なみあら

様に、とくに波の荒いところで、‐したがってァ

おお

あま

ワビやサザエなどが多くし』れ、それらは海女に

えんがんぎよぎよう

よる沿岸漁業がさかんなところで、現在一一○○鯛

かつやくこはづきかいがん一

人ほどの海女さんが活躍しており、小波月海岸

おおはづきかいがんちゅうしん

や大波ロ同海岸を中心にアワビ、ワカメ、サザエ、

ぎよかく

ノイセエビなどの漁獲が生ごかんです。

かんこうきやくかいすいよく

ここはまた観光客や海水浴客が多いところで、

ぎよぎよう

漁業と‐しての海女さんが、ときにはモデルさん

へんしんきがんあらなみ

に変身して奇岩や荒波をバックにして、観光客

がかまえた

あま

ふうけい

のカメラや画架の前にJ泡立ち、海女のいる風景

かんこうおんじゆくか

し』して、観光御宿には欠かせないもののひとつ

ころです。

63

おんじゆくちめいかまくらばくふしつけんほうじようとき一

御宿という地名は、鎌倉幕府五代執権北条時

よりしょくじ

しょこぐあんぎゃたび

頼が職を辞して、諸国行脚の旅に出たとき、こ

たよ

の地に立ち寄って

みやどひとと

御宿せしこの時よりと人問はば

あじろうみゆうかげまつ

網代の海に夕影の松

いつしゆ

ゆらい

という一首をよんだ一」とに由来するといわれ

ます。

たっています。

あじろかいがんすなはま

網代湾岸にひらける砂浜海岸は、シーズンに

はまかいすいよくじようちゆうおういわわだ

は浜海水浴場、中央海水浴場、岩和田海水浴場

しよ

たいへん

の一一一ケ所がひらかれ、大変なにぎわいになるし』

となっています。

さばくぞう

見どころとしては「口同の砂漠像」、スペイン

こうつうはっしようきれんひめいしよ

やメキシコレ』の交通発祥記念碑といった名所が

とう

あり、そつ」にはメキシコ塔と名づけられた塔が

さばく

繋月の砂漠

さばく

月の砂漠をはるばると

たびゆ

旅のラクダが行きました

きんぎんくら

金と銀との鞍おいて

なら

一一人並んで行きました

みなさまどうようし

皆様おなじみの童謡「ロ局の砂漠」の詩をきざ

みかづきがたしひのおうじよ

んだ、三日月形の詩碑と、ラクダに乗った王女

おうじ

ぞう

すなはま

さまと王子さまの像が、中央海水浴場の砂浜の

ならた

上に並んで建っています。

かとう

この詩は、大正十一一年、加藤まさを氏がここ

さむゆうれんそうつく

の砂丘から連想して作ったものといわれ、それ

きねんぞうた

にちなんで昭和四十四年、この記念像が建て《つ

ふきんさばくこうえん

れ、付近は「回向の砂漠公園」の名で知られてい

-37-

ます。

いりぐち

鎌サンドスキー場入口

こうさんてん

どうろおおたきほうめんおく

交差点右への道路は大多喜方面ですが、左奥

いわわだ

の岩和田のサンドスキー場があります。

まなつたいようみず

ギーフギラ照りつける真夏の太陽のもとで、水

ぎすがたたのぽうしゆうじまん

着姿でスキーが楽しめるのが房州のお国自慢の

一つです。

あまじようねつひれんでんせつ

参考海女の情熱と悲恋の伝説

たいへいようあらなみめんおんじゆくまちつぎ

太平洋の荒波に面!〕たここ御宿町に次のよう

かな

な悲I〕い伝説があります.

