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第 2 回哲学道場高円寺
1
心身問題
深草 周
要約
本稿では心身問題から派生するテーマである心的因果(mental causation)について
取り上げる。まず Jegwon Kim(右写真1)の「因果的排除論証(The Causal Exclusion
Argument)」を確認する。この論証は心的因果を前提とした「非還元的物理主義
(NRP, Non-Reductive)」が破綻することを帰謬法で示そうとしたもので、これを整
頓してその妥当性を確認する。Kim はこの議論の後に、非還元的物理主義に代わっ
て心的因果を説明し得る立場として彼の「心的性質の機能的還元」に基づく還元的
物理主義を採用する。しかし、Kim の立場では結局心的性質は消去されてしまうと
筆者は結論する。というのも、Kim の帰納的還元に関する美濃正と柴田正良の対立を参照してみると、それ
は心的な性質に固有の因果的効力、つまり、心的因果が結果として否定されているように筆者には考えられる
ためである。
Kim は結局のところ、因果的排除論証によって現代科学で支配的な物理主義の立場では、心的な性質は因果
的にまったく無力であるということを示している。というのも非物理的とされる「心的性質」などは実は物理
的性質とまったく同一であるか、ないしは物理的性質とはまったく因果的に無関係な存在だからである。
目次
要約 ...................................................................................................................................................................... 1
これまでの経緯 .................................................................................................................................................... 2
1. 因果的排除論証 ............................................................................................................................................ 4
心的因果 ........................................................................................................................................................... 4
1 写真は次のプロフィール記事による。
http://www.brown.edu/Departments/Philosophy/facultymember.php?key=12
Jegwon Kim(1934-)
第 2 回哲学道場高円寺
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物理主義 ........................................................................................................................................................... 4
非還元的物理主義 ............................................................................................................................................ 5
因果的排除論証 ................................................................................................................................................ 5
キムの還元的物理主義 ......................................................................................................................................... 8
2. 傾向性としての心的性質の解釈 ................................................................................................................... 11
キム批判 ......................................................................................................................................................... 11
美濃によるキム説の擁護 ............................................................................................................................... 11
文献目録 ............................................................................................................................................................ 12
これまでの経緯
本稿は第 1 回岡山哲学道場(2009.05.16 開催)で取
り扱った内容を再度整頓し、見直したものである。こ
の岡山哲学道場では美濃による Kim の学説を扱った
論文2を筆者がまとめ、ごく素朴なコメントを付け加
えて討論の材料とした。美濃論文では Kim の因果的
排除論証および機能的還元がまとめられ、さらにKim
が言う「傾向性」の解釈について、柴田正良の批判へ
の応答がなされていた。
これら一連の美濃の記述について、我々は認識論的
な観点から「機能的還元は一体どの主体が実施するのか」「原因から結果を予測する視点と、結果から原因を
探る視点を区別すべきではないか」といった点で柴田との視点の食い違いが生じたのではないかと考えた。し
かし、こうした我々の問題解釈について美濃から下記のような異議が唱えられた(以下の引用文は美濃から寄
せられた応答からの抜粋である)。
2 [中才 美濃, 2008] pp.156-193.