わかものこい

むかし、美しい海女と若者が恋をしまI〕た。

りょう

おお

若者は漁に出かけるロ〕が多く、思うように逢う

うみありよう

こし』が出来ませんので、海女は、海が荒れて漁

ねが

に出られなければ逢えるし』願うようになりまし洲

た・

かいちゆう

そんなあるとき、海女は海中にある大アワビ

はなし

にふれるし』、海が荒れるという話をきき、海中

の大アワビに、小アワビをぶつけて海を荒れさ

せいこう

せることに成功しました。そI〕て、漁に出られ

おうせたの

ない若者との逢瀬を楽しむようになりました。

すうじつかんいつ

しか-〕、海女は逢うだけでなく、数日間を一

しよすごねが

緒に過Iしたいと願うようになり、それには、大

あらしが起こればよいと、また-〕ても大アワビ

をめがけて、メチャクチャに小アワビを投げつ

ふしぎうみおぢあ

けました。すると不思議にも海は大荒れに荒れ

わかもののふれなんば

て、若者の乗った船は難破してしまいました。

むり

てんばつてきめんかいしんいか

無理に海を荒れさせた天罰は顛面、海神の怒り

しんぱいおき・あま

のためか、若者を心配して沖にこぎだした海女

ふれあらなみふか

の船も荒波にのまれ、大アワビのいる海中深く

しずどうかあが

沈み、一一度と浮び上ってはこなかったという、

じようねつひれんつた

荒海育ちの「女の情熱」と悲恋を伝えるおはな洲

あらうみそだ

-〕が今にのこされています。

かつうらし

鵜勝浦市

そとぼうくっしぎよこうとしじんこう

勝浦市は外房屈指の漁港都市で、人口およそ

じやく

きんりん

一一万六○○○弱、昭和一二十年一一月、近隣町村を

かつうらまち

しせい

合わせて勝浦町となり、同一一一十一二年十一一月市制

しこう

を施行して勝浦市となりました9

か塊は、蔚織鴎隣地識〃獄撹一五○から二五

せいさんちへいたんち

○メートルの丘陵性山地がひろがり、平坦地に

みなもとはっいすみがわ

はとぼしく、中東部に源を発する夷隅川が、北

おおたきまちなが

西に流れて、大多喜町に流れこんでいます。

たいへいようゆみとく

ここは太平洋に弓なりに特にふく《つんでいる

なみあらかいがんせんかいしよくがけがんしょう

し」ころなので、波は荒く海岸線は海食崖や岩礁

ちたい

さばくけいかんへんかととう

地帯、そIして砂漠という景観と変化に富み、東

かいうらかつうらうばらもりやすなはまかい

海浦、勝浦、鵜原、守谷などにひらける砂浜海

がんぜっこうかいすいよくじよういそづ

岸は、絶好の海水浴場となり、また海岸は磯釣

りの場としても知られるところです。

せんごくじだいはちまんざきかつうらじようしゆあわ一

この地は戦国時代、八幡岬の勝浦城主、安房州

さとみしぶしようまさきししよりよう

里見氏の武将正木氏の所領とされていたし』ころ

てんしようおだわらほう

で、天正十八年(一五八○)正木氏が小田原北

じようしうんめいともめっぽうとくがわいえ

条氏と運命を共にして滅亡-〕、かわって徳川家

やすばくしんうえむらやすただごくりょうじよう

康の幕臣植村泰忠が一一一○○○石を領して勝浦城

にはいりました・

やすただにゅうふうどうじかつうらわんか

泰忠は入封と同時に、勝浦湾の北東岸に、家

しんだんちゅうしん

まちや

げんざいちゅう

臣団を中心し」して町屋を作り、これが現在の中

しんしがいとしてききげん

心市街の都市的起源とされています。

うえむらし

まんじ.かつうらわん

植村氏は、万治二年(一六五九)勝浦湾北方

くしはまちたい

やかたきずうつ

の串浜地帯に、あらたに館を築いて移り、四代

じようしゆただとも

かふう

ごく

城主忠朝のし』き、加封されて一万一○○○石の

だいみよう

大名レ」なりました。

つれともほうれき

しか1〕六代恒朝の代の宝暦元年(一七五一)

かいえき

おおおかただみつ

に改易となり、かわって大岡忠光が九七○○石

りょうはいただみつむさしたかつき

を領して入り、忠光も同六年に武蔵の国高槻に

うつ移

りました.

‐一

いごしいきてんりようはたもとりよう

さいぶん

以後市域は天領、旗本領などに細分され、そい

いしん

のまま明治維新におよんでいます。

さんぎようへいたんちぎよぎよう

産業は、平坦地がすぐないところから、漁業

しゆかつうらこうきちえんがんえんよう

が主で、勝浦港を基地とした沿岸、遠洋漁業が

しゆたい

主体になっており、マグロ、カツオ、タイ、サ

けんない

(、イカ、アワビ、ノイセエビ、サザエなど県内

ちょうしつみずあだかほこ

では銚子に次〈、水揚げ高を誇っています。

ていち

のうぎよういすみがわりゅう

すノ、ない低地での農業は、北東部の夷隅川流

いきちゅうしん

かじゆやさいさいぱいらくのう

域を中心に、米づくりや果樹、野菜栽培、酪農、

ちくさんおこなりんぎよう

畜産などが行われ、また林業塾Uさかんで、その

ふくさんぶつ

かくしゅたけざい

副産物として、タケーノコ、シイタケ、各種竹細

く工などがあります。

かんこうめんかつうらじょうあとぼんぎようじみようかくじ

観光面し」‐しては、勝浦城跡、本行寺、妙覚寺、

とおみざきじんじゃかんぐんづかきゅうせきめいさつ

遠見岬神社、官軍塚などの旧跡や、名刺などが

なめがわ

あり、勝浦パークランド、行川アイランドとい

だいきぽかんこうしせつこうらくきやく

った大規模な観光施設もあって行楽客をた/、さ

あつ

ん集めております。

繋蔵癖耐料議と紹伊半島との関係岨

かんけい

れっとうたいへいようがんくるしおはや一

日本列島の太平洋岸は、黒潮という大きく早

かいりゅう

こだいふれ

い海流が北上しているので、古代か〆っ舟による

こうりゆうおこな

東西の交流が行われていました。

ぼんしゆうだいひよう

とくに本州を代表する大きな半島の紀伊と房

きこうふうどにい

総は、気候風土坐U似ているため西から東への移

じゆうしだい

住が次第にさかんになりました。

だいひようてきみそ

その代表的な必⑧のが、しょうゆ、味噌などの

じようぞうぎようしやあま

醸造の業者レ」海女さんです。

げんざいちょうしのだだいひよう

現在、銚子や野田の日本を代表するしょスノゆ

ぎようしやせんぞきしゆうせつつひょうごけん

業者の先祖は、紀州や摂津(今の兵庫県)から

とらい

はまぐちけ

もぎけ

渡来I〕たし」いわれ銚子の浜口家、野田の茂木家

せいさ

っためいか

などは十七世紀から伝わる名家です。

おなちめいぽうそう

また、紀州レ』同じ地名が房総のいたるところ

しらはまかつうらりょうしあま

にみられ、白浜や勝浦などは漁師や海女が紀州

うつす・

から移り住んだといわれて・います。

紫勝浦遥蹄伊かれ道ご

うせん

車は国道一一一八号線を走っておりますが、や帆

ほそう

や右鵬に美ごれいに舗装された道路が勝浦道路で、

これは一一一八号線のバイパスとしてつくられた

わんゆうりょう

勝浦湾までの有料道路です。また、一一一五号線

ちゅうかんそとぽうせん

と、この道路との中間をTUR外房線が走ってい

ます。

繋割蔚嬬

けんしていしせきさるがじようゆうえんち

官軍塚は県指定の史跡で、猿ケ城遊園地や、

とうだいやくたいへいよう

勝浦灯台をへて東へ約一・五キロの、太平洋を

44-

たかだい

見はるかす高台にあります。

めいじぽしんせんそうまつきはこだてごりようかく

明治戊辰戦争末期の明治元年、函館五陵廓の

えのもとたけあきひろさきはんしやつがるつぐ》あきら

榎本武場をせめあく、ねた弘前藩主津軽承昭は、

あにくまもとはんしゆほそかわもりよしきゆうえんもと

兄の熊本藩主細川護美に救援を求めました。

もり主しえんぐ》んおくよ》」はま

護美は援軍を送ることにきめ、横浜でアメリ

きせんてらおくろうえもんし些逐

カの汽船をやし」い、寺尾九郎右衛門の指揮する

ひご

ばんだいたい

肥後十一一番大隊、重士隊、五番隊、十四番隊な

けい

じようせん

ど、計一二五○人あまりを乗船させて、同一一年一

むか

月一一日北海道へ向わせました。

よくマ

かわづお些逐ぽうふうう

しかし翌一二日の夜、勝浦川津沖で暴風雨にあ

がんしょうなんぱすうにんし

い、岩礁にのりあげて難破し、一一二○数人の死

しや者

を出してしまいました。

そうなんしやまいそうくよう

この時の遭難者を埋葬I〕、供養I〕たのがこの

かんぐんづか

官軍塚です。

繋職織嬢印

うみつたかだい

国道から海に突き出た高台に、勝浦灯台があ

じようあと

り、そのすぐとなりに勝浦城跡、そ-〕てまたそ

知られています。

かいえん

昭和一二十四年に開園され、フィリピン、マレ

さんさる

-シア、インド、タイワン、日本産の猿一○○

びきやせいどうようしいく

匹あまりが、野生同様に飼育されています。と

はなしが

くに放飼いにされているカニクイザルは人なつ

けんぶつきゃく

つこく、ときおり見物客の、それも女性のハン

もに

ざる

ドバックなどを持ち逃げするいたずら猿もいる

ようちゅうい

そうで、要注意とされています。

しかかぞくづ

このほかにクジャク、鹿などもいて家族連れ

にんきあつ

の人気を集めています。

兼職》峨靴蹴と

わんがわつはちまんざきいつ

勝浦城跡は勝浦湾の東側に突き出た八幡岬一

たい

きた