第 1 回岡山哲学道場の様子
第 2 回哲学道場高円寺
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今回は美濃や Kim の議論にはじめて触れる方もおられると思うので、下記の引用の具体的な内容については、
或る程度全貌を把握して頂いたあとに確認して頂きたい。本稿では以下、美濃の応答を踏まえて心的因果に関
わる論者が想定している存在論的な文脈にのって再度議論を復習・整頓していくことにする。
柴田氏と私との、「キム的還元」に関する対立点は、……もっぱら次の点にあり
ます。柴田氏は、「ある心的性質(たとえば<痛み>)のある場合における実現性質
(たとえば<C 線維の興奮>)は、現実世界においては確かに<痛み>の機能的役割
を果たす傾向性を持つが、別の可能世界においては(現実世界との諸条件の違い
のため)そのような傾向性を持たない。しかし、心的性質<痛み>はもちろん(現
実世界を含めて)あらゆる可能世界においてそのような傾向性を持つ。それゆえ、
<痛み>は<C 線維の興奮>と(一般的に言えば、心的性質はその実現性質である
物理的性質と)同一ではありえない(キム的還元は不可能である)」と主張していま
す。
それに対して、私は「「<C 線維の興奮>は、現実世界とは別の可能世界において
は(諸条件の違いのため)、そのような傾向性を持たない」という柴田氏の考えは
間違っている。「傾向性」概念を適切に解釈するならば、それは条件の違う別の
可能世界においても現実世界と同じ傾向性を持つと考えるべきである。したがっ
て、キム的還元は十分に可能である」と主張しています。
(中略)
確かに、因果関係について考える際に……視点の差が問題になる場合もあります
が、それは現実に生じた出来事の原因を具体的に探ったり、未来の出来事を現在
の出来事から具体的に予測したりするという、認識論的文脈においての話ではな
いかと思われます。それに対して、キム、柴田=プランティンガたちが、そして
もちろん私自身も問題にしているのは、あくまでも、心的因果とはどんな因果関
係なのか?という存在論的問題です。このような存在論的問題について考える際
には、……視点の差というものは、一般にあまり関係しないのではないかと思わ
れます。そして実際、柴田=プランティンガ vs キム・美濃の対立関係も、この
ような視点の差とは無関係です(両者の対立点がどこにあるかについては、上に
述べたとおりです)。
第 2 回哲学道場高円寺
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1. 因果的排除論証
心的因果
デカルト以来の心身問題から派生したテーマのひとつとして心的因果がある。これは、或る心的状態が或る物
理的状態や他の心的状態の原因になること、ないしは逆に或る心的状態が或る物理的状態や他の心的状態の結
果になることを指す。
たとえば、因果関係を表す記号として「→」を使い、「原因→結果」のように書くとしよう。すると、「恐怖
→跳び上がる」「地球は丸いと信じる→(コロンブスは)西への航海を決意する」「ドアに指を挟んだ→痛みを
感じる」などが心的因果の例としてあげられる。
このような心的因果は私たちの世界観に深く浸透している。心的因果を所与のものとして考えるなら、それは
存在論的にどのように説明可能になるのだろうか。以下の記述は、特に物理主義の立場から心的因果に説明を
与えるためのものである。
物理主義
美濃は、心的因果に妥当な説明を与えようとする立場のひとつとして、物理主義(physicalism)を取り上げ
その最低限の主張(物理主義であるための必要条件)について次のように定式化する。
〔Phy1〕この世界に存在する対象は、すべて何らかの物理的性質をもつ。つまり、
すべて物理的対象である。[唯物性の原理]
〔Phy2〕この世界全体のあり方は、その物理的あり方によって決定される。[物理
的決定性の原理]
唯物性の原理〔Phy1〕は、非物理的性質(つまり、心的性質)のみを持った実体ないし対象の存在を否定し
ている。ただし、物理的性質と同時に心的性質をも併せ持つような実体ないし対象については許容している。
他方、物理的決定性の原理〔Phy2〕は世界全体のあり方が世界の物理的あり方全体の充分条件(世界の物理
的あり方全体が決定⇒世界全体のあり方が決定)となっている。これは以下で取り扱う非還元的物理主義
(NPR)では、「スーパーヴィーニエンスの原理」と「物理的領域の因果的閉包性」という二つの原理に分岐
することになる。
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非還元的物理主義
Kim もまた物理主義の立場をとる論者である。彼は物理主義にもとづいて心身問題の解決を目指す人々の中