帯にあり、北、西、南の一二方は切り立ったよう

45

ぜんぼうはちまんざき

の前方に八幡岬があります。

兼臓捕撚遮戯雌

はちまんざきせんたんちかかつ

猿ケ城遊園地は八幡岬の先端の近/、にある勝

うらじようあとぶしえいこうらくしせつ

浦城跡の一部にあって、市営の行楽施設として

だんがいうみのぞてんねん

な断崖で海に臨み、北東は山をめぐらせた天然

ようがいとうじなんこうふらくしる

の要害で、当時は難攻不落のお城であったよう

です・

あわさとみしぶしようまさきときただきよじよう

ここもまた安房里見氏の武将正木時忠の居城

しろせんらんちまたみまん

でしたが、この城も戦乱の巷に身をさらし、万

はいじよう

ひうんしろあと

治一一年(一六五九)に廃城とされた悲運の城跡

です。げ

んざいいこうのこ

現在城跡には見るべき遺構はほとんど残って

いませんが、一部が猿ケ城遊園地になっていて、“

いりぐちちかはちまんじんじゃとりいまえとくがわようじゆふじん一

その入口近く八幡神社鳥居前に「徳川養珠夫入

たんじようちせきひおうじ

誕生の地」の石碑がわずかに往時をしのばせて

います。

いえやすそくしつきしゆう

徳川養珠夫人は、徳川家康の側室で、紀州徳

よりのぶみとよりふさうつうしょう

川家の頼宣と、水戸徳川家の頼房を生んだ通称

まんさま

「お万様」のことをいいます。

兼職㈱雌剛転盤戯ん

できしぜん・てんぽう

勝浦に出来た自然公園で、なかでも海中展望

とうすいしんさつど

塔は、水深八・五メートルの海中窓からイシダ

うみ

イ、ハコフグなど、青い海のきらめきとともに、

むおよさかなすがたかんさつでき

群れ泳ぐ魚の姿をつぶさに観察するこ‐とが出来

ます。

かいじよう

しつ

かつうらとうだいうばら

また、海上の展望室か《っは、勝浦灯台や鵜原

りそうきようなが

理想郷などが眺め《つれます。

繋鵜原理想郷

よしおぎよこうみようじんみさきえんちよう

ごこは吉尾漁港から明神岬へかけての、延長

約二キロの海岸線を鵜原理想郷といい、蛎蔚の昨

やく

かいがんせん

あらなみしきかいがんせんきがん一

荒波がつくりあげたリアス式海岸線の、奇岩、

だんがいひとめなみいりえはく

断崖が人目をひき、また波おだやかな入江は[ロ

させいしようしぜんはまべ

砂と青松が自然のハーモニーをかなで、浜辺で

えふでおおながそとぼうずいいち

は絵筆をふる》っ人も多く、その眺めは外房随一

といわれていま式。

はじ

ぺっそうち

昭和の初めごろから別荘地として知《つれるょ

ぞく

うになりま-〕たが、別荘地にありがちな俗っぼ

しずうみべいこばしよ

いところもなく、静かな海辺の憩いの場所とI〕

らかになりました。 し

めりそうきよう

て知られ、名の示すとおりの理想郷であるよう

です。

みさきいそほ

またいたるところ、岬の磯を掘りぬいて作ら

きしゆうぎょみんつたふるぎよぼう

れたいけすは、紀州漁民が伝えた古い漁法のあ

ふきんいったいぎよかいるいぼうこ

とといわれ、付近一帯は魚介類の宝庫として知

みょうじんみさきがわすなは表かいがんぜつ

られ、明神岬の西側にひらける砂浜海岸は、絶

こうかいすいよくじよう

好の海水浴場であり、また理想郷一帯一一・一へ

ぽうそうこくていこうえんかいちゆうし

クタールが、南房総国定公園の、海中公園に指

てい

定されています。84

もりやどうくつ

兼守谷洞窟

わん

かいしよくどうくつ

洞窟は守谷湾の西岸にある海食洞窟で、入口

はばおくゆき

の高さ六メートル、幅八メートル、奥行一二○メ

どうないちようさおこな

-トルあまりで、大正十一一一年に洞内の調査が行

せんしじだいじんるいいせきはっけん

われたとき、先史時代の人類遺跡が発見され、

ちそう

地層などから一」のあたりは少なくとも四回の地

ばんりゅうきちんこうくかえあき

盤隆起と、一一一回の沈降が繰り返されたことが明

ふきんかいしよくがけまつみどりあおちようわ

付近は海食崖や松の緑、青い海の調和がみ》」

けいしようち

かいすいよくじよう

とな景勝の地で、夏は海水浴場でにぎわうし』こ

49

ろです.

みようかくじ

繋妙覚寺

こぐどうがわみェうかくじ

てら

国道の北側に妙覚寺があります。》」のお寺は

こうえいざんごうにちれんしゅうしようにんゆう

広栄山と号する日蓮宗のお寺で、日蓮上人の有

りよくだんかさくましげさだやかたあと

力な檀家の一人、佐久間重貞の館跡といわれ、

ぶんえいねんかんちょうじゅまる

文永年間(一一一六四~七五)重貞の子長寿丸は

しじ

につぼうあらたかい

日蓮上人に師事して名を臼保と改め、日蓮を開

ざんていないいちうこんりゅう

山第一世として、邸内に一宇を建立し、これが

・げんざいみようかくじかいき

現在の妙覚寺の開基とされています。

じいきやくにっ

寺域は約一万一一一○○○平方メートルあり、日

ぼうしょうにんさくにちれんぞうじきひつしょすうつうじほう

法上人作の日蓮像、日蓮直筆の書数通が寺宝と

しよぞう

して所蔵されています。

てら

おきつしようほう

また、寺のある興津の町は、正保年間(一六

かんぶん

四四~四八)から寛文年間(一六六一~七一二)

そとうみえどまわこうろひらいらい

に、外海江戸回り航路が開かれて以来、東北.

えどかんじゅうようちゅうけいこうはんえい

江戸間の重要な中継港として繁栄したし」ころで

せんだいはんやくしよてらけいだい

あり、仙台藩役所など塾泡おかれ、寺の境内に仙

せきちゅう

まちなかのこせんけん

台船をつないだ石柱虫⑥あって、町中に残る千軒、

しやみせんぼりちめいむかしなごり

一二味線堀といった地名が、昔の名残りをとどめ

げんざいおきつすなはまかいがんぜっこうかいすい

ています。現在、興津の砂浜海岸は絶好の海水

よくじよう

浴場し」して知られています。

樵桶川アイランド

たいへいようあらなみうはまなめがわみさきたいち

太平洋の荒波が打ちよせる浜行川岬の大地の

なめがわ

上に行川アイランドがあります。0戸り

めんせきやく

面積約一六○万平方メートルの大レジャーう

えんないかぞくむごらくしせつかんび

ンドで、園内には家族向けの娯楽施設が完備1〕、

ちゅうしやじようかしくつそうひろしきちない

駐車場や貸別荘などが、広い敷地内のあちこち

もう

に設けられてあります。

ここでの見ものは一一○○羽ほどのフラミンゴ

かれいおど

が、ワルツにあわせて華麗なダンスを踊るフラ

ミンゴショ尚/で、その飼いならされたありさま

けんぶつにん

は見物人を大よろこびさせますP

そのほかポリネシアンショウ(四~九月の

ちようくうちゅう

間)ホロホロ烏の空中パレード、一一二○羽あま

つぎつぎ

りのクジャクが山の上から次々にダイビングす

けんぶつにんはくしゅかっさいう

るクジャクショウも見物人の拍手喝采を受ける

おとなこどもたのなめがわ

ものの一つで、大人も子供も楽しめる行川アイ

ランドです。

51

鵜おせんころがし

なめがわつづかいがんいったい

行川アイランドの西方に続く海岸一帯の、高

すうだんがいたいへいようむかき

さ数十メートルの断崖が、太平洋に向って切れ

ちゆうふくきゅう

落ち、中腹を旧国道がぬっています。

とちどう

おせんころがしというのは、むかし土地の豪

ぞくうち

むすめ

族の家におせんという一人娘がおり、おせんの

ちちむらびとたちみくだどうよくひどう

父は村人達を見下し、強欲非道な人なので、お

かいしん

なみだながせつとく

せんはこれを改心させようと涙を流して説得し

ちちおやこころあらたむ

ましたが、父親の心は改まらず、おせんは、無

かな

だんがい

理なこととさとり、悲しみのあまりこの断崖か

みなし

ら身を投げて、死をもっていさめたというおは

-52-

のこ

な-〕が残されています。

せっ

こい

わかもの

一説には、おせんに恋をI〕た一一人の若者がお

ちちおや

せんの父親に、アワビをたくさんとってきた者

むすめひつしりょう

に娘をやるし』いわれ、必死になって漁に出かけ

かえ

たまま、一一人とも帰らぬ人となりました。それ

かな

みとう

を悲しんだおせんが、ここから身を投じたし」い

でんせつ

う伝説乳。あります。

ちめい

おせんころがしし」いう地名は、これらの伝説

ゆらい

に由来するし』いわれます。

げんざい.だんがいいそはまぜっこう

現在では断崖の下の磯浜は、絶好の磯づいソの

ば場であり、クロダイ、イシダノイの大ものがよく

つれるところとして知られています。

あまつこみ●なとまちはい

これより天津小湊町に入ります。

鵜天津小湊町

ちにちれん

車は天津小湊町に入りました。この地は日蓮

しようにんきとちしようにん

上人とは切っても切れない土地であいソ、上人ゆ

めいしよこさつじゅん

かりの名所古剃のたくさんあるところで、順を

おっておはなししてまいりましょう。

にちれんじ

鵜日蓮寺

日蓮寺は、隷臓を熊謹詩心雌惑を裁蔚雌とい

てら

い、っ」のお寺は岩高山の山中にある日蓮宗のお

たんじょうじまつ

寺で、このあとおはなしいたします誕生寺の末

じけんじ

そうけんつた

寺で、建治一二年(一一一七七)の創建と伝えられ

ています。

ひろけいだいぼんどうく

一一二○○平方メートルの広い境内に本堂、庫

なら

裡などを並べる小さなお寺ですが、ここには日岡

こまつばらぼうなん一

しようにんぶんえいがんねん

蓮上人が文永元年(一一一六四)の小松原の法難

きずちりょうあた

のとき、傷の治療に当ったところとされており、

きずあらいどちどすな

そのときの「傷洗い井戸」、「血止めの砂」と

いせき

いった遺跡があることで知られています。

たんじょうじ

鎌誕生寺

うちうらわんかいがん

てら

内浦湾の海岸くりにあるこのお寺は、一」れも

にちれんしゅう

けんじ

につけ

日蓮宗のお寺で、建治一一年(一一一七六)日家上

せいたんち

人が、師の日蓮上人のために、上人生誕の地で

れんげたんかいじようやく

ある蓮華漬(寺の南西海上約一二○○メートル)

かいき

に建てたのが寺の開基し』されています。

こうこうざんにちれんたんじょうじごう

はじめは「高光山日蓮誕生寺」し」号しました

じぶんつた

が、これは日蓮が自分から名づけたJUのと伝え

54

ています.

てらしんじやおおはんえいめいおう

寺は信者も多く繁栄したのですが、明応七年

じしんつなみたてもの

(一四九八)の地震、津波のためすべての建物

とうかい

かいちゅうしず

は倒壊し、寺のあったあたりは海中に沈んでし

まいました。

のちちかたいうらたえうらはまべ

後、近くの鯛の浦(別名・妙の浦)の浜辺に

さいけんふこうげんろく

再建されましたが、不幸にもまた、元禄一六年

おおつなみなが

(一七○一二)の大津波によって、ことごとく流

されてしまったのです。

につこうしようにんぼうえいれんかん

日光上人の代、宝永年間(一七○四~一一)