で主流である非還元的物理主義(NRP)を批判している。NRP は物理主義の一種なので、上記の唯物性の原理
〔Phy1〕に従い、実体として存在するのは物理的対象のみと考える。だが一方で、一部のものは物理的性質
だけでなく、物理的性質から区別される心的性質があるとも主張する。このため、NRP は次の「還元不可能
性の原理」を主張する。
〔NRP1〕対象の心的性質は、その物理的性質に還元できない。
また、NRP は上記の物理的決定性の原理〔Phy2〕にも従うため、心的性質は同時点での物理的性質に依存す
ると主張する3。この依存関係は同時的なので、因果関係とは区別すべきである。この依存関係は次のように
定式化される。
〔NRP2〕物理的にまったく同じあり方をしている二つの対象が、心的に異なるあ
り方をすることはありえない(もしくは、同じことだが、物理的に同じあり方を
している二つの対象は、そのことによって心的にも同じあり方をするように決定
される)。[スーパーヴィーニエンスの原理]
因果的排除論証
NRP に対し、Kim は「因果的排除論証」を提出し、批判を展開した。その前提は NRP の上記二つの原理に
さらに二つ原理を追加した次の諸原理である。
1 対象の心的性質は、その物理的性質に還元できない。[NRP1]
2 物理的にまったく同じあり方をしている二つの対象が、心的に異なるあり方を
することはありえない。[NRP2]
3 もしある物理的出来事が時点 t における(先行)原因をもつなら、それは時点
t における物理的原因をもつ。[PCL]
3 [中才 美濃, 2008] p.160. 「スーパーヴィーニエンスは、同時的な依存・決定関係であるという点で、因果
関係とは区別しなければならない」。
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4 もしある出来事 e の、時点 t における十分な原因が c であるならば、本物の過
剰決定(overdetermination)のケースを除いて、時点 t における c 以外のいかな
る出来事も e の原因ではありえない。[CEX]
上記の原理 1, 2 は NRP の二原理であり、原理 3 は物理的なものに関する
「因果的閉包性(causal closure)の原理」(右図参照4)とも呼ばれるも
ので、スーパーヴィーニエンスの原理〔NRP2〕と共に物理的決定性の原
理〔Phy2〕を構成するとみなせる。また、原理 4 は「因果的排除の原理」
と呼ぶべきもので、「すなわち、たとえば二発の銃弾が同時にある人の心
臓を撃ち抜いて死に至らしめるというような本物の過剰決定(一発で十分
だった)のケースを除けば、任意の出来事は任意の先行時点における十分
な原因」であるということである(「十分」は他の条件が不要という意味)。
Kimはこれらの原理からNRPにとって受け容れがたい結論を導けるとい
う。その推論について以下に記述する。
込み入った議論なので、まず性質同士の関係の表記と前提となる状況につ
いて記述する。なおこれは飽くまでも便宜的に筆者が導入したものである
ことを断っておきたい。
表記 時間性
因果関係 "→" 前後関係
スーパーヴィーニエンス関係 "⇒" 同時関係
論理的な「ならば」関係 "ならば" 未定義
※いずれも前件と後件の間に充分条件-必要条件の関係を満たす。
4 Wikipedia 日本語版, 「物理的領域の因果的閉包性」の項(2008 年 11 月 11 日 (火) 15:12 版)より図を転
載。
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充分な原因から結果への関係を「→」、スーパーヴィーニエンス関係を「⇒」と表記しよう(前者は後者を含
意する)。時点 t における特定の物理的性質を P とし、それにスーパーヴィーンする心的性質を M とする(∴
P⇒M)。また、時点 t よりも後に存在する特定の物理的性質を P’とし、それにスーパーヴィーンする心的性
質を M’とする。(∴P’⇒M’,下図も参照のこと)。
さて、上記の諸原理にしたがう非還元的物理主義のもとで心的因果が矛盾なく説明可能であると想定して、次のように仮
定を措こう。
[仮定]M→M’
この仮定から[要請]M→M’を導く。美濃論文ではその過程は下記の通りだが、斟酌しかねるところがあるため、
筆者による再構成を併記する。
〔M’は P’にスーパーヴィーンしているが〕しかし、仮定により M もまた M’の生
起の十分条件である。では、M と P’のどちらが M’の生起を決定している真の十分
条件なのだろうか。おそらく考えられる唯一の説明は、次のようなものだろう。