げんざいあさひさんろくみととくがわけきしん

現在の朝日山麓に水戸徳川家の寄進によって、

たてものふつこうこみなと

寺のすべての建物が復興され、参」のとき「小湊

ざんたんじょうじ

山誕生寺」という今の名前にあらためられたの

います。

におうもんはい

にゆうわひょうじよう

仁王門を入ると左手に、柔和な表情をもった

にちれんしようにんこどもぞうしようめんそし

日蓮聖人の子供のときの像があり、正面に祖師

どう

ちゅうしんぼんどうたしち

堂、これを中心に本堂、その他聖人ゆかりの七

どうがらんた

ほうきよう

堂伽藍が建ちならび、法境をかたちづくってい

ます。

のちかさいしようしつ

祖師堂は、後に火災で焼失しましたが、時の

しようにん

よねんさいげつさいけん

上人が、十余年の、歳月をついやして再建し、五

はしら

十四本の太いケヤキの柱でささえられた祖師堂

どうないちゆうおうきゅうでん

にちれんしようにんぞうあんち

の堂内中央の宮殿には、日蓮上人像が安置され

てあります。

-55-

です。

けいだいひろやく

境内は広く約十六万五○○○平方メートルあ

てら

しきさい

もんぜん

り、寺としては色彩にとぼしいのですが、門前

みやげものやよここえ

にならんだ土産物屋の呼び込みの声もにぎやか

いつばんそうごんかんじやく

で、一般のお寺のような荘厳、閑寂といってイ

ちがあかふんいき、

メージとは、少し違った明るい雰囲気にみちて

います。

兼織の職

うちうらわんがわたんじょうじまえ

鯛の浦というのは、内浦湾の東側、誕生寺前

・かいがんやくおきあいれんげたん

の海岸から、約一○○メートル沖合の、蓮華湾

がんしょう

かいじょう

いぐじまぺん

岩礁、その南方海上一キロあまりの伊具島、弁

てんじまかいいきしめ

天島あたりの海域をいい、その名の示すとおり

せかいてきゆうすうたいぐんせいち

世界的にも有数の、鯛群生地として知られてお

とくぺつてんねんきねんぶつしてい

り、国の特別天然記念物に指定されています。

そしどうむか

ほうもつでん

なお祖師堂に向って右手にある宝物殿には、

にちれんしようにんだいきけいつか

[口蓮上人の一代記が、十八景のジオラマを使っ

てんじせつめい

て展示、説明されています。

てら

さいやくおおじほう

この寺はたびたび災厄にあって多/、の寺宝を

うしな

しようにんしんびつげんざい

失いま-〕たが、[ロ蓮聖人の親筆をはじめ、現在

きちようぶんかざいしょぞう

望Uたくさんの貴重な文化財が所蔵されており、

とくにつこうしようにんとくがわみつくにしよじよう

特に、n口孝上人にあてた、徳川光園の書状や、

ぼんどうない

ぶつぞうぐんみと

本堂内にある仏像群は、水戸徳川家からよせ《つ

えどじだいぶつきようだいひようさく

れたJ泡ので、江戸時代仏教の代表作といわれて

56

たいうらぺつめいたえうら

鯛の浦は別名を「妙の浦」し』もいいますが、

しゆうい

けいしようち

ふね

ここは,周囲の美しい景勝地でJUあり、また舟

たい

にのって手をたたくと、おびただしい鯛が、水

あつまけいかん

しぶきをあげながら集ってくるその景観を、む

なが

たえ

か‐しの人は世にもめずらしい眺めとして「妙な

るながめ」といったことから、妙の浦とよんだ

せつなん

というこし』ですが、またの説に、何といっても

にちれんしようにんちしようにん

ごこは日蓮聖人ゆかりの地なので、聖人にちな

ぺつ

んだ別の説があります。7戸

れんげたんりょう一

難聴憩璃ん(一一一一一二)日蓮聖人が蓮華澄の漁

しいえうま

たいあつ

師の家に生れたとき、たくさんの鯛が集まいソ、

なみま

たんじよういわ

波間をとびはねて聖人の誕生を祝いました。

しゆつけ

のちに出家をした聖人が、一」の浦に舟を浮か

ほつすうみなむみようほうれんげきょう

べ、手にした払子で海の上に「南無妙法蓮華経」

だいもくか

の題目を書きますと、たちまち鯛が集まってき

なみ

て、波の上の題目をのみこんで0しまった、とい

でんせつせつしようきんだんち

う伝説があり、むかしから殺生禁断の地として

ぎよみんぼごこんにち・

漁民たちに保護され、今日におよんでいます。

たい

ひるま

鯛は夏ならば朝と夕方、冬は昼間が出やす/、、

ふな舟

くりをたたくし」、マダイを主にクロメジナ、

なみますがた

メジナ、イスズミなどが波間に姿をあらわし、

おおもの

し」きには目の下一メートルをこえる大物のいる

というおはなしです・

こみなとすいぞくかん

業小湊水族館が

わすい

左側に小湊水族館があります。これは東京水

さんかんり

産大学が管理する水族館で、この中には十一一の開

すいそうめんいけすかんだんりょうけいとうさかなしいく一

水槽と三面の生賛に、寒、暖両系統の魚が飼育

されています・

鵜匪溌裁か

いがんごうせん

車は海岸ぞいの国道一一一八号線を走っており、

がわ

トンネルをぬけたこちらの右側にロ]澄寺があり

ます。(今はパイ。ハスを通る事が多い。)