(2)M が M’を引き起こすのは、(M’のスーパーヴィーニエンス基盤である)P’を
引き起こすことによってである。つまり、M は P’の時点 t における十分な原
因である。
なお、この論証で扱う因果関係では過剰決定はないものとする〔イ〕。すると、因果的排除の原理(CEX、原
理 4)と合わせて、
〔ロ〕(この論証で扱う)任意の結果に対する同時点での充分な原因は一つしかない。
また、前提状況から P’⇒M’だが P’には[PCL]因果的閉包性の原理によりそれより過去の任意の時点で何らかの
物理的原因 Px が存在する。Px は M と同時点に生起するとしておこう。また、Px は P を経由して M’の原因
でもある。
ここで仮定 M→M’および Px→M’より M’には同時点で二つの充分な原因が存在することになるが、これらが
過剰決定ではない〔イ〕とすれば(つまり、まったく二つの充分な原因がまったく独立でないとすれば)、こ
れらの連言を整合的に解釈するには M→P’→M’のように P’を経由するかたちで仮定された事態が成立してい
ると考えるほかない。また同時に Px=P であると考えるしかないだろう。したがって、次の命題が要請される。
[要請]M→P’
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次に、この要請を前提として考えた場合、P’は、時点 t において、充分な原因として P および M を持つこと
になる。P と M のスーパーヴィーニエンス関係が実は同一性であれば、因果的排除の原理(CEX)に抵触しない
が、NRP1 により物理的性質に還元できない心的性質が存在する([NRP]P≠M)。また、これは過剰決定でも
ない〔イ〕。よって、P’ は時点 t において5異なる二つの十分な原因を持つことになり不合理に陥る。よって、
仮定は誤りである。すなわち、他の物理主義的諸原理を認める限り、心的因果(M→M’)は認めることができな
い。
或いは整合的であろうとすれば、物理主義は心的性質を因果的効力を欠いた随伴現象(エピフェノメナ)とみ
なすエピフェノメナリズムに陥ることをこの論証は主張する。そこで、キムは NRP に代えて「還元的物理主
義」を提案している。
キムの還元的物理主義
キムの還元的物理主義の要点は次の通りである6。
(a) 心的性質 M(たとえば痛み)の物理的性質 P への「還元」(M=P!)
に必要な前提は、前者の「機能化」(functionalization)である。つま
り、問題の心的性質の概念は、じつは「その事例が、かくかくの典型
的原因によってひきおこされ、かつ、しかじかの典型的結果を引き起
こしがちであるような(そういう因果的役割を果たす)何らかの性質」
6 [中才 美濃, 2008], pp.170-171。ただし、これは美濃によるまとめである。
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という(因果的特徴づけを行う)記述的概念にほかならないことを示
すことである(このような機能化ができなければ、問題の心的性質は
還元不可能である)。
(b) M の、(a)の意味での機能化が果たされたならば、還元の残りの手
続きは(原理的には)簡単である。つまり、この機能化の結果得られ
た因果的特徴づけ、すなわち M の因果的役割を示す記述的概念が当て
はまる物理的性質(「実現者」〔realizer〕)を見つけ出せばよい。た
だし、この手続きは、原理的には M の個別的事例ごとにしか、つまり
「 局 所 的 」 に し か 行 え な い ( い わ ゆ る 「 多 重 実 現 可 能 性
〔multiple-realizability〕のゆえに)。
(c) ある個別的事例における M の「実現者」が P1 だと判明したとしよう。
(注意すべきことだが)このことが意味するのは、「M のこの個別的
事例は P1 のこの個別的事例と文字どおりに同一」ということである。
さらに言い換えれば、「この事例に関するかぎり、文字どおり、心的
性質 M=物理的性質 P1」ということである(もちろん、別の事例に関
しては、M=P2〔P2≠P1〕でありうる)。したがってじつは、「実現」
という語り方は、ここでは不適切である。あるものが別のものを実現
するというような事態は、ここには存在しない。あるのは、端的な同
一性関係だけである。
(d) したがって、M については、心的因果の問題は単純明快な解決を得
ることになる。つまり、(c)で考察した個別的事例に関して言えば、
M がもつ因果的効力とは、すなわち物理的性質 P1 がもつ因果的効力
である(もちろん、別の事例においては、M の因果的効力=P2 の因果
的効力〔P2≠P1〕でありうる)。言い換えれば、この事例に関するか