てらにちれんしようにんこまつばらほうなん

このお寺は、日蓮聖人が小松原でのご法難の

もう

し』き、おたすけ申しあげ、みずからは小松原の

つゆくどうよしたかやかたのちた

露ときえた工藤吉隆の館あとで、後に建てたの

にっちょうじ

がこの[ロ澄寺だということです。

さんごうみようじようざんしゆうはにちれんしゅう

この日澄寺は山号を明星山、宗派を日蓮宗と

てら

するお寺です。

兼瀞懲雌

とおかもがわむか

車は、バイパスを通り鴨川に向って走ります

がわ

こだか

ひようこう

が、右側にある小高い山は、標高一一一八一一一メート

ルの清澄山です。標高ごそは低いのですが、西

の鋸山(三一一九メートル)とともに、瀞繍鴎ぅ排

のこぎりやま

ぺつみようけん一

りょうしゆほう

陵の東の主峰をなしている山で、別の名を妙見

やま山

と坐Uいいます。

ちばけんあめおおち

このあたりは千葉県ではもっとも雨の多い地

たいおんだんきこうめぐ

帯で、温暖な気候にも恵まれていることもあっ

しよくぶつせいいくてき

て、植物の成育に適し、桑ノっそうとしげる木々

ぜんざん

に、全山がおおわれています。

しやめんだんちせいあねったいせい

また、北の斜面は暖地性、南斜面は亜熱帯性

ぶんぶきようかい

し」いう植物分布境界にもなっており、山の上に

す。

鵜瀞溌蔀

ぎょすみやま

さきほども清澄山のところでおはなししまし㈹

きょすみや富てらせいちエうじ

た、清澄山の山上にあるお寺がこの清澄寺です。

おなじか

清澄山と同じ字を書くのですが、なぜか》」の

せいちょうじもう

お寺は清澄寺と申します。

ほうき矛

ふしぎほうし

このお寺は、宝亀一一年(七七一)不思議法師

そう

えだぼんぞんこくうぞうぽ

とよばれる僧が、木の枝で今の本尊の虚空蔵笠百

さつぞういちうたあんち

薩像をきざみ、ここに一宇を建てて安置したの

った

がはじまりと伝えます。

へいあんじかくだいしえんにん

平安時代のはじめ、慈覚大師円仁がここに来

せいちょうじえんしゆうりんまめんばら

は清澄寺、東京大学演習林があり、北の麻綿原

こうげんようろうけいこくむすえんちよう

高原、養老渓谷とを結ぶ、延長一八キロあまり

ひら

のハイキングコース必U開かれており、麻綿原高

いろどしよか

原をアジサイが彩る初夏のころは、ハノイカーで

さいきんよ

にぎわい、最近ではこのコースの道JU良くなつ

わかにんきまと

て、若いハイカーたちの人気の的になっていま

てんだいしゆうしんどんしゆうかいしゅうとくがわ

このときに天台宗から真言宗に改宗し、徳川

てんだいみつきようつたふどうみようおうてら

て天台密教を伝え、不動明王をまつって寺とし、

ごかじゃあわこくしみなもとのちか

その後火事で焼けましたが、安房の国司源親

もと

さいけん

元によって再建されました。

にちれんさいはいじゅうしよく

日蓮は、十二歳のときこの寺に入って住職の

どうぜんぼうしじしゅつけれんちよう

道善房に師事し、十六歳で出家し蓮長と名のり

けんちよう

のち蹴蝕や誌呼雌に遼斡して、建長五年(一一一

きざんけいだい

あさひもりあさひ

五一二)帰山、境内の南にある旭の森で、朝日に

むかなむみようほうれんげきょうだいもく

向い「南無妙法蓮華教」の題目をとなえて、こ