ぎり「M のゆえに……が生じた」という因果的言明(説明)が述べて
いることは、「P1 のゆえに……が生じた」ということにほかならない。
心的因果はまさに物理的因果の一種にほかならず、したがって、もち
ろん掛け値なしに可能である。
(e) このように、心的性質 M の、各事例における因果的効力とは、M をそ
こで「実現」している物理的性質の因果的効力にほかならない。では、
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個別的事例への束縛を離れて、一つの「種」としての M それ自体の因
果的効力については、どう言うべきだろうか。それは事例ごとに異な
るのだから、因果的に無力ではなく、「異種的」と言うべきである。
美濃は、キムによる心的性質の「機能的還元」を心的性質の消去であるとする立場を退け、その根拠としてキ
ムが「心的性質の実在性も、心的性質による因果性という意味での、、、、、、、、、、、、、、、、、
心的因果の可能性も、まったく否定しよう
とはしていない」ことを挙げている。彼はキム説の整合的な解釈として可能なものは、或る一つの名前で呼ば
れる心的性質(たとえば痛み)が因果的に同じ機能、つまり「傾向性」を共有する多数の性質から成っていると
することである。因果的に同じ機能を有するとは、換言すれば、一つの因果的(機能的)記述概念を充足する
ということである。
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2. 傾向性としての心的性質の解釈
キム批判
美濃によれば、柴田正良の論文ではプランティンガを援用したかたちで、上記キム説に対する批判が展開され
ているという。その結論はキム説は心的性質の消去に至り、よって心的性質を持つことが原因になることは不
可能というものである。
柴田はまず同一性はそれが成立するならば、あらゆる可能世界において成立する必然性を持つことをあげる。
もし或る可能世界で「痛み=P1」ならばあらゆる可能世界で「痛み=P1」でなければならないが、もし別の
可能世界で「痛み=P2」であれば、同一性の持つ推移性により「P1=P2」であると述べる。しかし、これは
心的性質と物理的性質との一対一対応を意味し、痛みが多重実現することに矛盾する。よってキム説に言う「還
元」――キム的還元を行なえば痛みは一つの性質ではなくなり、代わりに一つの心的記述が残るが、因果的効
力(=傾向性)を持つのは性質であって記述ではない。したがって「痛み」は傾向性を持たない。
また、柴田は美濃のように一つの心的概念に対し、多数の心的性質を割り当てる解釈を批判する。彼は美濃の
立場では、キム的還元の本質を見逃しているという。心的性質の還元が可能であるのは、それがある機能的(関
係的)役割を果たす限りであり、美濃のように心的性質を分解したとしても、分解されたそれぞれの心的性質
は可能世界によっては問題の機能的役割を果たさないため、その可能世界においては心的記述による因果的説
明も満足できないのだ、と。
美濃によるキム説の擁護
美濃によれば、或る機能的役割は現実世界では果たされるが、或る可能的世界ではそうでない、というのが柴
田の議論の要であるという。美濃は柴田がこの主張の根拠を明示してないと述べ、柴田が或る機能的役割を満
足する性質の取り合わせが異なるような場合(現実世界では「痛み」は性質 P, Q, R によって実現するが、別の可能
世界では性質 S, T によって実現する)に現実世界と可能世界との違いとして、問題の性質以外の「他の性質」の
違いや「自然法則」の違いを挙げている。
だが、美濃によると、機能的記述は心的性質を傾向性の一つとして特徴づけるものだという。つまり、心的性
質は適切な条件の下でのみ典型的結果を起こすのだから、「他の性質」や「自然法則」の違いなどはその「適
切な条件」の中に折り込み済みだと主張するのである。
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美濃の記述によれば、「傾向性」は実現しなくても存在するという。であれば、「他の性質」や「自然法則」
が異なるために決してその可能世界では実現しなかったとしてももちろん存在することになるようだ。
美濃はこのように述べて自分の解釈からは不合理な帰結は導かれないと反論している。
文献目録
ジェグォン・キム. (2006). 物理世界のなかの心 心身問題と心的因果. (太田雅子, Trans.) 勁草書房.
中才, 敏., & 美濃, 正. (Eds.). (2008). 知識と実在. 世界思想社.
第 2 回哲学道場高円寺
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別図 1
別図 2