にちれんしゆうかいしゅう

こに日蓮宗として開宗-〕たといわれます。1《b

げんざいきれん

現在旭の森のいただきには、それを記念して

こんりゆうしようにん

大正十一一年の夏に建立された、大きな日蓮聖人

どうぞううみむかた

の銅像が、海に向って建っています。

ごてら

えどじだいしよき

その後寺はさびれましたが、江戸時代初期の

げんな

とくがわしようぐんひでただじ

元和一一年(一六一六)徳川一一代将軍秀忠が、寺

りょうごくよおこちせきいんそうしよう

領一七七石を寄せて興し、京都知績院の僧を請

じゆうしよく

じて、住職としま-〕た。

けしんじんあつごくかくしきあた

家の信心望⑥篤く、十万石の格式を与えられてお

てらたいへんさか

寺は大変栄えまI〕た。

いしんごはいぶつきしやくこうはい

明治維新後、廃仏棄釈のため一時荒廃しまし

しだいふつこうにちれん

たが次第に復興され、昭和一一十四年一一月、日蓮

しゅうきぞくこんにちいた

宗に帰属して今日に至っています。

じいきこうだいやく

寺域は広大で、約十一万一二○○○平方メート

れいいきほご

ル、長い間霊域として保護されてきたこし』もあ

せいちよう

ざくら

していてんねんきねんぶつ

って、清澄1しだれ桜や、国指定の天然記念物の

おおすぎろうじゅ

大杉をはじめ、うつそうし』しげる老樹におおわ

れています。

せいそく

けん

ごこに棲息するモリァオガエルは、県の天然

してい

まいとししよか

けい

記念物に指定されています。毎年初夏には、境

だいいけちよすいち

内の池や、貯水池のほとりの木の上にそのめず

さんらんふうけい

らしい産卵風景を見ることができます。

どううたいへんりつばそしどうきやくでんく

ここの堂宇は大変立派で、祖師堂、客殿、庫

しちどうがらんた

裡などのほか、いわゆる七堂伽藍が建ちならび

ぎょすみさんちようかいじようあんぜんしゆごしんしんこう

清澄山頂には、海上安全の守護神として信仰を

62

あつみようけんぐう

集める妙見宮があります。

さんろうでんひぶせちんかしゆごしんひだり

参篭殿には、火防、鎮火の守護神として、左

じんごろうほちんかうし

ほうもつ

甚五郎が彫ったという「鎮火牛」があり、宝物

かんてらでんらいこもんじよじゅうきぶつが

館には寺伝来の古文書、什器、仏画などがなら

さんろうでんいつばんりよこうしやとま

くられており、参篭殿は、一般の旅行者が泊る

寺です。

しようにん

参考日蓮上人

かまくらじだいそう

鎌倉時代の僧で、

あります。

ごうせんこうざん

このお寺は、号を千光山、

にちれんしゆうかいそ

日蓮宗の開祖と-〕てよく知

しゆうはにちれんしゅう

宗派は日蓮宗のお

63

ごともできるそうです。

けいだい

ゆうよねんまえ

そのほか境内には、千有余年前にコンコンと

わほしやどほしいど

湧きだし、中に星を宿すという「星の井戸」、

にちれんしどうぜんぽうはかてらていはつとくどそうかみ

日蓮の師道善房の墓、寺で剃髪得度した僧の髪

かみづかしようにん

をうめた「髪塚」、日蓮聖人が寺にこもって、

しゆぎようちゆうれいかんえそっとう.ときはち

修行中に霊感を得て卒倒し、その時吐いた血が

ぼんけつささきゅうせき

かかったといわれる「凡血の笹」などの旧跡が